Sonar Members Club No.1

カテゴリー: クラシック音楽

佐渡裕 / 新日フィルの素晴らしい第九を聴く

2023 DEC 16 22:22:53 pm by 東 賢太郎

調べてみると第九は欧米で意外に聞いてない。マゼール、ギーレン、ルイ・フレモー、ロバート・ショー、ジュリーニぐらいで、年末だったのはひとつもなく、単にいちシンフォニーとしてのプログラムだからそう頻繁にやらないのも不思議ではないし、見かけたとしても “年中” にきく気分にならずチケットを買わなかったと思う。日本では家族を連れて年末の第九に何度か行ったがもう何年もご無沙汰だ。今回はチケットを頂いたので、横浜みなとみらいホールで佐渡裕 / 新日フィルの演奏会をきいた。佐渡さんが「200回は演奏したが飽きない、皆さんも飽きない。いい曲だからです」「年の瀬に一年を振り返るのが日本人」という趣旨のプレトークをしたが、まさに同感だ。海外に16年いて「年の瀬」「新春」感のなさに慣れてしまっていたが、これも日本的なるものの良さだと思うようになった。

みなとみらいホールは何度か来たと思うが、1階中央やや後ろの席だったせいか低音がよく聞こえるのは非常に印象的だった。コントラバスがこんなにリッチに大きく聞こえたのは初めてであり、ティンパニの音も強くてボディがあり、第2Vn、Vaの裏の動きもクリアで、第3楽章で大事なクラリネット、ホルンの響きも倍音があって豊かだ。気にいった。以上はホールの音響特性の話だがこのサウンドだと飽きることはなく集中できる。

演奏はというと200回も振っている指揮者(欧米にはまずいない)佐渡の指揮は盤石で解釈もオーソドックス。木管、ホルンのアンサンブルが一級品だった。新日フィルも快演。毎年何度もやって聴衆も熱量のある日本のオケ、合唱の第九演奏はワールドクラスだ(マゼールが振ったフィルハーモニア管は第2楽章でティンパニにミスがあり、慣れてないなと思ったものだ)。特筆すべきは声楽陣で、この日のソリストのカルテット、高野友里恵(sop)、清水華澄(art)、笛田博昭(ten)、平野和(bar)は掛け値なしにかつて聴いたトップレベルと評したい。久々にいい第九をきいて涙が出た。ベートーベンさん、ありがとう。佐渡さんの言う通り、とんでもなく「いい曲」なんだ。

帰りに食事しながらそういう話をしたら、娘が「お父さん、アイーダでも泣いてたよ」という。ヴェルディさんにもそういわなくてはいけない。

 

 

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クラシック徒然草《クレンペラーのシンフォニエッタ》

2023 DEC 15 7:07:44 am by 東 賢太郎

仕事で頭いっぱいだ。音楽はぜんぜん欲してないが、何の拍子かヤナーチェクのシンフォニエッタが聞きたくなった。こいつは塵が積もった頭を洗浄してくれる大変に奇妙な音楽である。

共産時代のプラハへ行ったが昼飯の肉団子みたいなのがまずくて閉口した。失礼ながらこれ食ってる人とは合わねえだろうなと思ったりしたあらぬ記憶があれこれ蘇って、出てこないのは何の仕事をしに行ったかだけだ。そういやあロシアは未踏だが渋谷にあったロゴスキーのボルシチは大好物であり、あれを食うとなぜかいつもムソルグスキーを思い出したのだがロシア人も合いそうにないから食い物とは関係ないかもしれない。そう、ウィーンで食った肉団子もまずかった、ありゃだめだ。でもブラームスもブルックナーもあれが好物だったんだ。

シンフォニエッタは楽想も田舎色ぷんぷん丸出しで無骨。洗練のかけらもなくオーケストレーションも大いに奇天烈だ。ラヴェルの極限の繊細を愛する僕として最も遠い音楽のはずなのだがなぜかこれは大好物であり、フレンチを食した翌日に鮒寿司をつまんだ感じである。スコアを自分の手でシンセサイザーで弾いて録音しているから本当に好きなんだと思う。こんな不可解な音が頭に鳴っていた男はどんな奴だったんだろう。

聞いたのはyoutubeにあったクレンペラーだ。この男がこれまた輪をかけてすごい。こんなカロリーこってりで管が脈々と浮き出て奇天烈に叫び吼えるシンフォニエッタをやろうなんて指揮者は絶滅して久しいのであって、高いレコードに投資して強烈な個性に一喜一憂してた昭和が懐かしいったらない。冒頭からなんだこれは葬式かと訝るほどの我が道ぶりだが終わるとガツンと腹に響く。いや素晴らしい。思えば俺も我流でわがまま放題に仕事して、きっといまはもっと頑固になってるのだろうがそれでやってきたんだから何だというものであって、クレンペラー爺さんに益々の共感が湧き出てきている。

フィガロの稿に書いたが、あれを遅すぎだ滑稽だモーツァルトじゃないなど散々にこきおろした連中がいたがまあつまんねえ人生きたんだろうな、病気でサナトリウム生活を送ったと思いきやオペラを振り終わってソプラノと駆け落ちしたり、ホテルで女と寝ていたら娘がはいってきてしまってロッテ、紹介しようと言ったこのおっさんの破天荒な生きざまを僕はまったくと言って憎むところがない。そんなものがバレようがなにしようがクレンペラーはクレンペラーで巨匠であった。裏金ごときに姑息に手を出したのがバレて失脚しちまう小物ばっかり目に入る現代の、一服の清涼剤である。

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モーツァルト フルート四重奏曲第1番ニ長調 K.285

2023 DEC 9 7:07:19 am by 東 賢太郎

モーツァルト作品の天才的な瞬間は幾つも挙げられる。中でも、最も平易でシンプルな例がフルート四重奏曲第1番K.285である。

赤ちゃんやモーツァルトをまだ知らない子供に聞かせてあげるならこれだ。晴れてブルーに澄みきった秋空にぱあっと舞い上がるような冒頭。これぞ天馬空を行くだ。フルート以外の楽器は想像もつかないほどザ・フルートの旋律で、これだけ明るく爽快な気分の音楽というものはそうはない。

第2楽章は一転、短調になり、フルートは物憂げで悲しいメロディーを連綿と歌う。伴奏は渇いた弦のピッチカートでありどっぷりした暗黒に浸ることはないがバッハを思わせる半音階の悲痛が胸に刺さる。

奇跡はここからだ。

ロ短調の悲歌が繰り返して登りつめると、はたと途切れ、いきなりニ長調の秋空がばーんと戻ってくる。ここを初めて聴いた時の衝撃は忘れない。第3楽章は底抜けに明るいロンドで、悲歌とのコントラストは強烈。比肩するのはシューマンの交響曲第3番の終楽章が鳴った瞬間だけだ。

モーツァルト21才。マンハイムでの作曲にまつわる愉快でない経緯は父との手紙に記されている。「我慢できない楽器」と言いながらこんな神品を書いてしまう能力の物凄さに圧倒される13分だ。吉田秀和氏はフルート四重奏をモーツァルトの室内楽では最も軽いと述べているが、この1番はハイドンセット級の完璧な4声体による名品である。

 

ミシェル・デボスト(Fl)、フランス弦楽三重奏団。デボストはパリ音楽院管弦楽団首席奏者。最高に素晴らしい。これが僕のベストだ。

 

ピエール・ランパル(Fl)、アイザック・スターン(Vn)、サルヴァトーレ・アッカルド(Va)、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)

もはや望めない豪勢な顔ぶれだ。このメンバーを集めることは、仮にいま存在したとしても商業化が困難な現在では無理だろう。ランパルのギャラントで華麗な音。完璧な4声体を堪能できる耳のご馳走である。

 

オーレル・二コレ(Fl)、ニュー・イスラエルSQ。吉田秀和の解説入り。フルトヴェングラー下のベルリン・フィル奏者だった二コレにはランパルの華麗さとは対極で中低音に滋味深い暖かさがある。

 

ヨハネス・ワルター(Fl)、ドレスデン・カンマー・ゾリステン。ドレスデン・シュターツカペレのメンバーによる(1971年、ドレスデン・ルカ教会録音)。スイトナー時代、全盛期のDSKの古雅でいぶし銀の音がする。

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雑事、雑念を吹き飛ばしてくれた音楽談義

2023 NOV 30 15:15:14 pm by 東 賢太郎

あっという間に年末だ。今日はあのパスカル・ロジェの素晴らしいリサイタルを西村さんと聴いてちょうど1年。ああいうのは残る、先日のバッハもそうだ。そうでないのはすぐ忘れる。人間そうしたメモリーを、できれば良いのをたくさん残すために生きてる気がしている。

11月から多くの新しい方とお会いしているが、人との出会いもそう。残る人はご縁があったということになる。かたや先輩、同窓生が旅立った。いまでも声が聞こえる。両親を見送ってからみんなあそこにいる、そういうあそこが信じられる自分もいる。

先日、会計士のAさんが、会社、ウォートンの大先輩のご子息でシンガポールの著名ファンド社長であるSさんを紹介してくれた。仕事の話になるかなと思っていたがクラシック好きともうかがっていた。ただそっちは100mの深穴を掘った坑夫の体験談みたいなものだからなかなか簡単ではないとも思っていた。

Sさん、お会いしてすぐワグネルのフルーティストと知った。ブログをリサーチされていて頭が下がる。ブーレーズ、ジョン・ケージのイメージがあったようだが、入門はボロディンの中央アジアで東大落ちた日にラフマニノフSym2きいたんですよということでご理解いただく。

まずこれが話題になった。

僕が聴いた名演奏家たち(オーレル・二コレ)

favoriteが共通だった。Sさんご自身も銀製の楽器であり二コレの音は彼の吹き方にもよると真似してくれたが楽器の特性もあったようだ。翌日youtubeのテレマンを拝見したがやはり柔らかい感じである。まだそれを味わい分けるまで僕はわかってないことも悟った。

好みの一番はスイトナー時代のドレスデン・シュターツカペレのフルートで、といって名前が出てこない。フィガロの録音(ドイツ語なんでトータルにはお薦めしないがオケパートはこれを上回るものはない)に言及。これだ。

第1Vnとユニゾンになった柔らかくいぶし銀の光輝は至高。Aさんがその場で調べてくれた。ヨハネス・ワルターだった。このDSKの音響の美学が消えてしまったことは信じ難い。人類の趣味が悪くなってる。音がバリバリでかくてやたら腕達者だが滋味、香気がないオケばっかりになった。

ヴェルディ、ショパン、マーラー、あっリストはもっとだめ。じゃfavorite誰ですかという問いは答えられなかった。グールドは?これは数多の人に聞かれたがモーツァルト、ベートーベンはだめ、バッハも彼のバッハであってあの平均律がベストとは思わない、一番響いたのはシェーンベルクのピエロと回答。

Sさんムジークフェラインでブルックナー7を吹いており、演奏した指揮者ではフランツ・ウェルザー=メストが自由に吹かせてくれ、オケの音が変わって別物とのこと。彼はチューリヒでのばらの騎士、ホフマン物語がメモリーにある。指揮者ベスト、ベートーベンのベストは回答が難しい。僕も難しい。

好きな方はラヴェルが一致。フルートは僕的にはまずダフニスのソロ、P協Mov2、王女パヴァーヌのト短調のところ。そしてクープランの墓のフォルレーヌのシシーはこうじゃないとねと、前を歌わないと通じないマニアックな音だがぱっとわかってしまう。素晴らしい。これで4時間。気がついたら閉店だった。

どうして覚えるかという話になって僕はピクチャー型で楽譜リサーチ型なので耳コピできないと楽譜調べる。それを解読すべく高校で和声学と対位法の教科書読んで、この道を先に行くと近現代曲になる。La Merは聴くよりスコア見るのが好きみたいな超マニアックなSさんとの会話に耐えて下さったAさんに深謝だ。

ということで同業のSさんなのに仕事の話は一言もなし。こんなのは何年ぶりだろう。おかげさまで雑事も雑念も吹っ飛んだ。

ちなみにAさんはチャイコフスキー派というので悲愴の構造のお話をする。歌えば誰もがわかる。チェリビダッケが知っていたことがわかる音がある。PC1、一番いいのは第2主題と続く弦のウクライナっぽい副主題、これ最高だ。お好きなマーラー5は、アダージェットはピアノで弾くとぞくぞくものだ。

Aさんとはもう10年になるがこんなこと公認会計士に頼むかよということまで助けていただいている。どっちかというとミステリー小説で盛り上がっていたがSさんによるとシューマンの交響的練習曲の録音があるというのですぐ送ってもらった。立派なものだ。なるほどこの眼力あってのディナーだったようだ。

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クリスティ指揮「ヨハネ受難曲」を聴く

2023 NOV 27 23:23:55 pm by 東 賢太郎

J.S.バッハ:ヨハネ受難曲 BWV245

ウィリアム・クリスティ指揮
レザール・フロリサン

東京オペラシティ:タケミツ メモリアル 2023年11月26日[日]

不純物のない音楽が凝縮された2時間。来日してたったの1日限りという公演は入魂かつ完璧。普通の演奏会とは比較にならぬパトスを頂き言葉も出ず、何故に受難曲がpassionなのか体感。これはかつて聴いた演奏会で十指に入る。

キリストがユダヤの王として振舞った咎で逮捕され、支配者ローマの属州総督ピラトに審問される。ピラトは無罪の心象を懐くがユダヤ大衆の怒りの声で死刑判決が下り十字架に磔となって処刑、埋葬されるまでがこの受難曲だ。ロベルト・シューマンは1851年にデュッセルドルフでこの曲を指揮し「マタイ受難曲よりも大胆で、力強く、詩的」「全体を通して、コンパクトで独創的で、なんと芸術的なことか」と語ったそうだが、現代ではマタイほど演奏されない。字幕を見ていてそれは反ユダヤ色が強いせいかもしれないと思った。「私の国はこの世のものでない」というイエスの言葉はとても気になる。ローマでも、ユダヤでもないというならどこのものなのか?あらぬこと(量子論、パラレルワールド)が頭に浮かんでしまう。

Es ist vollbracht。この独語のニュアンスは深い。身代わりになることを厭わぬイエスを殺したユダヤ大衆の声を、バッハは極めてシリアスに描く。冒頭の短2度の軋み!そして驚くのはこのコーラスだ(16b「もしこの男が悪人でなかったら、我々は彼をあなたに引き渡さなかっただろう」)。まるで無調の対位法音楽。大衆は怒り、完全に狂っている。

タケミツホール

受難曲はクラシックというよりシリアス・ミュージック。神の前では作曲家も聴衆もまじめ(serious)になる。普段はあんまりまじめじゃないから音楽だけはまじめにききたい。ウィリアム・クリスティとレザール・フロリサンは素晴らしいの一言。これだけのものはそうはきけない。感謝の心しかない。タケミツホールの20列目14番(写真)の音響も文句なしだった。地球上で聴ける最上質の音楽だったと断言してもいい。やはり上質の聴衆の方々と共有できたことは一生の思い出となった。

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モーツァルト 『音楽の冗談』K.522

2023 NOV 16 22:22:20 pm by 東 賢太郎

モーツァルトは楽譜通り演奏すると破綻する『音楽の冗談』(Ein Musikalischer Spaß、K.522)を書いた。作品目録への記載は1787年6月14日と父レオポルトの死(5月28日)の直後だが、アラン・タイソンの研究によると1785年に書き始められており、動機は不明だ。

この曲、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトという男の恐ろしさを垣間見せる意味で出色だ。彼はどんなスタイルでも書ける。イタリア風でもフランス風でもロココ風でもハイドン風でもお馬鹿さん風でも。

音楽の破綻は終楽章結尾など誰でもわかる部分もある。作曲法上の禁じ手使用のミスはわかりにくい。米国のプロの作曲家が解説したビデオを見てみたが、平行八度、五度など近代音楽やロックなどに耳慣れした者にはそれほど酷く聞こえない部分もある。つまり「冗談」は今としては和声学というマニアックな領域に達しており、一度聞いて全て笑える人は専門教育を受けた人だけではないか。

K.522を聞いたことがなくジョークとも知らない人ばかりをコンサートホールに呼んで演奏したらどうだろう。拍手がおこるだろうか?あれは本当にへたなんですか?わざとですか?わざとなら何故そんなことをしたのですか?と質問攻めになるだろう。答えはモーツァルトしか知らないが。

実演をご覧いただい。キエフの聴衆はプログラムノートで知っていたろうがこういう反応だ。

ちなみに僕はこの曲をフリッツ・ライナー指揮シカゴ響のレコードで初めてきき、想像はしていたがシメの和音には面食らった。これだ(Mov4)。

シカゴ響のように整然としたアンサンブルだと落差が大きすぎ、あと味悪さでこの曲もレコードもお蔵入りになってしまった。最後の和音をヘ長調できれいに閉めればそれはなかったように思う。K.522は予約演奏会のような場でお金を取って演奏することは想定していなかったのではないか。

ぴったりと感じるのがこちらだ。

大変失礼だが、このぐらいの合奏で来てくれると結びも納得できる。仲間うちで初見の合奏をして楽しむ joke だったなら納得というものだ。当時はありだ、ドン・ジョヴァンニの序曲は初演の前の晩に仕上がったぐらいなのだから。

赤枠の部分がK.522の結尾だ。調は上からヘ長調(ホルン、F)、ト長調(G)、A(イ長調)、変ホ長調(E♭)、変ロ長調(B♭)である。

これは三大交響曲が書かれる前年の作品だ。注目すべきは終楽章で、ジュピターを想起させるフーガらしきものが始まるがすぐ展開をあきらめ、間の抜けたホルンで帳尻を合わせる。赤枠でF-G-B♭-Aのジュピター音列が同時に鳴っており、その直前のホルンとバスはジュピター第1楽章の結尾そのものだ。ジュピターのエコーは珍しくなく、交響曲第1番に始まり、ウィーンに出てからも1783年(以降)の「5つのディヴェルティメント4番」(K.439b)、1790年の弦楽五重奏曲ニ長調(K.593)などにあるが、この終楽章は意味深い。この楽章のテーマでも彼は神品であるK.593の終楽章を書けただろうと思うのだ。

ここで、彼が何故にK.522を書いたのか、なぜ父の死後すぐに取り掛かったのかを考察してみよう。演奏会用でないのだから、彼が愛好した仲間内の卑猥な歌詞によるロンドや、仲良しだったホルン奏者のロイトゲープをいじめるおふざけ協奏曲の類だった可能性が高い。ここでは奏者をいたぶるのではなく下手くそな音楽を書く作曲家をおちょくっている点で他の作品とは一線を画している。

1785年、彼はキャリアの絶頂期にある。結婚をし、予約演奏会は満員で大人気、ピアノ教授で貴族に入りこみ、メーソンに入会し、社会を揺るがすかもしれないフィガロの上演を目論んでいた。富裕層向けのフィガロハウスに住み、仲間を集めて日夜のお遊びにふけった。

K.522の草稿はその躁状態で着想したパロディーの演目として書き始めたが、翌年2月に彼の運の尽きとなる墺土戦争勃発で貴族が出征してウィーンからいなくった。収入が消えて引っ越しを余儀なくされる。生活は落ちぶれ、躁状態は雲散霧消し、草稿はそれとともに放棄されていた可能性が高い。

父の死を知って初めてカタログに書き入れたのがそのK.522だという事実は、うまくいってなかった父子の疎遠を表すという説になるが、そうだろうか。草稿を書き始めた1785年は父レオポルドをフィガロハウスの招待した年だ。父も合奏の一員としてお遊びに参加しており、ハイドンも交えて新作の「ハイドンセット」を試奏した記録も残っている。

父子はザルツブルグ時代にカーニヴァルや仮装舞踏会を家族で楽しんでおり、父はお祭りに愉快音楽を提供した作曲家だった。ここがポイントだ。父はヴァイオリンの名手だったが作曲家としてはそうではなく、結果として楽長がせいぜいで大都市の音楽監督にはなれないことを知っていた。だから息子に作曲を徹底的に仕込んだ。

楽譜を書いては叱られ直され、時に父が代作した痕跡が残っている。13~17才の間に父子がイタリアを3度訪問したのも、本場で息子に作曲家として箔をつけ、名を成させるがためである。そうしてシスティーナ礼拝堂の逸話、マルティーニ神父の逸話がうまれ、出世してオペラを書いて能力にお墨がつけられたのだからモーツァルトにとって忘れ得ぬ日々だったに違いない。

K.522はウィーン風のディヴェルティメントをザルツブルグの田舎楽師が書き、演奏したという見立ての愉快演目として父子が昔を偲んで一緒にコンセプトを作り、息子がフィガロハウスで書き始めていたというのが僕の仮説だ。それが父との最後だった。父の死を知って悄然とし、それを完成させようとなるのは息子としてまったく自然なことではないか。

財政的に窮地にあった彼は何が何でも成功させなくてはならないドン・ジョヴァンニ作曲のためザルツブルグの葬儀参列を断念し、K.522をいち早く完成させることで父を見送ろうとそれを成し、カタログの “いの一番” に1787年6月14日の日付を記したのだ(命日は5月28日)。

ありがとう、楽しかったね。K.522の終楽章にそのイタリア楽旅で書いた「エクスルターテ・ユビラテK.165」のハレルヤ主題が出てくるのを知って、僕は確信した(VnⅡ、第76小節)。この意味をわかるのは天国の父だけだ。

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サティ 「官僚的なソナチネ」

2023 NOV 14 12:12:15 pm by 東 賢太郎

長いこと生きてるといろんな人に出くわす。どなたでもある程度はあろう、ウマが合ってすぐ好きになる人もいるし、業務上長くつきあったのに百年やってもこりゃ無理だという人もいる。

どうしようもないのがつまんない人だ。つまるかつまんないかはこっちの問題であって、お相手に非や責任があるわけではぜんぜんない。そこに流れる時間というものが耐え難いということである。

例えば興味のない博物館やスポーツの観戦みたいなものだ。そういうのを1,2時間もというのはいけない。ロンドン時代に、もう名前も忘れたが周囲は一生ものと大興奮の著名ロッカーの公演があって拷問の記憶に入っている。そういう方々は、要するに、つまんないのだ。

子供時分からサーカスティックに世の中を見ていたが特に皮肉屋、辛辣家、嘲笑屋だつたわけではない。sarcasticは高校の教師がhumorousと違うと言ったがその時は意味が解らず、ああ俺がそうだったと思ったのはロンドンでオックスブリッジ卒の連中と6年儲かった損したやってのことだ。

フランス人は英国人と違った角度でドイツ人を馬鹿にしている。ドイツ人はドイツ人で田舎者と割り切ったルサンチマンがある。それを恐れる英仏人は喧嘩もするしくっつくこともできるが、英国は軍事や謀略は勝っても文化的には負けてると思ってる。更なる田舎者の米国人はフランス語に羨望すらある。

フランスは革命で自由を得たが権威を失い、軍事はヒトラーにパリを占領される究極の屈辱を味わい、植民地経営も英のはるか後塵を拝した。ナポレオンの武闘派支配は欧州を席巻したが一人の天才とともに消え、200家族のエリート、ENAの卒業生である少数の「エナルク」が支配する官僚国家になる。

エリック・サティは官僚的なものを皮肉る作品をいくつも書いた。

クレメンティがきらいなのではない。こういう訓練につき合う時間がつまらない。それをサーカスティックに音符にしたこの作品は、世の中で最もつまらないのは官僚的なものと考える僕には響く。時間は残酷なものでもある。サティは指導教授から才能が無いとされパリ音楽院をやめたが、無いのは教授の方だった。権威は馬鹿の数と時間の関数である。

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ショパン ピアノソナタ第3番ロ短調 作品58(2)

2023 OCT 30 23:23:14 pm by 東 賢太郎

ピアノソナタ第3番の録音の幾つかについて書く。全曲の印象を雑駁に比べても意味のない感想文であるので、(1)で論じた第1楽章の要所を比較してピア二ストの個性を中心に記す。僕が人生でまず聴いたのはルービンシュタイン盤であった。ショパンはよくわからないからレコ芸の「決定盤」だか何だかをとりあえずとなったわけだが、覚えるにも至らずたぶん一、二度かけて終わってしまったと思う。それが何故だったか、ここで解明してみたい。

Mov1冒頭主題。ルービンシュタイン盤は音価がほぼ楽譜通りでルバートがなく、正確さという意味で模範的だ。例えば9回続く冒頭音型の前打音の4分、8分、16分音符の長さは正確で(アバウトな演奏が意外に多い)、第3小節は加速で音価を切り詰めない(後述のコチャルスキを参照)。想像になるが、ポーランドを代表するピアニストのショパンとしてルービンシュタインは後世に残す録音、それこそ決定盤を目的としていたのではないか。それでいて窮屈ではなく堂々ゆったりとゴージャスな弾きぶりであるのはさすがなのだが、第1副主題も左手の半音階を霞のようなレガートでなく楽譜通り律儀に弾いてしまう。するとそれが目立って和声感を出す右手のアルト声部が埋もれ、二声の現代音楽のように響く。続くブリッジ部分もその気分で聴いてしまい、次いで現れる第2主題は一転して和声感たっぷりの音楽なのだ。彼一流の澄んだ美音で旋律とロマンティックな和声が際立つのだからそのコントラストだるや甚大で、これが僕が迷子になった第一のポイントだ。美音の歌は彼の本領でまさに一級品なのだが、それに続く2つの副主題も本領発揮のまま同じ美音主義で一貫してしまう。一級品であるがゆえに一貫性が強く印象づいて構造上のメリハリがなくなり、美しいには美しいがやたらと主題が出てくる妙な曲だと僕はさらに迷子になり、結果として敬遠するに至っていたと思われる。ルービンシュタインの目的は見事に達成されており、第2主題でさえ5連符に至るまで音価は正確でルバートのようなエゴは終始控えめであり、音大の学生が模範にするという意味であるならまさにこれ、レコ芸が「決定盤」に選出するのも無理もないと心から納得するのだ。なぜなら、ショパンの楽譜にはそう書いてあるからだ。

ここはショパンの時代の楽譜がどういうものだったかを論じる場ではないのでやめるが、このルービンシュタイン盤を最後に挙げるラウル・コチャルスキの演奏とじっくり聴き比べていただけば、どういうものだったかを知ることは容易だろうし皆さんの耳は確実に肥える。断言するが僕が聴きたいのは後者であり、僕はそれに喜びを覚える人間に生まれついており、それを与えてくれるのは記譜された記号としての音楽でなく作曲家の頭に降った霊感としての音楽なのだ。お断りするが僕はルービンシュタインの音楽に異を唱えるどころか敬意を懐くものであり、彼のブラームス1番の緩徐楽章を母の葬儀で流したほどだ。そう、ブラームスならそれでいい、しかしショパンではだめなのだ。回りくどい説明になったが、それが僕がショパンを苦手としている最大の原因なのである。

ディヌ・リパッティ。冒頭は速めだが見事な陰影だ。何気なく聞こえるがこうして他と比べると初めて大変な技術の卓越があること知る。それがこれ見よがしになることなく気品の隠し味になっているのだから何と贅沢なことか。第1副主題、これに詩情を感じるのはこの演奏だけだ。第2主題は心からのルバートで清楚に歌い、第2副主題は軽めのタッチで天上の響き、第3副主題はdolceで清流のごとしだ。変幻自在なのだが恣意のあざとさではなく知性を感じる。こういうピアニストは彼以来いない。

アルフレッド・コルトーはショパンの弟子エミール・デコンブの弟子である。第2主題はルバートでこれでもかと粘りまくる。これぞコルトーの味であり、そういうものは楽譜には書けない。できないことはないがテンポ指示は微分係数の変化で記譜するしかないし、ショパンは記譜する気もなく良い音楽家なら当然そうするだろうという暗黙知があるから何も書いてないのである。ラフマニノフはもちろんそれを知っており、例えば、音が登っていくとテンポは遅くなり、下っていくと速くなる(まるで重力に従うように)という意味のことを語っている。コルトーのそこからの副主題2つの絶妙の弾き分けをご賞味いただきたい。ショパンはこうは書いてないが、だから正しいかどうかはわからないが、これが暗黙知なのだ。その是非は聴き手の暗黙知が評価する。第1主題再現の展開は激情と幻想味が加わりこれまた印象に残る。第2の再現はもはやラプソディックでタッチもテンポも変え、コーダ移行が自然だ。この解釈はショパン直伝の可能性もあるだろうが、誤解なきよう述べておくが、直伝であることに価値があるというこれまたそれを金科玉条の如く戴く流派があるが、それはそれで凝り固まれば新種の模範になる。それが何であれ教科書的模範に従うという時点で官僚のペーパーを丸読みする無能な政治家の国会答弁みたいなもので、霊感のかけらもない面白くない演奏である。

ニコライ・ルガンスキーは僕が敬愛するニコライエワの弟子である。ラフマニノフで剛腕のイメージがあるがそうではなく、師匠譲りのオーケストラのような響きは魅力がある。ルービンシュタインがだめな第1副主題の幻想味からしてインテリジェンスを感じる。第2主題はやや人工的だが甘ったるくせず第2、3副主題の弾き分けに神経が通っているのは構造について私見の視点に立っているからではないだろうか。

ケイト・リウ、2015年のショパン国際ピアノコンクール三次予選の演奏(3位入賞)。タッチや主題の造形に甘さはあるがこの人のように「もっていってくれる」資質のピアニストは貴重だ。第2主題の美しさはルービンシュタインに匹敵しそれだけでも大変な資質だが、残念ながら副主題のコントラストの読みが浅い。いまだったら深化しているのだろうか。

グレン・グールド。開始は鈍重だ。まるでベートーベンで第1副主題の左手半音階は皇帝を思い出すが、アルト声部を埋もれさせず3声に聞こえるのはさすがバッハの弾き手だ。ところが第2主題もその流儀なのか両手が同じ音量で弾かれて旋律に集中できず、付点音符、5連符がいい加減なのも不思議だ。第2,3副主題は、ひょっとすると彼もロジックが理解できないのか、これほど平板に弾かれた例もない。冒頭主題の再現は pであり、さらなる聞き物はそれが展開する場面で、ショパンの譜面はこう鳴るのかという実験的試みは非常に希少だ。ショパンは暗黙知を前提とするからこう弾かれるとは想定だにしておらず、このグールドが示してくれた楽譜通りの音がどう響くべきかという研究をすればショパンの暗黙知の正体がわかるというリバースエンジニアリング的課題を提示している。コーダの最後の f が mf でリタルダンドする意味はさっぱり分からないが、彼の関心事は教科書的模範への盲従というクラシックをつまらなくする愚の破壊だったと考えればこの演奏はとても面白い。

ブリジット・エンゲラー (1952 – 2012)はチュニジア出身のフランスのピアニスト。何度か来日していたらしいがまったく知らず、先日 youtubeで初めて知った。実に素晴らしい。すべての音に血が通っており、無用に激したり勢いで弾き飛ばす所が全くない。一聴すると何の変哲もないが、音楽を深く考証し咀嚼し、非常に高い技術をもって引き出した演奏だけが持つ説得力は只者でない。Mov1第3小節の加速。それを深いタッチで弾くことは難しいからかほとんどの人がしていないが、次のコチャルスキを聴けば僕はショパン直伝と信じたい(彼は苦もなく弾けた。そうでないと言い切る方が困難だろう)。エンゲラーはしていることにくだらないエゴがない。緩徐楽章は詩的であり、激するところは奔流になるが滑らかでうるさくならず、終楽章の最後の音まで引き込まれてなんという凄い曲かという感動しか残らない。大変な才能であり、こんなピアニストが若くして亡くなったのは世界の損失である。そう思い検索すると、なんとCDまで廃盤である。聞く方も聞く方だが業者も業者だ、まったく信じ難い。ネットオークションで探し出して彼女のDecca6枚組とハルモニアムンディのノクターン集を全部買った。

ラウル・コチャルスキ(1885-1948)の演奏は僕が本稿で縷々考察してきたことを音にしてくれていると感じる唯一の演奏だ。彼の師であるカロル・ミクリ(1821 – 1897)はショパンの弟子で、レッスンを受けた際の師のコメントを詳細にメモし、ショパン演奏に関する発言が伝記作家によってしばしば引用されている人だ。コチャルスキのテンポ、タッチ、フレージング、呼吸、間合い、指回りはもちろん楽譜になく即興に聞こえるが、些かの不自然も人為性もなく流れるように闊達だ。まるで自作を弾くジャズピアニストのように手の内に入っており譜面を見ている感じが全くない。ショパンはこう弾いたのではないかと膝を打つ部分が続出するが「きれいな音」を出そうとはしていないことは強調してもしきれない。「美しいショパン」「ロマンティックなショパン」などというものはチェリビダッケが唾棄している疑似餌である。

3つの副主題の達人の弾き分けに耳を凝らしていただきたい。前述したが第1の対旋律をこう弾ている人は誰もいない。これはレファレンス級の文化遺産で、何度もくり返し聴いて3番というソナタがやっとわかった気がしている。何という素晴らしい演奏だろう。現代のピアニストでこの流儀で弾く人はいないが、逆にこの通りやろうと思ってもできる人もいないだろう。譜面にない強弱やアジリティの融通無碍の変化は体の中から発してこないとこうはいかないからだ。コチャルスキはミクリから、ミクリはショパンからそれを継いだのだろうが伝統芸能の奥深さを見るしかない。

 

ショパン ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58(1)

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ジョン・ケージ小論《 Fifty-Eightと4′33″》

2023 OCT 26 11:11:41 am by 東 賢太郎

(1)直島できいた心臓音の衝撃

4年前に瀬戸内海の直島に泊まった時に「心臓音のアーカイブ」を訪れた。『 心臓音の数だけ人の命があり、人生があり、一つとして同じものはありません。ハートルームで無数の心臓音に包まれていると、命の尊さ、儚さ、かけがえのなさに、自然と思いを巡らせていく・・』 というコンセプトでフランスの彫刻家クリスチャン・ボルタンスキーが2008年以降、世界中で集めた人々の心臓音を恒久的に保存し、聴くことができる小さな美術館である。もちろん、望めは誰でも自分の心臓音を登録できる。

心臓音のアーカイブ

幾人かのものを聴かせていただいたが、たしかに個人差はある。しかし僕を驚かせたのはそれではない、マイクロフォンで拡大された心臓音というもののたくましい雄々しさ、猛々しさであって、響きという静的な語感のふさわしいものではなく、嵐に大海がうねる波動を思わせたことだ。自分の中でこんな荒々しい作業が一刻の休みもなくおこなわれているだけでも俄かには信じ難いことであり、そのおかげで脳に血が回って意識の明かりが灯されているのだから生きているということはそれだけでも大変なことなのだ、しっかり生きなくてはと殊勝な気分すらしてきたものだ。

人体は音を出している。英語にはinner voiceという言葉があるが、良心と訳すのだから宗教的なコンテクストだろう。ハート(心臓)は即物的な器官であり、そんな善性のものでも、ロマンティックなものでもない。人間ドックで自分の胃や大腸の画像を見たとき、それは自分の一部分どころか得体のしれぬ赤い肉塊であって、他人のであっても見わけもつかない。それをあたかも僕の所有物であるかのごとく医者は語るのであり、それでいて、所有権者のはずの僕よりも医者はそれを知り尽くしているようにも語るのだ。その奇妙な感じ、経験者もおられよう。親にもらったものではあるが、親とて意図して製造したわけではなく、僕はせいぜいその管理者か保護者にすぎないというものでほんとうの所有者はわからない。親でも医者でもないなら、人智の及ばぬ天の彼方におられる全能の方であろうかという結論に漂着しても仕方ない感じがする。

ボルタンスキーの美術館は心臓音を展示するアートギャラリーであり、音というものに関心のある僕に衝撃を与えたカテゴリーキラーである。ちなみに直島はクオリティを世界に誇る総合造形芸術アイランドとして海外に著名である。島ごとが一個のオープンエア美術館といった風情であり、ボルタンスキーのような斯界の著名アーティストを自由に腕を振るわせる条件で参集してもらい、存分にその才能が発揮された展示物がそこかしこに点在するという夢のような場だ。ベネッセハウス様にお世話になったこのときの体験は、僕の造形アート理解の次元を飛躍的に変えてくれた(「野村ロンドン会」直島旅行)。

本稿をそれで書き起こすのは、まったくの偶然でyoutubeで発見したジョン・ケージの音楽をきいて、直島に遊んだゆったりした時間を思い出したからだ。そう、それはケージに似ているのだ。直島体験なかりせば僕はケージの音楽には無縁で終わっていたかもしれない。あそこでは、島の広大な敷地を生かして展示ホール内の残響まで周到に設計されていると感じた。それが周囲と一体になって生まれる空気感(アンビエンス)は残響にとりわけこだわりがある僕には忘れがたいものだった。そうした空気感というものはその場に立って五感で味わうしかなく、実は絵画や彫刻であっても、その「入れ物」である天井の高い美術館の空間と切っても切れないことはルーブルやメットに行った人はご存じだろう。

(2)無響室で聴こえるもの

残響とアンビエンスを正面から論じる音楽評論家は見たことがない。オーディオ評論家はいそうなものだがやっぱり見たことがない。木造家屋に住む日本人にとってそれは録音会場まかせのディファクトであって、レコードやCDの「録音評」の仕事であり、どんなオーディオ装置でそれをうまく鳴らすかという商売に持ちこまれてしまう。僕のようにリスニングルームを石造りにして自家で発生させようなどという人はまずいないし、業界としては困った変人扱いだろう。とんでもない。チェリビダッケはある曲のテンポ設定の質問にフルトヴェングラーが「それは音がどう響くかによる」と答えたのをきき、メトロノームの数字だけを元に決められたテンポ設定は無意味だと悟っている。残響とアンビエンスを重視しない人の演奏も音楽評論もダメなのだ。

僕はある会社の無響室に入れてもらって、残響ゼロの世界に絶句したことでそれを悟った。ジョン・ケージはハーバード大学で初めて無響室に入ったときの経験をこう語っている。「無音を聴こうとしたがそれは叶わず、二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だという答えだった。体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうから音楽の未来は大丈夫と考えた」。ケージは体内の音を聞いたことで宇宙に無音はないとポジ・ネガ転換した発想を持った。僕は自分が発した声の変調に驚き、シーという耳鳴りを聞いたのを除けば、ここに閉じ込められたらという恐怖だけだった。真空の宇宙空間は無音だが、それは鼓膜が察知する波動がないというだけであり、体内に発する波動も脳は「音」と認識することをケージは発見した。脳が創り出しているものが「音」の正体ならば、宇宙の果てまで行こうが音はある。その命題は人体という小宇宙を起点とした宇宙観の転換にすぎないわけだが、それを考察する我々の脳も宇宙の一部だから正しいといえなくもない。

(3)遠い記憶

幼時に「ぷかぷかと宇宙に浮遊した」ときのことは前稿に書いたが、浮遊というとルネ・マグリットのこの著名な絵がある。しかし、こうではなかった。

もっと暗くて、心象はこんな質量感を伴う現実で、だから怖かったのであり、

こんな無重力感があった。あれは母の胎内にいたときのぷかぷかだよと言われればさもありなんという感じのものだ。でも、もしそうならば、あの重いものを移動させろ(Carry That Weight か?)という強烈な義務感は何だったのだろう?

その時の気分を思い出すものがないかと長らく探していた。あった。この音響が与えるイメージ、うなされていた時の「感じ」に似ている気がする。

これを聞きながら瞑想する。あの光景がゆっくりと心に満ちる。神が杖(つえ)をかざすと持続音の暗い霧に新たな音が一条の光のように差し込んで調和し、徐々に徐々に思いもしない色彩を帯びた和声が産声をあげてくるさまは天地創造の荘厳な神秘のようだ。

天が肉体に共鳴しているとしか表現のしようがなく、その理由はどこがどうという形では見当たらない。喩えるなら、気が合って一緒にいても飽きない人。何がそうさせているのかはわからない、単に、トータルに「合う」という言葉でしか伝えられない。それでもこれを僕は良い音楽と思う。

(4)カテゴリー・ブレーカー

作品は結果がすべてだ。偉い人の作品だ、少々退屈でも忖度しましょうなんてことはない。ということは、この曲がどのようなプロセスを経てこうなったか、どんな技法か、指揮者がコンクールで何位か、オーケストラがどこかのようなことはまったくどうでもよいことになる。そういうことを詮索したくなるのがクラシック音楽だが、それは作曲家名がクレジットされた楽譜があるからなのだ。楽譜はあって結構だが、モーツァルトは楽譜にした何倍もの音符を聴衆の前で放っていたのであり、それは聴けなかった我々の知らない評価の源泉があった。

彼の楽譜は自分にとっては備忘録であり、他人にとっては弾かせるための総譜でありパート譜であり、なによりプライドを持って生きるための名刺であり商品だった。死後に妻が生計のため換金する動産となったところから楽譜のセカンダリー市場が登場し、付加価値が発生する。それは作品の真実とは無縁である奏者や評論家のエゴを満たし食い扶持になる価値で作曲家とは何の関係もなく、モーツァルトが何者か知らないし知る知性も関心もない一般大衆に一時の見栄であるプレミア感を売るための膨大な手垢である。モーツァルトは知らないクラシック音楽という概念は、そうした泥にまみれた醜怪な雪だるまであって、そんなものが僕を感動させることはない。

小節線がなくて、ぽんと音符がひとつだけあって、あとは長さも強さも君たちが適当にやってくれなんて作曲家はそうしたクラシック界においては尊敬されないし、そんないい加減な曲を聞きたい聴衆もいないだろう。しかし、それでも良い曲だったねとなればいい。それが音楽の本質でなくて何だろう。モーツァルトの曲はそうやって生まれたし、ジャズのセッションみたいに、演奏家がやる気になって一期一会の音楽が生まれる場は今も生き生きと存在するのだ。充分に魅力があるし、いわゆるクラシック的な音楽の場においても、作曲家は演奏家に曲のコンセプトと霊感とインセンティブだけ与え、コーディネートする役になることが可能である。ジョン・ケージがしたことはそれだ。

その意味で彼はクラシックのカテゴリー・ブレーカーであった。ただ、10匹の犬を集めてオーケストラだと主張すれば通ってしまいかねない魔法が使えたという類の評価がされがちであり、それは彼の作品をこんなものは音楽でないと騒ぎ立てた連中の末裔が評価を否定できなくなって、辺境地の奇観に見立て、苦し紛れに与えた奇矯な間違いである。ブレークもなにも音楽の本質はいつも楽しみであり、弾き手や聴衆が良いと思うかどうかだけであり、意味もない権威にまみれたクラシックのカテゴリーなどはずっと後天的なものなのだ。ケージは絵空事でない真の音楽哲学を持った作曲家だが、理系的資質ゆえ空気を読まず、それに加えてアバウトな文系気質もあったという天与のバランスがあったからこそブレーカーに見える存在となれた。ケージの評価にはアバウトに過ぎようが、そうであったと仮定しなくてはできない革命を彼がなし遂げたという評価を僕がしていることは宣言しておきたい。

それでもアバウトに過ぎるならこう書こう。誰かさんが音楽をn個書いたらg個が良い曲だったとする。作曲家の評価はg/n(ヒット率)と良さの度合いq(品質)で決まるからq×g/nという確率であり、q×g/n=f(良さ)である。良さは物理的に不定形(定義困難)だが人の集合の属性の発現確率でのみ表せる。よって、作曲原理(三和音、無調、セリー、偶然etc)は変遷するが、作曲家の評価は確率で決まるという原理は不変である。このことは未来にもジョン・ケージが現れることを予言する。

(3)数学と音楽

この音楽のタイトルがFifty-Eightであるのは、なんたらというメインタイトルがあって副題が「58人の木管奏者のための」というスタイルをやめて、58をメインに持ってくるとルール化したからだ。同じ楽器数の2つ目の作品はその右肩に小数字でべき乗のように2とつける。この流儀のをナンバー・ピースと呼ぶ。彼は数学好きなキャラだろうが、いっぽうでキノコ研究に人生をかける人だ。作曲家なのに合理的でないと思うのはちがう。数学者にならないすべての人には数学の勉強は無駄だが、人生に膨大にある無駄に空費する時間を勉強時間以上に減らしてくれるから合理的な人は数学を勉強するのである。そうでない人がこんな音楽を書けるだろうか?

(3)分岐点だった「易の音楽」

John Cage (1912-1992)

ケージが量子力学を知っていたかは不明だ。1992年没だからたぶん我々ほどは知らない。量子力学が正しいことは高速演算速度を可能にする量子コンピューターが実現したことで大方のインテリの共有知になり、文科系の人でも宇宙は量子もつれ(quantum entanglement)が支配し、偶然が自然(ネイチャー)の属性なのだ程度は悟ったろう。ということは、科学には縁遠いことが許される音楽家の間でも変化が起きてしかるべきだ。それは偶然音楽(chance music)に後半生こだわり、数々の傑作を残したジョン・ケージの再発見だと予想する。彼の楽曲は誰も音楽を支配せぬアナキズムであり、演奏してみないと予想はつかず、同じ演奏は二度とない。この現象は「サイコロを振った」といえるが、それがありのままの宇宙のなりわいだということは誰も否定できなくなった。多くの僧侶や宗教家が「仏教と量子論は似ている」といっているが、原子論絶対の西洋科学では説明できないことを量子力学はよく説明し、仏教ともども非原子論的だという共通項があることは誰しも認めるだろう。

偶然音楽に移行する前、ケージは打楽器、プリペアド・ピアノによる複雑なリズム構造を持つ無調の音楽を書き、Living Room Musicのように演劇やダンスと組み合わせたり東洋思想と融合するなどフロントを拡大した。彼の楽器はピアノであり、全部がソロか室内楽でオーケストラという発想はなかった。偶然音楽の契機はあなたが運命をキャストできるとする中国の「易経」を知ったことだった。二進法、六十四卦等の規則性、および占術の偶然性の合体を見つけ、ピアノ独奏の「易の音楽」(Music of Changes、1951)を書く。六十四卦といういわば原理の如きものにピッチ、テンポ、強弱、長さを割り当て、投げたコインの結果にもとづいて作曲をする思想は作曲家の権威を破壊している。

(4)シェーンベルクとブーレーズ

「易の音楽」はセリー主義だったブーレーズのピアノ・ソナタ第2番 (1948)、第3番(1955-63)の間の作品だ。3年ほど先行した第2番をケージが意識しなかったとは考えにくい。一時は同志であったブーレーズは神の真理を自作に織りこむという行為の有用性を確信した人という意味で、十二音技法にそれを見ていたシェーンベルクと通じる。それはいわば信仰への確信であって、表面的な理解しかなかった日本で彼がブルックナーを演奏するなどと誰が想像したろう。しかし、彼がカソリック信仰に真理をみたというなら、ブーレーズにはプロテスタントのドイツ人指揮者よりずっと手掛ける根拠がある。

ケージは南カリフォルニア大学で2年師事したシェーンベルクに和声感覚の欠如を指摘され、「彼は作曲家ではありませんが、発明家であり、天才です」というレトリックで作曲は無理だと言われた。作曲家がサイコロを振って不確定である「易の音楽」は師の判断を無視するユーモラスな解答だったのではないか。ブーレーズは能力不足を東洋思想で埋めると批判した。鋭い指摘だ。ケージはコロンビア大学で鈴木大拙に学んだ禅思想に影響を受け、原子論に依拠するシェーンベルク、ブーレーズと袂を分かつ。東洋に接近した先駆者マーラー、ドビッシーの関心は音階で、旧来の美学の平面上にあり、宗教という精神的支柱まで寄ったのではない。ジョージ・ハリソンのシタールと変わらず、ドビッシーがきわだって成功したのは彼の図抜けた音響センスがガムランという異物を消化可能なまでに化学変化を加えたからである。

ユダヤ人のシェーンベルクとカソリックのブーレーズは信仰という行為を客体化した地平では理解しあえたが、ケージは演奏における古典的な偶然であった即興や通奏低音が人間の趣味性に関わると否定し、アーティストのエゴを廃し、それを認めるぐらいなら偶然という物事の混沌を受け入れることにした。つまりシェーンベルク、ブーレーズは神の摂理の全面的代弁者としての司祭であり、その権威は絶対に手放さなかったが、ケージはそれを「偶然の採用」までに留めることになる。父譲りの発明家気質、無響室での体験、ビジュアルアーティストとしての嗜好、20世紀の振付の巨匠マース・カニンガムの影響など、各々が脈絡があったとは思えない必然が混然一体となって彼の人生のchanceとなった。

数学者ブーレーズより数学的人間であるケージは易経の構造原理だけが関心事だった。構造は数学でありその採用は構造そのものに真理性なくしては人を説得しない。そこに自信がなかったのではないか。易経と原理でつながる禅思想への帰依はその答えだろう。「いくら観察してもさらにわからなくなる」と言ったキノコは、恐らく、彼にとって鈴木大拙師にも勝る宇宙の真理を説いてくれる存在であり、数学化できないから音楽化もできなかったが、わからないキノコを不確定の受容という形で音楽に取り入れたというのが私見である。因習的、常套的、世俗的を忌避し、誰がどう見ようが本質以外には目もくれぬケージの哲学者的な一本気には大いに共感を懐くものである。

(4)猫が演奏する「4分33秒」

晩年に近づくと、chanceは大規模編成の中に仕組まれるようになる。Fifty-Eightはリズム指定がなく「浸る」しかない。音の全身浴である。天空の波動も心臓音も耳鳴りもすべてそれである。これがアトモスフェール(atmosphère)だ。人またはものを囲んでいる独特で無形の性質のことで、そこにいて浸っているという感覚が音楽を聞くこと、生きていることである。ケージにはそれが音楽で、楽音はその一部にすぎず、楽音と非楽音には違いがなく、よって、楽音がなくとも音楽は成りたつという命題が論理的に導き出される。その実現が4′33″(「4分33秒」)という楽曲である。聴衆が感知するのは、音を出さないピアニストというオブジェ、4分33秒の時間内に鼓膜が察知する会場のすべての非楽音、および、自分の体内で察知したすべての波動(心臓音、血流音、耳鳴り等)というアトモスフェール。これは実に「直島的」だ。

4′33″はいうまでもなく猫でも演奏できる。怒った聴衆が「馬鹿にするな」と舞台に駆け登り、猫は逃げ、彼はショパンを弾き始め、場内が騒然となり、パトカーのサイレンが鳴って警官隊が闖入し、パーンという乾いた音を発して男を撃ち殺したとしよう。それが仕組まれた寸劇であっても現実であっても4′33″という作品は成り立っており、4分33秒が経過した瞬間に演奏は終了する。このコンセプトを音楽と呼ぶことに100%賛同したい。僕にとって「音楽」とは我が身と宇宙の波動の共振に他ならず、そうした寸劇も、それが喚起するだろう観客の驚きや悲鳴もすべてが波動である。この思想は直島でオブジェに瞑想して感じたもので、興味ある方はご訪問をお勧めしたい。

(5)神はサイコロを振る

スピリチュアルではあるが霊界の話ではなく我々の住む世界の現実であることを説明するには、少々物理の話題に触れねばならない。波動は質量のある原子が伝えるものと、それのない光子が伝えるものがあることは一般に知られるが、いずれであれ、我々が知覚して認識しないと心は共振はしない。アトモスフェールを厳密に分離するなら、それは無形のもので物質ではないから原子でも光子でもそれらの揺れでもなく、つまり音でも光でもなくて質量もない。いわば(霊的な)「感じ」や「第六感」、(良かったり悪かったりする)「雰囲気」、あるいは(心で読んだり読めなかったりするコンテクストでの)「空気」とでもいうものだ。それが人から人へなぜ伝わるのかは物理的に解明されていないし、個人的には猫との間でも通じるのを体感しているので人間由来のものでもない。これは(質量がないのだから)重力(空間のゆがみ)に服しない。

前稿に書いたが、「五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価」であって、我々は三次元世界を時間という仮想概念をもって観察して生きているが、それと量子力学が証明する極小の偶然性(量子ゆらぎ)がある世界(五次元世界)は同じものであり、したがって、我々は現実とパラレルの世界に行くことができ、それがどれになるかは意志でなく偶然が支配しているのである。これがアインシュタインが相対性理論でたどり着かなかった結論であり、神はサイコロを振るのだ。ならば作曲家が振って何が悪かろう。世界を4分33秒だけ切り取ったものが4′33″になっており、結果論として、面白かったねとなればそれは良い音楽だ。

(6)ケージとチェリビダッケ

誰もが人生を自分の意思で決めて生きていると思っているが、実は by chance(たまたま)で生きているのであり、そんなふらふらしたものが人生であり、ケージも自分の意思で「偶然の採用」をしただろうが、実は量子力学なる神の決めごとに従った決断だった。4分33秒間の沈黙を聞かせて世界的名声を得たが、この音楽についてたくさん語っているが彼の書いた音符を一度も聞いたことがない支持者もたくさん持った。Fifty-Eightはスコアが58段と音はたくさんある音楽であり、陰陽の対を成すような作品だ。猫が鍵盤を歩いた音とこれと何が違うかという議論を封じることはできないが、何を音楽として真剣に向き合うかという問いを喚起したことでのケージの業績は誰よりも大きい。

やはり東洋思想に開眼し、晩年には仏教に改宗して日本でも多く参禅を行なったセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)の発言はそのコンテクストで見るなら興味深く、ふたりは同じ音楽観だったわけではないが共通したものがある。チェリビダッケは「音楽は無であって理解ではなく体験されるものだ」とし、「音楽が美しいものと思うのは勘違いだ。音楽では真実が問題であり、美は擬似餌にすぎない」と言い切り、「音楽を聴くということは人生や世界、あるいは宇宙の真相を垣間見ることである」と語っている。傾聴に値する。あくまで彼は再現者であり創造者ケージと同じ次元では語れないものの、両人は音楽家である前に哲学者だ。僕はこういう人達の音楽を楽しみたい。

(7)ケージと自分

ケージに会ったことはないが、写真を見るに、きっとお茶目で優しくていい人だろうなという感じがする。感じというのは根拠がないアトモスフェールにすぎないが、ヒッピーみたいな写真もあるし、いちばん真面目に写っている左も大家然とした威圧感がまるでない。好奇心、ユーモア、気まぐれ、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪、アナキスト、理数系オタク、アイデア、創造力、実験、余裕、オシャレ無縁、浮かぶのはそんなイメージだ。猫好きがみなそうとまではいわないが猫と話せる人に悪い人はいない(僕の偏見)。そもそもアマチュアのキノコ研究家でニューヨーク菌類学会を設立し著作まである作曲家などどこにいよう。こうして書き連ねるに、自分とそこはかとない相似性を感じ、それとは何の関係もないがFifty-Eightが気に入ってしまったことで彼への関心が決定的になった。

プリペアド・ピアノの発明は単なる楽器の改変だけではない、既存楽器の音をどうマニアックに磨くかというおざなりの美学をぶちこわしたのであって、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪を僕は背後に見る。彼は大学の図書館で100人の学生が同じ本を読んでるのをみてショックを受け、書庫に行き、名前がZで始まる著者によって書かれた最初の本を読んでクラスで1番になったが、そういう大学は見限って退学した。僕は大学に入ってしまってから不幸にも法学に些かの興味もない自分を発見し、2度アメリカに長期漫遊し、安田講堂の卒業式にボロのジーパンで出席した恐らく今もって唯一の法学部生ではないかと思う。特に権威や官僚が嫌いなわけではない、もっと嫌いなものはいくらもあるが、何を着ようかとそういうつまらない準備に時間を空費するのが何より嫌いなのだ。

ケージは父親に「誰かが『できない』と言ったら、それはお前が何をすべきかを示している」といわれた。のちに作曲は「目的のない遊び」と語ったのはその教えに従って誰もできない実験をしていたからで、彼にはそれが「遊び」であり「人生に目覚める方法」だったと思われる。僕は父につまらない質問をすると「お前の頭はなんのためについてるんだ」と突き放され、やむなく人にきかず考えて実験する癖がつき、やがてそれが遊び感覚になってその延長で生きてきた。仕事も遊びだから嫌でなく、おかげで音楽の勉強ができた。

ケージは辞書でキノコ(mushroom)がmusicの前であることで興味を持ち、研究にのめりこんでそちらでも著名人になった。「Zで始まる著者」の本を読んだエピソードと重なる。無機的だが秩序ある動機だけで行動できる「メカニズムへの打算なき偏愛」と、「一期一会の偶然は特別なご縁」への理由なき厚い信仰心という矛盾する二面が縫合した人格は個性的であるが、まったく同じ二面を僕も持っており、科学絶対主義者でありながらスピリチュアリズムの信奉者でもあるが、真理は一つであるなら躊躇なく後者を採る。ケージがエリック・サティの音楽をキノコにたとえた関係性と同じ筋道でキノコは彼の音楽に何らかの投影を与えていると思われるが、作曲が遊びであるなら、作為や意図が介在しない最も美しい出来事であるキノコとの出会いを彼が上位に置いていて不思議ではない。

 

Fifty-Eightの実演(サンタンデールアルゼンチン財団)

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ショパン ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58(1)

2023 OCT 13 12:12:15 pm by 東 賢太郎

僕がショパンのあんまり良い聞き手でないことは表明してきた。その理由は推測がついている。彼のバイオを調べてみると精神状態が体調をおそろしく支配する人と思われ、振れが大きく、陰と陽の極の時に霊感が強く働いた音楽を生んだようである。その振幅と処理の仕方がどうしても自分の感性に合わないというのが答えである。どういうことかというと、我々凡人にはわからないが作曲の霊感が強い人たちは不意に楽想が降ってくるようだ。ベートーベンにそれがあったことは創作ノートへのこまめな書き込みで時系列まで判っているが、彼は耳を澄ましてそれを書き取るだけでアイデアを混合はしなかった。ところがショパンは、まったく僕の空想だが、それを作曲中のイベントに縫合できてしまい、あたかも元からそうだったように天衣無縫に仕上がって世間では「ショパンらしさ」と思われている。練習曲作品10第3番(いわゆる「別れの曲」)やバラード2番で突然に激するところがそうだが、それほど顕著でないやり方でならそこかしこにある。例えばワルツやマズルカなどに頻出する右手の装飾的な遊びに聞こえるパッセージやトリルだ。素早い指回りでルバートしてぴったり元のテンポのさやに収めないとショパンらしくないから決して即興ではない。その部分を前後の流れに「縫合」して緻密に設計された「らしさ」である。そうした音楽の本質的でない(と僕には思える)部分に意匠を凝らす彼の感性をすんなり受け入れられる「ショパン好き」とそうでない人間に分かれるだろうが、これは単に趣味の合うあわないで彼の音楽がどうこういう話ではない。二百年も多くの人に好かれてきた音楽が楽しめないとなると、それは自分の問題として返ってくるのだ。

音楽の趣味おいて僕はクララ・シューマン、ブラームス派であり、ワーグナーの楽劇までは許容できてもリストの標題音楽という発想にはまったく興味のない人間だ。だからショパンが標題音楽派であればなるほどという結論になるが、「雨だれ」も「革命」も「別れの曲」もみな他人の考案で彼は標題やニックネームをつけることを拒否する人だった。ではソナタ形式の絶対音楽をたくさん書いたかというとそれもない。つまりその切り口では何者なのか整理がつかない人なのである。しかし、そうであるなら、それを類型化する別の場所を僕は知っている。誰の影響もなく誰にも似ていない人だ。僕自身がそういう傾向のある人間だからその定義には違和感がなく、そういう人は少なからず存在する。「ショパンは他人から影響を受けぬ閉じたワールドの住人であり、その精神世界から湧く泉があの音楽だ」という仮説を立ててみると、僕が彼の音楽になじめぬ原因は音楽自体の構造的、物質的なものではなく、彼が辿った「人生の投影」という形而上的、非物質的なものだという結論になる。

そういう作曲家はもう一人だけいる。ベートーベンだ。僕は彼の救いようのない孤独を交響曲第2番とエロイカに観てしまった。気づいてからは両曲を安直な気持ちで聴けないし、そこから最期まで彼を悩ませた内なる敵との相克にはおよそ人間の経験し得る最も苦しく忌まわしいものを感じ、だからこそ最後まで敢然と闘った彼という人間に愛おしさを覚える。シューベルトの最晩年の作品にも、シューマンが記した狂った音にもそれは聞こえるが、この二人の苦しみは内面には恐ろしいものがあっても、外面に如実に現れて同情され記述されることはあまりなく、ベートーベンとは比較できないと思う。愛おしさは人に対してであり、宝を残してくれた感謝にもなる。それがショパンになくていいことにならないだろうという気持から逃れるのは難しい。

即ち、僕は Chopin-like な(ショパンっぽい)曲が好きではないという抗いがたい事実に直面はしているが、これが何故かを知るにはいくら楽譜を眺めてもだめだ、つまり、事の根源は曲の構造や楽理的なことよりも彼の魂や霊感にあるのであって、それはショパンという人間が何者だったかという問いから入らないといけない。そのために僕は彼の作品を、特に敬遠して看過していたものも含めて凡そを聴き直し、本稿はまず(1)で彼のパリに出てからの履歴を俯瞰し、ピアノソナタ第3番を題材に「精神状態が体調を支配する人の魂や霊感の問題」を解いてみる必要がある。第3番は彼の最高傑作というだけでなく、父の死による鬱の極から姉の来訪で躁の極に至るという最大の振幅の中で書かれたという意味で、精神状態の作品への投影が最も顕著のはずだからである。その具体的な指摘はyoutubeにある各種録音を例に次回(2)にお示しする。

ジョン・フィールド

ショパンは1810年生まれだ。シューマンと同い年でメンデルスゾーン、リストがひとつ違いである。ベートーベンはまだ中期であり、「告別ソナタ」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」を書いていた。その時代の人が誰の影響もなく誰にも似ておらず、無双の魅力を放って天高く聳えている。こう書くと、アイルランドのジョン・フィールド(1782 – 1837)がいるではないかという声があがるだろう。彼が創始した「夜想曲」(ノクターン)がショパンに影響し、似ているという指摘はひょっとして彼の音楽以上に知られている。この新しい音楽はそれなりの世評をロンドン、ウィーン、パリで獲得する。そして、フィールドがモスクワとサンクトペテルブルクに長く滞在したことでロシアにまで広まることになった。

《ジョン・フィールド「18の夜想曲」》

19世紀前半の作曲の地平の劇的拡張はピアノという楽器の進化と並行した。ベートーべンは5オクターブ半のエラールのピアノの出現により「ワルトシュタイン」、「ピアノ協奏曲第3番」、「熱情」を作曲した。イタリア系英国人のムツィオ・クレメンティ(1752 – 1832)もそれに貢献した。彼はモーツァルトとの御前競演、誰もが弾くソナチネ、ベートーベンに第九を委嘱したことでも知られるが、ジョン・フィールドの師であり、練習曲集「グラドゥス・アド・パルナッスム」を著したピア二スティックな技法の開拓者としても著名だ。その知見を活かして自身のピアノ製造会社を設立してピアノを欧州に拡販し、ビジネスマンとしても成功した。彼だけではない、ヨーゼフ・ハイドンの弟子で交響曲を41も書いた作曲家イグナツ・プレイエル(1757 – 1831)もショパンが愛用したピアノ「プレイエル」の製造会社を設立して成功し、コンサートホール「サル・プレイエル」を造っている。

クレメンティは約100曲のピアノソナタを残したが初心者には演奏が困難だ。対して、夜想曲はベルカントとアルペジオの伴奏だからアマチュアでも弾ける。フィールドを使った営業戦略は卓抜である。フィールドにとっても、夜想曲のような楽想をチェンバロで発想、演奏するのは魅力に欠け、ピアノの進化の恩恵を得た。欧州、ロシアをクレメンティと共に演奏旅行してピアノを売るとともに夜想曲が有名になったのは幸運だった。ショパンはワルシャワ時代にそれを知ったと考えられている。舞曲形式では語れない瞑想的なコンテンツを盛り込むのに好適であり、20才から晩年まで人生を通して21曲を残した。彼の資質がそれを大いに欲していたから革袋は借りたが、しかし、盛った酒はショパンしかない霊感に満ちたものであった。

ミハイル・グリンカ

ロシアでフィールドにピアノのレッスンを受けたのがミハイル・グリンカ(1804 – 1857)である。後に母国の音楽に目覚めてオペラ「ルスランとルドミュラ」を書いて「近代ロシア音楽の父」と称されるが、ピアノ曲にはワルツ、マズルカ、ポロネーズ、ボレロなどショパンでおなじみの舞曲も、そして師匠直伝の夜想曲もある。舞曲はショパンの専売特許ではないが、グリンカがフィールドだけでなくショパンの影響も受けていたという仮定は、この辺は僕は詳しくないが、なかなか魅力的だ。スラブ民族、ロシア正教という異教徒、異民族の地で後にあの華麗なロシアピアニズムが生まれ興隆し、ラフマニノフ、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリスといった綺羅星の如き大ピアニスト達を輩出する契機となったのではないかと考えるとロマンがある。

《グリンカ ピアノ曲集》

 

ショパンには相思相愛のポーランド人女性マリア・ヴォジニスカがいた。恥じらいの中にも思慕に満ちた彼女からの手紙に彼はどれだけ鼓舞されたことだろう。左のポートレートは彼女が描いたショパンで、最も実物に近いとされるが、僕はそのことよりも描き手のなんともいえぬ暖かな目と愛情を感じて心をうたれてしまうのだ。当人たちは当然に婚約したつもりだったが、マリアの両親がショパンの健康とパリでの生活態度に疑念を懐き破談にしてしまう。ショパンの遺品にあった「我が哀しみ」と書かれたマリアの手紙の束。心底、かわいそうである。

魂のどん底で現れたのが男装の麗人ジョルジュ・サンドだ。マリアは清楚だったがサンドは逆だ。初対面でショパンは「あれは本当に女か」と印象を語っている。当世風にいえば、宝塚の男役で小説を70も書く売れっ子作家でもあって、名のある男と浮名を流しまくり、政界進出してフェミニズムの闘士になったような女だ。ショパンはその数ある男の一人であった。ひ弱で病気の28才、かたや女盛りの34才でふたりの子連れである。燃えあがったのは彼女の方で、恋愛も色々あるが女がぐいぐい迫ったケースの歴史的白眉と思われる。それを知って怒ったサンドのオトコが殺意を見せ、二人してやむなくマヨルカ島に逃げた。持っていったのがプレイエルのピアノとバッハの平均律の楽譜というのがショパンの禁欲的で閉じた精神世界を示すが、ピアノは税関が賄賂欲しさにいちゃもんをつけて差し止め長らく届かない。それが命の人である、同情を禁じ得ない。ちなみにこの島、一度行ったが美しい。病気の治癒を兼ねた逃避行の舞台には良い選択だったが季節が悪かった。冬の寒さと悪天候でショパンの病気はかえって悪化し、それは彼の性質として大いに精神を蝕んだ。

34才のサンド

サンドは懸命にショパンを看病した。これは大変なことで、結核は当時は原因不明の死病で島民が寄り付かず、死んでも島には埋葬させないぞと脅されたほどなのだ。3年前、正体不明のコロナが出てきた刹那のことを思い起こすに、母性と愛情なしにはとてもできないだろう。とんでもない女に引っかかったという見方もあるが必ずしもそうではないと僕は思う。純愛が冷めたらマリアにできそうもないことをサンドはできたからだ。彼女は軍人の父祖を持つセレブで、サロンの花形で取り巻きが上等である。パリに出てからのショパンは大ホールでの演奏を恐れ、社交儀礼の拍手をくれる聴衆よりも真に音楽を理解する人達のインティメートな場を求めて夜な夜なサロンに出入りしていた。まさにそれがマリアの母親に「病気なのに不摂生」と非難されての破談原因になったわけだが、サンドの取り巻きだった画家ドラクロアが「生まれてこのかた出会った中でもいちばん芸術家らしい芸術家だ」と語ったように彼は真の理解者を得て幸せだった。サンドはショパンの母親でもあった(自らそう述べた)。半世紀前の同じパリ。冷たいあしらいを受けたモーツァルトにサンドのような女性がいたらと思うばかりだ。

ピアノソナタ第3番ロ短調はマヨルカを脱出してパリに戻って1844年に書かれる。その年に父二コラが亡くなり、ショパンは2週間も重い鬱状態に陥った。保守的な家庭観を持つショパンはサンドとの内縁関係がうしろめたく両親に知らせていなかったが、見かねたサンドは思いきってショパンの実家に初めて手紙をしたため、母親から「息子をよろしく」と返信を得て姉夫婦がパリに来ることになる。ショパンの父はフランス人でポーランドで亡くなり、ポーランド人の息子はフランスで亡くなることになるが、両者が別離してからも絆が強かったことは姉夫婦の来訪で弟の鬱が完治してしまったことからうかがえる。「貴女は最上のお医者様でした」とサンドが姉と打ちとけたことは彼の心を軽くしただろう。そこでサンドの別荘であるノアンで書き上げたのがピアノソナタ第3番だった。

第2番はまるで「ソナタ」でなかったが、3番は古典的な装いで書かれている。ところが第1楽章提示部には控えめに数えても主題が5つある。後期ロマン派にこういうことはあるが、3番はブラームスが作品番号1のピアノソナタを書く8年も前の作品なのだ。したがって、無理やりの理屈をつければ第1主題、第2主題が提示されてから各々が「展開」されるところに計3つの「副次主題」があることになるが、どれもが第1主題、第2主題と何の関連もないからそういうものは展開とは呼ばない。闖入である。これこそが冒頭に書いた「作曲中に不意に関係のない楽想が降ってきて」と聞こえてしまうものであり、「それを作曲中の旋律に苦も無く縫合してしまい、あたかも元からそうだったように天衣無縫に仕上がって」「ショパンらしさだ」となっているものの正体である。一般には天衣無縫なのだと推察しているだけで、僕にとっては唐突な闖入なのだ。

もっと具体的に書こう。第1‐副1‐第2‐副2‐副3 の順となってその全体が提示部である。アシュケナージのビデオでお示ししよう。冒頭が第1主題、1分40秒からが第2主題であり副1は0分58秒から、副2は2分54秒から、副3は3分26秒からである。

ほとんどのピアニストは5つを平等に扱ってしまう。アシュケナージのこの演奏は美しさにおいて最右翼の出来であるがやはりそうだ。間違いとは言わない。2番と同様に3番をラプソディと見立てればそれでも良いし聴き手の趣味もあろう。2番のソナタは、まず葬送行進曲がマリアとの破局後の鬱状態で1837年に書かれ、残りはマヨルカに待ち焦がれたピアノが到着して一時の躁に転じ、病気を乗り越えて島から1839年にパリ郊外のサンドの別荘ノアンに逗留して元気になるという体も魂も揺さぶられる激震の如き2年間に渡って構想された。それをひとつのソナタに統合することに無理があるように思われ、ソナタと銘打ちながら統一性がないのはそうした理由からではないだろうか。自身が「行進曲の後で両手がおしゃべりをする」と表現した終楽章に至っては全編が無調の幻想曲で、なぜそういうものがそこに置かれたのかを合理的に説明できる人はこの世に一人もいない。唯一可能性のある説明は、彼は降ってきた楽想を行進曲にそう「縫合」したということだ。縫合に脈絡は不要である。

いっぽう、1844年に書かれた3番は父の死の衝撃を姉のパリ訪問で心から癒されて書かれた。2番とは真逆という意味で特別な作品であり、故郷への心の回帰、前作で為せなかったソナタの古典的統一への回帰を意図していると僕は見る。奇しくもその翌年のことだが、ショパンはサンドの家庭争議に巻き込まれて愛想をつかされ、ついに二人は破局を迎える。結局、彼女はショパンの死の床にいなかったばかりが葬儀に姿も見せなかった。こういうところはひどい女であると歴史に判を押されても仕方はないだろう。マリアと暖かい家庭を持つことがすぐ目の前にあった彼にとって想定もせぬ不幸な最期だったろうが、しかし、婚約破棄の理由になったほど病弱であり、ずっと患っていた肺結核に結局は命を奪われた彼である。サンドの強力な庇護と夏のノアンでの安らかな日々なくして、39才まで生きてこれだけの傑作を生み出せたかという疑問はどうしても残る。歴史に “たら・れば” はないというが、そうであるなら自分の歴史である人生においてもない。禍福は糾える縄。そういうものであり、思ったことを思い切ってやりぬくしかない。

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