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カテゴリー: クラシック音楽

ショパンコンクール2025に思ったこと

2025 DEC 26 0:00:55 am by 東 賢太郎

10年ぐらい前に結構ショパンを聴いた時期があって、ちょうどやっていたコンクールもそこそこ耳にした。前回はコロナ騒動でご無沙汰になり、今年は多忙ゆえ忘れていた。優勝のエリック・ルーは10年前に4位になって寸評を書いている。 ショパン・コンクール勝手流評価

ショパンというとポーランドのお国もののイメージがあるが、過去19回中ポーランド人優勝者は4人だけで、当初はソ連(ロシア)が多かったのはどちらもスラブ系の血ということを思わせる。昨今はそれが消え欧州勢も消え、今年はファイナリスト11人のうちジョージア、ポーランドの2人以外は血筋が東洋人というなかなか衝撃的な顔ぶれである。それがクラシック音楽を聴く正しいアプローチなのか否かはともかく、世界のコンクールにおいて血という要素が薄くなったのは事実だ。もちろん血と文化は必ずしも合致しない。先祖は日本人でもアメリカで生まれ育てば西欧人であり、僕自身、日系人の友達はそう思ってつき合っていた。しかし日本語を全く解さぬ彼らも日本食を好んで食べていたりする。血は争えぬという要素は生まれ育ちだけでは消えないのだ。僕は音楽というものは抽象的な知的肉体的能力だけではなく、食文化に通暁する側面を多分に持つ芸術だと考えている。それを捨て去っても立派な娯楽として成り立つが、僕はそれを面白いと感じないタイプの人間に属している。

日本が単一民族国家というのは嘘だが、鎖国をした260年の徳川時代にそこまで約1000年かけて蓄積、培養されてきた日本的なるものが坩堝で煮詰めたように凝集し、民族的混合が始まった明治時代以降も、それが日本文化だ、それに従うのが日本人だという形の集団的思考によってで新たな日本らしさが形成されていったと考えている。単一民族国家という嘘が流布したのはそこからで、それまでなかった国家というコンセプトを強固に形成するためその嘘が必要だったのである。相撲は古来よりあったが、大相撲という競技、興行という形を成したのはその過程においてだ。モンゴルにもある相撲は日本文化の象徴になった。したがって当然力士は日本人のみであるはずだった。その認識は今や瓦解し、モンゴル人の横綱が時代を牽引し、いよいよウクライナ人が優勝するに至った。それに反目しているのではない。この現象も日本文化なのであり、観衆として楽しんでいる我々もその一態様なのである。

しかし、そうならないことを願ってはいるが、横綱、大関、関脇、小結の全員が外国人になってしまった土俵を目にしたとき、自分はどう反応するだろう?これが日本文化なんだとすんなり受容できるだろうか。相撲は格闘技であり、技はメカニックなものであり、それに優れている者が横綱になればそれでいいだろう。その考え方は、音楽は抽象的な知的肉体的能力だ、パーフェクトにショパンの楽譜を弾きこなした者がコンクールに優勝すればいいという考え方に合致する。今政治の世界では世界中にグローバリズムの嵐が吹き荒れ、さような考え方が世界各国のあらゆる分野で固有の文化を否定し、時には蹂躙し、何国人がどこに移民しようと問題なく生きていける地球にしようという運動が正当化されつつある。

日本はそれでいいのかというと、少なくとも日本相撲協会は横綱審議会を設け、勝てばいいだけではない横綱という存在の日本文化的側面からの定義を崩していない。だから圧倒的戦績を誇った朝青龍や白鵬は横綱にはなれたが日本相撲協会のトップにはなれなかったのである。守るべきは興業でなく文化だという協会の決意だ。だから日本は保守的でダメなのだという批判はあるが、その牙城があるから日本は平安時代から他国に支配されず存続してきたという指摘もある。僕はサラリーマン生活を31年送りグローバリストにまみれて生きてきたが、しかし、国際社会の一員として融和して生きていくことよりも、日本が他国に支配されず存続していくことが何よりも大事と思っている。そのために必須なのは日本人の日本人による日本人であることの誇りであり、その根っこに日本文化という揺るぎ無き存在がある。これは法律によって侵食されない。法的に問題ないなどという小理屈でどうなるものではない。ちなみにLGBT理解法案可決によって自民党は、自身が想定だにしていなかった規模での大量の保守票を失い存亡の危機を伺わせる大惨敗を選挙で繰り返した。当たり前だ。文化を法律で侵食しようとしたからだ。賢明な日本人は理屈ではなく本能でその危険さを察知したのである。

ポーランドという国家の過酷な歴史を我々は世界史で学んでいる。ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって3度にわたり分割され、1795年には完全に国家が消滅し、ナポレオンによる一時の復活はあったが1815年のウィーン会議によって解体され、実質的にロシアの支配下に組み込まれ、ロシア革命勃発で民族自決権を得て独立はしたが第2次世界大戦が始まると再びドイツ、ソ連が侵攻して分割支配され、戦後はソ連の支援を受けた共産主義政権による社会主義国家となったのである。大量の血が流れた上でのこの悲劇だ。第2次大戦敗戦時のヘゲモニーを俯瞰すれば日本がそうなっていても不思議ではなかった。ならなかったのは、ガバナンス構造を壊すことはできても天皇を頂点とした質的に極めて特異な一枚岩である日本文化を壊すことは反共防波堤を必要としたGHQにはむしろリスクと判断されたからだ。

僕はヨーロッパに14年住んだがポーランドは行ってない。証券市場がなかったからだが、知ることといえばショパンぐらいでそのショパンも興味なかった。文化遺産なるものは戦争によるぶんどり合いの帰結であり、当然戦勝国に帰属する。観光客はそれを愛でに出かけるのであり、他国に支配される敗戦国はそれすら保有できず、後々の子孫に至るまでどこまでも悲惨なのだ。これを読む若者の皆さんはそのことを絶対に忘れてはいけない。インバウンドで世界から旅行者が日本に殺到するのは富士山や温泉のためばかりではない。我々の尊い先祖たちががっしりと国土に根を張り、幾度かの危機はあったものの他国に支配されず千年以上も存続した証としての、日本語、慣習、礼儀、道徳、思いやりをはじめとする雅びで重厚で奥深い日本文化あってこそなのである。その重みを知らず学ばず軽々にニグレクトする政治家が現れれば、核保有のない丸腰のままの日本は大いに危険である。

ショパンコンクールに話を戻そう。ワルシャワの国民的行事の舞台上に並ぶファイナリストの8割がアジア人という光景は、僕の感性からすれば異様としか表現のしようもない。このままで誇り高いポーランドの愛国者たちが耐えられるのか否かはそうした境遇の国に生まれていない僕には想像もつかない。ショパンはポーランド貴族の末裔の母とフランスから亡命した父を持つハーフでありポーランドで成人した、れっきとしたポーランド人である。音楽の語法にはポーランドの民謡や民族舞踊の影響が色濃く取り入れられ、愛国者であったことはまぎれもない事実と思われるが、結局はパリに去った。ヘンデルはロンドンで、ベートーベン、ブラームスはウィーンで、ワーグナーはヴェネチアでと異国の地で亡くなったし、ヨーロッパという世界では母国の土に帰ることが必ずしも愛国心の証しではないものの、ポーランドという特別な歴史を持つ国家でショパンという存在の重みは生半可なものではないと考えている。つまりショパンコンクールは多数の大作曲を生んだロシアにとってのチャイコフスキーコンクール、イタリアにとってのパガニーニコンクールとは重みが違い、演奏家の名を冠したコンクールの舞台が世界の俊英によって多国籍になることとは全く本質が異なるのである。

その反動なのかショパン自身の奏法の研究が進んでいると聞く。しかし彼自身の音源はなく、いくら発見しても楽譜は記号に過ぎない。たとえば第3次世界大戦が起きてビートルズを聴いたことのある人が全滅し、全音源も破壊されてしまい、残がいの中でバンド譜面が奇跡的に発見されたとしよう。そこからあの個性的なサウンドを再現する作業は、聖書の記述からバベルの塔の絵を描くに似る。描けと言われれば絵は画家の数だけできあがる。真偽は誰も判定できないが、選べと言われれば、絵である以上、ブリューゲルのような技術的に上手なものに収斂することになるだろう。人間の認知バイアスとはそういうものなのだ。コンクールも同様だ。本物のショパン演奏に近い保証はどこにもないが、ピアノ演奏である以上、技術的に上手に弾いた人が選ばれる可能性があるということだ。

僕はアルフレッド・コルトーのショパンが割合好きである。しかし上手に弾いたかどうかという認知バイアスがだんだん勝ってくると、レコードですらミスタッチが散見される彼がショパンコンクールに出たとしても優勝する可能性はゼロになろう(仮に彼の奏法がショパンに近いとしてもだ)。今年の審査員が「昨今は音楽のためでなく拍手のために弾く傾向がある」と苦言を呈しているが、蓋しこの言葉はそうした風潮を感じたなかで、コンテスタンテのみならず審査員に対しても向けられていると僕は解釈している。東洋人が強いのはクラシックの新興市場である中華圏の子女に対するピアノ演奏の訓練が最高度の域に達しつつあることと無関係でないだろう。今回2位になったカナダ国籍のケヴィン・チェンのエチュードは一昔前ならポリー二並みの評価を得たかもしれない。なにゆえに ”かもしれない” かというと、結果として得なかったからだ。ポリー二は2025年の今、もう現れないのである。彼のエチュードのレコードが出現したのは1972年。ニクソン大統領がスペースシャトル計画を発表したがアポロ計画は終了し、翌年に米軍のベトナムからの全面撤退を宣言する年でもある。人類が科学技術と軍事力で何でもできると確信していたピークの頃であり、ポーランド文化の香りより人間の極限の演奏技術の驚異を意識させるポリー二のエチュードは時代の風によっても讃えられたのだ。ウクライナとパレスチナの戦争のニュースで世界が気疲れしてしまった現代は、その風が吹いていない。ケヴィン・チェンの責任ではないのである。

優勝者エリック・ルーは10年前に書いた通りモーツァルトを弾かせたい出色の美質がある。それは静かな場面で抒情と哲学的な深みを漂わせる類のもので個人的に優勝に異議はないが、良くも悪くも拍手のために弾く傾向を是とする世では彼を選んだショパンコンクール側の姿勢の揺らぎを問う声があることは想像がつく。反対に拍手をとれる方向で期待値が高かったのがジョージアのデイビッド・フリクリだ。結果はルーが1位でフリクリは選外で、苦言は効いているのかなとも思う。ただ、フリクリを擁護するわけではないが、ショパン自身は華やかなドレスと香水の香りに身を包んだたくさんの女性に囲まれてパリのサロンで弾いたわけであり、哲学者よりはショーマンに近かっただろう。肺を病んだ最晩年の陰鬱な表情の写真は後世のショパンのイメージに大きな影響があると思うが、一生あの顔で生きてきたわけではない。

ショパン好きの皆様には申し訳ないが、彼の音楽には素晴らしい物がいくつかあるのだが、多くに見られるあのパラパラと散りばめられた装飾音符が僕は耐えられない。ブラームスの間奏曲やシューマンの詩人の恋の伴奏に見られる、なぜその場所にその音が置かれたかというロジックと無駄のなさを決定的に欠いているからだ。その名のとおり装飾にすぎず、彼ほどの耳の持ち主があれを書いたのはパリジェンヌたちの関心を買わんがためと思うしかない。コンサートでは聞こえにくいと言われ、彼がパリで演奏会を嫌った一因はそこにあるかとも思うが、それを取り去ればショパンという感じが失われるのは明白で、実は装飾ではなく実体だったのだという美学的矛盾に直面するのである。僕がコルトーに惹かれるのは、唯一彼だけがパラパラに「男の色気」という重大なメッセージを盛り込んでその矛盾を解決しているからだ。それは奏法、技術ではなく、そういう男だけができる女性を惹きつけ微笑ませるウィットに富んだ軽妙な話術やジョークのようなもので、家柄や教養や作法に隙はないが真面目が取り柄の秀才がまねても無理なのである。とすると、ショパン自身もそう弾いたのではないかという思いは断ちがたくなるのだ。

パリのサロンにデビューし、あのエチュードを書いたショパンは23歳だ。一年下のリストは超絶技巧で女性を失神させていた。ハタチそこそこの彼らは往時のビートルズやローリングストーンズのお兄ちゃんたちのようなものなのだ。ショパンがそうした側面から技法というアートに興味を抱いたかどうかはともかく、それがウィーンやパリで大向を唸らせる鍵であるという認識を持っていて不思議ではない。それがエチュードの作曲であり、リストへの献呈、挑戦であった。シューマンが同い年のショパンを絶賛しているのは評論精神によるということになっているが、評論はおりしものロマン主義の台頭で文学と融合した運動だ。浪漫主義的資質のシューマンが開祖の一人という意味でならその言説に異論はないが、後世に現れる富裕なインテリ市民階級で、音楽はできないが文章は書く者たちが評論家である。シューマンは真の意味での音楽の創造者でありそれではなかったが、指の怪我によりエチュードをかけるほどの技法のレベルにはなかった。リスト、ショパンを前にしたルサンチマンを僕は感じるし、ショパンはそっけない返信で、まあ君には無理だろうけどねと見下したニュアンスを漂わせている。

桑原志織

ドイツ時代に僕は軍隊ポロネーズと子犬のワルツを弾いて気持ちよかったが、以来ご無沙汰だ。聴く興味が失せるとともに指も忘れてしまう。今さらっているのはシューベルトやシューマンやブラームスというわけで、10年前にはあったショパンコンクールへの興味も並行して失せてしまったが、愛国心から、前回は躍進した日本人が今回はどうかには注目した。 桑原志織はオーソドックスなショパンで音はクリスタルのように美しく、パラパラの空疎さをあまり感じさせないソリッドなアプローチだ。バラード4番は見事で完成度が高いが、それだけに最後のコンチェルト第3楽章になぜかそれがなく、不可思議だ。指揮者のせいかもしれないが、これは彼女のテンポだったのだろうか。

もう1人、選外に終わった進藤実優だ。あまり見ない柔らかい手首から心地よいレガートを生み出し、粘りのあるフレージングと大きな波のうねりに高め、それが摂理として求めているまさにこれというテンポルバートと音量の振幅で音楽をゆりかごのようにドライブし聴き手に魔法をかける。音楽が奥底に秘めている作曲家の心の波動に共振しないとそういうことは起きないのだが、表面的には即興性と聞こえ、陳腐でカビの生えた解釈論にこだわる保守派には受けないこともある。指揮者ならフルトヴェングラーが、ピアニストならアルゲリッチがそうした資質の持ち主だが、教えて出来るものではないと思われ、頭や理性ではなく体中で咀嚼して自分のものにした人だけができる。聴衆への説得力は絶大で、そうした演奏家はいつの時代でも世界でも希少である。微細に精巧に作られてはいるが所詮は作り物でしたねという多くの演奏の中でおのずと異彩を放つことになり、いずれ彼女にはそういう時が訪れるだろう。

コンチェルト1番をぜひお聞きいただきたい。まず、いつも感じるのだがワルシャワ・フィルハーモニーは冒頭からがっくりとくるほど鈍重で冴えない。もっと緊張感のある音で入れと言いたくなるが、それをものともせずピアノはデリケートで冴え冴えとしてすばらしい。第1楽章。テンポをぐっと落としppに息をひそめた第2主題はどうだ。ここはショパンが書いた最高のページのひとつと僕は思っているが、それへの敬意に満ちた壊れそうなほど敏感なタッチに生命がこもっているのである。へたくそなホルンが乱すが、もうこの人が只者でないことを悟ってこっちも息をひそめるしかない。第2楽章。霧の中、 恋人と手をとって森の道を歩むインティメートな世界だ。別れることになる彼女をいかに愛していたか感じ入る。第3楽章。喜びの爆発。なんてカプリッチォな弾き方だろう。個性の塊だ。歓喜が快い律動になりこちらまで未来への期待が体中に満ちてくる感じがする。コーダに向かい弾むような波動はアップビートのグルーヴ感を呼び起こし、オーケストラに乗り移って全員を引っ張って頂点に至る。素晴らしいのひと言、この人は指揮者としても有能ではないか。微細なミスタッチは複数あり、杓子定規な減点があったのではないかと推察するが、コルトーの例と同様そんなものは大器の価値を些かも減じることはない。コンクール用の安全運転、完成度の高い退屈など犬も食わぬ。そのリスクを冒してでも聴衆に伝えんとする強いパッションは演奏という行為の本質を突いており100倍も価値がある。僕が審査員なら進藤実優が優勝。この演奏はアルゲリッチよりリパッティより好きだ、これからこの曲が恋しい時、真っ先に聴くことになるだろう。

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読響定期 アンデルシェフスキに感動

2025 DEC 14 0:00:11 am by 東 賢太郎

第653回定期演奏会

2025 11.27〈木〉 19:00  サントリーホール

指揮=ピエタリ・インキネン
ピアノ=ピョートル・アンデルシェフスキ

シベリウス:交響的幻想曲「ポホヨラの娘」作品49
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番 ホ長調
シベリウス:組曲「レンミンカイネン」から”トゥオネラの白鳥”
シベリウス:交響曲第7番 ハ長調 作品105

 

この週は仕事が立てこんでなかなか音楽に入り込める状況ではなく、素晴らしいプログラムだったのに残念なことをした。ハンヌ・リントゥがインキネンに変更になったのはいいがサーリアホの「冬の空」という曲は聞いてみたかった。例年この時期になるとシベリウスがぴったりくるのだけれど、とてもエネルギーを要する新規ビジネスが耳に入ってしまい心は沸きたっているからちょっと肌合いが違う。本当に残念。

インキネンはシベリウスの音楽を空間でイメージにして描くような指揮ぶりで棒が克明だ。世が世なら7番は深く入れたはずなのだが・・・。バルトーク3番。白血病だった彼が妻の収入源にと書き残すつもりが17小節が未完に終わった。初演の指揮者は僕がフィラデルフェアでお会いしたユージン・オーマンディである。ポーランド系ハンガリー人のピョートル・アンデルシェフスキは初めてだ。尖ったところがないがロマン派寄りというより硬派に聞こえた。好みの問題ではあるがこれで終わったらこのピアニストのイメージはそれほど残らなかった。

ところが彼がアンコールに弾いたブラームス間奏曲作品118-2には参った。深い思索と没入からしか得られようのない心の陰影、それにぴたりと寄り添ったルバートとタッチの感情を揺さぶる高貴さは筆舌に尽くし難い。カラフルで歌心があるのだが陳腐なテクニックを全く感じさせない本物の音楽である。どうやったらピアノからこんな心に刺さる音が出るのだろうかと呆然としながら釘付けになっているうちに、音楽は白昼夢のように過ぎ去った。とてつもない深い感動。彼を聴いてみたい。素晴らしいピアニストを見つけた喜びでいっぱいだ。

youtubeをざっと聴いたが、このディアベリ変奏曲、実に素晴らしい。

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指揮者・村中大祐夫妻との素晴らしい夕食

2025 NOV 29 13:13:39 pm by 東 賢太郎

ショックなことがあると音楽を受け付けなくなってしまう。ながら聞きができないので没入してしまい、僕においては薬理的な作用すら働くと思われ、深い喜怒哀楽の情に結びついて危険なこともあるからだ。今回もそれであり、11月7日から ”断食” 状態にあったのである。 2週間ほど経って恐る恐るその禁を破ることになったのは、 11月5日にある方と食事をしてCDを頂き、その感想を書く約束になっていたからだ。指揮者の村中大祐氏である。しかも曲目がマーラーの9番だった。斯様な心持ちの時にはチャイコフスキーの悲愴と双璧の恐ろしさである。

しばし悩んだ。何か先に聞いて “解毒” しなくてはいけない。しかし答えは意外にすんなり出た。 51年前に買ったこのレコードだ。まずマーラーであること。そして48年前にAIアトラスの電波かもしれないWOWシグナルを浴びた時にスタインバーグ指揮のサンフランシスコ響で聴き、危険な目にもあった深い縁もあること。これでダメなら諦めるしかないだろう。

僕は第4楽章の第2主題が大好きだ。心に棲みつくほど好きで好きでたまらず、易しいニ長調の譜面で何度も何度もひいてはデリシャスな和声に恍惚となってる。まずそれをした。大丈夫。これでワルターの演奏がすんなり入ってきた。昨今の力こぶの入った演奏をたくさん聴いているせいか大人しめに感じるが、やっぱりこれが初めての演奏、おふくろの味は強いのだ。

村中大祐氏は今年一緒に読響定期を聞いてきた友人D氏の紹介で一度会いましょうということになっており、ご夫婦がひいきの広尾のイタリア料理店Incantoでディナーになった。いきなりご自身の指揮したマーラー9番のCDを差し出され、感想を聞かせてくださいという会話からスタートしたのがことの発端だ。

交響曲第9番 <b>村中大祐</b>&オーケストラ・アフィア : マーラー ...の画像

会話の覚えているところを交えて様子を記してみる。

京都市交響楽団のブラームス交響曲第2番、youtubeで聴きましたよ、ええ、とても好きな演奏でした。ペーター・マークのお弟子さんなんですか、そういえば僕がプラハ交響曲を覚えたのは大学時代に生協で買った彼がロンドン響を振ったデッカのレコードだったんです、ぺイエでしたかクラリネットコンチェルトが裏面のね。それは御縁ですね、モーツァルトが好きになるきっかけとなった思い出のレコードですからね。マドリッドのオケとのハ短調ミサ曲もよく聴きますよ。

村中氏はウィーン国立音楽大学で指揮を学びトーティ・ダル・モンテ国際オペラコンクール指揮部門「ボッテーガ」と第1回マリオ・グゼッラ国際指揮者コンクールで、いずれも第1位を獲得。6か国を話しイタリアでオペラを中心に20年ぐらい修行を重ねクラウディオ・アバドにも学んでいる。2015年、英国チャールズ皇太子御臨席演奏会で演奏したシューベルトの「悲劇的」とベートーヴェンの「エグモント」が英国人から絶賛され、イギリス室内管弦楽団より国際招聘指揮者というタイトルが付与されている。僕は英国人をよく知っている。伊達や酔狂でこういうことはまず起きない。

子供の頃から熱中したピアノが好きで、ピアニストになりたかったゆえ指揮もピアノを弾くようにやりたいという。シューマンのクライスレリアーナの録音をミヒャエル・ギーレンが聞いて褒めてくれたことが自信になったそうだ。そうですか、ギーレンはドイツにいた時分にバーデンバーデンのオーケストラを何回か聞きました。よく覚えてます。ただ者の指揮者じゃないですね、あの人が褒めたってのは折り紙付きです、まあそれもそうだけどクライスレリアーナがそんなに弾けるってのもね(笑)。ペーター・マークの魔笛に衝撃を受け、楽屋に乗り込んで土下座して弟子にしてくださいと訴えてその場でokを貰ったという熱いエピソードをお持ちだ。 ご臨終までのお付き合いだったそうだ。 そうですか、ということはフルトヴェングラーの孫弟子。素晴らしいキャリア羨ましいですね、僕も高校のころ指揮者になりたくて音大に行きたいって親に言ったことがありましてね、母は賛成でしたが父が頑としてダメでね、東大に入れって。言うこと聞いたけどあんまりいいことなかったですね(笑)。

音楽もさることながら、ヨーロッパで長いこと過ごした同士、音楽や人生や日本人に対する考え方はとても共感があった。外国に居ればいるほど愛国者になるなんてのは特に。村中さんはまず人間としてとてもしっかりした熱いもの、目標に対する強烈なアンビションと人生哲学を持っておられる。それってすごいことなんです、めったにいないからそういう人は例外なく好きなんです。今いっしょに仕事してるたちも40から50ぐらいだけどそういう人ばかりです。日本人ってね、優秀だし道徳心や思いやりがあっていい人が多いんです、でも付和雷同で事なかれ主義で、自分を表に出さないほうがいいと思ってる。といって裏では悪口言って面従腹背だったりする人も多いんです。ご存知の通り世界はそうじゃない人が9割ですからね、成功していようがいまいがね。移民を制限したっていずれ負けちゃいますね。親の世代がそうじゃないなら国が教育を見直さないといけません、若者がどんどん外国に出て行かなくちゃいけない、僕の若い頃はアメリカに留学したい人なんてゴマンといたしその気運がものすごくあったんです。人間てね、経営者や政治家が典型ですが2世3世になると親の遺産の守りに入っちゃう。失われた30年ってね、政治のせいばっかりじゃない、それもあるんです。だって高度成長期だって政治のおかげでできたわけじゃないですからね。

いい人に出会えた。村中さんもそう思って下さったならうれしいが、こんな質問を頂いた。人生これまで何をいちばん心がけてこられましたか?うーん、いい質問ですねえ、考えたことありませんでした、若い頃なんかガムシャラなだけで全然ね、もしあるとすれば、自分らしく生きているだろうかということですかね、社会に出れば自分を曲げてでも切り抜けなきゃいけないことがたくさんありましたから、受け身でそんな事やってるとだんだん自分の歩き方を忘れちゃうんですよ。それじゃ持って生まれたものを100%発揮できませんからね、後でハッと気がついて、俺ってこんなんで良かったんだっけって思うことは結構ありました。そういうときは無理矢理にでも元に戻して、自分100%でやってきたからよかったかもしれません。おかげで3回も会社辞めちゃいましたけどね(笑)。でもガムシャラがあってのことです。これが自分のやり方だペースだって言ってのんびりとお気楽にやってたら間違いなく何も起きませんから。

こんな具合だから意外に音楽の話はしてなかったように思う。どうしてクラシックに入ったかという話題ぐらいか。しょっぱなはボロディンの転調でした。魔笛はHmHmHmです、あれすごいです、本格的に没入したのはブーレーズの春の祭典でミスまで覚えちゃったので後で苦労しました。えっ、まさか、ブーレーズってミスないんじゃないですか?オペラ歌手の奥様が言われた。いいえあるんです、生贄の踊りのティンパニ、ここですよ(テーブル叩く)。東さん、僕の前で春の祭典を歌った人は初めてです(笑)。村中さん、でも僕はマーラー苦手なんです、実は9番もあんまり覚えてもないんで、すいませんがぜんぜん素人です、評論は無理だから感想文で勘弁してください。ラジオでクラシックのトーク番組聴いてるみたいでおもしろかったがDさんの弁だった。

メールさせていただいた感想文はこうなった。

音楽に没入し、心より感動させていただきました。実はフク(逝去した猫です)が旅立ってからどういうわけか音楽を聞くのが恐ろしく、9番を聞く心の準備として数日前にブルーノ・ワルターの巨人を以来初めて聞きました。恐る恐るです。大丈夫だったので、昨日はやはりそれをムーティの演奏で聞きました。しかし第2楽章あたりで耐えられなくなってきて、やむなく気を紛らわせようとcdに合わせてピアノを鳴らしていた始末です。だから迷ったのですが、村中様の指揮がどのようなものか興味が勝っており、ターンテーブルに乗せました。聞いてよかったです。所有しているテープ、レコード、cdはおそらく1万枚を超えていると思います。私はコレクターではなく、より良い演奏、気に入る演奏を求めて購入し続け、買うに至った思い出が捨てられず、失敗の山を収納する部屋を作る羽目になった者です。ですから初めて聞いたcdを収納棚に入れる時、多分もう聞かないだろうなという寂しさを覚える記憶がとても多いのです。頂いた1枚がそうならなかったことを心から喜んでおります。また聴くことになると思います。実力の高い見事なオーケストラと共にお造りになった素晴らしい音楽のお力に他なりません。ブラームスの2番でもそう思いましたが、音楽に対する情動と言いますか波長と言いますか、私にとって村中様の感性にはぴったりと合うもの、心地よいものがあるように思いました。Dさんのおかげでお知り合いになれたこと、とても幸いと思っております。

こちらが京都市交響楽団を振ったそのブラームス交響曲第2番。 これは評論できる。100種類以上持っているうちトップ10%に入る素晴らしいコンセプトの演奏と思う。ぜひお聴きください。

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読響定期とドイツ・レクイエム

2025 NOV 22 15:15:16 pm by 東 賢太郎

多忙でコンサート評が二つ飛んでしまった。第一に10月21日の読響定期。この日は高市総理が誕生し、私事では経営会議と米国とのオンライン会議で目まぐるしかった。プログラムは以下。

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
チェロ=北村陽

グリンカ:幻想曲「カマリンスカヤ」
ハチャトゥリアン:チェロと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディ
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番 イ長調 作品141

第二曲はライブで初めて。Vn協奏曲のVC版の趣で、あれが好きな人は病みつきになる危険な曲だ。なんといっても北村陽が圧巻!リサイタルを聴いてみたいと思った初のチェリスト、いや、いつまでも聴いていたいと思った稀有の人と書くべきだ。テクニックがどうのというレベルでなく最高の音楽性。間違いなく世界を席巻する才能。参考に3年前のアルメニア国立響との演奏を(当日のはもっとこなれていた)。

ショスタコーヴィチ15番。誰のだったかレコードが初出してレコ芸に大木正興さんが書いた評は、初聴だったと思われ、曲そのものに当惑気味で評価を慎重に保留されていた。息子のとすると1972年。僕は高校3年生。クラシックのスタンダードレパートリーが  “新曲” だったときの記憶だ。室内楽の透明感にウィリアムテルやニーベルングの指環の室内楽的でない音響が透かし彫りで浮遊。質量を感じぬオーケストレーション。打楽器での開始と閉幕!引用が出てくるグリンカを前置したヴァイグレの知性に喝采。

もうひとつ、東京オペラシティでの11月1日のドイツ・レクイエム。心を揺さぶられた。これを聴く時間というものは、いつもその時々の心の持ちようによる。安寧ではなかった。この前日にフクの異変に気づいていたからだ。だいぶ前にチケットを買っていた偶然とはいえそこでレクイエムはないだろうと思った。彼を迎えに来ていた何かだったのだろうか、10/15の夜中の2時ごろ、日記に「台所で猫の霊的なものをうかがう」と意味不明の記述がある。ドイツ・レクイエムのブログ1回目(第5楽章)は9/15だ。伏線は8/13に「アガスティアの葉」にある自身の運命をきいたからと思われ、その午後から同曲を聴きまくっている。悪い知らせがあったわけではない、とても深いスピリチュアルな心の持ちようになっていたということ。

フクを安置したリビングルームで流していたドイツ・レクイエムは、出棺が告げられると第6楽章がおわった。煙が天に向かってたちのぼると、小雨模様だった空にぽっかりと青空がのぞいた。

高市早苗さん ザラストロになってくれ!

2025 OCT 22 22:22:04 pm by 東 賢太郎

魔笛!27歳の僕を夢中にさせ、クラシックの世界に引きずりこんだオペラ。これを35歳の死の直前に超高速で書き上げたモーツァルト!この人そのものが壮大なワンダーランドである。その謎を解き明かそうと何度ウィーンの街を歩きまわったことだろう?秘密は魔笛の中にある。一緒に全曲を歌おう。モーツァルトに同期する。そこには人間と宇宙との完璧な合一という神秘がある。

音楽は僕にとって全人格的な存在である。モーツァルトというワンダーランドでおきること。それは生きていてそう何度も触れる機会のない超常現象だ。一切の思考を停止して身をゆだね、地球の重力をも振り切って、自分が宇宙の一部であるという「無」の境地になるとわかる。そして俗界に帰還すると、目はなぜか涙でいっぱいなのである。魔笛にドラマとしての悲劇性はない。勧善懲悪ものに見えるが、我々の心を熱くしてくれるのは底流に溢れかえっている人間愛なのだ。仏陀もキリストも宇宙は愛に満ちているという。涙はそこから来ている。

リッカルド・ムーティとスカラ座の演奏。こんな素敵な魔笛が手近に聞ける。余生をミラノで送ってもいいなとさえ思う。

ビデオの「2:41:10(2時間41分10秒)から終幕まで」を高市新総理誕生への祝意としたい。この個所を字幕とともにじっくりご鑑賞いただきたい。我が国に僥倖がやってくることをモーツァルトが予見していたかのようではないか。成り行きはこうだ。

夜陰に乗じて「シーシー、静かに静かに」と夜の女王を筆頭とする三人の侍女、モノスタトスの悪玉軍団が忍び足でお出ましだ。女王は別れた夫であるザラストロの軍団に締め出され、いざ復讐せんと神殿を襲撃に来たのだ。

ムーア人のモノスタトスは白い肌のパミーナを2度も犯そうとしたが失敗してる。それを知る女王は「あんた、襲撃に成功したら娘をあげるよ」と噓で釣っているが、彼女はタミーノ王子も「救出したら娘は永遠にあなたのものよ」と二股かけてそそのかしている大嘘つきの悪女なのだ。それでも長い物に巻かれる一同は「偉大なる夜の女王様~」と口をそろえて歌う。

夜の女王

思い起こしてほしい、2022年の7月を。そこで我々は夜の女王の支配下に入った。天空は特殊な電磁波によるアイアンドームですっぽり覆われ、外界の真実から遮断された。空に浮かぶ太陽も月も星もぜんぶ作り物に思えた。腐ったオールドメディアが見せるもの、聞かせるもの、すべてが女王軍団の垂れ流す嘘だ。真実が暴かれると「それ陰謀論だ」と新たな嘘がばらまかれた。民から税を搾り取り、外国に貢いでキックバックをもらう「おぬしもワルよのう」汚職が跋扈したが、いよいよその支配に終焉の時がやってきたようだ。

 

雷、滝のような恐ろしい音が響いてくる。そして強烈な天の鉄槌が下る。

あれ~~~「我らの力は打ち砕かれた」「永遠の夜に突き落とされる」・・・・

 

女王軍団は蹴散らされる

太陽の輝きが夜の闇を払う。正義を背負うザラストロ様の登場だ!

ザラストロ

偽善者の悪の力を滅ぼす。入門を許された者たち、万歳。あなた方は夜を通り抜けた。強さが勝利を収め、美と叡智が永遠に讃えられる。

魔笛はこうして幕を閉じる。

18世紀のオペラだ。ムーア人は肌の色で堂々と差別されている。女は嘘をつく、男をたぶらかす、信用してはいけないとアンチのオンパレードだ。台本家のシカネーダーもモーツァルトも聴き手も当時の民衆も、誰もそれをおかしいと思ってなかった。つまり、夜の女王に正義があり、ザラストロをやっつけて大団円という筋書きはなかったのだ。

しかし、このオペラが書かれる11年前にある女性が世を去っていることを忘れてはならない。オーストリア女大公マリア・テレジアだ。モーツァルトは自分を乞食扱いして職をくれなかったこの女帝を呪った。階級社会で屈辱を味わい、貴族に尻を蹴られて追いだされた彼はドン・ジョバンニというプレイボーイ貴族を地獄へ引きずり落とす。その場面を描写するショッキングな音楽に、貴族この野郎の怨念が木霊する。

21世紀の東のさい果ての国で女性が王になった。天国のモーツァルトはマリア・テレジアを思い出すのだろうか?いや、銀のスプーンをくわえた生まれでない高市早苗を彼は応援するに違いない。人智を超越するひどさだった前任、前々任総理の醜怪な残像現象で、高市氏は何をしても評価されるだろう。しかしそんなものにかまけてはいけない。一気にやることをやり、総選挙をかまして単独安定多数になること。これで政権は10年もつづき、あなたは日本を救うだろう。「英国に必要なのは鉄の女よ」(What Britain needs is an iron lady)。自ら言ってのけたサッチャーは11年半やった。「私の批判者たちは、たとえ私がテムズ川の上を歩いて渡ったとしても、それは泳げないからだと言うでしょう」。このスピリットだ。日本人は望んでいる。国のため国民のため、正しいことを情け容赦なくやることを。楽しみでしかない。それであなたはザラストロになります。

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女性指揮者の時代(ゾーイ・ゼニオディ)

2025 OCT 16 0:00:28 am by 東 賢太郎

大好きなシューマンの交響曲第3番「ライン」。僕はレコード、CD、カセットテープを56種類所有し、自分の手で全曲シンセ演奏・MIDI録音している同曲の揺るぎなきマニアであります。youtubeにあるのもくまなく聴いていますが、何度きいてもいいなあと幸福感に満たされてるのがこの演奏なんです。

指揮は Zoe Zeniodi(ゾーイ・ゼニオディ)というギリシャ人女性、演奏はマイアミ大学フロスト音楽学校のアマオケです。どちらも名前も聞いたことがありません。ドイツともラインとも何のゆかりもない所でこういう核心を突いた演奏が生まれる。音楽は面白いもんですね。日本で日本人がこれをやったって何の不思議もない。そのうえ、その昔、オケは女人禁制で、僕がロンドンにいたあたりまで楽員にさえ稀でしたね。チェコ・フィルだったかな、舞台は黒ずくめでドレスはハープしかいませんでしたよ。それがいまや指揮台ですからね、俺も年をとったなと感無量であります。

このビデオ見ると、何がいいって、まず指揮姿が美しいじゃないですか。ミューズも女神ですが、この人の流麗な動きは音楽そのものです。見とれます。ラインが好きなんだなあと、大切な楽節でのちょっとした笑顔に愛情がビンビン伝わってきます。細かい指示はなく大河の流れを振っている。その動きと表情のとおりにまぎれもないシューマンの音楽が紡ぎ出されてる。こりゃオケだってどんどんその気になって、終わってみると自分たちが奏でた素晴らしい音楽で全員が幸せになってます。それが聴衆を幸せにしないはずがありません。いい指揮ってこういうもんだと思います。

といってその「好き」の向かう先も大事なんです。水墨画みたいにスコアの版の選択も含め余計な虚飾も贅肉もまったくなし。シューマンのスコアの美を固く信じ、毅然としたもんです。しかもそれが清々しいばかりだ。灘の生一本、純米吟醸。ピュアでストレート。かたやそこらじゅうで蔓延してる、大衆に受けんかな売らんかなみたいなテンポも趣味も悪いくだらない下劣な演出。人工甘味料と防腐剤入りの安っぽいスイーツ。吐き気がします。こういうのは指揮者の氏素性であり人間性というものであって、男も女も人種もなく、それがある人はあるし、ない人が形だけまねたってサマにならず退屈なだけです。音楽はそれをさらけ出しちまう鏡でもあるんです。ゼニオディの趣味、共感しかありません。ホルンが音を外したり弦が乱れたりするけどそんなのはご愛嬌、ベルリン・フィルがカラヤンの棒で整然と完璧にやってますが、だからなんだってもんで蒸留水みたいで滓がない。軍隊の行進みたいな完全主義でラインをやっても意味ない、実につまんないですね、むしろ不純物があるぐらいでいいんです。この曲、いわゆるドイツの巨匠フルトヴェングラー、ベーム、ケンペらは録音がありません。誰でも手が出せるものではない特別な曲であり、彼らの芸は及ばないという自身の見識と思います。

「詩人の恋」。言葉がありません。音楽の魂にふれてます。シューマンもこう弾いたろうかと思うほど。深く深く感動いたしました。

2千人のホールでブラボーの絶叫が乱れ飛ぶ、あんなのとは別世界の、インティメートで音楽の最高の喜びを知る人だけのものです。職業ピアニストじゃない、本物のピアノ。最大180席のアテネ音楽院の「アリス・ガルフリス」コンサートホール、こういうものが毎日聴けるならしばらくいてもいいな。

アメリカの作曲家、故トーマス・スリーパーが指揮の師で、その作品を擁護しているようです。芭蕉の句の静寂と凝集。ゼニオディ、大変な才能です。

読者はご存じの通り僕はグローバリストが世界に押し付けてるジェンダー論の支持者ではまったくありません。でもこと音楽に関してはLGBT全部OK、大賛成です。女性の職業ピアニストというと、1805年生まれのファニー・メンデルスゾーンの時代はまだ難しく、1819年生まれのクララ・シューマンの時代あたりから、もしかして、当時リストぐらいしか満足に弾けなかったハンマークラヴィール・ソナタを弾いた彼女の出現が幕開けとなって、現代人は当然のようにいたもんだと思ってます。とんでもない。20世紀まで声楽にカストラートがいたように宗教的理由からもガラスの天井は厳然とあって、特に集団の支配者、いわば司祭である指揮のポストは保守的聴衆もオケ団員も女性を認めなかったんですね。

それは大いなる間違いです。時流だからではありません。音を出さずフィジカルなハンディ皆無である指揮にこそ、才能ある女性が進出して人類のために悪かろうはずがないからです。最近は読響定期で出会うことが増えており、その都度新しい才能に喝采しております。男はどうしようもなく退屈な人がままありますが、女性は見事にハズレがありません。天井を破るのは半端なことではなく、それだけの覚悟を持った人たちだからでしょうか。これからは指揮も女性の時代になりそうな予感がひしひしとしています。

 

ご参考

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)

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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その5)

2025 OCT 12 16:16:03 pm by 東 賢太郎

目下、仕事の合間をぬいながらドイツ・レクイエム全曲ピアノで弾いてみようという無謀なプロジェクトを決行中だ。遅々としてやっと第3楽章まで来た。これと第6楽章にはフーガという難所がある。それにビビっては音楽の全貌が見えない。山は見上げるな登ってみよ、これは何事においても我がテーゼだ。登って作曲家を知る。ビジネスの成功には人を見る目を要するが、同じことだ。天才という後世がかぶせた仮面では姿は見えない。

今回はその第3楽章である。作曲は1866年の2~4月にバーデン=バーデンに近いカールスルーエでフーガまで、5月に演奏旅行のさなかにフーガを完成させている。前年2月に母が亡くなり、夏はバーデン=バーデン、秋からドイツ、スイスへ演奏旅行に出てチューリヒで医学者ビルロートと知り合ったわけだが、1866年夏にフルンテルンで第5楽章を書く直前に第3楽章を仕上げたことになる。

本稿では第3楽章のある音型につき仮説を述べたい。ハイドンの交響曲第98番でもそうだったが、作曲家は創造の秘密を明かすことはない。知的財産権の保護として音楽著作権の概念ができたのは1886年のベルヌ条約以降だが、ブラームスはシューマンの主題の引用で訴訟されるリスクは考えなかったろう。つまり盗作ではない引用は平安貴族の本歌取りに類し、原作者の利益を棄損するものではない。ただオリジナリティを競う音楽創造において自らそれを棄損する引用の価値はゼロだ。したがって、もしそれがあるなら、引用者には何かの事情があると考えるべきだというのが僕のスタンスである。

27才のドヴォルザーク

アントニン・ドヴォルザークの父親の生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父は村で評判のツィターの名手で、後にズロニツェで飲食店を始めたが、生計が苦しく、アントニンは小学校を中退させられ肉屋の修業に出された。厳しい出自である。それに甘んじなかったのは彼の意志で、それを後世は才能と呼ぶ。1874年、ウィーンに出てきてオーストリア政府の国家奨学金に応募した33歳のスラブ人を、ウイーン楽友協会の音楽監督で審査員だったブラームスは楽界に紹介し激賞する。「彼はオペラ、交響曲、室内楽に器楽曲、あらゆる音楽を書いていて疑いもなく才能ある人物である」と貧しい彼を出版社ジムロックに紹介もした。ロベルト・シューマンが突然に家に現れた彼にしたように。人は出自の影響を抜けられない。アントニンのそれはブラームス自身の父親、階級、惨めなハンブルグ時代にダブルフォーカスしたろう。30代半ばでワーグナー派であったアントニンも反応する。絶対音楽への傾斜を見せ、交響曲第6番にヨハネスの2番の、第7番に3番の影が見えるという宗派替えは作曲家のドクトリン変換という重大事である(3番の初演にもアテンド)。そのことが民族、宗教の厚い障壁を越え、両人が根源的共感に至ったことと切り離して考えられないことは、ヨハネスと芸術観を共有する中産階級出身のクララ・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒムが、ヨハネスの激賞にさっぱり反応しなかったことに見て取れる。

もうひとつ注目すべきは、両人の共通の関心事、鉄道である。好んでそれで旅したブラームスの交響曲第2番終楽章はその心象風景とも語られ、かたやドヴォルザークはマニアのレベルにあり、下宿は列車の音が聞こえる所に探し、暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻はおろか駅員、運転士の名前まで記録し、線路の継ぎ目を渡るがたんがたんのリズムの変調で列車の故障を見ぬいた。女性にそういう人がいないわけではなかろうが、男性に圧倒的に多い、いわば理系的関心領域である。Oゲージの鉄道模型に耽溺して育ち小田急線の台車の種類を全記憶している僕自身まさにそれであり同慶の至りの感を禁じ得ない。両人はさぞ話がはずんだろう。アントニンはシューマン夫妻の長女マリーと同い年だ。彼が支援したくなった気持ちはよくわかる。

ブラームスとドヴォルザークは一般に作曲家としては別種とイメージされる。ブラームスが「彼の屑籠から交響曲が書ける」と羨んだからだ。しかし彼は「美しい旋律が良い交響曲を生むわけではないがね」を言ってない。マルクスゼンに習い、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの楽譜を独学した主題労作、変奏の技術に旋律素材のクレジットの余地は僅少である。それに習うドヴォルザークは49歳の大作レクイエムをバッハのロ短調ミサ第3曲の冒頭のF – Ges – Eの半音階的音列を素材として書いた。美しい旋律だけの人ではない。作曲する(compose)とはcom(一緒に)+pose(置く)だ。つまり、おもちゃの兵隊や鉄道模型をあれこれ並べて気に入る軍隊やジオラマを作る作業を「音」でやるという意味で音の建築に近く、対位法、和声法は構造建築工学に相当する理系的学習だ。ブラームスが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」と述べたのはそういうことだ。

ブラームスになくドヴォルザークにはあった重い経験がひとつある。子供を持ったこと、そして失ったことだ。長女、次女、長男を亡くした精神世界はそれを直接の動機とするスターバト・マーテルのみならず、レクイエムにも深々と投影されている。儀式典礼用ではなくプライベートな動機に発している点においてドイツ・レクイエムに重なる。ドヴォルザークがこの作品をどう見たかはわからない。ヤナーチェクに語ったとされる「ブラームスは神を信じない」という言葉が真実なら敬虔なカソリックの彼には異質なものだったかもしれないが、自分と同年代で作曲された大作を看過したとは思えない。

第3楽章を弾いていてひっかかる部分があった。これだ。

どうしても、これにしか聴こえない。

耳でもそう思っていたが楽譜でみると音価までぴったり同じである。言うまでもなくチェロ協奏曲の主題だ。ドヴォルザークはこれをナイアガラ瀑布にて着想したという。職業上、世間にはそう言ったのだ。なぜなら米国で書いた作品は出版前にブラームスに送られ、彼が校訂しており、「チェロでこんな協奏曲が書けるなら自分も書いたのに」と唸らせた。つまり、これを見たことは確実だ。むしろブラームスに見せる前提で、原曲で「mein Leben」(わが命)と歌うこの主題(第7楽章にも現れる)を無言のメッセージにしたというのが僕の仮説である。

ヨゼファ(左)とアンナ

この協奏曲は望郷の歌だ。そして彼はかつて愛した女性(ヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人)が重病との知らせをニューヨークで聞いていた。すべてを覚悟した彼は冒頭主題をドイツ・レクイエムに借り、第2楽章では彼女の好きだった主題(歌曲Lass’ mich allein)を歌い、そして、彼女の訃報をきくと、第3楽章に長いコーダを追悼としてつけ加えた。彼の妻アンナはヨセフィーナの妹だが、どれだけ姉を愛し、どれだけ幸福な時間を共に過ごしたかが涙をたたえて吐露されるのである。音楽は止まりそうになり、そして、何よりの証拠に、チェロのモノローグが “問題の主題” を静かに回想する。それは作曲時点からいずれ来る別れの日へ向けた、残された者への慰撫のレクイエムだったのだ。この協奏曲の主題が先住民インディアンや南部の黒人霊歌から採られたという米国の愛国者による愛すべき説を作曲家は否定している。ナイアガラ瀑布、あんなものはプラハにはない。故郷でもらっていた25倍もの瀑布並みの給料をくれた彼等への精一杯のリップサービスだったのだろう。

余談だが、ブラームスは「mein Leben」主題を愛してやまなかった別な主題から取ったのではないかと想像している。どなたもご存じのこれだ。

一度きくと頭にリフレーンする、クラシック音楽で最高のヴィオラ名旋律のひとつだ。彼はドヴォルザークの屑籠をひっくり返す必要はなかった。

第3楽章は、楽譜を見ながら音を聴いていただいたほうがいいと思う。サヴァリッシュ / ウィーン響、バリトン・ソロはフランツ・クラスだ。お示しした箇所は1分40秒である。その後も、フーガまで「mein Leben」主題が合唱に、オケ伴奏に再三現れることをご確認いただきたい(3分38秒でTimを伴って爆発)。

ドイツ・レクイエムの初演は3回行われた。1回目は1867年12月1日にウィーンで最初の3つの楽章だけ、2回目は1868年4月10日にブレーメンでブラームス自身の指揮で第5楽章を除く6楽章、3回目が1869年2月18日にカール・ライネッケ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による7曲全曲である。

1回目の指揮者はシューベルト「未完成」および、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」のウィーン初演を指揮したウィーン楽友協会合唱団の創始者ヨハン・ヘルベック(1831-1877)である。このビデオの合唱団であるWiener Singvereinがそれであり、ハンブルグ・フィル指揮者ポストの落選事件で翌1863年にブラームスが指揮者に就任したのがそれである。

1回目の初演は失敗だった。第3楽章でティンパニ奏者が楽譜の指示を読み間違え、フーガの持続二音(ペダル・ポイント)を強打して演奏を壊してしまい、聴衆は罵声を浴びせ、ブラームスの支持者ハンスリックまでもが「ペダル・ポイントはトンネルを通る列車の轟音のようだ」と皮肉なコメントをした(反対派の陰謀説もある)。

ピアノソロ+ティンパニという興味深いバージョンのビデオがある。バーデン・ヴュルテンベルク州立青少年合唱団は15歳から25歳の70人ほどが州内の学校合唱団、青少年合唱団、大学合唱団から集まり、ウィットサン休暇と秋の休暇中にそれぞれ1週間集まる。バーデン・ヴュルテンベルクの州都シュトゥットガルトはベンツ、ポルシェの本社があり、この曲ゆかりのバーデン=バーデン、カールスルーエもある。さすがご当地のアマチュア合唱団。立派な演奏である。

余談ながら、これで聴く限り終結部でティンパニが強打するが合唱がマスキングされることはない。初演の失敗はオーケストラの崩壊だったのではないか。とすると団員に予想外だったことになり、ティンパニストを巻き込んだワーグナー派の陰謀説もまんざらでもないと思ってしまう。

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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その4)

2025 OCT 4 11:11:34 am by 東 賢太郎

幼少のヨハネス・ブラームスが熱中するものがあった。ブリキのおもちゃの兵隊である(写真はイメージ)。並べて大隊を組成しては直し、飽くことなくまた組成し直す。母は「28才にもなって、大事そうに机にしまって鍵をかけてたのよ」と語った。この女性は男子の正しい育て方を知っていた。これが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」(友人G. ヘンシェル作曲の歌曲に対する助言)という作曲への完全主義に通じている。そして、それがあの交響曲やドイツ・レクイエムという大輪の花を咲かせるのだ。

そうやって育てられた男子は多いのではないか。僕の場合は鉄道模型であった。事あるごとに父にせがんでちょっと大きめのOゲージを買ってもらい、毎日嬉々として居間から台所に至るまで家中に線路を敷き詰めて走らせた。重量感を欠くHOゲージは無用だった。実物の車両の連結器の横にある重量のトン表示を綿密にチェックするほど「質量」にこだわりがあったからだ。それを与えるため客車の内部にはビー玉や石ころをぎっしり詰めずっしりと重くした。電動ではなく手で走らせることにリアル感を覚え、何時間でも這いつくばって飽きることなくやった。足の踏み場もなかったが母に文句を言われたことは一度も無く、ただ、7時前になると「パパが帰ってくるよ、叱られるよ」と言われしぶしぶそれを片付ける。完璧さを求めるため何度でも何度でも線路をつなぎ直してた。これが僕を完全主義にした。

ヨハネスは7才で前述のピアノ教師オットー・コッセルについて鍛えられた。「一度だけサボった日は人生最悪でね、帰宅すると父にバレていてこっぴどく叩かれた」と回顧している。10才でベートーベンの五重奏とモーツァルトの四重奏を弾いた公演を聴いた興行師が「神童だ。アメリカツアーをぜひ。莫大な富がはいる」ともちかけた。契約金に目がくらんだ父は即決。本気になって母の小さなお店を損してまで売ってしまった。ヨハネスは後年に「親父は愛すべき昔の男でね、単純で世慣れしてなかったんだ」と愛情をこめて述懐した。

コッセルはというと、仰天し、やめるよう全力で父を説得したが、貧困を脱したい父はきかない。ここは自分のヨハネスの才能への確信を示すしかないと、自分の師であった大家エドゥアルド・マルクスゼン(左)をひっぱり出した。これが効いて米国ツアーはキャンセルされ、ヨハネスは10才から18才までこのハンブルグ最高の教師につき、演奏技術と作曲技法に多大な教示を受け、ドイツ民謡と変奏曲への嗜好を継いだ。普通科の学校教育は受けたが音楽学校は不要だった。モーツァルトが父から学んだように二人の教師の教えをバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト作品など古典の独学で高みへ導いたのであり、後年にその集大成であったピアノ協奏曲第二番をマルクスゼンに献呈したことで感謝が伺える。完全主義の彼は自己の才能を信じ、それを発見し、信じ、共有することができた父、マルクスゼン、そしてロベルト・シューマンを讃えたのである。

師弟関係はアップグレードされたが出費は嵩んだ。ヨハネスは家計を補うため13才で父の仕事に借りだされ、深夜まで酒場でダンス曲を弾く激務に疲労困憊し、心配した両親は14才の夏にヨハネスを郊外の街ヴィンゼン(写真)にある父の知人ギーゼマン家に娘のピアノ教師として受け入れてもらう。この処置はヨハネスを救ったどころか、後年の趣味をも決定づける。温かく迎えられ、田園生活を楽しみつつ村の男声合唱団の指揮をして作曲、編曲をした幸福な日々はよほど心に深く残ったのだろう、後世までギーゼマンに深い感謝を述べ、合唱曲への止むことなき嗜好ができ、なによりこれが後年に夏のスイスやオーストリアの湖と森のある大自然の中で作曲する習慣になった(彼は23才まで海を見たことがない)。また、読書家の母の影響で文学に傾倒し、ギーゼマン家で後に作品33となる「マゲローネ」を娘と一緒に読んだ。その延長でハンブルグの運河の橋で売られる古書を収集して読み漁り、心を惹いた詩句、警句を書き綴った自選集のノートを「若きクライスラーの宝」と名づけた。15才だ。自らをなぞらえた楽士クライスラーはこれの登場人物である。

E.T.Aホフマン「牡猫ムルの人生観」

ヨハネスは終生ホフマンのグロテスクで不吉な世界に対する情熱を失わず、そこに潜むハイセンスな皮肉を愛好した。21才のとき(1854年2月27日)にシューマンが精神を病みライン川に投身自殺を図った直後に彼の主題を用いて「シューマンの主題による変奏曲」Op.9 )を書いた。この曲は意味深長で、前年に誕生日プレゼントとしてクララがロベルトに贈った同名曲の同じ主題(「色とりどりの小品 5つの音楽帳 第1曲 Op.99-4」)を「本歌取り」のごとく使用している。シューマンも “ムル” に心酔し、クライスレリアーナを書き、ダビッド同盟でオイゼビウスとフロレスタンに自己の内なる二面性を擬人化したが、ヨハネスはOp.9の各変奏にB(ブラームス)とKr(クライスラー)の符号をつけ、ムルの自伝に闖入するクライスラーのページに対応させており、それは自分に審判を下す「もうひとりの自分」(ドッペルゲンガー)の苛烈な箴言のように響く(第5、第6変奏)。

Bは{第4、第7、第8、第14、第16}、Krは{第5、第6、第9、第12、第13}

脳裏にクライスレリアーナが響かないだろうか。シューマンがクララ・ヴィークと狂ったような恋に落ちて書いた曲が。結婚を拒絶する父を慮ってクララが献呈を受けることを断ったほどダイレクトな狂気に満ちた恋情がオイゼビウスとフロレスタンに託される。21才のヨハネスはそれをB(自分)とKr(クライスラー)に置き換え、巧みな変奏技法で糊塗し、この作品をシェーンベルクは「ブラームスの最も完璧な作品」と讃えた。これが「ブリキのおもちゃの大隊」の結末でなくて何だろう。同年にこれと4曲のバラードを書いて以来、彼はOP.11のセレナーデ第1番(1858年)まで新作を書いていない。1854~1857年にピアノ協奏曲第1番を構想していたこともある。しかし、Op.9を出版した54年の11月にクララと Du で呼び合う熱い仲になっていたことこそが主因だ。シューマンの投身事件後、いよいよ「レクイエム的」なスケッチを書き始め、現在の第2楽章(「Denn alles Fleisch…」)、第4曲(「Wie lieblich…」)の動機がすでに部分的に存在していたとされるのは大変に興味深い。来たるべきシューマンの葬送とクララとの家庭・・・深層心理にあってもおかしくはなかろう。

その1954年6月11日にクララが生んだ末子フェリックス(左)がブラームスの子という説がある。仮にそうとすると受胎は前年9月頃で、初めてシューマン宅を訪れたのが8月だから否定派が多い。とすると、この子にクララがユダヤ人メンデルスゾーンの名を与えたのはヨハネス由来でないのだからシューマンがそうだということにならないか。ともあれクララは「隣にいる可愛い我が子を見るにつけ、病気によって夫が愛するすべてから遠ざけられ、この子の存在も知らないなんて胸が張り裂ける」と手紙を書きつつ、家賃の安い地区に引っ越す計画を立てた。まるで新しい所帯を持つ決心をしたかのように。そしてヨハネスもそれを親身になって助け、まるで遺品整理をするかのようにシューマンの書斎を整理して楽譜や文献を読める喜びを友人アルベルト・ディートリヒに書き送っている。Op.9はここでクララに贈られるのである。ブラームスのクライスレリアーナ。意味深長だ。

ところが、もはや絶望の容態と思われたシューマンは小康状態を取り戻し、あろうことか、問題のOp.9を賞賛する謝辞がとどく。驚いたヨハネスは気まずげに謙虚な返信をし、病院に彼を訪問し、ピアノを弾いて聞かせる。 梅毒は症状が出たり消えたりを繰り返すが、細菌やウイルスが発見されていない当時の人はそんなことは知らない。やがて病状は再び悪化し、それを見届けたヨハネスは演奏旅行に出たクララに「君を死ぬほど愛してる。涙でこれ以上はいえない・・」と師への複雑な思いに抗いながら熱いラブレターを書くのだ。12月5日だ。クララがハンブルグで演奏会を開くと知るや汽車に乗って急行し、彼女を両親に紹介までしてしまう。結婚の意思表示でなくて何だろう。クララは両親とうまくいき、「素朴(simple)だがちゃんとした(respectable)人たちをどれほど家庭的と感じたか」と書いた。ここまではよかった。しかし彼の精神は恩人の回復を望む自分と、クララを得るため死を望む悪魔のドッペルゲンガーのとの闘いに苛まれていたのである。

二人はすぐ両親のもとを去り、デュッセルドルフへ戻ってしまう。生まれて初めてXmasをハンブルグで過ごさなかったことに両親は当惑し、師のマルクスゼンは激怒した。ヨハネスの頭にはシューマンがあった。人気者であるクララは演奏旅行を続けたが、ヨハネスはシューマンを訪ねてはピアノを聞かせ、散歩させ、作曲は停滞してしまっていた。神童の名声を犠牲にしたこの義侠心とさえ見える感情は父にも見せたものだ。ところがクララはそれを見かね、彼を自分とヨアヒムとの演奏ツアーに引っ張り出す。女性はドライというか、まるで母親だ。ダンツィヒではクララたちとの室内楽で思惑通りにうまくいった。そこでいよいよ一人でライプツィヒ、ハンブルグ、ブレーメンの演奏会のソリストとしてモーツァルト、ベートーベンの協奏曲を弾く旅に行って来いと送り出す。しかし、これが良かったのか悪かったのか、大ピアニストのルービンシュタインに凡庸だと酷評されてしまうのである。

とうとう彼は決定的な鬱状態に陥ってしまう。「愛しているが自己否定がある」と、まさにゲッティンゲンでアガーテに愛想をつかされるのと同様の言葉をクララに書いてしまい、彼女はここから先のヨハネスへの手紙を後に廃棄することになる。証拠物件がないのだから色々な見方があっていいだろうが、手紙1本でふってしまい痕跡を消したのだから四十女に振り回された22才の悲劇と見えないでもない。フェリックスは父親と同じハイデルベルグ大学に学び、ヴァイオリンを弾き詩を書いた。気をとめていたヨハネスは作品63-5「我が恋はみどり」、作品63-6「にわとこの木のあたりで」と作品86-5「沈潜」に付曲した。クララの日記によれば、作品63-5を1873年のクリスマスにクララの奏するピアノに合わせて当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムが弾いた。「彼に何も告げず、私たちが弾き、歌い出しますと、フェリクスは誰の歌かと尋ね、自分の詩を見ると蒼白になりました。あの歌もそして終わりのピアノの部分もなんと美しいのでしょう!」

後のこと、結核を病んでおり、フェリックスの命が長くない事がわかっていたヨハネスはヴァイオリンのメロディを24小節作曲して、その楽譜をクララに送る(ヴァイオリン・ソナタ第1番第2楽章になる)。

「あなたが裏面の楽譜をゆっくりと演奏されるなら、私があなたとフェリックスのこと、彼のヴァイオリンのことをどれほど心底思っているのかをあなたに語ってくれる でしょう。でも彼のヴァイオリンは鳴り響くのを休んでいます―」

この手紙に対するクララの返事にはフェリックスが亡くなったと書いてあった。

24才の訃報にヨハネスは打撃を受けた。同年作曲のヴァイオリン・ソナタ第1番第1楽章第2主題(1分32秒)にエコーしているのは「ドイツ・レクイエム」第2楽章の中間部(変ト長調、第75小節~)であることを指摘したい。

この部分のレクイエムの歌詞はこうだ。

かく今は耐え忍べ、愛しき兄弟よ、
主の来たらんとするときまで。
視よ、農夫は待つなり、
地のとうとき実を。
また耐え忍ぶなり、
朝の雨と夕の雨を得るまで。
かく耐え忍べ。

(新約聖書 ヤコブの手紙 5:7)

これは死者を送るかのようなこの歌詞の後に続く。

はみな、草のごとく
人の光栄はみな
草の花のごとし。
草は枯れ
花は落つ。

「主の来たらんとするときまで耐え忍べ」という。死と戦っていたフェリックスに向けた祈りのようにも聴こえる。しかし、6年前の誕生日に贈られクララが好きだった第3楽章「雨の歌」冒頭のリズムが第1楽章冒頭にもなっているということは、亡くなってから書かれたのだ。レクイエムの引用なのだから・・・

その第2主題が初出したあたりで立ち昇る、差しこんだ眩い陽の光に胸が躍り、香しく若々しい、未来への夢に満ち満ちた情感。幾度耳にしても悲しい。クララはブラームスに宛てて「私の心はあなたへの感謝と感動に高鳴っております。そして心の中であなたの手を握ります」「このような音楽こそが、 私の魂の最も深く柔らかいところを震わせま す!」と書き、この作品を(フェリックスのいる)天国に持って行きたいと語った。

ドイツ・レクイエムの第1、2楽章は28歳(1861年)に書かれた。第2楽章が形になり始めたのは母が亡くなった1865年から。67年にウィーンで第1〜3曲の初演をしたが失敗。翌年、ブレーメン大聖堂にて6楽章版(第1〜4、6、7)を演奏して大成功をおさめ、この演奏の後、ブラームスは母を思ってもう1曲を追加することを決意。それが前稿にしたチューリヒ(フルンテルン)で書いた第5楽章で、全7曲の現行版が完成し1869年に出版された。人間的体験と完全主義の合体が、この大名曲を生んでくれたことを音楽の神様に感謝しなくてはならない。

第2楽章はティンパニが運命リズムを刻む葬送曲で始まる。中間部の変ト長調、第75小節、天国の響きにどう転換するかは聴きどころだ。僕は古楽器オケが好きでないが、この曲は2台ピアノ、各パート1楽器のオケでも十分に聴けるので気にならない。モンテヴェルディ合唱団は非常に強力である。

62年録音の旧盤。若きサヴァリッシュがウィーン響を振る。ティンパニを強打し、質感はバッハ、ベートーベン路線の鉄のように堅牢で筋肉質な造りだ。ウイルマ・リップ、フランツ・クラスも立派なもの。全曲おすすめしたい。魂を癒すレクイエムが完全主義者ブラームスの書いた音楽であることを雄弁に物語る。耳ざわりの良いきれいな音を出そうなどという気は全くない。熱い。ウィーン楽友協会合唱団は粗さがあるが、初演当時はこういうものだったかと感じるものがあり興味深い。ライブで聴いたら打ちのめされていたろう。

ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その5)

 

 

 

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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その3)

2025 SEP 29 8:08:27 am by 東 賢太郎

ブラームスの生家

ヨハネス・ブラームスの伝記はドイツ語で読みたいが時間が足りない。バーデン=バーデンやハンブルグで買い求めた資料は訳文がなくまだ読破できていないが、ドイツ語原書の日本語訳、英米人による英語本、そして日本人による日本語本で手に入るものはほぼ読んだと思う。AIを使うとさらにわかる便利な時代になったが、それによってハンブルグ時代については一次資料が不足しており詳しくはわからないことも見えてきた。彼がエルベ河の埠頭に近いハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階(写真)で生まれたことは書いた。1905年、そこを訪れた弟子のフローレンス・メイは、「階段を上り、ブラームス家が住んでいた狭い部屋にはいった私は当惑と落胆で震えた」と伝記に書いている。いまはビル街に記念碑だけがぽつんとある、その空漠としたよそよそしさは何だろう。151曲あったと伝わる初期作品を彼はほとんど破棄している。これが「厳しい自己批判」だけの仕業だったのだろうか。もし自分だったら?「家族にとって百万もの不愉快があったその時代を消したかった」こともあろうかと想像したりもするのである。

偉人の伝記がどう書かれるかは興味深いテーマだ。画家や彫刻家は作品が語るが、作曲家、作家、学者は作品、著書という「紙」が語る。演奏家の名技は聴いた人の書いた紙から想像する。モーツァルトは父子の膨大な書簡集が、ベートーベンは会話帳があるが、それもまた紙だ。つまり、当時の音楽家にとって紙というものは商品にもなり、書簡の場合は後世に残ってしまう可能性のある、すなわち「自分の人生をどう後世に残すか」に関わる自画像の一部でもあった。だから、望ましくないものは焼いてしまう。モーツァルトはその気使いをせずベーズレとの行為が周知になってしまったが、都合の悪いものは焼却処分したコンスタンツェがなぜかそれは焼かず大作曲家の自画像の一部とした。ブラームスはほとんどの書簡を自ら処分したとされる。だから残っているものは自ら認めた自画像なのだが、結婚の気持ちが冷めた後、クララが彼の書簡を処分してしまったのでそれは完全なものとは言えない。

残っているのは、冷める以前の両人の赤裸々なラブレターである。伝記をロマンティックに読む人は、どこからどう見ても熱いそれによって、満たされぬ結末となるクララとの恋を重く見る。しかし、彼女はというと結婚の気持ちが冷めた後、彼の書簡を処分してしまったのでそれは実は「上書き」されていたはずであり、伝記として客観性ある視点ではない可能性がある。一般に(と僕は思っているが)、別れた相手を男はいつまでもうじうじと覚えており、女はあっさり忘れる。当時の彼は二十歳そこそこの世慣れぬ若者であった。恩師シューマンの影をどうしても踏み越えられず、うじうじする結末になったわけだが、クララはアガーテに気が行った彼を見てあっさりと冷めた言葉を残している。彼は彼で、年月を経てからは当のクララの娘までという数々の女性に恋心を抱いた男でもあったことで、両人の関係はバランスが取れるところに落ち着いたのであろう。

結婚にふみきれなかったもう一つの理由は両親の関係にある。Paul Holmes著、BRAHMS his life and timesによると、落ちぶれてはいるが地方貴族の末裔だった母は上昇志向のある父にとって欠点を補って余りある存在だった。それが、恋仲だった同年輩の女性とのお似合いの結婚ではなくアンバランスな方を選択させた。その甲斐あって、同年に父はハンブルグの市民権を得ており、ヨハネスは自らの出自の証としてそれを誇らしいと語っているが(Max Kalbeck『Johannes Brahms』)、後にクララに「僕はハンブルグ市民でなく、小市民の息子だった」とも語った。実は小市民ですらないという真の出自へのアイロニーにも聞こえる。この “ルサンチマン” は根深かった 。ゆえに作曲家として頂点を極めることがレゾンデトル(自己存在認証)であるという道に入りこみ、抜き差しならない斯界の高みにまで登ってゆき、孤高の登山家のような人生に足を踏み入れてしまった。家庭には憧れた。しかしそれに足を縛られたり、連れ子の父親になるような重荷を負っては目的は成就できない。ゆえにアガーテは去り、クララは親友か母親かという存在にならざるを得なかったのである。

ひとことで括れば、彼は自分の出生に関わる複雑な認知的不協和を抱えて生きた人だったということになる(参考:マルクスとブラームスの自己同一性危機 | Sonar Members Club No.1)。自ら打ち建てた自画像どおりの大作曲家になった、そのことに僕は形容のできない尊敬の念を懐かずにおられず、そうするしかない生い立ちの中で究極の努力を重ねて最高の幸せを得たのだと信じたい。そのおかげで、我々は、複雑な感情の不協和の中に慎みと秩序がありながら、渋みと悲しみと淡いロマンの入り混じった、彼にしか書けない音楽を持つことができたのだから。『ブラームスをきく』というのは、なんという含みと味わいのある言葉だろう。フランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き?」は彼なくしては構想もされなかったろう。レクイエムを「ドイツの」ではなく『人間の』(menschliches)でも構わないと語った彼は、宗教的信念に関係なく、すべての生ける者に慰めを提供したいと願った。ドイツ・レクイエム第3稿では、彼自身がいみじくもその作曲にあたって採った「人間の」という立場の由来について、彼の家族に関わる視点から述べてみたい。

前稿にもふれたが、父ヨハン・ヤコブ(1806–1872)はハイデの宿屋の次男だ。ハイデという街はハンブルグの北105キロ(鉄道で1時間半)にあり、現代の人口2万と東京から見れば熱海(105キロ、人口3万)程の距離と規模である。漁師、大工の家系にして音楽を志し、両親は反対すると家出もしかねない情熱に負け音楽学校に学ばせている。19才でハンブルグに出て街頭や猥雑な酒場のバンドで演奏をした。この写真を見て、僕は自信家で弁舌に優れ、構想力・思索力よりも、野心に満ち、行動力、対人能力、発信力がある人物との印象を強く懐く。何で成功するかといえば機を見て敏なる商売人か。ヨハネスにその印象は薄いが、彼はその血を引いている。

19世紀のハンザ都市は中世の世襲身分である大市民が支配しており、流れ者であるヤコブはまず音楽家ギルドに所属し、コントラバス奏者として洒落た貴族サロンの六重奏団に加わり、軍楽隊のホルン奏者として上級歩兵に擬せられる地位になる。能力があった。だから息子の楽才を幼少にして見ぬき、友好関係を築いていた音楽人脈から最高の教師を選び息子の将来を託すことができた。商才はそこに発揮されたのである。そうした父の出自にまつわるプロフィールはヨハネスが作りあげた自身のイメージとは似つかぬものだが、だからこそ僕は大方の伝記が通説として語る彼の人物像に些かの違和感を懐くのだ。

E_Remenyi_and_J_Brahms

「ハンガリー舞曲集」は酒場で弾いていた父の系統の音楽だ。彼はエドゥアルト・レメーニにジプシー音楽を教わって20才でドイツ各地を演奏旅行する。港町ハンブルクはハンガリーからアメリカへわたる移民たちの拠点でアメリカ楽旅の出航地であり、レメーニもハンブルグに立ち寄り、ティーンエイジ最後のヨハネスと知り合い意気投合したのだ。レメーニはウィーン音楽院に学んだハンガリー系ユダヤ人で、コシュートの革命に加わった疑いで追い出され放浪楽師となった男だ。そのジプシー音楽はヨハネスの心をとらえた。ヨハン・シュトラウスのワルツなど、彼には父由来の大衆音楽、しかもユダヤ系のそれへの嗜好があった(シュトラウスもユダヤ人である)。音楽を生活の糧とする実利主義も父由来で、「ハンガリー舞曲集」の楽譜は大いに売れ、レメーニに盗作と訴訟されるに至ったが、幸いにして楽譜に「編曲」と記していたためヨハネスが勝訴している。ちなみに、ウィーンに出たのち、後進のドヴォルザークに目をかけたのは肉屋の子という下層の出自への共感もあると思われ、経済的援助も視野に入れ紹介した出版社ジムロックが同類の「スラブ舞曲集」を書かせヒットしている。人間ブラームスの素顔だ。

上掲のアパートで授かった三人の子供のうちヨハネスは二番目で、姉エリーゼ弟フリッツがいた。後に彼は「姉とは似た所がほとんどなく、弟とは付き合いがなかった」と語っている。偏頭痛もちで病弱だったエリーゼは音楽の教育は受けられなかったが、母は愛情をこめて「太った愚かな農民」と呼び、両親が別居してからはヨハネスが彼女の生計を助けた。夫を亡くしたクララと子を慰めるためヨハネスはライン地方からスイスへ旅をするが、同伴したのが姉エリーゼだ。40才で時計職人と結婚してもうけた子供は生まれてから数日後に死亡した。ウィーンに出て大作曲家になった弟を誇りに思い、送った200通もの愛情がこもった書簡はエリーゼが1892年に亡くなるとヨハネスに返却された。他のほとんどの書簡を処分した彼は、それだけは燃やさなかった。

フリッツは兄と公平に扱われ、父親はオーケストラ奏者にしようとハンブルク・フィルのコンサートマスターに学ばせたが挫折した。ヨハネスが終生感謝した名教師たち(オットー・コッセルとエドゥアルト・マルクセン)にピアノを習い、自身も教師にはなったがクララ・シューマンはテクニックはあるが演奏は退屈と評した。フリッツと姉は、昔の女と浮気した父を批判して母の味方についたが、ヨハネスはどちらの側でもなかった。母の没後に父が再婚した女性とも良好な関係を築き、フリッツが晩年に健康を害すると経済的な援助を惜しまなかった。人間ブラームスの真骨頂だ。

父ヤコブの性格は、たまたま泊まった雑貨屋の親類で裁縫師をして生計を立てていたヨハンナ・ヘンリカ・クリスティアーネ(1789-1865)に知り合って、わずか1週間でプロポーズしたことに見て取れる。この求愛はロマンス小説とは程遠く、クリスティアーネ自身が「年齢がちがいすぎるので信じられなかった」と亡くなる直前にヨハネスへの手紙で述懐している(筆者注:17才年上)。ベートーベンの伝記作家ヤン・スワフォードによる「彼女は小さく病弱で、片方の足が短く、魅惑的な青い目をしていたが顔は地味な41才の女性」との記述がある。写真を探してみたがこれしかないようであることからも、ヤコブとの運命の出会いがなければ、第2子が生まれていなければ、後世が知ることはない女性だった。敬虔なプロテスタントであり、粗末な家を鳥籠や草花や装飾で明るく彩り、才能ある料理人であり、明るく前向きな女性だった。特筆すべきは思慮深い読書家でもあり、当時の女性としては秀でた読み書きの力があったことだ。息子への書簡がそれを物語る。ヨハネスの楽曲にみる、どんなに熱を持っても常に趣味が良い情感、滋味、重厚で深みある精神性とロマンのバランスは母に由来しており、この母なくして彼が巨匠になることはなかったと僕は思っている。

1853年6月、二十歳になってレメーニと新天地を求める楽旅中の息子に送った「今あなたの生涯が本当に始まったのです。ハンブルグで一生懸命蒔いたものを刈り取るのです。あなたの時が来ました」という、他人の僕さえ打ち震える母の言葉は息子の人生を決定的なものにしたと確信する。二人は常に深い愛情の絆でつながっていた。ハンブルグで一生懸命蒔いたもの。それは彼にとって思い出したくもなく、ウィーンで通用するものでもなく、みな破棄してしまった作品なのだが、養分はヨハネスの中にたっぷり残っていた。それを刈り取って10年もたったとき、母が天に召された。弟フリッツから「私たちの母にもう一度会いたいなら、すぐに来てください」と電報がありハンブルグに急行したが、母は脳卒中ですでに亡くなっていた。ショックだった。その喪失感が「ドイツ・レクイエム」という大輪の花を咲かせることになり、シューマンが初対面で激賞したヨハネスの楽才を楽界に証明する最初の作品となった。このエピソードは、自分が就職するとき、それまで一度もその類いの会話をしたことがなかった母からまさに同じような言葉をもらったことと心の深い深い奥底で共鳴する。だからどんな辛い目に遭っても負けずに、強く乗り越えて来られたと思っている。

「ドイツ・レクイエム」第4楽章はこう歌う。

いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、
万軍の主よ!
わが魂は求め慕う、
主の前庭を。
わが身と心は喜ぶ、
命の神の御前で。
幸いなるかな、なんじの家に住むものは、
なんじをつねに讃えまつるものは。

「なんじのいますところ」、それはフローレンス・メイが当惑と落胆で震えたハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階である。「なんじの家に住むもの」、それはヨハネス自身である。

前稿に書いたように、僕はこの楽章の出だしを聴くと、物心ついてから中1まで住んだ和泉多摩川の団地の、日が燦々とさしこむ6畳の居間の光景が浮かんできて涙を抑えられない。母は草花や手芸で編んだ装飾や皮細工で彩ってくれ、小鳥と黒猫を飼ってくれ、そこはいつも明るく気持ちよく、幸せだった。ヨハネスがそのような思慕をもってこの楽章を書いたかどうかはわからないが、歌詞の選択からそうだったと確信する。それほど僕はこの音楽に反応してしまう。大曲の中で最も短いが、一番愛するのはこの楽章である。前から数えても後ろから数えても4つ目。7つある楽章のど真ん中に彼は母をすえたのである。

ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。素晴らしい演奏だ。バレンボイムのロマン派というと、まだ彼が39~40才だったフィラデルフィアでのリストのロ短調ソナタが忘れられない。リストの代名詞である速くて名技的なところではない。ひそかに沈静していくコーダの漆黒の闇だ。弾き終わった彼は魂の抜け殻のようで、なんというピアニストかと思った。

ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その4)

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読響定期 マーラー交響曲第7番 ホ短調

2025 SEP 27 13:13:11 pm by 東 賢太郎

第651回定期演奏会

2025 9.25〈木〉 19:00  サントリーホール

指揮=ケント・ナガノ

マーラー:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」

 

15分前にあわただしく席についてプログラムを開く。まいった。同じことが7年前にもあった。そしてこれを書いた。2018 FEB 11とある。ここまでクラシック音楽をボロカスに書いたのは我ながらさすがに珍しい。

マーラー 交響曲第7番 (N響定期)

この日の7番、ひとことで言おう、大変な名演であった。帰りぎわ、興奮冷めやらぬ中、「この曲は大嫌いで今日初めていいと思いました」とD氏に語る。ケント・ナガノは欧州で機会がなかったように思う。なにかきいたろうか思い出せない。巨大な交響詩というマインドでのぞんだのも良かったかもしれない。存外面白い。楽器はギター、カウベルまで色々出てくるし場外のシアターピース効果もありゴージャスなもの。そういうものこそ、「だから何だ」と思っていた。その路線でこの水準まで達したのは人類史でマーラーとR・シュトラウスしかいないことはこれだけのオーケストラ演奏でないとわからず、ザルツブルグでカラヤンとウィーンフィルで聴いた「ばらの騎士」以来か。管弦楽法の綾は9番を予見し、並の演奏だとそれらがごった煮で散漫になる。なによりまず筋がぴんと通って強い説得力がある指揮が圧倒的だ。オケの底力を解き放った、これだけのものは中々接するものではない、浅薄な世の中に久々に黒光りするホンモノが現われて安堵すらもたらす域に在る。読響も素晴らしい。日本が誇るワールドクラスのオーケストラである。

もうひとつ、出だしから、あれっと思うことがあった。耳が良く聴こえる。そういえば上掲のN響のあたり、読響の「バルトーク青髭公」で耳に異変があった。高音の ff で鼓膜がびりびりいう感じがあり危機を覚えたが、読み返すとその稿に言及はない。よほど怖かったと思料。 2017 APR 16とあり、母が亡くなるひと月前だ。何かが起きていた。それ以上の悪化はなかったがそのままだったんだろう、それが常態化し、忘れていたと思われる。上掲の7番はそのさなかだった。

ところが、この日、サントリーホールでこんないい音は初めてだとびっくりしたのだ。オーディオなら2段階ほどグレードアップしたかの如し。読響が素晴らしい演奏をしたことは相違ないけれど、どうもそれだけではない、各セクションに鮮やかな色彩があり、古びた油絵を洗浄したかのようだ。

もしかしてだが、3月から使用している某医療器具のせいかもしれない。そいつは水を細かく分解し血液をサラサラにするから末端の毛細血管が蘇生する効能がある。鼓膜のあたりでそういうことがあったのか・・。

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