書いておきたいプロ野球雑感④
2025 JUN 12 2:02:41 am by 東 賢太郎
千葉ロッテマリーンズのもと4番打者、畏友のサブローが交流戦から一軍ヘッドコーチに就任した。実にめでたいが、たまにメールする僕としてはカープ戦は困るではないか。目下のところロッテは最下位と低迷しているが新陳代謝の時期にあると見ている。ちなみに今日のカープ第2戦、オーダーはこうなった。
2番 寺地 2年目(明徳義塾 24年ドラ5)
素晴らしい素材だ!ハーンの剛速球を打ったセンター前など並の打者でない。捕手だが阪神の近本ぐらい打つようになるか。キャッチャーとして佐藤とどっちが上かはわからないが、何せ20歳だ。
3番 池田 新人(習志野高 国士舘大、新人 ドラ2)
4番 山本大 2年目(開星高、2020年育成3位)
どっちもサブロー好みだなぁ。安田がクリーンアップを打たなくてはいけないが、このままだともうお前いらなくなるぞってことだろう。愛斗もいるしね。
もしも、この3人が、阪神の近本、森下、佐藤輝みたいになったら、またロッテの黄金時代が来るかもしれない。その頃に新球場ができてればドンピシャ。
唐川投手。36歳。12球団で最も投球フォームが美しいピッチャーだ。若い子は真似た方がいい。4点取られて負けたがカープが打てるってことは球にパワーがない。しかし元々そういうピッチャーじゃない(だから好みだ)、ちょっと球の伸びが落ちたかな、力いれない球はそう見えた。研究して頑張って下さい。
ライオンズ戦、カープは3つ勝ったが相手では長谷川選手だね、打席の構えが実に嫌だ。こういう感じは新人の時の阪神の大山にあった。カープの打線の波は救い難い。このカード第3戦で10点取った次のロッテ初戦はあわやノーノーの1安打。球威あるピッチャーが出てくると力負けしてほとんどいいあたりが飛ばない。速い球が打てないと変化球も打てないんです、と王貞治さんは言っている。
今日は勝ったけど坂倉はひどかったね、暴投はするわ、見逃しゃ一死満塁なのに高めのクソボールを凡打するわ、次の落とされた空振り三振なんか全然目がついていってないよ。君がだめだと勝てないんだ、頑張ってくれ。カープの打者は引きつけられない。差しこまれるので始動が早く、体が前に動き、外角に落とされて三振。大竹みたいな投手には手玉に取られて前後に崩され手も足も出ない。馬鹿もほどほどにしろだ、もっと頭使えよ。左打者はへっぴり腰でチョンと流してまっしぐらに走る、いわゆる「当て逃げ」。そんなの相手ピッチャーは怖くもなんともないと思うよ。これが芸でいいのは矢野ぐらい。せっかくいいのを連れてきたファビアンとモンテロ、珍しく協調性がありそうないい奴らだけに当て逃げを修得しないか不安で仕方ない。今日は唯一、中崎の球威が戻ってるのが嬉しかった。
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長嶋茂雄さんと重なったあの17年
2025 JUN 9 15:15:17 pm by 東 賢太郎
長嶋茂雄さんが現役だったのは1958~1974年の17年間だ。これは自分が物心ついてから大学に入学するまでの期間に相当する。その17年がどんなだったかというと、クラスで一二を争うチビでケンカも弱く、勉強は何らの興味もなくいい加減で教室の記憶はほとんどない。劣等感の塊で中学まで良い思い出がなく、書きながらあれが俺かと思うぐらい虚弱で影の薄い子だった。何があってこうなったかというと、思い浮かぶのは野球ぐらいだ。好きで好きでとことん没入してしまい、気がついたらその17年がたって劣等感は吹き飛んでいたからだ。
最近よく人にいうのだが、「俺はツキだけなんだ。はっきりいって能力はぜんぜんたいしたことない。でもツキだけはあったんだ。自分の力じゃないからね、たぶん、誰かが後ろに憑いていて助けてくれてる」。こうまじめに言うのだからぶっ飛んでると思われてるだろうが全然かまわない。だってほんとにそう思うわけであり、どう思われようがなんだろうが、あるがままに「後ろの人」におまかせした方がベターということなのだ。17年の色々もそういうことだったと思う。
野球への没入がどこから来たか?それもよく覚えてないが、毎日8時からテレビで見ていたのがそれしか放映されない巨人戦だったことは間違いない。カープファンになったからONは天敵で大嫌いだったことも間違いない。見始めたのはV9のはじめごろで巨人は本当に強くて憎たらしく、念力を送ってでも負かしたいと熱望していたことも間違いない。この「憎たらしい」という強烈な感情が野球への情熱を呼んでいたのではないか。
といって、アンチ巨人でもない。それは巨人ファンの一種だが、巨人見たさでテレビを毎日見たわけではなく、愛していたのは「プロ野球」というユニバーサルなものだ。だから行ったこともない遠隔地の広島カープを何の違和感もなく応援できた。当時、森下仁丹のガムで「あたり」が出ると12球団旗がもらえた。小遣いをもらうたびにガムを買って大まじめに集めており、10ぐらいそろったが球団名は書いてあるから最後の2つあたりになると当たってもかぶってしまい、そのうち企画が終わってしまった。
この雑誌「週刊ベースボール」は小学生時代に細部に至るまで熟読・精読しており、選手や球団の事情を知ったどころか国語の教科書よりもこれで日本語を習得したのではと思うほどだ。このおかげで巨人が広島がというより名選手に憧れるようになり、ということは選手になってプロ野球に入りたいと本気で思っており、いわゆるひとつの熱い野球少年ができあがっていたことも間違いない。中1までクラスで一二を争うチビであったのにそう思えてしまう。それほどに当時の男の子にとって野球は魅力だったわけだが、僕にとってはそんな程度ではなく人生の本気の目標であり、それにはまず甲子園だと高校野球まで意識した。だから中3では野球の強い高校に入りたいと思いひとりで黙々と走り込みをしていた。もしそうしていればその17年はどうなっていただろう。落伍してグレたかもしれないが、体ができるまで試合に出られなかったろうから肩も壊さず、大学まではできたのではないかと思う。
ちょうどその17年間、プロ野球界で燦然と輝いていたのが長嶋さんだった。記憶に残るここぞの場面で打ちまくり、国民的スターの地位に登りつめていた。その独特な言葉までが話題になり、単なるマッチョでなく愛されキャラだったことも人気のうちだったが、僕は彼のビュンとかバーンとかいうオノマトペ(擬音)が変だと思ったことは一度もない。言いたいことが巨大だと通常のボキャブラリーを超える。それを使わなくても通じるのは普通のことだ。彼が伝えたいのは普通じゃないことであり、それを笑うのは普通の人なのだ。彼は普通の人であるお客さんを喜ばせるプレーを意識してやっていたようだが、オノマトペもそれだったかもしれない。
当時、人気絶頂だったON砲の長嶋派、王派がよく話題になった。僕は派というより長嶋さんに基本的な共感があった。というのは、後に証券マンになって、「こういうディールはピンとはねたらバーンとやんなきゃできねえだろ、なにやってんだこのボケが」なんて発言を僕は若いころ日常茶飯事のように部下にしていたからだ。当時の証券会社が体育会的職場だったことはあるが生まれつきそういう人間であり、怒ったのでなく部下を一人前にしたかった。昨今だって、たぶんこれ誰もわかってねえだろうなあというのがいくつもある。擬音は幼児のものだが、大人がボキャブラリーを超越したものをリアル感で伝える役にも立つ。それをわからせてあげたいという無報酬の情熱があるかないかに尽きるのであって、僕は「ある派」だから当然のように長嶋派だった。
結局、野球はだめで、というよりケガで突然奪われてしまい、人生最悪のどん底に落ちたのが17年の結末だ。真っ暗だった。大学にそこまでこだわる気はなかったがプライドを奪還できそうな手は他になく、初めて勉強に没頭した。そして長嶋さんが1974年に現役引退し、翌年、僕は合格し広島カープは初優勝をとげた。かように、人生のピースでど真ん中にあったのは野球であり、プロ野球選手になりたいという本気を馬鹿げているほどの年齢まで持てたというのが僕の個性であり、「後ろの人」の判断で僕は27才でニューヨークに呼ばれ、もとプロ野球選手たちと対戦し、MVPのトロフィーをもらって人生の帳尻を合わせてもらった。そう信じるしかない。
長嶋さんにお会いしたわけではないし、もとより熱烈なカープファンなのだからここに拙文をのせるいわれもないのだが、あの17年、彼の太陽のようにめざましい現役時代とぴったり重なった奇遇に手を合わさせていただいている。パフォーマンス(結果)に対するまっすぐな情熱があれほど人生をドライブしたような人を他に誰ひとり見たことがなく、野球はその内だっただけではないかとさえ思え、オーラは相手ピッチャーだけでなく日本人1億人を包み込んでしまう。そのひとりになれ、最悪のところからやる気を出させていただいたことには感謝しかない。心よりご冥福をお祈りします。
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不思議なアリスの国の米騒動の不思議
2025 JUN 2 11:11:45 am by 東 賢太郎
小さいときに覚えてるのはパン屋、肉屋、八百屋、コロッケ屋ぐらいで、米屋は記憶にない。自分で買ったことないし、どこで買うか知らないとマッサージで言ったら驚かれてしまった。いい所のボンじゃないよ、団地の子だ。お袋が九州の家風で男子厨房に入らず主義でさ、知らんまま大きくなってしまったと弁解してもだめだ、女性には通用しない。
江藤農水大臣の家に米は売るほどあったらしい。買う必要がなかったから自分で買ったことない、そりゃそうだろう。事実をしゃべっただけで辞任に追いこまれるとは思ってもなかったのが顔に出た。それがいい所のボンに見え、マリー・アントワネットだと追い討ちされてしまう。政治家も大変だ。買ったことないより空気を読めない方がもっとまずかったが後の祭りだ。自民党×世襲=悪という空気はけっこう危険水域に来ているのだろうか。
最近の政治はもう「不思議の国のアリス」状態に突入している。この映画、アリスがウサギの穴に落ちて次々とおかしなことが起きるが、10分もたつとだんだんその世界に目が慣れる。芋虫がしゃべろうがチェシャ猫(左)がニヤニヤ笑っていようが平気になっちまう。まさにそれ。でも「いつからこんな妙ちくりんな国になったんだ?」が元自民岩盤保守の本音だろう。世間では安倍さんのあれからという声が高まっているらしいが、それは日本のローカルな話で、僕はコロナで世界の株式市場がアリス状態になった時だと確信している。だからもっと前だ。これは半世紀ぐらい株式市場を観察してた者しかわからない。ヒントはアメリカの財政とドルだが、それだけ見ていても、いくらデータを取集してもわからないだろうから僕は絶滅危惧種になりつつあるかもしれない。
日本政界のアリス劇場は野球に例えるとこうだ。豪快な30失点で堂々の完投をして見せた監督兼自称エースのキッシー投手。お次は史上初の女性、サナエ投手と大多数のファンが期待したが、メンバー表には万年ベンチで味方にヤジを飛ばしてたイッシー投手の名があった。彼は直球は投げられない。変化球しか投げないがその球も遅い。「初回に打たれたら責任を取る」と豪語していきなり満塁ホームランを食らうが、それは嘘だったことが発覚する。延々とマウンドに立つが球団も監督もなにもしない。今の今まで投げていて、もう失点は20だ。ところが、いったい何があったんだろう、ある回から敵方である野党球団のバッターまでわざと三振しだしたのだ。球場の総意としてイッシー投手を交代させたくないのである。スタンドのファンは唖然としているが「なんだこりゃ、八百長試合か?」「金返せ!」のヤジも罵声も飛ばない。飛ばしたところで「ルールに違反はございません」と冷たいアナウンスが返ってくる、かどうかは知らないが、たぶんそうだろう、いや、へたすると「お客様、他のお客様の観戦のご迷惑になりますので」なんて退出させられるんじゃないかという空気を感じて黙っているのだ。
しかし、自民チームの古参のファンでごったがえす居酒屋「俺はジャイアン」ではそうは問屋がおろさない。「野党は7月決戦もイッシーに投げてもらいたいんだろ、そうはいかないぜ」の声でもちきりだ。「そのうちサナエさんが動くさ、球団社長のアッソーさんがイッシーを降板させるよ」。すると、バタンと音がしてドアが開いた。息をきらせて入って来たチェシャ猫が叫ぶ。「みんな聞け。わざと三振してもらってるのは自民のヤマモリ監督だ!」。「なんだと?敵将のドジョウと裏でツルんでるのか!」すると、三月ウサギと帽子屋も入って来た。「皆さん、ヤマモリは右ききの選手を追い出して左ききと左巻きだけの球団にするらしいですぞ」「うぬ、そういう作戦だったのか」。気がつくとそこはネムリネズミの終わることのないお茶会の場であった。
大騒ぎのなか、壁にスクリーンがスルスルと降りてきて、三月ウサギが「とざいと~ざい!」と映画の上映を始める。
なんだこれは?米がないだって?ただでさえ重い年貢で民が飢えておるのに怪しからん、おかみは何をしておるんじゃ、ええい、一揆じゃ、蔵を壊せ壊せ、皆で打ちこわしじゃあ!!!
いかん、お国の一大事だ!
「こういうときは?」
帽子屋がそっと尋ねる。
しばらく静かだったアリスがこともなげに答えた。
「そりゃこの人でしょ」
「ちがうちがう、これはあっちの話だろ」。帽子屋がかぶりをふるとチェシャ猫が憮然とした顔で答える。「そうか、ここは日本だったっけ、なら『月光仮面』だよな、こっちだってちゃんとおじさんが変身するんだからな、負けてないぞ」
「猫くん、前から思ってたんだが、きみはやっぱり時代遅れのようだね。残念だが月光仮面はもう古いんだよ。新しいのが出たんだ、これを見てくれたまえ」。帽子屋は得意満面に笑った。
う~ん、す、すごい。どっちもやけに短いし、マイナーキーでうら寂しいところが何とも言えないが・・・
「みんな、見たか、キッドだよキッド。この人が米騒動をおさめ、われわれ日本国民に安いおコメを届けてくださるんだ!」「キャーかっこいいー!」「キッドか、なるほど、これぞ神様仏様じゃないか!みんなで拝もう!」「ほんとうね、正義の味方なのね」「それなら年貢が少しぐらい増えても大丈夫そうだ!」
「でもどこの誰かは知らないけれどなんて寂しいわ、キッドさん、お名前は何ておっしゃるのかしら?」
「諸君、知りたいのかね?困ったね、本当は教えちゃいけないことになってるんだが・・ええい、仕方ない、教えよう、でもここだけだよ、絶対に誰にも言っちゃだめだよ」
「もちろんよ!!」
「コイズミ仮面、おっと、ワタクシとしたことが、それは親父だったね、息子のほうなんだ、だからKIDなんだ、コイズミ・キッド!」
「なんと、あの人だったのか!」
「キッドさん、ステキ❤️、ワタシもう総理大臣に投票しちゃうわ」
「あのね、キミは総理は選べないの、議院内閣制だから」
「なんでよ、ケチ、そんなのいいじゃない」
「ケチとはなんだ、この**!」
「悪かったわね、アンタ、じゃあ大声でしゃべっちゃうもんね、ナショナル・キッドはすんじろーだって」
「でも、日本国民にマスクを届けてくれたのも思い出すわね、安っぽくて評判悪かったけど、あれなんていったかしら?」
「アベノマスク」
「そうそう、あれとおんなじにならないかしら?」
「いやいや、そうじゃない、安倍さんは三世、すんじろーは四世、だからこっちが偉いんだ」
「そうか江藤大臣は二世だったな、一世足らんかった、惜しかったな」
チェシャ猫かと思っていたら、いつの間にかうちのシロ先生になっていた。アンタも馬鹿よねえといつも笑われてるので先生になってる。

先生のご宣託が下った。「皆さん、世の中おわかりになってない、野球の新ルールをご存じないのね。ピッチャーはね、打つ方のチームから出すんです。もちろん後ろの野手はぜんぶ相手チームですけどね。味方のバッターに打ちやすいタマ投げてたくさん点を取らせたほうが勝ちなのよ。面白いでしょ?デッドボールでなぐり合いの乱闘なんてもう二度とおきないし人権を尊重して平和なのが人気でね、ベースボールじゃなくってピースボールって呼ぶ人もいます。だからね、わかったでしょ、日本のピッチャーは実はあちら様が決めてるの、キッシーもイッシーもあっちの人なんです」
(一同)「先生、なんと、そんなルールがあったんですか!!!」
「なるほど!キッシー投手はアメリカ戦で火だるまになって30点も献上してるのにヘラヘラしてバカヤローなのになかなか降板しなくって変だと思ってたんだ、俺たちは元のルールのつもりで見てて裏金けしからんだなんて自民球団に怒ってたんだ、辻褄があったぞ、納得だね」
「いえいえ、アメリカだってそうなのよ、で、トランプは気がついちゃったの。だから暗殺あぶなかったのよ、だって剛速球投げちゃうからさ」
「そうか、160キロのピッチャーなんてもう無用の長物なんだ。新ルールだと、ど真ん中に遅くて打ちやすいタマだけ投げれるのがエース」
「そうよ。つまり?」
(一同)「総理は軽くて馬鹿がいい」
「先生、すご~い、ということは、お次は?」
「もっと、もぉ~っと、すごいのがきて、50点ぐらいとられて打つ方のチームにほめられて一旗揚げるわよ。それにはお金がいるの、みんなの年貢は減らないの。あっ、取り巻き連中もいろいろオイシイのはいっしょだよ」
(一同)「ええい、ものども、であえ、であえ、コメじゃコメじゃ、米騒動じゃあ!!!」
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シューマン「詩人の恋」作品48
2025 MAY 29 11:11:57 am by 東 賢太郎
この作品の第1曲を初めて耳にしたのは17才だ。なぜトシまで覚えているかというとわけがある。その時は聴いた、というより体験したというべきで、ごくごく僅かではあるが音楽にはそういう禁断の実のようなあぶないものがある。その前奏は曖昧模糊で、調性もよくわからない。あてどもなく白ぽっい霧の中をさ迷う夢みたいで、なんだこれ、参ったなあ、やけにまとわりつくなあと感じ、その実、幾日か経っても不意に脳裏によみがえって憑かれていたような気がする。
それなのに、この作品を理解できたと確信し、心がふるえるほどの感動を味わったのは50才を超えてからだ。通常のクラシックファンとしてはものすごく遅咲きであって、なぜそんなに遅いかを皆様にご説明するのは簡単なことではないときているから困る。音楽がわからなかったというわけではないだろう。なぜなら、もうクラシック音楽を長らく聞いていたからだ。ドイツ語がまったくわからなかったわけでもなかろう。なぜなら、もうドイツ語圏で5年暮らしていたからだ。
長年働いた会社を辞めたのが49才だったというのは無縁でないかもしれない。あれは何やら見えない大きな力というか、天の力学のようなものによって運命の転機がやってきていたのだと思うしかない。ふりかえると心底よくぞ踏み切った、悪くない決断だったとは思うが、失う物もたくさんあった。かけがえのない恋人との別れもきっとそうなのだろうが、若き日から25年にもなるその会社とのご縁、ご恩、仲間、思い出がすっかり消えてしまう気がするのは辛かった。なんということをしたんだという後悔に苛まれたがそれは誰にも言えず、しばらくは強がってみせるだけの日々だった。
仕事は替えがあるが恋人にはないとおっしゃる方はおられるだろう。そう思うし、あまりにロマン派になれない自分が嫌になることもあるが、そのとき味わった喪失感は未曽有の重みであり、傷ついており、シューマンがわかったことは喜びというよりも慰められたというほうに近い。なぜなら、どうした経緯か元の会社に戻っていて、ヨーロッパだかアジアだか、どこだかわからない海外の拠点にまた勇躍と赴任してゆく夢を何度も見たからだ。そこでは、僕は、かつてそうだったように希望に燃え、胸を張って初日の出社挨拶を済ませていた。そしてまず第一にと、新しく住む家を探しに出かけている。それは自分がどうこうよりも、家内が喜んでくれそうかを必死に考えながらのことだ。
すると、いいのが見つかった。遥か眼下に流れの速い川を望む、高く切り立った崖の上に建つ、まるでお城のような家だ。すばらしい!轟々と流れる水が荒々しく岩にあたって砕け散る様を窓からじっと見おろしていると、どうしたことか、自分の意識だけが空中をするすると降りていき、川の中がはっきりと見えた。すると、黒くて獰猛な顔つきをした見知らぬ魚が、べつの魚を襲い、食いついて、腹わたを生きたまま食い荒していた。荒涼とした気分になって家の外を歩いていると、ざわついた人だかりの広場に出くわした。白人とおぼしき若い女性たちが楽しげに連れ立ってこちらを見ている。石畳の道を路面電車が走っている。線路を横切って道の反対にいくと、そこは市場かバザールのようだ。何かのお店のドアを開けて入ろうとしたところで、目が覚めた。
なんだ?これは夢か?いや、そうじゃない、だって俺は覚えてるぞ、たしかにどこだったかそういったことがあったじゃないか、それもヨーロッパだぞ、でもどこの国の店だったんだ?真剣に記憶をたどりながら動揺していて、理性が覚醒し、それは間違いなく夢だよと納得させるまで僕はそこの住人だった。詩心があればきっと詩を、楽才があれば音楽を書いただろう。ハイネの詩にインスピレーションを得たシューマンも、僕が見ていた夢のように、夢を描いたハイネの言葉の余韻の中からありありと中に入りこむことができ、予想もしない恋の展開が現実のようにのしかかってきて感情が鋭敏に反応し、そのいちいちで脳裏に浮かんできた音楽を書き取ったということではないのか。彼にはそんな想像がぴったりくる。ボンにある彼のお墓にクララも眠る。そこに友人たち、崇拝者たちが刻んだ銘にはGrosse Tondichterに、とある。「偉大なる音の詩人」、まさにそうだったと思う。
「詩人の恋」における「詩人」はハイネの主人公ではない、シューマン自身だ。それを知ったとき、すでに16曲のいちいちが耳に焼きついていて、聴くたびに自分もその気分に入りこんでしまい、シューマンと一緒に心が動揺しだした。この曲を聴くとはそういうことだ。ひとつひとつ短い文字にして追ってみたい。
まずは音をきこう。定評あるヴンダーリヒ盤ならあまり異論が出ないかと思うのであげておく。個人的な趣味でいうなら、ドレスデンのルカ教会で録音された若きペーター・シュライヤーの1972年盤になる。終曲を半音上げているのがどうかという原典主義の方もおられようが、シュライヤー37才、この作品には旬の年齢と思う。41才のノーマン・シェトラーによる心の襞に寄り添うピアノは筆舌に尽くし難い。
ヴンダーリヒ盤
シュライヤー盤
できればドイツ語でニュアンスをつかみたいが、テノール歌手・髙梨英次郎さんの日本語注釈はわかりやすいのでお借りする。
ひとつだけ僕の個人的関心事をあげておく。
第8曲のAm Dm B♭ E7 Am Dm6 E7 Am という和声(太字部分)は「子供の情景」(1838年)の「Der Dichter spricht(詩人は語る)」、7度をバスに置いた茫洋とした霧で開始し、あまり子供らしくない苦悩と煩悶を彷徨うかのような終曲の、唯一、決然と聴こえるカデンツであった。
シューマンが意図したかどうかはわからない。むしろ深層心理だったかとも思うが、これが本作にも現れる。それがどこかは後述する。
まず前座のご説明だ。このチクルスが「美しい5月に」(Im wunderschönen Monat Mai )で始まることを僕は何度でも強調するだろう。それほどにドイツの5月は美しく忘れ難い。まるで暗くて寒くて長い冬がうそだったかのように、まるでそれが廻り舞台で地上の楽園に忽然と模様替えしたかのように、野原には色とりどりの花が咲き乱れ、森は鳥のオーケストラで満ちあふれ、庭ではみなが夜まで陽気に唄い踊る。
第1曲。イ長調。Dmaj7- C#の虚ろなピアノが霧から立ち現れる。心はひとつも明るくない、5月なのに・・。それが5月だったから、去った後の悲しみは計り知れないのだ。僕は彼女に打ち明けた、僕の憧れと願いを。詩人はその言葉に、これからおきるすべての遠望への感情をこめている。行く手がみえないままひっそりと消えると、もう聴き手は物語の中だ。
第2曲は前曲で解決しなかった夢想を現実に置き換える。同じイ長調が明るい。ミからファ(サブドミナント)にあがり、眼前には希望しかない。
第3曲。ニ長調。喜びの象徴だったバラ、ユリ、ハト、太陽。それが彼女ただ一人に集約される。人生の絶頂。早口言葉のような歓喜の大爆発。
第4曲。ト長調。天上の喜びに浸りながらも心は静まっている。涙を流すのは頂点に不安の陰がさしたのだろうか。
第5曲。ユリの花が戻ってくる。彼女ではなく。ロ短調。キスに何を感じたのだろう??
第6曲。情景は不意にライン川に飛ぶ。ケルンの大聖堂が現われる。heiligenなる恋愛とは遠い言葉。暗くて重いホ短調。第2節の最後、Hat’s freundlich hineingestrahlt(友のような光を投げ入れてくれた)の後奏で和声が崩壊する!(1835年、シューマンを驚嘆させたベルリオーズの「幻想交響曲」。早くも第1楽章の最後にくるそれか)。聖母マリアの絵に見た恋人はもうイデーフィックスになっている。
第7曲。愛は永遠に失われ、それを分かっていたことが明かされる。でもそれがどうした。Ich grolle nicht!僕は恨まない!ハ長調!!やりきれない強がりを逆説にこめる。ひっそり悲しみと恨みが滲む。夢のなかに蛇が出た。僕は見た、君のハートを食い荒らして闇の穴をあけた蛇を!
第8曲はここでやってくる。
第1~3節は同じ伴奏による早口言葉の回帰。花、ナイチンゲール、星々の各々が詩人を慰めてくれるが、その締めくくりごとに「子供の情景」をひっそりと閉じる 「Der Dichter spricht(詩人は語る)」の印象的なDm6 E7 Amが出てくる。そしてこのカデンツは、第4節目のSie hat ja selbst zerrissen,Zerrissen mir das Herz(彼女が自分で引き裂いたのだから、僕の心を引き裂いたのだから)で、和声を変え、怨念をこめたように決然と否定される。
第9曲。婚礼だが短調で三拍子の舞曲だ。フルート、ヴァイオリン、トランペット、太鼓、シャルマイにのって恋人は輪舞する。ニ短調から変転して気分は定まらない。幻想交響曲終楽章のおぞましき風景そのものだ。
第10曲。ト短調。調性からも魔笛のパミーナのアリアAch, ich fühl’sを想起させる悲嘆。フォーレにつながる無限に悲しい歌だ。アガーテと終わってしまったブラームスの心境かくやと思わせないでもない。
第11曲。ヘ長調。一転して気持ちが弾むのは、詩人は彼女をコメディの客体にすることに成功し、自らの精神を救ったからだ。しかし、当初からduではなくSieと、彼女はずっと客体だったのだが・・。Und wem sie just passieret(これが実際起きようものなら)で和声が一瞬揺れ、動揺の残照をみせてしまう。
第12曲。前曲の半音上、主調の長3度下であるG♭7から F B♭と夢のようにはいる変ロ長調。驚くべき音楽だ。B♭ E♭G Cm F B♭と平穏にくるがロ長調をのぞかせたあげくにト長調になると万華鏡の乱舞をのぞくようで和声の迷宮!高音に煌く伴奏の音感覚はもはやオーケストレーションの領域であり、金粉を天空に散らした様は印象派を予見する。Dichterでなくてはこういうものは書けない。
第13曲。変ホ短調。君が墓に横たわる夢を見た。Sie(あなた)がdu(きみ)になっていることに注目だ。暗い。ぶつ切れの不吉な伴奏。世の中で最も暗い曲がここにくる。きみだった彼女を忘れていないのだ。
第14曲。ロ長調。弱起でやさしく話しかけるようなメロディ。君は親し気に挨拶をしてくれる。心がはずむがこれも夢だ。そして僕にくれる、糸杉の束(死の象徴)を。目が覚めると君は消える。
第15曲。ホ長調。弾むようなリズムで魔法の国、幸福の国の幻影が立ち昇る。よかった!全ての悩みは取り去られ、自由でいられ、天使に祝福されると思うとふっと消え去る。目の前にあるすべては夢、幻影だったのだ・・
第16曲。大きな棺をひとつ持ってこい。嬰ハ短調。ハイデルベルクの樽。マインツにある橋。ケルン大聖堂のクリストフ像。そのたびにピアノが「どうだ!」と胸を張って念を押すTDTDT!皆さんお分かりか?どうして棺がこんなに大きく重いのか。僕は沈めたのだ、自分の恋を、そして苦しみをその中に。嗚咽の虚勢が鎮まるとひっそり歌は消え、第12曲の夢幻が虚空にはらはらと蘇り、夢の中に曲は閉じる。
30分ほどの作品の与えてくれる感動は比類ない。
クララがピアノを弾いている夫にかけた「あなた、ときどき子供にみえるわ」というなにげない言葉から生まれた「子供の情景」。彼は世間一般の子供というものを描いたのではなく、妻の言葉の余韻の中で、たしかに大人の自分の中にいるそれを見つけて13の小品を書いた。「詩人の恋」の表向きの主人公はハイネの詩の主語である ich(僕)だが、作曲しているのはそれを外から眺め、我が事として見つめているシューマンである。すなわち、若くしてジャン・パウルの文学に傾倒し自らを眺めるドッペルゲンガー(Doppelgänger、自己像幻視)の性向を生まれもっていた彼にしか着想し得ない音楽がその二作品なのだ。音楽評論誌「新音楽時報」を創刊して「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、登場させたオイゼビウスとフロレスタンなる分身もそれだ。その性向が生んだより直接的な作品こそがクライスレリアーナである。こういう作曲家は彼とE.T.A.ホフマンの他に僕は知らない。
その性向がどうのというのではない。自分を上空や背後から見ている自分がいると語っている人は現実に何人か知っているし、僕自身、ヴィジュアルはないがそういう自分が確かにおり、この文章は恐らく彼が書くか検閲するかしているし、彼が見ていないとなんでもない場所で躓いて転んで怪我したりもしている。そうした眼で見るに、シューマンは大変に興味深い。1810年に生まれ46才で亡くなった彼の時代、啓蒙主義、個人主義の渦がヨーロッパを席巻し、芸術においてもゲーテやベートーベンまでを否定する革命運動のさなかにあった。音楽ではワーグナーが代表的人物だ。
しかし、ワーグナーもしていないが、人間の心の内面という秘匿された部分にまで光をあてようとするのはまだ一般的でなかった。ハイネが夢の中での恋愛感情の相克を描いたのは文学におけるその先駆とされるが、シューマンが彼の詩に着目したのは彼が持って生まれた性向によって音楽におけるその先駆者におのずとなっていたからであり、その彼がベートーベンの死後わずか3年で書かれた幻想交響曲という、それ以外の何物でもない異形の音楽を最も早い1835年に評論して世に問うているのも、客観的に、ベルリオーズが性向としてフランスにおけるその先駆者だったからだ。僕は自分自身が幻想交響曲になびき、シューマンの二作品になびくのを、客観的に、自然現象のように眺めている。
第6曲と第16曲に現れるケルン。シューマンは晩年に最後の職場となるデュッセルドルフに移り住んでクララとそこを訪問し、大聖堂で得た霊感を第4楽章にして交響曲第3番という傑作を一か月で一気に書きあげる。このクリストフ像の前にハイネはしばし立ちつくして詩の着想を得たろうし、シューマンは若き日の第16曲を思い出したに違いない。ブラームスはシューマンがエンデニヒの病院でクララに看取られつつ天に昇った5年後の1861年に、「詩人の恋」のハンブルグ初演のピアニストをつとめている。先に述べた第8曲のAm Dm B♭ E7 Am Dm6 E7 Am という和声の太字部分、バスが増4度音程のB♭ E7の劇的な連結は前稿に書いた1866年作曲の歌曲「五月の夜」(Die Mainacht)にも顔を出す。たかが和声と思われる方も多いかもしれない。しかしシューマンは「最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によって決まる」と述べている。
最後に書いておくことがある。第1曲「美しい5月に」を17才で覚えていたのは、九段高校の音楽教諭だった坂本先生が、授業で、ご自身のピアノでそれを何度か歌って下さったからだ。美しいテノールと精妙な伴奏の和音が今もくっきりと耳に残っている。感謝したい。
(ご参考)
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ブラームスの “青春の蹉跌”
2025 MAY 24 16:16:45 pm by 東 賢太郎
僕は恋愛小説というものを読んだことがない。これからも読まないだろう。お恥ずかしい話だが実感があまりないのだ。我が家は男優位思想だったが実は母が強く、そのせいかどうかは定かではないが僕には抗い難いある種の女性恐怖症があり、高校まで親しく口をきく関係になった女性はひとりもいない。幼少のころ母に連れられて親類の家やおばさんの女子会みたいなのに行く。あら、ケンちゃん大きくなったわねだなんだでひとしきりいじくり回され、刺身のつまになるが、これが大嫌いだった。そして何のことはない、数分後にはつまらない話で盛りあがって長いこと置き去りになる。退屈極まりない。しかし全権は母にある、この苦行に堪えないと飯にありつけない。そうやって女性には逆らうなという刷り込みができていったように思う。
さらに小学校では口から生まれたような女子がいて、ずっと弁が立ち、強く言われて負けた屈辱の経験がたくさんあるときている。それが父に仕込まれた男優位のドクトリンに反し、俺はいっぱしの男でないという気がして強がってしまい、ますます女子と溝ができた。だから精神衛生上も近寄らないに越したことはないと逃げてしまった。そんな意気地のなさだから中学生になって気になる女子はいたが、どうせだめだろうと話す勇気も出ず、高校になると見かねた野球部仲間がピッチャーとつき合いたい女がいるぞとお膳立てして喫茶店で奇麗な子と引き合わせてくれ、お互いにけっこう気に入ったように思ったが、結局勇気がなく、デートに誘いもせず終わった。
社会人になると大阪で様相がガラッと変わった。先輩に連れられて毎日のように十三なんかの裏路地の飲み屋に行く。あばずれ風の姉ちゃんたちに囲まれ、珍獣を見るような目で見られ、東京言葉で口を開くと、あっ兄ちゃん、ええかっこしいや!ここ大阪やであかんあかん、モテへんで!と猛烈に攻め込まれる。いま思うと、世慣れた先輩たちと何十件も飲み歩いてメンタルを鍛えられ、2年半たってやっと女性なにするものぞとなっていたのだから感謝しかない。というわけで、恋愛も恋愛、絵にかいたような悲しい純愛物である本稿のテーマは、実は僕のような朴念仁に語れる筋合いのものではない。それを承知で書くのは、一にも二にも、ブラームスへの愛情、ブラームスを知らなければ僕の人生は女性が出てこないことの何倍もつまらないものになっていたからだ。
25才のブラームスには2つ下でお似合いの婚約者がいたことから話は始まる。アガーテ・フォン・シーボルト。日本人なら誰もが教科書で知るあのシーボルトの親類だ。医者の家系である。美人で見るからに利発でプライドが高そうだ。どうでもいいが僕ならびびってしまうタイプだが、イケメンでひょっとすると似たタイプだったのだろう、ブラームスは一気にのめりこんでしまう。
しかし二人はうまくいかなかった。男女の事だ、真相は二人しかわからないが、後世の憶測ではない文献による史実は2つだけある。友人たちに態度をはっきりしろとせまられたブラームスが「あなたを愛しています。私はもう一度あなたとお会いしなければならないと思っていますが、束縛されたくはありません。それでも、私があなたのもとに戻ったら、あなたを私の腕で抱きしめることができるかどうか、お手紙でお答えください」と綴り、それを読んだ彼女が婚約を解消したこと。そして老後の回想録に「私は義務と名誉のためにブラームスに別れの手紙を書き、何年もの間、失われた幸せのために泣きに泣いた」と書いたことだ。
出会いは1858年、彼女の家があったゲッティンゲン。長い黒髪、ふくよかな体、悪ふざけが大好き。僕は初めてこの歌をきいたとき、ヨアヒムが “アマティのバイオリン” に例えたアガーテの声を思い浮かべた(同年に書かれた「8つの歌曲とロマンス」作品14から第7番「セレナーデ」)。
ところがこれを書く3年前、ブラームスはあるピアノ曲に劇的な出会いをしていたことがわかっている。クララ・シューマンの「3つのロマンス」作品21だ。第1曲イ短調Andanteをお聞きいただきたい。女性の秘められた切ないロマンが胸をわしづかみにする。もうすさまじいと書くしかない、これを贈られてよろめかない男がいようか?名ピアニストと記憶されている彼女は立派な作曲家なのだ。ツヴィッカウのローベルト・シューマン・ハウスにある第1曲の自筆譜には「愛する夫へ、1853年6月8日」という書き込みがある。この愛憫の情は明らかに、夫ローベルトに向けられたものだった。
ところがウィーン楽友協会にある第一曲の楽譜(左)には「愛する友ヨハネスへ、1855年4月2日作曲」と書き込まれている。これは後世に憶測を呼んだ。「愛する夫へ」と書いた同じ月のクララの日記には、夫が目を覚まし発作に襲われたことが記録され、言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。そのことからも、第1曲の深い愛情が天に召されつつあるかもしれない夫へ向けられたものだったことは疑いないと僕は思いたい。しかし梅毒であった彼は回復せず、翌1854年2月にライン川に投身自殺を試み、以来、1856年7月29日に逝去するまでエンデ二ヒの精神病院から出られず、医師は身重だったクララとの面会を禁じていた。その間に、弱冠22才のブラームスは夫のために書いた作品21をもらい、36才と女ざかりのクララの「愛する友」になっていたのである。彼にとってこの贈り物は非常に重たいものだったに違いない。アガーテと出会う3年前のことだ。
20才のブラームスがヨアヒムの紹介でシューマン家の門をたたいたのは1853年9月だ。亡くなる3年前のシューマンは既述のようにすでに発作をおこしており、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり5か月後に自殺を図る。そんな中にやってきた見ず知らずの若者がハンマークラヴィール・ソナタ丸出しの開始をする自作のピアノソナタ第1番ハ長調作品1を弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といい、ブラームスを紹介するために10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。
このローベルト・シューマンこそ真の天才であり、虚飾も打算もない、真に尊敬されるべき偉人であり、無名の男の才能を即座に認め、病をものともせずそこから熱狂的にとった彼の行動に僕は人類の未来を託すべき崇高なものを感じ取って涙を禁じ得ないのである。ブラームスという人物には僕を熱狂させるものは何もない。まったくもって別な人種だとしか書きようがないが、シューマンとモーツァルトには大いにそれを感じる。今だけ・カネだけ・自分だけの目下の日本にこんな人物が何人いるだろう。だからその音楽が好きという理屈はないが、偶然にも、僕が古今東西で最も愛するピアノ協奏曲は彼のイ短調であり、交響曲は彼の変ホ長調なのだ。そのバイオは可哀想な病気に冒された晩年で悲愴に終焉するが、そんなものがなんだ。変ホ長調交響曲を1850年11月2日から12月9日にかけ1か月で完成した速筆ぶりは、20余年もかけて1番を書いたブラームスと対照的で、性格も天地ほど異なっている。これほど似つかない二人の男を愛したクララは何に惹かれたのか。才能だろう。それを愛する人は、持っている人がどこの誰かは関係ない。そう知るのも持ってる人だけだから、地球上のほとんどの人はそれを知らない。持ってない僕がそれを知ったのは、彼らの音楽を50年も座右に聴いてきたからだ。彼女もそれをもって生まれた特別の人であり、その裏返しでブラームスはクララを必要とした。読んでないものを評する気はないが、こういうものは恋愛小説には掬い取れないのではないかと想像する。
まさにそのころ、1854~1857年に、アガーテと出会う直前のブラームスが書いていたのがピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15だ。初演はおりしもアガーテと婚約したころの1859年1月。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで3人しか拍手のない大失敗となり、傷ついて自信を無くしたことが破局の第一歩だった。かたや、1854年の日記に「私は彼を息子のように愛しています」と書いたクララはブラームスより14才年上だ。どん底に沈んだ彼は失敗に同情したり、心配してくれる歌い手の若妻ではなく、作曲家でもあり頑強に支えてくれるクララを選んだ。身を立てるために彼にとって必要であり、必要なものを手に入れる犠牲をいとわぬ不動の決意ゆえであろうが、もう一つ非常に重要な理由は、彼の母親が父親より17才年上だった家庭環境が大いに影響したと思っている。そうした、宿命的関係とも思えるクララへの思慕が最も現れた音楽が、3つの楽章の最後になって書かれたピアノ協奏曲第1番の第2楽章アダージョだ。それでいて、あろうことかクララの娘に恋愛感情をもったりもしたブラームスの優柔不断な女性観のふらつきは常人にはおよそ測りがたいものだが、それが微妙な内声部の動きで和声が玄妙に移ろう彼の音楽の誰にもない魅力に通暁しているようにも見えないだろうか。
夫の死後、クララは子供たちとともにベルリンに移り、1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。ブラームスはクララに会うため1865~1874年の夏をそこで過ごし『交響曲第1番、第2番』『弦楽六重奏曲第2番』『ピアノ五重奏曲』『ホルントリオ』『アルトラプソディ』『ドイツレクイエム』の一部などを書いた。
1866年に作曲された「五月の夜」(Die Mainacht)は彼の作品で最も好きなもののひとつである(「4つの歌曲」op.43の第2曲)。前稿でバーデン=バーデンについて、そして欧州の5月(Mai)の悦楽について述べたが、それがあってこその悲しさが深く琴線に触れてくる。こういう音楽をベートーベンは書いていない。彼は北ドイツの、厳格なプロイセンの人という感じがするが、やはりハンブルグで北の人間であるブラームスはバイエルンやスイス、オーストリアを好み、その嗜好が現われた曲と思う。その情を包み込む和声は非常に凝っている。
ちなみに詩はこのようである。
銀の月が
潅木に光注ぎ、
そのまどろむ光の残照が
芝に散りわたり、
ナイティンゲールが笛のような歌を響かせる時、
私は藪から藪へと悲しくふらつき回る。
葉に覆われて
鳩のつがいが私に
陶酔の歌を鳴いて聞かせる。
だが私は踵を返して
より暗い影を探し求め、
そして孤独な涙にくれるのだ。
いつになったら、おお微笑む姿よ、
朝焼けのように
私の魂に輝きわたる姿よ、
この世であなたを見出せるのだろうか。
すると孤独な涙が
私の頬を伝ってさらに熱く震え落ちた。
この詩は意味深だ。ブラームスはけっしてアガーテを忘れていない。身を引くつもりなどなかった。ただ言えなかった、失敗した自分を母のように守ってほしいと。しかしそれを口にするような自分ではいけない。大成できない。見ろ、自分の父がそうだったじゃないか。彼の育った家庭環境を忘れてはならない。父が17才年上の母親に書くかのようなあまりに優柔不断な手紙。アガーテはそうとは知らない。おそらくブラームスはその内面を悟られまいと隠していたのではないか。彼女はただただ驚き、自尊心を深く傷つけられ、泣きながら苦渋の別れの手紙を書くしかなかった。名門の医師の家という格式、名誉もあったろう。彼女は婚約が解消された後、実に10年間、誰とも結婚する気持になれず、結婚に際しては彼からの手紙を残らず処分した。しかしブラームスの方も、アガーテからいきなり別れの手紙が来るとは思ってもいなかったと思う。ハンブルグの女郎屋街の一角で生まれた彼の家にはそれに匹敵する格式というものはない。大きなショックに苛まれたが、堂々と、待ってくれ、それは誤解だよといえなかったのは何らかのコンプレックスが彼を支配し、いっぱしの男という強がりがあったかもしれず、なによりも、母のようなクララが心にいたからだと僕は強く感じる。それは救いでもあり葛藤でもあったのだがもう打つ手はなかった。彼はアガーテを深く傷つけ、自分も打ちのめされ、その後4ヶ月ほどはハンブルクに閉じこもり作曲も演奏活動もしなかったという。
弦楽六重奏曲第2番ト長調Op.36は、1864年から1865年にかけてバーデン=バーデンで作曲され、第1楽章の提示部の最後にa-g-a-h-e(アガーテ)の音符が縫いこまれていると指摘される(シューマンもクララの音符をそうしていた)。それが思慕なのか決別なのかはわからない。あるいは偶然かもしれない。
偶然でないのは、第1楽章冒頭の主題がト長調から長三度下の変ホ長調に移行し、同じことが「五月の夜」(Die Mainacht)でもおきることだ(変ホ長調からロ長調)。和声は音楽の根幹で、表面の工夫ではあり得ない。前者がアガーテ六重奏曲であるなら「五月の夜」もそうではないか。そう聞こえてならない。この六重奏曲をブラームスはヨアヒムの助言を受けず書いた。自立心に並々ならぬ気合が入っているのだ。第3楽章冒頭、VnがJ.Sバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番ロ短調の主題を奏でるのにお気づきだろうか?バッハはこれで大作を閉じた。決別して6年。意を決して、彼はアガーテへの想いを締めくくったのではないだろうか。
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箱根とバーデン=バーデンを結ぶ線
2025 MAY 20 0:00:46 am by 東 賢太郎
10年ぐらい前でしたか、最高顧問をさせていただいた上場企業の取締役会が箱根・宮ノ下温泉の吟遊で行われ、粋でいい会社だなと思ったものです。ところがいざ赴いてみると粋どころではなく、通常の本社会議室より自由な発想で大胆な意見が出た(言えた)せいか議論は白熱。革新派と保守派の対立は並々ならぬものがあったのですが、終わって部屋を出ればそこは温泉宿。会食の場はぎすぎすとならず役員に一体感すら出ていたのです。まあこんなことはオーナー企業しかできないでしょうが。
温泉地で重要会議というと、意外なものがありました。あんまり知られてないのですが、調べてみると面白い。それがなければ太平洋戦争はなかったかもしれない。そんな会議がドイツの温泉保養地バーデン=バーデンで行われていたのです。地図を見ていただくとわかりますが、フランクフルトとミュンヘンに近い。前者にはドイツ銀行が、後者にはシーメンスがあります。何やらきな臭い。

時は第一次世界大戦終結後の大正10年(1921)10月27日。陸軍士官学校16期の同期生で37、8才の親友同士である、歩兵第14連隊大隊長・岡村寧次、スイス公使館付武官・永田鉄山、ロシア大使館付武官・小畑敏四郎が陸軍を改造して長州閥を追い出し、総力戦を挑める体制を築くことを約したのです。これを「バーデン=バーデンの密約」といいます(翌日には1期下の東条英機も加わった)。日露戦争は薩摩である海軍の活躍で勝ち、長州の陸軍には危機感があったが藩閥という権力に甘える幹部は鈍い。この男たちは今流なら第一選抜で部長に昇進しようかというエリート中堅幹部です。藩閥支配をぶっ壊して人材登用し、自分ら薩長外の人間が動かそうと画策した。海軍長老の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込んだシーメンス事件がちらつく。
ここからは空想です。バーデン=バーデンは海軍劣勢の好機に陸軍学閥エリートが軍内クーデターをおこし乗っ取る密約だったのではないか。東条総理を出すところまでうまくいった。巡洋戦艦「金剛」発注で英国から賄賂をもらっていたのがバレて叩かれた海軍は反攻の策を練った。そもそも陸軍が範としたドイツを裏切って日本国を第一次大戦で連合国側に着かせた実績もある(焦ったドイツのヴィルヘルム2世が海軍に賄賂を出したのがシーメンス事件だった)。英が米とつるんで劣勢の海軍をそそのかしたのが真珠湾だったのではないか。チャーチルとルーズベルト。手練れの両人なら考えて全然おかしくない(そもそも明治維新がそれだったのです)。戦さ慣れした薩長がやった日清・日露。学閥エリートが仕切った太平洋戦争。戦争屋にはちょろい相手だったと思うのは僕がビジネスマンだからでしょうか。
バーデン=バーデンというとクララ・シューマン、ブラームスが愛した街でフルトヴェングラー、ブーレーズ終焉の地でもありました。ドイツに赴任して、一にも二にも訪問してみたかったのがここで、当時、お気楽に生きていたのでそんなことがあった地とはつゆ知らず、劇場で魔笛を楽しんで、ブラームスハウスがこんな家に住みたいと目に焼きついて後にそういう家を建てました。帝国陸軍軍人にはどう見ても似合わない街だなあと、いまだって思うしかありません。しかし彼らはここに集結した。なぜここだったのだろう。その疑問も解ける気がするんですね。
彼らが投宿したのはホテル・ステファニーで、その密約から満州事変を引き起こした「一夕会」ができ、「国家総動員法」制定に至った。彼らが長州閥の代わりに陸軍幹部として擁立を謀ったのが真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎でした。やがて一夕会は対支戦争を唱える永田を中心とした統制派と、対ソ戦準備論を唱える小畑を中心とした皇道派に分裂し、永田は目の上のたんこぶとなった真崎を軍から追放しようと悪玉説を流布し、それを昭和天皇に上奏して教育総監から罷免することに成功した。これに激怒した皇道派の相沢三郎中佐が1935年8月12日白昼に永田鉄山を軍刀で殺害し、半年後の二・二六事件に至るのです。そして、その翌年の37年には日中戦争が勃発。さらに4年後に日米が開戦した。永田は際立って優秀な男で、もし生きていれば開戦を止められたかもしれないともいわれます。同感です。陸海の内輪もめにつけこむ英米の策謀、もしかして裏で買われていた国賊どもを冷静に見ぬけたのは彼しかいなかったかもしれないと思います。日本海軍はロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。これは昔の話ではない。今だって十分にあり得るのです。
思えば僕も永田、東条らと同年代の37~42才にドイツ、スイスにおりました。ああ、あのころの俺か、そんな若僧が日本をぶっ壊す戦争を起しちまったのか。その密談が、帝国陸軍などとはまったく縁遠く美しいあのバーデン=バーデンのホテルで夜中1時まで続き、隣室の客からうるさいと言われて切り上げたのか。なんとも生々しいものです。彼らは翌日にフランクフルトに行き、僕が3年勤めたビルの向かいにあった高級ホテル、フランクフルター・ホフに宿泊しています。陸軍士官学校の秀才である彼等、税金留学のエリートであり、日清日露に勝利して舞い上がった山縣有朋を筆頭とする長州閥の爺さんたちが陸軍幹部では第一次世界大戦でバージョンアップした近代戦についていけず国難をまねくと語ったに違いない。それは正しかったけれど、内部闘争の挙句に皇道派の自爆で誤った方向に行き、根拠不明の海軍による日米開戦が勃発、不思議なことに東京裁判ではその海軍はほとんど処刑されず全部は東条と陸軍が悪かったことになった。海軍幹部とキーナン判事らが芸者をあげて飲んでいたという話もある。闇が深い。
我が赴任地だったフランクフルトおよびチューリヒの中途にバーデン=バーデンがあるのも奇縁です。何か霊感でも働いたのでしょうか、他ではそうした衝動はなかったのですがここでは何となくひらめいて油絵2点を買っています。どちらも思い入れがあります。これは皆さんにお見せするというより、子孫に絶対に売るんでねえぞという意味で載せてます。一回目がこれ。
これが二回目。
統制派が権力闘争に勝ったので陸軍は対支戦争、南進にのめりこみ、蔣介石の策謀で思いっきりアメリカを巻き込まれ抜き差しならなくなり、真珠湾、太平洋戦争、敗戦への道を進む。そして軍内政治に勝って総理大臣に登りつめた「バーデン=バーデンの密約」のひとり東条英機はA級戦犯として死刑。 負けて台湾軍司令官に左遷された陸軍大将・真崎もA級戦犯として新橋の第一ホテルで尋問の末に収監されましたが、権力の座になかったことが幸いしたのか真っ先に釈放されました。しかし二・二六事件が成功して総理大臣になっていたらそうはいかなかったろう。人間万事塞翁が馬です。
東京人にとってリゾートというと軽井沢、日光、箱根ということになる。どこも好きであり、最初の二つは帰国してまもないころ幼い息子を連れて歩き回ってます。奥日光の白濁湯の泉質は全く持って捨てがたい。ただ日光は家康、軽井沢はカナダ人宣教師が明治に開いた避暑地でどちらも新興で地政学的な意味はなく、箱根はというと日本書紀にある霊山で富士が近く、源平の合戦があり頼朝が敬い、東海道の交通の要衝で関所が置かれた。土地に「気」がありますね。駅伝の最高点近くにある箱根七湯のひとつ、白濁の芦之湯は奈良時代の記録があり、以来、皇室、文人墨客が宿泊、明治期には木戸孝允と西郷隆盛の会見が行われ、勝海舟・山岡鉄舟・副島種臣が逗留しております。会見は現存する松坂屋という旅館ですが何を話したのか。
今日は5月20日です。欧州では長い冬があけて一気に花が咲き誇り、ドイツでは白アスパラが旬。この時期だけはそれが肉に代わって主食のようになります。国中がぱっと明るくなった感じは日本の桜前線の頃のはなやぎのようで、だからモーツァルトもシューマンもR・シュトラウスも五月(Mai)を歌ったのです。12年そこに浸っていたので日本でもMai感が体に残っており浮き浮きします。箱根の5月はつつじです。
ビジネスの着想はそういう気持ちの時が旬です。良い種があってもその気でないと着床しないからで、半端な決断で手掛けると失敗します。着手を決めた某案件を持ってきてくれた仲間と3月からああだこうだやり「よし、やろう」になった。それがすぐ「やめとく」の朝令暮改で失望させてしまった。たくさんあってどれも重たいものだから整理がつかなくなっていたのです。有難いことで16年目のソナーには優良案件がそこそこ来ます。例えば今、あのウォルト・ディズニー様関連の投資案件を検討中でうれしい限りなのですが、わかったのは、もう僕ひとりの頭で選べなくなってきたということです。
そこで何人もの意見を聞き、某案件は「やっぱりやろう」になった。やるからには全力投球です。そこで週末に箱根に行って気持ちを切り替え、懸案の事柄を議論すべくテスラを飛ばすことになりました。10年前に最高顧問をさせていただいた上場企業の取締役会もかくやというもの。オフサイトでやると自由な発想で大胆な意見が出て、非常に実りの多い会議となりました。
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新婦の父になった日
2025 MAY 13 8:08:46 am by 東 賢太郎
日曜日に長女を送り出しました。近年は結婚式の場もガーデンやビーチなど多様化し、親しい人たちと心地よい時間を共有する傾向にあるようですが、娘たちは私共の世代と変わらぬクラシックな場を尊重しました。帝国ホテルにしたのは理由があったようで、人気の5~6月は意中の部屋の空きがなく1年ほど待つことになりました。その甲斐は大いにあって、新婦の父として忘れえない思い出をつくっていただきました。スピーチを頂戴した主賓、ならびにご列席いただいた神山先生ご夫妻、ご親族、ご友人、ご同僚の皆様、ソナー関係者の皆様、当家の親族、ご協力いただいたホテル担当者の方々に厚く御礼を申し上げます。
新婦の父役は簡単ではありませんでした。「お父さん、いい?バージンロードを一緒に歩くのよ、ドレス踏まないようにね。でもスピーチはしなくて大丈夫だからね」。それが何かも知らず娘の指示で一応の安心はして当日にのぞんだのです。歩くのは花嫁の後ろからと思っていたので踏むわけないだろと余裕でした。モーニングに着替えてホテルの教会の待合室にはいると神父さんと介添え人の女性がおられ、手袋おもちですね、こう指をそろえて左手で、持ち方はこうです、右手はこう曲げて手の甲が上で力は抜いて、はい、そんな感じで動かさず、などと矢継ぎ早に教わります。歩き方ですが、右足からです。花嫁と歩調を合わせて、とにかくゆっくり、靴の幅ずつ進む感じでいいですよ、気をつけていただきたいのはスカートが横に広がってるので踏んじゃう方がおられるんです、そうならないように右ひざはやや内側に回して入れる感じで・・・
ウェディングドレスを試着した写真は見ていましたが、現れた新婦姿の娘には息をのむばかり。圧倒されてしまい、想定外だった腕組みをされると、なるほど横幅がすごい。気が動転したまま廊下をしずしずとバージンロードの扉の前まで進みました。この数メートルで難しいと直感しましたが時すでに遅し。「それではご入場です!」と声がかかり、ぱっと扉が開くとサーチライトか眩しくてなにも見えません。オルガンが轟々と鳴り響いて「はい右足からどうぞ!」。覚えてるのはそこまでで、人がたくさんいるな、立ち上がってばしゃばしゃ写真を撮られてるなと感じて固まりつつ道がまっすぐかどうかもよく見えません。とにかくスカートを踏まないことだ!それに専心すると歩調も何もあったもんじゃなく、人生でこんなにゆっくり歩いたことはないゆっくりさで片足に乗る時間が想定をこえて長く、2度左にこけそうになりました。やっと終点が見えてやれやれ。そんなことはどこ吹く風と泰然自若で歩を進めるヨーロッパ育ちの娘をこんなに頼りに思ったことはありません。
そこで待ち構えていて、よろしくお願しますと礼を交わして娘をお渡しした新郎。彼もまた18才で志してロケット工学を学びに単身渡米した海外派です。結婚の誓いも堂々とした声で頼もしいもので、心の底から安心しました。彼を育て、若い志を後押しされたご両親も立派としか申し上げようがございません。名門テキサス大学アーリントン校(UTA)卒で、英語で理系という大変さは私の想像を超えますが、ラグビーで鍛えガリ勉でもアメリカかぶれでもない、こんな若者が日本にいたのかという驚きと共にこの人を見つけてきた娘も思いっきりほめてあげたい。UTAのスポーツチームの名称はテキサスの誇りマーベリックス(異端児)だそうで、映画トップガンのトム・クルーズのように “カッコいい型破り” の意味です。何があっても臆することなくふたりでその道を突き進んでいってください。
披露宴は主賓のお言葉を頂戴し、少々リラックスもさせてもらいました。ちなみに、流す音楽はホテルおまかせでなくすべてふたりでプロデュースしたいとリクエストがあったので、結婚式に向いているかどうかよりも娘の思い出がある30曲を選んで送りました。ドイツにいたころ、ピアノでドラえもんのテーマ曲などを弾いてあげるとキャッキャ喜んでいた頃から覚えていた曲ばかりです。結果として私のCDルームから持ち出していったのはヘンデル、モーツァルト、シューマン、ブラームス、チャイコフスキー、ラフマニノフ、L・アンダーソン、R・ロジャースでした。ひそかに楽しみにしていましたが、なるほどそこに使ったか、いいセンスだねというものばかりでいうことなし。満点。Climb Every Mountainは画像とあいまって最高だったし、我々には別格であるラインの第5楽章、あれを流した人はまず他にいないでしょう。オンリーワンの宴になりました。
いろんな思いがめぐり食事もそこそこに感無量で式を眺めていましたが、いよいよ「それでは最後にご両親への花束贈呈です」とアナウンスがあり、いかん、そういうのがあったっけと金屏風の前に立ちました。花嫁の万感のこもったスピーチにまず家内が泣きだしてしまい、私は唇をかんでこらえましたがハグされたらもうだめでした。そのシーンを激写していたのがソナーの慶応グループで、閉会後に見ろこれが証拠写真だと盛り上がりました。私が涙を耐えられるかどうかで賭けが進行していたのです。
43年前、私と家内はこの桜の間のひな壇に座っておりました。留学でアメリカに発つ前の弱冠27才と24才で、借りてきた猫のように固まっており、皆様から前途洋々のお言葉をいただたのがうれしかった遠い昔の思い出です。まさかそこでこの日を迎えようとは想像だにしていませんでしたが、これは娘たちのプレゼントでもあったのでしょう、そういえばこうだったと記憶の片隅に埋もれていた父のモーニング姿と母のおめでとうという声をはっきりと思い出しています。私は大学2年のとき全くの偶然から広島のユースホステルで家内に出会い、思えばこの会場から我が家が始まったのです。その日の新郎新婦の両親は家内の母ひとりになってしまいましたが、93才と思えぬお元気な姿で神戸からかけつけてくれました。おりしもこの日は母の日であり、天国の我が母が喜び、義父も我が父もそろって祝福してくれたのでしょう、曇天で小雨模様の日々だったにもかかわらず、披露宴の窓からは燦燦と陽光がさしこんでおりました。
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ヴェネツィアの残照
2025 MAY 7 15:15:31 pm by 東 賢太郎
かつて観た都市でもっとも富というものを感じたのはニューヨークでもロンドンでもパリでもない、ヴェネツィアだ。いままで英国式にこの都市名をヴェニスと書いてきたが、イタリア語はヴェネーツィアでネーを強く、ツィアもはっきり発音する。どっちでも通じればよいのだが、イタリアの歴史を書くので本稿ではヴェネツィアとしよう。
ヴェネツィア共和国(697年)の成立は平城京(710年)、平安京(794年)より古い。まず歴代総督が隣国の勢力を巧みにあしらって自治権をもった都市国家となり、東ローマ帝国の制海権に守られ交易で利を得る。さらにアドリア海沿岸の海上防衛を担う代償に貿易特権を得て東地中海最強の海軍国となり、港市の多くを支配下に置く。そして第4回十字軍を事実上率いてコンスタンティノープルを陥落させ、帝国分割で巨利を獲得して政治的にも欧州有数の勢力になったことは皆さん世界史で習った。
いっぽう、以上をヘゲモニーの視点で読み解くなら、この都市の興隆の歴史は日本国の将来にとって興味深い示唆があろうと指摘したい。まず交易、金融、外交のインテリジェンス、そして世界で造船・兵器製造の一大拠点となる資金力の両方がないとこういう芸当はできなかったということだ。現に大航海時代の到来で交易がアドリア海から大西洋、太平洋に移るとビジネスモデルが崩れて資金が枯渇し、ガラスやレースの工芸品を造ってしのいだものの、ついに1797年、ナポレオン・ボナパルトに侵略されたのである。なくなったのはキャッシュフローであり、それゆえの資金調達力であって、富はあった。日本にも富はあるし、あり続けるだろうが、それでいいのかということだ。
この都市には3回行った。まず観光。次はエーゲ海クルーズの発着。最後は仕事だった。アドリア海からクレタ島への船旅は第4回十字軍の航路で感慨深く、仕事ではフライトのキャンセルでヴェネツィア~トリエステをゴンドラで移動し、海上からヴェネツィアを眺めて実感した。その地はもともと異民族に襲撃されて追い込まれた湿地帯であることをだ。農業も産業もないそこを水路で守備して根城にし、ムスリムやフランク王国という、征服されかねない異文化圏と交易で儲けようというのだから複式簿記を発明するような知恵も交渉力も要る。シェークスピアは無知ゆえか偏見かそれをシャイロックに仮託したがここの商人がみなユダヤ人だったわけでもなく、世襲でない有力家門(ドージェ)の寡頭制ではあったがフィレンツェのメジチ家のような僭主がいたわけでもない。選挙で選ばれた歴代総督が賢かったという事だ。しかし、くりかえすが、富がありすぐれた統治者がいたとしても、経済成長力が衰えれば国は滅ぶのだ。
ちなみに、富のバロメーターである地価を調べると一等地サン・マルコ広場の近辺で240㎡の高級アパートが130万ユーロ(約2億2千万円)というのを見つけた。1㎡90万円は新宿区ぐらいだ。この都市の輝かしい富が手に入るわけではないが、富というものは実は多くを所有する必要はない。身近で他人に邪魔されずあるぐらいでいいのだ。新宿駅が身近で便利なのと、こんな財宝を日々眺めて暮らすのと、多数決で決めたら同じ値段だったという厳然たる事実がここにある。世の中はずいぶんおかしなものだと思うしかないが、物もサービスも金も株式も、値段はそうして決まっている。
正面がサン・マルコ寺院だ。この地に寺院が建ったのは9世紀で空海が高野山金剛峯寺を建立したのとほぼ同時期である。10才のヴィヴァルディは手前側にある学校に通い、毎日この景色を見ていただろう。15才のモーツァルトは父と共にこの広場で仮面舞踏会を夜中まで楽しんでいる。
サン・マルコ寺院にはいってみよう。
ビザンチンの教会は、満々と湛えられた空気の膨大な質量が全身に訴えかけてくる異空間である。これが水ならどうだろう。泳いで空間を天使のように浮遊し、我々はこんなものを眺めているにちがいない。
天空の秘密。地上に据え置かれた我々はそれを知らない。
巨大なマスであるここの空気が声や楽器でうち震えると、それは波になり、些かの間をおいて天井の円蓋まで覆い尽くすやこちらに向けてこだまのように降ってくる。それが元の波とぶつかって干渉し、さらに複雑な波となり、我々を体ごと共振させ、なにやら娑婆とは別物だという魂の体験をさせるのだ。音ではなく波動だからそこで経験しないとわからないが、一度味わえば忘れることはない。
無意味なアーという発声であってもそうなのだが、それが楽音のドであればそれが空間に高々と飛散し、数秒間もありありと浮遊し、次に楽音のソを発して重ねてみれば両者は交って完全五度を成して戻ってくる。この発見から和声が産まれた。それでは戻ってくるメロディーに調和するように元のメロディーを書けばという発想でカノンが産まれた。サン・マルコ寺院でどう響くか。テノールがひとり二重唱になる様子がこのビデオでわかる。
つまり寺院、大聖堂なるものは我々が「音楽」と呼ぶものの母体であり、さらに成長させるゆりかごでもあったということだ。物理的に表現するなら楽譜は2次元、演奏は3次元で、時間軸が加わった教会での演奏は4次元のアートという事になる。音楽の4次元化はルネサンス音楽を代表するフランドル楽派の巨匠であり、ヴェネツィア楽派の開祖となったアドリアン・ヴィラールト(1490年頃 – 1562)に発する。
この人はいまでいうオランダ人だ。サン・マルコ大聖堂楽長への就任は大胆な人事だったと思われる。世襲、独裁、汚職の排除と人材の登用は小国ヴェネツィアの生きる知恵であり、1593年にはガリレオ・ガリレイを造船・兵器製造の技術顧問に雇ってもいる。ヴィラールトは1527年の契約から1562年の逝去までポストにあり、この人の起用は西洋音楽史上で最も重大な契約のひとつだったと評価される大きな成果をあげた。それが巨大で複雑なサン・マルコ大聖堂の音響構造を利用した分割合唱様式の発明であった。後の楽長にふたりのガブリエリ、モンテヴェルディという大物が就くが、やがて潮流はバロック様式を経て教会の厳格なポリフォニー音楽を離れて歌と伴奏のオペラへ向かうのであって、分割合唱様式の生んだ作品の位置づけは懐古的なものになろう。しかし「その場所でしかできない」という音響はオンリーワンの存在で、永遠の価値を誇るヴェネツィアそのものという視点からの評価はこれからむしろ高まるのではないだろうか。
1970年の大阪万博で西ドイツ館のシュトックハウゼンが気に入ったことを書いた(シュトックハウゼンは関ケ原に舞う)。シアターピースという位相を導入した概念は分割合唱様式に始祖があると思う。西洋人は教会で賛美歌を歌って育つので大空間の音場の残響と反響は脳への当たり前のインプットとなっているだろう。いっぽう山びこだって珍しい我々はレコード屋のクラシック売り場は「古楽」から「現代」までジャンル分けされているのが当たり前と覚えている。ケルン近郊生まれの敬虔なカトリック信者だったシュトックハウゼンがあの大聖堂の音響を知らなかったはずがなく、レコードが「現代」に置いてある彼が子供のころからなじんだその響きから天上のスピーカーの音が走るあの空間を着想したとしても何ら不思議ではない。
例えば大バッハは15才から数年間リューネブルクの聖ヨハネ教会の合唱隊の一員として歌っているが、そこの音響はこんな具合である。
明らかに残響が実音に「かぶって」いるが、賛美歌は天のこだまと交唱しているかのようなサウンドが「らしさ」を醸し出すので、屋外でこの楽譜を歌っても感じが出ないだろう。想像になるが、若き日をこの音響にどっぷりつかって暮らしたバッハには実音だけを聴いても「かぶり」がきこえる感覚ができあがっていたのではないか。だから自分の脳内に響いている両方を楽譜に書き取ろうと試み、そこから進化した技法の集大成がフーガになったのではないかと思う。
僕が日本で一度も足を踏み入れたことない教会に初めて入ったのは学生時代にアメリカのバッファロー大学に短期留学してホームステイした時のことだった。一緒に賛美歌を歌わされたが、天上にふわっとぬけていくその響きこそ衝撃だった。一気に好きになって、それ以来、海外で知らない処に行くたびに大聖堂や教会に入って音を聴いたからもうマニアと言える。小さいものは忘れたが、覚えてるだけでこんなにある。
ドイツはケルン大聖堂、シュパイアー大聖堂、フランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂、マインツ大聖堂、オーストリアはザルツブルグ大聖堂、ウィーンのシュテファン大聖堂/聖ペーター教会/カールス教会/聖ミヒャエル教会、チューリヒのフラウミュンスター、英国はウェストミンスター寺院/セント・ポール大聖堂/チチェスター大聖堂/ヨーク大聖堂/セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、パリはノートルダム大聖堂/サン・トゥスタッシュ教会/サントトリニテ教会、ルーアン大聖堂、ストラスブールのノートルダム大聖堂、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ミラノのドゥオーモ/サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ピサ大聖堂、バルセロナのサグラダ・ファミリア大聖堂、ブラジルのリオデジャネイロ大聖堂
これらの地の多くはクラシック音楽の殿堂でもあり、大聖堂があってオペラハウスがない都市はなかろうから両者の関係は緊密だ(日本は両方ない)。「古楽」も「現代」も「ロック」もない。ポール・マッカートニーは「みんなもう讃美歌は聞き飽きて心に響かないんだ、僕らはむしろ熱心な教会支持者だった」と語っている。教会マニアになったおかげで僕もどうやらそれらしい耳ができあがり、自宅の音楽室は石造りで窓にはステンドグラスまで入ってしまった。日本のコンサートホールでそういう音は記憶にないが、いちどだけ、ライブイマジンの練習で吉田さんに舞台上のピアノを弾かせていただいたとき、ふわっと天井に昇っていく感じがあれに近いなと思ったのは客席が空だったからだろうか。
サン・マルコ大聖堂楽長としてヴィラールトとモンテヴェルディをつなぐ人にヴェネツィア生まれのジョヴァンニ・ガブリエリ(1554または1557 – 1612)がいる。彼が生まれた頃、ちょうど日本では川中島、桶狭間の合戦が行われていた。1579年に織田信長は権勢のピークにあり、豪華絢爛の安土城にはいりセミナリオで西洋音楽を聴いているが、その頃にミュンヘン留学からヴェネツィアに帰国したガブリエリはサンマルコ大聖堂の特性を活かした分割合唱様式でヨーロッパで最も有名な作曲家となってゆく。ほとんどの作品は、祭壇の左右に配置した2つの合唱団ないしは器楽集団が、まずは左手から聞こえ、それを右手の音楽家集団が追うというアンティフォーナルに構成される。このビデオでわかる。
次にサン・マルコ大聖堂の響きを聴く。アコースティックはこの400年の間にほとんど変化していないという。
ひとつ前のビデオもそうだが、発売されたときにFMだったかで耳にして印象に残ったのがフィラデルフィア管、クリーヴランド管、シカゴ響のブラスセクションによる(たしか「ガブリエリの饗宴」と銘打った)1968年録音のLPだ。それぞれオーマンディ、セル、マルティノンの時代でまばゆい金色に輝く。まだ中学生でガブリエリが人名であることも知らず、クラシックは富裕で豪奢なものというイメージができた記念すべき録音だ。ヴェネツィアにもそれが焼きついていたかもしれない。
(ご参考)
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書いておきたいプロ野球雑感③
2025 APR 29 2:02:10 am by 東 賢太郎
4月27日
きのうのDeNA対広島戦。8回を2安打10奪三振で1点に押さえて勝ったDeNAバウアー投手。カープはナックルカーブを誰も打てず、三振のたびに吠えまくられましたが、中4日で自己最多の129球を投げぬいたのは敵ながらあっぱれであります。中6日で回ってる日本のピッチャー、根性論は昭和の野球でしょというのが常識になってるが、ただでさえキツい飛行機での移動を強いられるメジャーリーガーはそんなことを言わない。
バウアーというと一昨年8月25日のバンテリンドームを思い出します。中日の近藤廉投手が1イニング10失点して「晒し投げだ」と立浪監督が批判されたあの試合です。そのゲームの勝利投手がバウアーでしたが、ヒーロー・インタビューで彼は「まずひとこと言わせてくれ。どんなにいい投手でもこういう日がある、これからも前を向き続けてほしい」と近藤にエールを送ったのです。クローザーのライデル・マルティネスはブルペンで戦況を見かね「俺が投げてもいいぞ」と肩を作ろうとしたそうです。あっぱれな男たち。
日本人に漢(オトコ)はたくさんいるはずなんだが、中日ベンチ、捕手、野手は誰ひとりとしてマウンドで孤軍奮闘の近藤投手に声をかけに行かない。ビデオを見ると、3連打はされたがすぐ2死を取って、次の詰まったゴロをショートが普通にさばけば3点ぐらいで終わってたんです。助けるどころか足を引っ張られ、慣れない一軍のマウンドで動揺があったんだろう、柴田に死球を与えると帽子をとって深々と頭を下げる。柴田は大丈夫だよとうなずく。頭はベンチに下げたんじゃないかとさえ見えるシーンです。
この近藤廉投手、すぐ2軍に降格され10月に戦力外通告。要するにクビですな。育成再契約となりますが立浪が「ああいう経験した人は強くなると思うから、あと1年残してやってくれ」と球団に働きかけたようです。二軍で1年がんばった末に今年4月24日に支配下登録に復帰。そして昨日、ヤクルト戦で2年ぶりの登板をして1回を4人で零封した。近藤君、よく立ち直った。井上監督がいて本当によかった、でも前を向き続けたのはまぎれもなく君の実力と精神力なわけで、超ド級のあっぱれであります。
この日はまだあっぱれがあって、近藤が雪辱したこのヤクルト戦、近藤からバントをきめた茂木栄五郎選手は息子の同窓生で楽天時代から注目してました。FA宣言してヤクルトに移籍し、この試合で勝利を決める値千金の3ランホームラン。すると、茂木の人的補償として楽天に移籍した小森航大郎選手もプロ入り初ホームランを同日のソフトバンク戦で放っていました。ふたりともホームランバッターではないので確率の低いことですが何かの因縁かもしれない。人的補償で移籍というのはプロとして思うところがあったでしょう。小森選手もあっぱれ。活躍してほしいですね。
最後に、退任された中日の立浪監督。現役時代、よくカープがいい所で打たれましたが素晴らしいバッターでした。僕はあらゆる解説者で立浪がいちばん好きで、打撃を習うとしたら彼しかないと思う。なにしろ理にかなっていてわかりやすく、そこまで言葉で説明できるからあの打撃ができたと腑に落ちるからです。だから彼が監督をやれば中日は手強いなと思っていましたが結果はそうならなかった。技術を極めることと権力を持って組織を束ねることは別物です。完璧な理論、PL学園のプライド、おそらくいろんなものが彼をあそこまでにしましたがその分だけ苦労も多かったかもしれません。これからの活躍を期待します。
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読響 第647回定期演奏会
2025 APR 24 9:09:07 am by 東 賢太郎
2025 4.21 サントリーホール
指揮=オクサーナ・リーニフ
ヴァイオリン=ヤメン・サーディ
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77
ボーダナ・フロリャク:光あれ
バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」
女性指揮者の登場が増えている。性別云々の時代ではないが、ことその職業においてまったくハンディがないこともなかろう。つまりそこで勝ち抜いてポストを得たなら並の男より上等な確率は高いわけで、現に失望したケースはまだない。もうひとつ、リーニフはウクライナ、サーディはイスラエルと時の国の人たちだ。偶然かもしれないが音楽を平和の象徴とするメッセージがあるなら僕はあんまり好きでない。音楽家が軍人や政治家でないことだけは誰が決めたわけでもないのに見事に世の常であって、ポーランドの首相になったパデレフスキー、モーツァルトの三台のピアノ協奏曲の第三を弾いて録音までした英国首相エドワード・ヒースは人類史上稀な人たちである。
予備知識なく会場に来るのでプログラムも奏者も知らない。まずはショスタコーヴィチの作品のうちでも最も好きなひとつヴァイオリン協奏曲第1番ではないか。彼は政治というよりそれへの嫌悪、プロテストが音楽に滲み出た特異な作曲家で、そうした趣味だったわけではなく時代の犠牲者だった。Mov3パッサカリア、冒頭のTimをユニゾンで伴う恥ずかしくも鈍重な主題の恐るべきダサさ。あえてぶちこむ運命リズムはカリカチュアそのものだ。僕は粗野丸出しのこういうのがどうにも耐えられないが作曲者もそうであり、ダフニスとクロエのドルコン、火の鳥のカッチェィにあたろう。大衆の面前で大真面目に物々しく権勢を誇示する権力者ほど下劣でみっともないものはないという感性の共有だ。この主題はやっと死んでくれたスターリンを極限までおちょくった怨念の調べであると僕は解釈している。それに延々と続く気高いVnソロにもおぞましいTrb、Tubaが付きまとう。ああこの時代にこんな国に生まれないでよかったと心から安堵するが、それだけショスタコーヴィチがかわいそうだったという思いが募る。Vnソロの激高にはそれが滲む。この選曲にもしご両人の戦争へのプロテストの思いがあったとするなら、それは作曲者との共振で大いに是とする。
1番には初演者オイストラフとムラヴィンスキーの圧巻の演奏があるが僕はサレルノ・ゾンネンバーグ盤が気に入っている(マキシム・ショスタコーヴィチの伴奏。このCDが廃盤というのだから昨今のクラシック・アルヒーフは絶望的だ)。ソリストはまったく知らない人だが驚いた。いささかの破綻もないフレージング、弦が切れるかと思うほどの魂のこもった ff が汚くならない、 Mov3のカデンツァの意味深い pp が豊穣!客席の奥の奥まで痩せずに訴えかける。体いっぱいで弾いているがなんら苦労しているようには見えない。この余裕たるや、大家然というより全身が才能の塊である。いったいVnソリストというもの昔ながらの伝承でもあるのか、激してくるとこの程度の音程のズレは熱量の証でしょのようなモードに入り、聴衆もそういう事が起きると音楽が高揚していると解釈するのがしきたりのようだが、僕は何であれズレはズレで気になるのでどんどん聴く熱量が下がってしまうという二律背反がおきる。それが少ないソリストは、ちゃんと方程式どおりに熱量がなく、平板で面白くないときている。ところがこの人は驚くべきことにほんの1音符たりともそれがないうえに熱量は2倍もあった。こんなソリストは初めてで、掛け値なしにかつて聴いたヴァイオリニストのNo1だ。休憩でプログラムを見るとこのヤメン・サーディ氏はウィーン・フィルのコンマスではないか。やれやれ、僕は昔のレコードで事足りて時流に乗れてないようだ。楽器が書いてあった。クライスラーが9年弾いた1734年製作のストラディヴァリウス「ロード・アマースト・オブ・ハックニー」とのこと。名器を弾く人は多いが博物館のデモにならず生き返らせてる人はあまりいない。ウィーン・フィルのブランドに埋没しないことだけ祈る。
伴奏のオクサーナ・リーニフ。女性の服にはいたって疎いが、あれはウクライナ風のものだろうか。コンチェルトのオケはTr, Trbを欠きTuba、バスCl、コントラFgありと暗く重めになりがちだがカラフルな音彩にきこえた。この曲はSym10のコンテンポラリーだがSym5のMov3のエコーもあり、僕はその楽章の熱烈な支持者。それを髣髴させるMov1ノクターンは非常に楽しめた。フロリャク。和声の虹彩が美しい。知らない作品に虚心坦懐に浸る喜びを満喫した。トリのバルトークは怪奇趣味に陥らず透明感があって品が良い。春の祭典風のオーケストレーションがあるが1918年の着想であり5年前に初演騒動のおきた作品を意識したとして不思議でない。両作は第1次大戦を挟んで書かれており時代の空気がうかがえるという意味でも傑作だ。リーニフの指揮はダンスのように流動的でビートはメリハリがあって明確。コンチェルトもこの曲も終盤の追い込み、加熱は品格を保ったまま大変エキサイティングだ。この人はバイロイト音楽祭初の女性指揮者としてオランダ人を振ったらしいが大変な才能。読響はコンマスが長原氏から林氏に交代したが洗練されて素晴らしい音を聴かせてくれ、一級品の演奏会であった。
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