読響定期(ブラームスとラフマニノフ)
2024 OCT 12 6:06:13 am by 東 賢太郎
先日、神山先生に会うや「東さん、頭が疲れてるね、胃と脾臓が動いてない。朝晩に蜂蜜をスプーン1杯食べなさい。それで戻るよ、でも純蜂蜜はだめだよ砂糖入りがあるからね100%と書いてあるのにしなさい」といわれた。たしかにそういう感じがあるが、なぜ顔を見ただけでわかるのか未だに不明である。
というわけで疲れてるのでこのプログラムを楽しみにしていた。
第642回定期演奏会
2024 10. 9〈水〉 19:00 サントリーホール
指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ヴァイオリン=クリスティアン・テツラフ
伊福部昭:舞踊曲「サロメ」から”7つのヴェールの踊り”
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 作品27
表現欲の塊のようなテツラフのヴァイオリンは壮絶だった。このホール、ソロの音がぬけないのか美音は犠牲になっても構わぬとばかり全身を揺らし、足を踏み鳴らし弓圧いっぱいの魂を込めた ff を弾ききる。Mov3はかつて知る最速のテンポで、指揮と競奏し齟齬やピッチが危険なほどだが、そうしたことを気にする演奏ではないのだ。こういうブラームスは初めてだがそれでも大きな感動が残ったのだから文句なし。Mov1、コーダ前のtranquilloのところ、第1主題を p で奏でるソロに pp のオケがそっと加わる痺れるようなあの場面、バスがcに下がってト長調になる壮麗な夕焼けを思わせる部分は数多あるコンチェルトでもラヴェルのト長調P協Mov2のフルートの入りの部分と双璧である2大奇跡的音楽だが、テツラフの高音はそこまでのアグレッシブな強奏があったものだから天上の調べのように響いた。tranquilの反対語がaggressiveであり、彼の表現はブラームスの意図の正鵠を射たものなのかもしれない。
それだけではない。アンコールのバッハを締めくくった柔らかいベルベットの感触の最弱音はブラームスの上記の部分の pp とは質がちがう。深く精神の奥底に沈静してゆくのだが、最強音でみせた弦も切れんばかりの緊張感と同じほどのエネルギーが乗っている感じがして耳が吸い寄せられ金縛りになる。同じ楽器から出たものと思われず、ヴァイオリンからこんな音を聴いたのは初めてだ。刮目すべきヴァイオリニスト。
疲れた時のラフマニノフS2番。これは我が定番だ。受験に失敗した時、目の前が真っ暗になったその日からしばらく記憶が完全に消えてしまっているが、これのレコードを落ちた当日に聴いていた記録をずっと後になって見つけた。そういう曲だったのだ。ところがそこまで好きなのにこれのライブを聴いたことがないと思っており、長女に「絶対一緒にきいてる、だって『2番ってP協じゃないよ交響曲だよ』って言ってたもん、きいたから曲覚えてるんだから」と真正面から反論されカードを調べると、たしかに2001年に日フィル、ザンクト・ペテルブルグフィルと2度も聴いていた。ここまで間抜けなことも珍しい。分厚いスコアは持っているがP協2,3番には子細に行った楽曲分析めいたことをしようという気になったためしもないし、大事な恋人のようなものでそういう無粋なことをする対象ではない異例の曲と思う。
ヴァイグレがこれをやってくれたことに感謝しかない。読響も熱演だった。ひとつだけ注文があるとすると、Mov2のシンバルが鳴ってからの急速な弦楽合奏だ。僕は海外のオケの方を多くきいてきたせいかもっと音圧、切れが欲しい。CDでコンセルトヘボウ管、ベルリンフィルと比べるとわかる(単純に表現すれば同じ f を弾いても音の質量感が大きい、BPOのコントラバスの音量などド迫力である)。日本のオケ一般のことだがきれいな音を作る表現力はあるがこういう部分の凄みがあればさらに表現の幅が出ると思う。
おかげで疲れが吹っ飛んだ。音楽を聴いてきてよかった。
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我がペニーレイン「和泉多摩川」に
2024 OCT 6 15:15:38 pm by 東 賢太郎
医師に「走るなら夜でなく朝ですよ」と諭された。暗がりの階段から落っこちてひどい目にあったので返す言葉がない。そこで前の週末、7時半から朝走りをやってみた。空気がちがう。よし、もっと遠出してみるかという気になったのは二子の駅まで来てからだ。戻ると7キロぐらいだ。夜だったらそうするが、まだ朝である。こういうとき「ここで帰るのはもったいない」となるのは子供時代からの困った性癖で、あらぬ場所に冒険したり友達の家にいりびたって行方不明になり、母が110番する寸前に何食わぬ顔で帰宅して大目玉を食らうなんてこともあった。ということだ。二子玉川駅から神奈川県側の二子新地駅にかかる鉄橋を渡る電車の “がたんがたん” がノスタルジーをそそったのも大いに加勢して、多摩川のもっと上流のあそこへ行こうという勇気がにわかに湧いてきた。
それは登戸稲荷神社だ(亡き父に捧げる五月五日のこどもの日)。両親は2歳の息子を連れ、昭和32年に板橋の実家から和泉多摩川に引っ越した。いまからみればまだ終戦後だったそのころ、当地は東京とはいえ最南端で川べりの田舎であり、住み家は1棟24世帯が5棟並んだ3LDKのひとつである。つまりなんでもないアパートなのだが両親には新天地だったと知ったのは、それこそが昭和38年に流行語となった “核家族化” だと後に学習したからだ。親離れしてモダンな家電とマイカーで “ハイカラ” な新生活を始めるのが若夫婦の憧れという世相は、同37年に大ヒットした吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」にくっきりと投影され、やがてくる高度成長期の礎になる。先んじて鉄筋コンクリートの新築社宅に入ったというのは銀行員の役得とはいえ、実家を追い出される立場である次男坊の父には誇らしいことだったに相違ない。そこに住んだ時期、僕には辛いこともたくさんあったが、家の中の記憶ということにフォーカスするならば燦燦と陽光がさしこむ明るい光景ばかりなのは不思議なばかりだ。意気揚々の両親のオーラに満ちていたからだろう。
走るといっても休み休みだ。道すがら河原に降り立って懐かしい草むらや川藻のにおいを深々と呼吸し、野の花や蝶々の写真をとったりと童心にかえったのは忘れ難い。東京にこんなきれいな蝶々が飛んでるなんて!あのころ、通っていた成城学園の周囲もまだ野っぱらだらけでそれはそれで楽しかったけれど、巨大な水流が秘める無尽蔵のエネルギーがあれば世界に不可能なことはないとさえ思わせる多摩川となると別格のド迫力であって、神々がこれを使えと伝えてくる鼓舞みたいなパワーが大地をメリメリと伝わってくる感じがしていた。野球を覚えるずっと前から友達とバッタやトンボを追っかけたり川面に石投げや水切り競争をしたり、いまは考えられないが遊泳や舟遊びまででき、冒険に興味津々の幼児にとってさらにゴージャスであった。
そこから数キロ走るとダムがあり、やがて我が故郷である和泉多摩川と神奈川県側の登戸にまたがる小田急線の鉄橋が遠く視界に入ってくる。住んでいたアパートはとうの昔に消えて今は14階だての立派なマンションが聳え立っており、商店街のお店もすっかり変わってしまっているが、タモリが言っているように道のくねりや幅や高低差はそのままだ。駅も高架になっていてまるで別な場所だが、その個所からの距離感は体が覚えていて、踏切があった場所がここ、そこから歩いてこのへん、このへんと往年のお店の位置が手に取るようにわかる。まず現れるのは左手にあった床屋さんだ。いまはラーメン岡村屋になってる。なぜか角っこに入口のドアがあって不思議だったが、なるほどこの T字路は直角でなく、駅から来ると鋭角になる。そこでとんがった角を切って車が曲がれる地形にした土地だったのだ。それが写真の自転車のある部分だ。床屋の例のぐるぐるはその左端にあったと思う。母に手を引かれて恐る恐る入っていく3歳の自分がみえる。
椅子は入ると正面に2つあった。座ると鏡に自分がおり、白い布を巻きつけられ首まで縛られる。いつも緊張していた。鏡の前に濃い青のガラス瓶が冴え冴えと鎮座しており、たしか赤?もあったが僕の眼はやたら青に反応するらしく覚えてない。それに液体に浸した器具らしきものが数本立ってる。もちろん櫛(くし)とハサミなのだが、変なのが出てくるとやだなと恐れてた。刈ってくれるのはいつだってヒゲの剃り跡が青々の旦那さんでやさしそうな面立ちなのだが、無口であって声をきいた記憶がない。髪を刈るとき手が仄かに消毒液の匂いがした。そんなに危険なものなのか・・。虚弱で毎週のように風邪をひいて、隣駅の狛江にあった久保田医院で注射されていたものだからそれを連想して固まってしまうのだった。いつも母は僕を置いて買い物に出て行ってしまい不安が増した。すると、それを悟ったのだろう、大柄で陽気な奥さんが「ボク細いねえ、ご飯たくさん食べなきゃね」なんて暖かく声をかけてくれてほっとするのだ。なんてビビり症の子だったんだろう。
写真の右手の建物、黒と黄の縞模様が貼ってある間口の狭いガラスの部分におばあちゃんがやってる小さな駄菓子屋さんがあった。ここはヘンゼルとグレーテルのお菓子の家みたいに夢のようなお店で、毎日学校の帰りにこっそり寄っては炭酸煎餅でウサギを作ってもらっていた。その工程はわくわくするもので、まず煎餅に水飴をはさみ、もう1枚を2つに割って耳にして飴でくっつけ、赤い梅味のシロップで目、鼻、口を書いて10円である。ある日、ポケットに5円玉しかなく入ろうかどうか迷ったが、これしかないですと差し出すとおばあちゃんは笑いながら「ボク、こんどは10円はもっておいでね」とウサギをやってくれた。それが「オレンジラムネ事件」の伏線であったのだが、その顛末はここにある。
思えば、おばあちゃんから僕は2つのことを学んでいたことになる。ひとつは商取引だ。お得意さんへの掛値販売というものの有効性、そしてそれが金利というものを生じさせる原理である。もうひとつは、これは非常に印象に残っているが、助詞「は」の用法である。あのときにおばあちゃんが言ったことを外人の子に伝えるならば Boy, if you like to come here next time, you must have at least 10 Yen coin with you. なんて長ったらしいものになる。それが「10円は」でエコノミーに完膚なきまでに明瞭に伝わるのである。なんてすばらしい言語だろう!日本語を学ぶ外国人が最も苦労する助詞の威力を一気にマスターしたのは、この言葉に参ってしまって、心からおばあちゃんに悪いと思ったからだ。
そのお向かいにはパン屋の幸花堂さんがあった。3歳ぐらいのころだろう、一人でお使い行かされ、入り口で足を踏ん張って突っ立ったまま大声で「パンいっきんください!」と教えられたまんまオウムみたいに唱える。すると「ボクお利口さんだね」とおばさんが出てきて紙で包んだパン一斤とお釣りを持たせてくれるのだ。そんな子供をだまそうなんて、まして誘拐したりいたずらする日本人なんてものは100%いないと確信に満ちた善き時代だった。覚えてるのはほめられてうれしかったことのみで、つまりこのストーリー、リアルタイムでの記憶はかすかにしかない。のちになって父が何度も人前で語ったから知ってるのだ。うちの息子は賢い、そう言いたくて賢太郎になったのであって、ほんとうにそうだとは僕は思ってない。それなのに、パン一斤の時と同じで父がそう思いこませてくれたから、その気になって多少そうなっただけというのが真相と思う。
道を先に進むと右手にあった肉屋さん、アラビキとかミンチとか知らない言葉が飛びかい、たぶんあれが好物のハンバーグになったんだろう。その左手には八百屋さんで、親父さんの威勢のいい声が飛び交い、薄暗くなると裸電球の横の籠がぶらぶらして蛾なんかが飛んでるのが目につく。つり銭をさっと選び出す手際よさは見事だったが。一番奥の右手角っこは本屋さんで、ここはとても重要だった。おやじさんが自転車で毎週火曜日に少年サンデーを配達してくれるシステムだったが、いつもその日が待ち遠しくて放課後にほかの誘惑を断ちきって早く帰ってるのにえらく待たされる。へたすると夕方だ。そこで待ちきれず取りに行ったらおやじは文句をつけられたと解釈したんだろう、ひどく愛想がなく、世の中こんなもんかと思って後の証券飛込外交の心構えとして役に立った。そんなことは委細構わず持ち帰ってむさぼり読んだ伊賀の影丸。僕は学校よりアニメで日本語を覚えた最初期の人種だ。蕎麦屋、鮨屋があったはずだがいつも出前なのでどこか知らない。
うれしかったのは江戸屋さんだ。商店街で唯一、60年前と同じ名前で残ってるのは感動的と評するしかない。いまは酒屋のようだが当時は建物全部がスーパーだった。なにせそんなものはハイカラでそんじょそこらにはなく、母とよく行った。「くすりの中山薬局」の部分の入ってつきあたりにコロッケ屋があって、母が小声で「こう言いなさい」と教えたとおり「めんちみっつください!」と大声でいうと、ガラスの仕切りの向こうで親父さんが笑顔で「はいよ!」とじゅーじゅー揚げてくれる。これはリアルに覚えてるからパン屋より少し後のことだったんだろう。コロッケよりメンチがちょっと高級感があってうれしい。持つと重たくて油紙がほんのり温かいのも良かった。そういう小さな幸せいっぱいの日々だった。そしていま、母の隣でメンチの大声を発したまごうことなき “その場所” に69歳の自分が立ってるのである。思わずぼろぼろ涙があふれ出てきた。
いよいよ川の堤防に出て多摩川水道橋を渡り登戸へ向かうことにした。橋のうえから今の自宅の方角を遠望する。二子のビル群が見え、川はそこで右に折れるからあのへんかと目途をつける。すると、家から見るとここはあのへんかと心当たりができるのである。そうこうして目当ての登戸稲荷神社についた。あれ以来はじめてであるし、橋を徒歩で渡ったのもそうだ。あれというのは両親に連れられて羽織袴で来た初めての七五三、つまり66年前だ。ポスターを見ると祈願があるのは11月2~10日である。1958年11月初旬で父が休みなのは日曜、休日だから2,3,9日のどれかであり、時刻は後述する件から午後3時に近かったと思われる。ともあれ、この時の父は33歳、母にいたっては30歳だなんて、とても妙な気がする。境内を歩いてみるとあっけにとられるほど小さい。人でにぎわっていて正月の日枝神社みたいな巨大なイメージがあったものだがこうだったのか・・・。どんな祈願をしてもらったかとんと記憶にないが、とにかく涙腺がゆるくなってるのはどうしようもない。周囲には人がいたが、なんであの人ひとりで泣いてるのか気懸りだったんじゃないか。
この境内には小さなエピソードがある。その日、一匹の茶色い犬がいた。雑種の成犬だったが、大勢人がいるのになぜか僕に付きまとってくる。さあ帰ろうと神社を出ても歩く後ろをトコトコついてきた。犬に好きとか嫌いの感情はまだなく、こっちもなついてくれたのに嬉しくなっていた。ところが橋までやってくると父が僕を抱き上げて欄干に乗せ、ケンちゃん歩いてごらんという。怖かったが手をがっちりつないでもらい、その上をこわごわ歩いた。とても長い。だんだん慣れてくると目線の高さに意気揚々となり、父との男のつながりで母の再三の「危ないわよ、やめなさい」はすっかり無視した。
対岸につき地面に飛び降りてほっとすると、犬はそこにいた。ついてきたのか!いとおしくてじゃれあって、やがてアパートの2階だった家の前まで来た。さあ中におはいりと当然飼ってもらえるものと僕も犬も思ったが、父は入れちゃだめだと頑として首をたてに振らない。そりゃ団地はペット禁止で仕方ないがそんなのは幼児には通じない。犬の鼻先でドアが閉められてしまうのを見て、僕は大声で泣きじゃくった。やむなく翌朝早々に起き出し、きっとあいつはドアの外で待ってると信じ、そーっと開けてみた。いない。外へ駆け出してそこいらじゅうを探し回ったが神隠しのようにどこにもいない。そこから何がどうなったかは闇の中で、覚えてないということは何もいいことはなく、記憶がデリートされたと思われる。どこでどうなってしまったんだろう、ごめんな。橋を戻りながら胸が痛んだ。
そういうことがあって、しばらくして母がどこかから黒猫をもらってきた。妹によると成城のクラスのお母さんからだったようで、とすると小学生になっていたから数年後ということになる。猫は大声で鳴かないし、外に出さないからという約束で父を説き伏せたと思われる。いま思うと、これが犬派・猫派の運命の分岐点だった。あのまま茶色が飼われていたら僕は間違いなく犬派になっていた自信がある。チコと命名されたこのオスはしたがって家猫になったわけだが、どういうわけか洗濯機の隣に首輪と紐でつながれてしまい、家族の一員になったとは到底いえない。母の運転する車が帰ってくると、幾台も車は来るのにエンジン音を正確に聴き分けてチコは鳴いた。僕はわからないのに凄いやつだと思った。何年かして、可愛そうだというので行きつけの伊豆下田の民宿に泊まった際に置いてくるという父の驚くべき裁定が下った。魚がいくらでも食えて幸せだといわれたがそんなのは口実だと思っており、どんな事情だったかは知らないが、おそらく猫が苦手な父がストレスになってだめだったのだ。チコと紐で遊ぶのは日課で飽きなかったが、僕も妹も歩くと足にじゃれつかれたり引っかき傷が絶えなかった。子供はなめられてたのだ。そのおかげで僕は猫とのつき合い方にめざめ、完全そっち派の人生を送ることになり長い長い豊穣のつき合いが始まったのだから偉大な猫であった。
そんな父だったが、和泉多摩川から中2で引っ越した鶴川の一軒家で野良猫が1匹、2匹、3匹と順次居つくと、家に出入りできるよう雨戸に猫の出入口をつけてくれた。大人になっても嫌なものはいつまでも嫌なもの。これは人間の法則であって僕もそういうものがたくさんある。猫のために新築のマイホームに穴をあけるなど父の性格からして苦渋の決断だったはずだが、その癒し効果で息子が東大合格すると猫たちの地位も向上したとみえ、次に調布に引っ越すと全員が車で同伴となった。本物の家族である。しかし猫は嫌いな人がわかる。僕が就職でいなくなると、愛猫家である母がいたのだけれどリーダー格のチビは家出して隣の猫になってしまった。それみろこの不届き者めと父が憎々しく思っていて不思議はない。50年近くもそうだったと思っていたが、先日、御殿場のお墓参りの折に食事していると、妹から「えっ、知らなかったの?チビはウチに来る前はお隣の猫だったのよ」と聞き天地がひっくり返るほどびっくりした。そして父の遺品の中にこれをみつけてさらに愕然としたのである。
97歳まで英語を勉強してた人だ。Scriblling Note(落書き帳)と題してわざわざ3匹の猫の、しかも毛の柄まで似たノートを選び、CHIBI、 CHARKO、KUROと各々に名前を記している。本当に猫好きに転じたなんて信じることはどうしても難しいのだけれど、不器用で猫には伝わらなくても父は家族として愛してくれていた、そうでなければこうはならない。Cats For Loveは後を僕に託す、つながってるぞというメッセージに思えてくる。2番目の猫は僕と妹にとってはチャーであって、メスだからと子をつけて呼んだのは既に先立っていた母だからそれも込められている気がする。これは実は落書きなどでなく、半分は遺書であり、半分は達筆でしたためられた膨大な自作他作の俳句 / 短歌集である。
物心つくかつかないかの出来事なんてあんまり覚えてないものだが、好み、趣味というものはこうやって芽生えてくるのなのだろうか、僕においては今もメンチとハンバーグは欠かせないし、炭酸煎餅に水飴をはさんで食べ始めると止まらなくなるし、チョコレートはゴディバよりあの植物油っぽい駄菓子チョコの方が断然高級に思えるのである。床屋の鏡の前にあった濃青色の瓶(びん)。あれはその象徴みたいなもんで、梶井基次郎の「檸檬(れもん)」の「ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」という文章を読んだとき(たぶん高校の教科書にあったんじゃないか)、ああこれがあれだなと感じ入って、それこそ文字がカーンと冴えかえって見えた。あの人間離れしたディープ・ブルーの冷々たる佇まいはそれ自体が神界の奥義をぎゅっと集積した鮮烈な現象であって、音楽ならバッハの平均律のようなものだ。やがて僕はその色のエーゲ海が好きになり、家のステンドグラスも濃青を散りばめてもらい、ソナー・アドバイザーズの名刺にはボトムに深海をイメージしたディープ・ブルーの帯を印刷することになった。
本稿を書きながら、ふとビートルズのこの曲を思い出した。ポール・マッカートニーが「子供時代の記憶を呼び戻した」と述べているこれである。
ペニーレインはリヴァプールの南の郊外にある何の変哲もない通りだが、小中学生時代のポールがジョン・レノンと頻繁に立ち寄る場所だった。彼はこう語っている。「Penny Laneはちょっとノスタルジーの部類になるんだけど、本当にジョンと僕が子供のころよく知ってる場所を書いた曲なんだ。だってお互いの家に行くとバスがそこで終点でね、ラウンドアバウトみたいなもんなんだけど、乗り換えなくちゃいけなくて二人でしょっちゅうあたりをぶらついてたんだ。だから我々の知った場所だし、歌詞に出てくる話もみんなおなじみなんだ」(筆者訳)。
In Penny Lane there is a barber showing photographs.
この曲でも「床屋」が冒頭に現れる。
Penny Lane is in my ears and in my eyes.
ペニーレイン、ぼくの耳と目に焼きついてる。
天才であるポール・マッカートニーはノスタルジックになることで凄い曲を書いたが、凡才の僕がそうなって書けたのはこのブログだけだ。この日曜日、帰宅してスマホをみると走行距離は22キロ、歩数は4万歩だった。
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今年の野球は大谷サンに尽きる
2024 OCT 1 16:16:52 pm by 東 賢太郎
飛ばない球か何だか原因は知らないが、今年はNPBはホームランが激減し、ちんまりとしみったれた野球だった感は否めない。1-0、2-1の真の投手戦はあるにはあったが、そのスコアでも実は貧打戦というのも多く、それなら貧投の乱打戦のほうがよほどエキサイティングだ。4番打者がおらず目下のホームラン数が12球団最低の51である広島カープが8月までセリーグ首位でいられたのは、他チームもホームランが出ないためアラが目立たなかったメリットが大きい。9月に投手が力尽きるや20敗と歴史的大敗を喫してCS進出すら危うくなったいま、残り4試合あるにもかかわらず「大谷サンの54本を上回らない方に賭けたい」とファンに言わしむる非常事態だが、それが今年のカープの地力であって現場は本当によくやったとねぎらいたい。丸や鈴木誠也などホームランを打ち出すと引き抜かれてコスパが悪いせいかドラフトで有力な4番候補を採らず、ここ何年もコストをケチった外人のバッターたるや死屍累々の惨状のうえ今年は結果的にキズモノをつかまされる体たらくだった。これはフロントの大罪であり、米国のスカウトは問答無用で首だろう。
日米の差というと、日本人打者で唯一ホームランで注目された松井秀喜ですら日本で50ホーマーを打ったがメジャーでは最高31本に終わった。現役では鈴木誠也も日本で38本だがメジャーで今年21だ。ざっくりホームランは半減するようだ。ところが大谷は日本で22本だったのが54本と、あっさり法則を覆している。この人、体が強い。米国人と並んでもでかい。巨人なんて球団が名のるぐらい野球はでかい方が強い。しかしそれだけではメジャーでは人並みだ。この成績を出せるというのはそれだけではない、何かは知らねど強烈なメンタルというか生活態度というか人間性、いや哲学とでもいうべき「すさまじきもの」が内面にあると仮定しないと説明がつかないように思う。
一説によると日米の野球にぬぐいがたい彼我の差があったのは昔のこととされる。本当にそうかどうかは選手しかわからないが、大谷を見ているとそう思えてくる。現に3Aで30本塁打した打者が広島に2人来たが、どっちも日本の投手をからっきし打てなかった。日本で19本打った一人は韓国に行って今年50本近く打ったから、短期決戦はともかく長丁場のレースではレベルの違いはいまだ歴然とあると思う。3Aで30本塁打でもメジャーに上がれない。だから年俸がお安い日本にやって来たのだ。ということは3Aとメジャーはその平均年収の差と同じぐらいレベルが違うと思われ、プライシング(値付け=年俸)には市場原理がほぼ正常に働いている可能性が高い。ということは、「54-59」でメジャーを熱狂させた大谷サンのしたことはNPBの選手の年俸平均からして明らかに彼らの想像を絶するもの(要は全然無理)であるという結論になる。
愚生ごときにあってはあたかもUFOでも出たかの如き超常現象を眺める気分であって、メジャー球団のファンでもないから世間様が騒いでるような胸騒ぎを覚えたことも一度もなく、ロスに行ってナマを観ようかなんて欲求も覚えず、至ってクールな一年であった。逆張り型でひねくれているせいもあろうが、経験主義的人間であるので経験のないホームランも盗塁もあんまり実感がないことはある。やったことないサッカーでハットトリック何回といわれても一抹の感動もないが、自分の頭がそれと変わらないと思っている感じがある。
それでもこんな男がかつていたろうかと驚嘆している点がひとつある。とんでもないトレードマネーである。我が業界、カネは紙の上の数字にすぎない。扱うカネが何千億だろうと何の感情もないようにトレーニングされており、もらう賞与もン億円ぐらいは並であって感覚は世間ずれしていると思われる。業界は異なるもののその一点において、彼が1000億円もらった現実はホームラン、盗塁よりは実感のかけらぐらいはある。そんな金額が自分の通帳に載ってくれば、その裏腹の責任の巨大さからくるプレッシャーたるや地球上で最大級のものと想像され、我が身であれば発狂して不思議でないと身震いがするのである。
それを見てか知ってか、ちゃんと発狂したフツーの人がいた。通訳だ。この事件、検察がその気になれば危なかったかもしれぬ。嫉妬からくる悪意と法的なプレッシャーがあったと想像するし、それを振り切った大きな力が働いたにしても、未曽有の凶事がプレーに支障なかった事実は尋常でない。しかも、そのプレーということでいえば、今季はリハビリを行いながら打者オンリーで臨む初の一刀流のシーズンだった。ハンディを乗り越えたのであって、54ホーマー打ったのと同じほどそれも尋常でない。投手として育った彼が日本の風土で盗塁の名手だったはずはなく、新たに挑戦したのだ。そしてこの記録を出し、「大きく期待を上回ってくれた、クレイジーなことだ」とドジャースGMに言わしめた。超一流のスナイパーと評するしかない。
イチローの数字も超人的だが彼は人間も超人的に思えるオーラがあり、打席で集中すると投手に伝わる殺気のようなものがあった。大谷は体のサイズはともかく人となりは一見その辺にいる普通の好青年に見え、殺気などとはほど遠い感じがするのが不思議でならない。思わず親しみをこめて「サン」をつけたくなるほど普通感が半端でないのであって、そもそもこんな野球選手は日本にはいなかった。言動からしても賢そうで東大の教室にいても違和感なく見えるのも恐るべしだ。あの顔だから投手が油断して甘い球を投げてしまうのだろうかとさえ思ってしまうが、この実績なのだからそんなはずはない。
1994年生まれとなると超人類が出現しているのだろうか。このことをもって日本は大丈夫だ、元気を出そうといっても出るものではないぐらい図抜けた現象ではあるが、彼は片言の英語でなく今でも通訳を通して堂々と日本語でインタビューを受けており、発言もアメリカに媚びる様子は微塵もない。立派な日本男児だ。アメリカ人にとっては道を歩いてる普通の人にとってもたかが野球されど野球である。真の勝者は雄たけびを上げるのでなく、ああいう清々しい姿をしているのかもしれない。
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ユーミンのバックコーラスだったんです
2024 SEP 23 9:09:08 am by 東 賢太郎
ひょんなことで女性シンガーの方と話した。
「もうずっと前ですけど、いちおう80年代は ”夜のヒットパレード” の常連でした。○○○○ってバンドですけど・・」年恰好からきっと知ってると期待されたんだろうが「ああ、僕そのへん日本いなかったんです」「じゃ五輪真弓、中島みゆき、竹内まりあなんて・・」「うーん、たぶん知ってると思うけどあんまり」。要は興味ない。
こういうところ、少年時代から乗り物は電車、運動は野球、勉強は星、小説はミステリー、動物は猫ときまって今に至っている事実がある以上、何が身にふりかかろうとこの性格が修復される可能性はなかろう。男だから女性についてはそこまでストライクゾーンは狭くないが、部屋にポスターを貼ったことのある唯一の女性はアグネス・ラム(左)である。この人の笑顔はこうしてしげしげと眺めてみても、いまもって聖母マリア様にしか見えない。たぶん南方系だ。自分にそれがあるということなら起源は長崎のばあちゃんしかない。地中海、アドリア海、エーゲ海にビビッときて二度クルーズしたが、人類はアフリカから来たわけだしその頃の根強いDNAでもあるのだろうか。
一度だけ南国に住んだことがある。香港の2年半だ。異動は1997年の1月だった。雪深い極寒のチューリヒから家族を引き連れ降り立ったカイタック空港。一歩外に踏み出して直撃を食らった強烈な陽ざし、ぼわっと全身を包み込む熱くてねばっこい大気、スイスには絶対にない独特なアジアの匂い。500人もいる会社の社長になるのは気が重く、もともとそういうのに向いてないし研究室にでもこもって思いっきりオタクな仕事をするタチなのだ。ところがそんな緊張とストレスを吹っ飛ばすぐらいあの熱い土地は僕を一気に確実に元気にした。なにかはわからないが、いま思い起こしても図抜けた高揚感というか、コカインか何かを吸うとこうなるのだろうとしか喩えようのないワクワク感が自分を支配しているのに気づいてびっくりした。ヨーロッパは好きだし文化は性に合うしそれは些かも変わってないのだが、遺伝子の眠っていた部分に火がついて僕はいまこうなった。あれがなければそこまで25年もズブズブだった会社を相談もせず飛び出したり、起業してこの年までやろうなんてことはなかっただろう。
アメリカもヨーロッパも日本から見れば既にずいぶん北だ。あそこからもっと北に行こうなんて気はまったく起きなかったし、はっきりいうなら申しわけないが、飯はまずいわ、そもそも竜宮城が流氷のなかにあったら凍死しちまうし乙姫様もいなさそうだしってことで、要するに北方には危険を冒してでも略奪したい豊穣な富がある感じがしない。アレキサンダー大王の東方大遠征も英国人が東インド会社を作るに至ったのも、衝動の中に “これ” があったのではないか。だから東でなく南、それも旧知のアフリカではなく未到の東方における南、すなわちインド、極東を目ざしてやって来たのだ。浦島太郎は亀のおかげだが、竜宮城を求めて行くのは男の本能なのは精子と卵子を見ればわかる。そこを平等だジェンダーだと争うのは個人の自由で構わないが、宇宙の原理にかなった生き方をするのが自然で安心で幸せだというのは僕の幸福論の根底だ。
「最初はユーミンのバックコーラスだったんです」「へえ、僕はね、女性シンガーは彼女とカレン・カーペンター別格なんですよ」「そうですか、松任谷さんと来られて私のステージ聴いてくれたらしくて、電話でやってよって頼まれたんです」「あなたすごいね」「いろいろあって断ったんですけど、彼女のステージ見たら竜や本物の象まで出てきて、こりゃやるっきゃないって」「やってよかったんじゃないの、全国ツアーでしょ、じゃ一緒に食事したり」「ええ、でもツアーは今までの歌い方だと声潰すんでボイストレーナーつけたりダンスの練習まであって大変でした」「彼女はどんな人?」「普通ですよ、でもでっかい竜は中日ドラゴンズに寄贈してました(笑)。この前も原宿歩いてたらばったり会っちゃっておおって」「彼女、喉声で歌下手だって言われるけどね、実は音程いいんですね、ピアノやってるし当然ですね。曲が天才です、荒井由美だったころの」「音楽されるんですか」「しません」「なに聞かれますか」「クラシックだけです」
この方のご芳名は書きません、許可もらってないんで。
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自民党総裁選に思うこと
2024 SEP 21 11:11:30 am by 東 賢太郎
自民党の裏金問題は国民の記憶からは消えない。メディアからはとうに消えているがネットには残って温度感がキープされ、よって次々に新たな書き込みが誘発されるからだ。これぞ情報新時代における政治現象の記憶保持の例として後の政治学者、社会学者、統計学者の恰好の研究対象になるだろう。こと政治に関する限り「台風一過」、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という日本人の社会学的特性は昭和と共に去ったという結論に行きつくことは必至と思われる。国民は馬鹿だからすぐ忘れるという感覚でやっている政治家はどんな大物であろうとオワコンとして国民の記憶から藻屑のように消し去られ、「そうやって消えた寂しい政治家」のカテゴリーの一員として記憶保持されるだけだろう。
全国津々浦々にある裏金問題の怨嗟の中で米国追従だけに全身全霊で邁進してきた岸田政権において、支持率回復になり得る新たなネット情報を誘発する可能性は極めて微小であり、仮に書きこんでも影響あるほどのPVを獲得する可能性は限りなくゼロに近い。よって、それらを先行指標とする支持率がゼロに収束していくことは、何度も指摘した数学的ともいえる自明の理なのであった。それは情報拡散力や発信ソースの多様化など往々に指摘されるウエッブの特性のみにとどまらず、国民の行動、意思決定に関わる現象、いわば思考回路の形成にまでネットが関与しているゆえの現象だ。回路が変容すれば求める情報、その質と量、そしてそれをインテリジェンスとして引きおこされる個々人の判断や行動も変わることも、これまた止めようのない自明の理だ。それは例えば「国民の6割が1か月に1冊も本を読まない」という情報の受け手側の事情に原因の一端をうかがい知ることができるが、その解釈を間違ってはいけない。6割の国民が文字離れの馬鹿になったのではなく、賢い人もネットでしか読まなくなったのである。
この現象はウエッブという増幅器によって加速度的に進行し、自動車が人力車に戻らなかったのと同じほど逆行、復元の可能性はゼロである。止める方法は日本国民にネットの閲覧を禁止する法律を作るしかない。都知事選においてネット発信で戦った石丸候補の得票数に今更驚いて石丸現象などと騒ぐ既存メディアの運命も、従って “予定調和的に” すでに見えているのである。そうか、それがニュートレンドだ、そうであれば石丸に習って「若返り」だと43才を売りにする自民党幹部の思考レベルも国民はネットを通して完全に見透かして冷笑している。自民党員しか投票はできないからそれでも総理は民意を無視して決まり得るが、その場合、やがてある衆院選、参院選で自公は “予定調和的に” 大敗するだろう。
僕は都知事選で石丸氏に投票したが、それは彼が若いからではない、京都大学でちゃんと勉強していることを演説と討論会の言説で確認できたからだ。それを欠いている人の発信は、最初はテレビだけでも瞬時にネットで配信され、ウエッブで増幅され、様々な第2次配信者による色付けがなされた状態で永遠に残る。次回話題になったとき、全有権者は自由に随時にそれを何千回でも再現でき、既存メディアの得意技である「報道しない」という世論操作はもはやできない。報道しなければそのこと自体を国民は「印象操作だ」と認識し、確実にその政治家の「負の印象」が不可避的に固定化する。やればやるほど学習効果によって強固に固定化する。ウソだった公約は、公約内容は忘れても「嘘をついた」という事実は永遠にクローズアップされる。そのころ、1か月に1冊も本を読まない有権者は7~8割になっており、ネット依存は決定的になっており、オンライン選挙への移行から逃げようがどうしようが、投票行動にそれが影響を及ぼさないはずがないのである。
それはリスクを伴う政治判断をする場合に政治家に不利益とも考えられるが、その時点で是であると国民も考えたならそういう形で記録されるので結果が非と出ても傷にはならない(それこそが民主主義だからだ)。つまり政治家は国会で民意を問うという当然の義務を果たせばよいだけだ。それを無視した岸田政権が党議拘束をかけて強引に押し倒して通したLGBT法案決議の悪評は強固に記憶保持され永遠に許されないが、それは民主国家における自業自得という一例にすぎない。つまりそういう政権は悪評と共に潰される非業の末路を迎える。その事例が増えれば失政のステレオタイプとして国民の脳内に蓄積し、それを喚起するネットの書き込みがあふれて印象を増幅し、それをした政治家は投票されなくなって落選するだろう。未来に誰がどう言おうと俺は構わない、強引に権力を奪おうという政治家には抑止力にならないかもしれないが、どういう人間を当選させるとそうなるのか、これからの国民は中高生あたりから多くの事例をネットで見聞きして学ぶことができ、反復のシミュレーション効果が表れ、やがてそういう兆候のある者を政治家に選ばなくなる。思考回路とはそういうものをいう。
衆議院議員も参議院議員も、すべからく自民党議員は選挙の顔をすげ替えなければ次の当選が危ないと懸念するのは昭和・平成の選挙の残り香である。周囲がそう考えて行動するのだから「美人投票」で生き残るには仕方ないが、恐らく、石丸氏はそう考えないだろうしそういう議員が増えるだろう。表紙が替われば悪書が良書になるなどという場末のマジックショー並みの安いトリックは、候補者の知名度とテレビの露出ぐらいで投票するしかなく青島幸男や横山ノックが知事になった時代の遺跡だ。そういう結果を民意がもたらしたのだから当時の有権者がその程度だったということだが、ネット情報で新しい思考回路をもったこれからの有権者はそうはいかないだろう。デパートの包装紙であれば何を贈っても喜ばれて安心だというのは昭和の話で、デパートの方が消えていく今ではナンセンスなのである。喜ばれるのは中身だ、本当に良いものだけが生き残る。
以上を書きながら思い出したのは、コロナが出てきた2020年の8月に書いたブログ「ジャイアンであるためにジャイアンな政府」だ(注)。ロンドンで生々しく体感し、我が政治観の原点になった「サッチャー政権と英国民の民意の関係」についての論考である。僕は彼女のしたことを支持するし、基本的に小さい政府を良しとするが、それがサッチャリズムという呼称と共にネオコン、新自由主義に姿を変え、こともあろうに社会主義、共産主義に近い思想に摺り寄せられて解釈されたことには大きな違和感を覚える。彼女はエスタブリッシュメントの巣窟である保守党で異例の中流の出である。英国では議員の世襲は親の地盤を継げないなどフェアな制限があるがクラス(階級)にそれはないためにいじめにあった。田舎の雑貨屋の娘はまず階級と闘争する必要があったのである。しかしオックスフォード大学で化学を専攻した彼女の知性と意思は非常に堅牢だった。周囲をメジャーでないユダヤ系の切れ者の登用で固めるという策で切り返し、国柄を変えるほどの大改革を成し遂げた。大政治家でなくて何だろう。戦争を仕掛けた是非はあろうが、あのころ、ロンドンの空気はというとまるで13連敗してプライドがズタズタだった2017年の読売巨人軍みたいなものであり、フォークランドを取り戻したことがどれだけ国民の士気を上げたかわからない。これに勝利してそれまで不人気だった政権支持率は保守層のみならず労働党支持の大衆においても急上昇した。クラス社会、男社会を正面突破した彼女の看板は「女」でなく「鉄」だ。「初の女性総理」が売りなどというくだらないうたい文句は、その空虚な意味のなさにおいて「初の43才」と何の相違があろう。鉄はサッチャーの学識、知性、意思、決断力そして何より愛国心に与えられた称号だと僕は思う。
(注)2020 AUG 17に書いた「ジャイアンであるためにジャイアンな政府」は2025 AUG 17に「権力者であるために権力者でいたい政府」に改訂しました。
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自由が丘を走っての軍事的雑感
2024 SEP 16 1:01:15 am by 東 賢太郎
人間ドックで体重を5キロ落とせと言われた。2年ご無沙汰だったのは採血と胃カメラが嫌なのもあるが、コロナ入院から解放されて安心してしまっていた。その間にあれだこれだの数値がメタボ級になっており「このままだと糖尿まっしぐらですよ」と脅かされ、「5キロ落とせばみんな戻るでしょう」と励まされる結末に至った。ものぐさなのでシンプルな解決が好きである。よし、それならという気になった。
土手で転んだ傷もきれいになった。夜の9時ごろからのジョギングを再開したが、川は懲りたのでとりあえず自由が丘を目ざすことにした。この街、通過はすれどよく知らない。故中村順一が近くなので詳しく、行きつけの緑道沿いのナポリタンの旨い店とバーに行ったぐらいか。通りの表裏に居酒屋、ショットバー、あまり気取ってないイタリアン、フレンチもあったりと、世間ではこじゃれたイメージがあるが、江戸の老舗や個性的な中華などはないからあんまり興味ないというのが本音である。
駅前のロータリーから東横線のガードをくぐる。ラーメン屋、てんぷら屋のあたりにかけて看板やチラシを手にした男女がずらっと並んで客引きに忙しい。このごちゃごちゃした小路、「美観街」とあるがウィットだろうか。「自由」ってのも「なんたらが丘」ってのも、この辺は東急が開発するまで野っぱらだからで、良くも悪くも毒がない。新宿、渋谷、池袋あたりの裏路地のヤバそうなムードはないが、水清くして魚棲まずの感無きにしも非ずである。新しい街の住人はみな「移民」である。地縁がないからつき合いも希薄で共同体より個の意識が強い。ざっくりいえば、徳川時代の江戸だった東京の北東は村社会的で、南西は都会的だ。都会は個を気ままに貫けるが助け合いより競争的である。
自由通りの方に進むと、やおら高校生らしき男女が道にあふれ出てきた。9時半を回ってる。線路のあたりに駿台、河合塾、四谷学院、Z会などがこうこうと明かりをともしており、一斉に授業がはねたものと思われる。あたりに幼稚園の予備校まである。一緒に祭りの神輿をかつぐなんて土地柄でなく、都会の住民の子たちであろう。クモの子を散らすように猛スピードで暗がりに散っていった彼らは、本当に勉学が好きなのか親の管理下でそうなってるのか。ふと思い浮かべたのは「猫カフェ」だ。あんまりじゃれない猫たち。奔放にお客に嚙みついたりひっかいたりすると営業に向かないのだ、可愛そうにともう行ってない。
面白そうなのも見つけた。朝8時閉店までどうぞ、気絶するまで営業します!という人情居酒屋だ。こういうのがあるだけで元気をもらえる。それにしても徹夜で焼酎飲んで朝飯食って帰る奴ってどんなだろう、よほどの時差ボケか昼夜逆転した人か、いやいやそれでも普通は朝まで飲まないだろう。あんまりまじめなイメージはないが人間は面白いんじゃないか。イタリアみたいだなあと思う。奴らは明るくて遊び好きだ。クソまじめなドイツ人より面白いと思っていたらそのドイツ人だってアルプスを越えるとなぜか明るくなると自分で言ってたっけ。オペラやサッカーが11時ぐらいにはねてから騒いで朝帰りなんてあたりまえで元気であり、それでも優秀な奴がたくさんいたし、そんな中からヴェルディもプッチーニも出た。間違いない。人間力をつけるのは断然遊びだ。
このあたりに住んだのはプライベートは静かな処でと思ったからだが、転んで死んでても朝まで発見されないぐらい静かである。時に人恋しくなる。そういえば浅草は良かったぞ。演芸やお笑いが好きで仕方ない連中がたむろす人情味どろどろの世界で、恋も喧嘩もいいじゃないか、人間は持って生まれたものを全開にして生きた方がパワーも出るし幸せだ。落語、義太夫、見世物、そんな地酒、どぶろくの中にワインみたいなオペラを持ってくるとスッペのボッカチオが「ベアトリ姉ちゃん」に化ける。種子が根づいたのは鹿鳴館じゃない、パワー全開で人間くさい浅草だった。いやスッペなんてウィーンのどぶろくみたいなもんで、そういうかっこつけない生き方こそ正統派と思う。
明治の大衆はエネルギッシュだった。これがあったから日本は強国になれた。廃藩置県で幕藩体制が壊れ、刀もちょんまげも取り上げられたのだから武士の剣術でそうなったわけではない。ただ武士の子は藩校という世界に例のないエリート養成学校で幼時から文武を叩きこまれ、文にも武にもインテリジェンスのある傑物がいた。米英仏の口車で再三そそのかされても内戦をせず、無血開城で江戸を火の海にしなかった西郷と勝はそれであり、植民地にされる瀬戸際で命を賭したからそうなれたのであり、こういう者をエリートという。ガリ勉していい地位について国を売ってでも私益だけは守ろうなどという者を大量生産するなら、それは教育と呼ばない。
日本は西洋から船で来れば最も僻地である。米国からも遠い。外圧を防ぐ地の利はあったが、それでも薩長は大変にアウエーである英国と戦火を交え、ホームで大敗を喫した。弱かったからではない。徳川の世で戦さがなくなり、種子島の火縄銃を数日でコピーする知恵と器用さがありながら技術を進化させるには欧州に周回後れをとっており、気がついたらアームストロング砲の時代だったからである。だから両藩のインテリジェンスに攘夷などという言葉は最早ない。公武合体派の薩摩は薩長同盟で倒幕に切り替え、そこに「尊王」という定冠詞をまぶし国民国家の宣言となる王政復古の大号令を発して慶喜を賊軍に押しやった。我が国に王政の時代などなかったからこれは官軍の旗と同じくフェークであったがこういうことはやったもん勝ちである。
欧米は日本の何倍も大きい中国の解体を狙い、日本はそのための闘犬に仕立てるべく開国させて不平等条約で囲い込む戦略で一致した。明治新政府の「富国強兵」とは武器開発の後れをリカバーし、犬でなく人に昇格するインテリジェンスであり、これなくして不平等条約のタガがはずれることはなかった。その証拠に、英国が条約改正したのは日清戦争に勝って軍事力を認めてからである。これを愛国ともいえるが、犬扱いされた人間の当然のプライド、自尊心である。それを勝ち取るには軍事力が必要。きれいごとではないこと、実効性があることを北朝鮮が実証している。さらに闘犬は猛々しく露西亜も破り種子島での能力が伊達でないことを見せつける。これは欧米を恐怖させ、ワシントン海軍軍縮条約で主力艦の総トン数比率を米・英・日・仏・伊の軍縮に至り、対英米6割という屈辱を甘んじて受けたものの三大列強の一角になったのだから驚くべきことだ。戦後の高度成長は朝鮮特需であって新技術、新製品があったわけではない、まったくのアメリカさんの都合、棚ぼたであり、それを短期に供給できたことぐらいだ。我々が真に世界に誇るべきは近代国家の創成期に、短期間に軍艦建造大国になった工学力、つまり理系の技術である。
この過程で米国が将来的な仮想敵国となるであろう事を軍部は強く意識した。統帥権干犯問題を盾に単独行動を強化し、国際連盟脱退、ロンドン海軍軍縮会議脱退から巨大戦艦の「大和」と「武蔵」の建造を開始、そして、その行く末に対米戦争に至るのである。この戦争の終結において米国は総トン数から核弾頭数へと武器のフェーズを更新し、英国を蹴落として世界覇権を奪取した。それをもたらしたのは核開発に枢要な理系人材の確保であり、敵国ドイツでナチに殺されかねなかったアインシュタインらユダヤ人物理学者を迎え入れアメリカ国籍も与える戦略をとった。同じことが音楽界でもおき、ユダヤ系のワルター、クレンペラー、シェーンベルクなどが続々と米国に亡命した。日本は法律も科学も欧米から輸入しひたすら翻訳、コピーした。だから東大という富国強兵のための官僚を作る大学の学部は法医工文の序列になり、法は不平等条約改正、工は軍艦や兵器の製造(工学部が大学に入ったのは日本だけだ)、文は洋書の翻訳だった。いまだに序列はそのままだ。東大法学部卒は海外へ出ると何でもないが国内では幅を利かすルーツはここにある。
政治家に理系がおらず、そうでなくとも思考訓練をしていればいいのだがそれもなく、ド文系が国を支配しているルーツも無縁ではない。これは「世の中は理屈じゃない」と神風を信じる日本人の精神構造そのものにも膾炙しており、政治家に理系が揃う中国はそれを是非とも温存させたいだろう。日本は欧米の科学を迅速にコピーして世界をあっといわせたが、それにかまけて最先端の基礎理論から自らの手で新技術を生むことを重視しなかった。ナチスに迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官、杉原千畝がいたのだからドイツ人物理学者は日本が保護する可能性もあっただろう。核爆弾はドイツも日本も研究しており、先に開発すれば広島・長崎は救われた。こういう手は奇策でも謀略でも何でもない、いわば喧嘩に勝つ悪知恵を考えて巧妙に手を回すインテリジェンスであり、米国ならCIAが堂々としてることで、だからその “I” が名称に入っているのである。杉原の善行を汚すことにはならない、なぜなら外国との虚々実々の立ち回りはそういうもののオンパレードであることは外国に住んで厳しいビジネスをした者にとっては常識であって、それでこそ国も助けた、国益に資する行為だったとなり、日本人は侮れぬと一目置く国際評価になるのである。「日本人はいい人だ」ではなんにもならないのだ。
くりかえす。米国にあって日本になかったのは情報(information)以前に諜報(intelligence)だ。真のインテリがいなかったのである。こういうことは学校でも塾でも教えない。わかるのは喧嘩や野球をしたり麻雀をしたりの「遊びの場」であると実体験から僕は確信する。秀才だけ何人いても国はだめなのだ。神国日本を信じ、理屈が嫌い、欧米が嫌いで反知性主義に傾きがちな保守的国民もそれで良しとした。そして、その嫌いな最先端科学技術で無抵抗に殺されたのである。無学の大衆は仕方ない、これは文系エリートの大失策である。最強の武器を持てば襲われることはない。自ら襲うことをせず日本人が古来より誇る賢さと謙虚さで生きていけば国民は安寧に生きていける。保守的国民、大いにけっこうだ(僕もその一部ではある)。しかしこれぞ幕末の「尊王攘夷」なのである。薩長は幕府に先駆けて英国と殴り合いの喧嘩をし、勝てないと知った。これがintelligenceであり、勝てない喧嘩をするのはただの馬鹿である。半藤一利氏は薩長史観を否定し尊王攘夷は倒幕の口実とする。その結果起きた戊辰戦争は暴徒と化した新政府軍の東北、越後への侵略戦争になってしまったという部分は同意するにせよ、薩長が動かねば国ごと英米の謀略と武力でじわじわと侵略され、明治維新などと美名がたつ国造りなどおぼつかなかった可能性がある。
「大和」と「武蔵」。僕は英国のヨークにある鉄道博物館で、新技術だった電気機関車にとってかわられる前、1938年に時速203キロを記録した最新式蒸気機関車マラード号を見た。この数字は驚愕だった。
ひとめで「戦艦大和」だと思った。奇しくも大和の起工は1937年である。英国の凋落、米国の勃興の象徴。新幹線ができる26年前に200キロ出した機関車を生む技術、安全走行させる保線技術もが世界一でないはずがない。きかんしゃトーマスのスペンサーとして今も愛されており、現在もマラード号の記録は破られておらず、ギネス世界記録にも「世界最速の蒸気機関車」として認定されている。しかし、電気機関車の出現で1963年に消える。時代遅れの技術で最先端に立っても意味ないばかりか、依存してしまえば自信をこめて国運を過つのである。世界に冠たる大和、武蔵は世界一のスペックを誇る戦艦であったが、完成したその頃に海戦の主役は戦艦から空母機に代わり、沖縄へ向かう途上に多数の米軍艦載機による攻撃を受けて鹿児島県の坊岬沖で撃沈された。だから国民を安寧に生活させるためには常に最先端で競って勝っていなくてはならないのは自明であり、なぜ2番じゃダメなんですかという馬鹿な女が政治家をやり、1番は保安官におまかせなどという精神構造が国民にできてしまえば、それだけで国家の滅亡は予定されたようなものである。
いま海軍軍縮条約は核軍縮条約になり、国際法はあっても拘束力は何もない。無法者が何千発でも核弾頭を装備しいつでもミサイルをぶっ放せる中で核保有なしというのは、西部劇で「殺し合いはいけません」と銃を持たない処女ばかりが住んでいる清廉な街のようなもので、それが今の日本である。守ってる保安官は実は自分たちを襲った奴であり、そいつは他の街で喧嘩を煽って何十万人も殺してる。こんなお人よしの街はないだろうというと、世界史上に前例がひとつだけある。カルタゴだ。案の定、いちゃもんをつけられ保安官のはずだったローマに撃ち殺されて歴史から消えた。いま総理になるとかならないとか言われてる連中はカルタゴの名前ぐらいは知ってるんだろうか、いやそれも危なそうだと不安になるのがちゃんと総裁候補に用意されているではないか。イケメン俳優で台本どおりにもっともらしくセリフを吐くのだけがうまく、何も考えずに保安官が飲み食いしまくった領収書を経理部である国会に通すだけ、それでも国民から人気をとる芸がうまい。すばらしい。保安官からすれば、日本国民から税金を巻き上げて何も考えずに自分に貢いでくれる、そういう壮絶な馬鹿をおだてて総理に祭り上げてもらうのが何よりありがたい。幸い国民はそこまで馬鹿でない。そんな職業に就きたくないから傑物が政治家にならない。政治は互助会みたいなファミリービジネス化して、ビジネスだから株主利益追求が目的となり国民の命などどうでもよい。これを変えるに派閥潰しなどは国民の目くらましで何の意味もない。我々は真剣に選挙制度を根底から変えないとだめだ。西郷や勝のような傑物が政治家を志し、金も地位もない身でも総理大臣になれる制度を作ろう、そういう国会議員、まずそれに命をかける議員を選べばいい。
自由が丘で夜の9時半まで塾でがんばってる子たち、勉強は大事だよ、塾通いも結構。しかし勉強は偏差値を上げるためじゃなく、インテリジェンスをつけるためにするのだ。ぜひエリートになってください。
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読響 第641回定期演奏会
2024 SEP 12 7:07:27 am by 東 賢太郎
9月5日にこういうものを聴いた。
指揮=マクシム・エメリャニチェフ
チェンバロ=マハン・エスファハニ
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」作品26
スルンカ:チェンバロ協奏曲「スタンドスティル」(日本初演)
シューベルト:交響曲第8番 ハ長調 D944「グレイト」
二人の若い演奏家の嬉々とした音楽を楽しんだ。生年を見るとフルトヴェングラーやバックハウスのちょうど100才ほど下だ。1世紀たって演奏スタイルや聴衆の好みは変わるがメンデルスゾーンやシューベルトの音楽の本質は微動だにしていない。これから1世紀たってもしていないだろう。2、30年もすれば彼らは先人と同様の大家の列に加わっているだろうが、その若き日の一端をここに記しておくことは何がしかの意味があるかもしれない。
エスファハニが弾いた楽器は何だろうか実に心地よい音で、これならゴールドベルクで眠れるなと悟った。バッハは楽器指定がないから現代ピアノでも許されようが、この音を聴くとやっぱり別の流儀のものだ。スルンカはチェンバロの構造上の音価の制約に着目しているが、その楽器と音価をペダルでコントロールできる楽器では別物の音楽というべきだろう。同曲はチェンバロの機能の極限まで、弦をはじかないカタカタという極北の音響までをコンチェルトという古典的器に盛り込んだ意欲作だ。頭脳で作った即物感はあるものの、12音というデジタル情報で出来た音楽が甘い旋律となって人を酔わせるいかにもアナログ的な効果というものは、ゲノムにあるAGTC4種のデジタル記号から人間というどう見てもアナログ的な存在ができる現象に似ていると思っているのだからメンデルスゾーンのあのコンチェルトが彼の頭脳の産物であって違和感を持ついわれはない。エスファハニがアンコールで弾いた古典も見事でいつまでも聴いていたい嫋やかさだったが、スルンカで開陳した技術、技法の極北的理解は凄みすらあった。
エメリャニチェフはベルリンフィルに登場もして欧州楽壇の寵児らしい。オケは厳密に古楽器奏法かは知らないがアプローチはそれに近い。それでグレートを聴くのは初めてであった。12型でコントラバス4本だと聞きなれたピラミッド型のバランスより弦合奏に透明感が増し、2管編成ではあるが交響曲ではベートーベンが5番で初めて使用したトロンボーンを3本も使っており薄めの弦に対しとても目立つ。使用法も和声ばかりでなくバスラインをなぞったりする場面は極端にいうならトロンボーン協奏曲のようで、同様の印象をショパンの第2協奏曲で1本だけ投入されているバス・トロンボーンで懐いたことがある。両曲はほぼ作曲年代は同じである。
グレートが「グムンデン・ガスタイン交響曲」という説が有力になっているが、スイス時代に母と家族でそのグムンデンに一泊したことがある。ザルツ・カンマーグートの湖畔の愛らしい陶器の街であり、この曲にはその想い出とウィーン楽友協会アルヒーフでシューベルトが提出したそのスコアを眼前で見せてもらった想い出が交錯する。
エメリャニチェフの演奏がシューベルトの意図した音に近いなら新しい経験であったが、Mov1提示部の入りにかけてアッチェレランドがかかるなどロマン派由来と思われる解釈も混入し、博物館の指揮者というわけではない。溌溂とした生命感をえぐり出してみせ、同曲ではかつて覚えのない興奮、高潮で会場を沸かせたのは個性と評価する。この曲は死の兆しが見え隠れする内面世界が希薄で、それに満ちたゆえか放棄してしまった未完成交響曲とは対照的な陽性が支配する。形式的な対比としての短調主題はあるが病魔のおぞましさの陰はないのだからそれでよい。もちろん死の3年前の作曲だからなかったはずはなく、ベートーベンを意識し「大きなシンフォニーへの道を切拓かなくては」と芽生えた大義へのこだわりと気概がそれに蓋をして封じ込め、束の間の躁状態を生んだと思われる。彼はモーツァルト、ベートーベンの全国区的スター性はなくアマチュアと認識されていたから大規模管弦楽作品である大交響曲を権威の殿堂である楽友協会に提出し、受理されアルヒーフに保管されたいという願望があった。寿命が尽きることを悟っていた彼にとって謝礼は少額で演奏もされなかったことは大きな問題ではあるまい。ただ、僕が見た自筆スコアがそれなのだろうが、シューマンが発見しメンデルスゾーンに送って彼の指揮でゲヴァントハウスで初演がなされたそれは兄が管理する「シューベルト宅の机の上」にあったのだ。大規模への拡大の象徴が3本のトロンボーンであるが、この楽器は教会音楽においては死の象徴だ。
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ケイスケくん、天国に帰る
2024 SEP 11 3:03:29 am by 東 賢太郎
柏崎家の愛猫ケイスケが旅立った。8年前に初対面でいきなり意気投合したのがお互いの猫のことである。写真を見てピーンときて「いい猫ですね!」とだけ言った。悪い猫はいないが、僕のいい猫は最上級の賛辞である。
ケイスケが発端で話が盛り上がってこの話題になった。
そこで山猫が見たくなり、年末に猫好きの娘たちと本当に行ってしまった。
新しい人には毎年たくさんお会いするがこれは珍しい。ケイスケの写真が猫モードにいざなってくれたからであり、そこから柏崎氏とは関係が深まり、その延長線上で今年に紹介してくれた大きな案件に一緒に取り組んでいる。こういうのは計画でも理屈でもなく「もってる」という。ケイスケは神様に大仕事を託され、よくやったと呼び戻されたのだろう。ありがとう、天国から見ていてください。
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僕が聴いた名演奏家たち(テオ・アダム)
2024 SEP 2 3:03:46 am by 東 賢太郎
オペラは劇でもある。だから配役の人物像はとりあえず役者(歌手)のイメージからできることになる。聴くだけの人としては万人がたぶん同じであり、どうやってその作品を知ったかという各人の自分史だから全部同じということはまずない。LPの時代はオペラのレコードは高価だったし、どれを買うかとなればいっぱしの投資であって、レコ芸の高崎保男さんの意見は大きかったから読者は似通った選択にはなったろう。個性が出るポイントはそこからで、じゃあ別な盤はどうだろうと浮気する好奇心にあかせてあれこれ録音を渉猟し、実演もきいたりして耳が肥え、フィガロや椿姫は誰々じゃないとだめだなんてことになってくる。
これはなにも難しいことでもお高くとまったことでもない、僕の親父が大石内蔵助は長谷川一夫、平清盛は仲代達矢だったし、僕は財前教授は田宮二郎であり、黒革の手帳の原口元子は米倉涼子、金田一耕助は古谷一行じゃないと感じ出ないよねなんて言って爺扱いされ、いまの子は紫式部はきっと吉高由里子なんだろうねってのとまったく同じである。僕は日本一仕事がきついと言われた会社にいて朝から晩まで狂ったように働いたが、幸いなことに7年間も海外の拠点長であったからレコードばかりでなく日本の金融機関の現法社長、要するに同じお立場にある経営者や現地のお客さんとの交流・情報交換、そして日本から来られるお顧客さんの接待などでいくらでもオペラハウスに行く機会を設けることができた。
その結果、僕のオペラレパートリーの人物像は今のものになった。例えばミレラ・フレーニがミミであり、ルチア・ポップが夜の女王で、エディット・マティスがツェルリーナ、ペーター・シュライヤーがフェルランド、ルチアーノ・パヴァロッティがネモリーノであり、ゲーナ・ディミトローヴァがジョコンダ、ヴァルトラウト・マイヤーがイゾルデ、アグネス・バルツァがカルメン、アンナ・トモワ=シントウが元帥夫人という風なものである。最後の5人はステージを観てのことだから贅沢なものだった。そして、決定打はスイトナー / DSKのレコードのザラストロである。どんな大歌手であれ、あの深々とどすが利いているが、それでも伸びやかで格調の高いテオ・アダムの低音と比べられる羽目になっている。
ドレスデン生まれのテオ・アダムの本拠はゼンパー・オーパーだ。ドレスデンというと、「ばらの騎士」が初演されたことよりも第二次大戦末期に英米軍の空襲で無差別爆撃で街の85%が破壊されたことが先に来てしまうのは不幸だ。市の調査結果は死者数25,000人とされるが、不思議なことに、連合軍側において死傷者であれば13万5千人に達するという説が根強く語られている。爆撃は1945年2月13日、14日であり、「東からドイツを攻めるソ連軍を空から手助けするため」という名目に対しては、殺戮を行った側である英国で「戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲だ」という批判があった。ひるがえって、ほぼ同時期3月10日の東京大空襲、半年も先である8月の原爆投下はいったい何だったのだろう。ポツダム宣言受諾への国内事情により、国家消滅、分割、永遠の占領・信託統治等の悪夢を無辜の国民の命の犠牲によって贖う結末に陥った経緯を日本人ならば頭に焼きつけておくべきであろう。
ワーグナーが楽長をつとめ、リヒャルト・シュトラウスがそのオペラの大半を初演したこの劇場も瓦礫になるまで無残に破壊され、1985年2月の同じ日に再建された。その記念公演がハンス・フォンク指揮の「ばらの騎士」で、テオ・アダムはそこでオックス男爵を歌っている。ドレスデンのことを書こうとすると、まず僕にとって1994年は音楽人生の豊穣の年だったことから始めねばならない。フランクフルトのアルテ・オーパーでオーケストラ演奏会は定期会員になって毎週何かを聴いており、フランクフルト歌劇場はもちろん近郊の都市も車でアウトバーンを飛ばせばすぐなので、マインツ、ヴィースバーデン、ダルムシュタットで普段はあんまり食指が動かないイタリア物やロシア物のオペラを小まめに聴いた。大きなものだけをかいつまむと、ベルリンでブーレーズのダフニス、カルロス・クライバーのブラームス、ポリーニのベートーベン、シュベツィンゲンでジェルメッティのロッシーニ、ヴィースバーデンでオレグ・カエタニのリング全曲、ベルリン・ドイツ歌劇場でルチア・アリベルティのベッリーニ、ベルリン国立歌劇場でバレンボイムの「ワルキューレ」とペーター・シュナイダーのマイスタージンガー、8月はバイロイト音楽祭でルニクルズのタンホイザーを聴いて帰途にアイゼナッハのバッハ・ハウスに立ち寄り、翌月9月12日に憧れだったドレスデンに行き、この歌劇場で「さまよえるオランダ人」を聴いたのだった。社長を拝命して2年目で尋常でないほど忙しかったが幸い39歳で元気であり、ピアノの練習やシンセサイザーでの作曲も含め、この年に一気に吸収したことが僕の音楽人生の土台になっている。いずれにせよどこかのサラリーマンにはなったわけだが、野村でなければこんな恵まれたことはなかったろうし、とはいえ社内ではいろいろ不遇、不運なことが重なって、恐らくそれがなければドイツに赴任することはなかったとも思っている。陳腐ではあるが人生糾える縄の如しだ。
指揮者はハンス・E・ツィンマーでオランダ人役が写真のクレンペラー盤と同じテオ・アダムその人であるという信じ難い一夜となった。クレンペラーがフィルハーモニア管と残した唯一のワーグナー全曲スタジオ録音(写真のLPレコード)である同曲をゼンパー・オーパーでシュターツカペレ・ドレスデンで生で聴ける。夢のような話だったが、夢というのは叶わないから夢である。現実になってしまうとこういうものなのかと感じる経験はたくさんある。歌劇場の雰囲気はさすがのものだが、世界中のそれと比してどうというものでもない。肝心のアコースティックはいまいちであり指揮のせいかオケも僕の知るDSKではなかった。この楽団、フランクフルトでコリン・デービスのベートーベン1番だったか、あんまり乗ってない感じの時の音はだめだ。68才だから今の我が身とほぼ同じ高齢者のテオ・アダムを拝めたということに尽きるが、声は散々きいたあのバスであった。コヴェントガーデンでパヴァロッティを後ろの方の席で聴いて、あのレコードの声なんだけど頭のてっぺんからクリーミーな彼特有の高音がピアニシモで飛んできて耳元で囁いたような、およそ平時の現象として想像もつかないような、こういうのはロストロポーヴィチのチェロぐらいだなと感嘆した、そういうものではなかった。ステージで観たロストロやパヴァロッティはいわば超常的な天才であって何が出るかわからない。アダムはそういう人でなく、かっちりした芸風を守り、その中で常に通人を唸らせる最高のパフォーマンスを出せる人で、まさしく「宮廷歌手」の称号にふさわしい。僕はそうしたことができない自堕落な人間である故、ひときわ大きな敬意を懐く。このレコード(ドレスデン初演版)、いまの家で初めてかけてみたところ、装置とアコースティックのせいもあって当時のクレンペラーとして聴いたことがないほど音が良く、42才で全盛期のアダムの声はもちろんのこと圧倒的であり、微光の彼方に徐々に薄れつつある記憶の喜びを倍加してくれることを発見した。
テオ・アダムの声が焼きついてアイコン化しているレコードはオランダ人以外に幾つかある。ベームとヤノフスキの「ニーベルングの指輪」(ヴォータン)、同「フィデリオ」(ピツァロ)、カラヤンの「マイスタージンガー」(ハンス・ザックス)、スイトナーの「コシ・ファン・トゥッテ」(ドン・アルフォンゾ)、同 「ヘンゼルとグレーテル」(父)、ケーゲルの「パルシファル」(アンフォルタス)、カルロス・クライバーの「魔弾の射手」(カスパール)、ペータ
ー・シュライヤーのモーツァルト「レクイエム」、サヴァリッシュのエリア、コンヴィチュニーの第九、マズアの第九、そしてマウエルスベルガーの「マタイ受難曲」(イエス)という綺羅星のようなレコード・CDに録音された彼の伸びやかで強靭なバス(バスバリトン)を聴き、僕は声楽というものの味わいを知った。
とりあえずつまみ食いで美味しいものをというならモーツァルトのアリア集だろう。彼の全盛期をスイトナー / ドレスデンSKのバックを得て良い音で記録したこのLPは宝物になっている。
堂々と厳格で格調高い。モーツァルトにしては遊び心に乏しいという声も聞こえようが、これぞ様式をはずさぬ千両役者、歌舞伎なら團十郎、菊五郎であろう。彼亡きあと世界に何人いるんだか、もう僕は知らない。
マズア / LGO黄金期の第九は懐かしい方も多いだろう。
2019年に92才で亡くなったのを存じ上げず5年も遅れてしまったが、ドイツオペラに導いてくれたことに感謝の気持ちしかない。
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あなたの年代の男がいちばん危ないの
2024 AUG 28 0:00:25 am by 東 賢太郎
最近、夕食後に2~3キロ走っている。9~10時あたりだとそう暑くもなく、なにより暗くて人通りがなく、昼間の俗事を忘れて空っぽになれる。坂道が多いので汗をかく。時に全力疾走も入れてみたりするが心肺ともに問題なく、俺はまだまだいけると自信がわいてくる。
ところが昨日、その自信を粉々にする事件があった。多摩川台公園下まで何事もなく走り、公園脇の坂を登ろうか、それとも川辺の歩道に降りようかと迷った。べつにどっちでもいいのだが、たまたま伊藤貫さんのyoutubeを見ていたら西部邁さんと仲が良かったと語っていた。両氏とも思想的に割合近くて僕は敬意をもっており、西部さんが自裁されたのがそのあたりであったのでなんとなく手を合わせていこうという気持ちになった。
そこで、多摩堤通りの信号を横切って、3,4メートルの高さの堤防から川辺に下る土を削った階段を降りた。足元は暗い。数段を下ると思ったより急勾配であり、足が疲れてるせいかけっこう勢いがついてしまった。まずいと思ったがもう止まらず、前方は草むらでよく見えず、やむなく、この辺で地面だろうとぴょんと飛んだら全然そうでない。つまづいて前のめりになって砂利道に叩きつけられ、ぶざまにひっくり返ってズルズルと体側で路面をこすってやっと静止した。
要するに、半ズボンでヘッドスライディングしたわけで、左足の脛(すね)と左ひじを盛大に擦りむいた。電灯に照らすと血まみれ泥だらけである。電話して車で来てもらい、家内に応急処置をしてもらったが、まだずきずき痛い。おかしいなと田園調布病院に電話しておしかけ、「遅くにすいません、みっともないこって」と頭をかくと、若い医師とふたりの看護師さんがやさしく対応してくれ、ピンセットで線状の傷口にめりこんでいた小石を除去し、消毒ガーゼを貼ってぐるぐる巻きにし、念のためにと破傷風のワクチンまで打ってくれた。コロナのときの聖路加もそうだったが、日本の医療は実に安心だ。
楽しみだった週末の温泉は問答無用で没になった。家族は大騒ぎになり、箱根で一緒の予定だった従妹に電話して謝ると、旦那も何日か前に階段で落ちたらしい。「ね、ケンちゃんわかる?あなたの年代の男がいちばん危ないの、そうやってみんな過信して病院行きになるんだから」と懇々と説教された。
それはそれでありがたかった。僕は何事も前向きにしかとらない。能天気でも楽天家でもないが、とにかく後向きにはとらない。だからこの怪我もきっと良い予兆であるか、あるいは、凶事を避けられた、守られたんだと思えてしまう。医師が「骨は大丈夫ですか」と心配した傷だ、あの勢いで頭を打ってたら死んだかもしれないが、死んでないんだから良かったと思える。そうでない人も、この性格は無理してでも作るべきだ。なぜなら、本当に人生で得をするからだ。僕には思い出したくないたくさんの禍々しい失敗や不遇や凶事があった。しかし、後になってみると、実は、それがなければあのラッキーはなかったじゃないかということが非常に多いのだ。なぜかは知らない。たぶん、そういう風に生きていると勝手にそうなる。それがはた目にはツキがあるね、持ってるねということになる。
多くの国の多くの外国人と働き、どういう人たちかを知っている。断言するが、彼らを基準としてみれば日本人の9割は心配性であり、はっきり書くと、ビジネスの世界においてそれはうつ病や心神耗弱に近い。大きなリスクに対してなら結構だが、ちまちまとくだらないことに気をもんだり批判を気にする空気に負けて「石橋をたたいて渡らない」なんて寂しいことになってる。国中が国民的にそうであり、本来あまり気をもまなくていい国家がプライマリーバランスをたてに金を使わないと民間は委縮して失われた30年などとクソくだらない小言を垂れてる。その間に先端技術や半導体で世界に大きく後れをとってしまっても他人事のようにやばいと思わない民間の「石橋わたらない根性」というものは、棒で突っついても飛ばない死にかけのカラスみたいなもんで、こっちを誰も批判しないことの方も、世界の目線からすると病気である。株や土地を中国人が買い占めて怪しからんと騒ぐのが保守だなんてわけのわからんことを言ってる。経済安保とそれは全然違う。死にかけの獲物は簡単に捕獲できるからジャングルでは食われるのが当たり前であって、それが嫌なら彼らは江戸時代に戻って鎖国しろと主張すべきである。
食われんようにちゃんと経営して株価を上げろが世界の常識だ。実体価値より値段の高い株など犬も食わぬ。ビジネスのビの字も分かってない連中が馬鹿の一つ覚えみたいに財務省、日銀が悪いって、自由主義国家で役所が頑張って経済を成長させるべきだなどと言う議論は、国が女性の少子化担当大臣を任命すれば子供がたくさん生まれるというおバカな議論といい勝負だ。人間は平等にできていて、青い鳥は誰にも同じだけ飛んで来る。心配性の人は確実にぜんぶ取り逃がす。前向きな人は十回来れば九回は逃がしても一回ぐらいはつかまえる。人も国も、成功者になるかどうかはそれで決まると言ってまったく過言ではない。ユニクロの柳井さんが著書「一勝九敗」でおっしゃるのはそういうことだ。少数精鋭で経営しろとも語ってる。その通りだ。多数の馬鹿の空気と合議制でやってればいずれ全部のカラスが外資に食われる。
「あなたの年代の男がいちばん危ないの、みんな過信して病院行きになるんだから」。そうだけどビジネスマンに過信は大事なんだ。だって取れると思わないと鳥は取れない。危険だから取らなくていいと細く長く生きる人生と、取りに行ってすっころんで早死にするかもしれない人生なら、僕は後者を選ぶ。ただ、みんなに迷惑をかけないように、暗い階段を走るのだけはやめよう。
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