プロの投手と対決した思い出
2013 JUN 28 1:01:07 am by 東 賢太郎
野球。僕の場合こればっかりは日本でないとだめです。メジャーはすごいのですがどうも投手の投球ポリシーというか、美学が合わないところがあります。僕の美学にぴったりの投手が少ないと言った方がいいでしょうか。ロッテ古谷投手、あと一人でノーヒットノーランでした。ニュースで見ただけですがいい球を投げてましたね。あれは好きな球です。運や打者との巡り合せもあるので大投手だからといって容易にできることではありません。それを1か月前に2軍で達成しているとのこと、何か持っている人かもしれません。というよりも、こんな投手がどうして登板機会もなく2軍でくすぶってたの?と不思議な気持ちが先に立ちます。
今日の日経に豊田泰光さんが「スピードガンと体感球速」というコラムを書いています。47歳の中日・山本昌の133キロのボールをロッテ・角中が「150キロぐらいをイメージして打った」と言った話。わかります。古谷の画像は150キロに見えましたが130キロ代だったそうです。この「球速表示に出ない速さ」が面白いんです。今は「キレ」と言うようですが昔は「伸び」と言った、手元でタマがぐーんと加速してホップするように見える感じ。あれがあれば120キロでも高めは打ちにくいのです。というより、それを打たれるなら140キロ出ても投手はできないと思います。
球の出所が見えにくい、腕の振りが同じとかよくいわれますが、どういうことかというと、打者は投手のフォームから球の軌道を瞬時に予測してバットを振ります。だからフォームから予想した軌道とは違う軌道、つまり普通の投手の球ではない動きには瞬時に対応できにくい。だから伸びると遅れて詰まるかファールチップかフライか空振りになります。初速が130キロでも打ちにくいわけです。この、ストレートの予想しにくさ、打ちにくさ(嫌らしさ)がベースにないと、よりスピードのない変化球はいずれ打たれます。巨人のルーキー菅野が三振奪取王なのはこういう理由です。
先日、1982年夏に行われたニューヨークの野球トーナメントの話を書きましたが、この時に僕ら米国野村證券が準決勝で負けたのが「日本教育審議会」という日本人学校などの体育関係者のチーム。エースは阪急ブレーブスにドラフト指名されたKさんで、彼は日大二高時代に甲子園のセンバツで平松政次(のち大洋ホエールズでカミソリシュートで200勝)を擁する岡山東に完封勝ちした人でした。Kさんはあのとき30代半ばのオジサン、僕はまだピチピチの20代半ば。見ていた人によれば球速はそう変わらなかったそうです。
しかし結果は6-0の完封負け。初戦に前年優勝のレストラン日本を11-2で、2回戦で三菱商事を10-0で撃破して勢いに乗るわが打線が完全に抑え込まれました。剛球でねじ伏せられたという感じではぜんぜんありません。一見打てそうでした。ところがボールが生きている感じでストレートは伸びて手元で詰まる。カーブがあまり決まらず代わりに投げてきたナックル(たぶん)がよく落ちる。コントロール抜群で内角が好きな僕には外角ぎりぎりしか来ない。最高に嫌らしかったです。Kさんは打者としても迫力あって、ストレートは打たれ、胸元に投げたシュートも腕をたたんで引っ張られ、カーブは2度内野フライに打ち取り、結局4打数2安打でした。三振を狙いましたが役者が違いました。
この大会、決勝は既述のように歴史あるコロンビア大学ベーカーフィールドで行われ、この日本教育審議会とJAL(日本航空)の激突となりました。JALのエース小沢君(後にみずほで僕の部下となり再会しました)はヤンキースのテスト生で当時140キロ台の剛球サウスポー投手でした。手に汗握る投手戦は結局1-0でKさんの勝ち。圧巻の完封劇でした。スタンドで見ると小沢君のタマが速くて打たれないのは納得ですがKさんは軽々と打ち返し、Kさんの投球はときどき剛球がいくものの打たせて取る軟投に見えました。しかし打席で見たKさんのタマを覚えてるのでJALの打者が打てないのが良くわかります。うーん、やっぱりプロの方々は凄い。ため息が出ました。
このゲームの前に僕らは準決勝敗退同志でエンカという日本レストランのチームと3位決定戦でした。エースは巨人にドラフトされた右腕さん(お名前は失念。すみません)。「いよー、巨人の星!」とやじりまくるノムラ軍団に力まれたか四球、エラーで2点ゲット。しかしリリーフした早実の右腕さん( 甲子園をわかせた荒木大輔の控えだった方)がナイスピッチングで結局4-2で負けました。巨人さんに自慢のカーブを三遊間に打たれたこと、早実さんをツーナッシングから外角低め会心のストレートで見逃し三振に取ったことしかはっきり覚えてませんが。米国人主審の派手なコールと同時にさっと打席を去った早実さんの潔さが妙に記憶に残っています。掛け値なしに野球人生最高の一球でした。
これからも一生、僕はプロの投げる最高の一球を見るために球場へ通うことになります。
(追記)
3位決定戦を負けた後、バックネット裏でひとり放心状態で決勝戦を見ていたら日本教育審議会のキャッチャーのかたが近づいて来られ、ひとこと、「準決勝の日は肩が痛かったよね、今日の出来だったらウチも危なかったよ」とだけ言って去られた。痛かったのは黙っていたが本当だ。この日で僕の野球人生は幕を閉じたが、この言葉をいただいた嬉しさは一生忘れない。ほんとうにありがとうございます。
Categories:______わが球歴, 野球
中島 龍之
7/1/2013 | 10:37 AM Permalink
ほとんど無名の古谷投手がノーヒットノーラン直前まで行くとは、こんなこともあるのですね。2軍でも達成しているということは、それができる何かを持っているのでしょう。東さんがプロの力を持つ人たちと対戦できたのは羨ましいことです。プロのスピードボールをバッターボックスで見られることはそうないですからね。