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ベートーベン交響曲第6番の名演

2013 AUG 10 15:15:23 pm by 東 賢太郎

田園交響曲をどう聴いたらいいのか?

若いころはこの曲が苦手でした。第1楽章は延々と同じ和音に土くさい音型のくりかえし。とにかく目立った変化がありません。「ザルツカンマーグートを見たことのない者にベートーヴェンの田園交響曲は解釈できない」  というユーディ・メニューインの言葉ですが、なるほどと思うようになったのは40代の後半、スイスでの2年半の生活を経てのことです。この交響曲の第2楽章に、家族とよく行ったグリンデルワルドの思い出が重なるようになりました。ユングフラウへ登る鉄道の始発駅クライネ・シャイデックからそこまで子どもたちをつれたトレッキング。丘を歩くこと約3時間。ひんやりとおいしい空気、右手にアイガー北壁、左手に遠く雪をかぶるアルプスの山並み、青い空、なだらかな丘と草原、あったかい陽だまり、白い雲、足元にはかわいい草花、小川が流れる、ごろごろした岩、黒い雲、急にぱらぱら降る雨、森が現れる、鳥のさえずり、りすが出てくる・・・・これを経験した当座でなく、思い出になってしまってからそうなるのが不思議なところです。

以前にボロディンと冨田勲のブログにこう書きました。「新日本紀行のテーマ。君が代を思わせるメロディーと素朴なコードが日本人のこころをぐっととらえる不思議な力を持っているように思います。このメロディーを好きになってくれるなら、どこの国の人でも仲良くなれそう・・・」。おそらくこのテーマは日本のどこの風景を描写したものでもないでしょう。日本人なら誰もがどこかでもっている「日本的なものの思い出」、そういう心象風景が音になっているように思います。オーストリア、スイス、南ドイツの人にとって田園はそういう風にとらえられる音楽ではないかと思います。しかしながら、「自然が人の心に呼び起こす感情が表現されている」とベートーベン自身が書いているのですから、この音楽に感動するならばそれが呼び覚ました思い出がどこのものであってもよいでしょう。別にザルツカンマーグートを見たことがなくてもご自身のお好きな田園体験を想いおこして幸福感にひたれるならば。ちなみに僕は岩手の八幡平で行った藤七温泉へ向かうときの楽しい気分なんかでもけっこうサマになるなと思ってます。

シューベルトに出来なかったこと

この曲の作曲当時、交響詩というジャンルはありません。ロマン派という概念もありません。もしその両方があったら、ベートーベンはこの曲のコンテンツを交響詩にしただろうか?僕の想像はノーです。彼はやはり交響曲を書きたかったのであり、彼の関心はそれとpastoral 風コンテンツの融合にあったと思います。未完成交響曲の稿で僕はシューベルトの直面したと思われる同じ問題を論じました(シューベルト交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」)。交響曲というロジックとそれになじまないコンテンツ(ストーリー)。両者を融合することはシューベルトには難題でした。しかし変奏の達人であったベートーベンはその見事な解答をこの曲で提示しています。交響曲では変奏という技法はソナタ形式の展開部に主に披瀝されるものですが、それを展開部以外でも駆使する。そうしてソナタ楽章のいたるところに判じ物のようにストーリーを暗示するキャラクターを刻印することでそれを切り抜けているのです。

ちょっと細かい話になって恐縮ですが、キャラクターは「田舎についたときの楽しい気分」のようなストーリーを含む主題やその部分的抜粋によってできています。それをひとつの部位として変奏していくのです。ここでいう変奏は、大昔の中国人が象形文字としての漢字を歴史の中で組成していく段階で木や人や水などの基本的な象形を部位として、それらを他の部位と組み合わせることで多様な文字を生み出していったのと似ています。素材として元々は絵なのですが部位としてはそれが高度に抽象化、象徴化され、もはや木や人の写生画(アート)としての意味はありません。しかしそれが元来は木だった人だったという認識は伝わりますから、たとえば林や橋という字が木に関係したものだということがわかります。まったく同様に、「田舎についたときの楽しい気分」も、変奏という技法を通じてストーリーが伝わるのです。

田園交響曲の子孫たち

この方法論は非常に画期的です。例えばこれは、田園交響曲に魅入られて楽章ごとの細かい情景描写まで自分で書いているフランス人のエクトール・ベルリオーズが幻想交響曲で「恋人のテーマ」としてすぐに具現化しています。そしてベートーベンの信奉者であったリヒャルト・ワーグナーの「ライトモチーフ」という手法に遺伝していきます。登場人物や場面に特定のテーマ(旋律、和音)を割り振って聴衆に記憶させ、後にそのテーマだけで人物や場面を連想させる効果を駆使して彼は長大なドラマの錯綜した心理状況を立体的に描写できるようになりました。イタリア人のジャコモ・プッチーニにまでこの手法は遺伝しています(プッチーニ 「ラ・ボエーム」をご参照ください)。交響曲ではやはりフランス人のセザール・フランクの循環形式が生まれます。幻想交響曲は特殊な例であって、一般に交響曲は抽象音楽です。ストーリーや特定の人物、場面はありません。しかしそういう設定でも、あるテーマ(主題)を全曲で登場させて有機的な統一感を持たせる手法が循環形式です。

田園交響曲の第5楽章の最後(第237小節)で一切が鳴りをひそめ、弦だけの四重奏で冒頭の牧歌の変奏が Sotto voce で静かに感動的に歌われます。これは同じヘ長調の弦の四重奏で開始したこの交響曲の冒頭「田舎についたときの楽しい気分」のエコーであり回想のように聴こえます。この素晴らしい効果は循環形式のもっともインパクトのある方法論のひとつとして定着します。例は枚挙にいとまがありません。僕が最も効果的と思うものを3つ挙げましょう。まずフランクの交響曲ニ短調では第2楽章のテーマが回想されます。ブラームスのクラリネット五重奏曲では、終曲の最後の最後になって曲の最初も最初のテーマが突然そのまま回帰します。この鮮やかな衝撃はいつ聴いても胸を打たれます。そしてヤナーチェックのシンフォニエッタにも同様の冒頭ファンファーレ回帰があり、やはり同様に衝撃と深い感動を覚えます。ベートーベンの6番がいかに音楽史の中で画期的、革命的な音楽か。とてもブログの字数で語り尽くせるものではありません。

ベートーベンの天才とは?

6番にはそのような決定的に強力なミクロ構造が底流にあります。我々はベートーベンの描いた鳥の声やらくつろいだ気分やらに癒されて感動しているのではありません。彼の天才はそんな素朴なものではないのです。それは新日本紀行のテーマ的な「心象風景の素材」が与える、ある意味で素朴、原始的なキャラクター、部位に起因するイメージにすぎません。それを素材とした「極めて高度に抽象化が可能な仕掛け」を発明したことこそ彼の天才の本質です。僕にとって彼はアスペルガー症候群的な特徴を持った創造的天才たち、アインシュタイン、レナオルド・ダ・ヴィンチ、アンデルセン、ダーウィン、ルイス・キャロル、キルケゴール、ヒッチコック、エジソン、ゴッホ、ディズニー、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズといった人たちの中でも最右翼クラスに位置づけられる人です。

そういう人たちの特性として、彼は同じオペラに4つも序曲を書いてしまう妥協なきこだわり男です。アン・デア・ウィーン劇場での5番と6番の初演にあたってのプローベではオーケストラと衝突し、怒り心頭の団員たちから練習中はあいつを部屋に入れるなと締め出されてしまったほどです。耳が聞こえなくてキューがわかりにくかったからという説もありますが、完全に聞こえなければ指揮台にも立てないはずですからやはり細かいこだわりで激突があったのではないでしょうか。にもかかわらず、現代の多くの指揮者は、作曲家が楽章ごとのストーリーを書いたものですから、そういうマクロ構造にばかり心を砕いているように僕は思います。そういう演奏なら団員と衝突こそ起きませんが、我々ロマン派を知っている耳に心地のよい甘目のアプローチに音楽が流れてしまうのです。そういうものはベートーベンの天才の本質とはかけ離れた演奏であり、ムード音楽や映画音楽のたぐいであって僕の関心事とも程遠いものとなってしまうのです。

 

エーリヒ・クライバー / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

第2楽章の素晴らしさでこれを上回るものはありません。まさにザルツカンマーグートの味わいを知った070(1)愛情に満ちた指揮であり、息子のカルロスをつれてトレッキング(ドイツだとヴァンデルンですね)していたのかなあと感嘆してしまいます。第1ヴァイオリンの主題からしてもう鳥の声です。旋律は心を込めて歌いぬき、チャーミングな木管がそれにからんでえも言えぬ立体感を生み出す美しさには言葉を失います。第1楽章はやや速めに入って15小節目でfをふっとpに落とす間のうまさ。スケルツォで農民が退散する場面のプレストをこんなに活かした指揮者は誰もいません。嵐のティンパニを効かした堀りの深いインパクトがあってこそ湧き起る神への感謝の深々とした味わい。いいですね。このシンフォニーにしか感じることのないジーンと心の底から温まったようなぬくもりのある感動を覚えます。アムステルダムのオーケストラはクライバーに共感していたのでしょう、フレージングの指示を克明に生かしていますが硬さがありません。すべてが自然に流れます。この演奏にはたくさんのことを教わりました。多少アンサンブルの雑に聞こえる箇所はあるものの、このオケを得たことは大きなプラスだったでしょう。息子はこの演奏を聴いて、6番を正規録音しなかったそうです。

ポール・パレ― /  デトロイト交響楽団

ノムラ・スイス時代のアジア株セールスヘッドがジュリアード音楽院のオーボエにいた男でした。ジョージ・512yDEuNxRL._SL500_AA300_パラダイスといってレコードまで録音した腕前です。「指揮者は誰が良かった?」ときいたら「ダントツでポール・パレーです。彼の指揮でワーグナーをやれたのは最高の幸せ!」と投げキスまでしました。パレーはあのラヴェルが取れなかったローマ賞を受賞した作曲家でもあります。この田園、初めて聴くと仰天の快速テンポですがこれがほぼスコア指定のテンポです。よく聴くと実に含蓄に富んだ表現でカラヤンのような「スポーツカーで走り抜けた」感じではありません。朝比奈隆氏によると第1、5楽章はffのピークへうまく音を強めていくのが非常に難しいそうですが、それは要は遅すぎることの証拠であって、このテンポなら自然に頂点に登るのではないでしょうか。音はモノラルですがデトロイトのオケは健闘しており、第2楽章の木管は欧州のトップクラスに遜色ありません(パレーはドビッシー、ラヴェルもこのオケから完全にフランスの音を引きだしており素晴らしいものです)。嵐が去って神への感謝。再現部は牧歌主題が十六分音符に変奏されて和音進行だけの「カラオケ状態」になりますが、絶妙で主題が聞こえてくるようです。そして上記の Sotto voce の部分ではぐっとテンポが落ち、感謝は宗教的な感情に昇華して最高に感動的なエンディングを迎えるのです。駈け抜けてきたのはここの部分のコントラストのためだったかと感じるほど見事です。ちなみにカセット録音されたカルロス・クライバー/バイエルン放送響の演奏は、親父さんのよりもパレーに近い聴後感のように思います。

カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

この第1楽章はいわばウィーンの大型の室内楽です。奏者たちが最美の音を惜しげもなくふりまいていま41R3BYATB0L._SL500_AA300_す。こういう最高級のトルテみたいな「おいしい」音程、そうしか表現のしようがないのですが、この管弦の艶やかな音程の良さというのはウィーンpo以外に絶対にありません。第2楽章はベートーベンの管弦楽法が冴えわたった楽章で、例えばチェロが2人だけソロパートを弾きます。そのピッチカートまで最高に心のこもった音が出ている美しさはもうため息もの。木管はこの曲で重要なクラリネットのうまさが快感です。まさに室内楽です。そうはいってもテンポやフレージングは厳格に指揮者のコントロールのもとにありベーム最晩年の練達の棒を感じます。第3楽章はやや遅め。重厚でベートーベンらしい第4楽章の嵐を経て終楽章。牧歌はコクのあるウインナホルンが効いてザルツカンマーグートを思い出させます。僕の装置では最後のffでやや弦がにごって聴こえるのが残念ですがSACDだとどうなのか試したくなります。初めで田園を聴かれる方はモノラルのクライバー、パレーではなく、ムジーク・フェラインの見事なホールトーンをともなって鳴り響くウィーンフィルが良い録音で聴けるという意味でもこのベーム盤をお薦めします。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団

ベーム盤と並んで世評が非常に高い演奏にブルーノ・ワルター/コロンビア響というのがあります。僕もそれ51387SJAF-L._SL500_AA300_でこの曲を覚えましたが、第1楽章は例の繰り返し音型でアッチェレランドがかかるなど天衣無縫の名人芸の連続で最高の演奏のひとつです。ただ第3楽章が遅くてインパクトがなく嵐も上品なので終楽章が生きません。同じスタイルでそこを満足させてくれるのがこのジュリーニ盤です。彼がロスフィルを振った演奏はみなそうですが、金管がアメリカのオケ特有の派手で下品な音を発しないのは特筆すべきでしょう。第1楽章は遅めのテンポでロス・フィルの弦をしっとりと歌わせますがフレージングは磨きこまれていて、気分で流すような演奏とは一線を画しています。第2楽章の木管も美しく明るめの音調と見事な音程で癒されてしまいます。ベートーベンのスコアがこんなに上品でカラフルだったかとため息が出るほど。第3楽章のリズムはエッジがありダンスになっています。第4楽章はティンパニとピッコロ、トロンボーンを生かした強い表現で全曲の極点を築きます。強烈なパンチ力ですがオケが荒っぽく鳴ることは一切なく、知的で整然とした指揮者の統率力を感じます。これが効いているので雨が上がって陽光がさす場面は大変感動的で、弦のレガートが心にしみわたります。好みの問題ですが、ベーム盤より歌があって華もあるこちらをファーストチョイスにされてもよろしいと思います。

 

アンタル・ドラティ / ロンドン交響楽団

uccd4724-m-01-dlなんという素晴らしい出だしだろう!馬車からぽんと降り立って田舎のおいしい空気を胸いっぱいにすいこんだ嬉々とした気分にぴったりのアレグロ。深呼吸するようなフェルマータ。おどりだすように楽しいオーボエ。フルートがさえずる愛らしい小鳥(僕はこの鳥が一番好きなのです)。心がこもったヴァイオリンが喜びの歌をかなでるとホルンが遠くの山並みをうつしだす。オーケストラが指揮者に心服しています。そうでなければ出ない音が聞こえます。これは僕の知る限り最高級の第1楽章です。第2楽章はちょっとはやい。おしい。もっと楽しみたいのに。でも小鳥たちの歌のなんと美しいこと!農民ダンスは活気のあるテンポ。これでなくては。スケルツォなのにほとんどの指揮者は遅すぎます。踊る音楽になってしまっている。田園風景のロマンにひたった解釈だとそうなるのです(ご存知の方はスメタナのモルダウのダンスの部分と比べて下さい)。これは断じてロマン派の交響詩ではなく、農民は嵐場面を導くキャラクターです。ブリューゲルの描いた農民のように感情はなくていいのです。嵐は特にめだった出来ではありません。終楽章は残念ながら失敗です。弦が即物的で美しくなく神への感謝も深く静謐な感情が足りません。この曲は前半が生きるアプローチだと後半が生きないという難しさがあることがわかります。

(続きはこちらへ)

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

ベートーベン交響曲第7番の名演

クラシック徒然草-ベートーベン7番 聴きこみ千本ノック-

 

 

 

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