ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調作品104
2014 MAY 11 0:00:09 am by 東 賢太郎
米国ペンシルヴァニア大学に留学中、チェロを買い1年間個人レッスンを受けたことは以前に書きました。これを弾きたいと思ったのです。ド素人だったのにまじめにそう思える所が僕の僕たるゆえんであり、おかげでとんでもないことが出来てしまうこともありましたが、これはあえなく討ち死にに終わった方でした。
悔しいのですが、これは実にいい曲なんです。
僕は演歌が特に好きでもありませんが、ロンドンにいた頃、石川さゆりの津軽海峡・冬景色が野村ロンドンの社歌みたいになっていました。当時の社長が好きでカラオケの締めでみんなで熱唱してたんですがなんか琴線に触れるものがあり、ああやっぱり日本人なんだなと感じ入っていたものです。昨日広島のお客さんが「広島におるとカープなんかどうも思わんが東京に出て来るとどうも気になる」と言われてそれが思い当りました。
ドヴォルザークは米国楽壇のパトロンだったジャネット・サーバー女史の招きで渡米しました。ニューヨークの音楽院の院長になったのですが、この2年半ほどの滞在で極度のホームシックとなり強い望郷の念で作ったのがこの協奏曲といわれます。お客さんのカープ、僕の石川さゆり、やっぱり望郷の念というのは何か特別なものを生んだり感じさせたりするんでしょうか。この協奏曲は、ああこれはボヘミア人にとって演歌みたいな曲なんじゃないかなと思うのです。
ドヴォルザークがアメリカにいたのは1892年9月27日から1895年4月16日まで。実はこのちょうど100年後、1992年夏~1995年5月がほぼぴったりと僕のドイツ滞在期間だった関係で、それ以来この協奏曲は「なるほどなるほど、そうだよね」とあちこちに感情移入して聴くようになっています。言葉もよくわからん状態で住んだ異国。英語圏のロンドンとは似ても似つかない孤独感があって無性に懐かしく思った日本。当時のそういう気持ちを思い起こすとドヴォルザークの望郷の念が他人事でない気持ちになるのです。
チェロ演奏の思いが遂げられなかった欲求不満で、2000年に帰国してからとうとう第1楽章をシンセサイザーでMIDI録音してしまいました。大作業でしたがProteusという米国の音源ソースの独奏チェロはなかなかリアル感があって良く、苦労して作ったカラオケにのってあのすばらしい第2主題を弾いたときの喜びったらありません!いろいろテンポを変えて試して、いや本当にドヴォルザーク先生ありがとうという感動で一杯になりました。目頭が熱くなるしかないあの終楽章の最後の最後!名曲中の名曲、とにかく聴いていただくしかありません。
フランスのチェリスト、ゴーティエ・カプソン(Gautier Capuçon)、なかなかイケメンでもありいいですね。指揮のパーヴォ・イェルヴィは先日N響を振ったネーメの息子。両者とも非常にデリケートな解釈で素晴らしいです。
この曲はドヴォルザークが若い時に愛していた女性(ヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人)が重病という知らせをニューヨークで聞き、帰国後1か月で彼女が亡くなるという極めてプライベートな事情が作曲と重なっています。だから第2楽章には彼女の好きだった主題(歌曲Lass’ mich allein)が使われ、そして彼女の死後にはあの第3楽章の長いコーダをつけ加えたのです。音楽は止まりそうになり、チェロのモノローグが第1楽章冒頭の主題を静かに回想します。こういう事情から彼は作曲依頼者のチェリストからの修正提案を「一音も変えるべからず」と言ってはねつけ、カデンツァを入れろと言われて激怒したのです。
「こんなチェロ協奏曲が書けるということを知っていたら自分も書いていたのに」と評したのはヨハネス・ブラームスでした。
ピエール・フルニエ / ジョージ・セル / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
最高の格調とデリカシー。第1楽章、チェロが登場する場は決然とした千両役者、そして第1主題を経ていよいよあの優しい第2主題へ向かう美しい道のり。ここがこんなに澄んだ秋空のような孤独と悲しさに彩られる例は他に記憶がありません。素晴らしい音程とフレージングで高音がまるでヴィオラであるかのように歌い、全編にあふれわたる品格の高いロマンの息吹は何度聴いても深く心を打たれます。このフルニエのチェロこそ曲の神髄を描ききった神品であると断言してしまって後悔はありません。そして、セルとベルリンフィルのシンフォニックで引きしまった伴奏がまた最高のテンポとディナーミクでもうこれしかないだろうという説得力ある逸品。第3楽章の第2主題を呼び覚ますオーケストラの素晴らしさ!それを受けるフルニエ。指揮者とソリストの和声の流れに対する感性とオーラが奇跡ように一致した稀有な演奏であり、それに呼応してオーケストラメンバーの出す「気」の脈動まで一致しているのを感じます。音楽にこれ以上何が必要なんでしょう。これを持っておれば他は要らんということはあまり書きたくないがこの演奏は僕の中で完全にそういう位置にあります。これはぜひSACDなどの上級フォーマットで所有したいです。
リン・ハレル / ウラディーミル・アシュケナージ / フィルハーモニア管弦楽団
もしフルニエ以外で一枚だけと言われればこれです。僕は何種類もあるロストロポーヴィチのこの曲がぜんぶ大嫌いであり、カラヤンとやった有名な一枚は特に嫌いです。このハレル盤は曲への愛情が自然に伝わる名演で、アシュケナージのデリケートなサポートも実に見事です。彼はラフマニノフ、グリーグなど甘目の音楽を下品にならずに表現する達人です。第3楽章コーダの彼女の思い出のシーンだけはフルニエよりもこちらのほうが上であり、涙なくして聴けません。録音も良く、お薦めできます。
ハインリヒ・シフ / アンドレ・プレヴィン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
美演です。チェロもオケも暖かい木質の音で好ましく、録音はホールの空間、空気を感じさせる欧州系の上質のもの。実はこのCDを秋葉原のオーディオ店で試聴して僕はB&Wのフラッグシップ・スピーカーである801Dの購入を決めたという記念碑的CDなので挙げさせていただきます。
(補遺、3月21日)
1月7日にコメントを頂いたライヴ・イマジンのチェリスト西村様と先週食事をし、興味深いお話をたくさん伺いましたが、その際にいただいたのがこのCDです。
スティーヴン・イッサーリス / ダニエル・ハーディング / マーラー室内管弦楽団
ガット弦の演奏が素晴らしく、文才にも長けたイッサーリスの解説がまた面白く勉強しました。ナイアガラの滝を前に5分間も立ち尽くしたドヴォルザークが、何かに憑かれたように、「神よ、これはロ短調交響曲になるでしょう」と叫んだ。その35年後に同じ景色にモーリス・ラヴェルが「なんて荘厳な変ロ長調だろう!」と述べた。僕は3回も行って、たぶん5分以上は立ち尽くしてますが、作曲家にならなくてよかったです。
その「ロ短調交響曲」は既にほぼできていた新世界交響曲ではなく、チェリストのハヌシュ・ヴィハーンの説得で書かれたこのロ短調協奏曲の壮大なヒロイズム、高貴なたたずまいに結実したかもしれないというイッサーリスの説は支持できそうです。息子の証言ではドヴォルザークは独奏楽器としてのチェロは低音がもごもごしてはっきりしないと嫌っていたのに、友人に1894年12月の手紙で、「キミ、驚くなかれ、私はヴィオロンチェロのための協奏曲の第1楽章を書き終えたのだよ。私がそれにいかに意欲的か、自分でびっくりしてるんだ」と書き送っているそうです。
自分がしている作業に自分が驚く。トリスタンを作曲中のワーグナーも「ピアノを弾く自分の指先から出てくる妙なる音に驚く」と述べていますが、天地神明から得た霊感を人間界に残す者(作曲家)と、その人間への共振を具現化する者(演奏家)がいかに違っていることか。轟々と爆音を立てて流れ落ちるあの滝を見てロ短調や変ロ長調が聴こえてくる人たちというのは人間界において特異な存在であって、ひょっとしてキリスト、アラーや仏陀がそうだったかもしれず、アインシュタインもそうだったのだろうかと思ってしまいます。
ニューヨーク滞在の終わりごろ病気のはずのドヴォルザークを家に訪ねると、散乱した数日分の残飯に埋もれて黙々と作曲中だった、病名は作曲熱だったという逸話もあります。ベートーベンの部屋も大家に追い出されるほどひどかったそうですが、こういう人たちは霊界と交信していて俗界など眼中にないのですね、まあ彼らのおかげで喜びをいただいている我々俗人の目線で評価することはナンセンスと思います。
この曲をドヴォルザークに書かせ、テクニカルな提言もしたのはハヌシュ・ヴィハーンですが、もうひとつ作曲に重要な契機を与えたのが音楽院の同僚教授ヴィクター・ハーバートのチェロ協奏曲第2番ホ短調でした。ドヴォルザークは94年3月に初演されたこれを少なくとも2回聴いており、終演後に興奮した大声でハーバートを素晴らしい!と祝福したそうで、これに触発されてヴィハーンのリクエストに応える気になったようです。ハーバートは93年12月16日、カーネギーホールで新世界交響曲を初演したニューヨーク・フィルの首席チェリストで、同じホ短調で2番の協奏曲を書いたのですが、緩徐楽章がロ短調でありこれもドヴォルザークに影響を与えた可能性が指摘されています(出典・wikipedia)。
イッサーリスのCDには初稿のエンディングが録音されていて初めて聴きました。割合に唐突でそっけないものだったのです。これが上記のとおり、ヨセフィーナからの重篤であるという手紙(94年11月)、上記の自分でびっくりの手紙(同12月)となり、ヴィハーンのカデンツァを拒絶、そしてヨセフィーナの死(95年5月)による改訂となっていくのですが、エンディングに縫い込まれた歌曲Lass’ mich allein(1888)がこれです。
イッサーリスはハイドン、モーツァルトもそうだがとしていますがヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人は奥さんになったアンナの姉妹(お姉さん)であり、結婚後もドヴォルザークの気持ちは変わらなかったようで玄孫(孫の息子)であるトニー・ドヴォルザーク氏によると1990年代になってもヨセフィーナとの仲が家族のゴシップねたになっていたそうです。Lass’ mich alleinはコーダだけでなく第2楽章にも現れますが重篤の知らせ以前から、この曲は構想した時点から、忘れられなかったヨセフィーナのためのものだったかもしれません。
写真を探したらありました。左が奥さんのアンナ、右がヨセフィーナです。
ところで大貢献したハヌシュ・ヴィハーンです。2つのカデンツァも含めて提言のほとんどをドヴォルザークにはねつけられてしまいましたが、それでも作曲家は彼に初演の独奏をさせたいと願っておりました。ロンドンのフィルハーモニー協会が95年4月に祖国へ戻っていた作曲家にクイーンズ・ホールで自作の指揮を依頼したのが11月で、彼はそこでチェロ協奏曲をヴィハーンの独奏で初演しようと応じました。ところが協会の指定した日にちにヴィハーンはボヘミア四重奏団として契約した別の公演があったのです。協会は日にちの変更は罷りならんとした挙句にドヴォルザークに相談もなく英国人チェリストのレオ・スターンを初演者として契約してしまいます。
それを知った作曲家はヴィハーンとの約束を反故にできない、それなら自分は指揮しないと断ります。すでに演奏会を宣伝していた協会は恐怖にかられ、赤恥であると大騒ぎなります。ドヴォルザークと協会は翌年3月初めについに折り合い、同19日にスターンによって初演は予定通り行われることになります。ここまでは有名な話であって、しかしその数か月の間に何があったかはそうでもなくて僕は以前から知りたかったのですが、それをイッサーリスは明らかにしてくれています。
34才のスターンはチェコに飛び、チェコ語を習い始め、ありとあらゆる手段でドヴォルザークの歓心を買おうとしたようです。微笑ましいのは珍しい鳩までプレゼントしていることでしょう。機関車、ボート、ビールと並んで、鳩は彼がハマっているものの一つだったのですね。この涙ぐましいセールスの甲斐あって、作曲家のピアノ伴奏で協奏曲の試演までして絶対の存在であったヴィハーンをとうとうひっくり返したのが翌年3月だったということでした。「音楽界って、何も変わってませんね!」というイッサーリスの注釈がこれまた笑えます。
(こちらもどうぞ)
ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その1)
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