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織田信長の謎(1)

2015 AUG 18 12:12:31 pm by 東 賢太郎

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安土城は琵琶湖東岸(湖東)の安土山にあった(地図のマークのところだ)。浅井攻めで軍功のあった秀吉を配した長浜城は北陸本線を北上した「湖北」長浜市にある。安土城は建築法が特殊であり、映画「火天の城」(これは面白い)によると熱田神宮造営に加わった大工、岡部 又右衛門による築造に壮絶なドラマがあった。天守(信長は天主と称した)は内装、外装とも大量の金箔で豪華絢爛だったと伝わる。安土山ごと要塞とした堅固な山城であったが、通例に反し天守は彼の居住空間でもあった。天皇の行幸計画まで練ったという彼の一世一代、乾坤一擲の大事業であったのだが、そのような事実を見聞すればするほど僕の興味はただ唯一、「信長はどうしてここに城を造ったか?」に集約してゆくことになった。なぜなら、この地図にてご覧のとおり、そこである地政学的な意味はまったく見いだせなかったからである。

 

aduti1JR西日本(琵琶湖線)の安土駅が至近であるが周辺にいいホテルがなく、隣の近江八幡駅のホテルニューオウミに泊まる。ニューオータニ系だがサービスは普通で、部屋はタバコ臭くて参った(ただし一番安い8800円の部屋だ)。到着したのが午後2時ごろでもあり道も不案内であるためホテルよりタクシーで安土山へ向かう(2600円で意外に高かった)。いよいよ前方に「それ」がこんな風に見えてくる。興奮は高まるばかりだ。

どうしてそんなものに興奮するか?それはする人しかわからない謎だ。そして残念ながらそういう人にまだお会いしたことがない。こういう場所に誰かと行くなら老若男女を問わず一緒に興奮してくれる人と行くしか手はないが、天守跡で蚊に食われながら1時間も一緒にいてくれる人はまずいない。ベストなのは一人で行くことだ。興奮の理由は二つある。まず第一に無条件に古跡が好きだ。その理由はない。所在地、国籍問わずであり、ローマで3回も行ったフォロ・ロマーノに明日10時間いても絶対に飽きることはない。30分ぐらい見て歩いて、疲れたねそろそろ昼メシにしようよという人とご一緒することは非常に困難である。芭蕉の「つはものどもが・・・」の心境が近いかもしれないが、芭蕉の心境の方もよくわからない。

Oda_Nobunaga-Portrait_by_Giovanni_NIcolao第二に、これが主原因だが、僕は信長が好きである。右はイエズス会画派 セミナリオ教師ジョバンニ・ニコラオ筆と伝わる信長の肖像画だ。セミナリオ(城下にあったイエズス会のミッションスクール)へ行って西洋音楽を聞きながらこんなものを描かせていた。この時代のバテレン好きは今の西洋かぶれなんかの比ではない。そして合目的的行動原理主義者である。自分もきわめてそうであり、これが痛快に腑に落ちる。そして進取の気性である。今なら米国のビットコインの最大手企業に何千億円でTOBをかけるようなタイプであると感知する。そして型破りである。村上水軍の手りゅう弾で負けると対抗策を考えぬき、鉄の鎧を着せた奇想天外な巨船を造って撃退してしまう。そしてアーティストである。能「敦盛」を舞い、茶をたて、和歌を詠んだ。彼だけではないが、武家のたしなみや見せ掛けではなく本心楽しんだのではないかと思う節がある。

信長は日本人には珍しく「皆殺し派」であった。西洋的、中国的だ。戦国時代にその善悪を説いても仕方がない。それは三国志の曹操と同様、天下布武に合目的的な行動だったと思われる。「敦盛」を舞っていたほどだから、平清盛が捕えて生かしてしまった源氏の子(頼朝)に誅殺され一族が滅亡したことを知らなかったはずがない。ただ明智憲三郎氏の著書「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)によると、信長の冷酷非情なイメージは信長の死後に秀吉が意図的に倍加捏造したものとある。「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」という句が江戸時代後期の甲子夜話にあるが、後世は秀吉による信長像が広まっていたそうだ。殺してしまえよりは捨ててしまえが似合うかなと個人的には思う次第。

aduti2山のふもとに「大手口」がある。ここからまっすぐに延々と石段が続き(写真)、物理的には壮大な山城であったことを一見して知ることになるが、心理的には天守の仰ぎ見る高さをいきなり実感させることにもなる。西洋の教会が誰も目にした経験のない巨大さと高さで信者をひれ伏させるのと似た効果を感じる。登ってすぐの所に羽柴秀吉(写真左)、前田利家(同右)の屋敷跡と伝わる遺構がある。面白い。天主へ至る道が直線では無防備なのだが、寺院の入口の門の左右に立つ仁王さんみたいなものか。秀吉の敷地の方がずっと大きいが、こういうところで差をつける。利家は御取立ての嬉しさ半ばで頑張っただろう。この段々を上がりきるだけでもう汗だくになった。

aduti3この石段の石は寄せ集めで何でもアリ。石仏まで使われている。不信心の信長はこれを踏んづけて登ったかもしれないが、逆にこういうものから不信心説が醸成されていった可能性もあろう。彼は徹底した合理主義者である。勝つためには何でもしたが念仏で戦さに勝てないなら無視。それだけだ。なぜなら安土城は城郭内に堂塔伽藍を備えた寺院(摠見寺)を持つ、後にも先にも唯一の城である。助けてくれる仏さんは大事にした。部下に黒人(弥助)がおり本能寺の変の際にも同行していたほど取り立て、末は城主にしようとしていた。秀吉と同じ路線の驚くべき出世コースがあったのだ。家康も三浦 按針を取りたてたが所詮通訳だった。発想の質に大差がある。単なる好き嫌い人事なら現代もおなじみだが、取りたてた無名の部下が武功を上げたのは信長自身が戦場の指揮官として優秀だったからであり、ローマのカエサル軍が強かったのと同じだ。信長は戦さはたくさん負けているが、負けると勝つ方法を編み出して常に進化している。発想のフレキシビリティと好奇心と学習能力!彼が天下取り一歩前まで登りつめた要因はそこにあったと感じる。

ビジネスの世界で戦う人間として、僕は彼の能力に限りない羨望を覚える。信長こそ現代ならば世界で成長する企業を牽引できる頭脳を持った男だ。秀吉は一般的イメージよりも計略も戦さも政治もうまく高い知力を感じるがさらに異能であったのはサラリーマン道の天才としてであって、その必然の理として上司がいなくなると異能の部分の発揮は不能となった。家康はあらゆる管理運営の智謀をもって安定的支配をおこなう天才であって、現代の官僚、大企業メンタリティの祖となったが、長期安定と引き換えに想定外の事態への即応と危機管理能力に欠け、相対的には信長的であった薩長明治新政府に屈した。信長の冷酷非情残虐は性格による部分もありと思われるが、現場の最前線で自身の経験として研ぎ澄ました「勝つための策」を持ち、それに寄与しないなら万事無駄であると切り捨てることは勝ってきた人間にあまりに当たり前のことだ。それを理解できず異常と観るのが99%の人間であることを知っていた賢い秀吉が、自身に都合の良い改竄した歴史を庶民に植え付けるべく誇張して書かせたのが「惟任退治記」であるという明智光秀ご末裔の明智憲三郎氏のご明察には賛同したい。

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

 

 

 

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