アンセルメ「ダフニスとクロエ」の魔法
2018 SEP 26 1:01:08 am by 東 賢太郎

ブーレーズCBS盤の録音技師のセンスについて述べましたが、もし同じクラスのものをもう一つといえばアンセルメのラヴェル「ダフニスとクロエ」(1966年、ステレオ)を録音したDecca技術陣を挙げます。個々の楽器音は比較的オンに録って音色成分はリアルに出て分離も良好なのですが、ホール・アコースティックと倍音成分の配合が絶妙であり、格調の高さは筆舌に尽くし難いレベルに達しています。
アンセルメの指揮がまたセンス満点で、ちょっとした品の作りから背景の雰囲気の醸成までぞくぞくするような蠱惑にあふれており、ラヴェルの冷んやり感というか、冷たく紫色に光るピアニッシモをこれほど大事にした録音は他に聴いたことがありません。加えてスイス・ロマンド管(SRO)のフランス色満載の音が絶品がとくるからこのスコアへの偏愛が半端ない僕はどうにもたまらないのですが、この演奏の真価はそうした「色香」だけにあるわけではないのです。
何度聴いても、僕はアンサンブルのごくごく細部まで光る指揮者の眼を感じずにいられません。それは表層の飾りや興奮には目もくれぬアンセルメの覚めた理性であって、どんな微細なパッセージの隈取りや伴奏の和声も奏者まかせの「いい加減」と感じるものがない。意外に聞こえるでしょうがそれはブーレーズ以上であって、ブーレーズが管弦楽の音色の絵画であるならアンセルメはピアノで弾いた墨絵のようで、このスコアの本質をより怜悧に紐解いたものと感じます。それが音の色香を伴って「魔法」を産んでいる。
例えば「夜明け」の遅めのテンポと静謐、これはまだ夜が明けてない薄明かりであって、普通の指揮者は鳥が鳴き始めるとフォルテになりますがアンセルメはそうならないのです。クラリネットとヴィオラの旋律がゆったりと流れる。何という豊饒な時だろう!裏の木管とヴァイオリンの細かな音型が細密に造形され、やがて合唱がひそやかに入ると明かりが見えてきます。2度目の主題が現れてやっとフォルテになって陽光が波しぶきを伴って煌めくといった塩梅であって、僕はまだ長女がお腹にいた時分、家内とふたりで初めてクルージングを経験したアドリア海、エーゲ海の夜明けの情景を思い出します。そう、あれはこうでなければいけない。
全員の踊りも遅めで、アンセルメは安手の興奮など煽る気はさらさらなし。彼はラヴェルのスコアを信じきって、自身がつかみ取っている荘厳な美をレアリーゼすることに徹しています。安手の興奮に慣らされた耳には誠に物足りないでしょう。とんでもない、僕はピアノ版スコアとこの録音があれば、人生退屈するなどということとはまったく無縁なのであります。できる限り良い環境で、耳を凝らしてお聴きいただきたいと思います。
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maeda
9/28/2018 | 9:45 AM Permalink
今日某ビジネス雑誌に某コラムニストの意見として、「金のために文章を書く人間をプロと呼ぶのではありません。
書いた文章が金になる人間がプロと呼ばれるのです。」とありました。これをちょっと変えると「金のために演奏する人間をプロと呼ぶのではありません。演奏した音楽が金になる人間がプロと呼ばれるのです。」となると思いますが、そういう音楽が聴き継がれていくのでしょうね。最近軽視されがちな編集の付加価値はそのためにも重要です。
東 賢太郎
9/28/2018 | 2:50 PM Permalink
賛同いたします。聴き継がれていく音楽という前田さんのご表現はとてもしっくりきますね。金にはなるが1年で忘れられる音楽がクラシックと呼ばれることはないですから金は必ずしも尺度ではなく、クラシックになれば後からついてくるものにすぎないかも知れませんね。クラシックが聴き継がれる音楽とするとレコードも個性がある一個の作品であって、やはり聴き継がれる立派な芸術品と思います。そう考えるならプロデューサー、エンジニア及び演奏家の合作であるという視点があっても良いように考えております。