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カテゴリー: ______気づき

“賢い女性”を持て余す日本(上野千鶴子さんの東大入学式祝辞)

2019 APR 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

上野千鶴子さんの東大の入学式スピーチが話題らしい。読んでみると、

知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です

とたしかに良いことをおっしゃっている。知識は知ではない。

東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい

これも、まったくその通りだと膝を打った。海外に出ればそのブランドは無きに等しい。僕は16年外国で苦労してみて、ブランドは自分なのであって、それなしではどこの国でも通用しないことを知った。ということは、実は日本でもそうであって、最後に助けてくれるのは「知」しかない。

東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました

これはどうか。女性が少ないのは別に東大のせいではなく、門は万人に開かれている。学生に言っても仕方ないと思う。

それは世間一般にほぼ普遍的に存在するジェンダーの問題で、どっかの医大が女子と浪人を差別していた動機はそれだったようだが、東大の場合は単に志願者の男女比が1:1でないだけであって今に始まった話でも何でもない。受験しないのだから増えるはずもない。その底流にジェンダー問題が潜むというご趣旨であり、未来のリーダーとして心してかかれというなら、それはそれで同意するが。

しかし、桃太郎はこう始まるのだ、「おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」。500年も昔の話である。なぜおばあさんが洗濯なんだ、しば刈りではいけないんだ、男女差別だろうと目くじら立てる人はあまりいないのも事実であって、差別なのではなくそれが古来からの男女の好ましい分業の姿であり、自然にやってきたことだと思うしかない。日本人の主食がなぜ米だといって、自然にそうなったとしか説明できないような性質のものなので、東大生の目くじら程度でそう簡単に変わるとも思えない。

日本という国がいかに変わらない、変われない国かを痛感した経験がある。僕ら1980年代の留学組は「これからはグローバル時代だ」といわれて尖兵の気持ちで米国へ行った。日本企業もやがてそうなった。しかし、あれから35年、日本は「なんちゃってグローバル祭り」の残務整理にさしかかっているのだ。千年たってもあのころ夢想した国にはならないと今は確信を持って言える。だから僕は海外派の道はばっさりと捨て、国内で「ちょい英語うまいオヤジ」になる軌道修正をしたわけだ。流れに逆らうより環境適応。それはシンプルにsustainableな人生を送りたいと思ったからだが、隕石衝突後の恐竜と哺乳類の運命という中学生でも知ってる「知」に従ったと言えないこともない。おかげで生き延びた。

上野さんは東大の男子学生はもてますというが、時代が違うのかそんないい思い出はなくてずっと慶応のほうがもてたし、東大女子とつきあったことはない。そもそも文Ⅰには20人もおらず駒場のクラスはゼロで男子校状態だったし、片山さつきや福島瑞穂みたいな面々に太刀打ちできたとも思えない。しかし、彼女らは優秀なのだ、とてつもなく。なるほどそうか、一つだけ手があったかもしれない。ヒモになることだ。東大女子は学歴を隠す必要なんて毛頭ない、堂々と社会に進出して稼いで、男は養ってやる。格下でも優しくて尽くしてくれて、精神的安寧をくれるようなタイプを探すといいのかもしれない。まあ僕にそのメはなかったが。

ちなみに東大の女子比率はこうだ(2019年)。歴史的にほぼこうであり違和感はない。

理系:文系が57:43で人数は理系のほうが多く、最も多い理Ⅰの8.1%が全体を下げていることを見ると、数学が難しいから女子は敬遠してるのだという巷の推測が的を得ているように思う。僕のころ4問中1問解ければオッケーといわれた文Ⅲだけ3分の1が女子と突出して多いのもそれで納得である。上野さんによると理Ⅲは男女各々の合格率比の値が1.03(男が僅差で上)だそうである。ということは、全国模試一桁クラスの、数学もめちゃくちゃできる優秀な女子志願者が男子志願者の18%ぐらいいたということを意味するが、18%「も」いたと考えるか、18%「しか」いなかったと考えるかは何とも言えない。以下論考する。

ジェンダー(gender)とは単に性差の意味であり、それが「問題」かどうかを問題にされているようなのだが、僕自身は個人的に知っている範囲という限りにおいて、女性に学業で勝てないと思ったことは駿台予備校にいた1人の女性を除いてないし、成績順に並ぶ周囲に女子はひとりもいなかった。その背景には「女だてらに勉強なんて・・・」という日本の社会風土の影響が色濃くあるという現象的には不平等なものが存在していることは理解しているし、むしろ、社会で “賢い女性” を持て余すような男がバカなだけなのだというご趣旨ならば100%賛成である。僕自身、女性の社会進出は徹底推進派だし、それが国益にもなると信じるし、我が社は優秀な女性たちの支えなくして存立しない。

しかし、女性は差別されている、犠牲者だ、だから・・・という論調には組することはできない。その議論は18世紀からあるが、人種差別と同様に万人が納得する解決が得られたという証拠はなく、ジェンダー(gender)とは本来はニュートラルな定義であり、我々は男女が相互に補完する本来的な人間関係のあり方から自由であることはできないと考えるからだ。男は子供を産めない。社会というフレームワークの中では女性の産休が出世のハンディだといえないこともないだろうが、家庭というフレームワークの中ではずっと家にいて授乳や育児をすることのできない男性は子供との1対1の愛情を形成するのにハンディがあると言えないこともない。仕事と家庭とどっちが大事なの?と問い詰められるのは常に亭主だが、その選択肢を持っているのは実は女性だけである。

僕は女性しかできないことにおおらかな敬意を持っているし、同様の青年男子は増えているように感じる。もしそうならば、これからの世の中では、ハンディは男女の「創造的分業」で解消できるのではないかと思っている。「女子は子どものときから『かわいい』ことを期待され、愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手(男性)を絶対におびやかさないという保証が含まれている、だから東大女子は校名を隠すのだ」と上野さんはいわれる。東大女子は入れないのではなく、今は知らないが、正確には特定の他校女子と設立されたサークルがあったことも事実であるし、校名を言うとひかれてしまい女子はそれをハンディと思うのはわかる気がする。

しかし、それを認めつつも疑問が残る。もしご説に従って、①女子の東大志願者が少ない理由が親や社会の性差別による制約であり、②統計的には偏差値の正規分布に男女差はないと仮定するならば、理Ⅲを狙える学力があるのに受験しなかった82%の女子が日本国のどこかに存在するはずであるが、①を特段に差別とは思わず「かわいく生きたほうが得だもんね」という女性の特権的かつ環境適応的に合理的選択をした人を含んでいるという結論に何故ならないのかをどう説明されるのだろうか。それ以前に、そもそも「82%の女子」は本当に存在するのだろうか?顕在化していない学力(能力)を、理由は何であれ、「あります」といっても相手にしないのは差別でなく世の中の常識であり、努力に対する公平性を担保する厳然たるルールでもある。

それだけで愛され、選ばれ、守ってもらえる保証があるなら相手の足の裏を舐めてでも『かわいく』したい男は世の中に掃いて捨てるほどいる。豊臣秀吉でさえ出世の手管とはいえそれをした。しかし、子どものときから『男らしい』ことを期待され、愛し、選び、守れと教育される男にはそんな道はルーティンとして用意されているわけではない。仮に、一部の特殊なアノ道があるではないかというマイノリティー・オピニオンを最大限に尊重してみたとしても、『かわいい』志願の女性の18%もの数の男が夢をかなえるほど需要があろうとは到底思えないのである。そういうあふれた男にとって女性の進出は脅威以外の何物でもない。東大女子であろうがなかろうが「男を絶対におびやかさないという保証」などないのだからパスポートとしての学歴ぐらいは持っていて悪くないし、まして隠す必要などない。

だから女性は、理Ⅲに受かるような人は堂々と正面突破すればいいし、どなたもが女性しかできないことを男との分業としてプライド高くハイレベルのパフォーマンスでやれば男は手も足も出ないのであって、要は、家庭でも職場でも、「創造的分業」のメリットを男に認識させればいいのである。同じことをしているのに女性だと評価されないと嘆くのではなく、評価されるに違いない違うことをするのである。

男子学生には、上野さんの言葉を引用しつつこう伝えたい。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。

まさにそう思うし、さらに加えるが、東大を出たぐらいで未知の世界で一生安泰に暮らせるほど世のなか甘くないよ。男も学校名を言うとひかれるよ(女だけではない)。東大がいない組織に入ると暗黙のいじめにあうよ。それがこわいなら官僚になるしかないがブランドはなくなるよ。女性は弱者のままで尊重されたいというフェミニズムも理解しないといけないし、男はつらいよ。やさしいだけのエリートなんか世界史上ひとりもいない。世界のエリートと伍して生きるには絶対的になにかで強いことが必要条件だから、本当に大変だよ。徹底的に突っ走ってください。

最後に提唱したい。男も女も会社も国もwin-winになる「創造的分業」について。何が創造的かは千差万別だが、例えば僕の会社は秘書を2人採用し、各々の能力と個性で男ができない部分をバックアップするフォーメーションが1年かけて自然にできている。それは実務的なものだけでなく安心感という精神的なものもある。そのおかげで会社のパフォーマンスは上がっており万事うまくいっているのだから「後方支援」「お手伝い」という階級的視点はない。1+1が3になって全員がハッピーになるから創造的な分業であり、男女なく同等な評価をさせていただいている。国中の男がこう考えるようになれば日本国だって1+1が3になって何も悪いことはない。

 

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財務省キャリアに東大法学部ゼロ

2019 APR 6 0:00:59 am by 東 賢太郎

「おい、財務省キャリア入省に東大法学部がゼロだったらしい、財界に激震が走ってるぞ」と一昨日ある経済団体トップの方からききました。逆に増えたのはコンサル系、ファンド系だそうです。そのど真ん中にいて言うのも些か自虐的ですが、「日本の屋台骨が年々おかしくなってきましたね」とお答えしました。

そのココロはというと、「万人は万人に対して狼」(または「万人の万人に対する闘争」)という自然状態を克服するため社会的な契約を結んで国家に主権を委譲している(ホッブズ「リヴァイアサン」)と、単なる教養やお題目としてではなく、真剣に考えているからです(僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源)。僕は政治、行政にプロフェッションとしての関心も能力もないので、平穏な市民生活を送れるよう狼、闘争から守ってもらうために政府と官庁に税金を納め、優秀な人たちにその責務を負っていただき、それならば主権が制約されることをやむなしという契約をしているのだという観念をもって日本国で生きています。だから税金が下がらないのに官僚の質が劣化するとしたら俄には認容し難いのは当然のことなわけです。

ホッブス『リヴァイアサン』表扉

官邸主導も結構だが、官僚の頂点の財務省でそのまた頂点の次官や局長にまで登りつめても政治の人身御供でああいうことになり、お茶の間の下世話な勧善懲悪ネタに飢えたマスコミの格好の餌食になって国民の理解も得られないどころか悪玉として記憶されてしまう。苦労して勉学しながら入省した挙句に大臣が人の税金で勉強したまで言ってくれる。 後輩たちは優秀なんです。たくさんの選択肢をもっています。想像するに、漢字も読めない上司にそんなことを言われて辞書に書いてない人生航路を行くのはアホらしい、それならば税金を払って守ってもらう側で能力を活かしたいということなのでしょうし、そう考えるならそれがいいよ、税金をたくさん払って「お釣りはいりません」というぐらいに国と貸し借りない人生を歩めばいいよと先輩として賛意を送りたい。読んでない人は「リヴァイアサン」をお読みなさい。

森友決裁文書改ざん問題の真相

昨日は韓国のソウルで中村修二先生にファイナンスのコンサルとして助言を申し上げていましたが、人の税金で勉強するのがいかんなら「税金を1円ももらわないでノーベル賞を取ったのは私だけです」との中村先生のお言葉をここでお伝えするので官邸は麻生大臣の論旨を真摯に受け止め、先生に国民栄誉賞を検討すべきでないか。ところがその先生は「日本に事実に基づいた正義など存在しない、正義は既得権者の保護という落としどころありきで決まり、彼らはやったもん勝ちだ」と本質を看破してすでに米国市民になっておられ、「茹でガエルの日本は一度ぶっ壊れて沈没したほうが長い目で見ればいい、そうしないといずれ茹であがって滅びる」と愛国心、老婆心でおっしゃる。世界の熾烈な競争環境にいる者は皆同じ気持ちで、鈴木一朗氏(イチロー)が茹でガエルのNPBの栄誉も国民栄誉賞もいらないのも同根のことではないかと拝察しております。

池田信夫氏が「『葉隠』で印象的なのは「釈迦も孔子も鍋島家に仕官しなかったので家風に合わない」という言葉だ。ここでは佐賀藩(鍋島家)が、仏教や儒教などの普遍的な価値を超える絶対的な存在だった」と書いています。日本人の精神構造を考えるとき武士道は避けて通れませんが、それは影響のプロセスにおいて韓国の「国民情緒法」とファンクションはあまり変わらない。韓国のそれは、国民が騒げば、そんな法律はないが時に憲法にも優先して大統領や財閥トップが有罪になってしまうinvisible law(見えない法)ですが、「家風に合わない」で真理や正義を葬れる国なら韓国を法治国家にあらずと笑うことはできないでしょう。

普遍的な価値を超えた存在」で日本国の「家風」を決める存在になろうとしているように見える官邸の主導という政治は、平成初期に雲霞のように大量発生して大企業の根幹部門に巣くい、会社を軒並みダメにした茹でガエルの集団に乗っかって命脈を保っているだけであり、お湯が熱くなってきて大きめのカエルが次々と茹であがってきたのが平成という世でした。その間に時価総額という企業の通信簿で日本の全大企業は米中はおろか韓国にも大負けであり、これは野球なら20対0のノーヒットノーラン負けぐらいの大屈辱敗戦なのに「株価なんて尺度は家風に合わない」という空気がいまさらのように残っている。個社として本気でそう思うなら構わないがそれならば自ら上場廃止すべきであって、それもしない。つまりなぜ株式を公開しているか意味すら分かっていない。

買収というのは、レバレッジド・バイアウトを除けば原則として時価総額の大が小を食うものです。捕食者か獲物かは株価で決まると言って過言でない。ある朝に出社したら会社は食われて今日から外資系でしたという可能性は世界に普遍的に存在するし、そうなっても個人としては生きていける人たちはそれを何とも思っていないのですが、それを「リスク」だと一番思わなくてはいけないのはサラリーマン社長を含むそうでない社員であり、皮肉なことに、「家風にこだわっている茹でガエル」であり、「株を理解していない人たち」なのです。カルロス・ゴーン事件の本質はそこというアングルでマスコミはほとんど報じないが、彼らは茹でガエルの代表選手で放送法の外国人株式保有規制(20%)でそれが起きえない業界に生息する最も感度の低い人たちなのです。そんな低次元の報道ばかり見ていれば、英国で移民に職を奪われたくない一心でBrexitにこぞって賛成投票したらホンダが工場移転して自分が失業しましたというようなことがあり得るのが日本の現実です。

後輩たちにアドヴァイスするとすれば、日本というplay groundはこれから悪くはないよ、ただ良いとすればそれは外資にとっても同じく良いよ、だから引きこもりの茹でガエルはいずれ全部死ぬしそこにいる君も死ぬよ、世界の最先端技術(deep tech)にフォーカスしたほうがいいよ、大企業がへたる環境は隙間ができるということだから君らの世代には大チャンスだよ、という簡単なことです。コンサル、ファンドがいいよとは言いませんが、有能な人がビジネス界に入ってくるのはウェルカムだ、皆さんの「未来アンテナ」は結構いい線いってるな、日本のビジネスパースンの未来はずいぶん明るいなという印象を持ちました。

 

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交響曲を書きたいと思ったこと(2)

2018 NOV 25 0:00:03 am by 東 賢太郎

ビジネスは弁証法的に進化する。それが利潤動機であり、資本の論理であると性悪説(かどうかは議論があろうが自分の立場からは)に立脚するのは人権に基づくプロレタリアート概念を創出したいマルクス経済学のイデオロギーに過ぎない。ロジックとしての弁証法に性善も性悪もないのである。マルクスは弁証法による唯物史観をとった。私見では宇宙はその原理で生成発展しており、宇宙の一部である人間社会がその原理で解明されてなんら違和感はない。

しかしそこには大きな論点の欠落がある。ビジネスは大阪弁の「オモロい」でも進化し、資本はそれでも成長することを大阪人でないマルクスは完全に見落としている。平等なユートピアはオモロい人を殺してしまうことは論じていない。そもそもオモロいことをしている人は「搾取されました」なんて争議はしないのである。オペラを受注したモーツァルトが残業代の計算をしただろうか。過労で倒れて労災申請をした大作曲家がいただろうか。

僕は365日休みはないし三六協定もないし土日も仕事している。事業主、資本家だからではない、オモロいからだ。だからオモロくなくなったらやめる。労働は悪だというのはキリスト教思想であって仏教徒の僕には毛頭関係ないが、もとよりこれは宗教、思想の話ではないという所が核心なのである。むしろ人間の生来の属性、ケミストリーであり、性格、生き様、信条、モチベーションの話であって、そういう類型化できないことを学者は採用しないが、その姿勢は実務家である僕にはまったくのナンセンスでしかない。

しかし、宗教であれ教育であれ人間の生来の属性を造り変えることは尊厳にかかわることだから無理だと思う。したがって、ここに必然的に、仕事が「オモロい」「オモロくない」で地球上の全人類は二分されるのだ。資本論は後者の人類の福音書であり、明示的には消えたが精神だけは世界の左派に残っている。特筆したいのはこの二分法こそマル経が予期せず生んだ『階級によらない人間分別法』であるということだ。マルクスは狩猟採集の原始社会が本来の平等社会(無階級社会)であって階級社会を克服した上で実現する無階級社会は極めて生産力が高く、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」としたが 「能力に応じて」「必要に応じて」の部分にこの二分法の用意がある。これを論理の穴と上げ足をとるか、さすがマルさん逃げ道あって頭いいねととるかは勝手だがどっちでもいい。

強固な持論として僕は「オモロくない」派は時給いくらで残業代をしっかりもらうべきだし、「オモロい」派は成果連動報酬で青天井スキームでやればいいと思う。日産のゴーン元CEOは明白に後者の契約だったわけで、それを前者と比べてけしからんというのは二分法からしておかしい。株主がOKといえばいいわけで、その株主を欺いたから拘留されているのだ(当面の理由としてだが)。野球でいえば球団職員がエースの給料が高すぎだと言ってるようなものでマスコミのマル経的たきつけに徹している観がどうも解せない。「高級マンション」がどうのというのも、高級かどうかが論点ではなく取締役会で決議したかどうかだ。しないと会社の金の振り込みなんかできるはずがない。なぜその時点でOKだったのが今は横領まがいなのか(本件は今後注視したい)。

ソナー・アドバイザーズは、基本的には、「オモロい」派だけの会社だ。「オモロくない」派は外注で足りる。なぜそうするかというと、ビジネスはマルクスの見落とした大阪弁の「オモロい」でこそ進化こそするという強い信念があるからだ。だから秘書にも費用は会社持ちで資格試験を受けてもらいバリューアップしていただいているし、会社の業績の進化に影響ない人は採用しない。これはラーニング・オーガニゼーション(学習する組織)という経営哲学で、僕はダボス会議でGE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOだったジャック・ウェルチから習った(既述、「伊賀の影丸経営」の原型だ)。

僕が法律と何の関係もない対位法や和声法の勉強をしていたのは大学在学中だ。「人の税金を使って学校へ行った」(麻生財務大臣)からけしからんことだったのは謝るが、それをしながら作曲家にはなれないと思い知ったのは効用だった。できると思ったのは写譜屋ぐらいで、それなら1枚いくら、1小節いくらで請求するだろうし時間外の追加料金も計算するだろうと思った。さらに意外だったのはオーケストラに労働組合があることだった。これが意味することは、つまり団員は堂々たるプロレタリアートだという厳然たる事実なのである。基本はオモロくない派の人々なのだ。

いやそんなことはない、音楽は私の人生だ、だから音大を出て生涯の仕事にしているではないか、という声はあるはずだ。それを否定する権利は誰にもないが、それは日産の工場で現場を支える方々がクルマが好きだから汗を流しているという主張とおんなじだ。トヨタは食堂にまで意見箱を設置して工員の声でカイゼンしているが、だからといって労働組合が消えたわけではない。このことはプロスポーツと労働組合との親和性の議論と照合すれば理解が容易だ。サッカー選手がPK戦になったといって残業代を請求するかということだ。NPBに選手会が存在しストライキをしたことはあるが賃金交渉には無力である。オモロくない派ならやめればいいではないか、やって成功すれば収入は青天井だよという世界なのだ。

理系頭脳のオモロい派である作曲家は労働組合を形成する労働者とは別の惑星の人たちなのであって、両者の間には「音楽への愛」で結ばれることができるはずだなどという宗教がかった博愛ユートピア思想では越えようもない二分法による深いキャズムが存在することを僕は大学時代に学んだ(東大が教えてくれたわけでないが)。だから、そこまで異星人ではないものの「オモロい」派には属する指揮者が作曲家の宣教師としてインスパイアして引っ張らないと良い演奏など出ない確固たる道理があるのだ。音楽をマルクス経済学的側面から理解したし、それを通じて現在の経営観に至ってそこそこ税金を払っているのだから遊んだわけではなかったと思う。

この視点に立つと、指揮者と経営者の役目は同一であるというドラッカーの経営学も肌感覚の裏打ちが持てる。会社を進化させる経営を僕は「オモロい」に求めるわけだが、それは業界に40年生きてきて培った信用と人脈を素材として交響曲をcomposeする作業であることは前回述べた。これを僕はcompositionの本来の思考形態である数学的センスでずっとやって来たしこれからもそうする。数学が計算だと思ってる文系の人に説明するのは時間の無駄だから一部にしか言わないが、そういうことだ。

(こちらをどうぞ)

オモロい人たち

安藤百福さんと特許

「伊賀の影丸」型組織論

 

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遊びの教養

2018 NOV 22 0:00:03 am by 東 賢太郎

「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」にCDを提供していたレンタルCD店「ジャニス」が閉店するらしい。CD不況はそこまで来ている。本屋も激減している。若者は配信で済ましてモノを所有しなくなった。買うにしてもネットでクルマまで買えるし、ショップで手にして選ぶ需要は減っている。これはネット社会、クラウド社会による現象なんだろうか。

僕はyoutubeに100本ぐらい自分の好きなクラシック音源を公開しているが、はっきり言ってアクセス数はたいしたことない。英語で世界向けにしているにもかかわらず日本語ブログに比べると拍子抜けする程度である。ライブや古めの録音が多いから、そういうものに興味を持つ人が減ったのか世界にはもともと少なかったのか。

僕のように同じ曲の異演盤CDを100枚も買う人はもうあまりいないのだろう。そもそも19世紀にそんな趣味は存在もしなかったから先祖返りで消滅する運命なのかもしれない。決してネット、クラウドだけのせいではなく、人の志向が根っこから変わってきている気がする(それらが人間を変質させたと言ってもいいかもしれないが)。

するとオーディオもいらなくなる。今はヘッドホンでよい音がするし何より安いのだ。さらにはVRのソフトも格段にリアリティが出てきていて、いずれはもう海外旅行なんてバーチャルでいいやとなるだろう。カノジョもカレシもレンタルかバーチャル。Siriが進化して翻訳機能ができれば英語なんて学校で教えるのやめようよとなるかもしれない。

太古より文明は人間を楽にしてきたが、行き過ぎると人生はつまらなくならないだろうかと思う。そういう議論をしたら「そうではない」という奴がいる。それにつれて人間はちゃんと退化するから、楽と思ってたのがやがてちょうどいい具合に苦しくなるんだと。苦楽が釣り合えばそれなりに面白い人生だ、生きがいは感じられるというのだ。なるほど。

僕だって体力は退化してきたし、気づいてないだけで知力もそうかもしれない。行きつくところ認知症で寝たきりになれば人生はどうなるのか。楽しいのか苦痛なのか。わからないが、一つだけ確かなのは、遊ばなくなるだろうということだ。猫も老いると遊ばない。遊び。これは子供には仕事みたいなものだが、トシを食うにつれてどんどん人生から消えていくのだ。

そう思えばCDをあれこれ聞き比べるなんて何の価値も生まないし経済貢献もない、たんなるお遊びである。しかし僕はこれが飯より好きなのだ。そしてこれで色々見えてきたことがあるしそれは音楽に関係ないことだ。もっと前は少年サンデーで日本語を覚えたし野球で勝負を覚えたし、僕は教室ではなく遊びで学んだことのほうがずっと多く、いまはそれで食っているといって全く過言ではない。

これを「遊びの教養」と呼びたい。これは教養なのだ。どんなに勉強ができてもこれが足りないと社会ではつらい。少なくとも僕らの時代はそうだった。ところが昨今、TVなどをたまに見ると、明らかに「遊びの教養」が足りないと思われる輩がうまく生きられる時代になっていると思わないでもない。まあこの人と酒を酌み交わしてみようとは思わないだろうなというような。

それは社会全体のそれが低下しており、だからそういう輩が良いポジションを得られるようになってきたということか。リアルよりバーチャル、買わない、所有しない、回り道しない、無駄はしない、苦労は避けて小さな幸せでも満足。そうなのかなあと思う。「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」、あんなどうでもいいことを真剣に追及して笑ってみようというのは遊びだ。あれを「教養」と言ったら教養人は笑うだろう。でもその笑いより、あっちの笑いのがレベルが高いと僕は思う。

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「りり花」画伯は桜を描く

2018 APR 3 1:01:42 am by 東 賢太郎

桜はあんまり好きではない。ピンク色がきれいとかいわれても僕には白にしか見えない。それでも京都で見た満開の絶景は驚いたからべつに嫌いというわけではないが、あんなのを一度見れたんだからラッキーだった、もういいやという心境になっている。人ごみをかき分けながら落ち着く所もなく、「今日がピークですね」「明日は雨ですよ、もうダメですね」「運が良かったですね」なんて声があちこちから聞こえてくると、ああ運が悪かったなと嘆く性分なのだ。

というのは、株屋的には猫も杓子も買いだと騒ぐピーク(天井という)で株を買うのはばかだという感覚があるせいもあり、明日は落ち目だという夢のなさは嫌いだという人生観もあるが、なによりこんなに大勢の人が押しかけて大騒ぎしている桜なんだからきっと最上のものなんだろう、それが今日で終わりだとなると楽しまなくては損だという気になるからだ。するとそれがむくむくと強迫観念?になってきて、ただでさえ雑踏にもまれてそう楽しいとも思わない時間がだんだん苦痛になってくるのだ。

桜は不気味な植物と思う。たわわに重そうな花弁をびっしりと贅沢三昧に咲かせておいて、それで花粉を仲介すべき蜂や蝶だらけになったのは一度も見ない。これは何のためだと不可思議に思っていると、あっという間に散っている。エネルギーの無駄?でも人間以外の生物は生存、生殖に無駄なことはしないと教わっている。じゃあ、あれは何だ?

無駄?そうじゃない。日本中に桜は植わって子孫は大繁栄してるではないか。生存競争の勝者ではないか。そうか、ということはあれは桜が考え抜いたドラスティックな生存戦略なのではないか?食虫植物はメスの似姿を囮(おとり)に見せたりいい匂いを漂わせて虫を呼んでおいて食べる。桜は妖艶に人を酔わせてカラオケを歌わせて和歌まで詠ませて、食べないけども、あちこちに植栽させたり桜並木を作らせたりする。

つまり、あれは人間をターゲットにおいた囮(おとり)であって、人間のメスの似姿はちょっと難しいので「開花ショー」「お花見サービスタイム」というエンタメ系で釣ろうというものだ。きれいなだけじゃあ飽きられるので、飽きがくる前に「桜散るショー」でダメを押す。虫を呼んで交配させる?小物の発想だね。俺たちは大物しか狙わないのよ、ヒトよ、ヒトを惑わして悲しませて、また来年見たいと誘導して種を蒔かせるんだ。ぜんぜん効率いいぜ。

まあ真偽のほどはわからない。でも桜をぼんやり眺めてると、そのぐらいの仕掛けは難なく講じられ、まんまと騙され、ひっかかっている感じがしないでもない。だから不気味なのだ。

植物に知恵がないなんてことは考えられない、だって、だいたいハチのメスに似た花なんかどうやって考えつくんだ?どうしてそれでオスが寄ってくると知ったんだ?それがちゃんと似ているぜ、オッケー!と、どこから見て(感知して)判断したんだ?それに明確に答えた人はまだいない。明確なのは、それはわからないけども、そういう植物が確かに存在しているということだ。

植物や動物にはメカニズムは不明でも人間並み(以上)の観察眼も生きる知恵もあるという生物学者はいる。TVに出ていた「市原ぞうの国」のアジアゾウ「りり花(か)」の桜の絵を見て、まさに度肝を抜かれてしまい、それを思い出した。

 

見事な構図、タッチ。これは間違いなく、僕よりうまい。途中から番組を見てまず絵が画面に出たので、「いい絵だね、誰のかな?」とつぶやいた。ところがなんと・・・。嘘だろうと思ったがそうではない、りり花の母親の「ゆめ花」の動画がある。

ゆめ花さん、りり花さん、お会いしたくなりました。youtubeを探すと、あちこちに画伯がいた。

あれを描けと指示したわけではなさそうだし、おじさんが絵筆を渡してはいるが筆の色を見てあるべき場所に塗っているということは色もわかるんだろう。まいった。ということは象も桜を見るときれいなのに違いない。

桜の戦略に驚くべきなのか象のアーティスト魂に驚くべきなのか??

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ソムリエにワインを替えさせる方法

2018 FEB 21 23:23:16 pm by 東 賢太郎

76になられる某社会長と代官山の「パッション」で会食。9年連続ミシュランで星のフレンチレストランでオーナーシェフのアンドレ・パッション (André Pachon)氏はフランス共和国よりコマンドール勲章、レジオンドヌール勲章をもらっている日本のフレンチ界の草分けだ。

会長はフランス在住歴5年でMBAも取得された大先達で、含蓄の深いお話をうかがってあっという間に時間がすぎた。なかでもこれが面白かった。

「パリで同僚のフランス人に、ワインのテースティングでは絶対にnonと言うなといわれましてね、でも一度だけやってみて替えさせたことがあるんです」

それを言うとソムリエが飛んできて「どこがお気に召しませんか?」とくる。注文しておいて文句をつけるのだから説明責任があるのだ。まず交換はできず雰囲気を悪くするし、「まずい」と言ったものを自分の客人に飲ませるわけにいかずもう一本注文する羽目になる。だからやめておけというアドバイスなのだ。

「何と言われたのですか?」

「僕はいつもこれを飲んでる。昨日も同じ年のを飲んだばかりだ。これはそれと比べて酸っぱいと言いましたよ」

これに反論するのは難しい。同じ葡萄から出来たワインの酸味は酢に近い結果だから、昨日のワインが今日のより劣ると主張する根拠がない。だからあなたの舌がおかしいと言うしかない。しかし「酸っぱい」のは子供でも分かる。アロマだブケだと煙に巻けない。しかもこの客は味を知って銘柄にこだわっている通だ。喧嘩を売ってオーナーにクレームされたらかなわんと考えた、邪推だろうか?見事な王手飛車取りだが、「いつもこれ」「昨日」「同じ年」という効果的な伏線が張ってある。ソムリエは得心して投了したと思う。

しかし彼もそれで飯を食っている。プライドは非常に高い。相手を見て押し切れそうならつっぱねるし若い人が彼女の手前で格好をつけて同じことを言っても、兄ちゃん青いねと撃退されるリスクは高いだろう。会長はフランス共和国よりコマンドール勲章を授与された名士であられるが、では勲章をもらえばそれができる威厳が身につくかというとそういうものでもなくて、やはり人間のにじみ出る風格とでも書くしかないものが備わっているかどうかが交渉力の決め手のように思う。

英国のコメディ、Mr.ビーンに、彼が食卓でマナーを知らず大失態を演じる爆笑シーンがあるが、英国人にとってもフレンチレストランはそういう面倒くさい場所なのだ。要は慣れ、経験がものをいう。遊び慣れた余裕というか、我が国なら京都のお茶屋さんでどうですかという風なものであるかもしれない。大石内蔵助は祇園一力茶屋で遊んで四十七士の吉良邸襲撃計画の目くらましをしたが、敵の欺き方としては最高にエレガントだ。大石ならパリでソムリエを説得できたような気もする。

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便利屋こそこれからの勝ち組である

2017 DEC 16 1:01:36 am by 東 賢太郎

断言するが、これからの世の中に必要なのは便利屋である。今でも需要はあるが、ますますそうなる。気のきいた便利屋は人工知能に凌駕はされない。だから失業もしないし、高給を食むことも大いに可能である。物知り博士は失業だ。スマホ博士にかなわない。

便利屋は、望みさえすれば誰でもなれる。日本人として普通に生活力があれば学問などいらない。大学なんかぜんぜん行く必要ない。高校すらない。クルマは富の象徴でなくなってきたが、学歴も知の象徴でなくなる。猫も杓子もの大卒のレッテルなどメルカリで100円の価値しかなくなるだろう。

教科書から坂本龍馬が消える?僕は龍馬を知らなくてもいいから便利な人を雇いたい。メガバンクが何万人もリストラするらしいが、その何万人はみな一般教養試験は高得点で、龍馬を知らない人など確実に一人もいないだろう。生き残る条件でもない知識を得る教育に何年もかけたなら気の毒ですらある。

教養が大事だと書いたのになぜ?世の中は二分化するのだ。教養は持ちたい人は持てばいい。それにふさわしい職が得られるかもしれないし少なくとも自己満足にはなる。一方、便利屋はというと、教養人を客にするなら持てばいいし、そうでないならいらないということだ。

人生は人それぞれだ。食えさえすれば余暇を好きにして充実人生が送れるではないか。であれば、便利屋に需要があるのだから、便利屋のプロになって生計をたてればよいのである。急に忘年会をすることになった、もうどこも予約でいっぱいだ。そこで5分でいい店を探せるなら貴重な能力だ。

水道が出ない、ススメバチの巣を撤去して、みたいなことだけじゃない。外国での話だが渋滞でフライト時刻にぎりぎりの時、ドライバーがハイウェイの路肩を映画みたいにぶっとばして間に合ったことがある。事の是非はともかくプロと思った。

仕事の出来だけではない。頼みやすい、感じがいい、レスポンスが速い、これは便利の大事な要素だ。僕の敵はストレスなので不得手、面倒くさいと思っているものを迅速にやってくれると時間節約以上にストレスをためないですむ。その人は間接的に僕の時給の何割かの仕事をしていることになる。

僕は弁護士、税理士だって便利かどうかで選んでる。サービス業はすべからく便利屋なのだ。それじゃあカッコ悪いからサービス・プロバイダーと呼ぶ。僕自身企業や投資家の便利屋である。そのプロに徹している。だから、便利であるために便利な人、それもそのことにおいて鋭利な刃物の切れ味(エッジという)のある人が必要なのである。

便利な仕組みを提供するインフラのパラダイム変換競争はもう限界に来ている。楽天の携帯キャリア参入が示唆している。つまりこれからはそれを駆使したサービス競争の時代になるのだ。IT化による新パラダイムを想定してない銀行業のような仕組みは衰退する。そこでエリートになる教育は不要である。「誰かにとって便利かどうか」?これぞ新時代のキーワードなのだ。

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ベラスケス『鏡のヴィーナス』

2017 OCT 1 18:18:22 pm by 東 賢太郎

交響曲に共作はないと書いたが、小説ならエラリー・クイーンがそうだし、アニメの藤子不二雄だってそうだ。クイーンの国名物もドラえもんも名作だしそれが一概にいけないというわけでもなさそうだ。

作曲以外のジャンルで気になるのは絵画である。ではどうかというと、工房で制作したルーベンス(1577-1640)が近いだろう。彼は弟子に下絵描きや仕上げ作業をさせる垂直分業だけでなく対等の立場での水平分業と思われる作品だってあるからだ。ヤン・ブリューゲル (父)との『アケロオスの祝宴』(1615年頃)がそうだ。

ニューヨークのメトロポリタン美術館は3~4回は行ったと思うがこの絵に惹きつけられたのは大学4年のときだったろうか。当時詳しいことは何も知らなかったがこの構図と色が気に入ってしまい、中央奥の年配の男が何やら力説しているが聞いていない者もいてがやがやしている、そのざわめきが響いてくるようになってしまった。ちょうど徳川家康が死んだころに描かれたバロック絵画だが、この饒舌は音楽に通じる。コンチェルト・グロッソそのものだ。僕にはブランデンブルグ協奏曲の第3番が聞こえる。

ルーベンスは1628年から1629年にかけてマドリッドに滞在し、ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)と親交を結んだ。多作のルーベンスに対し、ベラスケスは寡作だが震撼するような知性と技法ですごい絵を描いた。彼は光と陰をフランドルから学んだかもしれないが、それはしかし彼の技法の一部になっただけだ。代表作『鏡のヴィーナス』をロンドンのナショナル・ギャラリーで観た時の衝撃は忘れられない。

この絵は1650年前後、イタリア滞在中に描かれたといわるベラスケスの現存する唯一の裸婦像で、スペインのカソリックで禁じられた題材、鏡のモチーフ、背後からのポーズ等々の議論、話題に事欠かない。フェリペ4世の宮廷画家であり国王が裸婦画を好んだからできたことで、鏡、背中のポーズ、ベッドのシーツ等は各々前例がある。そういうことは僕にとってどうということでもない。

衝撃だったのは、鏡の顔が別人だと直感したことだ。

まず大きい。遠くにある顔の方が大きいということは物理的にあり得ない。頭の角度も明らかに違う(女の方が垂直に近い)。頬からあごにかけての輪郭が違う。女は華奢で小顔であり、鏡の方はふっくらと豊満な体型を思わせるのであって、僕には同一人物とは思われないがいかがだろうか。

そもそもこの絵には科学の実験のような怜悧な空気が満ちている。全裸の女とは甚だ不調和な雰囲気だ。女は鏡を見て髪をとかすわけでも化粧するわけでもない。いったい何をしているんだろう?彼女の背中や臀部や足の息をのむほどリアリスティックな起伏。これは現実なのだ。では羽の生えた子供(キューピッド)がなぜ居るんだろう?我々の理性はそれを非現実ととらえる。では女の肢体のなまめかしい現実はいったい何なんだろう?この場に居合わせてしまった我々鑑賞者の居場所はどこにあるんだろう?

こんなパラドックスに満ちた世界観がバロック期にあったとは驚異だ。ベラスケスの脳の中だけにしてもだ。鏡の女はこっちを見ていない、現実と非現実が見合って対峙している図であって、これにロンドンで初めて遭遇したときの僕の第一印象はというと、あたかも一級品のミステリーが導入部の不可解な謎をぶつけて挑みかかってきたかのようだった。

顔を描いて人物の性格から声、行状、品性まで抉(えぐ)り出せるベラスケスの筆力はこのレベルだ(教皇インノケンティウス10世、同時期にローマで描いた作品)。

この画家が力を傾けたのは、思うに「女と鏡の顔は別人だ」と意図的に示すということではないか。キューピッドがともに描かれていることによって、初めてこの作品の女性がヴィーナスであると理解できるようになっているが、キューピッドを描く画法はヴェネツィア派などイタリア宗教画由来のままで、鏡の顔もその路線にある。ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノの世界の女性だ。ところが横たわっている女性はどうだ。これはドガやルノワールを連想させる印象派の世界の女性なのだ。

鏡のモチーフがこの絵から来ていることは容易に想像されよう。ルーベンスの『鏡のヴィーナス』(1612-15)である。

しかしこれはモデルも鏡の中も同じ女でありリアルタイムの光と陰の芸術である。髪をとかす女は鏡に写る鑑賞者を見ており、この場に居合わせてしまった我々の居場所がちゃんとある。体躯は宗教画の聖母を描く伝統から逸脱のない豊満さであり、この女がヴィーナスではあっても現実の生身の女性である必然性はあまり感じない。神話世界の『アケロオスの祝宴』で花を持ってくる女の一人であってもいいほど浮世離れした存在だろう。良い絵だが衝撃をくらわすインパクトは感じない。

一方、ベラスケスのモデルはというと、彼女が着衣だろうが裸体だろうが当時まで主題として描かれることのなかった宗教画にあるまじき華奢な体躯だ。そう推察されてきたように彼のローマでの娼婦か愛人だろうか、素性はともかくも、『ラス・メニーナス』(女官たち)に描いた侍女の倭人に注がれたと同等の隠すことのない現実主義的な冷めた目線で肢体のほうを描写しながら、顔はというと聖母像の系譜にぼかしこんだ。生身の女だから、ヴィーナスに模す必要があったのだと思う。

女と鏡の間には200年余の時空が横たわっている。四次元の見えない断層が在るのである。僕に衝撃を与えたのはそれを構想したベラスケスという男の刃物のような知性だ。ルーベンスの知性が伝統に依拠したものなら、ベラスケスのそれは伝統を破壊、超越したものである。伝統は誰しもが学び取り、共有され得るもので、工房の弟子たちともヤン・ブリューゲル (父)とも共作は可能だったろう。しかしその破壊、超越はひとりの天才によらねばならないのは音楽史でも同じことだった。

吉田さんがブログ『草炎』に書かれている「画家にとって絵というものはいつが完成なんだろう?」という意味深い疑問に立てば、ベラスケスは女とキューピッドの足先を完成していないようにも見える。しかしローマ教皇の微細を極めた描写の完成度を見るに、それはあえてそう描いたと思うしかない。彼は鑑賞者の目線がどこに行くかまで見通しており、視野外になる部分は意図的にぼかすことでリアリズムをさらに先鋭にしたと思う(人間の眼の構造に従ったということだ)。

画家にとって、画題、着想、構想、なにを描きたいと思ったかがすべてと思う。それをキャンバス上のヴィジョンに落とし込む技法の巧拙はすぐわかるが、見事な絵画というものがどういうわけで衝撃をもたらすのか、それはしばし熟考しなければ理解できない。そしていつも至る結論は、その根源は技術ではなく、着想、構想に尽きるというものだ。陳腐なものからは高級な陳腐しか生まれない。稀有な着想は他人とシェアできない、アンサンブルやコンチェルト・グロッソにはなり得ないものであって、一人の人間に神様が降らせてくれたものでしかない。お独り様稼業の作曲家と似たもの同士に思うし、男性専業というのが社会的要因によるのか人体の構造上の性差によるのか、とても興味深い。

 

ネコと鏡とミステリー

交響曲に共作はない

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世の中で大事なのはEQである

2017 SEP 28 2:02:08 am by 東 賢太郎

入社すぐのころ、酒癖の悪い先輩に気に入られてよく梅田の飲み屋を連れ歩かれた。毎度明け方になり、行先はきまって場末のしょぼいやつであり、ママさんといって大阪のオバちゃんだからあけすけで口が悪い。半分寝ていてなんだったか覚えてないが、若気の至りで生意気なことを口走ったらしい。

「にいちゃん、IQは関係あらへんで世の中は。EQよ。」

「イーキュー、なにそれ?」

「あんたなんも知らんね、こころよ、こころ、ハートのことやで」

ときてすこし目が覚めた。注文してない濃いめのハイボールが出てきてゲーっとなったのを覚えている。

それ以来忘却の彼方にあったEQだが、ひょんなことで思い出した。ググるとIQ は Intelligence Quotient であって、EQ というのは Emotional Quotient らしい。知らなかった。ネットは便利だ、こういうのがすぐわかる。「心の知能指数」とある。なるほど、オバちゃんは正しかったんだ。

さてネットを見ていくが、英語はわかったもののEQとはなんぞやがよくわからない。wikipediaもさっぱり意味不明だ。そうしたら、

「あなたのこころの知能指数(EQ)の高さはどのぐらいですか?」

というテストがあって、テキトーにやってみた。すると、結果はこうだ。

いやいや、おばちゃんになじられたものの、あれから世間様に鍛えられて一人前になったんだ、そういうことなのか!一瞬気を良くして、その次にあった別なテストもやってみた。すると、なんと100点満点で65点。堂々の赤点である。う~んこのアバウトさ気に入ったぜ。こんな風に使えるな・・・・。

 

どうも大相撲は大一番になるらしい。

激しい張り手の応酬から、強力な足技である「モリ掛け」の奇襲で押し込まれた横綱安倍関。いよいよ俵に足がかかったところ、絶妙のタイミングを見計らって練りに練った引き技の「北朝鮮落とし」を決めた・・・つもりだった。ところが十両落ちが見えてきた前頭十四枚目の前原関が「野合返し」というプロレス並みの危険な荒業をくりだしたのである。捨て身の抱き着き技である。そして、またまた張り手の応酬だ。なにせこの取り組みには「小池屋のブタまん」の懸賞が30本もかかっている。こうなると力士というのは恥も外聞もないのである。

野合連合は数が足りない。候補者の質などかまってる場合じゃないのだ。ええい、そのへんのあんちゃん、ねえちゃん、みんな寄っといで。ブタまんたらふく食えるで~、ギインさんにしたるで~。ええかい、有権者のみなさん、この子はね、こう見えても「EQ150」なんやで、どや、すごいやろ。ふつ~でないやろ、こころやで、ハートがあるんや。

 

(PS)

一国の政治は歴史観をもって行われねばならない。政治家選びは断じて人気投票であってはならないだろう。

 

若者のための政治用語辞典

失われた20年とは何だったか(得たもの編)

ねこ型人間のねこ的生活空間

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「独りぼっち」が独り勝ちの時代

2017 JUL 29 17:17:47 pm by 東 賢太郎

会社は一人でやるのが理想。ノーベル賞学者のN先生と話していて意外な所で意見が合致した。先生の話は面白い。研究も経営も、結局は万事自分でやらないとうまくいかない。大企業で上へ行くとどんどんやらなくなって、最後は知らず知らず能力が衰えて何もできない人間になって終わる。僕も危なかったが、起業してすべてが無くなってしまって、トイレの掃除も自分でして危機を逃れた。

もちろん部下がしてたことも全部やる。やれば意外に俺も捨てたもんじゃないと思うぐらいできるし、そうしないとない発見がある。細部まで肌でわかってるから良いアイデアもわく。先生はそういう積み重ねでノーベル賞を取られた。企業に賞はないが得た利益、実績は全取りだ。自分でできない部分は社員に利益を分与して助けてもらう。でも、それでも、一人でも少ない方がいいのである。

もはやサービス業は大企業が優位な時代ではない。規模や社員数を誇るなど人海戦術か能力のなさを宣伝するようなものでジョークである。この10年、ネット社会化によって一気にパラダイム変換が起きた。それに経営者が気づいておらず、既存社員が大量の余剰人員と化した企業は軒並みアウトになっているが、あまりに当たり前の現象だ。一人で全部やりたい研究者タイプの人の就業先は、昔は製造業と相場が決まっていたが、いまやサービス業ができてしまう。彼らは従来のサービス業タイプにはあり得ないことができる。そうやって社会構造の大変革が起こりつつあるのだ。

話しは変わるが、TVで日ハム対ソフトバンクをつけたら解説が野村克也さんだ。彼は毒舌ということになってるが、真実をストレートに述べてるだけで、真実は普通の人には奇抜、毒舌に聞こえるのだ。1分2600回転するスライダーを「キャッチャーまではたかが2、3回転ですよ」というので嘘だろと計算してみたら大谷級の球速で2.6回転だった。聞きかじりだろうが、それを覚えてるということはその数字に何か意味を見出して思考したということだ。でなければへ~で忘れる。彼の言葉はなぜか僕には群をぬいて腑に落ちるが、そういうことかと納得。彼は理系の人だ。

それは観察、思考、推理、そして数字、計量感覚が尋常でないということ。そこにN先生とどこか似たものを感じる。こういうのは学校で習うことではない。天性の能力だ。僕がこれを感じた傑物はかつて5人しかいない。お二人(物理学者、プロ野球選手)のほかは、某経営者、某指揮者、某政治家、それだけだ(野村さんと政治家はTV等の印象。会ってない)。この経営者と他の人、この指揮者と他の人というのは、野球界なら野村克也と並みの選手、物理学界ならノーベル賞学者と普通の大学教員ぐらいちがうということである。

ごらんの通りで業界は関係ない。しかし経営も指揮も物理学もキャッチャーも総理大臣もきっと「独りぼっち」は共通だろう。私事になるがいま僕はたぶん人生最大かつ最高の案件を手掛け、証券業界の経験がないとできないが、しかし野村やゴールドマンはできないことをやっている。電子からどう光子が生じるか物理を勉強しなおしてる。大勢の力をお借りしているが、頭の中は独りぼっちで。人生いろいろ楽しい経験はしたが、やっぱり本業で大事を成して相応の評価をいただくのに勝る喜びは絶対にない。なぜならそれが僕のできる、世の中で最も高水準のことだからだ。

「投資学」のすすめ

 

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