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カテゴリー: ______気づき

ベラスケス『鏡のヴィーナス』

2017 OCT 1 18:18:22 pm by 東 賢太郎

交響曲に共作はないと書いたが、小説ならエラリー・クイーンがそうだし、アニメの藤子不二雄だってそうだ。クイーンの国名物もドラえもんも名作だしそれが一概にいけないというわけでもなさそうだ。

作曲以外のジャンルで気になるのは絵画である。ではどうかというと、工房で制作したルーベンス(1577-1640)が近いだろう。彼は弟子に下絵描きや仕上げ作業をさせる垂直分業だけでなく対等の立場での水平分業と思われる作品だってあるからだ。ヤン・ブリューゲル (父)との『アケロオスの祝宴』(1615年頃)がそうだ。

ニューヨークのメトロポリタン美術館は3~4回は行ったと思うがこの絵に惹きつけられたのは大学4年のときだったろうか。当時詳しいことは何も知らなかったがこの構図と色が気に入ってしまい、中央奥の年配の男が何やら力説しているが聞いていない者もいてがやがやしている、そのざわめきが響いてくるようになってしまった。ちょうど徳川家康が死んだころに描かれたバロック絵画だが、この饒舌は音楽に通じる。コンチェルト・グロッソそのものだ。僕にはブランデンブルグ協奏曲の第3番が聞こえる。

ルーベンスは1628年から1629年にかけてマドリッドに滞在し、ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)と親交を結んだ。多作のルーベンスに対し、ベラスケスは寡作だが震撼するような知性と技法ですごい絵を描いた。彼は光と陰をフランドルから学んだかもしれないが、それはしかし彼の技法の一部になっただけだ。代表作『鏡のヴィーナス』をロンドンのナショナル・ギャラリーで観た時の衝撃は忘れられない。

この絵は1650年前後、イタリア滞在中に描かれたといわるベラスケスの現存する唯一の裸婦像で、スペインのカソリックで禁じられた題材、鏡のモチーフ、背後からのポーズ等々の議論、話題に事欠かない。フェリペ4世の宮廷画家であり国王が裸婦画を好んだからできたことで、鏡、背中のポーズ、ベッドのシーツ等は各々前例がある。そういうことは僕にとってどうということでもない。

衝撃だったのは、鏡の顔が別人だと直感したことだ。

まず大きい。遠くにある顔の方が大きいということは物理的にあり得ない。頭の角度も明らかに違う(女の方が垂直に近い)。頬からあごにかけての輪郭が違う。女は華奢で小顔であり、鏡の方はふっくらと豊満な体型を思わせるのであって、僕には同一人物とは思われないがいかがだろうか。

そもそもこの絵には科学の実験のような怜悧な空気が満ちている。全裸の女とは甚だ不調和な雰囲気だ。女は鏡を見て髪をとかすわけでも化粧するわけでもない。いったい何をしているんだろう?彼女の背中や臀部や足の息をのむほどリアリスティックな起伏。これは現実なのだ。では羽の生えた子供(キューピッド)がなぜ居るんだろう?我々の理性はそれを非現実ととらえる。では女の肢体のなまめかしい現実はいったい何なんだろう?この場に居合わせてしまった我々鑑賞者の居場所はどこにあるんだろう?

こんなパラドックスに満ちた世界観がバロック期にあったとは驚異だ。ベラスケスの脳の中だけにしてもだ。鏡の女はこっちを見ていない、現実と非現実が見合って対峙している図であって、これにロンドンで初めて遭遇したときの僕の第一印象はというと、あたかも一級品のミステリーが導入部の不可解な謎をぶつけて挑みかかってきたかのようだった。

顔を描いて人物の性格から声、行状、品性まで抉(えぐ)り出せるベラスケスの筆力はこのレベルだ(教皇インノケンティウス10世、同時期にローマで描いた作品)。

この画家が力を傾けたのは、思うに「女と鏡の顔は別人だ」と意図的に示すということではないか。キューピッドがともに描かれていることによって、初めてこの作品の女性がヴィーナスであると理解できるようになっているが、キューピッドを描く画法はヴェネツィア派などイタリア宗教画由来のままで、鏡の顔もその路線にある。ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノの世界の女性だ。ところが横たわっている女性はどうだ。これはドガやルノワールを連想させる印象派の世界の女性なのだ。

鏡のモチーフがこの絵から来ていることは容易に想像されよう。ルーベンスの『鏡のヴィーナス』(1612-15)である。

しかしこれはモデルも鏡の中も同じ女でありリアルタイムの光と陰の芸術である。髪をとかす女は鏡に写る鑑賞者を見ており、この場に居合わせてしまった我々の居場所がちゃんとある。体躯は宗教画の聖母を描く伝統から逸脱のない豊満さであり、この女がヴィーナスではあっても現実の生身の女性である必然性はあまり感じない。神話世界の『アケロオスの祝宴』で花を持ってくる女の一人であってもいいほど浮世離れした存在だろう。良い絵だが衝撃をくらわすインパクトは感じない。

一方、ベラスケスのモデルはというと、彼女が着衣だろうが裸体だろうが当時まで主題として描かれることのなかった宗教画にあるまじき華奢な体躯だ。そう推察されてきたように彼のローマでの娼婦か愛人だろうか、素性はともかくも、『ラス・メニーナス』(女官たち)に描いた侍女の倭人に注がれたと同等の隠すことのない現実主義的な冷めた目線で肢体のほうを描写しながら、顔はというと聖母像の系譜にぼかしこんだ。生身の女だから、ヴィーナスに模す必要があったのだと思う。

女と鏡の間には200年余の時空が横たわっている。四次元の見えない断層が在るのである。僕に衝撃を与えたのはそれを構想したベラスケスという男の刃物のような知性だ。ルーベンスの知性が伝統に依拠したものなら、ベラスケスのそれは伝統を破壊、超越したものである。伝統は誰しもが学び取り、共有され得るもので、工房の弟子たちともヤン・ブリューゲル (父)とも共作は可能だったろう。しかしその破壊、超越はひとりの天才によらねばならないのは音楽史でも同じことだった。

吉田さんがブログ『草炎』に書かれている「画家にとって絵というものはいつが完成なんだろう?」という意味深い疑問に立てば、ベラスケスは女とキューピッドの足先を完成していないようにも見える。しかしローマ教皇の微細を極めた描写の完成度を見るに、それはあえてそう描いたと思うしかない。彼は鑑賞者の目線がどこに行くかまで見通しており、視野外になる部分は意図的にぼかすことでリアリズムをさらに先鋭にしたと思う(人間の眼の構造に従ったということだ)。

画家にとって、画題、着想、構想、なにを描きたいと思ったかがすべてと思う。それをキャンバス上のヴィジョンに落とし込む技法の巧拙はすぐわかるが、見事な絵画というものがどういうわけで衝撃をもたらすのか、それはしばし熟考しなければ理解できない。そしていつも至る結論は、その根源は技術ではなく、着想、構想に尽きるというものだ。陳腐なものからは高級な陳腐しか生まれない。稀有な着想は他人とシェアできない、アンサンブルやコンチェルト・グロッソにはなり得ないものであって、一人の人間に神様が降らせてくれたものでしかない。お独り様稼業の作曲家と似たもの同士に思うし、男性専業というのが社会的要因によるのか人体の構造上の性差によるのか、とても興味深い。

 

ネコと鏡とミステリー

交響曲に共作はない

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世の中で大事なのはEQである

2017 SEP 28 2:02:08 am by 東 賢太郎

入社すぐのころ、酒癖の悪い先輩に気に入られてよく梅田の飲み屋を連れ歩かれた。毎度明け方になり、行先はきまって場末のしょぼいやつであり、ママさんといって大阪のオバちゃんだからあけすけで口が悪い。半分寝ていてなんだったか覚えてないが、若気の至りで生意気なことを口走ったらしい。

「にいちゃん、IQは関係あらへんで世の中は。EQよ。」

「イーキュー、なにそれ?」

「あんたなんも知らんね、こころよ、こころ、ハートのことやで」

ときてすこし目が覚めた。注文してない濃いめのハイボールが出てきてゲーっとなったのを覚えている。

それ以来忘却の彼方にあったEQだが、ひょんなことで思い出した。ググるとIQ は Intelligence Quotient であって、EQ というのは Emotional Quotient らしい。知らなかった。ネットは便利だ、こういうのがすぐわかる。「心の知能指数」とある。なるほど、オバちゃんは正しかったんだ。

さてネットを見ていくが、英語はわかったもののEQとはなんぞやがよくわからない。wikipediaもさっぱり意味不明だ。そうしたら、

「あなたのこころの知能指数(EQ)の高さはどのぐらいですか?」

というテストがあって、テキトーにやってみた。すると、結果はこうだ。

いやいや、おばちゃんになじられたものの、あれから世間様に鍛えられて一人前になったんだ、そういうことなのか!一瞬気を良くして、その次にあった別なテストもやってみた。すると、なんと100点満点で65点。堂々の赤点である。う~んこのアバウトさ気に入ったぜ。こんな風に使えるな・・・・。

 

どうも大相撲は大一番になるらしい。

激しい張り手の応酬から、強力な足技である「モリ掛け」の奇襲で押し込まれた横綱安倍関。いよいよ俵に足がかかったところ、絶妙のタイミングを見計らって練りに練った引き技の「北朝鮮落とし」を決めた・・・つもりだった。ところが十両落ちが見えてきた前頭十四枚目の前原関が「野合返し」というプロレス並みの危険な荒業をくりだしたのである。捨て身の抱き着き技である。そして、またまた張り手の応酬だ。なにせこの取り組みには「小池屋のブタまん」の懸賞が30本もかかっている。こうなると力士というのは恥も外聞もないのである。

野合連合は数が足りない。候補者の質などかまってる場合じゃないのだ。ええい、そのへんのあんちゃん、ねえちゃん、みんな寄っといで。ブタまんたらふく食えるで~、ギインさんにしたるで~。ええかい、有権者のみなさん、この子はね、こう見えても「EQ150」なんやで、どや、すごいやろ。ふつ~でないやろ、こころやで、ハートがあるんや。

 

(PS)

一国の政治は歴史観をもって行われねばならない。政治家選びは断じて人気投票であってはならないだろう。

失われた20年とは何だったか(得たもの編)

ねこ型人間のねこ的生活空間

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「独りぼっち」が独り勝ちの時代

2017 JUL 29 17:17:47 pm by 東 賢太郎

会社は一人でやるのが理想。ノーベル賞学者のN先生と話していて意外な所で意見が合致した。先生の話は面白い。研究も経営も、結局は万事自分でやらないとうまくいかない。大企業で上へ行くとどんどんやらなくなって、最後は知らず知らず能力が衰えて何もできない人間になって終わる。僕も危なかったが、起業してすべてが無くなってしまって、トイレの掃除も自分でして危機を逃れた。

もちろん部下がしてたことも全部やる。やれば意外に俺も捨てたもんじゃないと思うぐらいできるし、そうしないとない発見がある。細部まで肌でわかってるから良いアイデアもわく。先生はそういう積み重ねでノーベル賞を取られた。企業に賞はないが得た利益、実績は全取りだ。自分でできない部分は社員に利益を分与して助けてもらう。でも、それでも、一人でも少ない方がいいのである。

もはやサービス業は大企業が優位な時代ではない。規模や社員数を誇るなど人海戦術か能力のなさを宣伝するようなものでジョークである。この10年、ネット社会化によって一気にパラダイム変換が起きた。それに経営者が気づいておらず、既存社員が大量の余剰人員と化した企業は軒並みアウトになっているが、あまりに当たり前の現象だ。一人で全部やりたい研究者タイプの人の就業先は、昔は製造業と相場が決まっていたが、いまやサービス業ができてしまう。彼らは従来のサービス業タイプにはあり得ないことができる。そうやって社会構造の大変革が起こりつつあるのだ。

話しは変わるが、TVで日ハム対ソフトバンクをつけたら解説が野村克也さんだ。彼は毒舌ということになってるが、真実をストレートに述べてるだけで、真実は普通の人には奇抜、毒舌に聞こえるのだ。1分2600回転するスライダーを「キャッチャーまではたかが2、3回転ですよ」というので嘘だろと計算してみたら大谷級の球速で2.6回転だった。聞きかじりだろうが、それを覚えてるということはその数字に何か意味を見出して思考したということだ。でなければへ~で忘れる。彼の言葉はなぜか僕には群をぬいて腑に落ちるが、そういうことかと納得。彼は理系の人だ。

それは観察、思考、推理、そして数字、計量感覚が尋常でないということ。そこにN先生とどこか似たものを感じる。こういうのは学校で習うことではない。天性の能力だ。僕がこれを感じた傑物はかつて5人しかいない。お二人(物理学者、プロ野球選手)のほかは、某経営者、某指揮者、某政治家、それだけだ(野村さんと政治家はTV等の印象。会ってない)。この経営者と他の人、この指揮者と他の人というのは、野球界なら野村克也と並みの選手、物理学界ならノーベル賞学者と普通の大学教員ぐらいちがうということである。

ごらんの通りで業界は関係ない。しかし経営も指揮も物理学もキャッチャーも総理大臣もきっと「独りぼっち」は共通だろう。私事になるがいま僕はたぶん人生最大かつ最高の案件を手掛け、証券業界の経験がないとできないが、しかし野村やゴールドマンはできないことをやっている。電子からどう光子が生じるか物理を勉強しなおしてる。大勢の力をお借りしているが、頭の中は独りぼっちで。人生いろいろ楽しい経験はしたが、やっぱり本業で大事を成して相応の評価をいただくのに勝る喜びは絶対にない。なぜならそれが僕のできる、世の中で最も高水準のことだからだ。

「投資学」のすすめ

 

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シューマン「子供の情景」(カール・フリードベルグの演奏哲学)

2017 JUL 17 23:23:58 pm by 東 賢太郎

大学のクラス会では全員が近況のスピーチをするが、これが大体が名簿順である。今回もそうだった。小学校から思い起こしてもかつてアズマの前だったのは赤松くん、朝比奈くん、赤塚くん、青木くんぐらいで、先生にすぐあてられるから早速に心の準備をするのだが、さすがに大学までそれをやると慣れてきてアドリブが上達したかもしれない。

今回もその場でひらめいた取り留めもないことをしゃべって終わったが、いつもそんなものだから内容は終わるとすぐ忘れてしまう。まして近年は物忘れというかそういう短期記憶の薄弱ぶりは半端でなく、その話題になると俺もだ、いやこっちはそんなもんじゃないぞとそこらじゅうでわけのわからん意地の張り合いをしながら、俺だけじゃなかったとほっとしてみたりもする。

しかし僕の場合、普通は覚えている昔のこと、長期記憶と呼ぶらしいがそっちも意外に消えていることが20代のころからあって、つまりボケてきただけではないと思われる脳みその構造的問題?もあることがわかっている。クラス会というのは僕にとって、消えた記憶を旧友たちに再生してもらう場みたいに思えてきた。えっ、俺がそんなこと言ったの、やったの?がけっこうあって危ない。恥ずかしくもあるが、ある意味新鮮で自分の再発見でもある。

この健忘症は、済んだことでもういらんと踏んだら即座に消して自動的に「いま」にフォーカスが切り替わる、たぶんそういうプログラム、頭の使い方の癖があって、だから周囲に迷惑をかける側面があるがそうでないと僕の脳内ハードディスクの貧弱なメモリー容量では「いま」に続々とのしかかってくる難題に処していくのが難しい。消去した分がそれに対処する短期メモリーに使用されて、だからどんどん捨てる健忘力の裏返しが集中力なんだと都合よく考えている。

ちなみに僕にとってブログは未来への記録であって健忘の補完、その時点で思ったことの備忘録である。記録として精密は期するものの、書いたらもう過去であり頭から消えていく。同様に、昔に社内TVに出た時の画像や大学で講義をした際のVTRなどが本棚のどこかに眠っているはずで、捨てずにとってはあるが一度も見たことがない。自分のレコードは聴かないという音楽家がいるがどうもそっちの部類の人間だ。

仏法の「諸法無我」がピンときたのも、自分も諸行無常の身であって時々刻々変化しているという教えが腑に落ちたからだ。しゃべっている最中だって変化は起きている。だから同じテーマで2回講義したら、論旨と結論は一緒でも語り口や持っていき方は違う。それはその学校の教壇に登って感じるトータルな雰囲気で決まるし、そこの生徒にぴったりな語りに自然となる。そうやってアドリブではあるがだいたいが結果オーライになってきたように思う。

このことはピアニストの話に置き換えるとさらにわかりやすい。例えばいま執心であるピアニストのカール・フリードベルグ(Carl Friedberg、1872-1955) をご紹介したい。彼はクララ・シューマンの弟子でありブラームスの全作品の手ほどきを作曲家から受けている。写真のポスチャーもどこかブラームス似である。シューマン、ブラームス、ショパン、ベートーベンはいずれ劣らぬオーセンティックな名品だが、その演奏家としての哲学がさらに興味深いのだ。彼にジュリアードで習ったBert van der Waal van Dijk の文章から抜粋すると、

how to sing on the piano(ピアノでどう歌うか)が彼の哲学のエッセンスである。打楽器でありヴィヴラートもかからないピアノで「歌う」のは無理だ、奏者の思い込みかウソだろうと一時は信じていたことがある。しかしフリードベルグのジュリアードでの言説で、そうではない、歌うことが可能なのだと知った。

彼は when musical ideas became complete and exciting during a performance, the music should be dominant even if a few notes might go astray. と言っている。要は、「演奏中に音楽を完全にかつ感興をもって感じ取ったなら、技術の正確さよりそっちを大事になさい、2,3の音符が迷子になってもいいよ」だ。ベートーベンと同じことを言っているが「演奏中に」というのが大注目だ。

さらに music is often conceived aesthetically by the composer before being written down(音楽は楽譜に書かれる前に美に関わる感覚的な領域から作曲家の頭に降ってきており)、since some keyboard instruments limit the imagination, one can silently “orchestrate” a composition on a larger scale(鍵盤楽器はどうしても想像力を制限するから、まず心の中でピアノ曲をもっと大きなスケールでオーケストレーションして聴きなさい)と言っている。

この「演奏しながら心に降ってきたものを弾きなさい」それが「歌う」ことであり本物の音楽になるのだという彼の説く精神の在り方は僕にとっては生き様のようなものであり深く心に刺さってきた。それには楽譜に書いてあるものをエステティック(審美的)に感じ取りなさい、作曲家の心に天からやってきたものは声や弦や管のクオリア(質感)を伴っていたかもしれない、それならその楽器に一旦置き換えて元来の美しさを感じ取りなさい、である。

ピアノという打楽器をガンと打ち鳴らす人が多いから女性に作品を弾いてほしくないと言ったブラームスの感性もそうであったし、クララ・シューマンはその意味では女性奏者ではなかった。そういうmusical ideas が、演奏中にcomplete したり exciting になったりする。フリードベルグはそれが「歌」になり、時としてドラムよりも打楽器的になるピアノを歌わせる方法だと言っているのである。

即興というのは、これほどまでに、訓練を積んだ人にとってはランダム(出鱈目)ではない、その場で「いま」降ってきて心を共振させる何物かなのである。それは「いま」に精神がフォーカス、集中していないと絶対に聞こえないものであり、僕にとっては、職業体験の中で感じてきたこととシンクロする。音楽でもプレゼンテーションでも愛の語りかけでも、自分を誰かによりよく伝えるということにおいてこれ以上の道はないと確信する。

自分ははからずも証券営業という他人を説得する職業についてしまってそれを自然にやっていたらしい、たまたまそういう頭の使い方の癖があっただけだろうが、話の内容よりも話している最中に心に降ってきたエステティックな感動(自分のサイドで起きたものだが)が、日本人であれ英国人であれドイツ人であれ、相手を揺り動かすのだという、それこそエステティックな驚くべき経験を何度もさせてもらった。

そういうものは、台本からはやってこない。プレゼンでペーパーを棒読みするなど、商売に失敗するためにやるようなものだ。だから音楽でも芝居でもそうだが、出てくる音やセリフは「肉声」にまで高まっていないといけないのだ。台本を読みながら演じる芝居やオペラはないが、ピアノも暗譜で弾かなくてはならないのは道理なのである。

ハンス・フォン・ビューローはリストの娘をもらったピアノの達人だが、記憶力も桁外れでピアノ譜など当然として管弦楽スコアも全部記憶しており、指揮台に立つと楽員にも暗譜で、しかも立ったまま演奏するように強要した。ベートーベンの第九がまだ広く知られていないころ、聴衆にも覚えさせようと全曲をもう一度繰り返し、途中で逃げ出せないように会場の扉に鍵を掛けさせたという。

これをファナティック(偏執狂)と呼ぶかどうかは人それぞれだが僕はまったくもってビューロー派だ。パフォーミング・アートにゆとり教育などない。間違えないように台本をなぞる芝居など、ぼんくら大臣の国会答弁に等しく初めからやめたほうがいい。ピアニストもしかりであることは当然だ。聴衆だって、コンサート会場でプログラムをめくりながらバッグの底の飴をまさぐっているようでは永遠に何も降ってこない、時間の無駄だ。

カール・フリードベルグの弾く「子供の情景」に耳を傾けてほしい。彼がクララの弟子ということではなく、虚心に心の耳で。シューマンの心に降ってきた姿が見えないだろうか?こういう演奏をどうのこうのと批評するだけ言葉も音楽も穢れる気がする。音楽は「する」ものであって、本来文字が入り込む領域はないのだ。フリードベルグの言説を借りるなら、音楽を聴く、演奏するというのはこういうものに精神の奥深くが浸りこめるかどうかだろう。

まあ僕がスピーチする場もクラス会ぐらいしかなくなってきたし営業することももういらないし、どうせあとがあっても20年ぐらいだ。これからじっくりと名ピアニストたちの紡ぎだす音楽の醍醐味を楽しんで生きたいと思っているが、それにしても思うことがある。

クラス会で「いまは晴耕雨読だ」という人が何人かいて、これが理想郷のように羨ましく響いたわけだ。こういう年齢になると第二の人生などと口をそろえていいがちだが、定年になると次も何か仕事をしないといけないなんて思ってないだろうか。どうもそんなのは惰性かいわれのないプライドか強迫観念じゃないかと思うのだ。貯金でも年金でも食えさえすれば、好きなことして遊んで暮らすのがいいに決まってる。

人生真面目に来た人ほどその強迫観念のトラップに嵌る。徹夜マージャンといっしょで、長時間すべったころんだをやって来てしまうと、情動に慣性が働いて今更抜けられなくなるのだ。朝になって千点勝ってようが負けてようが人生ではまったくもってどうでもいいことなのに、なぜか熱くなってこれを取り返すぞと血眼になって頑張ってしまう。そういう頑張れる自分に安心したりもして、そんな馬鹿な自分と知ってるのに、またやってしまう。

昔、喫茶店のテーブルにインベーダーというゲーム画面がはめこみであってみんな熱中した時期がある。ところが、いいとこまで攻め込んでえいっと弾を放ったら「ゲームオーバー」だ。弾がむなしく静止して貼りついたりして嘲笑っている。ちくしょーとなって次の百円玉が消えるわけだ。第二の人生って、これじゃないか?いつも千円はすってたが、別に点数取って勝ったところで何の得があるわけでもない。常に俺は何やってたんだろうとむなしくなって帰るのに。

インベーダーや麻雀ぐらいならいいが人生でそれをしてしまうと一夜では済まない。5年10年を知らずに費消してしまう。徹マンしてやっと2千点浮いたぞなんて喜んだ瞬間に「人生双六」の画面に「ゲームオーバー」が出てしまったりするんだ、きっと。僕らにもうそんな時間は残っていまい。それを言うなら僕も徹マンから抜けてないし死ぬまで仕事するぞなんて公言までしてる。いくら儲けたって終わりはない。頂上のない登山。どこかで息絶えるが、それが標高100mだって3000mだって、その時になったらそんなに違いはないようにも思う。

何となく、クラス会でスピーチしながら、「それは馬鹿かもしれないぞ」とエステティックなものが脳裏に降ってきて、その瞬間に「もう俺は金もうけはどうでもいい」とあんまり脈絡のないことを口走った。みんなこいつアホかと思ったかもしれないが、カール・フリードベルグ流には正しい行動なのだった。

 

(ご参考)

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

クラシック徒然草《癒しのピアニスト、ケイト・リウに期待する》

 

加計学園問題を注視すべき理由

 

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男の更年期障害

2017 MAR 12 14:14:21 pm by 東 賢太郎

「男も更年期障害があるんですよ、知ってましたか」

写真家のS氏にいわれたがピンとこない。そもそも頭痛と胃痛は感じたことがなく、人生初めて胃カメラを飲んだのが数年前だ。50才前後で万事衰えたが60才で変わったという感じはない。

「いえ、東さんはそういうのはもともと縁がないんです」

「そんなことないよ。体は元気だけど気力がね。欲しいものなし、やりたいことなし、行きたいところなしだ。すごいだろ。」

半分冗談のつもりで返したが、よく考えるとほんとうにそうだ。すごすぎる。もう数年前からそう。そういうものごとは世間にあまり残ってないし、知らないものや場所だって何となく想像がついてそれで満足してしまう。

この年になると日本人はなぜか中国古典に惹かれるようで一様に論語だ老子だとなる。実業界ではそれを知らないと人間格落ちだみたいな空気すらある。僕も読んではみたが、なるほどというのとそうでもないなと思うものがあって特にどうということもない。

一方で、全部がストライクゾーンのど真ん中にびしびし決まってくる、剛速球ではないが伸びと切れ味のある球で、よくぞ言ってくれた、有無を言わさず参りましたというのがある。相対性理論のアルバート・アインシュタインの言葉だ。

そのひとつにこういうのがある。

正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。

これには救われた。

僕は小学校時代を本能のおもむくままに遊びまくって過ごした。並みのレベルではない、母が毎週学校に呼び出されるほどだった。中高受験に連戦連敗してみて、その6年間まったく勉強らしい勉強をしていなかったのだということに気がついた。そこを塾通いで特訓してきた全国区のライバルはマラソンなら背中も見えず、だから「小児期の教育が欠けている」というコンプレックスは抜き差しがたくなり、それは今だってある。

その、自業自得で受け損なった教育が、アインシュタインの言うところの「正規の教育」だろう。

彼が数学、物理以外ができなかったことに安息を求めるほど僕はロマンチストではない。彼ほどの規格外の頭脳を持つ天才が「好奇心が大事だよ」と教えてくれていることに意味を感じるのであって、好奇心のみで還暦まで来てしまった者として一抹の救いどころか失敗だらけの人生に免罪符をくれる言葉であった。

人間、過去は自分に都合よく美化するメカニズムが脳にあるそうだが、僕のその後の学業成績はそれの通用しない悲惨なものだった。ひとつ父に感謝するのは、そこで俺は頭が悪いとは一切思わせず「正規の教育の欠如だったんだ」「俺はできる」と思い込ませたことだ。体よく他人のせいにしてくれた。

これはコンプレックスは残したが、結局は勉強したら模試の数学で全国1番になったから親父が正しく、正規教育の秀才程度になら劣ってはいないということもわかった。しかし、あの重要な6年間、なかったものはなかったのだという引け目はそれでは解けなかった。

「好奇心」。これはキーワードだ。アインシュタインの言葉のおかげで、まったく子供を押さえつけなかった成城学園初等科という小学校は好奇心の培養土としてはすばらしいものだったと思えるようになった。そればかりか彼はこうもいっている。

知恵とは、学校で学べるものではなく一生をかけて身につけるべきものです。

知恵は学べない。知識、情報とインテリジェンスの違いじゃないか。僕は文部省のご指導通りは学ばなかったが、好奇心の追求のし方とインテリジェンスの作り方だけは成城で遊びながら覚えた。好奇心は知恵の母だろう。鶴亀算の解き方なんか知らなくたって、それさえあれば独学で微分・積分が解ける。そんな武器を手に入れていたんだと思うとこれまでの重荷が少しおろせた気がする。

このことの何が大事かというと、好奇心いっぱいの幼少期を過ごしたおかげで僕は更年期障害と無縁だと、少なくともはた目にはそう映る人生を今のところ歩めているかもしれないということだ。鶴亀算を人より速く解いて東大に入って大企業で定年になって、俺は何だったんだというのとは違う人生を歩めている。あの小学校の6年間は今の幸運をもたらしたのだから、あって良かったのだ。

「あっ、東さん、それね、過去を都合よく美化して丸めてしまうっての、それ男の更年期障害の症状なんですよ」。

「おいさっきと言うこと違うじゃないか、そうなのか、やばいね、でもね孔子は年をとってから・・・」

なるほどそう言いながらわかった。論語や老子はそのためのツールなんだ。人の前であれを一席ぶてば更年期すぎた爺さんの慰めと自己肯定になるじゃないか、なんとなくこの人、年輪重ねて人生わかってるねと。僕は年輪は62あるが人生なんて到底わからないし、それをかくあるべしなんて語る勇気もない。どうも僕に論語は似合わないなと思う。頼るのはアインシュタインとモーツァルトの言葉だけ、当面のところそれで十分だ。

 

「未来」と呼ばれているものの正体

 

 

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ミストサウナの15分

2016 DEC 4 17:17:00 pm by 東 賢太郎

今年は色々あった。

そもそも男の後厄で良ろしくない年だ。正月のおみくじは末吉だった。四柱推命では4-7月が大凶で、8月は少し良いが9、10月がまたまた大凶であった。なるほど、お見事にその通りの展開であってあんまりいい記憶がない。

昔からコップが割れたりメガネが壊れたりするのが「凶兆」だった。

今年ほどそれが何度も起こった年もなく、そのたびに「これはヤバいかな」と感じた事々がことごとくダメになったのだから、僕においてはそれはもはや迷信の域を超えている。

きっと先祖の霊が「やめとけ」と言ってるに違いない・・・

仕事というと、今年はゴルフなら18番ホールが奇跡のチップインで喝采されながら「ボギーです」みたいな感じだった。飲みに行くと「なんかお忙しそうで」って、やたら曲げて林の中で苦労してただけだなんで「今日はボロボロですね」なんて方がほっとする。

長女がそのボロボロを心配してくれて一緒に布田神社にお参りして厄払いし、両親を見舞って元気なのを見届けてから横浜のスーパー銭湯「港北の湯」へ来た。カキフライ定食と甘酒かき氷に満足。ここは高濃度炭酸泉と天然ラジウムのミストサウナが売りだ。マッサージでくつろいで前後2時間の入浴だ。

いや、いいなあ・・・

そう独り言しながら2度目のミストサウナの時だった。「ラジウムの放射性ホルミシス効果」なんて壁の効能書きが目に入ってきて、しかしこれは微量とはいえ放射線被曝ではあるわけだよなと余計なことを考える。

あとでwikipediaを見てみて知ったがラドンに安全な量というものは存在しないという仮説(米国アメリカ環境保護庁)もあるようだ。

よくわからない・・・

キュリー夫人が調べたホルミシスをプラセボ効果(偽薬が効いてしまう)などというと不遜だが、どこか東洋医学的に思えてしまうのも事実だ。なんかよくなりそうな気がするし漢方もそれがあると思うが、「気がする」と人間に「良い気」をもたらして、それで病が良くなる。「気」こそ原因なのだ。

要するにそれじゃないの?

インフレとデフレ。貨幣の交換価値はおんなじなのに社会現象としては違う結果をもたらす。デフレは世の中を暗くする。インフレは「見かけの収入が増えるだけの偽薬」だが、プラセボ効果で人々の気を軽くして明るい世にしてくれるのだ。う~ん、ラジウム温泉で原理を発見してしまったかもしれない。

「病は気から」、「信じるものは救われる」、「なせばなる」、そうか・・・

すると冒頭の「コップが割れたりメガネが壊れたりするのが凶兆」もそうだったかという疑問が生じるではないか。「やばい」って思うと気持ちがデフレ的になる。すると行くべきものが行かなくなっちまう。あれれ、先祖の霊はどこへ行ったんだ?

すると我々は遺伝子を乗せたただのヴィークル(乗り物)であって、DNAに書いてある命令が五欲、煩悩となってるって、これやけに腑に落ちるなあという気がどこからともなくしてくる。

日々それで喜怒哀楽、勝った負けた儲けた損したなんてバカやって、プリセットの寿命が人生劇場になってて、いつか万華鏡みたいにわけわかんない劇が終わる。ああばかばかしい。何も考えない人生のが楽だ。

ヴィークルは何も考えない。

いまこうやって考えてるのはウソの自分だろう。五欲、煩悩。あるのはそれのみだ。それにハイハイと従っているとどうなるんだろう?自分を駄目にする根元と仏教は教えるが、健康にだけはいいような気もするんだが・・・

こうして世の中はますますわかんなくなる。熱くって汗だくになって立ち上がると、「一回の入浴は15分までにしてください」と壁にあった。

 
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もの忘れ(その2・実践編)

2015 DEC 25 23:23:55 pm by 東 賢太郎

きのう「もの忘れ」の記事を書いた。そうしたら今日、ある会社さんの支店にハンコと通帳をカバンごと忘れてきた。実践編であった。信頼できる担当者のLさんがすぐ電話をくれて自宅に届けてくれたのでよかったが、もう我ながらどうしようもない。

ハンコをついたらその瞬間に次にやらなくてはいけない仕事に頭が100%行ってる。だから僕はそういうものを持つべきではないし、もともと自分を信用してないからなるべく信用できる人にまかせたい。

今日はもうひとつ仕事があったわけだが、その二つを終えれば今年は終わる。別途走っていた半年勝負の案件は今日、静かに決着した。これはソナーがいままで仕上げた最大のディールである。そして、10月に手帳に書いた「今やるべきこと」がやっと全部消える。

この1週間のあわただしさは半端でなく、過労死してもおかしくなかった。多くの方々のお力を借りて綱渡りの中を次々と、幸運にも助けられて、何とか切り抜けられるのかもしれない。これを間近で見ていたS君いわく「持ってますよ」だが、僭越ながら自分でもそう思う。

こういう時は麻雀でいうと単騎で5面待ちに勝ってしまう。最後の1枚の西単騎がオーラスで出てしまう。逆に何をしてもそんなのに振り込んだ時期もあったからこの勢いは絶対に消すわけにはいかない。

前も書いたが僕はツキのある人としかつきあわない。ツキはあげることもできるがもらうものでもある。それはつまらない手に振り込むと消える。だから何をしてでもそうするわけにはいかない。そのことの損得だけではないのである。だからこの1週間ほど、自分でも鬼気迫る状態にあったと感じる。

 
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男の脳と女の脳

2015 DEC 22 0:00:36 am by 東 賢太郎

男という動物には生来に分類癖があるのであって、全部の男にあるとは思わないが、女にはあまり見られないからやっぱり男の属性の一部なのではないかと考えてしまう。何かを集めてしまう癖は、収集家、コレクターなどとお品良く呼ばれることもあるが、要は収集狂、マニア、オタクに他ならない。

収集というのは、実はまず分類がないといけない。トンボの標本を作ろうというのにオニヤンマとギンヤンマのちがいを正確に把握できていないということは、全くあり得ないことなのである。どんなに小さな差異でも見のがさず、それも個体差ではなく最大公約数として種としてちがうのだということでAがBと異なるトンボだと「分類」する。収集とはその結果を、トンボの遺体を箱の中にピンで差して留める行為にすぎない。それが人間であればこのようなことになるわけだ。

human-evolution-family-tree-with-skulls-graphic-heroロンドンの自然史博物館(Natural History Museum)は、その収集という行為の国家的集大成である。大英博物館(The British Museum )は他国からの略奪物、戦利品の壮大な展示館だが、ここでも分類という男性的ノウハウが存分に発揮されている。漢方薬は数千年にわたる人体実験に基づいた植物の生理学的効能の分類の集大成である。すべての科学(science)が分類、収集という脳細胞の働きを起因として発展してきたといって恐らく過言ではないだろう。分類は法則や理屈、理論の母である。

だから実験結果をごまかして自分の欲しい結論にジャンプしたり、コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神は、「分類」の精神にのっけから根本原理もろとも抵触するのであり、その抵触を厭わず気持ちが悪いとも思わないというシンプルな事実ひとつをもってしても、それが詐欺的な行為か否かを論ずる以前に、サイエンスを語ったり研究したりするには最も不適格な脳細胞の持ち主であることを証明しているという確実無比な結論に至ることになるのである。

去年こういうブログを書いた。

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

書いたことをさらに進めると、女性には何であれ真の意味における収集狂がいないのではないかと思うようになった。リカちゃん人形を千体も集めて悦に入ってる女の子というのはちょっと不気味だが、いたとしても分類の結果というよりもキレい、カワイイの集大成ではないか。LPレコードやCDを1万枚も集めるのも不気味かもしれないが、僕はその1枚1枚がどう違っているかを明瞭な言語によって説明できるのだ。つまりそれは言語なきところに存立不可能である「分類」という行為から来ているのであって、たくさんあるのを眺めて言葉もなく悦に入る行為とは一線を画している。

mandara京都の東寺に弘法大師がしつらえた立体曼荼羅というのがある。仏像がたくさんあって、その数だけ有難味が増すという単純なものではなく配置が厳密に決まっている(右)。一体一体の役割が分類されている上に、空間配置として認識させる。ただ有難や有難やと拝むだけの脳細胞とは異なるものを空海は持っていた。せっかく嵯峨天皇に取入って気に入られ京都で重職についたのに、真言密教の宇宙の真理を悟り広めるために高野山の山奥に引っ越して引退してしまう。現世欲まるだしの恥ずかしい「コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神」とは北極と南極、いや銀河系とアンドロメダ大星雲ほどちがう精神を見るのである。

先日ベトナムはハノイで訪ねたお寺でこういうものを見た。

vietnam

これが立体曼荼羅かどうかは知らないが配置に秩序があるそうだ。空海が行ったとは思わないので分類、空間配置という空海と共通した脳を持つ人による作業の結末なのだろう。この分類、空間配置こそ、大英博物館、自然史博物館を成さしめた脳細胞の働きに他ならない。

これが男性固有の分類脳という公約数の帰結だと書いたらセクハラで訴えられるのだろうか?女性読者には何卒お許しを願いたいが、このことは大作曲家や大数学者や大天文学者や大発明家や大哲学者に女性がいない(有意に少ない)ことと関係があるのかもしれない。精密な分類が得意でないのに数学や物理には強いという状況が想定しにくいことは感覚的にも理解しやすいのではないだろうか。

たとえば作曲というのは、12音音楽のセリー(順列なる数学的秩序が支配)という可能性を切り詰めた特殊な場合でさえも、2番目の音の選択肢は11個、3番目は10個ある。すなわち音の長さを度外視しても{12×11×10×・・・×2×1}個のサンプルを作り得て、その中から{(12×11×10×・・・×2×1)-1}個を捨て去る作業である。この作業は分類以外の何ものでもない。

「美しいメロディをつくる」とは女性的なイメージを伴うし、たしかにそこに繊細な感性は必要ではあるが、それ以前に音を分類して選び取る能力、つまり数学、物理のファンダメンタルでもある能力が必要だ。J.S.バッハの作曲にそれは顕著でありベートーベンやブラームスの主題労作の過程にも現れている。楽譜とはピッチを周波数変換することで数値のみで書くこともできる。絵画や小説とは異なり、理系的な要素を多分に含む。それを書くことも解析して読み取ることも男性の脳が得意とする領域の作業だ。

こうした作業が男の専有物であるかもしれないと考えるのは、能力においてどっちがまさるという次元の話とは全く無縁である。というのは、分類癖がないほうが望ましい作業というのが存在するからである。その最たるものが育児だ。子供は分類してはいけない。何人いても等しく愛情を注ぎ、序列はなく、夜中に泣きわめこうと何しようとそのことで遠ざけられたりはしない。

これを母性本能と呼ぶのは正鵠を得ており、その大家である男はいないか有意に少ないと思われる。本能(instinct)というからには動物にもあるのであり、動物の父親は母子と行動しない場合もあるから父性本能とはきいたことがないし、あったとしても人間特有の社会性から生まれていよう。一般化はしないが僕を含む一部の男は泣き叫ぶ赤子には無力であり、泣く子と地頭には・・・という諺を生む。分類したり理屈をこねたりしない女性の脳だけが子をやさしく包み込み、安心させなだめることができる。

そして我々男どもも、女性から生まれ、泣き叫んでも温かく包み込んでもらったのである。音楽を書くのは男でも、多くの男はそれを女のために書いている。

 

(追記、13 June17)

幼児の脳に、秩序はまだない(おそらく)。男は仕事で飲んだりしてふらふらになって帰宅して、家の中が無秩序でめちゃくちゃになっているのに耐えられない。たとえそれが幼い我が子の脳から出たものであっても。

幼児期に電車のおもちゃを部屋中に広げ、敷居をまたいで線路を台所や隣の部屋まで敷きつめるのが日課であった。お袋は「足の踏み場もないわね」といいつつ一度としてそれを咎めたことはなく、夕餉のころになると、「早く片付けなさい、そろそろ帰ってくるわよ」と親父の逆鱗にふれない目くばせをしていた。

思えばこういうことで、電車を微細に分類しつつもオタクに徹することなく、国境をまたいで世界に飛び出していく脳になった。長じて親父が怒った気持ちもわかるようになったが、守ってくれ、のびのびと好きなことをさせてくれたお袋の母性にかなうものはない。その作品が自分だと強く感じるようになった。

 

(こちらへどうぞ)

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

 

 

 

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ブログは名刺

2015 DEC 16 23:23:39 pm by 東 賢太郎

 

ビジネスという環境に身を置いていると名刺がたまる。数年でなん百枚にもなるだろう。仮に僕が楽隠居かプー太郎でもしてたら自分の名刺もいらないし、出さなければ相手もくれないからたまることはない。

何が違うんだろう?それはビジネスマン、商売人というのはお互い様でお金をもうけるという共通利益をベースに動いているからだ。僕に名刺を差し出す人は、なにか利益がありそうだからそうするのであって友達になりたいわけではない。個人というより会社に何かを期待するのだ。

いつも格好いいと思うのは仰々しい肩書のない名刺だ。「弁護士」とか「作曲家」とか「建築家」とか、職名だけのも素敵だ。俳優など有名人になればどうするんだろう。「俳優」もいらないから名前だけかな。でも高倉健が「高倉健」と書いた名刺を出す姿は想像できない。だから名刺なしがいちばん偉いのかもしれない。

最近僕はブログを名刺代わり使うことを覚えた。初対面の人に「ここにブログがあります」とSMCのアドレスをお教えする。そうすると、読んでくれる人とそうでない人があとでわかる。そうでない人というのは、すべからく僕個人でなく会社やお金だけに興味がある人だと判断している。

こっちもビジネスなので構わない。お互い様であって、そうであるなら僕の方も彼・彼女の個人には興味を持たない。ただ、相手がどうあろうと僕は自分を明明白白に晒して、こういう人間ですよ、あなたには嫌な奴かもしれませんよ、こういう妙な?主張を持ってますよ、という風なことをお示しする。

それは営業や交渉ごとでは不利だという人もいる。しかし僕は自分を隠したりお化粧したりして有利になったり好かれたりしても、やがてうまくいかなくなることをたくさん経験している。明かしてうまくいかない人とは所詮うまくいかないから何か期待して始めるだけ無駄なのだ。相手に時間の浪費をさせては悪い。

それで、読みました、はい、やめときますという人とは今のところお会いしていない。いや、もっと正確に言うと、やめようと思うほどまじめに読んだ形跡の感じられる人はほとんどいない。そんなものだ。名刺をもらって家に帰って、この人は珍しい名字だなどこの出身だろうと調べる人はあまりいない。

ところがブログの検索履歴を見ると、例えば日本シリーズで神宮球場ではヤクルトが有利だろうという噂がネットやTVで拡散したが、それは神宮のマウンドが今年から変わったせいだなどと言われる。僕はそのことを9月20日付のブログに詳しく書いたが、するとその記事の検索数が静かに増えた。オタクっぽい内容なので当初はあまり読まれなかったのに。

こういうのがとても嬉しい。想像するにヤクルトに肩入れはじめたあたりで野球好きの方のご訪問がちょっと増えたと思われる。関心を持って下さった方はバックナンバーを検索して読んでくださり、たまたま話題になっている「神宮のマウンド」の記事を見つけて下さったのではないか。お互い、名乗る必要はない。名刺交換よりずっと意味のある交流だと思う。

 

(追記、16年1月24日)

ブログをやめたらかえってアクセスが増えてます。恐縮です。野球や音楽においては僕は単なる外野席の観衆でしかありませんが仕事だと選手でいられます。仕事に専念するには断捨離が必要なのです。

 

(同、1月30日)

断捨離といえば、今のお客様はすべて起業してからのご縁の方です。サラリーマンの自分というものは、生きるために仕方なく作った虚像を含んでおり、その虚像で作った関係を無理に維持する精神的コストは高いのです。それを払うなら一から作り直した方が楽で早いでしょう。

そうだろうかと思う方も多いでしょう。ではサラリーマンしながら僕みたいにブログで自分をさらけ出せますか?まず無理です。それをしちゃあお終いよと「自画像を断捨離」したところに成り立つ地位が、宮仕え、サラリーマンというものの実体だと思います。

僕が断ったものは重いです。ところが新たなご縁が今になって開花しつつあって、去年の最後に向けて信じられない勢いで大ブレークをはじめました。すべては偶然の結果とはいえ断つということの威力を知りました。だからブログも断ったのです。

断つと失います。更地になります。だから何かを得よう、建てようと、強いエネルギーが出ます。これを僕は断食で経験しました。そして、少しだけ自信を得ました。捨てることは怖くないということにです。断捨離はもっと必要と思っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

わかる人、わからない人

2015 OCT 12 14:14:55 pm by 東 賢太郎

ある方がオフィスに来られて、この20日で起業して5年になりますねと申し上げた所、すごいことですと、ぽつりと一言をいただきました。

5年になりますとは折あらばいろいろな方に申し上げていることではありますが、彼のぽつりは胸にささりました。

あとで話してくれたことによると、彼はずっと年下ですが、勤めた会社が苦境の時期を経ていて転職されています。現在は海外の会社のパートナーの地位についている俊英なのですが、その数年間のことは思い出したくないほどのことだったようです。

自分で苦しんで初めてわかることがあります。何もない所から生んだ会社を5年間存続させた重みは、前回会ったのはまだ順調だった3年前ですから、そのころだったらわからなかったでしょうとも。

「わかる」ということばの含蓄は深いですね。わかってくれた彼を、こんどは僕の方が一言だけ聞いて「わかる」のです。わかるのは悟ることへの第一歩かもしれません。

社会というのは人と人のつながりで成り立っていますが、その真ん中に身内という小さな社会があります。家族、友達、仲間、会社、共同体などという。では社会と身内の境目はどこなのかというと、これはなかなか答えるのが難しいことでしょう。

私事ですが僕は本来あんまりしゃべるほうではありません。身内というプライベートな空間ではとくに。しかし社会では多弁にもなり、ときに勇弁でなくてはならない場面もあります。実はそういう自分はあまり好きではなく、社会生活のなかであとから方便としてついてきた技術のようなものです。

身内をおおざっぱにイメージするなら、自分と利害関係があまりないという範囲内の社会ではないでしょうか。そうだとするなら、多弁、勇弁はそれがあるから必要なのです。まったく袖も振り合わぬ人、つまり利害関係のない人に弁は無用でしょう。同様にそれのない身内にもということなのかもしれません。

しかし、僕においては理屈ではなく、わかるなら、いらない。それだけです。そして、わかる人だけが身内というなら、身内にはだからいらないわけです。どうしてか、わかりませんが、言わないでもわかるほうが信頼が強まるという僕のスタイルです。

身内は「わかる」こそが大事であります。すくなくとも僕には。余計なことは言わない、言わないからといって余計な気もお互いに使わない。だからわかるしかないのですが、わかる人を僕はわかるし、わからない人もわかる。

というと禅問答のようだと思われるかもしれません。ところが興味深いことに、その禅の本を読んでいたら

不立文字、教外別伝

とあります。経典の「文言」によるのではなく、「体験」によって釈尊の悟りの内容を自身も悟ることを目指すのが禅宗だそうです。人は心の在りようこそが大事なのであって、言葉はそれを伝える不完全な容器にすぎないと。

その教えをお借りして甚だ身勝手ではありますが、僕は相手の心の在りようを察してあげられることが不完全な言葉をいくらかけることよりも大切だと思います。釈尊の悟りにはほど遠い程度のことですが、日々の人のこころというものも言葉ではうまく伝わらないものだし、それを言わずとも察してあげられることが「おもいやり」の神髄と思うのです。

英語はまず「ハワユー」 「How are you?」  を習います。「ごきげんいかが?」と訳されてますが、ここでyouというのは「あなたの心や体の状態」ということです。「あなたは(今日現在の)あなたの心や体の状態を自分自身でどのように把握していますか?」という、実はけっこうプライベートで微妙なことをきいているのです。しかも質問だから、答える義務があります。

これは考えると妙で、日本人はそういう質問は病気の人にしかしません。そしてそれには 「I’m fine, thank you. and you?」 と答えろと習うんですが、これはますます妙である。人間だからfineでもない日もあるのです。毎日毎朝これを何万回もきかれていると時々 very bad なんてわざとぶすっとして答えたりします。

すいません、尋ねない方がよかったですねってこともあって、普通は「こんにちは」の代用品で軽いタッチで使われますが実はそうでもないことを質問しているということがお分かりいただけると思います。

西洋はそういうやり取りを言葉で毎日かわさないといけない。言葉が人間関係の潤滑油として機能する文化です。

米国でルームメイトが彼女に毎日愛してるを言ってる、あれホントなんです。僕は仮に愛してないならそれはどうしても言わなくっちゃいけないだろうなと思うんですね、それだけは言わないとわからないから。あんなにあたりまえのことを毎日言ったら言葉が軽くなります。そんなに軽いモノならいざという時に百万言ついやしたって何の重みもない、どうするんだろうと逆に心配になりました。

冒頭の後輩は、「すごいことです」のたった7文字で、僕が5年間にいかなる苦労をしてきたかということへの共感を伝えてくれました。もちろん彼は僕の苦労の細かな事例は何も知らないから一般論なのですが、「起業」「5年」「持続」という事実への体験を通した理解があったのでしょう、それが言外にじわりと伝わってきました。

体験を通じて知った者だけが発することのできる共感なので、その体験を持っている僕も、共感ができたのです。お互い様です。千文字の美辞麗句を並べてもかなわないものがある。そして、それをわかる人と、わからない人がいる。わかる人はそういう者同士で身内になれるし、だんだん「わかる人だけの集団」と「わからない人だけの集団」が分かれていきます。

昨今、シャープとか東芝がおかしくなって、だから身内だけの経営はいかん、社外取締役制度を強化しろという声が強まりました。「わからない人」をいれて「わかる人」だけの集団を監視させろということです。しかしどうもおかしい。社内警察官が目を光らせないと則を超えて危ないようなビジネスなら、やめてしまえばいいのです。

僕は事業というものは「わかる人」だけでやるのがいいと信じています。それで道を逸れるなら、それはやっている事業自体がもともと勝算がなかったり倫理的におかしいかもしれないぞと疑うべきなのであって、同族経営や仲良しクラブだったからそうなったという事例はもちろんあるにしても、それは決して事の本質ではないと思います。

異質の「わからない人」が経営の意思決定者にたくさんいれば暴走がないだろうというのはいかにも正論に聞こえますが、正しいことをやっているなら暴走は快進撃と呼ばれるのです。もともと勝算がなかったり倫理的におかしいことは絶対にやらないという仲良しクラブが悪いという理屈はないでしょう。

線路に乗っているかどうか、大事なのはそれだけです。乗っていないのにアクセルを踏むから大事故になる。それをブレーキの利き具合の問題にすり替えてはいけません。ブレーキだけなら事故は起きないが、車は前に進みません。会社は何をやっているのか意味不明になります。

僕は「わかる人」が好きなのではありません。個人的には嫌いだけど、わかる人はいます。好き嫌いとは別なことです。ただ、家庭を作ったり、仕事を成功させたり、なんであれ小さな社会をうまく進めていこうと思えばそういう人といることが円滑なのです。

さきほど「おもいやり」と書きましたが、漢字は「思い遣り」です。「遣る」とは「さしむける」、 「送り届ける」という意味ですから、これは能動的に、こちらからの働きかけとして、「思い」という心の動きをさしあげることであって、うわべのやさしい言葉をかけることや同情してあげることではありません。

これを西洋人に言葉で説明する自信はまったくありません。態度で行くしかないのです。僕が朝っぱらからハワユーにわざとしかめっ面で very bad , and you? なんて答えて相手が笑って、Oh, I’m great, I’m afraid. なんてくる、これはぱっと相手の顔を見て機嫌が良さそうな時しかできないのですが、英米人とだってこうやって「わかる人」の関係になれる。意外に万国共通のものじゃないかと思ったりもします。

 

ブレイン・ストーミングとは?

 

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