Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______気づき

「りり花」画伯は桜を描く

2018 APR 3 1:01:42 am by 東 賢太郎

桜はあんまり好きではない。ピンク色がきれいとかいわれても僕には白にしか見えない。それでも京都で見た満開の絶景は驚いたからべつに嫌いというわけではないが、あんなのを一度見れたんだからラッキーだった、もういいやという心境になっている。人ごみをかき分けながら落ち着く所もなく、「今日がピークですね」「明日は雨ですよ、もうダメですね」「運が良かったですね」なんて声があちこちから聞こえてくると、ああ運が悪かったなと嘆く性分なのだ。

というのは、株屋的には猫も杓子も買いだと騒ぐピーク(天井という)で株を買うのはばかだという感覚があるせいもあり、明日は落ち目だという夢のなさは嫌いだという人生観もあるが、なによりこんなに大勢の人が押しかけて大騒ぎしている桜なんだからきっと最上のものなんだろう、それが今日で終わりだとなると楽しまなくては損だという気になるからだ。するとそれがむくむくと強迫観念?になってきて、ただでさえ雑踏にもまれてそう楽しいとも思わない時間がだんだん苦痛になってくるのだ。

桜は不気味な植物と思う。たわわに重そうな花弁をびっしりと贅沢三昧に咲かせておいて、それで花粉を仲介すべき蜂や蝶だらけになったのは一度も見ない。これは何のためだと不可思議に思っていると、あっという間に散っている。エネルギーの無駄?でも人間以外の生物は生存、生殖に無駄なことはしないと教わっている。じゃあ、あれは何だ?

無駄?そうじゃない。日本中に桜は植わって子孫は大繁栄してるではないか。生存競争の勝者ではないか。そうか、ということはあれは桜が考え抜いたドラスティックな生存戦略なのではないか?食虫植物はメスの似姿を囮(おとり)に見せたりいい匂いを漂わせて虫を呼んでおいて食べる。桜は妖艶に人を酔わせてカラオケを歌わせて和歌まで詠ませて、食べないけども、あちこちに植栽させたり桜並木を作らせたりする。

つまり、あれは人間をターゲットにおいた囮(おとり)であって、人間のメスの似姿はちょっと難しいので「開花ショー」「お花見サービスタイム」というエンタメ系で釣ろうというものだ。きれいなだけじゃあ飽きられるので、飽きがくる前に「桜散るショー」でダメを押す。虫を呼んで交配させる?小物の発想だね。俺たちは大物しか狙わないのよ、ヒトよ、ヒトを惑わして悲しませて、また来年見たいと誘導して種を蒔かせるんだ。ぜんぜん効率いいぜ。

まあ真偽のほどはわからない。でも桜をぼんやり眺めてると、そのぐらいの仕掛けは難なく講じられ、まんまと騙され、ひっかかっている感じがしないでもない。だから不気味なのだ。

植物に知恵がないなんてことは考えられない、だって、だいたいハチのメスに似た花なんかどうやって考えつくんだ?どうしてそれでオスが寄ってくると知ったんだ?それがちゃんと似ているぜ、オッケー!と、どこから見て(感知して)判断したんだ?それに明確に答えた人はまだいない。明確なのは、それはわからないけども、そういう植物が確かに存在しているということだ。

植物や動物にはメカニズムは不明でも人間並み(以上)の観察眼も生きる知恵もあるという生物学者はいる。TVに出ていた「市原ぞうの国」のアジアゾウ「りり花(か)」の桜の絵を見て、まさに度肝を抜かれてしまい、それを思い出した。

 

見事な構図、タッチ。これは間違いなく、僕よりうまい。途中から番組を見てまず絵が画面に出たので、「いい絵だね、誰のかな?」とつぶやいた。ところがなんと・・・。嘘だろうと思ったがそうではない、りり花の母親の「ゆめ花」の動画がある。

ゆめ花さん、りり花さん、お会いしたくなりました。youtubeを探すと、あちこちに画伯がいた。

あれを描けと指示したわけではなさそうだし、おじさんが絵筆を渡してはいるが筆の色を見てあるべき場所に塗っているということは色もわかるんだろう。まいった。ということは象も桜を見るときれいなのに違いない。

桜の戦略に驚くべきなのか象のアーティスト魂に驚くべきなのか??

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ソムリエにワインを替えさせる方法

2018 FEB 21 23:23:16 pm by 東 賢太郎

76になられる某社会長と代官山の「パッション」で会食。9年連続ミシュランで星のフレンチレストランでオーナーシェフのアンドレ・パッション (André Pachon)氏はフランス共和国よりコマンドール勲章、レジオンドヌール勲章をもらっている日本のフレンチ界の草分けだ。

会長はフランス在住歴5年でMBAも取得された大先達で、含蓄の深いお話をうかがってあっという間に時間がすぎた。なかでもこれが面白かった。

「パリで同僚のフランス人に、ワインのテースティングでは絶対にnonと言うなといわれましてね、でも一度だけやってみて替えさせたことがあるんです」

それを言うとソムリエが飛んできて「どこがお気に召しませんか?」とくる。注文しておいて文句をつけるのだから説明責任があるのだ。まず交換はできず雰囲気を悪くするし、「まずい」と言ったものを自分の客人に飲ませるわけにいかずもう一本注文する羽目になる。だからやめておけというアドバイスなのだ。

「何と言われたのですか?」

「僕はいつもこれを飲んでる。昨日も同じ年のを飲んだばかりだ。これはそれと比べて酸っぱいと言いましたよ」

これに反論するのは難しい。同じ葡萄から出来たワインの酸味は酢に近い結果だから、昨日のワインが今日のより劣ると主張する根拠がない。だからあなたの舌がおかしいと言うしかない。しかし「酸っぱい」のは子供でも分かる。アロマだブケだと煙に巻けない。しかもこの客は味を知って銘柄にこだわっている通だ。喧嘩を売ってオーナーにクレームされたらかなわんと考えた、邪推だろうか?見事な王手飛車取りだが、「いつもこれ」「昨日」「同じ年」という効果的な伏線が張ってある。ソムリエは得心して投了したと思う。

しかし彼もそれで飯を食っている。プライドは非常に高い。相手を見て押し切れそうならつっぱねるし若い人が彼女の手前で格好をつけて同じことを言っても、兄ちゃん青いねと撃退されるリスクは高いだろう。会長はフランス共和国よりコマンドール勲章を授与された名士であられるが、では勲章をもらえばそれができる威厳が身につくかというとそういうものでもなくて、やはり人間のにじみ出る風格とでも書くしかないものが備わっているかどうかが交渉力の決め手のように思う。

英国のコメディ、Mr.ビーンに、彼が食卓でマナーを知らず大失態を演じる爆笑シーンがあるが、英国人にとってもフレンチレストランはそういう面倒くさい場所なのだ。要は慣れ、経験がものをいう。遊び慣れた余裕というか、我が国なら京都のお茶屋さんでどうですかという風なものであるかもしれない。大石内蔵助は祇園一力茶屋で遊んで四十七士の吉良邸襲撃計画の目くらましをしたが、敵の欺き方としては最高にエレガントだ。大石ならパリでソムリエを説得できたような気もする。

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便利屋こそこれからの勝ち組である

2017 DEC 16 1:01:36 am by 東 賢太郎

断言するが、これからの世の中に必要なのは便利屋である。今でも需要はあるが、ますますそうなる。気のきいた便利屋は人工知能に凌駕はされない。だから失業もしないし、高給を食むことも大いに可能である。物知り博士は失業だ。スマホ博士にかなわない。

便利屋は、望みさえすれば誰でもなれる。日本人として普通に生活力があれば学問などいらない。大学なんかぜんぜん行く必要ない。高校すらない。クルマは富の象徴でなくなってきたが、学歴も知の象徴でなくなる。猫も杓子もの大卒のレッテルなどメルカリで100円の価値しかなくなるだろう。

教科書から坂本龍馬が消える?僕は龍馬を知らなくてもいいから便利な人を雇いたい。メガバンクが何万人もリストラするらしいが、その何万人はみな一般教養試験は高得点で、龍馬を知らない人など確実に一人もいないだろう。生き残る条件でもない知識を得る教育に何年もかけたなら気の毒ですらある。

教養が大事だと書いたのになぜ?世の中は二分化するのだ。教養は持ちたい人は持てばいい。それにふさわしい職が得られるかもしれないし少なくとも自己満足にはなる。一方、便利屋はというと、教養人を客にするなら持てばいいし、そうでないならいらないということだ。

人生は人それぞれだ。食えさえすれば余暇を好きにして充実人生が送れるではないか。であれば、便利屋に需要があるのだから、便利屋のプロになって生計をたてればよいのである。急に忘年会をすることになった、もうどこも予約でいっぱいだ。そこで5分でいい店を探せるなら貴重な能力だ。

水道が出ない、ススメバチの巣を撤去して、みたいなことだけじゃない。外国での話だが渋滞でフライト時刻にぎりぎりの時、ドライバーがハイウェイの路肩を映画みたいにぶっとばして間に合ったことがある。事の是非はともかくプロと思った。

仕事の出来だけではない。頼みやすい、感じがいい、レスポンスが速い、これは便利の大事な要素だ。僕の敵はストレスなので不得手、面倒くさいと思っているものを迅速にやってくれると時間節約以上にストレスをためないですむ。その人は間接的に僕の時給の何割かの仕事をしていることになる。

僕は弁護士、税理士だって便利かどうかで選んでる。サービス業はすべからく便利屋なのだ。それじゃあカッコ悪いからサービス・プロバイダーと呼ぶ。僕自身企業や投資家の便利屋である。そのプロに徹している。だから、便利であるために便利な人、それもそのことにおいて鋭利な刃物の切れ味(エッジという)のある人が必要なのである。

便利な仕組みを提供するインフラのパラダイム変換競争はもう限界に来ている。楽天の携帯キャリア参入が示唆している。つまりこれからはそれを駆使したサービス競争の時代になるのだ。IT化による新パラダイムを想定してない銀行業のような仕組みは衰退する。そこでエリートになる教育は不要である。「誰かにとって便利かどうか」?これぞ新時代のキーワードなのだ。

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ベラスケス『鏡のヴィーナス』

2017 OCT 1 18:18:22 pm by 東 賢太郎

交響曲に共作はないと書いたが、小説ならエラリー・クイーンがそうだし、アニメの藤子不二雄だってそうだ。クイーンの国名物もドラえもんも名作だしそれが一概にいけないというわけでもなさそうだ。

作曲以外のジャンルで気になるのは絵画である。ではどうかというと、工房で制作したルーベンス(1577-1640)が近いだろう。彼は弟子に下絵描きや仕上げ作業をさせる垂直分業だけでなく対等の立場での水平分業と思われる作品だってあるからだ。ヤン・ブリューゲル (父)との『アケロオスの祝宴』(1615年頃)がそうだ。

ニューヨークのメトロポリタン美術館は3~4回は行ったと思うがこの絵に惹きつけられたのは大学4年のときだったろうか。当時詳しいことは何も知らなかったがこの構図と色が気に入ってしまい、中央奥の年配の男が何やら力説しているが聞いていない者もいてがやがやしている、そのざわめきが響いてくるようになってしまった。ちょうど徳川家康が死んだころに描かれたバロック絵画だが、この饒舌は音楽に通じる。コンチェルト・グロッソそのものだ。僕にはブランデンブルグ協奏曲の第3番が聞こえる。

ルーベンスは1628年から1629年にかけてマドリッドに滞在し、ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)と親交を結んだ。多作のルーベンスに対し、ベラスケスは寡作だが震撼するような知性と技法ですごい絵を描いた。彼は光と陰をフランドルから学んだかもしれないが、それはしかし彼の技法の一部になっただけだ。代表作『鏡のヴィーナス』をロンドンのナショナル・ギャラリーで観た時の衝撃は忘れられない。

この絵は1650年前後、イタリア滞在中に描かれたといわるベラスケスの現存する唯一の裸婦像で、スペインのカソリックで禁じられた題材、鏡のモチーフ、背後からのポーズ等々の議論、話題に事欠かない。フェリペ4世の宮廷画家であり国王が裸婦画を好んだからできたことで、鏡、背中のポーズ、ベッドのシーツ等は各々前例がある。そういうことは僕にとってどうということでもない。

衝撃だったのは、鏡の顔が別人だと直感したことだ。

まず大きい。遠くにある顔の方が大きいということは物理的にあり得ない。頭の角度も明らかに違う(女の方が垂直に近い)。頬からあごにかけての輪郭が違う。女は華奢で小顔であり、鏡の方はふっくらと豊満な体型を思わせるのであって、僕には同一人物とは思われないがいかがだろうか。

そもそもこの絵には科学の実験のような怜悧な空気が満ちている。全裸の女とは甚だ不調和な雰囲気だ。女は鏡を見て髪をとかすわけでも化粧するわけでもない。いったい何をしているんだろう?彼女の背中や臀部や足の息をのむほどリアリスティックな起伏。これは現実なのだ。では羽の生えた子供(キューピッド)がなぜ居るんだろう?我々の理性はそれを非現実ととらえる。では女の肢体のなまめかしい現実はいったい何なんだろう?この場に居合わせてしまった我々鑑賞者の居場所はどこにあるんだろう?

こんなパラドックスに満ちた世界観がバロック期にあったとは驚異だ。ベラスケスの脳の中だけにしてもだ。鏡の女はこっちを見ていない、現実と非現実が見合って対峙している図であって、これにロンドンで初めて遭遇したときの僕の第一印象はというと、あたかも一級品のミステリーが導入部の不可解な謎をぶつけて挑みかかってきたかのようだった。

顔を描いて人物の性格から声、行状、品性まで抉(えぐ)り出せるベラスケスの筆力はこのレベルだ(教皇インノケンティウス10世、同時期にローマで描いた作品)。

この画家が力を傾けたのは、思うに「女と鏡の顔は別人だ」と意図的に示すということではないか。キューピッドがともに描かれていることによって、初めてこの作品の女性がヴィーナスであると理解できるようになっているが、キューピッドを描く画法はヴェネツィア派などイタリア宗教画由来のままで、鏡の顔もその路線にある。ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノの世界の女性だ。ところが横たわっている女性はどうだ。これはドガやルノワールを連想させる印象派の世界の女性なのだ。

鏡のモチーフがこの絵から来ていることは容易に想像されよう。ルーベンスの『鏡のヴィーナス』(1612-15)である。

しかしこれはモデルも鏡の中も同じ女でありリアルタイムの光と陰の芸術である。髪をとかす女は鏡に写る鑑賞者を見ており、この場に居合わせてしまった我々の居場所がちゃんとある。体躯は宗教画の聖母を描く伝統から逸脱のない豊満さであり、この女がヴィーナスではあっても現実の生身の女性である必然性はあまり感じない。神話世界の『アケロオスの祝宴』で花を持ってくる女の一人であってもいいほど浮世離れした存在だろう。良い絵だが衝撃をくらわすインパクトは感じない。

一方、ベラスケスのモデルはというと、彼女が着衣だろうが裸体だろうが当時まで主題として描かれることのなかった宗教画にあるまじき華奢な体躯だ。そう推察されてきたように彼のローマでの娼婦か愛人だろうか、素性はともかくも、『ラス・メニーナス』(女官たち)に描いた侍女の倭人に注がれたと同等の隠すことのない現実主義的な冷めた目線で肢体のほうを描写しながら、顔はというと聖母像の系譜にぼかしこんだ。生身の女だから、ヴィーナスに模す必要があったのだと思う。

女と鏡の間には200年余の時空が横たわっている。四次元の見えない断層が在るのである。僕に衝撃を与えたのはそれを構想したベラスケスという男の刃物のような知性だ。ルーベンスの知性が伝統に依拠したものなら、ベラスケスのそれは伝統を破壊、超越したものである。伝統は誰しもが学び取り、共有され得るもので、工房の弟子たちともヤン・ブリューゲル (父)とも共作は可能だったろう。しかしその破壊、超越はひとりの天才によらねばならないのは音楽史でも同じことだった。

吉田さんがブログ『草炎』に書かれている「画家にとって絵というものはいつが完成なんだろう?」という意味深い疑問に立てば、ベラスケスは女とキューピッドの足先を完成していないようにも見える。しかしローマ教皇の微細を極めた描写の完成度を見るに、それはあえてそう描いたと思うしかない。彼は鑑賞者の目線がどこに行くかまで見通しており、視野外になる部分は意図的にぼかすことでリアリズムをさらに先鋭にしたと思う(人間の眼の構造に従ったということだ)。

画家にとって、画題、着想、構想、なにを描きたいと思ったかがすべてと思う。それをキャンバス上のヴィジョンに落とし込む技法の巧拙はすぐわかるが、見事な絵画というものがどういうわけで衝撃をもたらすのか、それはしばし熟考しなければ理解できない。そしていつも至る結論は、その根源は技術ではなく、着想、構想に尽きるというものだ。陳腐なものからは高級な陳腐しか生まれない。稀有な着想は他人とシェアできない、アンサンブルやコンチェルト・グロッソにはなり得ないものであって、一人の人間に神様が降らせてくれたものでしかない。お独り様稼業の作曲家と似たもの同士に思うし、男性専業というのが社会的要因によるのか人体の構造上の性差によるのか、とても興味深い。

 

ネコと鏡とミステリー

交響曲に共作はない

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世の中で大事なのはEQである

2017 SEP 28 2:02:08 am by 東 賢太郎

入社すぐのころ、酒癖の悪い先輩に気に入られてよく梅田の飲み屋を連れ歩かれた。毎度明け方になり、行先はきまって場末のしょぼいやつであり、ママさんといって大阪のオバちゃんだからあけすけで口が悪い。半分寝ていてなんだったか覚えてないが、若気の至りで生意気なことを口走ったらしい。

「にいちゃん、IQは関係あらへんで世の中は。EQよ。」

「イーキュー、なにそれ?」

「あんたなんも知らんね、こころよ、こころ、ハートのことやで」

ときてすこし目が覚めた。注文してない濃いめのハイボールが出てきてゲーっとなったのを覚えている。

それ以来忘却の彼方にあったEQだが、ひょんなことで思い出した。ググるとIQ は Intelligence Quotient であって、EQ というのは Emotional Quotient らしい。知らなかった。ネットは便利だ、こういうのがすぐわかる。「心の知能指数」とある。なるほど、オバちゃんは正しかったんだ。

さてネットを見ていくが、英語はわかったもののEQとはなんぞやがよくわからない。wikipediaもさっぱり意味不明だ。そうしたら、

「あなたのこころの知能指数(EQ)の高さはどのぐらいですか?」

というテストがあって、テキトーにやってみた。すると、結果はこうだ。

いやいや、おばちゃんになじられたものの、あれから世間様に鍛えられて一人前になったんだ、そういうことなのか!一瞬気を良くして、その次にあった別なテストもやってみた。すると、なんと100点満点で65点。堂々の赤点である。う~んこのアバウトさ気に入ったぜ。こんな風に使えるな・・・・。

 

どうも大相撲は大一番になるらしい。

激しい張り手の応酬から、強力な足技である「モリ掛け」の奇襲で押し込まれた横綱安倍関。いよいよ俵に足がかかったところ、絶妙のタイミングを見計らって練りに練った引き技の「北朝鮮落とし」を決めた・・・つもりだった。ところが十両落ちが見えてきた前頭十四枚目の前原関が「野合返し」というプロレス並みの危険な荒業をくりだしたのである。捨て身の抱き着き技である。そして、またまた張り手の応酬だ。なにせこの取り組みには「小池屋のブタまん」の懸賞が30本もかかっている。こうなると力士というのは恥も外聞もないのである。

野合連合は数が足りない。候補者の質などかまってる場合じゃないのだ。ええい、そのへんのあんちゃん、ねえちゃん、みんな寄っといで。ブタまんたらふく食えるで~、ギインさんにしたるで~。ええかい、有権者のみなさん、この子はね、こう見えても「EQ150」なんやで、どや、すごいやろ。ふつ~でないやろ、こころやで、ハートがあるんや。

 

(PS)

一国の政治は歴史観をもって行われねばならない。政治家選びは断じて人気投票であってはならないだろう。

 

若者のための政治用語辞典

失われた20年とは何だったか(得たもの編)

ねこ型人間のねこ的生活空間

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「独りぼっち」が独り勝ちの時代

2017 JUL 29 17:17:47 pm by 東 賢太郎

会社は一人でやるのが理想。ノーベル賞学者のN先生と話していて意外な所で意見が合致した。先生の話は面白い。研究も経営も、結局は万事自分でやらないとうまくいかない。大企業で上へ行くとどんどんやらなくなって、最後は知らず知らず能力が衰えて何もできない人間になって終わる。僕も危なかったが、起業してすべてが無くなってしまって、トイレの掃除も自分でして危機を逃れた。

もちろん部下がしてたことも全部やる。やれば意外に俺も捨てたもんじゃないと思うぐらいできるし、そうしないとない発見がある。細部まで肌でわかってるから良いアイデアもわく。先生はそういう積み重ねでノーベル賞を取られた。企業に賞はないが得た利益、実績は全取りだ。自分でできない部分は社員に利益を分与して助けてもらう。でも、それでも、一人でも少ない方がいいのである。

もはやサービス業は大企業が優位な時代ではない。規模や社員数を誇るなど人海戦術か能力のなさを宣伝するようなものでジョークである。この10年、ネット社会化によって一気にパラダイム変換が起きた。それに経営者が気づいておらず、既存社員が大量の余剰人員と化した企業は軒並みアウトになっているが、あまりに当たり前の現象だ。一人で全部やりたい研究者タイプの人の就業先は、昔は製造業と相場が決まっていたが、いまやサービス業ができてしまう。彼らは従来のサービス業タイプにはあり得ないことができる。そうやって社会構造の大変革が起こりつつあるのだ。

話しは変わるが、TVで日ハム対ソフトバンクをつけたら解説が野村克也さんだ。彼は毒舌ということになってるが、真実をストレートに述べてるだけで、真実は普通の人には奇抜、毒舌に聞こえるのだ。1分2600回転するスライダーを「キャッチャーまではたかが2、3回転ですよ」というので嘘だろと計算してみたら大谷級の球速で2.6回転だった。聞きかじりだろうが、それを覚えてるということはその数字に何か意味を見出して思考したということだ。でなければへ~で忘れる。彼の言葉はなぜか僕には群をぬいて腑に落ちるが、そういうことかと納得。彼は理系の人だ。

それは観察、思考、推理、そして数字、計量感覚が尋常でないということ。そこにN先生とどこか似たものを感じる。こういうのは学校で習うことではない。天性の能力だ。僕がこれを感じた傑物はかつて5人しかいない。お二人(物理学者、プロ野球選手)のほかは、某経営者、某指揮者、某政治家、それだけだ(野村さんと政治家はTV等の印象。会ってない)。この経営者と他の人、この指揮者と他の人というのは、野球界なら野村克也と並みの選手、物理学界ならノーベル賞学者と普通の大学教員ぐらいちがうということである。

ごらんの通りで業界は関係ない。しかし経営も指揮も物理学もキャッチャーも総理大臣もきっと「独りぼっち」は共通だろう。私事になるがいま僕はたぶん人生最大かつ最高の案件を手掛け、証券業界の経験がないとできないが、しかし野村やゴールドマンはできないことをやっている。電子からどう光子が生じるか物理を勉強しなおしてる。大勢の力をお借りしているが、頭の中は独りぼっちで。人生いろいろ楽しい経験はしたが、やっぱり本業で大事を成して相応の評価をいただくのに勝る喜びは絶対にない。なぜならそれが僕のできる、世の中で最も高水準のことだからだ。

「投資学」のすすめ

 

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シューマン「子供の情景」(カール・フリードベルグの演奏哲学)

2017 JUL 17 23:23:58 pm by 東 賢太郎

大学のクラス会では全員が近況のスピーチをするが、これが大体が名簿順である。今回もそうだった。小学校から思い起こしてもかつてアズマの前だったのは赤松くん、朝比奈くん、赤塚くん、青木くんぐらいで、先生にすぐあてられるから早速に心の準備をするのだが、さすがに大学までそれをやると慣れてきてアドリブが上達したかもしれない。

今回もその場でひらめいた取り留めもないことをしゃべって終わったが、いつもそんなものだから内容は終わるとすぐ忘れてしまう。まして近年は物忘れというかそういう短期記憶の薄弱ぶりは半端でなく、その話題になると俺もだ、いやこっちはそんなもんじゃないぞとそこらじゅうでわけのわからん意地の張り合いをしながら、俺だけじゃなかったとほっとしてみたりもする。

しかし僕の場合、普通は覚えている昔のこと、長期記憶と呼ぶらしいがそっちも意外に消えていることが20代のころからあって、つまりボケてきただけではないと思われる脳みその構造的問題?もあることがわかっている。クラス会というのは僕にとって、消えた記憶を旧友たちに再生してもらう場みたいに思えてきた。えっ、俺がそんなこと言ったの、やったの?がけっこうあって危ない。恥ずかしくもあるが、ある意味新鮮で自分の再発見でもある。

この健忘症は、済んだことでもういらんと踏んだら即座に消して自動的に「いま」にフォーカスが切り替わる、たぶんそういうプログラム、頭の使い方の癖があって、だから周囲に迷惑をかける側面があるがそうでないと僕の脳内ハードディスクの貧弱なメモリー容量では「いま」に続々とのしかかってくる難題に処していくのが難しい。消去した分がそれに対処する短期メモリーに使用されて、だからどんどん捨てる健忘力の裏返しが集中力なんだと都合よく考えている。

ちなみに僕にとってブログは未来への記録であって健忘の補完、その時点で思ったことの備忘録である。記録として精密は期するものの、書いたらもう過去であり頭から消えていく。同様に、昔に社内TVに出た時の画像や大学で講義をした際のVTRなどが本棚のどこかに眠っているはずで、捨てずにとってはあるが一度も見たことがない。自分のレコードは聴かないという音楽家がいるがどうもそっちの部類の人間だ。

仏法の「諸法無我」がピンときたのも、自分も諸行無常の身であって時々刻々変化しているという教えが腑に落ちたからだ。しゃべっている最中だって変化は起きている。だから同じテーマで2回講義したら、論旨と結論は一緒でも語り口や持っていき方は違う。それはその学校の教壇に登って感じるトータルな雰囲気で決まるし、そこの生徒にぴったりな語りに自然となる。そうやってアドリブではあるがだいたいが結果オーライになってきたように思う。

このことはピアニストの話に置き換えるとさらにわかりやすい。例えばいま執心であるピアニストのカール・フリードベルグ(Carl Friedberg、1872-1955) をご紹介したい。彼はクララ・シューマンの弟子でありブラームスの全作品の手ほどきを作曲家から受けている。写真のポスチャーもどこかブラームス似である。シューマン、ブラームス、ショパン、ベートーベンはいずれ劣らぬオーセンティックな名品だが、その演奏家としての哲学がさらに興味深いのだ。彼にジュリアードで習ったBert van der Waal van Dijk の文章から抜粋すると、

how to sing on the piano(ピアノでどう歌うか)が彼の哲学のエッセンスである。打楽器でありヴィヴラートもかからないピアノで「歌う」のは無理だ、奏者の思い込みかウソだろうと一時は信じていたことがある。しかしフリードベルグのジュリアードでの言説で、そうではない、歌うことが可能なのだと知った。

彼は when musical ideas became complete and exciting during a performance, the music should be dominant even if a few notes might go astray. と言っている。要は、「演奏中に音楽を完全にかつ感興をもって感じ取ったなら、技術の正確さよりそっちを大事になさい、2,3の音符が迷子になってもいいよ」だ。ベートーベンと同じことを言っているが「演奏中に」というのが大注目だ。

さらに music is often conceived aesthetically by the composer before being written down(音楽は楽譜に書かれる前に美に関わる感覚的な領域から作曲家の頭に降ってきており)、since some keyboard instruments limit the imagination, one can silently “orchestrate” a composition on a larger scale(鍵盤楽器はどうしても想像力を制限するから、まず心の中でピアノ曲をもっと大きなスケールでオーケストレーションして聴きなさい)と言っている。

この「演奏しながら心に降ってきたものを弾きなさい」それが「歌う」ことであり本物の音楽になるのだという彼の説く精神の在り方は僕にとっては生き様のようなものであり深く心に刺さってきた。それには楽譜に書いてあるものをエステティック(審美的)に感じ取りなさい、作曲家の心に天からやってきたものは声や弦や管のクオリア(質感)を伴っていたかもしれない、それならその楽器に一旦置き換えて元来の美しさを感じ取りなさい、である。

ピアノという打楽器をガンと打ち鳴らす人が多いから女性に作品を弾いてほしくないと言ったブラームスの感性もそうであったし、クララ・シューマンはその意味では女性奏者ではなかった。そういうmusical ideas が、演奏中にcomplete したり exciting になったりする。フリードベルグはそれが「歌」になり、時としてドラムよりも打楽器的になるピアノを歌わせる方法だと言っているのである。

即興というのは、これほどまでに、訓練を積んだ人にとってはランダム(出鱈目)ではない、その場で「いま」降ってきて心を共振させる何物かなのである。それは「いま」に精神がフォーカス、集中していないと絶対に聞こえないものであり、僕にとっては、職業体験の中で感じてきたこととシンクロする。音楽でもプレゼンテーションでも愛の語りかけでも、自分を誰かによりよく伝えるということにおいてこれ以上の道はないと確信する。

自分ははからずも証券営業という他人を説得する職業についてしまってそれを自然にやっていたらしい、たまたまそういう頭の使い方の癖があっただけだろうが、話の内容よりも話している最中に心に降ってきたエステティックな感動(自分のサイドで起きたものだが)が、日本人であれ英国人であれドイツ人であれ、相手を揺り動かすのだという、それこそエステティックな驚くべき経験を何度もさせてもらった。

そういうものは、台本からはやってこない。プレゼンでペーパーを棒読みするなど、商売に失敗するためにやるようなものだ。だから音楽でも芝居でもそうだが、出てくる音やセリフは「肉声」にまで高まっていないといけないのだ。台本を読みながら演じる芝居やオペラはないが、ピアノも暗譜で弾かなくてはならないのは道理なのである。

ハンス・フォン・ビューローはリストの娘をもらったピアノの達人だが、記憶力も桁外れでピアノ譜など当然として管弦楽スコアも全部記憶しており、指揮台に立つと楽員にも暗譜で、しかも立ったまま演奏するように強要した。ベートーベンの第九がまだ広く知られていないころ、聴衆にも覚えさせようと全曲をもう一度繰り返し、途中で逃げ出せないように会場の扉に鍵を掛けさせたという。

これをファナティック(偏執狂)と呼ぶかどうかは人それぞれだが僕はまったくもってビューロー派だ。パフォーミング・アートにゆとり教育などない。間違えないように台本をなぞる芝居など、ぼんくら大臣の国会答弁に等しく初めからやめたほうがいい。ピアニストもしかりであることは当然だ。聴衆だって、コンサート会場でプログラムをめくりながらバッグの底の飴をまさぐっているようでは永遠に何も降ってこない、時間の無駄だ。

カール・フリードベルグの弾く「子供の情景」に耳を傾けてほしい。彼がクララの弟子ということではなく、虚心に心の耳で。シューマンの心に降ってきた姿が見えないだろうか?こういう演奏をどうのこうのと批評するだけ言葉も音楽も穢れる気がする。音楽は「する」ものであって、本来文字が入り込む領域はないのだ。フリードベルグの言説を借りるなら、音楽を聴く、演奏するというのはこういうものに精神の奥深くが浸りこめるかどうかだろう。

まあ僕がスピーチする場もクラス会ぐらいしかなくなってきたし営業することももういらないし、どうせあとがあっても20年ぐらいだ。これからじっくりと名ピアニストたちの紡ぎだす音楽の醍醐味を楽しんで生きたいと思っているが、それにしても思うことがある。

クラス会で「いまは晴耕雨読だ」という人が何人かいて、これが理想郷のように羨ましく響いたわけだ。こういう年齢になると第二の人生などと口をそろえていいがちだが、定年になると次も何か仕事をしないといけないなんて思ってないだろうか。どうもそんなのは惰性かいわれのないプライドか強迫観念じゃないかと思うのだ。貯金でも年金でも食えさえすれば、好きなことして遊んで暮らすのがいいに決まってる。

人生真面目に来た人ほどその強迫観念のトラップに嵌る。徹夜マージャンといっしょで、長時間すべったころんだをやって来てしまうと、情動に慣性が働いて今更抜けられなくなるのだ。朝になって千点勝ってようが負けてようが人生ではまったくもってどうでもいいことなのに、なぜか熱くなってこれを取り返すぞと血眼になって頑張ってしまう。そういう頑張れる自分に安心したりもして、そんな馬鹿な自分と知ってるのに、またやってしまう。

昔、喫茶店のテーブルにインベーダーというゲーム画面がはめこみであってみんな熱中した時期がある。ところが、いいとこまで攻め込んでえいっと弾を放ったら「ゲームオーバー」だ。弾がむなしく静止して貼りついたりして嘲笑っている。ちくしょーとなって次の百円玉が消えるわけだ。第二の人生って、これじゃないか?いつも千円はすってたが、別に点数取って勝ったところで何の得があるわけでもない。常に俺は何やってたんだろうとむなしくなって帰るのに。

インベーダーや麻雀ぐらいならいいが人生でそれをしてしまうと一夜では済まない。5年10年を知らずに費消してしまう。徹マンしてやっと2千点浮いたぞなんて喜んだ瞬間に「人生双六」の画面に「ゲームオーバー」が出てしまったりするんだ、きっと。僕らにもうそんな時間は残っていまい。それを言うなら僕も徹マンから抜けてないし死ぬまで仕事するぞなんて公言までしてる。いくら儲けたって終わりはない。頂上のない登山。どこかで息絶えるが、それが標高100mだって3000mだって、その時になったらそんなに違いはないようにも思う。

何となく、クラス会でスピーチしながら、「それは馬鹿かもしれないぞ」とエステティックなものが脳裏に降ってきて、その瞬間に「もう俺は金もうけはどうでもいい」とあんまり脈絡のないことを口走った。みんなこいつアホかと思ったかもしれないが、カール・フリードベルグ流には正しい行動なのだった。

 

(ご参考)

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

クラシック徒然草《癒しのピアニスト、ケイト・リウに期待する》

 

加計学園問題を注視すべき理由

 

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男の更年期障害

2017 MAR 12 14:14:21 pm by 東 賢太郎

「男も更年期障害があるんですよ、知ってましたか」

写真家のS氏にいわれたがピンとこない。そもそも頭痛と胃痛は感じたことがなく、人生初めて胃カメラを飲んだのが数年前だ。50才前後で万事衰えたが60才で変わったという感じはない。

「いえ、東さんはそういうのはもともと縁がないんです」

「そんなことないよ。体は元気だけど気力がね。欲しいものなし、やりたいことなし、行きたいところなしだ。すごいだろ。」

半分冗談のつもりで返したが、よく考えるとほんとうにそうだ。すごすぎる。もう数年前からそう。そういうものごとは世間にあまり残ってないし、知らないものや場所だって何となく想像がついてそれで満足してしまう。

この年になると日本人はなぜか中国古典に惹かれるようで一様に論語だ老子だとなる。実業界ではそれを知らないと人間格落ちだみたいな空気すらある。僕も読んではみたが、なるほどというのとそうでもないなと思うものがあって特にどうということもない。

一方で、全部がストライクゾーンのど真ん中にびしびし決まってくる、剛速球ではないが伸びと切れ味のある球で、よくぞ言ってくれた、有無を言わさず参りましたというのがある。相対性理論のアルバート・アインシュタインの言葉だ。

そのひとつにこういうのがある。

正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。

これには救われた。

僕は小学校時代を本能のおもむくままに遊びまくって過ごした。並みのレベルではない、母が毎週学校に呼び出されるほどだった。中高受験に連戦連敗してみて、その6年間まったく勉強らしい勉強をしていなかったのだということに気がついた。そこを塾通いで特訓してきた全国区のライバルはマラソンなら背中も見えず、だから「小児期の教育が欠けている」というコンプレックスは抜き差しがたくなり、それは今だってある。

その、自業自得で受け損なった教育が、アインシュタインの言うところの「正規の教育」だろう。

彼が数学、物理以外ができなかったことに安息を求めるほど僕はロマンチストではない。彼ほどの規格外の頭脳を持つ天才が「好奇心が大事だよ」と教えてくれていることに意味を感じるのであって、好奇心のみで還暦まで来てしまった者として一抹の救いどころか失敗だらけの人生に免罪符をくれる言葉であった。

人間、過去は自分に都合よく美化するメカニズムが脳にあるそうだが、僕のその後の学業成績はそれの通用しない悲惨なものだった。ひとつ父に感謝するのは、そこで俺は頭が悪いとは一切思わせず「正規の教育の欠如だったんだ」「俺はできる」と思い込ませたことだ。体よく他人のせいにしてくれた。

これはコンプレックスは残したが、結局は勉強したら模試の数学で全国1番になったから親父が正しく、正規教育の秀才程度になら劣ってはいないということもわかった。しかし、あの重要な6年間、なかったものはなかったのだという引け目はそれでは解けなかった。

「好奇心」。これはキーワードだ。アインシュタインの言葉のおかげで、まったく子供を押さえつけなかった成城学園初等科という小学校は好奇心の培養土としてはすばらしいものだったと思えるようになった。そればかりか彼はこうもいっている。

知恵とは、学校で学べるものではなく一生をかけて身につけるべきものです。

知恵は学べない。知識、情報とインテリジェンスの違いじゃないか。僕は文部省のご指導通りは学ばなかったが、好奇心の追求のし方とインテリジェンスの作り方だけは成城で遊びながら覚えた。好奇心は知恵の母だろう。鶴亀算の解き方なんか知らなくたって、それさえあれば独学で微分・積分が解ける。そんな武器を手に入れていたんだと思うとこれまでの重荷が少しおろせた気がする。

このことの何が大事かというと、好奇心いっぱいの幼少期を過ごしたおかげで僕は更年期障害と無縁だと、少なくともはた目にはそう映る人生を今のところ歩めているかもしれないということだ。鶴亀算を人より速く解いて東大に入って大企業で定年になって、俺は何だったんだというのとは違う人生を歩めている。あの小学校の6年間は今の幸運をもたらしたのだから、あって良かったのだ。

「あっ、東さん、それね、過去を都合よく美化して丸めてしまうっての、それ男の更年期障害の症状なんですよ」。

「おいさっきと言うこと違うじゃないか、そうなのか、やばいね、でもね孔子は年をとってから・・・」

なるほどそう言いながらわかった。論語や老子はそのためのツールなんだ。人の前であれを一席ぶてば更年期すぎた爺さんの慰めと自己肯定になるじゃないか、なんとなくこの人、年輪重ねて人生わかってるねと。僕は年輪は62あるが人生なんて到底わからないし、それをかくあるべしなんて語る勇気もない。どうも僕に論語は似合わないなと思う。頼るのはアインシュタインとモーツァルトの言葉だけ、当面のところそれで十分だ。

 

「未来」と呼ばれているものの正体

 

 

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ミストサウナの15分

2016 DEC 4 17:17:00 pm by 東 賢太郎

今年は色々あった。

そもそも男の後厄で良ろしくない年だ。正月のおみくじは末吉だった。四柱推命では4-7月が大凶で、8月は少し良いが9、10月がまたまた大凶であった。なるほど、お見事にその通りの展開であってあんまりいい記憶がない。

昔からコップが割れたりメガネが壊れたりするのが「凶兆」だった。

今年ほどそれが何度も起こった年もなく、そのたびに「これはヤバいかな」と感じた事々がことごとくダメになったのだから、僕においてはそれはもはや迷信の域を超えている。

きっと先祖の霊が「やめとけ」と言ってるに違いない・・・

仕事というと、今年はゴルフなら18番ホールが奇跡のチップインで喝采されながら「ボギーです」みたいな感じだった。飲みに行くと「なんかお忙しそうで」って、やたら曲げて林の中で苦労してただけだなんで「今日はボロボロですね」なんて方がほっとする。

長女がそのボロボロを心配してくれて一緒に布田神社にお参りして厄払いし、両親を見舞って元気なのを見届けてから横浜のスーパー銭湯「港北の湯」へ来た。カキフライ定食と甘酒かき氷に満足。ここは高濃度炭酸泉と天然ラジウムのミストサウナが売りだ。マッサージでくつろいで前後2時間の入浴だ。

いや、いいなあ・・・

そう独り言しながら2度目のミストサウナの時だった。「ラジウムの放射性ホルミシス効果」なんて壁の効能書きが目に入ってきて、しかしこれは微量とはいえ放射線被曝ではあるわけだよなと余計なことを考える。

あとでwikipediaを見てみて知ったがラドンに安全な量というものは存在しないという仮説(米国アメリカ環境保護庁)もあるようだ。

よくわからない・・・

キュリー夫人が調べたホルミシスをプラセボ効果(偽薬が効いてしまう)などというと不遜だが、どこか東洋医学的に思えてしまうのも事実だ。なんかよくなりそうな気がするし漢方もそれがあると思うが、「気がする」と人間に「良い気」をもたらして、それで病が良くなる。「気」こそ原因なのだ。

要するにそれじゃないの?

インフレとデフレ。貨幣の交換価値はおんなじなのに社会現象としては違う結果をもたらす。デフレは世の中を暗くする。インフレは「見かけの収入が増えるだけの偽薬」だが、プラセボ効果で人々の気を軽くして明るい世にしてくれるのだ。う~ん、ラジウム温泉で原理を発見してしまったかもしれない。

「病は気から」、「信じるものは救われる」、「なせばなる」、そうか・・・

すると冒頭の「コップが割れたりメガネが壊れたりするのが凶兆」もそうだったかという疑問が生じるではないか。「やばい」って思うと気持ちがデフレ的になる。すると行くべきものが行かなくなっちまう。あれれ、先祖の霊はどこへ行ったんだ?

すると我々は遺伝子を乗せたただのヴィークル(乗り物)であって、DNAに書いてある命令が五欲、煩悩となってるって、これやけに腑に落ちるなあという気がどこからともなくしてくる。

日々それで喜怒哀楽、勝った負けた儲けた損したなんてバカやって、プリセットの寿命が人生劇場になってて、いつか万華鏡みたいにわけわかんない劇が終わる。ああばかばかしい。何も考えない人生のが楽だ。

ヴィークルは何も考えない。

いまこうやって考えてるのはウソの自分だろう。五欲、煩悩。あるのはそれのみだ。それにハイハイと従っているとどうなるんだろう?自分を駄目にする根元と仏教は教えるが、健康にだけはいいような気もするんだが・・・

こうして世の中はますますわかんなくなる。熱くって汗だくになって立ち上がると、「一回の入浴は15分までにしてください」と壁にあった。

 
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もの忘れ(その2・実践編)

2015 DEC 25 23:23:55 pm by 東 賢太郎

きのう「もの忘れ」の記事を書いた。そうしたら今日、ある会社さんの支店にハンコと通帳をカバンごと忘れてきた。実践編であった。信頼できる担当者のLさんがすぐ電話をくれて自宅に届けてくれたのでよかったが、もう我ながらどうしようもない。

ハンコをついたらその瞬間に次にやらなくてはいけない仕事に頭が100%行ってる。だから僕はそういうものを持つべきではないし、もともと自分を信用してないからなるべく信用できる人にまかせたい。

今日はもうひとつ仕事があったわけだが、その二つを終えれば今年は終わる。別途走っていた半年勝負の案件は今日、静かに決着した。これはソナーがいままで仕上げた最大のディールである。そして、10月に手帳に書いた「今やるべきこと」がやっと全部消える。

この1週間のあわただしさは半端でなく、過労死してもおかしくなかった。多くの方々のお力を借りて綱渡りの中を次々と、幸運にも助けられて、何とか切り抜けられるのかもしれない。これを間近で見ていたS君いわく「持ってますよ」だが、僭越ながら自分でもそう思う。

こういう時は麻雀でいうと単騎で5面待ちに勝ってしまう。最後の1枚の西単騎がオーラスで出てしまう。逆に何をしてもそんなのに振り込んだ時期もあったからこの勢いは絶対に消すわけにはいかない。

前も書いたが僕はツキのある人としかつきあわない。ツキはあげることもできるがもらうものでもある。それはつまらない手に振り込むと消える。だから何をしてでもそうするわけにはいかない。そのことの損得だけではないのである。だからこの1週間ほど、自分でも鬼気迫る状態にあったと感じる。

 
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