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カテゴリー: ______気づき

クラシックはこころの漢方薬

2019 JUL 19 11:11:55 am by 東 賢太郎

仕事にかまけて10日ほど筋トレをさぼった。おそるおそる測ってみると21だった体脂肪率は29に戻って体重も80をうかがう。ベルトの穴でわかるが腹囲も立派に復活している。そんなに飲み食いもしてないのに・・・。

子供のころは小さくてやせっぽちだった。野球を始めてもそう。高校入学時で身長は170になったが体重は58だった。先輩に食えと言われて毎日無理して食べたが、せいぜい60にしかならなかった。

それがなんでこうなるんだろう?

基礎代謝が減ってるので同じだけ食べても昔より脂肪の「貯金」ができる。お金なら結構なことだが腹がだぶついてみっともないしメタボ症候群で寿命が縮みますよと医者に脅かされる。だから仕方なく筋トレとなったわけだ。

しかし筋トレが楽しい人はいいが僕にはどっちかというと退屈な苦役である。さぼると脂肪が増えることがわかったから一生やり続けないといけない。計略通りにそれで寿命が延びたとしよう。でも必然的に苦しむ時間も増えるのだ。

そこまでして長生きするか?これは江戸時代までの人にはない選択肢だ。みんな40ぐらいで死んだから。今より粗食でもあったし砂糖も庶民には無縁だったし、そもそも年齢からしてメタボなどという懸念はなかったろう。

人間の体は一個の「システム」であるといわれる。臓器や筋肉が各々に指令を出しあって全体がうまくいく。水分が足りなければのどが渇くしエネルギーが足りなければ腹が減るし疲れれば眠くなる。指令がどこから来たか脳は知らないから僕らは自覚がないが、ともあれちゃんと的確にSOSは来るのだ。

では、それがやがて自分を殺すというのにどうしてメタボのSOSは来ないのだろう?素人考えだが、我々の進化の過程でその事態は想定されてなかったのだ。圧倒的に長い飢餓の年月のなかで、脂肪は蓄えろという機能が発達した。野生動物の一生のほとんどの時間が食物の獲得に費やされるのを見ればそれがわかる。

人類は長寿を手に入れた半面、脂肪の貯金を作れという自らの細胞レベルのディファクト機能と戦う羽目になった。それが本能に逆らう楽しくない時間を生む。その累積が長寿であるなら、長寿は何のためにあるのだろう?

信長が好んで舞ったという「敦盛」。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」。人生が50年という意味ではない、下天は天上界のうちすべてに劣っている天だが、それでも人間界の50年はそこの一昼夜でしかない。儚いものだと謡っている。

では信長当時の日本人の平均寿命はどのぐらいだったか?ごらんの通り40年もなかったし大正時代までそれはほぼ変わっていない(新生児の余命という統計だから幼児の死亡率の差はあろうが)。

それが2倍の83という想定外の数字に急騰したいま、我々の体のディファクト機能はバージョンアップされていない。その結果ひきおこされる細胞レベルの誤作動の通称が「メタボ」なのだと考えればわかりやすい。

人生100年時代。年金の原資不足も極めて深刻な問題だが、我々の体の奥底では「楽しみの不足」というもうひとつの、ひょっとしてもっと深刻な問題も静かに進行しつつある。なんのために生きてるのかという悩みが増えるということだ。医学の進歩のおかげで頑張って生きようと思えば長く生きるかもしれないが、精神的であれ肉体的であれ、その気持ちと努力は苦しむ時間も増やしてしまうし、楽しみも一緒に増えないのであれば何のご利益があろうかというものだ。

自殺が増加しているが、この悲しい現象はいつも社会問題という側面から検討されている。しかし長寿化という本来めでたいことが心の内面に及ぼす負の効果という側面はあまり研究されていないように思う。苦しむ長寿を害であるとディファクト機能が認識すれば、SOSは自殺に向けて作動するかもしれない(それは本来の機能として正しいのだ)。表面的には経済的、社会的問題という衣装を着ているが、本質は心の闇の中だからどうかはわからない。

だからこそ僕は「クラシック音楽を楽しみましょう」と声を大にして言いたい。もちろんクラシックでなくても結構、しかし、クラシックというジャンルには無尽蔵な奥深い楽しみの宝庫があって、好みの曲を見つけて聴きこめばその努力の何倍もの「幸せのごほうび」を約束してくれる。それは2つ3つと自然に増え、やがて人生の伴侶にさえなる。聴くのに何の知識も経験もいらないし、必要なのはやろうという気持ちだけだ。

僕自身、そのご利益のおかげで生きている。例えば、このところ疲れて気落ち気味であり、だから筋トレをさぼったわけだが、こういう時に「効く」のがシューマンの交響曲第4番だ。昨日、音楽室にこもってたて続けに4番をかけた。もちろん真剣に聴きとめる。この曲にものすごいパワーのあるのは原型となる「交響的幻想曲」を書いた時分のシューマンの精神がおそらくそうだったからで、面白いもので作品には作曲家の魂がこもっていると僕は真面目に思っている。だからこんな時に悲愴交響曲を聴くのはご法度なので、薬効は心得る必要があるが。

クラシックは音学でも教養でもセレブのお飾りでもない。僕はこころの漢方薬と思ってる。4番にひたって、あまりの気持ちよさに憂さは解消。よく眠れ、朝も信じられないぐらい快適に目覚めて、それで久しぶりに筋トレをやろうという気にもなったのだ。半世紀つきあって音の漢方薬を200種類持っている僕は何が起きようとこの手がある、でも、確信しているが、皆さんも必ずそうなれる。曲は何でもいいし、食べ物と一緒でそれぞれのお好みだ。その気になった瞬間から、出会いを探すすばらしい旅が始まるだろう。それも楽しみのうち。youtubeで無料できる。20~30薬を見つけたら?もう人生に悲観しているひまなんかないだろう。

 

 

 

緒方監督、徹底してぶれるなよ

2019 JUL 11 18:18:12 pm by 東 賢太郎

監督で勝つ試合なんて滅多に無いです。まあ1シーズンやって2つか3つ有れば良いほうです(野村克也氏)。

では監督で負ける試合は何試合あるんだろう?

答えは「不明」である。なぜならそれは「監督が現実にやらなかった采配の方が結果が良かった試合」ということだが、やってないのだから結果などわかるはずもない。「勝つ試合」も同じことであって、それを理屈からではなく「2つか3つ有れば」と自分の実績を否定しかねないのに極小に表現した野村さんのリアリズム感覚には敬意を表する。

広島カープが11連敗し、緒方監督が叩かれている。その采配にはストレスを感じ、ここでそれはないだろうとテレビを観ながら怒る自分がいる。しかし「あのチャンスでAを代打に出しておけば・・・」と言っても、それでAが打ったという保証はない。仮に打ったとしたら、「あそこでAを起用した好采配だ」と言ってもいいし「あの緊張する場面で打ったAがお見事」と言ってもいい、どっちも同じだけ正解なのである。つまり、その議論は議論にもならない、どっちでもいいお茶の間の余興でしかない。

理を通そう。「監督で負ける試合」なんて存在しない。ではなぜこんなに負けるのか?弱いからである。ではなぜ5月に20勝もしたのか?強いからである。ではなぜそんなに短期間に強かったり弱かったりするのか?不明である。監督で勝つ試合も負ける試合もほとんどないのだから原因は別なところに「あるはず」であって、もしかして監督はそれには無力であって、勝とうと采配はしているがそれはスタンドで勝ってくれと祈る競馬場の客と変わらない、負ければ馬券を破って消えるだけの気持ちなのではないかと見えないでもない。

彼はリーグ3連覇した戦績を持つ。理由は強かったからだ。その強さがどこから来たか。それが前任者の置き土産なのか黒田なのか新井なのか石井なのか丸なのか?いずれでもあろうが、いずれだけでもない。なぜなら、そのタイミングで緒方が監督に選ばれたことも理由の一つであった可能性は誰も否定できないからである。運が良かったのかもしれないが、結果が出なければ「運」というのはなかったことになるわけで、だから運も実力のうちという言葉が出現するのである。これから何連敗しようと、彼の功績を否定してしまうのはフェアではない。

戦いのみならず人間にはその時流に合う人と合わない人がいる。彼は去年までの時流に合った人であったし、だから結果が出たと考えるしかない。もしもその潮目が変わっているならば彼にはどうしようもないことだ。緒方を批判するよりも耐えていることを評価してやりたいし、潮目の怖さを知って自分の糧にすればいい。僕はビジネスで40年戦ってきて、「勝つ者ではなく、負けない者こそ強い」という結論に至っている。今年いくら負けようと、それをもって負けとしなければ敗者ではないのである。

彼の言動から察するしかないが、3連覇できたのは「自分たちの野球をしたこと」と考えているのだろう。だから現在も「自分たちの野球」を続けようとする。なんの異論もない。なぜなら、弱いのなら「他人の野球」をやっても同じほど負ける可能性があるからである。それならばどんなに叩かれても続けた方がいい。少なくともお茶の間の余興は盛り上がって興行成績には貢献する。耐えて復調を待つことだ。軸がぶれて負けても客は褒めない、見捨てて余興は終わる。そこで彼の役目も終わる。ぶれないことは正解だ。

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指揮者は何をしているか(野村とみずほの視点から)

2019 JUN 16 0:00:34 am by 東 賢太郎

オーケストラの指揮者がポディウムで棒を振って何をしているか、やったことないので想像もつかないが、証券会社の集団を指揮することは30年やってきた。野村からみずほに移籍させていただいた時はそのキャリアの途中であり、120名の集団をいきなり指揮しろということだった。すでに500人を指揮していたから人数はどうということもない、問題は、みずほ証券は証券会社ではあるが部下になる人ほぼ全員が銀行出身者であることだった。よそ者の指揮棒についてきてくれるとは一概に信じ難いという不安があった。

当時のみずほ証券はというと、株式営業部門だけは野村出身者の集団だった。そのため僕は巷ではそこへ行くと思われていたらしく、全然違うのだがそれが平穏だからあえて黙っていた。話はそういう風に静かに進んでおり、移籍が発表されるまでその部門は役員まで誰も知らなかったはずだ。資本市場グループというプライマリー部門に証券出身者を外から連れてこようとなると興銀、富士、第一勧銀3行の本丸の力学に関わるから色々あり、ご判断はコーポレート銀行頭取と横尾現ソナー会長(当時、みずほ証券常務)が下したと後日うかがった。

周囲の銀行員というと親父しかいなかった僕にとってもこの決断は度胸が要った。当時の心境はニューヨークからコロラドに電話がかかってきていきなりピッチャーをやれというこれと同じようなものだったが(野村證券・外村副社長からの電話)、この時は人生の岐路に立ったわけで体調が変になってしまい、神山先生にお世話になるのはそれがきっかけだった。満を持していざ着任してみると、ポツンと一人で座ってまるで学期中に他県からやってきた転校生みたいであり、空気になじめないことは我ながら滑稽ですらあった。一対一でも会議でも意図がうまく伝わらず、移籍は失敗と思うしかなかった。

それでも結果的になんとかなった理由は2つある。ひとつは “コンサートマスター” が優秀だったこと。彼は横尾さんの指示で僕にぴったりついて変に浮かないように調整してくれ、会議で意味不明の指揮棒を振ってもちゃんとコンマスがフォローの指示を出してくれた。もうひとつは銀行組織に特有の、証券会社にはあまりない「微細な感性」とでもいうものだ。これは何とも文字にならない。彼らには当たり前のようだが新鮮だった。上司になるとこちらの一挙手一投足が彼らのスタンダードにおいて観察、吟味される。何か月かすると、証券語は相変わらず通じないのに、彼らは僕の意図が見事にわかるようになった。これがいわゆるソンタクだろう。

この体験は痛烈で忘れられない。そういうマネジメント・ポストでの異動経験というと拠点長としてフランクフルト、チューリヒ、香港の異動はあった。しかしそれは同じ会社の中でのことだから行った先の部下はそれなりに僕がどういう人物かは既によく知っていた。別な会社となると話はまったく異なる。しかも銀行の人たちは証券業という新しい世界へ移動や転籍でやってきていて、そこにその世界のプロというふれこみで落下傘でやってきた僕への視線は厳しくもあり、お手並み拝見という冷ややかなものでもあった。

スザンナ・マルッキというフィンランドの女性指揮者のインタビューを見ていたら興味深い言葉があった。ニューヨーク・フィルハーモニーに客演して振ってみて、彼女はオーケストラに musical intelligence があるというのだ(9分13秒)。

想像でしかないが、みずほ証券という ”オーケストラ” を指揮して感じたものに似ているかもしれないと聞きながらふと思った。僕は部下に細かな指示をすることなくヒントやサジェスチョンだけを事前に与える。すると彼らはあるべきものを察して準備し、当日の顧客へのプレゼンでそれをもとに僕がインプロヴィゼーション(即興演奏)をするという相乗効果あるパターンがうまく回ってマンデートがとれるようになった。オーケストラの musical intelligence と彼女が表現したのはそういうものではないか。ただマルッキさんのケースと違って僕の場合は力不足で本領を発揮できてないから皆が銀行組織のインテリジェンスで支えてくれていたという形でそれがワークしていた。いま振り返ればやっぱり「客演の指揮」だった。

そう思っていたら先週、志あって他社に移籍したり起業をされている野村証券出身の元気な若手4名が訪ねてこられた。20~30代。話しているうちに懐かしくなってきて独演会となり結局2時間もお引止めすることになってしまった。別に後輩だからいつもそうなるわけではない、今回の皆さんは自分で新たな道を行く決断をされ退路を断っていて、その理由をひとりづつ伺ってなるほどと思った。いまどきの若者に転職、転社は普通なのだろうが、彼らは僕らのころだったら一番やめないタイプの人たちである。だから面白くなってしまったのだ。僕もおんなじで50まで大好きな野村にいた。会社が嫌いでやめたわけではない。25か50かはともかく思いは共通だったということだ。そういえば・・・こういうオーケストラを僕は20年も指揮していたのだ。

野村もみずほも、経営は一筋縄で行かない時代になっている。預金もローンも証券も投信も、同じものが大量に売れて会社が存続できることはもうなくなるだろう。情報はネットで取得でき、執行も安価だからだ。月並みな商品やどこでもあるインフラ使用に高い代金を払う人は確実に減っていくのは「ことの本質」であり、value for moneyを消費者が吟味する時代になってきているのだ。だから僕は販売、執行、情報提供はビジネスとして興味がないしやる気もまったくない。金融で生き残るのは intelligence を売るアドバイザーである。その能力のある人は「本物主義」であるのは当然のことであり、これが何を言っているのか分からない人はAIに淘汰される前に失業する。そして、そういう社員しかいない会社も、どんなに大きくても消滅するだろう。

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「銀行で投信を買うと46%が損(金融庁)」のインサイド

2019 JUN 13 7:07:05 am by 東 賢太郎

先日、野村証券で現役の後輩と新幹線でいろいろ話したら、会社はもう様変わりになっていて驚いた。時代というものはあるが、それにしてもあの会社がそこまでなるかというほど「普通の会社」になっているではないか。僕がいた最後のころ、こう感じた。「いま入社試験を受けたら落ちるだろうな」。そのころ僕は金融経済研究所の部長であり、100人ぐらいのアナリスト、ストラテジスト全員にこう言っていた。「君たちの調査レポートはまったく面白くないね」。

僕は調査部門の経験はない。レポートを書いたこともない。そんな上司にそんな事を言われたらむかつくだろうが彼らはプロなのだ。僕はそのレポートで商売してきたプロなのだ。プロとプロの対決であり、それは相手が何百人だろうと僕が勝つに決まってるのである。上司だからではない。ユーザーである僕が面白くないものは売れないからだ。面白いというのは儲かりそうだということである。損するかもしれないがひとつ話に乗ってみようとお客様が思うかどうかだ。それがかけらもない、干からびた学術論文みたいなもの、情報端末よりすこし早耳情報ですよみたいなものは単なるクズなのである。

彼らはすべて超高学歴で頭脳明晰だ。しかしエリートはつまらないのだ。こと株に関する限り話していても面白くも何ともない。いや、向こうもそう思ってただろうから「面白い」がバロメーターというより「自分で儲ける能力があるのかどうか」と言った方がフェアだ。彼らが独立して自分で株で財を成せるか?賭けてもいいが全然無理だろう。そういう旗揚げをしてみようというタイプは皆無だしできたという話も聞いたことがない。従って、それでは何のプロなのか未だに不明だがそういう人に株のアドヴァイスをしてもらおうというお客さんがいるはずないのは宇宙の原理といっていい。きっと、こういうことの行く末にプロがどんどん普通の人になっていって、会社ごと普通という姿が待っていたんだろう。

ジョージ・セルがクリーブランド管弦楽団に着任して団員を7割クビにしたが、自由にしていいなら僕もした。あるいは3割を連れて調査会社をたちあげた。当時、野村の調査は一流ということになっていたが世界レベルでは7割はアマチュアだった。能力とはいわない。彼らは官僚か銀行員ならおそらく僕より優秀だ。でも株式ではアマチュアなのだ。それは日本の運用業界の縮図であって、そこで7割の運用者が求めるサービスもそうなのだ。だから同類の「普通の人」が求められ、食っていけてる。これが野村から情報をもらって運用している「プロ」側のインサイドに他ならない。だから「銀行で投信を買うと46%が損(金融庁)」という事態になっている。どなたもすっきりとご納得いただけるのではないか。しかし、そういう程度の投信を買ってしまう大半の日本の投資家も無知すぎる。百年安心年金などというのがおお嘘なのは明々白々たる事実なのだから投信を資産に組み入れること自体は正当な資産防衛だが、大事なのは真実を語って顧客側に立ってくれる営業マンから買うこと。それに尽きるし、その吟味こそが正しい資産防衛だ。

 

(本件のようなことに至ってしまう「事の本質」はこのブログに書いてあることである)

情報と諜報の区別を知らない日本人

 

 

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“賢い女性”を持て余す日本(上野千鶴子さんの東大入学式祝辞)

2019 APR 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

上野千鶴子さんの東大の入学式スピーチが話題らしい。読んでみると、

知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です

とたしかに良いことをおっしゃっている。知識は知ではない。

東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい

これも、まったくその通りだと膝を打った。海外に出ればそのブランドは無きに等しい。僕は16年外国で苦労してみて、ブランドは自分なのであって、それなしではどこの国でも通用しないことを知った。ということは、実は日本でもそうであって、最後に助けてくれるのは「知」しかない。

東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました

これはどうか。女性が少ないのは別に東大のせいではなく、門は万人に開かれている。学生に言っても仕方ないと思う。

それは世間一般にほぼ普遍的に存在するジェンダーの問題で、どっかの医大が女子と浪人を差別していた動機はそれだったようだが、東大の場合は単に志願者の男女比が1:1でないだけであって今に始まった話でも何でもない。受験しないのだから増えるはずもない。その底流にジェンダー問題が潜むというご趣旨であり、未来のリーダーとして心してかかれというなら、それはそれで同意するが。

しかし、桃太郎はこう始まるのだ、「おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」。500年も昔の話である。なぜおばあさんが洗濯なんだ、しば刈りではいけないんだ、男女差別だろうと目くじら立てる人はあまりいないのも事実であって、差別なのではなくそれが古来からの男女の好ましい分業の姿であり、自然にやってきたことだと思うしかない。日本人の主食がなぜ米だといって、自然にそうなったとしか説明できないような性質のものなので、東大生の目くじら程度でそう簡単に変わるとも思えない。

日本という国がいかに変わらない、変われない国かを痛感した経験がある。僕ら1980年代の留学組は「これからはグローバル時代だ」といわれて尖兵の気持ちで米国へ行った。日本企業もやがてそうなった。しかし、あれから35年、日本は「なんちゃってグローバル祭り」の残務整理にさしかかっているのだ。千年たってもあのころ夢想した国にはならないと今は確信を持って言える。だから僕は海外派の道はばっさりと捨て、国内で「ちょい英語うまいオヤジ」になる軌道修正をしたわけだ。流れに逆らうより環境適応。それはシンプルにsustainableな人生を送りたいと思ったからだが、隕石衝突後の恐竜と哺乳類の運命という中学生でも知ってる「知」に従ったと言えないこともない。おかげで生き延びた。

上野さんは東大の男子学生はもてますというが、時代が違うのかそんないい思い出はなくてずっと慶応のほうがもてたし、東大女子とつきあったことはない。そもそも文Ⅰには20人もおらず駒場のクラスはゼロで男子校状態だったし、片山さつきや福島瑞穂みたいな面々に太刀打ちできたとも思えない。しかし、彼女らは優秀なのだ、とてつもなく。なるほどそうか、一つだけ手があったかもしれない。ヒモになることだ。東大女子は学歴を隠す必要なんて毛頭ない、堂々と社会に進出して稼いで、男は養ってやる。格下でも優しくて尽くしてくれて、精神的安寧をくれるようなタイプを探すといいのかもしれない。まあ僕にそのメはなかったが。

ちなみに東大の女子比率はこうだ(2019年)。歴史的にほぼこうであり違和感はない。

理系:文系が57:43で人数は理系のほうが多く、最も多い理Ⅰの8.1%が全体を下げていることを見ると、数学が難しいから女子は敬遠してるのだという巷の推測が的を得ているように思う。僕のころ4問中1問解ければオッケーといわれた文Ⅲだけ3分の1が女子と突出して多いのもそれで納得である。上野さんによると理Ⅲは男女各々の合格率比の値が1.03(男が僅差で上)だそうである。ということは、全国模試一桁クラスの、数学もめちゃくちゃできる優秀な女子志願者が男子志願者の18%ぐらいいたということを意味するが、18%「も」いたと考えるか、18%「しか」いなかったと考えるかは何とも言えない。以下論考する。

ジェンダー(gender)とは単に性差の意味であり、それが「問題」かどうかを問題にされているようなのだが、僕自身は個人的に知っている範囲という限りにおいて、女性に学業で勝てないと思ったことは駿台予備校にいた1人の女性を除いてないし、成績順に並ぶ周囲に女子はひとりもいなかった。その背景には「女だてらに勉強なんて・・・」という日本の社会風土の影響が色濃くあるという現象的には不平等なものが存在していることは理解しているし、むしろ、社会で “賢い女性” を持て余すような男がバカなだけなのだというご趣旨ならば100%賛成である。僕自身、女性の社会進出は徹底推進派だし、それが国益にもなると信じるし、我が社は優秀な女性たちの支えなくして存立しない。

しかし、女性は差別されている、犠牲者だ、だから・・・という論調には組することはできない。その議論は18世紀からあるが、人種差別と同様に万人が納得する解決が得られたという証拠はなく、ジェンダー(gender)とは本来はニュートラルな定義であり、我々は男女が相互に補完する本来的な人間関係のあり方から自由であることはできないと考えるからだ。男は子供を産めない。社会というフレームワークの中では女性の産休が出世のハンディだといえないこともないだろうが、家庭というフレームワークの中ではずっと家にいて授乳や育児をすることのできない男性は子供との1対1の愛情を形成するのにハンディがあると言えないこともない。仕事と家庭とどっちが大事なの?と問い詰められるのは常に亭主だが、その選択肢を持っているのは実は女性だけである。

僕は女性しかできないことにおおらかな敬意を持っているし、同様の青年男子は増えているように感じる。もしそうならば、これからの世の中では、ハンディは男女の「創造的分業」で解消できるのではないかと思っている。「女子は子どものときから『かわいい』ことを期待され、愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手(男性)を絶対におびやかさないという保証が含まれている、だから東大女子は校名を隠すのだ」と上野さんはいわれる。東大女子は入れないのではなく、今は知らないが、正確には特定の他校女子と設立されたサークルがあったことも事実であるし、校名を言うとひかれてしまい女子はそれをハンディと思うのはわかる気がする。

しかし、それを認めつつも疑問が残る。もしご説に従って、①女子の東大志願者が少ない理由が親や社会の性差別による制約であり、②統計的には偏差値の正規分布に男女差はないと仮定するならば、理Ⅲを狙える学力があるのに受験しなかった82%の女子が日本国のどこかに存在するはずであるが、①を特段に差別とは思わず「かわいく生きたほうが得だもんね」という女性の特権的かつ環境適応的に合理的選択をした人を含んでいるという結論に何故ならないのかをどう説明されるのだろうか。それ以前に、そもそも「82%の女子」は本当に存在するのだろうか?顕在化していない学力(能力)を、理由は何であれ、「あります」といっても相手にしないのは差別でなく世の中の常識であり、努力に対する公平性を担保する厳然たるルールでもある。

それだけで愛され、選ばれ、守ってもらえる保証があるなら相手の足の裏を舐めてでも『かわいく』したい男は世の中に掃いて捨てるほどいる。豊臣秀吉でさえ出世の手管とはいえそれをした。しかし、子どものときから『男らしい』ことを期待され、愛し、選び、守れと教育される男にはそんな道はルーティンとして用意されているわけではない。仮に、一部の特殊なアノ道があるではないかというマイノリティー・オピニオンを最大限に尊重してみたとしても、『かわいい』志願の女性の18%もの数の男が夢をかなえるほど需要があろうとは到底思えないのである。そういうあふれた男にとって女性の進出は脅威以外の何物でもない。東大女子であろうがなかろうが「男を絶対におびやかさないという保証」などないのだからパスポートとしての学歴ぐらいは持っていて悪くないし、まして隠す必要などない。

だから女性は、理Ⅲに受かるような人は堂々と正面突破すればいいし、どなたもが女性しかできないことを男との分業としてプライド高くハイレベルのパフォーマンスでやれば男は手も足も出ないのであって、要は、家庭でも職場でも、「創造的分業」のメリットを男に認識させればいいのである。同じことをしているのに女性だと評価されないと嘆くのではなく、評価されるに違いない違うことをするのである。

男子学生には、上野さんの言葉を引用しつつこう伝えたい。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。

まさにそう思うし、さらに加えるが、東大を出たぐらいで未知の世界で一生安泰に暮らせるほど世のなか甘くないよ。男も学校名を言うとひかれるよ(女だけではない)。東大がいない組織に入ると暗黙のいじめにあうよ。それがこわいなら官僚になるしかないがブランドはなくなるよ。女性は弱者のままで尊重されたいというフェミニズムも理解しないといけないし、男はつらいよ。やさしいだけのエリートなんか世界史上ひとりもいない。世界のエリートと伍して生きるには絶対的になにかで強いことが必要条件だから、本当に大変だよ。徹底的に突っ走ってください。

最後に提唱したい。男も女も会社も国もwin-winになる「創造的分業」について。何が創造的かは千差万別だが、例えば僕の会社は秘書を2人採用し、各々の能力と個性で男ができない部分をバックアップするフォーメーションが1年かけて自然にできている。それは実務的なものだけでなく安心感という精神的なものもある。そのおかげで会社のパフォーマンスは上がっており万事うまくいっているのだから「後方支援」「お手伝い」という階級的視点はない。1+1が3になって全員がハッピーになるから創造的な分業であり、男女なく同等な評価をさせていただいている。国中の男がこう考えるようになれば日本国だって1+1が3になって何も悪いことはない。

 

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財務省キャリアに東大法学部ゼロ

2019 APR 6 0:00:59 am by 東 賢太郎

「おい、財務省キャリア入省に東大法学部がゼロだったらしい、財界に激震が走ってるぞ」と一昨日ある経済団体トップの方からききました。逆に増えたのはコンサル系、ファンド系だそうです。そのど真ん中にいて言うのも些か自虐的ですが、「日本の屋台骨が年々おかしくなってきましたね」とお答えしました。

そのココロはというと、「万人は万人に対して狼」(または「万人の万人に対する闘争」)という自然状態を克服するため社会的な契約を結んで国家に主権を委譲している(ホッブズ「リヴァイアサン」)と、単なる教養やお題目としてではなく、真剣に考えているからです(僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源)。僕は政治、行政にプロフェッションとしての関心も能力もないので、平穏な市民生活を送れるよう狼、闘争から守ってもらうために政府と官庁に税金を納め、優秀な人たちにその責務を負っていただき、それならば主権が制約されることをやむなしという契約をしているのだという観念をもって日本国で生きています。だから税金が下がらないのに官僚の質が劣化するとしたら俄には認容し難いのは当然のことなわけです。

ホッブス『リヴァイアサン』表扉

官邸主導も結構だが、官僚の頂点の財務省でそのまた頂点の次官や局長にまで登りつめても政治の人身御供でああいうことになり、お茶の間の下世話な勧善懲悪ネタに飢えたマスコミの格好の餌食になって国民の理解も得られないどころか悪玉として記憶されてしまう。苦労して勉学しながら入省した挙句に大臣が人の税金で勉強したまで言ってくれる。 後輩たちは優秀なんです。たくさんの選択肢をもっています。想像するに、漢字も読めない上司にそんなことを言われて辞書に書いてない人生航路を行くのはアホらしい、それならば税金を払って守ってもらう側で能力を活かしたいということなのでしょうし、そう考えるならそれがいいよ、税金をたくさん払って「お釣りはいりません」というぐらいに国と貸し借りない人生を歩めばいいよと先輩として賛意を送りたい。読んでない人は「リヴァイアサン」をお読みなさい。

森友決裁文書改ざん問題の真相

昨日は韓国のソウルで中村修二先生にファイナンスのコンサルとして助言を申し上げていましたが、人の税金で勉強するのがいかんなら「税金を1円ももらわないでノーベル賞を取ったのは私だけです」との中村先生のお言葉をここでお伝えするので官邸は麻生大臣の論旨を真摯に受け止め、先生に国民栄誉賞を検討すべきでないか。ところがその先生は「日本に事実に基づいた正義など存在しない、正義は既得権者の保護という落としどころありきで決まり、彼らはやったもん勝ちだ」と本質を看破してすでに米国市民になっておられ、「茹でガエルの日本は一度ぶっ壊れて沈没したほうが長い目で見ればいい、そうしないといずれ茹であがって滅びる」と愛国心、老婆心でおっしゃる。世界の熾烈な競争環境にいる者は皆同じ気持ちで、鈴木一朗氏(イチロー)が茹でガエルのNPBの栄誉も国民栄誉賞もいらないのも同根のことではないかと拝察しております。

池田信夫氏が「『葉隠』で印象的なのは「釈迦も孔子も鍋島家に仕官しなかったので家風に合わない」という言葉だ。ここでは佐賀藩(鍋島家)が、仏教や儒教などの普遍的な価値を超える絶対的な存在だった」と書いています。日本人の精神構造を考えるとき武士道は避けて通れませんが、それは影響のプロセスにおいて韓国の「国民情緒法」とファンクションはあまり変わらない。韓国のそれは、国民が騒げば、そんな法律はないが時に憲法にも優先して大統領や財閥トップが有罪になってしまうinvisible law(見えない法)ですが、「家風に合わない」で真理や正義を葬れる国なら韓国を法治国家にあらずと笑うことはできないでしょう。

普遍的な価値を超えた存在」で日本国の「家風」を決める存在になろうとしているように見える官邸の主導という政治は、平成初期に雲霞のように大量発生して大企業の根幹部門に巣くい、会社を軒並みダメにした茹でガエルの集団に乗っかって命脈を保っているだけであり、お湯が熱くなってきて大きめのカエルが次々と茹であがってきたのが平成という世でした。その間に時価総額という企業の通信簿で日本の全大企業は米中はおろか韓国にも大負けであり、これは野球なら20対0のノーヒットノーラン負けぐらいの大屈辱敗戦なのに「株価なんて尺度は家風に合わない」という空気がいまさらのように残っている。個社として本気でそう思うなら構わないがそれならば自ら上場廃止すべきであって、それもしない。つまりなぜ株式を公開しているか意味すら分かっていない。

買収というのは、レバレッジド・バイアウトを除けば原則として時価総額の大が小を食うものです。捕食者か獲物かは株価で決まると言って過言でない。ある朝に出社したら会社は食われて今日から外資系でしたという可能性は世界に普遍的に存在するし、そうなっても個人としては生きていける人たちはそれを何とも思っていないのですが、それを「リスク」だと一番思わなくてはいけないのはサラリーマン社長を含むそうでない社員であり、皮肉なことに、「家風にこだわっている茹でガエル」であり、「株を理解していない人たち」なのです。カルロス・ゴーン事件の本質はそこというアングルでマスコミはほとんど報じないが、彼らは茹でガエルの代表選手で放送法の外国人株式保有規制(20%)でそれが起きえない業界に生息する最も感度の低い人たちなのです。そんな低次元の報道ばかり見ていれば、英国で移民に職を奪われたくない一心でBrexitにこぞって賛成投票したらホンダが工場移転して自分が失業しましたというようなことがあり得るのが日本の現実です。

後輩たちにアドヴァイスするとすれば、日本というplay groundはこれから悪くはないよ、ただ良いとすればそれは外資にとっても同じく良いよ、だから引きこもりの茹でガエルはいずれ全部死ぬしそこにいる君も死ぬよ、世界の最先端技術(deep tech)にフォーカスしたほうがいいよ、大企業がへたる環境は隙間ができるということだから君らの世代には大チャンスだよ、という簡単なことです。コンサル、ファンドがいいよとは言いませんが、有能な人がビジネス界に入ってくるのはウェルカムだ、皆さんの「未来アンテナ」は結構いい線いってるな、日本のビジネスパースンの未来はずいぶん明るいなという印象を持ちました。

 

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交響曲を書きたいと思ったこと(2)

2018 NOV 25 0:00:03 am by 東 賢太郎

ビジネスは弁証法的に進化する。それが利潤動機であり、資本の論理であると性悪説(かどうかは議論があろうが自分の立場からは)に立脚するのは人権に基づくプロレタリアート概念を創出したいマルクス経済学のイデオロギーに過ぎない。ロジックとしての弁証法に性善も性悪もないのである。マルクスは弁証法による唯物史観をとった。私見では宇宙はその原理で生成発展しており、宇宙の一部である人間社会がその原理で解明されてなんら違和感はない。

しかしそこには大きな論点の欠落がある。ビジネスは大阪弁の「オモロい」でも進化し、資本はそれでも成長することを大阪人でないマルクスは完全に見落としている。平等なユートピアはオモロい人を殺してしまうことは論じていない。そもそもオモロいことをしている人は「搾取されました」なんて争議はしないのである。オペラを受注したモーツァルトが残業代の計算をしただろうか。過労で倒れて労災申請をした大作曲家がいただろうか。

僕は365日休みはないし三六協定もないし土日も仕事している。事業主、資本家だからではない、オモロいからだ。だからオモロくなくなったらやめる。労働は悪だというのはキリスト教思想であって仏教徒の僕には毛頭関係ないが、もとよりこれは宗教、思想の話ではないという所が核心なのである。むしろ人間の生来の属性、ケミストリーであり、性格、生き様、信条、モチベーションの話であって、そういう類型化できないことを学者は採用しないが、その姿勢は実務家である僕にはまったくのナンセンスでしかない。

しかし、宗教であれ教育であれ人間の生来の属性を造り変えることは尊厳にかかわることだから無理だと思う。したがって、ここに必然的に、仕事が「オモロい」「オモロくない」で地球上の全人類は二分されるのだ。資本論は後者の人類の福音書であり、明示的には消えたが精神だけは世界の左派に残っている。特筆したいのはこの二分法こそマル経が予期せず生んだ『階級によらない人間分別法』であるということだ。マルクスは狩猟採集の原始社会が本来の平等社会(無階級社会)であって階級社会を克服した上で実現する無階級社会は極めて生産力が高く、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」としたが 「能力に応じて」「必要に応じて」の部分にこの二分法の用意がある。これを論理の穴と上げ足をとるか、さすがマルさん逃げ道あって頭いいねととるかは勝手だがどっちでもいい。

強固な持論として僕は「オモロくない」派は時給いくらで残業代をしっかりもらうべきだし、「オモロい」派は成果連動報酬で青天井スキームでやればいいと思う。日産のゴーン元CEOは明白に後者の契約だったわけで、それを前者と比べてけしからんというのは二分法からしておかしい。株主がOKといえばいいわけで、その株主を欺いたから拘留されているのだ(当面の理由としてだが)。野球でいえば球団職員がエースの給料が高すぎだと言ってるようなものでマスコミのマル経的たきつけに徹している観がどうも解せない。「高級マンション」がどうのというのも、高級かどうかが論点ではなく取締役会で決議したかどうかだ。しないと会社の金の振り込みなんかできるはずがない。なぜその時点でOKだったのが今は横領まがいなのか(本件は今後注視したい)。

ソナー・アドバイザーズは、基本的には、「オモロい」派だけの会社だ。「オモロくない」派は外注で足りる。なぜそうするかというと、ビジネスはマルクスの見落とした大阪弁の「オモロい」でこそ進化こそするという強い信念があるからだ。だから秘書にも費用は会社持ちで資格試験を受けてもらいバリューアップしていただいているし、会社の業績の進化に影響ない人は採用しない。これはラーニング・オーガニゼーション(学習する組織)という経営哲学で、僕はダボス会議でGE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOだったジャック・ウェルチから習った(既述、「伊賀の影丸経営」の原型だ)。

僕が法律と何の関係もない対位法や和声法の勉強をしていたのは大学在学中だ。「人の税金を使って学校へ行った」(麻生財務大臣)からけしからんことだったのは謝るが、それをしながら作曲家にはなれないと思い知ったのは効用だった。できると思ったのは写譜屋ぐらいで、それなら1枚いくら、1小節いくらで請求するだろうし時間外の追加料金も計算するだろうと思った。さらに意外だったのはオーケストラに労働組合があることだった。これが意味することは、つまり団員は堂々たるプロレタリアートだという厳然たる事実なのである。基本はオモロくない派の人々なのだ。

いやそんなことはない、音楽は私の人生だ、だから音大を出て生涯の仕事にしているではないか、という声はあるはずだ。それを否定する権利は誰にもないが、それは日産の工場で現場を支える方々がクルマが好きだから汗を流しているという主張とおんなじだ。トヨタは食堂にまで意見箱を設置して工員の声でカイゼンしているが、だからといって労働組合が消えたわけではない。このことはプロスポーツと労働組合との親和性の議論と照合すれば理解が容易だ。サッカー選手がPK戦になったといって残業代を請求するかということだ。NPBに選手会が存在しストライキをしたことはあるが賃金交渉には無力である。オモロくない派ならやめればいいではないか、やって成功すれば収入は青天井だよという世界なのだ。

理系頭脳のオモロい派である作曲家は労働組合を形成する労働者とは別の惑星の人たちなのであって、両者の間には「音楽への愛」で結ばれることができるはずだなどという宗教がかった博愛ユートピア思想では越えようもない二分法による深いキャズムが存在することを僕は大学時代に学んだ(東大が教えてくれたわけでないが)。だから、そこまで異星人ではないものの「オモロい」派には属する指揮者が作曲家の宣教師としてインスパイアして引っ張らないと良い演奏など出ない確固たる道理があるのだ。音楽をマルクス経済学的側面から理解したし、それを通じて現在の経営観に至ってそこそこ税金を払っているのだから遊んだわけではなかったと思う。

この視点に立つと、指揮者と経営者の役目は同一であるというドラッカーの経営学も肌感覚の裏打ちが持てる。会社を進化させる経営を僕は「オモロい」に求めるわけだが、それは業界に40年生きてきて培った信用と人脈を素材として交響曲をcomposeする作業であることは前回述べた。これを僕はcompositionの本来の思考形態である数学的センスでずっとやって来たしこれからもそうする。数学が計算だと思ってる文系の人に説明するのは時間の無駄だから一部にしか言わないが、そういうことだ。

(こちらをどうぞ)

オモロい人たち

安藤百福さんと特許

「伊賀の影丸」型組織論

 

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遊びの教養

2018 NOV 22 0:00:03 am by 東 賢太郎

「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」にCDを提供していたレンタルCD店「ジャニス」が閉店するらしい。CD不況はそこまで来ている。本屋も激減している。若者は配信で済ましてモノを所有しなくなった。買うにしてもネットでクルマまで買えるし、ショップで手にして選ぶ需要は減っている。これはネット社会、クラウド社会による現象なんだろうか。

僕はyoutubeに100本ぐらい自分の好きなクラシック音源を公開しているが、はっきり言ってアクセス数はたいしたことない。英語で世界向けにしているにもかかわらず日本語ブログに比べると拍子抜けする程度である。ライブや古めの録音が多いから、そういうものに興味を持つ人が減ったのか世界にはもともと少なかったのか。

僕のように同じ曲の異演盤CDを100枚も買う人はもうあまりいないのだろう。そもそも19世紀にそんな趣味は存在もしなかったから先祖返りで消滅する運命なのかもしれない。決してネット、クラウドだけのせいではなく、人の志向が根っこから変わってきている気がする(それらが人間を変質させたと言ってもいいかもしれないが)。

するとオーディオもいらなくなる。今はヘッドホンでよい音がするし何より安いのだ。さらにはVRのソフトも格段にリアリティが出てきていて、いずれはもう海外旅行なんてバーチャルでいいやとなるだろう。カノジョもカレシもレンタルかバーチャル。Siriが進化して翻訳機能ができれば英語なんて学校で教えるのやめようよとなるかもしれない。

太古より文明は人間を楽にしてきたが、行き過ぎると人生はつまらなくならないだろうかと思う。そういう議論をしたら「そうではない」という奴がいる。それにつれて人間はちゃんと退化するから、楽と思ってたのがやがてちょうどいい具合に苦しくなるんだと。苦楽が釣り合えばそれなりに面白い人生だ、生きがいは感じられるというのだ。なるほど。

僕だって体力は退化してきたし、気づいてないだけで知力もそうかもしれない。行きつくところ認知症で寝たきりになれば人生はどうなるのか。楽しいのか苦痛なのか。わからないが、一つだけ確かなのは、遊ばなくなるだろうということだ。猫も老いると遊ばない。遊び。これは子供には仕事みたいなものだが、トシを食うにつれてどんどん人生から消えていくのだ。

そう思えばCDをあれこれ聞き比べるなんて何の価値も生まないし経済貢献もない、たんなるお遊びである。しかし僕はこれが飯より好きなのだ。そしてこれで色々見えてきたことがあるしそれは音楽に関係ないことだ。もっと前は少年サンデーで日本語を覚えたし野球で勝負を覚えたし、僕は教室ではなく遊びで学んだことのほうがずっと多く、いまはそれで食っているといって全く過言ではない。

これを「遊びの教養」と呼びたい。これは教養なのだ。どんなに勉強ができてもこれが足りないと社会ではつらい。少なくとも僕らの時代はそうだった。ところが昨今、TVなどをたまに見ると、明らかに「遊びの教養」が足りないと思われる輩がうまく生きられる時代になっていると思わないでもない。まあこの人と酒を酌み交わしてみようとは思わないだろうなというような。

それは社会全体のそれが低下しており、だからそういう輩が良いポジションを得られるようになってきたということか。リアルよりバーチャル、買わない、所有しない、回り道しない、無駄はしない、苦労は避けて小さな幸せでも満足。そうなのかなあと思う。「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」、あんなどうでもいいことを真剣に追及して笑ってみようというのは遊びだ。あれを「教養」と言ったら教養人は笑うだろう。でもその笑いより、あっちの笑いのがレベルが高いと僕は思う。

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「りり花」画伯は桜を描く

2018 APR 3 1:01:42 am by 東 賢太郎

桜はあんまり好きではない。ピンク色がきれいとかいわれても僕には白にしか見えない。それでも京都で見た満開の絶景は驚いたからべつに嫌いというわけではないが、あんなのを一度見れたんだからラッキーだった、もういいやという心境になっている。人ごみをかき分けながら落ち着く所もなく、「今日がピークですね」「明日は雨ですよ、もうダメですね」「運が良かったですね」なんて声があちこちから聞こえてくると、ああ運が悪かったなと嘆く性分なのだ。

というのは、株屋的には猫も杓子も買いだと騒ぐピーク(天井という)で株を買うのはばかだという感覚があるせいもあり、明日は落ち目だという夢のなさは嫌いだという人生観もあるが、なによりこんなに大勢の人が押しかけて大騒ぎしている桜なんだからきっと最上のものなんだろう、それが今日で終わりだとなると楽しまなくては損だという気になるからだ。するとそれがむくむくと強迫観念?になってきて、ただでさえ雑踏にもまれてそう楽しいとも思わない時間がだんだん苦痛になってくるのだ。

桜は不気味な植物と思う。たわわに重そうな花弁をびっしりと贅沢三昧に咲かせておいて、それで花粉を仲介すべき蜂や蝶だらけになったのは一度も見ない。これは何のためだと不可思議に思っていると、あっという間に散っている。エネルギーの無駄?でも人間以外の生物は生存、生殖に無駄なことはしないと教わっている。じゃあ、あれは何だ?

無駄?そうじゃない。日本中に桜は植わって子孫は大繁栄してるではないか。生存競争の勝者ではないか。そうか、ということはあれは桜が考え抜いたドラスティックな生存戦略なのではないか?食虫植物はメスの似姿を囮(おとり)に見せたりいい匂いを漂わせて虫を呼んでおいて食べる。桜は妖艶に人を酔わせてカラオケを歌わせて和歌まで詠ませて、食べないけども、あちこちに植栽させたり桜並木を作らせたりする。

つまり、あれは人間をターゲットにおいた囮(おとり)であって、人間のメスの似姿はちょっと難しいので「開花ショー」「お花見サービスタイム」というエンタメ系で釣ろうというものだ。きれいなだけじゃあ飽きられるので、飽きがくる前に「桜散るショー」でダメを押す。虫を呼んで交配させる?小物の発想だね。俺たちは大物しか狙わないのよ、ヒトよ、ヒトを惑わして悲しませて、また来年見たいと誘導して種を蒔かせるんだ。ぜんぜん効率いいぜ。

まあ真偽のほどはわからない。でも桜をぼんやり眺めてると、そのぐらいの仕掛けは難なく講じられ、まんまと騙され、ひっかかっている感じがしないでもない。だから不気味なのだ。

植物に知恵がないなんてことは考えられない、だって、だいたいハチのメスに似た花なんかどうやって考えつくんだ?どうしてそれでオスが寄ってくると知ったんだ?それがちゃんと似ているぜ、オッケー!と、どこから見て(感知して)判断したんだ?それに明確に答えた人はまだいない。明確なのは、それはわからないけども、そういう植物が確かに存在しているということだ。

植物や動物にはメカニズムは不明でも人間並み(以上)の観察眼も生きる知恵もあるという生物学者はいる。TVに出ていた「市原ぞうの国」のアジアゾウ「りり花(か)」の桜の絵を見て、まさに度肝を抜かれてしまい、それを思い出した。

 

見事な構図、タッチ。これは間違いなく、僕よりうまい。途中から番組を見てまず絵が画面に出たので、「いい絵だね、誰のかな?」とつぶやいた。ところがなんと・・・。嘘だろうと思ったがそうではない、りり花の母親の「ゆめ花」の動画がある。

ゆめ花さん、りり花さん、お会いしたくなりました。youtubeを探すと、あちこちに画伯がいた。

あれを描けと指示したわけではなさそうだし、おじさんが絵筆を渡してはいるが筆の色を見てあるべき場所に塗っているということは色もわかるんだろう。まいった。ということは象も桜を見るときれいなのに違いない。

桜の戦略に驚くべきなのか象のアーティスト魂に驚くべきなのか??

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ソムリエにワインを替えさせる方法

2018 FEB 21 23:23:16 pm by 東 賢太郎

76になられる某社会長と代官山の「パッション」で会食。9年連続ミシュランで星のフレンチレストランでオーナーシェフのアンドレ・パッション (André Pachon)氏はフランス共和国よりコマンドール勲章、レジオンドヌール勲章をもらっている日本のフレンチ界の草分けだ。

会長はフランス在住歴5年でMBAも取得された大先達で、含蓄の深いお話をうかがってあっという間に時間がすぎた。なかでもこれが面白かった。

「パリで同僚のフランス人に、ワインのテースティングでは絶対にnonと言うなといわれましてね、でも一度だけやってみて替えさせたことがあるんです」

それを言うとソムリエが飛んできて「どこがお気に召しませんか?」とくる。注文しておいて文句をつけるのだから説明責任があるのだ。まず交換はできず雰囲気を悪くするし、「まずい」と言ったものを自分の客人に飲ませるわけにいかずもう一本注文する羽目になる。だからやめておけというアドバイスなのだ。

「何と言われたのですか?」

「僕はいつもこれを飲んでる。昨日も同じ年のを飲んだばかりだ。これはそれと比べて酸っぱいと言いましたよ」

これに反論するのは難しい。同じ葡萄から出来たワインの酸味は酢に近い結果だから、昨日のワインが今日のより劣ると主張する根拠がない。だからあなたの舌がおかしいと言うしかない。しかし「酸っぱい」のは子供でも分かる。アロマだブケだと煙に巻けない。しかもこの客は味を知って銘柄にこだわっている通だ。喧嘩を売ってオーナーにクレームされたらかなわんと考えた、邪推だろうか?見事な王手飛車取りだが、「いつもこれ」「昨日」「同じ年」という効果的な伏線が張ってある。ソムリエは得心して投了したと思う。

しかし彼もそれで飯を食っている。プライドは非常に高い。相手を見て押し切れそうならつっぱねるし若い人が彼女の手前で格好をつけて同じことを言っても、兄ちゃん青いねと撃退されるリスクは高いだろう。会長はフランス共和国よりコマンドール勲章を授与された名士であられるが、では勲章をもらえばそれができる威厳が身につくかというとそういうものでもなくて、やはり人間のにじみ出る風格とでも書くしかないものが備わっているかどうかが交渉力の決め手のように思う。

英国のコメディ、Mr.ビーンに、彼が食卓でマナーを知らず大失態を演じる爆笑シーンがあるが、英国人にとってもフレンチレストランはそういう面倒くさい場所なのだ。要は慣れ、経験がものをいう。遊び慣れた余裕というか、我が国なら京都のお茶屋さんでどうですかという風なものであるかもしれない。大石内蔵助は祇園一力茶屋で遊んで四十七士の吉良邸襲撃計画の目くらましをしたが、敵の欺き方としては最高にエレガントだ。大石ならパリでソムリエを説得できたような気もする。

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