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あなたは『カメアリ派』?『ウサリス派』?

2023 SEP 24 0:00:39 am by 東 賢太郎

「夏休みの宿題は先にやっちゃうタイプなんで」。どういう話の流れだったか、渋谷で食事の時にAさんがこういった。たしかに僕もそうしろと叱られて育ったが、やったためしはない。怒った父から「学習計画表」を作れ、それを部屋の壁に貼れと厳命がくだったので仕方なく作成した。美的センスのある母が協力してくれ割と見栄えのいいのができた。とても満足し、貼ったことは数日で忘れた。こうして僕の一夜漬けは小学校時代に始まる。

単に怠け者なだけだったが、だんだん言い訳を考えだした。夏休みは前半は楽しいが、後半は終わりが見えてきて憂鬱になる。学校が好きな人は早く行きたいだろうが勉強嫌いの僕はそうでない。そして宿題というものはいつやるかを問わず憂鬱だ。ということは、それを最後の日にまとめてやればどうせ憂鬱な日なんだから損はない。

先憂後楽という言葉がある。しかしせっかく幸福な前半に学習計画表に見張られて暮らすと幸せの山が低くなり「絶頂」はこない。宿題をいつやるかに関係なく後半は憂鬱なんだからそこで頑張ろう、前半は絶頂まで登って満喫しよう。そう決めたわけでもないが自然と先楽後憂が習慣になってしまい、すると、最後の数日で宿題を全部やっつける腕力もついた。

ところがそんなことを奨励する日本人はまずいない。父は僕を更生させようとイソップの「ウサギとカメ」「アリとキリギリス」を何度も話してきかせた。計画表が失敗したので洗脳作戦に出たわけだ。なんと親はありがたいものかと感じ入るが、洗脳されにくい性格に生んでくれたからそれも失敗に終わった。父の名誉のために書いておくが、僕がこうなったのは親のせいではない。聞けば聞くほどウサギ、キリギリスになってそのままゴールすればいいじゃないと考えるようになってしまったのだ。「どうしてカメやアリなんてノロまにならなくちゃいけないの?」成城幼稚園でそんな感じの質問をした。いまになって思うがいい質問だった。園の飼い犬を棒で殴ってご迷惑をかけたジュンコ先生、何といわれたかは覚えがないが僕は長じてウサギ、キリギリスを目指す “いけない子” になった。

それから20年たってアメリカに行った。全米1位のビジネス・スクールであるウォートン・スクールに入れてもらったが、そこにはウサギとリス以外の生き物は一匹もいなかった。政治もビジネスもアメリカはその連中が動かしてるし、欧州も中国も同じようなものだろう。ところが日本はどうもそうでない。当時、エズラ・ボーゲル著の「Japan as Number One」が話題で、教室で日本がそうなった理由を質問されたが一度も満足な解答ができなかった。当然だ。いまだって僕はその答えがわからないのである。なんたって、日本で一番それを言っちゃあいけない農林水産大臣が「汚染水」と口がすべっちゃう。あのお爺ちゃんは誰なんか政治にうとい僕は知らない。でも日本は潰れない。強い。なぜなんだろう。外国のエリートはそういう失礼なことは口に出さないがみなそう思ってる。教室では苦し紛れに「官僚が優秀だから政治家はその程度でいい」と言った気がするが、ルイ16世だってそこまで馬鹿じゃなかったぞ、そんな支配構造がなぜ明治から100年も続いていて国民も、その優秀な官僚までもが唯々諾々と従っているのかが米国人には理解できないのだ。

ところがだ。渋谷でAさんの言葉を聞いて電撃的にひらめいたのだ。宿題は先にやれ。ひょっとしてこれか?銀行家でありその代表のようであった父が何度もこうなれよと説いた堅実で真面目なカメとアリ(『カメアリ派』と呼ぼう)。いい調子で楽しくやって天罰が下るウサギとキリギリス(『ウサリス派』と呼ぼう)。そこに答えがあるんじゃないか。「いいわね、あなたたち、みんな仲良くしていいカメアリになるのよ」と幼稚園から教わって、それを信じてゆっくりのっぺり生きて、それが幸せなんだと一様に疑わず、しっかり先憂して貯めた預金通帳残高を見るのを老後の楽しみとし、平均3500万円を残してああたしかに楽だったとあの世に行き、一匹だと弱いが集団になるとその人生観で集結して一枚岩になって排他的になって強かったりする、それが日本人ではないか。原因は国民にあるんじゃないかと。イソップ、でかいなあ、でもその前から尊王攘夷やってたっけな。そんな国民は地の果てまで行っても日本以外にいないし、なりたいと思う国民もなかろうが思ってなれる国民もないだろうと気がついたのだ。

イソップではウサリスは怠け者だが、現実には勤勉で多大な努力を厭わないのがいる。これは大変に手ごわい。人海戦術的であるカメアリの集団防御戦ではいずれ人垣が崩されてしまうし、すでに危ない水域に来ている。だから日本もウサリス派を若くして選別・分離し、米国MBA並の地獄の特訓で虎の穴にぶちこんで勉強だけでなく命まで取られるかぐらいの仮想の窮地体験を積ませて鍛えまくらないといけない。江戸時代までは藩校がその役目を果たしていた。だから明治の日本はその余禄で文武両道の男だらけでどの国と比べても圧倒的に強く、欧米列強の植民地にならずに済んだのである。しかしもはや「武」の方は叩き潰され、その精神も消し去られ、かろうじて残った「文」で高度成長を果たしたがそっちの息切れも時間の問題だ。円安もあり経済安全保障は危機的な案件が耳に入ってきている。それはとても書けないが、海外トップスクールへの留学生数、PhD取得数、ベンチャー企業のユニコーンの数だけでもご覧になれば趨勢は一目瞭然だ。その現象の根底には消し去られたものの巨大さが透けて見える。

ちなみにAさんは1年半の勉強で公認会計士試験に一発合格した才媛である。当然に専門能力が高いが、そういう人に往々にして欠けているカメアリともうまくやっていける当意即妙力も高く、僕といえば話をするのさえ苦手なのは「どうせわからないと思ってしゃべってるでしょ」と見抜かれている。こういう人にお会いするとエリート選別に男女などなくジェンダーを言うこと自体がそもそもお門違いなことを悟るのである。岸田内閣の改造人事を見るにつけ、自民党にそのセンスはなくいまだにマレーシアのブミプトラ政策だなあと5人の女性閣僚を眺めるしかない。女性が輝く社会でパリで好きなことやらせて輝いてもしょうがない。この感覚は昭和はおろか明治時代とあんまりかわらないし、そういう持ち上げ方は有能な女性に対して失礼千万なのである。

ご覧の通り欧米のトップスクールの学生は女性がほぼ半分である。

日本同様に女性の地位が低いイメージがあるアジアだが、シンガポール、中国、韓国の最難関大学であるシンガポール国立大(8位)、北京大(17位)、ソウル大(41位)はどれも女子学生が5割いる(カッコ内は2024年世界大学ランキング順位)。人口比(5割)に等しいということは女性が何のバイアスもなく最高峰の大学に志願して難関入試に合格しているわけだ。知性に性差がないのはユニバーサルな研究結果だから学生数の女性比は受験者の女性比にほぼ等しいはずだ。したがって、「東大に女性が2割しかいない」のは日本女性の知能がアジア女性より劣るのではなく、日本女性の2割しか東大に入りたいと思っておらず、最高峰の大学に志願する女性はシンガポール、中国、韓国の女性の半分もいないという、いささかの驚きを禁じ得ない事態になっているのである。

この事実は、日本女性には「東大にあえて入りたくないか、入らなくても構わない」と考える固有の理由があることを強く推察させる。人口比5割の集団が2割の集団を作る偏差値は80で、それが長期に続くこの現象は統計として有意に “特異” である。同じ傾向は京大、早慶にも、遍く各大学の理系学部においても見られるため、日本女性の選択の特異性は東大に限らず偏差値上位の大学受験全般に存在するものと推察される。

東大の「女性2割現象」は「ジェンダーギャップ」の大きさにおいて日本が後進国であり、突出した男性優位社会(=女性差別社会)であることを示す一例として欧米人に認識されている。世界経済フォーラム(WEF)が各国における男女格差を測るジェンダーギャップ指数で日本の順位は146か国中116位で最低、アジア諸国の中でも韓国や中国、ASEAN諸国より低い。これは、日本における女性の社会進出が先進国としてはひどく遅れているためだとされる。その認識は学問の領域にも及んでいるという解釈で「女子2割問題」と連結される。その一例が、2019年にニューヨーク・タイムス紙が東大を批判したこの記事だ。

日本の最高峰の大学 女子学生は5人に1人だけ – The New York Times (nytimes.com)

この記事内容に大きな異論はない。昔からそうだったしいまだにそうなんだねという程度でもあり、世界市民のコンセプトで語るなら日本はジェンダー後進国であり日本の女性は不当に抑圧され男女不平等の犠牲になっていると言われても反論することは容易ではない。しかし、本当にそうだろうか。そんな劣悪な環境で生きなくてはならない日本女性が不幸なのか?「男女平等であること」と「女性が幸せであること」は正比例の関係にあるのだろうか?女性は東大など行かなくても幸せだからこの結果なのではないか?学歴を求めないので社会進出も欧米ほどは求めない、それでも幸せなのではないか?この論点は「鶏と卵のパラドックス」の可能性があり両面から考察すべきだが欧米メディアも国内メディアも「ジェンダー後進国だ」と一面しか取り上げないアンフェアな状態が続いている。だからこその本稿の問題提起であり、それを示す興味深いデータがあるので紹介する。世界価値観調査(World Values Survey)による「幸福度の女性優位度」だ。「女が男より幸せな度合い」を国際比較したデータで、日本は7回の世界ランキングで1位が3回、2位が2回、3位が1回、11位が1回だ。つまり、日本女性は日本男性よりいつも幸福であり、その差の大きさにおいてもいつも世界トップレベルであることが示されているのである。

統計の取り方の詳細は不明だが、WVSは社会科学者の世界的なネットワークでありまずは信用に足ると思われる。考慮すべきは、男より女の幸福度が上であってもそれは相対評価だという点だ。「男(夫)よりは幸せだけど私(女性)だって不幸なのよ」ということもあり得る。日本の男は女性に優位で犠牲を強いてはいるが、被害者の女性よりもいつも不幸だと思っている可能性もある。つまり、不平等は何らかの客観的な尺度で測れるが、幸福か否かは主観だからそうはいかず、両者が矛盾して見える結論を出すこともあり得るという点だ。

これについて図表3を引用された統計学者の本川裕氏は適確かつ興味深い数値を用意している。「不平等度」と「幸福度格差」とのR二乗値だ。ほぼゼロなのだ。これは「日本女性は男女平等でなくても幸せ」、したがって、「男女平等でないから日本女性は不幸せと主張する根拠はない」ことが統計学によって証明されたことを意味している。この命題に反論する唯一にして非常に簡単な方法は「日本は男女平等だから女性は幸せなのだ」と主張することである。それにロジカルに反論するすべを僕は持たないし、ひょっとしてそうかもしれないとさえ思うし、かかあ天下という言葉で古くから男性諸氏は表立って奥さんの前で口にできないそれを笑い話で揶揄してきたかもしれない。しかしリベラルは男女不平等が言いたいのだからそれを言うはずがない。それを潰すのが本稿だから僕も言わない。

R二乗値=0は日本が女性差別社会であろうがなかろうが、それを解消してあげることと女性が幸せに暮らせるようになることとは関係ないという証明である。したがって、この式は日本がジェンダー後進国であろうがなかろうが、突出した男性優位社会(=女性差別社会)であろうがなかろうが、日本の女性が不当に抑圧され男女不平等の犠牲になっていようがいまいが、社会(慣習、通念)や両親に男尊女卑思想が残っていようがいまいが、それらとは何の矛盾もなく日本人女性は男性より幸せだと言っているのであり、日本はジェンダー後進国だから日本人女性は不幸だという欧米の一方的な主張は根拠がないことを論理的に示している。つまり、その主張を熱くすればするほど、その人は日本国民に「ジェンダー」を売りこんで洗脳したい邪心を疑われるか、数学を勉強してないことを天下にさらけ出すだけなのだ。

ではWVS調査結果が示す日本女性の幸せの正体は何だろう。まず第一に、日本の古来からの社会慣習、通念から自分に適当な相手を早く見つけて専業主婦に収まって家庭を守るのが自然だと多くの日本女性が考えている結果ではないだろうか。ただしこれは日本女性が怠惰であったり男性に従属的であるという理由からではない。日本にはアジアのどの国とも同次元で語れない決定的な特殊性があるからである。それは太平洋戦争で310万もの兵士(男)が死んでいったことだ。最愛の夫や息子や恋人の銃後を守った精神が母から子へと脈々と継がれ、ハウスワイフごときではないものが主婦という立場にはあると考える女性が学業よりそれを選択しても僕は称賛したいし、それに足る夫がいるのだから幸せなのだと安心もする。男がしっかりしない国ではそういうことは起きないのであり、日本が世界3位のGDPを生み出したのは幸せな女性がいて支えてくれたからであり、これは日本的な夫婦の美徳、愛情という精神的に高次の範疇に属するものであって、どんな木偶(でく)の坊であろうと個を尊重する西洋人のジェンダーという概念などの到底及ぶところではないのである。

もうひとつある。日本人の大半は男も女も『カメアリ派』なのだから、幼稚園から習っている先憂後楽が自然でなじみ深いのは無理もないのだ。東大に入れる学力があっても、入るということは男のキャリア戦争に正面切って参戦し、男も競争相手と認識して真剣勝負してくるということであって、相手を見つけて家庭に入るというもう一つの選択肢からするならば年齢がそれなりに行ってから敗北すると先憂後憂になりかねない。それで人生のリスクリターンが合うのか?賢い彼女らだからこそ当然に熟慮するだろう。とすれば彼女たちがすき好んでガリ勉などせず専業主婦を先憂後楽だと選択しても納得である。つまり東大2割問題はひとえにやる気があるなしの問題なのであって、差別されているわけでもジェンダー問題でもない。やる気があるならAさんのように勉強すればよく、才能を発揮して第一線で大活躍されている女性を僕は何人も知っているわけで、そこに社会の支障があるとは思えない。逆にいえば、勉強もしないのに出世できないのは女だからだというのは、男も同じだからおかしいのだ。さらに加えるなら、昨今の少子化はひ弱な草食獣の男が増えて「男がしっかりしない国」になりつつあるから女性にとって結婚が「精神的に高次の範疇に属す」とは思えなくなってきていることと無縁ではない。結婚ありきの社会通念があったから競争社会で生きる前提を置いて生きていない。だからシングルマザーになるほどの収入は得られず子供を持てないのは無理もないであって、少額の教育費補助や育児のアウトソーシングだけで片づく性質の問題ではそもそもないと僕は考えている。

一流校に学ぶ女性が5割である世界の国々は男女の才能を束にしてかかってきているのに日本は女性抜きの片肺飛行であり、東大(28位)、京大(46位)の順位が低いのは有能な日本人女性を取り逃がしていることが大きいだろうし、まったく同じことが日本国の国力についてもいえる。初の女性総理誕生が待たれる等と言うこと自体がナンセンスで、女性だとやたら「美人何々」と報じたがる知能の低いマスコミのノリで政治家を待望などしてはいけないのである。東大2割問題と同じで優秀な人だけ選べば女性議員は自然に5割(人口比)になるはずである。そうなっておらず衆議院1割、参議院2割であるのは「何をもって優秀とするか」が著しくおかしいからである。国民はそれを吟味すべきなのだ。「女性だから」はあり得ない。「お父さんが政治家です」など論外である。

東大2割問題と女性差別社会(ジェンダー問題)は一見すると前者が後者を生むのかその逆かという「鶏と卵」の相関関係があるように見えるが、多くの日本女性が日本的な根拠のある事情で幸福だと考えているならそのどちらも彼女たちにとっては「どうでもいい」「大きなお世話」である。私見ではそれが現状だ。それでは困るリベラルが「鶏と卵」の一面解釈に過ぎない「ジェンダー問題」にすり替えて論じるが所詮は意欲の問題だから火がつかず、いちおう保守ということになっている自民党は自民党でそれを無視して「女性活躍社会」だの「女性が輝く社会」だのと選挙キャンペーンにしたってもう少しましなのがあるだろうと笑ってしまうぐらい空疎でインテリジェンスの香りすら漂わない、およそエリートが考えたとは信じ難いセンスの言葉を並べてお茶を濁す体たらくだ。どっちもどっちで大きく的外れで、学問、知性の領域という日本が強かったはずの根幹を劣化させる国家的損失の放置を意味するのみである。張本人でもある女性で東大法学部卒の松川るい議員こそが本質を主張して行動をおこせば説得力もあるし保守の男も賛同して総理候補路線だってあり得たろうが、パリ研修を詐称とされてしまう異次元の知恵のなさではそんなことは到底無理だ。後輩を貶める気は毛頭ないが猛省を促す。優秀な女性たちのモチベーションを “正しく” 喚起しなければ「日本女性は充分幸せなんだね」で国民は終わりであり、日本も終わっていくだろう。

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Categories:______気づき, 政治に思うこと, 若者に教えたいこと

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