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カテゴリー: 自分について

本当の友達とは何か?

2018 JUN 6 8:08:38 am by 東 賢太郎

こだわるということについて、ある人と話をした。

こだわっているものとそうでないものとの間の落差が自分より大きいという性質の人は今のところあまり知らない。僕の御三家は野球、クラシック音楽、猫であるが、例えば猫好きにおいて、猫はなんでもいい子猫はかわいいということはまったくない訳で、品評会に出る手のものは全部嫌いであり、なんでもジャレつく子猫はつまらない。こちらから相手をお願いしたいという猫であるのはけっこうナローパス(narrow path、道が狭い、難しい)であって、普通の猫好きとネコ愛を語り合うのは稀だ。

野球はバッテリー間で起こることだけに興味があるので、内外野の守備がどうしたとか走塁がうまいへたとかスライディングの技術がどうのとかはアメフトの話に近い。だから投手を見に行くわけだが、これまた好みはナローパスだ。体格やフォームではなくストレートの球質、スピード、変化球の質、コントロール、性格、攻め口、スタミナという部分に細かいクライテリアをもって観ているのであり、なかなか普通の野球ファンに説明するのは難しい。

クラシックはこだわりの音源で著作権クレームがなかったものをyoutubeにupしてみた。ブーレーズのダフニスに米国人の方からコメントが入って、この演奏への深い愛情が語られた。ディヴィスの戴冠ミサ、アンセルメの火の鳥もしかりだ。とてもうれしいが、アクセス数の少なさから本家本元の欧米でも予想以上にニッチな趣味ということも分かった。つまり人生の時間のかなりを占めた御三家において世の中との関心や交流の共有がナローパスということは、僕は変なことに傾注して生きてきた、地球上でかなり孤独な種族に属した人間であることに他ならない。

だから普通には「ご趣味は?」となれば「音楽鑑賞です」「野球観戦です」でお茶を濁すだろうし「猫と遊ぶことです」などはそれ自体が危なく聞こえるから言わないに越したことはない。それ以上語るということは99.9%の初対面の人にとっては宇宙人ですと懺悔されたに等しく、長いものに巻かれ少数派をいじめる日本では秘匿されるべき性癖みたいにさえ思えていた。長らく自分の趣味が他人とは一切交錯しないことを変だと思ってきたし、一介のサラリーマンとして宴会芸などを強いられる立場だったころにそういうことをカミングアウトする勇気など到底持ち得なかった。

たぶんほとんどの人は同じように心の中で自分はあそこがちょっと変だとか劣っているとか思っていて、絶対に他人に見せたくない部分を持っている。しかし本当に変だし劣るものであったとしてもそれはそれであって、世界に同じ人は二人といない。その不安やもやもやは他人と比べるから生じるのであって、誰であれ世界でオンリーワンという価値においては他人など関係ないのだから、それを自分が認めてあげて堂々と生きればよい。

そう考えるようになったのは、こだわり御三家において、これはかなり変だ、こんなので絶対に友達はできないと諦めてからだが、幸か不幸か僕は他人と色覚が違うという素地があった。これはもう科学的に決定的に見えている世界が世間様と違うのだから、どんな変なものにこだわって生きようが誤差みたいなものである。それで社会生活で困ったことも競争に負けたこともないから色覚異常と差別されている方は自信を持ってほしいし、趣味ぐらいがどうあろうと、もっとどうでもいいことなのである。

しかしでは友達が作れるのかという本題に入るとなると、もう少し語るべき重要なことがある。友達とは何か?である。結論を先に書こう、困ったときに助けてくれる人が友達に他ならないと僕は確信している。それ以外は趣味が合おうといい奴だろうと、実はなんでもないし、友達であるならば普通とか親友というグレードもない。助けてくれる人は、それ以外の部分がどうあろうと、性格がどんなに合わなくても、友達なのだ。日本だけのことではない、遠い英国でもそう考える人生の達人がいたからA friend in need is a friend indeedという諺ができた。

助けるというのは何がしかの愛情がないとできない。もちろんそれが人類愛かもしれないし、何らかの打算も含まれたものかもしれない。しかしでは愛情とは何かというと、100%ピュアなものは母親が子にそそぐものしかない。母はこの世に一人しかいないのだから、それ以外の場合、ピューリタンになること自体がナンセンスなのである。つまり、助けなくてもいいのに助けてもらったことは愛情表現なのであり、それは真摯に受け止めて、なんとかお返ししようと真剣に考えるに足る、いやむしろそうしていかないと人生は何のためにあったかわからないという結末に至ってしまうような性質のものなのだ。

ということは、こだわり御三家で分かり合う人を探す必要など毛頭ないのである。見も知らぬ他人との一瞬の心のふれあいで、自分は孤独でなかったのだと魂を慰めるのはけっして悪いことではないが、その安寧は誠に一過性のものである。そういう交わりはマイナスに落ち込んだ人生をゼロに戻す力はあっても、プラスにはしてくれない。ゼロが毎日続いたとしても、何年たってもあなたは人生の原点からテークオフすることはないのである。

むしろ、こっちが心底困ってみないとその人が友達かどうかは実はわからないという「深淵なる事実」に突き当たることこそが重要だ。まるで良くできたミステリーの結末であるかのごとく予想外の真犯人が浮かび上がったりもする、そういう経験をしていくと英語の諺の涙ぐましいほど人生の本質を突いた含意がじわっと体にしみてくる。そう言う僕だって、これを悟ったのは本当に困ることだらけだった、ほんのここ10年足らずの事なのだ。そして、それを悟った今、僕はそれの忠実なしもべとなって生きている。

短い人生、友達以外の人とつきあう時間はあまり残っていない。それは社交であって、定年後の夫婦が参加する紅葉狩りやら秘湯巡りやらで親睦を深めましょうとか、そういう困ってしまうことのまずない表面的おつきあいの場で友達が見つかる可能性は限りなくゼロに近いだろう。ただの何でもないサラリーマンだった僕がホテル・ニューオータニにオフィスを構えられたのも、ひとえに真の友達が何人かいたからだ。この人達が困ったときは今度は僕がどんなに骨を折っても助けるということになる。

こういう関係を築こうという人にとってfacebookで何万人のオトモダチができようとおそらく助けにはならないはことはご想像いただけるだろうか。拙ブログさえ毎日5千、総計184万の人の訪問があったことになってるがそんな実感はまるでないし、これが1億人になったところで困ったときの救い手が現れるアラジンの魔法のランプになる保証はない。友達というのはネット空間のフェイクではない、恋人と同じほどすぐれて生々しくリアルなものなのであって、フェイクに課金してあたかもリアルかのような錯覚を売るビジネスに洗脳されるとますます友達はできなくなる。

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名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われる

2018 MAY 21 1:01:39 am by 東 賢太郎

経営とはやってみれば誰でもわかるが極めて重たい作業である。企業の存続という究極の目標が何より優先する。そのためには何であれ不要なものは捨てなくてはならないから冷たくも見えようし、あいつは人が変ったと言われることもあるだろう。

僕は一点集中型(ネコ型)なので二股はかけられない。受験では野球が、ゴルフでは主夫業が犠牲になった。今はゴルフが犠牲になり2年近く道具に触っていない。シングルになってやめる人は少ないだろうがキープするには仕事が犠牲になるからそうはいかない、とすると「なんちゃってゴルフ」になるがそれはできない性格なのだから仕方ない。

究極の目標を達成するために絶対必要なのはほかをぜんぶ捨てることである。その正しさは受験、ゴルフで証明したから変える理由はない。しかし経営はその両者のように点数の目標がない。だから何を目指しているのか不明になってぶれるリスクがある。これを日々見定めるのは大変に難しいのだ。収益をあげるのはあたりまえであるが、それだけのための企業は世に必要とされない。

若い会社というものは創業者の人格そのもので、その人の「作品」である。作品はやがて独り歩きするが、そこに至るまで自分がぶれないことが絶対必要なのである。ぶれない最良の方法は何か?自分に忠実にやることだ。日々の判断に追われるとベター(better)の選択肢がたくさん出てきてマスト(must)を忘れる。すると知らず知らずぶれてしまっているということになる。

それを避けるには常に本当の自分に徹することだ。「AかBか、Bが得です」という提案は「両方やらないよ」が正解かもしれない。本当の自分という座標軸を常に見据えて、そこからはずれたことは一見おいしそうでも手を出さないという判断をしていかなくてはならない。なぜなら、本当の自分こそ絶対不動の盤石な基準として信頼でき、それがあるから今があるのが事実だからだ。

だから、本当の自分とは何かを知っていることは大変に重要である。これだって、世につれ人につれで付和雷同に生きていると意外に知らないものだ。

幼稚園で描いた絵を見ると電車しか描いてない。自動車、船、飛行機は興味ないから一枚もない。SLもなく電車だけ。それも下半分、つまり線路、台車、床下の機械類だけ子供らしくなく異常に細かくて、上半分のボディや乗客の顔は幼児なみだ。この三つ子の魂そのままに大人になった。

ほかを犠牲にしてクラシック音楽に集中したことはないが電車の下半分に相当するものを見つけたから自分を投影する鏡にはなる。去年10月23日のブログを読み返すと、幼稚園の絵を再度見た気持ちだ。

ブーレーズ 「主のない槌」(ル・マルトー・サン・メートル)

この自分はどうしたって孤独になる。「主のない槌」をブーレーズはムーラン・ルージュの客のために書いたわけではない。僕はあのナイトクラブが嫌いではないが、あそこの客にブーレーズの曲をお薦めする事はないだろう。これはクローズド・サークルの趣味なのでありそんなニッチが先祖のどの辺から来たものかは知らないが、電車の絵を描いたころから自分の遺伝子にあったものなのだ。

しかし、ありがたいことに孤独が好きだ。群れるのは大嫌いであり、幼い頃から祖父に一匹狼だと言われていたからそれが本当の自分なのだ。音楽と知り合ったおかげで退屈とは縁がなくなった。空白の時間があればベートーベンの交響曲をどれでも頭でリプレイできるから何の心配もない。

五年前のこのブログは共感あるのみ。

ショーペンハウエルの人生論

以下、大哲学者の箴言を少し引用して、今の境地でコメントしたい。

名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われることになる

なんという名言だろう。僕は「名誉(肩書)はいらないから給料を下さい」と上司に言った(名言は後で知ったのだが)。武士は食わねど高楊枝のわが国でそういう人間は誠に少ないが、いまどき武士でいるとどんないいことが起こるのか教えて欲しい。大前研一氏の著書によると日本人はひとり平均3千5百万円残して死ぬそうだ。ということは日本国は3500兆円も名誉資産がある名誉大国という事になる。それが一般国民の生活でどんな幸せになろうというのか。

人間の二大苦は困窮と退屈であり、内なる宝を持っている人にとって退屈はないから「困窮のない余暇」、孤独こそが幸福である

まさにそのとおりと思う。だから困窮はいけないのであって、給料の半分もさし出して名誉を買う余裕などない。そういう人は「最大の敵である同時代人の嫉妬に妨げられる」ときくとああヘーゲルのことかな、ショーペンハウエルはそういう思いをしたのだなあと思う。しかし名誉と一緒で、人に好かれるのに給料の半分を払ってみても孤独の幸福という見返りはないし、親父の名誉で食っていける時代でもないから子供もお金の遺産を残してくれといいそうだ。

現世的な名誉の効果は擬態的な尊敬にあり、徹頭徹尾、大衆に見せるための喜劇にすぎない

僕はお客様の男芸者になりたいとも思わないが、喜劇役者を目指してみようと考えることもない。ほとんどの男は肩書によって擬態的な尊敬を得ているが、名刺がなくなったとき、それが喜劇であったと気づくのだ。僕もそうだった。

いずれ必ず、嫉妬のない後世の知性によって良いものは良いものと評価される

そう願いたいが、僕の生き方を世間が評価してくれることはないだろう。して欲しいのは、ひとえに子孫だ。僕はブログを書いたことで子孫に何がしかを残したつもりだが、そう思ってくれる人が現れるなら生きた甲斐があるというものだ。

 

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自分とは

2018 MAY 10 1:01:14 am by 東 賢太郎

多摩川を久々にジョギングして、今年でここも引っ越してきて10年目だなと思った。山あり谷ありでなんとか生きてきたが、もう細かいことはけっこう忘れてきていて、思い出そうとも思わないし関心もない。僕にとって、良いことも悪いことも、終わったことはもうどうでもいいのだ。能力ぎりぎりの所を走ってきているので、今をきり抜けるのに必死だから。

自分が能力があると思ったことは一度もない。それがどういう風の吹き回しかいつのまにか険しい山道を縦走しているのであって、ちょっと気を抜けば滑落だから後ろを振り返る余裕がない。道の先がどうかと考えたり地図を見たりの余裕もない。それでどうやってここで10年生きてこれたか、わかるものならだれか教えてほしい。

ブログにあれこれ過去を書きつけてきたのは、忘れるからだ。いずれ自分もお袋と同じ認知症になって、なんにもわからなくだろう。それでなくなってしまうのは寂しいと、たんなる独りよがりの自己満足であって、こんなものは誰かのためになるなんてことはない。なればいいなと思って始めた部分もあったが、もう正直のところ、まったく自分のためのみのエゴである。

今の自分はというと、自分でいるのはcomfortableであって、ああなりたいという他人はいない。ドーキンスが正しいなら、いずれ東賢太郎という「乗り物」は下車するわけで、いろんな過去をぎっしり持っているからこれ以上がつがつ求める必要はない。乗り物はそろそろ劣化してきていて、今日は神山先生にしばらく米食はやめなさいと言われてしまった。末は知れていよう。

もともとゲバ棒を振ったり、世を変えたいとか安保を阻止したいとかはない。世間とはめんどうな関わり合いを持ちたくないし他人を支配したいとも思わない。名誉や勲章はいらない。出家、隠遁がいいわけでもない。となるとやりたいことはなくて、それで険しい山道を縦走しているはなぜなんだと自問するが、これがよくわからないのだ。

こういう莫迦な人間もいるということ、そう思っているのが今だと、そして明日になればそれは過去になっていてもうまったくどうでもいいものに変質しているという事も記録しておこう。

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「謙虚」と書いた貼り紙(O先輩への感謝)

2018 APR 21 1:01:31 am by 東 賢太郎

新入社員のころ、メンターだったO先輩に口ごたえして「お前は生意気だ、自信過剰だ、ばかか、学生じゃないんだ、社会はそれじゃ生きられないぞ」と叱られ、寮の部屋の壁にマジックで「謙虚」とでっかく書いた紙をバーンと貼られてしまった。社会に出て面と向かってばかといわれたのは2度しかない。

4年上だから人事制度上はインストラクターではない。当時の支店は大変なところで、入社してすぐの離職が多く、あいつはすぐ音を上げるかもしれんという含みで唯一の同窓同学部だったOさんがそんな役をされていたかとも思うが、仕事もできる人で尊敬してなついていたし、人生相談にも乗ってもらっていた。後にも先にもそんな人はOさんしかいない。

あることで悩み、「そうか、そういうのはな、瘡蓋(かさぶた)になってはがれるのを待つしかないな」と、暗にあきらめろというアドバイスだったが、彼はそうは言わない。瘡蓋、はがれる、待つ、あまりの言葉の見事さが心に焼きついて、それがかえってなぐさめになった。その時だ、この人は天才だと思ったのは。僕が海外赴任中に若くして他界され、貼り紙は今になればなんと有難いことだったかと万感の思いだが、それで謙虚になったかというとだめだった。

これはどうしても自分と野球の関係に逃げざるを得ない。プロに行くようなスポーツ万能の図抜けた人やO先輩のように抜群の知力のある人はそうではないだろうが、ほかに本当に何のとりえもなかった小心者にとっては、野球の微小な成功体験をプライドのよすがにすごすしかなかった。社会人になってもその余勢でつっぱっていたのだということがあの貼り紙事件でわかるが、自分の中では恥ずかしい記憶として消されかかっていることに気づいてはっとする。

おまけに物心ついたら家にネコがいたという事実が重なる。何の関係があるんだと思われるだろうが、就職するまでに多くのネコと兄弟のように育ったというのも人格形成に影響があったとまじめに考えている。ネコはハンターであり攻撃型動物だ。野球でいうと打撃や守備は来た球を迎え打ったり捕球したりの受け身だが、唯一投手だけは一方的に打者に球を投げつけ攻撃一点張りなのだ。ネコに野手は似合わない。その2つが少年期に根深く重なるとこういうことになる、という人間になったとしか考えようがない。

謙虚?なんだって?「いや~僕の投げる球なんてへろへろですよ、ハエがとまりますよ」みたいなこと言えってのか?そんなのは卑屈ってことじゃないか?先輩の張り紙はそう見えていたので、1週間ぐらいではがしてどこかに消えた。

31年の長いサラリーマン生活は、O先輩の警告があって、瘡蓋、はがれる、待つ、の言葉のずっしりとした重みとともに深層心理に焼きついていて、なんとか無事に切り抜けられたのだったと思う。僕は謙虚で優しいのに強い男を何人か知っている。それはある意味で男の完成形だ。攻撃し続けるなんてのは吠えるスピッツであって実は弱い。弱い者の謙虚は卑屈ととられかねないからそうする勇気もない。強い者の謙虚は木鶏のようであり、静かであっても強い。そうなのかもしれないと思いだしたのは、ドイツに不承不承の落胆の中で、心に矛盾を抱えて赴任をした37才のことだ。だからそこで生まれた息子の名には「賢」ではなく「謙」の字をつけた。

 

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あなた変な人ですね

2018 FEB 10 1:01:06 am by 東 賢太郎

クラシック音楽ファンが働く業界ランキングは知らないが、証券業は最下位に近い方であることは間違いないだろう。企業オーケストラはメーカーに多いが商社にもあり、金融だと銀行にもある。しかし証券会社のはきいたことがない。僕のいた会社を思い浮かべても、100年たって富士山が噴火して消えていようと人工知能の総理大臣が誕生していようと、あそこに交響楽団が設立されているとだけは思えない。楽器演奏はおろか、本格的にクラシック好きという証券マンに出会った経験もない。40年近く業界にいるのだから恐るべきことだ。

忙しくて無理というのもあるだろうが、もともと静かに交響曲を聴いたり幼少から楽器を習って学生オケに入ったりという家庭環境の人は証券界のような粗暴な世界には縁遠いのだ。日本だけかと思ったが、米国でもモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスにオーケストラがあるとは聞かないから国際的にそうかもしれない。たしかに、世界の証券マンを見わたしても、バックオフィスはともかくフロント部門には強欲、野獣系が多く、高学歴ではあってもインテリヤクザの観がある。

お前もそうだといわれそうだがそうではない。もともとピアノを弾いたり交響曲をじっと聴いたり系の人間であって、ただ尋常でなく株が好きだ。これは星が好きなのと同系統の趣味で、お買い得の株を探すのが飯より好きである(だからソナー探知機の社名にした)。そこにお金が落ちているのにどうして拾わないんですか?あなた変な人ですねと他人を説得することに情熱が入ってしまう。別にそんなことが生き甲斐でも得意技でもないが、本能、本性なのだからそれで飯が食えるんなら楽でいいというのが僕のようなクラシック好きが証券界に棲息している唯一の理由だ。

一方、証券界に野球好きは多い。きのうは弁護士先生がやはりそうとわかり、都大会ベスト8で京華に負けましてなどときくと神々しく見えてくる。こっちはたいした戦績もないが、わかってくれるかなと話すとわかってくれる。これはキャッチボールしてちゃんと胸元にバシッと速球が返ってくるあの清冽な折り目正しさを伴った感触であって、こう書いてもわかる人しか全然わからないだろうが、わからない人や女子供に話しても「でも負けたんでしょ」で終わるあの馬鹿らしい淋しさの対極なのだ。無理に「へ~すごいですね」と確実に何もわかってないのに言われるとすきま風は倍加するのであって、先生との会話はまさしく一服の清涼剤であった。

硬式野球経験者でクラシック好きとなるとどうかというとやっぱり珍種であることは確実と思われる。野球好きからもクラシック好きからも証券インテリヤクザからも、いったん仲間かなと期待されるだけにそれがかえってあだとなり、えっそんなのも好きなの?あなた変な人ですねと引かれてしまうのだ。だから友達はそのどれでもない人しかいないと言って過言でない。彼らは元から別世界の人としてつきあってくれるし、こちらも無用にそのとんがった所を見せずに平穏につきあえるからだ。

要は「3種混合」であって自分でもそのどれがホンモノかよくわからないというコンプレックスな人間ということになる。既製品の鋳型にはまりようがないから日本で生きにくかったのはそれもあるかもしれない。あえて、どの同種と話すと楽しいかというと、それはもう圧倒的に野球ということがこのところの一連の経験で自覚した。僕は音楽家でも証券マンでもなく、野球人間オズマだったのだ。しかし、ないものねだりだが、色覚さえ普通なら絶対に宇宙物理をしたかった。

ディールの追い込みで3連休など存在しないが、気持ち的には小休止してマサチューセッツ工科大学物理学教授、マックス・テグマーク氏の著書「数学的な宇宙」(究極の実在の姿を求めて)にとりかかることにした。氏は51歳と若いが数学的宇宙仮説の提唱者として知られ、200以上の論文・著作を持ち、その内の、9つは500回以上引用されている傑物である。宇宙のことは誰もわからない。物理学といって哲学に思えるものもある。であれば、おそらく人間の知るワールドで万物の説明言語として最も解明力のあると思われる数学に頼ってみるのが筋じゃないかと素人なりに思うのだ。

中村先生の紫色LEDとレーザーをわかるのに高校の物理の教科書を読んでいるレベルだ、この本が平明に書かれているとはいえわかるとは思えないが、本能的に引きつけられるものがあるから仕方ない。毎日こういうことをする人生も楽しかったろうと思うし、こうして空の彼方を考えているとヘンツェの交響曲が聞こえてきて、やがて星の彼方に父はいるというシラーの詩から第九交響曲が聞こえてきたりする。そうして音楽愛好家の自分がたちあらわれてきて、ますます人間とは何かがわからなくなるのだ。

 

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ベンチャーズ 「アウト・オブ・リミッツ」

2018 FEB 4 13:13:37 pm by 東 賢太郎

2012年9月にブログを始めたが、5年で訪問数が100万になった。ところがさっき見たらそこから3か月で30万も増えている。ペースが変わってる。なんだかよくわからないがネットの趨勢は予想だにつかないもので、このまま10年やったら凄いことになりそうだ。

年をとればとるほど速くなるものなんてあるだろうか?ジジイになれば体の動きも頭の回転も、やることなすこと万事が遅くなるのだ。世の中で速くなるのは時の流れだけで、それがまた損した気がする。訪問数が加速度的に速くなるのはそれをオフセットしてくれるようで、なんだか意味もなく貴いと思う。

サンフランシスコのリッツ・カールトンで、夜中に目が覚めてしまったのでTVをつけると昔懐かしい「トワイライト・ゾーン」をやっていた。なぜか日本ではミステリー・ゾーンだったが、未知の時空に入り込む扉(ドラえもんのどこでもドアの元祖か?)が怪しげであった。日本での放映は1961-67年でちょうど僕の小学校時代に重なる。

ホテルで観たタイトルはKick the canで、老人ホームの爺ちゃんが子供の「缶けり」をやってみよう、若返れるよと言いだすが周りの爺い婆あは信じない。ところがやってみると子供になっちまう話だ。これは60年初めの放送だが監督はまだ10代のスピルバーグだった。

ちなみにこのイントロを我がザ・ベンチャーズが得意の編曲でやっていてVentures in space(ベンチャーズ宇宙に行く)というLPアルバムの最後にあった。時は昭和39年、米ソの宇宙開発競争が話題だった。東京オリンピックはその年だったのか。東名高速ができ新幹線が開通し、科学が人類のフロンティアを広げつつある実感が我が国でも細々とあったが僕の関心は空の彼方にあった。それを掻き立ててくれたのがベンチャーズであり、フロンティア精神のアメリカだった。やがて大学時代に2度、留学で3度目のアメリカが待っていた。そして還暦を過ぎてまた。今日はVentures in space(ベンチャーズ宇宙に行く)を小学生にかえってつづってみたい。

このアルバムはマニアしか買わなかったろうが僕は発売同時に親父にせがんで擦り切れるほど聴いた。精一杯に薄気味悪いサウンドを作ってるのが甲斐甲斐しい。これのコピーとも思しき曲が次のアウト・オブ・リミッツ(境界の外)だ。これはそれなりに名曲と思う。境界はぶち破るものなのか?どこでもドアがどこかにあるのか?わからなかったが、家は貧しかった。それでも微塵も気位を枯らさなかったのは母のおかげだが、ぶち破る道を示してくれたのは父だった。

ドラムなしでクラシックな転調を交えて不気味さを描くfear(恐怖)はベンチャーズの新路線を思わせた。僕は魅入られたがダイヤモンドヘッドのテケテケにしびれてた若者には受けなかったんだろうなあ。

Exploration in terror(恐怖の探検)という題名がそそる。想像がたくましくなる。宇宙探査はきっと飛行士も怖いんだろう。おいおいなんじゃこのオドロオドロしいシンバルの音は!?き、奇っ怪な、ものどもであえ!と身構えると、お気楽にゴキゲンなベンチャーズサウンドが。あれ~、喜劇的拍子抜け感が楽しめる佳曲だがベースの入りの音程が(意図的か?)はずれて異常感があるのと終わってみるとシンバルがまだ鳴っていたのが悲しい。

The fourth dimension(四次元)。これまたそそる。そんなものを器楽でやろうと思うこと自体が理系的で、文系的なビートルズには考えられない。小学生なりに大いに期待したのだが、しかし4拍子はダサいわな。3,4種類のコードじゃ無理だわな。志はともかく、とても文系的であった。

He Never Came Back(彼は帰ってこなかった)。そうか宇宙探査中の事故死か・・・、かわいそうに・・・。ところがなんとクソつまらないドラムスが入り、断末魔の悲鳴が響いて一時の期待をかきたてるものの、何も起こらぬままにクソつまらないロックンロールで終わる。彼はどうなったんだ?謎の曲だ。

The Bat(こうもり)。夕方になると多摩川にこうもりはたくさんいた。確かに滅茶苦茶に飛んでこっちも落ち着かない。これを覚えた僕はJ・シュトラウスのそれに入れなくて困った。ベンチャーズは意図的に音程をずらしてバルトークの四分音みたいな効果を出している。船酔い感が衝撃だったが「四次元」のほうでこれやればいいのにね。

War of the Satellites(衛星の戦争)。衛星に宇宙人でもいたのだろうか。わけわからないが初めのピコピコはエコーが効いてなかなかカッコいい。しかしこれまたあとがいけない。漫画だ。漫画少年だったが僕は月光仮面とかウルトラマンとか、ああいうのはみっともないと思ってた。月光仮面のおじさんはって、お兄さんじゃないのかよ、なんでおじさんなわけ、なにもおでこに三日月はらなくてもいいのに、スクーターってのもだせえな。そんなのを思い出してしまう戯画ロックだ。

Penetration(貫通)。意味不明だがアルバムタイトルのLimits(境界)を突き抜けていくイメージなんだろう。正調のベンチャーズ・アレグロ・サウンドである。最後の方に重なるスチールギター?の音程が低い。これは当時から気になっていたが。

Love Goddess of Venus(金星の愛の女神)。ヴィーナスというのは女神ウェヌスの英語読みで、いちいち言わなくても愛の女神である。やさしい曲想は殺伐、荒涼としたアルバムの一服の清涼剤だが無学のお兄ちゃんにはこの唐突感わからねえだろうな、クレーム来てもいかんなと気を回したごときタイトルである。するとその of は皆さん中学で習った「同格のof」ということになるが僕は所有格と思っていて、金星にはいろんな神がいるんだ、男も女も、愛じゃないのもという理解ができてしまったから迷惑なこった。よく考えると一神教と矛盾するから誤りとわかるのだが、しかし、Love GoddessというからにはGodもLoveじゃないのもいるしそれは of のせいでないこともわかる。そこで調べるとウェヌスは多神であったローマの神だったという決着ですっきりするのである。ちなみにカエサルはウェヌスの子孫を語っているから神は生身の存在だったわけで我が国の天皇の神性の由来に似ている。聖徳太子も馬小屋で生まれたりする。古事記、日本書紀を書いた者が何でもありの多神教ローマを厳格な一神教ユダヤ教でなく慈しみのキリスト教で治めた事実を知る者であった可能性を僕は見る。

ベンチャーズの女神はウェヌスというより加山雄三であるが。

こういう音楽が東京オリンピックで目が世界に開けた日本で、そして和泉多摩川の団地にあった狭い我が家で毎日のように鳴っていた。アウト・オブ・リミッツ(境界の外)は僕のめざすところ、突き動かすエネルギーともなった。結果として大幅に外に出た気もするがまだまだ突破すべき境界がある。そんなのじゃだめよと母の声も聞こえる。サンフランシスコのひょんなことでこのアルバムを何十年ぶりに聞いてしまったが、これが魔法のKick the canだとうれしいなあ。

2018年2月4日

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二十歳までとは別な速さの時間

2017 DEC 14 2:02:39 am by 東 賢太郎

もう師走かとは毎年思うことだが今年はさらに早くやってきた気がする。光陰矢の如しとはいうが、矢は確実に加速している。ゾウの時間、ネズミの時間とヒトの時間は速さが違うという本があったが、浦島太郎じゃないが、同じヒトでも年齢とともに速度は変わると考えたほうが実感にあう。あと何年あるか、10年か20年か知らないが、二十歳までの10年、20年とは別な速さの時間だし、これからの一年一年は今年よりもっとあっという間に過ぎてゆくのだろう。

先週に社員と食事したおり、「あした死んでも悔いないよ」とまじめに言ったらびっくりされた。その日はまさしく本当にそうだったのだが、今日は「明日じゃまずいな」という形勢になっている。ずいぶん日和見と思われるだろうが、取り巻く仕事の事情がそうなので、ここでいなくなったら大変だということになってきてしまった。これは仕方ない、お天気と一緒だ。

悔いないよという日にあっさり逝くのがベストなのは言うまでもない。ということは、いつその日が来るかわからない以上は毎日その状態になるように生きていくのが理想ということだ。楽しいことはもう十分にやった。そのうえで、僕はいつも「人生のバランスシート」が頭にあって、世の中、周囲の人々との様々なものの貸し借りが均衡しているのが安寧で心地いい。その状態こそがそれである。簡単なことに思われるかもしれないが、これは実に大変なことである。

今週月曜にあったT社長の社葬で、写真の元気なお顔と耳慣れた語録を拝見、拝読しているうちに涙が止まらなくなった。4年前にミクロネシア・トリップで知り合って、それ以来、まだ社業に不安だった僕に夢と生きる力を下さった大恩人だ。強烈なインパクトの方だった。僕は自他ともに認める頑固者である。いまさら少々の経営者のいうことなんかきくはずもない。そんな種類の人間が、しかも還暦にもなってだ、こんな邂逅があろうとは想像だにできないことだった。涙は、なんにも恩返しできなかった悔し涙だ。

喪中葉書が例年にない枚数やってくるので年回りというものなのだろうが、死というものがこんなに身近な年はなかった。何度も心がぽっきり折れたが、そのたびに「もっと何かしてあげればよかった」という悔いが湧き起ってきて、いただいたものに報いずに自分が折れてしまうとその悔いは倍加することに気づくのだ。それが反動になって立ち直ることの繰り返しである。人生のアンバランスがいけない。であれば今つきあいのある人、以前でもなんらかのご縁のあった人たちに「何かしてあげる」ことに今からでも精進すべきなのだとなる。

お世話になったという気持ちは一方的なものだから相手がそう思ってない場合がある。いやむしろ、見返りを期待しないお世話ほど僕に重たいものは世の中にない。そういうものを見過ごしたり忘れたり、ただ取りしてしまう人もいるが、ビジネスはそれでも許される。だから相応の対価(お金)を払うのであって、あげた以上の見返りを期待する前提のものなのだ。証券界で生きぬいてきた人間だから僕はその世界では氷のように冷徹だし、過分に見返りを取ろうというたくらみを見抜いてつぶすのに情け容赦はない。しかし、だからだろう、見返りを期待しないお世話というのは別世界のことで、プロットする座標軸がない。T社長が「僕はおせっかいなんです」とくだっさたのはそれだったのだ。だからいい歳した男があり得ないことだが、ぼろぼろ泣けてきたのだ。

たとえば母が何を期待しただろう。自分も親になって知ったが親の愛にそんなものはない。だからこそ僕は千倍万倍にして返したかったが、結局は自分が満足だとまで思い至るのは叶わないことだった。だからだろうと思っている。最後の最後、認知症で意識はなかったが看病で少しでも良くなるぞと信じ、夜を徹して声をかけたり音楽を聞かせたり肩をもんだり手足をさすったりして、寝不足と体力の限界で僕がへとへと、ぎりぎりになったのを見届けたあの日に母は決意して逝ったのだ。僕にここまでやったと思わせようと最後の力をふり絞ってがんばって、病室で9日間も一緒に過ごす時間をくれたのだ。なんということだ親というのは。

何かのご縁のあった人は少なくない。百人ぐらいはこっちが勝手にお世話になったと思っているし、おせっかいなことなのかもしれないが、なにか返したい。その機会と時間がいただければの話だが何もしなければそれは永遠にない。こうして自分の過去と思いを記すのもその衝動があるためかもしれない。あと何年あるか、10年か20年か知らないが、二十歳までの10年、20年とは別な速さの時間。これとの戦いなのだろうか。

 

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1万円も1億円も同じ金融屋という景色

2017 NOV 25 15:15:52 pm by 東 賢太郎

われわれ金融屋というのはお金は「商品」であって、自分の財布にある1万円札も1億円もおんなじという常識ばなれした感覚を持っている。金融機関に長年勤めればそうなるということではまったくない。良いか悪いかは別として、単なる適性の話として、そうなれる人となれない人の比率は金融機関勤務者とそれ以外でとくに差はないと思う。今回はそういう眼を持ってしまった者から見た景色がどんなものかをお話ししたい。

我々普通の人はハンバーガーは食べるものと思っているから「それを5個」と聞けば「そんなに食べられない」という意識がつい出てきてしまうが、マックの経営者からすれば100個も1000個もただの数字であって食べ物という生理的感覚とは仕分けされているはずだ。お金が商品の人の感覚はそんなものであって、銀行の頭取や証券会社の社長が融資額や売買代金が少々減って自分が懐を痛めた感覚になっては経営にならないのである。個人によって程度の差はあるが、僕の場合、1000億円あたりまでは財布の1万円とおなじ感覚である。他人のカネと自分の財布を峻別するのがこの商売の絶対要件の倫理観なのだが、それとは別個の感覚として1000億円を客体視できるようになるのだ。

最近は紀尾井町まで行って帰ってきて1円も使ってないことも珍しくない。他人のカネと自分の財布は峻別なのだから矛盾のようであるが、貯めてるのでもけちっているのでもなく、カネは商品だから不要なことに使わないという倫理観は財布にまで染みついているのだ。それを欠いた人が100億円もおんなじとなれば大事件が起きる。昔、大阪のキャバレーのおっさんが「わしら店の女の子に手だしたらあきまへん、商売になりまへんわ」と教えてくれたが、実に商売に不可欠な倫理観の真理をついた言葉だ。僕らもそんなものがあり、他人のカネの増減が財布のひもをしめたりゆるめたりはしない。そこまでいかないと他人の100億円は扱えないのである。

つまり金融屋が守銭奴やビッグスペンダーであるゆえんはぜんぜんないのであってむしろ逆である。今日は儲かったからパッといくぞ~と札びら切るイメージがあるだろうが、そういう性格の人はいい金融屋にはなれない。カネに甘く倫理観がない。一方で、一代で資産を築いた人は金融屋でなくても大なり小なり似ている。あんなにお金持ってるんだからこのぐらい出してくれるだろうとチンケな儲け話なんかもちかけても絶対に出ないと断言できる。そんなのに乗るような性格の人は金持ちになれない、なぜかというと、それに1円でも出す規律の甘さは店の女の子に手を出すようなものだからだ他人のカネや商品を扱う資格はなく、信用されない。信用がない人は事業ができずカネがないからだ。カネに対する倫理観は他人勘定か自己勘定かには関わらないところが共通しているのである。

困ったことには、そうなると「お金は使うもの」という意識が希薄になっていくことだ。単なる数字だから、この1万円札であれを買おうなんてことは二の次であって、どうやったら2万円になるかしか浮かんでこない。相場は24時間動くので寝ても覚めてもだ。これはゲームで点数を増やすのとおんなじだがゲームは終わりが来てもこれは死ぬまでやめられない。こんな人生を「楽しい」と感じるか「苦役」と感じるかがいい金融屋になれるかどうかの分岐点だ。

昔はよく「わたしの10万円ふやして」なんて飲み屋でいわれた。NOだ。「なけなしのお金」はだめなのだ。株に絶対はなくてこっちの「指し手」がおかしくなる。そんな甘い世界ではなくイチローだって絶対ヒットという方法はない。ちなみに現時点でソナーの今年の運用助言成績は+29.1%だ。お正月の100万円が129万1千円になってる。でも、彼女の10万円をうけて「絶対打ってね」となると、手元が狂ってファンド全体でそういう成績が出なくなるかもしれない。理屈はないがそんなものであって、そういう危ないことはしない。

銘柄を発見するアナリストの雇用体系は時間の縛りはない。ほとんど投資する候補の会社を回って経営者に会うという情報収集だが、そのまま帰宅しようとどこへ行こうとかまわず、そのかわり結果は出してねということ。それで毎年ちゃんと20%は出してるんだから超低金利の世の中で何の問題もない。こういう人がスナイパーであって、僕がスナイパーしか使わないのはこういう仕事だから道理なのである。たかが20%と思う人もいるだろうが、4年続けば元手は2倍だ。

初心者が50%も100%も儲かることはあるがそれは異常値にすぎない。ビギナーズラックである。良すぎはリスクの取りすぎの結果であって、次の年にマイナス50%になることも大いにある。毎年プラスゾーンにいることに価値があるのでプロには「良すぎ」はバツのシグナルだ。減らさないだけで難しいのは5年もやったらわかる。イチローはホームランも打てるがそれは狙わないで打率3割(失敗率70%以下)を何年も連続したから何十億円をもらえたことがその証拠だ。勝負は長丁場でも負けないことに価値があるのである。

彼の才能と言えどもそんなスナイパー人生を送るには命を削る努力が日々あるはずだ。そこまで削る必要のないサラリーマンの人生と比べることはできない。年間の運用アドバイス料で一般的な2%をいただくとして、10万円だと2千円、100億円だと2億円だ。しかし、どちらもやることは同じで削る命の分量も一緒なのである。2千円と2億円は払う人の懐具合しだいで重みは一緒だ。命の代金が2億円とするなら、2千円の人を集めると10万人も必要である。10万人の観衆に「毎打席ヒット」を期待されたらこっちの人生が破滅するだろう。

だから投資信託というものは、少額でも運用の規模の利益が得られるというプラスはあっても、その運用者の人生を破滅させない仕組みでないならばその仕事の引き受け手はなくなるという宿命にある商品なのである。それは、運用者はすべからくサラリーマンであるということを意味している。彼がどんなに深遠な運用哲学を語ろうと、損を出しても運用会社をクビにならない雇用契約で働いている以上はその宿命から逃れることはないし、サラリーマンに僕と同じことができるとは考えていない。逆にそうではない自営業者の僕は、心労だけが10万倍になる投資信託ビジネスをやろうという意欲は100%ない。

僕がこの仕事をしてよかった、性格に向いていたなと思う反面、何のために生きてるのだろうと愚痴りたくなるのはカネの使い方をまだ知らないからだ。儲けるのも難しいが使うのも本当に難しいと思う。うまく使うというのは何かを安く買うということではない。食事するのに安いからこの店に入ろうということはなく、おいしくないものがいくら安くても意味ないのであって、満足感を買うのに千円か一万円かは本来は関係がないはずだ。現実に屈してしまって仕方なく千円の食事で満足できる自分に「自分を教化」していってしまうと、実は知らず知らず千円の価値の自分を作ってしまう。

自分に投資しろとよく言うが、あれは本当だ。無理してでも一万円のものを食っていれば自分もその価値になる「可能性」だけはあって、だんだんそれが食えない自分がつましい、食える自分でいたいと感じる自分ができてきてくるだろう。少なくとも、願わない自分にはなれないとだけは言える。一万円の料理はそれなりの手間、サービスが費やされている。他人にサービスしてもらうには自分自身が価値がある、価値を生み出せる人間でなくてはないらないということであり、それには努力を要し、時には命を削らなくてはならないことを悟ることになる。

そこまでは62年生きて分かったつもりだが、では僕が社会に何の価値を生み出しているのか、何のために働いてきたのか、まだまったくの未知数だ。もう自分に投資する年ではないし、それはきっと使い方のきれいさにかかっているのだろうが、人生で一番難しいことかもしれないと考えている。

 

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あいつはどうだ?と聞ける人

2017 NOV 10 0:00:40 am by 東 賢太郎

「・・・そうかお前も元気だな」「そりゃそうじゃなきゃこんなポストつとまるかい」「あっちはもう心配するな、なしだ、いいな」。無言。「あいつはどうだ?」「使えない、へたするとおじゃんになるぞ」。無言。「じゃあな、わかった」。

これはスパイ映画のシーンではない。最近ある会社の経営者と電話でかわした会話だ。こういうことで会議が招集されたり人事が出たりする。二人以外は誰も知らない。自分が彼の立場だった時も、こんなものだった。

密室政治はけしからんとか世間の実相を知らない人はいうが、知らない人は知らないだけだ。良かろうが悪かろうがやるのは人間だ。どの国の元首だってマフィアのボスだって、自分の権限で孤独に決めなくてはいけない重たいことは、最後の最後はこんなもんだと思う。

相手が腹心かというと、そうとは限らない。僕は彼の部下でもコンサルでもない、長く信頼関係にあるだけだ。腹心を作るとむしろ危険である。イエスマンは100%害だ。会議も、自分は議長でない方が良い。頼れるのは正しい情報と研ぎ澄ましたセンサーだけだ。仕切るより耳を澄ませだ。

センサーは自分で磨くしかない。人と会うこと、取引すること、それ以外にない。顔色を読むのでなく(不要だ)、反応を類型化することである。同じ人種もその中に細かく人種がある。それを分類するのである。これなしに営業やらマーケティングやら、まして経営などがわかる道はない。

最後の最後は自分でほんとうにわからなくなることがある。第三者の目がほしい。能力はわかってる、でも「どういう人?」ということについてだ。だいぶ前に僕はある男を飲みにつれて行って、それが目的だったのだが、女将に理由を言わずそうきいてみたことがある。

ばかなと思われようが、社内でそんなことは口が裂けてもきけない。それに女性のセンサーはちがう。利害、感情でモノを言わない人なので聞きたかった。想像だが寺田屋で龍馬を逃がしたおりょうはそうだったんだろうし、横浜富貴楼の女将お倉はあの伊藤、大久保、板垣らが話をききたがった。

こういうことは料亭文化とでもいうか、日本特有かもしれない。女将が組織のグルならどこでもあるだろうが、彼女らはスパイでも愛人でもハニートラップでもない。今なら大統領、首相、閣僚級の男たちが与太話でなく密談したい。女にも大物、小物というものがあるのである。

個人的に酒席で与太話は好きでない。接待はするもされるも好まない。酒は飲まれないように嗜みたい。

 

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洋モノ美しいもの好き

2017 OCT 26 23:23:04 pm by 東 賢太郎

いつだったか、この本を買ってきていたく感動して一気に読んだ記憶がある。そうしたら昨夜たまたま寝れなくて見ていたTV番組に本の主人公のモデル、サンモトヤマ創業者・茂登山長市郎氏が登場していた。氏は終戦後の銀座に闇屋を構える。初めは進駐軍のつてで米国品を輸入したが、出会った写真家・名取洋之助から「美しいものが好きならヨーロッパに行け」「まず美術館と教会を観ろ。一流ホテルに泊まれ」と言われる。単身パリ、フィレンツェに出かけ、グッチ、エルメスなどの日本独占販売権を獲得する。ひたすら美しいものを追い求め日本に欧米ブランド文化を根付かせた男の熱い一代記だ。

感動したのは魅せられたグッチに毎朝毎朝10時の開店と同時に通いつめ、とうとう会えたオーナーに「日本を俺にまかせてくれ」と裸一貫でぶつかったことだ。その情熱が通じて、ちょとした運も助けてくれて、その場で「やってみろ」と認められていく手に汗握るくだりは野村證券に入社してすぐ、かけだしだった2年半の忘れられない大阪梅田支店でのあれこれと重なってしまい感情移入なしにはいられない。こんな人がいたのかと心にずしんと響く音を聞いてしまったのだ。

本で強く印象にあった茂登山氏は、想像通りの魅力的な人だった。着ているシャツの色。「だってウチはサン、太陽でしょ、だから赤と黄色が好きなんです」なんて、何の理屈もないが、うんなるほどと腑に落とされてしまう。こういう人は学友にはいない、そういえば証券会社のお客様にいたなあと思った。僕はこの商売を始めるまでは営業マンなど程遠いかなりの人見知りで、初めての人と気軽に友達になったり長く会話することさえない性格であり、証券の仕事で出会った人間力あふれる先輩やお客様にそれを直してもらったようなところがある。

ただ例外があって、何であれ、どんなジャンルであれ、語ることに情熱と自信があってリスペクトできる人は昔からその限りでなかった。氏素性でも勲章でもなく人としてのヴァリュー、生き筋の良さとでもいうべきもので、氏はまさしくそれをお持ちの人であって、好きなことをぜったいの自信をもってやってるから言葉が重たくて歯切れがいいのだ。ああいう人はどこにもいるようなもんじゃない。頭脳明晰、理路整然の言葉を吐ける人はいくらもいるが、大体において男としてつまんないヤツばかりだ。

やっぱり洋モノが好きな僕は、氏と同じ時代に生まてたら闇屋をやったかもしれないと見ていて思った。外人相手の仕入れの交渉なんてさぞエキサイティングだろうとわくわくするのは商人の血が流れてるからか。そして何より、美しいものが好き。氏の人生を動かしたそれが、譲れないほど僕にもある。そうするとどうしたってヨーロッパ、洋モノになってしまうのだ、パリやロンドンやウィーンやローマの記憶に今だってどんなに魅せられていることか。

先日娘の誕生日に「お父さんの人生はね、お前たちが生まれたヨーロッパ時代までが上昇、そこからずっと下降だよな」と話した。そのまま終わるのは嫌だとまだやってるが、でもあした死んじまってもけっこう満足だぞ。そのぐらいね、サラリーマンではないぐらいいろいろすごい経験させてもらって、ここ(心)にはいい思い出がごまんと詰まってるんでね、とも言った。まさしく本音だ。これは野村という代え難いほどいい会社に入れてもらって、自分から希望したわけでないがきっと阿吽の呼吸で好きが伝わって12年も欧州赴任した。こんなラッキーな人生はまたとあろうか申し訳ないとまで思うが、それがまた上掲書の氏のことに重なってしまうのだ。

思えば僕にとってクラシック音楽も洋モノ好きの一部分だった。いまだってそうだ。レコードなどまだまだ戦後の闇屋、バッタ屋っぽかった秋葉原で電器屋が売ってたのであって、髙島屋なんてお品のある所じゃない。1枚2千円で欧州をのぞけるウィンドウだったのだが、のぞいた景色は大変上等だ。そんなものを闇屋風情で自分の眼で選んで買うミスマッチも味があった。本当は絵の方が好きかもしれないが色覚のせいでひけめもあって、でも子供の時、楽器や歌でほめられたことは一度もないが絵はおおいにそれがあって、こっちのほうがもっと適性があったかもしれない。だからこそ、ビジュアルな美を求める茂登山氏の世界には他人事でない感じがあるのか。

番組でもうひとつ、六本木のイタリアンレストラン、キャンティのオーナー夫人・川添梶子も面白かった。旦那の川添氏は後藤象二郎のお孫さんだ。客は著名人、といってもアート、芸能系で、まあパリでいうサロンみたいなもんだろう。梶子は昭和3年生まれでお袋と同じ。やっぱり洋モノ美しいもの好きで、やりたいことやって早くに亡くなったが見事な人生とお見受けした。お袋が僕を成城学園初等科に入れたのは自分がこういう世界が大好きだったからだが、見ていてよくわかった。そういうのは縁遠かったが、出てくるキャンティの客人はみんな人間的魅力があって、なんかほわっとしたこういうのもいいなと思った。

先日、T社長ご逝去の知らせで某弁護士から「我々にも、残された人生の時間はそんなに長くないことを肝に銘じて、仕事や遊びに励みたいと思います」と彼らしいメールがあった。そうだ、そういうトシなんだねと思わざるを得ない。そういうこともあって番組見ながら「ところで今まで俺って何やってたんだろう」という自問の気持ちも出てきたりして、「ここまでおかたい金融屋の父親路線できているけどゆるいお袋の方もいいんじゃないかな」と横恋慕しそうになってくる。お袋は喜ぶんだろうなそれを。なにせ美しいもの好きばかりはそっちの遺伝だ、どうしようもない。

 

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