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カテゴリー: 自分について

奇々怪々な脳ドックのMRI画像

2020 OCT 21 22:22:18 pm by 東 賢太郎

脳ドックでMRI、これがいけません。トンネルに入れられる方式は耐えられない閉所恐怖症なのです。そういう人は結構いるそうで、オープン型マシーンを置いている所が人気です。それをトライしましたが、床屋もだめなレベルですからそれでも危機的でした。

画像を見せられました。自分の写真でこれほど妙なものはありません。下の方にチューブみたいのがぐるぐるあったりして、こんな奇怪な物体が俺なのか?と思うわけです。画像をいくら調べたって、僕という意識がどこにいてネコ派だなんてことはわかるはずない。何兆個あるか知りませんが全部の細胞をバラバラにして分子レベルまで調べたってわからない。

どの部位を破損すると何ができなくなるかはわかるそうですが、その理由はわからないそうです。そして、その脳を使ってる僕自身にもわからんのです。よく人生訓で「己を知れ」といいますが、己はたぶん脳なんで、じゃあわからないです。わかる方法は、いろいろ仕事させてその結果を見るしかありません。

8月に浸水した地下の荷物をひっくり返していたら、浪人時代の予備校の成績表が出てきました。いちばんハードな仕事をさせた結果で貴重なデータですが受かってしまうと用済みで中身は覚えてません。まず、思い起こせば僕は不得意な国語の勉強時間を削り、暗記で伸びそうな英・社に回したのです。それは失敗だったことがわかりました。なぜならその2つは偏差値がさっぱり伸びず、ずっと65前後というデータがいま目の前にあるからです。

逆に、伸びたのは理科の84、数学の81、三番目がその国語の75で、この3つは天井も高いが不発だと50代もあり、順位だと全国1番から2千番までと天国と地獄でした。つまり英社は「平凡安定型」(失敗しないので型)、理数国は「巨大バラつき型」(大バクチ型)で、これが自分の脳ミソの個性だったわけです。

そこで国語です。見ると70代が2回出て全国14番までなってますがまったく記憶がありません。英・社は何千回試験受けても絶対にそんなことはおきない自信がありますが、国語もそうだと思ってました。実は「巨大バラつき型」だった。イメージが大きく変わりました。社会に出てお世話になったのは国語力だったかもしれないと思うようになりました。

ここまで人生大きな悔いはありませんが、ひとつあるとすると「巨大バラつき型」が活かせてないことです。ホームランしか狙わず、バントとか進塁打には何の情熱も湧かない脳なので、持って生まれたものに逆らわずこれから狙います。

こういうデータは脳ドックでは出てきません。出てきたのは「問題ありません」の1データだけでした。

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安田、ひるんだら負けやぞ

2020 OCT 5 18:18:50 pm by 東 賢太郎

今年は野球観戦はもっぱらテレビですが、1度だけ東京ドームに行きました。阪神戦です。巨人は田口で、遠投を見ていて今日はいいなと予感しました。案の定、138キロぐらいの直球でぐいぐい差し込んで楽勝の完封かなという展開に。7回1失点で替わりましたが、唯一の先頭打者ヒットを打たれていた近本を見逃し三振に取った外角低め、これも138なんですが、観衆5千人のドームに響き渡ったミットの音は雷鳴の如き凄まじさで、プロの球はあんな音がするのかと絶句したのです。遠投はリアルに実感できますが、あの音は人生このかた聞いたことがない。グラウンドにいたら怯(ひる)んで凍ったでしょう。田口を速球投手という人はいません。138は素人でも出るし、後ろを守ってる野手の方がひょっとして速いでしょう。でも彼らが投げれば打たれます。ピッチャーしか投げられないストレートというものがあるのです。

ロッテに移籍した澤村がいい投球をしています。以前に東京ドームで何度か観た彼は150は軽く出ていましたが、一生忘れない田口の138に比べたら全然印象がありません。それが今は様変わりで鬼気迫るものがある。157出る上に、フォークかスプリットか、とにかく変化球が150(!)。あんなものを打てる人間がこの世にいるかと思っていたら、先日テレビで日ハムの渡邊との対戦があって、これが凄かった。全球150超え、全球ファール。フォークも当てる。渡邊は澤村に微塵も怯んでない。ファールが5、6球続いて、明らかに、澤村が追い込まれてる。そういうのはピッチャーの端くれだからわかります。結局、渾身の157を完璧な当たりで三遊間を割られました。ハブにマングース。記憶に残る稀代の名勝負でした。日ハムファンが「直球破壊王子」と書いた紙を振ってるではないか。なるほど、そうなのか。東海大甲府か。一皮むけたらどうしようもない打者になるなあ。でもあそこで120のカーブで三振だったな。澤村はないんだなあ。

ロッテは福田の復帰が大きいように思います。彼は182㎝ですが細身だからか打席でデカく見えます。インコースは引きつけて真芯に乗せて軽く右翼中段まで運ぶ懐が深いスイングで、ホークスにいた時に嫌だなあと思ってました。先日の10月2日、3-2で負けた日ハム戦のことです。21才の若さで4番を任されている安田が、二死満塁で宮西の真ん中低め直球を見逃し三振してゲームセットになった。「この馬鹿、振れよ」と怒鳴って僕もテレビを消したあれ、全ロッテファンがっかりのシーンだったのです。それが祟(たた)ったか翌日も西武のニールに抑え込まれ0-0で延長になだれ込み、10回に澤村がメヒアに一発打たれてロッテは1-0の完封負け。最悪のムードになりました。これはいかん、ホークスはしぶとく負けないしずるずる後退かと思ったのです。

しかし、この試合、一縷の望みがあって、わずか2安打だったロッテの9回、安田がクローザーの増田からセンターフェンス直撃、あわやサヨナラ本塁打という2ベースを打った。彼はこの試合、4の1で三振もありましたが、ぜんぶ振ってました。そしてその翌日の西武第2戦、劇的なことがおきます。安田は3回の二死満塁でまた凡退します。そのまま3-0の嫌なムードで負けていた6回、まず、福田がスリーランで同点。そして、7回。二死一二塁と再度の好機にまた安田。すると福田が近づいてきて二言三言。あとで報道で「怯(ひる)んだら負けやぞ」と檄を飛ばしたと知りました。そして、その安田がスリーランで逆転。漫画でも出来すぎのストーリーで逆転勝ちをおさめるのです。第3戦でも2ベースを打ってお立ち台の安田は、あの日ハム戦の見逃し三振でビビッて考えこんでたら打てなかったろうと思います。失敗はめげずに吹っ切ってやれば、若者は必ず成長できます。

先週たまたま野村の副社長だった大先輩が来社され、ひょんなことからあんまり思い出したくない若気の至りの昔話になりました。海外のディールで僕は本社の課長として国内の営業体に300億円の株の販売予約をさせました。これは営業への僕の信用でやったことです。ところが、あらんことか急にその株の引受がロンドンでキャンセルになってしまい、なんだこれはと大問題になったのです。夜も眠れず、完全にクビを覚悟しました。翌日がっくりしていると、常務が席に来られ「東、一緒に来い」と肩をたたかれます。向かったのは社長室でした。「社長、この件は東の責任ではありません。引受の判断として一切間違ってもおりません。おかしいと言われるなら、私は引受担当常務を辞めます」とおっしゃった。びっくりしました。僕が無罪放免だったのは言うまでもありません。「ひるんだら負けやぞ」は、僕はこうやって叩きこまれました。

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僕のライフワーク(田中平八と真崎甚三郎)

2020 OCT 3 9:09:11 am by 東 賢太郎

だいぶ前に先祖の “天下の糸平” こと田中平八のことを書いたところ、お読みになられた親戚の方から丁重なメールをいただきました。ありがとうございます。

信州の駒ケ根、伊那、飯田を訪問したのは前々職にあったころ、ただ一度です。2006年の秋だったでしょうか、当時、SBI証券副社長でした。伊那支店長に案内されてゆかりの地を回りましたが ”糸平さんの子孫” と紹介されるや何処でも恐縮するばかりの歓迎をいただいたことを覚えています。連れて行ってくれた支店長に、この場を借りて深謝します。

宿は高遠の温泉旅館にとりました。著名な桜の名所ですが秋もよろしく、湯も食事も堪能しました。高遠は武田勝頼の弟である仁科盛信が籠城し織田信忠軍に滅ぼされた激戦地です。勝頼が天目山に敗死してから武田一族は天下に流れ、高遠にほど近い信州赤穂村(現・駒ケ根市)に隠れて藤島を名乗ったのが平八の十七代前だと早乙女貢著「天下の糸平」(文春文庫)に書かれています。メールをくださったのは、その藤島様でした(平八の幼名は藤島釜吉)。

メールによると「来年の渋沢栄一大河ドラマにつき、駒ヶ根地域おこしで駒ヶ根シルクミュージアムで天下の糸平パネル展を行っておりその関係でいろいろと関係者が聞きに来ます」とのこと。行きたかったです、テレビに疎く知りませんでした。健在だったころ叔父が仕切って、母方一族郎等で平八の墓がある横浜・良泉寺、伊藤博文筆の ”天下の糸平”の石碑がある墨田区の木母寺へ参ったりしてましたが、世代が変わるとそれもなくなって寂しく思っていたところでした。

田中平八(1834~1884)は横浜開港と同時に英国人相手に生糸の商売をし、両替商、東京証券取引所発起人、銀行家でありましたが、僕もそれらの業務で家族を食わせてまいりました(ただしまったくの偶然の成り行き)。いまも何の疑問もなくそれをしており、特に外国人と株式取引をすることは、好んで選んだわけではないですがやっていて楽しくて仕方ない天職の域に感じます。

僕は平八の姉の玄孫でDNAは16分の1ですが、学者、官僚タイプでなく根っからの商人であること、それも彼とまったく同じ証券、金融の道で自分の腕一本で食ってきたという自負はございます。渋沢栄一は、彼を古川市兵衛、三野村利助と共に「財界における3傑」と評し、「いずれも無学でありながら、これほど非凡の才能を備えた人を見たことが無い」と評したそうですが、お言葉ですが僕はビジネスの現場で学が必要と思ったことは一度もありません。

平八の生涯は資料が潤沢とは言い難く、評伝はどれを見ても同じことが書かれています。稀代の相場師と喧伝されていますが、商売は仕入も販売も相場でありそれに長けていたのは当たり前です。伊那の農家の三男坊にとって出世のための蓄財のいち手段にすぎずそれが職業のように書かれてしまうのはおかしい。彼は政治家とつながってはいましたが権力に執着は見られず、熱海の水道・電話線を私財で架設するほど財を成し東証の大株主でも銀行のオーナーでもありましたが、座った公的ポストは東京米商会所頭取ぐらいでした。ポストで人を見る日本において評価が定まりにくかった原因はそこにありましょう。

藤島様とは来年にお会いし、 “天下の糸平” の系図や資料を共有させていただき、事績を彼と同じビジネスの目で評価し、できれば何か書き残したいと願っています。これともうひとつ、我が祖母・真崎ミカと2・26事件の陸軍大将・真崎甚三郎のつながりを調べることがライフワークです。

 

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魅力ある株を探しだすことは最大の趣味

2020 SEP 13 1:01:11 am by 東 賢太郎

ソナーという社名はソナー探知機からとった。それは僕の最大の趣味が、魅力ある株を探しだすことだからだ。野村時代にドイツでSAP、香港で超大現代農業という株を見出し、どっちも株価は10倍になった。飲み屋で中国人のお姉さんに儲かりましたと感謝されたが、一介の証券マンが世間様のお役にたつなどその程度のものだ。中国人もアメリカ人も不労所得はいかんなどと辛気臭いことを言わないのは実にすがすがしい。労働は尊いものだという価値観が日本にはあるが、キリスト教国では労働は悪であって、だから早く帰宅するし休暇も1か月も取る。ドイツ人などその最たるものだ。別に日本の文化にケチをつける気はないが、だからといってお金に働いてもらうのがおかしいということはない。この妙な考え方がコロナ経済下で二極化批判のダシに使われるなら人生百年時代の日本国民の資産形成には絶望的な話だろう。

僕は勤勉実直でお堅い銀行員の息子である。「アリとキリギリス」や「小原庄助さん」の訓話で育ち、二宮尊徳は偉いと教わり、「学生の仕事は勉強だ」といわれて官僚養成所の学校に進んだ。労働が尊いと思うようにはならなかったが、食うために働いて自助努力するのは当然という価値観はできた。そこまでは親父の計画通りであったが、無計画にアメリカへ2度行って放浪し、本能に従って進路を勝手に決めた。計画からは180度ずれ、親不孝になってしまった。なぜあんなに熱病みたいにアメリカへ行きたかったのかは長らく謎だった。どういうわけか、ほんとうに忘れてしまったのである。ずっとベンチャーズの影響だろうと納得していたが、ちょっと動機としては弱いと思っていた。ところが先日、CS放送で刑事コロンボをやっていて、「これ、夢中になって見てたよなあ、こうやって犯行がバレるんだよなあ」となつかしく思い、いつごろだったかなとwikipediaでシリーズの初回放映日を調べてみたら、まさにあのころだ。そうか、これだ。

思い出した。成功者でセレブである犯人たちの大豪邸だ、それが頭に焼きついたのだ。やっと合点がいってくる。なるほど、だから最初に行ったのが西海岸だったのか。あれに憧れて渡米し、ハリウッドやビーチの豪邸を眺め、ああいう生活ができる富がほしいと思って帰ってきたのだった。劇的なカルチャーショックだったのは、アメリカのセレブに官僚やサラリーマン出身はいないことだ。会社を興した事業家であり、歌手やスターであり、スポーツ選手であり映画監督であり、弁護士や医者であり、何であれ才能で輝いて自営業で自由に生きてる連中だ。そうでなければMBAをとってウォールストリートでサラリーマンとして高給を取って元手と人脈を作って勝負するわけだが、これは才能がないほうの連中の道だ。

そういうことをカリフォルニアで現実に見知って、ウチに資産はないから自分で稼がなくてはいけないと思った。なんのため?ああいう家に住むためだ。男の人生最終の通信簿はどんな家に住めるかだと思うようになった。あんまり子孫の名誉にもならない話だが、僕はそんな動機でなんとなく進路が決まってしまったことは否定できない。菅さんが上京して段ボール工場で働きながら天下国家を動かす道を志したと聞くと恥ずかしくなる。しかもサラリーマンという一番なる気のないものになったわけで、その理由はといえば何の才能もなかったからだ。才能というのは先にあるのではない、やってから、あったねとなる。だから何もしなければないし、やってみないとあるかどうかは誰にもわからないのである、などと今になって慰めてもいるが。

最大の趣味が魅力ある株を探しだすことだと知ったのは野村證券に入ってからだが、日本のウォールストリートで富を作りたいのだから当然だろう。10倍になる投資というと株しかない。1、2割もうかるなどという話にはさっぱり興味がなく、30年も証券マンをやってきてお客さんに債券を売ったことは一度もない。こういう人間にとって、個人営業で大坂を駆け回った平社員時代は楽しかった。君は面白いやつだと、小僧が絶対に会う事もできない大物のお客さんたちにかわいがってもらったからだ。そこで株式投資を通して生活やお金への考え方や処世術をじっくり学ばせてもらい、実は素顔は名刺からは想像できない普通の人だという事もわかった。

役員や拠点長になりたくて頑張ったからサラリーマンはやっていたわけだが、その動機は出世すれば大いに給料が上がるからである。しかし、なってみるとそれでは足りない。トップになっても大したことはないだろう。すると、職務規定で株を買えないという本末転倒は人生のゴールに向かうにはナンセンスだったし、自己都合の退職はいずれ来るべきものだったと思う。起業が絶対だったわけではない。デイトレーダーでもよかったが、出資してくれる方が現れそれはなくなった。人様の資金を増やすとなるとひとりでは弱いからだ。そこでSくんに出会ったことは幸運だった。渋谷の中華料理屋で初めて会って、彼と会社をやろうと即決した。同じ趣味の持ち主だったからだ。

生命保険会社で運用キャリアをスタートしたSくんは儲かる株を探す求道者でありマイスターである。何時間語り合っても疲れない、そこが同じなのだ。こういう仕事はいい意味でオタクでないとできない。Sくんがやって資金は3倍になったがこれは偶然でも不労所得でもない、あらゆる経験と知恵を使って労働して出た利益である。だから報酬は相応に頂くしお客さんにご満足いただける。知恵の勝負で労働が見えにくい金融業は成功して顧客満足があってナンボだ。成功報酬なるものを成功率5割の人がもらう資格はない。一発屋がビギナーズ・ラックでもらえるものでもない。満足な結果を5年以上継続して出すのは統計的に至難とされる。彼は20年も出している。説明はいらない、それがすべてだ。

僕に彼の才能はない。ただ彼が異能の人だと見抜くことはできて、組む利があると判断した。彼のほうはデイトレーダーでも問題なく食えるが、なぜ僕と組んだかというとそのほうが利があるからだろう。彼の利と僕の利は中身は同じではないだろうが、会ったときに1+1が2以上になるとお互いが思ったということだ。パートナーシップ、成功するwin-win関係とはこういうもので、こと人に関しては直観、第一印象を大事にしている。見かけや服装ではない。話してみないとわからない。どんなに家柄や履歴書が立派でいいと思っても、僕は理屈ではなく決める。どうして自分がそうしたか自分にも説明はできないが、それに逆らわないことにしてきて失敗してないからそれでいい。

だいぶ後になって執行役員のKくん、Dくんが加わった。基幹の業務ラインが2つになって大臣がもう一人必要となり、経営全般に官房長官が必要になったからだ。僕はプロ野球のスカウティング以上に学歴を見ないが、結果的に慶応4人、東大2人になった。非常に満足なのは9人に重複がなく特技がクリアに違うことだ。僕自身もプレーヤーのひとりであり、名刺には社長兼CEOとあるが対外的にそういう “配役” を演じているということにすぎない。では対内的に指揮者かというと、9人が同じ曲をやることはまずないからそうでもなく、僕が指揮台に立っていると客席が埋まるという意味でだけ指揮者だ。

この「ゆるい」組織は気に入っている。全員がプロのプライドと時間を持てるし、貢献度に応じて利益配分を受けられる。なぜそうしたかというと単純で、若いころ自分がそういう会社に入りたかったからだ。こうすれば専門性の高い人のモチベーションとパフォーマンスは上がるし、求人においても他力本願のサラリーマンは来なくなり、自信のあるプロが寄ってくるのである。そして、ラッキーなことに、この組織はリモートワークになってもダメージがないことがだんだんわかってきた。むしろコストをセーブできるかもしれず、要は、コロナはあんまり関係ないという事だ。

魅力ある株を探しだすことは推理ゲームである。株がその他(債券、FX、仮想通貨、ゴールド、原油など)と違うのは対象が日本だけで3500銘柄あり、その個々に “ファンダメンタルズ” と呼ばれる企業業績のデータがあるからで、株価をモデル化するならば複雑な多変数回帰分析が必要だ。その他のほうは対象も変数も圧倒的に少ないから解析のインテリジェンスで優位性を持つことができず、結果的に長か半かのバクチに近くなってしまう。しかし、もっと重要な差異はというと、株価は企業価値そのものでありすべての経営者はそれを増加させようと人生を賭けて努力していることだ。円レートや金価格を高くしようと頑張っている人など世界のどこにも存在しないが、すべての企業には手金で勝負をかけたCEOがいる。つまり株価には常に上昇バイアスがかかっているといえる。参加する価値のあるゲームではないだろうか。

しかもゲームに勝てば運用益というお駄賃がもらえる。払ってくれるのは市場であり、相手は匿名性のあるリスクマネーだから恨まれることもない。短い人生で普通の人が資産を10倍にし得るのは株しかないし、いくら儲けても世間様にご迷惑にならないのも良さだろう。日経平均が上がっても株を持ってるのは富裕層だから庶民には関係ないなどという政治家がいるが、こういう人は浅知恵から株をバクチと思ってるのであり、払えるはずのない年金で国民をごまかしているのである。コロナが長引いて世界の政府は財政出動と異次元金融緩和を継続せざるを得ず、それは図らずも国家が株高政策を採ることを意味する。それを税金で行うのであれば庶民に小口でも株を持たせ、国家と利害の一致したポジションを取らせてあげるよう適切な投資教育を行うことが善政なのではないだろうか。

僕は自分の感性という探知機で見つけた企業の株とコールオプションをソナーという蔵にがっつり貯め込んできた。あと2年ぐらいでそれがIPOして何倍になるかは時の運だが、不発でも2倍だろうし10倍も夢でない。だから来年までワクワクドキドキして過ごせるわけで、これぞソナーを作ったご利益と天に感謝する。たぶんあと2、3発の「弾込め」をすれば後進に道を譲って後顧の憂いなき人生になろう。娘が健康を心配してくれて、お父さん仕事しすぎだよ、もういいから人生楽しんでと言ってくれる。ありがたいことだ。でも僕にとってこの仕事は労働ではなく最大の趣味なのだ。他は全部捨ててもこれだけは残るものであり、尊いとも思わないが嫌と思うこともなく、すでに理想郷であるショーペンハウエル的幸福に近づいているのだ。オーストラリアか屋久島の好きなホテルからリモート参加なんて形なら80になっても後進のお役ぐらいには立てるだろう。

ところで、証券ビジネスへと背中を押してくれたコロンボの豪邸だが、もう家はあるしあんなでかいのをいずれ家内と二人でとなると猫を増やさなくてはいけないだろう。そのためというわけではないが、先日に、野良だった4匹目のフクが来た。こいつは気が良いしオスの黒猫であることに大きな意義がある。福を呼んでくれそうだしクロが2匹で黒字経営と縁起もいい。そして何より、我が家は猫を入れると男女比が2:6と劣勢であったが盛り返すこともできるのである。

 

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本性は職業軍人的な理由(二・二六事件)

2020 JAN 20 1:01:38 am by 東 賢太郎

年末に屋久島へのトランジットで鹿児島空港で2時間できたので、付近にある西郷記念館に行った。幕末から薩長がガバナンスを握る過程は正に御一新(維新)だ。平安時代以前が天皇の地位争奪戦、以後が天皇を不可侵としたNo2の地位争奪戦と見れば日本史は分かり易いが、御一新は実は断絶であった。だから東京時代と地名で呼ぶことをやめた。大正、昭和、平成、令和は明治なる新システムの末裔だ。その確立は龍馬が薩長連合を推進して大政奉還が成ったことになっているが、英国の武器商人が龍馬を利用し薩長をそそのかして倒幕させたというのが真実だ。龍馬は偉人というより卓越した商社マンでありディール成立後は邪魔になって消された。西郷は新政府成立のギミックと薩摩藩士の義の狭間で自刃した。

西郷は初代・陸軍大将だが祖母の叔父は87代目だ。職業軍人を誇れない国になったが、彼はA級戦犯・巣鴨プリズン行きで無罪になるも二・二六事件黒幕として左翼やNHKから悪玉に祭り上げられており尚更だ。異論はあるが、それを言うと刑死した青年将校達に角が立ち、将校を立てれば殺された重臣達に角が立つから言わない。二・二六事件は乙巳の変、本能寺の変、明治維新と並ぶ日本4大クーデターで、その失敗が支那事変、太平洋戦争へと突き進む転換点となった重大事件ではあり、先祖がその黒幕に擬せられる大物ならむしろ自信をいただけるとポジティブに考えている。

東インド会社ジャーディーン・マセソン商会の長崎の代理人が「グラバー邸」の武器商人トーマス・グラバーである。同社は清国人を阿片で廃人にして暴利の交易をし、日本のシルクに目をつけて、開港した横浜にも進出した。僕は隙あらばとって食うぞというこの連中と交易した生糸商の末裔でもあり、明治時代に祖父が勤務した三井物産上海支店も日本陸海軍の特務部と組んで阿片を交易したように英国ビジネスサイドの家系でもある。皇道派の軍人とは処世観がおよそ相いれないが、この職業に就くことで調和している。僕においてプロ対プロのディールは仁義なき戦いであり、それに勝つこと=収益である。正面突破で勝てればいいが、だめなら相手をつぶすか場合によってはディールもつぶす。つぶすなら殲滅する。このことにおいて私情も血も涙もなくやってきた点、自分の本性は職業軍人的かもしれない。諫早の気丈な祖母は僕が小学校まで存命だったが、洋服姿は見たことがない。

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米国人医師に救われた我が家の命脈

2020 JAN 18 0:00:22 am by 東 賢太郎

オーストラリアのポート・ダグラスで船に乗った。甲板に出てぼんやり海を眺めていたら、そこそこ大きい亀が泳いでいるのを見つけた。しかもよく見ると親亀・子亀である。シャッターチャンスと思って撮影したつもりが、画面を見るとよく写ってない。不器用というか、こういうことが本当に下手くそであり、うまくいったためしがない。

甲板で隣にいた白人女性のほうは何度もワ~オとシャッターをきりながら話しかけてきた。年齢は50前後という所だろうか。「どちらから?」「東京です、あなたは?」「フィラデルフィアです」。それは奇遇である。亀は忘れて職業を尋ねると、ペンシルバニア大学病院の医師ですと答えた。それはそれは。ちょっと話が漫画みたいに出来すぎかなとは思ったが、何となく予感がしたので「何科ですか?」ときいてみた。「ガイネコロジー(婦人科)です」。耳を疑った。

あれは28才になる直前の1983年1月24日の出来事だった。フィラデルフィアの冬は零下10度を超える。僕は翌日に会計学の中間試験をひかえアパートの自室で勉強に没頭していた。すると午後になって家内が腹痛を訴え、救急車で大学病院に搬送となるほど苦しみだした。パニックになった。すぐに婦人科で検査が行われ、主治医が所見を説明してくれたが医学用語はさっぱりだ。どうやら普段から症状のあった子宮筋腫が悪化したようで緊急オペになる。「ウォートンの学生だね、OK、では学生保険で明日までに支払い手続きをするように」と言われ、手術費用が3万ドル(当時は700万円)と知る。「いえ、保険は、その、申請手続きが終わってなくて・・・」と言い訳したが、要は入ってなかったわけだ。目の前が真っ暗になった。ビッグマックも買えなかった我々夫婦に、もちろんそんな大金はない。

ペンシルバニア大学病院の入院説明書

「ちょっと待ってろ」。困り果てた僕を見て、主治医らしき医師はそう言い残して別室に消えた。所見はよくわからなかったが金額から察した。そんなに難しい手術なのか・・・入金日は明日だ、すぐ東京の親父に電話しなくちゃ、公衆電話はどこにあるんだ、でもいま夜中じゃないか。頭は錯綜してごちゃごちゃであった。途方に暮れたまま待つ時間というのは長いものだ。先生が「ノー・プロブレム!」とドアを勢いよく開けて戻ってきた時には僕はすでにどっぷりと疲れていた。数枚の書類が机に並んであれこれ手続き的な説明がある。「これに全部サインしろ」と軍隊みたいに有無を言わさぬ指令が飛んだ。署名欄を見ると、東賢太郎は1月24日付で正規の保険加入者になっていた。

一難去ってまた一難だった。別の書類1枚が、今度は静かにおごそかにテーブルに置かれた。事の重大さがわかった。「コブシ大の筋腫が子宮内壁にある」「放置してもすぐに致命的ではないが15%の確率で癌化する」「筋腫摘出のために子宮全摘の可能性がある」「以上を理解して手術に同意にする」と書かれていた。我々に子供はなかった。「ちょっと待ってよ、これって、妻の命を取るか子供を取るか決めろってことだよね?」心の準備がなかった。動転してくらくらしており、ふと気がつくといつの間にか医師が3,4人僕をぐるりと囲んでいた。彼らにいくつか意味のない質問を投げたように思うが、ここでぷっつりと記憶はとぎれている。朧げに覚えてるのは小声で「摘出してください」とお願いし、ふるえる手で署名をしたことだけだ。

手術はたっぷり6時間はかかった。情報は何もない。ナースに聞いても何が起きているのかまったく要領を得ない。仮に子宮を摘出しても命の危険はないはずじゃないか、それとも、なにか不測のとんでもない事が起こってしまったんだろうか・・??翌日の中間試験は準備不足でまったく自信がなく、病室でまんじりともせず必死に教科書を読んでいたつもりだが、その実は勉強どころか意識が朦朧としてしまっていたように思う。そこに、先生の「Hey! Mr. Azuma! She can have a baby!」という声が聞こえた気がした。廊下の遠くの方からだ。コカ・コーラのストローをくわえ、思いっきり手を振って陽気に歩いてくる勇姿が見えた時、家内の生命が助かったこと、子宮も助かったことを知って涙が出た。この瞬間ほど医師が神々しく見え、その仕事が崇高なものだと思ったことはない。日本ではどこの病院も「子宮ごと全摘やむなし」という診断であり、とりあえずは命に関わらないのでとそのままにしていた。ぺン大のチームはきっと、憔悴して落ち込んでしまった僕を見て「子宮を残すぞ」と6時間もかけてチャレンジしてくれたのだ。この発作が日本でおきていたら、もしここに留学してなかったら・・・

「ぺン大の婦人科は全米1位の評価だったんですね、その時は知らなかったんです」。船上の女医さんは偉大だったそのチームの後輩であり、黙って37年前の一部始終をききとめ、「それで彼女がいるのね(That’s why she is here.)」とそこにいた娘に目をやってウインクした。「ええ、もう二人いましてね(Well, I have two more.)」と笑うと「すごいじゃない(Wow、that’s great!)」とさらなる破顔一笑をくださった。とっさに、「女神に見えますんで、失敬」と本当に両手を合わせて観音様みたいに彼女を拝んでしまった。

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人生の通信簿をつける方法

2020 JAN 2 22:22:10 pm by 東 賢太郎

新年の区切りということで、5年を節目にして自分の通信簿をつける話をしたい。それはユニクロの柳井さんのご著書「一勝九敗」(新潮文庫)にあったような気がするが、すごく前でよく覚えてない。題名からしてそれだろうと思う。

通信簿?いまさらそんなものいらないだろうと皆さまに思われそうだけど、この考え方には僕の発見した3つの利点がある。

利点① 【なんだ、まだそんなもんかと思える】

神様は平等に人間を創っていて、死ぬまでずっと不幸なんて人はいない。本当にそうかどうかは知らないが、そう思わないと落ち込んだ時につらい。1年1年で見ていると幸運な年や不幸な年があって、だから毎年お御籤(みくじ)をひくのだ。そこで5年をひとくくりで小説みたいに「章」と呼んでみる。1~5才が第1章、6~10才が第2章だ。若い人と会話していて「もう65才でね」なんて言おうものなら一気にジジイに見られ、自分もジジイに収まるのが楽ちんになってきてしまうだろう。それだけで老けこむ危険がある。そこで「僕のシステムではね、13才なわけよ。まあキミらにはわからんだろうけど」なんて煙に巻く。やってみていただきたい。わけわからんなりにジジイではないなと見られ、場合によっては若いですねなんて尊敬される。するとだんだん、ほんとうに俺は若い、なんだ、まだそんなもんかと思えてくるのである。

利点② 【なんだ、そんなに負けてもオッケーなのかと思えてくる】

そこで、人生の通信簿だ。ここまでの13個の章をふりかえって「〇」「✖」をつけてみよう。自分が嬉しかったり、楽しかったり、やった!とガッツポーズしたり、ほっとしたりはみんな〇だ。つらかったり、がっくりしたり、怒ったり、悲しかったり、まずい!と思ったら✖だ。そうして人生の幾多の思い出を振り返って、それが何才の時だったかを思い出してみていただきたい。そこで〇が✖より多い章を「勝ち」、その逆を「負け」としてみよう。すると、僕は勝ちが第4章、第8章、第11章、第13章の4つしかないことを発見したわけだ。

ほんとうだ。15才までは今みたいな図太さはかけらもない目立たない子で、ぜんぜん楽しくなかった。社会に出ても35才までは小さな成功があったと思えば大きな失敗、失敗で会社を3回もやめようと思った。気を取り直して頑張ったのでちょっと認められたと思ったら40代後半でまた失速。50代前半の移籍はツキがあったが、後半の起業からいばらの道でドツボにはまり、60になってやっと明かりが見えてきた。こういうのを七転び八起きというから8勝7敗ぐらいかなと思ったら4勝9敗の大敗人生であった。しかしそれでも、いま無事に生きている。なんだ、そんなに負けてもオッケーなのかと思えてくる。

利点③ 【還暦とか定年とか引退という概念が消える】

14章まである小説は短編ではない。いや、10章もあれば長編の部類だろう。何章まであるかわからない。還暦?定年?引退?そんなくだらないエンディングで小説が終わるはずないではないかと開き直れてくる。組織を辞めちまえば小説を書くのは人事部じゃなく自分だ。好き勝手に書いて〇、〇、〇・・・にしちまえばいいのだ。ちなみに、僕はサラリーマンを辞めるまでは2勝8敗だけど、辞めてからは2勝1敗だ。勝手に書いた〇もあるが、生まれつきの性格が一匹狼だから伸び伸びできたせいでもある。しかも規則性まである。第4,8,12±1の章が勝ちだから、次は第16章に勝つのである。でも80才だから今の仕事は無理だろう。じゃあ何か別なことをそこまでぼちぼちやるかなんてことになる。ひょっとすると、そこまで頑張って生きてるだけかもしれない。「生きてりゃ勝ち」ってルールで。

 

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アリと星(または観察と分類)

2019 DEC 25 0:00:27 am by 東 賢太郎

ファーブル昆虫記の内容はあまり覚えてないが、ハチとかサソリとかクモとかの弱肉強食物語だった。興味が出て裏庭で丸一日アリの観察をするようになった。土蜘蛛がエサを運ぶアリを捕らえて食おうとして、かわいそうだと踏んずけて殺してしまったことがある。実は蜘蛛の方がかわいそうだったりと子供は残酷だった。

自然とアリの「追っかけ」になった。小さいが動きはす速く、巣から出ると思いがけず遠くまですいすい行く。アリ地獄に飲まれるのも見た。黒オオアリ、羽アリ、赤アリなどいろんなのがいてのバッタの死骸の奪い合いのシーンは昆虫記の通りだった。ファーブルの尋常でなく微細な観察はなんとなく琴線に触れた。小学校にあがったころだ。

夜になると全天恒星図、天文年鑑、天文図鑑を手に星を見た。ぎょしゃ座エプシロンの伴星が太陽の2700倍大きい、クジラ座オミクロン星ミラは脈動変光星など尋常ならぬ事が書いてある星に興奮し目を凝らした。1等星20個の大きさや距離やスペクトル型などスペックを覚えて、あの星に行ったらこんなだろうと想像した。

長じて仕事にした証券価値の分析は、アリと星が株式になっただけだ。冷めた目で観察、スペックによる分類。まったくおんなじだ。日本だけで3800社も上場してるからやり甲斐がある。必ず上がる株はないが、尋常ならぬ事態からあまり下がらなくてどこかで大きく上がるかもしれない株はいくらもある。どれがいつ上がるかはわからないのでまとめて買って置いておく。

道楽になった野球観戦はNPB800人ほどの選手のスペック(従来の成績)からの乖離(尋常ならぬプレーや成績)の観察と分類だ。もう一つの道楽になった音楽は尋常ならぬ和声進行、対位法、音列の通常スペックからの乖離の観察と分類だ。どちらもアリと星がそれになった。

ということで、僕は観察と分類をして64年生きてきた。それ以外のことをまじめにやろうと思ったことは一度もない。今後もない。

 

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何かしてくれそうな人、してあげたくなる人

2019 DEC 14 20:20:17 pm by 東 賢太郎

人にはなぜか、何かしてくれそうな人、何かしてあげたくなる人がいる。なぜそうなるのかに理屈はなく、血縁とか利害関係もないのにそう感じるのだから不思議だ。すると、ごく自然に、その人とはご縁ができることになる。

「してくれそう」「してあげたくなる」は好き嫌いではない。僕は元からあまりそれがない人間で、例えば初対面の人が生理的に嫌いなどということはまずない。あるとすれば、その人がしたことが許せない、これはある。しかし嫌ったのはその人のした行為であって、典型的な「罪を憎んで人を憎まず」であり、憎むとしても「罪刑法定主義」である。その「法」はまあ僕の私情にすぎないかもしれないから要は好き嫌いでしょといわれればそうかもしれないが、法と書いてしまいたいほどに首尾一貫していると自分で思う。

すると「してくれそう」「してあげたくなる」はなんだろう?もちろん私情ではあるが、若い頃にはなかったし、そんな感情が現れだしたのはこの10年ぐらいのことだ。さらには、僕の心の内奥にそれがあって、それで人を選んだり付きあったりするようになっていることに気がついたのはごく最近である。つまり、事業を始めてそこそこ時がたって、自分に目標ができたから芽生えた新しい感情なのではないか。えっ、50になるまで目標なかったの?と恥ずかしくもあるが、やっぱりなかったのだろうと思うしかない。

その問いに答えるには、少し回り道におつきあいいただくしかない。サラリーマンというのは出世が目標だ。そうでない人もいるが、僕の場合はそうだったという所から僕のサラリーマン人生の最終章がどんなだったかということを全部さらけ出してしまおうと思う。出世は他人が決めることだ。その他人が自分より優れていると信じこめるとは限らない。気に入られるならヨイショ・マンでもホラ吹きでもなんでも構わないという大会に出場することは、僕の場合、非常に難しい何かが内面にある。それをあきらめて野村を飛び出してしまい、何が目標になったか?俺はそんな程度じゃないぞという「承認欲求」だった。だから、もっと自分の実力に対してポジティブな承認をくれそうな会社に移ろうと考えた。そう思い出した2003年頃から話は始まる。この思いは、プロ野球で何か報われなくてFA移籍する人をついつい応援してしまう気持ちとして今でもその片鱗が残っているぐらい強いものだった。

そういう気持ちの時に、たまさかみずほ証券の常務だった横尾さんとお会いした。これが人生を全面的にリセットするきっかけとなった。49才だった。そのご縁で移籍させていただく決断に至ったが、散々お世話になった野村證券には失うものも後ろ髪を引かれるものも莫大にあったし、今もって申しわけなかったという気持ちだ。昨今、外国なみに会社をかわるのが普通の感覚になってきたかもしれないが2004年当時はそうでもなく、日本最大の証券会社の本社のポスト部長だったのだから異例の部類で週刊誌ネタにもなった。

決断の時点でみずほからいただいた条件、つまり肩書や報酬は野村と大差なく確か複数年契約でもなかったから、世間一般的なキャリアアップ転職ではまったくなかった。大変失礼だが当時の客観的事実としてご理解いただきたいが、飛ぶ鳥落としていた野村からみずほ証券というのは格落ちであった。横尾さんによると当時は興銀の悲願であった株式引受業務強化が頭取命令であり、どうしても野村の株式業務の主力を引き抜きたかった。一方で、僕が喉から手が出るほど欲しかったのは「承認」「活躍の場」だったから相思相愛ではあった。ただ、面接官がそれをたった30分で僕にそう思わせた横尾さんという人でなかったら、今の僕は確実になかった。それは単なる因果関係や運命論ではない。日本の大企業ではありえない、たぶん二度とないことを僕はやってしまい、それがつつがなく収まってまだこうして生きていられることを含めてそういっている。

というのは僕はさらにとんでもないことをしでかしてしまうからだ。みずほ移籍から2年たった4月、最年少の執行役員に昇格となった。誰が見ても移籍大成功で順風満帆の出世だったろうが、僕は困っていた。そしてその半年後に、自己都合でみずほをやめてSBIに移籍してしまったのである。それには伏線があった。2004年3月に、野村を辞めるかもしれないと内々にヘッドハンターに伝え、プロ野球ならいわばFA宣言したわけだが、すると “3球団” 、みずほ証券、SBIグループ、そして三菱証券からすぐにオファーがあった。SBIの北尾さんは僕が野村をやめるらしいと噂が出る前後から強い「承認」をくださっていたようでそれがどんなに嬉しかったかは筆舌に尽くせないが、知ったのはみずほ証券にサインした3日後だった。これが前後していれば僕はそっちに行っていたかもしれない。世の中そんなものだ。仕方がない。だからどこかでSBIに行こう、行くのだろうという覚悟があったのは誰にも伝えていなかった。

そこでみずほ入社時に経営に「昇格は不要です。55才までに必ず辞めますから助っ人でお願いします。でも、僕はやることは必ずやりますので」とはっきり申し上げた。力がなくて移籍するわけじゃないですよという強い自負があったからだが、こんな事を言って移籍した人はプロ野球界にだってひとりもいないだろう。ひとえにご迷惑をかけたくなかったからではあるが、野村を辞めた時点でもうサラリーマンは卒業したという決意宣言でもあり、55才までには起業するという決心があった。そして2年間、みずほ証券のために全力で戦った。古い野球界の話だが、巨人に江川卓が入団して阪神にトレードされた小林繁が巨人戦で8連勝したようなものでモチベーションは物凄く、自分のプライドのための戦いでもあった。横尾さんにいただいた事前の「承認」が空手形でなかったことは2年間で獲得した株式引受主幹事16本の実績でお見せできたと信じるが、それでさあそろそろと思った矢先の役員昇格だったのだ。思いもよらず、本当に困ってしまった。

そうこうしているうち6月になった。北尾さんからは早く来いといわれ悩んでいたら、にわかに日本航空の2千億円の資金調達の動きが伝わり、周囲のざわざわが風雲急を告げてきた。よしこれだ、やってしまおう。もう辞めていいだろうと考えたのは、16本の主幹事を奪取して僕のやり方を優秀な120人の部下たちが十分に盗んでマスターした、もう僕がいなくてもできると確信したこともある。並みいるライバル社を蹴落としてこの巨大案件を獲得できれば皆さんに退任を快く認めてもらえるだろうと考えた。JAL案件は金額からして多国籍引受にするしかなく、その主幹事(グローバルコーディネーター、GC)を奪取すれば満点の終幕じゃないか。競技に喩えるなら、国体優勝にあたる国内主幹事すら未経験とよちよちだったみずほが、オリンピックの金メダルにあたるグローバルコーディネーターを狙おうというわけだ。やれば間違いなく世界の金融界は仰天であり、どんな経済小説やドラマより痛快でもある。僕の率いる資本市場グループがその尖兵になるのだ。こんな舞台が与えられる証券マンなんて世界のどこにもいないぞと幸運に感謝した。燃えた。

しかし、現実はそう甘くない。GCの引受手数料は巨大である。そこから2か月。斯界の両雄であった野村證券、ゴールドマンサックスとの三つ巴の激闘は壮絶で、両社は収益的にもプライドとしてもJALというメジャーなディールで新参者のみずほに負けるなど辞書に書いてない。各所の小競り合いで銀行員ばかりの部隊の経験のなさが露呈して苦戦、撤退の報告が次々に上がってくる。気ぜわしかった。小競り合いはまだ耐えられたが、株主総会にかけずその直後にローンチするなど論外のルール違反であると日経新聞の論説委員まで敵方について毎日批判記事が出る。本当にやっていいのだろうかと気持ちが揺らいだ。前線を預ってはいたが「撃ち方やめ」の権限があるわけではなく、不安になってひとり横尾さんの部屋へ行って「本当にやりますか?」ときいた。即座に「やるんだよ、やるに決まってるだろう!」と烈火のごとく怒鳴られ、腹が決まった。みずほ証券のGC獲得は社史に残るかどうかは知らないが、僕自身、証券マンとしてやった仕事として後にも先にもこんな大金星はなく、引退試合で満塁ホームランを打たせていただいた気分だ。

それはいい。やることはやった。取った。勝った。で、辞めます。これを横尾副社長の部屋へ告げに行った日はつらかった。もちろん寝耳に水である。一日考えさせてくれとおっしゃった。一日たって、また行った。受理していただいた。この時の会話は書けないが、一生忘れない。土下座したいほど申し訳ないという自責の念で一杯だったが、その気持ちの何倍も、この方は凄い、只者ではないと心底思った。北尾さんのほうではSBI証券の副社長、ホールディングの取締役にまで就任となって期待していただいたのに、100%僕の力不足が理由でお役に立てていなかった。そうこうするうち2008年になっていた。後にリーマン・ショックにつながるサブプライム債の暴落でどこの金融機関も大損していたがみずほ証券にも4千億円の損失が出ていた。新聞には4百億円とあったが、新年のご挨拶に行ったら横尾さんに「実は4千億なんだよな」と告げられ、みずほ証券立て直しのために帰ってきてくれといわれた。役員にしたのに出て行った不届き者を役員で引き戻す。そんなことが日本を代表する金融グループでまかり通るかと耳を疑ったが、現実の話になった。「君が初めてだが、君が最後だろう」といわれた。何も仕事をしなかったのだから今度は北尾さんに申しわけないこととなりお詫びするしかない。

ということで僕は部長で1度、役員で2度、自分から会社を辞め、2010年にみずほからもういいご苦労さんが1度、つまり都合4度も大会社を辞めた。最後のは以前に宣言した55才であり心づもりの通りソナー起業に進ませてもらった。ともあれ全部が上場企業の経営職であり、辞めた理由も引き抜き、自己都合、引き戻しというユニークなものから戦力外通告にいたるまで網羅している。「退職コンサルタント」ができるぞと自嘲しつつ眺めるといかにも忠誠心がないが、戦国時代の武将だってないよと人には言っている。本音はお家・一族郎等のほうが大事。それを口に出して言えなくなったのは徳川時代に武士がサラリーマン化してからだ。忠臣蔵はもう元禄時代には忠臣がフィクション化していたから流行ったのだ。日本国の企業文化は江戸時代を400年も引きずっている。サラリーマンだって個人としては本当は自由に生きたいが弱い者は組織に所属して群れて生きるしかなく、その自嘲が毎年の川柳ネタになっているのだろう。

以上が僕のサラリーマン時代の終楽章だ。出世が目標で第3楽章まできて、終楽章でそれは消えた。代わりに来たのが承認欲求だがそれはそこそこ満たされ、今度はソナー・アドバイザーズの経営という別な曲が始まってもう9年がたっている。ここまで来てしまうとそんなもので右往左往していたあの頃は別世界の話みたいに思えてくるが、大昔の失恋が何故あんなに悔しかったんだろうと他人事みたいに風化しているのに似ている。そしていま、かわりに人生の目標になっているのが「企業の存続」に他ならない。サラリーマン時代は企業など持ってないのだからきわめて新鮮なものであり、他人の評価に翻弄されるという不快さがない実にすがすがしい日々だ。目標が違うのだから今の僕と10年前の僕とは話が合わないだろう。もはや別人なのである。

そこで新たに出てきたのが「何かしてくれそうな人」「何かしてあげたくなる人」という視点である。長年ひたってきたサラリーマンのぬくぬくとした目線がぬけ、僕もとうとう企業家になれたという話なのだ。縁というのは不思議なもので、みずほを去って以来ほとんどお目に掛かっていなかった横尾さんに大手町の地下道でばったりお会いした。去年の秋だ。僕はそこを滅多に歩かないし、横尾さんは経済同友会からノド飴を買いに降りてこられただけの遭遇だった。ほんの立ち話でそこは終わったが、何か感じるものがあった。それこそ、「何かしてくれそうな人」と直感したのだ。帰社してすぐに会長職をお願いしようと腹を決めた。連絡を入れ、それを食事しながら申し上げたのは1,2週間後のことだ。僭越ながら、2004年とは逆に、今度はこっちがどうしても来てほしいと口説く番だった。まったくの空想だが、その時横尾さんの眼に「何かしてあげたくなる人」と映ったのではないかと買いかぶってしまうほど、すんなり「いいよ」という返事をいただいた。2006年に不意にみずほを辞めると申し上げたあの日、大迷惑をおかけして顔に泥を塗るのだから普通の経営者なら激怒して当然なあの時に「この方は凄い、只者ではない」と感じたあれ。あれがなければこれもなかった。

そういう経緯で令和元年のビジネスデー初日である5月7日は、偶然とはいえまるでそう計画したかのようにソナー・アドバイザーズ取締役会長として横尾さんは初出勤された。その時点で産業革新投資機構(JIC)の社長に就任されるとは予想だにしてなかったし、もしも順番が逆であったならソナー会長を引き受けてもらうことは無理だったしこっちもそう動かなかっただろう。僕は実力はないがツキだけはあるとつくづく感じ、天に感謝する。思えば2017年は僕の後厄で限りなくつらい年であり、翌2018年は周囲から「お祓いしろ」と迫られるほどの稀に見る凶年、記憶にないほどのひどい年だった。ただ、悪いなりに必死でもがいたことで一皮むけ、それがベースになって今年は5月から順調だから結果オーライで有難うということだった。そしてもはや潮目が変わっている。横尾さんとの相性、因縁は書いたように別格的、別次元的な何物かであって、僕の長所欠点を熟知しておられ、数々の経営の難所を切り抜けてこられた大先達が取締役で大所高所から取り締まっていてくれることは基本的にじゃじゃ馬の身としてこんなに心強いことはない。

今年もいろいろあったが、今になって大事と思うことは、厄には近寄らないことだ。この仕事は簡単ではない。危険に満ちてもいる。情報を握り、危ないと思ったらすぐ手を引くに限る。心から納得したことだけを愚直にやる。それがお客様から信頼されてリレーションを良好に保つ唯一の道であり、「企業の存続」にはそれしかない。来年は1年で上場に至るプライベートエクイティ案件2つのマンデートがとれる。金額も大きい。ソナーはそうした魅力ある優良案件の発掘(ソーシング)が強みだからそれに徹する会社、プロ集団であり、株式の販売、募集に関わる証券営業的なことはやるつもりは一切ない。だからそれを業とする会社さんが必要であるが、この世界、お客様が欲しがる投資機会を発掘することがすべての競争力の源泉であって、それさえあれば販売したい人はいくらでも寄ってくる。しかも、そこにいよいよ野村のエース級だったパートナーが現れた。これもお互いの運の良さだ。彼は辞めたばかりだが「何かしてくれそうな人」である。もちろん辞めた苦労は身をもってわかる。だから何かしてあげたくなる。9年下の彼とはwin-win関係が築けることは確実だろう。

 

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東南アジアの魅惑は暑さである

2019 DEC 7 22:22:35 pm by 東 賢太郎

僕は東南アジアが好きだ。なにせ暑い国へ行くと身体がでれんとする。1週間ぐらいいると筋肉の奥まで緊張がすっかり解け、真のリラックス状態になる。それが精神まで緩めてくれ、ストレスの究極のデトックスとなる。

アジアは人種的にもストレスがない。タイのような仏教国だとなおさらで、人あたりの柔らかさにはほっとするものがあるし、食事にもそれは当てはまる。そうやって日本人もアジア人だと強く感じるようになったのは1997年にチューリヒから香港に転勤してからだ。

香港では韓国、台湾、中国、フィリピン、タイ、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシアが僕のテリトリーであった。9か国を統治したなど今となるともう夢物語だ。それぞれの国でいろんなことがあったから簡単には語り尽くせない。でも、ひとくくりに感想を言うなら、東南アジアはどこへ行っても暑かったに尽きる。

天頂から直撃する激烈な陽光。妖しく繁る熱帯の樹樹と奇怪な鳥や虫。べっとりとまとわりつく熱い大気がもわんと運んでくる雑多で猥雑なニオイ。驚きはいろいろあったがもう24年も前のことでそれは薄れている。しかし何があっても忘れないもの、13年半欧米にいた僕がチューリヒから香港に転勤した時の最大の衝撃といえば、その暑さだった。

旅行に行くのと違う。そこに家族を連れて住むという気構えは、たかが数日居るだけの旅人や出張者が抱く気候への好奇心に満ちた驚きなどとは程遠く、そうやって何百回行っても絶対にわからない、人生のひとコマを自分も家族もその土地に委ねようという峻烈な覚悟のようなものを伴っているのである。

案の定、すぐに娘が肺炎にかかり先が思いやられたが、大勢いた部下の英国人たちがもっと寒い国から来て平然と生活してるのに鼓舞された。七つの海を支配した男たちの末裔はタフだった。欧州からやってきた僕はいま思うとブリティッシュな方法で、1997年の香港返還直後の事情など委細かまわず統治を試みていたと思う。

僕が英国人たちと過ごして納得したのは英国のメシのまずさと天気の悪さは強さの源泉ということだ。あれで生きていけるなら世界中どこへ行っても怖いものはない。元はバイキングで航海術に長け未開地を掠奪してきた連中だが、そのなりわい故に、彼らは掠奪した未知の土地に土着し、人生のひとコマを自分も家族もその土地に委ねようという峻烈な覚悟を持って生きてきた国民なのである。

つまり、5ヶ国で16年を過ごし、3人の子供も海外で授かった僕は、そうなりたかったわけでもないし全くの結果論に過ぎないのだが、そのなりわい故に英国人に共感するものが非常に多い。そして、残念ながら、それを共有してくれると感じた日本人はほとんどいない。大人になってからの時間の半分近くを共有できないというのは、もはや決定的にどうしようもないことなのだ。

東南アジアは途轍もなく暑いが、途轍もなく魅惑に満ちてもいる。それが何なのか、本稿を書きながら自問しているが答えが見つからない。ヨーロッパなら都市ごとに魅惑の源泉は容易に見つかるのだが今は仕方ない。本稿は暑さがテーマだから、各国で英国人と一緒にやったゴルフの切り口で、暑さを回想してみよう。

一番暑かったのはジャカルタだろう。あまりの灼熱に記憶が飛んでいたのはこの時だけだ。あがって市内でお客さんと食事というスケジュールであったが、その段になって、なんとゲームの内容はほとんど覚えていないのに気がついた。カラスに球を持っていかれたのと、移動のさなかに豪雨に見舞われ、道がプールみたいになって車が立ち往生して焦ったぐらいしか話題がなくて困った。

二番はシンガポールだ。ラウンド中に焦熱地獄となり、終わりの方だったか、足がふらついて一瞬空が回った。なんとかホールアウトはしたが、倒れる危険を感じたのはこの時を除いて皆無だ。それでも接待はなんとかきりぬけ、部下が心配して手配してくれたマッサージに行ったところ、指からビリっと電気が流れるわけのわからんおっさんで、あれは何だったんだろうと今でも不思議だ。

三番目はクアラルンプールだ。ここの日差しも半端でない。現地の部下の今日は涼しい方ですのコメントが悪い冗談と思える暑さと湿度だった。フェアウェイの芝が幅広の妙な草で、頭が暑気でボーっとしているのと併せてタッチが完全に狂ってしまう稀有の体験をした。日立のCMに出てくるこの木なんの木気になる木があって、なぜか球がその下に行ってしまい、気になって散々のスコアだった。

四番目はバンコクだ。キャディーは各人に3人でライン・距離係りが一人、球探しが一人、日傘と椅子を持つのが一人。炎天下の珍妙なる大名行列であった。みんないい女の子で暑さを忘れるが、しばし日傘を外れると脳天が非常に危険な状態になる。初めてハーフのパープレーが出た。これは日傘の子のおかげと思い彼女に料金の倍あげて喜ばれたがチップ分は千円だった。

The Hong Kong Golf Club

最後は香港。以上の四つと十分に互角に暑いが、思い出深いこの地をトリにしよう。香港島にまともなコースはなく、富裕層は九龍にあるファンリンと呼ばれる香港ゴルフ倶楽部に行くのである。当時、会員権は2億円ぐらいした。香港オープンなどのトーナメントコースでメンテも良く、香港地下鉄公社カップで優勝した僕にとって思い出のコースだ。

ここの食堂の北京鴨ライスは安くて絶品で、メンバーでなくても食べられるから万人におすすめしたいのだが、いざコースに出ると蚊が多いのが難点であり、僕は人一倍食われやすい体質なので結局あまり行く気にならず、もっぱら深圳の名門である西麗G.C.というシャングリラ保有の72ホールの方に通ってハンディ8まで行った。暑いのは一緒だが蚊はあんまりいなかったのだ。

しかし、いつもスクラッチで握っていた英国人の故ジム・ウォーカーは香港ゴルフ倶楽部での勝負を譲らない。奴は虫よけだけで半ズボンなのになぜか蚊が平気なのだ。なるほど、そうじゃなきゃ七つの海は制覇できないか。そして何より、死ぬほど暑くて湿度99%の日、パツトでかがむと眼鏡が滴る汗で牛乳ビンの底みたいになってしまう条件でも奴は屁の河童なのである。

ゴルフは勝ったり負けたりいい勝負で、ゲームを通じてお互いを認め、香港の先輩として北京鴨ライスばりのローカルしか知らないものをたくさん教えてくれた。そうこうしているうちに僕も知らず知らず英国人なみに暑さがなんともなくなっていて、今だってアジアのどこでゴルフでもオーケーだ。途轍もない魅惑の源泉は暑さかもしれないと思うと違う気もするが、やっぱり分からないのだからそういうことにしておけば大きな間違いではないように思う。

 

 

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