ヨーロッパ金融界で12年暮らしたということ
2025 JAN 8 2:02:00 am by 東 賢太郎
本稿を箱根から始めるのは箱根が好きだからです。リタイアして住むなら軽井沢もいいのですが僕は温泉がプライオリティであり、東京23区の最南端に居を構えたのも東名が混まなければ箱根に1時間でいけるからであり、なにより両親が眠りいずれ自分もという地が御殿場なのでやっぱり箱根なのです。食事も良い店がありますが、仙石原のアルベルゴ・バンブーはこの手の所が好きな方にはおすすめです。ドラマのロケ地にもなったらしくご趣味によっては華美と見る向きもありましょうが、どうせ欧風にやるなら大理石までこだわったこれぐらいやらないと意味ないですね。シェフがかわったらしく料理、ワインは大変結構。この日は伊豆の鹿肉をいただきました。長いことこういう洋館で食事してきたので落ち着くわけですが欲をいえば一度ここで給仕されてひとりっきりで食事したい。おいしい料理は会話より鑑賞する空間と集中が必要なのです。ここで音楽を流せといわれれば僕はテレマンの「ターフェル・ムジーク第1集」第4曲 トリオ・ソナタ 変ホ長調を選びます。イタリアンでドイツのバロックになりますが重めのバッハ、躍動のヘンデルよりテレマン。まさにそのプロが書いた食卓を邪魔せぬ質の高い音楽です。欧州の王侯に国籍はありません、あるのはこういうもの、いうなればテレマン的なものです。
クラシック音楽という趣味の素地はありましたがそれだけでヨーロッパ社会に受け入れられることはありません。日本を代表する証券会社に入り、国際派インベストメントバンカーとなって金融界に深く入りこめたことが幸運でした。なぜならそこは顧客も富豪で業者もターフェル・ムジークで食事を当たり前のようにするアッパー(上流階級)の世界であり、趣味と調和してしまったからです。
振りだしはロンドンです。初めて行ったのは28才のアメリカ留学中で、トラファルガー広場からの景色に圧倒されたのが強烈な第一印象でした。これぞ大英帝国!軍事力、財力、歴史、科学、文化、芸術、ライオンまで強そうだ・・七つの海を支配した国の威容と品格は戦さが強いだけのバーバリアンとは一線を画しており、その後に訪れたどの国も遠く及ぶものではありません。いま写真を見ながら当時の残像が不意に蘇ってしまい、万感の思いがこみ上げて涙が出てました。もう一度行きたいなあ。やっぱり僕はお世話になった英国が忘れられないのです。
欧州の都市はどこもそうですが中世がそのまま同居しています。タモリの「ここに江戸時代の痕跡が残ってますね」なんて視点で見るならロンドンは丸ごと痕跡であって、昔から物価もホテル代もとても高いのですが、それは都市自体が博物館であり何を買ってもすべてに入場料、拝観料が乗っている。だから大英博物館もナショナル・ギャラリーもタダなのだと理解すれば辻褄が合いますね。それでも観光客が押し寄せ、物価が市場原理でプライシングされているという意味で資本主義を構造的に体現した都市なのです。
我が家は留学を終えて直接移り住んだので肌感覚での英米比較ができました。フィラデルフィアはアメリカ独立宣言が採択された誇り高い古都ですが、重厚な威容と厚みという点でロンドンと比較にならない差を感じました。写真の金融街シティのバンク駅周辺あたりはフォロ・ロマーノの往時かくありきの幻想を懐くほどではありませんか。まあ僕は古いもの好きだから割り引かなくてはいけませんが。
ロンドンでは京都の寺社仏閣と異なり古い建物が現在もビジネスの舞台です。代表的な日本企業が続々とインフォメーションミーティング(IR)に来るのですが、会場によく使ったブッチャーズホールは10世紀の肉屋ギルドの本拠でした。ランチタイムに我々がシティの運用会社のお歴々を集め、社長さんが業績などをプレゼンするのですが、ロンドンの序列では下っ端の僕が通訳です。米語とちがう英語が通じているか不安でしたがそれが欧州デビューであり、これから俺もシティの一員になるのかという武者震いの場でした。
6年後にロンドンを去って東京に戻るとき寂しかったものはゴルフ場、カジノなど多くありますが、食べ物というとホイーラーズのドーバーソウル、ハロッズのブルースティルトンとサヴォイホテルのこれでしょう。日本でもスコーンは知られていますが、それに主眼があるというわけでなく、大量に皿に盛ってアンパンみたいに振る舞うものでもありません。アフタヌーンティーという様式の中の食材であってジャムとクリームと紅茶の好みのブレンドを楽しみ、サンドウィッチで口直しをしながら他愛のないおしゃべりでゆったりと夕刻を迎える。そんなものです。暇でゆとりのある人のための3時のおやつであり田園で食しても都会的。モーツァルトのディベルティメントのような軽く華やぐ気持ちにしてくれるものです。
「おいしい料理は鑑賞する空間と集中が必要」と書きましたが、アフタヌーンティーでは職人的に凝ったおいしさというものは重要ではありません。上流階級の方々がどう思ってるかは聞いたことがありませんが、僕レベルの者にとっては、手をかけてめんどうくさいシチュエーションを丹念にしつらえてもらい、3時のおやつごときで至福と思える俺はなんて幸せだろうと思える自分がいるかどうかなんです。いないときはだめです、特別に旨いものでもないし。それが「泰然自若」(composed)という精神状態で、余裕なのはお金でも時間でもありません。そういうところが英国っぽいなあと思えるようになれば心から楽しめます。ちなみに箱根の富士屋ホテルでは似たものが供されますがお値段はたしか6千円ぐらいです。
次は初めて社長職に就いたフランクフルトです。会場で好きだったのはシュロスホテル・クロンベルクですね。去る12月23日に100歳で亡くなられたシュレジンガー元ドイツ連邦銀行総裁とここで食事しました。当時総裁はたしか退任された翌年で70才。今の自分ぐらいだったというのだから感無量です。イギリスのヴィクトリア女王の娘であるヴィクトリア皇太后が、ドイツの皇帝でプロイセン王である亡き夫フリードリヒ3世を記念して建てた誠に素晴らしいホテルで、郊外のタウナス丘陵に位置しゴルフ場がついてます。我が家は隣町のケーニッヒシュタインにあり、ドストエフスキーがカジノ狂いしてすってんってんになったバートホンブルグも隣の温泉町です。
タウナス丘陵はロスチャイルド家の別荘、メンデルスゾーンの姉ファニーの邸宅(弟はそこに1年逗留してヴァイオリン協奏曲ホ短調を書いた)もあり、住民の平均収入がドイツで最も高い地域ということを後になって知りましたから期せずして田園調布か芦屋のような所に住んでしまったようです。当時、ドイツでも「世界の」で認識された日本の証券会社の39才の若僧と連銀総裁が飯を食ってくれるわけですから現法の社長宅は必然的にそういうものという理解で、次に引っ越したフランクフルト市内の家のお隣さんも親ぐらいの年齢のウエスト・ランデスバンクの頭取でした。現地採用の社員はそれを社格として見ます。東京の外資系トップの住居と同様です。
次のチューリヒでは多い時は週に2,3件ある日本企業の起債調印式を社長がホストします。初日は昼夜と会食で翌日はアルプス観光にご案内し、お好きな方はオペラやカジノと、この2年半は証券マンというより接遇のプロでありました。楽なようですが肉体労働ですから実に大変で、体重が一気に増えました。よく使った湖畔のホテル・ボーオーラックは世界の王侯貴族、俳優、アーティストの定宿であり、近くの大聖堂にステンドグラスの名作を遺したマルク・シャガールが愛し、リヒャルト・ワーグナーがフランツ・リストの伴奏でワルキューレ第1幕を初めて披露した場所です。じっくり往時のムードに浸りたい所なのですが残念ながら仕事場でしたね。
最初に住んだ家はチューリヒ湖をのぞむ丘陵でゴルフ場付きクアハウスホテルのザ・ドルダー・グランドの近郊であるフルンテルンにあり、チューリヒにたびたび滞在しトーンハレのこけら落としを指揮したブラームスが毎朝好んで森を散策したあたりです。ウサギを飼ったり動物園がすぐ近くで子供達には格好の住まいでしたが契約満了のためキュスナハトという湖畔の丘からアルプスをのぞむ家に移りました。千坪近い庭付きの邸宅でかつて住んだ家でも最上級でしたが、最大の収穫は庭でゴルフの寄せがうまくなったことでしたね。
キュスナハトは心理学者フロイドの友人で精神科医のカール・ユングが亡くなるまで診療所を持ち、「ヴェニスに死す」のトーマス・マン、ロックンロールの女王で女優のティナ・ターナーが住んでいました。そして、庭越しに毎日のように眺めていた湖の対岸の街がリシュリコンです。ブラームスはそこの丘陵にある家(左)に1874年に数か月滞在しています。湖を見渡す我が家と似たロケーションで、21年を費やした交響曲第1番の完成は1876年ですから2年前にそこで書いていたのは第4楽章でしょうか。あのアルペンホルンはこの景色から着想したのかと想像すると何とも幸せな気分になります。彼と住居の趣味がとても似ていたというのはブラームス好きの秘密に思えてなりません。
キュスナハトの家には母を呼んで1か月ほど夏にのんびりしてもらい、それまで何百回も交響曲第1番をきいて愛した僕のヨーロッパ生活の最後の家がここだったことはまさに運命的と思います。ここに移って現地でのおつきあいも当初より格段にグレードアップしてスイス中央銀行のツヴァーレン総裁やUBSなど大銀行の幹部となり、日本企業をお連れして巨額の起債手数料と税金を落としてくれるノムラはスイス金融市場のお仲間と認めていただきました。総裁と奥様に母が来ていると伝えるとクランモンタナのご自宅に家族ごと呼んでいただき、歓待していただいた御恩は一生忘れません。
就職のときこんな素晴らしい12年が待ちうけているとは夢にも思いませんでした。しかも1992年にドイツに行けと言われた時は左遷と思いこみ、会社を辞めようと考えましたから大きな分かれ道でした。辞めなくてよかったし、海外にいたお陰で国内の証券不祥事や総会屋事件とは無縁で済みましたし、そこで生まれ育った3人の子供達にはヨーロッパという素敵な故郷をあげることができました。もうひとつ幸運だったのは、証券会社だから赴任先は国際金融市場がある先進国オンリーで、オペラハウスとオーケストラが必ずあったことです。昼間は交渉事のすったもんだで疲れきっても、夜にはクラシカルな世界で生き返り、何とか無事に乗り切ることができました。そして最後になにより、米国留学から始まった5か国への全行程で苦楽を共にし、見知らぬ外国で3度の出産と育児を立派に終えてくれた妻には尊敬と感謝しかありません。
仙石原のアルベルゴ・バンブーで想ったのはそんなとりとめのないことです。ここともうひとつホテル・ニューオータニのトゥール・ダルジャンは、たくさんありそうで実は多くないそんな気分にひたれる場所で時々行きたくなります。食事も含めどちらもおすすめですし、欧州旅行の折には真のトップトップである上掲ホテルに宿泊され、良き思い出を作られてみてはいかがでしょうか。
ADHDだアスペルガー症候群だという病気
2025 JAN 4 19:19:23 pm by 東 賢太郎
机の両脇の盛大な本の山は何年もそのままです。ついに60代最後の大晦日だ、やるか、と一念奮起して大掃除していると底の方から買ったことも忘れてる一冊を発掘。めくってみるとこれがとても面白く、掃除を忘れます。日本マイクロソフト元社長の成毛眞氏の著書で、ご自身がADHD(注意欠如多動症)だという数々の体験を書かれており、さらに読み進むと「大掃除で出てきた本を読みふけって掃除を忘れる」とあって、なるほどと台所におりていき妻に見せると「だから言ってるじゃないの」と5秒でおわり。歯に衣着せぬ従妹にそう話すと「ケンちゃん、あなたはいいけどね、奥さんがいちばん大変なのよ」と説教され、そういえば本人には「私でなければあなた3回は離婚されてるわよ」と諭されてる。成毛氏も奥様は免疫ができていて助かると書いておられる。そう思ってこの本を5年前に買い、持ち帰ると忘れて山に埋もれてしまったものと思われます。
たしかに同書は「あるある」だらけで、例えば「忘れ物やなくし物」の常習犯で、高校で野球のネットの鉄柱を電車に忘れてきて過激派と思われつかまりかけたし、メガネは東京とロンドンと北京で計3つ紛失しており、傘の柄には娘に猫印をつけられてます。「机や部屋が汚い」のに物を置く時の1度の角度のズレには厳格。「興味のないことはすぐ飽きる」はそれ以前にいたしません。好いた惚れたと心の行間を読む純文学は退屈極まりなく学生時代に読みふけったのは推理小説と哲学書。「思い立ったら即行動」は顕著で、成毛氏の「妻も衝動買い」はご同慶のいたりです。「自分の話ばかりしてしまう」のは常。空気読まない。他人の言うこときかず、仕事で怒鳴っても翌日あっけらかん。会社で権力を持ってしまって助長された所もありますが、まあ元から持ってないとそうはなりませんね。しかし、発達障害はしっくりこず妻に「だって俺は言葉や数字は一番の子だったよ、しかも証券業やったんだよ証券業、対人関係で困る人なわけないだろ」といってます。
何が違うのか知りませんがアスペルガー症候群というのもあります。こっちの特徴を見ると「興味や活動の偏り」は大いにあり、「不器用、字が下手、器械運動だめ」もあり、「失敗することを極端に恐れる」は真逆なれど「ゲームに負ける、他人に誤りを指摘される」は嫌いで、だから独学に徹したかもしれません。「言葉を文字通り解釈する」、これはありますねえ、言葉は僕にとってそういうもんで英語の方がピタッときて心地よい場合がママあって京都言葉は異国語。注意深く吟味して発した言葉を相手が分かってなかったことが数秒後にわかるとそれだけでその話は打ち切ります。しかし「ルール化する」、「非言語コミュニケーションが不得意」、「臨機応変な対応が苦手」、「同じような動作を繰り返す」は全然ないですね。
こうしてちゃんと育って70にもなっちまうんだから何でもいいんですが、僕は 人生、特に成功とも失敗とも思ってません。成功者の成毛氏が「武器である」と積極評価されるのはコンプレックスになっている人に力を与えて良いことだと思いますが僕の場合は良かろうが悪かろうが personality なんだからどうしようもないんですね、僕のことが嫌いならそうですかで即おわりで、どう暖かく見守ってもらっても「みんなで仲良く」の日本社会では損です。だから生活に支障が出る方もおられるだろうし場合によっては救済も必要で、医学的に障害としないと行政が保護できないことは理解します。しかし医師でもない人が言いたがるのは、色覚障害もまさにそうで人間の悲しいサガというか、見ているこっちがこの人はそこまで恵まれてないのかと気の毒になる現象でもあります。もし言われて不安になっている方がおられれば一笑に付してくださいね。あなたが世界でオンリーワンの存在なことは神様が「そうだよ」と認めてくれますし、もしお会いすれば僕が自己肯定できるようにしてさしあげます。
その逆に、織田信長、アインシュタイン、モーツァルトも「それ」だったと騒ぐのはこれまた甚だしくインテリジェンスに欠けますね。モーツァルトがそれだったとしても、だからって名曲が書けるわけないでしょ。天才もいる資質なんだと言いたいなら犯罪者もいるかもしれません。つまり世の中のためには一文の価値もない駄説です。ワーグナーの楽劇のスコアを見たことのある方、あの分量は他人の楽譜を機械的に書き写してもそれで一生終わっちゃうぐらいで、つまりあんな質量とも人知を超えたアウトプットができる人たちはそんな些末な議論はブチ越えています。「でも、それADHD、アスペなんです」なんて軽いタッチで言えちゃう人は「あの芸能人、実は “アレ” だった!」みたいな下世話なネタ好きが本性で、悪いけどそっちのほうがよっぽど病気なんです。医者ではありませんが僕はベートーベンはパニック障害という稿を書きました。それは彼の特定の作品についての仮説であって作曲能力のことではなく、なぜそう思うかは帰納法的に経験的論拠を付してます。そう考えることで僕はエロイカやピアノソナタ第28番の凄さをより深く味わえる体験をしたので、そういう人も広い世界にはおられるだろうと信じるからです。
「極端に変わってる人こそ活躍できる時代がやってきた」と本の帯にありますが、日本は万人に同質性が求められるからそれは大多数と同義で、それがぜんぶ活躍してハッピーだったなんてことは人類史上一度もありません。活躍した人は実はみんな異質でしたが歴史が同質的に描いてるだけです。時代にも人種にも関わらず図抜けて活躍する人は0.1%もいないので大多数の普通の人の目には「極端に変わってる人」に見えるだけのことであり、今も昔も、たぶん石器時代でも、そういう人が権力も資産も握って子孫繁栄もするのが人間社会の根源的な姿だから活躍したにきまってます。だから「極端に変わってる人」だからこそ活躍できる根源と程遠い社会などできるわけないし誰も望んでないし、常識的だけど能力は図抜けてる人がいちばん安全で有利であることは今後も変わらないでしょう。実につまらない結論ですが。
学校で学んだことでなお残っているもの (3)
2024 DEC 29 9:09:30 am by 東 賢太郎
どうして鉄の匂いが好きなんだろう?
そう考えだしたのは小学校のクラスにそういう子はひとりもいなかったからです。みんなと姿かたちが違うというのはありましたが、鉄についてはもう劇的にメガトン級に違うわけで、そういう人たちと何をして遊べばいいのかわからずなかなか仲間にはいれませんでした。
沸点1535°の「鉄の匂い」を知る人はあまりいないでしょう。嗅いだのは小田急線が登戸から和泉多摩川駅に向けて速度を落とす下り坂でブレーキ(鉄)と車輪(鉄)がキイキイ悲鳴を上げて擦りあい、摩擦熱で溶解した部分が台車から夜陰に向けてオレンジ色の花火のごとく散りばめられた時です。細かなものは鉄粉となり錆びて線路の砂利を赤く染めます(これは火星の色ですね)。何台も通るのをしぶとく待ち受けていると時に大きめのがポトンと踏切の線路わきに落ちます。ここぞとばかりそれを拾って箱に入れた時にのみ匂いは仄かに感知できるのです。楕円形で薄い煎餅ぐらいの大きさで淵は指が切れるぐらい鋭いイガイガがあり、表面は艶やかな銀色です。光があたると虹色に輝くのが美しく、誇らしげに親に見せたらお前何やってんだと大変な騒ぎになりました。この鋳鉄制輪子による踏面ブレーキが廃止されて機会は消滅しましたが、電車の車輪と線路にどうしようもない衝動的関心をもっており、将来の夢は鉄道会社に入って保線の仕事について毎日線路を調べることでした。
鼻血が出たときの血が同じ匂いであることに気づいたのはのちになってです。父から酸素を運ぶヘモグロビンは鉄を含んでおり、血は鉄の赤色素で赤いと教わりましたが、さらに中学ぐらいになって、重金属元素Fe=鉄は地球上では生成されないことを知ったのは青天の霹靂でした。ということは、恒星が一生の最後に超新星爆発し、宇宙空間にばらまかれた鉄で我々の身体はできているということを意味するからです。いま振り返ると、その思考方法はいっぱしに論理的です。それは思いついたものではなく間違いなく教わったものでしたが、残念ながら学校ではなく推理小説(特にヴァン・ダインとエラリー・クイーン)からでした。そこから以下のことが推理されてきます。我々は両親から生まれましたが、元素としての母体は宇宙の誕生(137億年前)から地球の誕生(46億年前)までに死んだ恒星の残骸です。鉄は地球の最大の素材でもあって総重量の約30%も占めます。人類が誕生したのはおよそ500万年前のアフリカですが、地球はその時点ですでに45億9500万年も存在しており、鉄を供給した恒星(一般に何億年も生きる)の一生は少なくとも1ラウンド終わってます。地球の時間のおしりのたった0.1%しか生きてない我々の存在は本当に1ラウンド目なのでしょうか?
そんなのはSFネタだと笑う人は少なくともエラリー・クイーンのたてる大胆な推論と論理的な解決に快感を覚えたことのない人でしょう。では、火星の大気にはキセノン129という人工的な核分裂によってのみ発生する同位体が含まれており、自然に存在するウランの0.72パーセントしかないウラン235の放射線量が多い地域も2か所あるという事実をどう説明するのでしょう?人工的な核分裂というなら何者かが火星で核爆発をおこしていなくてはなりません。宇宙規模では隣の庭のような火星でそれがおき、現人類は誰も知らないのはなぜでしょう?その何者かが核によって絶滅した可能性を否定するにはその痕跡がないことを示す必要がありますが、悪魔の証明は困難です。NASAは沈黙しますが火星移住に実現可能性を示す明確な根拠がなければイーロン・マスクは計画しないでしょう。彼は斯界の最先端の科学者たちからヒアリングした結果としてこの世界が仮想空間でない確率は「数10億分の1」と語り、「シミュレーション仮説」(我々はコンピューター・シミュレーションの中で生きているとする説)の信奉者であることを明らかにしています。僕は科学者に話は聞いてませんが直感的なその信奉者です。なぜなら、未だ謎である「 “物質” と “生命体”との接合点」の問題を解く必要がなくなり、なにより、シンプルにイメージできます。何事も真実はシンプルだと思っているからです。
イーロン・マスクが正しいならば、地球上の生命は昔の理科の教科書にあったオパーリン説のように雷で誕生したのでもどこかの惑星や彗星から飛来したのでもなく、シミュレーション・プログラムを書いた者、すなわち創造主(または神、またはAI)の “作品” なのであり、そうである確率は(数10億-1)/ 数10億だからほぼ100%です。火星を舞台にしていた前のラウンド(ゲームソフト)は飽きられて “核戦争ボタン” によってデリートされ(リアルなゲームなのでちゃんとキセノン129とウラン235が発生)、新しいラウンドが今度は地球を舞台に始まっている。我々人類はスーパーマリオの登場人物のような80億個のキャラクターであって、ゲーム内の世界(我々が観測できている宇宙)は認識していますが、我々に認識できない場所からスクリーンで見ている者が我々のすべての行為、行動を操作しています。そんな馬鹿なと思われましょうが、その仮説と矛盾しない結果が1983年に米国の脳科学者ベンジャミン・リベットが行った実験により得られています。人間は何らかの行為をする0.5秒前に脳が筋肉に電気信号を送る準備をし、0.35秒前に行為をする意図に気づき、0.15秒前に行為をしようと思い、0.05秒前に行為を指示する電気信号が脳から筋肉に送られ、0時点で行為が起きることが実証されたからです。つまり、我々は自らの自由意志でその行為をしたと思っていますが、実はそうではありません。皆さんがスーパーマリオで遊ぶときマリオを動かそうとリモコンボタンを押しますが、押すのが常に先ですからマリオの意思決定を測定すればリベット実験の結果が得られます。
この実験を自由意志の否定と解釈するなら哲学者には大問題です。「人間は考える葦である」(パスカル)なる思想は自由意志の存在が人間の究極のよりどころと仮定して成り立ちます。人類史上もっとも疑り深かったと僕が考えている人物はフランス人のルネ・デカルト(1596 – 1650)であります。彼は見えているもの全部を積極的に疑いまくって、最後に残ったものだけを真実と認めました。そのひとつが「我思う、ゆえに我あり」です。「我」が誰かに「思わせられている」なら「我あり」は否定されます。すなわち、絶対普遍の論理的帰結として、自分は存在しないことになってしまう。哲学が素晴らしいのはこういうところで、数学だとX=1が解答としてそれそのものは何の意味も持ちませんが「我思う、ゆえに我あり」は誰もがわかることです。僕は哲学書を読み込む訓練をしておらず浅学の誤解があるかもしれませんが、命題はロジカルなのでわかってしまう。問題はそこに至る論拠ですが、デカルトは心(精神)と体(延長)は別物としながら両者は相互作用があると心身合一の次元を認めて矛盾します。数学だとここでアウトですが定義領域が数字より広い言語を素材とするのでそうならないのが違いという理解をしています。
現代人にとって大事なのは彼が導いた解答の正誤ではなく、論理こそ神の真理に至る唯一の道という方法論への絶対的な帰依です。これなくしてその後の科学の発展はなく、彼が考案したx軸、y軸の「デカルト座標」なくして我々が中学で学ぶ数学はなく、演繹法という論理が導く結論に対しては権力者がどんな大声で怒鳴ろうが脅そうが、静かにQ.E.D.(証明終了)である。これは帰依というより思想なのではないかという疑問はとても深いもので僕に語る資格はありませんが、少なくともそれなくして数学の問題は絶対に解けません。解けなくても生きてはいけますが、こと知識人である条件としてはその方法論への絶対的な帰依の有無は人間と猿の境界線のようなものです。
当時の人類でこの重みを知る人はほぼ皆無で、重みは教会で聖書や賛美歌にきく神の言葉だけにありました。そこで語る神官の頭に往々にして宿っている混濁、誤謬、邪念などが混入し真理には程遠い。よって神まで存在証明Q.E.D.の対象としたデカルトの「疑わしいものは排除」する精神は現代流にいうなら「文系的なもの」は真理の追及には無意味として除去であり、超理系的な彼は歴史学・文献学なども哲学界の先人の業績も一顧だにしていません。批判されましたがそれは論理というものが論理的でない人間には妙に見え、それに帰依した人物をまだ見たことがなかったということでしょう。
僕はデカルトの哲学は論理を「美しい」と感じる「美学」の裏返しと想像しています。ここだけは論理でなく、きれいな景色を美しいと感じ、そうでないなら感じないという何らエモーションのない空気のようなもので、いわゆるアプリオリな性質です。僕も受験勉強で論理(数学)が美しいと感じた瞬間があり、そこから思想も音楽の聴き方も変わった気がするので共感します。生きる知恵としては演繹のみを認めるデカルトよりフランシス・ベーコンのイギリス経験論がしっくりきますが(つまり非論理派だらけの人間界を論理だけで泳ぐのは困難と悟った)、それは多分に英国で6年厳しいビジネスをした経験からと思われます。父方は物理学者ふくむ理系寄りであって僕自身文系的なものはさっぱり興味なく、星を眺めた末に見えているものは信用ならないとなった自分はアプリオリにはデカルト派と思われますから、ベーコン派に転じたそのこと自体が「人間はアプリオリには決まらない」とする経験論を身をもって証明しています。
17世紀のヨーロッパを概観してみると、フランスはルイ14世の絶頂期でプロテスタントが弾圧され、イタリアではガリレオが地動説で宗教裁判にかけられたように、王侯、貴族、カソリック教会という “保守利権” の牙城でした。それは科学、数学、論理学なんぞとは程遠い “ド文系世界”であり、そこにルネサンスでエッジを得て進化しつつあった “理系の波” が押し寄せた結果、絶対王政、宗教、科学のバランスに変革が起き、市民革命への萌芽が生じた世紀です。1648年にパスカルの原理、1655年にホイヘンスが土星の衛星タイタンを発見、1684年にライプニッツが微積分学を発表、英国では1687年にニュートンが万有引力の法則を発表するなど科学に大きな楔を打ち込むほどの進展があり、音楽でも神の摂理を数学的な美で解き明かしたJ.S.バッハがドイツに現れます。バッハを単にキリスト教音楽と理解しているとわかりませんが、彼はルター派の教会音楽家で、ビジネス的妥協があったカソリック仕様のロ短調ミサ曲以外はプロテスタントの礼拝のためだけに書いた “理系の波” 派の人です。
こうした「理性」を輝かしいと思わない反知性主義の人と僕は根源的に交わりようがありません。ちなみに猫は猫の世界の理性があります。1億年も前から生存のために磨きぬいてきた畏敬に値するものだから、懸命にビジネス界で生存してきた僕は猫とはぎりぎりのフロントにおいて大いに共感しあえるのです。面白いのはそれを持ってない猫は見たことがありませんが人間はたくさんいるということですね。銀のスプーンをくわえて生まれただけという王侯、貴族にも知的な人はいましたが、その典型のカテゴリーと認識されました。そういう一族が権力を握り続ければヨイショするだけの三流人材が取り巻きとして栄えてしまい、集団としての人類は頭から腐ります。百年後にフランスで革命が起きて王族は罪もなく殲滅されたのは気の毒でしたが、絶対王政、宗教、科学のバランスが変革した帰結です。シミュレーション仮説からは人類を滅ぼさないためゲームの管理者が制御ボタンを押したのではないかと思います。管理者は人類を超える科学の所有者ですから人類を繫栄させるなら自分に近い資質を重視するでしょう。つまり「理性」を「輝かしい」と感じるルネサンス的人間を選別したのではないか。滅ぼされたブルボン、ハプスブルグ、ロマノフ王朝は文化を残してくれましたが民衆はそれで飯を食えません。全員を幸福にできるのは科学の進歩です。今後もそれしかありませんし火星移住もその内です。
僕は学校で法律と経済学はやりましたが、物理・化学も哲学も音楽も門外漢の独学です。それらをまとめてリベラル・アーツといえばもっともらしいですが下手の横好きともいえ、関心という尺度なら圧倒的に後者であり、無関心な前者で飯を食っています。どうしてこうなったんだろうとアプリオリの自分、コンピューターならディファクトのOSに関心をいだき先祖のルーツを調べましたが、それを考えるのは自分のOSでしかなく、先祖がどうあろうと答えは鉄の匂いが好きだった自分の中だけにありというなんでもない結論に至りました。「我思う、ゆえに我あり」です。この言葉を学校で教わってもわからないのは、わかるはずのないものを知識として教えてしまう学校の勉強でOSがバージョンアップすることはまずないからと思われます。僕のそれがフル稼働したのは明らかに20才あたりです。バージョンアップすることはついぞなく、下降の一途で今に至ってるのに今の方が賢いと思える。うまく書けてるんですね。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
学校で学んだことでなお残っているもの (2)
2024 DEC 26 22:22:55 pm by 東 賢太郎
小田急線列車衝突転落事故-1961年(昭和36年)1月17日
小田急電鉄小田原線和泉多摩川 – 登戸間、多摩川左岸堤防上にある和泉多摩川2号踏切(事故当時は第3種踏切:踏切遮断機なし、踏切警報機のみ)で、新宿発各停向ヶ丘遊園行き下り列車(2400形4両編成)とダンプカーが衝突した。ダンプカーが警報機鳴動中の踏切を突破しようとしたことが原因とみられている。この事故でダンプカーは鉄橋上約100 mほど登戸駅側に引きずられ炎上、運転者が死亡した。一方、列車は先頭車が多摩川の河川敷に転落、2両目は鉄橋から宙吊り、3両目は脱線、4両目(最後尾)は無傷。運転士1名と乗客約数十名が重軽傷を負った。この事故後、現場踏切は車両通行止めとなった。その後事故から40年余りが過ぎた2004年ごろに高架線が完成し、この踏切は廃止された。
1月23日 家の目と鼻の先の現場を見に行って画いた絵(成城幼稚園、5才)
細かく描いているのは「車輪」と「ブレーキ」と「たんく」(みんな鉄でできている)。
事故車両と同型の小田急2400形台車FS30(1959年から1989年まで運用)。絵は車輪の丸い穴にこだわっており、鉄橋の上にある救援車両の台車は異なる。
車輪と線路の光ってる部分が好き = 鉄(Fe)の匂いが好き
ここから電車のブレーキが溶けた熱い鉄片を線路で拾ってくる悪戯がはじまり、親父にこっぴどく叱られる。
そして「なぜか磁石みたいに鉄に惹かれるのだ」と書いたここに至る。
そしてついに「鉄の匂い」を「エロイカ」に感じる。「車輪と線路の光ってる部分」と「クラシック音楽」は元素Feで結合している。
「クラシック音楽」と「恒星の物理」も元素Feで結合している。
以上、学校で習ったことはひとつもない。
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学校で学んだことでなお残っているもの(1)
2024 DEC 26 0:00:15 am by 東 賢太郎
今月の6日、お気づきだった方も多いでしょうが東京でも空の真上(天頂)近くに月がありました。地球が公転面から23度傾いていて月はさらに±5度傾いてるので北緯28度まで、つまり沖縄あたりまで天頂の月が見られますね。これに気がついたのは香港に住んで「太陽が天頂にある」光景を生まれて初めて見て感動してからです。東京は北緯36度だから太陽は夏至でも天頂から13度下方までしか来ませんが、月は8度まで来るのでかなりてっぺんに近い。
月の傍らにはひときわ明るい木星があり、その左下にこれも目立つ火星があったりとその節はとても界隈がにぎやかでした。子供のころは暗くなるとひとり団地の広場に出て、ワクワクしながら寒空を眺めてました。北東の中空にカペラ、レグルス、アルデバラン、カストル、ポルックス、プロキオンなど一等星がめじろおしです。プロキオン、シリウスと冬空の大三角形を形成するところにベテルギウスがあってここが見事にきれいな形をしたオリオン座です。お正月に伊豆の天城高原ロッジで眺めた天空のこの辺りのゴージャスな景色は忘れません。
さように初めはうっとり眺めていただけですが、だんだん想像が逞しくなります。買ってもらった天文の本によると太陽は地球の109倍もでっかい。伊豆まで車で何時間もかかったのに世界地図だと1ミリもない。109倍の意味がわかって仰天します。ベテルギウスはたしか太陽の1000倍ぐらいと書いてありました。じゃあそれを太陽の所に置くとどう見えるか?見えないんですね、火星までのみこまれて。そんなでっかい物体がどうして「点」なのか不思議でした。
いっぽうでオリオン座の右下の一等星リゲルの大きさは昭和30年代の当時はわかっておらず、ブルーのスペクトルから温度は恒星の限界の1万2千度とだけありました。さっき調べると大きさは太陽の50倍、出ている光は8万倍ですから老人星のベテルギウスとは別物の屈強な若者星です。でも同じぐらいの「点」に見えてます。「全天恒星図」と「天文ガイド」で調べると恒星に同じものはないのですが、みんな同じ「点」に見えます。面積がある太陽は、地球の1/4の大きさしかない月と同じぐらいに見えますが、それは月が太陽の400倍近くにあるからです。
それを知ったことは自分の人格形成に大きな影響があったといって過言でありません。見えているものは信用ならないと感じ、とっても疑り深い少年になったからです。それが性格と化してそのまんま「シミュレーション仮説」の信奉に至り、見えているものは全部が仮想現実(=誰かが作ったウソ)であるという確信と共に生きているのだから影響どころではありません。
そういう子は学校で「協調性がない」と見られます。でも、自分をそう見ているオトナを見て僕は信用ならないと感じてたわけです。そんなある日、当時いた3匹の猫たちにエサをあげると、好物の煮干しなのにしばしクンクン匂いを嗅いでから満を持して食べます。何度やってもそう。僕にもエサにも信用などないよという感じで、その都度その儀式をやってOKしないと拒否です。それを見てウチの猫はどの人間より信用できる、そうあらねばならないと思いました。
学校は太陽や月の大きさは教えてくれます。覚えないと試験に落ちますが、天文学者にならない人にとってそれ以外にその知識が役立つのはくだらないクイズ番組ぐらいのもんです。それを知ってる君は合格!なんて無意味なことをやってる学校のほうがそもそも信用できんのです。アインシュタインはこういってます。
学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているものが教育だ。
もしそうだとすると、一切忘れてしまった僕に残ってるのは「疑り深い少年」になってよかったという安堵感ぐらいですね。疑うためにはまず自分で考える必要があるのでそういう癖がつきましたし。でもそれはアインシュタインでなく猫に習ったわけですね。
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スーパー買い物から見る夫婦別姓問題
2024 NOV 17 16:16:18 pm by 東 賢太郎
日々の食材の買い物というとすっかり家内におまかせだ。なにせ新婚生活を始めたアメリカではビジネススクールの勉強、その次のイギリスでは仕事、とにかく気絶するほど忙しく、スーパーは行ったことぐらいはあっただろうが記憶がない。ドイツ、スイス、香港もその延長でおなじようなものであり、だからその次にやっと定住した日本だって、まあ一緒に行くのは年に2,3回というところになっている。
給料はというと、親父はぜんぶは渡してなかったとみえて母は足りないとこぼしていたが、僕はそれを見ていたので最初っから家内にぜんぶ渡している。というと良い亭主のようだが特別な事情があった。当時の野村證券は留学は独身者のみであり、僕は外国で一人じゃあ生きていけないから先に結婚させてくださいと人事部長に申し出たら認めていただいた。わがままを言ったのだから生活費が増えるはずはない。日本での手取りは10万円ぐらいで、当時の為替250円だと月の食費は二人で400ドル。激貧生活で栄養失調ぎりぎりだった。卒業してイギリスで仕事に戻って少しは増えたが、僕は家事はいっさいできないからぜんぶおまかせ、全額お渡しでいまに至る。それでもまだ下っ端でかつかつだったが仕事に100%集中させてもらい、おかげでドイツからは少しえらくなって楽になった。
きのう、何か月ぶりかで家内とスーパーに出かけた、というか、ついて行ったというのが正しい。おやつがきれたからだ。そうなると僕は夜型のうえ食い意地が張っていてがっつり夜食をしてしまうから、低カロリーおやつでごまかす必要があるのだ。
日本のスーパーは何度か一人で来た。物を買うときは慎重な性分だから本屋やCD屋で売り場を隅々までチェックして3,4時間迷うなんてザラである。食品ともなれば品質、グレードはもちろんのこと、ナッツやビスケットや昆布はグラム換算の値段を計算するし、オリーブ、チーズ、蜂蜜、甘味類などはホンモノかどうか産地、添加物、色素までもチェックする。そうやって売り場であれこれ手に取って迷っていると、きまって困った事態になるのだ。周囲の人の流れが渋滞し、カートのご婦人方にじろじろ見られる。スーツの男がひとり、しかもカゴもなしだったりして、何なのよこの人、邪魔よねという冷たい空気に包まれるのである。
というわけで、家内について行くに限る。この日は夕食の鍋の具がメインだった。タラがいいと思いこれかなと切り身を渡すと、これよりこっちと瞬時に切り替えられる。値段はそっちのが高いがなぜかは不明だ。そうこうして、僕はヨーグルトを真剣に悩んだりしたのだが、ブルーベリーが入ってるからこっちねと問答無用、全部が即決でカートに積み上がり、ものの30分で一陣の風のごとく買い物は終了した。アイスクリームの氷の手配やらポイントがどうのやら彼女はプロフェッショナルである。そこで「最近物価は高いの」と聞くと知らない。「だって海外でね、子供を3人学校に迎えに行くのよ、買い物はそれまでにさっと済ませなきゃいけないからあるだけでいいの、値段なんか見てられないでしょ」。たしかにドイツやスイスなんか子供は危険だし、日本人に食えるものがあるだけで貴重だったっけ、なるほど、それがそのまま来てるのか。タラは美味であったしお菓子類も不満なしで、迷うのは時間がもったいないのかもしれないと思った。
ことほどさように、主夫というか、domestic(家庭の)回りのことはすべからくだめである。それには根っこがあって、小学校で弁当を食べ終わるのは常にビリ、手先が不器用でボタンをしめたり靴ひもをささっと結ぶなんてのがだめで体育の着替えもいつもビリ。キャンプに行ってもあらゆる仕事に何の役にも立たずはじかれる。中学の書道は最低のDで、万力だか旋盤だかで本棚を造ったりする工作や技術家庭なんて科目はまるっきしお呼びでなく通信簿はいつも2だ。中学まで体もチビでやせっぽちでケンカも弱く、クラスで目立つなんてことはまるでなし、自分は男として劣っているとコンプレックスにとらわれていて、同級生の女子にはそれを知られまいと身構えていた。
長じてもその事態は変わらず、だから女子にこっちから近づこうなんて気はさらさらおきない。できないものはできないのだからそれがバレて赤恥かいて自尊心が傷つくのが嫌だったのだ。ところがだ。そういうダメ男であることは、多少なりとも僕を知った女性にはどう隠しても見ぬかれていることがだんだん明らかになってきたのである。アンタだめねと見る女性もいるがそうでない女性もいる。それどころか欠陥をぜんぶ補ってくれて本棚まで造れてしまう女性もいることがわかり、それが家内なのだが、するとそういう部分は “ヒモ” になって気にする必要もない。積年の劣等感から解放され、得意なことだけに傾注すると僕は意外に強かったというwin-winの分業ができることになった。
日本経済の失われた30年で、特に男性は経済的な事情から結婚が難しくなっていると聞くが、そうでなくても難しかっただろう半端者の目から見ると心が痛む。僕はどうひいき目に見ても優秀な男子だったわけではなくもっと上の人がいくらも周囲にいたが、たまたま生まれた時代が今よりはましで少々の運があったということなのだ。時代ということでいえば、いまの対米従属の政治はいかんという主張を書いているが、僕の時代も従属だったのだからそれだけが30年ロスの原因ではない。アメリカも元気がなくなったからこうなった面も大いにある。だめな国に全面的従属を続けても未来はないだろうと思うのであり、日本はオンリーワンの歴史、知恵、国民性を持った国で、これを成長の源泉とする方法は必ずあり、自尊心を持ちながら経済的に独立独歩の道を歩めて何ら不思議ではないというのが主張なのだ。
そのためには男性も女性も幸福な家庭を築くことがとても大事だ。述べたように僕は一人で何もできないし仕事の能力も大したことはないが、欠陥を妻に補ってもらえたからフルスロットルでアクセルを踏むことができた。要はそうやって1+1が2より大きくなれば家庭の経済はうまくいき、その集合体としての日本経済もたぶんうまくいくのである。家庭と仕事の役割分担で男女逆転があっても何らおかしくなく、高学歴の女性は高学歴の男性と釣りあうなんて前世紀の遺物みたいな発想は捨てた方がいい。前世紀の男は、僕もその一人だが、自分より勉強や仕事ができる女性はあんまり求めなかったのは事実かもしれない。しかし今どきの世の中だ、たまたま男に生まれたけれど女性的な仕事が得意で家庭を支えてくれるやさしい “マスオさん” はいるはずだ。彼は男性社会で競争するより高学歴女性とペアになって本分を発揮できる。女性は後顧の憂いなく思いっきり社会で活躍すればよく、そんな例が増えれば社会の目も変わる。女性活躍社会などとはやして男性社会に無理やり隙間を作ろうという政治努力より男女の結びつきで女性が実力で社会を変える方が自然なのではないか。
僕は学生時代からユーミンの熱烈なファンだが、彼女が結婚して松任谷由実になったことで松任谷氏に羨望をおぼえた。天下の荒井由実様が旧姓でとおせるのに改姓した、いや、させた。すごい男だ、そんなにモテてうらやましいと嫉妬したものだが、あえてそういうことにしたユーミンさんのほうも大したもんだなんて気もしていた。だってそうされてごらんなさい、旦那はプライドにかけて必死に働くしかない。夫婦というのはそうやって1+1が2より大きくなる可能性を秘めたジョイントベンチャーでもあり、どっちの姓が上だ下だ好きだ嫌いだなんてなればみすみすwin-winのシナジーを求める精神を消すようなものなのだ。金融再編で3つも4つも銀行がくっつき、統合された側のメンツで新社名は金魚の糞みたいに奇怪で長く、当の社員さんすら言い間違えたなんてジョークが流行った時代があった。そういう結婚ならば僕は見送る。ウチの3人の子は東を名のって成人したので僕が何かやらかして家名を傷つけたら末代まで響く。普通の日本人ならそう思うはずだ。というより、それが日本人であり、日本社会のモラルの下支えというもので、サッカー場のごみをサポーターが片づけて帰っただの、震災で濁流にのまれそうだったお婆ちゃんを数人の若者が命を賭して救う画像に世界が拍手しただの、そういう我々には何でもないことが「日本的なるもの」を根っこで支えてきたのである。
もう一度書こう。日本はオンリーワンの歴史、知恵、国民性を持ったユニークな国で、ゼロからそれを凌駕しようと思えば、日本が日本たるべく辿った来し方である1500年ぐらいはかかる。だからそう試みるほど気の長い国は絶対に出てこない。いわば秘伝のタレを持った老舗のような存在なのであり、それを上回ろうと狙う連中はなんちゃってコピーをするか、目の上のたんこぶは邪魔だと日本という国柄を潰してしまおうとするだろう。そういう勢力に負けてしまって得をする日本人はいない。そいつらのポチになって一時の利得は得ても、相手は所詮は犬ころと思ってるのだから子孫は捨てられる。だから、絶対に負けてはいけないのである。日本国の、歴史の、文化の、言葉の、考え方の、あらゆる奥ゆかしさユニークさは、持ってない異国人からすれば究極の羨望の的であることは、16年海外から母国を眺めた者として断言できる。いずれすべての異国がそれに気づく時が来る。ということは、明治維新のようにそれを自ら破壊する愚を犯してはいけない。国民が誇りをもってそれを「成長の源泉」とする方法さえ考案すれば無敵なのだから、潰す側につくより無敵側についた方が圧倒的に賢明なのである。その方法が何か、いま僕は知らないが、必ずあると信じる。1500年の先人の遺産があるのだから、どうしてそれができたかを自分で考え、じっくり得心するまで先人に学べばいいのである。それは司馬遼太郎を読んで、日露戦争までの美点凝視で一時のカタルシスの解消を求めることではぜんぜんない。まして、また尊王攘夷で鎖国して外国を追い出しましょうなんてものでもない。むしろ、日本人が最も見たくなく、砂漠のダチョウのように砂に頭を突っ込んで回避していたい80年前の敗戦と国柄の喪失という歴史の負の部分を直視し、徹底的に「失敗から学ぶ」のである。日本人が本気になりさえすれば、我が身がこうして平穏無事に存在していること自体が成功を保証しているようなものだというアドバンテージに誰もが気づくと信じる。
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「もしもピアノが弾けたなら」は辞書になし
2024 OCT 22 12:12:14 pm by 東 賢太郎
西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」は、歌詞を調べると、「ピアノで思いを君に伝えたいが持ってないし聞かせる腕もない」という歌だったようだ。ようだというのは、そういうのがあったぐらいは知ってるが一度も聞いた記憶がない。その手のものにとんと興味ないのもあったが、題名をみて、無能が歌にまでなるのか、そんな暇があるなら練習すりゃいいじゃないかと思う性格だ。西田さんは女性にもてたろうが僕がさっぱりだったのは思えば当然のことだった。
ピアノはもっぱら妹がやるもので、当時の世界観として女子のお稽古事であった。だからそんな恥ずかしいものを習おうなど考えたこともない。そもそも学習塾もなにも、何かを習ったということがない。ところが中学あたりでクラシックに目覚めてきて、自分の聴いている面白い音が何かという科学者みたいに即物的な研究心がわき、天体観測をする際の全天恒星図あるいは鉱物標本、人体解剖図を持っていたのとまったく同系統のノリで悲愴交響曲のスコアを買った。暗号のようで何もわからない。「もしもピアノが弾けたなら」と思ったのはこの時だ。
そこから独学にのめりこむ。高校あたりでバッハのインヴェンション1番ハ長調とドビッシーのアラベスク1番が弾けていたから悪くはない。悲愴のスコアはちょっとはわかるようになった。芸大に行きたいなと思ったのはこのころだが両親はそういう考えはまるでなかった。ちなみに野球も受験もそうでゴルフも自己流でスコア75を出したからどれも同じぐらいのレベルまでは行った気がするが、独学の宿命でどれもいい趣味にすぎない。いま職業にしているスキルは証券会社にいたのだからきっと初めは習ったのだろうが、これもそんな記憶はないぐらいに自己流である。証券業は以上のジャンルに比べればまったくもって誰でもできる、西田の歌の主人公だってできるだろうから誰にだって教えられるし、いま仲間になっている40歳あたりの後継者たちを指導することは僕のライフワークだ。
いま、さらに「もしもピアノが弾けたなら」の心境になっている。基礎訓練をしてないから候補は平易な技術の曲に限られ、それでいて自分の耳を満足させるものとなるとさらに限定される。ラヴェルのマ・メール・ロア(二手版)はそのひとつだ。終曲は弾くだけならそう難儀ではないが、出だしのピアニッシモ、とくに2拍目のドミシレは魔法のような7度と9度の音量に絶妙のバランスが要求される。ラヴェルは、マーラーもそうだが、常人の目からすれば変質狂レベルの完全主義者だ。のっけからやり直しの連続で楽譜には何も書いてないが極めて難しいことは弾いた人はわかる。変質狂が書いてない、というか楽譜の記号でも文字でも書けないのだから、これが難しいなら俺の曲は弾くなということに違いない。人間が造った「世の中の最高級品」とはすべからくそういうものによって成り立っているのであって、宣伝やマーケティングやイメージ操作や裏取引をしないと需要のないものは100%間違いなくすべてガラクタである(みなさんたった今そこらじゅうで響いてる選挙演説をお聞きになったらいい)。クラシック音楽は最高級品の中でもトップ中のトップのひとつであって、だからそれがわかる人(理解ではない、アプリーシエイト)に300年も聴かれているのであり、真の喜びというのは神の如く細部に宿っているとつくづく思うのだ。「もしもクラシックがわかったなら」という人は300年たってもわからない、それをせずに死んだら人生もったいないと思うかどうかだけだ。ラヴェルがここぞという場所に絶妙に「置いた」宝石のような音たちのまきおこす奇跡!自分で演奏すれば何度でも好きなふうに味わうことができる天上の喜びだ。
シューベルトの即興曲D.899の第3番変ト長調もそう。何度弾いても飽きることのない6分ほどの白昼夢のような時間である。二分の二拍子を表す記号が2つ書いてあるから二分の四拍子で「出版時は調号が多いことに起因する譜読みの難しさなど、アマチュア演奏家への配慮から、半音上のト長調に移調され、拍子も2分の2拍子に変更されていた」(wikipedia)らしい。ラヴェルに書いたことはここにも当てはまり、弾きやすい調にすれば解決できると思うような類いの人はこれを弾くのはやめたほうがいい。当時の調弦は少なくともオーケストラの a は低く、それを現代ピアノでト長調なら全音近いアップであり狂気の沙汰だ。シューベルトのピアノ曲で変ト長調はこれしかなく何度聴いても弾いても変ト長調しかありえないと思う。速度はAndanteであり、二分音符で歩く速さだろうが、ピアニストにより幅がある。速いのがシュナーベルで、ロマン派ではないからそうなのだろうというのが私見ではある。彼はそれで旋律を歌って見事に呼吸しているが、それがどんなに難しいことかというと、野球をしたことがある者が大谷を見てなんで摺り足であんな打球が打てるんだろうと思う、その感じが近い。ある個所で、アルペジオのたった1音だけ、つまりほんの一瞬、何十分の1秒だけ短調が長調になるのはよく聞かないと気づかないがこういう仄かな明滅がシューベルトにはある。低音で出るまったくもって音楽理論の範疇外の非和声的、非対位法的なトリル、空しく何かを希求するばかりで報われないのがわかっているコーダのT-SD-Tの和声は最期の年のソナタ21番の冒頭主題にそっくりリフレーンしている。感じるのは死にほど近いシューベルトが心で聴いた「何ものか」である。ではそういうものをシュナーベルから聴けるかというと、残念ながら、あれだけのドイツ音楽の名手にしてそれは否なのだ。シューベルトの時代の人間の感性がロマン派を知ってしまった我々に想像もつぬそういうものだったのか、ではどういうテンポでどう弾くのか。僕は技術的問題で遅くしか弾けないが、それでいいのかどうかいまのところわからない。
これからハードルは高いが何事もできると信じないとできない。ベルガマスク組曲ぐらいはいきたい。モーツァルトはヘ長調とイ短調のソナタ、ベートーベンは悲愴、ブラームスは3つの間奏曲作品117。バッハは平均律、ロ短調とハ長調(フーガ)は頑張りたい。著名曲ばかりだが、ニコライ・チェレプニンの「漁師と魚の物語」なんてのもある。
来年70になるが、もうひとつ、仕事をなし遂げたあかつきには社会人講座かなにか東京大学で、それもできれば懐かしい駒場で勉強したい。当時、いくらでもできたのにしないで遊んでしまったのはまさしく若気の至り、後悔でしかない。物理や天文なんかを孫ぐらいの先生に習うなんてのはいいなあと思う、僕の辞書にはなかったから想像するだけでも楽しいことだ。
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我がペニーレイン「和泉多摩川」に
2024 OCT 6 15:15:38 pm by 東 賢太郎
医師に「走るなら夜でなく朝ですよ」と諭された。暗がりの階段から落っこちてひどい目にあったので返す言葉がない。そこで前の週末、7時半から朝走りをやってみた。空気がちがう。よし、もっと遠出してみるかという気になったのは二子の駅まで来てからだ。戻ると7キロぐらいだ。夜だったらそうするが、まだ朝である。こういうとき「ここで帰るのはもったいない」となるのは子供時代からの困った性癖で、あらぬ場所に冒険したり友達の家にいりびたって行方不明になり、母が110番する寸前に何食わぬ顔で帰宅して大目玉を食らうなんてこともあった。ということだ。二子玉川駅から神奈川県側の二子新地駅にかかる鉄橋を渡る電車の “がたんがたん” がノスタルジーをそそったのも大いに加勢して、多摩川のもっと上流のあそこへ行こうという勇気がにわかに湧いてきた。
それは登戸稲荷神社だ(亡き父に捧げる五月五日のこどもの日)。両親は2歳の息子を連れ、昭和32年に板橋の実家から和泉多摩川に引っ越した。いまからみればまだ終戦後だったそのころ、当地は東京とはいえ最南端で川べりの田舎であり、住み家は1棟24世帯が5棟並んだ3LDKのひとつである。つまりなんでもないアパートなのだが両親には新天地だったと知ったのは、それこそが昭和38年に流行語となった “核家族化” だと後に学習したからだ。親離れしてモダンな家電とマイカーで “ハイカラ” な新生活を始めるのが若夫婦の憧れという世相は、同37年に大ヒットした吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」にくっきりと投影され、やがてくる高度成長期の礎になる。先んじて鉄筋コンクリートの新築社宅に入ったというのは銀行員の役得とはいえ、実家を追い出される立場である次男坊の父には誇らしいことだったに相違ない。そこに住んだ時期、僕には辛いこともたくさんあったが、家の中の記憶ということにフォーカスするならば燦燦と陽光がさしこむ明るい光景ばかりなのは不思議なばかりだ。意気揚々の両親のオーラに満ちていたからだろう。
走るといっても休み休みだ。道すがら河原に降り立って懐かしい草むらや川藻のにおいを深々と呼吸し、野の花や蝶々の写真をとったりと童心にかえったのは忘れ難い。東京にこんなきれいな蝶々が飛んでるなんて!あのころ、通っていた成城学園の周囲もまだ野っぱらだらけでそれはそれで楽しかったけれど、巨大な水流が秘める無尽蔵のエネルギーがあれば世界に不可能なことはないとさえ思わせる多摩川となると別格のド迫力であって、神々がこれを使えと伝えてくる鼓舞みたいなパワーが大地をメリメリと伝わってくる感じがしていた。野球を覚えるずっと前から友達とバッタやトンボを追っかけたり川面に石投げや水切り競争をしたり、いまは考えられないが遊泳や舟遊びまででき、冒険に興味津々の幼児にとってさらにゴージャスであった。
そこから数キロ走るとダムがあり、やがて我が故郷である和泉多摩川と神奈川県側の登戸にまたがる小田急線の鉄橋が遠く視界に入ってくる。住んでいたアパートはとうの昔に消えて今は14階だての立派なマンションが聳え立っており、商店街のお店もすっかり変わってしまっているが、タモリが言っているように道のくねりや幅や高低差はそのままだ。駅も高架になっていてまるで別な場所だが、その個所からの距離感は体が覚えていて、踏切があった場所がここ、そこから歩いてこのへん、このへんと往年のお店の位置が手に取るようにわかる。まず現れるのは左手にあった床屋さんだ。いまはラーメン岡村屋になってる。なぜか角っこに入口のドアがあって不思議だったが、なるほどこの T字路は直角でなく、駅から来ると鋭角になる。そこでとんがった角を切って車が曲がれる地形にした土地だったのだ。それが写真の自転車のある部分だ。床屋の例のぐるぐるはその左端にあったと思う。母に手を引かれて恐る恐る入っていく3歳の自分がみえる。
椅子は入ると正面に2つあった。座ると鏡に自分がおり、白い布を巻きつけられ首まで縛られる。いつも緊張していた。鏡の前に濃い青のガラス瓶が冴え冴えと鎮座しており、たしか赤?もあったが僕の眼はやたら青に反応するらしく覚えてない。それに液体に浸した器具らしきものが数本立ってる。もちろん櫛(くし)とハサミなのだが、変なのが出てくるとやだなと恐れてた。刈ってくれるのはいつだってヒゲの剃り跡が青々の旦那さんでやさしそうな面立ちなのだが、無口であって声をきいた記憶がない。髪を刈るとき手が仄かに消毒液の匂いがした。そんなに危険なものなのか・・。虚弱で毎週のように風邪をひいて、隣駅の狛江にあった久保田医院で注射されていたものだからそれを連想して固まってしまうのだった。いつも母は僕を置いて買い物に出て行ってしまい不安が増した。すると、それを悟ったのだろう、大柄で陽気な奥さんが「ボク細いねえ、ご飯たくさん食べなきゃね」なんて暖かく声をかけてくれてほっとするのだ。なんてビビり症の子だったんだろう。
写真の右手の建物、黒と黄の縞模様が貼ってある間口の狭いガラスの部分におばあちゃんがやってる小さな駄菓子屋さんがあった。ここはヘンゼルとグレーテルのお菓子の家みたいに夢のようなお店で、毎日学校の帰りにこっそり寄っては炭酸煎餅でウサギを作ってもらっていた。その工程はわくわくするもので、まず煎餅に水飴をはさみ、もう1枚を2つに割って耳にして飴でくっつけ、赤い梅味のシロップで目、鼻、口を書いて10円である。ある日、ポケットに5円玉しかなく入ろうかどうか迷ったが、これしかないですと差し出すとおばあちゃんは笑いながら「ボク、こんどは10円はもっておいでね」とウサギをやってくれた。それが「オレンジラムネ事件」の伏線であったのだが、その顛末はここにある。
思えば、おばあちゃんから僕は2つのことを学んでいたことになる。ひとつは商取引だ。お得意さんへの掛値販売というものの有効性、そしてそれが金利というものを生じさせる原理である。もうひとつは、これは非常に印象に残っているが、助詞「は」の用法である。あのときにおばあちゃんが言ったことを外人の子に伝えるならば Boy, if you like to come here next time, you must have at least 10 Yen coin with you. なんて長ったらしいものになる。それが「10円は」でエコノミーに完膚なきまでに明瞭に伝わるのである。なんてすばらしい言語だろう!日本語を学ぶ外国人が最も苦労する助詞の威力を一気にマスターしたのは、この言葉に参ってしまって、心からおばあちゃんに悪いと思ったからだ。
そのお向かいにはパン屋の幸花堂さんがあった。3歳ぐらいのころだろう、一人でお使い行かされ、入り口で足を踏ん張って突っ立ったまま大声で「パンいっきんください!」と教えられたまんまオウムみたいに唱える。すると「ボクお利口さんだね」とおばさんが出てきて紙で包んだパン一斤とお釣りを持たせてくれるのだ。そんな子供をだまそうなんて、まして誘拐したりいたずらする日本人なんてものは100%いないと確信に満ちた善き時代だった。覚えてるのはほめられてうれしかったことのみで、つまりこのストーリー、リアルタイムでの記憶はかすかにしかない。のちになって父が何度も人前で語ったから知ってるのだ。うちの息子は賢い、そう言いたくて賢太郎になったのであって、ほんとうにそうだとは僕は思ってない。それなのに、パン一斤の時と同じで父がそう思いこませてくれたから、その気になって多少そうなっただけというのが真相と思う。
道を先に進むと右手にあった肉屋さん、アラビキとかミンチとか知らない言葉が飛びかい、たぶんあれが好物のハンバーグになったんだろう。その左手には八百屋さんで、親父さんの威勢のいい声が飛び交い、薄暗くなると裸電球の横の籠がぶらぶらして蛾なんかが飛んでるのが目につく。つり銭をさっと選び出す手際よさは見事だったが。一番奥の右手角っこは本屋さんで、ここはとても重要だった。おやじさんが自転車で毎週火曜日に少年サンデーを配達してくれるシステムだったが、いつもその日が待ち遠しくて放課後にほかの誘惑を断ちきって早く帰ってるのにえらく待たされる。へたすると夕方だ。そこで待ちきれず取りに行ったらおやじは文句をつけられたと解釈したんだろう、ひどく愛想がなく、世の中こんなもんかと思って後の証券飛込外交の心構えとして役に立った。そんなことは委細構わず持ち帰ってむさぼり読んだ伊賀の影丸。僕は学校よりアニメで日本語を覚えた最初期の人種だ。蕎麦屋、鮨屋があったはずだがいつも出前なのでどこか知らない。
うれしかったのは江戸屋さんだ。商店街で唯一、60年前と同じ名前で残ってるのは感動的と評するしかない。いまは酒屋のようだが当時は建物全部がスーパーだった。なにせそんなものはハイカラでそんじょそこらにはなく、母とよく行った。「くすりの中山薬局」の部分の入ってつきあたりにコロッケ屋があって、母が小声で「こう言いなさい」と教えたとおり「めんちみっつください!」と大声でいうと、ガラスの仕切りの向こうで親父さんが笑顔で「はいよ!」とじゅーじゅー揚げてくれる。これはリアルに覚えてるからパン屋より少し後のことだったんだろう。コロッケよりメンチがちょっと高級感があってうれしい。持つと重たくて油紙がほんのり温かいのも良かった。そういう小さな幸せいっぱいの日々だった。そしていま、母の隣でメンチの大声を発したまごうことなき “その場所” に69歳の自分が立ってるのである。思わずぼろぼろ涙があふれ出てきた。
いよいよ川の堤防に出て多摩川水道橋を渡り登戸へ向かうことにした。橋のうえから今の自宅の方角を遠望する。二子のビル群が見え、川はそこで右に折れるからあのへんかと目途をつける。すると、家から見るとここはあのへんかと心当たりができるのである。そうこうして目当ての登戸稲荷神社についた。あれ以来はじめてであるし、橋を徒歩で渡ったのもそうだ。あれというのは両親に連れられて羽織袴で来た初めての七五三、つまり66年前だ。ポスターを見ると祈願があるのは11月2~10日である。1958年11月初旬で父が休みなのは日曜、休日だから2,3,9日のどれかであり、時刻は後述する件から午後3時に近かったと思われる。ともあれ、この時の父は33歳、母にいたっては30歳だなんて、とても妙な気がする。境内を歩いてみるとあっけにとられるほど小さい。人でにぎわっていて正月の日枝神社みたいな巨大なイメージがあったものだがこうだったのか・・・。どんな祈願をしてもらったかとんと記憶にないが、とにかく涙腺がゆるくなってるのはどうしようもない。周囲には人がいたが、なんであの人ひとりで泣いてるのか気懸りだったんじゃないか。
この境内には小さなエピソードがある。その日、一匹の茶色い犬がいた。雑種の成犬だったが、大勢人がいるのになぜか僕に付きまとってくる。さあ帰ろうと神社を出ても歩く後ろをトコトコついてきた。犬に好きとか嫌いの感情はまだなく、こっちもなついてくれたのに嬉しくなっていた。ところが橋までやってくると父が僕を抱き上げて欄干に乗せ、ケンちゃん歩いてごらんという。怖かったが手をがっちりつないでもらい、その上をこわごわ歩いた。とても長い。だんだん慣れてくると目線の高さに意気揚々となり、父との男のつながりで母の再三の「危ないわよ、やめなさい」はすっかり無視した。
対岸につき地面に飛び降りてほっとすると、犬はそこにいた。ついてきたのか!いとおしくてじゃれあって、やがてアパートの2階だった家の前まで来た。さあ中におはいりと当然飼ってもらえるものと僕も犬も思ったが、父は入れちゃだめだと頑として首をたてに振らない。そりゃ団地はペット禁止で仕方ないがそんなのは幼児には通じない。犬の鼻先でドアが閉められてしまうのを見て、僕は大声で泣きじゃくった。やむなく翌朝早々に起き出し、きっとあいつはドアの外で待ってると信じ、そーっと開けてみた。いない。外へ駆け出してそこいらじゅうを探し回ったが神隠しのようにどこにもいない。そこから何がどうなったかは闇の中で、覚えてないということは何もいいことはなく、記憶がデリートされたと思われる。どこでどうなってしまったんだろう、ごめんな。橋を戻りながら胸が痛んだ。
そういうことがあって、しばらくして母がどこかから黒猫をもらってきた。妹によると成城のクラスのお母さんからだったようで、とすると小学生になっていたから数年後ということになる。猫は大声で鳴かないし、外に出さないからという約束で父を説き伏せたと思われる。いま思うと、これが犬派・猫派の運命の分岐点だった。あのまま茶色が飼われていたら僕は間違いなく犬派になっていた自信がある。チコと命名されたこのオスはしたがって家猫になったわけだが、どういうわけか洗濯機の隣に首輪と紐でつながれてしまい、家族の一員になったとは到底いえない。母の運転する車が帰ってくると、幾台も車は来るのにエンジン音を正確に聴き分けてチコは鳴いた。僕はわからないのに凄いやつだと思った。何年かして、可愛そうだというので行きつけの伊豆下田の民宿に泊まった際に置いてくるという父の驚くべき裁定が下った。魚がいくらでも食えて幸せだといわれたがそんなのは口実だと思っており、どんな事情だったかは知らないが、おそらく猫が苦手な父がストレスになってだめだったのだ。チコと紐で遊ぶのは日課で飽きなかったが、僕も妹も歩くと足にじゃれつかれたり引っかき傷が絶えなかった。子供はなめられてたのだ。そのおかげで僕は猫とのつき合い方にめざめ、完全そっち派の人生を送ることになり長い長い豊穣のつき合いが始まったのだから偉大な猫であった。
そんな父だったが、和泉多摩川から中2で引っ越した鶴川の一軒家で野良猫が1匹、2匹、3匹と順次居つくと、家に出入りできるよう雨戸に猫の出入口をつけてくれた。大人になっても嫌なものはいつまでも嫌なもの。これは人間の法則であって僕もそういうものがたくさんある。猫のために新築のマイホームに穴をあけるなど父の性格からして苦渋の決断だったはずだが、その癒し効果で息子が東大合格すると猫たちの地位も向上したとみえ、次に調布に引っ越すと全員が車で同伴となった。本物の家族である。しかし猫は嫌いな人がわかる。僕が就職でいなくなると、愛猫家である母がいたのだけれどリーダー格のチビは家出して隣の猫になってしまった。それみろこの不届き者めと父が憎々しく思っていて不思議はない。50年近くもそうだったと思っていたが、先日、御殿場のお墓参りの折に食事していると、妹から「えっ、知らなかったの?チビはウチに来る前はお隣の猫だったのよ」と聞き天地がひっくり返るほどびっくりした。そして父の遺品の中にこれをみつけてさらに愕然としたのである。
97歳まで英語を勉強してた人だ。Scriblling Note(落書き帳)と題してわざわざ3匹の猫の、しかも毛の柄まで似たノートを選び、CHIBI、 CHARKO、KUROと各々に名前を記している。本当に猫好きに転じたなんて信じることはどうしても難しいのだけれど、不器用で猫には伝わらなくても父は家族として愛してくれていた、そうでなければこうはならない。Cats For Loveは後を僕に託す、つながってるぞというメッセージに思えてくる。2番目の猫は僕と妹にとってはチャーであって、メスだからと子をつけて呼んだのは既に先立っていた母だからそれも込められている気がする。これは実は落書きなどでなく、半分は遺書であり、半分は達筆でしたためられた膨大な自作他作の俳句 / 短歌集である。
物心つくかつかないかの出来事なんてあんまり覚えてないものだが、好み、趣味というものはこうやって芽生えてくるのなのだろうか、僕においては今もメンチとハンバーグは欠かせないし、炭酸煎餅に水飴をはさんで食べ始めると止まらなくなるし、チョコレートはゴディバよりあの植物油っぽい駄菓子チョコの方が断然高級に思えるのである。床屋の鏡の前にあった濃青色の瓶(びん)。あれはその象徴みたいなもんで、梶井基次郎の「檸檬(れもん)」の「ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」という文章を読んだとき(たぶん高校の教科書にあったんじゃないか)、ああこれがあれだなと感じ入って、それこそ文字がカーンと冴えかえって見えた。あの人間離れしたディープ・ブルーの冷々たる佇まいはそれ自体が神界の奥義をぎゅっと集積した鮮烈な現象であって、音楽ならバッハの平均律のようなものだ。やがて僕はその色のエーゲ海が好きになり、家のステンドグラスも濃青を散りばめてもらい、ソナー・アドバイザーズの名刺にはボトムに深海をイメージしたディープ・ブルーの帯を印刷することになった。
本稿を書きながら、ふとビートルズのこの曲を思い出した。ポール・マッカートニーが「子供時代の記憶を呼び戻した」と述べているこれである。
ペニーレインはリヴァプールの南の郊外にある何の変哲もない通りだが、小中学生時代のポールがジョン・レノンと頻繁に立ち寄る場所だった。彼はこう語っている。「Penny Laneはちょっとノスタルジーの部類になるんだけど、本当にジョンと僕が子供のころよく知ってる場所を書いた曲なんだ。だってお互いの家に行くとバスがそこで終点でね、ラウンドアバウトみたいなもんなんだけど、乗り換えなくちゃいけなくて二人でしょっちゅうあたりをぶらついてたんだ。だから我々の知った場所だし、歌詞に出てくる話もみんなおなじみなんだ」(筆者訳)。
In Penny Lane there is a barber showing photographs.
この曲でも「床屋」が冒頭に現れる。
Penny Lane is in my ears and in my eyes.
ペニーレイン、ぼくの耳と目に焼きついてる。
天才であるポール・マッカートニーはノスタルジックになることで凄い曲を書いたが、凡才の僕がそうなって書けたのはこのブログだけだ。この日曜日、帰宅してスマホをみると走行距離は22キロ、歩数は4万歩だった。
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人生を左右したかもしれない祖父のひとこと
2024 JUN 10 0:00:40 am by 東 賢太郎
父方の祖父は口数が少なかった。名は憲次郎という。2歳まで一緒に暮らし、9歳の時に亡くなった。声まではっきり耳にあるのは、孫の手相をじっと観て「この子はタイキバンセイだよ」と父に言ったことだ。幼稚園児ぐらいだったから意味は分からない。父が喜んでおり、そうした様子からなにやら大変な宣告があったみたいで、人生の黎明期にぽっかり浮かぶ小島みたいな記憶だ。これは後年に「人生重大事件」に加えたほどの出来事となる。僕の「人生重大事件」リスト
去年書いた稿にこうある。
祖父はどうだったか。記憶は朧げだが、寡黙で頑固一徹。気丈、気骨の明治人という印象が強い。和服で冬はいつも火鉢にあたり、江戸っ子言葉で短髪でさっぱりこぎれいな風貌で、英語どころかカタカナ言葉も出てくるイメージがない。僕は生まれてから2才まで祖父の家の離れに住んでいたが、引っ越してからもよく連れられて遊びに行き、将棋を教わったり手相を見てもらったり、近くの板橋駅まで歩いて肩車で蒸気機関車を見せてもらったりもした。食後に必ず消化薬のエビオスを1錠くれる。この味が無性に好きになり、誰もいないときビンをあけて盗み食いしていた。浅田飴は止まらなくなり、大人が外出中にひと缶ぜんぶ食ったのを見つかった。3才ぐらいだったと思う。死んだらどうしようと家中の大騒ぎになり大目玉を食らったが、祖父だけは僕の顔をじっと見て大丈夫だよと泰然自若、叱りも何もしなかった。祖父が大好きだった。
小学校4年のことだ。なぜか精霊流しの夢を見た。真っ暗な川面にたくさんの灯篭(とうろう)が静かに浮かんでいて、薄明るい蝋燭(ろうそく)が黄色く照らしている。すると、灯篭のひとつにいつもの和服を着た祖父が立ったまま乗っており、ゆっくりと右の方向に川を進みながら天に昇っていくのがズームアップしたように見えた。こちらを見なかったが、蝋燭の光が下方から照らしている横顔がはっきり見え、今でもこうして光景をくっきりと描写できるでほどで仰天した。大変だと焦りまくり、大声でお爺ちゃん!と叫ぶと目が覚めた。祖父が胃癌で亡くなった知らせがあったのはその翌日だ。板橋の家に駆けつけると、祖母が玄関まで泣きながら出迎えて、ケンちゃん、おじいちゃんこんなになっちゃったよ、と布団に横たわる祖父の前まで手を引いていった。
賢太郎と命名したのは祖父だ。父によると元東京都知事の東龍太郎にあやかったというがその辺は不明だ。子供時分、賢太郎ちゃんとフルネームで呼ばれるとどうも大仰でくすぐったい。ともに次男だった祖父と父は「太郎」に想いをこめたようだが、問題は賢のほうだ。長じて大いに名前負けになり、挽回に一苦労した。気にならないようになったら会社の同学の先輩におまえは不遜で生意気だ、そんなんじゃ社会不適格だと独身寮の部屋の壁に墨で大書した貼紙をされた。後年になって、従っておけばよかったと後悔した。賢より上があると悟り、息子には大書された文字、謙をつけた。
祖父も父も僕の晩成を見ずに逝った。父は幼時のアルバムに「賢太郎 健康と幸運を祈る 穏やかな老後をすごしなさい」と書き残しており万感胸に迫った。そうしようと思うが、それには祖父が占った「晩成」があるはずだ、まだ成ってないぞと思いながらあっという間に70手前まで来てしまった。60手前では何かしなくてはと一人屋久島へ飛んで千年杉を拝んだが、あの急こう配の登山はもうできないからやってよかった。同じように、いま何かして、5年後にもうあれはできないというものがあるはずだ。それをやり遂げての晩成であり、祖父は60年まえにそれを見たのだ。神山漢方のおかげで身体は信じられないぐらい元気だ。気力も充実だ。しかも偶然とはいえ不足のない仕事が現れている。
人間は偶然おぎゃあと生まれるのではなく、なにか役目を負ってこの世にいると僕は考えている。非科学的な運命論かもしれないが、これまでの人生は ”そこ” へ向けての長い行程であって、数多あった失敗も絶望もすべてはそれのためにあり、 ”そこ” まで行けば役目を果たして穏やかな老後となる。そうとでも考えないと説明がつかない偶然のようなものが今まさに僕の周囲で一気に蜂起しており、これはどんな宗教も確率論も歯が立たないだろうと考えるのが最も合理的と思える。僕だけが強運ということでなく、おそらく誰にも起きていて確率論はそれを恐らく証明はするだろう。もし僕に何かあるならば、祖父の言葉でそれの到来を確信し希求して60余年も生きてきた、だから超唯物論的な存在が見えている。そういうことではないだろうか。
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楽しかった2年の東京サラリーマン生活
2024 MAY 28 13:13:41 pm by 東 賢太郎
思えば若いころに東京で働いたのはわずかだ。ロンドンから8年ぶりに帰ってきて、日本橋1丁目1番地、再開発中の当地で今も有形文化財として残る通称軍艦ビルの7階にあった国際金融部というところに配属になった。35歳。浦島太郎だったから皆で居酒屋で飲んでカラオケで歌って騒いでなんかが実に新鮮だった。東京生まれ東京育ちなのに東京でサラリーマン生活をした思い出というとこの2年間しかないのだからとても現場に長かったことになる。
国際金融部は高度な専門知識を要する引受部門であり、後にも先にもそうした部署で働いたのもその2年だけだ。それまで営業しかしてないからはじめは仕事がぜんぜんわからない。そもそもデスクワークという経験すらなく、シーンとした中でじっとしてると落ち着かない。そんなのがいきなり課長でやってきたのだから部下の皆さんの方が大変だった。4課ある大きな部で精鋭ぞろいである。巨大な野村證券という会社の中でも知性、語学、教養において最右翼であり、当時始まった女性の大卒総合職採用のHさんは業務の合い間に試しに受けた京都大学に合格してしまい一時騒然となった。さらには皆さん芸達者でもありショパン弾きのS君、和田アキ子が絶品のH君、テレサ・テンのつぐないが味わい深いFさんなど多士済々で、Xmasパーティーでは僕もピンキーとキラーズを踊った。F君はフランクフルトの我が家でピアノを披露し、僕がチェロを取り出して即興でサンサーンスの白鳥をやった。
きのうたまたまその頃の方々にお会いする機会があった。34年ぶりだったが話し始めると一気に時が戻り2時間があっという間だ。僕が再び東京勤務で戻ってきたのは国際金融部から2度目の海外勤務に出て、ドイツ、スイス、香港の社長をやってのことだが、もう45歳でありサラリーマン生活という感じではなかった。そこからなんで野村を辞めてしまったかはご存じなく、実はね・・・と話すとえ~!の連続である。部長がライバル(みずほ証券。実質は興銀)に移籍した事情はそれほど誰にも話せなかった。
今こうして振り返ると海外勤務の狭間だったあの2年間は輝いて見える。そんなあれこれは関係なく、苦楽を共にした皆さんのことは忘れてないし、そこで引受業務をやったからその後があって今に至る。「東さんいくつですか?」「69だよ」がまたえ~!で、もうそんなにたったんだねということでお開きになった。
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