我がペニーレイン「和泉多摩川」に
2024 OCT 6 15:15:38 pm by 東 賢太郎
医師に「走るなら夜でなく朝ですよ」と諭された。暗がりの階段から落っこちてひどい目にあったので返す言葉がない。そこで前の週末、7時半から朝走りをやってみた。空気がちがう。よし、もっと遠出してみるかという気になったのは二子の駅まで来てからだ。戻ると7キロぐらいだ。夜だったらそうするが、まだ朝である。こういうとき「ここで帰るのはもったいない」となるのは子供時代からの困った性癖で、あらぬ場所に冒険したり友達の家にいりびたって行方不明になり、母が110番する寸前に何食わぬ顔で帰宅して大目玉を食らうなんてこともあった。ということだ。二子玉川駅から神奈川県側の二子新地駅にかかる鉄橋を渡る電車の “がたんがたん” がノスタルジーをそそったのも大いに加勢して、多摩川のもっと上流のあそこへ行こうという勇気がにわかに湧いてきた。
それは登戸稲荷神社だ(亡き父に捧げる五月五日のこどもの日)。両親は2歳の息子を連れ、昭和32年に板橋の実家から和泉多摩川に引っ越した。いまからみればまだ終戦後だったそのころ、当地は東京とはいえ最南端で川べりの田舎であり、住み家は1棟24世帯が5棟並んだ3LDKのひとつである。つまりなんでもないアパートなのだが両親には新天地だったと知ったのは、それこそが昭和38年に流行語となった “核家族化” だと後に学習したからだ。親離れしてモダンな家電とマイカーで “ハイカラ” な新生活を始めるのが若夫婦の憧れという世相は、同37年に大ヒットした吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」にくっきりと投影され、やがてくる高度成長期の礎になる。先んじて鉄筋コンクリートの新築社宅に入ったというのは銀行員の役得とはいえ、実家を追い出される立場である次男坊の父には誇らしいことだったに相違ない。そこに住んだ時期、僕には辛いこともたくさんあったが、家の中の記憶ということにフォーカスするならば燦燦と陽光がさしこむ明るい光景ばかりなのは不思議なばかりだ。意気揚々の両親のオーラに満ちていたからだろう。
走るといっても休み休みだ。道すがら河原に降り立って懐かしい草むらや川藻のにおいを深々と呼吸し、野の花や蝶々の写真をとったりと童心にかえったのは忘れ難い。東京にこんなきれいな蝶々が飛んでるなんて!あのころ、通っていた成城学園の周囲もまだ野っぱらだらけでそれはそれで楽しかったけれど、巨大な水流が秘める無尽蔵のエネルギーがあれば世界に不可能なことはないとさえ思わせる多摩川となると別格のド迫力であって、神々がこれを使えと伝えてくる鼓舞みたいなパワーが大地をメリメリと伝わってくる感じがしていた。野球を覚えるずっと前から友達とバッタやトンボを追っかけたり川面に石投げや水切り競争をしたり、いまは考えられないが遊泳や舟遊びまででき、冒険に興味津々の幼児にとってさらにゴージャスであった。
そこから数キロ走るとダムがあり、やがて我が故郷である和泉多摩川と神奈川県側の登戸にまたがる小田急線の鉄橋が遠く視界に入ってくる。住んでいたアパートはとうの昔に消えて今は14階だての立派なマンションが聳え立っており、商店街のお店もすっかり変わってしまっているが、タモリが言っているように道のくねりや幅や高低差はそのままだ。駅も高架になっていてまるで別な場所だが、その個所からの距離感は体が覚えていて、踏切があった場所がここ、そこから歩いてこのへん、このへんと往年のお店の位置が手に取るようにわかる。まず現れるのは左手にあった床屋さんだ。いまはラーメン岡村屋になってる。なぜか角っこに入口のドアがあって不思議だったが、なるほどこの T字路は直角でなく、駅から来ると鋭角になる。そこでとんがった角を切って車が曲がれる地形にした土地だったのだ。それが写真の自転車のある部分だ。床屋の例のぐるぐるはその左端にあったと思う。母に手を引かれて恐る恐る入っていく3歳の自分がみえる。
椅子は入ると正面に2つあった。座ると鏡に自分がおり、白い布を巻きつけられ首まで縛られる。いつも緊張していた。鏡の前に濃い青のガラス瓶が冴え冴えと鎮座しており、たしか赤?もあったが僕の眼はやたら青に反応するらしく覚えてない。それに液体に浸した器具らしきものが数本立ってる。もちろん櫛(くし)とハサミなのだが、変なのが出てくるとやだなと恐れてた。刈ってくれるのはいつだってヒゲの剃り跡が青々の旦那さんでやさしそうな面立ちなのだが、無口であって声をきいた記憶がない。髪を刈るとき手が仄かに消毒液の匂いがした。そんなに危険なものなのか・・。虚弱で毎週のように風邪をひいて、隣駅の狛江にあった久保田医院で注射されていたものだからそれを連想して固まってしまうのだった。いつも母は僕を置いて買い物に出て行ってしまい不安が増した。すると、それを悟ったのだろう、大柄で陽気な奥さんが「ボク細いねえ、ご飯たくさん食べなきゃね」なんて暖かく声をかけてくれてほっとするのだ。なんてビビり症の子だったんだろう。
写真の右手の建物、黒と黄の縞模様が貼ってある間口の狭いガラスの部分におばあちゃんがやってる小さな駄菓子屋さんがあった。ここはヘンゼルとグレーテルのお菓子の家みたいに夢のようなお店で、毎日学校の帰りにこっそり寄っては炭酸煎餅でウサギを作ってもらっていた。その工程はわくわくするもので、まず煎餅に水飴をはさみ、もう1枚を2つに割って耳にして飴でくっつけ、赤い梅味のシロップで目、鼻、口を書いて10円である。ある日、ポケットに5円玉しかなく入ろうかどうか迷ったが、これしかないですと差し出すとおばあちゃんは笑いながら「ボク、こんどは10円はもっておいでね」とウサギをやってくれた。それが「オレンジラムネ事件」の伏線であったのだが、その顛末はここにある。
思えば、おばあちゃんから僕は2つのことを学んでいたことになる。ひとつは商取引だ。お得意さんへの掛値販売というものの有効性、そしてそれが金利というものを生じさせる原理である。もうひとつは、これは非常に印象に残っているが、助詞「は」の用法である。あのときにおばあちゃんが言ったことを外人の子に伝えるならば Boy, if you like to come here next time, you must have at least 10 Yen coin with you. なんて長ったらしいものになる。それが「10円は」でエコノミーに完膚なきまでに明瞭に伝わるのである。なんてすばらしい言語だろう!日本語を学ぶ外国人が最も苦労する助詞の威力を一気にマスターしたのは、この言葉に参ってしまって、心からおばあちゃんに悪いと思ったからだ。
そのお向かいにはパン屋の幸花堂さんがあった。3歳ぐらいのころだろう、一人でお使い行かされ、入り口で足を踏ん張って突っ立ったまま大声で「パンいっきんください!」と教えられたまんまオウムみたいに唱える。すると「ボクお利口さんだね」とおばさんが出てきて紙で包んだパン一斤とお釣りを持たせてくれるのだ。そんな子供をだまそうなんて、まして誘拐したりいたずらする日本人なんてものは100%いないと確信に満ちた善き時代だった。覚えてるのはほめられてうれしかったことのみで、つまりこのストーリー、リアルタイムでの記憶はかすかにしかない。のちになって父が何度も人前で語ったから知ってるのだ。うちの息子は賢い、そう言いたくて賢太郎になったのであって、ほんとうにそうだとは僕は思ってない。それなのに、パン一斤の時と同じで父がそう思いこませてくれたから、その気になって多少そうなっただけというのが真相と思う。
道を先に進むと右手にあった肉屋さん、アラビキとかミンチとか知らない言葉が飛びかい、たぶんあれが好物のハンバーグになったんだろう。その左手には八百屋さんで、親父さんの威勢のいい声が飛び交い、薄暗くなると裸電球の横の籠がぶらぶらして蛾なんかが飛んでるのが目につく。つり銭をさっと選び出す手際よさは見事だったが。一番奥の右手角っこは本屋さんで、ここはとても重要だった。おやじさんが自転車で毎週火曜日に少年サンデーを配達してくれるシステムだったが、いつもその日が待ち遠しくて放課後にほかの誘惑を断ちきって早く帰ってるのにえらく待たされる。へたすると夕方だ。そこで待ちきれず取りに行ったらおやじは文句をつけられたと解釈したんだろう、ひどく愛想がなく、世の中こんなもんかと思って後の証券飛込外交の心構えとして役に立った。そんなことは委細構わず持ち帰ってむさぼり読んだ伊賀の影丸。僕は学校よりアニメで日本語を覚えた最初期の人種だ。蕎麦屋、鮨屋があったはずだがいつも出前なのでどこか知らない。
うれしかったのは江戸屋さんだ。商店街で唯一、60年前と同じ名前で残ってるのは感動的と評するしかない。いまは酒屋のようだが当時は建物全部がスーパーだった。なにせそんなものはハイカラでそんじょそこらにはなく、母とよく行った。「くすりの中山薬局」の部分の入ってつきあたりにコロッケ屋があって、母が小声で「こう言いなさい」と教えたとおり「めんちみっつください!」と大声でいうと、ガラスの仕切りの向こうで親父さんが笑顔で「はいよ!」とじゅーじゅー揚げてくれる。これはリアルに覚えてるからパン屋より少し後のことだったんだろう。コロッケよりメンチがちょっと高級感があってうれしい。持つと重たくて油紙がほんのり温かいのも良かった。そういう小さな幸せいっぱいの日々だった。そしていま、母の隣でメンチの大声を発したまごうことなき “その場所” に69歳の自分が立ってるのである。思わずぼろぼろ涙があふれ出てきた。
いよいよ川の堤防に出て多摩川水道橋を渡り登戸へ向かうことにした。橋のうえから今の自宅の方角を遠望する。二子のビル群が見え、川はそこで右に折れるからあのへんかと目途をつける。すると、家から見るとここはあのへんかと心当たりができるのである。そうこうして目当ての登戸稲荷神社についた。あれ以来はじめてであるし、橋を徒歩で渡ったのもそうだ。あれというのは両親に連れられて羽織袴で来た初めての七五三、つまり66年前だ。ポスターを見ると祈願があるのは11月2~10日である。1958年11月初旬で父が休みなのは日曜、休日だから2,3,9日のどれかであり、時刻は後述する件から午後3時に近かったと思われる。ともあれ、この時の父は33歳、母にいたっては30歳だなんて、とても妙な気がする。境内を歩いてみるとあっけにとられるほど小さい。人でにぎわっていて正月の日枝神社みたいな巨大なイメージがあったものだがこうだったのか・・・。どんな祈願をしてもらったかとんと記憶にないが、とにかく涙腺がゆるくなってるのはどうしようもない。周囲には人がいたが、なんであの人ひとりで泣いてるのか気懸りだったんじゃないか。
この境内には小さなエピソードがある。その日、一匹の茶色い犬がそこにいた。雑種の成犬だったが、大勢人がいるのになぜか僕に付きまとってくる。さあ帰ろうと神社を出ても歩く後ろをトコトコついてきた。犬に好きとか嫌いの感情はまだなく、こっちもなついてくれたのに嬉しくなっていた。ところが橋までやってくると父が僕を抱き上げて欄干に乗せ、ケンちゃん歩いてごらんという。怖かったが手をがっちりつないでもらい、その上をこわごわ歩いた。とても長い。だんだん慣れてくると目線の高さに意気揚々となり、父との男のつながりで母の再三の「危ないわよ、やめなさい」はすっかり無視した。
対岸につき地面に飛び降りてほっとすると、犬はそこにいた。ついてきたのか!いとおしくてじゃれあって、やがてアパートの2階だった家の前まで来た。さあ中におはいりと当然飼ってもらえるものと僕も犬も思ったが、父は入れちゃだめだと頑として首をたてに振らない。そりゃ団地はペット禁止で仕方ないがそんなのは幼児には通じない。犬の鼻先でドアが閉められてしまうのを見て、僕は大声で泣きじゃくった。やむなく翌朝早々に起き出し、きっとあいつはドアの外で待ってると信じ、そーっと開けてみた。いない。外へ駆け出してそこいらじゅうを探し回ったが神隠しのようにどこにもいない。そこから何がどうなったかは闇の中で、覚えてないということは何もいいことはなく、記憶がデリートされたと思われる。どこでどうなってしまったんだろう、ごめんな。橋を戻りながら胸が痛んだ。
そういうことがあって、しばらくして母がどこかから黒猫をもらってきた。妹によると成城のクラスのお母さんからだったようで、とすると小学生になっていたから数年後ということになる。猫は大声で鳴かないし、外に出さないからという約束で父を説き伏せたと思われる。いま思うと、これが犬派・猫派の運命の分岐点だった。あのまま茶色が飼われていたら僕は間違いなく犬派になっていた自信がある。チコと命名されたこのオスはしたがって家猫になったわけだが、どういうわけか洗濯機の隣に首輪と紐でつながれてしまい、家族の一員になったとは到底いえない。母の運転する車が帰ってくると、幾台も車は来るのにエンジン音を正確に聴き分けてチコは鳴いた。僕はわからないのに凄いやつだと思った。何年かして、可愛そうだというので行きつけの伊豆下田の民宿に泊まった際に置いてくるという父の驚くべき裁定が下った。魚がいくらでも食えて幸せだといわれたがそんなのは口実だと思っており、どんな事情だったかは知らないが、おそらく猫が苦手な父がストレスになってだめだったのだ。チコと紐で遊ぶのは日課で飽きなかったが、僕も妹も歩くと足にじゃれつかれたり引っかき傷が絶えなかった。子供はなめられてたのだ。そのおかげで僕は猫とのつき合い方にめざめ、完全そっち派の人生を送ることになり長い長い豊穣のつき合いが始まったのだから偉大な猫であった。
そんな父だったが、和泉多摩川から中2で引っ越した鶴川の一軒家で野良猫が1匹、2匹、3匹と順次居つくと、家に出入りできるよう雨戸に猫の出入口をつけてくれた。大人になっても嫌なものはいつまでも嫌なもの。これは人間の法則であって僕もそういうものがたくさんある。猫のために新築のマイホームに穴をあけるなど父の性格からして苦渋の決断だったはずだが、その癒し効果で息子が東大合格すると猫たちの地位も向上したとみえ、次に調布に引っ越すと全員が車で同伴となった。本物の家族である。しかし猫は嫌いな人がわかる。僕が就職でいなくなると、愛猫家である母がいたのだけれどリーダー格のチビは家出して隣の猫になってしまった。それみろこの不届き者めと父が憎々しく思っていて不思議はない。50年近くもそうだったと思っていたが、先日、御殿場のお墓参りの折に食事していると、妹から「えっ、知らなかったの?チビはウチに来る前はお隣の猫だったのよ」と聞き天地がひっくり返るほどびっくりした。そして父の遺品の中にこれをみつけてさらに愕然としたのである。
97歳まで英語を勉強してた人だ。Scriblling Note(落書き帳)と題してわざわざ3匹の猫の、しかも毛の柄まで似たノートを選び、CHIBI、 CHARKO、KUROと各々に名前を記している。本当に猫好きに転じたなんて信じることはどうしても難しいのだけれど、不器用で猫には伝わらなくても父は家族として愛してくれていた、そうでなければこうはならない。Cats For Loveは後を僕に託す、つながってるぞというメッセージに思えてくる。2番目の猫は僕と妹にとってはチャーであって、メスだからと子をつけて呼んだのは既に先立っていた母だからそれも込められている気がする。これは実は落書きなどでなく、半分は遺書であり、半分は達筆でしたためられた膨大な自作他作の俳句 / 短歌集である。
物心つくかつかないかの出来事なんてあんまり覚えてないものだが、好み、趣味というものはこうやって芽生えてくるのなのだろうか、僕においては今もメンチとハンバーグは欠かせないし、炭酸煎餅に水飴をはさんで食べ始めると止まらなくなるし、チョコレートはゴディバよりあの植物油っぽい駄菓子チョコの方が断然高級に思えるのである。床屋の鏡の前にあった濃青色の瓶(びん)。あれはその象徴みたいなもんで、梶井基次郎の「檸檬(れもん)」の「ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」という文章を読んだとき(たぶん高校の教科書にあったんじゃないか)、ああこれがあれだなと感じ入って、それこそ文字がカーンと冴えかえって見えた。あの人間離れしたディープ・ブルーの冷々たる佇まいはそれ自体が神界の奥義をぎゅっと集積した鮮烈な現象であって、音楽ならバッハの平均律のようなものだ。やがて僕はその色のエーゲ海が好きになり、家のステンドグラスも濃青を散りばめてもらい、ソナー・アドバイザーズの名刺にはボトムに深海をイメージしたディープ・ブルーの帯を印刷することになった。
本稿を書きながら、ふとビートルズのこの曲を思い出した。ポール・マッカートニーが「子供時代の記憶を呼び戻した」と述べているこれである。
ペニーレインはリヴァプールの南の郊外にある何の変哲もない通りだが、小中学生時代のポールがジョン・レノンと頻繁に立ち寄る場所だった。彼はこう語っている。「Penny Laneはちょっとノスタルジーの部類になるんだけど、本当にジョンと僕が子供のころよく知ってる場所を書いた曲なんだ。だってお互いの家に行くとバスがそこで終点でね、ラウンドアバウトみたいなもんなんだけど、乗り換えなくちゃいけなくて二人でしょっちゅうあたりをぶらついてたんだ。だから我々の知った場所だし、歌詞に出てくる話もみんなおなじみなんだ」(筆者訳)。
In Penny Lane there is a barber showing photographs.
この曲でも「床屋」が冒頭に現れる。
Penny Lane is in my ears and in my eyes.
ペニーレイン、ぼくの耳と目に焼きついてる。
天才であるポール・マッカートニーはノスタルジックになることで凄い曲を書いたが、凡才の僕がそうなって書けたのはこのブログだけだ。この日曜日、帰宅してスマホをみると走行距離は22キロ、歩数は4万歩だった。
人生を左右したかもしれない祖父のひとこと
2024 JUN 10 0:00:40 am by 東 賢太郎
父方の祖父は口数が少なかった。名は憲次郎という。2歳まで一緒に暮らし、9歳の時に亡くなった。声まではっきり耳にあるのは、孫の手相をじっと観て「この子はタイキバンセイだよ」と父に言ったことだ。幼稚園児ぐらいだったから意味は分からない。父が喜んでおり、そうした様子からなにやら大変な宣告があったみたいで、人生の黎明期にぽっかり浮かぶ小島みたいな記憶だ。これは後年に「人生重大事件」に加えたほどの出来事となる。僕の「人生重大事件」リスト
去年書いた稿にこうある。
祖父はどうだったか。記憶は朧げだが、寡黙で頑固一徹。気丈、気骨の明治人という印象が強い。和服で冬はいつも火鉢にあたり、江戸っ子言葉で短髪でさっぱりこぎれいな風貌で、英語どころかカタカナ言葉も出てくるイメージがない。僕は生まれてから2才まで祖父の家の離れに住んでいたが、引っ越してからもよく連れられて遊びに行き、将棋を教わったり手相を見てもらったり、近くの板橋駅まで歩いて肩車で蒸気機関車を見せてもらったりもした。食後に必ず消化薬のエビオスを1錠くれる。この味が無性に好きになり、誰もいないときビンをあけて盗み食いしていた。浅田飴は止まらなくなり、大人が外出中にひと缶ぜんぶ食ったのを見つかった。3才ぐらいだったと思う。死んだらどうしようと家中の大騒ぎになり大目玉を食らったが、祖父だけは僕の顔をじっと見て大丈夫だよと泰然自若、叱りも何もしなかった。祖父が大好きだった。
小学校4年のことだ。なぜか精霊流しの夢を見た。真っ暗な川面にたくさんの灯篭(とうろう)が静かに浮かんでいて、薄明るい蝋燭(ろうそく)が黄色く照らしている。すると、灯篭のひとつにいつもの和服を着た祖父が立ったまま乗っており、ゆっくりと右の方向に川を進みながら天に昇っていくのがズームアップしたように見えた。こちらを見なかったが、蝋燭の光が下方から照らしている横顔がはっきり見え、今でもこうして光景をくっきりと描写できるでほどで仰天した。大変だと焦りまくり、大声でお爺ちゃん!と叫ぶと目が覚めた。祖父が胃癌で亡くなった知らせがあったのはその翌日だ。板橋の家に駆けつけると、祖母が玄関まで泣きながら出迎えて、ケンちゃん、おじいちゃんこんなになっちゃったよ、と布団に横たわる祖父の前まで手を引いていった。
賢太郎と命名したのは祖父だ。父によると元東京都知事の東龍太郎にあやかったというがその辺は不明だ。子供時分、賢太郎ちゃんとフルネームで呼ばれるとどうも大仰でくすぐったい。ともに次男だった祖父と父は「太郎」に想いをこめたようだが、問題は賢のほうだ。長じて大いに名前負けになり、挽回に一苦労した。気にならないようになったら会社の同学の先輩におまえは不遜で生意気だ、そんなんじゃ社会不適格だと独身寮の部屋の壁に墨で大書した貼紙をされた。後年になって、従っておけばよかったと後悔した。賢より上があると悟り、息子には大書された文字、謙をつけた。
祖父も父も僕の晩成を見ずに逝った。父は幼時のアルバムに「賢太郎 健康と幸運を祈る 穏やかな老後をすごしなさい」と書き残しており万感胸に迫った。そうしようと思うが、それには祖父が占った「晩成」があるはずだ、まだ成ってないぞと思いながらあっという間に70手前まで来てしまった。60手前では何かしなくてはと一人屋久島へ飛んで千年杉を拝んだが、あの急こう配の登山はもうできないからやってよかった。同じように、いま何かして、5年後にもうあれはできないというものがあるはずだ。それをやり遂げての晩成であり、祖父は60年まえにそれを見たのだ。神山漢方のおかげで身体は信じられないぐらい元気だ。気力も充実だ。しかも偶然とはいえ不足のない仕事が現れている。
人間は偶然おぎゃあと生まれるのではなく、なにか役目を負ってこの世にいると僕は考えている。非科学的な運命論かもしれないが、これまでの人生は ”そこ” へ向けての長い行程であって、数多あった失敗も絶望もすべてはそれのためにあり、 ”そこ” まで行けば役目を果たして穏やかな老後となる。そうとでも考えないと説明がつかない偶然のようなものが今まさに僕の周囲で一気に蜂起しており、これはどんな宗教も確率論も歯が立たないだろうと考えるのが最も合理的と思える。僕だけが強運ということでなく、おそらく誰にも起きていて確率論はそれを恐らく証明はするだろう。もし僕に何かあるならば、祖父の言葉でそれの到来を確信し希求して60余年も生きてきた、だから超唯物論的な存在が見えている。そういうことではないだろうか。
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楽しかった2年の東京サラリーマン生活
2024 MAY 28 13:13:41 pm by 東 賢太郎
思えば若いころに東京で働いたのはわずかだ。ロンドンから8年ぶりに帰ってきて、日本橋1丁目1番地、再開発中の当地で今も有形文化財として残る通称軍艦ビルの7階にあった国際金融部というところに配属になった。35歳。浦島太郎だったから皆で居酒屋で飲んでカラオケで歌って騒いでなんかが実に新鮮だった。東京生まれ東京育ちなのに東京でサラリーマン生活をした思い出というとこの2年間しかないのだからとても現場に長かったことになる。
国際金融部は高度な専門知識を要する引受部門であり、後にも先にもそうした部署で働いたのもその2年だけだ。それまで営業しかしてないからはじめは仕事がぜんぜんわからない。そもそもデスクワークという経験すらなく、シーンとした中でじっとしてると落ち着かない。そんなのがいきなり課長でやってきたのだから部下の皆さんの方が大変だった。4課ある大きな部で精鋭ぞろいである。巨大な野村證券という会社の中でも知性、語学、教養において最右翼であり、当時始まった女性の大卒総合職採用のHさんは業務の合い間に試しに受けた京都大学に合格してしまい一時騒然となった。さらには皆さん芸達者でもありショパン弾きのS君、和田アキ子が絶品のH君、テレサ・テンのつぐないが味わい深いFさんなど多士済々で、Xmasパーティーでは僕もピンキーとキラーズを踊った。F君はフランクフルトの我が家でピアノを披露し、僕がチェロを取り出して即興でサンサーンスの白鳥をやった。
きのうたまたまその頃の方々にお会いする機会があった。34年ぶりだったが話し始めると一気に時が戻り2時間があっという間だ。僕が再び東京勤務で戻ってきたのは国際金融部から2度目の海外勤務に出て、ドイツ、スイス、香港の社長をやってのことだが、もう45歳でありサラリーマン生活という感じではなかった。そこからなんで野村を辞めてしまったかはご存じなく、実はね・・・と話すとえ~!の連続である。部長がライバル(みずほ証券。実質は興銀)に移籍した事情はそれほど誰にも話せなかった。
今こうして振り返ると海外勤務の狭間だったあの2年間は輝いて見える。そんなあれこれは関係なく、苦楽を共にした皆さんのことは忘れてないし、そこで引受業務をやったからその後があって今に至る。「東さんいくつですか?」「69だよ」がまたえ~!で、もうそんなにたったんだねということでお開きになった。
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御礼 総閲覧数が1,000万になりました
2024 MAY 16 22:22:08 pm by 東 賢太郎
2012年9月12日の午後。紀尾井ビルの5階にあったソナー・アドバイザーズ株式会社の小さな事務所で何を書こうか思案していました。たどたどしい指でパソコンに打ちこんでみる。何度も書きなおしては消し、打ち間違え、ついに「よし、これでいい、いくぞ」と身構えました。「ブログ」なるものの発信です。ミサイルの発射ボタンでも押すみたいに恐る恐る「公開」ボタンをクリック。14時14分35秒のことでした。
それがこれ。我がブログ第1号であります。
発信といっても、大海原に筏(いかだ)を浮かべただけ。大会社はやめてどこの馬の骨かわからん人間になってたし、きっと誰も気がつかないだろう。100人ぐらい見てくれなければやめよう。そう思ってました。
あれから11年8か月。きょう総閲覧数が1,000万になりました。なにも言うことがありません、読者の皆様、本当にありがとうございます。相当な時間をかけて書いてきましたがそれだけのものを作ることができました。100人しか読まれなければ存在しなかったものですから、これは読者の皆様の作品でもあるのです。
2016年、熱心な読者の柏崎さんが前の事務所に来てくれました。西表島の猫の話をきき年末に娘たちと行きました。そういう縁ができたのも、彼がブログの中身をよく覚えていたからです。僕は書いたらもう読まないので彼の方がよく知ってます。先日箱根に行った従妹も昔のあれこれをよく覚えてくれているのですが、ブログでそれがあるとなると、手を離れたものはもう独り歩きしているということです。百年、千年たったらどうなってるか。クラシック音楽が残ることは確実だろうからおまけで残っているかもしれない。そうすると、それ以外のジャンルのも20~21世紀人の戯言として読まれないかなと思うのです。
それこそがSMCをクラブとして立ち上げた動機です。万葉集をイメージしたのですが、先日、2013年のミクロネシアからのお付き合いである公認会計士のAさんが「枕草子になるかもしれませんね」と言ってくれました。男優先の家で育って家内や娘に注意されてる身ですから女性の評価は最高にうれしかったですね。僕には女卑思想はありません。清少納言さんやユリア・フィッシャーさんのファンであり、そもそも身の回りは何もできないから女性に頼らないと生きられません。ブログ読者の男女比は6:4のようで、ありがたいと思っております。
読者の4割は年齢が35以下です。シニア向けのつもりで始めたのにそうなってないのです。若者のころはがむしゃらに突っ走るのみでしたが、齢50を超えると見える景色が変わりました。身体能力が衰えて限界を悟ったのですが、人間はよくできてるんですね、壁に当たる人もいますが僕のように父親目線になる人もいるんです。若者の上に乗っかって威張って金もらってという形で壁を乗り越える輩も多いですが、僕はそういうのがぜんぜんなく、若者をがんばってと応援したくなるんです。だから野球は二軍戦が好きで、この子は伸びるなんてメモを取るのが楽しい。大谷さんみたいな立派な人はあんまり興味ないです。
齢60でますますそうなり、「若者に教えたいこと」というカテゴリーで相当たくさんのことを書きました。習ったものでなく、自分で道を切り開きながら悟ったものだから何かしら価値はあるのではと思います。本来、こういうことは自分の子供だけに教えるんです。読者の4割が若者になったというのはそんな親父はあんまりいないからかなと勝手に思ってます。読んだ子は思いっきりパワーアップして人生勝ち組になってほしい。そういう子たちがたくさん子供を産めば日本は強くなる。これぞまさしく保守の保守、男の本懐、父親目線なんです。youtubeや本やブログでお金を儲けようという人も大事な情報を発信することがあるし、もとより色々なご事情はあるのでしょうが、ビジネスで収入を得る力のある人はそれは考えないです。そういう人に習えばそういう人になります。
来年70ですが、よし、もういい、と完全に満足して引退宣言するまでやるっきゃない。オーナーは首にする人がいないからそうなるんです。体はいたって健康でGW中にフルマラソンの距離を走りました。サーチュイン遺伝子を活性化するNMNの静脈注射を3回打ってるし、神山先生の鍼と丸薬は欠かさず副鼻腔炎とパニック障害がすっかり治ってる。このまま保てば5年はいける気がします。すると、ここで柏崎さんの人脈から新しい事業の構想が出てきました。ソナーを巻き込んでのものだから集大成になるかもしれません。僕は証券会社に長くいてその専門家だし、若者にビジネスを教えて育てたいという情熱もあります。そのうちわかりますが、まさに適役の仕事と思いました。それが最終決定したのが今週の月曜日。そしてPV1,000万到達が今日。ドラマにしても出来すぎです。僕は人生は頂いたもので自分が決めてないと信じてるので流れに任せることにしました。
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7球連続カーブのサインが決めた我が人生
2024 MAY 8 12:12:44 pm by 東 賢太郎
エルダー・ネボルシンというウズベキスタン生まれのピアニストが弾いたショパンの第一協奏曲を僕は熱愛している。20歳あたりの録音。書いたショパンも20歳。オーケストラは自身もショパン弾きのアシュケナージが率いる。最愛の彼女をワルシャワに残してパリに旅だったショパンは祖国に二度と戻ることはなかった。この協奏曲は彼女を想って書き、お別れの曲になった何度聴いても本当にいい音楽である。ネボルシンくんのピアノはもぎたてのレモンみたいに瑞々しい。アルゲリッチもツィマーマンもいいが、やっぱりハタチの男の子に心をこめて清楚で端正に弾いてほしい。アシュケナージ自身がショパンコンクールで2位になったのは18歳だ。なるほど、この指揮、わかってるなあ。
エルダー・ネボルシン(pf)/ アシュケナージ / ベルリン・ドイツ交響楽団
そう、かくいう僕だって20歳のころはいろいろあった。大学受験で浪人し、思い出したくないぐらいぼろぼろな身の上から解放されたバラ色の時だった。この演奏を久々に聴いて脳裏に蘇ったことのあれこれ、いろいろな所に書いてはきたが、せっかく音で思い出したことを忘れる前にまとめて書いておく。
中学の草野球からずっとエースで、硬式に転じても高1の秋から即エースだった。有頂天が暗転するのは高2の夏だ。ヒジ、次いで肩を故障した。ヒジは治ったが肩は致命傷で球が投げられなくなり、高3初めに野球を泣く泣く断念したところから物語は始まる。長年時間をかけて修練してきた能力をケガでいきなり奪われるのは交通事故で一生歩けなくなるに等しい。筋肉痛みたいなものと思ってる人が多いが虫歯と一緒で治るということはなく、今もマッサージでそこを押されると痛い。プロ野球をご覧になる人はヒジのトミー・ジョン手術はご存じだろうが靭帯を移植しないと治らないのだ。テニス・エルボーもあるが、それを割り引いてもこんなことが頻繁に起こりえるスポーツは野球だけで、しかも野手では稀でピッチャーしかない。青春の挫折なんて甘ったるいものではなく、一生残る心の傷でもある。
この話を誰にしても、なぜその負のエネルギーが受験勉強に向かったかはわかってもらえないだろう。当時も僕がなぜ高校球児にとって大事な3年生になって野球部をやめたか誰もわからなかったし、何人か女の子にきかれたが語りたくもないので説明しなかった。立ち直ってプライドを奪回する方法は勉強で目にもの見せるしかなかったわけだが、中学時代に野球で登った山が高かった分だけ転落した谷も深く、もっと高い山に登らないと気持ちの収まり所がなかったのだ。勉強でなくても良かったがそんな才はなく、いずれにせよ回避できない大学受験になっただけだ。負けず嫌いがモチベーションなのだから東大に入れば何でもいいではなく、最高峰の文Ⅰ(法学部に進学)しか選択肢はなかった。失敗したら翌年は安全策で文Ⅱか文Ⅲに切り替えというのもあり得なかった。戦線後退は雪辱戦での負けを意味してなんのこっちゃになり、そういうものは僕の辞書にはない。この選択は学問や職業の選択とはぜんぜん関係なく「山の標高」だけで決まった。通学に要する往復3時間の満員電車の中は何もできない。使える時間は野球をしてきたから試験はみな一夜漬けで、高3で受けた人生初の公開模試の偏差値は42だった。それでいてすぐ70になるさと壮大な野望を平気で懐けたのは、チビで小心でけんかも弱い小学生が中学でエースという大出世の体験があったからだ。
翌年、現役で2つ受けた私学(C大法、W大法)は手ごたえでは危ないと思ったが受かった。喜んだ父がどちらも入学金を払ってくれたが両校には失礼ながら場慣れするためのリハーサルであり行く気は全くなかった。いよいよ本番の東大に挑む。1次はすんなり合格。2次は国数英社の順だが初日の国語の論述に慣れておらず大失敗してしまった。次の数学はそれで気が動転したわけでもないが手も足も出ずほぼ零点だったろう。当然の不合格を掲示板で確認してすぐに毎年400人東大合格の駿台予備校の入試を受けた。1年で偏差値は順調に伸びて文Ⅰぎりぎりの65あたりまで行ったが凸凹があった。英国社は頑張ったがあまり伸びず、総合順位の凸凹は数学の凸凹と連動していることがわかった。つまり素質としてはあんまり文系には向いてなかったということだ。私学は受かることを確認したが自分の意志で1年棒に振ってそこに行く選択はもうありえないから父に受験料を払わせるのは無駄である。2度目の出願は東大文Ⅰオンリーに決めた。
その日、小田急線が事故か何かで乗っていた電車が延々とノロノロ運転になり、ついに経堂で30分ぐらい停止してしまった。パニックになり本郷3丁目駅からダッシュして開始寸前に試験場に駆けこんだ。それはいい。しょっぱなの国語でまたまたつまづいた。現国にどうしても頭がついていかず小論文みたいな設問で書くには書いたがきわめて不出来。書き直そうと思ったら時間切れ終了。これはやばいとまたまた気が動転し、前年と同じく数学がうまくいかない。翌日は持ち直し、英社の手ごたえはあって望みをかけたが、3月20日の掲示板に受験番号はなかった。この時に見た正門の方角の景色は今もありありと覚えてる。幻視だろう、そこには広大な砂漠が横たわっている感じがして、赤い太陽が荒涼とした丘の向こうにあった。もう1年かけてあの砂丘を越えるのか・・・その時間が悠久の時みたいに、それが砂漠の彼方にどこまでも続くみたいにずっしり重く感じ、そこでぷっつりと記憶は途絶える。1週間ぐらいどこで何をしていたか記録も記憶もない。ところがだいぶ後にレコードの整理をしていたら、落ちたその日(1974/3/20)にかけたと記録のある盤を見つけた。これだ。全く覚えがないが、ラフマニノフの第2交響曲に魂の救いを求めていたのだ。
文Ⅰの一本勝負が博打というほど無謀でもなかったのは駿台の入試で順位が24番だったことでわかった。隣の席になった23番のN君、25番のM君とは「なんで落ちたの?」が出会いの挨拶だった。翌年、両君とも文Ⅰに見事合格され、非常に確率の低いことだが、20いくつある駒場のクラス分けで3人ともドイツ語の同じ9bという組になったのは奇縁である。
2年目は生死を握る数学の凸凹をなくすためトス・バッティングの感覚で毎日簡単な問題をたくさん解き、Z会の3日考えないと解けない難問とも格闘した。すると6月の第2回公開模試でついに数学満点を達成し、総合点で全国7位になって賞状と盾をもらった。数学が偏差値42から2年で全国1位になった変化率は日本記録ではないだろうか。ここからだ、数学満点ねらいが遊びになったのは。ピッチャーは完全試合を狙って試合に入るのは普通だ。イチローみたいにどこのコースに来ても打てるように練習し、飽きたので棋士が詰め将棋を作る要領で自分で問題を作って友人に解かせていた。ここでどっぷり浸かっていたのがバルトークであり、エラリー・クイーンだ。夏休みは丸遊びし、1か月没頭して推理小説を一本書いた。山の頂上が見えてきてわくわくだったこの半年は人間形成というか性格にまで影響するほど数字とロジックに囲まれる快感に浸っており、いま思い起こしても人生を変える知的豊穣の時で、これなくしてその後の僕は絶対になかった。皮肉なもので1年目に失敗しなければこれはなかった。
最後の東大入試は狙い通り完璧に進んだ。国語は採点者が期待しそうなつまらないことをサクッと書いて平均点を下回らない戦略をとった。肝心の数学は設問2で驚いたことに作題ミスを発見してしまい、まさかと思って検算して確かめたが間違いない。そこで答案に「作題ミスである」と指摘し「欠けている条件 ℓ ≠ 0 を付加する」と断って解いた。自分で作題していたから自信があり、ここまでくるともう数学上級者というか職人の世界である。しかし東大がまさか?と不安になったので帰りに駿台に寄って壁に張り出された模範答案を恐る恐るのぞいてみたが、たぶん根岸先生だろう「作題ミス」と思いっきり書かれていて、明日の英社を待たずして早々に合格を確信した。僕は先生の思考回路をそのままいただいた真正の弟子だったようだ。見比べると4問中3問は完璧で、余計な作業をしたので時間切れで設問3が数点マイナスの傷を残してパーフェクトは逃したが、まあノーノーぐらいの出来ばえではあり留飲を下げた。東大は理系6問で、うち数Ⅲ以外の4問は文理共通だから理系レベルであって一般に文系には難解である。だから満点なら他科目がよほどひどくなければ確実に受かる。
こう書いてきて思う。以上の諸々のすべては僕のその後の人生に決定的に重たい出来事だったわけだが、実は高2の夏にヒジをこわしたアクシデントひとつから発している。あれはカーブの投げすぎだったと思う。相手はどこだったか、練習試合の勝負所で4番の左打者に回り、2ストライクから7球連続でカーブのサインが出てファールが続いた。あれがまずかったかなと先輩捕手のHさんが言ったのを覚えているから痛くなったのはそのあとだ。それは1、2か月で治ったが、かばって投球練習していて次は肩に来てしまい野球人生が終わった。もしヒジをやってなければどうだったろう。間違いなく甲子園予選を目指して野球人生をまっとうしていた。そっちのほうに命を懸けていたからだ。とすると東大に入らねばなんていうマグマは溜まることもなく現役で違う大学に入って楽しくやってたろう。すると就職先も違った可能性があり、家内とは出会ってないから子供たちはこの世にいない。つまり野球断念は不幸な事件だったがそれで今がある。結構ではないか。7球連続ということはHさんが僕のカーブを信用してくれたということだ。自分の球は自分で見られない。短い野球人生だったがとてもうれしい。
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2年前の5月5日午前8時半の出来事
2024 MAY 5 8:08:57 am by 東 賢太郎
父が逝去して今日5月5日で2年になる。ブログにはあえて書いてないが、一昨年は大きな決断をしていて、ある職を辞すことを某社に告げた。それが亡くなる前日のことだった。もちろん翌日にそんなことになるとはつゆ知らない。それだけではない。もう係累はないが先祖は能登だ。今年の大震災の前兆だったのか、去年の5月5日にもM6.5の大地震が能登半島であった。父が何やら言い残したことがあったかと思った。
晩年は僕の肥えた腹を見てやせろやせろとうるさかった。そういえば去年の10月から運動しておらず体重がまずいことになってる。父は60キロもなくて97歳の長寿だったがこっちは80キロ越えだ。そこでGWに6日で28km走った。体重もBMI、体脂肪率もちっとも変わらなかったが6日目になって落ちてきたからやれやれだ。きのうは雲一つない晴天である。僕の棲み処は屋根の上に特設した小屋みたいなもので、斜面の3階だから風呂からそのままデッキに出ても人目がない。素っ裸で寝っころがって富士山を眺める。聞こえるのはピヨピヨ、チチチ、チュンチュン、ホ~ホケキョと360°のサラウンドで近くから遠くから空気をぷるぷる切り裂いてくる鳥のオーケストラだ。このためにここにしたわけではないが、そうしてもいいかなと思うぐらいの上等な音楽である。
このあたりは昼も夜も人がいない。前に住んだ代沢もいい所だが隣の犬がうるさくて閉口した。ここはそれもなし。いつも真夜中みたいに静かだ。その割に交番があり、住んで15年になるが犯罪は全くなく、町内会のつき合いやら妙な押し売りみたいなのも来ない。田園調布双葉学園が近いが上品な子たちで音は聞こえない。この完璧なプライバシーはヨーロッパに住んでた時と変わらず、この環境で猫がいてクラシック音楽をきけるならもう何もいらない。サラリーマンの子であるサラリーマンの僕には本来無縁の処で、他業界だったなら社長にでもならないとなかっただろうが証券会社に働いたおかげで縁ができた。
職業選択といえば、人間、何事も才能というものがある。何かの技能がうまいなあと思う群れの中でも図抜けている者がほんの少しだけいて、その者はそれで飯が食えるようになるのだが、今度はその連中の群れの中でさらに図抜けた「すぐれ者」がいるという塩梅だ。自分はうまいなあぐらいの最低限の群れにはいたかもしれないがそれで飯を食える水準ではなかった。あらゆることでずっと上の人がいるし、なぜ得意でもなかった仕事に従事してうまくいったかは不明だ。それは両親の愛情のおかげと思う以外に説明がつかない。それがツキを呼んでくれ、何かに押し上げられて柄にもないことができてしまった感じしかない。
そして今は自分が親になって、子供や子孫にそうなってほしいと願う番になっている。人の道というものがあって、誰しもちゃんとそこを歩くようになっているようだ。父は僕に野球がうまくなる方法や成績が良くなる術を教えたりはしなかった。「自分の頭で考えろ」が口癖で学習塾に通わせることもしなかった。バカだった僕はそれにかまけて小学校で勉強した記憶はなく、どこだったかすら覚えてないが受験した中学は全部落ちて屁のカッパだった。僕がたどった道は、親の愛情に押されて悩みながら自分の頭ですべきことを見つけ、才能はなかったが頑張れば食えるものについに出会ったというだけだ。だから子供にも方法を押し付けることはしない。自分で悩んで探さないと自分のものではないからだ。親はいなくなる。そこで頼りになるのは自分で考えて見つけたものだけだ。
5月29日は母の命日、8回忌だ。2017年のそのとき、母がいなくなったという事態がのみこめず心身ともおかしくなった。間髪入れずアメリカに飛ぶことがなかったらその後どうなったか知れず、あれこそまさにツキであり母がそれを用意してから安心して逝ったと思っている。大病を何度もして、けっして虚弱な人ではないのに、目、心臓、胆のう、卵巣、大腿骨、手首と6か所も大きな手術をした。ペースメーカーを入れ、手首も足首も注射の跡で痛々しい紫色だった。そういうことも遺伝しているはずの僕は、しかし、いまだに体にメスを入れたこともないのだ。母が身代わりになってくれていたとしか考えられない。そうやって育てられ大人になってからはじめて先祖のことを話してくれ、だからどうということもなく「うまくやってね」とだけ言う柔らかな人だった。うまくやってね
両親がいなくなった2年は何やら空洞の中を彷徨ってきた気がする。仕事のことは相談する気などなかったのに、今となってこれ大丈夫だろうかときいてみたくなる。何度か父にきいたことはあるが、業務内容は知らないのになるほどという大人の知恵と常識があり、そうした巌としたバックボーンに見えないままに守られていたことを悟った。高校の反抗期で父には申しわけない振る舞いをしてしまったことがあったが、そうやって男として自立でき、父は受け入れてくれ、それが受験で仇をとってあげたいという強烈なモチベーションになった。結果的に、それは自分にとっても良いことになった。
世の中には親を大事にしない人がいる。子を殺す親もいるのだからいろんな事情はあるのだろう。しかし動物でも子は守るし子はそれに甘えて健全に育つ。人間も動物であり、それが自然の理にかなった行動であるはずだ。ただし動物は育てば自立を促されて追い出され感謝はしないだろう。人間はする。それが人間の特質だ。だからそうでない家庭には何か自然を妨げる原因がある。感謝はうわべの儀礼ではなく、奥深い心の作用である。だから親に感謝できない人はその人間たる心の作用が働かない人で、他人にも儀礼はできるが感謝はできない。そうした人が増えれば社会を非人間的にすることになり、あわよくば暴力や社会騒乱をひきおこし、ウソつき、詐欺師を出現させることにもなる。
こうして人並みに親に感謝できることの幸福をかみしめていることを父に報告したい。
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野村證券元社長の酒巻さんとランチした件
2024 FEB 23 18:18:32 pm by 東 賢太郎
山本陽子さんが亡くなった。もと野村證券のOLだったことは社内では有名で、ずっと年上の方だが勝手に親近感は抱いており、「黒革の手帳」の悪女役でファンでもあった。つい先日に出演しておられた「徹子の部屋」がyoutubeで見られるが、お元気な姿からは想像もできない。ご冥福をお祈りしたい。
野村といえば、先週に酒巻英雄元社長とランチをした。もう書いてもいいだろう、酒巻さんは僕が入社してすぐ配属になった梅田支店の「S支店長」である。
店が騒然となった「T社のU社長事件」。買っていただいた公募株のことを話すと「トヨタの公募か、あったよなあ」と覚えておられる。「レコード事件」の顛末はご自身から語られ、「いよいよウチもこういう新人が入ってくる時代になった」と訓示されたそうだ。ご自身がN響会員だったのだから異例の存在の先駆けだったわけで、社長に就任されると社内誌にまずクラシックの趣味のことを書こうとなった。しかしその時間がなく、秘書室から僕にゴーストライターのご下命があり「あれが評判になっちゃってさ、日生の社長から飯を誘われたんだ」と後日談をうかがった。ゴーストといえば、元旦の日経新聞に掲載される毎年恒例の「経営者が選ぶ有望銘柄」で、U社長の欄も僕が書いていた。おおらかな時代だった。
おのずと昨年亡くなられた田淵義久さんの話になった。社長になって車の免許を取ったが日本では運転させてくれないからとドイツに来られた。もう顧問になられていたがそれが本音だったかどうかはわからない。三日三晩、郊外の温泉地やゴルフ場でいろんな話をされたからだ。翌年に再度来独され、スイスに転勤したらそっちにも来られた。いつも同行は秘書の寺田さん1人だけだ。一見すると豪放磊落だが物凄く頭が切れる。田淵さんと水入らずで10日も旅行し教えていただいたことは後進に残すべき財産としか言いようがない。野村を退社して何年目だったか、ある所でばったりお会いした。「お前なんで辞めたんだ」と怒られて背筋がぴんとした、それがお目にかかった最後だった。
酒巻さんが来られたのはもっと以前のロンドンだ。まだ役員でありこちらは平社員の下っ端だったが、週末に一泊で湖水地方まで僕の車でドライブした。「あれ楽しかったなあ、ありがとう」「とんでもないです、女房までご迷惑おかけしました」。連れて行ったのは結婚式の主賓をつとめていただいたからだ。そのロンドン時代。6年間駐在した最後の年に日経平均が史上最高値の3万8957円を記録した。万感の想いでそれを見とどけて僕は東京に異動した。そして今週、35年の日本株低迷期があったが、酒巻さんと再会してすぐに記録は更新された。
ドイツ、スイスは酒巻さんは社長で余裕がなかったのだろう、のちに東京証券取引所社長、プロ野球コミッショナーを歴任される斉藤惇副社長が代理で来てくださった。債券畑だった斉藤さんの下で働いたことはないが今でも仲良くして相談にのっていただいている。そうこうしているうち事件がおきた。スイス在任中、97年初めのことだ。
お断りするが以下はすべて私見である。あれは株式時価総額で抜くという歴史的屈辱をもって米国の威信を揺るがせた勢いの根源、その本丸だった野村證券を潰し、日本の金融行政を大蔵省ごと屈服させて弱体化し、我が国の銀行・証券界にゴールドマン、モルスタ、メリルが侵略できる風穴を開けて1200兆円の個人金融資産に手を突っ込むべく米国のネオコンが仕組んだ事件だった(郵政民営化はその結末のひとつだ)。1996年11月、橋本総理より三塚大蔵大臣及び松浦法務大臣に対し、2001年までに我が国金融市場がニューヨーク、ロンドン並みの国際金融市場として復権することを目標として金融システム改革(いわゆる日本版ビッグバン)に取り組むよう指示が出た。これが宣戦布告の狼煙となって金融機関の統廃合、とりわけ大手銀行の合従連衡という大地殻変動が起きるのだが、ここだけは私見ではなく「大蔵省から引き継いだ情報」として金融庁のホームページに書いてある。
まず1997年の年初に東京地検特捜部によって総会屋事件が、翌年に大蔵省接待汚職事件(通称「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」)が大々的に報道され、第一勧銀、証券大手4社に対する刑事事件へと展開し、大蔵大臣、日銀総裁が引責辞任し、財金分離と大蔵省解体の一要因となった。これが野村證券の内部告発で勃発したことで、同社だけに法人の処罰がなかったことは当時の僕は知らなかった。田淵さんがドイツ、スイスに来られたのは1994~96年だ。事件を予期させるような発言は何もなかったが大蔵省のユニバーサルバンキングへの転換画策についてだけは詳しく言及して危機感を述べられた。意見を求められたのでプロップ取引で自腹で儲けるゴールドマン型のインベストメントバンクはいわば銀証一体でグラス・スティーガル法は邪魔かもしれませんね、ドイツ銀もUBSもそれが競争力だし背後はハーバードで繋がる財務長官サマーズ、ルービンですね、でも日本は証取法の改正に手間取りますねという趣旨のことを述べたように記憶している。
ちなみに大蔵省接待汚職事件の一環として日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に関わる野村の贈収賄が立件され、元副社長らの逮捕に至った。これが98年1月のことだ。大蔵OBの公団幹部は欧州にも来てチューリヒでのディナー主催の依頼が本社から舞い込んだが、それが前日に突然のことであった。僕は先約があり副社長が代行した。接待が賄賂に当たることの立件であるから社長の僕に東京地検への出頭要請が来たが、僕は20分間コーヒーを飲んだだけだったことを秘書と副社長が東京で供述してくれ、スイス拠点は債券引受業務はしないことから事なきを得たと聞いた。
酒巻さんのあと野村は東大法の鈴木さんを社長にしたが、たった48日で日テレ・氏家社長の従兄弟である氏家純一さんにかえた。読売に頼った。結果的に山一が犠牲になったが同社は社長が証券局長のクラスメートだから大丈夫と言っており、事はそんなレベルで片づく話でなかった。サマーズに円主導のアジア通貨バスケット構想を潰されたことはミスター円こと榊原英資大蔵省財務官(当時)から直接伺って、金融ビッグバンの美名のもとで法整備計略が着々と進行していることをうすうす知る立場にはあったがそれは香港にいた99年あたりのことだ。この大嵐の中で海外にいたことは運命だったとしかいいようがない。
氏家体制になり社内の空気が一変したのは当然だ。それが野村の生き残りの道だったからだ。「香港から日本に帰ってきたら僕の大好きだった野村じゃない感じがちょっとありました。本社で中途採用の面接官をしながら『いま学生だったら入社しないだろうな』という気がしたんです。もっというなら、受けても落ちるなと」。これは本音だ。そんな人間が新生野村で採用をするのはいかがなものか。笑って受けとめてくださった酒巻さんの懐の深さに救われた気分だが、日本にいてその「感じ」は日増しに強くなっており、結局僕は大蔵省のユニバーサルバンキングへの転換策にのって2004年にみずほ証券に移籍することになった。
その重大な決断の是非はまだ自分の中では判明していない。是でもあり非でもあった。97年に通常の6月でなく12月にスイスから香港へ想定外の異動をしたことも含めてだ。僕は野村證券の幹部であったことはなく会社の内情を知っているわけでもあれこれ言える立場でもなかった。ただこの異動は自分はともかく家族にとってはあまりに過酷なことであり、日本を知らない長女は10才にして3つ目の外国の小学校に入ることとなった。僕自身、ストレス耐性はある方だが限界だったのだろうか、ある晩に初めてパニック障害を発症して自分が驚いた。500人の部下がいる立場で精神科の医者に行くわけにもいかず、それがまたストレスになって一時は最悪の事態になった。
過ぎたことはもういいが、何の因果で証券界に身を投じたのかいまになって自問している。鎖国か共産化でもしない限り証券業は日本人の幸福にとって不可欠な仕事であり、それなりに有能な人材が入ってきてはいるが大国に対する競争上のアドバンテージにするには程遠い。このままでは米国はおろかそのうち中国やインドにも劣後するようになるだろう。それを僕が目にすることはないだろうが、それで良しとするかどうかということだ。
別れ際に酒巻さんが「5月ごろ今度は僕が一席もうけるよ」といってくださり写真を撮った。45年前の梅田支店でこんなことになるなど誰が想像したろう。
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クラシックで寝ついた0歳児が69になったこと
2024 FEB 4 21:21:09 pm by 東 賢太郎
家内からメールがあった。
大森のおばあちゃんがお手伝いに来てくれて冷たいお水でオムツを洗ってくれたと生前話していました。今日は、あなたを産んで上手に育ててくれたママを思いだして一日過ごして下さい。夜寝なくて抱っこして小さな音でレコードをかけて聴かせていた事は知ってましたか?
はい、知りませんでした。おばあちゃんのことも(ごめんなさい)。
レコード。親父のSP(78回転盤)に相違ない。鬼畜米英の時代になんでそんなものを持っていたのかよくわからないが、とにかく好きだったんだろう。それを2,3歳ぐらいからきいていた記憶はあり、だからこうして一生の宝物になってるとは思っていた。
0歳児がクラシックで寝ついた。俄かに信じ難いが、長じて思いあたることはあった。大学時代の下宿でのことだ。勉強に疲れるとコタツで横になってヘッドホンで音楽をきき、そのまま寝てしまった。はっと目が覚めると朝であり、カセットテープがループになっていてシューマンの交響曲が耳元でがんがん鳴りっ放しでびっくりする。「それで熟睡なんだ」といっても誰も信じない。今でもパソコンで音楽つけっぱなしがある。目覚めはすっきり、原因不明だ。レム睡眠、ノンレム睡眠の比率がどうのとは無関係に僕の脳味噌はできているらしい。
最期の床で、好きだったチャイコフスキーの4番をどうしてもと思い、ヘッドホンできかせた。すると眠っていた母はぱっちりと目をあけた。言葉は話せず僕が誰かもあやしくなってはいたが、「うんうん、これだね」と、あたかもわかっていた頃の合点かのようにじっと目を見てうなづいてくれた。僕は驚き、あっ、良くなってるぞと喜んだ。
母を悪くいう人はまったくいないし想像もできない。まさに慈母であった。こういう両親の家に生まれたことを神に感謝する。
69才
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南米の空気とライル・メイズ・トリオ
2024 JAN 30 11:11:14 am by 東 賢太郎
ビジネスは流れというものがあって、今はいいように渦が巻いている。いろんな話があって、まあ自分のことだけ考えれば受けても受けなくても、どれとどれだけやってもいい。世間的にそう小さな話でもない。あと少しで69にもなるのだから無理してもろくなことはなく、他人様の迷惑になってもいけないというのが先にあるのは道徳心というより体力、気力との相談だ。ゴルフ場の受付で「年齢」欄に58と書きそうになり、一瞬、えっ俺はもうそんなトシかと思ったんだよなといったら「お前だいじょうぶか?来ちゃってるぞそれ」と笑われる。本当に58ぐらいの時にも、48ぐらいの時にもそう思ったし、あまりに来ちゃってないからそう思うのさということにしている。
こういう時、信じるのは直感だけだ。なぜならずっとそれで世を渡ってきて、まだ渡れており、そこには体力、気力との相談も自律的に含まれているからだ。やって良かったというケースもあるが、やらなくで正解だった方が多い。やったら即死のケースもあった。そうやって部長や役員だった会社を3度も辞めたし、今となってみるとあまりに大正解だったと考えるしかない。金融のホールセールビジネスというのは魑魅魍魎の巣窟である。魑魅は山の怪、魍魎は川の怪だから要はぜんぶ化け物であって、化かされた者は入ってきた本人がいけない。プロの麻雀大会だ、すってんてんにされても同情も救済もされない。
僕は経験も信じない。経験を信奉する者に最も欠けているのが経験なのだ。うまくいった失敗したというのはその時の環境要因が大半であって、それが違えば別の判断になるのは道理である。僕はピッチャーだから前の打者を打ち取ったタマで次打者もいけるなんて考えたこともない。直感というのは打者ごとに危険を察知する霊感のことで誰にもあるのかどうか、練習して身に着くかどうかは知らない。想定外の事態になっても大丈夫な神経のほうが大事かもしれない。ちなみに会社の資本勘定はその為にある。経営者はえてして経験から判断するが、えてして凶と出る。それで即倒産されては商取引の信用が崩壊するからBSにバッファーを載せる。経験は信用できないことを前提にしている。
直感は充分に寝て、心が冴えわたり、かつ、平静でないと働かない。そういう状態を作るのが実は難しい。個人的なことになってしまうが、僕の場合は36才の時に行ったブラジルの空気と情景を思い出すのがいい。際だって特別な記憶だ。歳と共に輝きを増してクラウン・ジュエルになってる。24時間もかけて地球の真裏の別世界まで行くなんて火星に行ってきましたぐらいのもんだ。格段にラグジュアリーだったヴァリグ航空のビジネスクラスであったとしても最早望めない自分がいる。そんな出張までさせてくれた野村證券の懐の深さに育てられた自分がこの程度。申しわけなさもあり、どうしてもあの時に帰ることになって幾分かの鼓舞も混じる。
僕がうまくいってきたのは多種多様な音楽が生み出す気分があるおかげだ。無意識に漢方薬にしてうまく使ってきた。ピンポイントにあの宝石を心象として蘇らせるものが大海を探せば必ずある。南米といえばボサノバで大好きだが、こういうシチュエーションで蘇らせたいのは心象であって風景ではない。それがある。ウィスコンシン生まれのアメリカ人のジャズだ。ブエノスアイレスでの録音というのがあるかもしれないが、ライル・メイズのピアノはその芳香に満ちていてこのシャワーを1時間浴びているだけでいい。
あの時、ブエノスアイレスもサンティアゴも行った。これを録音したオペラハウスは世界5大ホールに数える人が多い名劇場だが聞けなかった。仕事も面白かったし素晴らしい時を過ごしたのだから思い残しはない。
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後妻業-悪女の業をミステリーの系譜で辿る
2023 NOV 5 13:13:32 pm by 東 賢太郎
社会に出てすぐ営業にぶちこまれ、世の中、こんな連中が蠢いてこんなことをやってるのかと目から鱗の毎日を過ごした。1979年の大阪だ。社会勉強なんて甘ちょろい言葉は犬の餌にもならない。今ならどこの会社に就職しようとあんなことで何カ月も過ごさせてもらうなんてあり得ないし、研修にしたって強烈すぎる凄まじい体験を大企業の名刺を持って味わわせてくれるなんて想像を絶することに違いない。それでも一時はくじけて辞表を書こうと思ったのだから偉そうなことはいえないし、後に考えれば適当にごまかして営業向いてませんでも全然よかったのだが、そこまで真剣勝負でやって勝ち抜こうと考えていたことは馬鹿かもしれないが財産にはなった。
株を売るのだからカネのにおいのする所を探し出してこっちが近寄らないといけない。「社長の名刺を毎日百枚集めろ」がどう見てもできそうもないミッションである。上司は電話訪問しろと言ったが、まだるっこしいので飛び込み専門にした。達成さえすれば方法は問わないでしょとは言わなかったが、僕は大学受験をくぐりぬけるのにそのテーゼが骨の髄まで沁みこんでいて自信の持てない方法でやってできませんでしたという愚は犯したくなかった。会ってしまえば相手の身なりも顔も見える。何かはしゃべるし反応もわかる。そうやって毎日百人以上の見知らぬ大阪の人に名刺を渡して、あっという間に世間というものを覚えた。一見まともだが一皮むくと危なそうな輩もいたし、真正面から悪そうな連中もうようよいた。そんな人種に電話でアポが入るはずない。幸い、糞まじめな人間よりそういう方が面白いという風に生まれついていて、ぜんぜんどうということもなかった。
大阪の人は東京がきらいだが、全員が一様にそうかというとちがう。何かで連帯が必要になると「そやから東京もんはあかんで」と大阪側に心をとどめおくことを最低条件として、各々のレベルにおいて、東京がきらいなのだ。だから「あんたおもろいやっちゃ、東京もんやけど」でいい。そこが根っからの商人の街の良さであり、いくら頑張ってもそれ以上は行かないが商売はできる。何がおもろいか、その感性はわかるようでいまだによくはわからない。こっちがおもろいと思うと相手も思うようで、商売というフィールドでそういう人は得てして金を動かせることが多かった。こっちも動かせる。そうしてビジネスになる輪ができた気がする。金持ちと知り合うのが大事なのではない、あくまでこっちが動かせることが必須なのはお互い商人だから当然だ。
若かったから気晴らしにいろんな場所に出入りした。新地で飲む金なんかなく、せいぜいミナミか近場の十三とかの場末のホルモン屋や安い飲み屋だ。新宿のゴールデン街に増してディープで、兄ちゃん遊んでってやなんてのは儲かってまっかにほど近い軽いご挨拶である。看板にはBarなんて書いてるが女の子というか当時はおばちゃんだが、猫かぶってるアブなさ満載である。ヤバい所だなと思ったがそういうのの免疫は中学である程度の素地ができていたからよかった。我が中学は区立で入試もなく、地元のワルやらいろんなのがいた。ある日、鉄仮面みたいな国語教師が授業でいきなり黒板にでかでかと馬酔木と書いて、なんと読むか?とクラスで一番読めなさそうなSをあてた。はたきの柄みたいな棒でひっぱたく名物教師だからシーンとなったら「アシビです」とそいつが平然と読んで鉄仮面が動揺。「おお、S、お前どうしたんだ」と驚くと「ウチの隣のパブの名前です」で大爆笑だ。そういう話で盛り上がったりしておもろかった。
悪い女は嫌いじゃない。岩下志麻の極道の妻シリーズは愛好したし、松本清張の悪女物もドラマで全部見ている。「黒革の手帳」は1億8千万円を横領した銀行OLが銀座のおおママにのし上がる話だが米倉涼子の当たり役だ。黒い手帳にある「架空預金者名簿」で美容外科クリニック院長や予備校経営者の手練れの成り金を恐喝して銀座一のクラブ『ロダン』を買収する計画を練るが、逆にロダンの株主で政財界のフィクサーである大物総会屋に騙され、手下のヤクザに追われて逃げる。一丁前のM&Aだ。頭が切れて度胸も押し出しもあり思いっきりワルの女、そんなタマは現実にいそうもないが、米倉はいてもいいかな位にはよく演じている。彼女は「けものみち」、「わるいやつら」、「熱い空気」、「強き蟻」でもいい味を出してるが、男を手玉に取ってころがす女は並の極道より迫真性があるのは何故だろう。
悪女もいろいろだが後妻業は札付きのワルだ。黒川博行の「後妻業」は数々ドラマ化されている。資産家の老人を次々とたぶらかして結婚し、遺産をせしめる女の話だがこっちは社会にいくらもいるだろうというリアリティがある。現実に、男性4人に青酸化合物を飲ませ3人を殺害したとして死刑が確定した女もいるが、後妻業だったかどうかはともかく、55も年下の女を入籍した紀州のドンファンさんもいたから実需もあるというのがミソなのである。愛情は装っただけも犯罪さえなければ後妻業だけで有罪という法律はない。そんなのがあったら後妻の結婚は怖くてできなくなってしまう。いくら爺さんでも好きでない女性と結婚はしない。だからそこに明らかな詐欺がない限り、殺人の物証がなければバリバリの後妻業女でヤクザのヒモがいようがヤク漬けであろうが何でもないのが法の穴というか難しい所だ。単にひっかった方がスケベの馬鹿でしたねで終わりである。逆に富と権力ある女性を狙う逆玉ホストがこれからは流行る世かもしれない。
清張にも後妻業ものがある。「疑惑」だ。鬼塚球磨子という女が年上の酒造会社社長をたぶらかして結婚し、夫に多額の保険をかけて車ごと海に沈め、自分はスパナで窓を割って脱出して夫を殺害したと疑われる。捜査で悪態をつき「鬼クマ」と報道されるような女に社長は惚れこんでしまったが、球磨子は新宿のホステス時代にヤクザとつるんで詐欺・恐喝・傷害事件を起こした札付きのヤンキーで、社長の子供は嫌がって前妻の実家に逃げ、親にも縁を切られる。事故を起こした車の運転者は女だったとの目撃証言もあり、刑事も検事も球磨子の保険金殺人に絞り、日本中が報道を信じてそれを疑わないムードになった。ところが正義感ある球磨子の弁護士佐原は公判で目撃証言を覆えし、警察の検証の結果、フロントガラスは衝撃で割れるためスパナは不要だったことも判明する。そこから佐原は『なぜスパナが足元にあったのか』『なぜ夫の右の靴が脱げていたか』という物証から驚くべき真相を導き出すのだ。シャーロック・ホームズ以来の探偵小説の王道の醍醐味であり、正義の味方の手腕と頭脳に読者は快哉を叫ぶこと必至だ。
ところが本作品はそこがストレートではない。佐原弁護士は原作では男だがドラマ版では女(米倉)になっていて球磨子との女の闘いに書き換わっているが、清張のオリジナルは球磨子がとんでもない鬼女だと報道しまくった秋谷という男(新聞記者)の眼で書かれ、佐原が真相をあばいて球磨子が無罪放免になるとヤクザを率いてお礼参りに来ると恐れた秋谷が佐原を鉄パイプで襲う所であっさり終わるのである。このハードボイルドな後味は鮮烈だ。冤罪を覆すのは法の正義であり、ミステリー小説は万人が納得する勧善懲悪で閉じるのがセオリーだ。しかし清張は、球磨子が怒りに燃えて野に放たれることへの秋谷の恐怖で物語を閉じる。それは鉄パイプで新たな殺人が起きる前兆のようでもあり、もはや何が善で何が悪なのか混沌としている。世の現実はそのまま小説になるほど割り切れておらずこんなものかもしれないと思う。そんなとんでもない女に騙されて家庭どころか命まで失った酒造会社社長の救いようのない悲しさだけが見えない墓標のように残るのである。
清張はこの「疑惑」の元ネタが「別府3億円保険金殺人事件」だという巷の説を否定したが、それは読みが甘い。僕はジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がそれだろうと考えている。1934年作のこの名品を彼が知らなかったはずはない。カリフォルニアの流れ者の悪党が偶然立ち寄った安食堂で馬鹿だがセクシーな女房にひとめ惚れしてしまう。やがていい仲になった二人は旦那のギリシャ人を誘い出して車ごと崖から転落させて殺してしまう。正確には車中で殴り殺して転落死に偽装するのだが、自分たちも乗っており(「疑惑」とおんなじ)、旦那に多額の保険がかかっていたことから裁判で窮地に陥るが(おんなじ)、弁護士の巧みな手腕で(おんなじ)容疑を女房にのみかぶせて保険会社との取引で逃れて悪党が無罪になってしまう(おんなじ)。ここからは「疑惑」にはないが、今度は女房が本当に交通事故で死んでしまい、男は捜査されて旦那殺しの書類がみつかってそっちがバレたうえに女房殺しでも逮捕されてしまう。そっちは無罪になっても旦那殺しで死刑と告げられた男は「愛した女房を殺して死刑は耐えられない」と語り、旦那殺しの罪を選ぶ。
本作はハードボイルド小説の苦み走った不思議な味を覚えた最初の作品である。一気に読み終わってしばし茫然とし、他愛のない小市民の幸せを手に入れようと善良な市民を殺した浅はかで人間くさい悪党夫婦に同情している自分を発見したという意味で忘れられない作品である。大阪はミナミ。得体のしれぬ臭気が漂う真夏のがやがやと猥雑な薄暗い路地裏であやしい取引で小金を儲ける男ども女ども。それでも話しかけるとあっけないほど悪党の気はせず「兄ちゃんなんかええ話か?」と喰いついてくるあの人達。罪と罰ではなく人と欲だ。それ以来僕は欲をきれいごとで隠す人間は好きになれなくなった。
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