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カテゴリー: 自分について

人生あと20年だったら何をしますか?

2019 JUL 1 1:01:46 am by 東 賢太郎

高島屋へ家族で食事にいくと「二子玉川50年の歩み」とポスターがある。そうか、あれからもう半世紀になるのか。1969年だから中学3年だった。オープンの時に来てギターを買ってもらったっけ。いまや高級住宅街とされてるらしいが、僕の脳裏にあるニコタマなんてこんなもんだったのだ。

ただ、写真の奥の上野毛の丘陵はお袋が皮手芸教室を始めたときにビラまきを手伝ったが、古くから居並ぶ豪邸に圧倒された。富士山を望む多摩川沿いの丘陵の南西向き斜面は「国分寺崖線」と呼ばれる。成城学園からここを通って田園調布まで続いているが、その記憶があるものだから東京広しといえど国分寺崖線以外に自宅を構えようという気はからっきし出てこなかった。そのために働いたみたいなものだったかもしれない。

いまやこの先あと何年あるかと思うようになってきていて、もう50年前のように夢を持つほどはないのは確実だから、それなら自然に生きるしかないと思っている。仮にあと20年あるとして17万5千2百時間だが、あるかもしれないしないかもしれないものを長いの短いのと考えてもしかたない。要はその17万時間、何をして過ごすか、何で埋めるかが重要なのである。

先日、蔵前国技館で相撲を観ていたら高須クリニックの懸賞がたくさん出ていた。高須院長が砂かぶり最前列におられてお元気そうで、報道によると彼は癌だがこういっておられる。「ムダな健康の知識なんて必要ないよ。だって身体ってコンピュータみたいなもんで、不調だったら原因は身体がわかってる。それで『眠い』とか『これ食べたい』という信号を送ってくるんだから、それに従うのが一番いいの」。そういうことだ。自然に生きようというのは、頭で決めるのではなく体がこうしたいと欲するままにするということだ。

僕の場合べつに長生きしたいということではなくて、17万時間の効用価値を最大化したい。そうすれば、最後になって「いい人生でした、ありがとう」となるだろう。しかし、おしりが見えないのだから「いま」の効用を最大にしながら、いざ終わってみたらトータルで幸せでしたとするしかない。だから結論はこうなる。常に目の前にある「いま」の選択として、

①やりたいことだけやる

②それ以外はぜんぶ捨てる

の2つを同時にする。いつ何時もそう考えて行動する。そうすると義理、人情、忖度みたいなもので惰性でやってきたものはぜんぶ不要という結論になるのではないだろうか。自分で体を張ってビジネスをすると誰にも忖度などいらなくなるのだ。モノは捨てればいいし、つきあいたい人だけとつきあえばいい。

でも身体に従うと言っても、自分が本当はどいう人なのかは誰もわかるようでわからないだろう。社会生活にまみれて手垢がついてしまい、鏡を見ても仮面をかぶった自分しか写っていないからだ。例えば僕は何か日常のありふれた出来事を見て、たぶん何万人に一人もそうは思わないだろうという風に思うことがある。そう生まれているのであって遺伝子の仕業だからどうしようもない。

そこで他の何万人は「**ですよね」と当然のように同意を求めるだろう。こっちはちっともそう思わない。そういうことが嵐のようにあるのである。それでよく証券会社なんかでやってきた。我慢してきたのだ。しかし行動するにあたってはそんなのは無視して100%自分の流儀でしてきた。それでいまがある。つまり我慢など実は一文の値打ちもないということを証明しながら生きてきたのだ。お客様だって一文の値打ちもないことに熱心な人間のサービスを受けたいとは思わないだろう。

ただし、矛盾するようだが、よほどの実力がある人を除いて若い人たちはそれではいけないとも思う。そんな実力なんかおよそ無縁な僕は忍耐、我慢の何十年を生き抜いてきたのだ。世間は大人が動かしている。大人に受け入れられるには多大な我慢がいるし、そうならなければやりたいことはできないのである。やってみればわかる。自分流を通すのは非効率と裏腹であって、時間を空費するし、それで嫌われて挫折した人を僕はたくさん知っている。だから、我慢はしながら、いつか自由を手に入れるぞと爪を研いでその日を虎視眈々と狙えばいい。

もう狙うもののない人生は退屈だが、やりたいことをすれば退屈ではないのだ。そうやって17万時間(?)をアロケートしていく。物事を見て僕と同じ風に反応してくれる人はいないことが分かったが、仮にいたとしてもそれでこっちが面白いかどうかは未体験ゾーンなのでわからない。まったくもって面倒くさい人間だ。いま周囲にいてくださる多くの方々は少なくとも嫌でないということは確実なのだが、なにを面白いと思っているかは言わないで死ぬだろう。どうしてって、それが人生面白いからだ。

 

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毎日どうやって酔って楽しもう?

2019 MAY 7 1:01:11 am by 東 賢太郎

そりゃあ人に喜んでもらって、自分も喜びをもらう、人生こんないいことはない。うれしいことは楽しいことだ、まいにちそうなれる人生が最高じゃないか。でもまず人だ、自分からじゃない。人の喜びがおおきくなってばくだいなけいけんのないよろこびがやってくる。とにかく人に有難うって言ってもらおう。ごみひろいでもなんでもいいよ、それを毎日探すんだ。ひとつがふたつ、ふたつがみっつ、そうやって幸せはふえてく。するとどこかで幸せはおなか一杯になるよ、そこだ、自分のできることはそこまで。それ以上はいらないからね、あさ目がさめてそうならば、眠くなるまであるがままに過ごそう、何も考えず。

いま,つらいことを抱えている人はたくさんいる。ここにもそこにも、ぼくはしっている。つらいのはできることがないからだよ、誰も見てくれてないからだよ、ひとりぼっちでさびしいからだよ、それならば勇気を出してやってごらん、人に喜んでもらえばぜんぶ消えてなくなるよ。他人の喜びは自分の喜びのレシピなんだ。するとあなたはいつのまにか頼られているよ。それに気がつくよ。もっとつらい人がいることを知るよ。だから悲しんでいる暇なんかなくなるんだ。

やがて、時がたって、少し年をとって、そういうこともいらなくなる時が来る。僕は、清水ミチコさんの大ファンだ、だって喜びをもらえるんんだから。韓国のパククネ元大統領もファンだ。きっといい人なんじゃないかな、でもさびしいんだんだろうな、どうもああいう姉さんにはよわい。それをやってるのがこれだ、清水ミチコさん。いいじゃないか、もう3時間でもやってほしい。

おちこんだとき、ぼくはこれになぐさめられてる。笑いじゃないよ、こころにぐっとくるからまじめだ。ほんとにこんな姉さんいたらいいな、まいにち行くなあ、クネねえ、早く出れるといいね、いのってるよ。

そういやあ最近お見かけしないですね、小池姉さん。いやいや、そうじゃなかった、平成最後の金曜日かな、帝国ホテルでお会いしましたよね、経済同友会の懇親会でしたかね、とてもお元気でなによりで。そうそう片山さつきさんもお会いしたけどね、まあまだまだ小尼だね、小池姉さんのがタイプでございますよ、ほんに。

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バンクシーの落書き騒動

2019 FEB 22 0:00:41 am by 東 賢太郎

むかし何げなく書いたブログです。5年前(2014年)のものです。今や有名になって、世界各国で落書きがバンクシー作品じゃないかと騒ぎになってるが、5年前はほとんど知られてませんでしたね、このブログもあんまり人気はありませんでした。

Banksy’s Dismaland!(バンクシーのテーマパーク礼賛)

英語にsarcasticという形容詞があります。これがわからないとバンクシーもわかりません。皮肉って非難、冷笑するという感じですが、そう単純なものではなく「皮肉る」よりもっとスピンがきいて威力があります。英国人が得意というか、このマインドは英国人起源であることはほぼ間違いないと考えるし、英国人を良く知らないとたぶん理解が難しいとも思います。米国人が「It’s terrible!」と直球でけなすところを、あたかも褒めるかのような言葉で変化球でけなすのが英国なのです。

このDismalandなるテーマパークは仮想の「善」です。Disneylandのおちょくりだから、「米国がばらまいた偽善」と読み替えなくてはなりません。ファンタジー、英雄礼賛、退屈な日々からの脱却をうたってナイーブな愚民(idiot)をつくり、絶対勝てない的屋のゲームを競わせ、得体の知れないホットドッグを食わせ、借金でお困りでしょうと更に金利の高いローンを売りつける米国をテーマパークという「善」の象徴の風体を装って馬鹿にしている。しかし更に馬鹿にしているのはそれに気づかず騙されて生きている「あなた」という idiot (馬鹿)なんです、という強烈な毒味を効かせています。

You are so complex that you do not always respond to danger. は「あなたは複雑な人だ。複雑すぎて気がついてない危険なことがありますよ」と表向きでは言いながら「あなたみたいな単細胞の馬鹿はみたことない。日々騙されまくりの人生だね」と言っている。sarcasticというのは言いたいことの真逆を直言しておいて、実は相手を批判したりおちょくったりする変化球のことなのです。言われた方は裏の意味に気がつけば不快なのですが、「ほう、気がついたの?じゃそこまで馬鹿でもないんだね」というニュアンスがあって、それに対して真剣に怒ると今度は救われないという無言の圧力がある。

「このホットドッグ、何のお肉が入ってるか当ててごらん、当たった人は無料にするよ」。「ポーク」「ビーフ」→「はずれです、お金払って」、「いえいえ、実は**じゃないの?」→「当たりです!タダで持ってきな!」、さて、あなた、この**肉のホットドッグ食べますか?はずれ=馬鹿、あたり=賢い、でも食べられない。sarcasticは負けがないのです。常に優位にある。ご参考までに、アッパー(上流階級)の英国人はそうでもないが下のクラスの英国人インテリは「おいしいね」を delicious なんて絶対言わない。米国人の terrific なんて猿なみと思ってる。こう言うのです「Not too bad」。基準がお高い。私は(君たち)猿とは違う。いつも言外にそれを imply したいのです。

僕の仕事は6年間ロンドンで毎日英国人インテリたちと株の取引をすることでした。この「毎日」ってのが大変なことなんです。例えば高校時代は、毎日、昼休みに野球部員は部室に集合して200本のバットの素振りをさせられてました。3年間毎日。だから今でも同世代では体が強いかなと思っています。同じことで、毎日商売で英国人顧客にsarcasticな物言いで苦情を言われていじめられていると、それが伝染して僕自身がsarcasticな人間になってしまっているかもしれない。だから5年前に動画を見てビビッときて、心から気に入って、やっぱりそうかということに感動して、バンクシーなんか誰も知らないだろうけどお構いなく自画像としての「礼賛」のブログ執筆に至ったわけです。

僕は米国礼賛派ではありませんが、そうはいってもお世話になった米国だから、バンクシーの米国おちょくりが気に入ったわけではありません。英国人は judge(審判) になりたがる。それが妙に懐かしいなと、バットの素振りみたいにですね、懐古心がうずいたというところです。6年間英国のクラシック音楽専門誌Gramophoneを愛読し、あれで judge のなり方を心得ました。これで議論がうまくなって随分と得をしました。インテリしか読まない雑誌ですからね、上流階級の英語の単語から言い回しから何から勉強になった。上流は攻撃されないんです英国では。それを覚えたい人にはGramophone購読を強くお勧めしますよ。それで肌で分かったのです、terrific は確かに猿だな、差別だ何だ言っても仕方ないなということが。ただそれを表立って口にしてはいけません。お品がないし、そこでたたかれてしまう。

前に書いたことですが、僕が知る限りそれを最も elegant に intelligent に言いえた名言は、英国人指揮者サー・トーマス・ビーチャム(Sir Thomas Beecham、1879 – 1961)のこれです。これぞ最高傑作である。

Ravinia is the only railway station with a resident orchestra.ラヴィニアはレジデント・オーケストラを有する世界で唯一の駅である)

ビーチャム卿は怒っているのです。このワン・センテンスで、猿にエロイカはわからんと名誉あるラヴィニア音楽祭を完膚なきまでこき下ろして、呼ばれても二度と指揮に行かなかったのです。でもそう見えないでしょう? カッコいいでしょう? 将来の日本を背負って立つ若者のみなさんはぜひ、こういうことを学んでくださいね、学校の先生は絶対に教えてくれませんからね。

そのココロは、ここにございます。

プーランク大好き

sarcastic+witty である。これをRavinia駅長や音楽祭委員会が「侮辱だ!差別だ!」なんてやったらサマにもならない。みっともないし、それがそもそも民度で負けてるよねとなって思うつぼにはまってしまう。だからやらないし、この逸話をこじゃれたアネクドートとして音楽祭の栄えある歴史の一幕に組み込んでしまっています。もちろん米国のインテリもスマートなのです。

大英博物館にも似た事件がございますよ。バンクシーに展示品を装ってこんな「原始洞窟壁画」をこっそり置かれ、おちょくれらてしまったのです。博物館は3日それに気がつきませんでした。

しかし、不法侵入罪だなんて下種なことは大英博物館はいわないのですね。ツイッターでこう書いてしまうのです。

The hoax piece is going back on display – ‘officially’ this time – in our exhibition highlighting the history of dissent and protest around the world.

Listen to co-curator Ian Hislop talk about this piece today at 9.00 on :

(この展示品は偽物であり撤去いたしましたが、当博物館が現在展示しております「世界の反抗と抗議活動の歴史」において、このたび正式な展示品」として復活させる事に致しました。当館の共同館長であるイアン・ヒスロップが9時からBBC第4放送にて当作品につき解説いたします)

知性と教養とお品と格調を持って下種の悪戯をまじめな顔して返し技の悪戯で食ってしまう。日本国外務省と外交官はアジアの英国流でいくべきですね、できるのは日本だけだし、カッコいいから反撃できませんし、すれば猿の猿回しになって失笑買うだけですしね。

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ブログ総閲覧数300万の御礼

2019 FEB 7 1:01:45 am by 東 賢太郎

そう人様をエンターテインできる人間ではなく、ブログの総閲覧数が300万というのは人生で最も想定外の出来事のひとつです。音楽を愛される方が多いのでしょうか、もしそうならちょっとうれしくおもいます。

子供のころブラームスの交響曲第4番がちっとも面白くなくて、「あれは大人の曲なんだ」と敬遠してました。ところがハタチを過ぎても渋すぎで、「そうか、あれはお爺ちゃんの曲なんだ」となりました。30ぐらいになると少しわかってきて、すると今度は「4番は子供にはわからんさ」なんてほざきだしました。

彼がそれを書いたのは52才です。気がついたらこっちは超えていて、一抹の焦りを覚えたものです。そして先日64才になって、いやな予感がして調べたんです。恐れていたとおりでした、なんとブラームスは63才と11か月で死んじゃってるではないですか。

 

CMで「今年で還暦です」「ええ?お若いですね」なんてやってて、このお爺ちゃん俺より4つも若いのか(がっくり)なんてことが日常茶飯事です。でも、このブラームス博士より年上なのかというショックに比べればかわいいもんです。

 

 

 

 

 

「お父さん、ピアノ弾いてるとブラームスみたいだね」と長女が言うのは、もちろんうまいという意味ではありません。壁に飾ってあるこの絵に似ているという意味なのです(体形が)。

 

 

 

ブラームスが消えてしまった。巨星墜つというか、人生の里程標を失ってしまったなあ、次は誰にしようかなあと調べると、一番長生きしたのはたぶんシベリウスなんですね、91才まで。しかし彼も7番を書いて隠遁しちゃってる、それって59才なんです・・・。次はストラヴィンスキーだ(89才)、でも彼も晩年は枯れてますね。

元気なのは80才でファルスタッフを書いたヴェルディ、77でカプリッチョを書いたR・シュトラウスだけどあんまり興味ないなあ・・・。ブルックナーが9番をまだ書いてないぐらいかな(でも未完でしたね)。一縷の望みをかけた敬愛するフランツ・ヨーゼフ・ハイドンさん、最後の交響曲第104番「ロンドン」が63才の作品なのでありました。

ということで、幕はおりました。もうどうあがいても無駄でございます。こんな出涸らしにおつきあいいただいている皆さまには感謝の念しかございません。ほんとうにありがとうございます。

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キャリアハイの仕事は負けからやってくる

2019 JAN 13 14:14:20 pm by 東 賢太郎

大手町を歩いているとたまに呼び止められる。年末にまたそれがあった。みずほで部下だったS君だ。軽く近況を話しながら、彼と行った外交先やゴルフ接待のことなどを次々と思い出していた。彼だけじゃない、最近は銀行がお客様になったり、ご融資もいただいて助けてもらったり、商売のフロントでもメガの第一線でご活躍中のバンカーと一緒に仕事するようになっている。これは僕の人生の辞書には書いてないことだった。

就職のとき、親父が銀行員でどことなく反発があって銀行に就職という発想が持てなかった。母には「あなたは向いてないからね、銀行だけはやめてね」と懇願された。東大法学部には民間なら銀行という空気があって、それに対して付和雷同嫌いの性格が騒ぎだしていたし、そもそも勉強してないのだから受かりもしなかったろう。熱心に誘ってくださったのが三菱Gの名門会社で、10年目に1か月休暇で世界1周できるという雄大なお話に大いに気持ちが動いたが、お世話になっていたらどういう人生が待っていたのだろうといまでも一抹の後悔がある。

野村からみずほに転籍させていただいたのは2004年だ。そういう経緯があったから、入るのは証券会社とはいえガバナンスは銀行にあるという意識がかなりひっかかっていた。というのは、面接は、「銀行頭取からエクイティ引受元年にすると厳命が下っている、証券のその部門を率いてくれ」という話だったからだ。当時のみずほ証券は国内の株式引受で主幹事案件実績がゼロ。主幹事あたりまえの野村證券目線からすれば何もないに等しい。しかも株式業務といっても僕は引受部門の経験がない。それをやってくれというのだから人違いだと思い、はっきりそう申し上げたら返ってきた言葉が「東くん、僕は君のことをよく知っているんだ」だった。

これがY常務との人生初の出会いだったが、実に意味深かったことになる。49才で25年勤めた会社を辞めるのは大きな決断だったが、この30分の面接一回で腹が決まる。動機は仕事内容ではない、「士は己を知る者の為に死す」であった。その証拠に給与、タイトル等の移籍条件の話をするまえに「お世話になります」と電話した。実はその時点で別の銀行系から条件面でずっと上のオファーをもらっていたがお断りの電話を入れた。野村が嫌いになったわけではない。ただあのころ、ひとえに僕の力不足ゆえ、優秀な若手が次々と台頭して出番は確実に減っていた。要は出世競争に負けたわけだ。野球でいうならば「試合に出たい、必要としてくれる球団はないか」という気持ちを止めようがなかった。

母に、ごめん、銀行系に行くことになったと報告したら少し考えて僕の目をじっと見て、「うまくやってね」と言った。母の直観力は凄い。ごまかせたことは一度もない。これが最後の会話だった。いいわけになるが、積極的な気持ちで「行く」ということではなく、行かざるを得なくなってボートに乗った難民みたいなものだった。おそらく、気合が尋常ではなかったから使っていただけただけで、別に僕でなくてもいっぱしの証券マンなら誰でもよかったのではないか。いま思うとそれが時の利というものであって、そういう巡りあわせの瞬間にたまたま良い具合にそこに「居た」だけだ。人生は本当にわからない。

そこから2年が過ぎた。主幹事本数をゼロから16本とし、年度前半の実績で大和証券をぬいた。日本航空のグローバル・コーディネーター(国際主幹事)のトップ・レフトをかけて常連の野村證券、ゴールドマン・サックスとの三つ巴の激戦となり、ついにせり勝った。この戦いに証券マンとして持てるものすべてを投入したし、そんな場を与えていただいたことには身震いするほどの幸運を感じたし、勝てもしたから運もあった。我が業界、国内主幹事ゼロというのは国体でメダルがない選手ということであって、それが突然にオリンピックに出て金メダルを取ってしまったということに等しい。

しかし、そう甘くはない。そこから激烈な反撃にあった。ニューヨークのロードショーでJALのN社長に随行して成田を出発する直前だ、この期に及んでシ団を降りる(辞退する)という会社が出てきて社内は騒然となった。するとウチも考えると同調する所が現れ、ディールが中止に追い込まれるかもしれない異常事態に陥った。暗に「JAL様、主幹事のご選択間違ってませんか?」と数社がつるんだ揺さぶりだった。夜中の3時にホテルの社長の部屋に関係者が全員集合し、僕が東京へ電話して降りる宣言をした大手証券の役員とシビアな談判になった。

押されたら負けだ。幕末の薩長と同じじゃないか、敵は多勢でも天皇はこっちにおられるぞと腹をくくった。おどしすかしの応酬で最悪の事態は回避しながら説明会を開催し、ニューヨーク、ボストンの有力投資家をまわり、疲れ切って帰国のJFK空港ラウンジの椅子で熟睡していたらN社長が探しに来られてねぎらってくださった。帰ったら体重は5キロ減っていた。株主総会直後の増資の決定の仕方についても公然と批判が噴出した。日経新聞の社説で論説委員に連日ぼろ糞にたたかれたが、みずほの経営会議は歯牙にもかけず大成功とたたえてくれた。

もうひとつ、懐かしいのがある。テレビ東京のIPOだ。値決めで議論があって、調印式会場のディズニーシーの会議室でS社長になぜ3000円じゃないんだ(2900円を提案)と激怒されてしまった。当方には考えがあったが何かが至らなかったのだろう、役員でもない君が何様だと調印は見送りとなってしまい、同席の部下たちは凍りついた。翌日ねばった末ついにご理解いただき、公開初日は想定どおり盛況な売買で成功だった。後日の上場祝賀会でS社長が「君の言うとおりだった」と乾杯し女子アナをおおぜい呼んで囲んでくださった。

しかし初めからそううまく進んだわけではない。周囲も部下も銀行員で、仏教徒とキリシタンの会話である。野村では注文を取ることを「ペロを切る」と言い「切ってナンボ」と教える。営業行為というのは顧客によって千差万別の数々の障壁をクリアしないと成立しない。10個あるなら10個撃破してナンボだ。「9個クリアは自己評価で何点?」「90点です」「なに言ってんの、零点だよ」なんていう会話があってシーンとなる。超高学歴部隊でプレゼン資料の厚さを競うみたいな文化があり、下手すると100ページもあって目が点になる。「3ページにしろ」と返すとこんどは彼らの目が点になる。

言い訳も多い。「零点の生徒に言い訳の権利はない」とつっぱねる。最初の部門予算会議で「東君、大変だけど頼むよ」と言われ、数字を見たら120人もいるのに収益予算が16億円だ。誤植と思い「常務、これ一桁ちがってませんか?」と聞いたらまわりは凍った。いけない発言だったらしい。しかし、半年もするとだんだん皆さんの目の色が変わってきた。東芝の公募が取れてしまい頭取賞をいただいた。「零点」「3ページ」が効いたのか、見えないマグマのような力で部下たちが次々とペロを切った。実は優秀だったのだ。結局その年に予算の10倍ぐらいやってしまい、部門の空気は明らかに変わって勝てる軍団になっていた。証券マン人生で最もエキサイティングな思い出だ。

どうして御託ならべばかりだった部隊がああなったのか?おそらくこっちも引受は初心者だったからだ。そんな状態でプロだと迎えられ、尻に火がついていたのだから皆さんに僕の「一生懸命ぶり」が通じたのかなと思う。それでも重石の役みたいなものだからぶれたらいけない。どこへ出てもドンと構えるしかない。それを部下たちが自信をもって使いまくってくれた。大手町で声をかけてくれたS君もそのひとりだ。彼らの自信が顧客企業にハートで通じて、じゃあ初めてだけど一回みずほ証券にまかせてみようとかとなる。それがうまく片付く、もっと自信がつく、我が部もやらなくては、という好循環になったのだったと思う。

こうやって、僕は野村證券で育てていただいて、みずほ証券でキャリアハイの仕事をさせていただいた。どちらだけに恩義があるとは言い難く、両方がセットになってなるべくしてなったという感じだが、ひとつだけ間違いないことがある。「負け」が原動力になったことだ。僕は何が嫌いといって、負けることだ。50才にもなれば普通は残ったガソリンで10年持たせようと低燃費走行にはいるだろう。そこでハイオクを満タンにしてアクセル全開にするなんて、負けの悔しさがなければするはずもなかった。

さらには、その加速で時速200キロ出てなければ、5年後に今度は起業しようなどというターボエンジンが作動することもなく、今ごろは平平凡凡のリタイアに追い込まれて何もすることがなくなっていただろう。僕にとってそれは許せない最悪の事態であり、人生の負けなのだ。しかもその負けは挽回するチャンスはもうないから、事故で大破するようなもの。それも、時速10キロで路肩に乗り上げて動けなくなるみたいなもので、これぞ、まぎれもなく、僕の人生の辞書には書いてないことだった

望んでそれができたわけでも何を頑張ったわけでもない。たまたま難民になって負け犬のボートに乗って漂着して、そこに居ただけだ。ただ、若いころに普通の何倍もの苦労をしていたからどんな土地でも生き抜く自信と生命力だけはあった。それさえあればいい。居るだけでいいチャンスなど誰にもめぐってくる。つまり、逆境にあっても絶対にあきらめてはいけないということこそ金言なのだ。ただの負けというのはゲームの負けで実はチャージのことであり、あきらめるということは人生の負けでこっちは取り返しはつかない。やり続ける限り、小競り合いにいくら負けても負けたと思う必要はない。勝つまでやればいいだけだ。

 

(こちらへどうぞ)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

 

 

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野村證券・外村副社長からの電話

2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎

外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前で、コロラド大学で1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだった。

「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」

一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。

「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」

コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルの高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもうやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。

その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで飛行機に乗り午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。

いよいよ日曜日だ。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで27才の僕が一番若い。初回、1番にストレートの四球。2番に初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、天を仰いだ。コロラドから鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。そこから必死でどうなったかあんまり記憶がないが、僕の身上である渾身の高め直球で4番を空振り三振にとったのだけは確かで、なんとか2点で抑えた。

勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。後半はまったく打たれる気もせずのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。

後列、右から3人目が僕

午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。

コロンビア大学ベーカー・フィールドのマウンドに立つ(1982年8月29日)

準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。

外村監督が4位の表彰を受ける

残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。

大会委員長から「最優秀選手賞」のトロフィーをいただく

試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表になった。緊迫したプロ並みの投手戦となってスタンドがかたずをのんだ決勝戦、1-0の完封で優勝した神山投手(甲子園選抜大会で岡山東の平松政次に投げ勝った人)に違いないと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は優勝が阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位だ。何かの間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。

それもこれも、外村さんの電話からはじまったことだ。このことがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、英国では英国なりにゴルフを何度もご一緒しテニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。

そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目で苦言もいただき、数えたらきりのないご恩と叱咤激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まる野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とそれだけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。

きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、

「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」

「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」

が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、

東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村

とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、

外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。

とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。

12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。

寺尾聰「ルビーの指環」

あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どこからともなくやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本の電話だったのかもしれない。

外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。

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寺尾聰「ルビーの指環」

2018 DEC 5 21:21:22 pm by 東 賢太郎

先生と「サインは V !」のジュン・サンダースは范文雀(はん ぶんじゃく)だ、台湾美人だという話になり、そういえば蔡英文の民進党が国民党に大敗したのは彼女は法学博士でインテリだが人の心がわからんからという話になり、帰宅して僕は范文雀は寺尾聰の奥さんだったことを思い出していた。

調べると「ルビーの指環」が世に出たのは1981年2月のようだから僕はまだ梅田支店にいたはずだが、ぜんぜん大阪とイメージが重ならないのは人事部から「留学だ」と辞令があってもう心が飛んでいた、というより、ウォートンに行けということになったはいいがあまりの英語力のなさに顔面蒼白だったからと思う。アメリカに一緒に来てほしいと家内にプロポーズして、6月に異動で本社に戻った。大阪に別れを告げるのは寂しかったが、2年半ぶりの東京は嬉しかった。

ちなみに当時の野村證券は妻帯者の留学は認めていなかった。なのにプロポーズしてしまった愚か者だったわけだが、妻をとるか留学をとるかという二択の頭はからっきしなかった。両方とる、なんとかなる、そういう超楽観主義だった。人事部長のGさんに馬鹿者と叱られ問題になったが、留学取り消しにはならず翌年2月に無事に式を挙げさせていただいた。もう転勤してるのに梅田支店の先輩同期後輩がたくさん東京まで来てくださったことは忘れない。

しかし留学のほうは大変に問題だった、当時ウォートンの入試はTOEFLの足切りが600点だった。大学入試の英語はちゃらんぽらんだったが社内の選抜試験は2番だったらしく、まあ平気だろうと世の中をなめて何の準備もなく受けたら480点だ。やばいなと思った。たしかもう2回受けてなんとかすべりこんだ。GMATは代々木の予備校に通って、こっちもぎりぎりのセーフだった。

なにせ全米最高峰だぞと先輩に脅されており、エッセイを必死に書いて祈るように願書を封書で送った。それを審査して合否発表は手紙で来るのだが何か月も待てど暮らせど音沙汰もなく、実家で悶々としていた半年はほんとうに辛かった。その間、所属は人事部付で仕事は英語のレッスンである。支店営業からすれば天国だったが、だからこそ不合格だったら支店だぞという思いがあった。

合格を知らせる封書が来たのは何月だったか忘れたが年明けだ。まずはやれやれの安堵、やがて、アメリカに行けるという歓喜、そしてしまいに、MBAなんか俺が取れるのかという恐怖が襲ってきた。「ルビーの指環」は、そのあたりで大流行していたはずだが、曲はよく覚えているのにそういう現実と結びつかないのは不思議だ。

38年ぶりに聴いて、感嘆する。なんてかっこいいんだろう。

寺尾聰は昭和22年生まれで8才上、まさに我々世代をノンポリと馬鹿にしてゲバ棒振ってた団塊のアニキ世代だ。彼に憧れてでっかめのレイバンをかけたっけ。でもこっちはアメリカへ行くんだぜなんて粋がってた。

歌がプロっぽくないのがいい。カラオケできまってる等身大レベル。ビートルズだってそうだし、ユーミンの男バージョンという感じだ。歌詞もいいね。女は別れた男なんか「上書き」しておしまいだが男はこんなもんだ。

枯葉ひとつもない命、あなたを失ってから・・・

それにしてもこの曲、なんでこんなに耳に残るんだろう?何度聞いても飽きない。音楽的な秘密があるわけだが、それは次回にする。

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ワインを飲みながら学生時代に帰る

2018 DEC 4 23:23:19 pm by 東 賢太郎

顧問のK先生とワインを飲みながら伊賀の影丸の話に熱中してあれこれやってるうちに「横山光輝は影丸を中性的に描いたのが偉い」という鋭いご指摘があった。「敵役は醜怪な面相ばかりで女性っぽいのが善玉らしい」と。なるほどと思ったが、さらに「由井正雪もね」とくるものだから感動もひとしおである。

先生は1学年上で非常に有能な官僚、政治家、大学教授、将棋4段であられるが、影丸で盛り上がれるうえに「サインは V !」の戦後世代的考察があり、団塊世代から見下されるわが世代を論じつつ「宇宙少年ソラン」と大阪万博の「こんにちは」はそらで歌い、古関裕而作曲の東京オリンピックマーチを唱和される(これは名曲だ)。

吸った空気は同じということだが社会に出るまでに乗り越えてきたものが同じということでもあり、そういう中においてなかなかこういう方は知らない。漫画を子供時代にそう見ているということは生身の人間もそう洞察してきておられる。わが身と似たものがあるのであってこういう部分で通じ合えるのは心強い。

通じ合えるというのは何でも話せるということでもあって、僕がここまで来たモチベーションは受験、出世のトラウマで今に見てろの馬鹿力だなど全部お話しし、狭い所がだめで飛行機も床屋もアウトでどう対処しているかなど「う~ん、けっこうめんどくさいね」となり、かなり酔って中村案件+ディズニーランド構想など経済産業省の規格外の大草案をぶってもなるほどとうなずかれる。

そこまで東北のルサンチマンなんてことから「東京もんだってある」となり、大阪赴任はカルチャーショック、『ええかっこしい』言われ、やってもないのに『にいちゃん、二度づけ禁止やで』だと反論、でもこれは言えない、言っても嫌われるだけ、でもいまや都鄙感覚は地理的ばかりじゃないとなり、ネット時代はどこにいようが知識で「都に勝てる」となり、地方創生は教育だとなる。

思い起こせば大学時代に下宿でこんなことを、はるかに低次元だが毎日のようにわいわいやっていた。いわば原点、心のふるさと。社会に出ると現実に締め付けられそういう馬鹿げた議論ができない。僕はそれを化石のようにまだ持っているが、誰もわからないから大変に寂しいし、ときに非常に疲れる。そこでアライアンスを組めた先生の存在は、精神の深い所で、実に大きいと思う。

 

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交響曲を書きたいと思ったこと(2)

2018 NOV 25 0:00:03 am by 東 賢太郎

ビジネスは弁証法的に進化する。それが利潤動機であり、資本の論理であると性悪説(かどうかは議論があろうが自分の立場からは)に立脚するのは人権に基づくプロレタリアート概念を創出したいマルクス経済学のイデオロギーに過ぎない。ロジックとしての弁証法に性善も性悪もないのである。マルクスは弁証法による唯物史観をとった。私見では宇宙はその原理で生成発展しており、宇宙の一部である人間社会がその原理で解明されてなんら違和感はない。

しかしそこには大きな論点の欠落がある。ビジネスは大阪弁の「オモロい」でも進化し、資本はそれでも成長することを大阪人でないマルクスは完全に見落としている。平等なユートピアはオモロい人を殺してしまうことは論じていない。そもそもオモロいことをしている人は「搾取されました」なんて争議はしないのである。オペラを受注したモーツァルトが残業代の計算をしただろうか。過労で倒れて労災申請をした大作曲家がいただろうか。

僕は365日休みはないし三六協定もないし土日も仕事している。事業主、資本家だからではない、オモロいからだ。だからオモロくなくなったらやめる。労働は悪だというのはキリスト教思想であって仏教徒の僕には毛頭関係ないが、もとよりこれは宗教、思想の話ではないという所が核心なのである。むしろ人間の生来の属性、ケミストリーであり、性格、生き様、信条、モチベーションの話であって、そういう類型化できないことを学者は採用しないが、その姿勢は実務家である僕にはまったくのナンセンスでしかない。

しかし、宗教であれ教育であれ人間の生来の属性を造り変えることは尊厳にかかわることだから無理だと思う。したがって、ここに必然的に、仕事が「オモロい」「オモロくない」で地球上の全人類は二分されるのだ。資本論は後者の人類の福音書であり、明示的には消えたが精神だけは世界の左派に残っている。特筆したいのはこの二分法こそマル経が予期せず生んだ『階級によらない人間分別法』であるということだ。マルクスは狩猟採集の原始社会が本来の平等社会(無階級社会)であって階級社会を克服した上で実現する無階級社会は極めて生産力が高く、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」としたが 「能力に応じて」「必要に応じて」の部分にこの二分法の用意がある。これを論理の穴と上げ足をとるか、さすがマルさん逃げ道あって頭いいねととるかは勝手だがどっちでもいい。

強固な持論として僕は「オモロくない」派は時給いくらで残業代をしっかりもらうべきだし、「オモロい」派は成果連動報酬で青天井スキームでやればいいと思う。日産のゴーン元CEOは明白に後者の契約だったわけで、それを前者と比べてけしからんというのは二分法からしておかしい。株主がOKといえばいいわけで、その株主を欺いたから拘留されているのだ(当面の理由としてだが)。野球でいえば球団職員がエースの給料が高すぎだと言ってるようなものでマスコミのマル経的たきつけに徹している観がどうも解せない。「高級マンション」がどうのというのも、高級かどうかが論点ではなく取締役会で決議したかどうかだ。しないと会社の金の振り込みなんかできるはずがない。なぜその時点でOKだったのが今は横領まがいなのか(本件は今後注視したい)。

ソナー・アドバイザーズは、基本的には、「オモロい」派だけの会社だ。「オモロくない」派は外注で足りる。なぜそうするかというと、ビジネスはマルクスの見落とした大阪弁の「オモロい」でこそ進化こそするという強い信念があるからだ。だから秘書にも費用は会社持ちで資格試験を受けてもらいバリューアップしていただいているし、会社の業績の進化に影響ない人は採用しない。これはラーニング・オーガニゼーション(学習する組織)という経営哲学で、僕はダボス会議でGE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOだったジャック・ウェルチから習った(既述、「伊賀の影丸経営」の原型だ)。

僕が法律と何の関係もない対位法や和声法の勉強をしていたのは大学在学中だ。「人の税金を使って学校へ行った」(麻生財務大臣)からけしからんことだったのは謝るが、それをしながら作曲家にはなれないと思い知ったのは効用だった。できると思ったのは写譜屋ぐらいで、それなら1枚いくら、1小節いくらで請求するだろうし時間外の追加料金も計算するだろうと思った。さらに意外だったのはオーケストラに労働組合があることだった。これが意味することは、つまり団員は堂々たるプロレタリアートだという厳然たる事実なのである。基本はオモロくない派の人々なのだ。

いやそんなことはない、音楽は私の人生だ、だから音大を出て生涯の仕事にしているではないか、という声はあるはずだ。それを否定する権利は誰にもないが、それは日産の工場で現場を支える方々がクルマが好きだから汗を流しているという主張とおんなじだ。トヨタは食堂にまで意見箱を設置して工員の声でカイゼンしているが、だからといって労働組合が消えたわけではない。このことはプロスポーツと労働組合との親和性の議論と照合すれば理解が容易だ。サッカー選手がPK戦になったといって残業代を請求するかということだ。NPBに選手会が存在しストライキをしたことはあるが賃金交渉には無力である。オモロくない派ならやめればいいではないか、やって成功すれば収入は青天井だよという世界なのだ。

理系頭脳のオモロい派である作曲家は労働組合を形成する労働者とは別の惑星の人たちなのであって、両者の間には「音楽への愛」で結ばれることができるはずだなどという宗教がかった博愛ユートピア思想では越えようもない二分法による深いキャズムが存在することを僕は大学時代に学んだ(東大が教えてくれたわけでないが)。だから、そこまで異星人ではないものの「オモロい」派には属する指揮者が作曲家の宣教師としてインスパイアして引っ張らないと良い演奏など出ない確固たる道理があるのだ。音楽をマルクス経済学的側面から理解したし、それを通じて現在の経営観に至ってそこそこ税金を払っているのだから遊んだわけではなかったと思う。

この視点に立つと、指揮者と経営者の役目は同一であるというドラッカーの経営学も肌感覚の裏打ちが持てる。会社を進化させる経営を僕は「オモロい」に求めるわけだが、それは業界に40年生きてきて培った信用と人脈を素材として交響曲をcomposeする作業であることは前回述べた。これを僕はcompositionの本来の思考形態である数学的センスでずっとやって来たしこれからもそうする。数学が計算だと思ってる文系の人に説明するのは時間の無駄だから一部にしか言わないが、そういうことだ。

(こちらをどうぞ)

オモロい人たち

安藤百福さんと特許

「伊賀の影丸」型組織論

 

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