Sonar Members Club No.1

カテゴリー: 自分について

唐の都、長安を旅して考えたこと

2023 JUL 29 7:07:53 am by 東 賢太郎

唐の都、長安。いい響きだ。いまは陝西省西安市になっているが、中国の京都、奈良であろう。司馬遼太郎の『空海の風景』は貪るように読んだが、いよいよ旅が長安までくると、街のこまごまを描写する司馬の筆のリアリティが少し鈍ってもどかしかった。何事も百聞は一見に如かずだ。やはりそこに立ってみて自分の五感で感じ取るしかない。あれは1998年のこと、香港からの出張で初めて西安に降り立った。三蔵法師ゆかりの大慈恩寺で大雁塔の前に立つと、遣唐使として派遣された阿倍仲麻呂や空海もここに立ってこの眩しい姿を仰ぎ見たに相違ないと思えてくる。自分にとってはペンシルベニア大学の校舎群がまばゆく、よし思いっきり勉強するぞと奮い立った若き日の青雲の志に重なる。しかしながらその一方で、なにやら見慣れぬ曲線を描く大雁塔の外縁の輪郭には異国を強く感じており、いとも不思議な感覚に迷いこんだことを覚えている。

西安の北東にある始皇帝の兵馬俑は圧巻である。写真の総勢は約6000人(桶狭間の信長軍勢の倍ぐらいだ)。2200年前の兵士ひとりひとりの顔が写実されているリアリズムには驚嘆しかない。そこまでさせた権力にも、しようと執着した執念にもだ。漢の時代に土中に埋もれて発見されたのは1974年。空海はこれを知らないが、彼が入唐した時点で1000年前の遺跡であった。東を向いているのは秦が当時の中国の最西端で敵は東だからとされる。不老不死の薬を求めて徐福を日本へ派遣し、子孫は秦氏になったという説は虚構とする否定派が多いが、来てないという証拠もない。証明されてないからなかったことに、という説は非科学的でしかない。

私見を述べる。現在シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の交易路網は西洋人のセンスで脚色されたコンセプトにすぎない側面もある。交流、交易は紀元前2世紀、つまり秦王朝の時代からあったのであり、人間も文物も混じり合っており、はるばるローマやペルシャから中国まで来る体力、気力、資産、技術、理由のあった異人と接していた秦国の人間が朝鮮半島、九州に足を延ばすことを躊躇したとも思えない。兵馬俑の人面も物語る。こんな微細な箇所まで強烈な執念で覆いつくす皇帝に薬を探してこいと命じられた徐福に逃げ道はなく、見つからなければ殺されるから戻ってこなかったのは納得でしかない。といって日本各地の徐福伝説を支持できるわけではない(そのどれかが正しかった可能性はある)、一行は来日してそのまま日本に土着し混血していったと思料する。

西安で食事を済ませて隣町の宝鶏市に向かった(下の地図)。当時は国道しかなく車を飛ばして2時間はかかったと思う(今は高速がある)。道はあっけらかんと一直線である。大学時代に、あまりに一直線で居眠りしかけて危なかったアリゾナ砂漠の道路を思い出していた。行けども行けども、道の両側は地平線の果てまでトウモロコシ畑である。うたた寝して目が覚めたらまだトウモロコシだ。「中国人はこんなに食うの?中華料理で見たことないけど」と運ちゃんに聞くと「豚のエサです」(笑)。宝鶏に着くと仕事だ。味の素みたいなグルタミン酸の調味料を作っている会社に増資を勧める。社長に工場を案内してもらった。ベルトコンベアが続々と白いものを流している。目を凝らすと首を絞めた鶏だった。

宝鶏は日本ではあんまり有名でないが、周王朝、秦王朝の発祥の地である。「岐山」がある(信長はここから「岐阜」の名をつけた)。古くは青銅器の発祥地であり、諸葛孔明が陣中に没した「五丈原の戦い」の舞台でもあり、太公望が釣りをしていた釣魚台もこのへんだ。三国志の頃に漢方薬(本草学)のバイブル『神農本草経』が書かれた地でもあった。戦国武将は中国史を学んでいたが、信長は安土城の天守の装飾絵を中国の故事にならったほどで、始皇帝を理想にしたかどうかはともかく両者は似たものを感じる。西安にあったはずの安房宮は完成せず、安土城は完成したが主は死んだ。歴史好きの方は西安とセットで訪問する価値のある処だ。

宝鶏から西は僕は未踏だが、甘粛省蘭州まで行くとイスラム系の回族が多い。始皇帝は目が青かったともいわれるが、これを知るとそうかなと思わないでもない。何をいまさらではあるが、西安(長安)はシルクロードの終点であり、中央アジア、ペルシャ、トルコを経てローマにつながっている。トウモロコシ畑の宝鶏~西安はマラソンならラストスパートの200キロだったのだ。中国の主要都市はだいたい訪問しているが、西安はもとより行きたかった場所であり強く心に残っている。たぶん春節の前だったのだろう、縁起物であるのと感動をとどめたいのとで、この丸っこいのを2個買った。

灯籠だ。でっかい。直径30センチはあってみな「本気ですか」と驚いたが本気に決まってる。家ではもっと驚かれたが、玄関に飾ってもらって満足だった。

西安、宝鶏を旅してみて、自分はなぜこんなにローマ好きで地中海好きでもあり、誰に教わったわけでもないのに狂信的西洋音楽マニアなんだろうと考えるようになっている。未踏のトルコ、中央アジアは文化も食べ物も興味津々で女性も綺麗に見え、料理はというといま熱烈にガチ中華にハマってる。幼時に鉄の匂いが好きだった趣味はレアだろう(線路と車輪に魅かれて小田急の線路に侵入していたが、鉄オタの息子によると僕は鉄オタとは呼べないらしい)。鉄といえばシルクでなくアイアンロードというのもあった。ヒッタイト発スキタイ(タタール)経由であり、技術を持った異人集団が出雲に来ると「たたら製鉄」と呼ばれた(タタラ場として「もののけ姫」にも登場)。出雲は何度か旅して惚れこんでしまい、コロナで頓挫したが映画の舞台にしようとタタラ場だった絲原家にお邪魔もした。なぜか磁石みたいに鉄に惹かれるのだ。地球上に存在する金やウランなど鉄より重い元素は中性子星合体によってつくられたものである可能性が高い(理化学研究所と京都大学)。鉄を通して僕の関心は宇宙へと広がっている。

結論として思う。こういうものはまぎれもなく本能だ。生まれてから後付けで覚えたわけでは全くない。DNAに書いてないと絶対にこうはならないと自信をもって言えるレベルに僕はある。両親はそんなことないから隔世遺伝ということになる。アズマはアズミでもあり海洋族安曇氏の説がある。神話時代から人種の坩堝(るつぼ)だった北九州から海流で出雲に土着し、さらに海流で能登にぶつかり安曇野、諏訪にも下った。父方は輪島だから可能性はある。性格は農耕型でも定着型でもなく、海洋族であって何の違和感もない。

いまはささやかに北池袋の「ガチ中華街」でもめぐっておれとDNAが命じている。そこで火焔山蘭州拉麺に行った。前述したイスラム系の回族が多い蘭州のラーメンだ。一番上の地図を見ると甘南蔵族(チベット)自治州、臨夏回族自治州(回族、チベット族、バオアン族、ドンシャン族、サラール族他の少数民族が居住)が蘭州の近郊で、そこだけでも人種の坩堝。父系遺伝子ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみという興味深いデータがある。

 

西安では何種類か麺を食べた。名前は忘れたがゴムみたいに伸びるビャンビャン麺やら刀削麺だった。火焔山のラーメンも味の坩堝だ。イスラムは豚は食べないので牛肉麺であまり辛くはなく、パクチや香草(漢方と書いてあったと思う)が効いていてエキゾチックなスープだ。たかがラーメン1杯だが歴史と地理を知れば何倍も味わい深い。東京~西安の3倍ほど行けばシルクロードは走破できそうだがまあ池袋でやっとこう。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ふしぎな断捨離願望

2023 MAY 7 11:11:31 am by 東 賢太郎

近ごろ、とみにモノにこだわりがなくなってきた。人には断捨離派と捨てられない派がいる。後者の権化みたいだったのが変わってきたのだろうか。音楽もあんまりきいてないし、オーディオやらためこんだCDも誰かにあげちまっていいかもしれないし、家だって売り払って家内とどっか山奥に住むかなんて思ったりもする。もしそうなっても、持っていくのは猫ぐらいだ。

ないと困るものなど実はそんなにない。アメリカで初めて所帯を持った時、古道具屋でなけなしの100ドルで買った安物の金ぴか家具が誇らしかったりした。日本食はおあずけ。それでも新婚で楽しくカジノに行く蛮勇もあった。友人は留学が決まって彼女にプロポーズしたら「断られましてね」と笑う。ひとりで何もできない僕は切実だったが家内にはよくぞついて来てくれたと感謝しかない。

それから18年の月日がたって香港から帰国した。住んだのは世田谷の代田だった。家はというと海外の家具類に加えグランドピアノまで買ったからまことに狭隘である。しばらくすると家主が出てくれと言ってきた。会社も50才になると家賃補助が減るぞと通告してきた。暗に買えという。身の丈だった7~8千万の家を見て回ったが海外の社長公邸に住んだ者にはとうてい無理。悩ましかった。

いいと思ったのが思い出の地の駒場だった。しかし土地だけで1億越え。とても手が出ない。こんなに苦労してきて俺の価値はそんなもんか。悔しくて歯ぎしりした。これは会社を移る大きな後押しになり、仕事より家族を優先させた人生初の出来事でもあった。新しい会社でローンの上限が増え、代沢に100坪ぐらいの庭付きの借家が見つかった。車もジャガー。おおいに出世した気分である。

そこには満足して5年住み、満を持して建てたのが今の家だ。いまなら気絶しそうな額を銀行が貸してくれる。懸命に仕事して俺の価値はあがっていた。邸宅やら高級車やら、そういうものは実は元からあんまり興味ない。海外でさんざん苦労をかけた罪滅ぼしに家内にいい思いさせようと思っただけだ。5人いて猫もいまや5匹、この家はコロナで長いこと閉じこもっていて不都合なかった。

自分はいまもってティッシュ1枚がもったいないと思うしカルピスを飲んでコップに白いのが残るとまた水を入れて飲むし、買ってもらった新しいスニーカーを汚すのが嫌でなかなか履けない。外へ出ても、まあラーメン代の千円もあれば充分な男だ。社長と呼ばれるのも身にそぐわないし、東さんが身の丈にちょうどいいし、クラス会で女性軍の東クンには清々しい感動すら覚えたものだ。

よく考えると、同じ家に14年なんて初めてなのだ。海外ドサ周りで1,2年でころころ引っ越ししてた。大変だったが楽しみでもあった。時々夢に出る。外国の知らない街に赴任になって住み家を探してる。高台の豪邸を見つけてこれなら家内も満足してくれるだろうと目が覚める。畢竟、それが生き甲斐なんだろう。14年もしないと物足りない。そういう断捨離願望なのかもしれない。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

どうして証券会社に入ったの?(その11)

2023 MAY 5 7:07:11 am by 東 賢太郎

野村證券梅田支店に勤務していたある日のこと、突然かかってきた人事部の電話で米国留学の社命が下った。何の予兆もなく、不意のことであり、ただただびっくりして課長に小声で報告する。しばらくすると、隣の席の先輩が「俺のこと覚えといてくれよな」などと課の中でお祝いの声がかかるようになり、しだいに支店全体がざわざわとしだした。ところが僕はというと、もちろん嬉しくはあったが、「これは参ったな」と真っ青になっていたのである。留学の心配ではない。担当していたWさんの保有株がみんな下がっていて、お預かりしている資産に絶望的に大きな損が出ていたからだ。

Wさんとの出会いは劇的だった。転勤が決まった同じ課の先輩が「これお前にやるよ」と置き土産にくれた高額納税者の電話リスト。当時はそんなものがあったのだ。「毎日上から順番に電話するんだぞ」といわれ、まだ入社2年目で成績もぱっとしなかった僕は愚直にそうした。といっても1位は天下の T 薬品の会長さんだから本人が出るはずもなく、お手伝いさんにあしらわれて終わりなのである。電話営業はセンミツといわれ、千回かけて三回ぐらいしかうまくいかない。だから、ダイヤルを回しながら2番目のWさんと話せるなんてことはハナから期待してないのにそれをやってる自分が空しくなってきた頃だった。何度かけても体よく断られたその番号にかけると、相手の声色が違った。ご本人だった。「あんたツイてるわね。今日はお手伝いさんが風邪ひいて2人ともいないのよ」。気が動転して言葉が出ない。すると名前も言ってないのにこういう一言があった。「生年月日を言いなさい」。訳も分からず答えると、小さな声で「あらウチの息子と一緒だわ・・・」の独り言がきこえた。しばし沈黙があった。「あしたの2時にあんたのいる富国生命ビルの地下3階に来なさい」「はっ?」何が起きたのか、わけがわからない。「アルボラダって喫茶店があるでしょ、知ってるわね?」。知らなかったが、「はい知ってます!」と元気に答えると、もう電話は切れていた。

翌日は早朝から緊張でカチカチだった。もうすぐ2時になる。死刑執行の時間を待ってる囚人みたいな気分だ。キツネにつままれた気分はぬけてなかったが、きっと嘘ではないだろうと信じて階段を地下まで下り、恐る恐る喫茶アルボラダに入る。待ち構えていたのは妙齢で白髪のご婦人だ。オーナーのようだった。僕に一瞥をくれ、近づいてきて、「きのうのあんただね」と二言三言をかわしたことしか覚えていない。すると「一緒に来なさい」と目も合わせずに店をすたすた出ていく。どこに連れていかれるかと思いきや、わが支店の隣りに店を構えるY証券梅田支店の店頭である。驚いた。支店長とおぼしき人が平身低頭ですっ飛んでくる。「株券をぜんぶここに並べなさい」。彼にとっては悪夢だったろう。問答無用の命令にフロアが騒然となり、女子社員が総出でWさんの大量の株券を銘柄ごとにカウンターの上に並べた。隆々とそびえる山脈みたいだった。「あんた何やってんの、早く数えなさい」「はっ?」「これあんたに預けるのよ、早く持っていきなさい」。ライバル同士の証券会社の店頭でこんな受け渡しが行われたのは古今東西たぶん初めてだろう。僕は株券など触ったこともない。「ちょっとお待ちください」と外に出て野村に駆けこみ、助けを求めた。お前だいじょうぶか?そんな馬鹿なことあるわけないだろ?と、今度は野村側が騒然となった。総務課長がY証券と話し、どうやら本当だとなる。すると今度は我が社の女子社員5,6名ぐらいが駆り出され、鮮やかなグリーンの制服がカウンターにずらっと並んで株券を数え、1時間ぐらいして男の作業部隊がやってきてまるで引っ越し荷物みたいに隣へ運びこんだ。何だろう、これは夢かと、僕は茫然とその光景を眺めるだけだった。

株券は時価で5億円ぐらいあった。株式の新規顧客による入金は2,3百万円でも拍手された時代である。その金額は野村といえども大ニュースであり、全店に拡散されて営業の尻たたきに使われた。Wさんのおかげで僕は成績も評価も上がり、地獄みたいだった日々がちょっとは楽になった気がした。しかし甘ちゃんで相場の恐ろしさなど知らなかったし、会社の推奨銘柄をただ買えば儲かると思っていたのだからとんでもない大間違いを犯していたのだ。

5億円は半分ぐらいに減っていた。どこか遠くに逃げたかった。「すみません、僕、アメリカに留学することになりました」。この電話をするのがどれだけ怖かったか。Wさんはそれを聞くなり「あんた、なに言ってんのよ」と、当然のことだが猛烈な怒りをぶつけられた。受話器の向こうで息が荒く、興奮のあまり言葉が出ないようであり、しばし無言のままおられ、何か言いかけたがやめて、そのまま電話を切られてしまった。目の前が真っ暗になった。焦って何度もかけ直したが出られない。「何してんだ、こういう時はまず顔を出すんだ、ぐずぐずしてないですぐ芦屋に行ってこい!」。先輩の一喝で店を飛び出し、息を切らして坂を駆け登り、祈るような気持ちでお宅の呼び鈴を押した。何度も押した。だめだった。途方に暮れ、あたりを茫然と歩きまわっているうちに暗くなっていた。お宅に戻ってまた鳴らした。何もおきなかった。ショックで記憶が飛んでいるのか心神耗弱だったのか、最後の方はよく覚えてないが、電車がもうなくなっていて、タクシーで独身寮まで帰ったように思う。

翌朝、眠れなかったので真っ暗なうちにひとり出社し、ぽつんと席に座ってどうしようか思案に暮れていた。きのうお会いできなかった顛末を課長に伝えたら激怒されるだろう。Wさんは店の大事な大手顧客だ。お前の資産管理が甘いんだ馬鹿野郎、責任問題だ、留学なんかふざけんな取り消しだ。きっとそうなるんだろう。先輩たちが続々出社してくるが、僕の状況を察してか誰も声をかけてこない。やがて開店時刻となり、ガラガラと大きな音をたてて僕の席の背後のシャッターが開きだした。営業1課だから座席は端っこで、お客様の通用口のそばだったのだ。後ろから急に声がして心臓が止まるほどびっくりしたのはその時だ。「あんた、ちょっと来なさい」。振り返ると、そこにWさんがひとり立っておられたのである。支店長にクレームをしに来たのだろう。もうだめだ。ぶるぶると足が震えていた。

Wさんは、奥のほうにある商談用のブース(小部屋)につかつかと歩いていき、自ら入ると僕を反対側のソファに座らせてドアを閉めた。無言だった。席につかれると、ハンドバッグをあけている。茶封筒がでてきた。何が起きているのかわからずあっけに取られていると、Wさんはそれを僕に差し出して、ひとこと、「留学おめでとう」と言われたのだ。封筒は金一封だった。驚いて声も出ない僕の目をじっと見て、「いいね、あんたは野村の原君になるんだよ」。それだけ言い残して静かに去っていかれた。事態に茫然としてブースに残された僕はぼろぼろと大泣きし、出るに出られず、東はどこへ行ったと先輩方に探し出されるまでずっとそこにいた。原君とは、その年に新人で大活躍していた巨人軍の原辰徳選手のことである。

このことについて、僕はこれ以上の多くを語りたくない。梅田支店で数々の物語に出会っているが、これはそんなものでない、人生における最大級の事件であり、いまもってこれを書きながら涙が止まらないのである。これまで多くの知己に言葉で語ってもきたが、かならず、ブースの場面にくると感極まって声を詰まらせてしまう。そこまでのものを残したWさんとのご縁とは、なにか超自然的なものが理由あって結んでくれたとしか考えられない。これがなければその後の僕はないし、そもそも厳しい証券界で生きていけもしなかったろう。Wさんにいただいた言葉は、人間の尊厳、気高さ、優しさとはこういうものだよ、そういう人になりなさいといつも僕を暖かく包んでくれる。証券会社に入ることに大反対でしばらく口をきいてくれなかった父は、去年のちょうど今日、5月5日の今頃の時刻に病院で他界した。会いたがっていた祖父母と母と天界で楽しくやっているだろう。唯一の心残りはWさんのことが報告できていなかったことだったが、いまやっとそれを終えることができて、ちょっとほっとしている。

どうして証券会社に入ったの?(その1)

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

クライン孝子さんの訃報を知って

2023 APR 29 15:15:40 pm by 東 賢太郎

クライン孝子さんにお会いしたのはフランクフルトにいた1993年のことだ。3回ほど夕食をご一緒した。こちらは70名のノムラ・ドイツ現法のトップに昇格したばかりの弱冠38才。(若さ✖地位) の値でいうなら人生最高のトップギアに入っていた。当時のドイツというとベルリンの壁崩壊そして東西統一という未曽有の事態のごたごたで国情は騒然、そこで経営の責任を負ったのだから未知の危険でいっぱいだった。しかし若さに勝るものはない。これって百年後の世界史の教科書に太字で載ること確実だなと意気揚々、経営もビジネスの怖さも何もわかっていない初心者マークのドライバーにすぎなかった。

どういう経緯でそうなったか記憶にない。とにかく孝子さんのお名前も著書も知らずに会食という段取りになった。仕事に直接の関係はない。ドイツの日本人社会で著名人であり、見聞を広めろという意味で誰かがセットしてくれたのだろう。実は気が重かった。僕は知識人の年上女性と聞いただけで苦手意識がある。何といってもドイツだ。気難しい方でドイツ語もできないでよくやってるわねなんて感じだったら早々に退散しようと身構えていた。ところが、あにはからんや、実に明るくやさしく気さくな方だったのである。聡明な知識人ということはすぐ分かったが、キンキンして冷たいインテリではなく人間味にあふれている。こういう人は男女を問わず奥が深いことは必定の理である。すぐに魅かれてしまい、きわめて初歩的な質問をしてもなんでも答えて下さり、しかも物言いがストレートなのでわかりやすいときている。ドイツ語漬けの日々で悶々としていた僕にとって後光がさして見えたものだ。

2度目の会食は自分からお願いしたと思う。仕事に慣れてもきており、だんだん舌も滑らかになり、「日本人とドイツ人」「日独の戦後復興政策の巧拙」「アメリカと欧州の背後にある権力構造」「日本国憲法」などについて議論させていただいた記憶がある。そこで教えてもらった話の数々は忘れたくとも忘れようがない衝撃的なものだ。昨今の日本メディアや言論界の、チャラくてうわべだけで反吐が出る人工甘味料みたいなものではない。口ばかりの人とは根っこから人品骨柄が違うからだ。自分で見ないと気がすまないとおっしゃるのはご性格なのだ。地に足のついたジャーナリストという生き方には共感があり、自分もこんな仕事があり得たかもという気持すら懐いた。だから孝子さんは当然のこととして「また聞き」の話はされない。「欧州ペンクラブってのがあるの。50人ぐらいで全員男性、全員ユダヤ系なのよ、すごいでしょ。主人がメンバーでね、必ずついていくのね、するとだんだん私も仲間に入れてもらっちゃってね、だからいま唯一の女性会員なのよ。で、女だから皆さん警戒しないでしょ、いろいろ深いこと教えてくれちゃうのよ」とお茶目に笑われ、「ローマクラブがあってね、ヨーロッパの大事なことは実はみんなそこで決まってる。ドイツの処分もイスラエルの建国もそこで決まったのよ、だからドイツは許されてるの」なんてことが次々に出てくる。それにひきかえニッポンは、という主題の数々のご著書、言論はそれが通奏低音となっているのだ。

生々しい話の一部はここに書いた。僕が世界情勢を見るうえで今でも考え方の骨格になっているし、この4年後に僕も自分の足でダボス会議に参加してみて、ジャーナリスト的な意味でも追認している。

私見”ディープステート”の正体

いま振り返ると実に感慨深い。ひとことで丸めれば、ドイツの政治はプライドの捨て方まで戦略的でしたたか。役者もしたたか。かたや日本は策すらなく役者もおぼこくて下手くそ。ワールドクラスの上級者の域に達した政治家は安倍晋三だけだったというのが確固たる事実だ。その証拠にだからこそ狙われたのであり、岸田首相は鉄のパンツの女みたいに永遠不滅かつ盤石の安心安全であり、だからこその国難であることを知識人はみな知っているにもかかわらず誰も何も言わず何もおきないという重層的な国難に日本国は陥っているのである。誰が救えるんだろうという問いの前に誰がなっても何もおきないという悲しい確信しか浮かんでこない。この悲哀は救い難く、僕はもはや政治を論じる気にさえならない。有権者の10%の得票で当選するなんて選挙は「鰯の頭も信心から」の詐欺師の宗教みたいなものであり、クルマに喩えるなら、我が国で大事にしてる民主主義などパンクを通り越してもはや大破し、廃車寸前であるとしか言いようもない。こんなくだらないものの滑った転んだをああだこうだ放映して飯を食ってる草野球の実況中継みたいな輩が業界と化して膨大に生息しているのは異形ですらある。いっそ、超一流の男であり外国人がひれ伏して黙る天下の大谷翔平さんが引退したら総理をお願いしたらいい。よほどシンプルに低コストで国民的信心が得られるのではないか。

そして3度目の、孝子さんとの最後の会食でのことを以下に書く。ありがたかったなと思うのは民間人だったことだ。あれから時がたってもうドイツの経営は手の内に入っており、特段の事情もなかった。もろもろ諸事のお話がしたかったので会食をお願いしたが、野村證券の株主も上司もそんな会食は趣味か遊びだろうなんてことは言わない。官僚は接待じゃないのかと痛くもない腹を探れられる。政治家も自腹ですなんて気を遣う。この自由度こそ民間の経営ポストの特権であろう。古来より人間、深い話を腹を割ってするのにそうした気のおけない会食の場は不可欠なのだ。証券業という仕事のおかげでものすごく若い頃からこういう場で人生の達人たちから本音の話を伺い、僕がどれほど人間として成長させていただいたかわからない。

この日、お酒もたっぷり入った僕は日本の国家プランにつき自説をぶった。とにかく気持ちよくしゃべらせてくれる。そうなると2時間でも3時間でもしゃべる。アメリカの留学体験、ロンドンでの勤務体験からこのままじゃ日本は駄目だ潰されるとああだこうだを延々と説き、酔っぱらいがくだを巻いたみたいだったろう。海外から長年日本を眺めるに、とてつもなくだらしない、主権国家とは言い難い、サンフランシスコ条約調印はなんだったのかみたいなことになる。だから教育、徳育はこうやれ、政治家かくあるべしから当然軍備の話もしたはずだ。青くさい書生論だったに相違ないが、本音をぶつけてみたかった。

孝子さんがそれになんとおっしゃったかは覚えがない。あまり反論も論評もなかったかもしれない。とにかく飽かずにじっくり目を見て真顔で聞いて下さった。普通の女性ならあくびの十回もするところだ。なんて素晴らしい。うんうん、そうだねみたいな感じが端々にあり、人生でこんなにウマが合う人に会ったのは初めてだという手ごたえだけが強く残った。そうしたら帰り際に、ひとこと、こう言われた。

「東さん、ワタシと共著で本を書かない?」

何ということだったろう。人生最大の悔いの一つはこれをお受けする勇気がなかったことだ。悲しいほど気が小さい。何度も拙稿に書いてきたが、サラリーマンになるなんてのは僕にとっては人生最低の消去法的選択だ、他に能がないからこんなものをやってると思っていた。それがちょっと良いポストを与えられると地位にしがみついてる自分がいたわけだ。妻帯者は留学させない決まりだった。選ばれてから結婚しますと言い出して人事部にルールを変えさせた攻めの自分はもういなかった。それどころかこんな奴がいるから日本は駄目だとさっき力説していた、お前がそれではないか。でも、もうできない。あの頃のキレはもう僕にはない。ブログを書きだしたのはいいジジイである57才だ。絶頂期の38才で何をぶち上げて孝子さんがそう思ってくれたのかは闇の中だ。それだけでも残したかったと切に思う。

海外から日本を見ていると右に寄る。そこが共通だったのだろうが、西部邁さんに近いというのもそうだ。歯がゆい日本かくあるべし。最高のインテリジェンスをもってしてもこの国は変わらん、もうあかん。そう思われたのだろうか。右翼でも何でもない。野球場で起立して「星条旗」を歌うアメリカ人と同じ、当たり前の愛国者ではないか。もういちど、孝子さんとは議論したかった。属国の日本。当時の何倍も、否、それを旗幟鮮明にしてしまうことにさえ恥も外聞も感じないのに一流国だといえてしまう意味不明の精神構造になり果てた今の日本を。かつては経済一流政治三流だったが経済も三流に向けて地盤沈下する我が国を。

いつかどこかでお会いできるだろうと甘く考えているうちに30年もたってしまった。僕は何をしてたんだろう。そしてきのう、この水島総氏のyoutubeチャンネルで悲しい知らせを知った。2週間ほど前に来日されてこんなにお元気だったのに・・・。

クライン孝子さん、多くの時間を下さって、たくさんのことを教えて下さって、感謝に堪えません。ほんとうにありがとうございます。教えは今も僕の中で脈々と生きていて、血肉となっています。心よりご冥福をお祈りします。

 

(追記)

さっき台所に行ったら本稿を見た家内が「クラインさん亡くなったのね、ドイツの家に彼女から電話があったのよ、お宅のご主人、選挙に立候補しないかしらって」と教えてくれた。知らなかった。そういう人生があっても面白かったかな。

 

日本という国に本気で自信がなくなってきた

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

モリソン教授講演会と成城学園

2023 MAR 28 19:19:39 pm by 東 賢太郎

ここに来たのは恐らく56年ぶりだ。母校、成城学園の正門である。

それにしても変わってないなあ・・・幼稚園から小学校卒業までの7年間、ここを毎日毎日、雨の日も雪の日もてくてく歩いていたのだが、半世紀前の光景そっくりそのままだったのには大いに驚いた。夢で見たデジャヴというものはよくあるが、これは現実のそれなのだ。いや、これって、現実というか、前世のデジャヴだよと神様に言われればなるほどねと納得しかねない完成度にある。毎日現れるお月様が、56年前に見たのと同じものだろうかという感慨に似たものかもしれない。

今年に入って僕の周囲はいろいろ新しい波が起きつつあるが、これもその一つだろうか、東京芸大の音楽学博士、菊間史織様からプリンストン大学のサイモン・モリソン教授がご自身の講演において僕のブログを引用したいので許可が欲しい旨のご依頼があった。同講演は日本音楽学会の後援とのこと、同学会は音楽学関係では国内最大規模を誇り、日本学術会議にも登録された純粋にアカデミックな場であることから素人のブログ引用は不適ではないかと僕も一考し、また菊間様側でも教授にその指摘はされたようだが、「先生は論の流れでどうしても引用なさりたかったようで、それで東さんにご連絡させていただきました」とのことであり、承諾することとした。

教授のことは寡聞にして存じ上げなかったが、プロコフィエフ研究の世界的権威であるとお見受けした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3

僕の側ではというと、まず講演の場所が成城大学というのが大いに目を引いた。これが奇縁でなくて何だろう。こういうことでもなければもう二度と行かないのではという考えが頭を巡り、お招きを有難く受け、聴講もさせていただくことにあいなった。

成城学園前の駅についた。出てすぐ、自然に右の小路に足が向いたのは目当てのあの店があったからだ。2, 30m先の右側にひっそりと開いていた小さいレコード屋で、ベンチャーズのウォーク・ドント・ラン’64やペダルプッシャーがはいったEP盤を買ったのは10才の時だったか。もう店は跡形もないが、あの天にも昇るような嬉しさは鮮烈に残っている。このレコード、かけてみると全くの期待外れで大枚500円も払ったのがいまも悔しい。でも買うと決めるまでの「きっといいに違いない、それを味わえばどんなに幸せになれるだろうか」という一種無謀なワクワクたるや何物にも代えがたいものだったのだ。あの日を手始めに僕は世界中でクラシックのレコードやCDを1万枚も買い集めて家には専用の収納室まで作る羽目になり、いまだって、何事に対しても、仕事にだって、日々そういう期待に揺り動かされて生きてるではないか。

時間があるので、池の方へ下っていく坂へ向かって歩いた。昔はここは玉砂利だった気がするが舗装されている。かように構造物や建物こそ様子が違っているが、地形だけは何も変わっておらず、何となく覚えている坂の勾配の塩梅までそのまんまだ。そう、この池だ。こんなきれいでなく周囲は草ぼうぼうの湿地だったが、帰り道に先生の目を盗んで決まってここに寄り道し、泥だらけになりながらマッカ(アメリカザリガニのこと)を釣った。スルメでひっかけるのだが僕は腕前が良かった。バケツで3,4匹家に持ちかえって、エビみたいなもんだから母が喜ぶと思ったわけだが、これは食べられないのよと捨てられてがっくりだった。しばらく佇んでいると、帽子に半ズボンの悪ガキたちが奇声をあげながら足元を駆け抜けていく幻影を見た気がした。

テニスコートを超えて川沿いに初等科の方へゆっくり歩いていると、なんとなく背中が重い感じがしてきた。何だろう?しばらくはわからない。だんだん小学校へ渡る小橋が近づいてくる。そこで電光石火のひらめきがあった。そうだ、これはランドセルだ!そう、ここを歩いてたんだ、重たいランドセルを背負って。そういうものをしょっていたことすらまったく忘れていたが、それがやけにでっかくて真っ黒に光っていて皮の匂いがして、あけると教科書がどっさりおさまっていたぞというビジョンがくっきり浮かんでくる。肩掛けがずっしりと食いこんできたことを体が思い出していたのである。

なにやらキツネにつままれたようになっていた。1時半からまず澤柳記念講堂でプロコフィエフが日本で弾いた曲等のミニ・コンサートがあり、ソナタ第10番(断片)を初めてきいた。浜野与志男の演奏は含蓄に富んでおり、スクリャービンの投影、「束の間の幻影」のロシア的でない響きの洗練(ドビッシーの前奏曲を思わせる)の発見をもたらしてくれたことは特記したい。講堂は当時はたしか「母の館(かん)」と呼んでおり、色々行事があったし、嫌々やらされていたカブ・スカウトの点呼もたしかこの中庭あたりでやっていた。コンサートが終わるといよいよモリソン教授の講演だ。参加者は大学の大教室に移動し、オンライン参加もあった。教授が引用された我がブログはこれである。

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26

2017年の8月に書いたもので、どういう動機で書いたかは覚えがない。母が亡くなったすぐ後であり、能を見た影響があったかもしれない。というのも「土蜘蛛」に言及しており、理論的なものはまったくふれておらず印象記だけになっていることが曲名タイトルにした稿では異例だからだ。

たぶん今なら僕はプロコフィエフは越後獅子をモデルにしたのではなく、エキゾチックにきこえた日本の陰旋法(都節)の音階から和声、旋律を再構築したと書くだろう。ブログは自分の思考史として残したく、時がたってからは手を入れないことにしているので以下本稿に付記しておく。

この音階は琴の調弦であり、作曲家が初めて見る楽器のチューニングに興味を持つのは誠に自然だと考える。

彼は日本に約2か月滞在した後、船でアメリカへ渡ったが、その地では成功できずパリへ行った。以前にディアギレフに『アラとロリー』をロシア風でないとケチをつけられた経緯があり、ロシア民謡さえ引用しない作風だからどんな語法をパリで確立するかには迷いがあった。ピアノ協奏曲第3番をブルターニュで、新妻リーナとのひと夏の滞在中に仕上げたのはそういう状況下であり、ドビッシーが交響詩「海」で東洋の音階を素材に、聴衆にそうと知られないように独自の語法を生んだことをモデルにしたのではないか。ドビッシーはペレアスの成功を断ち切ろうと新しい語法を模索する必要があり、プロコフィエフも、ロシア風で旋風を巻き起こしたストラヴィンスキーの二番煎じにならず、交響曲第2番のように前衛の角が立ちすぎても受けが悪いパリで成功しなくてはいけないという切羽詰まった共通点があったのである。ドビッシーは「海」をジャージー島、ディエップでエンマ・バルダックとの不倫旅行中に書いたが、どちらも英国海峡の海風の中で愛する女性と過ごしながら書かれた曲であることはとても興味深い。交響詩「海」における先人の非西洋的音階による語法構築はプロコフィエフが得意とする抽象的、概念的思考法(例えば20世紀の語法でハイドン風交響曲を書く)に難なくフィットしただろう。

ドビッシーの「海」は雅楽である

3番は第1,3楽章の全音階的主題に白鍵を、第2楽章の半音階的主題に黒鍵を多用してコントラストとしているが、ドビッシー「海」も同様に主題は第1,3楽章が全音階的、第2楽章は半音階的(かつ旋法的)だ。彼が「海」を模倣したと主張するわけではないが、抽象的、概念的思考法として方法論を試行した可能性を指摘したい。

例として3番の第2楽章第4変奏の伴奏和声をご覧いただきたい。

h-c-e-fis-(g)-hであり陰旋法(都節)である。京都のお茶屋遊びでなじんだ陰旋法の影響は第1,3楽章の白鍵旋律にも認められるが、第2楽章の黒鍵部分にもある。越後獅子のメモリーが混入したという単純なものではなく、プロコフィエフはその種の評価を許容する人でもなく、あたかもドビッシーがガムランや雅楽の影響を一聴してもそれと知れぬほどに抽象化し、発酵させ、消化して自己の語法にせしめた領域に至らんとする試みの一環であったのではなかいかと思料する。

以下、講演のテキストにあるモリソン教授が引用された僕のブログ部分である。

印象記的部分ばかりであり、こうして立派な英文に翻訳されると些か面はゆいものではあるが、本稿はそういうことをあまり書かない僕としてはレア物としての愛着を感じるもののひとつだったことは事実だ。よくぞ引用して下さったと膝を打つと同時に、その背景にはモリソン教授の我が国文化への深い造詣と素晴らしく柔軟で視野の広い精神があることを講演から感じた。本文に書いたように、越後獅子説はその正誤の検証以前に西欧では全く無視されており、wikipediaでも日本語版を除いて言及した言語はひとつもない。文献なきところ真実なしという姿勢からはそれが妥当ではあるが、クリエーターが自作につき常に真実を語るわけではない。妥当性に執着すれば証明しようがないゆえに証明されないだけであり、それが真実だというならば真実の定義は変更すべきであろう。

3番という楽曲はプロコフィエフの作品としてはentertainingな部類に属する音響によって構築されていると考えるが、その由来の一部は訪日前に萌芽のあった全音階的な白鍵による旋律の平明さ、一部が「(何らかの)日本による影響」であるという私見は凡そ教授の論考に合致している(その範疇である)と拝察させていただいた。ただ、後者を「象徴主義詩人コンスタンチン・バリモントが阿倍仲麻呂の和歌から日本的要素を取り去って宇宙的、普遍的な詩に再構築したのと同じことをプロコフィエフは音楽でした」として展開される「垂直的な詩」の概念、および、第3楽章セクションCの嬰ハ長調からホ長調への移行の分析は愚考の及ぶところではなく、非常にinspiringであった。このことで、この日の第1部で『束の間の幻影』(同曲タイトルはバリモントの詩行に由来)が演奏された意味が明かされ、プロコフィエフが3番をバリモントに捧げた意図が整合的に解明されるのである。これを知ったことで彼の楽曲への理解が深まったことを感謝申し上げたい。

この日、残念だったのは夕刻で門が閉まっていて初等科と幼稚園の敷地に入れなかったことだ。この地で勉強した覚えは実のところあまりないが、ありとあらゆる遊びの英知がここにはぎっしりある。だから僕は遊びの精神の延長でその後のすべてを乗り越えてこられたのである。それを涵養し伸ばしてくれるおそらく日本広しと言えども成城学園にしかない環境、そうであってこそ育まれるであろう真の意味での「自由な精神」という、僕を東賢太郎として成り立たせているもののルーツがまさしくここにあったことをこの日の散策で強く感じた。56年は束の間であったが、素晴らしい学校に入れてくれた両親に感謝あるのみだ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ゾロ目の8888888(ブログをやめない理由)

2023 MAR 2 1:01:14 am by 東 賢太郎

2022年3月7日に「7,777,777」になった(寝過ごしたが)。

ゾロ目への愛着を哲学する

すると2023年2月28日午前9時40分、これがやってきて、もう二度とないぞと今度は逃さず撮影した。数字はすぐ変わってしまうので一瞬だったが。

359日で1,111,111増えたので一日の平均閲覧数は 3,095 だ。去年は5月に父が逝去して喪に服し、ブログ執筆本数は5月はゼロ、6月は1本だったからちょっとした意外感はある。

数字のことを書くのはゾロ目が好きという理由だけではない。小難しいことばかり並べたブログに何のデマンドがあるのだろうと不思議だからだ。その時々の自己都合だけの関心と思考の備忘録にすぎず、有益な情報もないし時流にも世論にも何の関係もないし、なにより僕自身は他人のそうしたものを一切読まない。なぜ東京文化会館大ホール+紀尾井ホールが毎日満員になる訪問数になるかという点は理解が及ばない。

こういうことを仕事をしながらするのは習性で、長らく勉強+野球・音楽という学生時代を送ってもきた。だからどれも一流にならないが、トータルな調和が心地良いのでそのどれもが僕なりのベストコンディションになる。つまり勉強だけしても僕は成績が上がらないし、ブログを書いていると仕事にも良い波長が出るし、仕事が良い時はブログもたくさん書ける。そうした複眼性がホメオスタシス(恒常性)になってるのでどれかを止めると他も劣化するかもしれず、なかなかやめられないのだ。つまり仕事円滑のためのサイドディッシュを皆様に読んでいただいていることになる。来年にPV1000万回にはなるだろうから個人ブログの数字的にはもう十分だがそういうものをめざす気はなく、仕事を辞めたらブログも書かなくなるだろう。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

東大の秘密(法文1号館爆破事件)

2023 FEB 24 7:07:02 am by 東 賢太郎

当時のことをなんとなく思い出していて、そういえば “それ” がいつだったか覚えてないことがもどかしくなった。授業中に教室の後方で強烈な爆発音が轟き、窓が割れて床が揺れ、ふりむくと白煙があがっていたことだけが脳裏にあるその事件のことだ。

これを見つけてやっとわかった。1977年5月2日午後2時10分頃のことだった。

東大法文1号館爆破事件 – Wikipedia

法文1号館25番教室での授業中の出来事だった。安田講堂の真ん前にあるのが法文1号館であり、その2階にザ・法学部である25番教室はある。学部生の630人と留年生(たくさんいる)を収容できる大教室で、入試の二次試験はここで受けており、3年次の授業はみなここだから忘れ得ぬ場所だ。ちなみに受験シーズンのテレビニュースで全国でおなじみの映像もここである。

あの日、僕は満員の教室の前から2,3列目に座っていたように思う。教授の声はかすれ気味で小さく、聞こえないイメージがあったからだ。ドーンときた刹那は何がおきたかわからず、とっさに、工事でもやっていて何かの事故かなと思った。教授はと見れば、爆発音のあった教室の後部に目を据えたまま卒然として教壇に立ちすくんでおられ、講義はもちろん中断。しばらくすると次第に事態がつかめてきてあれは爆弾じゃないかと周囲がやおらざわめきだした。そこから何がどうしたか記憶にないが、全員が動けず5分ぐらいたっただろうか。そのときだ。教授の「えー、煙もおさまったようなので授業をはじめます」の淡々とした鶴の一声が響き渡りみな仰天だ。教務課の人がすっ飛んできて「先生、中止してください!」とさけび、にわかに後方の出口から全員退避とあいなったのである。この時は動転していてわからなかったが、爆発は3階(26番教室前)だったらしく、この教室の怪我人はなかったように見受けた。大惨事もあり得て命拾いしたわけだが、そこからというもの、爆弾の恐怖よりも「さすがに東大法学部の教授はすごいね」の話題でもちきりだ。5月2日というと3年生になって駒場(教養学部)から本郷に来たばかりであり、何もかもが新鮮だったのだ。物まねの天才I君による鶴の一声の再現はしばし仲間うちの酒の肴にもなった。

だんだんわかってきたが、さように法学部というところは独特の空気に満ちた一個の小宇宙であった。東京大学には明治時代からの学部の並び順が存在する。「法医工文理農経養育薬」がそれで、根拠は寡聞にして知らなかったがここに書いてあるのをみつけ、長年の疑問が氷解した。

https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/606/open/606-04-1.html

この表紙に東大の秘密がある

教授会の席順など公式行事はすべからくこの順番に準拠しており、東大生は、入学から卒業まで、とくに意識することもなく、「法医工文理…」に則っているのであるという「教養学部報」の記述はまったくその通りであり、当時からそうだったが今でもそうなんだと些かの感嘆すら禁じ得ない。「学部生であれば、実は要所要所で、すでにこの並び順を目の当たりにしている」(同報)からそうなのであり、この事実を学外で知る人はほとんどいないだろうから東大の秘密といって大袈裟でもなかろう。誤解していただきたくないが、これは単なる仕来りに過ぎずこの順番で偉いというカースト制が存在するわけではないし、僕らにとって看過できない入試の難易度というものにおいては理Ⅲ(医学部に行ける教養学部の類)に一目置いていたのも事実だ。ただ、他学部とは別の小宇宙の住人である我々法学部生は学内でも絶対普遍のプライドがあって、外部では十把一絡げに「東大生」などと呼ばれるが、そういうものは「だから何だ」という程度にしか思ってなかったことは認めざるを得ない。

今もそうだろうか、法文1号館の古色蒼然として、夏でもひんやりした石の階段と廊下にたちこめる空気は小宇宙の入り口だ。湿り気のあるちょっと辛気くさいあの匂いというものは、チャイコフスキーに自死を宣告したサンクトペテルブルク大学法科メンバーによる「名誉裁判所」があったというなら、確かに同じ法科にそういうものが存在しても何ら不思議でないと思わせる感じのものである。それが何かと聞かれても、そういう匂いを嗅いだことのある人しかわからない性質のものとしか表現のしようがない。徹底した個人主義で生きてきた僕ではあるが、それでも卒業生として絶対に汚してはならないものの存在は今でも背中で感じている。

犯人は反日思想の新左翼活動家でその見えない何ものかを爆破したかったのかもしれないが、日本国の歴史と共にあるものだ、そう簡単に崩せるものではない。

 

 

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

68才の誕生日に思ったこと

2023 FEB 5 2:02:01 am by 東 賢太郎

68になった。まず毛筆を習って上達した家内が書を、そして息子が小田急線の昔の写真集をプレゼントしてくれた。ありがたい。家内安全がなにより。それ以上に望むことはない。家族を守るために仕事をする意識は特にはないが、僕が自分を満足させるためにやっていれば自動的にそうなることは間違いない。

自分を満足させるというのは簡単ではない。興味ないことは一切やらないから、興味のある我が仕事は仕事でなく趣味である。40年やったこれで本気になれば負けるということはない。その気になるかどうかだけであり、それには満足して元気に生きていることが必要だ。その原動力は好奇心である。

「自分を突き動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね」

石原慎太郎はこう言ったが、僕は、

「好奇心とは、結局、自分に対する好奇心でしかない」

と思って今日まで突き動かされてきた。同じことかどうかは知らないが、多分違うだろう。

ブログを読み返すと昔のことばかり。これが自分らしい姿だと思う。高校時代から俺は何ができるのかと悩み、もがき、満足せず、やっては道端に捨ててきた。振り返るとその遠景が見える。もう関係ない残骸ではあるが思い入れはある。それを見て次は何かと思いをはせる。これを半世紀ずっとやっている。

生きることは何らかの夢をめざすことでなく、降りかかる難題を懸命にさばくだけで精一杯だった。そうしないと一人前でなく、生み育ててくれた両親に恩返しできないと思ってきたからだ。そしてそれは去年の5月に、すべて終わった。

ということはもう振り返る必要もない。勤めは果たしたからそれに悩む必要もない。ひとつだけ満足なのは、こうして見るに、難題をさばくことに懸命だったという一点において自分は絶対に逃げずにぶれのない人生を送ってきたことだ。

年末にパニック障害になった。こんなものを背負って生きていくのも嫌だなと思っていたら、神山先生の薬であっさり治ってしまった。なぜかいつもこうして運が救ってくれる。効いたのは薬なのだが、先生の所へ行こうとなった経緯は運でしかない。

あとどれだけ体が元気かわからないが、名実ともに余生に過ぎない。僕は他人にどう見られるかは全然興味ない。だから権力も権威も名誉もいらない。そういうものはすべからく他人の目を気にする人々の必須アイテムだが、死ぬときは誰も一人だ。道端に捨てるしかない。捨てるものを求めるための人生は空しい。

捨ててきたものはもう戻らない。つまり過去は虚無だ。未来は知り得ないからこれも虚無だ。ということは現在しかない。いま楽しい、嬉しい、おいしい、きれいだ、そういうものだけでいい。誠に自分勝手の現世礼賛、ぱっぱらぱーに聞こえるが、誰にとっても実は人生はそういうものではないだろうか。

なぜなら、覚えてるのはその当時にあった「現在」だけだ。その時に思い出していた過去や、夢見ていた未来は記憶にない。残るのはそれが「現実」となった時だけだ。最後にそれがたくさんあれば幸せな人生だったとなる。だから、そういうものをいかにたくさん味わえるかだけを考えて生きればいいのではないか。

動物はまさにそうだ。明日や昨日はない。だから虚無に惑わされたり怯えたりということはない。あるのは今、それも食うことと生殖だけだ。動物並みが良いというのではない。しかし、過去や未来にこだわるのはいいがそうこうしているうちに現在の喜びを忘れ、動物より不幸な人生になってる人はいないだろうか。

例えば、俺は動物でいいよ、食うことと生殖だけで満足だとしよう。そのためにはお金が必要だから仕事する。食事と生殖より仕事する時間の方が絶対に長い。だから死ぬ前になって思い出すと働きづめの人生だった。権力も権威も名誉も実はお金の為でした。あれ、動物でいいよどころか動物以下だとならないか。

僕はお金にも働いてもらう。そうならないことを願って。しかし、それが過ぎて自分で使えないほどの金額を稼ぐのに人生を捧げる気はまったくない。音楽鑑賞しても1円のカネにもならないが仕事より多い時間をかけて生きてきた。動物はこういうことはしないからそれ以下ということはない。これで足りる。

社会のために何かするということもあったろう。石原氏は議員や都知事をやって偉かった。しかし明らかに僕にはそういう才能も関心もないからそういうことに時間を使うのは不幸だ。やりたい人はたくさんいる。免罪符として税金を払って、僕は自分が好きで満足することに100%時間を使う社会的自由はあろう。

そのことでいえば僕がモーツァルトが素晴らしいと書いても彼の音楽がどうなるわけでもなく、傑作は傑作であり、結局は彼の音楽が気持ちよくしてくれ、そうなる自分に満足しているのであって、実は自分が可愛いだけだ。そうなるように生んでくれた両親とその自由をくれた家族に感謝し、大事と思ってるだけだ。

こういう人に老後という言葉はない。死ぬまでこれだ。誠に自分勝手の現世礼賛だがそれ以外の何物でもないのだから仕方ない。自由な時代に生まれて良かったと思うし、日本国に感謝する。しかしこれは国のため命を懸けて戦い、散っていった先人のお陰なのだ。それを忘れてこれをするのは人の道に反する。

政治にああだこうだ言うのは国が道を誤らぬために必要だ。それを生業にしてお金を稼がないと不幸だという人でもいないよりはましだ。ただしその連中を含めてこう思う。先人を忘れるなら国民は全員キリシタンになればいい。守るふりだけして安寧を貪る君側の奸をのさばらせれば日本はなくなる。

僕の物凄く幅の狭い関心事の上位に鉄道、野球、猫、天文、クラシック、ミステリー、資産運用がくる。早い順だ。この7つが増えることは多分ない。ということは余生は子供に戻ってこの砂場の中で遊ぶことになるだろう。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

これからやってくる「オンディマンド時代」

2023 JAN 25 2:02:12 am by 東 賢太郎

What can you do for me today、Mr.Azuma(東さん、今日は何をして下さるのですか)?」

約束の時間ちょうどにドアが開いて現れると、足が自由でないS氏は無言のままテーブルの向こう側にゆっくりとまわって、僕の真正面の椅子に大儀そうに腰かける。英国王室御用達のGIEVES & HAWKES製と思われるスーツに身を包んだ40がらみの小柄な紳士だ。にこりともせずノートを開くと、検事が尋問内容を書き取るみたいにしてペンを構え、僕の目を見て2、3秒ほど完全に静止する。そこで決まって口から出る判で押したように毎回まったく同じ冒頭の質問が挨拶代わりなのだ。「今日は**株を買ってほしくて来ました、Sさん」。僕の答辞もいつもおんなじこれにしていた。

そして「なぜそれを買うべきか」をゆっくりと話す。今日はペンが動かない。ああだめかな。案の定、5分ほどで彼は Thank you. と小声で僕を制止し、立ちあがって慇懃にドアに向けて送り出す格好をする。無言のお払い箱なのだ。この屈辱はいま思い出しても耐え難い。大英帝国植民地の支配者たちはこんなだったのだろうかと思った。しかし、これでめげては任務は勤まらない。何回かに1度はペンがサラサラ動く時もある。すると今度はネガティブな質問の矢がこれでもかと飛んでくる。うまく身をかわさないと即死。やはりご苦労さんのゲームオーバーなのだ。だから予定の30分を無傷で満了すればまず成功と考えていい。この場合は勇躍オフィスに戻る。何時間か、今か今かと待っていると、夕刻に電話が鳴る。来たぞ!!周囲がシーンとなって聞き耳を立てる。お薦めした**会社株式の数十億円分の買い注文執行が厳かに委託される。わかりにくい英語だ。聞き間違えたら一大事で、2,3回も確認のリピートをする。周囲はそれでわかる。受話器を置くと大拍手が起きる。代々ノムラでS氏のアカウントを担当できるのはエースのしるしなのだが、裏舞台ではこうした緊迫の綱渡りが行われていた。

S氏はノムラが最大手だからといって手心を加えて注文をくれることは一切なかった。世界一の証券会社だと思いあがっていた当時の社内では批判するムードがあったが、相手は10兆円も運用する世界一の機関投資家であり、S氏はそこで認められ雇われているマトモな人物なのだ。だからオーダーが少ないのはこっちの実力不足なのだと僕は擁護していた。批判する人たちはその緊迫の裏舞台など知らないし知ろうともしないし、特に東京本社などアホばかりで想像だにしてない。全盛期の野村の内部もレベルはそんなもんであり、わけもわかってない奴らが偉そうなこと言うなという気持があった。S氏が本当に平等だったことは毎回のプレゼンの自分の出来不出来でわかっており、その感触通りの結果になることで体感したプロの自負があったのである。その方法でこそ良質の情報が集まるということを逆に目の前で教わり、ビジネスは正攻法に勝るものはないことを思い知った。できれば人間関係で仲良くなってビジネスしたい怠惰な僕だったが、勉強と訓練という正面突破で注文をいただくしかなく、おかげ様で力をつけてもらったことを今も感謝している。

1980年代当時のロンドン。stock broker(証券マン)とfund manager(機関投資家の運用者)の仕事は大なり小なりそんなものだった。運用者はひっきりなしに数多ある各社の証券マンの訪問を受け、毎日何十もの「なぜ買うべきか」を聞く。腑に落ちれば買い、そうでなければ無視し、用がない株は売り、それを年末まで毎日くり返すと、1年間の相場のすったもんだの中での彼の “ファンド運用成績” が出る。これが運用者の通信簿だ。ファンドの運用益が増えていれば彼の会社はそれを宣伝してお客が増える。だから彼の出世と報酬はそれにかかっている。こちらとしても、推奨の成果で彼の信任を得ればそれに貢献したお駄賃としていただく手数料が天文学的に増えたから通信簿であり、日本国内の支店では想像もできないだろうが毎月数千万円、トップセールスである僕は他の顧客も入れるとピーク時は毎月3億円の手数料収入があった。後に社長になるドイツ、スイス、香港現法の店の収入ぐらいをひとりで稼いでいたことになる。

80年代、高度成長を成し遂げた日本の株式はシティで注目の的だった。一般の個人や年金基金は買いたくても情報がないので運用会社にお金を委託して日本株に投資してもらっていた。株式投資の元祖である英国には古くから世界的に著名な運用会社が数多くあり、良い成績を上げて委託資金を増やす激しい競争がくりひろげられていたのである。だから各社は日本株運用部門を設けて英国人でキャリアのある専門家(fund manager)を雇ったが、日本語ができない彼らは株を選別する有能な日本人証券マンの情報提供が絶対に必要だったのだ。この関係は花と蜜蜂に似ている。蜂は蜜を求めて花に群がる。花は蜂が来ないと受粉できないから蜜は惜しまなかった。だからロンドンには日本の証券会社が中小から銀行系に至るまで、甘い蜜の匂いを嗅ぎつけてウンカのようにこぞって現法をつくり、失礼だが英語もままならない程度の営業員をおいてでも注文の片割れをもらおうと猛烈なセールスをかけていたのである。日本の証券業界の歴史において1980年代のロンドンほど巨大なビジネスチャンスがあったことはない。その時代に6年そこにいて、ノムラというダントツ世界No1の会社の株式営業デスクのヘッドだった僕は幸運だった。

その蜜が売買手数料だ。当時はそれが公定であり自由化される前だった。だからネゴや割引の余地がなく有能な運用者よりも有能な証券マンの方が年俸が高かった。僕にも水面下で外資から凄い年俸のお誘いが来たが、それほど日本株ブームはロンドンを席巻していた。日本企業のサラリーマンだから僕の給料はまったくたいしたことなかったが、それでもシティではノムラの名刺はいっぱしのバリューがあって普通の人でも名前ぐらいは知っており、まさに肩で風を切って歩いていた。日本の文化まで流行になり、ロンドンに日本食レストランが増えだしたのもこのころだ。ただ我々の労働環境は過労死しておかしくないほど常軌を逸しており、出社は毎朝6時半、東京本社株式部と連絡をとり、調査部から情報を収集し、昼間は蜜蜂としてシティ中を飛び回り、夕刻には運用者の自宅にまで電話をかけ、深夜1時2時まで会社で翌日の準備のための侃々諤々の会議をした。中世の奴隷だってもう少しは楽な暮らしだったろう。

リーマンショックと共にそんな夢舞台は消えた。しかしあの What can you do for me today?の記憶は強烈で忘れない。「君は僕に何をしてくれるの」?いやあ、なんて本質を突いた質問なんだろうと感動すら覚える。「はい、賄賂を差し上げます」という事件が最近あった。民間人だって「おいしいことしてあげますよ」と “税金たかり屋” どものコネ、ヌキ、談合、身内贔屓みたいな “ズル” は横行している。ところが、これが軽いタッチでひょっこり内部告発されるのは防ぎようがない。ネットで大炎上してさらし者になり、一瞬で罪人だという「私刑」が科される。何を弁解しようと書かれたらサーバーに残って永遠に汚名は消えない。したがって、会社経営も裏口**みたいのが表に出ると非常にまずい時代になったと考えるのは常識だ。社会的責任に欠ける、サステナブルでないと社会的制裁を受けたらつまはじきになって、世界の機関投資家はSDG、ESGを満たさない会社は自動的に投資しないから株価も下がる。すると大株主でもある彼らは社長の首を株主総会で切るだろう。だから大企業であるほどひとたまりもなく、これからは上場しているメジャーな企業が率先してビジネスを正攻法に収斂させていかざるを得ないのである。表ではコンプライアンス重視をうたいながら水面下で品質不正やリコール隠しをしていたような企業は、いくら新聞、テレビの表の報道を制御しても、ネットだけで世の中を見る人のイメージを覆すのは至難の業だ。その人口は間違いなく大多数になり、新聞、テレビしか見ない老人は死んでいく。僕は日本人が善人になると言っているのではない、ポリコレに弱いから最も安心な正攻法になるしかないのだ。正攻法の権化であったS氏の質問は、いわば未来を予見していたわけで、ますますストライクに思えるのである。

僕がテレビを見ないのも、日経新聞の購読をやめてしまったのもそういうことなのだ。 You can do nothing for me today (今日も何の役にも立たないね)と、見ながら毎日感じるようになったからだ。見逃したから経営を誤ったとか相場で損したなんてことは一度たりともないしこれからも確実にない。情報も娯楽もオンディマンドで完全に足りる時代であることは高齢者で ITリテラシーに欠ける僕ですら実感してしまっている。ペンが動かない証券マンは5分でお払い箱。これは冷徹ではあるが、メディア業界であれなんであれ、「ビジネスの基本原理だった」ということが白日の下に明らかになりつつある。原理は世の東西も時代も問わず不変なのである。正攻法でやるためには血縁や義理や私情はもちろん旧習や思いこみやノスタルジーなどばっさりと断ち切るしかない。それにしがみついて利益が出ていても、サステナブルでないと世間が冷徹に烙印を押す時代になってしまっているからだ。S氏は優良な情報を永続して集める必要があった。だからノムラと親密にしなかった。高い手数料を払うのだから情報は集まると冷徹に計算し、オンディマンドで各社の証券マンを呼び集め、競わせたのだ。お金に人情はない。冷徹なものだ。だから冷徹こそお金を増やす正攻法以外の何物でもないのである。衰弱する日本企業はどんなに人情経営が好きであろうと、どんどんその流れに飲まれていかざるを得ないだろう。

ということは雇用市場で何が起きるか、賢明な若者の皆さんはもう結論が見えただろう。What can you do for me today?すべての仕事において、あなたは雇用者やお客さんにそう問われる時代になるのだから、それに決然と答えられるようになればいいのだ。雇用者は、必要な「do」をしてくれるならロボットや AI でぜんぜん構わない。コストも安い。だから人間しかできない「do」を見つけることだ。例えば、僕の今の仕事は AI には絶対にできない。人間でできる者もまずいない。こうなれば確実にお客様から代金をもらえるし、資産を増やしたい人が減ることはないだろうから希少性からすれば今よりもっともらえる時代になるだろう。中世の奴隷以下の仕事は大変な意味があった。そんな経験は誰もしたことがないから鉄壁の参入障壁であり差別化要因になったのだ。お金をもらいたければ意味のある事を必死に勉強し、しのほの言わず粛々と訓練を積むしかない。これを当たり前と思わないならあなたは世間に甘えがあるが、世間はあなたを甘やかすほど余裕はもうない。

いい大学へ行けばそう教育してくれるだろう?とんでもない。米国留学した者はわかる。日本は明治時代とほぼ変わらない教育を営々とやっている浮世離れした大学ばかりで、そもそも存続する価値がないばかりか、そこのディマンドに合致するからという理由で雇われてる先生たちにその能力がないことぐらいちょっと考えれば誰でもわかるだろう。誰でもわかることで嘘をつくのは大変に難しいのだ。テレビで偏向情報や屁理屈をたれ流しているコメンテーターの類はみんなテレビ局や自分の利益のためにポジショントークを売る嘘つきだが、そんなもので騙される人は世代交代とネット情報への依存度アップで急速に減っていくからこの連中もやがて消える。そうして新聞、雑誌と同様にテレビも存在価値を失い、お茶の間には「かつてテレビと呼ばれた受像機」がネットでオンディマンド番組を見るためだけに残るだろう。

そうなると、今の意識のまま漫然と大学に行って漫然と就職して生きてるあなたも、滅びる職業についてしまっている確率が高まっており、もしそうならやがて失業するか、しないまでも失意の人生になりかねない。では何を職業にすべきか、どこに就職すればよいのか。そこで週刊誌の大学生の就職人気ランキングなどに頼るならもう人生終わりである。「あなたは何ができますか?」が入社試験で、採用もオンディマンドになるのだから「学歴」や「青田買い」など戦後の集団就職と同じぐらい死語になり、ディマンドのある教育を施せない大学は潰れて、あなたのゼミの先生も失業するのだと頭の中でシミュレーションをしておくことをお薦めする。「東大卒?あっそう、で、キミ、何ができるの?」。あのころ、できることなど何もなかった僕は今なら思うような就職はできないだろう。しかし、16年海外にいたので、日本でしか通用しない学歴のおかげでこうなったわけではないことが証明されている。東大卒でなくてもノムラに入れなくても、きっとなんとかなっただろうというぐらいの自負は持っていいと思っている。

ちょっと考えれば誰でもわかるだろう。東大にそんなに価値があるならそこで教えてる先生は企業から引っ張りだこになるはずだが、そんな話はついぞ聞いたことがない。僕がウォートンスクールで証券分析論を習ったM先生は前年までウォールストリートでもトップクラスの高給取りであるメリルリンチの役員だった。そんな雲の上の人のリアルな講義が半年も聞け、実技指導までしてもらえる。これが年2千万円の高い授業料を払ってでも行く価値のある大学というものでなくて何だろう。お断りしておくが、僕は大学が職業専門学校だと言ってるのではないし、学問と教養が人間形成において必須であると何度も主張してきたし、母校である東大を心から愛しているし、後輩たちには日本国をリードする人材になって欲しい。だからこその苦言なのだ。

しかし僕ごときの批判で東大が変わることは99.99%ない。なぜか?明治時代、富国強兵のために東大は創立され、それイコール国家であり、その知恵があるから日本国は世界最速の成長を遂げて一流国になることができた。それが今や世界大学ランク39位で毎年ずるずると下がっており、それがいつまでも1位である日本国も、GDPは今のところ世界3位だが実は39位ぐらいへの下降線をたどっている。東大はその先行指標ではないか。これは皆が思ってるが認めたくないことなのだ。だから言わない。言っても変わらないのに言わないのだから「99.99%東大は変わらない」と言ってる僕が正しい確率は99.99%以上だろう。そんなにテッパンで変わらないものを変えろと一人で声高に叫ぶなど見苦しいだけだからプライドにかけて言わない。この思考回路のどうどう巡りゆえに東大に限らず日本の保守的なるものはどんなに凋落しようと何十年たっても遺跡のように「変わらない」のである。

大人たちは自分もその価値体系のおこぼれにあずかっていい思いをしてきたし今もしている、だから自分が生きてもいない20年後はもういいやと諦めてるのだ。自民党の議員もそうだ。2028年には中・露を合算した軍事予算は米国を抜き、水爆を1500発保有して30分で本土にいる米国民を1億人殺すことができるようになる。その中露が日本に核爆弾を打ちこんだら米国が代わりに中露と核戦争をしてくれるだろうか?するわけないだろう。もう核の傘なんてものは存在しないのだが議員は誰もこれを言わない。マスコミも言わない。言わないのは噓つきだとさえ誰も言わない。防衛予算をGDP比2%にして在庫処分のトマホークを買っても中露は痛くもかゆくもないことも議員は誰も言わない。こんな腐った連中が政治をやってる。20年どころか10年もたたないうちに日本はとてつもなく見たくない景色の国になってしまうのではないか?そのころリーダーになる若い皆さんにはおこぼれすら枯渇しており、戦うエネルギーも枯渇してないだろうか。心配でならないのだ。だからこれを書いておくのは、何もおきなくても若者の心に警鐘を鳴らせればいい、それが税金で勉強させてもらって海外でいろんな経験を積ませてもらった一国民の責務と考えた次第だ。ちなみに僕が採用したいのは東大卒であってもなくてもいいが「やるべきことは雨が降っても槍が降っても最後まで責任持ってやります。やらなかったら坊主になります」という人だ。

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

岸田総理の英語力を判定する

 

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

どうして証券会社に入ったの?(その10)

2022 OCT 26 0:00:18 am by 東 賢太郎

久しぶりに1987年のアメリカ映画『ウォール街』を見ました。こいつは我々証券マンにとって、心底ガツンとくる名作です。そのころ僕はロンドンのシティで働いていました。やたらと周りにサスペンダーの奴が増えたと思ったらこの影響だったんですね。それほどマイケル・ダグラス演じる投資家のゴードン・ゲッコーはカッコよかった。この有名な “Greed is good” のシーンはその白眉です。

ビジネススクールでMBAになったらこんなプレゼンをしたい。そう思わない人は学校を間違えてます。なんだ、欲望礼賛じゃないか、そんな間違ったことを教えてるのかと思う方はアメリカという国も資本主義すらも間違えてます。場面はテルダー製紙会社の株主総会。ゲッコーはこう言い放っています。「ここにいる33人の副社長はひとり年俸20万ドルも会社からもらってるが、ぜんぶ足して3%しか株を持っていません」「株主の皆さんと同じ利害関係を負わぬ者たちが会社から甘い汁をむさぼり、損失をたれ流しているのです」「アメリカは双子の赤字に蝕まれ二流の国になってしまいましたが、コーポレート・アメリカはまさにこうやって凋落してしまったのです」「皆さん、いまするべきはこの官僚仕事だけの不適格者たちを会社から追い出し、会社再生のための私の買収提案に応じることです」(拍手)。会ったことはないが、ドナルド・トランプもウラジーミル・プーチンもこの手の男だと思いますよ。役人タイプは歯牙にもかけないでしょうし、部下はダメと見れば即 you’re fired(お前は首だ)です。トランプは「アベよりアソーのほうがいい、カネの匂いがする」といったみたいです。自分の鼻で生きてる連中を大統領にしても後ろから操れないですからね、だから民主党のロボットが必要で、トランプはマスコミまで総動員して選挙で消したんです。そういう男をファーストネームで呼んだぐらいで仲良くなったなんて、冗談も休み休みお願いしますよ。オリバー・ストーン監督はこのゲッコーを悪役に、かけだしの証券営業マンであるバド・フォックス(チャーリー・シーン)を善玉にしたハリウッド流の勧善懲悪物語に仕立てていますが、カッコ良すぎのゲッコーに憧れてウォール・ストリートをめざすエリートが増えたのは皮肉でした。僕はまさにこのころである1984年卒のウォートンMBAですからアメリカのど真ん中でこの空気にどっぷりつかっており、野村證券もそう育てるために2年間の社費留学をさせてくれたわけです。だからそれが三つ子の魂となっているのは必然のことで、SDGsの念仏を100万回耳元で唱えられようと、相場に勝つためのネタとして利用はしますが、そんなものに精神をおかされて迎合する気はさらさらありません。いま聞いてもゲッコーの発言はまったく正しいと思いますし、リアルの世界でも、日本の某社の株主総会で僕自身が社長に面と向かって「あなたは退任すべきだ」と論陣を張ってます(そうなった)。下のブログは第2次安倍政権がスタートする2013年に書いたものです。当時この古い映画のことは忘れてましたが、馬鹿みたいな経済政策を野放しにしていた民主党政権によほど辟易していたのでしょう、いま読んでみてゲッコーと同じことを言ってるのに我ながら驚きます。

若者の欲望が日本を救う

書きましたように、弱者救済のセーフティネットが社会に必要なことは当然です。しかし9割が弱者だというならそれはもはや弱者の正しい定義ではなく、体よく社会主義、共産主義を擦りこもうとしているにすぎません。9割は言い過ぎかもしれませんが、日本は平成からそれに近いことになってると感じます。だから、ゲッコーの指摘した理由が絵に描いたように災いして、コーポレート・ジャパンはおかしくなっているのです。それは若者の健全なGreed(欲望)の芽を、大人がポストに居座りたい Greed で摘んでしまった結果、若者に自分が弱者だと勘違いさせてしまい(若さこそ財産、そんなわけないだろう)、それを救うべき財政政策を政府がとるためのマネーを緊縮財政派が供給しなかったからです。罪は重いですね。このブログから9年たって我々が知ったことは、アベノミクスは日本国がデフレの底なし沼に沈むのを食い止めはしたが救ってはいないということです。20年かけてGreed を根絶やしにしておいて、あわててゼロ金利政策をとっても、投機はおきても投資はおきないんです。これだけ円安になればいずれもっとインフレになります。皆さんはそれに備えるべきです。これは運用ではなく資産防衛ですから必須です。国は平気の平左ですよ。保有する外貨準備に為替差益が発生する上に、インフレになれば国債乱発による借金の棒引きができますからね。損させられるのは国民で、為替差損分の「高率の税金」を新たに支払わされるのと同じことです。国債乱発を続けるとブタ積みの日銀当座預金がますます増え、短期金利の操作自由度をさらに失い、それにつけこんだ国債先物ショートがさらに増えます。買いオペを続けるしかなく日銀のBSはさらに悪化。金も原油も裏付けにない日銀券の価値は低いとコンセンサスができれば先物を狙われます。介入原資は無限だと言っても誰も信じないので、英国の二の舞にならない保証はないですね。相手は相場です。日本だけが騒ぐいかがわしげな「投機筋」なんてものは世界のどこにも存在しないのです。

映画に戻りましょう。当時、僕がシンパシーを持ったのは、中堅証券の営業マンであるバド・フォックスの方です。下のビデオで見るディーリングルームはゴールドマンやモルガンスタンレーではない、社員もトップスクール卒でない設定ですね。バドも平民の子ですが少しだけいい大学を出ていてエリート扱いされてる。それでも高額の報酬を得ようと激しい競争を生き残るため電話外交をしまくります。僕が「株式市場はタンザニアのサバンナだ」という意味はおわかりでしょう。バドは「いまに俺だって電話を受ける側になるぜ」とうそぶきます。そしてある日、狙っていた大物投資家ゲッコーの秘書にうまくとりいって、ついにボスの時間を5分もらいます。新米に2,3質問をしたゲッコーは「小金持ちにクズの株を売ってるお前ら証券セールスはカスだ、何の役にも立たねえから早く消えろ」と追い返そうとします。そこで苦しまぎれに語った父の勤める航空会社の情報がヒットして、幸運にもバドは気に入られるのです。

このへんのくだり、いま見てもワクワクするんです。僕自身が新人のかけだしだった梅田支店の営業マン時代が “笑ってしまうほど重なって” いて「あるある」の連続。この監督、なんで経験ないのにこんなリアルに図星の台本をものにしたんだろうと感動ものなんですが、あまりにいちいち細部まで僕の実体験と似ていて、盗作されたかもしれない(1980年だから僕の方が先ですー笑)。まさしく、まぎれもなく、大阪で僕はこのビデオのようなことを夢中になって2年半やっていたのです。

セールスたちが隠語で「巨象を狙う」と言ってます。大きな顧客の意味です。ちっとも失礼でありません。そんなので騒ぐ小物はそもそも大物でないんで会う価値がありません。最大の巨象がゲッコーで、「49回電話してきたのはお前か」とあいさつ代わりの第一声をかましてきます。僕は大阪市北区に巨大な白亜の本社を構える某一流上場企業のU社長にやっぱり秘書様のお導きで会えて(同じく5分!)、まさに「64回電話してきたのは君か」といわれました。瀬戸際の一言がうまくいって、初対面のその場で株を買ってもらったのもまったく同じ。いいことだけじゃない、バドは鉄砲屋にも引っかかってますが、僕もやられて極道の親分から2千万円の取り立てをしてます。バドの父親は航空会社の整備士で息子が証券マンになるのに反対しますが、僕の父は銀行員でもっと猛烈に反対しました。当時は証券会社は株屋と言われてましたが、父も株は好きだったし僕も好きだったし、反対したのは僕があまり外交的でなく身の回りのこともだらしないので潰されると思ったんでしょう、銀行に行けよその方が楽だよと言ったきり3日も口をきいてくれませんでした。でも僕は圧倒的に証券マンの方が向いていたんです。入社前はわかりませんでしたが、会社訪問のやりとりで直感的にそう思ったんです。物事、迷ったら、最初にいいと思ったのにすべきですよ。

梅田支店は地獄でしたが次々とラッキーがあって、銀行に入っていたら会えるはずのないU社長がお客さんになって、俺は凄い人間なんじゃないかと本気で真面目に勘違いしてました。ぜんぜんそうではなかったことは数々の失敗でのちに思い知らされて地に落ちるのですが、男はこういう輝かしい瞬間に出あうと一皮も二皮もむけるんです。2年半梅田支店でもまれて、もう完全に一騎当千の証券マンになってました。だからバドがゲッコーに信用され、食い込んでいく姿は何度見てもハートに響いて元気が出ます。これが当たったんでウォール街ものが続々出てきますがほとんどがチープなゾロ品ですね。それほど本作は図抜けてます。バドのように金持ちにしてもらったり彼女をあてがってもらったりは残念ながらなかったですが、仕事に対する最高の征服感はありました。たぶん、僕は金や地位よりもその登っていくプロセスが好きなんです。2年前まで株のかの字も知らなかった小僧がいっぱしに存在感出して全米1位のビジネススクールに留学に行った。もうあそこらへんで顔つきが変わってたでしょう。

ゴードン・ゲッコー役のマイケル・ダグラス

ゲッコーの実在のモデルはアイヴァン・ボウスキーです。ロスチャイルド出身で稀代の乗っ取り屋であり、全米を騒然とさせる謀略をつくした末に証取法違反で逮捕されますが、ウォール街にもシティにもこの手の奴はごろごろいます。ロンドンでは、メディア王の富豪で船上で怪死したロバート・マクスウェルと取引もしましたよ。ゲッコー並みの巨象でしたが商売は大したことなかった。こんなのにビビってたらでかい商売はできません。この映画を見た人はご想像がつくと思いますが、彼らにとって、くっついたり離れたりして相場で人を欺く計略をめぐらすなど息をするようなもの、大金を動かして儲けるマキアヴェリストの連中にそんなものは猫に鰹節より当たり前なんです。ゲッコーは何度も孫氏の兵法を引用してます。そういうインテリジェンスは戦争と同じ。それをいちいち陰謀だ、けしからんなんて、「何だお前?」ってなもん、アホらしくて相手にもされません。彼が言った相場に大事な3つのもの、poor、hungry、no emotion は至言です。poorでなくなっても必要。これがあれば大概は成功できます。でも、くりかえしますが、ゲッコーは言ってます。「アメリカの富の半分である5兆ドルは人口の1%が持ってる。しかもその3分の2は相続だよ。俺は3分の1の方だから毎日あくせく働いてる」。Greed のいらない3分の2が王族や貴族やアラブや中国の富豪とつるむのは必然なことがわかりますね、共通の目的が preservation(資産保全)なんでね。で、富豪でない人が Greed を奪われたら、シープルになるしかないですね。

“Greed is good” (欲望は善である)。いまどきアメリカですらこんなことを公然と言う人は少ないでしょう。80年代のアメリカはレーガノミクス全盛でした。減税、小さな政府、規制緩和、強いアメリカ。それは同時期の英国をリードしたサッチャリズムとも重なりますし、ドナルド・トランプにも共鳴してます。その成功の前提は Greed なんです。それが足りない国で減税しても何も起きず、税収が減るだけです。それで財源不足になると市場がはやして国債もポンドも売りまくられ、史上最短の45日で辞任になったのがトラス首相でした。彼女は気の毒でしたが会計士ですから相場を予見する程度のマーケットのキャリアすらなかった。しかし、あの地位になれば、それも含めて、前任のジョンソンもそうですが、プラクティショナーの小物だったということですね、悪いけど。そこで登場してきた新首相のリシ・スナクは英国初のインド系で、オックスフォード卒、スタンフォードMBA、ゴールドマン・サックスからヘッジ・ファンド経営者に転身した超エリート証券マンです。プラクティショナーかもしれないがマーケットで失敗はしないでしょう。アメリカもFRB議長のジェローム・パウエルはプリンストン卒で学者っぽいですが、大手投資ファンドであるカーライルの共同経営者を8年勤めた、いずれも僕にとっては同じにおいがする世界の人間です。ゲッコーは悪玉にされてSEC証券監視委員会に逮捕されましたが、世界はこうしてじわじわと為政者の方がその色になってきた感じがします。捕まる側が捕まえる側に。こうなると、わかる人にはおわかりでしょうが無限に儲けられる可能性が出てきます、インサイダー取引は株にしかないですからね。どうも、我々が気がつかないうちに泥棒と警官が入れ替わっているというか、何が正義かわからない気持ち悪い世界になってきていると思いませんか?日本国はよく知りませんがこの流れのなかで大丈夫なんですかね。少なくとも読者の皆さんは勉強して、感性を磨いて、騙されないようになさってください。

どうして証券会社に入ったの?(その11)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊