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カテゴリー: _____どうして証券会社に入ったの?

キャリアハイの仕事は負けからやってくる

2019 JAN 13 14:14:20 pm by 東 賢太郎

大手町を歩いているとたまに呼び止められる。年末にまたそれがあった。みずほで部下だったS君だ。軽く近況を話しながら、彼と行った外交先やゴルフ接待のことなどを次々と思い出していた。彼だけじゃない、最近は銀行がお客様になったり、ご融資もいただいて助けてもらったり、商売のフロントでもメガの第一線でご活躍中のバンカーと一緒に仕事するようになっている。これは僕の人生の辞書には書いてないことだった。

就職のとき、親父が銀行員でどことなく反発があって銀行に就職という発想が持てなかった。母には「あなたは向いてないからね、銀行だけはやめてね」と懇願された。東大法学部には民間なら銀行という空気があって、それに対して付和雷同嫌いの性格が騒ぎだしていたし、そもそも勉強してないのだから受かりもしなかったろう。熱心に誘ってくださったのが三菱Gの名門会社で、10年目に1か月休暇で世界1周できるという雄大なお話に大いに気持ちが動いたが、お世話になっていたらどういう人生が待っていたのだろうといまでも一抹の後悔がある。

野村からみずほに転籍させていただいたのは2004年だ。そういう経緯があったから、入るのは証券会社とはいえガバナンスは銀行にあるという意識がかなりひっかかっていた。というのは、面接は、「銀行頭取からエクイティ引受元年にすると厳命が下っている、証券のその部門を率いてくれ」という話だったからだ。当時のみずほ証券は国内の株式引受で主幹事案件実績がゼロ。主幹事あたりまえの野村證券目線からすれば何もないに等しい。しかも株式業務といっても僕は引受部門の経験がない。それをやってくれというのだから人違いだと思い、はっきりそう申し上げたら返ってきた言葉が「東くん、僕は君のことをよく知っているんだ」だった。

これがY常務との人生初の出会いだったが、実に意味深かったことになる。49才で25年勤めた会社を辞めるのは大きな決断だったが、この30分の面接一回で腹が決まる。動機は仕事内容ではない、「士は己を知る者の為に死す」であった。その証拠に給与、タイトル等の移籍条件の話をするまえに「お世話になります」と電話した。実はその時点で別の銀行系から条件面でずっと上のオファーをもらっていたがお断りの電話を入れた。野村が嫌いになったわけではない。ただあのころ、ひとえに僕の力不足ゆえ、優秀な若手が次々と台頭して出番は確実に減っていた。要は出世競争に負けたわけだ。野球でいうならば「試合に出たい、必要としてくれる球団はないか」という気持ちを止めようがなかった。

母に、ごめん、銀行系に行くことになったと報告したら少し考えて僕の目をじっと見て、「うまくやってね」と言った。母の直観力は凄い。ごまかせたことは一度もない。これが最後の会話だった。いいわけになるが、積極的な気持ちで「行く」ということではなく、行かざるを得なくなってボートに乗った難民みたいなものだった。おそらく、気合が尋常ではなかったから使っていただけただけで、別に僕でなくてもいっぱしの証券マンなら誰でもよかったのではないか。いま思うとそれが時の利というものであって、そういう巡りあわせの瞬間にたまたま良い具合にそこに「居た」だけだ。人生は本当にわからない。

そこから2年が過ぎた。主幹事本数をゼロから16本とし、年度前半の実績で大和証券をぬいた。日本航空のグローバル・コーディネーター(国際主幹事)のトップ・レフトをかけて常連の野村證券、ゴールドマン・サックスとの三つ巴の激戦となり、ついにせり勝った。この戦いに証券マンとして持てるものすべてを投入したし、そんな場を与えていただいたことには身震いするほどの幸運を感じたし、勝てもしたから運もあった。我が業界、国内主幹事ゼロというのは国体でメダルがない選手ということであって、それが突然にオリンピックに出て金メダルを取ってしまったということに等しい。

しかし、そう甘くはない。そこから激烈な反撃にあった。ニューヨークのロードショーでJALのN社長に随行して成田を出発する直前だ、この期に及んでシ団を降りる(辞退する)という会社が出てきて社内は騒然となった。するとウチも考えると同調する所が現れ、ディールが中止に追い込まれるかもしれない異常事態に陥った。暗に「JAL様、主幹事のご選択間違ってませんか?」と数社がつるんだ揺さぶりだった。夜中の3時にホテルの社長の部屋に関係者が全員集合し、僕が東京へ電話して降りる宣言をした大手証券の役員とシビアな談判になった。

押されたら負けだ。幕末の薩長と同じじゃないか、敵は多勢でも天皇はこっちにおられるぞと腹をくくった。おどしすかしの応酬で最悪の事態は回避しながら説明会を開催し、ニューヨーク、ボストンの有力投資家をまわり、疲れ切って帰国のJFK空港ラウンジの椅子で熟睡していたらN社長が探しに来られてねぎらってくださった。帰ったら体重は5キロ減っていた。株主総会直後の増資の決定の仕方についても公然と批判が噴出した。日経新聞の社説で論説委員に連日ぼろ糞にたたかれたが、みずほの経営会議は歯牙にもかけず大成功とたたえてくれた。

もうひとつ、懐かしいのがある。テレビ東京のIPOだ。値決めで議論があって、調印式会場のディズニーシーの会議室でS社長になぜ3000円じゃないんだ(2900円を提案)と激怒されてしまった。当方には考えがあったが何かが至らなかったのだろう、役員でもない君が何様だと調印は見送りとなってしまい、同席の部下たちは凍りついた。翌日ねばった末ついにご理解いただき、公開初日は想定どおり盛況な売買で成功だった。後日の上場祝賀会でS社長が「君の言うとおりだった」と乾杯し女子アナをおおぜい呼んで囲んでくださった。

しかし初めからそううまく進んだわけではない。周囲も部下も銀行員で、仏教徒とキリシタンの会話である。野村では注文を取ることを「ペロを切る」と言い「切ってナンボ」と教える。営業行為というのは顧客によって千差万別の数々の障壁をクリアしないと成立しない。10個あるなら10個撃破してナンボだ。「9個クリアは自己評価で何点?」「90点です」「なに言ってんの、零点だよ」なんていう会話があってシーンとなる。超高学歴部隊でプレゼン資料の厚さを競うみたいな文化があり、下手すると100ページもあって目が点になる。「3ページにしろ」と返すとこんどは彼らの目が点になる。

言い訳も多い。「零点の生徒に言い訳の権利はない」とつっぱねる。最初の部門予算会議で「東君、大変だけど頼むよ」と言われ、数字を見たら120人もいるのに収益予算が16億円だ。誤植と思い「常務、これ一桁ちがってませんか?」と聞いたらまわりは凍った。いけない発言だったらしい。しかし、半年もするとだんだん皆さんの目の色が変わってきた。東芝の公募が取れてしまい頭取賞をいただいた。「零点」「3ページ」が効いたのか、見えないマグマのような力で部下たちが次々とペロを切った。実は優秀だったのだ。結局その年に予算の10倍ぐらいやってしまい、部門の空気は明らかに変わって勝てる軍団になっていた。証券マン人生で最もエキサイティングな思い出だ。

どうして御託ならべばかりだった部隊がああなったのか?おそらくこっちも引受は初心者だったからだ。そんな状態でプロだと迎えられ、尻に火がついていたのだから皆さんに僕の「一生懸命ぶり」が通じたのかなと思う。それでも重石の役みたいなものだからぶれたらいけない。どこへ出てもドンと構えるしかない。それを部下たちが自信をもって使いまくってくれた。大手町で声をかけてくれたS君もそのひとりだ。彼らの自信が顧客企業にハートで通じて、じゃあ初めてだけど一回みずほ証券にまかせてみようとかとなる。それがうまく片付く、もっと自信がつく、我が部もやらなくては、という好循環になったのだったと思う。

こうやって、僕は野村證券で育てていただいて、みずほ証券でキャリアハイの仕事をさせていただいた。どちらだけに恩義があるとは言い難く、両方がセットになってなるべくしてなったという感じだが、ひとつだけ間違いないことがある。「負け」が原動力になったことだ。僕は何が嫌いといって、負けることだ。50才にもなれば普通は残ったガソリンで10年持たせようと低燃費走行にはいるだろう。そこでハイオクを満タンにしてアクセル全開にするなんて、負けの悔しさがなければするはずもなかった。

さらには、その加速で時速200キロ出てなければ、5年後に今度は起業しようなどというターボエンジンが作動することもなく、今ごろは平平凡凡のリタイアに追い込まれて何もすることがなくなっていただろう。僕にとってそれは許せない最悪の事態であり、人生の負けなのだ。しかもその負けは挽回するチャンスはもうないから、事故で大破するようなもの。それも、時速10キロで路肩に乗り上げて動けなくなるみたいなもので、これぞ、まぎれもなく、僕の人生の辞書には書いてないことだった

望んでそれができたわけでも何を頑張ったわけでもない。たまたま難民になって負け犬のボートに乗って漂着して、そこに居ただけだ。ただ、若いころに普通の何倍もの苦労をしていたからどんな土地でも生き抜く自信と生命力だけはあった。それさえあればいい。居るだけでいいチャンスなど誰にもめぐってくる。つまり、逆境にあっても絶対にあきらめてはいけないということこそ金言なのだ。ただの負けというのはゲームの負けで実はチャージのことであり、あきらめるということは人生の負けでこっちは取り返しはつかない。やり続ける限り、小競り合いにいくら負けても負けたと思う必要はない。勝つまでやればいいだけだ。

 

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どうして証券会社に入ったの?(その1)

 

 

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リオの鮮烈な思い出

2016 AUG 7 0:00:48 am by 東 賢太郎

リオ五輪の開会式の入場行進を見ていて、206の参加国のひとつに「難民」というのがあるのが時代だなあと思いました。世界が貧富のディバイドという難題に見舞われており、それが政治、宗教、国境問題、軍事対立そしてテロという形で表面化しています。そのどれもが個別独立の原因に発した別個の問題に見えますが、そうではなく、その根っこに横たわるのは貧困、飢餓というひとつの、しかし最も深刻な問題です。式典の前半はそれに周到に配慮したものと見ました。

華やかな会場を一歩出るとバリケードのような柵が囲っていて機関銃で武装したポリスが大勢張り込んでいる様子が画面に映しだされます。バッハ大会委員長の誇らしげなスピーチが人類の平和を謳い、聖火台の点火と見事なアトラクションに酔って放映が終わると、正午すぐに始まったニュースが今日8月6日は広島の原爆投下から71年となった日であることを伝える。黙とうの要請を広島市が送ったがそれは見送られたようですね。実に複雑な気持ちになったものでした。

3年前にこのブログを書きました

津坂さんの蛙鳴蝉噪(幸福度)を読んで

このブラジル出張がリオ・デ・ジャネイロでありました。1991年の2月初旬、まだ36才です。成田からバンクーバー経由で24時間かかりましたが、このとき搭乗したヴァリグ・ブラジル航空は実に快適で、ビジネスクラスなのに食事はファースト並みで立派なフィレステーキまで用意されてよく覚えてます。サービス良すぎたんでしょうね、2005年に倒産してしまいました。

リオには午後到着して、ホテルはたしかシーザー・パレスでした。フライト疲れと時差でふらふらでしたが、なんだかときめくものを感じて外を歩きました。2月(真夏)。カーニバル1週間前のざわざわ。まぶしい太陽。イパネマ・ビーチを歩くと渋谷の駅前みたいに若い女のコばっかりわんさかいる。それがみんな堂々たるトップレスで頭がくらくら。仕事柄40以上の国を訪問してますが、リオの衝撃をしのぐ経験は今もってありません。

インフレ率が300%と聞いており、まさかねと半信半疑でした。ところが同行の後輩が「ほんとですよ!」と大声をあげます。ホテルのショップでネクタイの値段をじっと見ながら「ほら昨日の値段から1%上がってるでしょ?」ほんとうだ。さすが証券マンは相場に目ざといとそっちも関心しましたが。しかしネクタイのプライスタグのお値段が株価みたいに上げ下げするなんて・・・定価販売に慣れた僕らは目が点でした。

財務省の高級官僚さんの2億ドルの借款返済への大物スタンス(要はケセラセラ)には2度目の衝撃をくらいます。役人が1200万人もいて民間より多く、今のギリシャみたいなもんでした。前年に620億米ドルと人類史上最大のデフォルト(要は国家破産)をした国の財務省です。馬鹿なことを聞くなと思ったんでしょうが、当時はこっちはあんまり事の深刻さがわかってなかったですね。

飲み屋で英語の通じるおっさんに「大インフレと不景気のわりにホームレスがいないね」と尋ねると、「あったかいからね、寝れればどこでもOKさ、食いもんはバナナもヤシの実もそこらじゅうに落ちてるよ」。なるほど今になってみればミクロネシアとおんなじだったんだ。国はぼろぼろで借金漬け、国民は衣食住足りてサッカーで幸せ。これはサンパウロ、ブラジリアへ行っても同じでした。

このあとアルゼンチン(ブエノスアイレス)、チリ(サンティアゴ)の財務省、企業も訪問して大旅行だった出張を終えました。この数奇な体験で僕の「国家観」は根本的に修正が加わることになりました。インフレを肌でイメージしましたし、国債なんていかにはかないモノかも痛感しました。数字だけで頭で理解してる人にはこの感じはわからないだろう。

当時は梅田支店、ロンドンと株を売る野蛮な営業の経験しかなく、スマートな国際金融業務などド素人もいいところ。そんなのが課長で赴任した国際金融部の皆さんは大変だったろうと申しわけない限りですが、その2年間で引受業務のイロハを習ったのはその後の人生で大きなプラスでした。この出張も経験して来いという部長の計らいだったと思います。野村證券はほんとうに懐の深い会社。ここに入らなければ今は絶対にありません。

 

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Harry氏が覚えていてくれる大事な半年

2015 NOV 8 18:18:56 pm by 東 賢太郎

Harry Saito氏とつきあったのが大学4年の半年間だけなのにそういう感じがせず、ずっと知っていたように思うのは不思議です。それだけ印象が強く残っていたということです。氏はその後、日本を代表するメーカーで海外と関わる部門で活躍され、僕の方も国際部門になりました。きっと海外への好奇心という気脈が通じたんでしょう。

思えばあの半年間は進路に迷ってとても不安定なときでした。国内の既得権でのうのうと食える大学に行ってるのにそれに興味がなく、どうしてもアメリカに行きたくなった。そこでアテネ・フランセという語学学校に通って彼と出会ったのです。大学にはいない海外に目が向いた若者と話すのは大きな喜びでした。

農耕民族は基本が内向きですから彼も僕もちょっとはじけてたんでしょう。クラシック音楽だって洋物だし、根っから西洋好きだった僕は西洋好きの人が好きでした。農耕民的なところは先天的に皆無の僕はきっととても変な学生で、それでもHarry氏がよく来てくれたのはうれしかった。持って生まれた嗜好、性格は変えられなかったからです。

というのは明治15年生まれの祖父が三井物産で上海勤務でグローバル派のはしりでした。「野球」という訳語ができたてのころ慶応の野球部員で米国遠征もした。はとこはケンブリッジに留学して慶応ラグビー部を作った人でした。官僚養成所の東大は眼中にない家で、今も僕はこの祖父の血を濃く継いでいると自分で思います。

子供のころ野球に明け暮れても母が叱らなかったのはそういうわけです。こっちはそれにかまけて勉強はそっちのけで、母が入れたかった慶応は入試に落ちました。大学は父方にならうことになって慶応は結局ご縁なしで終わってしまった。ところがそっちは理系ばかりなのに色弱で文系ということになってしまいそれも居心地が悪かった。

法律というのがどうにも性に合わず、関心のかけらも湧いてこないから仕方ありません。人の作ったものは興味ないんです。とうとう遊びほけて4年終わってしまい、民間に就職するしかないということになってしまいます。そこのいきさつはここに書きました。  どうして証券会社に入ったの?(その1)

親父は銀行員でしたが学者、研究者、教授など、証券会社など論外という家系です。ところが母は大ありだった。東京証券取引所の初代筆頭株主だった家で、その話はまだ知らない息子が証券屋を選んだ。するとあなたこれは血筋なのよと泣いて喜んで、そこで初めて先祖のことを話してくれたのです。乳母がいて姫で育った彼女のなかでは慶応が一番で東大は下に見ており、慶応を落ちた挙句に官庁や銀行に入るなんて言ったらどれだけがっかりしたか。

そのころの僕は人見知りもあり、つき合いも良くなく、いまだに人に思いを伝えるのはへたですからもっとへたでした。研究所にでもこもっている方が向いてましたし親父もそう思っていた。「ケンちゃん、証券会社なんて株屋だよ」「向いてないよ、やめときなさい」と頭から大反対です。何とも因果な家に生まれてしまいましたが、彼は僕がひいた母方の血の威力を知らなかったんです。

どうしてもアメリカに行きたくなった。不思議なもので、そう思っていると野村證券で米国に社費留学の道が開けます。そしてアメリカに行ってみると、理系の学者、研究者、教授がファイナンスや投資の最先端理論を研究しているではないですか。選んだ道は正しいぞという天の啓示のような自信と確信を僕はそこで初めて得たのです。法学部が失敗だったことも証券界を選んだこともそのためだったと。

Saito氏とお会いした大学4年の前半というのは、自分が振れている時期でした。父方の官立大学卒の人生でいくかどうか、そして、それを放棄して母方で行った。そうして、いかにも僕らしいサプライズに満ちた軌跡を描いて平穏に60才を迎えることができました。その大半は入れていただいた野村證券という素晴らしい会社のおかげですが、あの直前の半年に腹をくくらなかったら僕には野村の門をたたく勇気はなかったでしょう。

その人生の転換点だった半年。自分でも何を考えて何を言ったか忘れているそこをウィットネスしてくれるSaito氏はタイムマシンで現れた人であり、氏にとっても僕が同じくそういう存在なわけです。彼は当時の面影そのままに若々しいがこっちはけっこう老けこんでしまいました。しかし人の出会いとは本当に不思議です。それを大切にしないと自分の人生を見失ってしまう。昔の知己には機会あればひとりでも多くお会いしてみたいと思っています。

 
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「遊びのすすめ」(副題・学問はそこそこに)

2015 JUL 24 12:12:14 pm by 東 賢太郎

高校野球のことをを思いだしながら、スポーツは自分の経験したものしかわからないもんだ、サッカーやテニスを見ていても肌でわからないのは仕方ないなと思っています。野球ですら野手のことはよくわからないし、ゴルフだって僕の程度じゃプロのプレーを見て実感がわくことはありません。

それは仕事についても同じであって、僕にメーカーの人や科学者や俳優の実感は今だって持ちようがないのです。我が身を振り返ると、大学生は漠然ながらそれがわかっていて、就職を意識しだすとそこまでの人生の経験からなるべく自分に向いている仕事、会社で活躍したい。けれどそれは一体何であるのか、どこの会社なのか悩むものです。誰しも一度はご経験があるのではないでしょうか。

僕も一応は悩み、考えても仕方ないのでえいやで証券会社に就職しましたが、すぐ失敗だったと観念しました。辞表を書こうと思った。結局幸運が重なってそうせずに30年もやってしまって、それが正解だったかどうかは永遠に答えが出ませんが、他だったらまず今みたいな生活はできてなかったろうと即物的に自分を納得させられる程度には証券業界が自分に向いていたと思うのです。

誰しもそうやって仕事は経験がないまま、悩みながら始めるのが普通です。ということは石の上にも3年、向いていようがいまいが、まずはしがみついてやってみるしかないですね。僕は辞表を書かなくて良かった。というのはそれでどこへ転職しても「1年もたなかった奴」ということになったからです。それは日本で幹部社員になろうと思うなら不利です。どんな屁理屈をならべたってそのマイナスイメージは覆せなかったでしょう。その努力をするぐらいなら入った会社で3年は頑張った方がいいのです。

その先はいろいろあります。ずっと先に幹部になれるかどうかは性格や資質や経験がものをいうし運も左右します。最初の3年頑張ってどうなるものでもない。だからやっぱり「向いた会社、業界のほうがいいよ」というどうどうめぐりの不毛な議論になってしまうのです。それじゃあ仕方ないので、以下若い人にアドバイスしてみます。僕の書くことに価値があるとしたらひとつだけ、耳年増の知ったかぶりでなくてちゃんと経験したものであるということです。

僕のアドバイスの結論、それは「とにかく遊べ」「遊びまくれ」なのです。なぜって、将来仕事のベースになる経験を学生時代に全部積んでおくなど、なにをどうしたって不可能だからです。そう言うと、そうでしょう、たかが22才までの経験なんて知れていますからね、という知った顔の大人が出てくる。しかしそれは大間違いです。逆に、恐ろしい話ですが就職までに経験したことでほぼ先は決まります。

僕は理屈屋ですから、そこまで断言するからにはロジックがあります。ロジックというのは人智では覆りません。覆らないから価値があるのです。

22才までの時間は限られてます。だから「応用の効く経験」を積むことこそ命なのは自明です。では何が応用の効く経験なのか?遊んでこそ人生で応用の効く経験が得られるというのが僕の経験であり持論です。遊ぶというのはグレることでも放蕩することでもありません。僕のブログを読んでくださっているかたは、そうかとゲーセンに入り浸るようなレベルの人はいないという前提での「遊び」であって、僕の場合は野球、麻雀、アメリカ放浪でした。その3つのおかげで社会に出て困ることはなかった。いや、正確にいうなら、何度も困り果てましたが、そのたびになんとかなる悪知恵と根性をその3つが身につけてくれていました。

そういうのは教室で身につくことではありません。だってこてんこてんにやられて、ケツの毛までぬかれて、この野郎ぶち殺してやろうかってこと、教室やゼミでないでしょう?試験の点取り競争なんかかわいいもんです。負けたってそこまで思わないし、いくらでも言いわけがきくからです。言いわけは自分の逃げ場、逃げ道です。自分を都合よく「逃がしてあげられる」。そういう癖がついたらもう人生致命的と思ったほうがいい。スポーツやバクチは逃げ場がないのです。

遊びでこてんこてんに負けるといいことが三つあります。

一つ、分を知ること。あいつには絶対かなわない、こういう作戦は自滅する、これだけはやっちゃいけないみたいな「すべからず」集が経験で分かるようになる。負けるケンカはしないようになるから確実に成功率が上がります。つまり社会で応用がきくのです。

二つ、「負けに不思議の負けなし」で負けには法則性がある。野村克也監督の著書のとおり。勝つ方法なんか実はない。勝ちはいつも結果オーライだから、勝ち続けた奴は学ばない。だから絶対かなわないと思ってた奴に勝つチャンスは必ずやってくる。

三つ、「この野郎!」が強力なモチベーションになる。僕は子供の時、メンコで年上の強い子に自慢の「伊賀の影丸」をひっくりかえされて取られた。この野郎ですよね。死ぬほど悔しくて、取り返してやろうとスナップをきかせた投げ方を毎日猛特訓したんです。大変なモチベーションでした。

それでも勝てなくて、影丸はついに返ってこなかったんです。メンコではその子に完敗ですね。ところが面白いもんで、そのスナップの指の使い方がのちに野球でカーブのキレのいい投げ方になった。それでピッチャーになれました。彼は僕のタマにかすりもしませんでしたから結局は僕の勝ちでした。

つまり人間、負けると負けない方法を学んでインテリジェンス(=カーブの投げ方)ができる。しかも、それに強力なモチベーション(=この野郎!)がくっつくんです。インテリジェンス+モチベーション!最強の組合せじゃないですか。

だから負けたら、負けた原因の法則性を探して、それをひとつづつ潰していけばいいんです。その「法則性対応」に、仕事でもなんにでも応用が効く秘密があります。大事なのは、負けてメンコを取られたりプライドを粉々にされるのを厭うようじゃだめということです。そんなのは遊びと呼ばない。僕のいう遊びとは戦争のシミュレーションのイメージです。

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Why not ? のすすめ

 

 
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どうして証券会社に入ったの?(その9)

2015 JAN 4 0:00:53 am by 東 賢太郎

 

<正月の大チョンボ>

この時期になると思いだすことがあります。当時、親父からもらったおんぼろのマークⅡに乗っていて、それで正月に八方尾根にスキーに行ったのです。まだ結婚前だった家内とその友人と僕の友人(別会社)の4人でした。八方尾根は入社前にろっ骨を折った鬼門ですが、それでもあの急斜面が気に入って懲りてませんでした。

1月4日は大発会といって証券取引所の初日であり、支店は営業を午前中で終わって午後は梅田のお初天神に全員で初詣というしきたりになっています。ですから1月3日の午前中には現地を出発する手はずでした。ところが、その3日は大雪の予報であり、朝に車を見るとすでに雪にうずもれた状態だったのです。

一応早めにと思って小ぶりの中をたしか昼前ごろ出発したと思います。でもかなり甘く見ていましたね。県道からもう相当に渋滞でしたし、さらに悪いことに関ヶ原あたりでいよいよ本降りとなり、チェーンを巻きましたがそれでもどんどん雪がつもったのと氷結とで走行はかなり危ない事態になってしまったのです。当然街道は上下線ともメチャクチャの大混乱で大阪方面はピクリとも進まず、あっという間に底冷えのする夜がやってきました。

結局、思いもよらぬ最悪の事態になり、徹夜運転でした。なんとか大阪にたどり着いたらもう明るくなってきて、1月4日朝の7時前です。屋根にスキーを積んだ車で独身寮のゲートにすべりこむと、初出勤のタクシー待ちで寮の玄関前にスーツ姿でずらっと並んだ先輩方の目の前にドンと駐車する間抜けなことになったわけです。

そこからやおら着替えて寮を飛び出しましたが、もちろん会社は初日から大遅刻であり気は焦るばかり。疲労と睡魔で意識はほぼなくて、どうやって会社にたどり着いたかはぜんぜん覚えてません。

よれよれになって支店にそっと入ると、しーんと張りつめた空気の中で支店長の新年の祝辞の真っ最中でした。皆さんの目つきから僕のチョンボはもう有名になっている様子であり、これはヤバい、支店長はこういうの厳しいしとその場で怒鳴られて大目玉をくらうことを覚悟しました。

そうしたら前回のヤクザ事件で救って下さったO次長が僕を見るなり小声で「おい、東こっちこい」と手招きします。「支店長はまだ知らんからな。お前はいいからここで寝てろ」と裏のほうのソファーに連れて行かれたのです。

ほっとしたのでしょう、そこで僕の意識は完全に途切れます。後で聞くとソファーに行きつく前にもう倒れていたそうで、人生ただ一度だけの気絶状態、それからお初天神やら食事やらはどうなったのかまったく記憶がありません。

はっと目が覚めたら、どういうことかそこはOさんのご自宅でした。ご夫妻でげらげら笑っていて、おなかすいたでしょと食事まで作って下さっていたのです。奥様いわく「ウチの人なんか、朝帰りして玄関はいったとこでバタッと倒れてね、そこでスーツのまま寝かしたんですよ」。そういういい会社だったのでお咎めはなしでした。

 

(つづく)

中国はどこへ行くか(1)

 

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どうして証券会社に入ったの?(その8)

2014 DEC 30 0:00:15 am by 東 賢太郎

 

<身の危険を感じたこと>

 

株式営業というのはいいことばかりではありません。

名刺集めでボイラー会社に飛び込んだら運よく社長が出てきて、すぐ名刺がもらえました。そんなことは30回に1度ぐらいだから気分よく店に帰りました。そうしたら数日後に、その社長から朝9時前に電話が入ったのです。

新規でいきなり大きな注文は受けないのでもう口座ができていたのか、そこは忘れましたがこういわれました。

「別子(住友金属鉱山のこと)10万買うたるわ。268円から277円まで1万づつ指したってや」

喜んでいる間はありません、時計を見ると寄りつきまであと5分。当時は伝票の数字を鉛筆で塗りつぶして入力という原始的なシステムで、1円づつ指値するということはそれを10枚書かなくてはいけない。結局、タッチの差で間に合わなかった、これがケチのつきはじめでした。

本来買えていなくてはいけない268、269円を買えずにその上の8万株が買えてしまった。それを電話で伝えると「それはお前のミスや」と請け合ってくれません。

株というのは4日目までに受け渡し(代金を支払う)がルールです。これはまずいと思い飛んでいきましたが、ボイラー会社は「社長はここにはおらへんで」でとけんもほろろで、食い下がると「ここちゃうか」と住所をくれました。なんと、それは「ロイヤル」というピンサロであり、彼はそこの経営者でもあった。どうも変だぞ?

西天満のロイヤルは薄汚い雑居ビルの怪しげな店でした。まだ客もおらず、何度もベルを鳴らすとすっぱだかにタオルだけまいた女が迷惑そうな顔で出てきます。「えっなんやて?社長?にいちゃん真っ昼間やで、社長がこんなとこ来るわけあらへんわ」と甲高い声でいうと、カーテンの向こうのもう一人がけらけら笑いました。

ここで僕はこれは事件だ、やばいと覚悟を決めました。代金が入らないなど許されないし首がかかる話です。それも2700万円、当時これは半端な金額ではない。ところがこういう時に限って株は見事に下がるのです。翌日は相場全体が軟調でこの株の引け値は265円でした。総務課は大騒ぎになり僕は血の気が引くばかりです。

そこでわかるのですがこの社長は鉄砲屋といって上がればすぐ売って利益をとるが下がったら金を払わず逃げる証券詐欺のプロでした。それもX組というその筋の幹部であり、ボイラー会社は乗っ取ったものでした。下がったのでもちろん逃げにはいっていたのです。しかもまずいことに、寄りつきに間に合わなかったというのは明らかにこっちのミスです。

この絶体絶命のピンチ、支店長の命令は「カネを取るまで帰ってくるな」でした。実にわかりやすい。ちなみにこの方はお世話になったSさんの後任で、Sさんではありません。2日目も会社からピンサロからソープから全部まわり、全部空振り。時間はあと2日しかない。刑事の気持ちになりました。いえ、刑事ならまだいい。こっちはヤクザから金を取りたてなくちゃいかんのです。

3日目、突然夕刻に社長から激怒の電話が入ります。これはビビりました。「おんどりゃあ、何のつもりや!」。総務が内容証明を送りつけていたのです。それを見てぶち切れてすぐ自宅に来いと凄んでいるのです。すぐ支店長に報告。するとあっさり「すぐ行って来い」です。もちろんひとりで。支店長車を貸してくれたのは、運転手が下で待っていれば危害は加えんだろということだったでしょうか。

社長宅のマンションのベルを恐る恐る鳴らすと、奥さんと思しき女性が出てきた。これはどこかほっとしました。しかしそれもつかの間、応接に通されると大きな博多人形のガラスケースがあって、その天板の上に何か光るものが目に入ったのです。刃渡り30センチぐらいの抜き身の「ドス」でした。ヤクザ映画に出てくるアレです。なるほど本当にこういうもんがあるんだ・・・あまりに見事な一物でどういうわけか怖さより見とれました。

ドスを拝む位置の席で待たされました。何が起きるのか?時計を見る気持ちの余裕などありません。冷や汗をかきながら待つこと1時間ぐらいだったでしょうか。

やがて社長は煙草をくゆらせながら悠然と現れ、光るものを背にどっかと座りました。

ここで何があったか、緊張の極致で声が出なかったこと以外覚えていないのですが、とにかく彼は冷静で怒鳴るような様子はなく、世間話に近い会話があったと思います。もうこっちは相手の素性を知ってます。目の前でドスが畳に突き刺さる映画のシーンを覚悟していたものだからこれは拍子抜けしました。

意外にいい人なんじゃないか?そんな気までしてきたその矢先です。急に話が本題にもどって鋭い眼光で目を睨まれ、「ええか、おまえよう聞けや。これはワシが悪いんやない、お前らのミスや。客の注文と違うやろ。そやからわしは一銭も払う義務がないんや」すごい迫力でした。

ああだこうだと話をするうちに、直前に1円刻みの指値をするという尋常でないことをさせたのはミスを誘発しておいていざとなったら難癖をつける、僕が新米であるということも見越してカモにしよう、そういう魂胆のプロの技だったんだとわかってきました。思うつぼだったのだから裁判になったらこっちは不利です。

「社長、おっしゃる通り、2万株については私のミスです。おとがめは受けます。ですけど執行できた8万株はご注文通りなんですよ。」

こっちもこれ一点張りでねばりました。これを曲げたら約定否認を認めたことになって負けなのです。でもいま思うのですが、そこで尻尾を巻いて逃げ帰っていたらどうなっていたんだろう?

とにかく僕は「すいません」と支店長に頭を下げたくなかった。会社のためとか罰を食らうとかなんかではなく、そんなみっともないセリフは絶対言いたくねえ、それだけでした。

しばし嫌な沈黙がつづいて、無言になった社長のこめかみがぴくぴくしているのが見えました。そのうち爆発するだろうという恐怖との闘いがはじまりました。そのままずいぶん長い時間がたった。

無性に腹がへってきていて、一触即発のピリピリした空気の中で腹がぐうっと間のぬけた音をたてだしました。そこで初めて時計を見たのです。なんと夜中の2時でした。もう6時間もたっていたのです。

それを目配せで社長に告げたのは奥さんでした。そっとお茶を出してくれながらすごく小さな声で「あんた・・・・やないの」みたいなことを彼に言ったのがちらっと聞こえました。

そこから何があったか、もう疲れ果てていて何も覚えてませんが、とうとう社長がこう言ったのです。

「お前みたいな若いもん一人来させて顔も出さん上司がワシは許せん。今日は帰れ。あした支店長を連れてもういちど来んかい。」

こうして僕の人生の最も長かった一日は意外な展開を見せて終わりました。

翌日、いよいよ4日目です。支店長にそれを伝えると、すぐ次長を呼びました。ひとこと「お前行ってやれ」でした。次長は店のナンバー2のOさんです。豪気なナイスガイで男気に溢れる人です。申し訳ないのですが支店長が来てくれるより僕はずっと心強かった。やったと心で万歳してました。

再び戻った社長のマンション。すると怒りの対象は若いもんに責任をなすりつけることに完全に変わっていて、Oさんはそのバズーカ砲の直撃を受けました。見ていて足が震えました。

しかし、さすがなのです。Oさんはびくともしない。Oさんは「社長、俺はクビになってもいいんですよ」と僕をかばったのです。この二人の対決はどんなヤクザ映画もかなわないでしょう。結局、なんということか、絶対の難攻不落と思った社長が下がっている株の代金をその日に払ったのです。これがどんなに驚くべきことか!

「東、よかったな」

「はい」

帰りの車中の会話はそれだけ、あとは二人とも無言でした。支店長への報告で自分の手柄話などひとこともないOさん。後にも先にも上司がこんなに頼もしく見えた経験は一度もありません。

そして最後に一言。ヤクザを誉めたらアカン?わかってます。でも、どうしても書きたい。社長も大物だったので僕は救われたのです。

 

どうして証券会社に入ったの?(その9)

 

 つづく

 

 

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どうして証券会社に入ったの?(その7)

2014 DEC 25 22:22:19 pm by 東 賢太郎

 

<やさしき女性たちの巻>

犬も歩けば棒にあたる、これはほんとうです。

U社長に自信をつけていただいたおかげでしょう、2年目になると飛び込み外交で集めた名刺の中から少しずつお客様ができだして、僕も営業第一課の一員として貢献ができるようになってきました。

その中に、当時大流行だったインベーダーゲームの機器を卸している若手社長Kさんがおられました。まだ30歳ぐらいで恰幅もきっぷもよく、会社に何度も通ううちに意気投合しました。大阪商人の気質は僕にはよく合ったようで、何回も説明してとうとう新日鉄株を100万株買っていただきました。

当時、100万株のぺロというのは証券マンの勲章であり、先輩方といえどもそうきれるわけではありません。そういう事をもわかったうえで「よっしゃ、いったるわ」となった、これは社長の男気でもあり、ファックスで全社にニュースとして流されて大いに男を上げていただきました。

ところがこれもオチがあって、「城東区の会社まで現金を取りに来い」となってはたと困ります。300万円までしか数えたことがないのにこれは1億8千万円なのです。当時は札束を数える機械なんてありません。仕方なく店頭の女子社員4~5名に同行してもらい、手分けして数えることになりました。なんとも大らかな時代でした。

役に立たない僕はお札にさわるなといわれ社内旅行のイッキの女神たちが1時間もかけずに仕事を終えました。もっと言うと、数えたら1万円多かった。これは偶然なのかK社長に試されたのか?「おっ、そうか」で終わったのでわかりませんが冷や汗です。

いま思うともっと信じられないのはこれを僕はカバンに入れて電車で支店に持ち帰ったのです。若造がタクシーに乗るという発想もなかったです。厳しくて有名だった総務次長さんもそれでなんでもなかった。危ないもんでした。電話帳7、8冊分ほどの重みでずっしりした感じはいまも手に残ってます。

株が好きで入社したぐらいですから僕は株の商売はあまり苦労しませんでした。しかし、証券会社の推奨銘柄が必ず当たるなんてことはありません。総合研究所の調査やチャート分析など情報は社内にいくらでもあるというだけで、結局は自分がいつもアンテナを高くして勉強していないとうまくいかないということが分かってきました。

ただ当時の営業というのは営業本部、支店などで決めた銘柄を「タメコミ」と称してひたすら買っていただくだけで、自分の眼でいうとそんなのもうからないだろうというのが多いのです。だからお客様のためを思えば、そういう全体の方針に従ったうえで、自分が調べて本当に良いと思う銘柄も買っておいていただくことが必要であり、株価の変動要因というものを暇をみては勉強しました。

一方で僕には決定的な弱点がありました。「中期国債ファンド」、当時の通称は中国(ちゅうこく)ファンドです。これは銀行預金金利より少し利回りが良く資金の出し入れも融通がきくということで、当時の証券会社の戦略商品でした。これが僕はぜんぜん売れないのです。なぜかというと、値段が動かないからです。動くものが好きな僕について下さったお客さんもそうでした。

株の商売では目立たないのに中国ファンドはがぜん強い先輩がいて僕はいつも羨望のまなざしで見ていました。甘いマスクで主婦に強い。「おくさーん、今月もおとりできしたー」の電話何本かでノルマはおしまい。すごい。僕は主婦層はからっきしだめでお客様は企業経営者ばかりです。「預金やろ?興味ないわ」でおしまい。毎月締切日が近づくとチュウコクと聞いただけでジンマシンが出そうでした。

ある月に500万円のノルマが最終日になって僕だけまだゼロという悲惨なことになり、「できるまで帰ってくるな!」と課長に外に追い出されました。お客さんを必死にかけずりまわって「3日でおろしていいですから」と頼み込んでなんとか200万円。真っ暗になってついに降参となりとぼとぼ店に戻りました。怒鳴られるのは目に見えています。

ところが課員全員が待ちかまえていて、「オー東、よくやったな。お前もやればできるじゃないか!」と拍手でむかえられる。なんだこれは?「すごいぞ1千万円は」「はあ?」どうも先輩方の話をそれとなく聞いていると、僕のセールスコード23番で1千万円の中国ファンドを不在中に店頭で新規キャッシュでお買い上げいただいたようなのです。

「ええ、まあ」とお茶を濁して店頭カウンターへ行ってみると事情がわかりました。店頭の女性が23番で切ってくれた、そういうことでした。前に書きましたが「やります」といって穴をあけると「空(から)ぺロ」といって重罪なのです。それを知っていて、見るに見かねて助けてくれたのでした。

そうやって弱いところを助けて支えて下さったのは女性でした。それはなにも僕だけでなく当時の支店全体がそういう雰囲気だったのです。これが大阪の女性のあったかさんなんでしょうか、初めてきいたときはびびった大阪弁で「ええかっこうしい」だった東京もんがどれだけ救われたか。

2年半梅田支店でお世話になるうちに大阪が大好きになりましたが、そういうことがあったからです。ときどき大阪へ行くといつも富国生命ビルのあたりを歩いてみます。パチンコ屋から毎日大きな音できこえていたジュディ・オングの「魅せられて」が耳によみがえり、万感の思いが胸にこみ上げてきます。Oさんほんとうにありがとう。

 

どうして証券会社に入ったの?(その8)

 

 

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どうして証券会社に入ったの?(その6)

2014 DEC 1 0:00:12 am by 東 賢太郎

 

<大問題をまきおこす・の巻>

 

「ウチの名刺で会えない人なんかいない。四季報で外交してみろ」

S先輩もまさか僕が真に受けて本当にそうするとは思ってなかったでしょう。しかし、面白い、やってみようと朝一番に北区に巨大な白亜の本社を構える某一流上場企業に電話をしてみました。もちろん「社長にお会いしたい」といってです。

「どちらの部署の東さんですか?」「はい、梅田支店です」「少々お待ちください(1分ぐらい待つ)・・・申しわけございません、御社は大阪本社の事業法人部がお見えでございまして、そちらを通していただければとのことでございます」

なるほど、そういうことになるのか。これが一回目。よくわからないので今日は大丈夫かもと同じことをしつこくくりかえしました。ぜんぜん埒があきません(あたりまえです)。「大阪本店のO副社長がいつもお見えですよ」。なるほど。しかし副社長よりS先輩のノルマである社長の名刺集めのほうが重大事ですから、そのぐらいではひるみません。

知恵がついてきて、電話帳で調べて大代表ではなくいくつかの部署にかけてみます。同じ答えでした。さらに知恵がついて、秘書室という部署にかけるうちに、社長秘書がAさんという女性であることが分かってきました。電話の声だとちょっと年上だろうなあという感じ。だんだん一言二言の会話ができるようになり、「お会いしてどうされるんですか?」ときかれます。

もうこっちが支店の新人であり大阪本社事業法人部とは何の関係もないのはお見通しです。「はい、大学の先輩でいらっしゃるのです。ぜひお名刺だけでも頂戴したいのです!」それは本音でした。社長の名刺がほしいんですから。

そうやって来る日も来る日も1本電話をかけるごとにノートに「正」の字を書いていました。A秘書から耳を疑う言葉をかけられたのは64回目のことでした。

「今日社長は7時55分から5分だけお一人です。いらっしゃいますか?」

体に電気が走りました。その日の朝会で課長の銘柄は「富士通」でした。そしてラッキーだったのはT社の公募株がありました。「それ千株預けて下さい!」そう課長にお願いして一目散に駆けていきました。1分で自己紹介、3分で富士通、1分で公募、ちょうど5分!よしそれでいくぞ。

広い社屋で迷ってしまい、息をはあはあさせながら秘書室に到着したのはもうぎりぎりの時刻です。初めてお会いしたAさんは、思った通りたいへんおやさしい方で、「早くいらっしゃい、時間がないのよ、こっちこっち」とすぐ社長室へ通してくださいました。

目もくらむような立派な部屋に社長は笑顔でいらっしゃいました。「キミのことか、えらい元気がいいな」。Aさんから聞いておられたのです。1分で自己紹介、よし。3分で富士通、よし。そこまで予定どおり来ました。そうしたらそこで社長が、

「富士通なあ、キミ、うちはNECなんだよ」・・・

えっ、どういうことだ??もうこれで頭が混乱してわけがわからなくなり、最後の1分、T社の公募は名前だけ。すると、

「で、富士通は何株買えばいいのかな?」

えっ!?名刺をいただいて帰るつもりが想定外の展開にますますわけがわからなくなり、「い、1万株お願いします」とたまたま思いついた数字を申し上げるのがやっとでした。

まてよ、1万株って300万円だよな・・・

20万円の初商いで手がふるえてお札が数えられなかった僕にとって、これは青天の霹靂の大商いでした。

支店へ走って帰り意気揚々と報告をすると、「よーやった!」の嵐です。課長が「で、どこのお客さんや?」「はい、***のU社長です!」、ひときわ大声で答えました。

 

重苦しい雰囲気の中、次長さん課長さんが集合して大阪本店からクレームの電話を受けるS支店長をぐるりと囲んでいます。大変なことをしてしまった、もうこれはクビだろう。茫然と立ちすくむ僕に「アホかおまえ、相手を考えろや」まわりの先輩たちの厳しい目がささります。

すると、支店長の激した声がかすかにきこえました。

「副社長、新人ですよ。仕方ないじゃないですか。すごいじゃないですか。新人ですよ。お願いします、ぜひやらせてやってくださいよ」

このお言葉は聞こえたそのまんまです。一言一句、一生忘れもしません。驚きでした。支店長といってもまだ部長です。この会社はほんとうに凄い会社なんだ。そこで急に手足が震えてきたことだけを最後に、後の記憶は飛んでいます。

 

U社長のお人柄は泰然自若。偉ぶることは皆無で、それからは例の朝の5分間が10分になっていつでも会ってくださいました。家にも呼んで下さり気さくな話を伺いました。大蔵省をけって入社された話もありました。

「東クン、社長になると孤独なもんでな・・・」覚えてませんが僕が何か生意気を言ったんでしょう、「そんなことを言ってくれるのはキミだけなんだよ」。ハンコを押しながらつぶやかれた社長の笑顔は忘れません。

12月の末にちょっと来てくれと電話があり、来年の相場はどうか、どんな株が上がりそうかを書いてきてくれといわれました。そこで一生懸命に書いたそのままが正月3日の日経新聞で、恒例の「日本を代表する経営者の今年の株価予想」の欄に社長の写真と一緒にのっていました。

それから2年、赴任3年目の4月にいよいよ僕がS先輩のあとのインストラクターに指名された時、喜んでくだっさたU社長が「キミの初めての部下だな。あした連れてこいよ」となり、社長室で新人3人に「いい会社に入ったね」と言葉をかけて下さいました。いい会社・・・社長もあの時のS支店長の電話の話をほめておられたのです。

僕が留学で転勤のご挨拶をすると社長の口座はすぐ閉鎖されました。その後、財界のトップになられましたがお亡くなりになるまでお会いできませんでした。しかしこのことは僕の心のど真ん中にずっしりと刻まれております。もう野球の一芸は必要なくなって、これがその後の人生のバックボーンになりました。社長、支店長、そしてAさん、本当にありがとうございます。

 

どうして証券会社に入ったの?(その7)

 

 

 

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どうして証券会社に入ったの?(その5)

2014 NOV 30 3:03:42 am by 東 賢太郎

 

<素晴らしい男たちの巻>

 

支店の人間模様は複雑で、そりゃ150人もいますから社内旅行なんか普段たまったものが爆発して大騒ぎになります。あれはたしか和歌山の温泉でした。旅館を貸切で大宴会となり、新人3人は女装させられてパンツ一丁にスダレみたいなスカートをはいて宇宙戦艦ヤマトを歌いました。

大広間の宴会場は大変なことになっていました。むこうのほうで酔漢が大声で暴れて皿が飛び、窓ガラスが砕け散って電気は笠ごとふっとんでいました。僕は先輩酒豪女性軍のイッキ攻めにあってひとたまりもなく撃沈され、気持ち悪くなって這って流しまで行って水を飲んだあたりであえなく記憶が途切れました。翌日、旅館からは出入り禁止通告がでたとの一報がありました。

いろんな先輩にお世話になりましたが、僕の中でひときわ群を抜いた存在がMさんでした。課が違うのにとりわけかわいがっていただき、北新地はもちろん場末の末にいたるまであらゆるジャンルをテリトリーに、ピンサロ、オカマバーからありとあらゆる未知の場所に連れて行かれ、おごっていただきました。まさしく人生経験の奥深い薫陶をいただいた大兄であります。

行くと必ず4-5件ハシゴして朝4時まで飲んで、カプセルインで2時間寝てそのまま出社です。カプセルがいっぱいで、仕方ないと支店に戻って国債の宣伝の看板をたおして寝たこともあります。西本町の映画館で「あしたのジョー」やヤクザ映画を徹夜で観てそこから出社もありました。酒が弱い僕は飲み歩くのが苦手な性分ですが、M先輩と飲んで遊んだのはなぜか底抜けに楽しく別格でした。

高校から直接社会に出て苦労されたのにそんなことは微塵も出さず、めっぽう明るくてあったかくて男気にあふれ、営業に苦しんでた僕を見かねて励まして下さっていたのです。一度ご自宅に呼ばれ奥様に「いつも僕のせいで・・・」と謝ったら、「いいえ。いつも、あいつはいいぞって、ご迷惑ですよね。ごめんなさいね」。もう言葉を失いました。Mさんどうされてるんでしょうか。

 

証券会社に行きたいと言ったら親父から「株屋だよ、やめときなさい。賢ちゃんには無理だよ」と大反対されました。あの世代の銀行員の常識からすればそうだし、たしかに学生の僕のままだったら圧倒的に無理だったのです。しかし、この梅田支店で先輩にお客様にさまざまな感化をうけ、僕はもう親父の知らない僕になっていました。

株というのは非情なものです。数字だからです。金融というのはきれいごとの名前で、銀行も証券も保険もみな数字を売り買いする商売のことをいうのです。数字に情はありません。中でも仕組みの商売ではない証券業務というのは生き馬の眼を抜くと言われるように弱肉強食の世界です。

そこで働く男たちというのは、入社前のイメージでは007やゴルゴ13みたいに非情でニヒルなように思ってました。しかし現実には熱くてあったかい人が多いのです。新し物好きで好奇心旺盛でフレキシブルで物事に感動できる男たち。楽しいことに目がなくて、いつも人生の明るい方(ブライターサイド)を見ている。最高じゃないですか。

それは決まりきったルールに則って数字を冷徹にあやつる他の金融とは違う人種です。みんな同じことをしているので、新人だっていい商いをすれば同じ土俵で認めてくれます。それは高校で味わったあの野球部の世界そのものでした。外へ出ていって誰と会ってもいいぞ、普通の会社ではありえないことです。

支店長に買っていただいた「新エネルギー論」。この本はいまでも大事にとっています。あの日、ウメ地下の壁新聞のあたりでばったりお会いしなかったら・・・。今となっては、テレビドラマでさえ「それはないだろ」、というぐらいのことがおきてしまう。あの日辞表を書いていたら何が起きたんだろう?きっと支店長がびりびりに破いたんだろう。でもそういう結末でなくてよかった、運命だったと思います。

そしてさらに、Mさんみたいな快男児に会い、たくさんの男らしい兄貴分、先輩に愛情をもってしごかれたこと。あれだけプライドをずたずたにされ、ぼこぼこに殴られたのは梅田とロンドンだけでしたが、これまでの人生で最高の仕事ができたのもその2つなのです。男の兄弟がない、兄としてぶん殴ってくれる存在がない。それが僕には必要でした。そのアニキがたくさんいたのが梅田支店でした。

どんなにしんどくても、もうそれからはその一員であることに誇りを覚えるようになっていました。株屋?いいじゃないか、そんなら日本一の株屋になってやろうじゃないか。

 

どうして証券会社に入ったの?(その6)

 

 

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どうして証券会社に入ったの?(その4)

2014 NOV 29 0:00:53 am by 東 賢太郎

<ついに初商いに成功するの巻>

 

「飛び込んで名刺を百枚集めろ」!

インストラクターS先輩によるこの命令は滅茶苦茶でした。同期に社内電話して、おい、お前んとこはどうだときくと、だいたいが「電話でアポ入れだ。入ったら会いに行くんだ」といいます。そりゃそうだろう。「俺んとこは田舎だからな、家に電話だよ。奥さんが結構あってくれるぜ」。そりゃそうだろう!

だんだん腹が立ってきますがS先輩はこう言い放ちます。

「お前らなあ、ここはどこだ?大阪の駅前だろ。まわりは会社しかねえだろ。だから飛び込むのが早いんだよ」

「でもSさん、会社ったってほとんど上場企業しかないですよ。」

「お前らばかか。頭つかえよ、そんなら四季報で外交すりゃ早いってことだろ。ウチの名刺を出して会えない人なんかいないんだぞ。」

うーん、すごい。なんの理屈もないが説得されてる。こういうのがトップセールスってもんなのか。これをまじめに信じて大変なことをやらかしてしまうことになりますが、それは次回にとっときましょう。

さてこの飛込み外交ですが、1、2か月やってるうちにだんだんコツがつかめてきます。楽しいとはいえませんが何ということもなくなってきます。たしかに会社名の威力がなければできないことなので、今ふりかえると良い会社に入れていただいたとつくづく思います。

なにしろ、こういう強力な効能があったからです。

①目的が数字でわかりやすい。

あと5 枚ぐらいになると夜の7 時で真っ暗でも、「くそっ、もうひと頑張り」となる。全力でやってこい、頑張ってこいのような指示より壁際のプレーまでやる気が及ぶ。力が伸びるし長丁場では大差になる。

②何か話さざるを得ない

社長が出てきてしまうと「なんや?」「なんの用でっか?」だ。そこでビビったら名刺すらもらえない。相手を見て瞬時に「つかみ」の一発をかます必要がある。話は簡潔でわかりやすく面白くないとダメ。度胸、洞察、機転、話術、説得力、その全部が勝手に磨かれる。もちろん勉強も毎日せざるをえない。

③本当に社長に会える

電話によるアプローチでは絶対に無理。大会社ほど秘書に撃退される。家にかけても奥さんが出るだけでちっぽけな商売にしかならない。本人を直撃するのが王道だ。苦労人が多いから若者が汗だくで説明すると意外に聞いてくれたりもする。

やっぱり3年でトップセールを極めた人の方法は違います。ストレートだし本質のエッセンスを突いているし、鉄は熱いうちに打て、若手を一気に育てるにはこれだと思います。これを何百回もやったら誰だってトップセールスになりますから。この効能は僕の財産になり、今だってその余禄で食ってるみたいなものです。

最近ですがときどき弊社みたいなちっぽけなオフィスでも飛び込みのセールスが来ます。証券、保険、商品、コーヒー、事務用品、人材派遣などなど。悪いなごめんと思いながら僕は会いません。会うと昔を思い出して同情して買ってしまうからです。

 

さて、初めての商売のことです。自動車修理工場の社長で、現場に油まみれだったから作業員のオッチャンと思ったら社長でした。感じが良かったので後日にN社の公募株をもってまた工場にいったら「よっしゃ、こうたるわ」でした。

新人の初商いです。すごい、俺はラッキーだ!この時の感動は忘れられるものではありません。当時の公募というのは少しだけ値引きでだいたいもうかるからサービス商品なんです。それで口座開設してもらえ、そうすればそこからは普通の取引になるからなと先輩から教わっていました。

200円ぐらいの株だったので千株で20万円ほど。このお札を数えるのですが、そんな大金は触ったこともなく手が震えてうまくいきません。ゆっくりゆっくり5回ぐらいやってなんとか確認。「たしかにいただきました!」うれしさのあまり最敬礼して帰ろうとしたら

「兄ちゃん、預かり証もらってへんで」

そうでしたね、総務の課長さんが僕を見て危ないと思ったんでしょう、しっかり者の同期たちの倍ぐらい口酸っぱく仕込まれたイロハはうれしさの余りどこかにすっとんでました。

店へ帰ると たいへんです。S さんに「東、よーやった」と大声でほめられ、周囲の先輩からも「おー、新人、凄いな」とバンバン肩をたたかれ手荒い祝福を受けました。なんかこの世界いいな、俺にむいてるなあ、とこのとき初めて思ったのです。

ところがその祝福はつかの間のことでした。このオッチャンはひよっこの証券マン食いで、それ以来いくら行っても会ってもくれず電話にも出ず、すぐ売り抜けられてそれっきりでした。有名な公募の食い逃げ常習犯だったのです。

名刺は集まれど、商売成り難し。大阪の商人道は行けども行けども果てしなく、ほろ苦いものでした。

 

どうして証券会社に入ったの?(その5)

 

 

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