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カテゴリー: ______ミステリー

E・C・ベントリー 「トレント最後の事件」

2019 OCT 16 23:23:35 pm by 東 賢太郎

ベントリー(1875-1956)の「トレント最後の事件」(Trent’s Last Case)は1913年、「春の祭典」がパリで初演された年の作品である。

先日、池袋の書店でたまたま手に取って「最初の事件」はなかったことを知り、愚を悟った。「レーン最後の事件」と同様に X、Y、Z (の悲劇)にあたる物があると思い込んでおり、順番通りでないと嫌な性格なので読まずに死ぬところだった。

面白い。久々に、ほんとうに何十年ぶりに、古式ゆかしい本格っぽい香りのする滑りだしでわくわくさせられた。中盤でトレントが新聞社への報告書の中で謎解きを開陳するが、ロジックの要所で文字に点々がふってある。これはエラリー・クイーンの同様の個所でおなじみの景色であり、それを見ただけで興奮するパブロフの犬になる。

しかし、とても恥ずかしいことだが、僕はそれをクイーンのパクリと思って読んでいた。しかも、「推理小説に恋愛を取り入れたのが新しい」との世評にだまされており、本作を「本格物に恋愛でひねりを入れた新機軸の色モノ」と勘違いして読んでいたのだ。

とんでもなかった。英国でアガサ・クリスティが現れるのが1920年、米国ではヴァン・ダインが1926年、エラリー・クイーンが1929年、ディクスン・カーが1930年(以上、処女作刊行年)である。トレント(1913年)はまだコナン・ドイルがシャーロック・ホームズ最後の挨拶を執筆中に書かれたのであって、こっちが先なのだ。

推理小説が普通小説と明確に分化する初期の試みとして人間に焦点を当てる恋愛が有機的にプロットに組み込まれ、英国人イーデン・フィルポッツの「赤毛のレドメイン家」(1922)を懐かしく思い出したが、この試みは米国の作家たちには遠ざけられたから新機軸ではあったが不発に終わっていた。

真の新機軸はそこではない。探偵が「観た」殺人現場の不可解さ、どうしてそんな妙な死にざまになってしまったか?が魅力的であることだ。これは成功作の必要条件だが、そうであればあるほど整合的解決に導いて読者を納得させるのは容易でないトレードオフがある。ネタバレにならないように書くが、不測の因果関係で魅力を最大化しつつそれをクリアしたのが実に素晴らしい。

エラリー・クイーンは「点々」だけでなく、「妙な死にざま」もトレントを継いでいると思う(レーン最後の・・・も題名からしてそう)。「Yの悲劇」、「スペイン岬」、「エジプト十字架」はもとより、国名シリーズでは駄作に属する「チャイナ・オレンジ」などフレデリック・ダネイが「妙」だけに賭けた観すらあるが、謎の組成に謎解きが依存する構造において「Y」が近似する。クイーンはロジックの範囲でそれを解いて見せたが、トレントはそこは断念し告白に依存した点が未だ形式の萌芽であり、恋愛をからませた要因と思わせる点だろう。ヴァン・ダイン、クイーンが恋愛を排除したのはロジックの解決のキレを希薄化させないためだったと思う。

E・C・ベントリーはチェスタートンのセント・ポールズ・スクールの1年後輩、無二の親友で、マートン、オックスフォード大学を経て新聞記者となった人物である。原文で読んだわけではないが、文章、描写、ロジック、非常にシャープで文学性もあり、まぎれもないインテリだ。上掲版の訳文も日本語としてすばらしい。

非情でなければ生きて行けない

2019 AUG 6 9:09:17 am by 東 賢太郎

ビジネスをするということは非情になることである。冷たくということではない。ハードボイルドな人間というイメージが近い。フィリップ・マーロウのセリフ、「非情でなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きるに値しない(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.)」の “hard” は「タフ」と訳されているようだが、それならばなぜ筆者のレイモンド・チャンドラーが tough と書いていないのか説明できない。しかも、タフであることと優しいことは両立するから意味が通らない。gentle (優しい、寛大で)の対立概念(両立しない)である hard なら非情(感情に左右されない)というほどの意味だ。ハードボイルド(固ゆで卵)のハードの比喩もそれに掛けているのである。つまり、

情には厚いが、流されないということである。

僕はもともとそういう人間でなかったが、それでは I wouldn’t be alive になろうというひどい目にたくさん遭った。それと、僕の生来の人間に対する価値観が合体し、広い意味での “ファミリー” を守ろうとすると、好むと好まざるとに関わらずそうなるのである。僕はウソが大嫌いだ。好きな人は無論あまりいないだろうが、ウソには悪質なのと仕方ないのがある。仕方ないというのは、見のがすのが大人のマナーという範疇のものだ。これはよくある。「言わぬが花」もマイルドなウソではあり、それがおつきあいの潤滑油になったりもする。

積極的なウソはいわばトリックであって、何らかのこちらの不利益において自己の利益を計ろうとするものだ。ビジネスというものは必ずその計算があるのだからこっちもわかっている。理さえ通っていれば僕は万事を是々非々で聞く。はっきりそう言えばいいのに、言えない理由があるのである。それが何かを知る義務も必要もない。即座に関係終了だから。なぜか?そういう人とのつきあいは、やがて If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. に至ることを知っているからだ。だから問答無用で切る。チャンドラーもそういう男だったんじゃないかと思っている。

この「理さえ通っていれば」という部分が大変に重要だ。それでも「是か非か」はあるが、少なくとも、どんなものでも、僕は必ず真剣にどっちかを考えて判断する。理はないが情でしてくれるだろう、そこをなんとか、わかってくれますよね、という申し出を認めたことはいまだかつて一度もない。判断材料がないからだ。それをしないから情がないと思われても構わない。そういうことが嫌な人間だとわかっていない人、そういう世界やレベルの人とつきあうのは精神衛生上よろしくなく、このトシになって体に悪いことを好んでする理由はない。

僕は韓国に仕事上の友人、知己がたくさんいるがこういう政治情勢になると行き来はできそうもない。しかし彼らはみな理の通った立派なインテリだからつきあっているのであり、一緒こたにしたらそれこそ情に流されているということだ。国と国がどうなろうと彼らとの関係が微塵もおかしくなることはない。国は「挑戦に打ち勝ち、勝利の歴史を国民と共にもう1度作る」と息巻くが、いったい日本の誰が挑戦なんかしてるんだろう?このままだと株もウォンもさらに暴落だろうし財閥は逃げる。経済をぼろぼろにして北朝鮮と対等合併を狙ってるならそれなりに理だが。

アメリカは「俺が一番大事」が理である。困ったちゃんのジャイアン様だが、非情に分かり易いという利点はあり、そもそもないよりましだ。「わかってくれますよね」を無視すると逆切れされるようなことはなく、理でつき合える。日本は外交で gentle である必要など全然ない。If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. でいいのである。日本は早く死んでくれと願ってる「なりすまし」の新聞やテレビがどれなのか、賢明な日本国民がそれを見抜く好機がこの1か月であった。ここからもっと白日の下にさらけ出されるだろう。繰返すが、積極的なウソはいわばトリックであって、何らかのこちらの不利益において自己の利益を計ろうとするものだ。トピックが森羅万象の何であれ、僕は万事に渡り、「なりすまし」のウソつきが虫唾が走るほど嫌いだ。

 

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アガサ・クリスティー「鏡は横にひび割れて」

2019 MAR 4 23:23:37 pm by 東 賢太郎

相変わらず暇があればミステリーです。本作品はけっこう評価が高く、ストーリーが平明で錯綜していないのでサクサク読めます。クリスティは血の匂いがないといわれますがこれもそうですね、殺人は道具だてにすぎず、それが起った場面で主人公がどうしてそんな表情をしたのか?という謎が全編の主題となって物語は進行していきます。その謎は最後にミス・マープルによって解明され、なるほどとなる。パーティー会場の階段の踊り場という開かれた場所での殺人事件なのですが、そこに居合わせた人間は20名ほどと限られており、いわば密室である。その全員が登場人物リストには載っているわけではないということから容疑者は少数で誰にもチャンスはあります。それが誰かというのは動機が何かではっきりするということで、ホワイダニット(なぜ殺したのか?)型であるといえましょう。

動機がわかると謎の全貌に納得です。この納得性はお見事であり、読者への挑戦状をたたきつけるほどの手掛かりの合理性、透明性、ロジックの切れ味はないかもしれませんが、種を明かされるとこの小説の設定のすべてが実はそれの伏線であったとわかります。近くで見ると輪郭のぼやけた絵であるのが、すこし離れてみると誰の目にも鮮やかな教会の描写であるモネの印象派絵画のようで、それに気がつけば容易に犯人も動機もわかったかもしれない、フェアだなと感じさせられます。わからないように巧みに書いてあるのでまず無理なのですが、そう思わされてしまうのがいつも感じるクリスティーの筆力ですね。評価の高さはそれの成功度の高さにあるのかなと感じました。

僕のブログを読んで来られた方にはネタばれになるのでモネのようにぼかして書きますが、いまこの時期にこれを読んだというのは実に不思議な因縁を感じてしまいます。何かの理由で出会うべくして出会ったかな?

本作を読み終わればどうしてそう思ったかはたぶんどなたにもお分かりいただける、それほどのグッドタイミングでございました。

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アガサ・クリスティー「雲をつかむ死」

2019 FEB 7 22:22:55 pm by 東 賢太郎

疲れたときのエンタメというと、適度にはいりこめて雑事を忘れられるミステリーになってしまいます。中でもアガサ・クリスティーは軽くていいですね、意外に読んでないのがあって「雲をつかむ死」というのがそうでした。これ以前は「大空の死」と訳されてましたね。

手にしてなかったのはあんまり世評が高くなかったからです。今回、先入観なく読んでみて、まあただのエンタメでしたがそれなりに雑事から心が解放されて目的は達したのでした。クリスティーの人気の秘密はこれでしょう、凡作でもこりゃひどいとは思わない、ちょっとビートルズに似てるかな。

飛行機という密室で堂々と殺人がおこり、いかにロジカルに謎が解かれるかと思って期待しながら、結末はぜんぜんロジカルでない。なんで黄蜂が飛ぶ必要があるんだよなんだこれはとなるのですが、手掛かりの開示や人物描写は一応意味ありげにクリアであって、それに幻惑されてアンフェア感は不思議となく、僕は完全に別の人物が犯人と思ってましたがミスリードでした。犯行の謎解きはおいおいそんなのありかよですが、そこに至る灰色の脳細胞エルキュール・ポアロの推理の追い込みが(内容はわからないのだけれど)確信に満ちている風に見えるものだから、なるほどこんな賢い人がそう言うんだからきっとそうだったんだろうと思わされてしまう。

つまり筆力の勝利ですね、さようでしたか、あんまり考えても当たらない犯人でしたね、犯行の瞬間の描写もね、叙述トリックというかアクロイド事件に近いものでしたねと思うのですが、まあそれなりに楽しんだからいいや、800円でいいpastime(ひまつぶし)ごっつぁんでしたとなりました。当時の飛行機は荷物を客席の後部に積んだのかとか、サーブはスチュワート(男)がしたのかとか、本筋でないことが面白かったですね。

 

アガサ・クリスティ 「葬儀を終えて」

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「幻の女」のWikipediaは絶対に読むな

2018 JUL 13 13:13:50 pm by 東 賢太郎

ミステリーの話をした。かつて何が面白かったかとなって、僕は迷うことなくウィリアム・アイリッシュの「幻の女」を挙げた。いつ読んだかは覚えてないが大学2年では知っていたからそれよりは前だ。なぜわかるかというと、2年で米国に行った折、ある都市の通りの名前がこの作品の登場人物の名と同じだと思ったことを鮮明に覚えているからだ。いかに「幻の女」のインパクトが強烈だったかを物語ろう。

長女と息子に「読んだ?」と聞いた。二人ともNoだ。「そりゃあなんてうらやましい、まだ楽しみが残っててよかったね」「そんなに面白い?」「読めばわかるよ」となった。その翌日のことだった、僕はWikipediaを検索して唖然とすることになる。二人にはそれを絶対に読むなと即座に厳命した。

これはひどい、この「あらすじ」は即刻削除すべきである。こんなネタバレを堂々と公表されて早川書房はクレームしないのか、Wikipediaはこんな行為を野放しにするのか。1942年の作品だからおそらくpublic domainだが、事はそんな問題ではない。この作品はウィリアム・アイリッシュなる天才が書いた一期一会の傑作であり、初読の一度だけしか許されない驚天動地の快感を他人から奪うような行為は許すべきでない。Wikipediaも英語版や韓国語版にそんな破廉恥はない、日本の恥である。

「ネタ」などと軽々しく世紀のインテリジェンスを石ころ並みのインフォメーションにしてくれる。それを便利だねと表層のうすっぺらな社会が享受する。そういう人たちがやがてインテリジェンスを持つようになるなどということはSF小説のネタにすらならない超現実的なことである。ネットはそうやってどんどん人から感動を奪い、頭脳を退化させ、馬鹿に貶めていくのだ。

同書を買って帰り、ミステリー好きの息子に朝に渡したら夜には「これは凄い」と溜め息まじりに感動して返してくれた。よかった。これからの皆さんも被害にあわないことを心より願う。

 

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ダシール・ハメット「マルタの鷹」

2017 NOV 9 2:02:38 am by 東 賢太郎

ハメットの「マルタの鷹」はだいぶ前に読んで、謎解き小説好きとしては面白いと思わなかった記憶がある。ただ主人公の私立探偵サム・スペードの非情なところ、好きな女を警察に突き出すなんて俺にはできないなあというところはこたえた。それが本性なのか功利なのか、読めないところがいい。

スペードは女に弱いが、女に見下されるのを嫌う。これが本性なのは「君(女)にコケにされるのはごめんだ」というセリフでわかる。事実の静的描写に終始するハードボイルド小説に珍しく情緒が浮かび上がるから響く。女が相棒を殺した。「相棒は屑野郎だったが、男ってのは相棒が殺されたら放っておけないものなんだ」。これも響くが、「君は俺にウソを言った」ことがそうさせたかなと思う。

スペードみたいな男が格好いいと思った時期があって、今も多少は残ったかもしれない。小学校で女の子にばかにされ、あれ以来女に見下されるのを嫌うようになったからどことなく共感があったのだ。それに、やっぱりウソをつく人は蛇蝎の如く嫌いだ。ウソには弱さなどからくる生きるための許容範囲のウソと、そうでない強い者が悪意によってつくウソがある。前者は場面場面では仕方ないだろうし善意のウソだってある。しかし後者は人間性、本性、品性の問題であり、ひとつあれば万事にわたってそういう人だと判断せざるを得ない性質のものだ。その人が何かの価値基準によって悪い人かどうかということよりも、そういう人はおつき合いを金輪際忌避したいということだ。

金融のホールセール部門という欧米のインテリヤクザのグローバルな騙しあいみたいな業界で40年近くやっていると、物事も他人様もサム・スペードのように無感情、叙実的に見るようになっている。冷たいとは思わない、あくまで騙されないための自己防御としての業務用の視点だ。決闘するのに相手の身重の女房や病気の子供の顔など浮かんだらこっちが殺られる。冷徹なビジネスに情状のアピールを持ち出すのは弱くて力のないことの表明であって、そういうのは単なる「たかり屋」であることが極めて多く、相手として勝ってもたいした戦果はないし相棒(パートナー)として組む意味はもっとない。

無感情、叙実的に見ても人間は顔だけではわからない。何年もつきあって、いろんな局面で是非を見て、力量と信用度を量る以外にはない。相手だって力量のある人ほどそうしてこちらを量っている。そうやって初めて信頼関係というものがそこはかとなくできてくるものだ。相思相愛ではなく、相思相信頼だ。そういうふるいにかかって残るのは、僕の場合は少数であった。友達、知人という程度のものではないもっと特別な存在であるから、こっちが死ぬまで大事にする、いや、すべき人たちである。

ウソがないか、逃げないか、裏切らないか、言行一致か、口が堅いか。これが絶対基準だ。大丈夫と踏んだのに、あとになってひとつでもそうじゃないということが発覚することがある。これはつらい。信頼をゼロにすることになる。ということは、もうつきあわないことになるからだ。男女は関係ない。ただ、矛盾するようだが、そうなって屑野郎と思っても僕はいったんパートナーになった人は必ず守る。来るもの拒まずの親譲りの性格ゆえ、来て受け入れた人を守らなければ親の否定、自分の人格否定になるからだ。

若いころ、素っ裸の状態で知り合って酸いも甘いも良いも悪いもお互い知り尽くしている人たち。掛けがえなく貴重だ。そういう人たちがいるという唯一の理由で、いま僕は自立して仕事ができている。これからめぐり逢いもするかもしれないが、もう素っ裸になれないしあんまり許された時間はない。いま20代、30代のひとたちに告ぐ。そういう友達をいまのうちに何人つくれるかが、人生黄昏に至っても信頼関係の絆で助け合える人を何人持てるかになる。言っておくが、ただの仲良しからはパートナーはでてこない。必死に何かを共にやった人、仮にその時は敵であっても、そこにいるのだ。それを求めてもいけない。ただ日々粛々と必死に何かに打ち込むことだ、そういう人には神様が人生のパートナーを授けてくれる。

夏目漱石の日本語

 

 

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クラシック徒然草 《マーラーと探偵小説》

2016 DEC 5 11:11:11 am by 東 賢太郎

探偵小説マニアの女性というのはあんまり見かけない。いるのだろうが今の周囲にはいない。僕は女性が好きそうなトラベルミステリーとか人情物は興味がないというのもあるかもしれない。

たまたまそういう方がいて、じゃあどこが好きかということになった。人間ドラマのどろどろですねという彼女に対し僕はロジックの理路整然なのだからまったくの対極でかみ合わない。純文学だろうが探偵小説だろうが人間なんて一皮むけばみんなどろどろなんだから、そんなわかりきった小説を書くのも読むのもエネルギーの無駄だろうと思ってしまうのだ。

探偵小説というのは暗黙のルールがあって、犯人は智者で読者は愚者、そして探偵は天才であるという三位一体がつねにある。愚者と天才はまあどうでもよくて、犯人=智者というのが問題だ。犯人が行きずりの粗暴な衝動犯でもいけないし、一応は計画犯だが愚鈍だったりでもいけない。警察捜査で事件は片付いてしまって、肝心の天才の出番がないのである。

しかし犯人が天才では探偵と相討ちになってしまって事件は解決しない。だから仕組んだロジックにわずかなほつれを作るぐらいの智者がいいのであって、天才である探偵はそれを見逃さない。はい、では皆さんは見つけられましたか?という物語であって、ほら、やっぱり無理でしたね、どうですこの名探偵、天才でしょ?というホラ話をまじめに受け入れられる素直な人たちのために書かれているのが探偵小説である。

そこで、智者である犯人像の創造が難しい。変人だと読者にバレる。しかし智者すぎると、そんなリスク・リターンの悪い犯罪なんか頭のいい奴がやるはずねえだろとなってしまうのだ。いわゆる本格推理小説というのはほとんどがそこに破たんの源があって、読み終わるとこんな低能な物書きに騙されて印税まで払ってしまったという自己嫌悪感しか残らない。

そこで目くらましとして「どろどろ派」やら「社会派」が出てくる。それに犯人をまぶして動機と人間性を隠ぺいするのである。それでも童謡に添って人を殺したり現場にトランプを置いていったりなんてくだらないことで捜査側をあざ笑おうなんてハイリスク・ノーリターンな行為がいささかも現実味を帯びるとは思わないが、仕方なくやる隠ぺいが謎を深めるといういっときのプラス効果はある。その失敗のツケは種明かしのあほらしさとなって倍返しでやってくるのだが。

そういいながら探偵小説に騙され続けているのは、小中学生のころ読んだホームズやクイーンが面白かったからだ。三位一体とワトソンの叙述がエクリチュール化して逸脱を許容しないホームズ物はともかく、挑戦状による読者参加型を装っておいて解決が完全にはロジカルでなく実は三位一体型以外の何物でもないクイーン物は造りそのものが騙しであるという確信犯的部分に創造性を感じるから騙されても腹は立たなかったのである。

中では、オランダ靴の謎とエジプト十字架の謎の二作だけが犯人が当てられるという意味でロジカルであり三位一体としては失敗作なのであるが、ちなみに冒頭の方は後者は未読で前者は面白くなかったらしい。X・Y・Z・レーンはYだけではニーベルングの指輪と言ってもわからない。人生楽しみが残っててうらやましいですねと申し上げるしかない。

ロジカル派には時間がたつと犯人を忘れるという文学作品ではあるまじき特色がある。数学の問題は解ければいいのであって解答が2だったか3だったかはどうでもよくて後で覚えてもいない。しかし上記のような名作はそれがない。ロジカルである数学の問題は解ける人と解けない人がいて、ある物体に気づけば解けるエジプト十字架などとても数学、いや受験数学的だ。

しかるにどろどろはどうも探偵小説に本質的なものではなくて、その大御所はドストエフスキーだし音楽ならマーラーでしょとなってしまう。寒村のどろどろまぶしの達人である横溝正史は、あれはあれでああいう特異なホラーものとして僕も嫌いでないが、まぶしの技巧が後天的に売りになったのであって彼もクイーン的ロジックを構築する緻密さが基底にある。室内楽で名品を書けたからマーラーはマーラーたりえたのと似る。

マーラーこそ交響曲の到達点だと信じこんでいる人に音楽は進化論では語れないと説いても無意味であり、あれは文学であってとっつきようもないと表現するしかないが、そういう人はバッハやベートーベンまで文学的に聞いたり演奏したりしている気がしてこれまたとっつきようもないのは別人種なのだから抗い難い。作曲家がソナタという定型的なしきたりで曲を仕上げる作業は探偵小説作家の作業と通じるように思う僕には、その問題は避けて通れない。

対極をすっと受け入れるほど僕は大物ではないが、しかし仕事ではそれは意識して重視している。僕のような性向の人間が気がつかないことを指摘してくれるのは、いつもそういう対極側の人だったという明白な経験則があるからだ。

 

なりたかったのはシャーロック・ホームズ

 

 

 

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織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎

AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。

この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。

今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。

それは何のことはない、こんな場所だった。

honnnouji路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。

この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。

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織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。

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もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。

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なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。

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その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。

 

 

もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。

明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。

ブログでは、

僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。

と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。

それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。

明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。

本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。

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余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。

 

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

 

 

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「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシミュレーション)

2015 JUL 26 8:08:36 am by 東 賢太郎

遊びは戦争のシミュレーションである。

これは僕の持論で、それもけっこう気に入ってる類のものです。戦争がいい悪いはこの際おいときましょう。なぜなら、社会へ出て、将来少しぐらいは他人よりいいポジションにつきたいと思っている若者にとって、待っているのは戦争以外の何ものでもないからです。いいポジションというものは、まじめにやってれば与えられるものではなく、ぶんどるものです。

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池井戸 潤の「シャイロックの子供たち」を読んでとても面白かった。筆者は銀行でこういう原体験を持ったのでしょうがどこでも一緒ですね。サラリーマンの出世競争にきれいも汚いもなく、奸計を弄してできる奴の足をひっぱる奴、権力で部下を利用し不要になると捨てる奴、上司のヨイショで上に登るお小姓野郎、そういうどうしようもない下郎がいくらでもいるんです。出世競争は実力だけではなく、いつも正論を吐けばいいわけでもなく、下郎に対しては下郎なりの戦略を持ってなくてはいけません。

 

中学のころです。世の中そういうもんかと僕に下郎の仮想体験をさせてくれた小説に漱石の「坊ちゃん」があります。「おれ」と同じぐらい義憤の塊になってしまい、一緒になって赤シャツ、野だいこをやっつける気になってたのがなつかしい。会社に入ってわかりました。どこの組織にも必ずいるんです、赤シャツ。その周りを見渡すと野だいこがこれまたたくさん出てくるんですね。うらなりも山嵐も笑っちゃうほどちゃんといるんですよ。

英語教師のうらなりが婚約者のマドンナを赤シャツにとられて飛ばされちゃう。時代が時代だから池井戸の上掲書や半沢直樹シリーズにくらべればあまりに他愛ない下郎ぶりですが、似た事件もありましたね。まあそんな程度のことに義憤で立ち向かう「おれ」の男ぶりがさらに際立ってくるのが現代の読み方なのかもしれません。パワハラなんてレベルの話じゃありません。もっと上でもっと堂々と陰湿なことが行われている。

赤シャツ、野だいこに天誅を下して辞職した「おれ」はサラリーマンとしては負けなんです。そこはもう人間の価値観ですね、人生何が大事かっていう。義憤でテーブルひっくりかえして溜飲を下げるのも気持ちがいいが、男の場合は守るべき家族ってものがあります。だから溜飲を下げるなら、どうなったって食える覚悟がなくちゃいけません。その力もないなら、義憤はあきらめて、お小姓の家来にでもなるかプライドも人格も捨てて組織の犬にでもなることです。別名、奴隷ですね。

冷たいことを書くようですがマキアベリだったらやっぱりそう書くでしょう。そういうもんなんです現実は。サラリーマンというのは単なる使用人であって、オーナーでなければ役員になろうがなんだろうが、社長になったって、実は使用人です(東芝をみたらわかります)。サラリーマン社長というのはどんな大企業であろうと銀座のクラブでいえばチーママ、雇われママなんです。ママは大株主であるオーナー社長以外にあり得ません。株を持ってなければ辞めたらただの人ですね。世間一般はそういうことを知りません。

だから、赤シャツ、野だいこをぶんなぐるのが面倒臭いなら、自分で会社つくってオーナーになることです。起業するということですね。その甲斐性がないなら、仕方ないからサラリーマン戦争に参戦してえらくなるしかありません。くだらない戦争ですが、やるならある程度は勝たないと面白くないですね。そう思うかどうかです。奴隷でいいという人は僕のブログなど時間の無駄ですから退出してください。そうでない人は、だから遊びなさい、思いっきり失敗できる学生のうちに負けの経験をたくさん積んどきなさいと言っているのです。

スマホでゲームなんかやってるのは暇つぶし、石つぶしであってそんなものは僕のいう遊びじゃない。ゲーセンやパチンコと何も変わらないです。失敗しても痛くもかゆくもない、何も人間を学ばないし追い込まれもしないでしょう。ゲームやるなら麻雀をやることです。僕はたくさん負けたからわかる。あんなに戦略的で、人間が学べて、だからこそ負けると悔しい遊びは思い浮かびません。カジノは金額は張って負ければ悔しいし経済的に追い込まれもしますが、運試しの要素が強い。人間をじっくりと観察して根っこから学ぶにはディーラーは不適です。麻雀の4人みたいに関係が対等じゃないからです。

スポーツは負けても金は減りませんが、人間として全人格的に勝者に否定され、劣後した気持ちになりますね、特に男は。プライドも名誉も女も取られるんです。戦争で負けたのと同じです。だから同好会みたいなのはだめです、そうなりませんからね。スポーツである必要はないがこういう屈辱を味わってないと結局は弱いと思いますよ。負ける屈辱なんて実は大したことないし、それが倍返しの強烈なモチベーションになるのに、経験がなくて怖いままだと往々にして逃げるようになるんです。そういう人が非常に多いですね。言いわけ、口実でケツまくって逃げる性癖を持ってしまう。そういう人はここぞという場でいよいよ初めて負けて大怪我するし、そもそも勝負弱いです。もっと困るのは目利きに信用されません。僕は大事なところでそういう部下を絶対に使いません。

海外に出てみる。それもなるべくツアーじゃなく自力で。いかに自分が理解されないか、何でもないか、日本人がどう見られるか、完璧にわかります。言葉の問題じゃない、そんなのは「理解されない」ことの一部分にすぎません。ふつうプライドがずたずたになります。負け体験ですね、それがいいんです。どうしたら理解されるか、仲良くなれるか、上回れるか、いろいろ考えます。自分の頭でね。それが自分の肌に合ったインテリジェンスになります。くだらないノウハウ本を百冊読むより1週間の海外体験が確実に勝ります。英語ができない?行ってしまえばいいんです。できないと生きてけないから必死になり、なんとかなるもんです。

戦争というのは、負けてはいけないんです。勝つためにやる。だから先にシミュレーションしたほうが強い。本番の前に問題集を解いた方がいいですね、そこでたくさん間違えたらなおいい。弱いところを教えてもらったのだから、そこを特訓して本番に臨めば勝つ確率は格段に上がるのです。だから、思いっきり遊んでください。例に挙げたスポーツ、麻雀、個人海外旅行、ぜんぶ人間を相手にして鍛えられるものですね。人間相手であれば何でも構いません。お薦めしてることの究極は、人間を知って、観察して、利害関係をもって、相手がどういう顔や性格や言葉つきや行動パターンだとこういう奴だという目星をつける能力を磨くということなのです。

 

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必死にさせてくれる人

 

 

 

 

 

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高木彬光「呪縛の家」を読む

2015 JUN 22 12:12:51 pm by 東 賢太郎

ミステリー作家にはクラシック音楽好きが多い印象があります。ヴァン・ダインやエラリー・クイーンの作品にはその薀蓄(うんちく)が現れるし、横溝正史は長男が音楽評論家(横溝亮一氏)になられたほど。そのほか名探偵がマニア(コリン・デクスター)だったり、音楽そのものを題材にした現代ミステリーもけっこうあります。

9784334768997高木彬光の「呪縛の家」を読むと、連続殺人が交響曲の楽章に見立てられており、彼もその一人だったのかなと思います。

これを読もうと思ったのは新幹線でヒマなのが嫌だったからで深い意味はありません。ところがうれしいことに、この作品は終章にいたって「読者への挑戦状」がありました。

エラリー・クイーン「災厄の町」を読む

にこう書きました。

 

最後に「読者への挑戦状」があって負けたくないので緻密に読みます。それでも負けてしまう。というのは、実はクイーンのロジックは緻密でないからです。

さて、それでは呪縛の家」はどうだったか?

犯人はわかってしまいました。第1の殺人の犯行方法も、そりゃないでしょという解答なもんでわかりようがない部分をのぞけば、たぶんこう落としたいんだろうという原理的なものは。

ということはですよ、この作品は緻密なロジックで書かれているということなんでしょう、少なくともクイーンよりは。「読者への挑戦状」があることでクイーンのまねであることは自明なのですが、筆者は作中にアガサ・クリスティとヴァン・ダインの古典的名作を引いていて、後者は犯人名まで堂々と書いてしまってます。

読んでない人は要注意ですが、書かれた1958年当時はそれらの古典の余熱が残っていて、ファンはそのぐらい読んでいてトリックは知っており、そういう通をだしぬこうと筆者が意欲作を書くという良き時代だったことがうかがえます。

トリックが出尽くしてしまったいま、こんなのに出会えてわくわくしました。

 

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ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

ネコと鏡とミステリー

 

 

 

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