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カテゴリー: ______ミステリー

エラリー・クイーン「災厄の町」

2015 MAY 17 19:19:44 pm by 東 賢太郎

51qs8cL-0-L._SL250_クイーンの長編はほぼ読んでしまったのでこれは珠玉の残り物でした。読んだのは早川書房の「新訳版」(越前敏弥訳)で、翻訳者の越前氏のブログによると、

『災厄の町』はクイーンの後期の代表作で、クイーン自身が最高傑作と評したこともある作品です。わたしも、海外ミステリーのオールタイムベストを選ぶとき、かならずこの作品を上位に入れます。」

とあります。楽しめました。僕にとってクイーンは思い出の卒業アルバムみたいなもので、感動→失望というプロセスをたどったものですからすでに過去のものでもあり、読み残しの何作かも食指が伸びずじまいでした。これを本屋で買おうと思ったのも熱が再燃したわけではなく、字が大きいから。何ともさびしいものですが。

中学~高校時代にハマって片っぱしから読みましたが、パズラーとしての凄味と切れ味に感服したものですから一言一句を熟読しまして、国語の教科書よりもずっと影響を受けたと思います。

還暦になって、クイーンの影響が「3つ子の魂」と化したことを列挙してみると、

  1.  ロジック好き(=要は理屈っぽい)
  2.  細部好き(=全体と細部に優劣なし、些末な事は世になし)
  3.  物証好き(=人より事実を見る、いい人・悪い人はない)
  4.  リアリズム好き(=あいまいが嫌い)
  5.  やりあげ好き(=解けない問題はない=必ず最後までやる)

 

です。クイーンによってそうなったというより、おそらく元からそうだったからクイーンが好きになったのであり、クイーンがそれらを増幅したということのようです(1-5の末としてもうひとつ、6.こうして文章がくどくなる)。

中高時代というと勉強はともかく野球と音楽で忙しいさなか、普通ならもう少しまとも?な名作文学全集や純文学にあてる限られた時間がそっちへ行ってしまったわけで、文学趣味や詩心には無縁のまま馬齢を重ねてしまいました。

さてクイーンですが、瓶やら靴やら帽子やらの物証をめぐる文章を読むわけですが、最後に「読者への挑戦状」があって負けたくないので緻密に読みます。それでも負けてしまう。というのは、実はクイーンのロジックは緻密でないからです。

なぜならそれは作者がロジカルだと勝手に了解した方法論に則って書かれた数学の答案みたいなものであって、でもこう解けば答えは違うとなる。あるいは解くための所与の条件に恣意性がある。したがってロジカルでないのです。

僕が読んだかぎりですが、解決が本当にロジカルな答案となるミステリーはないのではないでしょうか。必ずアンフェアなまま真相が開示されると言い換えてもいいし、必ずフェアネスより意外性に重点が置かれたスタンスで書かれていると言い換えてもいいでしょう。

そりゃそうです。数学の答案に金を払う人はいないでしょう。「驚天動地の結末」こそが商品です。だから昨今のミステリーはどんどんこけおどしに淫してしまい、ロジックが導き出すスマートな意外性を見ることはほぼ皆無になりました。

クイーンの人気の秘密はそのロジック解法のスマートさに「こだわっているふり」をし続けてくれたことにありますね、きっと。ふりということはウソなのですが、ウソでもいいからやってほしい。これってコスプレの世界です。ちょっと倒錯があります。

大人になって読んだ「チャイナ橙の謎」あたりでそれに気づいて飽きてしまい、だから「オランダ靴」や「エジプト十字架」、「Yの悲劇」をなつかしみつつもクイーン教を脱退してしまいました。

しかし、その不自然さは問題設定に欠陥があるんじゃないか。良問はロジックと意外性を両立できるのではないか。まだ仕掛けを見抜けない中学生の僕にはそれは達成されていたのだから、大人レベルで超絶的な作品が出てくるんじゃないか。

そういう幻を追いかけてまた読んでしまう。ミステリーはそういうビジネスなんでしょうが、商売なんかぬきにして真剣勝負を仕掛けてくれる天才が現れないでしょうか?それともオヤジの空しい願望なんでしょうか。

ちなみに「災厄の町」はロジックを文学的味つけに内包した所に新味があるという評価が一般的のようで、クイーンの片割れのフレデリック・ダネイが79年にキャロル大学での講演で「これまで書いた中で最高の作品」といったそうです。

僕はそうは思いませんが、一般に「後期」と呼ばれる方向に持っていきたい作者の意気ごみは感じます。このへん、3大バレエ後の渡米したストラヴィンスキーを思い浮かべてしまいますね、気持ちはわかるんですが。

この作品、やっと殺人がおきたところで犯人がわかったということで、したがって、ロジックはフェアであるといえます。というより、見抜かれるリスクをかなり負っている。それをカムフラージュするために人物の心理描写が必要になったのであって人間を描いた文学性(のようなもの)はトリックの素材です。

新味とはそういう意味でなら正しいでしょう。ダネイの「最高の作品」という自薦もたぶんそうではないでしょうか。しかし、この手法のリスクは、文学に疎い僕のような無粋漢にはそれがちっとも煙幕としてワークせず真相がわかってしまうことでしょう。

なによりその煙幕が書物の梱包に関わる「ある事実」を知るまでエラリーにも効いているのであって(だからこれが素材だと分かったのです)、名探偵より先を行っている優越感すら味わえたという稀有なエンターテインメント性のあるミステリーでした。

それだけなら苦笑して終わりなんですが、そうではなかった。「ある事実」で急転直下、ロジックによって全てが覆って真相解明に至る、これは「エジプト十字架」のリフレーンであり、あるストーリーに添ってやむなく事態を進行させた非合理が謎を残す、これは「Yの悲劇」のリフレーンです。

何と懐かしい!わくわくしながら読み終えました。まあイメージとしては80年代のベンチャーズのライブみたいな観はあるものの、許せてしまいますね。お薦めです。

 

(こちらもどうぞ)

アガサ・クリスティ 「葬儀を終えて」

 

 

 

 

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クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

2015 JAN 20 18:18:13 pm by 東 賢太郎

先日、関東にお住いの方からSMC(西室)当てに長文のメールをいただいて、拝見すると去年11月に書いたこのブログのことでした。

僕がクラシックが好きなわけ

ずいぶん前ですが、「ボレロはセクシーですね」という女性がおられて絶句し、

『こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない』

と書いたのですが、頂戴したのはそれに対しての大変に興味深い論点を含むメールでした。それを読んで考える所がありましたので一部、要旨だけを引用させていただいて、ラヴェルについて少々書いてみたいと思います。メールには、

私もあの・・・中略・・・部分を耳を澄まして聴いてしまいます。東さんの説によると、ボレロに関して私は”何千人の一人”に入ってしまうようです。

とありました。僕の記事を見てデュランのスコアをご覧になったとも書かれていて、とてもうれしく存じます。

先般も「ブーレーズの春の祭典のトランペットに1箇所ミスがある」と、ブーレーズとトランぺッター以外誰も気がつかなかったかもしれないウルトラニッチなことを書いたら、それを探しだしてコメントを下さった方もおられ感動しました。お好きな方はそこまでこだわって聴いているということで、普通の方には別に飯のタネでもないのにずいぶんモノ好きなことと見えるでしょうが、飯より好きとは掛け値なしにそういうものだと思うのです。

ボレロの9番目の部分は倍音成分の多いフレンチホルンにパイプオルガンを模した音色を人為的に合成しようという意図だったと僕は考えております。各音に一定比を乗じたピッチでチェレスタとピッコロを配しているのでそれぞれがホルンの基音の平行移動ということになり、結果的にCとGとEとの複調になっていると思われます。ミヨーと違って複調に根拠、法則性を求めるところがとてもラヴェルだと思います。

こういう「面白い音」はマニアックに探しまくったのでたくさん知ってます。高校時代には米国の作曲家ウォルター・ピストンの書いた教科書である「管弦楽法」が座右の書であり、数学や英語の教科書などよりずっとぼろぼろになってました。これは天文で異色の恒星、バーナード星や白鳥座X-1やぎょしゃ座エプシロンの伴星について物凄く知りたいのと同質のことで、どうしてといわれても原初的に関心があるということで、僕のクラシックレパートリーは実はそういう興味から高校時代に一気にできてきたためにそういうこととは無縁のベートーベンやモーツァルトはずっと後付けなのです。

僕がSMCの発起人としてクラブを作った目的はトップページに書いてある通りですが、そのなかのいちブロガーとして音楽記事を書くきっかけはそれとは別に単純明快で、自分の読みたいものが世の中になかったからです。でもそういうのに関心がある方は何千人に一人ぐらいはいるにちがいないと信じていたので、じゃあ自分で自分の読みたかったものを書いてインターネットの力を借りてお友達を探してみようという動機でした。

こういうのはfacebookや普通のSNSには向いてません。単に昔の知り合いを集めてもこと音楽に関してはしようがないし、こんなニッチな関心事はそれが何かをきちっと説明するだけでも一苦労だからです。でも少なくともその何千人からお二人の方が素晴らしいリアクションを取ってくださった。それだけでも自信になりますし書いてきてよかったと思いました。

ただ日々の統計を見ると多くのビギナーの方も読んでくださっているようで、クラシック音楽は曲も音源も数が膨大ですからワインのビギナーといっしょで入り方をうまくしないとお金と時間の無駄も膨大になるという事実もあります。僕のテーストがいいかどうかは知りませんが、たくさんの英国人、ドイツ人の真のクラシック好きと長年話してきた常識にそってビギナーの方がすんなりと入れる方法論はあるという確信があります。学校で教えない、本にも書いてない、そういうことをお伝えするのはいちブロガーでなくSMCメンバーとしての意識です。

さて、ラヴェルがセクシーかどうか?こんなことはどこにも書いてませんからもう少しお付き合いください。メールに戻りますが、こういうご指摘がありました。

ボレロには、「大人のあか抜けた粋な色香」を強く感じます。ラヴェルは官能性を効果として最初から曲を組み立てる時に計算しているように私には思えてならないです。

これは卓見と思い、大いに考え直すところがございました。本稿はそれを書かせていただいております。

たしかにボレロはバレエとして作曲され、セビリアの酒場で踊り子がだんだん客を夢中にさせるという舞台設定だからむしろ当然にセクシーで徐々にアドレナリンが増してくる音楽でないといけません。それが目的を突き抜けて、踊り子ぬきで音だけでも興奮させるという仕掛けにまで至っているのがいかにも完全主義者ラヴェルなのですが、おっしゃるとおり、それはリズムや曲調に秘められた官能性の効果あってこそと思います。

ドビッシーの牧神や夜想曲もエロスを秘めていますがあれは醸し出された官能美であってセクシーという言葉が当てはまるほど直接的なものではないようです。ところがラヴェルは、ダフニスとクロエの「クロエの嘆願の踊り」(練習番号133)などエロティックですらあって、こんなのを海賊の前で踊ったらかえって危険だろうと心配になるほどです。「醸し出された」なんてものでなく、非常に直截的なものを音が描いている点は印象派という風情とは遠く、リストの交響詩、R・シュトラウスの描写性に近いように思います。

僕はメリザンドの歌が好きですがこれは絵にかいたような不思議ちゃんであって、わけのわからない色気がオブラートに包まれてドガやルノアールの絵のように輪郭がほんわりしてます。かたやクロエはものすごく気品があるいっぽうでものすごくあからさまにセクシーでもあってぼかしがない。音によって描く色香が100万画素ぐらいにピンポイントにクリアであって、その描き方のセンスは神経の先まで怖いぐらいに研ぎ澄まされていると感じます。

ドビッシーとラヴェルはいつも比較され並べて論じられるようですが、作曲家としての資質はまったく違うと思います。彼らが生きて共有した時代、場所、空気、文化というパレットは一緒だからそこに起因する似た部分はありますが、根本的に別々な、いってみれば会話や食事ぐらいはできても友達にはなれないふたりだったように思います。ライバルとして仲が良くなかった、ラヴェルが曲を盗まれたと被害意識を持ったなどエピソードはあるものの、それ以前にケミストリーが合ってなかったでしょう。

これは大きなテーマなのですが核心の部分をズバリといいますと、ドビッシーは徹頭徹尾、発想も感性も男性的であるのに対し、ラヴェルには女性的なものが強くあるということです(あまり下品な単語を使いたくないのでご賢察いただきたい、ラヴェルが結婚しなかった理由はベートーベンとは違うということであり、そういう説は当時から根強くあります)。

東さんはラヴェルのボレロに精緻さを強く感じていらっしゃるのかなと拝察します。
私自身、ラヴェルにドビュッシーとは異なる知的な理性を感じますし、ここがホントに大好きです。ただセクシーであるとも強く感ずるところです。

これがお二人目であり、もう絶句は卒業しました。というより、前述のようにバレエ台本からして、このセクシーであるというご意見のほうが道理なのであります。僕の方が大きく間違っていたのでした。

だから今の関心事はむしろ、どうして僕はそう感じていなかったかです。ピストン先生の教科書の影響もあるでしょうが、僕はラヴェルが自分を隠している「仮面」(知的な理性)の方に見事に引っかかってしまったのではないか。しかし、感受性の強い女性のかたはラヴェルの本性を鋭く見抜いておられたということなのかと拝察する次第です。彼の中の女性の部分は、女性のほうが騙されずに直感するのかもしれないと。

ボレロという曲は仮面が精巧で、僕だけでなく多くの人がきっと騙されてクールな仮面劇だと思って聞いていて、最後に至って興奮に満たされている自分を発見します。心の中に不可思議な矛盾が残る曲ではないでしょうか?これはアガサ・クリスティのミステリーみたいなもので、見事にトリックにひっかかってそりゃないだろと理性の方は文句を言いますが、そこまで騙されれば痛快だということになっている感じがします。

ボレロは「犯人」がわかっているので自ら聴く気はおきないのに、始まってしまうといつも同じ手管で満足させられているという憎たらしい曲です。しかしこの仮面と本性というものはラヴェルのすべての作品に、バランスこそ違え存在している個性かもしれないと思います。ドビッシーにそういう側面は感じません。真っ正直に自分の感性をぶつけて晒しています。ミステリーではなく純文学です。

「海」や「前奏曲集」を聴きたいと思う時、僕は「ドビッシー界」に分け入って彷徨ってみたいと思っていますが、それはブルックナーの森を歩いてみたいという気分と性質的にはそう変わりません。しかしラヴェルを聴く衝動というものは別物であって、万華鏡をのぞくようなもの、原理もわかっているし、実は生命という実体のない嘘の造形の美しさなんですが、それでも騙されてでも楽しんでみたい、そういう時なのです。

ラヴェルが隠しているもの。それは僕の推察ですがエロスだと思います。それを万華鏡の色彩の精巧な仮面が覆っている。万華鏡であるというのは、同じ曲がピアノでも管弦楽でもいいという所に現れます。エロスの多くを語るのは対位法ではなく非常に感覚的に発想され、極限まで磨き抜かれた和声です。ダフニスの冒頭数分、あの古代ギリシャのニンフの祭壇の神秘的ですでに官能を漂わせるアトモスフィアは精緻な管弦楽とアカペラの混成四部合唱によるものですが、ピアノで弾いてみると和声の化学作用の強さというものがよくわかります。

そして始まるダフニス、クロエの踊り。醜魁なドルコンに対比させるまでもなくエロティックであり、ちっともロマンティックでもセンチメンタルでもないのです。これはもはや到底ロマン派とは呼べない、でも印象派とも呼べない、ラヴェル的としか表現の術すらない独自の世界であって、誰もまねができない故に音楽史的に後継者が出なかったという点ではモーツァルトと同様です。

おそらくラヴェルが両親、先祖から受け継いだもののうち対極的である二面が彼の中にあって、それは彼を悩ませたかもしれないし人生を決定づけたものかもしれませんが、いずれにせよ両者の強い対立が衝動を生んで弁証法的解決としてあの音楽になった。あれは女性が書いたポルノであり、だから男には異界のエロティシズムであり、しかもそれを彼の男のほうである科学者のように怜悧な理性が脳神経外科医のような精密な手さばきで小説に仕立てた、そういう存在のように思うのです。

「両手の方のピアノ協奏曲」の第二楽章と「マ・メール・ロアの妖精の園」が大好きで、この世に かくも美しい音楽があるのかしらとも思ってしまいます。

まったく同感でございます。木管が入ってくる部分が特にお好きと書かれていますが、音を初めて出すオーボエにいきなりこんな高い音を出させるなんてアブナイですね。この部分は凍りつくほど美しい、ラヴェル好きは落涙の瞬間と思います。「マ・メール・ロアの妖精の園」は愛奏曲で、終わりの方のレードーシラーソードー ソーファーミドーシーソーは涙なくして弾けません。ここの頭にppと書いたラヴェルの言いたいことが痛いほどわかります。しかしこれはみんな女性の方のラヴェルのように思うんですが・・・。

ということで同じ感性の方がおられるんだ、人生孤独ではないと元気づけられました。こんなにニッチなことで人と人とを結び付けられるインターネットの力を感じました。最高にうれしいメールをありがとうございます。

 

音楽にはツボがある

 

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「信用資本主義」を宣言する!

2014 MAY 6 0:00:30 am by 東 賢太郎

今日、プラネットダイナソーなる恐竜の番組を見ていて思いました。恐竜がなぜ滅んだか?です。

大きいことがいいことだ、ではない。これは生物進化の常識です。捕食者として大きく強く進化するより環境適応した方が生きのびる確率は高い。だから哺乳類が強くなった。これは知っていました。しかし番組によると恐竜は、恐竜という種の中でちゃんとそれをやっています。歯の形を変えたり、肉食を草食に変えたり、小型種になって木に登ったり空を飛んだり。ちゃんと適応種が出ています。それなのに絶滅したわけです。

ということは、生物進化の常識があてはまらない事件がおこってそうなったのではないか?それは一応科学的に証明されたと言われていて、メキシコのユカタン半島に巨大な隕石が落ち、気候が急変したことがその「事件」となっています。それを見た者はないわけだから証拠を得て証明しなくてはなりません。犯罪捜査に似ていますね。殺人事件現場をしらみつぶしに調べて、煙草の吸殻や髪の毛から犯人を指摘するシャーロック・ホームズみたいな努力が必要です。

あいつがくさいぞ、あいつが犯人にちがいないという予見で捜査しておいて、理屈に合わない証拠が出てくるとストーリーに合うように加工ねつ造してしまうというのは、犯罪捜査においてはそれも犯罪、科学調査においては科学者資格はく奪に値する神の冒涜行為と僕は思います。ホームズのような推理小説の世界においては、証拠がそこまで科学的意味で自明に犯人を指し示すのは「オランダ靴の謎」など少数しかありません。だから犯人の自白や自殺で帳尻を合わせるなどがっかりのケースが多いのですが、事実を証明する現場が小説より奇ではいけませんね。

恐竜を殺した犯人は自白はしてくれません。だから証拠が自明に、ロジックの完璧さをもって語らないといけません。隕石説はそうでないとエセ科学にも聞こえてしまう。いろいろ調べていたら松井 孝典博士のサイトにあたりました。これを見て下さい。

http://youtu.be/8N17Rms7pZk

http://youtu.be/ZpcUsI-6IgI

http://youtu.be/wsYqNWUAKVw

「6550年前に直径10-20kmの隕石が秒速20-30kmでユカタン半島に衝突して瞬時に直径100km、深さ30kmのクレーターを作り、高さ300mの津波がおこり硫黄酸化物が作る雲が太陽光を遮った」という隕石という犯人と犯行方法が指摘されていますね。地球生成時にあったイリジウムという重い元素はあるメカニズムによって全部地殻に沈んでいるのにこの6550万年前の地層にだけ見つかる、その総量から隕石の大きさが逆算できて衝突インパクトが計算できるなど、犯人指摘のプロセスはエラリー・クイーンのミステリーなみにわくわくします。

ところでいま、世界経済は物質的経済成長の持続が期待できなくなる時代、何度も書きますが「200年続いた産業革命期の終焉」にさしかかっています。氷河期が襲って成長という地球上の食物が少なくなるようなものです。その環境変化の大きさは恐竜を絶滅させた気候変化に匹敵します。だから大きい動物が生態系の頂点にある時代は終わります。大型草食獣の代表だった中国がだんだん食えなくなって肉食化し、肉食獣の王者だった米国はだんだん衰弱しています。そして両国ともいずれ大きさという壁に当たります。恐竜の後に恐竜はもう出なかったのです。小型獣ながら適応力抜群である日本は、6550万年前の哺乳類の位置にいます。地球を制覇したのは、小さかった我々哺乳類だったのです。

その日本。東北大震災では若者たちが避難警報を無視して命がけで流されたお年寄りを救う画像が流れました。それを見た韓国では信じられないという書き込みがあふれました。韓国船の船長をあげつらう気も擁護する気もありません。むしろああいう若者がそこかしこにいる日本のほうが世界では希少なのです。落した大金が手つかずで戻ってくる世界唯一の国です。あるおばあちゃんが日立の株を買ってくれたことがあります。「来年はあんまり業績は良くないですよ」と申し上げると、「いいえ、下がってもいいんですよ。孫が日立にはいったもんですからね。」 胸にじーんときました。こういう投資家がいることを経済学の教科書は想定していません。

韓国人や米国人が驚くような日本文化。それは風呂敷に象徴されるように江戸時代までもっと適応力がありました。ところが薩長の明治政府が天皇の権威を支配して富国強兵という大目標をたて、それにむけて突っ走ることで環境適応力を自らどんどん失いました。風呂敷文化がカバン文化になってしまったのです。敵の戦力の値踏みすらできなくなったその挙句が第2次大戦敗戦です。そして敗戦国の屈辱のなか、廃仏毀釈どころか自虐にすら走るという信じ難い国ができあがりました。こういう国も、世界史の教科書にはのっていません。

国家の仕事、国家しかやりえないことは外交と防衛です。これを安倍政権が懸命にするのは本来の仕事として当然のことでしょう。それ以外の仕事を国は減らして地方政府に任せればいい。財政収支を自活させるには江戸時代まであった「藩札」を復活させればいいのです。ギリシャが財政破たんしたのは、国力が落ちれば為替レートがちゃんと下がって観光客が増え、税収を増やしてくれるドラクマという自国通貨を放棄してユーロに参加するという安易な道を選んだからです。日本の県も円という統一通貨で財政を行うから同じことになっているという見方をしてみたらどうでしょう。

国民の側も、なんでもかんでも国にやってもらおうというのはまちがい。地方は地方でやり方次第でいくらでも国際化の道は開けます。日本ほど観光、歴史、温泉、グルメなど外人が興味を持つ資源を地方がどこでも潤沢に持っている国はそうはありません。東京にそれを宣伝してもらうのでなく、東京よりもグローバルな方法を自分であみだせばいい。僕はいくらでもそういうプランを描けます。というのは、第3の矢の経済成長は本来国家にはできないことなのです。たとえば少子化担当大臣というのがいます。この人はいったい何をするんでしょう?お見合いや合コンや強精ドリンクの手配でもするんだろうか。問題意識を持っているのはいいことだが、そんなことを国が目標に掲げて成果が出ると本気で思っているんでしょうか。

大なり小なり、第3の矢はこれと同じく滑稽のにおいがするのです。それは若者の結婚や子づくりと同じことで、企業がビジネスとして自分でその気にならないのならいくら日銀が金利を下げても誰も借りないのと一緒です。役所が机の上で考えたビジネスプランに命の次に大事なお金を出資しようなどという企業家はあまりいないでしょう。一番効果があるのは、法人税率を下げ、政府が民間に道を開いて規制緩和をすることなのです。そうして企業が収益を自力であげる機会を増やし、そこで働く夫婦がもうひとり子供がいてもいいと思うようにしてあげれば一石二鳥なのです。それが政府にとっても良い結果になる。なぜなら、日本が持ち前の環境適応力を最大に発揮し、新しい世界環境で生き残る道が開けることにもなるからです。

そこで企業が採る道として僕は「信用資本主義」ということばを提唱します。これが東北大震災という試練をのりこえ、人の「絆」というものの大切さを世界の誰よりも知った日本の財産です。犠牲になられた多くの尊い命のまえで、それを国のため、次の世代のために大事に生かしていくことを誓うことこそ我々のすべきことです。「信用」とは人と人が信頼でつながることで、もっと良いものを生み出す力を何よりも秘めています。信用ができないから契約するのです。契約したから義務としてするのではなく、信用され、信用したから真心をもってする。絆とは心と心のつながりです。だから契約より強いのです。これは古来日本人の持つ社会観、道徳観であり、これを自然にできるのは世界で日本人だけです。オンリーワンの国が負けるはずがありません。信用を根っこにして積み上げていく資本主義を僕は自分のビジネスとして、言うだけではなく有言実行したいと思います。

 

頑張らない人が報われる社会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調

2014 MAR 27 0:00:08 am by 東 賢太郎

僕が最も好きなカルテットの一つです。1年前に作曲されたドビッシーの同曲がありますが似たものではなく、ラヴェル独特の和声感覚にあふれた傑作です。

弦楽器4丁だけで作り上げる世界はシンプルなだけにごまかしが一切きかず、作曲家の「仕事」の良し悪しが露骨に出てしまうという意味で僕は江戸前鮨の小肌や穴子を連想します。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトが古参で複数のいいネタを握ってますがメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、グリーグ、シベリウスになると他の作品を凌駕する味ではなくなります。スメタナ、ボロディン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、ドビッシー、ヤナーチェク、ベルクあたりが単品でいいのを握りましたがネタ数でいうとショスタコーヴィチとバルトークが古参の後継者でしょう。

180px-M_ravelこれほど大家でも苦労しているジャンルですから名作は中期か晩年の作というケースが多いのですが、ラヴェルはわずか27歳でカルテット史に特筆される名作を残したのですから異例な人です。全曲にわたって次はどう転調するのか予測不能という強烈な個性であり、ロマン主義に源流を発しワーグナーを経由してドビッシーに至った音楽の系譜からは超然とした、まったくラヴェル的な音楽としか表現のすべがありません。

ここでの転調は内声部が半音上がったり下がったりして有機的、連続的に起こるものではなく、小節をまたぐと何の脈絡もなくいきなり景色が変わるという感じのものです。例えば第1楽章の冒頭主題はヘ長調で山を登り、別な斜面を変イ長調で降りてきてト短調で止まる。トンネルを抜けると雪国だった、という感じですね。空気のにおいや光の当たり具合がぱっと変わって、こちらの気分も次々に動きます。これがたまらなく好きなのです。

ラヴェルというと一般に管弦楽法の魔術師でありムソルグスキーの「展覧会の絵」を絢爛たる絵巻に仕立てた手腕の印象が強いと思いますが、墨絵のように単色のカルテットに「ソナチネ」「ダフニス」「マ・メール・ロワ」「優雅で感傷的なワルツ」がこだまするのをきくと、あの色彩感はけっして彼の音楽の本質ではないことがわかります。このカルテットが何より雄弁にそれを物語っています。

ミステリー作家の泡坂 妻夫に 「湖底のまつり」 (角川文庫) という驚くべき作品があります。絢爛たるだまし絵の世界と評される傑作で、僕は日本のミステリーのトップ10に入れたいものです。精巧な作り物に完璧に騙されるのですが、見事にリアルな情景描写は今も色つきで細部まで記憶にあります。でもその「彩色」はだまし絵の小道具なんですね。そのリアル感がだまし絵の効果を倍増するのです。この作品を読んでラヴェルに似てるなあと思わずつぶやきました。

ラヴェルのカルテットがどう解釈されているか。転調が変転する情景と気分を支えているわけですから、4人の奏者たちの和声感覚が非常に大事です。それからメロディーと隠し味のような伴奏音型が並行する場面が多々あって、そこの音の混ぜ具合も重要です。それは弦楽四重奏ラヴェル例えば第1楽章のここです。メロディーとバスに対して第2ヴァイオリンとヴィオラが細かいさざ波のような音で和声感だけでなく絵画でいえば「材質感」のようなものを加えます。これが強すぎても弱すぎても音程があやふやでもだめです。そういう演奏がとても多い。こういうちょっとした部分が生命線になる、ガラス細工のようにデリケートな曲です。

本稿のためにCDを聴きなおしましたが、どうもこれぞと自信を持って推せるものがありません。まずは世評の高い演奏から寸評です。僕はパレナン弦楽四重奏団(EMI)でこれを覚えましたが、フランス風のいい味ですがどうも第1ヴァイオリンの音程が甘いのが気になります。ただ昭和の本邦音楽界では決定盤とされていたわけで一聴の価値はありましょう。

ラサール弦楽四重奏団は少し音程はましですが非常にクールな表情でフランスの情景が浮かんでこない。カペー弦楽四重奏団は歴史的名盤といわれますがポルタメントがうるさく4人の和声も相当にアバウトです。アルバン・ベルク四重奏団は比較的いいですね。練り絹のような音色で音程もしっかりしています。色調が暗くラテン的でないので僕の好みではありませんが演奏は非常にハイレベルです。

ブダペスト弦楽四重奏団。第1ヴァイオリンの音程がひどすぎて5分で耐えられずやめ。特に良くはないがまあ全般にいいでしょうというのが メロス四重奏団です。ヴァイオリンがやや繊細すぎる音ですが内声部の和声感がすぐれており、これは時々取り出して聴いているものの一つです。

イタリア弦楽四重奏団はややエネルギッシュすぎるのが好きでありませんが和声は見事です。この曲の生命線はヴィオラと思っているのでこれはかなりいい線ですね。ボロディン弦楽四重奏団。音楽的です。4人がハモッた音の純正調の和声は見事で上記の譜面のバランスも理想的。アルバン・ベルクと同じくフランスの香りがないのが僕には欠点ですが上質です。バルトーク弦楽四重奏団。うまいです。4人が音楽に「入って」いて微細なニュアンスまで揃っています。ちょっと第2ヴァイオリンのヴィヴラートが、と思いますが総合点は高い。

モディリアーニ弦楽四重奏団、これはけっこういいですね。フランスの団体ですが音はふくよかでニュアンス豊か。音程も良く上記譜面の処理も音楽的です。第4楽章の第1主題のキザミと和声変化への対応もグッド。エポック弦楽四重奏団。まったく知らない団体ですがチェコの団体のようで美しい演奏をしています。上記楽譜の後に来る第2主題、ヴァイオリンとヴイオラのユニゾンですが、ヴィオラがいいですねえ。音程も良くこれは安心して聴ける演奏です。ライプツィッヒ弦楽四重奏団。これも知らない団体。合奏体として和声を造っていて見事。上記譜面もすばらしいニュアンスです(ヴィオラの力です)。これはドイツ風ということでもなく音楽として高水準で好きであります。カルヴェ弦楽四重奏団は1919年にバイオリン奏者ジョゼフ・カルヴェを中心に結成し1930年代、40年代に活躍、1949年に解散しましたがこのラヴェルは絶品。ベストに挙げてもいい素晴らしさです。

最後にファイン・アーツ弦楽四重奏団による第1楽章です。米国はシカゴの近く、ウィスコンシンの団体ですが老舗の一つであり僕は彼らのバルトークを非常に高く評価しています。メンバーはその録音のころとは総入れ替えですが、このyoutubeはヴィオラをよく聴いていただきたい。上記譜面などすばらしい。とにかくヴィオラがうまいとこの曲は生きるのです。第1ヴァイオリンはヴィヴラートが多く甘目に弾き過ぎ、音程もアバウトなのでトータルでは買えませんが。

 

(補遺、2月16日)

ヨープ・セリス /  フレデリック・マインダース(pf)

MI00010514592台ピアノ版である。演奏は充分に楽しめる。カルテットは管弦楽のリダクションの性格があるが、それをさらに4手に落としたものは音楽のスケルトンを知るには格好のものだ。2手では行きすぎであり、ほぼすべての要素が書きとれるからだ。このカルテットの心をゆさぶる光彩と闇。それを生む和声とリズムの秘密がはっきりと聴きとれるさまは興味が尽きない。ピアノの技量としてはさらにデリカシーが欲しい部分もあるが悪くはなく、この曲が好きな方にはお薦めしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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アガサ・クリスティ 「葬儀を終えて」

2014 FEB 23 13:13:53 pm by 東 賢太郎

葬儀を終えて (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)を読んだ。

51BKPKS004L._SS500_クリスティの作品は全部読んだわけではなく、まだ評判の高いのが残っていてありがたい。本作は今回初めて読んだ。本作をクリスティのベストにあげている人も多くいる。日本クリスティ・ファンクラブ員の投票では9位だそうだ。

犯人は当たらなかった。これだと思って読んでいた人間が犯人であることも可能だが、動機が意外なところにあり、それが分からないと犯人の目星はつかないし、もし分かれば確実に当たるという性質のものだ。だからこの小説はフーダニットでもありホワイダニットでもあるだろう。

ネタバレにしないように注意して書こう。推理小説は叙述者、つまり物語の「語り手」が誰なのかという問題が常にある。読者は語り手から情報を得て、語り手と同時にそれを共有していくのが一般である。クリスティの場合、語り手が読者にとってパートナーとは限らず対決する相手であるのが特徴だろう。

つまりワトソンというパートナーである語り手がいたり著者と同名の探偵エラリー・クイーンの犯罪記録という体裁にして叙述に仕掛けはない仕立てにする小説とクリスティのそれは根本的に宗派が違う。読者は最初の文章からして、叙述者ではなくて、クリスティ本人が仕掛けた落とし穴に注意して旅することを要求されるのだ。つまりマジックショーを見ている状態に近い。

本作の落とし穴は大変に巧妙に掘られている。その時点で気がつく人は100%いない(これが最大のヒント)。後でそれを見破る手がかりは叙述者がちゃんと提示していて、フェアはフェアであるが、どれがウソかわからないマジックショーの中でそれだけを事実としてとらえてもっと大きなウソを見破るのは相当難しいだろう。

だから犯人は充分に意外であり、動機もそう明かされれば納得でき、なるほど面白い!と誰もが思うだろう。上質のエンターテインメントであることは間違いないし、こういう小説こそ大好きだという人はきっと多いと考える。

最後に、ここからはエラリー・クイーン派の僕としての感想だから無視していただいて結構だが、それはそうであってもいいがそうでなくてもいいというもので、ポアロが確定的にその結論に至った研ぎ澄まされた論理性を感じない。そういう真相であったなら探偵小説として満足感が高いというところに真相を配置することにかけて極めて巧妙だなということだ。やはり女性の書いたものという感じがする。

 

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高木彬光「呪縛の家」を読む

 

 

 

エラリー・クイーン「Yの悲劇」

2014 JAN 28 19:19:22 pm by 東 賢太郎

クイーンの「オランダ靴の謎」は数学でいえば

「解法の美しさ」・・・①

を味わえる古典として僕はベスト1に挙げたいものです。しかし本格派ミステリーにはもう一方で、

「解答の意外性」・・・②で勝負という流派がありますね。これには大別して

「意外な真犯人」・・・・②-A                                  「意外な動機」・・・・②-B                                 「意外な犯行方法」・・・・②-C

があると思います。TVのサスペンスものはほぼ無理やりAにもっていくだけの勝負で、①のロジック性は話がこみいるので回避されている感じがします。①と②とどっちが大事かと言われれば、僕の趣味からは断然①なのですが。

Aの最高峰はアガサ・クリスティの「アクロイド殺人事件」で、それに匹敵するインパクトがあるのがウィリアム・アイリッシュの「幻の女」でしょう。次点がヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」、やはりクリスティの「オリエント急行殺人事件」でしょうか。いずれも古典的名作ですが、意外性探求のあまり①が弱いので本格派というには当たらないと僕は思います。

その反対に、①に重点があって②はそれほどメインではないという作風の人も現れます。英国人のコリン・デクスターの「キドリントンから消えた娘」は解法のロジックに徹底してこだわったいかにも英国人らしい作品です。犯人の意外性は特に狙っていないので読後も印象が薄く、僕は犯人が誰だったかすっかり忘れてしまっていたので楽しく再読することができたという意味でも非常に異色の名作と言えましょう。

①とAを両立させるのは大変困難であり、その反動でしょうか、探偵が足で歩いて新たな事実を読者と一緒に発見しつつBやCを経てAにたどり着くという流儀がフリーマン・ウィルス・クロフツの「樽」を始祖として生まれ、結果の意外性よりもプロセスのサスペンスに楽しみの重点が移ります。そのほうが捜査過程の現実味が加味されて①のパズル的な無機性が緩和されるという利点があり、やがて社会派という流派ができました。松本清張はその末裔と言っていいでしょう。

①とAを両立させることが比較的うまくできていると感じた作品がウイリアム・L・デアンドリアの「ホッグ連続殺人」であります。クリスティの某著名作品のリ・アレンジではありますが「トリックに対するロジックに忠実」という意味でロジカルであり、そのためにマニアには途中で犯人がわかる。全然違うパターンですがイーデン・フィルポッツの「赤毛のレドメイン家」はトリックではなく「作者が誰を犯人にしたがっているか」という著作動機を感知すると自然と犯人がわかる。①とAの両立はそれほどに困難なので、そういうほつれが出てしまうのだと理解しています。

僕が読んだ限りではありますが、①とAの両立がうまくできている作品はクィーンの「エジプト十字架の謎」であります。しかし上には上があって、①とAの両立どころか、「①とA・B・Cの全部」を同時に達成してしまった奇跡的な作品が一つだけあります。それがエラリー・クイーンの「Yの悲劇」であります。4打数2安打ですら難しいところに4打数4安打!しかも巧みな舞台設定で絶大なサスペンスあり!この作品を中学時代に読んだ時の衝撃は今もって忘れることはできません。本作はなんとなく名作と扱われていて常に人気ランキング上位にくるのですが、理由があるということです。

そんな名品を第2作とするバーナビー・ロス名義の「4部作」。Xの悲劇,Yの悲劇,Zの悲劇と3つ続いて「レーン最後の事件」で強烈などんでん返しを食った時の鮮烈な驚きは最高で、これらは4部作としてこの順番で読まれることが必須です。クラシック音楽に造詣の深かったクィーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの共作)がラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏の4つのオペラをまとめて「ニーベルンゲンの指輪」という4部作にしたリヒャルト・ワーグナーを知らなかったはずはなく、僕は2人がミステリーの金字塔を打ち立てようとこれを意識したものと思っています。

 

(補遺、16年1月21日)

最近読んだ中で最高に面白かったのは「その女 アレックス」(ピエール・ルメートル、文春文庫)であります。殺しの描写がかなりどぎついがそれは万事にわたってリアリズムの極致ということであり、場面展開のテンポが素晴らしくよく、一気に読み切りました。殺人の動機がわからないサスペンスの盛り上げが実にうまい。傑作です。

ネタバレにならないことを祈りますが、このプロットで真っ先に思い出したのが「歯と爪」(ビル・S・バリンジャー)ですね。一度読んだが読みかえしてしまいました。昭和30年頃の作品ですがカットバック手法の切れ味が抜群で文体、レトリックの無駄を切り詰めた美は文学としても一級品である。結末は知っていたわけですが、初めてだと意外性充分ですね。「ここでやめたら返金します」という挑戦には負けるしかないでしょう。

 

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エラリー・クイーン「災厄の町」を読む

 

ネコと鏡とミステリー

 

 

エラリー・クイーン「オランダ靴の謎」

2014 JAN 27 0:00:35 am by 東 賢太郎

シャーロック・ホームズ・シリーズはもう中味をすっかり忘れてしまっていたのですが、小学生の僕が最も気に入っていて、自分ですぐ同じトリックの小説まで試作したものがあります。さっき調べてみたらそれは「ブルースパーティントン設計図」という「シャーロック・ホームズ最後の挨拶」にある短編だったことがわかりました。ストーリーは忘れてもトリックだけは鮮明に覚えていました。それほどにこの短編に入れ込んでいたので、作中に出てくるこの言葉も幼心に残っていたものと想像します:

「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.)

この言葉は今でも僕をゾクゾクさせます。僕にとってホームズの格好よさはこの言葉に集約されていて、これは数学、論理学、そしてすべての科学に関係がある「真実探究」というプロセスにおいて、そう考えることがロジックを一歩進める有効な方法であることを示唆しています。特に下線部がポイントですね。

人は「奇妙だけど本当だ」と言われても、しばらくすると「やっぱり奇妙だから嘘だろう」に流されがちです。この理由は脳が理解できない不協和な情報は勝手に協和的に解決するようにプログラムされている(認知的不協和の解消)からだということを前回書きました。ですから「情緒と論理が矛盾したら論理を信じよ」と教育される必要があります。脳のプログラムを書き換えるわけですから、「強烈に矛盾した具体例」に直面して、自分の情緒、直感、常識というものがロジックが導いてきた「意外な答え」にねじ伏せられてしまう鮮烈な体験がないと実は難しいものです。

人生という長い長い登山の道のりにおいて、我々はいつも分かれ道の前で立ち止まり、右へ行くか左へ行くかの判断をして生きています。真実のみが頂上へ導いてくれます。暴風雨や霧の日に、ここは右だと見えたとしても、左へ行きなさいと導いてくれるのが地図と磁石です。ロジックというのはそういうものです。ミステリーという文学は犯罪、証拠、ロジックだけで進み、犯人逮捕という冷徹な国家権力行使を万人に正当化するのですから情緒の参加する余地はゼロです。つまり、上記の言葉の正しさ、重要さをデモンストレートする格好のものとなります。

ミステリーはその後に犯罪小説という類系と、謎解き小説という類系に分化して発展しますが僕個人の趣味としては、犯罪という素材はロジックという本来無味乾燥なペグを現実社会に肉付けする道具にすぎないのであって、やはり「謎解き」に軸足を置いた類型、すなわち「本格派」と後に呼ばれるようになるジャンルをこよなく愛しております。そこにおいては「奇妙さ」(謎)の度合いが大きくて、かつ「真実であることの証明」(名探偵による種明かし)が明快であるという2条件を満たしているほど質が高いという方向に進化しました。

ホームズ物もほとんどがこの2条件をベーシックプランとして書かれてはいますが、種明かしが一般合理性よりも名探偵の特異な能力によるという比重が高い。奇妙さの提示もその能力の誇示のお膳立てという観があり、やはりホームズというキャラクターが売りだという意味では創世記のパターンです。一方で、コナン・ドイルと同じく英国人のアガサ・クリスティーは「謎」を深めました。孤島で犯人も含めて全員が死んでしまう、密室である列車内の全員にアリバイがあるなど実に魅力的ですね。

ただ、謎に比重がかかると、有名な一発物トリックで書かれた「アクロイド殺人事件」のようにアンフェアだと批判も出るなど、種明かしの合理性は格段に落ちてしまいます。あのトリックは一種の発明であり、あまりに鮮やかなのでもう誰も使えなくなってしまった。だから確かにクリスティーはアイデアの宝庫として面白いし、駄作率が低いという意味で質は非常に高いのですが、本格物の本格派かというとそうではないでしょう。

謎の深さ、名探偵の種明かしの魅力の両方を高い次元でキープしながら、より「謎解き」の一般合理性の比重を高めて読者参加型にもっていったのがエラリー・クイーンです。「読者への挑戦状」を挿入するというのは、自分をoutsmartしてごらん、という意味であり、それだけで僕のゾクゾク感を倍加します。

前述のクリスティー作品では筆者が読者に仕掛けた罠は絶対にわからないし、「アンフェアですって?でもここまで見事に背負投げを食らえば気持ちいいでしょ?」という性質のもの。まあ確かに気持ち良かったですけど。それがクイーンでは、「いやいや、解けますよこの謎は、ただし、もしあなたが充分にスマートならばですけどね」、というもので心にくいですね。シャーロック・ホームズごっこができる読者参加型なのです。

しかし厳密に再読すると、挑戦状までの開示情報だけで本当にロジカルに犯人を指摘できるものはほとんどないです。つまりクイーン先生には悪いが、フェア度合いは彼以外の作家よりは相対的には高いが完全にフェアではなく(つまり探偵がちゃんと名探偵に見える仕掛けになっており)、しかし挑戦状があるという心理効果でその仕掛けが隠れてフェアっぽく見えているという高度な制作技術による作品群です。

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僕が彼の「国名シリーズ」で最も評価するのは「オランダ靴の謎」です。なぜなら、初読にして挑戦状の所で明確に犯人を当てることができたから、すなわち、この作品は例外的に「ほぼフェア」だからです。厳密にはロジックに小さなほつれがありますが、それでも数学的に美しいという点においてこれをしのぐ作品を古今東西においても読んだことはなく、(謎の大きさ)×(解法の納得性)の値は僕の知る中では最大値を与える傑作であります。

 

 

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いや~、そうはいっても、オカマもいますからね

エラリー・クイーン 「Yの悲劇」 (補遺あり)

 

ネコと鏡とミステリー

2014 JAN 18 18:18:59 pm by 東 賢太郎

ミステリーという小説は謎を投げかけます。①部屋で人が殺されている、しかし、②内側から鍵のかかったその部屋には誰もいない、というように。①と②は矛盾しているので読者は心理的な不快感を覚えそれを解消させたくなりますが、この衝動はアメリカの心理学者、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)が唱えたもので「認知的不協和の解消」と呼ばれます。イソップにちなんで「酸っぱいブドウ理論」ともいわれ、2つあって迷って買わなかった方のブドウは「あれはきっと酸っぱかったのだ」と自分を納得させる心理プロセスのことです。

大学1年目の政治学の講義でこの言葉を習い、政治学よりもそっちの方に興味を抱きました。ミステリーを読みたくなる衝動は①と②の不協和の解消衝動ですが、不協和は不快感ですから本来ストレスがあっていやなものです。そのひと時の不快感よりもその解決によるカタルシスの解消の方が快感度が高いからそういう小説が求められる。謎が大きいほど解決の快感も高いのですね。それは、本来は危険のシグナルである苦味というものがあるビールをおいしいと感じるのと同じことで、ミステリーはとても人間的な遊びに満ちていると思ったのです。

では動物はどうか?

あるとき僕の家に迷い込んできたチビという非常に賢い子ネコに3mぐらい離れたところから鏡を見せました。チビはそこに写ったネコ(自分)を発見して驚き、別のネコだと思って低い姿勢を取って相手を凝視しながら忍び足でゆっくりゆっくり鏡に近寄ってきました。いよいよ鼻先が鏡面にくっつくとクンクン匂いを嗅いで何かを悟ったように裏面に回り込み(おそらくネコがいないことを確認)、それ以来二度といかなる鏡にもまったく反応を示さなくなりました。

しかしクラシック徒然草-ねこの「ごっこ」遊び-に書きましたがネコは「草むらで音を聞いた」、しかし、「行ってみたら鳥はいなかった」という不協和を認知して楽しむことができるのです。これは我々人間が苦味というシグナルを認知して危険を察知することで本能を一度人為的に緊張させておき、しかし、危険どころかノド越しが良くて逆に爽やかじゃないかという「倍返しの解放感」を覚えるという「とりあえずビール!」の快感と同じものをネコは感じることができる証拠であると信じます。

チビは①ネコがいる、しかし、②近寄ってみるとネコはいない、という認知的不協和のようなものは持ったはずで、どうして①②が同時発生したかはともかく、「①のネコ」に反応しても得るものは何もないということを一気に学習したものと思われます。「①のネコ」とは彼女にとっては「鏡に映ったネコ」なのか「あの白いネコ」なのか「自分の姿」のどれかなのですが、鏡をいくら取りかえてみても彼女はもはや知らんぷりでした。マジックのタネを知ってしまったということです。といっても鏡の原理を知ったはずはありませんから、冒頭のミステリーの例でいうと、犯行のトリック(光の反射)という②の理由を知ったのではなく、①のほうがおかしい、つまりそこに死体はなかったのだという「解決」で納得し、不協和を解消したものと思われます。そしてそれが条件反射化して知らんぷりになってしまったということです。

なぜ「死体はない」とチビが理解してしまったか?彼女は、(A)鏡という物体を個別的ではなく集合的に認知して「あれは鏡だ」「鏡の中のネコはいない」と知ったか、それとも、(B)自分かどうかは知らないが「あの白いネコ」に近づいても存在しないことを知ったか、(C)自分の外部から見た姿を認識して「あれは自分だ」と知ったか、どれかということになります。これは証明できませんが、僕の観察ではBかCであり、Aの可能性は低いように思います。あの白いネコが自分だという認識の有無がB、Cの差ですが、人間並みの感性を発揮した彼女の場合、Cであったと思いたいですね。「ふん、馬鹿にすんじゃないわよ知ってんのよ」と僕のマジックに肘鉄を食わせるのが認知的不協和の彼女なりの解消だったのかもしれません。

ミステリーに戻りましょう。冒頭の謎を大胆に仕掛け、うまく解決した先駆者と評されるのが「オペラ座の怪人」の著者フランス人ガストン・ルルー(1868-1927)の「黄色い部屋の秘密」(1908)であります。「①はなかったのだ」というネコの解決は許されないので②を説明する必要があるというのが人間界の宿命であり、以後にそれを正当化する様々な試み(トリック創案)がなされるようになります。鍵にひもがついていたり、秘密の穴から狙撃したり、涙ぐましいものですが大体は興ざめなもので、ルルーの解決は創世記の作である割に比較的ましなほうに入ると思います。

その後、英国のG・K・チェスタトン(1874-1936)の「ブラウン神父シリーズ」(1911-35)、米国のS・S・ヴァン・ダイン(1888-1939)、ジョン・ディクスン・カー(1906-77)が印象的な作品を残しましたが、密室の概念を孤島、走行中の夜行列車、飛行機、雪に閉ざされた山荘などに広げたのが英国のアガサ・クリスティ(1890-1976)です。それぞれ「そして誰もいなくなった」(1939)、「オリエント急行殺人事件」(34)、「雲をつかむ死」(35)、「シタフォードの秘密」(31)ですね。

わが国では横溝正史(1902-81)の「本陣殺人事件」(1946)が皮切りのようです(ちょっと機械的なように思うが)。彼の作品はトリックの妙というより舞台設定と殺人の動機設定のうまさに長所があるようです。特に「動機」というのは大変重要でこれが弱いとトリックの巧拙以前になんで人殺しなんかしたわけ?と拍子抜けしてしまう。横溝の作品はグローバル比較しても大変説得力を感じます。

メカニックなトリックそのものということでいうと、大胆で独創的と感心したのが赤川次郎(1948-)の「三毛猫ホームズの推理」(78)島田荘司(1948-)「斜め屋敷の犯罪」(82)でありました。赤川は女子供向けのイメージが強いですが、場面展開の速い筆力とトリック創案には流行するだけのベーシックな能力を感じます。種明かしは礼儀として控えますが、両者にはある共通項がありますね。

僕が最も尊敬するエラリー・クイーン(合作者なので2人をとって1905-82)は書きませんでしたが別稿を設けます。ネコが登場したところでお後がよろしいようで。

 

 

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チビ

クラシック徒然草-ねこの「ごっこ」遊び-

エラリー・クイーン「オランダ靴の謎」

織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

 

なりたかったのはシャーロック・ホームズ

2014 JAN 18 7:07:55 am by 東 賢太郎

 

子供のころ、将来何になりたいですか?と聞かれてなんて答えていたかは忘れました。適当に親や先生や大人が喜びそうなのをみつくろっていたと思います。本音ではプロ野球選手か天文学者でしたが、思えばもう一つあって、シャーロック・ホームズでした。

僕のミステリー歴は小学校で借りたシャーロック・ホームズ・シリーズと怪盗ルパン・シリーズに始まります。あまりに面白いので殺人が起きない小説は物足りなくなってしましたぐらいです。特にホームズの観察力や物腰は格好いいと思っていて、ああいう大人になりたいと思っていました。

今読んでみると、背景描写には英国のにおいがぷんぷんしていますね。なつかしいです。英国でまずブレークしたのは、19世紀末~20世紀初頭のインテリの英国人男性たちもホームズのような姿を理想とするというか、少なくとも格好いいと思っていたからだと思います。長年の英国人との付き合いから感じるのですが、今でも彼らがもっとも避けたいと思っているのはembarrassed(人前で恥ずかしい)な事態であって、たとえば簡単にいえば、社会の窓があいていたなんてのがそれに当たります。

一方で、事件の真相を見抜くホームズはワトソンをはじめ他のすべての捜査官をだしぬくのですが、推理力のような知の力でそうすることを英語でアウトスマート(outsmart)するといいます。これはembarrassとは対極であって、もっとも望ましい。もちろんどこの国でもそうでしょうが、英国紳士界においてはその高低差がどこの国の男よりも格段に大きいと僕は感じています。きれいにさえoutsmartすれば相手が外国人でも尊敬されます。アガサ・クリスティーの探偵エルキュール・ポアロは風采の上がらない小男のベルギー人ですが、それでも格好いいわけです。

僕はロンドンのシティで6年間、その英国人のプロたちに日本株を売ってきましたが、ファンド・マネージャーという職業の彼らはオックスフォードやケンブリッジを出たエリートです。僕のお客にはアイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学のダブル・トップ(2学部で同時首席)という歴史的な秀才もいました。そういう人たちが一生の仕事とするわけですから、株式投資というのは日本人の99%が(証券会社の90%の人間ですら)誤解しているようなバクチ的なものとは程遠いのです。相場を理性で予想するという行為、つまり合理的な仮説を立てることにほかなりません。

僕の仮説のほうが彼のより合理性があると判断されれば、オーダーを、しかも大きめのをくれます。半年ぐらいたって株価が上がって僕の仮説のほうが正しかったと証明されれば僕は彼をoutsmartしたことになります。彼らは自分で仮説を立てるプロでありますが、自分をoutsmartしてくれる人を探すプロでもあります。結果が全ての世界ですから。だからそうなればシャーロック・ホームズと同じで尊敬の対象になり、お客様の信頼は増すということです。そうすると徐々にですが能力があるという評価になってきて、もっとオーダーをいただける。それは証券会社では成績に直結します。だからいい仮説を立てられるように必死で勉強しました。

しかしそれは要するにホームズをイメージしてめざせばいいのですから僕の子どもの頃の理想でもありました。しかもそれをホームズのいた(はずの)ロンドンでやったわけですから、幸せな職業についたと思います。だからでしょうか結果はついてきて、ある政府系の機関からは1銘柄でワンショット180億円の買い付けという手が震えるぐらいの、たぶん野村でも空前絶後の巨大なオーダーもいただきました。当然手数料も半端な金額ではなく、自分の仮説にそんなに多額のお金を世界で1,2の著名な機関投資家が払って下さったというのは自信になりました。

200px-Sign_at_Sherlock_Holmes_Museum_in_Baker_St_221b数年前、息子を連れてロンドンへ行った折にやはりホームズ好きである彼がベーカー街のホームズ博物館に行きたいというので行きました。住所は221B Baker Streetであり、実在の有名人の住居跡にあるブルーのプレート(右)もかかっています。地下鉄の駅も下の写真のようであり、この愛され方は大阪の食い倒れ人形に近いといえましょう。国を挙げて遊んでしまう大人の余裕です。神田明神にも銭形平次の石碑がありますからわが国も文化的成熟度は誇っていいですね。

7c3cc300669bda38_S2ただ平次と我々では服装も髪型も違います。もしも日本人がまだ江戸時代と同じ格好をしていたならもっとリアル感のある銭形平次博物館でもできていたでしょうか。では明治以降で誰かいるかというとどうでしょう。僕は浮かばないのですが。そういう和風国民的キャラクターを後世が作れるほど平安な時代ではなく、その空気のまま戦争に突入してしまったのかもしれません。

日英は元は同盟国であり軍艦も機関車も英国からきました。英国の不倶戴天の敵国、ドイツと組んだことで戦争してしまった歴史はありますが、思えば自分は英国人ホームズに憧れる少年だったので基本的に英国が好きなわけです。そこで6年も暮らして、娘を2人も授かり、最も大きなビジネスを経験し、またソナーを作るにあたって助けてくれたのも英国人Sさんであり、ロンドン時代の仲間が3人も出資してくれています。英国とはホームズに始まって以来、なにか運命のつながりがあったと考えるしかありません。

 

僕にとってロンドン?戦場ですね

大学受験失敗記

2014 JAN 10 22:22:01 pm by 東 賢太郎

本稿は最終学歴をひけらかそうというものではない。自分史の半生記において、あまり思い出したくはないが受験失敗のことを触れないわけにはいかない。大学受験は結果的には願いどおりになったが2度も失敗しており、さらに中高受験もたくさん失敗しており、僕は受験にいい思い出がない。小さいときから物事を時間をかけて深く考えるタイプであり、制限時間内に70点ぐらいを効率よくゲットする競争はきわめて不得手だった。要は受験競争に適したほうでは決してなく、クイズ番組の物知り博士みたいなものになるには最も遠いタイプの人間である。

幼時の関心事は電車と星と人体であり、鉄道線路観察と全天恒星図と人体解剖図が半端でなく好きだった。蟻の観察も好きで同じ巣を一日中見ていて母が心配した。好きなことを始めると食事をよく忘れた。文学的関心は皆無であり推理小説が友だった。文章や人のことばは字義通りにしか解しないから詩歌は意味が分からず、吟じたり味わったりなど到底むりである。「国破れて山河在り~」などと、それがどうしたんだという詩を朗々と先生が読み上げると、僕にとっては馬鹿馬鹿しさとのギャップがおかしくて笑いをこらえるのに必死だった。現代国語や古文漢文のテストは当然見るのもいやであった。

そういうものを人並みに味わうフィルターがないとすれば、それは色弱であるという状態と照らすと似たものがある。僕の色弱は親は知っていて僕もある程度はわかっていた。それが思ったより進路に影響あるとわかったのは高3の始めだ。親父の家系はみな理系だったが、きれいなもの好きで芸術家肌の母の血を多く引いた僕はその時点ではどっちでもなかった。というより野球三昧であって、忘れもしないが高3で初めて受けた駿台公開模試での数学の偏差値は堂々の42であった。要はどっちでもよかったのだ。

自分的には天文、医学に興味があった。今になってみると医者なんかけっこう向いていたと思うが、「東君、その進路は色弱のことがありますからね。文系でどうですか」と担任の物理の故O先生は淡々と宣告された。僕が教師ならこう言っただろう、眼以前にアタマが無理でしょと。ストレートにそうおっしゃらない優しい先生だった。しかし、これがカチンと来てしまった。よ~しセンセイ、今に見ておれよと持ち前の反骨心にメラメラと火がついてしまった。人生とは何が左右するかわからないものだ。

銀行員の親父はお前は理屈っぽい、裁判官か弁護士になれときた。理屈っぽいことは納得だからそういうものかと信じこんでしまった。こうしてまず法学部志望が確定した。親父には申し訳ないがこれは大いに失敗だった。せめて経済学部か、意外と文学部で哲学なんかやったら学者になれたかと思う。次に志望校だ。僕は一番嫌いな政治家はレンホーだという人種だ。別に彼女個人にどうのこうのはない。どうして一番じゃなくっちゃいけないんですか?というあれが実に不快だ。一番がいいに決まってるだろ、何を言ってるんだ君は?ときっと泣くまでねじ伏せてしまったのが当時の僕だ。そこにセンセイへのメラメラがある。もう志望校は一校しか眼中になかった。

こういうことで僕はそこからやおら勉強を始め、最高峰私学2校の法学部に受かった。しかし初心は変わらずそれを辞退して、O先生の「おめでとう!」はハナから無視して(すみませんでした)、予定通り2次で落ちた東京大学文科Ⅰ類に再戦を挑むべく駿台予備校の門をくぐった。知らない方も多いが、東大というのは全員が最初の2年間は駒場の教養学部生になる。そこでは文Ⅰ、文Ⅱ、文Ⅲと所属が区別されており、3年目になるとそれぞれ本郷の法学部、経済学部、文学部に進む。文Ⅰ以外から法学部へ行けるのは毎年1名ぐらいであり、だから僕は最も偏差値が高い文Ⅰに入る必要があった。世間では東大受験といっているが、東大という大学を受けるのではない。「類」を受けるのだ。その類が不合格の場合、合格ラインの低い類に回して合格させてくれるということは一切ない。だから単に東大に入りたいだけの人は文Ⅱか文Ⅲを受けるべきである。文Ⅰを受けるのはリスクが高いのだ。

あまりに発射台が低かったわけだから成績は大変伸び、再戦だし落ちるわけないなという過信もあった。だから今度は文Ⅰひとつしか受けなかった。これは、メダルを辞退した以上は次は金しかない、銀狙いなし、1年たって銅で妥協はさらになしという理屈だった。そうしたらまた落ちた。これは参った。掲示板に番号がなかった時は大変なショックで、目の前が本当に暗くなった。すべり止めがないのだから即2浪が決まったわけで、眼前に横たわった1年が永遠に向こうにたどり着けないサハラ砂漠みたいに感じられた。私学を受けなかったのは作戦ミスだったかどうかというと難しい。そこでもしまた受かっていれば、それでももう1年東大にチャレンジしたかといわれれば、しなかった可能性がある。それでどういう人生になったかは知らないが、キャリアや人生行路という意味ではなく、今のような性格、人格の自分にはなっていなかったことだけは間違いない。

不合格だった日からの記憶は不快なので脳が勝手に消去したと思われ、まったくない。次の記憶は駿台を受けたら25番ぐらいだったことからフィルムが再開する。それはその年の日本国の浪人生で上から25番目だったことをほぼ意味する。座席はその入試順位の順番だ。まわりは全員が判で押したように東大文Ⅰ志望であり、630人の定員だから655番目だったんだろうという風な計算を全員がしていた。くそっ、ここから400人も東大に入るのにと思ったが僕よりもっと悔しい人が24人もいたことを知って気が和らいだ。両隣りだった人たちも当然に翌年は合格して奇遇にも駒場で同じクラスになった。初対面のときの挨拶は「キミはどうして落ちたの?」だ。僕は「数学が・・・」だ。「えっ2問?オーケーじゃんか?」「そうだね普通ならそれで」だったのを覚えている。英語はまあ良かったが僕の国語と社会の能力はきっと普通じゃないレベルだったのだ。

文系だから英国社は配点が120点ずつで数学は80点だった。国語と社会で55%を占める。東大の2次試験ぐらいになると受験生のレベルは一部の別格的な秀才を除いてほぼ均質である。特に僕のようなボーダーラインの人間の合否は僅差で決まる。社会科は2科目必要で、ひとつは日本史にした。これは割と好きでもあり私学合格の武器になった。しかし高3からの付け焼き刃だから2科目目は省エネしようと政経を選んでしまった。政経は教科書は薄いが全問が論述で実はタフであり、配点は60点もあるのだから作戦ミスだったと思う。しかし今さら政経を世界史に替えて時間を食うよりは、その時間を得意の数学に回した方が総合点は上がると判断した。4問完答だ、満点をとろう、それで落ちたらあきらめようとハラをくくった。こういう人は文系にはほとんどいないはずだ。

それは結果的に正しい判断だったことが判明する。2年やって僕は英国社で成績優秀者リストに名前が載ることはついに一度もなかったからだ。いっぽう、数学の満点ねらいは僕にピッタリのスリリングなゲーム感覚があった。野球でもまず完全試合からねらうのが争えない僕の性格だ。遊び感覚でやっていると結果もよくて、夏前の公開模試の数学でついに念願の満点をとった。駿台予備校に関わった経験のある方はご納得いただけると思うが、あそこの数学はやたら難しくて平均点は2~30点であった。東大受験者はほとんどが受けていて数学オリンピック級の子もいたろうが、文系で100点は年間通しても極めて少ない。僕が人生で唯一全国区で一番になった経験はこれであり、今でもほかの何よりもこれを誇りに思っている。

数学は僕のゼロ戦になった。低空飛行の英国社が足を引っ張っても総合得点で全国7位になるなど、蜜の味も知ってしまった。これで落ちるわけないと確信し、飽きっぽい僕は夏休みは一切すっぽかして推理小説の執筆に没頭してしまった。当時熱中していたエラリー・クイーンをどうしてもまねしたくなって1か月で書いたそれは「オランダ靴の謎」と「Yの悲劇」とヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」を足して3で割ったようなものだ。これを先日読み返したら1行だけ消しゴムで消してあった。おそらく一気に書いてから論理破綻に気がつき、埋める間がなくそのままになったのだろう。その破綻がなにか今の僕の頭ではいくら考えてもわからない。

そうやって夏に油を売っていたら秋になって急速に順位が落ちた。進学校の現役連中である。我がゼロ戦をしのぐ高性能のグラマン部隊であった。しかし、本番の東大2次試験では態勢をもちなおし、作戦通りに数学でほぼ満点をとった。たぶん3点ぐらい減点されたはずだ。上級者は自分でそこまでわかるのである。その年の数学は難しかったから運もあった。先日駒場のクラスで1、2の秀才であったO弁護士に「2問目にミスがあったの気がついたか?」ときいたらNOだった。彼に頭で勝てたのはそれだけだ。僕は 「これは出題ミスである」 と余計なことまでバーンと答案用紙に書いてしまい、でもまさか?とあとで不安になった。駿台へ行って壁に張り出された模範解答を見たら 「ミスだ」 とあった。これで合格を確信した。

発表日に掲示板の受験番号を見てほっとした。楽勝と思っていたからうれしさはあまりなかった。電話したら両親がやって来た。母が泣いているのを見て、わがままで浪人してしまったことを悔いた。母は自分の父親と同じく僕に慶応ボーイになってほしかったのだ。現役で合格させていただいた大学は普通なら赤飯を炊くところだ。どうして入らなかったのかとよくいわれるし、いわれると説明に窮してついそうだねと思ってしまう。それが自然体だったし、行った連中が楽しそうだったし、女の子もいっぱいいたし、1年のつもりが2年の回り道になったし、それで弁護士や教授になったのならともかく4年間すっかり遊んでしまったのだし、入社したらそっちの大学の方が主流派だったし。何とも間抜けな人生だ。だから何を書いても負け惜しみになるが、それでもあの決断は良かったと思えることもある。

なにより駿台予備校というのが素晴らしい学校だった。英語の伊藤先生の「ここでガチャンという音が聞こえる」は実にすごい。ガチャンが本当に聞こえるようになり一気に英文法が得意になった。極めつけは数学の根岸先生だ。板書が美しい。悪筆だった僕のノートも美しくなった。それと正比例して面白いように成績が上がって偏差値は軽く70台になった。42だった僕がだ。先生は東大理学部物理学科卒の数学者であり「数学の美」を教える天才だった。人に教わることの鈍才である僕が心から敬服して習いたいと思ったのは先生だけだ。数学の思考訓練をここまで徹底的にやったことで僕は完全に別な人になった。2年間やっても英国社は文Ⅰ受験者としては人並みのまま終わったわけだから、僕の資質は理系だったということが判明した。

O君は弁護士という仕事は充分やったので違うことをやりたいという。その仕事に誇りはあるが、人が決めてもめ事を解決するのは次善策であって科学ではないそうだ。そういう彼も理系的な人であり、彼曰く文Ⅰの人はみんな理系だがそれでも司法試験や上級公務員試験に受かる。ところが僕の場合、1年の法学概論の授業からして退屈でまいってしまい、訴訟法や行政法みたいな手続き論は完全にアウトだった。要は神様が決めたもの以外ぜんぜん興味が湧かない。訴訟のルールよりも、子供の時にじっとみていた蟻んこの道のでき方のルールの方がずっと上等に思えた。あそこまで法学部にこだわったのは間違いだったのだろうか、今もよくわからない。

有難いことに、いま自分はサイエンティストとしての生来の姿で自然に生きていける自由を得た。サラリーマンという虚飾の職業をやめられたからで、まったく心の底からくだらないと思うことに真面目にうなづいたり取り組むふりをしたりする必要が皆無になった。ショーペンハウエルの言う孤独を楽しめるというのは何という素晴らしいことだろう。ある原理や法則に則って歴史、古文、哲学、音楽、ラテン語、ミステリー小説、株式市場なんかを紐解く作業は実に楽しい。いま僕はそういう他愛ないことに喜びを見出している。神様が決めた原理、法則性が支配する限りにおいては何事であれ敬意と関心をもっていられる。その神様が誰であれ、造物主という意思の存在を僕は確信することができるし、彼がいない宇宙や科学や数学の存在を逆に信じることが難しい。

もう来年2月に還暦になる。ここに記したような自分の若気の至りをゆるし、いとおしく思える年齢になった。それがなければ今はこうなっていない。この妻も子もいない。世界であんな経験もできていない。証券という面白い仕事について体が震えるような成功体験を感じることもない。だから良かったのだと思う。ここから僕が世の中に生きている意味は、こうして選んでしまった道を人助けという道に連鎖させていくことだ。自分に意志と健康がなければできない。還暦はその節目にしたく、だからそこまでの1年ちょっと、その準備をしようと決めている。今年がそういう年になったら幸運である。

 

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

 

 

 

 

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