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カテゴリー: ______ミステリー

「幻の女」のWikipediaは絶対に読むな

2018 JUL 13 13:13:50 pm by 東 賢太郎

ミステリーの話をした。かつて何が面白かったかとなって、僕は迷うことなくウィリアム・アイリッシュの「幻の女」を挙げた。いつ読んだかは覚えてないが大学2年では知っていたからそれよりは前だ。なぜわかるかというと、2年で米国に行った折、ある都市の通りの名前がこの作品の登場人物の名と同じだと思ったことを鮮明に覚えているからだ。いかに「幻の女」のインパクトが強烈だったかを物語ろう。

長女と息子に「読んだ?」と聞いた。二人ともNoだ。「そりゃあなんてうらやましい、まだ楽しみが残っててよかったね」「そんなに面白い?」「読めばわかるよ」となった。その翌日のことだった、僕はWikipediaを検索して唖然とすることになる。二人にはそれを絶対に読むなと即座に厳命した。

これはひどい、この「あらすじ」は即刻削除すべきである。こんなネタバレを堂々と公表されて早川書房はクレームしないのか、Wikipediaはこんな行為を野放しにするのか。1942年の作品だからおそらくpublic domainだが、事はそんな問題ではない。この作品はウィリアム・アイリッシュなる天才が書いた一期一会の傑作であり、初読の一度だけしか許されない驚天動地の快感を他人から奪うような行為は許すべきでない。Wikipediaも英語版や韓国語版にそんな破廉恥はない、日本の恥である。

「ネタ」などと軽々しく世紀のインテリジェンスを石ころ並みのインフォメーションにしてくれる。それを便利だねと表層のうすっぺらな社会が享受する。そういう人たちがやがてインテリジェンスを持つようになるなどということはSF小説のネタにすらならない超現実的なことである。ネットはそうやってどんどん人から感動を奪い、頭脳を退化させ、馬鹿に貶めていくのだ。

同書を買って帰り、ミステリー好きの息子に朝に渡したら夜には「これは凄い」と溜め息まじりに感動して返してくれた。よかった。これからの皆さんも被害にあわないことを心より願う。

 

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ダシール・ハメット「マルタの鷹」

2017 NOV 9 2:02:38 am by 東 賢太郎

ハメットの「マルタの鷹」はだいぶ前に読んで、謎解き小説好きとしては面白いと思わなかった記憶がある。ただ主人公の私立探偵サム・スペードの非情なところ、好きな女を警察に突き出すなんて俺にはできないなあというところはこたえた。それが本性なのか功利なのか、読めないところがいい。

スペードは女に弱いが、女に見下されるのを嫌う。これが本性なのは「君(女)にコケにされるのはごめんだ」というセリフでわかる。事実の静的描写に終始するハードボイルド小説に珍しく情緒が浮かび上がるから響く。女が相棒を殺した。「相棒は屑野郎だったが、男ってのは相棒が殺されたら放っておけないものなんだ」。これも響くが、「君は俺にウソを言った」ことがそうさせたかなと思う。

スペードみたいな男が格好いいと思った時期があって、今も多少は残ったかもしれない。小学校で女の子にばかにされ、あれ以来女に見下されるのを嫌うようになったからどことなく共感があったのだ。それに、やっぱりウソをつく人は蛇蝎の如く嫌いだ。ウソには弱さなどからくる生きるための許容範囲のウソと、そうでない強い者が悪意によってつくウソがある。前者は場面場面では仕方ないだろうし善意のウソだってある。しかし後者は人間性、本性、品性の問題であり、ひとつあれば万事にわたってそういう人だと判断せざるを得ない性質のものだ。その人が何かの価値基準によって悪い人かどうかということよりも、そういう人はおつき合いを金輪際忌避したいということだ。

金融のホールセール部門という欧米のインテリヤクザのグローバルな騙しあいみたいな業界で40年近くやっていると、物事も他人様もサム・スペードのように無感情、叙実的に見るようになっている。冷たいとは思わない、あくまで騙されないための自己防御としての業務用の視点だ。決闘するのに相手の身重の女房や病気の子供の顔など浮かんだらこっちが殺られる。冷徹なビジネスに情状のアピールを持ち出すのは弱くて力のないことの表明であって、そういうのは単なる「たかり屋」であることが極めて多く、相手として勝ってもたいした戦果はないし相棒(パートナー)として組む意味はもっとない。

無感情、叙実的に見ても人間は顔だけではわからない。何年もつきあって、いろんな局面で是非を見て、力量と信用度を量る以外にはない。相手だって力量のある人ほどそうしてこちらを量っている。そうやって初めて信頼関係というものがそこはかとなくできてくるものだ。相思相愛ではなく、相思相信頼だ。そういうふるいにかかって残るのは、僕の場合は少数であった。友達、知人という程度のものではないもっと特別な存在であるから、こっちが死ぬまで大事にする、いや、すべき人たちである。

ウソがないか、逃げないか、裏切らないか、言行一致か、口が堅いか。これが絶対基準だ。大丈夫と踏んだのに、あとになってひとつでもそうじゃないということが発覚することがある。これはつらい。信頼をゼロにすることになる。ということは、もうつきあわないことになるからだ。男女は関係ない。ただ、矛盾するようだが、そうなって屑野郎と思っても僕はいったんパートナーになった人は必ず守る。来るもの拒まずの親譲りの性格ゆえ、来て受け入れた人を守らなければ親の否定、自分の人格否定になるからだ。

若いころ、素っ裸の状態で知り合って酸いも甘いも良いも悪いもお互い知り尽くしている人たち。掛けがえなく貴重だ。そういう人たちがいるという唯一の理由で、いま僕は自立して仕事ができている。これからめぐり逢いもするかもしれないが、もう素っ裸になれないしあんまり許された時間はない。いま20代、30代のひとたちに告ぐ。そういう友達をいまのうちに何人つくれるかが、人生黄昏に至っても信頼関係の絆で助け合える人を何人持てるかになる。言っておくが、ただの仲良しからはパートナーはでてこない。必死に何かを共にやった人、仮にその時は敵であっても、そこにいるのだ。それを求めてもいけない。ただ日々粛々と必死に何かに打ち込むことだ、そういう人には神様が人生のパートナーを授けてくれる。

夏目漱石の日本語

 

 

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クラシック徒然草 《マーラーと探偵小説》

2016 DEC 5 11:11:11 am by 東 賢太郎

探偵小説マニアの女性というのはあんまり見かけない。いるのだろうが今の周囲にはいない。僕は女性が好きそうなトラベルミステリーとか人情物は興味がないというのもあるかもしれない。

たまたまそういう方がいて、じゃあどこが好きかということになった。人間ドラマのどろどろですねという彼女に対し僕はロジックの理路整然なのだからまったくの対極でかみ合わない。純文学だろうが探偵小説だろうが人間なんて一皮むけばみんなどろどろなんだから、そんなわかりきった小説を書くのも読むのもエネルギーの無駄だろうと思ってしまうのだ。

探偵小説というのは暗黙のルールがあって、犯人は智者で読者は愚者、そして探偵は天才であるという三位一体がつねにある。愚者と天才はまあどうでもよくて、犯人=智者というのが問題だ。犯人が行きずりの粗暴な衝動犯でもいけないし、一応は計画犯だが愚鈍だったりでもいけない。警察捜査で事件は片付いてしまって、肝心の天才の出番がないのである。

しかし犯人が天才では探偵と相討ちになってしまって事件は解決しない。だから仕組んだロジックにわずかなほつれを作るぐらいの智者がいいのであって、天才である探偵はそれを見逃さない。はい、では皆さんは見つけられましたか?という物語であって、ほら、やっぱり無理でしたね、どうですこの名探偵、天才でしょ?というホラ話をまじめに受け入れられる素直な人たちのために書かれているのが探偵小説である。

そこで、智者である犯人像の創造が難しい。変人だと読者にバレる。しかし智者すぎると、そんなリスク・リターンの悪い犯罪なんか頭のいい奴がやるはずねえだろとなってしまうのだ。いわゆる本格推理小説というのはほとんどがそこに破たんの源があって、読み終わるとこんな低能な物書きに騙されて印税まで払ってしまったという自己嫌悪感しか残らない。

そこで目くらましとして「どろどろ派」やら「社会派」が出てくる。それに犯人をまぶして動機と人間性を隠ぺいするのである。それでも童謡に添って人を殺したり現場にトランプを置いていったりなんてくだらないことで捜査側をあざ笑おうなんてハイリスク・ノーリターンな行為がいささかも現実味を帯びるとは思わないが、仕方なくやる隠ぺいが謎を深めるといういっときのプラス効果はある。その失敗のツケは種明かしのあほらしさとなって倍返しでやってくるのだが。

そういいながら探偵小説に騙され続けているのは、小中学生のころ読んだホームズやクイーンが面白かったからだ。三位一体とワトソンの叙述がエクリチュール化して逸脱を許容しないホームズ物はともかく、挑戦状による読者参加型を装っておいて解決が完全にはロジカルでなく実は三位一体型以外の何物でもないクイーン物は造りそのものが騙しであるという確信犯的部分に創造性を感じるから騙されても腹は立たなかったのである。

中では、オランダ靴の謎とエジプト十字架の謎の二作だけが犯人が当てられるという意味でロジカルであり三位一体としては失敗作なのであるが、ちなみに冒頭の方は後者は未読で前者は面白くなかったらしい。X・Y・Z・レーンはYだけではニーベルングの指輪と言ってもわからない。人生楽しみが残っててうらやましいですねと申し上げるしかない。

ロジカル派には時間がたつと犯人を忘れるという文学作品ではあるまじき特色がある。数学の問題は解ければいいのであって解答が2だったか3だったかはどうでもよくて後で覚えてもいない。しかし上記のような名作はそれがない。ロジカルである数学の問題は解ける人と解けない人がいて、ある物体に気づけば解けるエジプト十字架などとても数学、いや受験数学的だ。

しかるにどろどろはどうも探偵小説に本質的なものではなくて、その大御所はドストエフスキーだし音楽ならマーラーでしょとなってしまう。寒村のどろどろまぶしの達人である横溝正史は、あれはあれでああいう特異なホラーものとして僕も嫌いでないが、まぶしの技巧が後天的に売りになったのであって彼もクイーン的ロジックを構築する緻密さが基底にある。室内楽で名品を書けたからマーラーはマーラーたりえたのと似る。

マーラーこそ交響曲の到達点だと信じこんでいる人に音楽は進化論では語れないと説いても無意味であり、あれは文学であってとっつきようもないと表現するしかないが、そういう人はバッハやベートーベンまで文学的に聞いたり演奏したりしている気がしてこれまたとっつきようもないのは別人種なのだから抗い難い。作曲家がソナタという定型的なしきたりで曲を仕上げる作業は探偵小説作家の作業と通じるように思う僕には、その問題は避けて通れない。

対極をすっと受け入れるほど僕は大物ではないが、しかし仕事ではそれは意識して重視している。僕のような性向の人間が気がつかないことを指摘してくれるのは、いつもそういう対極側の人だったという明白な経験則があるからだ。

 

なりたかったのはシャーロック・ホームズ

 

 

 

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織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎

AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。

この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。

今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。

それは何のことはない、こんな場所だった。

honnnouji路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。

この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。

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織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。

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もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。

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なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。

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その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。

 

 

もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。

明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。

ブログでは、

僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。

と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。

それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。

明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。

本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。

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余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。

 

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

 

 

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「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシミュレーション)

2015 JUL 26 8:08:36 am by 東 賢太郎

遊びは戦争のシミュレーションである。

これは僕の持論で、それもけっこう気に入ってる類のものです。戦争がいい悪いはこの際おいときましょう。なぜなら、社会へ出て、将来少しぐらいは他人よりいいポジションにつきたいと思っている若者にとって、待っているのは戦争以外の何ものでもないからです。いいポジションというものは、まじめにやってれば与えられるものではなく、ぶんどるものです。

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池井戸 潤の「シャイロックの子供たち」を読んでとても面白かった。筆者は銀行でこういう原体験を持ったのでしょうがどこでも一緒ですね。サラリーマンの出世競争にきれいも汚いもなく、奸計を弄してできる奴の足をひっぱる奴、権力で部下を利用し不要になると捨てる奴、上司のヨイショで上に登るお小姓野郎、そういうどうしようもない下郎がいくらでもいるんです。出世競争は実力だけではなく、いつも正論を吐けばいいわけでもなく、下郎に対しては下郎なりの戦略を持ってなくてはいけません。

 

中学のころです。世の中そういうもんかと僕に下郎の仮想体験をさせてくれた小説に漱石の「坊ちゃん」があります。「おれ」と同じぐらい義憤の塊になってしまい、一緒になって赤シャツ、野だいこをやっつける気になってたのがなつかしい。会社に入ってわかりました。どこの組織にも必ずいるんです、赤シャツ。その周りを見渡すと野だいこがこれまたたくさん出てくるんですね。うらなりも山嵐も笑っちゃうほどちゃんといるんですよ。

英語教師のうらなりが婚約者のマドンナを赤シャツにとられて飛ばされちゃう。時代が時代だから池井戸の上掲書や半沢直樹シリーズにくらべればあまりに他愛ない下郎ぶりですが、似た事件もありましたね。まあそんな程度のことに義憤で立ち向かう「おれ」の男ぶりがさらに際立ってくるのが現代の読み方なのかもしれません。パワハラなんてレベルの話じゃありません。もっと上でもっと堂々と陰湿なことが行われている。

赤シャツ、野だいこに天誅を下して辞職した「おれ」はサラリーマンとしては負けなんです。そこはもう人間の価値観ですね、人生何が大事かっていう。義憤でテーブルひっくりかえして溜飲を下げるのも気持ちがいいが、男の場合は守るべき家族ってものがあります。だから溜飲を下げるなら、どうなったって食える覚悟がなくちゃいけません。その力もないなら、義憤はあきらめて、お小姓の家来にでもなるかプライドも人格も捨てて組織の犬にでもなることです。別名、奴隷ですね。

冷たいことを書くようですがマキアベリだったらやっぱりそう書くでしょう。そういうもんなんです現実は。サラリーマンというのは単なる使用人であって、オーナーでなければ役員になろうがなんだろうが、社長になったって、実は使用人です(東芝をみたらわかります)。サラリーマン社長というのはどんな大企業であろうと銀座のクラブでいえばチーママ、雇われママなんです。ママは大株主であるオーナー社長以外にあり得ません。株を持ってなければ辞めたらただの人ですね。世間一般はそういうことを知りません。

だから、赤シャツ、野だいこをぶんなぐるのが面倒臭いなら、自分で会社つくってオーナーになることです。起業するということですね。その甲斐性がないなら、仕方ないからサラリーマン戦争に参戦してえらくなるしかありません。くだらない戦争ですが、やるならある程度は勝たないと面白くないですね。そう思うかどうかです。奴隷でいいという人は僕のブログなど時間の無駄ですから退出してください。そうでない人は、だから遊びなさい、思いっきり失敗できる学生のうちに負けの経験をたくさん積んどきなさいと言っているのです。

スマホでゲームなんかやってるのは暇つぶし、石つぶしであってそんなものは僕のいう遊びじゃない。ゲーセンやパチンコと何も変わらないです。失敗しても痛くもかゆくもない、何も人間を学ばないし追い込まれもしないでしょう。ゲームやるなら麻雀をやることです。僕はたくさん負けたからわかる。あんなに戦略的で、人間が学べて、だからこそ負けると悔しい遊びは思い浮かびません。カジノは金額は張って負ければ悔しいし経済的に追い込まれもしますが、運試しの要素が強い。人間をじっくりと観察して根っこから学ぶにはディーラーは不適です。麻雀の4人みたいに関係が対等じゃないからです。

スポーツは負けても金は減りませんが、人間として全人格的に勝者に否定され、劣後した気持ちになりますね、特に男は。プライドも名誉も女も取られるんです。戦争で負けたのと同じです。だから同好会みたいなのはだめです、そうなりませんからね。スポーツである必要はないがこういう屈辱を味わってないと結局は弱いと思いますよ。負ける屈辱なんて実は大したことないし、それが倍返しの強烈なモチベーションになるのに、経験がなくて怖いままだと往々にして逃げるようになるんです。そういう人が非常に多いですね。言いわけ、口実でケツまくって逃げる性癖を持ってしまう。そういう人はここぞという場でいよいよ初めて負けて大怪我するし、そもそも勝負弱いです。もっと困るのは目利きに信用されません。僕は大事なところでそういう部下を絶対に使いません。

海外に出てみる。それもなるべくツアーじゃなく自力で。いかに自分が理解されないか、何でもないか、日本人がどう見られるか、完璧にわかります。言葉の問題じゃない、そんなのは「理解されない」ことの一部分にすぎません。ふつうプライドがずたずたになります。負け体験ですね、それがいいんです。どうしたら理解されるか、仲良くなれるか、上回れるか、いろいろ考えます。自分の頭でね。それが自分の肌に合ったインテリジェンスになります。くだらないノウハウ本を百冊読むより1週間の海外体験が確実に勝ります。英語ができない?行ってしまえばいいんです。できないと生きてけないから必死になり、なんとかなるもんです。

戦争というのは、負けてはいけないんです。勝つためにやる。だから先にシミュレーションしたほうが強い。本番の前に問題集を解いた方がいいですね、そこでたくさん間違えたらなおいい。弱いところを教えてもらったのだから、そこを特訓して本番に臨めば勝つ確率は格段に上がるのです。だから、思いっきり遊んでください。例に挙げたスポーツ、麻雀、個人海外旅行、ぜんぶ人間を相手にして鍛えられるものですね。人間相手であれば何でも構いません。お薦めしてることの究極は、人間を知って、観察して、利害関係をもって、相手がどういう顔や性格や言葉つきや行動パターンだとこういう奴だという目星をつける能力を磨くということなのです。

 

(こちらへどうぞ)

必死にさせてくれる人

 

 

 

 

 

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高木彬光「呪縛の家」を読む

2015 JUN 22 12:12:51 pm by 東 賢太郎

ミステリー作家にはクラシック音楽好きが多い印象があります。ヴァン・ダインやエラリー・クイーンの作品にはその薀蓄(うんちく)が現れるし、横溝正史は長男が音楽評論家(横溝亮一氏)になられたほど。そのほか名探偵がマニア(コリン・デクスター)だったり、音楽そのものを題材にした現代ミステリーもけっこうあります。

9784334768997高木彬光の「呪縛の家」を読むと、連続殺人が交響曲の楽章に見立てられており、彼もその一人だったのかなと思います。

これを読もうと思ったのは新幹線でヒマなのが嫌だったからで深い意味はありません。ところがうれしいことに、この作品は終章にいたって「読者への挑戦状」がありました。

エラリー・クイーン「災厄の町」を読む

にこう書きました。

 

最後に「読者への挑戦状」があって負けたくないので緻密に読みます。それでも負けてしまう。というのは、実はクイーンのロジックは緻密でないからです。

さて、それでは呪縛の家」はどうだったか?

犯人はわかってしまいました。第1の殺人の犯行方法も、そりゃないでしょという解答なもんでわかりようがない部分をのぞけば、たぶんこう落としたいんだろうという原理的なものは。

ということはですよ、この作品は緻密なロジックで書かれているということなんでしょう、少なくともクイーンよりは。「読者への挑戦状」があることでクイーンのまねであることは自明なのですが、筆者は作中にアガサ・クリスティとヴァン・ダインの古典的名作を引いていて、後者は犯人名まで堂々と書いてしまってます。

読んでない人は要注意ですが、書かれた1958年当時はそれらの古典の余熱が残っていて、ファンはそのぐらい読んでいてトリックは知っており、そういう通をだしぬこうと筆者が意欲作を書くという良き時代だったことがうかがえます。

トリックが出尽くしてしまったいま、こんなのに出会えてわくわくしました。

 

(こちらへどうぞ)

ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

ネコと鏡とミステリー

 

 

 

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エラリー・クイーン「災厄の町」

2015 MAY 17 19:19:44 pm by 東 賢太郎

51qs8cL-0-L._SL250_クイーンの長編はほぼ読んでしまったのでこれは珠玉の残り物でした。読んだのは早川書房の「新訳版」(越前敏弥訳)で、翻訳者の越前氏のブログによると、

『災厄の町』はクイーンの後期の代表作で、クイーン自身が最高傑作と評したこともある作品です。わたしも、海外ミステリーのオールタイムベストを選ぶとき、かならずこの作品を上位に入れます。」

とあります。楽しめました。僕にとってクイーンは思い出の卒業アルバムみたいなもので、感動→失望というプロセスをたどったものですからすでに過去のものでもあり、読み残しの何作かも食指が伸びずじまいでした。これを本屋で買おうと思ったのも熱が再燃したわけではなく、字が大きいから。何ともさびしいものですが。

中学~高校時代にハマって片っぱしから読みましたが、パズラーとしての凄味と切れ味に感服したものですから一言一句を熟読しまして、国語の教科書よりもずっと影響を受けたと思います。

還暦になって、クイーンの影響が「3つ子の魂」と化したことを列挙してみると、

  1.  ロジック好き(=要は理屈っぽい)
  2.  細部好き(=全体と細部に優劣なし、些末な事は世になし)
  3.  物証好き(=人より事実を見る、いい人・悪い人はない)
  4.  リアリズム好き(=あいまいが嫌い)
  5.  やりあげ好き(=解けない問題はない=必ず最後までやる)

 

です。クイーンによってそうなったというより、おそらく元からそうだったからクイーンが好きになったのであり、クイーンがそれらを増幅したということのようです(1-5の末としてもうひとつ、6.こうして文章がくどくなる)。

中高時代というと勉強はともかく野球と音楽で忙しいさなか、普通ならもう少しまとも?な名作文学全集や純文学にあてる限られた時間がそっちへ行ってしまったわけで、文学趣味や詩心には無縁のまま馬齢を重ねてしまいました。

さてクイーンですが、瓶やら靴やら帽子やらの物証をめぐる文章を読むわけですが、最後に「読者への挑戦状」があって負けたくないので緻密に読みます。それでも負けてしまう。というのは、実はクイーンのロジックは緻密でないからです。

なぜならそれは作者がロジカルだと勝手に了解した方法論に則って書かれた数学の答案みたいなものであって、でもこう解けば答えは違うとなる。あるいは解くための所与の条件に恣意性がある。したがってロジカルでないのです。

僕が読んだかぎりですが、解決が本当にロジカルな答案となるミステリーはないのではないでしょうか。必ずアンフェアなまま真相が開示されると言い換えてもいいし、必ずフェアネスより意外性に重点が置かれたスタンスで書かれていると言い換えてもいいでしょう。

そりゃそうです。数学の答案に金を払う人はいないでしょう。「驚天動地の結末」こそが商品です。だから昨今のミステリーはどんどんこけおどしに淫してしまい、ロジックが導き出すスマートな意外性を見ることはほぼ皆無になりました。

クイーンの人気の秘密はそのロジック解法のスマートさに「こだわっているふり」をし続けてくれたことにありますね、きっと。ふりということはウソなのですが、ウソでもいいからやってほしい。これってコスプレの世界です。ちょっと倒錯があります。

大人になって読んだ「チャイナ橙の謎」あたりでそれに気づいて飽きてしまい、だから「オランダ靴」や「エジプト十字架」、「Yの悲劇」をなつかしみつつもクイーン教を脱退してしまいました。

しかし、その不自然さは問題設定に欠陥があるんじゃないか。良問はロジックと意外性を両立できるのではないか。まだ仕掛けを見抜けない中学生の僕にはそれは達成されていたのだから、大人レベルで超絶的な作品が出てくるんじゃないか。

そういう幻を追いかけてまた読んでしまう。ミステリーはそういうビジネスなんでしょうが、商売なんかぬきにして真剣勝負を仕掛けてくれる天才が現れないでしょうか?それともオヤジの空しい願望なんでしょうか。

ちなみに「災厄の町」はロジックを文学的味つけに内包した所に新味があるという評価が一般的のようで、クイーンの片割れのフレデリック・ダネイが79年にキャロル大学での講演で「これまで書いた中で最高の作品」といったそうです。

僕はそうは思いませんが、一般に「後期」と呼ばれる方向に持っていきたい作者の意気ごみは感じます。このへん、3大バレエ後の渡米したストラヴィンスキーを思い浮かべてしまいますね、気持ちはわかるんですが。

この作品、やっと殺人がおきたところで犯人がわかったということで、したがって、ロジックはフェアであるといえます。というより、見抜かれるリスクをかなり負っている。それをカムフラージュするために人物の心理描写が必要になったのであって人間を描いた文学性(のようなもの)はトリックの素材です。

新味とはそういう意味でなら正しいでしょう。ダネイの「最高の作品」という自薦もたぶんそうではないでしょうか。しかし、この手法のリスクは、文学に疎い僕のような無粋漢にはそれがちっとも煙幕としてワークせず真相がわかってしまうことでしょう。

なによりその煙幕が書物の梱包に関わる「ある事実」を知るまでエラリーにも効いているのであって(だからこれが素材だと分かったのです)、名探偵より先を行っている優越感すら味わえたという稀有なエンターテインメント性のあるミステリーでした。

それだけなら苦笑して終わりなんですが、そうではなかった。「ある事実」で急転直下、ロジックによって全てが覆って真相解明に至る、これは「エジプト十字架」のリフレーンであり、あるストーリーに添ってやむなく事態を進行させた非合理が謎を残す、これは「Yの悲劇」のリフレーンです。

何と懐かしい!わくわくしながら読み終えました。まあイメージとしては80年代のベンチャーズのライブみたいな観はあるものの、許せてしまいますね。お薦めです。

 

(こちらもどうぞ)

アガサ・クリスティ 「葬儀を終えて」

 

 

 

 

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クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

2015 JAN 20 18:18:13 pm by 東 賢太郎

先日、関東にお住いの方からSMC(西室)当てに長文のメールをいただいて、拝見すると去年11月に書いたこのブログのことでした。

僕がクラシックが好きなわけ

ずいぶん前ですが、「ボレロはセクシーですね」という女性がおられて絶句し、

『こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない』

と書いたのですが、頂戴したのはそれに対しての大変に興味深い論点を含むメールでした。それを読んで考える所がありましたので一部、要旨だけを引用させていただいて、ラヴェルについて少々書いてみたいと思います。メールには、

私もあの・・・中略・・・部分を耳を澄まして聴いてしまいます。東さんの説によると、ボレロに関して私は”何千人の一人”に入ってしまうようです。

とありました。僕の記事を見てデュランのスコアをご覧になったとも書かれていて、とてもうれしく存じます。

先般も「ブーレーズの春の祭典のトランペットに1箇所ミスがある」と、ブーレーズとトランぺッター以外誰も気がつかなかったかもしれないウルトラニッチなことを書いたら、それを探しだしてコメントを下さった方もおられ感動しました。お好きな方はそこまでこだわって聴いているということで、普通の方には別に飯のタネでもないのにずいぶんモノ好きなことと見えるでしょうが、飯より好きとは掛け値なしにそういうものだと思うのです。

ボレロの9番目の部分は倍音成分の多いフレンチホルンにパイプオルガンを模した音色を人為的に合成しようという意図だったと僕は考えております。各音に一定比を乗じたピッチでチェレスタとピッコロを配しているのでそれぞれがホルンの基音の平行移動ということになり、結果的にCとGとEとの複調になっていると思われます。ミヨーと違って複調に根拠、法則性を求めるところがとてもラヴェルだと思います。

こういう「面白い音」はマニアックに探しまくったのでたくさん知ってます。高校時代には米国の作曲家ウォルター・ピストンの書いた教科書である「管弦楽法」が座右の書であり、数学や英語の教科書などよりずっとぼろぼろになってました。これは天文で異色の恒星、バーナード星や白鳥座X-1やぎょしゃ座エプシロンの伴星について物凄く知りたいのと同質のことで、どうしてといわれても原初的に関心があるということで、僕のクラシックレパートリーは実はそういう興味から高校時代に一気にできてきたためにそういうこととは無縁のベートーベンやモーツァルトはずっと後付けなのです。

僕がSMCの発起人としてクラブを作った目的はトップページに書いてある通りですが、そのなかのいちブロガーとして音楽記事を書くきっかけはそれとは別に単純明快で、自分の読みたいものが世の中になかったからです。でもそういうのに関心がある方は何千人に一人ぐらいはいるにちがいないと信じていたので、じゃあ自分で自分の読みたかったものを書いてインターネットの力を借りてお友達を探してみようという動機でした。

こういうのはfacebookや普通のSNSには向いてません。単に昔の知り合いを集めてもこと音楽に関してはしようがないし、こんなニッチな関心事はそれが何かをきちっと説明するだけでも一苦労だからです。でも少なくともその何千人からお二人の方が素晴らしいリアクションを取ってくださった。それだけでも自信になりますし書いてきてよかったと思いました。

ただ日々の統計を見ると多くのビギナーの方も読んでくださっているようで、クラシック音楽は曲も音源も数が膨大ですからワインのビギナーといっしょで入り方をうまくしないとお金と時間の無駄も膨大になるという事実もあります。僕のテーストがいいかどうかは知りませんが、たくさんの英国人、ドイツ人の真のクラシック好きと長年話してきた常識にそってビギナーの方がすんなりと入れる方法論はあるという確信があります。学校で教えない、本にも書いてない、そういうことをお伝えするのはいちブロガーでなくSMCメンバーとしての意識です。

さて、ラヴェルがセクシーかどうか?こんなことはどこにも書いてませんからもう少しお付き合いください。メールに戻りますが、こういうご指摘がありました。

ボレロには、「大人のあか抜けた粋な色香」を強く感じます。ラヴェルは官能性を効果として最初から曲を組み立てる時に計算しているように私には思えてならないです。

これは卓見と思い、大いに考え直すところがございました。本稿はそれを書かせていただいております。

たしかにボレロはバレエとして作曲され、セビリアの酒場で踊り子がだんだん客を夢中にさせるという舞台設定だからむしろ当然にセクシーで徐々にアドレナリンが増してくる音楽でないといけません。それが目的を突き抜けて、踊り子ぬきで音だけでも興奮させるという仕掛けにまで至っているのがいかにも完全主義者ラヴェルなのですが、おっしゃるとおり、それはリズムや曲調に秘められた官能性の効果あってこそと思います。

ドビッシーの牧神や夜想曲もエロスを秘めていますがあれは醸し出された官能美であってセクシーという言葉が当てはまるほど直接的なものではないようです。ところがラヴェルは、ダフニスとクロエの「クロエの嘆願の踊り」(練習番号133)などエロティックですらあって、こんなのを海賊の前で踊ったらかえって危険だろうと心配になるほどです。「醸し出された」なんてものでなく、非常に直截的なものを音が描いている点は印象派という風情とは遠く、リストの交響詩、R・シュトラウスの描写性に近いように思います。

僕はメリザンドの歌が好きですがこれは絵にかいたような不思議ちゃんであって、わけのわからない色気がオブラートに包まれてドガやルノアールの絵のように輪郭がほんわりしてます。かたやクロエはものすごく気品があるいっぽうでものすごくあからさまにセクシーでもあってぼかしがない。音によって描く色香が100万画素ぐらいにピンポイントにクリアであって、その描き方のセンスは神経の先まで怖いぐらいに研ぎ澄まされていると感じます。

ドビッシーとラヴェルはいつも比較され並べて論じられるようですが、作曲家としての資質はまったく違うと思います。彼らが生きて共有した時代、場所、空気、文化というパレットは一緒だからそこに起因する似た部分はありますが、根本的に別々な、いってみれば会話や食事ぐらいはできても友達にはなれないふたりだったように思います。ライバルとして仲が良くなかった、ラヴェルが曲を盗まれたと被害意識を持ったなどエピソードはあるものの、それ以前にケミストリーが合ってなかったでしょう。

これは大きなテーマなのですが核心の部分をズバリといいますと、ドビッシーは徹頭徹尾、発想も感性も男性的であるのに対し、ラヴェルには女性的なものが強くあるということです(あまり下品な単語を使いたくないのでご賢察いただきたい、ラヴェルが結婚しなかった理由はベートーベンとは違うということであり、そういう説は当時から根強くあります)。

東さんはラヴェルのボレロに精緻さを強く感じていらっしゃるのかなと拝察します。
私自身、ラヴェルにドビュッシーとは異なる知的な理性を感じますし、ここがホントに大好きです。ただセクシーであるとも強く感ずるところです。

これがお二人目であり、もう絶句は卒業しました。というより、前述のようにバレエ台本からして、このセクシーであるというご意見のほうが道理なのであります。僕の方が大きく間違っていたのでした。

だから今の関心事はむしろ、どうして僕はそう感じていなかったかです。ピストン先生の教科書の影響もあるでしょうが、僕はラヴェルが自分を隠している「仮面」(知的な理性)の方に見事に引っかかってしまったのではないか。しかし、感受性の強い女性のかたはラヴェルの本性を鋭く見抜いておられたということなのかと拝察する次第です。彼の中の女性の部分は、女性のほうが騙されずに直感するのかもしれないと。

ボレロという曲は仮面が精巧で、僕だけでなく多くの人がきっと騙されてクールな仮面劇だと思って聞いていて、最後に至って興奮に満たされている自分を発見します。心の中に不可思議な矛盾が残る曲ではないでしょうか?これはアガサ・クリスティのミステリーみたいなもので、見事にトリックにひっかかってそりゃないだろと理性の方は文句を言いますが、そこまで騙されれば痛快だということになっている感じがします。

ボレロは「犯人」がわかっているので自ら聴く気はおきないのに、始まってしまうといつも同じ手管で満足させられているという憎たらしい曲です。しかしこの仮面と本性というものはラヴェルのすべての作品に、バランスこそ違え存在している個性かもしれないと思います。ドビッシーにそういう側面は感じません。真っ正直に自分の感性をぶつけて晒しています。ミステリーではなく純文学です。

「海」や「前奏曲集」を聴きたいと思う時、僕は「ドビッシー界」に分け入って彷徨ってみたいと思っていますが、それはブルックナーの森を歩いてみたいという気分と性質的にはそう変わりません。しかしラヴェルを聴く衝動というものは別物であって、万華鏡をのぞくようなもの、原理もわかっているし、実は生命という実体のない嘘の造形の美しさなんですが、それでも騙されてでも楽しんでみたい、そういう時なのです。

ラヴェルが隠しているもの。それは僕の推察ですがエロスだと思います。それを万華鏡の色彩の精巧な仮面が覆っている。万華鏡であるというのは、同じ曲がピアノでも管弦楽でもいいという所に現れます。エロスの多くを語るのは対位法ではなく非常に感覚的に発想され、極限まで磨き抜かれた和声です。ダフニスの冒頭数分、あの古代ギリシャのニンフの祭壇の神秘的ですでに官能を漂わせるアトモスフィアは精緻な管弦楽とアカペラの混成四部合唱によるものですが、ピアノで弾いてみると和声の化学作用の強さというものがよくわかります。

そして始まるダフニス、クロエの踊り。醜魁なドルコンに対比させるまでもなくエロティックであり、ちっともロマンティックでもセンチメンタルでもないのです。これはもはや到底ロマン派とは呼べない、でも印象派とも呼べない、ラヴェル的としか表現の術すらない独自の世界であって、誰もまねができない故に音楽史的に後継者が出なかったという点ではモーツァルトと同様です。

おそらくラヴェルが両親、先祖から受け継いだもののうち対極的である二面が彼の中にあって、それは彼を悩ませたかもしれないし人生を決定づけたものかもしれませんが、いずれにせよ両者の強い対立が衝動を生んで弁証法的解決としてあの音楽になった。あれは女性が書いたポルノであり、だから男には異界のエロティシズムであり、しかもそれを彼の男のほうである科学者のように怜悧な理性が脳神経外科医のような精密な手さばきで小説に仕立てた、そういう存在のように思うのです。

「両手の方のピアノ協奏曲」の第二楽章と「マ・メール・ロアの妖精の園」が大好きで、この世に かくも美しい音楽があるのかしらとも思ってしまいます。

まったく同感でございます。木管が入ってくる部分が特にお好きと書かれていますが、音を初めて出すオーボエにいきなりこんな高い音を出させるなんてアブナイですね。この部分は凍りつくほど美しい、ラヴェル好きは落涙の瞬間と思います。「マ・メール・ロアの妖精の園」は愛奏曲で、終わりの方のレードーシラーソードー ソーファーミドーシーソーは涙なくして弾けません。ここの頭にppと書いたラヴェルの言いたいことが痛いほどわかります。しかしこれはみんな女性の方のラヴェルのように思うんですが・・・。

ということで同じ感性の方がおられるんだ、人生孤独ではないと元気づけられました。こんなにニッチなことで人と人とを結び付けられるインターネットの力を感じました。最高にうれしいメールをありがとうございます。

 

音楽にはツボがある

 

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「信用資本主義」を宣言する!

2014 MAY 6 0:00:30 am by 東 賢太郎

今日、プラネットダイナソーなる恐竜の番組を見ていて思いました。恐竜がなぜ滅んだか?です。

大きいことがいいことだ、ではない。これは生物進化の常識です。捕食者として大きく強く進化するより環境適応した方が生きのびる確率は高い。だから哺乳類が強くなった。これは知っていました。しかし番組によると恐竜は、恐竜という種の中でちゃんとそれをやっています。歯の形を変えたり、肉食を草食に変えたり、小型種になって木に登ったり空を飛んだり。ちゃんと適応種が出ています。それなのに絶滅したわけです。

ということは、生物進化の常識があてはまらない事件がおこってそうなったのではないか?それは一応科学的に証明されたと言われていて、メキシコのユカタン半島に巨大な隕石が落ち、気候が急変したことがその「事件」となっています。それを見た者はないわけだから証拠を得て証明しなくてはなりません。犯罪捜査に似ていますね。殺人事件現場をしらみつぶしに調べて、煙草の吸殻や髪の毛から犯人を指摘するシャーロック・ホームズみたいな努力が必要です。

あいつがくさいぞ、あいつが犯人にちがいないという予見で捜査しておいて、理屈に合わない証拠が出てくるとストーリーに合うように加工ねつ造してしまうというのは、犯罪捜査においてはそれも犯罪、科学調査においては科学者資格はく奪に値する神の冒涜行為と僕は思います。ホームズのような推理小説の世界においては、証拠がそこまで科学的意味で自明に犯人を指し示すのは「オランダ靴の謎」など少数しかありません。だから犯人の自白や自殺で帳尻を合わせるなどがっかりのケースが多いのですが、事実を証明する現場が小説より奇ではいけませんね。

恐竜を殺した犯人は自白はしてくれません。だから証拠が自明に、ロジックの完璧さをもって語らないといけません。隕石説はそうでないとエセ科学にも聞こえてしまう。いろいろ調べていたら松井 孝典博士のサイトにあたりました。これを見て下さい。

http://youtu.be/8N17Rms7pZk

http://youtu.be/ZpcUsI-6IgI

http://youtu.be/wsYqNWUAKVw

「6550年前に直径10-20kmの隕石が秒速20-30kmでユカタン半島に衝突して瞬時に直径100km、深さ30kmのクレーターを作り、高さ300mの津波がおこり硫黄酸化物が作る雲が太陽光を遮った」という隕石という犯人と犯行方法が指摘されていますね。地球生成時にあったイリジウムという重い元素はあるメカニズムによって全部地殻に沈んでいるのにこの6550万年前の地層にだけ見つかる、その総量から隕石の大きさが逆算できて衝突インパクトが計算できるなど、犯人指摘のプロセスはエラリー・クイーンのミステリーなみにわくわくします。

ところでいま、世界経済は物質的経済成長の持続が期待できなくなる時代、何度も書きますが「200年続いた産業革命期の終焉」にさしかかっています。氷河期が襲って成長という地球上の食物が少なくなるようなものです。その環境変化の大きさは恐竜を絶滅させた気候変化に匹敵します。だから大きい動物が生態系の頂点にある時代は終わります。大型草食獣の代表だった中国がだんだん食えなくなって肉食化し、肉食獣の王者だった米国はだんだん衰弱しています。そして両国ともいずれ大きさという壁に当たります。恐竜の後に恐竜はもう出なかったのです。小型獣ながら適応力抜群である日本は、6550万年前の哺乳類の位置にいます。地球を制覇したのは、小さかった我々哺乳類だったのです。

その日本。東北大震災では若者たちが避難警報を無視して命がけで流されたお年寄りを救う画像が流れました。それを見た韓国では信じられないという書き込みがあふれました。韓国船の船長をあげつらう気も擁護する気もありません。むしろああいう若者がそこかしこにいる日本のほうが世界では希少なのです。落した大金が手つかずで戻ってくる世界唯一の国です。あるおばあちゃんが日立の株を買ってくれたことがあります。「来年はあんまり業績は良くないですよ」と申し上げると、「いいえ、下がってもいいんですよ。孫が日立にはいったもんですからね。」 胸にじーんときました。こういう投資家がいることを経済学の教科書は想定していません。

韓国人や米国人が驚くような日本文化。それは風呂敷に象徴されるように江戸時代までもっと適応力がありました。ところが薩長の明治政府が天皇の権威を支配して富国強兵という大目標をたて、それにむけて突っ走ることで環境適応力を自らどんどん失いました。風呂敷文化がカバン文化になってしまったのです。敵の戦力の値踏みすらできなくなったその挙句が第2次大戦敗戦です。そして敗戦国の屈辱のなか、廃仏毀釈どころか自虐にすら走るという信じ難い国ができあがりました。こういう国も、世界史の教科書にはのっていません。

国家の仕事、国家しかやりえないことは外交と防衛です。これを安倍政権が懸命にするのは本来の仕事として当然のことでしょう。それ以外の仕事を国は減らして地方政府に任せればいい。財政収支を自活させるには江戸時代まであった「藩札」を復活させればいいのです。ギリシャが財政破たんしたのは、国力が落ちれば為替レートがちゃんと下がって観光客が増え、税収を増やしてくれるドラクマという自国通貨を放棄してユーロに参加するという安易な道を選んだからです。日本の県も円という統一通貨で財政を行うから同じことになっているという見方をしてみたらどうでしょう。

国民の側も、なんでもかんでも国にやってもらおうというのはまちがい。地方は地方でやり方次第でいくらでも国際化の道は開けます。日本ほど観光、歴史、温泉、グルメなど外人が興味を持つ資源を地方がどこでも潤沢に持っている国はそうはありません。東京にそれを宣伝してもらうのでなく、東京よりもグローバルな方法を自分であみだせばいい。僕はいくらでもそういうプランを描けます。というのは、第3の矢の経済成長は本来国家にはできないことなのです。たとえば少子化担当大臣というのがいます。この人はいったい何をするんでしょう?お見合いや合コンや強精ドリンクの手配でもするんだろうか。問題意識を持っているのはいいことだが、そんなことを国が目標に掲げて成果が出ると本気で思っているんでしょうか。

大なり小なり、第3の矢はこれと同じく滑稽のにおいがするのです。それは若者の結婚や子づくりと同じことで、企業がビジネスとして自分でその気にならないのならいくら日銀が金利を下げても誰も借りないのと一緒です。役所が机の上で考えたビジネスプランに命の次に大事なお金を出資しようなどという企業家はあまりいないでしょう。一番効果があるのは、法人税率を下げ、政府が民間に道を開いて規制緩和をすることなのです。そうして企業が収益を自力であげる機会を増やし、そこで働く夫婦がもうひとり子供がいてもいいと思うようにしてあげれば一石二鳥なのです。それが政府にとっても良い結果になる。なぜなら、日本が持ち前の環境適応力を最大に発揮し、新しい世界環境で生き残る道が開けることにもなるからです。

そこで企業が採る道として僕は「信用資本主義」ということばを提唱します。これが東北大震災という試練をのりこえ、人の「絆」というものの大切さを世界の誰よりも知った日本の財産です。犠牲になられた多くの尊い命のまえで、それを国のため、次の世代のために大事に生かしていくことを誓うことこそ我々のすべきことです。「信用」とは人と人が信頼でつながることで、もっと良いものを生み出す力を何よりも秘めています。信用ができないから契約するのです。契約したから義務としてするのではなく、信用され、信用したから真心をもってする。絆とは心と心のつながりです。だから契約より強いのです。これは古来日本人の持つ社会観、道徳観であり、これを自然にできるのは世界で日本人だけです。オンリーワンの国が負けるはずがありません。信用を根っこにして積み上げていく資本主義を僕は自分のビジネスとして、言うだけではなく有言実行したいと思います。

 

頑張らない人が報われる社会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調

2014 MAR 27 0:00:08 am by 東 賢太郎

僕が最も好きなカルテットの一つです。1年前に作曲されたドビッシーの同曲がありますが似たものではなく、ラヴェル独特の和声感覚にあふれた傑作です。

弦楽器4丁だけで作り上げる世界はシンプルなだけにごまかしが一切きかず、作曲家の「仕事」の良し悪しが露骨に出てしまうという意味で僕は江戸前鮨の小肌や穴子を連想します。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトが古参で複数のいいネタを握ってますがメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、グリーグ、シベリウスになると他の作品を凌駕する味ではなくなります。スメタナ、ボロディン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、ドビッシー、ヤナーチェク、ベルクあたりが単品でいいのを握りましたがネタ数でいうとショスタコーヴィチとバルトークが古参の後継者でしょう。

180px-M_ravelこれほど大家でも苦労しているジャンルですから名作は中期か晩年の作というケースが多いのですが、ラヴェルはわずか27歳でカルテット史に特筆される名作を残したのですから異例な人です。全曲にわたって次はどう転調するのか予測不能という強烈な個性であり、ロマン主義に源流を発しワーグナーを経由してドビッシーに至った音楽の系譜からは超然とした、まったくラヴェル的な音楽としか表現のすべがありません。

ここでの転調は内声部が半音上がったり下がったりして有機的、連続的に起こるものではなく、小節をまたぐと何の脈絡もなくいきなり景色が変わるという感じのものです。例えば第1楽章の冒頭主題はヘ長調で山を登り、別な斜面を変イ長調で降りてきてト短調で止まる。トンネルを抜けると雪国だった、という感じですね。空気のにおいや光の当たり具合がぱっと変わって、こちらの気分も次々に動きます。これがたまらなく好きなのです。

ラヴェルというと一般に管弦楽法の魔術師でありムソルグスキーの「展覧会の絵」を絢爛たる絵巻に仕立てた手腕の印象が強いと思いますが、墨絵のように単色のカルテットに「ソナチネ」「ダフニス」「マ・メール・ロワ」「優雅で感傷的なワルツ」がこだまするのをきくと、あの色彩感はけっして彼の音楽の本質ではないことがわかります。このカルテットが何より雄弁にそれを物語っています。

ミステリー作家の泡坂 妻夫に 「湖底のまつり」 (角川文庫) という驚くべき作品があります。絢爛たるだまし絵の世界と評される傑作で、僕は日本のミステリーのトップ10に入れたいものです。精巧な作り物に完璧に騙されるのですが、見事にリアルな情景描写は今も色つきで細部まで記憶にあります。でもその「彩色」はだまし絵の小道具なんですね。そのリアル感がだまし絵の効果を倍増するのです。この作品を読んでラヴェルに似てるなあと思わずつぶやきました。

ラヴェルのカルテットがどう解釈されているか。転調が変転する情景と気分を支えているわけですから、4人の奏者たちの和声感覚が非常に大事です。それからメロディーと隠し味のような伴奏音型が並行する場面が多々あって、そこの音の混ぜ具合も重要です。それは弦楽四重奏ラヴェル例えば第1楽章のここです。メロディーとバスに対して第2ヴァイオリンとヴィオラが細かいさざ波のような音で和声感だけでなく絵画でいえば「材質感」のようなものを加えます。これが強すぎても弱すぎても音程があやふやでもだめです。そういう演奏がとても多い。こういうちょっとした部分が生命線になる、ガラス細工のようにデリケートな曲です。

本稿のためにCDを聴きなおしましたが、どうもこれぞと自信を持って推せるものがありません。まずは世評の高い演奏から寸評です。僕はパレナン弦楽四重奏団(EMI)でこれを覚えましたが、フランス風のいい味ですがどうも第1ヴァイオリンの音程が甘いのが気になります。ただ昭和の本邦音楽界では決定盤とされていたわけで一聴の価値はありましょう。

ラサール弦楽四重奏団は少し音程はましですが非常にクールな表情でフランスの情景が浮かんでこない。カペー弦楽四重奏団は歴史的名盤といわれますがポルタメントがうるさく4人の和声も相当にアバウトです。アルバン・ベルク四重奏団は比較的いいですね。練り絹のような音色で音程もしっかりしています。色調が暗くラテン的でないので僕の好みではありませんが演奏は非常にハイレベルです。

ブダペスト弦楽四重奏団。第1ヴァイオリンの音程がひどすぎて5分で耐えられずやめ。特に良くはないがまあ全般にいいでしょうというのが メロス四重奏団です。ヴァイオリンがやや繊細すぎる音ですが内声部の和声感がすぐれており、これは時々取り出して聴いているものの一つです。

イタリア弦楽四重奏団はややエネルギッシュすぎるのが好きでありませんが和声は見事です。この曲の生命線はヴィオラと思っているのでこれはかなりいい線ですね。ボロディン弦楽四重奏団。音楽的です。4人がハモッた音の純正調の和声は見事で上記の譜面のバランスも理想的。アルバン・ベルクと同じくフランスの香りがないのが僕には欠点ですが上質です。バルトーク弦楽四重奏団。うまいです。4人が音楽に「入って」いて微細なニュアンスまで揃っています。ちょっと第2ヴァイオリンのヴィヴラートが、と思いますが総合点は高い。

モディリアーニ弦楽四重奏団、これはけっこういいですね。フランスの団体ですが音はふくよかでニュアンス豊か。音程も良く上記譜面の処理も音楽的です。第4楽章の第1主題のキザミと和声変化への対応もグッド。エポック弦楽四重奏団。まったく知らない団体ですがチェコの団体のようで美しい演奏をしています。上記楽譜の後に来る第2主題、ヴァイオリンとヴイオラのユニゾンですが、ヴィオラがいいですねえ。音程も良くこれは安心して聴ける演奏です。ライプツィッヒ弦楽四重奏団。これも知らない団体。合奏体として和声を造っていて見事。上記譜面もすばらしいニュアンスです(ヴィオラの力です)。これはドイツ風ということでもなく音楽として高水準で好きであります。カルヴェ弦楽四重奏団は1919年にバイオリン奏者ジョゼフ・カルヴェを中心に結成し1930年代、40年代に活躍、1949年に解散しましたがこのラヴェルは絶品。ベストに挙げてもいい素晴らしさです。

最後にファイン・アーツ弦楽四重奏団による第1楽章です。米国はシカゴの近く、ウィスコンシンの団体ですが老舗の一つであり僕は彼らのバルトークを非常に高く評価しています。メンバーはその録音のころとは総入れ替えですが、このyoutubeはヴィオラをよく聴いていただきたい。上記譜面などすばらしい。とにかくヴィオラがうまいとこの曲は生きるのです。第1ヴァイオリンはヴィヴラートが多く甘目に弾き過ぎ、音程もアバウトなのでトータルでは買えませんが。

 

(補遺、2月16日)

ヨープ・セリス /  フレデリック・マインダース(pf)

MI00010514592台ピアノ版である。演奏は充分に楽しめる。カルテットは管弦楽のリダクションの性格があるが、それをさらに4手に落としたものは音楽のスケルトンを知るには格好のものだ。2手では行きすぎであり、ほぼすべての要素が書きとれるからだ。このカルテットの心をゆさぶる光彩と闇。それを生む和声とリズムの秘密がはっきりと聴きとれるさまは興味が尽きない。ピアノの技量としてはさらにデリカシーが欲しい部分もあるが悪くはなく、この曲が好きな方にはお薦めしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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