Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______歴史書

宵越しの金をもたねぇのが江戸っ子ってもんで、、、

2015 NOV 15 0:00:21 am by 東 賢太郎

娘(次女)が観てみたいと言うので歌舞伎座へ連れて行きました。11時の昼の部を一階の東桟敷席で。演目は「実盛物語」、「若き日の信長」、「曽我綉俠御所染」でありました。

kabukiza_201511ffl

この演目は席がたまたま空いていただけで選んだわけではありませんが「実盛物語」は琵琶湖、竹生島が舞台であり、「若き日の信長」は平手政秀の切腹にまつわる話。今年行ってみたり多大な関心を寄せたりの題材であり、なにやら浅からぬ因縁か・・・。実盛は染五郎、信長は海老蔵でした。海老蔵の「人間五十年…」は良かった。彼が声がいい。信長の雰囲気が見事に出てましたね。

「信長の血脈」余談ですが、信長の傅役(もりやく)であった平手政秀は若殿のうつけを諌めて腹を切ったことになってますが、加藤廣著「信長の血脈」(文春文庫)にある「平手政秀の証」は別の説で書かれています。これが非常に面白い。

父、織田信秀の死は公表されず、長子信行を後継者と仕組む母、土田御前によって葬儀は3年後に信長の不在のすきをぬって行われた。例の「焼香事件」は、怒りに燃えた信長が抹香を父の位牌ではなく母と信行に投げつけたものとするのです。

大うつけは敵はもちろん親族にも殺されかねなかった信長がわざと阿呆を演じたものであり、信秀亡き後のお家の混乱と今川の脅威を食い止められるのは吉法師(信長)しかないと信じる政秀は信秀の遺志は信長にあり「天地神明」に誓うと遺書を残して腹を切ったというものです。僕はこの説を支持したいと思います。

最後の「曽我綉俠御所染」は物語としては地味ですが江戸・吉原の習俗が見てとれ、尾上菊五郎、左団次も歌舞伎の名場面、名せりふが圧巻でございました。お昼の部ははねるのが4時ごろだからたっぷり5時間、弁当を食いながらの桟敷席は値はやや張るがおすすめです。

さて、たいそう面白く満足したし、お土産の吉田茂御用達まんじゅうも買ったし雨でもあるし帰ろうかと思ったのですが、娘が時間があると言うのでじゃあついでに江戸文化のハシゴで寄席でもどうだ、いいねとなりました。歌舞伎も寄席も初めてだからというのはあるのだろうが、このエネルギーと好奇心は大変よろしい。つきあおう。

丸ノ内線で新宿三丁目へ。新宿は伊勢丹裏の「末廣亭」でございました。ちょうど5時の夜の部が始まったところで具合がいい。

yorunobu

9時まで楽しんでしまいました。全部楽しめましたがお仲入り後のは特に傑作で丈二、小ゑん、白鳥は真剣に笑いころげました。こりゃあストレス解消には最高。昼から通しで3千円は安い。おすすめです。

src_13187009

 

 

この江戸情緒、好きですねえ、たまんねえでやんす。歌舞伎5時間、寄席4時間、宵越しの金をもたねぇのが江戸っ子っていうもんでございまして、、、、、

 

 

 

(こちらへどうぞ)

坂東玉三郎、片岡仁左衛門を堪能

わかる奴が大事

 

信長、曹操好き狩猟民のすすめ

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

嬉野温泉スパイ事件の謎

2015 SEP 13 22:22:57 pm by 東 賢太郎

先週末は雨とコンサートでジョギングできませんでした。2週空いてはまずいので今日はまた二子まで10km。けっこう調子が良くてついに初めて1時間を切りました(57分)。

阿曾さんたちにそれならハーフマラソンはいけるいけるとけしかけられたのと、もう一つ佐賀の嬉野温泉へ行った時に按摩(あんま)さんに「筋肉は50才ぐらい」とおだてられたのが効いてますね、たぶん。

この嬉野(うれしの)という所は福岡空港からだと高速バス(九州号長崎行き)で諫早方面に1時間半ほどです。地図で見るほど遠い感じはしません。福岡空港発11:02に乗って筑紫平野を下り、筑紫野、基山を通って12:36に嬉野バスセンターで降ります。

「まめ多」の降旗女将にいい旅館があるよと教わっていて、昭和天皇が泊まった和多屋というのですがそれは満員でした。そこで和楽園さんという旅館に1泊しましたが良かったです。

湯質は無色透明ながらぬめりがあります。傷を負った鶴がこの温泉で治るのを見た神功皇后が「あなうれしや」といったのが名称の語源だそうだから、日本書紀の時代から知られていたということです。和銅七年(714年)に記された肥前国風土記に名前が出てくるそうです。

「シーボルトの湯」というのがあります。

 

シーボルト_川原慶賀筆フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年 – 1866年)がここに長崎から何度か来ていた。彼はオランダ人と偽って出島に入ったがドイツ人であり、出身地はヴュルツブルグです。思えば僕はフランクフルト駐在当時、友人とよく車でヴュルツブルグの劇場にオペラを聴きに行ってました。

フランクフルトを流れるマイン川は、ワーグナーの聖地バイロイトあたりに源流を発して、長躯バンベルグ、ヴュルツブルグを流れてフランクフルト・アム・マインに来ます。そしてマインツでライン川に合流するのです。そういえばシーボルトの従兄弟の娘に当たるアガーテ・フォン・ジーボルト(1835年 – 1909年)は、あのブラームスの婚約者であったっけ!

 

どんどんパズルのピースがつながっていきます。

 

あそこから長崎に、そしてこの嬉野温泉に来ていた。彼はプロイセンのスパイだったという説もあり、幕府禁制の日本地図を持ち出そうとしたことで国外追放処分となるのです(1828年、シーボルト事件)。このとき、丸山町遊女であった瀧との間に生まれた娘(日本人女性で初の産科医となった楠本イネ)を残して去ったのはどこか「蝶々夫人」を思わせます。

イネは大村益次郎に恋した人であり、京都で襲撃された彼を看護しその最期を看取っている(司馬遼太郎「花神」)、また、吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」の主人公にもなっています。彼女の美しい娘が宇宙戦艦ヤマトのスターシャのモデルらしいというのも知りませんでした。

そこで、もうひとつ、思い出した。「シーボルトの湯」の目の前の橋のたもとにあった「大村屋」という旅館の跡に、こういう来歴が書いてあって、なんとなく写真を撮っていたのです。

 

伊能忠敬!!

そうか、幕府禁制の日本地図を役人の目が光る長崎・出島で受け取るのはあまりに危険である。温泉で湯治すると偽装して、ここで入手したんじゃないか??

 

まあ大昔の犯罪だしもうどーでもいいですけどね。

このことは実はさっき気がついたんで、当日は中村兄と来ていたんですが仕事で疲れてぼーっとしていて、名物の豆腐を食べてなんにも考えてませんでした・・・。母方の出身地が諫早なもんで、どのへんかなと旅館で尋ねたら、車で30分ですよ近いですよなんてことも知った。

ぎすぎすした東京からくると、人当たりがやわらかくてどこかほっこりしてて、安らぎました。いいところでした。また行くことになると思います。

 

(追記)

嬉野で撮った一枚に故・中村兄の後姿があった。昨日のことのようだ。

 

(こちらへどうぞ)

あれからもう一年か・・・

わが温泉考 (Splendid hot springs in Japan !)

戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

 

 

 

 

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

2015 AUG 28 23:23:08 pm by 東 賢太郎

昨日のブログにこう書きながら、どうしてそうなったんだろうと考えてました。

「自分の御しがたい性格であるのですが、終わったことに執着がないというのが良くも悪くもございます。昨日はもう今日に関係ないのであって、簡単に忘れてしまいます。もちろん事実としての記憶はありますが、そこでの感情を引きずらないという意味ではプラスであり、その感情の発展を期待して下さった人には期待に添えないかもしれないという意味ではマイナスであります。」

おいおい信用できん奴だなと思われても仕方ないし、子供のころは決してそんなことはなかったように思うのです。むしろ昨日をひきずって悩んだりする子でした。

おそらく、①野球をして育った ②野村證券で育った、という決定的な2大要因があって「戦場脳」が後天的にできてしまったのだと思います。①も②も毎日の数字で勝ち負けが出る世界でした。勝負だから勝たないと意味がないという意味で戦場であり、戦場は常にサドンデス(負け=死)です。昨日大勝しても今しくじって負けたら終わりであり、昨日を引きずって悲観したり油断したりする者はだから弱いのです。

武士、武将がみな戦場脳が強かったかというと、たぶん太平の世になった江戸時代は違うのではないか。真剣で切り合いをしていた薩摩侍は、忠臣蔵が美談になってしまうほど殺し合いのない江戸を、そしてそんな江戸が武士道の鏡と讃える忠臣蔵を嘲笑していたそうです。たしかに、負け=一族の死という強烈なストレスとプレッシャーの中に生きていないと、日々の積み重ねで生きる農耕民族に戦場脳は発達する余地は少ないでしょう。

日本の経営者には「軸がぶれませんね」が誉め言葉です。僕はそれを言われたら不本意です。それは農耕民の価値観であって戦場ではナンセンスであり、それを喜ぶのは戦さをしていない証拠なのです。負けたら死ぬという時に軸もへったくれもないのであって、越前 朝倉攻めで信長は作戦失敗、ケツをまくって逃げ帰ってます。野球で「監督、軸がぶれませんね」は「ベンチに策がない」と同義だろうし、欧米の経営者にYour decision is always stable.なんて言うとinflexible(変えられん無能)の皮肉ととる人もいそうです。その心配が皆無である日本の経営者はすぐれて農耕民です。

僕は企業経営は朝令暮改あたりまえと思ってるし、まして朝でなく昨日のことなら改めようが何しようが是非を問うべくもなしです。昨日上がった株が今日も上がる保証なんてどこにもない世界で軸をぶらさずに今日も買いましょうなんて、すっ高値をつかんで即死するかもしれません。負けと思ったらすぐ売って逃げる。戦国武将の思考こそが自然であり現実的と思われます。

「おいおい信用できん奴だな」という不信任は困るのですが「会社をつぶす不信任」とは別格のものであって、僕は会社をつぶさないためだったらそれ以外のどんな不名誉でも不信任でも甘んじます。小さくても会社を持つとはそういう覚悟をするということであって、大名や武将が家を守るのと同じと思います。お取り潰しさえ免れればという江戸時代の大名ではなく、僕ら新興の中小企業は圧倒的に戦国大名に近い。①②のおかげでそれが楽しめてしまう、そういう性格になっていたことは有難いことです。

51Ld6Q-BbML__SX331_BO1,204,203,200_明智憲三郎氏のこの本を読んではたと気づきました。彼は「信長脳」「信秀脳」なる言葉を使っておられますが、戦国武将が「戦場脳」の持ち主だったのはあまりに当たり前であって、本能寺で信長に油断があったとか、光秀がいじめられて逆ギレしたなんてことはあり得ないと指摘しておられます。まったくそのとおりと思います。

戦場脳のない学者や小説家が書くからそういうことになるとの趣旨の指摘もされています。野球をしたことのない観衆や記者が今日の原監督の采配はどうだこうだと言ったり書いたりする、あれとまったく同じであって、僕らはそれを「歴史」として読まされ習ってきたと思います。的外れなことでしょう。

5_a明智氏が「桶狭間の勝利は幸運の結果ではなく奇襲でもなく、考え抜かれた合理的な勝つための戦法による」と看破され、実証的に戦さの実況中継風に解説されていますが、非常に腑に落ちる説明です。それが孫子をはじめとする兵法書の知識の実践であったのであり、信長に限らず戦国武将は中国古典に精通していたということもまた納得です。信長が描かせた安土城の天主の絵(右上は内藤昌氏の説に基づく復元、「安土城天主 信長の館」HPより)が中国故事のオンパレードだったのもうなずけます。

「軍人」「武士」の思考回路や瞬時の判断は、同じ思考回路を持つ脳をつくりあげないと直感すらできないと僕も思うのです。例えば野球でも、あほらしい質問を選手にするアナウンサーが大勢います。「今日のホームラン、感触はいかがでしたか?」と聞かれ、困った選手が「最高でーす!」と叫ぶ。感触が残らないのが「いい当たり」なのは硬式野球経験者には常識ですが、やったことのない人にはわからないのです。歴史でもそういうプロセスが積み重なって、戦場脳のない人の手によってやがて「信長はそこで快哉を叫んだのである」という小説ができあがる、そんな感じでしょう。娯楽ならいいが教科書はそれではまずいと思うのです。

800px-Minamoto_no_Yoshitsune実は前掲書は読んでいる途中で阿曽さんのところで歴女ですという子にさしあげてしまいました。歴女は大変いいことですね、カープ女子みたいなもんかもしれないが、女子だって北条政子がいましたからね。政子でいえばちなみに、僕は頼朝の政治力、リスク管理力は買うが大将の器としては低評価です。政子の尻に敷かれた感じであるのも嫌だが、僕はなんといっても義経が好きなのです。史実とされ語られている一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦績が本当であるならば彼の軍功はすばらしく、信長同等の天才かもしれないと思います。

でも結局、その義経も殺されてしまう。戦場脳が図抜けて優秀であるがゆえに、それに劣り、部下として使いこなす才覚も能力もない兄貴が恐れて殺した。こういう小心無能な上司はいたるところにいます。いっぽうで信長の「唐入り構想」は彼みたいなグローバルな戦場脳のない部下には皆目理解できず、本能寺というクーデターの引き金となった。こういう危険な部下もいたるところにいるのです。戦場脳の最大の弱点は、「身内が敵かもしれない」というパラメーターが欠落すると、緻密であるがゆえにかえって無防備になってやられてしまうことである。これは学ばなくてはいけないことです。

歴史はいま戦場を生きている者にとって最高の羅針盤であると僕は確信いたします。会社を成長させるためのビジネススクールの教材と考えてます。孫子の兵法も机上の空論でなく歴史と実戦に学んで作られたに違いなく、だから価値が失せないのです。小説や評論は暇つぶしにはいいですが落語や漫談と同じく実用性はありません。僕は歴史をアミューズメントとして知る関心はなく暇もないので、したがって小説はあまり読みません。最高の教材は現場にあるはずです。だから安土城、長浜城のあった場所に行き、そこいらじゅうを歩き回りました。信長、秀吉の史上最高度の戦場脳を自分の脳でトレースしてみたいという欲求が断ち切れなくなったのです。

 

(こちらへどうぞ)

織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

歴女の「うつけもの」人気の謎

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎

AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。

この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。

今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。

それは何のことはない、こんな場所だった。

honnnouji路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。

この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。

honnnouji1

織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。

honnnouji2

もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。

honnnouji3

なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。

51SIE6VUnCL._SX350_BO1,204,203,200_

 

 

その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。

 

 

もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。

明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。

ブログでは、

僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。

と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。

それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。

明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。

本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。

51K9ISsn1vL._SX336_BO1,204,203,200_

 

余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。

 

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

伊藤博文と太平洋戦争

2014 SEP 10 11:11:26 am by 東 賢太郎

a9cf0dfac6385096bfdc8e7a81155e90僕の母方松崎家は信州伊那出身、明治の横浜生糸商、田中平八の姉が母の曾祖母である。前職にあった時分、伊那支店長に案内されて平八の駒ケ根の生家である藤島家のご当主宅を訪問し、平八にまつわる貴重な資料や本をいただいた。ご当主の顔立ちが僕のいとこに瓜二つでぎょっとした。

夏の伊那谷から望む南アルプスは実に素晴らしく、2年半を過ごしたスイスを連想した。武田が最後の攻防をした高遠城に立ち、藤島家は武田が落ち延びて竹村姓を名乗った末裔と聞く。現代日本人の多くはこうして遠く戦国武将の血を引いているのではないだろうか。温泉宿に泊まり、赤穂の山麓の美味なるそばを食い、祖父が通った飯田中学(今は高校)を見てから市長に挨拶して帰った。

横浜で晩年過ごし亡くなった平八の墓は神奈川の良泉寺にあるが、なぜか墨田区の木母寺に伊藤博文の揮毫により、平八のニックネームである「天下之糸平」と書かれた、高さ3mある石碑が建立された。中学ぐらいの頃、母の長兄が一族引き連れて法事の折に両方の寺へ連れて行ってくれた。

1cf263726d3fb595c9269dbe735cca6c

平八と伊藤博文。どういう関係だったかは正確には知らない。早乙女貢著「天下の糸平」(文春文庫)によると平八は商人ながら水戸天狗党の乱に加担して江戸の牢につながれた。思想的原点は横浜閉港を訴える佐幕攘夷急進派だったわけだが、その後なぜか池田屋事件で新撰組に斬られかけている。

ということは討幕急進派の長州に合流していたことになり常識では量り難いが、ともあれ明治新政府が石碑を建ててくれるまで感謝されたのが史実だ。商人の身で政治に関与したのは祖父が公家だったからと思われるが、今後調べたい。

その伊藤ら長州閥が孝明天皇を毒殺し、睦仁親王を誅して大室寅之祐にすり替えたという説が歴史家の鹿島曻氏によってとなえられている。太田龍氏の「天皇破壊史」(成甲書房)にもある。大室寅之祐は山口県熊毛郡田布施町出身で、吉田松陰の命を受けた伊藤博文と木戸孝允が養育していた。

このような俗説を信じるかどうかに当たっても科学的な態度を重んじたいが、この田布施町は岸信介、佐藤栄作と2人の内閣総理大臣を出した日本唯一の「町」である。岸の孫である安倍晋三、大室寅之祐の末裔である橋本龍太郎まで入れると4人である。偶然とは思い難い。

江戸時代、朝鮮は不倶戴天の敵秀吉を倒した徳川幕府とは蜜月関係にあり朝鮮通信使を何度も送っている。それが明治新政府になるとむくむくと征韓論がわきおこるが、強硬に唱えた一人は田布施一派の木戸孝允であり、その妹の子、木戸幸一は昭和天皇の側近として東条 英機を首相に推薦し太平洋戦争開戦に関与した。

300万余の国民を殺したこの戦争への突入と明治新政府の略奪的成立に目をつぶり日清日露までを美化する司馬史観は国民に一時の高揚感こそ与えるが、現実を直視しない国民は道を再度誤るリスクがあると思う。孝明天皇暗殺説に証拠はないが、そう仮定した帰納法は少なくとも日本史の教科書の記述よりも上記の事柄を整合的に説明するように思う。

0008_r

 

長州田布施一派の安倍晋三が首相である我が国。仮説ではあっても明治以降の歴史の真相を知り、明明白白な論理で政治を俯瞰することが大切と思う。

僕は先祖の石碑を建てて立派な文字を書いてくれた伊藤博文を個人的には好きである。しかし私人としての是非と歴史の是非とは違う。

 

 

(追記)

きいたところによると高田万由子という女優さんは糸平の子孫らしい。そうやって辿っていくと誰と血がつながっているかわからない。おんなじ人をご先祖と勘定している、これの解答はそういうことである。  ベテルギウスは85億人の先祖を知っていた

(さらに追記)

藤島家のご当主にいただいた家系図によると、糸平の母方の祖父は「お公卿」とだけある。公卿とは天皇と姻戚関係ある貴族である。名前が明かされていないだけにとても気になっており、誰なのかどうしても知りたい。

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

信長、曹操好き狩猟民のすすめ

2014 JUL 19 17:17:19 pm by 東 賢太郎

案件が出たので忙しく、外部に委託して少々調査を重ねています。僕の仕事はアドバイザー(顧問)ですが、ひとことで表せば各所からいただいた情報を積み上げたり一部を外部に請け負ってもらうなどして実行可能なプランというもの(諜報)を作りあげるのが役割です。ソナー・アドバイザーズ自らがその実行部隊になるものも、そうでないものもあります。

案件はご紹介、ご縁だけです。メニューの品数をそろえて不特定多数のお客様にアピールするのが企業の常道でしょうがそれは僕の哲学に合いません。最少人数の精鋭シェフ、少数お得意さん主義の料理屋に徹しようと思います。そうでなくては大きなお客様にご信頼いただけないし、本当に大事な案件は任せていただけないものなのです。

哲学というと、何よりポピュリズムには一切接近したくありません。ブログを書いていても、誰にもわかるものなど最初から書く気がありません。HPで宣伝するような仕事はしません。シャーロック・ホームズやブラック・ジャックがHPを作るとは思えないというイメージから、ソナー・アドバイザーズはHPがありません(検索して出てきたら確実に偽物ですからご注意ください)。

さて、そういう状況でしたので、先週残念ながら大学のクラス会を失礼してしまいました。このところクラスメートとの接点といえばO君にいろいろ相談をしてます。彼は斯界の大御所でありながら弁護士に向いてなかったと自ら言う理系的頭脳の持ち主で、性格もタイプも僕とぜんぜん違いますが気は合うのです。僕のアイデアを同方向のベクトルで見ている人の箴言は聞く気になります。方向がずれた人の言はダメだと思ってしまう性癖から、合うことこそ大事という長年の経験則なのです。

法学は社会的には大事だが神学的で耐えられないところもあるというのが彼の意見で、その神学に真っ先に辟易して脱落した僕はうなずくしかありません。もちろん同期の法曹の皆さん全員に敬意を持っていますが、関心のないものはだめでした。もしもう一度東大に入れていただけるなら僕に向いているのは教養学部だろうなと思います。

先日、故木村尚三郎先生の西洋史を放送大学アルヒーフで見て、こういう授業を受けたいと強く思ったこともあります。当時も駒場では村上陽一郎先生、小田島雄志先生などから生涯残る知的刺激を頂戴しましたが、何分こちらが未熟でした。ああいうものは人生経験の浅い子供には理解できず、もったいなかったなあと感じました。

その木村先生の著書では「都市文明の源流」(東京大学出版)を欧州赴任前に読んで影響を受けました。記憶がやや薄れましたがたしかゴシック教会は都市にある森であるという意味のことがあって、フランクフルトに住んでいる頃にブルックナーのシンフォニーを聴いて初めてそれを得心したのを覚えています。

狩猟は危険であり五感の研ぎ澄ましが必要、危険のない農耕は定点観測に秀でるという意味のこともあって、だから日本でなく狩猟民族の欧州から大発明が出たのだという。証明は難しいが直感的に説得力を感じますし、通信技術が戦争を契機に進歩したなどそれの例でしょう。こういう魅力的な説が出てくるというのは先生ご自身が五感にすぐれた狩猟民なのだと思います。

僕が35年生きてきた株式市場というのは狩猟民ばかりのジャングルのようなもので、どこから猛獣が飛び出してくるかわかりません。昨日のウクライナ惨事による急落をそれにたとえるのは不謹慎ではありますが、こういう不測の事に大きく反応するのが株価です。上場企業の経営者は出資者(株主)に対して自社の株価に責任があります。株は門外漢ですというわけにはいかないという意味で狩猟民でなくてはなりません。

ブラック・ジャック、法学、ゴシック、森、ブルックナー、株式・・・無意識に書き連ねてきましたがこういう単語が農耕民の世界でつながることは想定しがたいのではないでしょうか。そして今の仕事はそういう一見バラバラな情報から「諜報」を生み出す、とても狩猟民的なものです。僕ごときが起業してそれで食えるのは、ほとんどの国民が農耕民的であるために「情報と諜報の区別を知らない日本人」に書いた状況、隙間が生じているからです。

起業家というのは100%狩猟民です。そうでなくてはできません。一方で銀行員は100%農耕民です(我が親父も典型的に)。少数民族の狩猟民をアブナイ人たちであると下に見ていますから新興起業家に融資したがりません。狩猟民の世界であるエクイティファイナンス(株式資金調達)も薦めません。そこで企業家は同じく狩猟民である証券会社に資金調達を頼ることになりました。銀行が系列証券を作って反攻しなくてはならなかった背景はここにあります。

しかし我が国に起業家が出にくいのは銀行が貸さずベンチャー投資家が足りないせいばかりではありません。そもそも狩猟民が少ないからなのです。だから政府が金を出してそれを育成するというのは強精剤を配れば人口が増えるだろうというようなものです。ひょっとして起業したい人は多くいるかもしれませんが、五感が鋭敏でなければ失敗する確率が高いでしょう。

狩猟民になれるかどうかは試しにNISA特典を利用して失敗しても良い程度の金額で株式をお買いになってみればわかります。成功するかどうかではなく、楽しいかどうかが分岐点です。苦痛であればおやめになった方がいい。楽しいと思った方も、それだけで狩猟向きというにはまだ早い。ここが大事なところです。

他人のチャットや掲示板のような皮相的、扇動的な情報に乗って売買して、結果に一喜一憂するような方は狩猟は無理です。木村先生の言う「五感の研ぎ澄まし」ではなく「定点観測型」ですからすぐれて農耕民的性向です。長くやっているといずれ虎に食われますからやめた方がいい。

「五感」というのは、例えば「この株は買いだ」という記事を読んだとして、その内容の信憑性を判定するためにそれを書いた人物が何者かを徹底的に調査するような行為が、また調べて信用して買おうと決めてたとしてもタイミングや売り時は自分の感覚だけを信頼するというメンタリティーが絶対に必要です。「この事業が伸びる」に置き換えれば起業にあてはまります。

例えば僕のあるブログがあちこちにコピペされて2万人以上に読まれました。それが誘発したと思われる雑誌記事まで現れました。僕の知り合いでそうしそうな人はいませんから彼らは筆者である僕をネット検索情報以上には知らないはずです。そういう人たちがそこで書いた株を高値でつかまされている可能性があるのです。それの警鐘のつもりで書いたのがひとつもそうなっていないというのは日本的だと思います。

狩猟民のほうが農耕民より大事だ、得だ、等々を言っているわけではありません。農耕民とは程遠い僕がそう言う資格もないし、日本の骨格は農耕民が作ってきたと考えるしかありません。しかし今の世界情勢は明治までの日本、明治維新以後の日本、どちらをとっても「それでは遅い」という速度で歴史が進展している感じがするのです。だからじっくり定点観測していては遅れてしまう。「五感の民」がたくさん出て政財官を引っぱらないと21世紀は苦しいと思うのです。

特に企業経営というのは本質的に狩猟民的な職域です。これまで我が国の重厚長大産業を占めてきた農耕民的アプローチは加速度的に時代遅れになりつつあります。ジャパンクールの浸透でドラえもんが米国で放映される時代ですが、一方では比較的に狩猟民的なカルチャーを有していて我が国のお家芸である「ものづくり」企業の代表格であるはずのシャープやソニーが円安でも赤字という時代でもあるのです。

僕は個人的に「狩猟民の若者」が日本にどんどん出て欲しい。それは勇気、胆力を要することではありますが、しかし、単なる元気や闇雲なチャレンジ精神を意味してはいません。むしろ逆であって、一歩ジャングルに入れば五感全てのセンサーを通した「判断力」「集中力」「繊細さ」を要するのです。まったくのイメージですが、三国志なら曹操、戦国史なら家康が農耕民、信長が狩猟民と思います。秀吉は狩猟民を真似た農耕民だったと僕は解しています。僕はもちろん信長、曹操が好きです。

今ざっと毎日500人ぐらいの方が拙文を読んでいただいており光栄に思っております。どれがそれということもないのですが、どれも根っからの狩猟民の見方を記したものであり、若い方になにかヒントをつかんでいただければ本当に嬉しいことです。

 

(補遺)ソーナー・アドバイザーズHPについて

本稿(2014年)の2年後にお客様よりのご意見が多くあったことから作成することに方針転換いたしました。http://sonaradvisers.co.jp/

 

(こちらへどうぞ)

戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

織田信長の謎(1)

 

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

 

僕の愛国心というもの 日本のルーツ 序章 (今月のテーマ 出雲)

2014 JUN 8 21:21:30 pm by 東 賢太郎

 

僕が先日に出雲へ行って感じた愛国心というものをご説明するには、ずいぶんと長い長い前置きが必要になります。それは海外で16年暮らした僕の今に至る半生をかけた思いであり、お読みいただければ幸いです。

 

クニとは何か?

あなたが「おクニはどちらですか?」と初対面の日本人に尋ねてみたシーンを想像してください。相手に「日本です」と真顔で答えられたらどうでしょう?あなたはおそらく絶句するに違いなく、しばらくして、ふざけるなと怒りを覚えるか、なにかまずいことをきいてしまったかと心配するかもしれません。このクニは「郷里」を意味するのが正しい日本語であって、それを理解しない人が「日本です」と答える、つまり日本人であると宣言するというのは何か大きくて空恐ろしい定義矛盾であって、そういう場面に遭遇することを我々はあまり想定していません。

ペンシルヴァニア大学に留学したてのころ、僕はその日本的な「おクニはどちらですか?」感覚で、軽い気持ちで初対面のアメリカ人にWhere are you from?とよくききました。すると、Where?  What do you mean? と怪訝な顔でききかえされることが多く、New Jersey. など即座に答える人もいましたが、どうも妙なことをきいているのかという一抹の不安が常にありました。天下の誇り高きアイビーリーグの学生に「おクニは?」ときくと「ずいぶん訛ってますね」ととる人もいるというということを知ったのは後日のことです。ましてご先祖の出身国などはきかない方が安全でしょう。彼らはみんなそれを捨てて「アメリカ人」であることが誇りなのです。それを喜んで答えてくれたのはピルグリム・ファーザーズの末裔であられた女の子だけであり、だいたいが米国人は母国で貧しくて危険を冒して海を渡ってきた人ですから触れたくない場合も多いのです。

次はところ変わって、野村時代に中国は福建省の福州から山奥に6時間走った農村でのことです。大雨で日帰りの予定が想定外の宿泊となってしまいました。仕方なく日本人が誰も行ったことはなさそうなホテル?の食堂でくつろいで酒もまわり、日本語でわいわいやっていました。すると隣のテーブルの地元のオッサンが大きな声で何か話しかけてきました。いかん、まずかったかなと思うや、通訳が笑いながら「東さん、どこのクニの方言?ときいてますけど・・・」。ド田舎ですから彼は我々を日本人はおろか外国人とも思っておらず、どこかの少数民族と思ったんでしょう、日本語を中国の方言だと思ったのです。中国では国をきくのは非礼でもなく、お互い言葉も通じないのがいかに普通かうかがえるでしょう。

クニと国の違いは各国でこれまた違うという難儀

米中の「クニ」は日本のクニではなく、米国人のクニと中国人のクニもまったく違います。そしてその3つのクニは、これまた「国」とはどれもがそれぞれの違い方で違います。そしてさらに厄介なことに、それは英国で、ドイツで、スイスで、香港で違い方がみんな違います。例えば英国ですがイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの代表チームがWカップ参加資格があることはご存じと思います。こういう国でWhere are you from?ときくのは、スコットランド人が英国人(一応イングランド人の訳語)と思われることに誇りを持っていることなど絶対にありませんから米国より危険度は少ないでしょう。ただそういう「違い」ぐらいは2,3年も住めばわかるでしょうが、「違いの違い」を知るにはもっと多様な経験と観察を要します。

今ふりかえってみると、僕の中で「その違いのわかり度合い」というのにはグレードが存在していて、管理職になってしまっていたスイス、香港ではその理解度がずいぶんと表面的で甘いことに気づきます。逆に、学校で米国人と競って落第しないかひやひやし、仕事の現場で英国人のお客に怒られ、ドイツ人の行政官にガキ扱いされてこの野郎と憤慨するような「底辺人生」だった米英独のそれは肌身に染みてわかります。スイス、香港に2年半ずつ住みましたが、管理職はいわば「お客さん扱い」されていてそういううちはわからないことです。

そのグレードの差というのは僕にとって野球を見るのとサッカーを見るぐらいの大差です。現場で苦労した、戦ったという体験はそのぐらい大きい。例えば、野村證券ではお客様から注文をいただいて伝票を書くことを「ぺロをきる」といいましたが、それが初めての時、どれだけ手が震えるほど重かったか、それは野球場で球を追っかける経験と同様やった者しかわからないという性質のものです。野村では「株の怖さというのはぺロをきらないとわからない」と教わりましたがまったくその通り。だから野村のベテラン社員でもぺロをきったことのない人を僕は1分で見抜けますし、そういう人と1分以上株の話をしても時間の無駄と即座に判断します。

愛国心と愛郷心もこれまた違う

僕が愛国心というものを明確に意識し、日本という「国」の姿を初めて意識するには5か国に住んでそういう経験を10年はする必要がありました。その前から愛国心らしきものはありましたが、それは今思うと愛郷心、生まれ育ったクニへの愛情です。そこに「国」という姿は、あったつもりではいましたが、それは五輪で掲揚された日の丸を見た時の熱い感情のようなエモーショナルなものにすぎず、今の僕の目から見て愛国心と呼べる次元のものではありません。君が代で起立しない者が総理大臣にまでなる時代ですが、彼らもWカップでは日本を応援するかもしれず、クニを愛することと愛国心があることとは別なのです。

いま、僕の愛国心はクールで静かで冷徹なものです。それは、アメリカで厳しい教育を受けたからだろうと思っています。世界の支配者であるアメリカが自国のエリートを育てるための教育、いわば原爆を広島と長崎に無慈悲に落とした側の本丸で支配者の本音の教育を一緒に受けたからです。あのビジネススクールでのMBAカリキュラムの勉強という理不尽かつ殺人的な物量、そしてそれをこなすべき日程のいじめとしか思えない気違いじみた短さに比べれば日本の大学など至極常識的で、だから僕は学歴欄にはペンシルヴァニア大学経営学修士と書きます。そんなものは日本ではほぼ理解されませんが、あまりまじめに勉強しなかった東大よりそれのほうが実感にずっと近く、その後の人生への影響の甚大さからして当然のことです。

その上で、僕は11年半のあいだ欧州で日本株を欧州人に売るというこれまた英語による理不尽な学習量と時間に追いまくられるハードな仕事をしました。そこで付き合ったお客様はみな歳がやや上の、最上級の教育を受けた欧州のエリート層です。欧州の金融界というのはそういうところであり、日本の銀行は入れてもらえませんが当時世界最強レベルのパワーがあったノムラは名誉メンバー待遇でした。そしてそこである驚きの現実を知りました。彼らがいかに米国を「上から目線」でカウボーイ国家と見ているかということです。その米国に敗戦した国に生まれ、その米国で勉強して誇りを持っていた僕はそこでまた世界観の大転換を迫られました。だから僕の愛国心と日本観は、そういう中で変転しつつ醸成されたものであり、オラがクニといったエモーションとは遠いものになりました。

そういう目で見た私見と愛国心

僕は、敗戦以来日本は米の属国だと思っています。憲法はGHQ占領下で、すなわち主権在民でない状態で書かれ押し付けられました。日本人は一般にそう思っていませんが、意地でもそれを認めたくないからであり、しかしそれは客観的には厳然たる事実で世界中のエリートもそう思っています。いや、属国は国だからまだましです。他国に土地を与えて防衛をお願いしているわけですから正規軍というものがなく、軍事権(そんなのは元来が権利ですらないが)とそれをベースにした外交権がないというのは世界の常識において地方政府の定義そのものです。家畜か観葉植物みたいなものです。こういうことを言ったり認めたりしないのが愛国心だプライドだというのは現実逃避であって何も生みません。かわいい息子が運動会でビリで泣くから運動会はやめましょうという母親と同じで、結局かわいい息子は将来もっと泣くことになります。

そういう国ですから、政財官ともに「アメリカかぶれ」が権力を握ってうまく立ち回るプライドなき恥ずかしい国になって久しいのです。GHQ占領下の秘密諜報機関であったキャノン機関の長、ジャック・Y・キャノン陸軍少佐がこう言ったという記録があります。「さすがに吉田茂は砂糖をやると言っても受け取らなかったが、知事や警視総監は嬉しそうな顔をした」。私事で恐縮ですが僕は野村のころ3回外資系に誘われました。その一つはロンドン時代、30歳ちょっとの若僧に「年収30万ポンド(当時7500万円)でジャパンデスクのヘッド」という望外なお誘いでしたが、当時すでに同じ敗戦国のドイツ人を含む欧州人エリートたちの強固な自国へのプライドに接して「これだ」と思っており、全部即座にお断りしました。

誤解されると困るのですが、僕は米国が嫌いなのでも、そこで立派に生きておられる日本人の方々を否定する者でもまったくありません。米国の文化や教育の素晴らしさはもちろん実体験として良く知っていますし、そこに住んでおられる方にそもそもアメリカかぶれなど存在しようがない。僕が嫌っているのは日本でトラの威を借りる「アメリカなりすまし」連中なのです。そういう恥ずかしい者には死んでもなりたくないし、いくらカネを積まれても英語ができる程度で買われる高級奴隷になりたくないと思っただけです。砂糖を受け取らないというその判断を今でも誇りに思います。

僕は強固な愛国主義者であるということを外国で隠したことは一度もありません。それが尊皇攘夷派やら右翼思想やらに短絡する国は世界でも極めて稀で、どこの国の人でも母国を愛するのは家族を愛することと同じく当りまえであり、そうでない人は外国では信用されません。政権を支持しない人はどこの国にもいますが国家ごと否定する、国旗も国歌も認めないというのは別な国になれということで、クーデターが起きるような国は知りませんが、日本の左翼以外には世界の先進国でお目にかかったことがありません。出雲大社禰宜の千家国麿氏が床に日の丸を書いた羽田空港に怒りを表明されたそうですがむべなるかなでしょう。

自分が外資系を蹴ったのはその話がいずれも本社の幹部にはなれない高級奴隷だったからです。外国が嫌いなのではなく、奴隷があり得ないだけです。対等ならいいのです。その証拠というわけでもないですが、僕は西洋音楽を平均的西洋人よりはるかに愛していますし、僕の会社には外国人の出資者が2人いますし、学歴は日本のではなく米国の大学名を名乗っていますし、内定をくれた日本企業ではなく米国企業に就職したいと言いだした娘は応援しました。心の中で何の矛盾もありません。何国人が作ろうが良い物は良いですし、米国大学院での勉強は実学として本当に役に立ちましたし、娘の採用はいいものかもしれず、娘の人生は娘のものだと思うからです。

出雲に行って思ったこと

たかだか1度ばかりの訪問ですが、僕が出雲で感じたものは先に書きました欧州各国のエリートたちが仕事を通して僕に教えてくれた強いプライドを思い出させるものだったように思います。それは30歳代だった僕の考え方を根底から変容させるインパクトがあり、日本で同じものは京都にあると思ってそれ以来お客さんを誘って何度も企業訪問を兼ねた京都トリップをやったものです。今も京都へ行くたびにその気持ちは新たになります。京都は僕の愛国心のよすがになりました。東京生まれ東京育ちなのに京都。16年も住んだ海外でできた僕の愛国心がクニ(東京)という次元で発したものではないことをお分かりいただけるでしょうか。

ところが出雲大社や稲田姫神社に参拝し奥出雲のたたら鉄の工法を見たりするうちに、どうもここは京都とは違う、なにかもっと奥深くオリジナルなものの宝庫ではないかという直感が訪れてきたのです。京都というのは平安京遷都いらい天皇家、公家がいたから京都なのですが、京都文化を天皇家が直接作ったわけではなく城下町のようにそれを取り巻く武士、寺社、民衆が育んだものです。一方出雲の方はそこまで「城下」が大きくならなかったからでしょうか、もっと大社や神話の主に直接のルーツがある文化がそのまま地元の人たちの中に残っている、もちろん神話ではなく、現実的、日常的なものとしてすぐそこにあるような気がいたします。

例えば出雲大社の高層神殿建造やたたら鉄工法の最先端科学と合理主義です。ああいうものは細部の処理にまで妥協を絶対に許さないという精神、英語に周到、細心、厳密の注意を施す精神を表す形容詞でmeticulousというのがありますが、そういう精神のない人たちには絶対に起こしえないものです。それは半島の新羅あたりから伝来したタタール由来のものかもしれませんが、カウボーイ文化に近い漁師の気質とは対極的であり、沿海部ながら漁師ではない特別な集団が出雲にいたということは確実でしょう。

北陸人のねばり強さなどといわれますが日本海沿岸部にはmeticulousで原理追求型の性質、気質の人は多いと思われます。僕の父方先祖は能登の半農半漁民のちっぽけな村の出身ですが親戚は理工系技術系ばかりでmeticulousを絵に描いた様な一族です。僕自身もその血を強く感じます。ある本によると古墳の調査から出雲の神話時代の一族が海流に乗って多く移住したのが地形的に漂着しやすい福井と能登だそうです。そういう歴史があったのかどうかはともかく、どこか強い近親性を直感したのが出雲の方たちでした。

神話は完全なフィクションではなく、聖書と同じくある程度の事実を古事記、日本書紀が一般人にもわかるようにして後世に残し、永く信じさせるために神話化したものだと思います。そういう意図があったと仮定して神話を逆探知し、出雲国の真実の姿を探るというような試みは大変に面白いところです。先日、ある奥出雲のご高齢(93歳)の方から立派な直筆のお手紙をいただき、それがまさにその逆探知の手掛かりになるような内容であり、とても興味深く拝読させていただきました。

次回以降、そのお手紙をご紹介させていただきつつ、何冊か読んだ出雲関係本も参考にしながら、「日本国のルーツ・出雲」なる大きなテーマに迫ってみたいと思います。

 

千家国麿様と高円宮典子女王とのご婚約に思ふ -今月のテーマ 出雲ー

 

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

2014 APR 10 18:18:23 pm by 東 賢太郎

泉涌寺(せんにゅうじ)をご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。僕は天皇家の氏寺が京都にあるときいたことはありましたが、名前は覚えていませんでした。

この寺を知ったのは「逆説の日本史2」(井沢元彦、小学館文庫)です。「扶桑略記」に記載された「天智天皇暗殺」説は興味深く、天皇家の菩提寺に、天武~称徳の位牌がないことをこの本で知りました。井沢氏によると唐が白村江戦勝後に朝鮮半島支配を図り(つまり新羅討伐の戦略を展開し)、それに呼応して新羅に半島を追い出された百済王族である中大兄皇子(天智天皇)が唐と連合軍を作ることを画策。それを阻止するべく親新羅の大海人皇子(天武天皇)が山科で天智を暗殺したとしています。教科書の日本史とはかけ離れた説ですが、僕は通説よりも説明力を覚えます。

17p-2-s4月5日(土)の朝、始発で京都へ向かった江崎が8:11に到着。いっぽう平等院まで同行した三田が結婚式仲人のためソウルへ戻り、我々は東山の泉涌寺に向かいました。そこで今度は中村が合流。笑顔でお迎えいただいた和尚様にご挨拶して境内へ入るとまず楊貴妃観音堂へ案内されました。なぜ楊貴妃が?鎌倉時代にこの寺の僧が中国の宋にわたり仏舎利(仏の骨)を所望したそうです。何度も断られましたがやっともらえることになり、その際に航海の安全守護のために楊貴妃観音像もついてきたそうです。仏舎利は公開されていません。和尚は見たそうですが歯の部分のようでかなり大きかったそうです。

泉涌寺
そこから参道の坂を下ると、盆地の底のような位置に仏殿があります。登るのは多いですが下るのは珍しいですね。ここには運慶作とつたわる阿弥陀、釈迦、弥勒の尊像がありそれぞれ過去、現在、未来にわたって人類の平安を祈るという構図になっています。

 

仏舎利は舎利殿の舎利塔にあります。入れていただきましたがここの名物は「鳴龍(なきりゅう)」でしょう。 天井に狩野山雪筆の龍の絵が描かれているのですが、その下で手御座所unnamedを打つとびりびりという音が聞こえるのです。ここから御座所へ移ります。ここは両陛下はじめ皇族方の御陵御参拝の際のご休憩所であり、現在も使われています。ここも中を全部見ました。右の写真はその庭園で、桜も紅葉も早いそうです。たしかに京中ではほぼ満開なのにここでは桜はもう見えませんでした。塀の向こう側の山に歴代天皇の御陵があります。

さて奥の奥に移ります。写真はありませんが霊明殿です。戦前ここは立入禁止であり現在も関係者しか入れませんが入れてもらいました(梶浦のおかげです)。ここに歴代天皇の御位牌が並んでいますが、確かに天武系の天皇はぽっかりと抜け落ちています。下の系図をご覧ください。霊明殿にお名前があるのは聖徳太子尊像-天智-光仁-桓武であり、太子以前もなければ第40代天武-第48代称徳も欠落しています。天皇家の氏寺なのに何故と思われるでしょうが、ここは天皇の氏寺ではなく「天皇であるファミリー」の氏寺です。だからファミリーが血縁でないとする場合は入っていない。和尚に聞くと、「それは私共は何とも申し上げられません。ご指示に従っているだけです」とのことでした。そうであるならばこれが天皇家の見解なわけです。非常に興味深い。

まず斉明(皇極)天皇は天智の母ではないということです。では天智(中大兄皇子)とは何者なのか?斉明の目の前で蘇我入鹿の首をはねた乙巳の変とはなんだったのか?なぜ天皇でもない聖徳太子が(だけが)天智の上にいるのか?

これを知っただけでも日本書紀は天武、持統によって歴史をねつ造した書であるという説は支持できます。以下自分の考えですが、蘇我氏は本来の天皇(日本国王)であり聖徳太子は蘇我氏の業績を象徴する架空の人物であった。蘇我氏の名前、蝦夷、馬子、入鹿は動物名の蔑称にされており、皆殺しにした人物の書いた書記のねつ造と思います。その皆殺しは扶余から亡命して来た百済人の天智による入鹿殺害(大化の改新=クーデター1)によって実現しました。そしてその天智を天武が殺しました(クーデター2)。

220px-Emperor_family_tree38-50泉涌寺の位牌の有無によれば、現在の天皇家はおそらく百済人であった天智の末裔であると認めています。彼はクーデターで王位を奪った者です。だから彼が始祖になっており神武も応仁も位牌はありません。先祖と思っていないのです。天智のひ孫である桓武の母、高野新笠も百済の武寧王の子孫であることは今上天皇が「続日本紀にその記述がある」と述べられています。そして、平家は「桓武平氏」と呼ばれますから百済系です。一方、源氏の武将に「新羅三郎義光」という人がいます。平氏が百済、源氏が新羅であり、日本で代理戦争となったのが源平の合戦であると僕は思っています。

それから明治天皇の墓所はここにありません。伏見桃山陵にずっと大きな墓があります。強硬な攘夷論者だった孝明天皇を伊藤博文らが暗殺し(クーデター3)替え玉に立てた大室寅之助という南朝系の長州人が明治天皇という説があります。そう思います。言うことをきく傀儡天皇をたてて薩長が好き放題やるのが新政府の青写真であり、その結果日清日露戦争で好き放題が嵩じて第2次大戦に至ったとみることもできましょう。「坂の上の雲」は好きな小説ですが、クーデター3が日本国の末路を大きく変転させたかもしれず司馬遼太郎の史観だけで近代史は語れないと思います。

国家の首長を殺して政権を奪うクーデターは世界ではいくつもありますが、万世一系とされるわが国でも最低3度は起きている可能性があります。天智以前はもっとあったかもしれません。泉涌寺ではそうした様々なことが頭をよぎり、特に御位牌が所狭しと安置された霊明殿には圧倒され、その感じはその後も一日中残ったほどです。日本最大のパワースポットといって過言ではなく、一度は訪問する価値ありと思います。一般には奥まで入れないようですが、ご興味がある方はSMCを通してお願いすることができるでしょう。

 

(こちらへどうぞ)

はんなり、まったり京都2014(その2)

百済旅行記(1)-奈良はナラである-

伊藤博文と太平洋戦争

『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

ガリア戦記はカエサルのブログである

2013 DEC 7 1:01:08 am by 東 賢太郎

ローマ三部作のブログを書こうとなったとき、久々に本棚からひっぱり出したのがガリア戦記だ。

子供のころ「尊敬する偉人は?」と何度もきかれてうんざりした。答えに迷うほど偉人なんか知らない。野口英世だリンカーンだと言えば大人が喜ぶさという不埒な子だった。大人になるとウンチクは増えたが誰もきいてくれなくなっていた。58にもなるとだいたいの偉人は年下だ。馬齢なる言葉が頭をかすめる。

日本の偉人は意外に自著がない。どうしてだろう?中世では明月記やら近代では福翁自伝、氷川清話などあるが、僕の勝手を言わせていただくとあんまりおもしろくない。お公家様の作法はよくわからない。昔話やら大御所の語録は歴史としては貴重な証言だが、今の若い人にはちょっとリアリティーに欠けるのではないか。

土佐日記(紀貫之著)は面白いが女性に仮託するレトリックなど男のプライドがややうっとうしい。その分、肌感覚の枕草子はリアルである。当時の女性は姓名がはっきりしない。清少納言の「少納言」は役職名だ。課長や部長と同じ。清は清原の清だから「清原課長」みたいな感じ。本名は「諾子(なぎこ)」という説がある。ならば枕草子というのは今なら「清原課長」キャラがアバターのブログ「なぎ子の部屋」みたいなものと思えばいいのではないか。

桶狭間戦記(織田信長著)、一ノ谷奇襲秘話(源義経著)なんかがあればガリア戦記に対抗できたろう。「今だから書ける壬申の乱」(大海人皇子編著)なんてのは是非読みたかった。「人たらし日記」(豊臣秀吉著)、「プレイガールじゃいけませんか?」(額田王著)、「忘年会であっといわせる7人腹話術」(聖徳太子著)、「正しい犬の飼い方」(徳川綱吉著)はノウハウ本のベストセラーだ。中国でも「論語」というのは2500年前の賢者である孔子の言葉を弟子が筆写したブログ集だと考えれば親しみがわいてくるのでは。

ガリア戦記をブログ集と思って読むと、実に面白い。戦記だからそれなりにエキサイティングでもある。ブリタンニア(今のグレート・ブリテン島)への上陸など、紀元前の黒船来襲シーンを黒船の目線で書いたものと考えれば別な読み方ができる。結局思ったようには上陸できなかったが、失敗とは書いていないものの事実は正直に書いてあるのではないかと想像する。一見お固い書物でも視点を変えればとても親しみやすいものの一例として、若い方にはぜひご一読をお薦めしたい。

(こちらもどうぞ)

SMCと9つの法則

岩合光昭の世界ネコ歩き ブルガリア

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

 

 

冒険ダン吉になった男

2013 JUN 21 11:11:02 am by 東 賢太郎

今回のミクロネシア出張は偶然に同じ行程となった某社T社長ご一行があると書きました。社名は伏せますが、日本人なら誰もが知っている著名企業です。82歳になられる社長が取締役であるご子息をともなってここに来られた意味にはとても心を動かされました。

T社長は「冒険ダン吉」になった男・森小弁という本を読み、「自分もそういうことをや4819111388りたいと思いました」といわれるのです。小弁は11人の子をもうけ、孫の数94人、トラック島にいる直系だけで1000人を超す子孫が政治、経済、教育のあらゆる分野に進出しモリ・ファミリーとして国をけん引しています。その頂点が第7代大統領となったエマニュエル・モリだそうです。冒険ダン吉というのは昭和初期のマンガで僕も父から聞いただけで読んだことはありません。釣り船で眠るうちに流されて南洋の島に漂着したダン吉少年が長じて酋長の娘と結婚し、知恵を絞って敵を倒し立派な酋長となった話だそうです。面白いですね。男のロマンといいますか、僕にもどこか共感するものがあって、T社長とはすっかり楽しい時間を過ごさせていただきました。

チューク島(トラック島)には日本軍の沈没船が多数そのままになっています。97年にヒットした映画タイタニックのロケに使われたのがここに沈む輸送船富士川丸だということをご存知でしょうか。いまはダイビングスポットとなっていて特に欧米人に人気だそうですがどこか複雑な気持ちがいたします。ポンペイ島における我々のホテルセブンスターの前は日本軍の農業試験場でした。食料にできる植物の耕作試験をしていたそうで前線の兵士の死因の多くが餓死だったことを思いだします。「ここをきっと山本五十六が歩いたでしょうな」というT社長のつぶやきが耳に残ります。

島民がみやげものにする木彫り細工があります。その工作場へ行ってみますとたくさんの魚、亀、カニなどの彫り物が並んでいて、裁判官の使うハンマーとおぼしきものまでありました。ふと見ると、古びて壊れかけた黒く重々しい双眼鏡がテーブルの上に置いてあります。これは何だと聞くと日本軍の遺品だがそれは売らないよとのこと。ところが、ひとしきり見終わって「なにか買ってやらんといけませんな」とおっしゃった社長がこれをと指差したのはその双眼鏡でした。売り子が棟梁と思しき無愛想な老人に相談すると、今度はしばらくして「10ドルだ」という返事が返ってきました。

「右側が吹っ飛んでいます。直撃でしたでしょう。将校クラスのものですな。」

左側のレンズは今でも立派に景色が見えました。しばらくそれで遠くにある丘の上の空を眺めました。鳥が見えました。ずっしりと手ごたえのある双眼鏡の中央部に

Nikon

とありました。

 

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

木ノ内輝
松上一平
福井利佐