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カテゴリー: ______箱根

世界のうまいもの(18)熱海編

2025 JUN 22 2:02:19 am by 東 賢太郎

先月、神保町の歩道で蹴っつまづいて派手にころび、とっさに地面についた右手親指の先が折れ曲がるケガをしてしまった。地下鉄の入り口に近いなんでもない平らな歩道で、不可思議ですらある。多摩川の土手から落っこちてスネとヒジをざっくりやったのは去年。あれに比べればたいしたことないと高をくくっていたが一月半たってもまだ痛み、以来、利き手で物が握れず、字が書けず、歯が磨けず、ボタンが閉められず、フタが開けられず、背中が掻けずという困った事態になっている。そんな中、だいじょうぶかなと思ったが熱海までテスラを運転して行った。従妹の旦那に事業参画してもらうことになりいろいろ詰める必要があったからだ。従妹の友人で投資もしてくれているYご夫妻もいっしょである。

集合は婦人方ごひいきの御殿場アウトレットだった。何度か引き連れられて来てるが興味ない。仕方なしにつき合うが、ドルガバに入ったとたん、入り口にあった黄金色に輝くSORRENTO ラインストーン スニーカーに目が吸いついた。梶井基次郎が「檸檬」を書いた光景はこれだったんじゃないかと思うほど僕はキラキラには弱い。周囲はびっくりし、皆さんもそうかもしれないが、従妹だけは平然としたもので、ケンちゃん、それはおばちゃんの遺伝なの、だって光り物に目がなかったんだからとなる。手に取ってひっくり返しているとすぐ若い女性の店員さんが寄ってきた。さすがにお似合いですよのひと言は出ようもないんだろう、驚くべき想定外の爺さんにどうプッシュしていいものか迷ってる風情が初々しい。君、この辺の人?どっから?ときくと秋田だ。そうかい、じゃあ秋田美人だね、秋田弁は青森でわかるのときくとう~んたぶん無理ですねでこれは意外だ。そうか、どっちも行ったことないんでね、東北は田沢湖ぐらいでさ、あの~田沢湖って秋田なんですけど・・。完璧なボケ老人である。これいくら?17万です、そうか、すると上司らしいお兄ちゃんがすっ飛んできて11万になりますときた。僕は会社のデスクに飾りたくなったの、飾りにゃあちょっと高いなあといったがそれっきりだった。いい感じのオレンジもあった。まじめにいいと思った。いくなら両方だな、今度ねでバイバイした。

講談社のレポーターだった従妹のキャラで全員あっさりファーストネーム呼びとなり、男3人は同期という奇遇もおおいに手伝った。翌日の昼飯のことだ。並ぶ覚悟で予定していた評判上々である蕎麦あさ田が夜オンリーに変更になっておりがっかりだ。まあいいよ、行ってもたぶんカレー蕎麦だったしね俺は、もう時間も時間だからラーメン、餃子でいいよねと三々五々ブラっと歩くと誰かが派手な門構えの中華を見つけた。おお、もう面倒だ、これにしようと扉を開けると「開店まで5分です」と中に入れてくれない。愛想のない店だ。ところが誰も外にいなかったのに席について10分もすると地元の常連さんと思しき客であっという間に満員となる。Y夫人がまず僕の糖尿スパイク予防ということで豆苗を注文してくれ、みなさん手当たり次第に餃子もワンタンメンも野菜そばも冷やし中華もチャーハンもたのむ。すると順番通りにほやほやの豆苗がやってきた。なんと、これが劇的に旨い。「香港の陸羽茶室以来のベストだ!」となり、店の内装まで香港に見えてくるではないか。すべて一級品だった。強くおすすめ。

次いで予定はバラ園のようだ。僕は花と木は5種類ぐらいしかいえない。階段がきつい。1時間1本だけど回覧バスがあるぞ、となって安心して喫茶室で待ち、5分前に停留所に戻るとバスは跡形もなく去っていた。なんだこれは?貼紙をみると、22人になると出発しますとあってあ~あだ。じゃあっちに行こうよとなって向かったのは思いもよらぬ熱海城なるものである。おい熱海なんかに殿様いたか?となるが、まあいいや。てっぺんまでエレベータで登ると港と初島を高所から一望できる。これがどういうことか実に心が洗われる。ここで飯食ったら圧巻だろうねなんていいながらワンフロアごとに展示物を見ていく流れのようだが、殿様のトの字も出てこないどころか頓智の絵文字やら春画やらばかりで、まったくもってしょうもない。1階に戻ると「建造昭和34年」とありなるほどだ。しかし、しょうもなければないほど非常に有難味を覚えた。バラ園のバスが来てたら登ることは一生なかったことは100%確実であり、思い出ができた。夜はまたバラ園のところでイタメシらしい。新しいカジュアルなピッツェリアだがコースが質量とも気合が入ってる。熱海檸檬のパスタが絶品。さあいよいよ主菜だ、真鯛と富士山麓ポークか、けっこうあるなというところでY氏が突如としてピザが食べたいといいだし店員さんビックリ。こういうの、わがままジジイめと若いころは思ってたが、いざやってみるとこよなく楽しい。旅の醍醐味とさえいえる。どれどれとピザをひと切れ頂くと、これが生地まで絶妙に美味でふた切れ行ってしまうのである。結局、満腹のツケはポークにまわり、通常であればふた切れは残したものだが「豚に申しわけない」という気分がむくむくと巻き起こり完食した。血糖値もへったくれもない。シャンペン、そこそこのワインが入ってひとり1万は見まちがいかと思った。CODA ROSSA、味も雰囲気もいい店でおすすめだ。

宿泊はハーヴェスト。伊豆山の海辺でごちゃごちゃしておらず、落ち着ける。仕事のあれこれもできたし、終われば温泉でゆっくり和めたし文句なし。午前中は銀行振込でイライラしたが、午後にこういうところでひとりぼーっとできると生き返る。もうそろそろここに移住してビジネスやるかとまじめに思ったものだ。

帰りは老舗の釜鶴ひもの店であじ干物5枚セット、とびうお、真いわし、漁師飯、わさびのり、わさび漬け、くさやを土産に。これは昔から熱海観光の定番であろうが、海外に長くおって飢えていたもののひとつだから特別な感情がある。帰りは小田原で蕎麦の名店の予定だったが、従姉が車で爆睡して通り越してしまい、かわりにだるま料理店へ。明治からある料亭で結構だ。僕は地魚の鮨と鰺のたたきが食いたかったからだ。鰺は自分で船で出て釣ったもんだ。朝どれの真アジは東京のスーパーで売ってるのとは別な魚で、これを知ったらあんなのは臭くて食べられない。大満足だった。この素晴らしいメンバー全員の健康を祈る。

今回、予定通りいったのは見事なほどにほとんどなかったが、まさにビジネスもそういうものである。箱根でまったくの偶然から従妹夫に話し、彼はその役割に判で押したようにドンピシャなキャリアの人だったということが徐々に判明し、今回の熱海で話はほぼ固まった。きっと不測のことがいろいろ起きようが、今回の旅のことを思い出せばうまくいくだろう。

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箱根とバーデン=バーデンを結ぶ線

2025 MAY 20 0:00:46 am by 東 賢太郎

10年ぐらい前でしたか、最高顧問をさせていただいた上場企業の取締役会が箱根・宮ノ下温泉の吟遊で行われ、粋でいい会社だなと思ったものです。ところがいざ赴いてみると粋どころではなく、通常の本社会議室より自由な発想で大胆な意見が出た(言えた)せいか議論は白熱。革新派と保守派の対立は並々ならぬものがあったのですが、終わって部屋を出ればそこは温泉宿。会食の場はぎすぎすとならず役員に一体感すら出ていたのです。まあこんなことはオーナー企業しかできないでしょうが。

温泉地で重要会議というと、意外なものがありました。あんまり知られてないのですが、調べてみると面白い。それがなければ太平洋戦争はなかったかもしれない。そんな会議がドイツの温泉保養地バーデン=バーデンで行われていたのです。地図を見ていただくとわかりますが、フランクフルトとミュンヘンに近い。前者にはドイツ銀行が、後者にはシーメンスがあります。何やらきな臭い。

ドイツ:バーデン=バーデン - 旅行のとも、ZenTech

時は第一次世界大戦終結後の大正10年(1921)10月27日。陸軍士官学校16期の同期生で37、8才の親友同士である、歩兵第14連隊大隊長・岡村寧次、スイス公使館付武官・永田鉄山、ロシア大使館付武官・小畑敏四郎が陸軍を改造して長州閥を追い出し、総力戦を挑める体制を築くことを約したのです。これを「バーデン=バーデンの密約」といいます(翌日には1期下の東条英機も加わった)。日露戦争は薩摩である海軍の活躍で勝ち、長州の陸軍には危機感があったが藩閥という権力に甘える幹部は鈍い。この男たちは今流なら第一選抜で部長に昇進しようかというエリート中堅幹部です。藩閥支配をぶっ壊して人材登用し、自分ら薩長外の人間が動かそうと画策した。海軍長老の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込んだシーメンス事件がちらつく。

ここからは空想です。バーデン=バーデンは海軍劣勢の好機に陸軍学閥エリートが軍内クーデターをおこし乗っ取る密約だったのではないか。東条総理を出すところまでうまくいった。巡洋戦艦「金剛」発注で英国から賄賂をもらっていたのがバレて叩かれた海軍は反攻の策を練った。そもそも陸軍が範としたドイツを裏切って日本国を第一次大戦で連合国側に着かせた実績もある(焦ったドイツのヴィルヘルム2世が海軍に賄賂を出したのがシーメンス事件だった)。英が米とつるんで劣勢の海軍をそそのかしたのが真珠湾だったのではないか。チャーチルとルーズベルト。手練れの両人なら考えて全然おかしくない(そもそも明治維新がそれだったのです)。戦さ慣れした薩長がやった日清・日露。学閥エリートが仕切った太平洋戦争。戦争屋にはちょろい相手だったと思うのは僕がビジネスマンだからでしょうか。

バーデン=バーデンというとクララ・シューマン、ブラームスが愛した街でフルトヴェングラー、ブーレーズ終焉の地でもありました。ドイツに赴任して、一にも二にも訪問してみたかったのがここで、当時、お気楽に生きていたのでそんなことがあった地とはつゆ知らず、劇場で魔笛を楽しんで、ブラームスハウスがこんな家に住みたいと目に焼きついて後にそういう家を建てました。帝国陸軍軍人にはどう見ても似合わない街だなあと、いまだって思うしかありません。しかし彼らはここに集結した。なぜここだったのだろう。その疑問も解ける気がするんですね。

バーデン=バーデン

彼らが投宿したのはホテル・ステファニーで、その密約から満州事変を引き起こした「一夕会」ができ、「国家総動員法」制定に至った。彼らが長州閥の代わりに陸軍幹部として擁立を謀ったのが真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎でした。やがて一夕会は対支戦争を唱える永田を中心とした統制派と、対ソ戦準備論を唱える小畑を中心とした皇道派に分裂し、永田は目の上のたんこぶとなった真崎を軍から追放しようと悪玉説を流布し、それを昭和天皇に上奏して教育総監から罷免することに成功した。これに激怒した皇道派の相沢三郎中佐が1935年8月12日白昼に永田鉄山を軍刀で殺害し、半年後の二・二六事件に至るのです。そして、その翌年の37年には日中戦争が勃発。さらに4年後に日米が開戦した。永田は際立って優秀な男で、もし生きていれば開戦を止められたかもしれないともいわれます。同感です。陸海の内輪もめにつけこむ英米の策謀、もしかして裏で買われていた国賊どもを冷静に見ぬけたのは彼しかいなかったかもしれないと思います。日本海軍はロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。これは昔の話ではない。今だって十分にあり得るのです。

思えば僕も永田、東条らと同年代の37~42才にドイツ、スイスにおりました。ああ、あのころの俺か、そんな若僧が日本をぶっ壊す戦争を起しちまったのか。その密談が、帝国陸軍などとはまったく縁遠く美しいあのバーデン=バーデンのホテルで夜中1時まで続き、隣室の客からうるさいと言われて切り上げたのか。なんとも生々しいものです。彼らは翌日にフランクフルトに行き、僕が3年勤めたビルの向かいにあった高級ホテル、フランクフルター・ホフに宿泊しています。陸軍士官学校の秀才である彼等、税金留学のエリートであり、日清日露に勝利して舞い上がった山縣有朋を筆頭とする長州閥の爺さんたちが陸軍幹部では第一次世界大戦でバージョンアップした近代戦についていけず国難をまねくと語ったに違いない。それは正しかったけれど、内部闘争の挙句に皇道派の自爆で誤った方向に行き、根拠不明の海軍による日米開戦が勃発、不思議なことに東京裁判ではその海軍はほとんど処刑されず全部は東条と陸軍が悪かったことになった。海軍幹部とキーナン判事らが芸者をあげて飲んでいたという話もある。闇が深い。

我が赴任地だったフランクフルトおよびチューリヒの中途にバーデン=バーデンがあるのも奇縁です。何か霊感でも働いたのでしょうか、他ではそうした衝動はなかったのですがここでは何となくひらめいて油絵2点を買っています。どちらも思い入れがあります。これは皆さんにお見せするというより、子孫に絶対に売るんでねえぞという意味で載せてます。一回目がこれ。

これが二回目。

統制派が権力闘争に勝ったので陸軍は対支戦争、南進にのめりこみ、蔣介石の策謀で思いっきりアメリカを巻き込まれ抜き差しならなくなり、真珠湾、太平洋戦争、敗戦への道を進む。そして軍内政治に勝って総理大臣に登りつめた「バーデン=バーデンの密約」のひとり東条英機はA級戦犯として死刑。 負けて台湾軍司令官に左遷された陸軍大将・真崎もA級戦犯として新橋の第一ホテルで尋問の末に収監されましたが、権力の座になかったことが幸いしたのか真っ先に釈放されました。しかし二・二六事件が成功して総理大臣になっていたらそうはいかなかったろう。人間万事塞翁が馬です。

東京人にとってリゾートというと軽井沢、日光、箱根ということになる。どこも好きであり、最初の二つは帰国してまもないころ幼い息子を連れて歩き回ってます。奥日光の白濁湯の泉質は全く持って捨てがたい。ただ日光は家康、軽井沢はカナダ人宣教師が明治に開いた避暑地でどちらも新興で地政学的な意味はなく、箱根はというと日本書紀にある霊山で富士が近く、源平の合戦があり頼朝が敬い、東海道の交通の要衝で関所が置かれた。土地に「気」がありますね。駅伝の最高点近くにある箱根七湯のひとつ、白濁の芦之湯は奈良時代の記録があり、以来、皇室、文人墨客が宿泊、明治期には木戸孝允と西郷隆盛の会見が行われ、勝海舟・山岡鉄舟・副島種臣が逗留しております。会見は現存する松坂屋という旅館ですが何を話したのか。

今日は5月20日です。欧州では長い冬があけて一気に花が咲き誇り、ドイツでは白アスパラが旬。この時期だけはそれが肉に代わって主食のようになります。国中がぱっと明るくなった感じは日本の桜前線の頃のはなやぎのようで、だからモーツァルトもシューマンもR・シュトラウスも五月(Mai)を歌ったのです。12年そこに浸っていたので日本でもMai感が体に残っており浮き浮きします。箱根の5月はつつじです。

ビジネスの着想はそういう気持ちの時が旬です。良い種があってもその気でないと着床しないからで、半端な決断で手掛けると失敗します。着手を決めた某案件を持ってきてくれた仲間と3月からああだこうだやり「よし、やろう」になった。それがすぐ「やめとく」の朝令暮改で失望させてしまった。たくさんあってどれも重たいものだから整理がつかなくなっていたのです。有難いことで16年目のソナーには優良案件がそこそこ来ます。例えば今、あのウォルト・ディズニー様関連の投資案件を検討中でうれしい限りなのですが、わかったのは、もう僕ひとりの頭で選べなくなってきたということです。

そこで何人もの意見を聞き、某案件は「やっぱりやろう」になった。やるからには全力投球です。そこで週末に箱根に行って気持ちを切り替え、懸案の事柄を議論すべくテスラを飛ばすことになりました。10年前に最高顧問をさせていただいた上場企業の取締役会もかくやというもの。オフサイトでやると自由な発想で大胆な意見が出て、非常に実りの多い会議となりました。

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法要と究極のリラックス(箱根翡翠にて)

2023 MAY 15 7:07:45 am by 東 賢太郎

箱根は何度行ったろう。子供時分から数えるとずいぶんだ。父がとても富士山好きであり、富士五湖めぐりや浅間神社にお参りなどしてから伊豆に下って天城高原ロッジに泊まったり下田の民宿で海水浴をするなんてのが夏休みの定番だった。だから自然と僕も箱根・伊豆が好きになり、家族旅行というとだいたいこっち方面になるし、いっとき箱根神社の上の方に芦ノ湖を望む土地1600坪を持っていた。老後に住んでもいいかなと思ったからだが金がなくなり売ってしまった。

父はずっと前から自分が入る墓を富士山がまじかに望める処にしようと決めていたようだ。相談を受けたかどうか覚えがないが、そんなことを言っていた気もするわけだ。先祖代々の今戸の墓がもういっぱいであり、次男でもあるからそっちは兄にまかす、それもありなんだと。そのころ僕はまだ海外にいたしそんな先のことまで頭も回っておらず、どうせ気まぐれだろうと、ああそれでいいんじゃないのぐらいの生返事をしていたと思う。

連れてこられたのは2015年の暮れだった。強羅の桐谷旅館に泊まって大好きな白濁湯を堪能し、箱根美術館の絶美の日本庭園なんかのほうに興味をそそられていたのだが、とにかくこの墓地を見てくれと二人して車でやって来たのだ。その日は霧がかかっていて、墓石の前で父が後ろを振り返り「あの辺に富士山が良く見えるんだよ」と指さしたが何も見えなかった。あれが実は気まぐれでなく、そんな先のことでもなかった今となってみると、父とのその日のあれこれは感無量でしかない。

過日、父の一周忌、母の七回忌の法要をその富士霊園の墓前で親族と執り行った。昨年納骨式をした時も小雨で富士山は影も形もなかったが、今回こそは快晴で眼前にくっきりと雄大である。なるほどこれだったんだなと父の選択に合点がいった。敷地はゴルフ場になるほど広く、桜の三大名所でもあるようで、写真のレセプションのあたりはリゾートさながらだ。

毎年5月にここへ来るとなると、泊りは箱根、熱海、伊豆あたりになろう。温泉もゴルフ場もあるし、健康にも精神衛生にも好適なことはうけあいだ。父がそこまで考えたかどうか、自身が10年も施設に居て広々した土地に出たかったのもあろうが、きっと子孫のそれも慮ってくれたにちがいない。従妹の両親もここに眠っており、今回の宿は従妹夫妻がハーベストの「箱根翡翠」をとってくれていた。去年もそこだったが、気に入ったので今回はせっかくだから二泊しようということになったのだ。

おりしも僕はディールの真っ最中だ。寝ても覚めてもああでもないこうでもないと考え、計算してる。この作業は入り口から出口まで一気通貫の情報を経験という方程式にぶち込んで解くようなものである。入りと出と両方の経験を持った人はまずいないから自分ひとりで決めるしかなく、いま頭のCTスキャンをとったらきっと数字が写っているにちがいない。身体のほうも肩から足の先まで凝りまくってる。翡翠の温泉は強羅の白濁湯でサービスも和食のクオリティも箱根でトップクラス、とても有難い。

部屋から

二日目は車で早雲山へ行ってみる。大涌谷に至るロープウエイは何度も乗っているがここで下車したことはない。駅舎が新しくなっており、白人観光客がそこかしこにいる。遠く海までのぞむ山肌に濃淡あるグラデーションを施す新緑のうねりが美しい。頬をさらさらなでる渇いたそよ風が心地良いなあと思い、都会生活だとそう出会えるものでないなと悟った。昼食は湯元まで降りてみようとなり、早川沿いの商店街をぶらぶら散策して蕎麦屋を探す。そんな何でもない時間もまた贅沢だ。宿に戻って湯につかること2時間。38度ぐらいだろうか、白濁のぬる湯が最高である。うつらうつらしていたらしく時計を見たら記憶が飛んでいた。

夜はなかなかとれないらしい ITOH DINING by NOB(下)を予約してくれていてステーキを堪能。しこたま飲んだのをものともせず、帰ってまた2時間湯につかる。竜宮城か何か極楽にいるような究極のリラックス、デトックスだ。貸し切り状態であり、またぬる湯で寝て命の洗濯をした。これでまたすっきりと気分よく仕事モードに戻れるだろう。何もかもアレンジしてくれた夫妻に深謝だ。

(母の日に)

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神山先生に教わった「漢方」と「気」の秘密

2023 JAN 11 1:01:56 am by 東 賢太郎

漢方の大家で20年来の友である神山道元先生。僕はブログで帰化名を書いてきたが、先生の本名は「屠 文毅(と ぶんき)」だ。中国で800年の伝統がある道家龍門気功の第19代伝人(後継者)である。池袋の診療所も改装して一新し、患者さんはひっきりなしで大変喜ばしい。

だいたいの病はなんとかしてくれる。中国鍼(はり)の効果は数え切れぬほど経験済だが、丹田や足の脛(すね)などに服やズボンの上から打ってしまう技術はそんじょそこらの達人でない。一度、待合室で隣の患者さんと雑談したら鍼灸師だった。きのうは首が悪いねと頭を左右にひねられて隣にいた娘がバキバキの音にびっくりするが、いたって気持ちがいいのだ。彼には何より「病気を治してあげることが喜びだ」という強烈なオーラがある。我が家で食事したり上海の別荘で遊んだり、箱根の温泉に旅行したりでプライベートまで知っている。20年付き合っていればお互いに大変な時期もあったが、彼のオーラに翳りを感じたことは一度もない。会えばそれだけで治してくれる気がする太陽のような人だ。

昨年末に行ったおり、パニック障害は治る?ときいたら即座に「大丈夫、薬あるよ」ときた。びっくりだ。小粒の丸薬で袋に「安神」と書いてある。指示通りに毎日8粒飲んでたら最近ならなくなった。「先生、何でこれ効くの」なんて聞くだけ野暮、「治ればいいじゃない」で終わりだ。対症療法が必要な病気の場合はいち早く西洋医学に頼るべきだが、そうでない領域で漢方は強い。人間は本来の機能、免疫力が落ちると病気になり、元に戻せば健康だ。そのプロセスには「気」が関わると考えるのが東洋医学だ(だから投薬に鍼灸が加わる)。いっぽう、西洋医学はそういうものを「プラセボ効果」とみなし、ノイズとしてばっさり切り捨ててしまう。

この話を伺って、僕はある事を思い出した。音楽録音の再生におけるアナログとデジタルの関係だ。デジタルは音が鮮明になりHiFiに聞こえるが、アナログは自然で疲れないと多くの人が感じだしており、いまやCDの売上をLPがぬき返している。その原因はデジタルが「可聴域外の音」をカットしたからだとされている。聞こえない音域も実は音に影響していて、アナログにはあった「自然さ」が犠牲になっていたことに皆が気づきだしたのだ。

しかし、CDにはHiFiの他にも大きなメリットがあった。安価に大量生産でき、耐久性があって小さく軽く、大きな売上が期待できたことことは業界には魅力だった。工業製品だから合理性が問われ、聞こえない音まで再生するのはコストの無駄だとなる。そこで1枚のディスクの周波数幅は可聴域のみとなったのだが、西洋式の教育を受けた製造側の人にとっては自然な流れだったことは想像に難くない。それが普及するにつれ、HiFiとは裏腹のデジタル臭が気になるという声が消費者の間でこれも自然に現れ、アナログレコードへの回帰に火がついたというのが現状である。

このカットされてしまう「聞こえない音」から僕は「偽薬効果」(プラシボ効果)を連想したのだ。プラシボ効果とは「効き目がある」と信じることにより病気に対して精神的治癒力を発する効果のことで、デンプンを錠剤にした偽の薬でも効いてしまい、ある実験では30%の人に鎮痛効果があったとの報告もある。製薬会社が開発した新薬が万人に効く科学的効能(予見できる効き目)を測ることは厚労省の認可の過程で必須であり、そのためにはプラシボ効果は統計からカットするのが合理的ではある。しかし、臨床の場になれば患者が求めるのは科学的根拠ではなく病気が治ることだ。

アナログレコードが出す「聞こえない音」に価値があるように、「治りそうな気になった」ことで治ったならば、その「気」というものに価値を認めてもいいのではないかと思うのだ。西洋医学はプラシボのような患者ひとりひとりの主観や個性は排して、客観(物理)にだけ依存する。薬効の再現性を万人に保証するためであり、僕も仮に大病を患えば病院でそれを期待するだろう。ところが東洋医学ではひとりひとりの人の体が異なるのは必然であって、いわばテーラーメードで身体機能をあるべき所に戻してあげることが目的になる。命に係わる火急の事態で出番はないが、病気になりにくい抵抗力をつけたり、原因が特定できない病気、偏頭痛などとされてしまう慢性の痛みなどには試す価値がある。

僕は東洋医学がプラシボ依存だと言っているのではない。現に厚労相は200種以上の薬草を医薬品と認定している。ただ、外科手術がなく即効性に欠け、鍼灸、気功まで動員して健常体に戻すそのプロセスが西洋流に教育された我々には「非科学的」に見えることを指摘したいのだ。しかしよく考えよう。科学とはルネッサンスで19世紀ごろに神学から分かれて発したヨーロッパの概念であるから、非科学的という判断は漢方が発した数千年前の東洋にそれがなかったねということを言っているに過ぎない。にもかかわらず数千年も価値を認められていることの方がよほど重要だし、その科学も万能でないことは西洋人が認めている。だから「統合医療」なる両者を融合した概念が現れているのが現況で、先生は何度もドイツに呼ばれている。

そうは言っても、僕自身がとても西洋流に教育された人間だから、どうしても東洋医学を西洋的概念で理解したいという欲求が捨てきれないことは白状せねばならない。僕だけではない、漢方(中国では「中医学」というが)の発祥の地、中国ですら若年層は西洋医学にしか依存しない社会となって久しく、「そういえばお婆ちゃんが飲んでましたね」という認識になっている。そこで、僕が自分の納得のために、それを西洋の科学的概念だけで説明する疑似的な方法を編み出したのが、東洋医学は「ホメオスタシス(恒常性)」の増進だという考え方だった。僕は医師でないから間違っているかもしれないが、イメージとしてご理解いただければ充分と思う。

恒常性とは、例えば、体温を一定に保つとか、侵入した病原体をやっつける免疫が自分を攻撃しないようバランスを整えるなどのことだ。西洋医学はそれらのメカニズムを科学で解明して、個々の機能の不具合を調整する薬が日々開発されている。しかしホメオスタシスは手足を動かすように脳から指令を出してすることができない「自律的」な行為で、一ヶ所を薬で調整してもかえって体全体のバランスを崩さないかという心配が常にあるだろう。しかもその「総合バランスが取れた状態」こそが東洋医学の目ざすあるべき所なのだが、厄介なことにそれは個々人で違うのだ。

つまり、人体をパソコンに喩えるなら、西洋医学は故障したハードの修理は得意だがそれを稼働させるOS(基本ソフト)がまだ読めていない。東洋医学は、OSは読む必要はなく正常に作動させさえすればハードもうまく動くように “OS自体が書かれている” (ホメオスタシス)ということだ。正常に作動させる方法論が、植物アルカロイドの薬効と鍼灸、気功などの血流への効能を統合した経験的哲学として数千年以上も前に確立している。徳川家康はそれ(本草学といった)を学者顔負けに書物を読んで研究し、自ら調剤した漢方薬を病気の家臣に与え、自身も服用して当時としては長命の73才まで生きたことは有名だ。

「哲学」とあえて書いたが、それが効能ある「医学」になる過程で『気』という概念が用いられた。僕は血液、リンパ液、ホルモンなどの流体が体内をめぐることだというイメージで理解しているが、そこまで完全に即物的なものではなさそうであって、目に見えないし、科学的な計測もできない。だから西洋人は「可聴域外の音」といっしょで取り合わない。日本人だって一般には目で見えないものは信じないし、教養人とて西洋医学が認めていないものは眉唾だとなるのが普通だろう。しかし、困ったことに、僕は神山先生の施術と薬で病気があっという間に治った経験が何度かあるのだ。プラシボ効果も一部はあったかもしれないが、それも含めて医療であり、治せば名医であって文句をいう人は世界のどこにもいない。しかし、「なぜ治ったんだろう?」という疑問が残るのが西洋流教育の名残なのだ。「存在しないものが治した」というマジックを信じない僕は、「何か」が存在したのだと説明しないと気がすまない。そこでやむなく仮置きするのが『気』なのだというのが結論だ。これはおそらく間違っているが、先生のご著書を僕はそう推理して読んでついに腑におちるに至った。

すなわち、神山先生の手によってホメオスタシスが正常に作動したから僕は治してもらえたのであり、そのためには、彼の施術の中に目に見えないし計測もできないが「在るべきもの」があって、それが『気』であったのだという推理をするしかない。とてもおこがましいが、その考え方は、アインシュタインが理論と現実のギャップに困って、その場しのぎの項で相殺した「宇宙定数」のようなものかもしれない。そっちを理解してないのだからただの比喩未満の言い草にすぎないが、先生から発し、電流のように流れる何物かが存在するという感じをご想像いただければ幸いだ。

以上、先生との20年の会話から得た僕のつたない理解が各所に入っていることをお断りするが、生来の合理主義者である僕のような人間がどうやって先生の東洋医学に心服するようになったかを、圧倒的多数である西洋式教育信奉者の皆様方に少しでもお判りいただければという純粋な思いから書いた。大家だが敷居は高くない方なので、下記へ連絡され「東賢太郎のブログを見た」といわれれば快く看て下さるはずだ。本稿は宣伝ではないし、治癒を保証するものでもない。下記研究所と僕およびソナーは何らの資本関係、金銭的関係を持っていない。あるのは患者の一人として家族までいつも健康にしてくれる先生へのささやかな恩返しの気持ちだけである。

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我が流儀の源はストラヴィンスキー

2020 JAN 27 22:22:34 pm by 東 賢太郎

ストラヴィンスキーの門をくぐったことで我がクラシック遍歴は始まった。ベートーベンの第九交響曲より詩篇交響曲の方が歌えるという時期が長くあり、頭の中のライブラリーの分量ではモーツァルト作品に並ぶかもしれない。こういう聴き方を音楽の先生はきっと推奨しないのだろうが、これでいいのだということをストラヴィンスキーが語ったある言葉で得心した。音楽に限ったことでなく、人生全般、生き方そのものに関わる言葉としてだ。

それはこの本にある。弟子で指揮者のロバート・クラフトが師匠との日々を日記形式で綴ったドキュメントだ。

質問者「いったい現代音楽とは何でしょうか」

I・S「いわゆる現代音楽は私にはどうでもいいのです。私の様式が現代的かどうかですか。私の様式は私の様式で、ただそれだけです」

これを読んで背筋に電気が走った。何もわかってない子供だから、ストラヴィンスキーは男として格好いいとシンプルに惚れこんでしまった。

高校生あたりから漠然と「格好いい人生を送りたい」という稚気に満ちた願望があった。何になりたいでもなく、自分なりに格好いいと想像する姿、それが、

「あっしにゃあ関りのねえこって・・・」

だった。これは当時流行っていた木枯し紋次郎のニヒルな名セリフである。それとストラヴィンスキーと何の関係があるんだ?それは脳内でこうつながる。

「現代音楽?あっしにゃあ関りのねえこって・・・」

他人が何をしているかなんて俺にゃぜんぜん関係ないぜ。そうだよな、世間体を気にしたり、八方美人で人に関わってたりしたら春の祭典は書けねえ。そう思った。中村敦夫は今風なイケメンではない。泥臭い。そういう顔じゃないとあのハードボイルド、ニヒリズムは出ない。誰が見ても素敵、カッコいいを目指しちゃいけない、そういう顔つきからは格好いいものは出てこないんじゃないか。

ストラヴィンスキーは音楽の渡世人だった。作風が転々としてカメレオンなんて揶揄もされた。しかしどれも彼の様式なのだ。もし三大バレエみたいな曲を一生書いてたら、それはそれで更なる金字塔を打ち建てたには違いない。しかし渡世人は安住しないのだ。誰にも世話にならず面倒かけず、風の吹くまま気の向くまま、どうせこの世にゃ俺ひとり・・・。彼の顔もタダものじゃない。

春の祭典は聴衆を暴徒に変え、警官隊まで出動させた。音だけの力で。これが音で人の心を動かす作曲を商売とする者にどれほどの脅威か。格好いいとはこういうことなのである。それほどの革命的な創造をしながら、しかし、彼は次々と違う響きに関心を寄せていく。成功なんかポイっと捨てちまって、どんなに求められても二度とそこには戻ってこない。うわべだけのカッコよさを求めて生きてるような薄っぺらな男にそんなことは逆立ちしてもできない。書く音楽以前に、自身が勇気に満ちたプログレッシブな人間なのだ。渡世の道は花園かもしれないが無間地獄かもしれない。地獄であっても、もがいて這い出せればそれが幸福だ。何が幸いするかわからないから世の中は面白い。こんな格好いい人生があろうかと思う。僕にとって、一つの成功に安住する人はすべからく、つまらない人だ。

若い時にこうして電気が走ると一生痕跡が残る。これ以来、僕の生きる流儀はだんだんこういうものに収れんしていった。

・興味ないことはしない

・空気を読まない

・群れない

・人と同じことはしない

・つまらないことに1秒も使わない

この道に言い訳は落ちていない。結果がすべてであって、結果を出すための工夫を死に物狂いでするしかない。こうして僕はスナイパー主義になり、結果は出さないが懸命に群れて、周囲の空気を率先して読んで、人と違うことは積極的に避け、興味ないことを忠犬みたいに黙々とする「満員電車のっちまえ族」とは決定的に袂を分かつ人生を送ることになった。

 

75才のストラヴィンスキーがロバート・クラフトと対談しているビデオがある。

弟子の質問に師匠が答えていく図式だが、テレビのドキュメンタリー番組だからやらせっぽさ満点だ。ロバートはド真面目なインテリ青年で質問は台本通りであるのがバレバレだが、ストラヴィンスキーは母国語でない英語で喜々として答えている。しかし本音を言わず大人の会話に終始しているのはこの録画が後世に残ると知っているからだろう。曲をスタジオ録音する際に安全運転になるのと似て、表面づらはあまり面白くない。

そこで、まことに僭越ではあるが、愚生が時にチラッと垣間見えるストラヴィンスキーの笑み、表情の変化、語彙の選び方などを手掛かりとして、大先生の本音をこっそり盗み取って注釈してみたいと思う(英語が聞き取りにくくひょっとしてヒアリング・ミスがあるかもしれない。そんなアホなという部分は切にご訂正、ご笑納をお願いしたい)。

ではご覧いただきたい。

TVカメラ用のポーズをつけ、ピアノに向かって作曲中を装う彼は精一杯の演技でカメラの脇に待機していたロバートを呼び入れる。音符を書き込む姿はエンジニアのように見える。別室は建築士の事務所みたいだ。色鉛筆まで動員して几帳面に書きこまれた彼の巨大なスコアは設計図を髣髴とさせるが、そのイメージにフィットする。

ストラヴィンスキーはこんな事を言ってる。以下、注はすべて筆者による。

8才で始めたピアノで音階練習をしていて、音階というものは誰かが発明したのだと考え、それならば自分が創ってもいいだろうとオリジナルの音階を作った。14才でピアノを習った19才の女性教師が好きになってしまった(注1)。やがて師匠、友人となるリムスキー・コルサコフの弟子に和声法、対位法を習ったが死ぬほど退屈で(注2)、師匠に君は音楽院には行かずに自習しろと言われた(注3)。

注1・old maidは俗語でセクシャルに意味深。母親にバレた。

注2・この教師は知識はあるが音楽知らずのただの馬鹿と本音はナメ切っている

注3・耐えられなかったのは和声法で、対位法は関心あったと決然と言う。彼は古典を研究し、形式論理を重んじ、論理の進化で作風を転々とした。退屈で済ますわけにはいかず、あえて繕ったコメントと感じる。

初めて会ったディアギレフはオスカー・ワイルド(注4)みたいな男で、とても優雅でシックで敷居がお高く、微笑みながらやさしく肩を叩いてキミの庇護者だよとにおわせるスタイルの人だった(注5)。ディアギレフは火の鳥の契約をする前にショパンのオーケストレーションをしてくれと頼んできた。春の祭典の初演のスキャンダルを彼は(興業としては)喜んだが、それを巻きおこしたのは私の音楽であって彼のバレエではなかったから嫉妬もしていた。

注4・アイルランド出身の作家。ここでは「ホモの性癖が過ぎて投獄され梅毒で死んだあいつ」という意味で引用されていると思われる。ディアギレフもその道で著名。

注5・ディアギレフとの縁で功成り名を遂げたものの、彼のニヤリとした表情には「あの食わせ者にはやられたよ」感が満載で、それ以上の関係を感じないでもない。ディアギレフは貴族で海千山千の起業家だ、10才下の若造をおだてて手玉に取るのはわけなかっただろう。

私が指揮台に登るのは、どの指揮者よりも聴衆をうならせることができるからだ。私の父は当代一流の、あのシャリアピンに比肩される歌手である。私は偉大な解釈者の息子であり、彼の強烈な劇的表現の才能を受け継いで指揮をしている(注6)。

注6・指揮者としての自分を血筋で正当化している。作曲者なのだから解釈の正統性をなぜ謳わないのか不思議だが、彼はスイスに亡命したため1917年の十月革命で財産を没収され、ロシアがベルン条約加盟国でなかったためにパリでのロシア・バレエ団からのギャラ支払も拒否されてディアギレフと争っていた。だから三大バレエは人気を博したものの彼にはあまり印税をもたらさず生活は困窮した。すでにアンセルメ、モントゥーら著名指揮者のレパートリーとなっており、彼はチャレンジャーだったから血筋まで持ち出す心理になったのだろう。このインタビューはコロンビア・レコードが彼の自作自演盤を市場に出し始めたころに行われたから、彼は売上に敏感だったろう。ただ、結果としてレコードは売れて彼は「生きたレジェンド」になり、米国作曲作詞出版家協会(ASCAP)が彼の印税のランクを上げたため収入が3万5千ドルから7桁に近い6桁台に急上昇して大枚をつかんだ。

私が自作を指揮をすると専門の指揮者たちが怒るが、その理由は私の音楽(の解釈)についてではない、収入が減るからだ。競争(を仕掛けられた)と思うのだ。『ショパン』の稼ぎより『ルービンシュタインのショパン』の稼ぎの方が多くなくてはいけないのだよ、わかるだろう?(注7)まあ彼は友人だから悪くは言えないがね(注8)。

注7:俺の曲にただ乗りして稼ぐ奴らは許せんという意味。三大バレエは花のパリで初演から話題を巻き起こして興業的に当たっていたのだから、若くて金のない彼に「チクショー損した」感が大きかったのは当然だ。彼は創作過程について詳しいコメントを残していないが、想像するに三大バレエの時期はロシア革命、亡命、裏切りと重なる彼のトラウマでもあるだろう。

注8:ルービンシュタインに「ペトルーシュカからの三章」を書いて献呈しているための弁解。作曲家は経済的に不毛だったペトルーシュカを金にでき、ピアニストは『ルービンシュタインのストラヴィンスキー』を手に入れられるグッド・ディールだったとにおわせる。

演奏家は、トランペットならその奏者が、私のイマジネーション(注9)のとおりの音を出さなくてはいけない。音のイマジネーションを分かり易くするためにクラフトマンシップについて説明してください(注10)。(クラフトマンは)物を作る人だ。その物は独創的(発明的)でないといけないが(注11)。

注9:ロバートに「アゴン」のスコアの変拍子をひとしきり解説して見せた後、ストラヴィンスキーが創造の核心に触れだした。ロバートには「それはどこからどのように来るのですか?」と質問してほしかった。

注10:ところがロバートは(たぶん台本を消化するため)この一見もっともらしいが実はくだらない質問にすり替えてしまった。

注11:別の場所では、演奏家は作曲家が創った鐘を鳴らす鐘突き人だ、鐘は突けばちゃんと鳴るように創られていると述べている。質問の脈絡が不明のためストラヴィンスキーは鐘はそう造られるべきと苦し紛れに答えているわけだが、誠にもったいない機会損失であった。

彼(注12)はその知識を自己流儀で獲得していたが、音楽というものを習得してなかった。とても優れた耳と記憶力を持ってはいたがね、ロバート、君のようにね、でも君は作曲家じゃないが、彼は作曲家だ(注13)。

注12:前述の初めて和声法、対位法を習ったリムスキー・コルサコフの弟子。

注13:これを言うストラヴィンスキーは、自分はパフォーマーではなく創造者だ、作曲家は演奏家より上だという強いプライドを漂わせている。2日後に「アゴン」を指揮するロバートはその言葉に反応を見せない。パフォーマーに徹したことで評価されたのだろうが、世間の評価はピエール・ブーレーズが上だった。

音楽は音を聞くだけではアブストラクト(抽象)であり、振動を感じなくてはわからない。音楽は音のリアライゼーション(具現化)であり、それは人の心の働きである(注14)。哲学者ショーペンハウエルは「音楽はそれ自体が宇宙である」と言っている(注15)。

注14:鉛筆をくわえてその先をピアノにくっつけ、ベートーベンは耳が聞こえないからこうしていたと実演しているが、言いたかったのはこれだろう。アブストラクトでないものが彼にイマジネーションとして心の働きを喚起し、音として “聞こえて” おり、それを書きとるのがリアライゼーションと筆者は理解した。別なインタビューで彼は「最高の作品とはまさに妊娠している母親のように、心と耳で感じられるものだ」と語っている。

注15:ショーペンハウエルの音楽論の部分を書きとっている。彼が全編読んでいたかは不明。8才でオリジナルの音階を創造しようとしたストラヴィンスキーの心の作用は万物の根源に向かうという意味ですぐれて哲学的、科学的であるが、前掲書によると、死生観などは呪術的でもある。

以上。

ここでストラヴィンスキーが本当にやりたかったわけではないであろうパフォーマーの仕事ぶりを見てみよう。1959年にN響を指揮した火の鳥である。選曲も管弦楽法も聞きなれぬバージョンの組曲であり、その差異により、彼が著作権を持って課金できているはずのものだ。終曲のおしまい、ロ長調になる部分のぶつ切れは彼がそりが合わなくなっていたアンセルメ(彼はフル・ノート延ばす)へのプロテストかと感じないでもない。

ストラヴィンスキー夫妻とロバートはこの年行われた皇太子ご成婚にかけて来日し、兼高かおるが同行して京都、大阪、箱根、鎌倉、日光を旅した行程が詳細にロバートの上掲書に記されているが、ストラヴィンスキーのために2回のリハーサルをつけたこと以外は5月1日のこの演奏会にはまったく言及がない。彼らの意識の中ではその程度のものだったのだろう。

上掲ビデオのNBC番組については、ロバートの上掲書に記述がある。6月12,13日で、その5日あとが巨匠の75才の誕生日だった。

最晩年のロバート・クラフト(October 20, 1923 – November 10, 2015)が1971年にヴェニスで執り行われたストラヴィンスキーの葬儀の思い出を語っている。最後の一言に衝撃を受けた、まさに感動的だ。

 

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我が家の真上を行った巨大台風19号

2019 OCT 13 2:02:07 am by 東 賢太郎

過去最大の台風といってもピンとこなかった。我が家は南西方向が崖の高台に建っているから風はもろに受けてしまう。ついこの前のも大型だったが、あれは暴風雨が夜中であり、家族は眠れなかったらしいが僕は来たのも知らずに朝まで熟睡だった。

しかし今回の19号は二日も前に巨人・阪神のCSの中止が発表されており、ドーム球場なのによほど強力なんだろうということで一応の心構えはあった。世田谷区から防災警報が放送マイクで何度も何度も物々しい口調で流れ、スマホ情報で台風を眺めてみるとなるほどでっかい。東は仙台あたりから西は愛媛あたりまでの図体ではないか、こんなのはたしかに見たことない。アメリカで巨大ハリケーンとして勝手に名前はついてるし、娘にはブラジルの友達から安否を心配するメールが入っている。なんか地球規模の化け物みたいだぞ。

そうこうするうち、こいつはずいぶんゆっくりと北上してきて、午後7時にとうとう伊豆半島に上陸した。なにもわざわざそこまでキレイに伊豆を狙わなくてもいいだろうというほど見事にドンピシャだ。まずいね、ウチの辺も雨脚が強まってきているぞ。心配になってきてそこからの進路予想図を見てみると、伊豆からいい塩梅にスライス気味にカーブしていて、「目」はどうも我が家のあたりを直撃しそうである。直撃も初だが、そいつが過去最大だなんて・・・。

「その時」は午後10時に来た。我が家のほぼ上空にこいつは悠然とやってきた。伊豆南端からちょうど3時間で意外に速いではないか。その30分前から窓という窓に吹きつけるかつてない暴風のピューピュー、ゴーゴーいう音と、バリバリと全開の高圧シャワーのような強烈な雨音の宣戦布告がフォルティッシモで始まっていた。話し声も聞こえなくなってくる。ガラスは二重だし壁も頑丈だから大丈夫と思っていたが、窓や壁の心配をするまえに家ごと持っていかれるかというド迫力だ。それが1時間も続くとさすがに怖さを覚える。といって何ができるわけでもなく、家族5人とネコ3匹で耐えていたらだんだん音はフェードアウトになっていった。

そうしたら午後11時ぐらいになって「多摩川の水位が上がって、ついに氾濫した」という聞き捨てならないニュースが出た。箱根の降水量が日本一になったようで、ここからは川の氾濫が危険だ。一難去ってまた一難。サイレンを鳴らしながらパトカー、消防車が何台も通る。場所は二子玉川らしい。あそこはあり得るなと無事をいのる。我が家は離れてるし30メートルの高台だからと高をくくっていたら、そこでいきなり停電に見舞われた。ここから家中がやおら災害モードになる。真っ暗になって歩くのも不如意になってしまうと人間は何もできなくなることを悟る。しかし妻子は懐中電灯とスマホで家中を照らして手際よくブレーカーを落とし、復旧時期が不明だから冷蔵庫の生ものを片付けてしまおうという機関決定がが僕ぬきで下されていた。昔からそうであるが、こういう時に家長はからっきし役に立たない。階段でころげ落ちないようにへっぴり腰で手すりを伝い、義務で平らげた生ものは一番どうでもいいヨーグルトであった。

そんなドタバタをしり目にネコたちは平然としたものだ。世田谷区の防災警報が「レベル5です、避難してください、命の安全を第一にしてください」になったときまっさきに心配したのは、ネコを連れていけないかだ。「避難所はダメらしいよ」「どうしてだ、犬は」「犬もだめ」「じゃあインコはどうだ」と禅問答になっているのを横目に我関せずと寝そべったままだ。最悪クルマに積んで逃げるんだろうなあなどと考えていたが幸い避難するには至らず、大箱のヨーグルトをがんばってフィニッシュしたと同時に停電は15分ぐらいでおさまった。そうしたら、やおらクロが僕の膝に飛び乗ってきた。普段は家長はただの踏み台であって、そこからいい匂いのする食べ物が並ぶちゃぶ台に乗り移ろうという魂胆のクロなのだが、この日はそうしない。ピューピューバリバリが怖かったんだろう。

11時半で外はすっかり静かになった。雨も風もなし。玄関から出てみると湿った外気がそこでひと騒動あった物々しさを残しているが、塵ひとつない自然の香りに満ちていて胸いっぱい吸い込むと新鮮な気持ちになる。前の道へ出ると人っ子一人いない。完全な静寂。それにしても凄まじいエネルギーだった。あれで発電、蓄電できたら原発いらんだろう。台風はミクロネシアあたりで生まれるからマリアナ海溝で産卵するウナギみたいなもんだ、台風の赤ん坊なら核爆弾を打ち込めば日本に来ないよう進路を変えられるんじゃないか?いろいろ馬鹿なことを考えながら戻ってきて、2台の車を見たらこれが洗車したみたいにピカピカに光ってるではないか。

古来より日本人は台風を仕方ないものとして甘受してきた。清冽な水、豊かな作物、みんなそのおかげであって、いろいろ厄災はあったけど神様はお恵みだってくれてるじゃないかと長いものには巻かれ、つにには争い事まで「ここはひとつ水に流して」なんてノーサイドのきっかけにまでなってしまった。とても疲れた一日であったが、過去最大のモンスターに耐えられたんだからもう何が来ても大丈夫。水に流そう。これを古来より台風一過という。

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T社長、ありがとうございました

2017 OCT 11 20:20:10 pm by 東 賢太郎

昨日、お世話になったT社長の訃報に接して心底がっくりきている。もっともっと聞いていただきたいことやご一緒にやってみたいことがあった。心からご冥福をお祈りします。

58歳にもなって出会った方々の中で、社長ほどインパクトのある方は断じてひとりもいない。僕のような者のアイデアを真面目に取り合ってくださるのも極めて稀だが、そういう異次元の理解力を持った凄い人とそんな年齢になって会えるということも奇跡に思える。

日本人なら誰もが知る大企業を立ち上げた立志伝中の方で社長ほど人の心をつかむ達人もいないだろう。発想はいつも驚くほど豊かで既成概念にまったくとらわれがなく、それがビジネスになる段階に至ると逆に手堅かった。商売の極意はこういうものかと実地で学ばせていただいた。

初めてお会いしたのはミクロネシアだ。強烈な3日間だった。まことに数奇なご縁でありお互いに未知の場所だから印象に残るあれこれがあって、ちょっとした会話、食事にいたるまでがまるで昨日のようにリアルだ。僭越なことだが、たったそれだけの短い間に、性格は違っても気質が合う方だと感じ入ってしまった。

ミクロネシア連邦ポンペイ島の初日

故郷の奥出雲にご一緒させていただいた時は、普通あり得ない体験を忘れないようにと戻ってすぐブログに書き留めた。それをお知らせしたわけではないのにいつの間にか細かくお読みになっていて、あれだけたくさんのことを覚えてこんなに描写できる人はいないと各所で話題にされて恐縮した。そういう角度から僕を評価してくださった人は人生で社長だけだ。ほめられたということよりもそれが物凄く嬉しく、この方は普通じゃないと確信した。

奥出雲訪問記

顧問を拝命することになった箱根での株主総会が3年前。吟遊という素晴らしい温泉旅館だった。お役に立つことができたかというと、まったくの力不足だったことは否めない。社長は大変な読書家で顧問に頼るどころか足元にも及ばぬほど無尽蔵に知恵がわいてくる方であり、僕はむしろ人間学の雑誌をとっていただいたり蔵書をたくさん貸していただいたりと、逆に顧問していただく側だった。人間を磨けということだったのだろう、その一冊一冊にその時々の熱い会話と情がこもっていて忘れることができない。

箱根吟遊と旧吉田茂邸にて

綱町の三井倶楽部での株主総会はほんの2年前のことだった。

綱町三井倶楽部にて

人が逝くとはもう二度と会えないということだ。しかし社長とは一対一で普通ではない長い時間を社長室で過ごさせて頂いた。信じていただけないだろうが丸12時間に及ぶこともあった。だから、こういうことがあれば多分こうおっしゃるだろうということが想像できるようになっている。それは僕のかけがえのない心の財産となっており、今となれば人生の貴重な最後の時間を頂戴していたということなのだ。

あれほどお元気で頭脳明晰であられても来るものは来る。人生歩いていけば順番でやがて誰にも来る。だから悔いのないだけのことをしておこうと思う。社長に頂いた財産は使わなくてはいけないし、使うならばそれはこの会社さんの幸福のために使う。僕は社長に教わった通り、人の道を行きたいと思っているからだ。

社長、欲をいえばお互い20年若い時に出会いたかったですね、きっと物凄いことができたでしょうね。必ずやり遂げてご報告いたしますのでゆっくりとお休みください。本当にありがとうございました。

 

 

 

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プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26

2017 AUG 1 1:01:39 am by 東 賢太郎

このコンチェルトのレコードを初めて買ったのは1974年だから浪人中、思えばもう43年も前の話だ。ワイセンベルク、小澤にパリ管という当時としてフレッシュな組合せだった。まだモーツァルトもベートーベンもよく知らず、僕のクラシックはストラヴィンスキー、バルトークで始まっていたから、この曲もその流れで気に入っていた。今は2番の方が好きだが。

第1楽章冒頭、クラリネットの寂しげなメロディー(右)がひっそりと鳴りだすと、なぜか僕の脳裏には人気(ひとけ)のないお寺のお堂が浮かんできて、弦がしっとりとかぶると朝焼けの霧がさ~っと広がる。

そこにいきなりハ長調で弦が走り出し、ピアノが見栄を切るように闖入し、妖術のようにぱっと変ホ短調に姿を変える。まったく俗なことだが、上海で観た雑技団で、男が女の姿を布で隠しさっとそれをのけると瞬時に着ている服がかわっている、あれがいつも頭をよぎる。合いの手でぴぴーっと耳をつんざくフルートの高音は龍笛を連想させる。

第2楽章の冒頭(変奏主題、右)の鄙びた風情も、妙に半音が絡んで西洋風を装おうが、僕は東洋を感じる。

これが5回変奏される様はまさに歌舞伎の七変化だが、第4変奏(右)の不気味さなど先日観た能の土蜘蛛の妖怪さながらだ。

第3楽章の冒頭、ファゴットによる第1主題(上)は誠に日本的であり、作曲家が滞在中に聞いた「越後獅子」であろうとする著名な説があるが、西洋で無視されているから俗説とされるのが通例である。

そんなことはない。彼は1918年にロシア革命を逃れて米国亡命したが、モスクワからシベリア鉄道を経由して5月30日に敦賀に上陸し8月2日に離日するまで2か月も日本に滞在した。奈良では奈良ホテルに泊まり横浜、軽井沢、箱根も楽しみ、京都には1週間もいてお茶屋遊びもした。大正7年のこと、珍しい西洋人の若者だ、さぞ芸妓さん舞妓さんにもてただろうと考えるのが大人の常識というものである。現代の日本人だって初めて連れて行けばびっくりする。多感な27才が何の感化も受けなかったとする方が不思議であって、彼の脳内で起きた可能性のあることをどうしてそうすげなく否定できよう。西洋人の学者は可哀そうにお茶屋も知らんのだなあと同情するばかりだ。

第3楽章、西洋的でラフマニノフのような第2主題に差しはさまれるこのピアノのシンプルな主題も半音階で西洋風にデフォルメされてはいるが、僕は日本庭園の石庭のような枯淡を底流に感じる。

以上思いつく例を挙げてみたが、私見ではこの協奏曲は書きかけだった「白鍵四重奏曲」が下敷きとなった日本狂詩曲という色彩があるのであり、それが顕わに露呈するのをプロコフィエフの趣味と知性が忌避してショパン、ラフマニノフの浪漫性と自己が語法としつつあったモダニズムを塗してソナタ形式の西洋を装ったものだ。バルトークがハンガリー民謡をクラシックに仕立てたのと近似するが、彼は日本の謡曲に愛情があったとは思えずメモリー、素材に過ぎないという違いはある。

むしろ近代の日本人作曲家がどうしてこういう曲を書けなかったのか?こんな見事なサンプルがあるのに。西洋で無視されているから俗説だという日本人の誇りのかけらもない姿勢と同じで、クラシック音楽界は救いがたい西洋コンプレックスが支配していると感じる。民謡を使った人はいるが、するとシャープのガラパゴス・ケータイのツッパリみたいに過度に開き直って土俗に浸ってしまう。それがモーツァルトやブラームスと同じ演奏会にのる期待はまずないだろう。

スコアで面白いところはたくさんあるが書いたらきりがない。第1楽章の第2主題の裏にカスタネットが入る。第75小節は5連符が書いてあるが、これを失敗しているケースが意外に多い。アルゲリッチ・アバド盤のベルリン・フィル(6発)、ユジャ・ワンのアムステルダム・コンセルトヘボウ管(6発)、ポリーニのトリノ放送響(4発)とよりどりみどりだ。これは5発でこそキマルという感覚は見事に演奏しているクライバーン・ヘンドル盤をお聴きいただき味わってほしい。どうでもいいと思われるかもしれないが僕はこういうことが非常に気になるたちで、アバドはスタジオ録音なのにプロとして実にいい加減と思う。これは古来より名盤とされ、文句をつけた評論家もいないと思う。

第1楽章の展開部に、左手が白鍵、右手が黒鍵で三和音を半音階で急速に駆け登っていく印象的なパッセージが3度現れるが、これはショパンの第1協奏曲のやはり第1楽章展開部、練習番号13の天才的な書法を想起させる。プロコフィエフはピアノの名手でもあり、前述した日本滞在中に日比谷公会堂でリサイタルを開いており、自作だけでは聴衆が理解できないだろうということでショパンのバラード第3番を弾いている。

プロコフィエフがパリ時代に交友を持ったプーランクの有名な「ピアノと管楽器のための六重奏曲」は、第1楽章の終わりの方、練習番号15のあたりの雰囲気がプロコのPC3番の第2楽章第4変奏にそっくりである。影響を与えた作曲家はあまり思い浮かばないが、プーランクは筆頭格といってよいだろう。その唯一の弟子のピアニスト、ガブリエル・タッキーノはプロコフィエフも得意とし、PCは全曲の録音を残している。

 

ニコライ・ペトロフ / ネーメ・ヤルヴィ / チェコ・スロバキア放送交響楽団

youtubeで発見、1975年5月22日 スメタナホールとあるがピアノに関する限りすばらしい名演で非常に印象に残った。LP時代にプロコのPソナタはペトロフのメロディア盤がベストとされ僕もそう思う。剛腕のイメージで確かにそれが売りだが、強い打鍵は発音の良さと表裏一体と化して格段に上等であり、タッチの種類が意外に豊富である。オケも木管の音程が良く、ソロの彫の深さに同調して華を添えている。第2楽章のソロで深い呼吸から出るフレージングと立体感は他のピアニストから一度も聴いたことがない。スポーティに弾く者が多く、それでも聞きごたえがしてしまう曲ではあるが、ペトロフの深い表現にはホンモノを見てしまう。

 

ウイリアム・カぺル / アンタール・ドラティ / ダラス交響楽団

オケは下手で上記のカスタネットなど勘弁してほしいが、これは31才で飛行機事故で亡くなった天才ウイリアム・カぺルを聴く録音。天馬空を行くが如し。

 

ユジャ・ワン / ダニエル・ガッティ / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

上記の6発の演奏だが、どうせ誰もわからんと客をなめたものかもしれない。ユジャ・ワンのビデオはもうひとつ、アバド/ルツェルン祝祭管があってそっちも6発であり、アバドは確信犯かもしれない。こういう恣意的なスコア改悪は強く反対したいが、そっちの客はひどいもんで拍手の気のなさは熱演したワンが可哀そうになる。有名音楽祭に着飾って来るような客はほぼ音楽なんてわかってない、なめられて仕方ないというものだ。日比谷のプロコフィエフみたいにショパンでも弾いたほうがルツェルンはお似合いだったかな。

こっち(コンセルトヘボウ)の客はましだ。ワンちゃん、そういうお客相手でプロコフィエフだしこれじゃいかんと思ったのだろうかスカートが短い。ここまで短くすることもないと思うが、ともあれ見事な演奏だ。この人は近現代ものにもいい感性があってミーハー相手のポップスばっかりやる手合いと違う。

 

プロコフィエフ 交響曲第3番ハ短調 作品44

 

 

 

 

 

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ジャガー・ルクルトのレベルソ

2016 DEC 23 0:00:26 am by 東 賢太郎

ロンドンの金融街シティをサヴィル・ロウの老舗仕立て屋ギーヴズ&ホークスのスーツを着てチャーチを履いて闊歩するともう気分はにわか紳士だ。まったく柄にもない、今思うと田舎の成り上がりもんで恥じ入るばかりなのだが、服装の流れで自然とウォッチが欲しくなった。留学を終えて赴任したばかりの二十代だ、給料なんて二束三文である。そもそも米国ではマックも食えなかったのにチェロを大人買いしてなけなしの貯金は使い果たしていた。

シティのはずれにあった宝石屋マッピン・アンド・ウエッブは入るだけで敷居が高かった。おそるおそるのぞくと、お目当てのそれは凛と涼しげな風情でケースの中から柔らかい高貴な光を放っていた。僕はその姿をコヴェント・ガーデンで見た魔笛のプログラムにブロンド美女と一緒に写っていたおしゃれなアドで知ったのだ。絵にかいたような一目惚れである。1985年のことだ。

jaegerそれはジャガー・ルクルトのレベルソなるリバーシブルのウォッチであった。このメーカーはスイスのル・サンティエに16世紀に逃げてきたユグノー教徒末裔のルクルトがパリで海軍の時計を製造していたジャガーと創始した最高級の時計メーカーで、400の特許を持っている。二人のイニシャルが合わさったロゴ(左)が見えない正三角形を成す造形センスが象徴するようにデザインも抜群にいいのだが、それよりもなぜ僕として数あるスイスのブランド時計屋で最高級と評したくなるかというとメカと補修に対する偏執狂的なまでのこだわりが感性に合うからだ。

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例えば右はアトモスという置時計だが動力は何もいらない。はるか後にスイスで入手した際に「1日の気温差が1度以上あれば動きます」というので「じゃあ南極でも動きますか」ときいたら「ええ、凍らなければ」だ。「で、何年動きますか」「200年」ときてそれ以上質問が浮かばなくなった。あれからとりあえず20年だが、たしかに問題なく動いている。マニアックな名器だ。

さて初めて足を踏み入れたマッピン・アンド・ウエッブで柄にもない大人買いをしたのはレベルソのピンクゴールドだ(下がその表と裏)。ポンドが250円のころで円ベースで70万ぐらいだった。昨今この時計はそこらじゅうで有名になってしまって面白くない。ことに芸能人に人気らしく嵐の誰それもご愛用らしいが、当時は誰も知らず飲み屋で裏返してみせると瞬間芸にはなった。同じころに東独August Förster社製のアップライト・ピアノも買ったもんだから家計は火の車だったろう。こういうことで好き放題やって家内には面倒をかけっぱなしであったが、こうやって常に背伸びをして生きてきたから背はちゃんと伸びたんだということにして許してもらっている。

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レベルソは僕の人生で背伸びの第一歩であったから特に思い出深い。掘ってもらったイニシャルのKAは息子も同じだから与える。まあしかしこんなのは序の口で、その後ポルシェより高いオーディオ、箱根のでかい地面を経て家の建築へとつづく。誤解を避けたいが余資があったことなどない。いつも買ってしまってからどうしようと焦り、その最たる家はデフレのさなかに年収**年分の大借金を背負うというファイナンス専攻のMBAにあるまじき事態を伴った。この性格は何があろうと変えられないからあのままサラリーマンしてたら即死だったと思うとぞっとする。物体として買いたいものはもうない。次はたぶん会社かなという新年を迎えそうだ。

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箱根のおすすめカフェ(Garden Railway Cafe in Hakone!)

2015 DEC 14 17:17:57 pm by 東 賢太郎

箱根美術館を出て向かったのは、息子おすすめの「ガーデンレイルウェイ・カフェ」でした。その名のとおり、庭園鉄道を走らせるカフェです。場所は仙国原(富士屋ホテルゴルフコースの近く)ですぐわかります。

鉄道研究会の息子にはかなわないが僕も子供のころはOゲージを集めて熱中してましたから遺伝かな。ただ娘は興味なく男女差はあるでしょうね、どっちがいいわるいではなく、やはり違うと思います。逆に僕らはお人形やおままごとにはかけらも興味ないですからね。

だから一般に母親は男の子に手を焼くんじゃないでしょうか。なんでこんなのに一生懸命になるのって。わが母もたぶんそうでしたが、ほぼ毎日家中に線路を敷きつめて足の踏み場もなくなってましたが自由放任でした。ありがたかったです。

小雨だったので休業かとおもいましたがカフェはやってらして、ふたりのオタクの訪問を歓迎していただき、模型の方もご主人のご厚意で走らせていただくことになりました。ゲージはG(人が乗れない模型では最大)でレールは約150mあるので迫力あります。屋外でこの巨大ジオラマはなかなかない、非常に貴重であります。 運転もさせてくれますから子供は喜ぶでしょう。grc

ご主人は東京で模型店を営まれていたそうですが300坪の土地を手に入れて夢をかなえられた、うらやましいかぎりです。テレビでも放映されていますし、ここまでできるなら移住する価値ありますね。

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メンテは非常に大変だそうですがその「土木工事」も楽しみのうちですね、好きな人には。僕ならむしろそれがやりたい。だって実際の地面を走るのがたまらない快感です。くまなく見て回り、線路を細かく検分して、至福の時を過ごさせていただきました。

昼食にいただいたピザ(マルゲリータとイノシシ肉)は美味でした。猪ピザは珍しいがおすすめです。いくらでもいるそうで、そういえば昨日旅館の庭にもでっかいのがいましたっけ。雉(キジ)肉もあるそうです。箱根はキジもたくさんいます(何度も立派なのを見ました)。

grc3これが当カフェの地図とビデオです。強力おすすめであります。

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(こちらへどうぞ)

今年の箱根駅伝に思う(5区の神学論争)

クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

原鉄道模型博物館(Splendid Hara Railway Museum in Yokohama)

 

 

 

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