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ハチャトリアン ピアノ協奏曲変ニ長調 作品38

2024 MAR 14 2:02:31 am by 東 賢太郎

これも我が愛聴曲である。美味というよりも強めのエキゾティックな香辛料が鼻腔にまとわりついて離れないように、知ってしまうとなしでいられなくなるという性質の音楽だ。そしてこの曲は時代の響きを今に伝えてもいる。生まれたのが激動の1936年であることはとても意味深い。まず、どんな時代だったかを振り返るところから始めてみよう。

ドイツでナチ党が政権を獲得し、国際連盟を脱退した(1933年)。ベルサイユ体制打破の狼煙が上がり、日本は日独伊防共協定を結ぶ(1937年)。ところがドイツはポーランドとの不可侵条約を破棄し、8月23日に共産国ソ連と不可侵条約を締結して世界を驚愕させ、9月1日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦がはじまる(1939年)。独ソにポーランド分割秘密議定書という裏契約があったからである。

ここで日独伊防共協定は大義を喪失、日独外相はソ連を加えた4か国による対米同盟を望んでいたが失敗する。バルカン半島やフィンランドを巡って独ソ関係が悪化したからで、6月22日にドイツ軍は不可侵条約を破棄してソ連へ侵攻し、12月8日に日本は真珠湾攻撃によって米国から宣戦布告を受ける(1941年)。そしてソ連は日ソ中立条約(1941年)の破棄を通告して日本に対して宣戦布告を行うのである(1945年)。

皆さんは以上の歴史から何を読み取られるだろうか?太字にしたのがヒントだ。僕の答えは「人間は裏切る」である。だからこそ、そうさせないための約束である「契約」というものがある。国家の契約である条約や協定がこれほど短期間に盛大に破られているのをみて、それでも人間を信じましょうなんて気持ちは僕は持てないが、性善説で語る歴史家はこれを「狂気の時代」とする。おそらく、想像だが、いま岸田政権はこういうことを考えている。奇襲だろうが偽旗を掲げようが汚かろうが何だろうが、不意討ちで騙すのが最も有効な戦略である。

裏切りを時代のせいにできるのは平時の精神だ。世界史で平時はほとんどない。戦後79年の平和から「日本は民主国家だ」「法治国家だ」「日米安保で安全だ」と盲信する。それは強者の都合でどうにでも捻じ曲げられると知る者は長いものに巻かれる。日本は諺がそれを奨励する国だ。教訓は諺ではなく生々しい歴史の現実からのみ得られる。一度裏切る者は何度でも裏切る。これは常に正しい。僕はそういう人には関わらない。

1936年はスターリンの大粛清が本格的にはじまった年だ。ヒトラーとかわらぬ未曾有の残虐行為をしていたとはいえ、ソ連をドイツが引き込む可能性があったためそれを阻止することは対独戦線で連合する英米仏にとって死活問題だった。そこで、スターリンがグルジア(ジョージア)人であり、ハチャトリアンがアルメニア人であることが注目される。アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア3国はソビエト連邦に併合されるまでは「ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国」であり、併合が1936年であり、その年にピアノ協奏曲変ニ長調 作品38は作曲されたのである。

僕はそのことと、同曲の演奏に英米演奏家が力を注いだのは無縁でないと考えている。英国初演は1940年4月13日、ロンドンのクイーンズ・ホールでモウラ・リンパニーが、米国は1942年、ニューヨークのジュリアード音楽院で行われ、ウイリアム・カぺルが看板レパートリーにして有名になった。1938年10-11月録音のフルトヴェングラーの悲愴交響曲の稿で「僕はこの悲愴はソ連に向けた目くらましのリップサービスとしてスターリンをだます国家的目的にフルトヴェングラーが妥協し、対独宣戦布告前の英国EMIに録音させたものだと考えている」と書いたが同様のことだ。

チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の聴き比べ(5)

音楽に政治は関係ないだろうという人は長いものに気がつかずに巻かれる人だ。レナード・バーンスタインはショスタコーヴィチの交響曲第6番について『作曲された1939年にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったが、独ソ不可侵条約により、ドイツはポーランドのソ連領には侵攻しなかった。「我が国は平和だ。」という偽善を表しているのが、第2楽章、第3楽章である』と、そうでない視点から述べている。彼がピアノがうまいだけでない真のインテレクチュアルだったことがわかる。世に迎合した音楽家の演奏は心に刺さらない。

ハチャトリアンが英米の連合国側につくという国家的目的に添って作曲したかどうかは不明だが、モスクワ音楽院卒業作品(交響曲第1番、1935)に次ぐ大作であり、ソ連を代表するD.オイストラフ(vn) 、L.オボーリン(pf) 、S.クヌシェヴィツキー(vc)に協奏曲を書けばスターリンのプロパンガンダ(国威発揚)にもなるぐらいの意識はあったのではないかと想像したくなる。レコードという新興メディアの巨大市場である英米は作品がロシアの外で評価されるには重要だった。米国は偉大な田舎であり、エキゾティズムは関心をひく要素ゆえ民族音楽の引用は常套手段だ。彼のヴァイオリン協奏曲第2楽章にコーカサス民謡があることを前稿で指摘したが、ピアノ協奏曲ではさらに濃厚だ。

ベレゾフスキー(pf)アルメニア国立交響楽団

音楽について少々書こう。スコアがないので楽譜を引用できないが、第1楽章第1主題は粗野で跳躍するようなシンコペーションのリズムを持つが、その結尾でトランペットと木管が吹く哀調ある旋律( es—ges / f / as / es—)が非常に耳に残る(ビデオの1分22秒)。これは素材として展開しないどころか、出てくるのはここだけなものだから、殺気だった雑踏の中で美女とすれ違ったがふりかえるともういない、まさにそんな感じなのである。ところが、終楽章の終わりにいたって、忘れ去っていたこれが主題の再現とともに不意に現れる!(27分20秒)。この設計はブラームスのクラリネット五重奏曲、ヤナーチェクのシンフォニエッタなど珍しくはなくいずれも感動を残すのだが、美女の再来となるとそれはそれでユニークだ。いつ聴いても感動する。旋律名は不明だが、この舞曲の伴奏の中にひっそりと聞こえている。

お気づきの方もおられようが、この旋律はショスタコーヴィチの交響曲第12番第1楽章の冒頭に第1主題として出てくる。12番は「レーニン交響曲」(1961年)でありハチャトリアンも「レーニンを偲ぶ頌歌」(1948年)を書いており、どちらもうわべのボルシェビキ賛歌だが関連があるのかもしれない。

次は第1楽章カデンツァの前でバス・クラリネットがソロで吹く息の長い旋律のタララーという ”結尾3音符” に注目いただきたい。これは第2楽章第1主題(イ短調、半音階上昇が悩ましいほどエロティックだ)がイ長調で結ばれる部分にも現れ、どなたでもわかるだろう。一度聞いたら耳にこびりついて離れぬほどの妖しいインパクトであり、同楽章のカデンツでは強奏される。youtubeで探してみたところウズンダラ(Uzundara)という踊りに出てくることがわかった。

ペルシャの影響が色濃い雰囲気のメロディー(旋法)である。ザカフカースはロシア語で「カフカス地方の向こう側」という意味で、ロシアから見てカフカース山脈の南側一帯を指す。長くオスマン帝国とイランの諸王朝(サファヴィー朝・カージャール朝)とが領有をめぐって争う係争地であったのだから人種も文化も相当に混血していないはずがなかろう。民俗的なものに噓はない。だからこそ僕はこの地域の底知れぬ魅力に惹きこまれているのだ。ちなみに第2楽章第1主題の半音階上昇はストラヴィンスキーの「火の鳥の嘆願」を想起させる。

ガイーヌに引用しているので間違いないだろう。

Flexatone

第2楽章に使われるフレクサトーンなる不思議な楽器がある。ミュージカル・ソー(Musical saw)に近い音で、同曲ではそれを代用することもカットしてしまうこともあるがあったほうが断然いい。ただでさえセクシーな旋律が妖しさ満載になるが、暗い処で一人で聞くとちょっと怖いかもしれない。

 

こちらで音が聴ける。

Flexaton / Musical saw in Khachaturian’s piano concerto – Katharina Micada | Singende Säge (singende-saege.com)

 

同曲の録音で惹かれるものが2つあるのでご紹介する。

ミンドゥル・カッツ(pf) / エドリアン・ボールト / ロンドン・フィル

第1楽章をベレゾフスキーと比べていただきたい。同じ曲と思えるだろうか?全編を抒情が彩り、「美女」はオーボエが吹きトランペットは(入っているかもしれないが)聞こえない。ボールトのオケも威圧的でなく詩情に力点を置く。ソロの部分も野卑にならず格調があり、ロシアを西欧化した、いわばフランス印象派寄りの感触とさえ感じる。そういう曲なのかという問いには答えにくいが、こういう曲でもあったということだ。猫という名のMindru Katzはルーマニアのブカレスト生まれのユダヤ系である。我が年代のファンには廉価盤のイメージがあろうが、作曲家エネスクが神童と認めたピアニストで僕の評価は高い。

 

ヤーコフ・フリエール(pf)/ キリル・コンドラシン / モスクワ・フィル

1963年の本家メロディア録音。音はクリア。フリエールは1936年にウィーンで行われた国際コンクールに出場して優勝したピアニスト(2位はエミール・ギレリス)で技巧の切れ味が素晴らしい。カデンツァの不協和音を渾身の強打で鳴らしつつこれほど濁らず綺麗にきこえる演奏はない。モスクワ・フィルの音圧は往時のdeepなロシアで、フレクサトーンはメロディーの幻妖を余すところなく鳴らし、コンドラシンの楽想のグリップは誠に強靭である。これが作曲家の発想した音の代弁なのではないか。カッツ盤は例外的にこの楽曲のソフィスティスケーションに成功しているが、純音楽的アプローチを指向しフレクサトーンも割愛するなど民族色を後退させるアプローチは中途半端に終わるとまったく興覚めだ。この演奏は著名でないがレファレンス級である。

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ハチャトリアン バレエ「ガイーヌ」

2024 MAR 10 1:01:11 am by 東 賢太郎

長年の経験から文化としての料理と音楽を俯瞰すると、その二つは各民族ごとに “感性の奥深い処” でつながっていると思えてくる。音楽に民族性があることは音階や和声で即物的に指摘することができるが、音楽と料理となると万人が納得する例示は無理だ。もはや感性でいくしかなかろう。

両者がつながっていると考え始めたのはスイスに居住していた頃だ。住んだのは本社のあるチューリヒで、ここはドイツ語圏である。かたや支店がジュネーブとルガノにあり、各々フランス語圏、イタリア語圏だ。数えきれぬほど出張するのだから3カ国にまたがって住んでいたようなもので、仏国、伊国の料理にどっぷりつかって過ごすうち、これを食べて育てばあの独逸人とは気が合わないだろうなあと漠然と思うようになったのだ。ブラームスとラヴェルとヴェルディが似ても似つかない。むべなるかなだ。

独仏伊が陸続きで数百年も隣りあっていながら混じり合っていないのは驚くべきだ。それほどに民族性というものは根強い。だから戦乱の歴史があったといえばそれまでだが、教室で習った当然を当然と飲み込んでしまう理解は導き方を知らない数学の公式を丸暗記するように応用力がない。民族性の根強さというものは、いくら庭に花を植えて綺麗に整えようと、刈っても刈っても芽吹いてくる雑草のように強靭だ。食文化も音楽文化も民族の生命力の賜物であって、それ以来、僕はどの国でもそれが法則のように当てはまると考えるようになった。

クラシック音楽はキリスト教の教会で芽吹いたから、その文化圏が土壌の “はず” である。そんなことはない、アジア人演奏家の進出は目覚ましいではないかと思われる人も多かろうが、ここでいう土壌とは現代に頻繁に「演奏」され愛好家が多くいるという意味ではない。「作曲(創造)された」という意味である。世界中が知っている楽曲の「原産地」のことだ。トマトはアンデス山脈、ナスはインド、大根は地中海の野菜だと述べているに等しいと思っていただきたい。

では現実論としてそれがどこで芽吹いたかというと、ほぼ「EU加盟国とロシアで」と言っていい。EUにスラブ民族国家ロシアの名がないことは民族性の根強さの証明だ(だからウクライナがどちらにつくかで戦争がおきている)。そのロシアも「原産地」であるのは正教会もキリスト教の分派だからだ。ローマ帝国が東西に分かれ、クラシック音楽はローマ文明と命運を共にしつつもキリスト教文化圏が土壌であることは揺るがなかった。ソナタ形式、作曲理論等で抽象化されたクラシック音楽は宗教を介して民族を超えたという意味で例外を作ったが、それはロシアの「食」の西欧化も貴族までだったように、民族の普遍的な現象ではなかった。

旧稿に我がローマ好きにつき述べた(唐の都、長安を旅して考えたこと)。その人間がクラシック好きであっても論旨に矛盾はない。一方の「食」のほうでも、僕はユーラシア食文化に違和感がなく、初めてなのに和食より好みと感じる場合すらある。そうした観点からすると、家系図をどこまで辿ってもまぎれもない日本人なのだが、「日本列島発祥の人類は今のところ見つかっていないので我々は誰もがいつかどこからか渡来しているはず」という理屈を前にして自分は何者でどこから来たんだろうという思考を止めることは難しくなる。シルクロードへの強い関心はそこに発している。

クラシック音楽の創造をシルクロードという視点で見ると、ユーラシア大陸の東淵はカスピ海、南淵はトルコあたりだろう。その東と南の端っこにアルメニア共和国はある。ノアの箱舟が大洪水の後に流れ着いたとされるアララト山があり(現在はトルコ領)、ティグリス川の源流が発する。イスラム圏(ペルシャ)と接して濃厚な影響を受けており、蒙古に襲撃され、トルコに侵略され、20世紀にはソビエト連邦に編入されるという限りなく複雑な歴史を持った国だ。しかし、クラシック音楽の創造という点は道理がある。なぜなら、アルメニアは世界で最初に公式にキリスト教を受容した国家だからである。

とはいえ最も辺境であるこの国から、他に類のないユニークな語法によって、和声音楽でありながら空前絶後のインパクトを与える作曲家が現れた。アラム・ハチャトリアンである。ヴァイオリン協奏曲は僕の愛聴曲だが、このアルメニア・ダンスの3分55秒(3拍子のところ)は同曲の第2楽章を容易に連想させる。

この非キリスト教的な響きの音楽文化から2つの傑作バレエ「ガイーヌ」「スパルタクス」を産み出したハチャトリアンの才能は未曾有だ。音楽の教科書級の作曲家を生んだ国で「一人だけ」は意外と少ない。シベリウスのフィンランド、グリーグのノルウェイぐらいだ。一国の歴史上ひとりどころか周辺国のジョージア、アゼルバイジャン、トルコ、イランをいれても史上ひとりだから如何に破格かがわかる。

彼の音楽の「辺境性」はバーバリアンで強烈なリズムの使用がよく挙げられるがそれは中学生でもわかる。むしろ、三和音による和声音楽なのにドミナント(D)からトニック(T)の解決がほとんどないことに耳が行く。ヴァイオリン協奏曲の終結など初めてのころはどうしてだろうと不可思議だったほどで、ストラヴィンスキーの音感覚に近く、逆にD-Tが調性設計の骨格であるチャイコフスキーとは対極にある。活躍した時代(1930~60年)からすれば擬古的に違いないが、音楽にも進化論が適用されるという考えを捨てれば非常にユニークで魅力的な作曲家である。

ハチャトリアンはアルメニア人の両親のもとにジョージアで生まれコーカサス民謡を聴いて育ったという。現代版がこんなものだろうか。

一見すると優雅だが、執拗に裏で鳴り続けて駆り立てるような8ビートのリズムはそのままのテンポで「剣の舞」になる。

この曲、たくさん聴いたが、安全運転なのか遅い演奏が多い。ほとんどが遅い。なんだそれは熊踊りかみたいなのもある。この演奏、黒海対岸の国ブルガリア(ソフィア)のオケだがこうでなくてはいけない。打楽器、とくにティンパニストの女性の熱演が映らないのはとても残念だが見事な叩きっぷりは最高に素晴らしい。このテンポで踊れるのかというと、踊れるのだ。この全曲ビデオの2:09:14をご覧いただきたい。

youtu.be/s9jbn27wIew?si=bGlNND0gPiozcHVN

時間がない方は1:51:10からの第3幕だけでも。アルメニア国立歌劇場でオケはマリインスキー劇場管弦楽団。最高だ。ビデオは2014年で、この年、黒海ではロシアによるクリミア半島併合が強行された。

このバレエ「ガイーヌ」はぜひ劇場で観たいが機会がない。行かないと無理なんだろう、早く戦争を終えてくれと切に願う。

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ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

2014 DEC 28 14:14:12 pm by 東 賢太郎

いま世界経済をお騒がせのロシアですが父親がなぜかロシア民謡好きでダークダックスのレコードがよく家でかかっていました。だからというわけではないでしょうが、ロシア物は何でも好きです。ただ、初恋の曲がボロディンの「中央アジアの草原にて」だし、なかでも17歳の時に買ったこの協奏曲のオイストラフ盤は一目ぼれで、それ以来自分の中にはこのコンチェルトが住み着いています。

自分のロシア趣味ですが、「ロシア」と一口に言っても西欧に開かれて連続性を持ったモスクワやサンクト・ペテルブルグではなく、黒海、カスピ海の中央のコーカサス、カスピ海の東の中央アジアあたりに根っこがあるような気がします。民族、文化、習俗、言語が西欧とは非連続という意味で辺境地。武力と宗教で統一されたが、西欧とまじりあうことはない。わが家の祖の地である能登が石川県でこんな感じだろうと思います。

1024px-Armeniapedia_dance2こんなアルメニア・ダンスなんて是非見てみたい。知的好奇心という奴ではぜんぜんなくて、この写真を見た瞬間にぱっと目がくぎづけです。血が騒ぐといいますか、ロシアも辺境の地であるこのあたりのエスニックな雰囲気がとにかく好きなのです。正直のところ古来和風のものよりずっと好きであり、俺は本当に日本人なのかと我ながら思うことしばしばです。

こういうものは食べ物の好みといっしょで教育やら環境やら後天的に変えられるものではない、なにか遺伝子レベルの抗いがたいものかもしれません。そんな経験はもうひとつだけあって、ローマの遺跡で家の中に流れている水路ですね、あれを見た瞬間にどきっとして、あれがほしい、あれを作ろうと思った。まだ作ってませんが。こういうのはもう理屈じゃない、遠い祖先が見ていた記憶みたいなものだろうと真面目に考えています。それに逆らわないほうが健康にいいなという。日本人といったって大半はどこかから来た人だし、思いっきりさかのぼれば人類すべての祖はアフリカにいたわけですから実は全員が「どこかから来た人」なんです。

Aram_Khachaturian,_Pic,_17ハチャトリアンはグルジアのトビリシ生まれですが、人種的にはアルメニア人です。この辺の人を良く知っているわけではありませんが、上掲のダンサーの女性などアルメニア人の写真を見ると白人に近いように見えます。ハチャトリアンの風貌はそれよりアラブ系、トルコ系に見えますがいかがでしょうか。僕はロンドン駐在時代にカジノにはまってほぼ毎日通った時期がありますが、こういう感じのアラブ大富豪のおっちゃんが葉巻片手にチップをうず高く積んでいましたね。

アルメニア共和国は黒海とカスピ海に挟まれた国でトルコ、アゼルバイジャン、イランがお隣の国です。チェスの天才カスパロフ、フランスのシャンソン歌手シャルル・アズナブール、フランス首相のバラデュール、テニスのアンドレ・アガシがアルメニア系だそうです。

ちなみにアラム・ハチャトリアンは中学校の教科書にソ連の作曲家とありました。当時はソ連人イコール白人と思っていましたがアルメニア語でԱրամ Խաչատրյան,グルジア語では  არამ ხაჩატურიანი と書くそうです。これは例えていうならば、Мөнхбатын Даваажаргалというモンゴル人男性が将来の教科書で日本の大横綱・白鵬だと書かれているという感じだろうと思います

どうしてそんなことにこだわるかというと、ハチャトリアンの曲を「ロシア音楽」と括ることに違和感があるからです。

ボロディンはグルジア人といっても貴族の血で風貌はコーカソイド(いわゆる白人)っぽく、彼の音楽は白人目線で描いた中央アジアである、いっぽうハチャトリアンはアラブ、トルコ世界から描いた中央アジアである。ちょっと荒っぽい見方ですが、僕はそんな風に考えています。もしそうだとすると中国人(漢民族)とチベット人がエスニックにぜんぜん違うようなものですから、作った音楽に大きな差があっておかしくないでしょう。

ところがです。話はさらにややこしくなりますが、以下にお示しするように、この二人の音楽はそれなのにけっこう共通するものがある。地方色を西洋音楽というイディオムに閉じ込めると似てしまうというプラグマティックな側面もあるでしょうが、それだけでは説明できない文化の血脈のようなものがあるのです。それは大相撲の世界に人としての血脈に関係なく「相撲道」があるかのようです。

それこそが、中央アジアという文化が秘めているハイブリッドな側面だろう、白人もトルコ人もアラブ人も混血しているものだからそうなってしまうのではないかと僕は考えています。司馬遼太郎も日本人も大好きなシルクロードは点と線を「線」で見たものです。それがどう伝播してきたかという視点ですが、それ以前に「点」あるいは「面」としてまず中央アジアという地域があったという大事な事実があるわけです。

秦の始皇帝の風貌は非東洋的で、実父は呂不韋という胡人であったという説は魅力的です。胡とは中国が見た西域であり、その先に何があるか知識のない時代ですから中央アジアのことです。いってみれば始皇帝はダルビッシュ有です。秦の高官の末裔が秦氏で日本に混血している。これまたぜんぜん不思議ではないです。こういう可能性を証明されていないから非科学的として一笑に付す人は、「実は全員がどこかから来た人」という学説に反証仮説を示さないとその発言自体が非科学的ということになります。

つまり、日本人というのも実はポリネシア、中央アジア、漢民族、北方騎馬族などのハイブリッド民族で、それ自体が「中央アジア的性格」を持っている。韓国もそうです。日本人と韓国人が似ているだのどっちが優秀であるだのはナンセンスなコメントで、混合比率が違うだけです。先祖の血は食べ物や音楽や異性の好みなどにぽっかりと現れる、僕はそう信じています。日本人が概してシルクロード好きなのは、そっちに先祖を持つ人の比が多いということです。

前置きが長くなりましたが、だからボロディンもハチャトリアンもロシア音楽というよりもシルクロード音楽であり、そう思った方が歴史的、地理的な整合性があり、自分の遠いルーツはそっちかもしれない。僕にそう思わせる底知れぬ興味深いものを秘めているのがこのヴァイオリン協奏曲なのです。

ではいよいよ、その「底知れぬ部分」を少々探ってみたいと思います。

 

khacha何といってもいきなりの「入り」(左)がすごい。蒙古軍の荒馬がはねるようなばねの効いたリズム。これは後に第2、4拍目に強烈にえぐい「後打ち」が入ります。3拍子になると2拍目にマレットで叩くシンバルのポワーン!この野蛮さ!お品のいいクラシックにこれだけ下品な音を鳴らしたのに快哉を叫びたいですね。

すぐにソロヴァイオリンがG線で弾くこれが第1主題です。これの裏につくリズムはンンンンンと第1、4、7拍目に入る。8分音符8個を3+3+2と分けて頭を打つのです。馬のひずめの音を西洋人は3拍子にするようです。エロイカの第1楽章はそうだと思いますし、「ダッタン人の踊り」のタッタタッタタッタ・・・もそう。それがここでは3+3+2と最後が2で寸詰まりになる。これが非西洋的、野性的、好戦的な感じがします。

khacha1

やがて音楽は静まり、オーボエがアラビアのへびつかいを思わせる主題を非常に高い原色的な音でkhacha2奏でます。実にエキゾチックなムードがあふれます。そこからソロが第2主題を弾きます(右)。これは和声の感じも伴奏のンパーパの繰り返しもすぐれてボロディン風であります。

khacha3そして伴奏だったンパーパが第3の主題を導きます。これはコーカサスとアラビアの混血という感じで、まさに中央アジア世界の雰囲気です。

ここから展開部で第1主題と冒頭の主題が交差し、第3の主題もソロに現れます。第2主題がチェロで歌われ、長いソロのカデンツァが終わると再現部となります。第2主題はクラリネットが歌いソロは装飾にまわり、ホルンのンパーパがソロの第3主題を呼びさまします。コーダは再度、後打ちリズムの効いた冒頭の主題に第1主題とンンンンンのビートの効いた第1主題が野蛮な興奮をかきたてて終わります。

第2楽章はファゴットのアラビアの教会旋法風な主題で始まります。楽章はこの主題のムードが支配します。次いでソロがどこかラヴェルのスペイン狂詩曲を思わせるkhacha4

 

雰囲気の主題を歌いますが、どちらもむんむんするほどのアラビアの匂いを感じます。これが再現してクラリネットとからむとオケの全奏で音楽は高潮し、やがて静まりながらソロヴァイオリンがFmのas(gis)を長く伸ばします。オーケストラがそれにAmの和音を静かに織り込んで神秘的な終結を迎えます。

第3楽章は強烈なビートのトランペットの二音のファンファーレ上をD,E♭,E,F,F#と半音づつ上昇する三和音が乗る祝典的な導入で開始します。ソロによる第1主題は喜びに満ちた民族ダンスを思わせます。khacha5

ソロが歌う第2主題は哀愁のあるこれぞ中央アジアという旋律で、この和声も伴奏の音型もボロディンそのものといっていいでしょう。

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これをソロが即興的な細かい音型で展開していきます。ロンド形式でもう一度第1主題となり、第2主題はチェロに移ります。目まぐるしく上下するソロが興奮の頂点を作り最後は全奏の二音を連打して曲は終わります。

このコーダは初めて聴いて以来どうも終結感に乏しいという気がしてきました。和声でいうとDmとE♭mの交替が続き、最後にDメジャーになって終わるのですがやはりドイツ流のドミナントからトニックの移行が恋しいということでしょう。シベリウスの協奏曲にもそう思っていた時期がありましたが、あれは和声的にはちゃんとドイツ流なのです。アルメニア人のハチャトリアンの感性はそうではない。協奏曲のフォーマットを用いながらドイツ流に妥協していない、そこにこそこの曲の真の面白味があると思います。

 

好きな演奏を3つご紹介します。

 

ダヴィッド・オイストラフ / アラム・ハチャトリアン/ モスクワ放送交響楽団

この曲を献呈されたヴァイオリニストと作曲者自身による演奏ということを差し引いても決定盤というにふさわしい名演です。まずこれを聴きこむところからすべてが始まる。

 

ユリア・フィッシャー/ ヤコフ・クライツベルク / ロシア・ナショナル管弦楽団

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以前のブログにご紹介しましたが、ユリアの抜群の音程と集中力が発揮された向かうところ敵なしの快演です。民族的なカラーを出したり興奮をあおろうとする演奏は音楽の構造的なもの、建築学的な部分を犠牲にすることが多く、特にこの曲はそれを感じます。この演奏、それがない。そういう誘惑を断って純音楽的に清清とアプローチしている、それが見事です。それがもの足りない人は、次のエルマンのを聴いて下さい。

これはライヴだが遜色なし。

ミッシャ・エルマン / ウラディミール・ゴルシュマン / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

このヴァイオリンは学習者にぜひ聴いていただきたい。きわめて瞬時の微細なポルタメントで高音にはずり上がり、低音にはずり下がる。なんともなまめかしく妖艶。エルマン・トーンと呼ばれて一声を風靡した美音もさることながら、伴奏に関係なく自己完結した独特の音程感覚があってそれ自体がジューシーな果実のようにおいしい。この「自己完結」という部分はもう才能でしょう。まねできるのかどうか知りませんが、できるなら誰かしてほしい。それで一生飯が食えるでしょう。第2楽章が白眉であり、こんなにこの曲のエキゾティズムをむんむんとむせかえるほど漂わせたセクシーな演奏は皆無でしょう。このCDにはサン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」なる、通常であれば僕が10秒でやめてしまう曲芸風の曲が入っているのですが、全部聴いてしまうのです。そのぐらいのヴァイオリンです。パガニーニやこういう曲は、こういう風に弾ける人のために書かれたんだと納得しました。ユリア・フィッシャーと対極のスタイルです。ぜひ両方お聴き下さい。

(補遺)

木嶋真優 / セルゲイ・スムバチャン / アルメニア国立ユース管弦楽団

youtubeで見つけた木嶋真優の演奏。初めて聴く人であるが僕の好みとして上記のすべてを抜いてベストである。おそらく彼女はこれを十八番にしているのだろう、現存のヴァイオリニストでこれほどこの妖しい曲に入りこめる人はいないように思う。完全に血肉と化しており、テンペラメントが合うのだろうG線の歌は妖艶でアグネス・バルツァのカルメンを彷彿させるが、これは女性にこう弾いてもらわないといけないということがわかった。ドイツで活躍されているようだがこの人はもっと日本で知られなくてはおかしい、素晴らしいヴァイオリニストだ。ライヴを聴いてみたい。

 

 

(こちらへどうぞ)

ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

 

 

 

 

 

 

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シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47

2014 MAR 22 10:10:30 am by 東 賢太郎

始めはちっとも良いと思わないのにだんだん魅力に気がついてきて、ついには一番好きなものの一つになる。そういうことは世の中にあまりないのですが、シベリウスのヴァイオリン協奏曲は僕にとってその希少品の一つです。

どういうきっかけだったかハチャトリアンのVn協を聴いてみたくなり、買ったオイストラフのLPにこれが入っていたのが出会いでした。72年の4月だから高3になったばかりのことです。しかし最初はわけがわからなくてほとんど聴かず、2枚目のLPを買うこともありませんでした。

少し開眼したのは83年にフィラデルフィアO.でギドン・クレメールがスクロヴァチェフスキーの指揮で弾いたのを聴いたときで、そこからシェリングのカセットテープを買って聴き、それでだいぶ耳になじんだのです。しかしそれでもわかったとは程遠く、この曲を含むシベリウスの音楽の神髄を知るにはそれから赴任したロンドンの6年間を待つ必要がありました。

ロンドンの冬というのは特に寒くはないのですが、なにせ暗い。朝は8時ごろまで、夕方は4時からもうあたりは漆黒の闇です。しかも雲が多くて日が照らず月も星も出ず、冷たい驟雨がしとしと降る日が何日も何日も続きます。鬱病が多いのもうなづける灰色に沈み込んだ世界なのです。そのロンドンで4年目を迎えた年あたりからです、シベリウスの音楽がやっと肌でわかりだしたのは。シベリウスが作曲当初から今に至るまで英国で非常に人気があり、エルガーやバックスなど英国作曲家に大きな影響を与えたことが納得がいくようになりました。

クラシック音楽というのはそれが産まれた気候風土や土地の人の精神のありかたと深く結びついているのだということが欧米に13年半住んでの実感です。NHKの「名曲アルバム」はその点いい線をいっている番組と思いますが、気候風土、精神というものは絵葉書やVTRのような視覚媒体だけで伝わるものではありません。ブルックナーやブラームスを体で理解するにはドイツの森を知らなくてはならないと僕が思うのは別に高尚な音楽だからというものでもなく、例えば一生を北欧の気候で過ごした人がハワイアンを味わいたければCDを何度も聴くよりワイキキビーチに飛んだ方が早いだろうというのと同じ意味です。

この曲が人生で大切なものにまで大昇格となったのは次に赴任したフランクフルトで聴いたときです。93年3月27日、ヤーレ・フンダート・ハレという化学会社ヘキストの体育館みたいな乏しい音響の大ホールで、ジョシュア・ベルのヴァイオリン、ウルフ・シルマー指揮バンベルグ交響楽団の演奏でした。一生忘れない演奏会というのは突然に前ぶれもなく訪れるもので、このあとにやったドビッシーの「海」ともども完全にノックアウトを食らってしまい、ぶるぶる震える危ない手つきで運転して帰宅したことまで覚えているのです。

そのジョシュア・ベルの演奏がyoutubeにありました。彼も中年になりました。若者だったあの時より角は取れていますが、これも見事な名演です。是非じっくりお聴きいただきたい。

この協奏曲は初演がうまくいかなかったことと、ブラームスの協奏曲を聴いて考え直したことから改訂が加えられ、現行のものはその改訂版です。 第1楽章は特に初演稿と大きく変更がある楽章です。第2主題に別な和声付がなされていたりして驚くのですが、3つある主題が改訂版でもあまり有機的に構成された観がなく、再現部の前にカデンツァが来るなど独創的ではありますがソナタ形式としてまとまりに欠けるために演奏が難しい音楽とされます。

大変にロマンティックな楽想に富んでいて、ソロと指揮者がそれに耽溺してしまうと何をやっているかわからない音楽になってしまい、それをあっさりやると欲求不満感が残るという難物なのです。逆にこの楽章が理想的に演奏された場合の充実感は例えようがなく、すべてのヴァイオリン協奏曲のなかで、もちろんあのベートーベンやブラームスやメンデルスゾーンをいれてであっても、いいものを聴いたという最上級の充足感をもたらしてくれる稀有の名楽章と思います。

そう、冒頭のこのスコアがひそやかに鳴り出すと、もう我々は金縛りなるしかないのです。ブルックナー開始を思わせる4パートで分奏するヴァイオリンのニ短調主和音に、そっと息を吹き込むように入ってくる独奏。主音から4度上のg(ソ)の空疎な響きに北欧の冷たい空気を感じます。しかもこのモノローグは、原野や森に潜む自然の精を呼び覚ます呪詛のような響き、生身の人間の情念のようなものまで訴えるインパクトの非常に強い旋律であります。ヴァイオリン・ソロでしか成しえない世界であり、古今東西のヴァイオリン協奏曲の主役登場で最も印象的なものでしょう。

協シベリウスV

第2楽章は思わせぶりなクラリネットの重奏で開始します。Adagio di moltoとあり、もうできる限りゆっくりと演奏しなさいという意味です。フィンランドの指揮者レイフ・セーゲルスタムはこの楽章は男女の最も崇高で神秘の営み、つまりセックスを描いていると主張していmov2シベリウスV協ます。英国の女性ヴァイオリニストであるタスミン・リトルもそれに慎ましやかに賛意を示しています。本当に素晴らしい、シベリウスが書いた最も独創的で最も高貴な緩徐楽章であり、エルガーのチェロ協奏曲、やはり神がかって美しい、手をふれるとこわれそうにデリケートなあの第2楽章にエコーしているのを聴くのは僕だけでしょうか。右のスコアのヴァイオリンの優しいつぶやき、それを受けとるワーグナーを想起させる深い満足感を導くホルンの和声などを聴くにつけ、僕もお二人のおっしゃる意味しかないだろうと思うのです。この楽章は演奏の好悪もはっきり分かれ、ハイフェッツのような名手でもどう弾いていいのかわからないようで持て余しています。また、激した中間部では理解不足の指揮者は金管をばんばん鳴らしてしまい、音楽をぶち壊すこともしばしばです。そういうことをされると音楽の香気が消し飛んでしまう。大ヴァイオリニストでも演奏しない人がいるのはこういう音楽を感じきれないからではないでしょうか。

第3楽章は音楽的に第1,2楽章より深みを欠きますが、舞曲風のリズムに乗って協奏曲らしい技巧がちりばめられ、シベリウス自身がヴァイオリニストを目ざしたこともあり華やかな演奏効果が見られます。協奏曲の終楽章としてわかりやすい楽章で、和声的な展開が誰でも感動できるように出来ている音楽であるため技巧さえあれば無神経なソリスト、指揮者でもつとまる楽章であるといっていいでしょう。

この曲ですが、昔からジャネット・ヌヴーやイダ・ヘンデルなど女流の演奏が有名であり、ヘンデルはCDを持っていますが確か帰国してから実演も聴いたはずだが指揮者も演奏も忘れてしまった。会社を変わったりで僕の人生、この10年は忙しすぎました。最近は諏訪内晶子、アンネ・ゾフィー・ムターなどのCDを聴きましたが、どうも今一つです。特にムター盤は評論家が絶賛していたものですが、妖艶な色気がむんむんと漂って大変に薄気味が悪い。僕の趣味ですが、この曲は男が、それなりの気骨のおっさんが、昔の恋人を想い出しているような淡いロマンと時に年甲斐もない情熱を燃やしてみるようなところがちょうどいいように感じます。女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手であります。

 

ダヴィッド・オイストラフ / ユージン・オーマンディー / フィラデルフィア管弦楽団

sibe_oistそういうおっさんタイプの最右翼の演奏がこれです。オイストラフにはうまいという言葉しか見当たりません。こんな演奏が残ってしまったら世界のヴァイオリニストは困っているだろうと思うほど。僕が高校時代に買ったのはこれではなくロジェストヴェンスキーがモスクワ放送O.を振ったものでオイストラフの気合いは立派ですが、録音、オケも含めてこのオーマンディー盤の安定感の方が何度も聴くには好ましく思います。この曲は伴奏オケの難曲として知られますが、作曲小屋アイノラにオケ団員を連れて会いに行くほどシベリウスを敬愛したオーマンディーは抜群の合わせで、この曲にじっくりひたりたいときに僕が聴くのはこれをおいてありません。前述しましたが、留学中の83年に聴いたスクロヴァチェフスキーがこのオケを振った伴奏は逸品でした。また、交響曲第5番がプログラムにあってずっと前から楽しみにしていたのですが、すでに高齢だったオーマンディーが当日になって体調不良となり、副指揮者ウィリアム・スミスが急遽振ることになるということで本当にがっくりしたのを昨日のように覚えています。それでもオーマンディーの解釈が浸透したこのオケの響きはシベリウスそのもので、その時の5番は後日フィラデルフィアの地元FMが放送したものをカセットに録音しました。今それはCDに焼きなおして時々思い出して楽しんでいます。このオイストラフ盤、それからアイザック・スターンが独奏している盤のオーケストラ伴奏は凌駕するもののない高峰として一聴をお薦めいたします。

(追加しましょう、16年1月11日~)

 

オレグ・カガン / タウノ・ハンニカイネン/ フィンランド放送交響楽団

6189wCbvoFL__SS280オイストラフが弟子とし、リヒテルが伴奏者に抜擢した故カガン(1946-90)19才、シベリウス・コンクール優勝のライブの記録です。ぎりぎりに切りつめて音楽の内面を抉るような演奏。終楽章の楽想はギャラントにやると軽くなりシリアスにやると協奏曲の華がなくなる難しいものですが見事な解答を見せています。こういうのは指揮者の指示でできるものでもなく才能しかないでしょう。この曲のスコアはこうなのであり、僕は最近の女流リッチ路線にはどうしても違和感を覚えます。並録のベルク(85年、ブレゲンツ音楽祭)もこれでなくてはという見事なもの。これです。

(補遺)

本文にあります米国留学時代に聴いたギドン・クレーメルの演奏ですが、FM放送を録音したカセットテープが出てきたのでアップロードしました(フィラデルフィア管弦楽団、アカデミー・オブ・ミュージック、1983年)。忘れられない秀演で指揮はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキーでした(シベリウスは大変珍しいです)。彼がブルックナー8番を振って感動し、楽屋へ訪ねて会話したのはこの前後のことでした。

スクロヴァチェフスキーとの会話

 

 

(こちらへどうぞ)

シベリウス交響曲第2番ニ長調 作品43

 

 

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-

2013 NOV 29 23:23:16 pm by 東 賢太郎

ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲は高校時代にダヴィッド・オイストラフと作曲者の指揮によるLPをすり切れるほど聴きました。いつぞや書いた「遺伝子の記憶」だったのかどういうわけだったのか、初めて聴いた時からこの曲にはゾクゾクして魅かれるものがあり、コーガン、シェリング、ヘンデル、エルマンなども愛聴してきました。アラム・ハチャトリアンはアルメニア人です。つい先日のブログに書きましたがいま僕は仕事で旧ソ連CIS(Commonwealth of Independent States、独立国家共同体)を調べています。アルメニアはCIS加盟国であり、たまたま、しばらくご無沙汰だったこのコンチェルトが気になり始めていたところでした。

先日N響で聴いたトゥガン・ソヒエフはチェチェン共和国も含まれる北カフカース連邦管区の北オセチア出身で、CISではないが地域的にはしごく近い。カフカースとはいわゆるコーカサスのことであり、アルメニアは南コーカサスである。僕がクラシックに入った曲がそのコーカサスを描いた「中央アジアの草原にて」だったことはブログに何度も書きました。そうしたら、不勉強で申し訳ないが最近気にいっているユリアのCDデビュー曲がそのハチャトリアンだったことを知りました。彼女は11歳でこれを聴いて好きになったそうです。このコンチェルトを指揮者クライツベルグとやった演奏会がすばらしくて、そのことが録音のきっかけとなったそうです。その演奏会の場所がフィラデルフィアであったそうで、これまた僕の留学先です。どうも縁を感じてしまいます。

ブルッフというわけで彼女のCDを2枚買って聴きました。まずは新しいブルッフとドヴォルザークです。期待しましたが、どうも音が奥に引っ込んで散漫な感じがする。このチューリヒ・トーンハレというホールで僕はこの管弦楽団を2年半聴きました。そのこけら落としだったでしょうかブラームスが来て自作を振ったそうで、その100周年のブラームスシリーズもここで聴きましたし、感動的だったショルティの最後の演奏会もここでこのオケでマーラーの5番でした。当時小学生でチューリヒ日本人学校にいた長女がここの舞台で和太鼓を叩いたりもして、けっこう思い出の深いホールなのです。

しかし、どうも見かけほどは音がよくない。音が拡散気味でコクがない。コンセルトヘボウやムジークフェラインとは比ぶるべくもなし、オケもそこの2つのオケとは比ぶるべくもなし。大吟醸と清酒ぐらいの差。ジンマンという指揮者は器用でうまいが好みではなく、自然とやや足が遠のきました。チューリヒ湖畔で会社から歩いてたった10分の所だったのですが・・・・。このCDは忠実にあの音ですね、残念ながら。ホールトーンを多めに独奥系の音を狙って遠目のフォーカスにしたかもしれないが、あの音を2階席奥から聴く感じです。ブルッフは特にオケが重要な音楽です。

これが老舗の名門Deccaの音だと主張されるならそれはそれで構わないが、平板でつまらないものは正直に仕方ない。ブックレットのクオリティも含めてどうも感心しない。クラシックレーベルの経営が楽でないことは重々承知だが安易な感じがします。灘の剣菱という赤穂浪士が討ち入り前に飲んだという清酒の老舗が商業化して味が落ちたことがある。ああいうことにはなってほしくない。マイナーレーベルのPentaToneは大事に作っていたが、ユリアもFA移籍で読売ジャイアンツに行った大物選手みたいにならないように切にお願いしたい。

ユリアの演奏は彼女らしい張りと緊張感があります。しかしこの遠い位置の録音だと彼女の室内楽的なオケとの交歓がよく察知できない。ライブは確かにこう聞こえるが視覚情報がない録音ではもっと聞こえてほしいものがたくさんあります。このCDはユリアよりも全体ポリシーが勝ったもので、ソリストは彼女でなくてもいいという性質のもの。それにしてもブルッフの第2楽章の高音は音楽に没入して彼女にしては珍しくやや甘い。ライブならこれでもいいが・・・。ブラームスの第1楽章コーダもそうですが、そういう部分を彼女は重視していて(それは大賛成だが)、知情意のバランスが動く。基本的にそのバランスがきっちりしている人だけに、そういう部分では若さが顔を出すように思われます。

ロシア41CP9FNWEEL._SL500_AA300_次にいよいよハチャトリアンです。これは良かった。この曲の最高級の演奏と太鼓判を押します。オイストラフに比べるとローカル臭は希薄であり、エルマンの訛り(なまり)もヘンデルの色香もなく、中央アジアの草原をスポーツカーで走る観なきにしも非ずですが、こういう方向の演奏でこれほどの完成度のものはなかったでしょう。ロシア国立管弦楽団が小味で繊細な音を出しており、クライツベルグは非常に良くつけています。この曲の伴奏としてトップクラスの名演です。彼は11年に51歳で癌で亡くなりましたがユリアとは実に音楽的気質が合っていたことがこのCDで分かりました。

プロコフィエフの1番。第2楽章はN響ライブで聴いたイザベル・ファウストと双璧の名演です。透明な叙情がいくばくかの妖しさを秘めた和音が印象的な第3楽章には彼女の感情移入を感じます。よく聴かないとわかりませんが。そうした密やかなエモーションがクールな知性と細部まで神経の通った研ぎ澄まされた技巧でラップされているのが彼女の演奏の個性で、ここでは成功していますし、ハチャトリアンでもそれは一貫しています。これと2番とどっちを弾くかで性格が分かりますがユリアがこっちを採ったのはわかる気がします。僕はどっちも好みなので、いずれ2番もお願いしたいですが・・・。

PentaToneの録音につき一言。SACDの効能はオーディオ通ではないのでわかりませんが、よろしいですね。情報量、クリアネス、弦の質感ともいい。これはモスクワのスタジオのホールトーンとオケの優秀さにかなり由来していますが技術者の耳の良さ、音楽性、良心も感じます。この会社は旧PhilipsのエンジニアらがMBOして設立したそうで、少なくともこのCDは僕の好きだったPhilips系のオケの音がします。この業界のMBOではおそらくキャッシュフローが楽ではないはず。看板のクライツベルグがいなくなったのも不運です。頑張ってもらいたい会社です。

グラズーノフ、これはロマン派の残り香がある名曲ですがあまり演奏されなのが不思議です。是非広く聴かれるようになってほしい。ハイフェッツ、オイストラフの名演がありますが、ユリアは彼女の個性で大家に対抗できていますね。G線の色香もなかなかで、彼女はけっして音程が良くて、左手が動いて、清楚なだけのヴァイオリニストではない。こういう表現は若くないと、逆に大家ではできないでしょう。クライツベルグのオケがここでもよく支えています。9年前の録音ですが、いやはや凄い才能を再確認いたしました。

 

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

 

ユリア・フィッシャー演奏会を聴く

クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

2013 APR 27 0:00:53 am by 東 賢太郎

僕は幼稚園のころヴァイオリンを習ったらしい。らしい、というのは、さっぱり覚えていないのだ。母によると「泣いて嫌がった」ようで、これは思い当たる節がある。音の好き嫌いというのがあって、電車の車輪のガタンガタンは好き、ガラスを引っ掻いたキーは嫌い。まあ後者を好きな人はいないだろうが嫌い方は尋常ではなかった。耳元でキーキーいうヴァイオリンが嫌だったのはそれだと思う。

ヴァイオリン協奏曲、なんて魅力的なんだろう。我慢してやっておけばよかった。ピアノ協奏曲には、嫌いなもの、興味のないものがけっこうある。しかし、ヴァイオリンのほうは、ほぼない。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、パガニーニ、シューマン、ブルッフ、ブラームス、ヴュータン、チャイコフスキー、シベリウス、サンサーンス、ラロ、R・シュトラウス、グラズノフ、ヴィエニャフスキー、ハチャトリアン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、バルトーク、シマノフスキー、マルティヌー、エルガー、ウォルトン、ベルク、コルンゴルド、バーバーなど、綺羅星のような名曲たち、全部好きだ。

100000009000008221_10204しかしいつでも聴きたいものはベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの5大名曲だろうか。この各々についてはいずれ書こうと思う。LP時代はメンデルスゾーンとチャイコフスキー表裏で俗に「メンチャイ」と呼ばれていた。僕もアイザック・スターン/オーマンディー/フィラデルフィア0.のメンチャイ(右はそのSACD)で初めてヴァイオリン・コンチェルトの世界へ入った。スターンのヴァイオリンの素晴らしさ、オーマンディーの伴奏のうまさは天下一品であり、これを永遠の名盤と評してもどこからも文句は出ないだろう。この2曲の最右翼の名演でもあり、ヴァイオリン協奏曲というジャンルがいかに魅力的かわかる。

アイザック・スターン(1920-2001)は84年4月にデイビッド・ジンマン/ニューヨーク・フィルとフィラデルフィアに来てブラームスをやった。忘れもしないが、第2楽章に入ろうとしたときだ。ちょっと客席がざわついていると首をこちらに向けぎょろ目で睨みつけ、客席は凍って静まった。マフィアの親分並みの迫力だった。しかしその音色はこのメンチャイそのものの美音で、すごい集中力で通した迫真のブラームスだった。

41ZJ740DQEL__SL500_AA300_               ベートーベンは94年にミュンヘンで聴いたチョン・キョン・ファの壮絶な演奏が忘れられない。右のテンシュテットとのCDはあの実演の青白い炎こそないが89年のライブであり、これもこれで充分にすごい。

また、ベートーベンはこれも84年2月17日にスターンで聴いたがこっちはムーティーの指揮が軽くて感興はいまひとつだった。名人がいつも感動させてくれるとは限らないのだ。

 

4197TCSJ9DL__SL500_AA300_さてこのチョン・キョン・ファだが、84年2月3日に フィラへ来てムーティとチャイコフスキーをやった。ベートーベンはだめなオケもチャイコはオハコだ。この演奏の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、彼女の発する強烈なオーラを真近に受けて圧倒され、しばらく席を立てなかった。右のCDも彼女のベストフォームに近い。この曲、一般に甘ったるいだけと思われているが、とんでもない。この作曲家特有の熱病にかかって精神が飛んだような妖気をはらんでいるのだ。そういう部分を抉り出すこの演奏は実におそろしい。出産を境に弟ばかり活躍が目立つようになってしまったが、ぜひ輝きを取り戻してほしい。

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さてチャイコフスキーだが、どうしても書かざるをえない物凄い演奏がある。ヤッシャ・ハイフェッツ/ライナー/シカゴso.盤(右)である。トスカニーニが最高のヴァイオリニストと評したオイストラフその人が、「世の中にはハイフェッツとその他のヴァイオリニストがいるだけだ」と言ったのは有名だ。ブラームスはいまひとつだがチャイコフスキーはここまで弾かれるとぐうの音も出ない。超人的技巧だが鬼神が乗り移ったという風でもなく、サラサラと進んで演奏が難しそうにすら聞こえない。これでは「その他のヴァイオリニスト」たちに同情を覚えるしかない。

 

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ブラームスは名演がたくさんあって困る。ピアノ協奏曲2番とともに僕が心の底から愛している音楽だから仕方ない。まずはダビッド・オイストラフの名技を。クレンペラー盤(右)とセル盤があって、どっちも聴くべきである。前者はオケがフランスで腰が軽いのが実に惜しい。それでもクレンペラーのタメのある指揮に乗って絶妙なヴァイオリンを堪能することができる。

 

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シベリウスは一聴するとちょっととっつきにくい。僕も最初はそうだった。しかし耳になじむと他の4曲に劣らない名曲ということがだんだんわかるだろう。ダビッド・オイストラフはオーマンディー盤(右)、ロジェストヴェンスキー盤とあるが、どちらも素晴らしい。シベリウスを得意としたオーマンディーはスターンとも録音していて、これも甲乙つけがたい名演である。

 

 

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最後にメンデルスゾーンをもうひとつ。レオニード・コーガンがマゼール/ベルリン放送so.とやったものだ。この頃のマゼールは良かった。この曲の伴奏として最高のひとつだ。コーガンはやや細身の音で丹念に歌い、この曲のロマン的な側面をじっくりと味わわせてくれる。終わると胸にジーンと感動が残り、演奏の巧拙ではなく曲の良さだけが残る。本当に良い演奏というのは本来こういうものではないか。

以上、この5曲は、ヴァイオリン協奏曲のいわば必修科目であり、クラシック好きを自認する人が知らないということは想定できないという英数国なみの枢軸的存在だ。ぜひじっくりと向き合ってこれらのCDを何度も聴き、心で味わっていただきたい。一生に余りあるほどの喜びと充実した時間を返してくれること、確実である。

 

(補遺、2月15日)

チャイコフスキーでひとつご紹介しておきたいのがある。

藤川真弓 / エド・デ・ワールト / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

いまもって最高に抒情的に弾かれたチャイコフスキーと思う。じっくりと慈しむような遅いテンポは極めて異例で、一音一音丹精をこめ、人のぬくもりのある音で歌う。第1楽章の高音の3連符は興奮、耽溺して崩れる人が大家にも散見されるがそういうこととは無縁の姿勢だ。感じられるのは作曲家への敬意と自己の美意識への忠誠。チャイコフスキー・コンクール2位入賞の経歴をひっさげてこういう演奏をしようという人が今いるだろうか。

(曲目補遺)

ボフスラフ・マルティヌー ヴァイオリン協奏曲第2番

1943年の作だがミッシャ・エルマンのために書いたロマン派の香りを残す素晴らしい曲。近代的な音はするが何度も聴けば充分にハマれ、食わず嫌いはもったいない。第2楽章などメルヘンのように美しい。

 

(こちらもどうぞ)

マスネ タイスの瞑想曲

 

 

 

 

クラシック徒然草-オーケストラMIDI録音は人生の悦楽です-

2013 JAN 26 15:15:08 pm by 東 賢太郎

僕は1991年にマックのパソコン(右)を買いました。米国Proteus製のシンセサイザーとYamahaのDOM30という2種類のオーケストラ音源を電子ピアノで演奏し、MIDIソフトで多重録音して好きな音楽を自分で鳴らしてみるためです。PCに触れたこともなかったからセットアップは大変でした。好きこそものの・・・とはこのことですね。

現代オーケストラから発する可能性のあるほぼすべての音(約130種類)を約50トラックは多重録音できますから、歌以外の管弦楽作品はまず何でも録音可能です。まず音色設定をフルート、オーボエ、クラリネット・・・と切り替えて個別にスコアのパート譜を電子ピアノで弾いて個別にMIDI録音します(高速のパッセージなどは録音時の速度は遅くできます)。相当大変なのですが、全楽器入れ終わったらセーノで鳴らすと立派なオーケストラになっているということです。

弦楽器の音色が今一歩ではありますが、イコライザーなどの音色合成の仕方でかなり「いい線」まではいきます。買ってから21年間に僕が「弾き終わった」曲は以下のものです(順不同)。

モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」(全曲)、同クラリネット協奏曲(第1楽章)、同弦楽四重奏曲K.465「不協和音」(第1楽章)、同「魔笛」序曲、同「フィガロの結婚」序曲」、ハイドン交響曲第104番「ロンドン」(全曲)、チャイコフスキー交響曲第4番(全曲)、同第6番「悲愴」(全曲)、同「くるみ割り人形」(組曲)、同「白鳥の湖」(情景)、ドヴォルザーク交響曲8番(全曲)、同第9番「新世界」(第1,4楽章)、同チェロ協奏曲ロ短調(第1,3楽章)、ブラームス交響曲第1番(第1楽章)、同第4番(第1楽章)、ベートーベン交響曲第3番「英雄」(第1楽章)、同第5番「運命」(第1楽章)、シューマン交響曲第3番「ライン」(第1楽章)、ラヴェル「ボレロ」、同「ダフニスとクロエ第2組曲」、同「クープランの墓」(オケ版、プレリュード、メヌエット)、同「マ・メール・ロワ」(オケ版、終曲)、ドビッシー交響詩「海」(第1楽章)、同「牧神の午後への前奏曲」、シベリウス「カレリア組曲」(全曲)、リムスキー・コルサコフ交響組曲「シェラザード」(全曲)、バルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(第1、2楽章)、同「管弦楽のための協奏曲」(第5楽章)、ストラヴィンスキー「火の鳥」(ホロヴォード、子守唄以降)、同「春の祭典」(第1部)、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、同「ジークフリートのラインへの旅立ち」、J.S.バッハ「フーガの技法」、同「イタリア協奏曲」(第3楽章)、ヘンデル「水上の音楽」(組曲)、ヤナーチェク「シンフォニエッタ」(第1楽章)、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」(歌、間奏曲)、ハチャトリアン「剣の舞」、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番」(第1楽章)、ベルリオーズ幻想交響曲(第4楽章)、ビゼー「カルメン」(前奏曲)

こういうところです。これ以外に、やりかけて途中で放り出したままのも多く あります。成功作はチャイコフスキー4番、バルトーク「オケコン」、シベリウス「カレリア」、ブラームス4番、ドヴォルザークチェロ協、ドビッシー「海」、マイスタージンガーでしょうか。録音はオケ全員の仕事を一人でやるので長時間集中力のいる作業です。生半可な覚悟では取り組めません。ですから以上は僕の本当に好きな曲が正直に出てしまっているリストなのだと思います。弦の音色の限界で、好きなのですがやる気の起きない曲(特にドイツ系の)も多いのですが、総じてやっていない作曲家、マーラー、ショパン、リスト、Rシュトラウスなどは興味がない、僕にはなくても困らない作曲家だと言えます。

もう少し時間ができたらシベリウス交響曲第5番、バルトーク弦楽四重奏曲第4番、ラヴェル「夜のガスパール」にチャレンジしたいです。この悦楽には抗い難く、この気持ち、子供のころプラモデルで「次は戦艦武蔵を作るぞ!」というときと全く同じ感じで、これをやっていればボケないかなあという気も致します。骨董品のアップルに感謝です。

 

(追記)

これらは全部フロッピーディスクに記録していますがハードディスクに移しかえたいと思います。やりかたがわからないので、どなたかご教示いただけるとすごく助かります。

 

 

 

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