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カテゴリー: ______ブルックナー

上岡敏之のブルックナー8番を聴く

2023 SEP 1 17:17:08 pm by 東 賢太郎

指揮=上岡敏之

ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調

(サントリーホール)

この日はローター・ツァグロゼクが振る予定だった。この人、4年前に読響に来て7番を振って、何の期待もなく聴き、こんなことは滅多にないが「かつてライヴで聴いた7番でベスト」と書くことになったのである。

ツァグロゼクのブルックナー7番(読響定期)を聴く

「録音していたならぜひCDにしてほしい」とまで書いた(なったようだ・左)。最後の3つでいいから彼が振るのであればそれだけのためにドイツに行ってもいいと思ったから、読響のプログラムを見てよくぞ呼んでくれた!とすぐに「名曲シリーズ」を申し込んだ。

そうしたら先日、ツァグロゼク体調不良の知らせが届いてがっくりきたのだ。こういうことは過去もあった、朝比奈隆、イングリット・ヘブラー、メナヘム・プレスラーがそうだった。仕方ない、氏のご健康を祈ろう。僕のようなブルックナー・ファンの方は多かったのではないか。だから、代役でこの演奏会のために来日した上岡敏之は大役だった。

ブルックナーはまず弦である。質量感のある弦5部がどっしりと広がってその上にピラミッド状に管が定位するサウンドがないといけない。金管ばかり目立ってもだめなのだ。ドイツでたくさん聴いたせいかどうも日本の楽団はそこが物足りない。もっと言うと、弦のアインザッツが律儀に揃っていてざざっとならない(これが必要なことはフルトヴェングラーがどこかで言っていた)。モーツァルトは揃わないといけないが、森を歩いて枝が風に揺れて葉っぱがざわざわする感じというのは欲しい(ブルックナー開始もその一種だ)。シカゴ響などアメリカの楽団もうまいがざわざわがなくて透明感がある。他の作曲家なら長所なのだが、僕はブルックナーではそれが物足りない。

上岡の意図かどうか、昨日の読響の弦は適度にざわめきがあり、低弦に抜群の質量感があり、内声(第2Vn、Va)が充実し、実に素晴らしいブルックナーサウンドの基底を作っていた。ホルン、ワグナーチューバもやや暗め、重めで粘り気ある音はふさわしく、総じて管弦のドイツ的なバランスが抜群であり、日本の指揮者、オーケストラでこういう音はあまり記憶がない。8番という曲はどうしても録音が難しいようで、それは弦の質量が風圧となって迫ってくる感じがマイクに入らないからであり、楽想が霊感に満ちていてピアニッシモのニュアンスも不可欠だが、これもマイクに入らないのである。版にこだわって細部を楽しむ人もいて、その場合は録音でも楽しめようが、僕はハース版で正攻法が好みでありどうしてもライブでないといけない。

上岡敏之は初めてだったが、結論として、素晴らしい8番だった。

 

ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

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ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調

2022 DEC 20 1:01:42 am by 東 賢太郎

ブルックナーがウィーンに出てきたのはオーストリア=ハンガリー帝国が成立した次の年(1868年)、つまり明治元年である。43才になる彼が最初に住んだのはウィーン中心部からドナウ川沿いに北に隣接する9区(アルザーグルント)だ。ここはウィーン大学がある文教地区で心理学者フロイトが住み、音楽に関してもシューベルトが生まれ、ベートーベンが亡くなり、シェーンベルクが住み、現在はフォルクス・オーパーがある。

Anton Bruckner(1824-96)

ブルックナーが住んでいたヴェーリンガー・シュトラッセ(Währinger Straße)41番地に立ち寄ってみたのは2005年のことだ。モーツァルト・イヤー(生誕250年)の直前の12月だった。次のそれとなると2041年(没後250年)だから僕は86才だ、生きてるかどうかもわからないじゃないか・・。ならば “思い立ったが吉日” だ、休みが取れる年末にふらっと行こうとなったのだから主眼はモーツァルトにあった。1991年の没後200年の騒動で彼に興味を持ったことがまずあった。亡くなったのは12月5日だから真冬にそこに立ってみたい。そしてドブリンガー(楽譜店)でレクイエムの自筆譜ファクシミリを買おう。決めたのはそれだけだ。ともあれ行き当たりばったりにウィーンを呼吸して気晴らしをしようというものだった。当時50才。こういう無鉄砲な所は若い頃と寸分変わってないが、今はもうそんな発想すら出ないから当時の気持ちを推し量るのも少々苦労する。

そういえばブルックナー氏も “思い立ったが吉日” の思いでひとりバイロイトへ旅立った。時は1873年、交響曲第2, 第3番の自筆スコアを携えてワーグナー宅に飛び込み外交をしかけたのだから偉い。このぐらいの営業精神をもちなさいと若者に諭したいものだが、氏はなんとこのとき50才手前だったのだ。応対に出たワーグナー夫人のコジマは、風采の上がらない彼を乞食と勘違いした。音楽祭の準備で多忙だったワーグナーも話をそこそこに追い返してしまう。ところが、置いていった楽譜を見てただちに思い直し、探し回ってとうとうバイロイト祝祭劇場工事現場に佇んでいた彼を見つけ出すのである。こうして、ブルックナーの伝記に必ず言及のある「ワーグナーへの交響曲第3番の献呈」が出世の糸口となる。なんと大器晩成の男だったのだろう。ウィーン大学で音楽理論の講義も始めることとなり、ヴェーリンガー・シュトラッセの家で彼が遅咲きの希望に燃えていたことは想像に難くない。

そこで撮ったこの写真、左手の建物の3階にそれはあった。交響曲第2, 第3番の初稿を書いたのもここであり、ワーグナーに認められた翌年の1874年1月2日に彼はここで交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』の初稿を書き始めたのだ。

この通りにはもうひとつ必見の音楽史跡がある。モーツァルトが3大交響曲を書いた家である(26番地)。次の写真の左手がそれのあった場所である。当時の建物ではないが構わない。ここで “それ” があったというのが大事なのだ。この道のこの辺にモーツァルトが立ち、馬車に乗ってブルグ劇場に出かけただろう。それをその場で感じる。そういうインプットが次の連想を生む。ウィーンには4, 5回は仕事でなく行ったが、そこかしこでベートーベンやブラームスを見かけている。それで彼らの音楽をきく。やっぱりね、そうだよねなんていう感覚がやってきて、理解できなかった曲ができるようになる。そんなことが何度あったか。

モーツァルト夫妻は1788年6月17日にトゥフラウベンからここに引っ越してきた。部屋は庭園に面していたようだが、1年前までの住居(フィガロハウス)と比べなんたる落ち武者ぶりだろう(ここに来たあたりからプフベルクに借金を申し込む手紙が始まる)。しかも入居してすぐの6月29日に長女が亡くなる不幸にまで見舞われている。しかし、そうした私生活は彼の作品には何ら投影されないのだ。6月26日に交響曲第39番が、そして7月25日に40番、8月10日に41番「ジュピター」がここで産声を上げた。看板の間に見える入口の上にかかっているプレートにそう書かれている。

コシ・ファン・トゥッテと大書されているが、一般にこのオペラは1789-90年に作曲されたとされ(初演は1790-01-26、ブルグ劇場)、夫妻は89年1月初めにこの家からユーデン・プラッツに引っ越しているから大半はそちらで書いたと考えるのが普通だ。ロンドンのプレートは信頼度が高くウィーンのはそうでもない印象があるが(Cdurに「フーガ付き」などと書いている所が何となくシロウトくさい。明らかに間違っているのを僕は見つけてもいる)、これが正しければコシは3大交響曲と同時期に構想されていたことになる(ご参考:クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-)。

さらに現地を歩いてみて発見したことがある。二人の家はこんなに近い。右の赤丸がブルックナー(41番地)、左がモーツァルト(26番地)だ。ブルックナーがここを選んだのは教職に就くウィーン大学が近いからだろうが、それを知らなかったとは考えにくい。後述するが、モーツァルトはカソリックである。プロテスタントのベートーベン、ブラームスとは違った敬愛の情を同じカソリックのブルックナーが持っていたとして何ら不思議ではない。

さて、ブルックナーの交響曲第4番である。1874年の第1稿はこの赤丸で書かれた。一方で、おなじみの1878/80年稿(に基づくハース版またはノヴァーク版第2稿)はというと、1877年11月に引っ越したヘスガッセ(Heßgasse)2番のアパートの4階で改訂したものだ(第2稿)。そのロケーションは両赤丸の間を走るヴェーリンガー・シュトラッセを左上(南)に中心街に向かって進み、ウィーン大学の前あたりだ。ブルックナーは終生この通りを離れなかったことになる。

4番の第1稿は最初の家、第2稿は最後の家での作品ということになるわけだが、第1稿を初めてきいた時は驚いた。第3楽章は完全に別な曲ではないか。第4楽章も異なるバージョンが3つも作られた。改訂魔の彼とてこんなことは2度としていないから4番はよほど特異なシチュエーションに当たった曲だったのだ。では、いったい彼に何がおきたのだろうという疑問が湧き起こるのは自然なことで、以来、一般にはブルックナー入門曲とされる4番は僕にとって最も難解な謎の曲となった。

前述のとおり、こういう時、何はさておきそれが起きた場所に身を置いて佇んでみるのが我がポリシーである。刑事の「現場百回」みたいなものだが、単なる空想ではいけない、現場で感じたものから演繹的に思考することに経験的に価値を見出しているのだ。日本を出る前にヘスガッセ7番の同じ建物に「ホテル ド フランス」が入っていることを知り、勇躍そこに宿をとることに決めたのはそのためだ(安宿であり経済的にも助かった)。次の写真がその前景で、左下にホテルの小さなエントランスが見える。ブルックナーはこの建物の右側の最上階に住んで交響曲第6, 7, 8, 9番を書き、問題の4番の改定も行ったのである。


幸いホテルの最上階の部屋に泊まれた。下の写真は、その窓から上の写真を撮った大通り(Ring)を見ている。ブルックナーが毎日眺めていたのはこんな景色だったと思われる(ここは6階なので、対面の建物の最上階が彼の目線だが)。

当時エレベーターはなく、最晩年の1895年になると階段の昇降が苦しくなった。それをききつけた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からベルヴェデーレ宮殿の敷地内にある宮殿職員用の住居を賜与されたが、引っ越しから約1年3か月後の96年10月11日に9番を完成することなく亡くなっている。すなわち、そこに至るまでの後半生の大きな仕事はすべてヘスガッセで成し遂げたのである。

ヴェーリンガー・シュトラッセの8年が彼の交響曲創作における興隆期の第1波であり、ヘス・ガッセの18年が第2波であったとするなら、両波の狭間において全交響曲のうちで最大といえる改編を受けたのが第4番であったということになる。その尋常でない大きさを説明するには、彼の中に爆発的な「変わり目」をもたらす(おそらく外的な)何物かがあったと考えるべきだろう。彼は何に出あったのだろう?

第1, 2波の間に1年間だけ住んだ家がある。住所はオペルンリング1-5で建物は爆撃で破壊され現存しない(国立歌劇場の左隣りあたりだ)。ちょうどその頃、1876年8月13日に音楽界では歴史に残る大きなイベントがあった。第1回バイロイト音楽祭の開催である。ここで『ニーベルングの指環』の初演がハンス・リヒター指揮によって行われ、ルートヴィヒ2世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世が列席し、ブルックナー、リスト、チャイコフスキーらの音楽家も招待された。

ブルックナーはケンブリッジ大学の博士号がもらえるという詐欺にひっかかったように肩書や名誉にこだわる性格であり、純朴な人でもあったようだ。だから自作のお披露目に国王と皇帝が列席するというこのイベントは事件だったろう。その目線から旧作を眺め直す。一度は納得して上梓した作品は改訂を施さなくてはワーグナーに追いつけないという気持に駆られたのではないだろうか。彼は63年に『タンホイザー』、65年に『トリスタン』をきいてはいたが、この時が初演であった『ジークフリート』と『神々の黄昏』をふくめ4つの楽劇をまとめて体験するインパクトは甚大だったろう。

ではその「リングの衝撃」はブルックナーにどんな変化をもたらしただろう?ここでもう一度モーツァルトに立ちかえってみたい。作風の違う二人だが、ひとつだけ共通点がある。即興の達人であることだ。ブルックナーはパリではサンサーンス、フランクらオルガンの大家にフーガ即興演奏を披露して称賛され、1871年8月、ロンドン万博で開催されたオルガン国際競演会にオーストリア代表として招かれ、ロイヤル・アルバート・ホールとクリスタル・パレスで計10回の演奏を行った。これによってブルックナーのオルガン奏者としての名声は全ヨーロッパに伝わっていた。

教会オルガニストであるブルックナーにとって即興演奏は必須の職分でありお手の物だったが、そのクオリティがサンサーンスらに認められるレベルだったことが重要だ。パリで三位一体教会のオルガニストだったメシアンの即興演奏がyoutubeにあるが、譜面に落とした曲と言われてもわからない。モーツァルトもブルックナーも、同様のことが易々とできたのである。主題が時々刻々と変容して深い森に分け入り、時に静止し、その時々に特有の気分を喚起しながら先が読めない展開を見せるというブルックナーの作品の特徴はそこに由来している。それでいながらベートーベンを崇拝する彼は交響曲に伝統的な形式論理を導入し、和声法も対位法も理詰めの厳格さを逸脱しないのだ。

その頑迷さは即興性と矛盾してきこえるものだから彼の交響曲の第一印象は僕には妙なものであった。そのことはカソリック信仰の聖なる響きと田舎のダンスであるレントラーを並べてしまう階級的矛盾をも包含しており、彼が求め、後にナチスが利用することになる「ドイツ的なるもの」ができあがってゆく。ワーグナーもそれを希求はしたがカソリック的とは言い切れず深い信仰心は感じられない。しかしブルックナーの場合、それは若年のころからの生活の一部であり、信仰心あってこその独自のブルックナー・ワールドを築いているということであり、それに浸りきれるかどうかで好悪が分かれる人でもある。即興が何種類生まれようが田舎のダンスが幅をきかせようが、各々において形式論理は完成しており、彼のワールドにおいては矛盾は存在しない。

だから、ひとつの楽想が何通りにも有機的に発展、展開して「版」がいくつもできるのは彼にとって不自然でもなんでもなかったのだ。モーツァルトも演奏会で必ず即興演奏をしたが、もしそれらを譜面に書き取っていたならば後世は複数の「版」として扱っただろう(例・ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332の第2楽章)。それと同様にブルックナーの改訂というものは、新たに湧き出る即興を書き取った素材をベースにした本人または弟子、学者たちによる楽曲の再構成という性質のものだ。両人ともカソリック信仰を持った教会オルガニストであったという共通点は音楽のつくりからは想像もできないが、僕はその視点から、ブルックナーがモーツァルトの家のそばに居を構えたというのも偶然ではなかった気がしている。

そして、そこに降ってきた「リングの衝撃」である。形式論理型ではなく、ライトモチーフを自由に展開させてゆく変幻自在型のワーグナーの作曲法はブルックナーにとって親和性があり、即興演奏の和声、対位法に格段の深みを与えた。交響曲第4番の第3, 4楽章の第2稿は、まさにそれなのだ。そして、その流れの終結点として、7, 8, 9番という後期ロマン派の頂点に君臨する最高傑作に結実したのだと僕は考えている。ブルックナーを論じるのにカソリック信仰は核心となるが、私見ではモーツァルトにおいてもしかりだ。モーツァルトの信仰心は希薄と見るのが日本だが、政治的動機があるフリーメーソン入会とそれは別だ。彼はミサを18曲も書いており、コロレド大司教のためのお仕事ではあったが手抜きはない。むしろ私見では彼の最高傑作ジャンルはオペラと並んで宗教曲である。カソリック協会のオルガニストたち、サンサーンス、フランク、メシアンらはポストに要求される即興演奏に長け、モーツァルト、ブルックナーはまぎれもなくその一員であったのだ。

そのことはあまり正面から論じられないが、ブラームスがブルックナーと対立したことにはワーグナーへの関わりや音楽の趣味以前にもっと深い理由がある。モーツァルトの葬儀はウィーン市のメジャーな教会であるシュテファン大聖堂、同様にブルックナーも聖カール教会で執り行われた(それが豪奢であったか否かはともかく)。ところがベートーベンの葬儀は膨大な数の参列者にもかかわらず三位一体教会(アルザー教会)という質素な教会で行われ、聖カール教会の前に住みそこに銅像まで建っているブラームスの葬儀の場はというと、観光案内に載ってもおらずよく探さないとわからない新興のエヴァンゲリスト教会である。このことと大衆にどれだけ愛されたかとは別問題であることは、人気では並ぶ者のなかったヨハン・シュトラウス二世の葬儀もブラームスと同じ教会で行われたことでわかる。音楽史は「大衆に愛された目線」重視のスタンスで書かれ、実相に触れたものは少ない。だから我々のイメージしているヨハン・シュトラウスやブラームスはそれとズレがあることは知らなくて仕方がないだろう。モーツァルトとブルックナーは信仰においては同じ精神世界の住人であったという実相はもっと知られてよいだろうが。

 

よく聴いているCDをいくつか挙げる。

ミヒャエル・ギーレン / SWR交響楽団バーデンバーデン‐フライブルグ

第1稿の魅力はヴェーリンガー・シュトラッセの家で遅咲きの希望に燃えたブルックナーの創意がストレートに伝わることだ。「リングの衝撃」前の2番、3番の脈絡から踊り出た原型の楽想が第2稿より露わな対位法的構造で見えるこの演奏が僕は大好きだ。先日に東京芸術劇場できいたインバル / 都響の演奏はその点を音楽的に完成度の高い独自の解釈にまで高めていてエポックメーキングだったが、ギーレン盤(ノヴァーク版)は一切のロマン派的な虚飾を削ぎ落してリズムの要素を浮き立たせるのが小気味よい。音程が良いので和声の推移がクリスタルのように明晰で美しく、終楽章の入りの楽想が現代的にきこえるなど、僕の趣味からは大変好ましい。

 

エリアフ・インバル / 東京都交響楽団

EXTONのスーパー・オーディオCD。第2稿(1878/80、ノヴァーク版)のライブ録音(2015/3/18、東京文化会館)である。この稿はギーレンの第1稿のアプローチは合わず、両者は異なる音楽である。インバルの指揮は第1稿の実演でもそうだったが pp の歌から ff の全奏まで管弦楽のバランスが実に素晴らしく、簡単なようでそれで満足する演奏は滅多にない。これでこそ第3楽章のスケルツォとトリオの対比が生きるのである。終楽章のコーダへの推移はすでに7, 8番のそれを予見しており「リングの衝撃」を悟らせるが、インバルのここへの持ち込みの設計は見事だ。このCDは録音の良さも相まって都響のベストフォームが刻まれ、やや録音の作り込みもあるのかもしれないが、これをブラインドで日本のオケと思う人はあまりいないだろう。第2稿で一番好きなものを挙げろと言われれば、僕はこれだ。

 

カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

我が世代が最初になじんだ4番というとこれが多かったのではないか。第1稿などというものはレコード屋になく、もちろん第2稿(これはノヴァーク版)である。初めて買ったのはワルター/コロンビアSOのLPだったが、どこがロマンティックなんだと全くピンと来なかった。CD時代になってこれをきいてやっとわかった気になったが、クナッパーツブッシュの5番(ウィーン・フィル)のLPが千円の廉価版で出てそっちの方が面白かった。この度なつかしくきき返したが、1973年の録音当時のブルックナーというとアンサンブルもアバウトでありどこか鈍重だ。この重さをさすがVPO!と崇めていたわけだ、田舎もんだったよなあなどと自嘲の気分になる。しかしだ、ブルックナーは自作をVPOに演奏してもらいたくて不評な部分を改訂もしたからこの音を念頭においていたはずであり、聞き進むとその腰の重さがウィンナホルンの粘性のある音と相俟って4番のエッセンスかもという気がしてきて、終楽章コーダに至ってそれが確信になる。こうしてベームさんに説得されてしまうのだ。やっぱりこれは外せない名録音ということになるんだろう。

https://youtu.be/2bDHzugiOvA

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百科事典とベートーベン交響曲全集の運命(改定済)

2022 AUG 3 23:23:21 pm by 東 賢太郎

むかしむかしあるところに百科事典というものがあった。大学の頃、ブリタニカのセールスの売り込みがあったのはたしか真夏であり、会うのは喫茶店、アイス珈琲がただで飲めるというので話をいちどだけ聞いてみた。たしかに知識の集大成は素晴らしいとは思ったが、セールスのポイントはそれではなく「一家におひとつ」だった。僕はまだ一家の主でないんでと断った。彼はセールスがうまくなかったようだ。

百科事典は皆さん世界史で習ったフランスの百科全書派と関係がある。ボルテール、モンテスキュ、ルソーなど新思想の大御所が著者となったよろず知識大全がエンサイクロペディーだったからそう呼ばれる。新興のブルジョワ階級に売れたのは国王、僧侶を批判した彼らの啓蒙思想が世の中を変えると信じられたからだ。フランスでそれはあの革命の火種となり、我が国では2百年たって応接間の装飾品となった。

「一家におひとつ」は戦後復興期のラジオ、扇風機、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などにはじまる。核家族化で「家」が増えたこともあって売れに売れた。高度成長期で豊かになると対象は高額品のクルマと家に及び、「マイカー」「マイホーム」なる新語を生んだ(マイでないのが普通だったのだ)。「一家に一台」で買われたアップライト・ピアノはいま中古業者によって中国に年間5万台も輸出されているが、百科事典は街の古書店やリサイクルショップでは買い取りはおろか、引き取り処分も断られてしまうらしい。ちなみに、調べるとジャポニカの美品全18巻がメルカリで3,500円で売られている。本棚をまじまじと眺めたりしない客人の前で主人の教養をそこはかとなく漂わせるにはお安いのではないか。

同じころ、そのノリの世の中で百万枚も売れたクラシックのレコードがある。カラヤンの「運命」だ(ヴィヴァルディの「四季」もあるがここでは前者にフォーカスしよう)。百万となると書籍でも堂々のベストセラーであり、まして地味なクラシックでとなるともう金輪際ない数字だろう。まさか想像もしない極東でとカラヤンもDG(ドイツグラモフォン社)幹部も驚いたことは想像に難くない。ドイツ人は思ってないが日本人はドイツを友軍と思っている。敗戦でともに悲哀をかこった心の友が神棚に祭るベートーベン様。うまい商法だった。インテリはそのコマーシャリズムを鋭敏に嗅ぎつけ、「カラヤンは底が浅い、やっぱりフルトヴェングラーだ」とそれをだしに自己の審美眼を誇ることが同等に底の浅いファッションとなる。おかげでドイツでは同年代のファンがだんだん世を去ってお蔵入りになる運命にあったフルトヴェングラーのレコードが、むしろ故人になった方が仏様として祭られて有難味が出る日本市場では大量に売れるという驚きの発展を遂げるのである。カラヤンもベームも日本が好きだったが、最晩年には生きてるうちから神棚に祭られて気分が悪かったはずはなかろう。

そこでおきた現象がクラシックの百科事典化である。レコード産業の資本主義的成長の必然であった。その象徴が泣く子も黙る「楽聖ベートーベンの交響曲全集」であり、「一家におひとつ」のセールストークには格好のアイテムとなる。百科事典は開いたことはなくても、値の高いレコードを買って聞かないことはなかろうと誰もが思う。運命も第九も聞いたことのない主人が教養人に見える強みがあった。全集というと、ひとりの指揮者によるものは1930年代のワインガルトナーが最初ということになっているが、オケは複数であり、百科事典に不可欠である飾りになる威厳と統一感はまだない。フルトヴェングラーにこの仕事は来なかったからカラヤン出現の10年前まではそれを作る思想はドイツのレコード業界になかったと推察される。カラヤンは1951年から1955年にかけてフィルハーモニア管弦楽団と全集を英国資本のEMIに録音したが、これがその端緒だろう(百科事典のブリタニカも英国企業。もっと顕著には、米国の出版業者がクラシックレコードも出した例としてリーダーズ・ダイジェスト社が著名)。ベルリン・フィル一本で初めてそれを企画したのもEMIだが指揮者はフランス人のクリュイタンスだ(録音は1957~1960年)。契約でカラヤンは使えなかったようだがDGは旧敵国にそれをされたら屈辱というのもあったのではないか。

EMIのマーケティング戦略に刺激され、契約問題をクリアしたDGが満を持し、指揮者・オケ・プロデューサー・技師をお国の本丸で固め、前年のEMIの企画を上書きして潰すが如く同じベルリン・フィルを用い、プロテスタント精神の故郷ベルリン・イエス・キリスト教会で録音したコテコテのドイッチェ式こそがカラヤンの1回目の全集(1961~62年、左の写真)だったのだ。英国資本主義とドイツのナショナリズムはナチ問題で相反した。この全集には終戦後まだ16年しかたっていなかったドイツの文化人、知識人の複雑な精神構造、すなわち戦争責任とナチを分離し国家の存続と威厳を保持するという難題を文化のアイデンティティーという国民の心のよりどころでどう処理するかという思いがこもっていたと考えて間違いないだろう。そして、この全集から切り出した第5番「運命」が「一家におひとつ」の百科事典セールス興隆時代にあった極東の被爆敗戦国で空前絶後のセールスを記録し、当時としては高額の2千円のお値段で百万戸もの家庭に “収蔵” されたという今となっては驚くべき事実は、我が国の西欧文化受容史上、安保闘争、反米の左翼的気運が何がしか投影もしたであろう政治、文化風景の象徴的な一里塚と評して良いのではないだろうか。

ベートーベン全集よりも百科事典の性格をおびたと感じるのは同じカラヤンのブルックナー全集(1975-)だ。カラヤンは初期作品を演奏会にほとんどかけておらず、演奏現場からの必然はなく、つまり全集作成のためだけにそれらをあえて演奏したわけだ。2番などそれでこの出来かというレベルで、これがブルックナーかと眉をひそめる向きもあろうが、僕は初物を真摯に読み解いてBPOの最強の合奏力でリアライズしたこれが好みではある。ザルツブルグのカソリック文化で生まれ育ったギリシャ移民カラヤンにとってブルックナーは「ドイツ性」を身に纏うための大事なツールであったと思われる。彼のデビュー録音は当時は知名度の低くかつ長大な第8交響曲であり、楽団はベルリン・フィルだが製作はEMIだ。プロテスタントとのドイツ性の狭間にいたオーストリア人ブルックナーのアイデンティティーの葛藤を巧妙に自身の隠れ蓑として、由緒正しき保守本流のドイツ代表フルトヴェングラーの後継候補筆頭に躍り出んとするカラヤンの対抗馬がルーマニア人チェリビダッケであったことは僥倖だった。連合国の会社EMIがクラシック界の王道中の王道レパートリーである敵国ドイツ物をアルヒーフの中央に鎮座させるためのエースで4番として、玉虫色にマーケティングできるカラヤンをナショナリズムとナチ排斥の自己嫌悪の分裂に乗じて契約で縛ってしまい、プロテスタント楽団のエースで4番であるベルリン・フィルごとかっさらおうという戦略の仕上げに名刺代わりの第1作をブルックナー8番の2枚組LPとする。これで連合国、ドイツ両陣営の市場を抑えられ、時がたてば米国市場にも切り込める。カラヤンの名誉のためにも美学上の理由もあったに違いないと僕は信じているが、事業家としての観点からも実に秀逸な戦略だ。6年にわたり英国の上流知識階級とがっぷり四つで商売させてもらった僕が英国インテリジェンスに心酔するのはこういうところだ。

Herbert von Karajan
(1908-89)

ベートーベン全集から10余年置いて企画されたDGによるカラヤンのブルックナー全集の重みはそうした背景を知って初めてわかる。出来栄えからして百科事典であって何一つ文句はないが、一方で、これが苦も無く超ド級の演奏水準でスタジオで達成できる彼らが、やる気になれば何の問題もなくやれたであろうし売れたでもあろうマーラー全集はつくらなかったのはとても興味深い。こういうところに欧州文化の深層が見て取れるからだ。ユダヤのマーラーとカソリックのブルックナーは1960年辺りまでは多分に忘れられた演目だった。大オーケストラによる長大な後期ロマン派作品という以外は音楽の性格においてなんら相関のない両者が1970年ごろからそろって人気演目となる背景は、オーディオテクノロジーの進化で長時間の高音質録音が可能になり、LP2枚組で新たな市場が開ける可能性が出たことにある。マーラーは1,2,4,5番、大地の歌など単品としての人気曲目はあったが、人件費のかかる8番、知名度の低い7番、演奏が至難な9番までそろえた「百科全書」はユダヤ系米国人のバーンスタインの起用を待つことになる。マーラーの一番弟子で泣く子も黙る百科事典録音適格者だったブルーノ・ワルターは、米国帰化後にユダヤ系資本CBSからコロンビア交響楽団を提供されて好きな曲を好きなだけ録音できる特権をもらいながら、私見では賢明と思う純粋に芸術解釈の美学上と思われる理由(発言がある)から、3,6,7,8番は選ばなかったからだ。

Leonard Bernstein(1918-90)

カラヤンが10才年長で両人はほぼ同じ年まで生きたライバルだったが、バーンスタインが生涯を通じてブルックナーは9番しか録音をしなかったという重い事実を、宗教、戦争、政治が芸術と無縁と思っている、あるいはそこまで無知ではないがそうあって欲しいとは願っている日本人音楽関係者やファンは考えてみたことがあるのだろうか。彼が晩年はマーラーを契機にウィーン・フィルと蜜月になったことは意味深い。筆者は1997年にウィーンで同楽団のヴィオラ奏者たちと会食した折に「我々にマーラーを教えたのはバーンスタインである」という直々の言葉を聞いているが、正妻ベルリンフィルとの諍いがあり、むしろウィーン・フィルを恋人にしていたつもりのカラヤンには心胆寒からしむる思いがあったもしれないからだ(フルトヴェングラーが正妻ベルリン・フィル楽員に人気だったイケメン男カラヤンに懐いた嫉妬心のような)。しかし、カソリックのウィーン・フィルを手中にしても、あれほど何でも振る能力があったバーンスタインはブルックナーは9番しかやらなかったのである。そのようなことを知ってはじめて、4,5,6,9番,大地の歌,亡き児を偲ぶ歌,リュッケルトの詩による5つの歌曲だけで終わったカラヤンの「マーラー進出」は簡単でなかったことが分かる。軽々に芸術解釈の美学上の理由だけと割りきって推察することも本人が語っていない以上はリスクがあり、私見ではナチ問題をひきずって踏み込めなかったバーンスタインの牙城米国という根深い問題が透けてみえているように思う。

Daniel Barenboim(1942-)

戦争が勃発しているいまこう書くのは些か気が引けるが、それでも両人の戦いから半世紀がたったいま、ずいぶん世界はひとつになった。仏教徒がマーラーをやろうがブルックナーをやろうが元から何の関係もないが、ユダヤ人のダニエル・バレンボイムはイスラエル・フィルでワーグナーをやるには細心の気を配ったにもかかわらずブルックナーは気兼ねなくシカゴ響、ベルリン・フィル、ベルリン・シュターツカペレと3度も全集録音を果たす傾倒ぶりであり、かたやマーラーは大地、5、7、9番、歌曲集だけという塩梅であってナチ問題、宗教、美学を分離しているように観える。芸術解釈をザッハリヒに行なう主義を僕は否定はしないが、ことマーラーのような主情的な音楽をそれと切り離して解釈するのは演歌を譜面通り歌うのと同じほどナンセンスだろう。バレンボイムがそれと相いれないパーソナリティの持ち主ならば演奏しないことが解釈なのだという態度をとるしかない。それが許されるほど世界はひとつになったのだ。

東洋人をなめ切っていた米国が最も恐れるのは中国という時代だ。辺境から搾取するのが資本主義なら、巨大な辺境だった中国がそうでなくなろうとしている今、資本主義は行き詰まるだろうという主張はけっして誤りではない。リッチになった中国では、実は日本でもまったくもってそうだろうが、マーラー、ブルックナーは単なる商品であって、ユダヤだろうがカソリックであろうが、そんなことは99.99%の人にはどうでもいいのである。そのノリで新興ブルジョア家庭が子女教育に血眼になり、品質のいい日本の中古ピアノが資生堂の化粧品やピジョンの哺乳ビンの如く飛ぶように売れる(年間5万台、一台20万円上乗せなら100億円の営業利益だ)。むかしむかし、いまの中国人のようにハイカラを気取りたかった我が国の中流家庭によって、娘の誕生における新しいライフスタイルの心弾む新常識として争うように買われたピアノというものは、やがて百科事典と同じ運命になって置き場所に困った大量の長物と化している。だからその商売が栄えているのだとしか考えようがなく、あの気障りなテレビCMを見るたびにいつも機嫌が悪くなる。中古レコード屋に大量に出回るLPもそんなものではないか。楽ではない家計を切り詰めてピアノを買ってくれたおじいちゃん、おとうさんが亡くなったら、なんでこんな重くてかさ張るものが何百枚もあるのよ、早く処分しといてねってことになるんだろう。ウチばかりはそんなことはなかろうとも思うが、カラヤン、バーンスタイン死して30余年、クラシックリスナーなのに彼らの名前も知らない人が出てきてそのCDが1200円という時代がくるなんて当時考えた人はいないのだ。

それを恐れざるを得ない僕は息子に、地下室はぜんぶお前にやるからそのかわり絶対にメルカリに出すなと厳命している。

 

 

 

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今年の演奏会ベスト1

2020 DEC 24 0:00:38 am by 東 賢太郎

1位 読響定期・グバイドゥーリナ:ペスト流行時の酒宴

恒例のベスト5ですが、すみません、なにせ今年はコンサートというとこれしか聴いてませんからベスト1。それにしても、1月15日にこの曲を選んだのは指揮者の下野竜也氏に神のお告げでも下ったのでしょうか。コロナ流行時の酒宴は自粛になろうとはこの時点では誰も知りませんでしたね。

コンサートばかりではありません、CDはここ数年買ってなくてCD屋にすら行ってません。コロナのせいばかりでもないです。あんなにワクワクして毎週買いこんでたのが何だったんだろうと考えてしまいます。僕はクラシック界においては相当な大手顧客でしたから今後が真面目に心配です。

クラシックは難しくて、百年二百年まえのもんだって意識がどうしてもついてきます。僕の世代の聞き始めのころはフルトヴェングラーやバックハウスって亡くなったばかりのお爺ちゃんがベートーベンの語り部みたいに扱われていて、カラヤンは青二才だったわけです。

いってみれば、古老の講談師が忠臣蔵や四谷怪談を語って伝承するみたいな世界で、ぽっと出の若いお兄ちゃんが「時は元禄・・」なんてやったところで古手の聴衆からしたら「てやんでえ」みたいなところがある。若かったころはうるさいジジイと思ってましたが、いつのまにか自分が言われるトシなのです。

つまり若い指揮者が「春の祭典」やってくれても、こっちは50年前からきけるのは全部きいてるんで「兄ちゃん、えらい元気いいなあ」って見てる自分に気づくわけです。困ったもんですがどうしようもない。「エロイカ」「ブラームス4番」ぐらいになると「おとといおいで」なんです、ほとんど。

この境地、もう鑑賞ではなくて曲に「はいっちまってる」のです。すると指揮者もヒトだから気が合うあわないが出てきて、僕は合わない方が圧倒的に多いのです。それが古老だとひょっとして俺が間違ってるかと謙虚にもなりますが、もうほとんど亡くなってしまいましたね。年下だと往々にして一刀両断になってしまう。クラシック音楽の宿命と思います。

むかしレコ芸で大木正興さんや高崎保男さんの批評を読んで、そんな印象を懐いてました。僕の思い込みもあるかもしれませんが、若手に厳しかった。切り捨てだった指揮者たちはやがて大家になり、現在は多くがあの世に行ってしまいました。でも、いまは先生方の気持ちもわかる気がする。

つまり、何百年たっても、常に一定数のこういうジジイと若手演奏家が対峙する。そこでバチバチと火花が散ってアウフヘーベンして、演奏が進化するのです。そうじゃなければ古典芸能は博物館行きです。そうならないこと祈るし、よし、そのために徹底的にうるさいジジイでいてやろうと思うのです。

とはいえ百回に1度ぐらいは、耳タコの曲で革命児の解釈に「そうくるか」となって、スコア見てみると「なるほど」なんてのがある。これはライブに多いのです。熱い評を書いたファビオ・ルイージの「巨人」、トゥガン・ソヒエフの「プロコフィエフ交響曲第5番」なんかがそうだったのですね。

それに出会うのが演奏会の醍醐味ですが、百回に1度ということは99度の無駄があるということなんで、だんだん時間が無くなってくると辛いなとなってきます。冒険しなくなってくるのです。音楽に関心が薄くなるのではなく、残り時間の配分をどうしようかという問題ですね。

僕は骨の髄まで「プレーヤー志向」なんです。死ぬまで選手でグラウンドに立っていたい。では自分が何のプレーヤーかというと、もちろん証券業なんです。それ以外はすべて、その他大勢、観衆、聴衆でしかない。外野席で他人のプレー観てああだこうだなんてつまらない余生は送りたくありません。

今年は3月からリモートワークでしたが、全然変わりなく仕事して、逆にリモートでしかできない会社まで作りました。12月に入って俄かに忙しくなってきて、案件はひとつ終わりましたが、ひょんなことからでっかい新規の芽が3つ4つも出てきて寝る間もなくワクワクしてます。逝くならこのままコロリがいい。

もう欲しい物もなく功名心もプライドもなし。仙人と違うのはワクワクして生きたいことぐらいです。もちろんクラシックには求め続けます。でも興奮より安寧ですね。慰めでなく精神のふるさとでおふくろの味にホッとするみたいな、そういうものを与えてくれるのもやっぱりクラシックなんです。

ブルックナーがいいですね、どっぷり浸っているだけで。すると、どうしてもクナッパーツブッシュに行っちゃいます。ロンドン盤のVPOとの5番、僕はあれで入りましたからね、めちゃくちゃなカットがあったりしますが初めてレコードをかけて、一発で気に入ってそれ以来の付き合いです。

いま鳴らしているのは4番です。ベルリンpoを振った1944年9月8日の放送用録音です。これって、あのノルマンディー上陸作戦の3か月後、ヒットラーが自殺してドイツが降伏する半年前なんですよ。スイスに近いバーデンバーデンとはいえ、すぐそこで戦争をやって血の海、死体の山になっているさなかに音楽なんて日本では死刑ものです。いま疫病の流行時で音楽は止まってしまいましたが、ドイツでは戦争でも止まらなかったという生々しい記録です。

彼の4番は1955年のウィーンフィル盤が音も良く一般的にはお薦めということになっていますが、あんまり熱量はありません。音は良くないレーヴェによる初版ですが、フルトヴェングラー(逮捕命令が出ていた)在任中のベルリンpoとのこれはテンションが高く、かたや第2楽章は天国的です。第3楽章のトランペットはじめ管楽器のタンギングの見事なこと!陰影の深さ、緩急、膨らみが自由自在で、国家瓦解の危機で鳴るブルックナーはこうなるのかという代物です。なんという安寧、僕の精神のふるさと、クナッパーツブッシュは神と思います。平和ボケ国の若いお兄ちゃんにはやっぱりあり得ませんのです、この世界は。

 

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「音響マニア」と「オーディオマニア」の差

2019 JUN 24 2:02:04 am by 東 賢太郎

クルトマズアがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で録音したブルックナーというと昭和の評論家たちが一顧だにせず、日本では捨て置かれていたに等しい。思うのだが、彼らはどのぐらいヨーロッパのコンサートホールや教会でブルックナーを聴き、自宅ではどんな装置、環境でレコードを聴いていたのだろう?

マズアの指揮は急所の盛り上がりやメリハリがなくてダルだという人がいる。あるはずないだろう、ライプツィヒのトーマスゲルハルト教会の見事な音響の中でゲヴァントハウス管弦楽団を鳴らすのに何故そんなものが要るというのか。本物は何の変哲もない。それを平凡だ、凡庸だという。では彼らはブルックナーにいったい何を求めているのか。本物を知らない人がまさか評論家をやっているとも思えないからそんな疑問が浮かんできてしまう。

オーディオマニアで本物の音楽を知っている人はあまりいない気がする。音楽をわかっているという意味で男女差はないが、女性のオーディオマニアはあまり聞かないという事実がそれを示唆している。しかしオーディオは音楽鑑賞には不可欠だ。MP3も普及という観点では結構だが、クラシック音楽は本来は教会でパイプオルガンやコーラスの風圧まで肌で感じるものだ。イヤホンでポップスはOKでもクラシックではまがいものでしかない。

そういうフェイクの音で覚えると、正統派の本物の演奏は外連味のない退屈なものと思われてしまう。たとえば風邪で鼻がつまると酒の味がわからない。フェイク育ちというのは要は安酒しか知らないということなのだ。安酒はウリが必要になるが、それ用のコクだキレだなんていう意味不明の基準で樽出し中汲みの純米大吟醸を語ってはいけないのである。クラシックについて語るということも、それと同じで語れば語るほどどんな音で育ったかお里が知れてしまう。

僕の基準から全集でいうならマズアのオイロディスク盤は東独のオケの音をアナログで聴かせる特級品だ。楽器の倍音がたっぷりのって教会の空気に融けこむ。これぞヨーロッパの音である。そして、何度も書いているが、ブルックナーはこういう音で再現しないとわからない。僕はオーディオマニアではないし趣味性において完璧な別人種だが、11年半どっぷりとひたっていたあのヨーロッパの音を再現したいという点においてはオーディオの選択に徹底的にこだわったものだからオーディオマニアと思われたんだろう、「ステレオ」誌に写真入りの記事が載ったのはお門違いも甚だしく、照れ臭かった。

お聴かせできないのが残念だが、このマズアの音を平凡でつまらないという音楽愛好家はあんまりいないと思う。こういうことを書けば嫌みだろうが僕は物書き商売でないから嫌われても構わない。真実を書くほうが大事だ。ブルックナーはカネがかかる。バイアンプの大型システムで再現しないと無理である。東京のホールは全部三流だからウィーンフィルを聴いてもだめ。ということは、大型システムを据え付けたリスニングルームを作って、マズア盤のような本物の音がする録音を聴くしか手はない。

クルマ好きでないから何故フェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニがいいのかわからないが、何かマニアなりの理由はあるのだろう。僕は音響マニアだからもちろんそれがある。クラシックはもとは貴族の道楽だ、やっぱりカネがかかる。それをけしからんのどうの言ったってそうなんだから仕方ない。庶民に理解できないというのはウソだ、そうではない、本物の音を聞かないとなかなかわからないが、それを聞くのにはちょっとカネがかかるというのが事実である。ワインに似ている。

装置がOKとなると今度は音源の限界という問題が初めて見えてくる。我が家の場合、ざっと8割は不合格だ。演奏がだめなのと、同じほど録画技師がだめなのがある。センスの悪い奴が余計なことをするなと腹が立つばかりである。だから1万枚ほどはもう二度と聞かないし捨ててもいいものになるが、何故棚にあるかというと、買ったときのあれこれをいちいち覚えてるからだ。情けないが捨てられない。男は別れた女をいつまでも忘れられないというが、それと同じことかもしれない。

 

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集―

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ブルックナー 交響曲第2番ハ短調

2019 MAY 21 23:23:55 pm by 東 賢太郎

このところ自宅のオーディオルームでブルックナーが定番で、いまこんなに幸せになれることはない。他の作曲家は気にしないが、ブルックナーには録音の良さが必須であって、部屋の空気ごと教会のアコースティックのように広々と深々と包みこんで欲しい。10年のあいだ同じ部屋で同じ装置を聴いているのは飽きっぽい僕にとって異例のことで、アンプやスピーカーを替えてみようと思わないのはブルックナーサウンドで満足できているのがひとつの要因だ。

ブルックナーの交響曲で最も関心をそそられるのは2番である。好きなのは5番であり次いで最後の3つになるが、「関心」ということだとそうなる。そもそも素人にスコアなんかいらないが、耳で聞いていてあれっと思った時に英語の辞書を引く感じでその箇所の音符を探して好奇心を満たす程度の需要は僕にはある。ブルックナーということでいうなら、引いた回数がたぶん一番多いのは2番だという気がする。何故かはわからないが、それはとりもなおさず大好きな曲であり、面白い音がするからだ。2番が好きなファンはけっこう多いのではと思う。

アントン・ブルックナーはオーストリアはリンツ郊外の村アンスフェルデンの学校長の息子として教会でオルガン弾きとして修業を積み、当然のごとく敬虔なカソリック信者であり、都会の啓蒙思想やフランス革命の精神とは無縁の育ちの人である。19世紀人ながら18世紀的な環境に身を浸したまま大人になったというわけだが、それを田舎の野人というカリカチュアで見ては彼の音楽の本質はわからない。その育ち故、都会的で俗世間的なオペラに関心を持たず教会音楽からスタートして、純粋培養のごとく交響曲に行きついたという点が重要であり、その点で同時期のシンフォニストであるマーラーとは対照的な人物である。

彼を「培養」したバロック様式の教会というと、僕にとってのイメージだが、一般には華美壮麗と表現されるものであるがどこか異国の幻惑に満ちたおどろおどろしさもあり(参考・ブルックナー 交響曲第8番ハ短調)、あそこに行くと、これは日本ならば弘法大師・空海の真言密教だなあと感じる。金剛峯寺で野宿して恐ろしい体験をしている(秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて))のであれと重なってしまう。少年時代に暗い教会で、ああいうムードの中で、ひとりオルガンを弾いていればどうなるのだろうという点で僕は音楽以前に彼の人間性に興味がある。ブルックナーは純粋培養された音楽家だから面白いのだ。

その趣味が煎じ詰められたのが交響曲である。2番はベートーベンを意識していた時期(1872年)の作品だ。Mov1の第1主題が同楽章およびMov4のコーダで回帰する形式はフランクが交響曲二短調、ブラームスがクラリネット五重奏曲で採っているが前者は16年後、後者は19年も後のことだ。ワーグナーのライトモチーフを範にしたのかベルリオーズの幻想交響曲から採ったのか、いずれにせよ2番は循環形式の先駆的作品であり、ブルックナーの頭の中には交響曲作法の実験精神が渦巻いていたと想像する。彼の技法が斬新だという側面から評価する人は稀だし、彼の人間性も、スマートなウィーン人の目で記述されれば野人となるのだ。そうして現代においてもその「上から目線」で演奏されれば2番は習作の一群に属する作品となり、聴衆もそう思うようになってしまう。拙稿はそうではないという立場からの趣味の表明である。

まずはフランク、ブラームスを持ち出した主題からだ。楽章をまたいだ使用、再現だが、2番におけるその「循環主題」はMov1冒頭のチェロによるこれである。

半音階2つから始まるメロディーは循環して各所に顔を出すが、現れるたびに暗色の憂いを撒き散らす性質のものだ。非常に粘着力があり、たまらなく耳に纏わりつく。この主題は半音階和声進行を生む豊穣な母体だが、ブルックナーはそこに自身の語法を見出しつつあった。明らかにワーグナー由来のものだが次の交響曲のトリスタンのように出典が顔を覗かせたりということはまだない。

これにトランペットの信号音が続く。これも楽章を通して忌まわしい耳鳴りのように鳴る。Mov4にも再現するからこれも大いに循環性があり、全曲を締めくくるコーダにも重要な役割を演じるのだから循環主題(的なもの)が2つあると解釈するべきだと僕は考える。

一旦パウゼとなり、歌謡性のある第2主題、スケルツォ風の第3主題が続くが第1主題ほどの存在感はない。後の交響曲でも採用される3主題構造のソナタ形式を横軸に、循環主題と信号音という縦軸の構造を交叉させるという試みで、冒頭の霧の如きトレモロから発してMov1は徐々にexpansiveに空間を広げていくように感じる。ブラームスが交響曲第1番を完成する4年前にそういう曲を書いたという事実は音楽史であまりにも過小評価されている。ブルックナーは自身が育った教会音楽のparadigmの中から和声と形式論をもって交響曲のdimensionを拡大した。この楽章はその好例であり、初期の曲と言っても48才の作品だ。ちなみにマーラーはそういうことをしていない。

Mov2はベートーベンの交響曲第2番、第9番のアダージョの雰囲気と歌謡性を漂わせつつワーグナーの影響下にある和声を綴る逸品だ。後期3曲の精神的成熟はないが美しさにおいて何ら劣るものでもなく、ブルックナーの楽想の源泉をみる観があって興味深い。後期では目立たないファゴットが重要な役目を負うのも古典派の残滓であるが、同時に朗々と響くホルンソロは当時斬新であり、シベリウスの7番のトロンボーンソロを強く想起させる。

Mov3のトリオ主題もベートーベンのエロイカMov1の第1主題の音型である。

そこに自身の第9交響曲でスケルツォ主題となるリズムがまずトランペットの信号音で、そしてコーダでティンパニが先導してテュッティで現れる。

Mov4はベートーベンの運命リズムでハ短調の主題が現れる。再現部でこの主題が現れる部分は運命交響曲そのものの観を呈する。

Mov1循環主題が回帰してしばらくすると木管ユニゾンでこういう場面がやってくる。この2小節目からの下降旋律は(楽章冒頭Vn1の主題由来)がこのページでショスタコーヴィチ交響曲第7番の戦争主題(バルトークがオケコンで揶揄した例のもの)を、TempoⅠ前後のフルート主題(第2主題に由来)がショスタコーヴィチ交響曲第5番のMov4、いったん静まって小太鼓が先導して冒頭主題が戻る直前の部分に引用されている気がしてならない。同曲のMov1にはブルックナー7番の引用と思える部分がある(ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)。

Mov4の再現部に向かう部分以降コーダまでは調性が浮遊しそこにパウゼが加わるものだから曲想が甚だつかみにくい。初版の初演が「演奏不可能」とされた理由はそれだろうと想像するし現代でもこの曲が初期の習作と等閑視されがちな一因にもなっていると思われる。

実験精神と書いたがブルックナーはこのころ、主題を展開し曲想を変転させる繋ぎのパッセージを研究していたかもしれない(彼はまだそれの自在な発想を条件反射化していない)。例えばMov4終盤の激した和声の上昇パッセージには幻想交響曲が聴こえるし、ベートーベン交響曲第9番Mov1のコーダは新しい素材が低弦とFgのppで始まるが、それを導く和音4つのカデンツ(507-8小節、511-2小節)は2番Mov4のコーダ直前にLangsamerでTr、Trbが吹く和音にほぼそのまま引用されている。それの直前の弦楽セクションのピッチカートだけのパッセージはシベリウス2番にエコーしていると思う。

2番からシベリウス、ショスタコーヴィチが聴こえてくるのは僕の耳のせいかもしれないが、こういう所が面白い。20世紀を代表するシンフォニストご両人がそのジャンルの先達ブルックナーを研究しなかったとは思えない。ブルックナーの語法が熟達した後期よりも、模索期間、実験期にあった2番のほうが耳をそばだてさせる物があったということは十分可能性があるように僕は感じている。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

4番での1Vnの変更が納得できないカラヤンだがこの2番は最高。これだけ各楽章の主題、動機の意味を明晰に抉り出した演奏はない。トランペット信号音の扱い方、終楽章の運命主題再現部を聴いてもらえばわかる。既述通り僕は2番にベートーベンへの作曲家の意識の強い傾斜を観るが、カラヤンも同意見だったのかと思うほどやって欲しいことを軒並みやってくれている。本質を掴んだエンジニア的精密さと巨視的バランス感覚が両立した解釈は実に直截的で、棒が明確なのだろうBPOが最高のパフォーマンスで応えている。是非聴いていただきたい。1877年ノヴァーク版。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ウィーン交響楽団

ジュリーニは7-9番しか振っていないが最初の録音はこの2番だった。カラヤンは2番を実演で振っていないがあれだけできた。ジュリーニは恐らく実演でもやっているだろうし、自家薬籠中の演奏がこの録音でも聴ける。2番が好きだったのだろうしご同慶の至りだ。指揮は確信に満ち、オーケストラも終楽章の和声の朧げなパッセージに至るまで「和声感」を明確に維持している。これがいかに困難なことか他の演奏ときき比べて頂けばわかる。さらにこの演奏の魅力として特筆すべきは聴衆なしのムジークフェラインザール の残響。誠に素晴らしい。こちらも1877年ノヴァーク版である。

 

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クレンペラーのブルックナー8番について

2019 MAY 9 21:21:43 pm by 東 賢太郎

クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管を振った最晩年のブルックナー8番というと、第4楽章の2か所のカットのせいで甚だ評判がよくない。ロンドン時代にお世話になった英国人ファンドマネージャーPさんはクレンペラーを高く評価していたが、あの録音にだけはやや辛口だった。1980年代のことだ。Pさんは僕より年齢は一回り上で、お客様というよりメンターであり、プライベートでは友人だった。エルガーのヴァイオリン協奏曲やら知らなかった曲はカセットにレコードを録音して教えてくれたりご自身の批評もくださった。第一次大戦前のドイツでキャリアの基盤を築いたユダヤ人であるクレンペラーを英国人がどう思っていたかということは思い返してみると興味深い。

数々の文春砲もののセックス・スキャンダルが知れ渡っているばかりでなく、クレンペラーは性格も相当変わった人だったらしい。敵も多かったそうだ。しかし、アイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学ダブルトップ(2学部首席)であったPさんのような英国人が支持していたのだ。「敵がいない者の取り柄は敵を作らないことだけだ」と言って。「同じユダヤ人でやはり敵が多かったマーラーがまず彼を認めたが恩人の交響曲を全部は認めなかったし、若きドイツ時代の十八番はカソリックのブルックナー8番だったんだよ」。この言葉を聞いて事の深さを知った。

問題のカットはショッキングなものだ。特に最初の方は、僕はそこが好きだから困ってしまうのだが、クレンペラーにとっては再現部への流れをシンプルにすることが大命題で、音楽的に素晴らしいだけにインパクトがありすぎる「無用の寄り道」だったと思う。2つ目もコーダにはいる脈絡において同じ判断をしたと考える。どのみちLPレコードで2枚組になるのだから録音上の制限時間の問題でないのは明白で、これはクレンペラー版として世に残すものだった。レコード(record、記録)とはそういうもので、エンタメの供給などではない。思索のステートメントを後世に残すものだ。「それが嫌なら他の指揮者を探せ」と録音は強行されたものの、商業的価値は低いと EMI 幹部は結論した。発売は断念され、このLPが世に出たのは彼の没後だった(売れなかったらしい)。天下の名門 EMI 相手に小物がそんな我が儘を通せるはずもない。日本の評論家はボロカスで何様だの扱いでありそうやって彼は敵を作ってきたのだろうが、そもそもブルックナー様やメンデルスゾーン様の楽譜を変えてしまう男の前に評論家もへったくれもない。僕はあのカットを支持することはできないが、クレンペラーという人間は支持する。

彼は曲を「それらしく」鳴らすプロではない。ブルックナーらしくといって、何がブルックナーなのか。NPOの録音に基本的にはノヴァーク版を採用したが、思い入れの殊更強かった8番のこれはシンバルを一発叩くかどうかというレベルの議論ではない。ノヴァークがクレジットできるならなぜ自分ができないかということだったと思う。例えば漱石を読んでいて、自分が「坊ちゃん」を朗読するならまず漱石はどうやっただろうと考える、解釈とはそういうことだ。聞けない以上は想像になるしかないが、それが「(楽譜を)読む」という行為である。「らしく」というのは読んでいる範疇にはない。万人にそう聞こえるだろうという表面づらをなでる欺瞞でしかなく、Pさんが看破したように八方美人は美人でもなんでもないのである。

クレンペラーが単に我が儘でそうしたのでないことは他のナンバーを聴けばわかる。4,5,6,7,9番において非常に意味深い、思考し尽くされた音楽が聴こえる。彼のモーツァルトのオペラの稿に書いたことだが、その演奏にリズム、ピッチ、アーティキュレーションを雰囲気で流したところは微塵もない。そのことと「モーツァルトらしく聞こえる」ことと、どっちが大事だときかれて後者と思う人は「他の指揮者を探せ」と本人の代わりにいいたい。そういう流儀でブルックナーをやるとこうなるのである。

 

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クラシック徒然草《名曲のパワー恐るべし》

2019 MAR 8 21:21:25 pm by 東 賢太郎

週末は久しぶりに音楽室にこもってました。体調も戻り、万事順調でストレスもなく、いよいよ3月になってプロ野球もオープン戦が始まりました。毎年心が沸き立つ時期ですね。

しかし、こもってなにしたかというと、とても暗い音楽、ブルックナーの交響曲第7番のアダージョ(第2楽章)とじっくりと付き合っておりました。この楽章はワーグナーが危篤の知らせのなかで書き進められ、ついに訃報に接しコーダにワグナーチューバの慟哭の響きを書き加えたのでした。深い魂の祈りのこもった音楽です。

音楽は楽しいものです。しかし「楽しい」イコール「明るい」ばかりではありません。性格の明るい人がいつでも楽しいわけではないですがそれと同じことです。人は誰しも喜怒哀楽、喜び、悲しみ、苦しみ、悩みを日々くり返しながら生きています。もちろん喜びに満ちていることがいつだって望ましいのですが、人生、あんまり喜ばしくない時間の方が長いのかもしれないなとも思います。

悲しみ、苦しみ、悩み、落胆、絶望にじっくりと寄り添ってくれる音楽。それは僕の知る限り、クラシックしかないでしょう。落ち込んだときに生きる力や勇気をくれる、それはあらゆるジャンルの音楽の持つ力です。しかし、いくら鼓舞されてもかえってつらいだけ、むしろ寄り添ってもらいたい、一緒に泣いたり、癒し、慰めをもらいたいという時はクラシックの出番なのです。そういうものは不要だという人もおられるでしょう、それは素晴らしいことでいつもそうありたいと思って生きていますが、どうも僕はそこまで強くはできていないようです。

私事でいえば、母は僕の大好きな音楽たちに包まれて旅立ちました。自分自身もそう望みます。悲しい曲はひとつもありません、どうしてもそうしてあげたいからそうなっただけです。僕にとってクラシックはそういうものです。それに比べれば些末なことですが、入試に落ちたとき、数日は目の前が真っ暗でしたが、そこで何回もかけたのはラフマニノフの第2交響曲のレコードでした。理由はありません、それに包まれていたかったということ、それだけです。

僕はそういう曲たちを学校とか誰かに習ったわけではなく、偶然に出会いました。そこから一生の伴侶になってくれている。人との出会いでもそうなのですが、だから大事と思う気持ちが半端ではありませんし、人生をかけてもっともっと知りたいと思う。そうやって深く知り合った音楽が100曲ぐらいでしょうか、ですから、60年もかけてそれということは、もうそれ以外は時間切れであってご縁がなかったと思うしかないでしょう。

そういう関わりあいを持ち始めると、不思議なことですが、何も悲しくないのに悲痛なアダージョが欲しくなるようなことがだんだん出てきます。寄り添ってもらって、一緒に泣いてもらって、救われる。これは喜びや快感とは同じではないのですが、生きていくのに大事な心の薬です。薬が効いてすっと痛みがひいた、その経験をくり返すと、痛みを思い出すのが苦痛でなくなり、あの苦痛がない今が幸せだと感じることができるようになります。これはこれで、喜びなのです。

インフルエンザになって、10年ぶりにウィルスの怖さを思い出しましたが、治ってしまった今はかえって健康のありがたさを実感して日々喜びを感じるという、そんなところです。そうやって、悲しい、暗い音楽は、だんだん僕の喜びへと変わってきました。それぞれの曲が、どういう時に必要でどう救ってくれたかは覚えてますので、それを今になって追体験することは苦痛を乗り越えた自分をタイムマシンに乗って眺めるようなものです。またできるなと自信になり、もっと強くなれます。

ブルックナー7番のアダージョには特別な思いがあります。僕ならではのおつきあいの方法があって、これにどっぷりつかるなら自分で弾いて同化してしまいたいという思いが強いのです。それをお勧めするわけではなく単に個人の流儀にすぎません、もちろん、聴くだけで充分です。

週末は、初めて、2時間ほど格闘して、アダージョを最後まで弾ききりました。ピアノを習ったことはなく無謀なチャレンジなのですが、音符はかなり間引いて、間違ってもつっかえても、兎にも角もにも完走するぞという素人マラソンの心持ちです。ついにワグナーチューバの慟哭がやってきて、昇天のような最後のコードを押さえたら、たぶん1分間ぐらいはじっとしたまま動けません、あまりの素晴らしい響きにほんとうに動けなくなってしまったのでした。

ちょうどそこで家内が部屋に入ってきて「食事に行くわよ」といわれなければ、1時間でもそのまま嬰ハ長調のキーを押さえていたいという、あんなことは人生初めてです。

この体験はなんだか宗教の悟りというか、何が悟りかも知らないでその言葉を使ってしまうのは不届きと分かっているのですが、しかし、ほかにうまい表現を知らないから仕方ないのです、自分を別な人間に導いてくれるようなものがこの曲にはあります。アウグスト・フォルスターの響きの色合いがワグナーチューバとホルンの合奏に聞こえて、こういう音が自分の指先から出るのも初めてです。悲しみは喜びにもなるのです。

まったくもって個人的な経験を書かせていただいてますが、音楽の喜びには最大公約数などなくて、おひとりおひとりの感じ方、フィーリング次第ですからそもそもとてもプライベートなものです。ブルックナーは嫌いという方がいていいですし、学校で一律に名曲だと教えるべき筋合いのものでもなく、むしろ食(グルメ)の楽しみに近いように思います。僕は煮物があまり得意でなく、日本人にとってそれは「名曲」なのは間違いないでしょうが、おいしいと思わないものは仕方ありませんし訓練して好きになるものでもないように思います。

だからブログに書いている曲は、単に僕が好みの料理や食材であってそれ以上でも以下でもありません。ただ、そこまで気合を入れて好きである以上はひとかどならぬ理由はあって、それを文字にしておくことでいつの日か、百年後でもいいから興味を持って聴く人がおられるかもしれない、それがその人にとっての運命の出会いになるかもしれないということです。あんまり世の中のお役に立つ人生を歩んでないですし、できるのはそのぐらいしかありません。7番のアダージョはそのひとつです、この楽章だけでいいのでじっくり付きあってみて下さい。

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ツァグロゼクのブルックナー7番(読響定期)を聴く

2019 FEB 23 1:01:30 am by 東 賢太郎

指揮=ローター・ツァグロゼク

リーム:Ins Offene…(第2稿/日本初演)
ブルックナー:交響曲 第7番 ホ長調 WAB.107

リーム作品は正直のところ僕にはよくわからなかった。リズム感覚が希薄であり音色勝負の曲なのだろうとは思ったのだが、アンティーク・シンバル(客席を含む各所の楽器群に配置され弓で弾かれていたらしい)の高いピーピーいう音自体が生理的に苦手なうえにピッチのずれもあってどうも心地よくない。ツァグロゼクは名前も知らなかったが、この手の音楽に熱心なんだと感心。

ブルックナーもあまり期待しなかったが、冒頭の弦の音に耳が吸い寄せられる。Vaの前あたり5列目で良い席ではなかったが、そこで良く聞こえるVa、Vcのユニゾンが素晴らしくいいではないか。1stVnの高音もいつにない音だ。ホルンとのブレンドも最高。サントリーホールで聴いた弦の音でこれがベストじゃないか?良い時のドレスデン・シュターツカペッレ、バンベルグSOを彷彿。去年のチェコ・フィルやクリーヴランド管の弦なんかよりぜんぜんいいぞ。指揮者とコンマス!Vaセクションは特に見事。

ツァグロゼクは暗譜で振っていたが全部の音の摂理を知り尽くしていること歴然の指揮。知らなかった、こんな指揮者がまだいてくれたのか!アンサンブルは整然だが第2楽章など音楽のパッションとともに内側から熱くなる。こんな演奏はここ10年以上ついぞ耳にしたことがない。Va、Vcの内声が常にモノを言っていて、型を崩さずに内燃するという欧州のドイツ音楽正統派オケの必須の姿である。こういう本格派オーケストラ演奏を聴けたのは幸運としか言いようもない、欧州時代を思い起こしてもカルロ・マリア・ジュリーニ以来のことである。ツァグロゼクは何才なんだろうか、僕がロンドンでジュリーニを聴いていたのは彼の70代後半だった。指揮者は何ら奇天烈なことをせずとも、やるべき大事なことがあるということだ。

かつてライヴで聴いた7番でベスト。本当に素晴らしい。読響も最高の演奏で指揮に応えたことを特筆したい。録音していたならぜひCDにしてほしい。ツァグロゼクに読響を年4、5回振ってもらうことはできないだろうか、ブルックナーを全曲やってもらうことはないものねだりだろうか。

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ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

2019 FEB 16 21:21:09 pm by 東 賢太郎

僕にとってときどき麻薬のように禁断症状があって欲しくなるのがブルックナーの第8交響曲だ。先週末にそれになってしまい、次々とかけた。カイルベルト、ベーム、ジュリーニ、ヨッフム、ハイティンク、バレンボイム。6時間以上どっぷりと8番漬けだが、こうなると1週間ぐらいは寝ても覚めても常時頭の中でこの曲のどこかが鳴っているという事態に陥る。実に常習性のある有機的でねちっこい和声プログレッションであり、ワーグナーが元祖であることは疑いもないが、ブルックナーのインヴェンションであることも同様に疑いがない。こういうものを書いた人は後にも先にもなく、どうしてこの人が自分よりはるかに才能のない弟子や友人の意見で右往左往してスコアの改定を重ねたのか常識的には分かりかねるが、8番初演の4か月後にマーラーへ送ったこの手紙を読めば手に取るようにわかる。

抄訳

「親愛なる友よ、私の作品への忍耐と勇気を持っていただいていることに心より感謝します。私の音楽を何十年もたってから理解するようなハンブルグのひどい聴衆と評論家に囲まれながらね。貴君にとってハンブルグでになにか耳新しいものをわからせるのは至難の業のはずです。ウィーンの評論家はふたり(ハンスリックととるに足らないもう一人)を除けばずっと進歩的ですが。堂々たる英雄であられるマーラー君、なにとぞこのまま私の側についていてください、特に4番(ロマンティック)を広めるために。8番はまだハンブルグには早すぎます(とはいえウィーンではかつてないことにそこそこ受けたのですが)。

(追伸)
ハンス・リヒターは8番をウィーンで初演して熱狂し、私をベートーベン以来のシンフォニストだと言ってくれています。ワーグナーも夕食の時にこう言いました、『絶対音楽でベートーベンとブルックナーに比肩できるのは自分しかいない』とね。こういうお言葉をもらうと心からほっとします。ハンブルグで亡くなったエドゥアルド・マルクスゼン、彼はブラームスの先生ですが、彼だって一度そういう趣旨の手紙をくれ、ほっとさせてくれたのです。」

この手紙は、マーラーを自分の陣営に取り込んでおきたい一心で書いた営業レターだろう。マーラーはこの手紙を受け取ったころ、ブタペストで初演した「巨人」の第2稿、および第2番「復活」を書いていたが、ブルックナーの目にはまだライバルのシンフォニストではなく、36才下でワーグナー作品上演に熱心な「ハンブルク州立歌劇場芸術監督、グスタフ・マーラー」であった。しかもオーストリア人でウィーン大学での教え子だ。ハンブルグはハンザ同盟の自由都市でプロテスタントだがドイツの都市ではユダヤ人が多く居住しており、そちらの人脈もある。

ウィーン生まれで1才下のエドゥアルト・ハンスリック(Eduard Hanslick, 1825 – 1904)というブラームス派の有力評論家はブルックナーの不倶戴天の政敵であったが、不安なことにハンブルグはライバルのブラームスの故郷であり、マーラーの前任者ハンス・フォン・ビューローはブラームス派だ。そこで「追伸」として師匠と慕うワーグナーの挿話を紹介したのだが、さらに足りない気がしてきたのだろう、「マルクスゼンも誉めてくれた」と追い打ちをかけ、しかも、ボヘミア出身のマーラーが知らないかもしれないと思ったのだろう「彼はブラームスの先生」であり「ハンブルグで亡くなった」とまでダメ押ししている。教え子であり作品に好意を持ってくれているマーラーだが、その好意が続く確信を持てておらず、敵方に寝返らないようお追従としつこいほどの権威付け情報満載で念を押しているのだ。これほどの支持基盤への不安が作品改定の理由となってシャルク版、ハース版、ノヴァーク版が生まれたのであり、このダメ押しの「くどさ」は彼の交響曲作法そのものでもあり非常に興味深い。

ブルックナーの交響曲のピアノリダクションはpetrucciで手に入る。有り難い時代になったものだ。僕は大学4年の夏にバッファロー大学に1ヶ月語学留学した折に図書館で火の鳥、シューマン第1交響曲のピアノリダクションスコアを発見して狂喜し、随分の時間と労力とお金をかけてコピーして帰った。今は何のことない、そんなものは家で15分もあればタダでプリントできるのだ。ブルックナーをピアノソロで弾けるなんて考えたこともなかった(難しい。8番は7番にも増して、非常に難しい)。余談になるが、この経験を通して僕は音楽著作権に問題意識ができた。物理や生化学の発明、発見にはノーベル賞が出るが数学にはない。数学は神が作ったものだからというらしいが、それならDNAの二重螺旋構造もそうだ。神が作った物理法則を駆使した青色発光ダイオードが発明なら音の周波数法則を駆使した作曲も発明ではないのか。主観的価値ではあるだろうが、では文学賞、平和賞は何なのか。辻褄が合わないのである。

人類に絶大な喜びを創造して残してくれたベートーベンやブルックナーの能力がアインシュタインやワトソン・クリックに比べて劣るとは思わないが、その評価をするのは後世なのだ。人は賞や教育の権威付けで動く。作曲という功績にそれが足りないというのが僕の認識だが、最低限の金銭的価値までが時限性があって、著作権が切れれば無料コンテンツと化して低俗なテレビ番組やコマーシャルのBGMに貶められてしまう現実には憤りを覚えるしかない。音楽の恩恵を人生に渡って享受した僕がその創造主である作曲家に感謝を捧げるのは人の道として当然であり、一聴衆としてしか音楽に関わりを持てない以上はブログでも書くしかない。

そうやっていまブルックナー8番について、この曲が素晴らしいというプロパガンダを書こうということになっているわけだが、彼の音楽というものはバロック様式の壮麗な教会のようなものだ。その空間に身を置いて五感で味わって初めてわかる「体験型音楽」であって、形式論的に構造をアナリーゼしたり、誰がどこをどう校訂した何々版が原典版とどう違うというようなことはあまり本質的な意味をなさないように思う。彼が少年時代に聖歌隊で歌い、オルガニストを勤めたザンクト・フローリアン修道院の内部の写真をご覧いただきたい。彼の演奏はこの空間の深い残響のなかにこだましていたのだという包括的なイメージをお持ちいただくことのほうがよほど大事だろう

この空間でブルックナーは交響曲の響きをどう発想したのか?下の録音はここでブルックナーが弾いたお気に入りのオルガンで第5交響曲について説明したものだ(彼はこのオルガンの下に葬られている)。彼にとってオーケストラの音響はオルガンであり、教会のアコースティックがどれほど不可分の意味を持っているか、それがブルックナーの楽曲の本質にいかに寄与するものかがお分かりいただけるだろうか。

次は大理石の広間をご覧いただきたい。フランスのルイ14世様式を範にしたドイツ語圏のバロック建築様式はしばしば装飾過多であることで知られているが、まさにその例だ。

大理石の広間

図書館は装飾過多をさらに逸脱し、混沌に踏み込んだ一個の壮麗な、見ようによってはグロテスクな世界すら確立している。ブルックナー体験を多く積まれた方は、これが彼の音楽のヴィジョンにどこか共鳴して見えないだろうか?

図書館

ブルックナーが「体験型音楽」というのは、そこに参加して佇(たたず)んでいればわかるという肯定的な意味と、総合的なヴィジョンがないとわけがわからないという否定的意味を含んでいる点においてワーグナーの楽劇に近い。バイロイト祝祭劇場で5時間じっとして「貴方は何を感じましたか?」と問われるようなものだ。僕はサッカーをスタジアムでは4、5回しか観戦していないから貴方にとってサッカーとは?と問われると「ミラノのサン・シーロで8万人のスタンドが揺れて怖かった」ぐらいしか出てこない。サッカー経験はなく知識も乏しいから、また行くとすればあの「揺れ」の興奮めあてになろう。バイロイトの聖なる密閉空間も体験型だ(一度で充分)。「そこに参加して佇む」ことに意義がある。マーラー、ブルックナーは第九と同様に客席が埋まるから供給サイドの人気演目だが、それは両方好きだという「百人超の大管弦楽大音響サウンドファン」もいるからだ。ブルックナーはハンブルグが俺の曲をわかるのに何十年もかかる(understand my works only after decades)と揶揄したが、あまり心配はいらなかった。

8番で最も人口に膾炙して猫にも杓子にも有名なところというと、おそらく第4楽章の入りだ。コサックの進軍を描いた前打音付きのユニゾンの弦の嬰ヘ音はクレッシェンドして ff になるが、僕には入りの p が耳の奥底ですでに響いていた幻聴のようににきこえる。再現部で不意にやってくる2度目は、さらに幻聴以外の何物でもない。

嬰ヘ音は耳が根音(ド)と錯覚するが、実はそうではなくミであり、つまりDの和音であって、ここでまず長3度下がった感じがする。この「長3度下げの麻薬」が楽章中にばらまかれる。次いでB♭m、G♭、D♭と移行するが根音はレ→シ♭→ソ♭とその麻薬の連発で、最後にレ♭と4度落ちてあたかもトニック然と着地するが、それは出発点のDの半音下であったという実に不思議な転調だ。こんなものがいきなり直撃するわけだが、12音音列のように理屈は通るが人口に膾炙しないものではなく、日本のTV番組のテーマソングに使われてしまうほど誰の耳にも「生理的に劇的な効果」がある。麻薬と書くのはそういう含みであり、それはこの楽章のコーダへ向けたクライマックスを pp で準備する非常に印象的な部分で葬列のように繰り返される。

麻薬の発明者はブルックナーではない。ベートーベンが愛用したのは有名だ(ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、悲愴ソナタetc)がそれは楽章単位のことで、8番のように小節単位で3回も連続技で繰り出すとなると効きが違う。ベートーベンが魅力的な和声のイノベーターだったとはあまり言われないし音楽の教科書にも書いてない。しかし例えば悲愴ソナタの第1楽章をご自分で弾いてみれば、実はそうだったと誰でも思うだろう。それに反応したのがワーグナーでありついにトリスタンという和声の魔宮を築いてしまう。それは機能和声的に「解決」しないという「寸止めの王国」であり、ブルックナーは機能和声的解決に聞こえるが「着地が少しズレた王国」を築いた。これはザンクト・フローリアン修道院のごとくオーストリアのバロック建築的だともいえる。

第4楽章はどういうわけか、僕には敬虔なカトリック教徒としてのブルックナーの信仰心ようなものよりも、彼が悪夢にでもうなされて観た地獄絵に近いものを感じてしまう。第2楽章の悪魔のダンスのような奇怪な楽想もそうだ。いつも思い出すのはルネッサンス期のフランドルの画家、ヒエロニムス・ボス(昔はボッシュと呼んでたが)の地獄と怪物の絵だ。

ヒエロニムス・ボス
祭壇画「聖アントニウスの誘惑」(リスボン国立美術館)

ボスの絵画は当時異端扱いされなかった(むしろ貴族に人気があった)が、宇宙の一環をなす人間、生物の本性を暴き出したリアリズムと受容されたのではないだろうか。僕はブルックナーにボスの如き神性と悪夢の両方を見てしまうが、ティーンエイジャーの女の子に70になっても求婚し続け、死と死体に病的な関心を持ち、自分が死んだら遺体に防腐処理をしてくれと遺言したこの大作曲家はその両面を持っていたように思う。彼は芽のありそうな10代の女の子の名がずらりと並んだリストを持っており、次々と求婚したがすべて失敗した。一度だけ、ベルリンのホテルメイドだったイダ・ブーツとついに婚約まで至った。人生の陽光だったに違いないが、破棄されてしまう。イダがカソリックへの改宗を拒んだからだった。彼はひどく傷ついて何度も鬱病の発作に襲われた。

ブルックナーは交響曲第8番のスケルツォを作曲するにあたってDer Deutsche Michel(ドイツのミヒェル)を想起したと語っている。それは日本では「野人」と訳されている。しかしドイツのミヒェルはドイツ帝国の擬人化で、英国のジョン・ブル、米国のアンクル・サムに相当する新興のドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)のアイデンティティ形成のための象徴的国民像であり、狡猾な周辺国に容易に騙される無知、天真爛漫で愚かしい男だが一旦怒ると手ごわいとでもいう国威発揚のイメージキャラクターである。野人より薩摩の「隼人」や土佐の「いごっそう」のコンセプトに近いと思われる。パルシファルを書いたワーグナーは「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と日記に記し、「古代末期にローマ帝国を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民だ」と論じているが、現代中国でどこへ行っても「自分は漢民族だ」という輩に遭遇するのと似たものだろう。ブルックナーのミヒェルはオーストリアのカソリックというアイデンティティの困惑であり、プロテスタントであるブラームスのハンブルグ、イダ・ブーツのベルリンとのコンフリクトのトラウマとそれに対する開き直りかもしれないと僕は解釈している。

Anton Bruckner (1824 – 1896)

ブルックナーは風采や言葉やマナーで田舎者扱いされた記録の枚挙にいとまがなく、8番でのDer Deutsche Michel発言に彼の属人的なキャラクターが混合して逆流し、彼自身が全人格的に野人だったというイメージが流布しているがそれは都市伝説だ。彼の頭脳は科学者のごとく怜悧で、敬虔な司祭であると同時にむしろmatter-of-fact-manであり、文学より和声法と対位法を駆使した有機体を生み出す厳格な作曲技法に関心があった人と確信する。もし聴き手が彼の楽想に神を感じるとするならば、それは彼のカソリックへの真摯な帰依に由来するのだろうが、それは天地創造の神と彼の創造する有機体が矛盾しないという信心においてmatter-of-fact-manである性格とも矛盾しない。彼の肥沃かつ鋭敏な調性感覚は真の意味で超人的であり、その点では同じ資質であったが文学に傾斜する性向もあったワーグナーへの傾倒はそこに起因しているだろう。神=作曲原理という保守性と、持って生まれた超越的な調性感覚が生み出す麻薬が彼の音楽を際立たせ、異教徒の我々までを陶酔させる。その結合が最高の完成度で達成された作品が交響曲第8番であった。

ヘルベルト・フォン・カラヤンが8番を初演したウィーン・フィルとザンクト・フローリアン修道院で演奏したものだ。

まるで8番のように長くなってしまったが、最後に、僕の8番体験のルーツとなった1983年のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、及び、1993年のギュンター・ヴァントに表敬したい。前者はここに書いたスクロヴァチェフスキーとの会話)。読響(2002年9月12日、芸術劇場)でも聴いた。こちらは亡くなる10か月前のベルリンでのライブ(ベルリン放送響)。実際に聴いた投稿者の方のコメントに共感する。

ヴァントのほうは場所がフランクフルト・アルテオーパーでオーケストラは北ドイツ放送交響楽団、1993年10月17日の演奏会であった。亡くなる9年前のこの頃がヴァントの最後の輝きだったと思うが、天国のように見事な8番であった。幸い同年12月のハンブルクにおける北ドイツ放送響定期でのライヴ録音がCDになっており、腰が曲がっていたが振り始めると矍鑠とした指揮台の姿を思い出す。彼の8番は複数あるがこれがベストだ。

 

クラシック徒然草-ブルックナーを振れる指揮者は?-

クレンペラーのブルックナー8番について

 

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