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カテゴリー: ______ラヴェル

僕が聴いた名演奏家たち(サー・チャールズ・グローブズ)

2017 JAN 14 22:22:35 pm by 東 賢太郎

音楽は浮世離れしたものではありません。演奏家は生身の人間であり、その人となりが演奏に現れるものですが、ごくまれに教わることもあります。この演奏会はまさにそれでした。

grovesバービカン・センターで聴いたラフマニノフの第2協奏曲、指揮はサー・チャールズ・グローブズ(ロイヤル・フィルハーモニー管)、ピアノはピーター・ファウクでした。1986年1月13日、ちょうど今ごろ、シティに近いホールなのでふらっと行った特にどうということない日常のコンサートでした。

第2楽章、ピアノのモノローグに続いてフルートが入りそれにクラリネットがかぶさりますが、どういうわけかクラが1小節早く入ってしまい会場が凍りついたのです。指揮台のグローブズの棒が一瞬止まりましたが、ここがすごかった。慌てず騒がず、木管のほうに身を乗り出して大きな身振りでテンポをとり、クラが持ち直して止まることなく済みました。

13338_2あのとっさの危機管理はなるほどプロだなあ、大人の対応だなあと感心しきりでした。サー・チャールズ・グローブズ(1915-92、左)、温厚なご人格もさすがにサーであります、終わってオケにやれやれとにっこりして、きっと楽屋でクラリネット奏者にジョークのひとつでも飛ばしたんだろうなという雰囲気でした。これがトスカニーニやセルやチェリビダッケだったらオケは大変だったろう。英国流マネージメントですね、指揮者は管理職なんだとひょんなことで人生の勉強をさせていただいたのです。

 

グローブズはボーンマス響、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団のシェフを長く務め、イギリス人でマーラーの全交響曲チクルスを初めて振った人です。

このアルゲリッチとのビデオに人柄が出てます。

チャイコフスキー2週間で覚えたわ、それであれ2回目の演奏だったのよ、コンサートの2日前になって練習1回でやったのよ~、よく覚えてないんだけどお、練習時間にぎりぎりで前の夫のデュトワの車でね~、でもワタシ何としてでも止めようとしてたの、遅れちゃえばいいって思ってたのよ、だっておなかすいてたんですもの。でも彼はどうしてもやりたかったのね、そうしたらポリスがいてね彼ぶっ飛ばしちゃってね~、つかまっちゃったのよ、考えられないわ、ハハハハとラテン色丸出しのアルゲリッチ。かたや英国紳士を絵にかいたようなグローブズ。こりゃ合わないでしょう。

そこでサーはさりげなく子供のことに話題をふっておいて、いよいよ、

「さて、ところで、僕が指摘したちょっとしたことで君をチャイコフスキーに戻さなきゃいけないよ。君のオクターブのことだがね、わかってるかな」

「あ~はい、わかってます、テンポですよね~ハハハ」

「そうだ、あそこのフェルマータね、僕は速くできない、だから君も速すぎちゃいけないよ」

<リハーサル。アルゲリッチめちゃくちゃ速すぎで止まる>

「でも、いざワタシの番だってなると緊張しちゃうんです~、それで~、でもワタシ、スピードこわくないじゃないですか」

880242798589「そうだね、それが君の問題だねえ」

<本番。やさしそうに語ってたグローブズはちっとも妥協せず、問題個所のテンポは全く変わっていない。が、アルゲリッチもあんまり直ってない>。これはDVDになってます(右)。

 

こっちは小澤征爾さんとラヴェルです。

楽屋で靴が壊れてるとさわぐこのきれいだけどぶっ飛んだお姉さんに合わせられる。英国紳士には無理でしょう。我が小澤さん、さすがです。「(練習より)20%速かったよ」だからますます尊敬に値しますね。世界に羽ばたく人はこのぐらい危機管理能力がないといけないんでしょうね。

グローブズ卿は英国音楽の重鎮でありこのCDが集大成となっています。

groves1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

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クラシック徒然草ードビッシーの盗作、ラヴェルの仕返し?ー

2016 AUG 14 21:21:29 pm by 東 賢太郎

ドビッシーとラヴェルといえばこの事件が有名である。『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」が自身が1895年に作曲した「耳で聞く風景」(Les sites auriculaires)の第1曲「ハバネラ」に似ているとしてラヴェルがクレームし、両者は疎遠となったらしい。

これがラヴェルのハバネラである(後に管弦楽化して「スペイン狂詩曲」第3曲とした)。

こちらがドビッシーの「グラナダの夕暮れ」である。

そんなに怒るほど似ているだろうか? リズム音型は同じだがハバネラ固有のものであってラヴェルの専売特許というわけではないだろう。僕には第2曲「 鐘が鳴るなかで 」(Entre cloches)のほうがむしろドビッシーっぽく聞こえるのだが・・・。

ラヴェルの母親はスペイン系(バスク人)である。バスクというのはカスティーリャ王国領でポルトガルにほど近く、「カステラ」はその国名に由来するときく。フランシスコ・ザビエルもバスク人だったし、コロンブスを雇ってアメリカ大陸を発見、領有した強国であった。

曲名にあるグラナダというとアルハンブラ宮殿で有名なイスラム王朝ナスル朝の首都だが、カスティーリャはアラゴンが同君連合となって1482年にグラナダ戦争を開始、1492年にグラナダを陥落しレコンキスタは終結した。バスクの人々には万感の思いがある地であろうことは想像に難くない。

「スペイン狂詩曲」(1908年)に結集したように、ラヴェルの母方の血への思いは強かったと思われる。かたや「グラナダの夕暮れ」作曲当時のドビッシーはスペイン体験が一度しかなかった。気に障ったのは盗作ということではなく父祖の地へ行ったこともない者が訳知り顔して書くなという反感だったのかもしれない。

非常に興味深いことに、「夜のガスパール」の第1曲である「オンディーヌ」はこういう和音で始まる。

gasare

嬰ハ長調トニック(cis・eis・gis)とa の速い交替だ。ところがさきほど、敬愛してやまないドビッシーの「海」をピアノでさらっていたらびっくりした。

mer言うまでもない、これは曲の最後の最後、ティンパニの一撃で終わる(何と天才的な!)その直前の和音。変ニ長調トニックとhesesの速い交替だ。これは平均律のピアノでは「オンディーヌ」の和音と同じものなのである。オーケストラでは気がつかなかったが、弾いてみればどなたもが納得されよう。

交響詩「海」は1905年の作品である。水を素材にした作品だ。クライマックスの爆発で天空に吹き上げた水しぶきが、水の精であるオンディーヌの不思議の世界にいざなってくれる。彼女の化身がメリザンドでなくてなんだろう。

偶然でなければうまい仕返しをしたものだ。

スペイン狂詩曲を完成したのが1908年、「夜のガスパール」も1908年。偶然なのだろうか?

ドビッシーはこれを聴いており、音楽家の耳は同じ和音に気がついただろうが、盗作だなんてクレームはできない。リズムも和音も専売特許ではないし、そういうことをしそうな男でもなかったようなイメージがある。

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-ドビッシーの母-

 

 

 

 

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クラシック徒然草-ドビッシーの母-

2016 AUG 14 2:02:02 am by 東 賢太郎

「こんな汚辱の子を育てるより、蝮を生んだ方がましだった」

(ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー)

 

パリ音楽院の学内コンクールに2回連続で失敗し、ピアニスト志望を断念してしまった息子に失望した母はこう言い放ったらしい。こわっ、すごい教育ママだ。

我が国も子供を東大に入れたといって本まで書く人がいて、それが売れてしまったりするのだから教育ママはたくさんいるのだろう。オリンピック選手を育てたらずっと偉いと思うが、しかし、メダルをのがして母親にここまで言われたら息子は立つ瀬ない。

debussy5それで女性観が曲がってしまったかどうかは知らないが、のちにドビッシーはいくらゲージュツの世界と割り引いたとしても女性関係において破茶滅茶となり、女が2人も自殺未遂をしている。この道の「オレ流」では大御所、大魔神級であるワーグナー様と双璧をなすであろう。

彼の伝記、手紙を読むに隆々たる男原理が貫いており、学業においてもセザール・フランクのクラスを嫌って逃げ出すなどわがまま放題。ラヴェルが5年浪人して予選落ちだったローマ賞に2浪で見事合格したが、イタリアが嫌で滞在期間の満了前にパリに戻ってしまう。

ドラッカー曰く「他人の楽譜の翻訳家」である演奏家(ピアニスト)を落第し、わがままに自説を開陳できる作曲家になったことは、彼の母親には不幸だったが我々には僥倖だった。それは親や教師や伝統の不可抗力の支配からのがれることであり、本能が是とする道をまっしぐらに駆け抜けることを許容したからだ。

彼の音楽は僕の眼にはまことにますらお的、男性的であり、ラヴェルは中性的、ときに女性的だ。これは大方の皆様のご意見とはおそらく異なるにちがいない。ドビッシーの「月の光」や「亜麻色の髪の乙女」は女性的じゃないか、女性の愛奏曲だし、ドビッシー好きの女性はたくさんいるよという声がしそうだ。

そういうことではない。男が男原理で作ったものを女性が嫌うという道理などなく、むしろ自然の摂理で女性の方が寄ってくるだろうし、うまく解釈するかもしれない。ここで僕が観ているのは作曲するという創造行為の最中にあるフロイト的な心の深層みたいなものだ。

僕は好きな音楽とは作曲家のそれに自分の心の波長が同期するものだと感じている。心地よいのは音ではなく心の共振なのだ。それがなければ音楽は他人事、絵空事にすぎず、うわべの快楽をもたらす美麗な音の慰み物か物理的な音の集積か雑音にすぎない。良い演奏とは、曲と演奏家が共振したものをいうのであって、それが存在しないのに聴衆が曲と共振するのは無理な相談だ。

ラヴェルとドビッシーの根源的な差であるのは、ラヴェルには自分の書いた音が聞き手にどう「作用」するかという視点が常に、看過できないぐらい盛大にあることだ。得たい作用を具現する技巧にマニアックにこだわる「オタク」ぶりは大変に男性的なのだが、どう見られるかという他視点への執着という特性は基本的に、化粧品の消費量と同様に女性によりア・プリオリに所属するものなのだ。

一方でドビッシーの我道、我流ぶりは「ペレアスとメリザンド」、交響詩「海」において際立った立ち位置を確立し、そこに移住してしまった彼は音楽院の教師ども、パリのサロンや同僚やモーツァルトの愛好家たちがどのような視線を送るだろうかということを一顧だにしていないように見える。

その態度は、後に彼が否定側にまわることになる「トリスタンとイゾルデ」をワーグナーが発表した態度そのものであるのは皮肉なことだが、ペレアスがトリスタンと同等のマグニチュードで音楽史の分岐点を形成したのは偶然ではない。全く新しい美のイデアを感知した脳細胞が、他視点を気にしないわがまま男原理で生きている人間たちの頭にのっかっていたという共通点の産物だからだ。

そして、「海」における、微分方程式を解いて和声の色の導関数を求めるような特異な作曲法というものは、音楽にジェンダーはないと今時を装ったほうが当ブログも人気が出るのだろうが、残念ながら真実の心の声としてこういうものが一般論的に女性の頭と感性から生み出されるとは考え難い性質のものであることを僕はどうしても否定することができない。

「亜麻色の髪の乙女」は夢見る乙女みたいに甘く弾いても「美麗な音の慰み物」には充分なる。それはBGMやサティのいう「家具の音楽」としてなら高級品だが、ドビッシーを導いた男原理から見ればバッタものだ。困ったことにその手の「うわべの快楽」にはいっぱしの市場がある。そうやって前奏曲集第1巻を弾きとおすことだって可能だし、そういう演奏が多くCDになって出てもいる。

しかしそれをヴェデルニコフやミケランジェリのCDと同じテーブルに並べて比べることは音楽の神の冒涜に類する行為である。裁縫師だったドビッシーの母は 1915年まで生きたそうだが、ペレアスや海を聴いてどう思ったのだろう。

(補遺、15 June17)

バッタ物でないドビッシーの例がこれだ。作曲家をパリに訪ね、ピアノを聞かせて評価され4か月も私淑を許された米国人ジョージ・コープランドの「沈める寺」をお聴きいただきたい。僕はこの曲がどう弾かれるべきか、この非常に強いインパクトを持つ録音で初めて知った。現代のピアニストはドビッシーの pp の意味を分かっていないか、少なくとも実現できていない。そこから立ちのぼる ff は騒音に過ぎないのである。

 

「東大脳」という不可思議

 

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完全主義という困った性格(ミケランジェリの夜のガスパール)

2016 JUL 22 12:12:01 pm by 東 賢太郎

自分の性格で困るのは完全主義ということです。A型に多いらしく、だから日本人に多いのかもしれませんが、僕の場合、それは関心事においてだけのことで、それ以外はむしろ「積極的に無関心」というのがより困るのです。

まず身の回りのことは無関心の代表格で、大変に苦手です。小学校で教室の大そうじのとき、自分なりにやってるつもりが女の子に「あずまくんはじゃまだからどいてて」と外に出されてしまいトラウマになってます。見かねた親がカブ・スカウト(ボーイスカウトの小学生版)に入れましたが何ひとつ興味をひかず、思い出は飯盒炊飯で食べたカレーがうまったぐらいです。

これを自己分析してみると、万事まずは右脳が好き嫌いを独断で決め、嫌いだとそこでスイッチ・オフ、好きだと初めて左脳が登場するという感じです。問題は左脳が細かいヤツで、こいつが完全、パーフェクトを求めてしまう。それに満たないと元に戻って、結局スイッチ・オフ、という回路があるようです。完全主義の人が皆そうなのかどうか、これは関心のあるところです。

音楽を聴いて困るのは、技術的にパーフェクトな演奏がないことです。人間がやることですからね。僕がどうしても楽譜を見てしまうのは、そこで頭に鳴る音楽は無傷だからかもしれません。では機械やシンセが弾けば好きかというと、それはない。人間がやってこそ伝わるものは右脳の好き嫌い回路で「好き」となる絶対条件だからややこしくなります。

つまり、人間らしさは欲しいが機械みたいに正確にやってくれ、と無意識に求めてる。これはかなり矛盾があって無理難題なのですね。

僕が「完全」と思う要素のうち音程(ピッチ)とテンポとリズムが英数国みたいな主要3科目です。どれが欠けてもアウト。しかしこの3つは優れた演奏にはあまりに当然のことであって、野球ならキャッチボールです。これが下手でプロになるのはあり得ないファンダメンタルズです。

以前に弦楽器のピッチ、ことにミとシの問題を書きました。経過句は大家でも弾き飛ばしがあるとも。これに神経の通う人は、しかし、往々にしてパッションが落ちてしまう。かくも人間らしさは正確さと相容れにくい。だから両立した演奏家を見つけると、ウルトラ・レアものですからね、僕は平静でいられない。ユリア・フィッシャーはそのひとりで、10月15日の来日公演を心待ちにしているのです。

以上は僕がブーレーズのストラヴィンスキーやトスカニーニのベートーベンに魅せられてクラシックに入門した経緯を極めて合理的に説明します。そういう人間だったから僕はクラシック好きになりました。作曲家にしても、まず右脳がはねてしまった人、それは聴き始め最初期に起きてますが、それが50年たって好きになったことはほぼありません。かたや演奏の完全性においてはやや基準が低くなって、人間らしさの比重が多めでも(つまりミスがあっても)いい、そのぐらい人間性は感動の源泉になることは学習してきました。

ブーレーズに人間性があるか?あります。それは春の祭典の最初のオーボエの小粋なフレージングや、古風なメヌエットの最後の審判みたいにドスのきいたティンパニの打ち方など、そこかしこにある。日本的な人間性、飲んだら意外にいいおやじだったみたいなものではなく洗練、知性、均整といったものですが、それは超絶的な美人が一見冷たく人間離れして見えてもあくまで人間であるかのようにヒトの一側面なのです。

その人間性というものが合うかどうか、こっちも人間だから大きな要素になります。ヒトの相性です。これは右脳だから理屈はないのであって、作曲家も演奏家も合わない人は合わない、だから聞かない。それだけです。クラシックは名曲ざます、全部いいと思わなきゃいけませんよ、思わないのはあんたがだめなのよ、ねっ、楽聖、音楽の父、交響曲の父・・・なんて音楽の授業、そんなのなんぼのもんやねんと反抗して通信簿2をつけられた僕は思うのです。

音楽の先生より僕の完全主義はずっと厳しいものなので、クラシックのレパートリーはほぼさらいましたが「いい演奏」というのがいかにないかという限界に当たっています。ピアノも弦楽もオーケストラもオペラも。

ピアノで言いましょう、僕はかつて実演で完全、完璧なピアノ演奏というのを聞いた記憶はありません。唯一近かったのがロンドンで聴いたミケランジェリのショパンとドビッシー。知情意と技術の両方においてあれほどの高みに達したものはありません。どちらも感情が高ぶる音楽ではないのでクールに冷静に聴いていたわけですが。

次いで、やはりロンドンでのポリーニの平均律第1巻、リヒテルのプロコフィエフ。やはり淡々と聴いていて、精神にくさびを打ち込まれたと感じるほど打ちのめされた体験でした。ピアノというのは音程の問題がないのでよりテンポとリズム、フレージングに気が回るのですが、この3人のような技術が少なくともないと立ちのぼらせることのままならぬ世界が確かに在って、現場でそれに立ち会えるというのは僕ぐらいの頻度のコンサートゴーアーでは奇跡のようなものです。

録音でそれを感じるのはなかなか難しいですが、こんなのはどうでしょう。

まったく奇跡のように素晴らしい。これをライブで聴いたらいかほどのものだろう。なにしろミケランジェリも完全主義者だなあということがビンビン伝わってくるから僕などほっとすらします。よく耳を澄ませて聴いてください。これは99%完璧な「夜のガスパール」だ。完璧さが興奮をそそるという、すべての演奏の99%でありえないことがおきている物凄い演奏であります。

彼はラヴェルをなんでも弾いたということはないのですが「夜のガスパール」は十八番だったようです。寡聞にしてこの録音は知らずブログの推薦盤にも入ってませんが、あの日のドビッシー(前奏曲第2巻)を思い出した。これをこれだけ弾ける人は現存するんでしょうか?

 

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ヘンリー・マンシーニ 「刑事コロンボのテーマ」

2015 DEC 15 23:23:22 pm by 東 賢太郎

mancini1前回にMistyでご紹介したイタリア系アメリカ人作曲家のヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini、1924-94)は誰でも知っているテーマを紡ぎだした名人であります。美しい旋律を書けるというのはひょっとしてどんな複雑な楽曲を作るよりも希少な才能なのではないでしょうか。

最も有名なのはこれでしょう。『ティファニーで朝食を』(1961)の挿入歌「ムーン・リバー」(Moon River)です。原作ではオードリー・ヘップバーンが歌うのですが僕はこのアンディ・ウィリアムズの美声で覚えましたね。小学校低学年でした。

こっちも誰でも聞いたことがあるでしょう。ピンク・パンサー(1963)のテーマです。これはジャズっぽいですね。

マンシーニはジュリアード音楽院に学んでいますが、チェコ系のオーストリア人、エルンストクシェネク(Ernst Křenek )の弟子であります。この人はグスタフ・マーラーの娘アンナ・ユスティーネと結婚しており、マーラーの交響曲第10番遺稿から第1,3楽章の校正・改訂を行なっています。マンシーニはばりばりのクラシック本格派の教育を受けているわけですね。

ちなみにクシェーネクのピアノソナタ第3番はグレン・グールドが弾いたスタジオ録音の名盤があり、このライブ録音の透明感とタッチはさらに素晴らしい。しかし作曲者はグールドの解釈を嫌ったそうです。

さて、僕が好きである刑事コロンボのテーマですが、これもマンシーニ作曲なのですね。ところが当曲はコロンボだけのテーマではなく、NBCミステリー・ムービー(NBC Mystery Movie)というTVドラマ枠のテーマで、コロンボは同時間枠に放映されたいくつかある作品のひとつのようです。

コード進行はこうです。

G/Am/D/G/Em/Am/D7/G/ G/Am/D7/E7sus4/E7/Am/Cm/Gmaj7/E7sus4/E7/Am(on g)/D(on G)

曲締めのインパクトあるAm(on g)/D(on G)ですが、ラヴェルのクープランの墓(メヌエット)の結尾の和音とそっくり(というか調までまったくおんなじ)ですね。

couperin

マンシーニもこれを愛奏してたんじゃないかと想像してしまいます。

ついでに、このメインテーマを弾いている電子楽器はオンド・マルトノで、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」で大活躍します。

 

(こちらもどうぞ)

ラヴェル 「クープランの墓」

メシアン トゥーランガリラ交響曲

クラシック徒然草-作曲家が曲をどう思いつくか-

 

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ラヴェルと玉三郎

2015 OCT 25 14:14:52 pm by 東 賢太郎

tamasaburou坂東玉三郎の阿古屋(左)が3つ目に弾く楽器が胡弓です。三味線をチェロのようにたてて太めの弓で弾くというに近いですが、音域はヴァイオリンぐらいで中国の二胡とちがって三弦です。面白いのは、チェロは弦を変える時に右腕の角度を変えますが胡弓は楽器を回して角度を変えるのです。

チェロは僕がプロにちゃんとレッスンを受けた唯一の楽器ですが、左手で音を正しく取る以前に右手(弓)のほうが難物でなかなかちゃんとした音が出ません。それを思い出すと玉三郎はさすがで弓も音程も良く、チェロも弾けるんだろうなと想像させるものがありました。

彼のバイオを調べると、やはりやってるんですね、ヨーヨー・マとの共演を。新派、現代劇、映画、演出、クラシック、バレエとカバレッジが広く、「演技」というものを「感受」、「浸透」、「反応」の3つの過程が必要と解析する理論派であり、歌舞伎役者は数多のタレントのひとつなのかと思わせるスーパーマンですね。

関心をひいたのは1988年にはヨーヨー・マらの演奏によるラヴェルの「ピアノ三重奏曲」で創作 舞踊を上演したとあることです。アバドのピーターと狼のナレーションもしてますがこれはご愛嬌として、ラヴェルに彼がどんな踊りをつけたのか、これは大変に興味のある所です。

ラヴェルと女形、じつに合いますねえ。触れると壊れそうな、野卑と無縁の、究極まで洗練された、これは玉三郎の世界かもしれない。ラヴェルの本質は女性だ、と以前に書いたと思いますが、女を男性が演じているという風に言ってもいいですね。あんな女性は現実にはいないだろうというほどエッセンスを抽出したフェミニンな美。

ラヴェルは時に野卑を演じようとするが、あれはちっとも野卑ではなく、作られた形だけ。逆に女の男役を感じます。だからユニセックスかというとそうではなく、玉三郎さんのTV番組での素顔を拝見すると、女はあそこまでオタク的こだわりはないでしょうという域にあるのですが、やっぱり男性です。ラヴェルはそれに似ているかもしれない。

そのラヴェルの「ピアノ三重奏曲」イ短調、第1楽章です。これの全曲をやったのか一部なのか不明ですが、この素敵なたたずまいと玉三郎はあいますねえ。

 

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ちなみに上掲はリヒテル(pf)/カガン(vn)/グートマン(vc)による83年のライブですが同曲の最右翼の名演奏であります。3つの楽器のバランスが理想的で、カガンの美音が冴えまくり、埋もれがちなチェロもグートマンが見事に拮抗しています。そしてリヒテルのピアノのすばらしさには言葉もなし。このCDは何かが憑りついたようなイベントの記録という感触です。

 

(補遺、3月13日)

玉三郎、これも似合うかな。

ラヴェル ヴァイオリン・ソナタ

ピエール・ドゥーカン(vn)/ テレーズ・コシェ(pf)

doukan122フランスの洗練と品位のかたまりみたいなラヴェル。奇矯な和声もどこか伝統の風味に包まれ、ブルースを模した第2楽章までラヴェル化している。イギリス、ドイツに住んでいたころ、車でフランスに入るとマジックみたいにぱっと景色が明るく、畑が黄色っぽく肥沃な感じになる。パリの展示会で流れてたドビッシーのフルート、ヴィオラ、ハープのソナタ。悔しいけどかなわない。ニューヨークのインベストメントバンカーの鼻っ柱を折るのはパーティーでフランス語で話すことだと友人が言った。むべなるかなという演奏だ。でも同じほど深い文化の蓄積は日本にだってあるぜと誇りたくなる。

 

(こちらもどうぞ)

時の流れを何かで埋めたい

シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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ラヴェル「水の戯れ(Jeux d’eau)」

2015 OCT 6 9:09:55 am by 東 賢太郎

本稿はこの稿の続編となります。こちらをご覧ください。

クラシック徒然草-リストの「エステ荘の噴水」をどう鑑賞するか-

「エステ荘の噴水」が影響を与えた曲として語られるものはいくつかありますが、これが最も直截的なひとつかもしれません。

ラヴェルはピアノにコンプレックスがあったとされます。14才で難関のパリ高等音楽院ピアノ科に入ったはいいのですが練習嫌いで、母親が練習したら小遣いを与えていたほどです。成績は悪く卒業試験に落第して20才で退学しています。それならこっちでと作曲科に入りますが、作曲家の登竜門である「ローマ大賞」に挑戦するも毎年不合格となります。結局、25才になっても落ちたためとうとう除籍になってしまったのです。ベルリオーズ、ビゼー、ドビッシーがローマ賞を取ったエリートだったのに比べなんとも冴えないスタートでした。

その翌年に書かれたのが「水の戯れ」でした。この天才的な曲が理解されなかったのはサン・サーンスが「不協和音に満ちた作品」と酷評したことに象徴されます。彼は春の祭典の初演で冒頭のファゴットを聴くなり「あれは何という楽器かね?」といって3分で帰ってしまった保守主義の男です。パリ音楽院の教授連はそういう石頭がそろっており、結局ラヴェルは10年も浪人してローマ賞の予選通過すらできなかったことから「ラヴェル事件」として逆に有名になりました。そこまでオレ流を貫きとおしたのはあっぱれであります。

220px-Maurice_Ravel_1925 (1)ラヴェルは母親がスペイン(バスク)系、父はスイス人で純粋なフランス人ではなく、想像ですが事件はいじめの要素もあったかもしれません。身長も西洋人にしてはかなり低く161cmでした。ベートーベンも165cm前後、モーツァルトが150~163cm、ワーグナーが160cm以下(諸説あり)ではあったのですが浮名はたくさん流しました。しかしラヴェルはマザコンが強く女っ気がほとんどなし。ホモ説も根強く、ストラヴィンスキーとできていたという説もある。第1次大戦は戦地へ行く気満々でパイロットに志願したが虚弱であり、任務はトラックの運転だった。

彼の手は固くオクターヴが苦手だったそうで、クープランの墓のトッカータや夜のガスパールのスカルボは弾けなかった。自分で弾けない曲を作ろうというのもラヴェルらしい。他はだめなんだから彼は音楽に専心したわけで、しかしそこでもピアノは落第だった。この楽器に屈折した気持ちがあったのではないでしょうか。だから彼はピアノのチャンピオンであるリストを範として誰の曲よりも難しい曲を作ろうとしました。そういう意識の一環として「エステ荘の噴水」のきらめくような水の飛翔から「水の戯れ」「オンディーヌ」「海原の小舟」などを発想したと思われます。「夜のガスパール」より第1曲オンディーヌをお聴きください。

僕は「エステ荘の噴水」に権力、神性へのリストの感情を聴きとるのですが、しかしラヴェルにはそうした心象や主観の表出は一切なく、ただひたすらリストが水を描写した新しい技法をきわめ尽くし、彼一流の和声にまぶして水が動き飛び散る風景を描ききります。主観はなく抽象、客観に徹しているところが実にラヴェルであります。彼は感情をかくして生きたのかと思うほど音楽に生身の人間を感じさせません。2つのオペラも人間の体温のようなものは希薄であり、ダフニスとクロエはギリシャの壁画の人物のように擬人的です。彼の部屋の調度品はどこか女性趣味であり、服装はダンディではあるがむしろスカーフなどきれいなもの好きだったのではと思わせるイメージがあります。

自分だけのおとぎの国にこもって暮らすひきこもりの少女みたいな感じがある。その音楽は彼にとってきれいなものだけで出来上がっている不可思議な素材感がきわだっていて、特に和声がそうです。「クープランの墓」は比較的透明で平明な和声で書かれていますが、「フォルレーヌ」に散りばめられたそれは甘味と苦みが合わさった、他の作曲家からは一切聞くことのない不思議なテーストがあるのです。僕の印象では同世代の革命家ドビッシーとも似たものではなく、むしろジャズの自由な和声の方に親近性を感じます。

フォルレーヌをルービンシュタインでお聴きください。

そういうラヴェルらしさが初めて世に問われたのが在学中の作品である「水の戯れ(Jeux d’eau)」でした。作曲家の先生であったフォーレに捧げられましたがテーストのまったく違う先生も困ったでしょう。僕はこの曲は見事な和声に耳が行ってしまって、自分で弾けるわけでないのでピアノの書法については鈍感に聴いていましたが元祖のリストと聴き比べてみることでそれがよく理解できました。この曲は噴水を描写したものかどうかはわかりませんが、リストの噴水からインスピレーションを得たということで前回皆さまに考えていただきたいと投げかけた問いをもう一度繰り返します。

プロレタリアートの子が噴水という権力の権化に接してどう思ったか?そこに何を感じ取り、どう音に描こうと思ったか。水しぶきのきらきらした輝きという表面的なものなのか、その裏にある支配、神性という含意なのか?それともまったく別なものなのか?

そうやって両曲を比べることによって、以上書いてきたようなラヴェルという作曲家の個性が「ご自分の耳で」よくわかるようになると思います。アルゲリッチの若いころ(77年)の演奏です。ものすごいうまさです。

(こちらへどうぞ)

ラヴェルと玉三郎

 

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ラヴェル「ソナチネ」(聴き比べ)

2015 JUN 30 1:01:16 am by 東 賢太郎

断食をすると甘味がほしくなります。たまにご褒美でスイカを食べると、これが半端でなく甘い。空腹は最高のソースである、英国の諺を地で行く体験です。

こころに甘味があるかないか。こういうことをいつも感じていたのかどうかは定かでありませんが、さっき本当に久しぶりにきいたこれですが、甘く感じるのです。心や頭の味覚?ラヴェルは僕には糖分か必須アミノ酸であって舌ならぬ耳が求めるのかもしれません。

出会ったのはこれです。故アリシア・デ・ラローチャ女史は香港でリサイタルに行きましたが、多忙な時でしかもプログラムをなくしてしまい、何をきいたか忘れてしまった。もったいない話です。

彼女のラヴェルは初ですが、これは実にすばらしい。なにも目立つことはしていませんが銀の上品な微光を放つ真珠のようです。

これは名曲中の名曲です。ラヴェルのというよりクラシック音楽のマストアイテムであります。ご存じない方はこれを何度も聴いて覚えましょう。

 

以下はピアニスト、通向けです。

ひとつだけ気になること。最後のこれですね、フェルマータでないですが伸ばすかどうか、そして、より重要なのは、伸ばすのに左手の重嬰ト(gisis)を残すかどうか?細かい話ですが、この音で曲を閉じるわけだからどうでもいいとはいかないでしょう。

ravel

ラヴェルはあえてfffを再度書き込んでおり、この音ブロックが一個の塊として一気に、決然と弾かれることを求めているように見えます。しかもアルペジオ(これは固有の音価のない前打音である)のスラーが最後の四分音符にまで及んでいる。したがって、gisisを残してペダルを踏む人が多い。ラヴェルの権威で出版譜の校訂者である中井正子さんの演奏もそのようです。

しかし

①ペダル記号はない

②高いaisだけタイがある(前打音保持を明示)

③他5音は新たに弾いて、その新たな6音だけを伸ばすように書いてある

④ais以外の前打音を指示なく主音と混ぜることは常識として考え難い

以上より、gisisは消すべきです。

しかも最後の小節にあえて四分休符を2つ書いてますから、

⑤最後の四分音符の音価は「長くは」伸ばさない

ことを明示しています。

では、ラヴェルに習ったか、習った人に習った6人の演奏をきいてみましょう。

四分音符を伸ばさないのはサンソン・フランソワ、ロベール・カサドシュですがgisisが聴こえる。ジャン・ドワイアンは長く伸ばしてgisisは入れたまま、ジャック・ルヴィエはやや伸ばしてgisisは消している。マルセル・メイエとヴラド・ペルルミュテールは長めに伸ばして、アルペジオのペダルで最初はgisisが聴こえるが最後はペダルを離して消える。

ラヴェル自身の第3楽章の録音は残っておらずどれが正しいかはわかりませんが、これはピアニストのご意見をうかがいたいものです。ちなみに、①-⑤を守っている、すなわち楽譜に最も近いのはジャック・ルヴィエであります。

細かいことですが、こういう曲尾の一音、すなわち曲全体の後味を決定づける一音に神経を使わないピアニストの譜読みというのはどうなのかなと僕は考えてしまいます。

どうしてそんなことにこだわるの、変な奴だなと思われるでしょうが、何と思われようと僕には伝統芸能とはそういうものだという哲学があるからです。それはここにも書いてあります。

  クラシック徒然草-ブラームス4番の最後の音-

こういう「形」を無視して聴衆に取り入ろうとする演奏家は作品を食い物にする芸人であり、僕がそういう人を支持することは一切ありません。

ちなみに上掲の ラローチャはアルペジオで踏んだペダルを離してgisisを消しているようです(ペルルミュテールと同じ。満点ではないがかなり点は高い。だから載せました)。

以下に僕がよく聴くCDをレファレンスとしてあげておきます。

 

モニク・アース

場面場面で感情にそってテンポが揺れロマンティックといえるでしょう。ややねばった表情と音色の質量がこの曲のフランス的な軽みと異質ですが安手の感傷に流れることなく、タッチそのもの(特に高音)はクリア、透明であり不思議なバランスをとっています。最後はaisがかなり長く残り、gisisは消します。これは見識だ。

アンヌ・ケフェレック

解釈はやや常套的ではあるが上品。この上品さだけは価値がある。第2楽章は遅めにとり2度の和音のスパイス、分散和音のきらめきに意を用います。終楽章はタッチのきれで語るなど色彩のパレットが豊富。良い意味で聞かせるプロフェッショナルでありますが読みの深さはなし。gisisは明確に残ります。だめですね。

セシル・リカド

冒頭から幻想味あるゆらぎ。テンポも表情も個性的で彼女の感性にシンクロできるかどうかで評価は分かれるでしょうが僕は大シンパです。この曲が欲しいときにピタッとはまるのはこれ。リカドは和音のつかみかたひとつとっても理想的、最高ですね。第2楽章など各音がこうでなくてはという絶妙のバランスで調和しています。最後は長くてgisisを残してしまっている、うーんこれが惜しいが。ただ、好きだから弾いている、モチベーションが明確です。芸術家ってそれが当たり前と思いますが、そういう人は実は少ないかもしれません。

ジャック・フェヴリエ

ピアノの音からすばらしい。金色がかった中高音。第1楽章の強弱のメリハリ、ソプラノの弾き分け、アルト、テノールのさざめきや第2楽章の盤石のテンポはやっぱりこれでしょうというもので、音楽に内在している必然が自然に出ている感じ。終楽章は技術の限界を見るが、そういうトリビアルな御託をねじふせる真打最右翼の一枚。

サンソン・フランソワ

第2楽章の左手はどうしてこうなのか。彼は世評ほどフランス代表というイメージではなく、むしろ譜読みがユニークなピアニストです。フレージングや声部の浮き上がらせかたや和音のバランスもそう。終楽章はペダルを押さえて乾いたタッチで弾ききりますがこの技術は凄いと思う。最後の音もさっと切り上げるこの感性!常套的にきれいな演奏のレベルを突き抜けた鬼才の音楽。

マルセル・メイエ

リカルド・ヴィニエス、マルグリット・ロンの弟子です。高音の明るい音色が冴えます。第1楽章の飾り気ないインテンポはいいですが繊細さはやや欠けます。第2楽章はいいテンポで表情も色彩も最高。終楽章はうまい。このタッチと声部の弾き分けは音楽に立体感を与え魅力的です。

マルタ・アルゲリッチ(DG)

これは和声に良く感じて大変に美しい録音です。第2楽章のppのタッチのデリカシーも特筆もの。周到な準備を経て録音されたのでしょう、彼女の美質が全て出ている。終楽章の指の回りは全盛期を思わせ実にすばらしい。最後の音の処理も、伸ばしすぎずgisisは控えめで最後は消しています。これはルヴィエに近く、最も違和感がありません。

アビー・サイモン

ホロヴィッツが出てこない以上、技巧ということでこれに勝るものはなし。その余裕から生まれるソノリティと和声の見事なバランスは決定的なアドバンテージです。この位ピアノが弾けないと絶対に出ない味というものはあるのです。その分仄かな詩情は薄くイヴァン・モラヴェッツとは対極の演奏でしょう。最後の音はやや長めでgisisは残ります。

ヴラド・ペルルミュテール

彼はライブもこの音でした。19世紀フランスのサロンを思わせる。暖色系で煌めきは一切ないが打鍵が重くなく(モーツァルトを弾くようだ)高貴なポエジーが浮かび出る。晩年の録音で技術があぶないが、すべての音が求めるところにしっくり収まる、この安定感はなんだろう?ラヴェル直伝。彼が弾いている幻想を追うならこれでしょう。真打です。

ジョルジュ・プルーデルマッハー

著名ではないが全集はレベルが高い。知情意の見事なバランス。ソノリティへの微視的なこだわり、タッチの色分けによる対位法(ほぼ感じない曲だが)の目線、濁りのまったくない和音、ただならぬうまさながら技巧が前面に立った恣意性や人工臭がなく、あらゆる意味でこの曲が最も見事に弾かれた一例でしょう。ただしgisisは完全には消えません。

ロベール・カサドシュ

冒頭よりメロディーと伴奏が平板に混然と鳴り、技術も際立つものはなし。しかしこの演奏、ベルエポック、我が国なら大正浪漫とでもいおうか、えも言えぬ高雅な香りを放つ。第2楽章も飾り気なしの清楚な貴婦人のたたずまい。終楽章はこれぞAnimeであり、このテンポで旋律と細部を重層的に弾き分ける名人芸はすごいのひとことです。

ジャン・ドワイアン

ペダル控えめな乾いたタッチ。始めはそっけなく味わいに欠けるようにきこえ、この良さはなかなかわかりにくいでしょう。フランスのガヴォーという楽器で、僕が弾いている旧東独のアウグスティン・フォスターと色は違うがローカルな味わいの濃さは似てます。この旋律線のふくらませかた、緩急、強弱の間と呼吸は時代の空気でしょうか。

 

以下はyoutubeで聴けるものです。

 

ワルター・ギーゼキング

この人の全集も名盤とされますが、ソナチネはさらさらと流れる良さはあるものの彫琢がいまひとつです。ギーゼキングの初見力は伝説的で、これも譜面を見てさっと録音できたのかなと感じないでもありません。最後は単音でgisis含んだまま終わります。

アルフレート・コルトー

大きなテンポの揺れはほとんど必然を感じず、技術はかなり弱い。コルトーは左手の協奏曲を両手で弾きたいと申し出てラヴェルに却下されました。これではあれは弾けないだろうなという体のモノ。単音であっさり終わる。

マルタ・アルゲリッチ(ライブ)

第1楽章の速さ、元気の良さ、これはラヴェルを感じません。夜陰にほのかにうかぶ淡く青白い光のようなものが皆無。あっけらかんの真っ昼間ですね。リストみたいになだれこむ終結はgisis鳴りっぱなしの長押し。だめです、これは。どうしちゃったんだろう?

パスカル・ロジェ

キレイですが霊感に欠ける。最近こういう高級マスクメロンみたいなラヴェルが多いですね。ロジェはプーランクはいい味を出していますがラヴェルは和音からしてらしくないです。セシル・リカドのように感じ切ってないのでまったく魅力なし。最後のgisisは大変耳障りである。

ミンドル・カッツ

これは大変にレベルが高い!70年代に廉価版のLPできいたことのある名前でしたがこれは驚くべき名演で大発見でした。タッチ、技巧、音楽性ともまったく文句なし。ラヴェルの地中海的な感性に光をあてたものとして最右翼でしょう。最後は長く保持してgisisを消しています。さっそくi-tunesで購入。

フリードリヒ・グルダ

これは面白い。第1楽章は副主題が速くなったりききなれないフォルテがあったりしますが意外に普通です。第2楽章のデリケートで凝った造りはなかなかいい。終楽章の音色の使い分け、高音のタッチのクリアネスも見事です。最後は短めでgisisはほとんど聞こえもしないのもユニーク。

イヴァン・モラヴェッツ

この人は何を弾いてもタッチに気品があります。原色ではなくかすかにグレーがかりますがこの味わいは実に捨てがたい。詩情、デリカシーも申し分なし。地味で高級な工芸品の趣ですね。このソナチネもトップランクの名品、大発見です。最後は長く、gisisはほとんどきこえない、グルダと同じです。これも購入決定。

クララ・ハスキル

録音のせいでしょうか楽器の音がラヴェルでないですね。彼女の和音のバランスも中音が勝ってドイツ物風です。終楽章はアルゲリッチやメイエを聴いてしまうと魅力がありません。短めに切り上げますがgisisは鳴っています。

シューラ・チェルカスキー

遅めで副主題もほぼインテンポの第1楽章ですが崩しも入る。第2楽章の和音のつかみ方はロマン派風です。終楽章のテクスチャーの解きほぐし方は一家言あり。個性で弾ききっておりあれこれ言うのも野暮という風格です。最後は消さずですね。

 

後に追加します

(こちらをどうぞ)

ラヴェル 「夜のガスパール」

 

 

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クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-

2015 JAN 31 18:18:44 pm by 東 賢太郎

先日、ラヴェルのマ・メール・ロワを書きながらyoutubeを見ていたら、こんな演奏にあたった。ラヴェル 「マ・メール・ロワ」 の最初の楽譜(第3曲 「パゴダの女王レドロネット」)を見ていただきたい。

とても速いテンポで始まる。それが中間部に入るや第二ピアノの女性がすごいブレーキを踏んで、完全に集中して自分のペースに持ち込んでしまう。相手はいまやピアノ界の大御所、天下のマルタ・アルゲリッチ様である。この女性は何者だ?

関東の女性の方からボレロについてメールをいただいたと書いたが、そこに「グルジア人でKhatia Buniatishviliという現在27才の大変美しいピアニストがいます」とあった。まったくの偶然だが、タイトルを見てみるとこの第二ピアノの女性こそがまさにそのカティア・ブニアティシヴィリだった。

さっそく他の演奏を聴いてみる。このブラームスの第2協奏曲には仰天した。見事に曲想をつかんで弾けている。しかし第2楽章で同じミスタッチを何度もする。圧巻は終楽章のコーダに移る部分。完全な記憶違いで音楽が止まってしまい会場が凍りつく。本人も驚いてすぐ弾きはじめるが、大事な経過句をぶっとばしたかなり先だ。オケがついていけずしばし独奏状態となるが、やがて事なきを得て終わる。

なんともおてんば娘だが、それでも満場の喝采をうけ、オケも祝福している。これは彼女21歳のルビンシュタイン国際コンクールの映像で、第3位に入賞している。いや、その年でこの曲を弾けているだけでも普通じゃない。そして大チョンボをしでかしても周囲を応援団にしてしまう。この子はものすごいオーラを持って生まれている。

このシューマン、かなり恣意的だが説き伏せられる。終楽章のテンポなど僕は容認できないが、頭はそう思っても最後は拍手している。そしてアンコールのリストを聴いてほしい。指揮者もオーケストラ団員も一人残らず彼女の世界に引きずりこまれ、息をひそめて彼女の「聴衆」になってしまっている。こんな光景はなかなかない。

このグリーグは参った、降参。これは男には描けない究極のフェミニンな世界だ。それにこんな風に視線を送られたら指揮者も彼女に指揮されてしまうしかない。ちなみにこの指揮者はここで絶賛したトゥガン・ソヒエフだ( N響 トゥガン・ソヒエフを聴く)。彼も彼女もグルジア人。スターリンを出した地ではあるが、才能の宝庫でもあり、一度行ってみたくなるばかりだ。

終楽章のコーダは傑作である。ピアノが猛スピードで突っ走って指揮者がえっという表情を浮かべ、オケのトゥッティでいったんテンポを引き戻す。しかし火がついてしまっている彼女は駆け登るアルペジオでオケより先に頂上に行きついてしまい、最後を2度くりかえして帳尻を合わせる。最後の和音連打はもう早くしてよと催促し、最後のイ音を思いっきり連打して溜飲を下げて終わる。こんなのは普通ありえないが、彼女のヴィジュアルを含めた総体が発する強烈なオーラがそれを正当化してしまい、ご愛嬌になってしまう。これはこれでひとつの芸だ。

スタジオで録音されるためのミスのない、きれいに整えることを目的としたような演奏はほんとうにつまらない。スーパーに並ぶF1のパック野菜のようだ。カティアの産地直送とりたて丸かじりはそれに対する新鮮で野性味あふれるアンチテーゼだ。少々トマトの形が不ぞろいでもいいじゃないかということで、彼女のたくさんあるミスタッチは勢いに飲みこまれている。このままだと、彼女が有名になればなるほど賛否両論が出てくるだろう。

ベートーベンにピアノを教わったチェルニーは「たとえミスタッチが無くても、義務的な気のない弾き方をすると怒られた」と書いている。逆に自発的で気の入った生徒のミスには寛容だったそうだ。そういうことだろう。上記ブラームスも、彼女は曲を良くつかみ、共感し、曲に「入ってしまっている」ことは争えない。2番を女性が苦労して弾いている危うさが全然ないのであって、じゃああのミスは何かといえば、第2楽章も第4楽章も技術不足ではなく記憶違いだ。つまりスコア・リーディングの問題である。

この破竹の勢いでモーツァルトやベートーベンを弾いて今すぐ世界を納得させられるかというと疑問だが、スコア・リーディングは学習と共に人間の内面の成熟にも関わることで、時間が解決するのではないか。それよりも、彼女の持っている天真爛漫さ、集中力、聴くものを金縛りにする吸引力といった、訓練によっても時間をかけても獲得できるとは限らない天性のほうを買いたい。1987年生まれの27歳、恐るべし。

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ブニアティシヴィリを初めて聴く(2月18日、N響B定期、サントリーホール)

東京一と思ってる世田谷の鮨屋でのこと。ユーモアのセンス抜群の脳外科医の先生が、ちょっとほろ酔い加減で、「知ってます?大きな声じゃいえませんがね、ここのスシはね、親父がこっそり麻薬いれてるんですよ。だからときどき食いたくなって困るんです。」とわりあい大きな声でおっしゃって、親父も客も爆笑。たしかに、また来たくなる味なのだ。

今日初めて実物を見た彼女、それを思いだした。曲はシューマンのコンチェルト。ビデオで見た通りの美貌だ。たまたま同曲の画像を本稿に貼ったがひょっとしてドレスは同じものか?(すいません、女性の服はあまり見分けがつかないので)。しかし「麻薬」はそれじゃない。

満場を金縛りにするピアニッシモの威力のほうだ。

オケの一撃に続き、脱兎のごとく下るピアノの和音。クララ主題は触れればこわれるほどひっそりとデリケートに奏でる。このピアニッシモが電気みたいに痺れる。くせになる。この人、静かになるとおそくなり、大きくなるとはやくなる。その静かなところの吸引力たるや、ブラックホールみたいだ。

と思うと、最後に急にアッチェレランド(加速)してそのまんまポーンとオケにぶん投げる。オケはあらぬ速さで受け取ってしまい、早送りの画面みたいにあくせく弾く。それを楽しんでる風情だ。カデンツァもゆっくり弾きこむと思いきや、中途でいきなりトップギアが入る。テンポは常に生き物みたいに流動。こういうのは男性ピアニストがやろうものなら、お前、今日ちょっと大丈夫?っていう性質のものだ。これは僕がかつて聴いた、ボラティリティ(振幅)最大のシューマンである。

男はこういうイロジカルな情動はあんまりないし、ついてもいけない。指揮者(同じパーヴォ・ヤルヴィだ)はじっくり彼女とアイコンタクトして合わせてしまうからフレキシブルなこと称賛に値する。圧巻は第3楽章だ。ビデオも快速だがこんなのかわいいもんだ、今日のは驚天動地としか言いようもない。僕の人生で、いやもしかして人類最速のシューマンだ。仮にだが僕が指揮者だったら?ごめんなさいと棒を置いて家に帰るだろう。ピアニストが男だったら?なんじゃ、おい、それはラヴェルか、ええ加減にせいと棒を投げつけるだろう。

腕前はフォルテのタッチが荒っぽく、緩徐楽章に一音だけ変なのがあったが、まあうまい。しかしこの人をクラウディオ・アラウやユージン・イストーミンと比較はできない、女性の子宮感覚みたいなものかもしれないし、女性であってもマイラ・ヘスやアニー・フィッシャーと比べてもナンセンスだろう。伝統とか様式とか思考という言葉や概念を超越した、感性のピアノだ。

その演奏スタイルが彼女なりにビデオより格段に自由自在に操れるようになっており、手の内に入っている。なりふりかまわぬ我が路線で、現在進行形で進化しているようだからやはり恐るべしだ。しかし、魅力的なところもたくさんあったのだが、暴れ馬に結局ふり落されたまんま終わってしまった感じが残る。残念ながら不完全燃焼だった。 会場もブラボーは飛んだが僕と同じ思いの方も多かったのではないか。

そしてそおっとひそやかに始まったアンコールのドビッシー「月の光」。

したたかな女性はちゃんと自分のチャームポイントを心得ているのだ。緩急自在、伸縮自在のピアニッシモの嵐!もうシューマンは忘れ、忘我の境地に入っている自分を発見する。やっぱり麻薬にやられてしまった。

 

(その前後の演目、R・シュトラウスの変容とツァラトゥストラについて。後者は並みのオケだと音がだんごになって濁りがちな部分があるが、まったくなし。23パートのソロ・アンサンブルである前者は言うに及ばず、この日は良いピッチで透明感のある弦がまことに効いており、その純度が管にも伝播しているようだった。何度もしつこく書いてきたことだが、この日はコンセルトヘボウ管弦楽団のコンマスであるヴェスコ・エシュケナージがそこに座ったのだ。ヴァイオリンのみならず、弦の質感が違う。ネロ・サンティもそうだったがヤルヴィも、おそらく、そう感じているのであり、ワールドクラスの音を作ろうという強固な気構え、コミットメントが見える。本当に良い指揮者を迎えたと思う。このツァラトゥストラはかつて聴いた最高の名演であり、世界に問うてN響の名誉になるクオリティの演奏だった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ラヴェル 「マ・メール・ロワ」

2015 JAN 28 21:21:42 pm by 東 賢太郎

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この曲を知ったのはやっぱりピエール・ブーレーズのLP(ジャケットは右)で、大学時代のことだ。春の祭典、ペトルーシュカときて、前後関係は忘れたが火の鳥、ダフニスあたりと同じ頃に虜になっていた。光彩陸離たる響きに一気に引きずり込まれ、以来今に至るまで僕の中で絶対の魅惑と気品をもって君臨し、シンセで自分演奏版をMIDI録音するまではまり込むことと相成った。

この曲、楽想の高貴なたたずまいもあるし、マ・メール・ロワ(Ma Mère l’Oye)というの題名の響きもなんとなくおフランスっぽい。貴婦人か何かのことだろうとしばらく思いこんでいた。ところが調べてみるとこれは英語で「マザー・グース」、日本語では「ガチョウ婆さん」でずっこけた。麻婆豆腐(あばた婆さんの豆腐)を連想してしまい困った。

マザー・グースは英米を中心に広く知られる童謡・寓話集であるがルイ14世時代のフランスの詩人シャルル・ペローの『寓意のある昔話、またはコント集~ガチョウ婆さんの話』(Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l’Oye)(1697年)が題名の元になったらしい。文学は疎いが、赤ずきん、長靴をはいた猫、青ひげ、眠りの森の美女、シンデレラ、親指小僧などがペローの童話集にある。

このラヴェルの音楽から僕が想起するのはむしろ英国のルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」だ(そう思って調べたら彼もアリスでマザー・グースから引用した言葉の「もじり」をふんだんに使っている)。両作品ともおとぎ話を素材とした創作であって、子供にインスパイアされた作品という点も同じだ。キャロルは数学者であり、ラヴェルのスコアの筆致も理系的だ。どちらも生涯独身で女っ気はなかったようだ。

ラヴェルはこの曲を友人であるゴデブスキ夫妻の2人の子、ミミとジャンのために作曲し、この7才と6才の姉弟に献呈したが、幼なすぎたため2年後の1910年4月20日にパリ・ガヴォーホールで初演したのはマルグリット・ロンの弟子たち(やはり11才と6才の子供)だった。ちなみに、このお姉ちゃんの方のジャンヌ・ルルーは長じて有名な作曲家になっている。

この時点でこの曲は、第1曲「 眠れる森の美女のパヴァーヌ」、第2曲 「親指小僧」、第3曲 「パゴダの女王レドロネット」、第4曲 「美女と野獣の対話」、第5曲 「妖精の園」から成る四手版(①ピアノ連弾版)でこれがオリジナルである。翌年にこの全てが管弦楽化され(②管弦楽組曲版)、さらにその翌年に「前奏曲」、「紡車の踊りと情景」および4つの間奏曲を加えて③バレエ版が作られた。今日我々が耳にするのは普通はこの3つの版のどれかである。

ところが、作曲の年にラヴェルの友人のジャック・シャーロットが二手版(④ピアノ・ソロ版)というものを作っており(彼は第1次大戦で戦死しクープランの墓の前奏曲を献呈された人だ)、これをコンサートで聴くことはあまりないが厳密には4種のスコアが存在する。僕はこの④を弾いて楽しんでいるがさすがに二手だと難しい部分もあり、手が小さいので第5曲 「妖精の園」は左手の10度の和音をちゃんと抑えるのが一苦労である。どなたか①を一緒に弾いてくれると大変うれしい。

ところで①-④を眺めると、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のテキストがバレエ版、管弦楽組曲版(複数)、ピアノ・ソロ版が存在して見た目には似た様相となっていることに気がつくだろう。しかしこっちはバレエ版がオリジナルであって作られた順番が逆だ。あくまで管弦楽で発想された音楽でありピアノ版は興味深いがもの足りない。ところがマ・メール・ロワの清楚でシンプルな佇まいはピアノにこそふさわしく、オケ版はその至らなさをフル・オーケストラならではの豪華な響きが飛び交う間奏でフィルアップしたという感じもある(それはそれで別な意味で壮絶に美しいのだが・・・)。

さてマ・メール・ロワの1910年の初演だが、こんなものだったのかなと想像している(第1,3,5曲)。

中国の姉妹だろうか、とてもよろしいと思います。子供でも弾けるのに非常に「高級な」和声が用いられ万人を黙らせるこの曲を選んだという趣味も素晴らしい。

この曲は全曲にわたってスコアにマジカルな瞬間が満載である。精巧なガラス細工の趣だ。全部書くときりがないから2つだけ。まず第3曲 「パゴダの女王レドロネット」のここだ(以下の楽譜は④のシャーロット版である)。

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5小節目のpp。ここで和音がF#からFm/a#にがらりと変わる!魔法としか言いようがない、これぞ不思議の国のアリスの世界だ。ここを「感じて」弾かなくてはいけないのは言うまでもないが、オケ版でテンポを落す指揮者がいる。モントゥー、マルティノンなど。これには反対である。ラヴェルの気位と格調が崩れて下俗なロマン派みたいになってしまう。何といっても最高にいいのはアンセルメだ。テンポは全く変わらず、見事な弦のハーモニーの綾にバス(ハープのa#)が効いている!このバスとツンと澄ました冷ややかなフルートの鳴らし方ひとつでも彼のセンスの良さを感じ、厳粛な気品に何度聴いてもぞくぞくする。

もう一ヵ所、第5曲 「妖精の園」。第5,7小節のドに長7度でぶつかる「シ」をどう弾くか?これはピアノでも弦でも大変にデリケートな問題で難しく、私見ではセクシーでスリリングで末梢神経が痺れるような音が欲しい。そしてさらに終わりのところのこのフレーズだ。

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このppが命でありテンポは僕ならかなり落とす。ビデオの女の子たち、そこをもう少し気を付ければもっと大人の演奏になる。プロでも全然ダメな人が多く名手といわれるサンソン・フランソワでもこのフレーズを不感症で弾いていて、それじゃあマ・メール・ロワをやる意味なんかないでしょうと尋ねたくなる。ここはアンセルメもいいがちょっとクールすぎる。アバドがもっといい。80年代の彼の感度は素晴らしかった。

さらにいえば、オケ版を判断するにソロ・ヴァイオリンの巧拙が大きい。僕は冒頭に書いたようにブーレーズ盤でこの曲に入門したものの、下宿でカセットで聴いていたのはデジェ・ラーンキとゾルターン・コティッシュ、エリック&ターニャ・エイドシェック、そしてアルフォン・アロイス・コンタルスキー兄弟といずれも①だった。自分もピアノで爪弾いておりそういう耳になると、この音楽に散りばめられた精妙で絶美の和音をオケのいい加減な音程で壊すなと祈りたくなる。

だから第4間奏および第5曲のソロVnの音程やヴィヴラートが気になる。モントゥーのLSOのソロは間奏も実にいい加減だし、第5曲も微妙にずれてこれまた能天気に鳴っている直後のオーボエとピッチが合わない。モントゥーの解釈には敬意を払っているだけに非常に残念だ。そして尊敬するブーレーズ盤のニューヨーク・フィルのコンマスもいただけない。第5曲はヴィヴラート過剰なうえになんとポルタメントまでかける下品さで、せっかくの指揮の品位をぶち壊している。こんなものを彼が望んだとは思えず、放置してしまったのも不可解だ。音楽監督就任したての頃だったし遠慮があったのだろうか?セルが鍛えまくったクリーブランド管でやってたら違ったろう。

この曲は77年にチェリビダッケ初来日の読響演奏会(東京文化会館)で、またロンドンとアムステルダムで2回ジュリーニで聴いているが、さっぱり演奏内容の記憶がない。たいして良くなかったんだろう。子供でも弾ける曲だが良い演奏をするのは大家でも難しく、逆に良い演奏をした時の聴衆へのインパクトは非常に大きい。技術ではなく、演奏家の感性、人間性、やさしさといったものが満場を包み込んで暖かな喝采と敬意が集まる。ソロで弾けるので、ピアノニストの方はなんとかの一つ覚えのショパンではなく、こういうセンスのいい曲を弾かれてはいかがだろう。

②③の管弦楽版では

エルネスト・アンセルメ /  スイス・ロマンド管弦楽団            クラウディオ・アバド / ロンドン交響楽団

をお薦めしたい。アンセルメは最初だけは③であるが間奏曲はないため基本は②という折衷なのが玉に傷だ。オケの機能的にも一流とはいいがたいが、なにしろ上記のようにセンス満点であり、葦笛のようなオーボエを始め管楽器の音色はフランスの伝統美にあふれている。アバドは③であり、楽譜の読みが深く繊細なことは大変に満足感が高い。表面だけきれいにまとめる印象があったが全く違う。オケが納得してそれを音化しており、非常にうまくて美しい。

世評の高いのはアンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団だ。華やかでフランスっぽい音と表現だが、しかしじっくり耳を凝らすとオケが精緻でなくうまくない。肝心な部分の感じ方もいまひとつだ。指揮の流れでなんとなくうまくまとめている演奏なので、指揮の気骨で通しているアンセルメと違いそういうことが気になってしまう。餅は餅屋で決して悪くはないが僕は昔懐かしいフランスの管を聴くならアンセルメのクールで厳粛な感じの方を好む。

①では

モニーク・アース/ イナ・マリカ

                                   デジェ・ラーンキ / ゾルターン・コティッシュ

アースのが非常にいい。

ラーンキのはフレッシュなみずみずしさが取柄でありよく聴いたのでおなじみというだけで特に優れているわけでもない。この版はその気になれば素人でもできてしまうので面白い演奏はいくらでもあるだろう。できれば自分で弾きたい。

アンセルメをお聴きいただきたい。

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

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