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ラヴェル「弦楽四重奏曲」第1楽章の解題

2020 JUN 27 19:19:12 pm by 東 賢太郎

写真の室内楽のピアノ楽譜集にラヴェルの弦楽四重奏曲第1楽章があります。リダクション譜というのは原譜に忠実すぎると技術的に素人には難しすぎ、かといって間引きが過ぎると面白くありません。この「室内楽名曲集2」(オクト出版社)は初見でなんとかなるレベルまで落としており、このラヴェルに関する限り原曲の味は損なわないぎりぎりのところでうまくやっていておすすめです。大好物の曲ですからはまってしまい、何度も弾いているうちに第1楽章に封じ込めた若きラヴェルの「負けじ魂」が透かし彫りのように見えてきて、6年前にこのブログを書いてからだいぶ景色が変わってきました(ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調)。

弦楽四重奏曲ヘ長調は1902~3年、ラヴェル27才の作品です。ローマ賞を3回も落選という憂き目にあい浪人中でした。初挑戦が1900年(予備審査で落選)、1901年(第3位)、1902年(本選に進むも選外)、1903年(本選に進むも選外)、受験年齢制限の30才を迎えるため最後の挑戦は1905年(予備審査で落選)。この結果に対し音楽に造詣の深い作家ロマン・ロランが「落選の真意を問う公開質問状」を新聞発表し社会問題となったのが “ラヴェル事件” です。「門下の生徒のえこひいきだろう」「政治的意図がある」など騒ぎとなりパリ音楽院の院長デュボワは辞任に追い込まれます。

というのは、1905年時点ですでにラヴェルは古風なメヌエット(1895)、亡き王女のためのパヴァーヌ(1899)、水の戯れ(1901)、シェラザード(1903)、弦楽四重奏曲(1903)、ソナチネ(1905)、鏡(1905)と音楽史に残る作品を書いて聴衆に知られており、デュボア、サン・サーンスら音楽院中枢の保守的な審査員たちが「ラヴェル氏を審査する勇気があった作曲家たちを称賛する」とロランに思いっきりコケにされていることでも明らかです。ローマ賞は栄誉ではありましたが、受賞者で名前が音楽の教科書に載ったのはベルリオーズ、グノー、ビゼー、マスネ、ドビッシーだけでした。

つまり現代の我々はラヴェルにそんなものは必要なかったということを知っているのですが、当時の彼に未来は予見できません。そこまで執着したのは3万フランの賞金が欲しかったと見る人もいますが、「男のプライド」というのはそんなカネで買えるほど軽いものではない。受験戦争と同じで、あいつが受かってなんで俺がというものがある。戦いというのはどんなに些細に見えても当事者にしかわからない許し難い葛藤があり、それが何にも増して強大な原動力になったりすることを浪人した僕はよくわかります。最たる嫉妬の対象はドビッシーですが、落ちた年に受賞した連中など彼にはゴミにしか見えてなかったはずで、それに負けた不快感も絶大だったでしょう。

ですから、あと2度しか挑戦できないのに1904年は受験しなかったのを長年不思議に思っておりました。ところが弦楽四重奏曲が「1903年にできた」という事実から意味が見えてきました。彼は03年の本選の課題曲である「アリッサ」のプロットに辟易しているからです。くだらない台本に霊感の湧かない曲を書くなど馬鹿らしいというのが完全主義者の気質です。またこの曲は10年前に書かれたドビッシーの弦楽四重奏曲を明確にモデルにしていますが、04年3月の初演を聴いたドビッシーは「一音符たりとも変更しないよう」と誉めた。ところが後にラヴェルは全編を改訂してしまいます。亜流とされるのを嫌ったと思います。

彼の全作品は、彼がアイロニカルでシニカルで一筋縄でいかない、むしろ一筋縄でいくと思われたくない性格の持ち主であることを示唆しています。こういう人間のプライドというのは常人の量り知れるものではなく、ドビッシーの路線とはかけ離れたダフニスとクロエ(1912)の高みに至るそれこそ常人離れしたモチベーションは25~30才で味わった屈辱と反骨心にマグマの源泉があったのではないか。前年に3位を得て満を持して臨んで失敗した1902年の末に書き始めた「古典中の古典のソナタ形式」をとる弦楽四重奏曲ヘ長調は保守派の試験官の好みに迎合する戦略で書かれて03年4月に完成し、7月に受験してまた不合格(「アリッサ」に辟易した年)。04年3月に四重奏曲を初演してドビッシーの賛辞を得て7月の受験は無視するに至ったのではと思うのです。

ラヴェルの音楽が古典の規範に反し無用に急進的だとするパリ音楽院はアカデミズムの牙城であり、院長のデュボアを筆頭とする「白い巨塔」でした。そんなことをしていたからデュボア、サン・サーンスのスクールからは音楽史に残る継承者も作品も出ませんでした。ラヴェルは力はあるが権威に靡かない異端児と烙印を押されており、その教官はパリ音楽院卒でないため政治力を欠くフォーレでもあり、伝統を継承することを旨とする保守本流のエリートとは遠かったのです。また、これは私見ですが、ラヴェルが生粋のフランス人ではなくバスク人のハーフであったことも深層心理的に行動に影響があったかもしれません。合格のための迎合は戦略であって、真意は「よし、それなら古典中の古典の形式で新しいものを書き古狸どもをぎゃふんといわせてやろう」という反骨であった可能性があるのではないかと思うのです。くだらない台本にはかけらの関心もわかないが、自らが書いた「審査員どもを篭絡し征服する台本」には絶大なるエネルギーをもって集中力を発揮する、ラヴェルとはそういう人だったと考えるのです。

今回、ピアノではありますが自分で演奏してみて、そういう視点からソナタ形式の第1楽章を眺めてみると、ラヴェルの戦略として気づくことがありました。それをここに記してみます。

 

この楽章は提示部に意匠が凝らされています。ヘ長調の第1主題で開始しますが、たった4小節で(第1の矢印)で変イ長調に転調して変奏されます(第1の転調)。それが4小節でト短調(Gm)に疑似終止(第2の矢印)すると、突然に違う旋律がG7の和声を伴って天から降ってきて(第2の転調)変ロ長調に移行するのです。

第1主題がたった20秒の間に2度も転調するのです。こんな例は僕は後にも先にも知りません。メロディが嫋やかで哀調を帯びた非常に印象的なものですから先を期待するのですが、つかまえようとするとすっと逃げられてしまう。しかも2度目から “エスプレッシヴォ” で感情をこめて朗々と歌われてしまう「取り残され感」は半端ないのです。

全くの私的イメージでありますが、結婚式に呼ばれて美しい花嫁が登場したと思ったら10秒で「お色直し」があり、もう10秒でまたあり、唖然として顔をよく見ると別な女性だったというほどの衝撃を僕は聴くたびに感じます。あれっ、俺はどこに来てるんだっけと迷い、これがソナタ形式の第1主題だということを忘れ迷路に迷い込んだ自分を発見するのです。

すると、七変化はそれに留まらず、さらに副主題(4小節目から)が現れて、

しばし楽想は展開部であるかの如く変転します。これはミステリー小説でいう「ミスリード」であって、第2主題の如く現れて真犯人を隠すダミーの役目をしています。ここに至って、まだ第1主題が続いているのだと初聴で見抜く人は誰もいないでしょう。

であるから、第2主題(ARCOから)が現れ、また驚くのです。

これが第1主題にもまして触れれば折れてしまうほど繊細かつ妖艶で、すぐれて女性的です。この3連符を含む主題も第1主題と同様に提示部で変奏されたうえで展開部に進みます。第1、2主題は気分的には大きなコントラストはなく同質的で、展開部での交差は両者のアラベスクによってその共通の哀調を更に変奏していく風です。

つまりこの楽章は第1主題に封じ込められた気分をコーダまで様々な角度から光をあて聴き手に味わわせるというソナタ形式としては異質の構造であり、副主題を含めた3つの主題は独立(対立)した個性を主張し論理性を持って昇華する構成因子というよりも、相伴って気分の変遷をガイドする万華鏡のパーツとでも形容される性格です。すなわち、外形的にはアホの「白い巨塔」の審査員様向けの文句なしのソナタ形式をとっているが、聴感的にはすぐれてラヴェル的でやりたい放題である。「どうだ、なんか文句あるか?ざまあみろ」という嘲笑を含んだ彼の顔が見える。第1主題の第1部は第3、4楽章で循環形式の素材としても扱われ、彼が「古い皮袋をまとって奴らの目くらましにすること」に強い意志を見せていることが伺われます。

そのことは再現部において第1主題の3部分がほぼ同じくり返しを見せるところに巧妙に仕組まれています。当たり前と思われるでしょうが、3つがセットで第1主題という外形を聴き手はいったん見失ってますからこの再現はけっこうショックなのです。つまり、驚かせながら「この主題は木に竹を気ままに接いだものではなく強固な鋳型なのだ」と主張し、ソナタ形式の規範に見事に則って見せて古狸どもに泡を吹かせてやろう、温故知新の精神があることを評価させようという気概をこめたオリジナルな構造であり、さらに技巧を凝らして和声は微妙に提示部と変え時制による「変化」を盛り込んでいるという革命をも成し遂げた精巧な作品に仕上がっている。

コーダの最後の部分です。

両主題が重なりヘ長調から長2度下の変ホ長調へというラベルお好みの交差が2度繰り返され、そこに不意にト長調が現れてヘ長調で終わる。この印象的なト長調の闖入はシューマンのトロイメライの最後のようであり、深い安寧へと誘ってくれます。これを弾ききった時の満足感は格別で、音楽でお腹がいっぱいになる感じがいたします。提示部で両主題が変奏し展開され、その生々流転が展開部にも継続して全曲のあらゆる局面で時々刻々光と影を変遷させる。この作品が完成した年からドビッシーが書き始めた、やはりソナタ形式である交響詩「海」はラヴェルがここで試行した時間関数による変奏の概念をより高い次元で達成しているのです。

前回ご紹介していない「マールボロ音楽祭の演奏者たち」の演奏はなかなか結構なものです。

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(ご参考)

クラシック徒然草ードビッシーの盗作、ラヴェルの仕返し?ー

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ラヴェル「フォルレーヌ」の特異な和声

2020 JUN 5 22:22:03 pm by 東 賢太郎

7年前にこういうものを書きました。ずっと家にいるので、指が忘れていた第3曲「フォルレーヌ」を復習しようという気になり、先ほど読み返してみたのです。今も寸分たがわぬ自分がいることを知ると、この曲への愛情は遺伝子レベルに発していると思ってしまいます。

ラヴェル 「クープランの墓」

ただ、オーケストラ版はダメですね、もうあんまり聴く気がしない。これの魅力はピアノのソノリティと不可分だからです。暗譜はけっこう大変でしたが指がやっと思い出した喜びは何物にも代え難いですね。これ、圧倒的に「ラヴェルを弾いている」という感じがするのです。

Durand版

クープランの墓の譜面を買ったのがいつだったか、最初のは仏Durandでご覧のとおり猫に爪とぎをやられて表紙がとれてます。前の猫だから大学時代です、入学してすぐの年あたりです。曲を覚えたのはジャン・ドワイアンのレコードでした。いや、覚えたというかあっという間に虜になってしまい、何度もくりかえして刷り込まれたのはワイセンベルクの演奏でした。まだリスナーとして初心者でピアノ曲はまずショパンになじまなくてはと努力したのですが、が学習者は誰もが弾いてみようというノクターン作品9-2みたいな曲はまったく口にあわないのです。素敵なコードプログレッションとは思いましたが、それをくりかえして客がそろそろ飽きたかなとなるとピロピロピロと右手が装飾音符を散りばめだす、あの女性のドレスについてるフリルみたいな空疎な無意味さが耐えられなかったのです。

ですから当時、ショパンは無縁でラヴェルにハマってしまった。ドビッシーは少々難解な音楽に聴こえておりモーツァルト、ベートーベン、シューベルトは面白くも何ともなくさっぱりで、しばらくの間、ピアノ曲といえばラヴェルという時期が続きました。弾く方は熱心で、練習曲としてJ.S.バッハのインヴェンションなどを暗譜しながらラフマニノフのP協2番のさわりとかラヴェルのト長調P協の第2楽章、ダフニスの「夜明け」冒頭部分がそこそこ再現できてました。独学ですが、それまで弦6本のギターで覚えていた和声というものの理解が10本指で格段にディメンションが広がり、自分の中での革命でした。

中井正子校訂版

自己流だとどうしてもうまくいかない所があり、例えばメヌエットの粋な装飾音符のようなものですね、譜面で見ると何でもないようなものが、なぜか何度練習してもだめでした。上級者に伺うとラヴェルは難しいですよと、自己流は無謀だという。野球も大学受験もゴルフも自己流で押し切ったのですが、ピアノには歯が立たなかったわけです。ハノンをざっとさらったぐらいで甘かった。そこで参考書としてこの中井正子版を10年ほど前に買い、運指を学んで少しは解決しました。まあ参考書を買っただけで独学は変わってないわけですが・・・。

僕の場合、他人の前で演奏して自己主張したいという顕示欲はなくて、あくまで作曲家研究の素材として楽曲に触れてみたいというだけです。それで発見することがあまりにたくさんあることを知ったからです。むしろ弾かないとわからない。交響曲でもオペラでもです。

フォルレーヌは形式も5つの主題が並列して出るだけで構成にも主題の音程やリズムの骨格においても論理性はなしです。彼の音楽は感覚的でドイツ人の脳みそから出るものとはおよそかけ離れています。しかし、素晴らしい和声の発明の前に理屈は無用。ドビッシーも和声の化学の大家ですがラヴェルは彼オンリーワンの絶対的な魅力で君臨します。

フォルレーヌの構造を分解してみます。主題をABCDEとすると全体は

AA’A”AA’A”ABB’BB’BACC’CAA’A”ADD’DEE’A

となります。Aの楽節は優雅な舞曲のリズムなのですが和声が難渋、奇怪で、ヴァイオリン・ソナタにも見られるラヴェル特有のシニシズムを感じます。B楽節は一転して禁欲的でアルカイックな宮廷円舞です。実に美しい。やや変容したAをはさんで現れるC楽節はプリマの高貴なヴァリアシオン。全曲の華です。D楽節は宴の終わりが近いことを告げる壮麗なファンファーレ、E楽節はシニカルなふらつき、よろめき、そしてAの断片による短いコーダとなります。

僕はA”の部分(楽譜1)に強い思い入れを持っております。心の中で類のない化学反応が起きるからです。ここです。

音で確認しましょう。22秒からこの楽譜です。

丸印の2つの和音!G#m→G7(e)、F#m→F7(d)なのですが、誰しもの予想を大きく裏切る音ですね。この2つは聴いた当初から強烈なインパクトがありました。しかも下に密集して濁りがあり長7度の濁りもあり、それらがなにやら発酵食品のようで美味に感じ陶酔を誘うのです。何度弾いても魅せられます。

さらに予想の裏切りという点であまりに特異なので想像があらぬ所に飛びます。以前に量子力学の入門書を読んでいて「原子核のまわりの電子は光が当たると瞬時に位置を変える」とありましたが、それを目撃した感じがする。G7(e)、F7(d)が鳴った瞬間、奇術のようにぱっと風景の色が変わるのです。

もう一度楽曲の構造をご覧ください。

AA’A”AA’A”ABB’BB’BACC’CAA’A”ADD’DEE’A

青字は繰り返しです。Aが主要主題でA’、A”はその派生主題という具合です。副主題B、C、D、EはAとの関連はなく、各々がB’ C’ D’ と派生主題を持ちます。Aだけが2種の派生を持ち、楽譜1のA”は都合3回現れますからラヴェルはこの回り舞台のような楽節を重視して使っています。

2つの和音の音の混合(ブレンド具合)はピアニストのセンスの試金石です。ラヴェルの音づくりはピアノでもオケでもそういう箇所に神経が行き届いていないと、雑駁な甘さが支配する音楽になりかねません。気品と知性のないラヴェルはただのムード音楽です。

この2和音は同じ音程関係を長2度だけ下方に並行移動したものですが、ラヴェルは偏愛していて全く同じことが第1曲「プレリュード」でも行われます(楽譜2)。

音をどうぞ。1分28秒から楽譜の2小節目になります。同じメロデイが5小節目から下方に長2度平行移動してますね。

ここの2度目が僕は大好きで、なんだか幼い頃の郷愁のような切ない感じがする。和声はというとAm→G7(e)、Gm→F7(d)と、太字はフォルレーヌの箇所と同じことがわかります。自分はそれに感応してる。なぜだろう?まったくわかりませんが、これが和声の「化学変化」なのです。ドビッシーも「映像」を書いた時にその言葉を使っています。2人、それからメシアンにも随所にそれがあって、ドイツ人の音楽にはありません。フランスとドイツ。面白いもので、食事やワインにもそれと共通したものがあります。

ショパン弾きのイメージの強いアルトゥール・ルービンシュタイン(1887 – 1982)は幾つかラヴェルの録音を残しましたが、「クープランの墓」は「フォルレーヌ」だけを弾いています。寂しげなモノローグで始まりますが、A’ でバスの mf をきっかけに瞬く間に加速して感情が高まりあっと思います。ところが、次の A” に入る直前のほんの微妙な “間” ですぐ思い直して pp に戻り、高揚は抑えられ、また A の灰色で幽玄な世界に鎮まるのです。そんなことは楽譜に書いてないのですが、こういう深い「読み」ができるからルービンシュタインはルービンシュタインだったのです。ここで効いてる G7(e)、F7(d) をじっくり味わっていただけるでしょうか?書いてきたことがお分かりいただけるのではと思います。

C楽節はひっそりと清楚に淡々と進みますが和声の感情に合わせたテンポ・ルバートが絶妙で、感じている。彼はラヴェルの和声の求めるものをテンポとタッチで見事に具現します。そして、ここでまたやってくる A” は1度目よりさらにテンポをぐっと落とすのです。何という細やかさ!実に素晴らしい。これほどに A” の和声の薬味を効かせ、抜群の効果(薬効)を醸し出した演奏は他に聴いたことがありません。D楽節もファンファーレは控えめで無用に騒がず、E楽節の直前のルバートは大きめにとっていますがEのふらつきは控えめである。いっさい気品を失わずにシニカルなほろ苦さを後味として残し、静かに曲を閉じます。何というセンスの良さだろう、究極のオトナのラヴェルです。

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ラヴェル 組曲「鏡」(Miroirs、1905)

2020 APR 4 21:21:58 pm by 東 賢太郎

週末は小池都知事の外出自粛要請にしたがって在宅。こういう時にピアノは友だ。その場にある楽譜からまずブラームス交響曲第4番のMov2。最後のE durとC durの痺れるような交差が最高。ベートーベン第九のMov3と終楽章、なんとか最後まで。次、7番のMov2を弾いてみると、どことなく月光ソナタの情景が。そこでそちらのMov1を。ああいい曲だ。なんとも外の雪景色になじむではないか。コロナで殺伐とした気分なのに、ふかくふかく心を癒してくれる(注:本稿は4月1日に書いた)。

ところが、かつて暗譜で弾けていたラヴェル、クープランの墓のフォルレーヌがいけない。指の記憶はけっこう残ると思っていたが、こういうこみいった曲は飛んでしまうようでまた譜読みだ(臨時記号だらけ)。しかしその甲斐はある、ラヴェルの和声創造の秘儀にもう一度感嘆の声をあげられる、これ、大昔に読んで犯人を忘れてしまったコリン・デクスターのミステリーの読み返しみたいだ。

ラヴェルのピアノの譜面は、まるで彼が管弦楽において各楽器の細々したフレージング、音域による音色変化や和声内での混合バランスに微細な神経を使っているように、ピアノから出てくる音のラヴェル的としか表現しようのない響きの「らしさ」に資するべく個々の音の「置き方」が最高度の人智によって巧妙に設計されている。加えて左手の協奏曲などに至ると、そうした立体的ともいえる配置の妙であたかも両手で弾いているように聴こえさせ、トリックを聴衆にかけて楽しむ。

ホフマン物語のオランピア

我々はトリックと知っているのだが、あまりに精巧にできていて、疑う自分が野暮に思えてくるというレベルのものだ。嘘なら嘘で最後まで騙してくれよとしまいにはひれ伏して懇願でもするしかない。さように人工的な音楽なのだが不思議と情緒に訴求するものがあり無機的にきこえない。しかし、だからといって感情移入するとさらっとかわされてしまい、人肌と思って触れてみると実はホフマン物語のオランピアみたいに機械仕掛けの人形でしたという感じである。この特性は組曲「鏡」においてもはや妖術の領域に達しており、譜面を読んでみると初めてオランピアの体内を造形しているネジやバネが即物的なあっけらかんとした姿を見せる。なんだこんなものだったのかと白けるが、通して聴いてみるとまたまた蠱惑の罠にはまりこみ、気がつけば人形の妖術にかかっているのである。

その感覚は後の音楽よりも現代アートに通じるものがあって面白い。まず思い出すのは昨年に瀬戸内海の直島の地中美術館で観たウォルター・デ・マリアのアート「Time/Timeless/Notime」だ。人工的だが宇宙的でもあり、どこか達観してツンとしていながら不思議と感情に訴える。巨大な球に近づき裏側にも回り、そのばかばかしくもあっけない即物性を知るのだが、写真の視点に戻ると荘厳な秘教の神殿みたいな非現実のヴィジョンに再度捕えられてしまう、3次元のだまし絵のような作品だ。

もうひとり、ジェームズ・タレルは光と造形で人の感覚を惑わし、なんとも不可思議で超自然的な調和のある光景を味わわせてくれる。誰も見たことのない景色だが、どこか数学の法則、神の摂理が心に親和性をもって語りかけるようでいて、しかし、まったくの人造物なのだ。これはアリゾナ州立大学にある作品だ。

ジェームズ・タレル「ローデン・クレーター」

ラヴェルにもそういうものがある。何回騙されても面白いミステリーであり、機械仕掛けの蠱惑的な人形である。

組曲「鏡(Miroirs)」についてラヴェルは、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー 』の「目はそれ自体を見ることは出来ない、何か別のものに映っていなければ」を引用しており、以下の5つの曲を友人たちに献呈しながら、各曲を鏡として映る自分の姿を投影している。このメソッドは、例えばドイツの雑誌「シュピーゲル」(Der Spiegel、 鏡の意味)、イギリスの日刊タブロイド紙「デイリー・ミラー」(The Daily Mirror)でおなじみだが、我が国は世相を映し出す「大鏡」が平安時代に遡るから遥かに先進国である。

1.蛾:詩人のレオン=ポール・ファルグに献呈。
2.悲しげな鳥たち:リカルド・ビニェスに献呈。
3.海原の小舟:ポール・ソルドに献呈。
4.道化師の朝の歌:ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシに献呈。
5.鐘の谷:モーリス・ドラージュに献呈。

これらをアナリティックに聴くのはあまり意味がないだろう。ベートーベンのように形式論理(あることはあるが)を見出しても、それでラヴェルに入りこめるわけでもない。そのかわり、これらの自画像には揶揄、皮肉、憧憬、孤独、欲望、畏怖がある。3,4は自身が管弦楽にして著名になったが僕はピア二スティックである1,2,5を好む。ドビッシーは和声を混合して反応させ変幻自在の化学式を探求したが、ラヴェルは同様の試みをしながらリスト伝来のピアニズムにも語法の要諦を託した。それは比較的初期の「鏡」で試行され、のちに「夜のガスパール」で開花する。

ラヴェルをどう聴こうが十人十色だが、デ・マリアやタレルの絵画がしっくりくる僕にとって彼の音楽は宇宙の真空、無音の空間にぽっかりと浮かぶ神秘の方程式であり、どんなに世俗的で怪異、グロテスク、性的に見えていようとその真実は完璧な球体の如く無機的である。しかし、そのひんやりした感触が、たまらず魅力的なのだ。彼の後継者は現れなかったが、意外に思われようが僕はジャズ、それも白人のビル・エヴァンスらのクールなタッチと和声感覚に引き継がれているように思う。

「鏡」が異界の妖術たり得るには、ピアニストは完璧な指回りの技術とタッチの質感とグラデーション、そして10種類を超える音色を要するだろう。これと夜のガスパールは、したがって素人に手の出る代物ではなく、僕の知る限りプロでも満足のいくリアライゼーションを成し遂げるのは至難である。5曲を非常に高い水準で聴けるひとつに、アブデル・ラーマン・エル・バシャの2種の録音がある。比べるなら、旧盤(右)が上だ。お聴きいただきたい。

もうひとつ、こちらも光彩陸離で動的であること出色で愛聴しているエリック・ハイミの演奏だ。鏡とガスパールだけはモノラルの古い録音はどうしてもハンディがある。不思議とクープランの墓、ソナチネはそうでもない。2系列あるのだ。ピア二スト、ハイミ(1958~)は知られていないがアメリカは時にこういう素晴らしいヴィルトゥオーゾを輩出する。このCDの「スカルボ」は僕の知るAAAの演奏のひとつで特筆したい。

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ルフェビュールと大坂のおばちゃん

2020 FEB 3 21:21:17 pm by 東 賢太郎

大坂のおばちゃんみたいと言ったら失礼だろうか?僕にとって大阪は仕事の故郷であり、おばちゃんにたくさん助けてもらって、親しみの気持ちでもあるんだけど・・・。

フランスのイヴォンヌ・ルフェビュール(Yvonne Lefébure, 1898 – 1986)さんのことである。大好きなピアニストだ。

まずはこのベートーベンの31番のレッスンをご覧いただきたい。

凄すぎだ。最後のアリオーソの前のところである。アルゲリッチの鬼神が乗り移った様を思い出すが、ちょっと違う。怒った猫が鍵盤をパンチでひっかいてるようで、それでいて弾きながら眼鏡を直せる。やっていることを言葉にも出せる。完全に右脳型に見えるが左脳もぴったりシンクロしているということで、実はとてもコントロールされている。

ビデオでstage fight(舞台でのケンカ)の話がある。そりゃあこれは指揮者ともめるだろう。メンゲルベルグを激怒させたらしいが、これだけの腕前のピアニストなのに、メジャーレーベル録音というとフルトヴェングラーのK466だけというのはそこに理由があるのだろうか。クレンペラーとやりあったツワモノのヘビー・スモーカー、アニー・フィッシャー女史も有名だが。

さて次はラヴェルだ。彼女はフォーレにも会ったらしいが、まだ幼少で、演奏を聴いてもらったのはラヴェルだと言っている。3分10秒からト長調協奏曲の終楽章があるが、実に面白いので実況中継してみよう。

まず4分8秒で、鞭(ムチ)が鳴らない。打楽器奏者2人はボーっと立ちすくんでおり、事故というより完全な不勉強である。これで凍ったのだろうか直後のホルンとトランペットの掛け合いはもっさりしたテンポになってしまい、彼女は4分23秒からのパッセージをお構いなしに速めに戻す。しかしまだ遅いのだ、それはオーボエがガチョウみたいな間抜けな伴奏をつける4分58秒で、次のパッセージの開始を待たずテンポアップしてしまうことで明らかになる。そこからいきなりピアノは疾走し、やばい、このテンポだとバスーンが崩壊かと手に汗握る。ぎりぎり誤魔化してほっとするが、続くトランペットが速さのせいかへたくそだ。そして、その次の変ホ調クラリネットがついにトチってしまう。その瞬間、彼女は電光石火の早業で指揮者にキッと目をやるが(5分49秒)、怒っているというより「あんた大丈夫?」という感じだ。そしていよいよクライマックスに至る直前、「さあ行くわよ!」と指揮者を鼓舞するが、6分15秒あたりからオーケストラはピアノにおいていかれ(というよりピアノが先走って)しばしアンサンブルはぐしゃぐしゃになる。振り回された指揮者(JMコシュロー)がお気の毒。おばちゃん、寄り切り勝ちだ。

東洋人(日本人?)の弟子が弾くアルボラダのエンディングのコードに一瞬の間を置けとか、ビデオはないがCDのシューマンの子供の情景で、トロイメライの最後のGm-D-Gmの和音になる2度目のレミファラをほんの少しゆっくり弾くとか(コルトーもそうしている)、そんなことは楽譜にない、自家薬籠中の味付けである。ここ、シューマンの天才的な和声感覚でF(ヘ長調)の主調にG7が現れ、この音はけっこうびっくりなので「のばしなさい」とペダル記号とフェルマータがついてる。

それが終わって1回目のレミファラでC7(+9)でぼかしながら、2度目のレミファラに付されたGm-D-Gm(ト短調)が、これ、僕には脳天の中枢におよぶほど衝撃的で、1回目のびっくり(Gのセブンス)が2回目はGのマイナーになっているだけなのだけれど、こういう音を書いた人は他に一人もいない。ここを音符どおりに素通りするなんて考えられない。シューマンはリタルダンドと書いて「だんだんゆっくりね」とは言ってるが、子供が夢の中で何かにはっとしているのがGm-D-Gmだとするなら、それを母のような愛情で慈しむなら、音価よりゆっくり弾きたいと思う。

僕はシューマンが、自然に、音楽の心としてそうなるだろうと記譜していないのだと思う。音価を変えていないのも、決めつけるのではなく、弾き手の心で敏感に感じてやってくれと。最後でまたC7(+9)で夢うつつのようにぼかしながら、オクターヴ下がってラシドのたった3つの音で主調に回帰して深い安息感をもって曲は終わるのだ、ト短調のびっくりから1小節もたたないうちに・・・。

ルフェビュールはそういう風に弾いてくれている。そういう味わい深いもの、心のひだに触れる精神の産物は楽譜に書けない。書いてあったとしても、物理的な速度の増減という無機的なものではない。妙なたとえだが、学生の頃よく行った頑固なおばちゃんがやってた渋谷のんべい横町の焼き鳥屋のタレだ。継ぎ足しで年月をかけて舌の肥えた人が熟成させてきたものが料理本のレシピで一朝一夕にできることはない。

ルフェビュールおばさんはラヴェルの水の戯れを上手に弾いた男性に「とってもいいわ。でもあなたの音はリストなの。ラヴェルが見つけた新しい音は違うの、ヴェルサイユみたいにやってよ」とコーチしている。宮殿の庭の噴水は何度か見たが僕にはわからない、この意味はパリジャンがヴェルサイユと形容した時に感じるものを含んでいる。永く住まないとという性質のもので、ラヴェルの生の音を聴いた人の証言でもある。そして、彼女が奏でる水の戯れの冒頭のパッセージは、言葉もないほどにエレガントだ。

最後に、ドビッシーの版画から雨の庭。腕を高くあげての猫パンチのひっかきが威力を発揮、そこから出る単音のメロディーが蓮の花のようにくっきり浮かび上がるのはマジックさながらだ。圧倒的な説得力。まいりました。

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ラヴェル 「亡き王女のためのパヴァーヌ」

2019 APR 3 1:01:15 am by 東 賢太郎

ラヴェル好きの僕ですが「亡き王女・・」だけは馬鹿にしていて、高校の頃はこんなものは女子供の砂糖菓子と切り捨てていたのです。パリ音楽院在学中にピアノ曲として作った段階では評価されず、後に人気が出ると自分で「形式が薄弱」「シャブリエっぽすぎ」と自虐的な批判をしている天邪鬼ぶりも喝っ!だったのです。男らしくねえな、こりゃオカマだなと。自虐ネタにしたけど彼は実はこれが好きだった、後で管弦楽版を作ってますからね。

バスク地方の位置

曲名は実は後から考えたんで特に意味はないとラヴェルは語ってます。しかしPavane pour une infante défunte(亡き王女のためのパヴァーヌ)のインファン(infante)とはスペイン王国、ポルトガル王国の王族の称号ですから、ヴェラスケスのマルガリータ王女にインスピレーションを得たかどうかはともかく彼は何かを契機として母方(スペイン系バスク人)の血を意識したのではないでしょうか。バルトークのトランシルヴァニアのケースを連想させます。ラヴェルが1932年にこの曲をペドロ・アントニオ・ダ・フレイタス・ブランコというポルトガル人指揮者に録音させているのも連想がふくらみませんか?

曲の形式はA-B-A-C-Aとコンビニのサンドイッチ型で、3枚のパンにハムとレタスが別層にはさまってる、あれです、単なるロンド形式で薄弱もへったくれもないのであって別なサンドイッチを作れるリッチなレシピでなかっただけです。それより何より、B→Aのブリッジ部分の和声が強引でウルトラダサい。ドビッシーの型破りにある洗練のかけらもない。C→Aのブリッジ部分は入れなくていいGmをフェルマータでわざわざ伸ばしたりして、ト短調からト長調(G)への同名調の変わり身は安手のマジックショーのレベルに感じます。

まあ、それは高校生のガキの偏見に満ちた感覚だったのですが、今でもやっぱりそう思ってしまいます。ラヴェルにダサいという言葉は無縁だしそうあって欲しいという願望のほうが大事であり、「なかったことに」で結構な曲という位置づけでありました。しかし、後に多少ピアノが弾けるようになってこれをつま弾いていると、急に分かったのです、ダサさとマジックショーの原因が。

A→B(ロ短調)、A→C(ト短調)、つまりハムとレタスに突入する部分ですね、この転調がクールで異様に美しいわけです。転調はジャンプですが、1度目のBは関係調で控えめにちょっとだけ、2度目のCは同名短調でハイジャンプと順を追って遠くへ旅立つのが心憎い。Cの「入り」は管弦楽版だとフルートが月の光のように冷ややかな音色でアルカイックなメロディ(楽譜)を吹きますが、これぞラヴェル!!というハイライトでいつ聴いてもゾクゾクものなのです。

そうか、ラヴェルはこの瞬間に命を懸けたんだ、凄いのが書けたぞと。そして後悔した、どうやってト長調に戻ろうか?

wikipediaによるとラヴェルはこれをとても遅く弾く意図を持っていたらしく、彼自身の演奏も甚だ遅く、現代のピアニストの誰より遅かった。ただ重ったるくとぼとぼ歩くような演奏は褒めなかった。自作自演の1922年のピアノロール録音が残っていますが、そんなに遅くはないですね、でもこれは録音機器の制約のせいかもしれません。まずはそれからお聴きください。

僕は管弦楽版をクリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団で知りました。そして感じていたのです、最初のホルンのメロディ、ヴィヴラートがきつくて好みじゃないな。お聴きください。

これはクリュイタンスの趣味と思っていたのですが、wikipediaによるとラヴェルは手で音程を調節するナチュラルホルン2本をスコアで要求しており、この方式の楽器は他のヨーロッパ諸国より長くフランスでは使われていてパリ音楽院ではその技術をまだ教えていたそうです。クリュイタンスがその奏法で吹かせているのは、より古い1932年の同管弦楽団の演奏で確認できます。この録音が上述のペドロ・アントニオ・ダ・フレイタス・ブランコの指揮で、作曲家は録音に立ち会い監修したとのことです(ちなみにこの速さは録音の制約と思います)。

感心したのはこれでした。ピエール・モントゥーがロンドン響を振ったものです。このオケのホルンはフランス管と違いドイツに近い重く暗めの音がしますしヴィヴラートもない。だからA-B-Aの部分は音彩が暗く華やぎは皆無です。ラヴェルなのにどうしたのかというぐらい。ところがCの「入り」になってフルートがたおやかに響くとあたりにパーッと光がさす。そこからの色彩の嵐と音楽のうねりというものはもう神技の粋であり、誰がいまこんな指揮ができるだろう?モントゥーがラヴェルの核心をとらえていた証を聴くことができます。

もうひとつ、完全に凍りついたのはブーレーズがクリーヴランド管とやったCBS盤(旧盤)です。録音は1969年7月21日だから同じオーケストラであの春の祭典を録音をする1週間前です。この録音は管楽器の倍音の色彩までブレンドする、まさにあの春の祭典と同じ高度な次元のミキシングがなされている一個の芸術品だ。それにしてもあの彼がこんなポップな曲をやるとは!ボレロを録音したのと同じほどの衝撃を受けました。しかしブーレーズはブーレーズだったのです。このオケのホルンもドイツ的で明るさもヴィヴラートもありません。だから A-B-A はモントゥー同様に静謐で暗色が支配するのですが B の pp のバスが(なんと効いていること!)どっしりとしかしまろやかに全部を包み込み、湿度のあるねっとりしたクオリアを生みます。そこにルバートをかけて入ってくるト長調の乾いたフルートが金色の微光で辺りを一閃する様はダフニスの夜明けのパンの笛に似てる、そう連想を飛翔させる刺激的な音がしています。そこで回り舞台のように空気が変わるが、ブーレーズはモントゥーと違って音彩を散りばめることはなく徹底してクールで通します。僕がこの曲を一音符たりとも逃さず張りつめて聴いたのはこの録音が初めてでした。

ブーレーズは後にドイツ・グラモフォンに同じオケで録音し、大変ゴージャスで非の打ちどころない名演に仕上がっています。しかし、耳あたりは良いですが旧盤とは指揮者、録音技師の音のブレンド感覚がちがう。ブーレーズはだんだん音を心地よく整えるようになり鋭利な神経をむき出したような挑戦的な音がなくなりました。低音の混ぜ方のすごみはなくなり、C は旧盤のマジカルなものが消えて、きれいなオーケストラだなあと感心する普通の美演に落ちてます。

 

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ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ(その2)

2018 OCT 29 9:09:34 am by 東 賢太郎

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

1987年6月のライブ。第1、第2組曲でもちろん合唱付きだ。デリカシーと精密さを生かしたチェリビダッケならではのマニアックな表現である。拝見した彼のカーチス音楽院でのリハーサルは魂のこもったピアニッシモにこだわりぬいていたがその指揮姿が目に浮かぶ。テンポは総じて遅めで、普通は聴こえない内声部まで浮き彫りになってくる部分もあって驚く。通向けの演奏である。

 

小澤征爾 / ボストン交響楽団

たしか就任直後の70年代に出た。ずいぶん録音マイクが近く現実の楽器が見えてしまう。好みの問題だが僕はぜんぜんポエムを感じない。せっかくの良いホールなのにもったいない。ヴァイオリンにかかるポルタメントは嫌いだ。夜明けなどここまで細部を見せなくてもいいだろうに、チェリビダッケは絵自体が細密画だがこっちは普通の油絵の拡大を見るようでそうする意味が全く感じられない。あくまで録音の問題なのだろうが。

 

ダニエル・バレンボイム / パリ管弦楽団

1982年の録音。オーケストラが特に高性能とはいえないがこれが当時のフランスのオケであって、アンサンブルがどことなくがさつに聞こえる部分もあるがなんとなくラヴェルになってしまっているのがむしろ懐かしい。やはり木管の魅力が大きいからだろう。DGがこのころ録音し始めたバレンボイムの指揮は日本では冷遇されていたが僕は当時から悪くないと思っていた。全員の踊りはあまり熱狂には至らないが。

 

ガリー・ベルティー二 / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(ライヴ)

Heliconレーベル。1974年のテル・アヴィヴでのライヴ録音である。第1組曲のみ。オケは好調で破綻もなし。2005年に亡くなったイスラエルの指揮者ベルティー二は97年にチューリヒ・トーンハレでブラームス4番を聴いてとても良かった記憶がある。このダフニスは音がとても生々しく通常のスタジオ録音と同列に語れないが、ここまで合唱が聞こえると逆に貴重であって珍しく、とても楽しんでしまった。

 

ウィルヘルム・メンゲルベルク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

1938年の歴史的ライヴ録音。第2組曲。メンゲルベルクお得意のポルタメントが僕は苦手で、ベートーベンなどは気味が悪くて全部聞きとおす勇気が持てないまま来ている。ここでもそれが全開でロマン派音楽として描かれているが古典派ほどは気にならない。好きかといわれればNOだが、この時期にテンポは現代と違和感なく確立しており、ACOの技術とアンサンブルは問題なくハイレベルなのは驚くしかない。全員の踊りに入る直前に木管が早く入るミスがあるのがご愛敬だ。

 

ピエール・ブーレーズ / クリーブランド管弦楽団(CBS)

1970年4月3日録音。第2組曲。「夜明け」はギリシャではなく北フランスで徹頭徹尾クールだ。ブリテンの《ピーター・グライムズ》(4つの海の間奏曲)の夜明けに近い。黎明の凍ったように動かない灰色の空気が鳥の声のあたりで賑やかになるが、雰囲気を喚起しようという細工ではなくスコアを忠実に演奏するとそうなる。僕はシンセで膨大な時間をかけて全パートを弾いて第2組曲を作ったが、あれはどこまでスコアの情報量をMIDI録音でリアライズできるかという挑戦だった(36才だった)。ブーレーズは本物のオーケストラで同じことを企図したかのようでこれほど細密、精密な再現はこの録音の前にも後にもないという意味で成功している。本稿コメント欄でhachiro様が指摘された練習番号202の3小節前のクラリネットは指示通りの音高で吹かれているが、このパッセージは掛け合いを演じるピッコロ・クラリネット( Mi♭)と交互にppから徐々に音量を増してmfに至る途中に現れ、p(ピアノ)で吹く指示がある。クラリネットを吹ける方に伺いたいが赤枠内をpの音量で吹くことが可能かどうかだ。

というのは、本録音ではこれがmfに聞こえるのだ。故人に確かめようがないが、ブーレーズほどの完全主義者が許容したとはとても思えない(僕には耳障りである)。当録音のクラは練習番号158のヴィオラとのユニゾンが聞こえない程度に距離がありそれが赤枠の音量になるというのは、音高を採るなら音量は増えるという楽器の構造上のトレードオフではないか。だからそれがないピッコロ・クラリネット(pで吹ける)と掛け合いで書いたラヴェルのスコアリングミスと処理してpで吹くことが可能なオクターヴ下げなる手段が広まったのではないか。ブーレーズはここで音高を採ったが後の2つの録音はどちらも音量を採ったということならラヴェルのミスを証明していることになる。シンセの場合この1小節だけ音量操作ができる。懐かしく思い出した。

この録音は恐ろしくマニアックかつプロフェッショナルな演奏の記録であり、少し前の「春の祭典」をリアライズしたスピリットでやったダフニスだ。その方向性を助長する録音技師、プロデューサーがタッグになっており、完全無比を追求するあまりスコアのミスがミスとして記録されてしまった、そしてそれを修正しなかったとするなら底知れぬ凄みすら感じる。完成度は高く、これを聴くと、すぐ後のNYPOとの全曲録音はオケ及び庶民の趣味との妥協が見えないでもない。僕は若いころこの録音にあまり反応していなかったが、40年ぶりに聴きかえして目から(耳から)鱗の思いを味わった。こういうものがさっぱり受けなくなってしまった世の中と政治のポピュリズム化は底流でシンクロナイズしていないだろうか。

併録のラヴェル3曲は69年7月21日収録で、春の祭典(同7月28日収録)の前週ということで面白い。別稿にする。

 

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

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ラヴェル 歌曲集「シェへラザード」

2018 OCT 10 1:01:27 am by 東 賢太郎

料理と音楽ということでいえば、上質のフレンチをいただきながら何を聴けばいいだろう?皆さんそれぞれのお好みがありましょうが、僕の場合、譲れないのはフランス歌曲であってけっしてモーツァルトではありません。

前回書いたように、「食は文化や歴史を味わっている」と思っているのでフランスもの以外あり得ません。それも料理なりに洗練されたものが欲しい、となると畢竟ドビッシー、ラヴェル、フォーレ、プーランク、ダンディ、サティあたりに落ち着きます。

ラヴェルの「シェへラザード」は2つあります。「おとぎ話への序曲《シェヘラザード》(Shéhérazade : Ouverture de Féérie)」(1898)と管弦楽伴奏歌曲集(1904)です。両者は全く別の作品です。前者はラヴェルが同名のオペラを企画してその序曲として書かれましたが成功せず1975年まで出版されませんでした。

ロシア好きのラヴェルはR・コルサコフの同名曲を評価していたそうです。それを弾くのが僕にとっては格好のフラスト解消で、ラヴェルもこのピアノ譜に快感を覚えていたに違いないと思うだけでも仕事の憂さが晴れます。その末裔である歌曲集も等しく愛するに至っているのは必然の理で、音楽は何ら似ておりませんがフランス人の「アジア」のコンセプトは中東、西アジアであり、リムスキーの精神において彼なりに思いっきりエキゾティックな音を書いているのがこれまた快感です。

曲は3部からなります。

第1曲「アジア」 Asie(変ホ短調)

第2曲「魔法の笛」 La Flûte enchantée (ロ短調)

第3曲「つれない人」 L’Indifférent  (ホ長調)

僕はこの曲の歌手にはこだわりがあります。英国人のマギー・テイト(Maggie Teyte、April 1888 – 1976)が絶品であり、ここから抜け出せません。この人はドビッシーが2番目のメリザンドに起用したソプラノで、「ドビッシーは180センチもあって、現れるや言葉もなくピアノに向かって弾き始めました。演奏については学者みたいに妥協のない堅物の完全主義者でしたが、人間としては官能的な感じでしたわ」なんて証言を残してる。このオペラに心酔している僕としては女神様に匹敵し、彼女の録音はすべて傾聴しています。

ドビッシーが演奏について完全主義者だったというのは、そりゃそうでしょということです。そうでなくしてあんな和声と管弦楽が書けるはずがない。ほわっとした印象派のイメージを持たれていますが、それはそういう風に聞こえる和声と旋法のシステムの発明によるのであって、自身語っているように化学者のごとき距離を置いた眼を強く感じます。そこにマギーが見抜いた官能性が纏わりつきますが、これはまったくもって男性の官能ですね、女性的なものはかけらもありません。

メリザンドが残っていないのは惜しいとしか言いようがありません。しかしドビッシーが欲していたのがマギーだったのはうれしい。完全主義者が音程の悪いソプラノ使うことは絶対にあり得ませんからこれもよくわかる。それでいてかわいいけど色っぽい。僕は昔から彼女の声にぞっこんで、それはエキゾティズムが命であるシェへラザードにまことにはまっているのです。第1曲「アジア」です。

これがもう少し良い録音だったらというのはないものねだりですが、その渇望を満たしてくれる一人だけ気に入っているソプラノがいます。米国生まれのアーリーン・オジェー(Arleen Auger、1939 – 1993)であります。もし僕がペレアスの指揮者かプロデューサーをできるならメリザンドはオジェーで決まりですね、さぞ素敵な歌になったろうなあと想像します。

これが彼女のシェヘラザードです。マギー・テイトの雰囲気をたたえているのをお聴きのがしなく。

もしもこれが好きになれないとすると、むんむんする人いきれや熱気がなく清楚にすぎると聞く場合でしょう。たしかにオジェーにそれはあまり感じませんが、伴奏のエルネスト・ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団ともども徹底して静的なアプローチなのです。これはオペラではなく、歌はフランス語のディクションと一体化して楽器のひとつとして造形されています。つまり、オペラではあるがそう書かれていて過度に劇的ではないペレアスの延長にあって、醸し出す雰囲気に至るまでが完全主義的に計算されたという点でピエロ・リュネールに繋がる系譜の作品だというのが僕の解釈です。だから雰囲気さえ出ていればよしと細かいフレーズを弾き飛ばたり、高潮し過ぎてフォルテで声を張り上げたりすべきではないと思うのです(そういう演奏が散見されますが)。

ご参考までに、第2曲「魔法の笛」の冒頭のピアノ譜をお示しします。

ここの胸を絞めつけるように悲しげな和声とギリシャを連想させる古雅な節を吹く笛の音を聴かれて何か思い出しませんか?

これです、ダフニスとクロエの「夜明け」(第26小節)でピッコロが吹くこの非常に印象的な節。両者はBm⇒Amの和声連結が全く同じ。古代ギリシャ・フリギア旋法(全音階フリギア)の音列そのものである点も全く同じです。

どうしてここが「ギリシャっぽく」聴こえるのか長年にわたって不思議でしたが、答えは「全音階フリギアだから」でした。しかしそれが古代ギリシャ旋法のひとつであることは後に書物で知ったことなのです。ギリシャの音楽を聞いた記憶はないし、さらにわからなくなりました・・・。

ラヴェルがギリシャっぽいと感じたかどうかはともかく異国風情を計算の上で「魔法の笛」にあてがった。眠りについた王の傍らでシェヘラザードは窓の外で恋人が吹くフルートを聴いています。楽の音はときに悲しげに、ときに楽しげに舞ってきて、彼女の頬に魔法のようにキスするのです。

この部分に限らず、シェヘラザード(1903)はダフニスとクロエ(1909-12)の下絵の性格を持っていると考えられ、後者がア・カペラ付きの管弦楽に落ち着いたことに照らして考えるならオペラ風に解釈するのは賛同できません。まだいくつか好きな演奏がありますが、逐次追加いたします。

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アンセルメ「ダフニスとクロエ」の魔法

2018 SEP 26 1:01:08 am by 東 賢太郎

ブーレーズCBS盤の録音技師のセンスについて述べましたが、もし同じクラスのものをもう一つといえばアンセルメのラヴェル「ダフニスとクロエ」(1966年、ステレオ)を録音したDecca技術陣を挙げます。個々の楽器音は比較的オンに録って音色成分はリアルに出て分離も良好なのですが、ホール・アコースティックと倍音成分の配合が絶妙であり、格調の高さは筆舌に尽くし難いレベルに達しています。

アンセルメの指揮がまたセンス満点で、ちょっとした品の作りから背景の雰囲気の醸成までぞくぞくするような蠱惑にあふれており、ラヴェルの冷んやり感というか、冷たく紫色に光るピアニッシモをこれほど大事にした録音は他に聴いたことがありません。加えてスイス・ロマンド管(SRO)のフランス色満載の音が絶品がとくるからこのスコアへの偏愛が半端ない僕はどうにもたまらないのですが、この演奏の真価はそうした「色香」だけにあるわけではないのです。

何度聴いても、僕はアンサンブルのごくごく細部まで光る指揮者の眼を感じずにいられません。それは表層の飾りや興奮には目もくれぬアンセルメの覚めた理性であって、どんな微細なパッセージの隈取りや伴奏の和声も奏者まかせの「いい加減」と感じるものがない。意外に聞こえるでしょうがそれはブーレーズ以上であって、ブーレーズが管弦楽の音色の絵画であるならアンセルメはピアノで弾いた墨絵のようで、このスコアの本質をより怜悧に紐解いたものと感じます。それが音の色香を伴って「魔法」を産んでいる。

例えば「夜明け」の遅めのテンポと静謐、これはまだ夜が明けてない薄明かりであって、普通の指揮者は鳥が鳴き始めるとフォルテになりますがアンセルメはそうならないのです。クラリネットとヴィオラの旋律がゆったりと流れる。何という豊饒な時だろう!裏の木管とヴァイオリンの細かな音型が細密に造形され、やがて合唱がひそやかに入ると明かりが見えてきます。2度目の主題が現れてやっとフォルテになって陽光が波しぶきを伴って煌めくといった塩梅であって、僕はまだ長女がお腹にいた時分、家内とふたりで初めてクルージングを経験したアドリア海、エーゲ海の夜明けの情景を思い出します。そう、あれはこうでなければいけない。

全員の踊りも遅めで、アンセルメは安手の興奮など煽る気はさらさらなし。彼はラヴェルのスコアを信じきって、自身がつかみ取っている荘厳な美をレアリーゼすることに徹しています。安手の興奮に慣らされた耳には誠に物足りないでしょう。とんでもない、僕はピアノ版スコアとこの録音があれば、人生退屈するなどということとはまったく無縁なのであります。できる限り良い環境で、耳を凝らしてお聴きいただきたいと思います。

ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

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ブーレーズ版のアリスだった「マ・メール・ロワ」

2018 SEP 18 18:18:56 pm by 東 賢太郎

このラヴェルの「マ・メール・ロワ」が入ったブーレーズのLP、「来日記念」とシールが貼ってあるのでひょっとしてあれかなと調べたらそうでした。ニューヨーク・フィルがブーレーズとバーンスタインを指揮者として来日したのが1974年9月で、このLPは国内ではそれにひっかけて発売されたのですね。

聴いたのは9月5日の以下のプログラムで僕は浪人中でした。そうかこれNHKホールだったのか。1階向かって右手後方であんまり音は来ず、たいして感動しなかったのですが、あのホールだったらどうしようもなかったわけです。アンラッキーでした。

ベルリオーズ/ベンヴェヌート・チェリーニ序曲
ベートーヴェン/交響曲第2番
ウェーベルン/管弦楽の為の6章
ストラヴィンスキー/春の祭典

バーンスタインのチケットがすぐ完売でしたが僕はそっちはまったく興味なく、ブーレーズの春の祭典が生で聴ける、この事実にすっかり興奮していたのです。ベートーベンの2番はたぶんこれが人生で耳にした初体験でした。そんな初心者の時分から春の祭典はスコアごと写真みたいに暗記しており、それ故にブーレーズの旧盤をふくめた異演盤はどれもジャンク(junk、ゴミ)に聞こえるという抗いがたい事実に直面しておりました。困ったことにその「ジャンク」というのが春の祭典というスコアが孕んでいた特殊性による「誤り、または規範から逸れたいい加減」という風な認識だったものですから、以来そういう物や人は許容できないできない性格になってしまいました。ティーンエイジャーの脳みそは柔らかいのですね、僕という人間はブーレーズの音楽が作っている部分が多分にあります。

74年12月に本LPを買ってます。翌2月にやっと浪人生活から脱出できましたが、入試直前に息抜きが必要だったのか余裕だったのかは忘れてしまいました。春の祭典を別格として影響を受けた演奏はいくつかありますが、度肝を抜かれたのはマ・メール・ロワです。針を盤面におろす。つややかに磨かれたホルン2本が木霊のように響き渡り、ティンパニがドンと最高にいいピアニッシモで鳴ってピッコロとフルートの鳥がピヨピヨ鳴き交わすと弦のザワザワが始まります。なんとなんと眼前に忽然と広大なジブリの森みたいな空間が現れ、空気のにおいまで伝わってくるではないですか!音楽からこんなフルカラーのビジュアル・イメージが現れるなんて想像したこともなく、まるで魔法。一発でKOでした。これぞオーケストラの魔術師ラヴェル様の秘儀でなくて何でしょう。この演奏を知らない方はまずそこだけでいいから聴いてごらんなさい。

このレコードはまさに僕が買った実物。ここでこんな風になろうとはお釈迦様でもご存じなかったでしょう。「SQ quadraphonic」と書いてあるでしょう、これが前々稿に書いた当時CBSが売り出し中のHiFi録音で本LPも4チャンネル録音なのです。ジャケットにはこんな「効能書き」が入ってました。

今どき、こんなものはもう二度と出ないでしょう。いや、出たってこういう手の音響操作は「イフェクト」という味もそっけもないつまらない言葉で片づけられてしまうでしょう。

この録音では舞台上に並ぶオーケストラの音場はなくなってます(仮想音場です)。だから You are there ではない。だって楽器に囲まれてますからね、もはや there ってどこのこと?なのです。大阪万博のドイツ館でドーム型の天井を閃光のごとく音が突っ走ったシュトックハウゼンの音場、あれに近い。そういえば万博は1970年でしたね。ビートルズの後期もそうですよ、サージェント・ペパーズが1967年、アビイ・ロードが1969年で、ポップスの世界では仮想音場はすでに実験されていた。ビートルズがいかに驚くべき先進性を持っていたかという証左です。ロックは僕もそこそこ聴きましたが当ブログに「カテゴリー」を立てたいというのはほかに一つもない。「ビートルズはクラシックだ」というqualificationですね。

ブーレーズのCBS録音はマーキュリーのYou are thereの進化形としての仮想音場のコンセプトが昇華した音響作品集であり、そのアプリケーションがヘンデルからブーレーズ自作まで行われたという「時代の産物」だったのです。1974年のこのマ・メール・ロワはその中でも傑作中の傑作であり、最もポエティック(詩的)なバレエ版のスコアを使用したのも抜群のセンスでした。もちろん録音だけで仮装することは不可能で、ニューヨーク・フィルの奏者たちの演奏技術からブーレーズの耳が選び取った音群の勝利だったわけですが、ラヴェルがこう意図したかどうか疑問なほど全曲が一編の「妖精の園」と化しており、マザー・グースをルイス・キャロルが取り込んでしまった『不思議の国のアリス』に近似します。これはブーレーズ版のアリスなのです。

いまやシンセをいじれば誰でもかけられるイフェクト。それは写真というものが誰でもスマホで自撮りできてしまう時代に呼応しているのではないかと思われます。写真家の畏友・S氏によれば、写真の世界において「写真芸術とは何か」という命題が議論されているそうですが、それを想起させます。写真と写真芸術は厳然と区別されるべきと僕は考えます。誰でも撮れるスマホ写真を駆使して生きている我々にとって、写真という2次元の映像はもはやデジタルの記録媒体に過ぎずコモディティになってしまいました。フイルムは不要になって富士フイルムは売上の約半分をヘルスケアが占める業態転換に成功しましたが、米国の雄だったコダックはチャプター11適用で実質上の倒産会社になってしまった。何という激変でしょう。

我々人間の生活は文明の利器である自動車、飛行機、カメラ、テレビなどのインフラ環境によって大きく左右されてきましたが、インフラの変化は誰もが「便利になった」と即座に感じつつも、それが人間の精神に徐々に及ぼす影響については時間がたってからしか気がつかないのです。そして学者が指摘して社会レベルでそれに気がついた時には、人間の方がすでに変わってしまって取り返しがつかなくなっている。そのことは高々半世紀ちょっとを目撃してきた程度の僕でも、おそらく歴史的事実なのだろうと推論するに足るソリッドな現象のように感じられてならないのです。

ブーレーズのレコードをいま再体験して、はっきりと心に浮かんだことですが、皆さんにこういう質問をお送りしたい。こういう写真はこれから無用になってしまうのでしょうか、人の心を打たなくなってしまうのでしょうか?

 

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ラヴェル 「古風なメヌエット」

2018 SEP 16 17:17:34 pm by 東 賢太郎

僕にとってピエール・ブーレーズはル・マルト・サン・メートルの作曲家であると同時にニューヨーク・フィル、クリーブランド管とCBSに録音した70年代前期、楽器のミクロレベルのつややかな音色美を表現の重要な手段として探求し、同時に、ステレオ録音の立体感の中でオーケストラのマス感と個々の楽器の音色美とのバランスをかつてない精密さでコントロールした人として聳える巨人です(写真は1971年BBC SOを指揮するブーレーズ)。

LPレコードの歴史を振り返ると1950年代にモノラルがステレオに切り替わり、後者の再生装置の普及に伴ってHiFi(高忠実度)録音が商業的フロンティアになったのが60年前後です。45年創業と新興のマーキュリーレコードが映画の35mm磁気テープを3トラック録音に利用したリビング・プレゼンス・シリーズにより”You are there” (まるで演奏現場にいるみたい)という新コンセプトを打ち出したのは革命でした。

ラジオ、ジュークボックスからHiFiオーディオへと音楽を家庭で味わう需要の拡大期で、そこに今のシリコンバレーのように資本も才能もが集まる時代でした。70年ごろマルチトラック録音とミキシング技術は最頂点に達し、CBSはクオドラフォニックなる今なら 4.0 サラウンド・サウンドと呼ばれる4チャンネル録音の商業化を図り、”SQ” (Stereo Quadraphonic) という基準でソフトを製作し新市場の開拓を企図しました。部屋の四隅にピーカーを設置するこれも”You are there” の発展的試行でありましたが、SQは技術、コストの制約から商業的には失敗に終わります。

ちょうどその頃CBSが起用したアーティストがピエール・ブーレーズでした。彼がニューヨーク・フィルと録音したバルトークの管弦楽のための協奏曲はマトリックス式の4チャンネルで指揮者をオケがぐるりと取り囲む配置が売りでしたが、これも本作のみの試行で終ります。ブーレーズ起用はSQ技術の商業化としては結実に至りませんでしたが、そのCBSのモチベーションが”You are there” の近現代作品への適用という画期的副産物を産んだ事は後世に幸いでした。

この67枚のCBS盤はそうしたテクノロジーの完成期と、作曲家ブーレーズが指揮者として完成したがいまだ尖っていた時期がシンクロした奇跡の産物で、そこに自分のクラシック鑑賞の創成期もシンクロしていたという意味深い代物です。この中のストラヴィンスキーやバルトークで僕は育ったといって過言でありませんし、今もこの全集は僕にとって音楽の教科書の役目を果たしています。

通して聴くとこれは最高の知性であるブーレーズの音響世界(それは脳内現象だ)の具現化を種々の作品で試行した、彼にとってもラボラトリーの実験的意味合いがあった作品集なのだと感じます。ヘッドホンでの音像は4チャンネル再生に頼らずとも定位の明確なサラウンディングであり、まさに「まるで演奏現場にいるみたい」であります。すべての楽器は至近距離で室内楽のように聞き取れ、オケのマストーンが種々の “ミニチュア・アンサンブル” の集合体であることが手に取るようにわかります。

これが「レントゲンをかけたような」と当時評された印象を産むのですが、個々の楽器の音像はつややかで洗練の極みであり、そしてなによりピッチとリズムが完璧である。普通の人間の聴覚がミリメーター単位とするとこれはナノメーター単位の精度でコントロールされた音であり、ミクロの基本フォルムの美が構成する数学的均整が集積して巨大な全体像を成し、パルテノン神殿やギリシャ彫刻のような犯しがたい美を描き出すようなもの。これは黄金分割のプロポーションをなぜ人間が愛でるかという類の「美とは何か」なる問い(それに物質的解があるのでなく、あくまで脳内現象だ)に雄弁な例証となる音楽事例と考えます。

ブーレーズが支配しているのはピッチだけでなくアンサンブルの精度もそうで、それは厳格なタイミング(時間感覚)であります。これは優れた演奏家の必修科目と言ってよい。タイミングの良くない中でのルバートなどアバウトなだけです。そういうものを人間的と評価する向きも多く、たしかに人間の鼓動や呼吸は時計のようではありません。そうと認めつつも、演奏家の技術として完璧な時間感覚と支配力は絶対的な「説得力の素材」であり、それ抜きにパルテノン神殿やギリシャ彫刻のような犯しがたい美を描き出すことは不可能であります。

ブーレーズの「強靭な」時間支配力の一例として、ラヴェルの「古風なメヌエット」をお聴きいただきたい。この音楽のリアライゼーションとしてこれがベストかどうか、そういう演奏の好悪論を吹き飛ばしてしまう絶対性があるのがブーレーズの特色で、この演奏を遅すぎる、ラヴェルらしい華がないなどという意見も十分に許容しながらも、僕はここに犯しがたい何物かを感じるのです。

この時間の流れは堅固な組成物として実体があり何十トンの圧搾機で押しつぶそうともびくともしない、どこか人智を超えた宇宙的なものである感じがします。素数が割れないように、浅はかな人間のあらゆる試みをはねのける。僕は素数を美しく感じていて、それと全く同じ宇宙の絶対的な美を感じるのです。その時間の絶対性の規律の中で決然と打ち込まれるティンパニが「最後の審判」のような厳しさをもって聞こえます。凍りつくほどの威厳と恐ろしさを伴って。偶然ですがそれが左チャネル上方からあまり定位がはっきりせず降ってくるのが審判という感じを倍加しており、ティンパニの皮の振動が見えるようなボディのある音像が誠に好適です。

そこまで個々の楽器の音の質感(クオリア)の領域でこだわった録音は記憶になく、カラヤンが録音の新メディアに常にこだわったなどという俗物次元の話とは一線を画します。ここでは広い空間を感じるアコースティック(3次元)に時間軸が加わった4次元世界に、さらにクオリアという肌感覚をのせるという、それまでの録音には想像もつかない高次元の聴取体験を味わえるのです。この「古風なメヌエット」はブーレーズのやはり高次元のレイヤーを強く感じるウェーベルン集とまったく同じポリシーで演奏・録音されており、幸か不幸か僕はこの曲をこの演奏で知ったため他の演奏を聴こうというインセンティブはゼロです。

このような次元のレイヤーの構想がブーレーズだけのものなのかプロデューサーのトーマス・Z・シェパード(左)の意図も入ったものかは不明ですが作曲家でピアニストでもあり12のグラミー賞を受賞したシェパードはブーレーズの春の祭典のプロデューサーとしてもクレジットされており可能性は高いでしょう。恐るべきセンスと申し上げたい。この録音はラヴェルのスコアを素材としたブーレーズとチームの音響作品であり、一個の芸術品でもありました。

この全集はブーレーズの脳と自分とを対話させるプロセスを自分の脳がどう感知するかという実験室であって、そこに何を見出すかは個々の脳次第です。あらゆる音楽を聴く行為はそうであるともいえ、何を聴いて快感を得るかは人それぞれだから音楽の趣味はすぐれてパーソナルなもので、ジョークの質で人がわかるのと似た意味でどんな音楽が好きかでもわかると思います。ブーレーズを聴いてショックを受けたのは自分にもそういう要素があったからでしょうが、聴きながらさらにそういう性質の人になっていったかもしれません。

昨今のコストセーブのためのお手軽なライブのCD化などは、これを入念な芸術写真とするならスマホのスナップショットという体の存在で、そんなものを薄弱なPCのスピーカーで再現して聴けばどんどん奇演、爆演のようなものに関心のはけ口が向かうのも仕方ないでしょう。このブーレーズの全集のような、潤沢な才能ある人たちが腕によりをかけて金をかけた本物の音をそれにふさわしい装置でじっくり聞きこむという鑑賞態度がすたれつつあるなら悲しいことです。クラシックという本物中の本物である音楽を聴く以上、鑑賞スタイルも本物を貫きたいものですね。

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