若者の欲望が日本を救う
2013 MAY 26 14:14:12 pm by 東 賢太郎
フランスのTV番組でタコの知能研究をするナポリの研究所の実験を見た。透明なボックスにカニを入れる。それを取るにはノウハウがいる。それを知っている先輩タコがボックス内のカニをうまく食べる。それをガラスで仕切った隣の水槽から新米タコに見せる。さて新米がそのノウハウを学ぶかどうか?答えはイエスだ。タコの知能は高い。こういう結論になる。確かにそうだが、そこには重要な仮定が見落とされている。新米もカニを食べたいという欲望があることだ。あれはまずそうだ、オレは食いたくない。だから学ばない。それも立派な知能だ。
若者は欲望がある。少なくとも年寄よりは。今の大学生の車の保有率は我々世代の3分の1だ。おカネの問題だろうか。いや我々もなかった。これは単なる嗜好の変化なのだろうか・・・。人生観、結婚観や金銭感覚など、どうも欲望が減っている気がしてならない。こうやってシニアが「今の若者は・・・」と揶揄する図式は古代からある人類の困った性癖だが、そこに時代の変化を見る鍵があると思う。同じカニをうまそうだと思わないタコが出現しているとしたら大きな、ある意味で決定的な時代の断絶を感じる。
安倍政権の批判勢力は第3の矢に焦点を移している。成長戦略がないじゃないか!これはおかしい。それは民間のやることだ。役人が考えた事業でうまくいったものを僕は知らない。そもそもそういう才のある人は役所に就職しない。政府の仕事は民間を邪魔しないことだ。しかしそう思って規制を緩和しても、いくら金融緩和しても、民間に「欲望」がなくなると何も起きないのだ。
領土にしてもお金にしても、欲望のかたまりのような連中は世界にうようよいる。日本に入れたら鶏小屋にキツネだ。だから守らなくてはいけない。しかしTPPは米国との取引材料だ。仕方ない。えい!攻めの農業だ。世界に通用する人材の育成だ。これは役人でなくては到達することの及びもつかない独創的短絡思考である。海外を攻めたい農家や若者に必要なのは欲望だ。それがないから引きこもりになっているのだ。やる気のない子供に参考書をたくさん買い与えればハーバードでMBAをとるはずだと言っているようなものだ。欲望と国家政策というのは最も遠い存在である。
非常に皮肉なことに、我が国では奨学金を学生が卒業後に返済できない債務問題が発生している。大学を出れば出世払い、奨学金制度はそういう思想を背景に存立している。出世どころか東大を出ても就職すらできないこともあるのを認める日本で最後の人たちが文科省の役人だ。冷たいかもしれないが、学生はそう思わなくてはいけない。就職を世話してくれない大学や役所が悪いのではない。自分で必要とされる人にならなくてはいけないのだ。欲を出さなければ生きていけないということだ。
これを福祉・年金問題と混同してはいけない。お年寄りや被災者、病人、障がい者ら社会的弱者の生活を守る。これは国家として当然である。しかし学生が中学、高校、大学と来てその先には就職先が予定調和的に用意されていると考えていて、それがないと親や左翼が出てきて悪いのは社会だ、政治だとなるとことは同質的になる。株が上がっても一般人に恩恵はない、と言う政党がある。金持ちだってリスクを取って株を買わなければ恩恵はない。一般人とは誰のことか。弱者だろうか。一般というのは一般に大多数を意味するので、だとすると日本中が弱者だらけだ。だから税収が減って国家財政が赤字なのではないか。
子ども手当が良い政策かどうかはともかく、日本国が長年にわたって何らかの形で身を切ってその弱者を養ってきたことがマクロ的に間違いないことはGDPの2倍もの大赤字を見ればわかる。需要創出という名目であったとしてもだ。弱者党の言うとおりにすると弱者が多数派になり、金持ちに「私を養いなさい」と命令する国家が出来上がる。元気だが何もしない私をだ。そして役人もその私の一部になる。そんな国に住みたい金持ちはいないから海外に逃げる。財政は破綻して全員がもっと貧しくなり、国際的に二等国扱いの屈辱を受ける。これがギリシャの姿だ。
円安でも日本国債が売られないのは国内保有率が高いからばかりではない。日本人には日本人なりの欲望がある。それがドライバーとなって必ず復活して成長する。世界がそう思っているからだ。アベノミクスの第3の矢に期待しているお人よしの外人投資家を探すのは株でもうけた共産党員を探すより難しいだろう。若者の経済的欲望が減ったのは長年のデフレのせいだという意見がある。あの野村証券の営業マンですら、下げ相場しか知らない平成入社はお客さんに株を薦められないというぐらいだからそうかもしれない。だとするとデフレを退治するアベノミクスは大変正しいということになる。健全な欲望を持った若者を国は必要としている。日本を救うのは安倍さんでも自民党でもないのだ。
ショーペンハウエルの人生論
2013 MAY 25 12:12:40 pm by 東 賢太郎
東南アジア出張はやや難儀が伴う。ベトナム(ホーチミン)へは往路は約7時間、復路は約5時間半かかる。帰りはナイトフライトで朝7時着だから眠るしかない。往きが問題だ。高所、閉所が嫌いなので、そういう所にいるという意識は消したい。だからふつうはワインを飲んで寝る。ところが、ここは夜中2時着だからそれだとホテルで眠れない。映画を見て興奮すると着いて眠れないかもしれない。ということで、以前はよく楽譜をもって乗った。これを見ながら頭の中で勝手演奏する。他人のを耳で聴くより集中できる。自分の好きなように鳴らすのだから感動もできる。時間はつぶれて、しかも結構疲れるのでよく眠れるようにもなる。
しかし最近これも飽きたので、今回は本を読むことに。僕は仕事関係の書物は一切読まない。過去にもほとんど読んだことがない。興味もないし役にも立たないから時間の無駄だ。経済書、金融関係書を読んで仕事ができるようになったり投資して大金持ちになったという人を僕は見たことがない。もしそうなら著者自身が社長や起業家になっているだろうから本など書いている暇はない。うまい投資法があるならその実践に忙しくて、それを人に教えて印税で小金を儲けようなどという人は出てこない。
ということで今回はショーペンハウエルの人生論を読んだ。これは最高の機中での暇つぶしだった。昔、一高生がデカンショ節というのを歌っていてそれがデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だとききこれをたしか読んだ。たしか、というのは中身はほとんど覚えていない。今回味読して、当時わからなかったのも仕方ないことに気がついた。これは高邁な哲学書ではない。著者の人生思想であり、著者の嫌いな社交界の俗物やライバルのヘーゲルを平易な箴言をもってこきおろした痛快な思い込みの書でもある。
この書物、文章は中学生、高校生で充分理解できるだろう。しかしこれを味わうにはそれなりの人生経験がいるのだ。ライバルに地位を追われたり、富や名声というものを一度多少は持ってみてその重み軽みを自らの手で斟酌してみるような経験が。それは20代、30代ではちょっと難しく、恐らくはここに書いてあることは大方が他人事でしかない。しかし50代のシニアなら、たぶん心当たりがあろう。こんなに面白く、時にはニヤリとし、時には隣の座席の人に憚りながら笑いをこらえるというたぐいの人生論はあまりないだろうと思う。
人のあり方(人品、健康、力、美、気質、知性など人の中にある宝もの)が幸福の源であり、外的に得られるもの(富や位階、他人にどう思われるかという印象、名誉)はそれを変化もさせなければ幸福を生む源でもない。人間の2大苦は困窮と退屈であり、内なる宝を持っている人にとって退屈はないから「困窮のない余暇」、孤独こそが幸福である。そういう人は、最大の敵である「同時代人の嫉妬」に妨げられてなかなか評価されないが、いずれ必ず、嫉妬のない後世の知性によって良いものは良いものと評価される。現世的な名誉の効果は擬態的な尊敬にあり、徹頭徹尾、大衆に見せるための喜劇にすぎない。だから内なる宝を持たない人、つまり名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われることになる。
伸びのある高めのストレート!実に小気味よくズバズバと決まる。
彼の主張に我ながら見事に共感するし、自分がそれをわかる年齢になったという感慨も深いが、彼が人生哲学(要は思い込みだが)を語るための「哲学としての方法論」、この書のおそらく最も優れた部分はそこにあろうという関心も持った。そして、そういう所に58歳になった自分という人間の投影を観る。内容が平易だけにショーペンハウエルの知性と技巧の切れ味がわかる。これは音楽であればプロコフィエフの古典交響曲なのだ。
著書なんていうものは鏡のようなもので、猿が覗けば、天使の顔は映らない (リヒテンベルク)
(こちらへどうぞ)
憲法改正論議に思う
2013 MAY 21 1:01:26 am by 東 賢太郎
今日は法律家の旧友とよもやま話に花を咲かせました。やっぱり関心は憲法のことですね。
安倍政権が参院選の争点としようとしているのが憲法改正です。有識者、マスコミの間では9条改正と、(手続法である)96条改正とは性質が違うというのが大きな論点となっています。改正要件が国会の3分の2か過半数かというと、これは大きな差でしょう。両院過半数の与党であれば実質的に国民投票だけで改正でき、そのような安定多数の与党が選出されている状況下では国民の過半数というのも現実的なバーになります。同質的な意見が比較的甘いチェックで成文化され得る国家というのは歴史的に見てもある種の意思決定の誤謬を起こしやすい、つまり市民が安心して住めない国であるリスクを内包しています。そのリスクとは民事よりも、国家権力が市民の自由を抑制しえる刑事分野にあるのではないでしょうか。
周知のように我が国は法治国家であり現行憲法は罪刑法定主義をとっています
第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない
しかし、友人と別れてから思いついた素人考えですが、「法律の定める手続によるならば」それをしてもいい、しかも問題は手続であり実体法の有無には言及がないというのは96条改正の場合に上記のリスクをうかがわせるのではないでしょうか。例えば徴兵制(自衛隊か他の名称の軍隊かは問わず)となった場合、法律はなくとも兵役忌避者を軍法会議にかけるという手続きを踏んで刑罰を課すことは本当にできないのかということです。憲法学者、弁護士の方にぜひお聞きしたい点です。こういう重要な論点を国民に分かりやすく説明せずに96条改正が是か非かだけを選挙で問うというのは危険でしょう。
法律というのは読んだことのない人の常識とかい離していることも多く、仮に読んでも多くの人が良く理解できるものとは思いません。例えば「刑法」という何年も牢屋に入れられるかもしれない法律を知って生活している人は専門家を除けばごく少数でしょう。
刑法199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する
これが殺人罪というものだということは199条を知らなくても誰でもわかるでしょう。では、脅迫罪はご存知でしょうか。さらに進んで、脅迫罪と恐喝罪の違いがわかるでしょうか?
シンプルに言いますと、
刑法第222条 生命、身体、自由、名誉又は財産をおびやかすと言って脅すと2年以下の懲役又は30万円以下の罰金、となります(脅迫罪)。親族に対してそれをすると脅しても同じです(同2項)。
一方、
刑法第249条 人を恐喝して相手を恐れさせ金品を要求して交付させた者は10年以下の懲役になります(恐喝罪)。これは未遂でも犯罪になります(刑法第250条)
はて何が違うのか?恥ずかしながら僕も完全に忘れていて、友人の講義で知りました。脅迫は心への犯罪、恐喝は金品を脅し取る財産犯罪なのです。だから恐喝の方が罪が重い。罰金刑がなく確実に刑務所行きです。もちろんSMCに関わる皆さんがこんな卑劣な犯罪を犯すことはおろか被害にあうこともないでしょうが、仮にやってしまうと恐喝の場合は脅迫よりも5倍も長く刑務所に入る可能性がありますし、5年ですむこともある殺人罪の2倍も長いこともあり得る重罪であることがわかります。時効は7年です。そんなこととは知りませんでしたではすまされないのです。
恐喝というのはいわゆるカツアゲという恐ろしいものですから善良な市民である皆さんにはあまりに非現実的でしょう。でもこれはどうでしょう。ホームページ、ブログ、メールで他人の悪口を書くこと。
名誉毀損罪(刑法230条)
公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず
3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
「公然と」というのは、ホームページ、ブログは当然ですが、メールであっても「数名に」発信すれば当たってしまいます。「事実を適示」とは、「具体的に人の社会的評価を低下させるに足りる事実を告げること」ですが、それが「事実」でなくウソでもいいのです。「人の名誉を毀損」。 これは現実に社会的評価が害されている証拠は不要で、「その危険」があれば当たってしまいます。これはけっこう身近に感じませんか?(SMCの皆さんにはもちろんあるまじきことですが)。これは親告罪ですから被害者が黙っていれば警察に呼ばれることはありませんが、一触即発という事例はたくさんあるそうで、これも「そうとは知りませんでした」ではすまないのです。時効は3年です。
ことほど左様に、法律と市民生活というのは現実論としては遠い存在なのかもしれませんが日本国民である以上私だけは関係ないということはないのです。冒頭の話題に戻れば、僕自身は9条改正(自民党案)に大きな違和感はありません。しかし、96条改正においては、政治家を縛るべき存在の憲法が容易に改正される、つまり市民生活を国家権力が冒しやすくなるわけですから、選挙の時点でこの問題も「そうとは知りませんでした」という有権者が過半数という事態は避けなくてはなりません。殺人犯や恐喝犯をかばう必要などまったくありませんが、善良な市民のあらぬ行為が新しい法律で取り締まられるという土壌が形成されやすくなるというリスクは、あくまで一般論ではありますが、個別に慎重に検討を重ねる必要性が大であると考えております。
カープ対マリーンズは困る
2013 MAY 20 19:19:15 pm by 東 賢太郎
今QVCマリンでやっているカープ対マリーンズは困ります。カープファンになったのは判官びいきだからです。弱い方を応援したくなるのは生まれつきの性格でどうしようもありません。同じく弱かった国鉄スワローズも2番目に好きでしたが強いヤクルトはまったく興味ありません。ロッテファンになったのは会社と30年もの長いご縁があるからです。チームカラーも大好きです。だから交流戦でこの2チームがやるのは気持ちが「ホコ盾」状態になります。しかしやはりロッテへの愛着は何物にも代えがたく、カープが勝ってしまい喜んでいる自分がいるとちょっといかんとつい思うのです(昨日は負けましたが)。そのぐらいロッテには良くなってほしいし、いかなるデメリットも、その芽でさえも、排除したいのです。ロッテの方々がどんな分野であれいつも真摯に僕の意見を聞いて下さる責任は極めて重いからです。
ホームラン7本の怪
2013 MAY 19 17:17:01 pm by 東 賢太郎
セパ交流戦、ロッテ対ヤクルト(神宮球場)でのことです。ヤクルト・バレンティンの12本は別格とするとロッテ井口の5本がここまでの両チーム最高のホームラン数でした。要するに巨人のように長打力のあるチーム同志の対戦ではなかったのです。先発はヤクルト小川、ロッテ成瀬、。小川は創価大卒の新人ですが和製ライアンとして活躍中ですから投手戦と見ていました。ライアンに似ているのはあげる足だけで球質はどうでしょう(ライアンの実物を見たことないのでわかりませんが)。球速は140km前後しかないのですがとにかく重そう。5回までロッテは芯に当たらず外野にほとんど飛びませんでした。かたや、これも実物を初めてみましたが成瀬はキレも球威もなく5回までに4本もホームランをあびました。バレンティンの2発は完全な失投で会心の当たりでしたが中村(それまで2本)と比屋根(それまで0本)のはフライかなと思ったのが意外に伸びて入りました。驚いたのは5-0で完封ムードの9回表、かわった山本哲から早川(それまで0本)、根本(それまで1本)がともに流してレフトスタンドへ。井口は特大のバックスクリーン弾でした。結局それで終わって5-3でヤクルトの勝ち。得点は全部ホームランで合計7本、うち6本がソロという花火大会のような大味な試合でした。去年はおじぎしていたライナー性の飛球が伸びて入る感じで、ミズノが飛ぶボールにスペックを変えたという噂がありますがそうであってもおかしくないような気がしました。
クラシック徒然草-僕の好きなウィーン・フィルのCD-
2013 MAY 18 9:09:04 am by 東 賢太郎
「僕の好きなウィーン・フィルCD」の番外編です。
リヒャルト・シュトラウス 「ばらの騎士」 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 (55年11月16日、ウィーン国立歌劇場こけら落とし公演)
僕が一番好きなオペラCDのひとつ。ばらの騎士はチューリヒ等で3回、そしてザルツブルグ音楽祭ではカラヤンとウィーン・フィルで聴きました。しかしこのCDのライニング、ギューデン、ユリナッチ3人の女声の蠱惑にまさるものではありません(特に僕はユリナッチが好きなので)。そしてクナです。練習嫌いで好き勝手な演奏をしていたイメージがありますが、シュトラッサーによるとすべて暗譜しており高度な指揮技術があって振り間違えたことは一度もないそうです。なぜスコアを置いて振るのかと尋ねられたら「僕は楽譜が読めるからね」と答えたのは有名です。「皆さんはこの曲をよく知っています、私も知っています。では何のために練習しますか」と言って帰ってしまった逸話も有名ですが、その時の公演がこれです。
練習場が響きの異なるアン・デア・ウィーン劇場だったので「諸君も私もここで練習することを望んでいない。ではゲネプロで会いましょう」だったという説もありますが、僕はこの説が事実で、面白おかしく尾ひれがついたのが通説と思います。R・シュトラウスを得意としたクナは56回も薔薇の騎士を振っていて、おそらく当時この曲を最も知り尽くした指揮者でした。オケと女性歌手3人は前年にエーリヒ・クライバーとこれを録音しています。だから合わせるのはゲネプロで充分で、むしろクナは本番では良い流れをつくって自発性、緊張感を重視したのだと思います。そして結果はまさにそうなっています。ライブなりのアンサンブルの甘さや声のうわずりはありますが、それこそクナが望んだものでしょう。スタジオできっちり整理された演奏よりよほど面白く、今そこでこの曲が無から生み出されているのに立ち会っているようです。録音も、とてもなまなましく、絶好調かつ貴族的なウィーン・フィルの音が聴こえます。オーケストラピットに近い特等席で聴くよう。なんという贅沢でしょう。この奇跡的な録音が残っていたことを天に感謝するのみです。
シベリウス交響曲第4番、交響詩タピオラ ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルに春の祭典をやらせたのはショルティが最初かもしれませんが、録音したのはマゼールが初めてです。そのレコードが出た時は興奮しました。大学時代です。しかしワクワクしてレコードをかけてみると祭典フリークの僕としては極めてロースコアのマンガ的演奏。ねこが無理やりお手をさせられているのが面白いだけの二級品でがっくりきたのを覚えています。以来一度も聴いていません。最後の20世紀巨匠のひとりマゼールは昨年N響に来て法悦の詩(スクリャービン)をやりましたがオケが良く鳴るなあ(これは立派)というだけのものでした。しかし8歳でニューヨーク・フィルの指揮台に立ちモーツァルト以来の神童と言われたこのロシア・ユダヤ系アメリカ人指揮者は若い頃にすごい録音をいくつか残しています。1963年、彼が33歳のときに録音したこのシベリウス交響曲全集は今でもウィーン・フィルによる唯一の全集ですが、その中の4番とタピオラを初めて聴いたときの衝撃は一生忘れません。
このオケにとってシベリウスの4番は春の祭典以上に共感のない曲でしょう。しかしこの演奏は最高に素晴らしい。鳴りだした瞬間から得もいえぬ緊張感で金縛りにあい部屋は極北の雪原に様変わりします。氷が張りついたような冷厳なスコアなのですがこんなに人の息吹を感じさせない大自然に放り込まれたような寂寞感を音楽から感じた経験は一度もありません。しかし灰色一色の水墨画的風景かというとそうではなくウィーン・フィルの音彩がくっきりと浮き出た強いメリハリと自己主張のある構造的な演奏なのです。相容れないものが同居している。マゼールとウィーン・フィルという別々の個性がぶつかり合って非常に微妙な均衡のもとに一期一会で成り立った奇跡的な演奏です。交響詩であるタピオラはより明確に情景を喚起します。樹氷の森の中、突風に舞いあがった雪が粉のようにきらきらと陽光に輝きながら落ちてくる半音階フルート・パッセージ!世評の高いオーマンディーの演奏と聴き比べれば僕の言いたいことがお分かりいただけるでしょう。これは映画館かディズニーランドで見る霧氷の景色です。部屋は暖かいのです。ちなみにマゼールはピッツバーグ響とシベリウスを再録していますが、極北の風景と気温は消えています。
ブラームス交響曲第2番 フェレンツ・フリッチャイ指揮
48歳で白血病で亡くなったハンガリーの名指揮者フリッチャイは死の2年前にザルツブルグ音楽祭でイドメネオを振りましたがそれが好評でウィーン・フィルとの追加演奏会が開かれました。そのライブがこれです。第1楽章からフリッチャイの声(歌?)が聴こえ音楽に没入しているただならぬ雰囲気です。第2主題はテンポを落としてじっくり歌い抜きます。第2楽章中間部のチェロ主題の呼吸の深さ!音楽は止まりそうなほどに心がこもり、こんなにロマン的なこの楽章の味わいはめったにありません。第3楽章はオーボエソロを始めウィーン・フィルの魅惑的な木管がちりばめられ至福のひと時です。第4楽章のトゥッティの入りは全楽器が息をひそめて飛びかかる緊張感がすごく、フリッチャイの気合いを入れる声が聴こえます。
フリッチャイがウィーン・フィルを振った録音も珍しいのですが、さらにこの演奏、ほとんど練習していないぶっつけ本番という様子で、気合いが入りすぎ気味の棒にウィーン・フィルが必死に合わせているという意味でも珍しいものです。ということでこのオケとは思えないミスがあります。少々はいいのですがコーダの金管のミスだけはいただけなく、この曲をまだ覚えていない方にはおすすめできません。あくまで通のかたに第2,3楽章を聴いていただきたい。
ハイドン 交響曲第100番「軍隊」、101番「時計」、104番「ロンドン」 モーゲンス・ウエルディケ指揮
市場にはLPしかないようで恐縮ですが買う価値があると思います。ヴァンガード録音で契約上ウィーン国立歌劇場管弦楽団と書いてありますが、これがウィーン・フィルと同じものであることはもう拙稿でお分かりでしょう。ハイドンはこのオケにとってお国ものであり誇りでもあります。ハンブルグ生まれのブラームスは交響曲88番の第2楽章を聴いて自分の交響曲の緩徐楽章はこのように聴こえなくてはならないと言ったそうですが、ソナタ形式音楽の父としてだけではなくウィーン的な音楽情緒の範もそこに見出していたのではないでしょうか。そのようなチャーム、ウイット、ユーモアが堅固なソナタという宝石箱におさめられてきらきらと光り輝いているのがハイドンの音楽なのです。
ウェルディケ(1897-1988)は作曲家ニールセンに学んだデンマークの指揮者で、ハイドン学者を義理の息子に持つハイドン演奏の大家です。ウィーン流の優雅、流麗さなどどこ吹く風でティンパニを強打し、ベートーベン奇数番号につながる自己主張を見せる104番(ロンドン)が僕は好きで、こういう骨太で彫の深い演奏をウィーン・フィルにさせたウェルディケの手腕に拍手です。オケの方もバリリの頃の色合いを残したコクのある音が懐かしく、タテにそろわない合奏のバランスも古風です。アンサンブルが交通整理されてきれいではあるがどこか蒸留水のように味気ない現代オケのハイドンへのアンチテーゼです。
ベートーベン交響曲第3番「英雄」 カール・ベーム指揮
フルトヴェングラーは楽譜の背後に自分が読み取ったものを重視し、その表現のためには楽曲の構築美は従属的となる場面が多々ありました。ベームにそれはありません。あくまで音楽自体の持つ自然な美に忠実であろうとする意思を感じます。したがって、ドイツ音楽において構築美というものは美の重要な要素ですから、それを従属的に扱うという選択肢はないのです。それがもの足りない人には「ベームのスタジオ録音はつまらない」と評されましたが、それはない物ねだりというものです。先日TVで、宮大工の名匠が、弟子が一人前になるには「10年毎日鉋(かんな)の刃を研ぐことのみ」と言っていたのを見てベームを思い出しました。職人気質の頑固おやじだったベームは指揮者に肝要なのは「音楽の常識だ」と言い、
その常識に添うようオーケストラには厳しい練習を課してウィーン・フィルにも恐れられていました。しかし幸いなことにベームの持っていたドイツ系音楽演奏の常識というのは、私見ではフルトヴェングラーやカラヤンのそれよりずっと普遍的であり、また、現代の指揮者があえて構築美を前面に出そうとするような場合に感じる力こぶや作為もありません。今やろうとするとそうなってしまうものが「当たり前」という良い時代だったのであり、その時代の大らかさも感じる演奏で、練習が厳しいと言っても紡ぎだされる音楽は骨ばった北ドイツ風ではなくオーストリア風の流麗でチャーミングなものです。フルトヴェングラーには「恋人」だったウィーン・フィルはベームには「正妻」がふさわしいでしょう。これは最晩年にそのウィーン・フィルで録音したベートーベンの交響曲全集(上)のエロイカです。この全集、田園ばかりが名演とされ有名ですが、
このエロイカこそがムジークフェライン大ホールにおけるウィーン・フィルの音を見事にとらえ、その音響、残響、両者のブレンドが 「要求」 する最良のテンポとダイナミクスで演奏されている理想的な例としてぜひお聴きいただきたいものなのです。あの名ホールに聴衆を入れずに演奏するとこういう音だろうという絶妙の音です。このテンポが「遅い」のではありません、この音だとこのテンポになるというのがベームのいう「音楽の常識」なのです。ホームグラウンドでのウィーン・フィルを知り尽くした指揮者のもと、オケは盤石な演奏で応えています。百花咲き誇るあでやかな木管、コクのあるウィンナホルン、深い森のような弦、もしこれが良い音で聴こえないようなら再生装置がクラシック音楽と合わないと思われた方がいいでしょう。録音技術がベームに間に合ったのを感謝したいと思います。一つだけ、オタクレベルの話を記しておきます(一般には無視して結構です)。非常に微細な差ではありますが、右のKarl Bohm Edition(日本プレス盤)はドイツプレス盤と比べると音のバランスが良くありません。同様のことは高音質を謳ったブルーノ・ワルターのソニー・リミックス盤でもあり、かなり古い録音に許容度を持った設定になっている僕の装置でも高音のぎすぎすしたものでした。これを初めて聴いたらワルターを嫌いになる人もいるでしょう。それほどではありませんが、この日本盤もできれば避け、中古でもいいのでドイツ盤を探された方がいいでしょう。
PS
ベームは1977年6月にFM放送があったシューベルトの8番、9番のムジークフェラインでのライブが素晴らしく感動的で、天国からの響きのようで、いつまででもひたっていたい名演でした。これはカセットに録音したものをCDRにして今も愛聴しています。人為的ないやな刺激音や指揮者の体臭など一切なく、音楽はシューベルトが書いたままの自然な姿を紡ぎ出して神々しい高貴さをたたえながらコーダへ向けて高揚していきます。こういう音楽空間は何千回の演奏会に一度というものでしょう。僕はベームのこういうところに宮大工の棟梁を思い出すのです。ベルリン・フィル、ドレスデンskとのCDも良い演奏であり世評も名演との誉れ高いものですが、法隆寺、東大寺のようなこれに接してしまうともう別物です。
同じく1977年の8月、やはりNHK FMで放送したムジークフェラインでのライブでゲルト・アルブレヒト指揮のシューマン交響曲第2番。度肝を抜かれる大名演でした。これもカセットに収めたのですが、度重なる海外での引っ越しに紛れて紛失してしまいました。もし可能なら何としてでも手に入れたいです。
お知らせ
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
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運気について
2013 MAY 18 0:00:41 am by 東 賢太郎
昨日は半ばあきらめていた案件が復活、成就しました。今日は午後2時に東証1部上場企業である某社の社長がお見えになり、あるプロジェクトについて弊社ソナー・アドバイザーズ(株)を顧問として契約したいというお申し出を頂戴しました。夕刻には別案件につき進展がありました。
このところ胃が痛いお話はいたしましたが、ときにはこういう時もあるものだと不思議な気持ちです。麻雀なら3回連続で親満をツモッたというところでしょうか。起業して2年半、大変苦しい時期もあり良い思い出は何もないのですが今月になって少し運気が向いてきたのかもしれません。
運について僕は持論があります。「運は誰でも同じだけ持って生まれてくるが努力してつかもうと思っていないとやって来ても気がつかない」というものです。いろいろな経験からそう思います。ど真ん中に来たホームランボールで見逃し三振をくらうほど人生もったいないものはないでしょう。
これから日本株はどうなるか?
2013 MAY 17 1:01:45 am by 東 賢太郎
日経平均株価が1万5千円を突破しました。アベノミクスが効いたことは間違いありません。どうしてこうなったのか?これからどうなるのか?少し書いてみましょう。
頭が良くて馬鹿 (ラ・ロシュフコー) とは? (2012年11月20日投稿)
なぜ自民党が勝つと円安、株高なの?(reprise) (2012年12月20日投稿)
に僕が書いた通りのシナリオ、つまり「日銀白川総裁を切った」ことこそ安倍さんの勝因です。そして彼の意を受けた黒田新総裁が2%のインフレターゲット(幸せの魔法の合言葉:2012年11月22日投稿を参照)を宣言したこと。これに尽きます。
間違わないでください。2%を目標値としたからではありません。「やる」とコミットしたこと、それをグローバル金融界が信じたこと、これが大事なのです。「頑張ります」じゃない。日銀総裁の首を吹っ飛ばしてまでやるんだ、逆らってみろお前ら大損するぞという凄味を世界のトレーダー、運用者が感じたからです。安倍総裁の眼(2012年12月17日 投稿)に僕が感じて書いたことを、世界の肉食系の金融界や投資家は見抜いているのです。しかも、「円安のためじゃないぞ、諸悪の根源、グローバル資本主義経済の敵であるデフレを潰すためだ、文句あるか!」です。これは米国も欧州もNOと言いにくく、TPP参加と引き換えにまあいいだろうという円安容認姿勢を引き出すことに成功しました。この筋書きさえ確定すれば日本のいにしえのブルーチップは主に輸出企業で円安になればもうかる、しかも株価はボロボロでしたから「株を買うしかないよね」という明白な結論に至るのです。正確に言えば、買うことのリスクは低くアップサイドは大きく、他人が株を持って自分が持っていないリスクは高いという状況になるのです。なぜ円安かというとデフレを発射台とした2%インフレターゲットというのはかなりハードルが高い。だから相当の流動性供給を日銀がしないと届かない。国債や株式まで買ってもお金(お札)をばらまくわけですからお金(円)の相対的価値はかなり下がるだろうと皆が予測します。だから円安になるのです。しかしそういう経済学が大事なんじゃありません。繰り返しますが、コイツら本気みたいだぜという凄味があるからたまたま経済学どおりに事が運んでいるのです。円安がどこまで行くか、日本株がどこまで上がるかは、このドスがどこまで効き続けるかということを最大の決定要因としています。目先の3月期業績発表なんかではありません。1-3月の実質GDPは年率換算で3.5%の成長でしたが、これはアベノミクスを受けて個人消費が意外に早めに好転している兆候と考えられなくもありません。ということは物価も意外に早めに上がってしまい、2%インフレは日銀がお札をばらまくまでもなく達成というシナリオも見えてくるのです。とすれば円安も減速ですからそれを理由とした株高も減速です。経済成長が鈍い、お金の需要が低いほうが株が上がるという「妙な上げ方」をしているのがこれまでの株式市場だと言って大きくははずれていません。だからロングショートストラテジーのヘッジファンドは苦戦しており、知名度の高い株を何も知らずに買っている一般個人投資家が大もうけという、これも妙なことになっているのです。つまりマネタリーストラテジーによる上げ相場は限界が来るということ、これは間違いありません。私見では参院選を契機として7-8月ごろに前述のドスの効用がチェックされ、4-6のGDP次第で本当の勝ち組企業にマネーがシフトするはずです。とすると9-12でまた株価は上がります。自民党が大敗することがリスクですが、現状を見る限りその可能性は低いでしょう。
胃カメラと色弱
2013 MAY 15 14:14:38 pm by 東 賢太郎
僕は頭痛と胃痛を知りません。いや、知らずにここまできました。周囲からは、うそでしょ、うらやましいねといわれます。うそなはずありません。かたや、図太いんですねと皮肉を込めていわれることもあります。自分を図太いと思ったことはありません。胃も頭もけっして丈夫なのではなく、単に鈍感なのだと思っています。
というのは理由があって僕は小2のときに何とか式の色覚検査表で最初のページしか読めず、たしかそういう子はクラスに2人しかいなくて、自分は頭が悪いんだと思い込んでいました。なぜ読めないかという理由がわかってからも、それ以来頭のどこかに、自分は他人とちがう、ちがっていて普通なんだという意識がしっかりと住みついてしまったような気がします。
これが原因でいじめられたり劣等感が焼きついてしまったりしなかったのはどうしてだかわかりませんが、とにかく幸運なことでした。もちろん58歳の今になっても検査表は最初のページしか読めないはずですが、だからといって人生なにか困ったかというと大きなことは思い当たりません。運転はできるし、絵や景色も少なくとも僕なりには充分きれいなのですから。
初めての道を覚えるのが苦手なのは色というマーカーの種類が少ないからかもしれません。でも2度目に迷わないのはたぶん他のマーカーを余計に気にしているからで、万事こうやって脳みそがうまく補正回路を作ってくれてきたのかなと思います。人間の体は良くできていますね。それから、いちど服やネクタイを選ぶとき「実は色がわからないんです」と堂々と言ってみてください。たぶん売り場の人は親身になって似合うものを探してくれます。自分で決めないというのは、気楽なこともあるんです。
結局、頭痛も胃痛も、僕にはわからない色みたいな感じに思ってきていて、そういう他人とちがうものを許容するようになっているのが「鈍感」の意味です。
ところがこのところ過労がたたったせいか、とうとう僕も胃が痛い?という異次元空間に迷い込むことになりました。?がつくのは、べつに痛くはないわけで、でも普通ではないわけでもあって、きっとこれを世の中では胃痛と呼んでいるんだろうと解釈した次第なのです。内科の医師にも正確にそう伝えたところ、不思議な顔をされました。う~ん、ちょっと調べた方がいいですね、という言葉があり、あろうことかそれだけはカンベンと思っていた胃カメラを飲みましょうということになってしまったのです。
痛くなったことがないのですから、そんなものを飲んだことも飲みたいと思ったこともありません。そう決まって血圧を測ったら普段上が100飛び台なのが160もあり、またまたびっくりです。いかに図太くないかということです。そして、きのうついにその日が来てしまいました。囚人の気分でした。鼻からだったのと看護婦さんがやさしかったおかげでなんとかカメラが胃に届いた感じがしました。「スクリーンをご覧ください」。医師の声にこわごわ目を開けると、そこには自分の胃の画像がドカンとありました。異(い)なるものとはこのことです。
「う~ん、痛々しいですねえ。普通白いんですけど赤いでしょう?」
「赤い?」
赤緑色弱の僕はだめな色なんです。人の顔色もわかりません。ところが、なんと確かに赤い。僕に赤く見えるということは、きっとすごく赤い。そう思ったので顔の方はいっきに青くなっていたでしょう。
「先生、これはやばいんでしょうか?」
「いえ、癌も潰瘍もありません。でも胃炎ですね。かなり荒れてます。薬を飲んで当分お酒はやめましょう。」
ということで騒動は一段落いたしました。いい経験でした。自分とは一番縁がないと信じていた病名を告げられたこと。そして、自分の胃を見たことがです。
自分の体内を見るというのは、自分も焼肉みたいな肉のかたまりというか、単なる物体なんだという厳粛な気分にしてくれます。自分のものなのにそうではない。意思によって胃袋は動きませんから。どこか神様か親のものみたいな気がしてきて、借り物なのだから大事にしなくてはという決意のようなものがうっすらと湧き起ってきたのです。
僕の場合、これまでの人生、マラソンというよりも短距離走のようなペースで走ってきました。頂上を目指せとか少しでも速く、先へ、遠くへという声が背後で聞こえていました。医師に「そういうトシということです。いつまでも20代のつもりじゃだめですよ」と諭され、そんな気は毛頭ないつもりだったのですが、そのあまりの鈍感にあきれかえった胃袋がウォーニングを出してくれたのかなということです。
友人にそれを話すと、
「欲を捨てる、体に無理をかけない、がんばらない、上を目ざさない、ストレスをためない、というのが鉄則だよ」
とのこと。しかしパブロフの犬とはこのことで、僕は「鉄則」などという言葉が耳に入るとそれだけで「がんばるモード」にギアが入ってしまいます。ストレスをためちゃいかん、そう考えただけでストレスがたまるのです。A型、完全主義の僕にこれは無理です。
そこで、大昔に、野球でたまたま完封したりゴルフで75を出したりしたときだけに感じたあの不思議と力の抜けた感じ、つまり「ポーッとして勝敗もスコアも何も考えてない」、これからの人生はあれがいいんじゃないかと思い至った次第です。勝とうとか、がんばろうとか、打たせないぞとか、このパットを入れたら云々、とか一切なし。「邪念を払う」と言ってしまえば簡単なのですが、野球もゴルフもそもそも勝とうと思ってやっているわけですから、その目的ごと「邪念」と切り捨ててしまうのは、実はとても難しいと思います。
仏教のいう色即是空というのはどういうことなんでしょうか。修行も積んでいない僕が知るのは言葉だけにすぎないのですが、「この世にあるすべてのものは因と縁によって存在しているだけで、その本質は空(実体がないもの)である」。これはとても深いことを言っているんじゃないか?これが「あの感じ」のことなんじゃないか?以前からどうもそんな気がしてなりません。打者の姿もグリーンのピンの位置も、ぜんぜん「空」になってしまっていたあの時に僕の人生ベストパフォーマンスが現れたというのは事実なので、どうも偶然の一致とは思えないのです。
色即是空の「色」というのは色彩ではなく「目に見えているもの」という意味だそうです。しかしその色彩すら不十分に見ている僕に見えているもの。それが本当は何であれ、結局のところ本質は一つしかない。空(くう)である。日本人男子の95%、白人男子の92%とは「ちがうもの」を見ている赤緑色弱とされる人たちにとって、そんなことでいじめられたり自信を無くしている多くの子供たちにとって、またその親御さんたちにとって、この言葉は深くかみしめるべきものかもしれません。本質を見ていればそのほうが仏様に近いのであって、本質はなにもないとわかっていれば恐れることはなにもないのです。僕が見た自分の胃、あれがなぜかちゃんと赤く見えたのはなにか因と縁がある。だから養生しようと、いま僕は思っています。









