元巨人軍の角 盈男投手のお店
2023 FEB 10 23:23:26 pm by 東 賢太郎
恵比寿の駅近にある「昭和歌謡曲バー m‐129」というお店。我が世代には懐しいムード満点でおすすめです。元巨人軍の角 盈男投手が奥さんとやってます。
「あのね、カープファンなんです、すいません」「こちらこそ、カープは稼がしてもらいました(笑)」「そうでしょ、テレビ中継でね、1点負けてて『ピッチャー角』ってアナウンスきくとね、嫌なの出てきたなっていつも思ってましたよ(笑)」というのが初対面の挨拶。
もろ同世代なんで盛り上がり、あのころの有名選手の裏話を教えてくれ、今の野球界の監督事情などええそうだったのかという面白い話が満載。楽しかったですね。1978年にドラフト3位で入団して新人王。巨人のリリーフエースで、オールスターに2回出場、日米野球ではメジャーリーガー相手に7連続奪三振をやった人とは思えぬ気さくさ。ちょっと仕事で疲れてて最高の息抜きをさせてもらいました。連れてってくれたFくん、ありがとう。
これがその店、そのテーブル、その席でした。
https://youtu.be/xbq0y8xtPh0
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ブラームス4番とマタイ受難曲
2023 FEB 9 2:02:11 am by 東 賢太郎
音楽には「味」というものがある。「味があるね」という味ではなく、そのものずばりの「味覚」であって、舌を耳に置きかえたような感じだ。これの大半は和声(和音)というものに由来している。これを感じるのに理屈はいらない。初心者でも容易にわかるし、わかれば鑑賞が楽しくなる。
そういうものだが、本稿ではその存在を実証的に確かめるため、理屈を探求してみる。音楽という芸術はこれができる。絵画や文学にはない数学的要素があるからで、僕が深みにはまってしまった原因もそこにある。クラシックの名曲というものはそれほど精巧にできていて、まさに神は細部に宿る。ここではたしかに味の素があるのだということだけご覧いただければよく、その副産物としてブラームス交響曲第4番のご理解が少しでも深まれば幸いだ。
以前にクリストファー・ガニングの作曲した名探偵ポアロの主題曲について書いた(ポアロの主題曲はどこから来たか?)。スコアはないので耳コピだが、主題曲(ト短調)の主旋律のバスを辿っていくとg-f-es-d-c-b-a-asの最後のところでaにa/g/des/es、asにas/ges/c/dの和音が付く。各々のコードネームはE♭7(-5)、D7(-5)だ。半音平行移動だが単純化してg➡gesだけだとDsus4➡Dであり、ドミナントが確保されトニック(Gm)に戻る機能を持たせていることがわかる。
D7(-5)はD7の第5音を半音下げたものでas-dおよびges-cと増4度2つから成るほろ苦い音である。TV版のアガサ・クリスティーはほぼ見ているがこの主題曲の変奏が随所に現れ、情景や心理の描写が実にうまい。さすがプロの作曲家だと唸るしかない。g-f-es-d-c-b-a-asは何でもないバス・クリシェだがこれを歌ってくると最後の a-asであれっとずっこけ、霧の中で沼にずぶずぶっと足をとられたみたいになる。なんともミステリーの幕開けにふさわしいこの味を出してしまう和声というものの奥深さを見る。
掲題に関係ない曲の話をなぜするかというと、だいぶ昔から思っていたことだが、J.S.バッハ「マタイ受難曲」の終曲 ”Wir setzen uns mit Tranen nieder (我ら涙流しつつひざまづき)” はブラームスの4番と同じ「味」がすると思っていたことがまずある。先日、しばし両曲をピアノで弾いていて、その説明が和声でつくのではと思いあたったからだ。
主題を似せれば誰しもが引用を悟る。和声も連結(プログレッション)なら引用への認識を喚起できる(例・ハイドンの交響曲第98番とジュピター)が、単体ではよほどのインパクトがある和音でなければ気づきにくい。
では両曲のどの和音がその役割をしているのだろうか?結論を先に書いてしまうが、短2度で主音とぶつかる軋むような h (赤丸)がそれだ。マタイ受難曲の終結を告げる悲嘆と慟哭の音である。これはハ短調主和音(c-es-g)の根音cを半音下げた増三和音Cm(+7) だ(gを欠く)。
ホ短調のブラームス4番ではそれが長3度上に移調され、同じ悲嘆と慟哭をもたらすEm(+7) となっている。各所に散りばめられているが、最も象徴的なMov1の冒頭とMov4コーダのピアノ二手版を示す。赤丸内の和声がそれである。
いきなり現れるこのMov1第1主題は音列 h-g-e-c-a-fis-dis-h である。これは終楽章コーダ(次の楽譜)の伴奏部(赤丸内)にそのまま現れる。
楽譜はこのビデオの38分04秒から。
この合致はシェーンベルクが十二音技法につながるセリーの萌芽と解釈し、ブラームスを新ウィーン学派の始祖に位置づけている。赤丸の音列をdisが受け止めるのに注目されたい。この音こそが主音のeと短2度で衝突し、マタイ受難曲の悲嘆と慟哭の音を生む。和声はコラール再現の直前の小節でCとEが複合しc-e-gisとなるが、これは4度上に移調した同じAm(+7)である。かように同曲は開始と終結を増三和音の「味」でリンクさせ、円環形に閉じている。
52才のブラームスは4番を最後の交響曲として書いた。そこで主題音列(h-g-e-c-a-fis-dis-h)をハンマークラヴィール・ソナタ第3楽章からもってきたこと(我が仮説)はここに述べた(ベートーベン ピアノソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィール」 作品106)。ブラームスの最初に出版された作品はピアノソナタ第1番 ハ長調であり、20才の彼はこれをフランツ・リスト、クララ・シューマンの前で弾いた。当時、ベートーベンの難曲第29番を弾けるのは地上に2人だけとされたが、それがリストとクララである。2人は称賛し、シューマンはその才能に驚嘆して讃えた。名実ともに、彼はここで世に出た。
この冒頭主題がハンマークラヴィール・ソナタと似ていることは当時から指摘され、ブラームスは否定した。しかし彼が何と釈明しようと、我々が無関係であると主張するにはそれなりの根拠と勇気がいるだろう(僕はその両方とも持ち合わせない)。初めて交響曲を構想するのに20余年もかける慎重居士だ。はい引用ですなどと手の内を明かすはずがない。むしろ楽曲にcode(暗号)を仕掛ける側の人だった(クララ向けが著名)。彼は最初の作品で引用したハンマークラヴィール・ソナタから、最後の交響曲の主題も引っ張ることで人生の円環も閉じようと計画したと僕は考えている。それも暗号だ、この曲が最後ですよという。
しかし、Mov1冒頭主題が同ソナタMov2由来だということに人は気づくだろうか?僕は確信しているが、21世紀になってもその主張は見たことがない。暗号は伝わらないと意味がなく、ブラームスも疑念を持ったのではないか。そこでまずエロイカを範に終楽章を変奏曲とし、シャコンヌという古い革袋に仕立てた。形式、旋法、管弦楽法の擬古性は先人への敬意を示す暗号である。それをJ.S.バッハのBWV150の “一聴瞭然の引用” で補強する。これで後世は気がつくだろう。バッハがいるならべートーベンもいないはずはないと。これも暗号である。
ではバッハはBWV150で終わりだろうか?いや、それは表の引用で、実は本命が潜んでいるのだ。彼が “裏code” にしたかったのはマタイであろう。なぜ裏かというとブラームスの信教に関わるからだ。ドイツ・レクイエムにもそれは見え隠れするが、彼がユダヤ人キリスト教徒だったかもしれないという仮定を置くなら『マタイによる福音書』は特別だ。この書は、
イエスはキリスト(救い主)であり、第1章1〜17節の系図によれば、ユダヤ民族の父と呼ばれているアブラハムの末裔であり、またイスラエルの王の資格を持つダビデの末裔として示している。このようなイエス理解から、ユダヤ人キリスト教徒を対象に書かれたと考えられる(wikipedia)。
からである。若き日の作品1の方法でBWV150をカムフラージュとして使用し、マタイの引用は和声というエーテルを漂わせることに留める。その和声の正体は前述した。マタイ受難曲を知る誰しもの耳に焼きついているであろう最後の最後の和音、カラヤンがベルリン・フィルとの録音でこの世への惜別の如く長く長く引き伸ばしている増三和音Cm(+7)がそれである。マタイのアイコンであると同時に、4番のアイコンにもなったこれを聴き分けるまで鑑賞すれば4番は皆様の「命の音楽」になるかもしれない。
かように音楽の味と和声の関係は深淵だ。ポアロ主題は第5音、マタイ終曲は第1音を半音下げて、たったそれだけのことで原音にはない「苦味」と「悲しみ」を生んでいる。オクターブを12等分したからそれがあるのであり、増三和音D7(-5)とCm(+7)は固有の感情に紐づけされて音楽の神秘を形成する。12等分は12進法と同じほど人為的なのだから実に不可思議なことだ。むしろ紐づけされるように人間の方が創造されたのかもしれない。
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ロス・マクドナルド 「さむけ」
2023 FEB 7 12:12:50 pm by 東 賢太郎
ロス・マクドナルド(1915 – 1983)はアメリカのハードボイルド小説の大家レイモンド・チャンドラー(1888 – 1959)、ダシール・ハメット(1894 – 1961)の後継者とされる。チャンドラーはヴァン・ダインと同期、ハメットはアガサ・クリスティの4才下であり、マクドナルドはエラリー・クイーン両名より10才、ディクスン・カーより9才若い。本格派の開祖は「スタイルズ荘の怪事件」を書いたクリスティと思うので英国産、ハードボイルドは米国産で1920年代から始まる。同じミステリーといっても楽しませ方のフィールドは全く異なるので私見では別物である。
マクドナルドが「さむけ(The Chill)」を自作のベストとしているのは知っていたが、なかなか手にする機会がなく今回初めて読んだ。入りの「つかみ」は快い。情景が浮かびすいすい読み進められるが、だんだん人物が増え、「登場人物」にない人物まで意味ありげに描かれるとやや集中力が落ちたのが正直なところだ。一人称ゆえ探偵リュウ・アーチャーという人間が印象に焼きつき、心理、情景の描写が手が込んでいる(この点の素晴らしさは特筆に値する)分だけ彼はエッジが効いた知性を持ちクールな男に描かれる。フィリップ・マーロウのように熱くなったり無闇に乱闘に巻き込まれたりにはならないのである。だから読者は賢明である彼の見立てを信用するだろう。その分だけ容易にミスリードされてしまうことになるわけだ。結末の1章の絶大なインパクト、犯人の意外性はそれによるところが大きいが、その頂点に至るべく重厚な伏線を張ってきたのだ。筆者に存分に引きづり回された挙句に精緻に作りこまれた驚愕をもって横っ面を殴られるみたいな驚きである。ベストに推すだけあるなと唸ってページを閉じた。
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68才の誕生日に思ったこと
2023 FEB 5 2:02:01 am by 東 賢太郎
68になった。まず毛筆を習って上達した家内が書を、そして息子が小田急線の昔の写真集をプレゼントしてくれた。ありがたい。家内安全がなにより。それ以上に望むことはない。家族を守るために仕事をする意識は特にはないが、僕が自分を満足させるためにやっていれば自動的にそうなることは間違いない。
自分を満足させるというのは簡単ではない。興味ないことは一切やらないから、興味のある我が仕事は仕事でなく趣味である。40年やったこれで本気になれば負けるということはない。その気になるかどうかだけであり、それには満足して元気に生きていることが必要だ。その原動力は好奇心である。
「自分を突き動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね」
石原慎太郎はこう言ったが、僕は、
「好奇心とは、結局、自分に対する好奇心でしかない」
と思って今日まで突き動かされてきた。同じことかどうかは知らないが、多分違うだろう。
ブログを読み返すと昔のことばかり。これが自分らしい姿だと思う。高校時代から俺は何ができるのかと悩み、もがき、満足せず、やっては道端に捨ててきた。振り返るとその遠景が見える。もう関係ない残骸ではあるが思い入れはある。それを見て次は何かと思いをはせる。これを半世紀ずっとやっている。
生きることは何らかの夢をめざすことでなく、降りかかる難題を懸命にさばくだけで精一杯だった。そうしないと一人前でなく、生み育ててくれた両親に恩返しできないと思ってきたからだ。そしてそれは去年の5月に、すべて終わった。
ということはもう振り返る必要もない。勤めは果たしたからそれに悩む必要もない。ひとつだけ満足なのは、こうして見るに、難題をさばくことに懸命だったという一点において自分は絶対に逃げずにぶれのない人生を送ってきたことだ。
年末にパニック障害になった。こんなものを背負って生きていくのも嫌だなと思っていたら、神山先生の薬であっさり治ってしまった。なぜかいつもこうして運が救ってくれる。効いたのは薬なのだが、先生の所へ行こうとなった経緯は運でしかない。
あとどれだけ体が元気かわからないが、名実ともに余生に過ぎない。僕は他人にどう見られるかは全然興味ない。だから権力も権威も名誉もいらない。そういうものはすべからく他人の目を気にする人々の必須アイテムだが、死ぬときは誰も一人だ。道端に捨てるしかない。捨てるものを求めるための人生は空しい。
捨ててきたものはもう戻らない。つまり過去は虚無だ。未来は知り得ないからこれも虚無だ。ということは現在しかない。いま楽しい、嬉しい、おいしい、きれいだ、そういうものだけでいい。誠に自分勝手の現世礼賛、ぱっぱらぱーに聞こえるが、誰にとっても実は人生はそういうものではないだろうか。
なぜなら、覚えてるのはその当時にあった「現在」だけだ。その時に思い出していた過去や、夢見ていた未来は記憶にない。残るのはそれが「現実」となった時だけだ。最後にそれがたくさんあれば幸せな人生だったとなる。だから、そういうものをいかにたくさん味わえるかだけを考えて生きればいいのではないか。
動物はまさにそうだ。明日や昨日はない。だから虚無に惑わされたり怯えたりということはない。あるのは今、それも食うことと生殖だけだ。動物並みが良いというのではない。しかし、過去や未来にこだわるのはいいがそうこうしているうちに現在の喜びを忘れ、動物より不幸な人生になってる人はいないだろうか。
例えば、俺は動物でいいよ、食うことと生殖だけで満足だとしよう。そのためにはお金が必要だから仕事する。食事と生殖より仕事する時間の方が絶対に長い。だから死ぬ前になって思い出すと働きづめの人生だった。権力も権威も名誉も実はお金の為でした。あれ、動物でいいよどころか動物以下だとならないか。
僕はお金にも働いてもらう。そうならないことを願って。しかし、それが過ぎて自分で使えないほどの金額を稼ぐのに人生を捧げる気はまったくない。音楽鑑賞しても1円のカネにもならないが仕事より多い時間をかけて生きてきた。動物はこういうことはしないからそれ以下ということはない。これで足りる。
社会のために何かするということもあったろう。石原氏は議員や都知事をやって偉かった。しかし明らかに僕にはそういう才能も関心もないからそういうことに時間を使うのは不幸だ。やりたい人はたくさんいる。免罪符として税金を払って、僕は自分が好きで満足することに100%時間を使う社会的自由はあろう。
そのことでいえば僕がモーツァルトが素晴らしいと書いても彼の音楽がどうなるわけでもなく、傑作は傑作であり、結局は彼の音楽が気持ちよくしてくれ、そうなる自分に満足しているのであって、実は自分が可愛いだけだ。そうなるように生んでくれた両親とその自由をくれた家族に感謝し、大事と思ってるだけだ。
こういう人に老後という言葉はない。死ぬまでこれだ。誠に自分勝手の現世礼賛だがそれ以外の何物でもないのだから仕方ない。自由な時代に生まれて良かったと思うし、日本国に感謝する。しかしこれは国のため命を懸けて戦い、散っていった先人のお陰なのだ。それを忘れてこれをするのは人の道に反する。
政治にああだこうだ言うのは国が道を誤らぬために必要だ。それを生業にしてお金を稼がないと不幸だという人でもいないよりはましだ。ただしその連中を含めてこう思う。先人を忘れるなら国民は全員キリシタンになればいい。守るふりだけして安寧を貪る君側の奸をのさばらせれば日本はなくなる。
僕の物凄く幅の狭い関心事の上位に鉄道、野球、猫、天文、クラシック、ミステリー、資産運用がくる。早い順だ。この7つが増えることは多分ない。ということは余生は子供に戻ってこの砂場の中で遊ぶことになるだろう。
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僕が聴いた名演奏家たち(ジャンルイジ・ジェルメッティ)
2023 FEB 2 1:01:07 am by 東 賢太郎
我が家が引っ越したフランクフルト➡チューリヒは南北に約300kmで東京~名古屋ほどの移動だった。かたや、モーツァルトのパリ就活旅行(ザルツブルグ➡パリ)は東西に約900km、東京~広島ぐらいのデコボコ道を馬車で進んだ大移動であり、さらにそれを往復となると気が遠くなる。この地図はその4都市の位置を示している。
この地図の中で我が家は5年暮らした(息子は生まれた)。モーツァルトもコンスタンツェも代々この地図中の家系だったわけで、同じ空間にいたと思うと感慨深い。アロイジア、コンスタンツェのウェーバー家はバーゼル近郊の黒い森の町が故郷だから彼女たちはほぼスイス人といってよく、そこはチューリヒから車であっという間だ。
出張は別として、フランクフルトから旅行をしたのは、ローテンブルグからミュンヘンに下るロマンティック街道、ストラスブールとその近郊のバーデン=バーデンは2度滞在し、ハイデルベルグは数回、バンベルグ、ニュルンベルグはX’masに、ザルツブルグは音楽祭など。ところが北は家族で行ったのはベルリンだけで今となると意外だ。どうしても南に足が向いてしまったが、プロイセンよりバイエルンが好きなのだということがこうしてふり返ってみると分かる。
そのひとつにシュベツィンゲンがある。マンハイムの近郊でハイデルベルグの南西10kmにある街で、プファルツ選帝侯の夏の宮殿と桜のある庭園が有名だ。「選帝侯」は神聖ローマ帝国の君主(ローマ王)に対する選挙権を有した諸侯でドイツに7人しかいない。他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有し、当然ながらリッチであった。マンハイムが音楽の都であったのは権力者がここにいたからで、シュベツィンゲンは王の別荘地だったのである。
7才のモーツァルトは1763年7月18日、父レオポルトと姉と共にシュヴェッツィゲンを訪れ、選帝侯が宮殿で開催した演奏会に登場して喝采を受けた。毎年その城内劇場(「ロココ劇場」)で行われる「シュベツィンゲン音楽祭」はクラシック音楽ファンには著名だ。ちなみにドイツ最大の美味のひとつシュパーゲル(白アスパラ)の栽培を始めたのはここであり、開催はドイツ中がアスパラに舌鼓を打つ4~6月である。
ドイツ圏の音楽祭は会場が分散する所がある。近場でやっていたラインガウ音楽祭がそうだし、ザルツブルグ音楽祭もしかりだ。ここもそうで主会場はロココ劇場だが宗教音楽はシュパイアー大聖堂で行われる。1994年はリヒテルが来ていたがそれは聞けず、5月6日に大聖堂のジャンルイジ・ジェルメッティ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団によるロッシーニ「小荘厳ミサ曲(Petite messe solennelle)」を聴いた。僕は教会の音響が好きでリスニングルームは石壁にしている。典礼は何度か聴いたことがあったが演奏会は恐らくこれが初めてだったと思う。印象に強く残っている。「小」ではなく70分の大作。ロッシーニ最晩年の傑作で、同曲はジュリーニでロンドンでも聴いた。
ジェルメッティ(Gianluigi Gelmetti, 1945年9月11日 – 2021年8月11日)は知らない方も多いだろう。僕もこの時に聴かなければそうだったと思うが、セルジュ・チェリビダッケ、フランコ・フェラーラ、ハンス・スワロフスキーの弟子で、指揮姿は無駄がなく美しい。歌、リズム、ニュアンスとも最高。当代イタリアを代表するロッシーニ指揮者としてアバド、サンティを継げる人だったと思う。ラテン系のレパートリーは水を得た魚だがドイツ物もシューベルトのグレート、ブルックナー6番がyoutubeにあり、ヘンツェの交響曲第7番を初演するなど現代の音楽にも適性が非常にある素晴らしい指揮者だった。シドニー交響楽団のシェフを最後に76才での訃報を最近になって知った。惜しい。1度しか聞けなかったことが痛恨の極みだ。
きかなくても彼のボエームがいいのはわかる。ああ劇場で体験したかった。
ローマ歌劇場の「ヴォツェック」をUPしていただいたのは嬉しい。ここではジョコンダを聴いたことがあるがこれは貴重だ。非常にいい。ジェルメッティの半端でない守備範囲をお分かりいただけるだろう。
春の祭典。見事な演奏。指揮が運動神経抜群なので手のうちに入ったオケが確信をもって弾けている。サントリーホールでこれを体験した方がうらやましい。
最後にラヴェルを。これまた極上、本当に素晴らしい。このCDは僕の宝物だ。買うかどうか迷ったが、ドイツのオケというのが気になったからだ。まったくの杞憂であった。冒頭の地図をもう一度見ていただけばシュトゥットガルトがほぼフランス文化圏でもあることがわかる。ラテン的なクラルテで硬質な響き、たっぷりと夢見るように歌う暖色の弦、涼やかに青白いフルート、きれいなアクセントで明滅する木管、流れるようにからまる油質の横糸、決然と刻むリズムで赤く熱していくアタッカ。これだけ多彩な絵の具を弄して描いたラヴェルはそうはない、まさしくセクシーだ。
5年前に同CDから「クープランの墓」だけ切り出していた。
これを墓碑としてお見送りすることになった。素晴らしい音楽を有難うございます。ご冥福をお祈りします。
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コンスタンツェとアロイジアの蹉跌
2023 JAN 30 2:02:42 am by 東 賢太郎
マンハイムは僕が3年住んだフランクフルト・アム・マインからアウトバーンをぶっ飛ばせば30分ぐらいの南にある。この地図のなかで21才のモーツァルトは青春の蹉跌をたっぷりと味わっている。1777年に母と一緒にパリに向かう最中のことだ。まず父の故郷であるアウグスブルグで19才の従妹マリア・アンナ・テクラ・モーツァルトと意気投合し火遊びにふける。これは後にベーズレ書簡と呼ばれることになる恥ずかしい一連の手紙が残っていなければ闇の中だった(現に息子は廃棄を主張した)。父レオポルドの手紙はばっさり処分したコンスタンツェがなぜそうしなかったかは謎であり、それに対する僕の見解は「戴冠ミサk.317」の稿に書いた。
父の洞察力はシャーロック・ホームズのように鋭かった。そんな所で遊んでる場合かと檄を飛ばし、息子は後ろ髪をひかれながら従妹と別れて乗り込んだのがマンハイムだ。今はいち地方都市だが当時はプファルツ選帝侯の宮廷があり羽振りが良い街だった。宮廷はヨーロッパ最高の管弦楽団を所有して「マンハイム楽派」として後世に特筆されるほどハイレベルな音楽家たちが集結していた。頭領格のシュターミッツはボヘミア出身で父子とも楽団のバイオリニストをつとめ、ここで腕を磨いてパリに出た。モーツァルトはモッツ・ハルトでチェコ系という説があり、シュターミッツを範にレオポルドは子にバイオリンも仕込み、行先はパリという点からもその出世街道をイメージしていた可能性が大いにある。
しかもマンハイムはドイツ人がドイツ語でドイツ音楽をやる原点の都市だった。ロココから古典派への橋梁を成し、楽団に管楽器を入れて交響曲を量産し、ハイドンへの基盤を作った。ここ出身でストラスブール大聖堂の典礼音楽を仕切るフランツ・クサバー・リヒターのミサは私見ではモーツァルトと同格の質の高さで、帰途に寄ってそれを聴いた彼も暗にそれを認めており、老人でアル中のリヒターは長くないかもと冗談とも本音ともつかぬ手紙を書いている。つまり、イタリアぬきでべったりドイツであるマンハイムは彼が認められて何らおかしくない土壌だった。しかし、実力者のカンナビヒ家に歓待されはしたが、なぜかそうはならないのだ。何がいけなかったのだろう?
しかしモーツァルトはそんな危機感はそっちのけで写譜師ウエーバーの娘、16才のアロイジアに一目ぼれし、うつつを抜かしてしまうのだ。同業者仲間であるレオポルドからよろしくと頼まれていても、なんだこいつはになってしまうのは今も昔も変わらない。これがまずかったのだろう。そして彼女に歌わせるためレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、私は告白しよう…どこより訪れるのか私は分からぬ」(K294)を書く。これは歌の形をしたラブレターだ。これを歌ってモーツァルトを喜ばせたアロイジアの歌唱力はそれだけのことはあったものだから、彼の中にはあらぬ妄想がむくむくとふくらんでしまう。
お父さん、彼女の歌は凄いんです、僕がアロイジアとユニットを組んでオペラを書けば王侯貴族の引く手あまたになり、巷でも大人気になります。モーツァルトはパリなど眼中になく父への手紙でそう訴え、結婚だけしたいのではない、我々にとって経済的にいいだけではない、ウェーバー家は生活に困窮しているので助けてもあげたいのだと論点をすり替え、困窮ぶりを父に印象付けるため子供は息子も入れて6人もいると嘘までついている(四姉妹で息子はいない。父はこの家族を知らなかったことがわかる)。
こういう趣旨の熱い手紙を送ってきた息子に対し、レオポルドの洞察は鋭かった。お前は夢中になると他が目に入らず、何もかもが「あばたもえくぼ」になり、世間の常識など吹っ飛ばしたとんでもないことをしでかすのだ。馬鹿なことを考えるんじゃない。そんな娘にうつつをぬかしてどうする、世の中はそう甘くないんだ。決めた通りに紹介状を持って早くパリに行け!
この父子のそれぞれの気持ちが僕はわかってしまう。小学校の頃、帰り道で毎日立ち寄っていたM君の家の広い庭。そこに地下室を作ろうと僕はひらめいたのだ。そしてM君とお母さんを説得し、2人して毎日放課後にスコップでせっせと穴を掘った。1mぐらいのところで放送作家のお父さんが心配になり、我が家に電話が入って大激震が走る。お前は馬鹿かと激怒した父が先方様に平謝りして計画は頓挫したが、僕の頭の中では地下室は内部まで完成していたのであり、いま誰にも文句をつけられない自分の家でその通り実現している。
モーツァルトが「アロイジアと結婚してユニットを組めば凄いことになる」と父に熱く書き送ったのは、だから僕には本気感満載としか見えない。「凄いこと」はおまけであって彼女が欲しいだけなのだが、とにかく大言壮語ではなく大真面目であることはアルカンドロのアリアの難しさを聞けばわかる。二人とも十分な実力はあった。でも十分に世間知らずだったのだ。こういう性格は死ななきゃ治らない。3人の親になった僕はそういう馬鹿息子を持った我が父の心配もレオポルド氏の危惧も理解できるようになってはいるが、実のところいまだにそれをしでかしかねないし、誰かがしでかしても責めることはないだろう。
結局のところマンハイムでもパリでも見合う仕事のオファーはなく、1778年2月をもって就活は失敗に終わる。フリーランスがなかった時代だ。オン・ディマンドの働き口はまだなく、ピアノや作曲の腕がいいぐらいで雇ってもらえるわけがない。貴族の家来になるのだからまず第一に「愛い奴」でないといけないのだ。しかし生意気なはね返り小僧だった彼はそもそも仕官は不適格で、だからこそザルツブルグを飛び出たわけであり、パリへ行けばいいという安易なものではなく、その後ウィーンへ行ってもやっぱりだめだった。
父が苦労して貯めた資金はパー。しかも母を旅先で亡くしてしまった衝撃は彼を苦しめ、眠れぬ夜が続いたろう。帰途で心の灯を求めマンハイムに寄るが、アロイジアは引っ越していた。心は乱れ、行き先のミュンヘンまで追いかける。彼女に会うことはできたが、パリで負け犬になった男は用なしで、すげなくふられてしまう。これだけ怒涛のように不幸に見舞われる人もそうはいない。もう俺なんか誰も見てない、誰にも愛されてないと泣いたろう。これは耳疾でそうなって遺書を書いたベートーベンのようにあからさまでないが、彼が珍しく父にそれを吐露した手紙の悲しさは胸を打つ。これだ。この時の心境がパパゲーノに投影されて、あの「1,2,3。。。」の首つりのシーンになったのだ。
レオポルドの洞察力は後日のコンスタンツェとの結婚騒動においても発揮された。「そんなアバズレ女はやめとけ。母親は札付きのやり手婆あだ、ウィーン中で有名だぞ。みんながお前の噂をしてることを知らんのか」。この指摘は見ようによっては真実だけに父の書簡はコンスタンツェの検閲を通過することができなかったのだが、ベーズレ書簡がOKなのだからいいではないかと思うのだ。父の疑念はアロイジアの “結婚” の件に発していたと思われる。貧乏だった未亡人がなぜ大都会ウィーンの一等地で独身者向けの下宿屋オーナーの身分になれたのか?その金はどこから出たのか?松本清張の「聞かなかった場所」のような真相をコンスタンツェは隠したかったわけである。
モーツァルトが初めてアロイジアに会った1777年ごろからウェーバー夫人は才能・器量とも上々のアロイジアの結婚相手を物色していたと思われる。それがウィーン宮廷俳優でバツイチ、3人の子持ちだったヨゼフ・ランゲという男だった。その妻はドイツ・オペラ劇場のプリマ・ドンナだったが病気がちで、2年後に肺炎で亡くなる。そこで3年越しの計画通りアロイジアが1780年に後妻におさまっている。劇場で前妻の後釜になれる利益もおいしかったが、ランゲが4フローリンの前払いと700ギルダーという終身年金を払ってそのころは寡婦だった母親の面倒も見る契約にサインしたことが決定打だった。
そんな上玉が現れたのだから就活旅行に失敗したモーツァルトがそでにされたのは誠にごもっともである。しかし後にウィーンにフリーランスとして出てきてヒット作を書き始めると母は態度を一変して自分の下宿屋に呼び込み、今度はアロイジアの妹(三女)コンスタンツェと巧みにくっつけることで、ランゲと同様に責任を取れ、契約書を書けと迫ったわけだ。これに烈火のごとく激怒したレオポルドは結婚を断固として認めず、シュテファン聖堂の結婚式にも現れず、ロンドンに行きたいので息子を預かってくれとのお願いも蹴り、モーツァルトも父の葬式に出なかった。この父子の円満で希望に満ちていた関係はこうして瓦解し、終焉した。その面だけを見ればたしかに悪い女に引っかかったと言えないでもないだろう。
この姉妹はその後どうなったか。アロイジアとランゲは1795年に離婚したと歴史はあっさり記しているが、これは驚くべきことだ。ウィーン生まれのランゲはバイエルン人であり、ランゲ家はモーツァルト家とも元からつきあいがあり、カソリックだろう。ウエーバー家も、コンスタンツェはモーツァルトとの婚姻はシュテファン大聖堂で挙げておりカソリックだ。なぜこの二人は離婚できたんだろう?なぜ誰も説明していないのだろう?そもそもしていたのは結婚ではなく「金銭授受権付の同棲」だったのではないだろうか。離婚ではなく「契約満了」だったとすると凄い話だが(1780~1795、ぴったり15年だ!)。
もうひとつアロイジアには不可解な謎がある。モーツァルトの庇護者だった皇帝ヨゼフ2世が彼女を嫌っており、何度か追放を試み、とうとう1788年にクビにしてウィーン宮廷歌劇場から追い出していることだ(皇帝の死後1790年に復帰)。この理由はいまだに不明とされており謎以外の何物でもないが、万が一私見の通りであり、それを神聖ローマ帝国皇帝であるヨゼフ2世が知ったとするなら、神に誓わない同棲婚しかも金が絡んでいるなど長期売春に等しく、劇場でしゃあしゃあと人前に顔など出すなということで納得がいく。アロイジアは母親の命令でランゲと関係を持ったのではなく、自分の意志でスターダムへの早道と選択したかもしれない。モーツァルトには本当に興味がなく、この二人は結ばれなくて良かったのかもしれない。
アロイジアは1829年7月、ザルツブルグで英国人ノヴェロ夫妻の訪問を受け、「モーツァルトの愛を拒んだことを悔やんでいる」と語ったという。そのころモーツァルトはすでにレジェンドだから、関わった女性は一人残らずそう言うだろう。上がった株を上がる前に買うべきだったと悔やむ人が99%を占めているのが世の中というものだ。買ったコンスタンツェは “持ってる女” だったというしかない。ランゲはその後に、おそらく契約金の要らなかった女中と再婚して1831年まで生きたが、彼は歴史に名をとどめている。アロイジアと結婚したことではない、画家でもあった彼の描いたモーツァルトの肖像画を知らないクラシックファンはいないだろうという意味でだ。コンスタンツェはこれを「彼の最高の肖像画」であると述べているが、ここで嘘をつく理由はないからそうなのだろう。
コンスタンツェは旦那の葬式にいなかった。これがひどい女だ、悪妻だとされる根拠の一つだが、いられない理由があったというのがモーツァルトの死の真相のヒントだ。葬式を無視するほど関係が冷えていたならその後にザルツブルグに住まなかっただろうし、故人の地元も歓迎しなかったろう。しかもその地で彼女は結婚に大反対され、その手紙を片っ端から廃棄した父レオポルドと同じ聖セバスチャン教会墓地に眠っており、墓碑の父の下はモーツァルトの母方の母、左上は姉ナンネルの子供、その下はコンスタンツェの叔母で「魔弾の射手」の作曲家ウエーバーの母だ。しかしこれではレオポルドを従えているようで、どうも僕は腑に落ちない。
デンマークの外交官でコンスタンツェが再婚したニッセンが最上位にあり、政治的なにおいがする。モーツァルトのメンター役で葬儀の一切を取り仕切ったスヴィーテン男爵もオランダの外交官であり1803年に亡くなっているが、ニッセンは在ウィーン臨時代理大使だった1797年にコンスタンツェと会い、翌年から同棲を始め、1809年に結婚している。その頃コンスタンツェは亡夫の楽譜や版権を使って出版社や国王から収入を得ており、借金は完済し終わったどころかひと財産を築いていた。彼女は悪妻で頭も悪いという人もいるが、これを見る限りやり手である。外国との交渉には外交官はうってつけでオンディマンドな男だったのである。スヴィーテンは年をとって役目は終わっていたし、もうウィーンに用はなくなった。夫妻がザルツブルグに定住したのは1820年で、3年後から伝記の執筆を始める。これがその後のすべての伝記のネタ本になるわけだ。
これはちょうどベートーベンが第九を構想していた頃であり、そのころにはモーツァルトはすでに押しも押されぬレジェンドだ。死因も墓地も不明のまま、すなわちウィーン宮廷の名誉は守られたまますべての秘密は闇に葬られた。伝記の執筆に当たってニッセンはナンネルからモーツァルトが記した400通に及ぶ手紙を預かったが、前述したが、コンスタンツェは自分を最後まで認めなかったレオポルドの書簡を大量に破棄した。それを「なかったこと」にした嘘の伝記を書いても異を唱える者はもう生きていないと踏んだのだろう、モーツァルテウムの設立に関わるなど天才の神格化を始める。おかしなことだ。天才はザルツブルグを見限って出ていったのだ。彼は不遇のパリ就活に出ていった時からこの街を捨てていた。帰って来るのに辟易していたから辞表を叩きつけてウィーンに逃亡したのであり、それを幇助したのが下宿屋のウェーバー家だったのである。
以上を俯瞰してわかったことは、コンスタンツェに悪意はなかったろうが、結果としてはウェーバー家がモーツァルト家を乗っ取った観があり、それを不快に思って別な墓所に入ったといわれるナンネルに共感する自分がいるということだ。ザルツブルグを愛していたであろうナンネルがそこにおらず、今日のいまだって天国で結婚を認めていないだろうレオポルドが、先に亡くなったことでまるで承服したかのようなあんな墓に入れられている。そしてコンスタンツェ-ニッセンの計略に糊塗された伝記と墓石に洗脳されたモーツァルティアンたちが長年にわたって築き上げた異を唱えるべからずの砦はポリコレの如しだ。僕がモーツァルトの伝記はおろか、事実とされていることも実は都市伝説だと信用していないことはこれまで縷々述べてきたとおりで、どこまでも真相を追いかけるつもりだ。
コンスタンツェが浅はかで浪費家の悪妻だったという説は支持できない。モーツァルトは妻を手紙であまりほめておらず、そのことも「売れ残りを押しつけられたんだね気の毒に」と悪妻のイメージに寄与しているが、彼は同情されなくても十分にモテる男だった。そうではない、良くも悪くも賢い面を父に見せたくなかったのだ。「それ見ろ、世情に疎いお前はずる賢いウェーバー家にいいように騙されてるんだ」と火に油を注ぐのは目に見えていたからだ。僕はなんとなくだが彼はコンスタンツェを本当に愛していた気がする。ウィーンではアロイジアはもう昔の女で友達であって眼中にないのだ。浮名はたくさん流したが、それはそれこれはこれというのが彼の頭の中だ。だから姉妹もみんな好きで、長女のヨーゼファは最初の「夜の女王」を歌わせてあげているし、一番下のゾフィーは死の床にまでそばにいてくれている。本当にいい奴だったのだ、モーツァルトは。
コンスタンツェはスヴィーテンの庇護を得て(というより事の成り行きからうまく利用して)財を成し、彼のおかわりに同系統の能力を持つニッセンをつかまえた。ファンは外国に広がりつつあった(英国人が訪ねてくるほど)から通訳も必要で、執筆には筆力も要求された。充分な貢献をしたニッセンを貴族に列するよう計らってやったのは、自分に協力した功労者をスヴィーテン男爵と同列にしてねぎらったのだろうが、貴族を墓石のトップに置いて箔もつけたかった。これでモーツァルト家が下に来るのは仕方ないわねということになる。悪妻ではないが良妻でもなく、したたかなマネージャーの妻であったというのが僕の評価だ。モーツァルトにはそれがぴったりだった。彼女は音楽の才能はなかったが、母親のビジネスの才はしっかり受け継いでいたからである。
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ソナーの投資成績はイチローの2倍
2023 JAN 26 7:07:09 am by 東 賢太郎
我々が2年前に投資した会社にサウジ国営石油が出資を決めた。株価はすでに5割あがっており、来年に上場して10倍ぐらいになるというのが今の市場予測だ。株に絶対はないが、その不確実性は確率でしのぐことができる。イチローや大谷の打撃にだって絶対はない。しかしシーズンを通せば3割は打つだろう。これが確率の考え方だ。未公開株は倒産したり換金できないリスクがあるが(これが凡打だ)、10打数2安打で合格、3安打なら上出来のリターンが期待できるというのが一般常識だ。例えば10億円を1億円づつ10社に投資し、8社が倒産しても2社が上場して10倍なら総額は20億円(2倍)になる。10打数2安打で合格とはそういうことだ。
冒頭の会社も成功が見えたので、ソナーのこれまでの実績は5社投資して4打数3安打(1社は投資中)になる。打率7割5分は異例に高い(業界平均は2割ぐらい)というか、もはや異常値だろう。理由は簡単で、案件のご提案はたくさん来るがほとんどお断りしているからだ。普通の会社は投資残高をふくらませると管理手数料が増えるので「下手な鉄砲、数うちゃあたる」になりがちだ。従業員が多いと固定費が高く、食わせるためにもそれが必要だ。「確率は件数が多くないとワークしない」という理屈でそれが正当化される傾向がある。
それは疑問だ。野球なら「悪球打ち」であり、そんな打者が三冠王になったためしはない。業界平均はそういう人達の平均なので我々には全く関係ない。僕はファンド業界で育った人達とは申しわけないが毛並みが違う。40年株式市場で生きてきた選球眼に自信がある。だから「好球必打」しかしない。提案をお断りするのはボールだからで、ストライクなら振るし、振れば75%は安打にしている。僕自身が社長というよりプレーヤーなので社員は8人しかいらない。お客様には「イチロー並に打ちます」と宣言し、イチローの2倍打っているというのが現状のデータだ。
先週に40名ほど社員のおられるフィナンシャル・プラナー(FP)の会社様とご縁ができた。いまソナーは6社目の投資案件を進めているが、これは今までのどれよりも「ど真ん中のストライク」であり、安打しないと不思議というぐらいの好球である。同社様との第1号案件として良い結果を生むだろう。また、冒頭の会社様も上場前に追加増資があれば再度ソナーを呼んでいただけると確信している。近年、営業力のある証券、銀行の若手社員が退職してFPになるケースが増えているが、優良投資案件を持続的に提供できないと富裕層のお客様はつなぎとめられない。ソナーと組んでいただけば顧客満足度は高まると自負している。
我々は少人数主義を変えないので多くの個人投資家様に対応することはできない。したがって我々の案件にはこれまで一般のアクセスができなかったが、今後は取引先のFP会社様を通せば可能になるだろう。
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これからやってくる「オンディマンド時代」
2023 JAN 25 2:02:12 am by 東 賢太郎
「What can you do for me today、Mr.Azuma(東さん、今日は何をして下さるのですか)?」
約束の時間ちょうどにドアが開いて現れると、足が自由でないS氏は無言のままテーブルの向こう側にゆっくりとまわって、僕の真正面の椅子に大儀そうに腰かける。英国王室御用達のGIEVES & HAWKES製と思われるスーツに身を包んだ40がらみの小柄な紳士だ。にこりともせずノートを開くと、検事が尋問内容を書き取るみたいにしてペンを構え、僕の目を見て2、3秒ほど完全に静止する。そこで決まって口から出る判で押したように毎回まったく同じ冒頭の質問が挨拶代わりなのだ。「今日は**株を買ってほしくて来ました、Sさん」。僕の答辞もいつもおんなじこれにしていた。
そして「なぜそれを買うべきか」をゆっくりと話す。今日はペンが動かない。ああだめかな。案の定、5分ほどで彼は Thank you. と小声で僕を制止し、立ちあがって慇懃にドアに向けて送り出す格好をする。無言のお払い箱なのだ。この屈辱はいま思い出しても耐え難い。大英帝国植民地の支配者たちはこんなだったのだろうかと思った。しかし、これでめげては任務は勤まらない。何回かに1度はペンがサラサラ動く時もある。すると今度はネガティブな質問の矢がこれでもかと飛んでくる。うまく身をかわさないと即死。やはりご苦労さんのゲームオーバーなのだ。だから予定の30分を無傷で満了すればまず成功と考えていい。この場合は勇躍オフィスに戻る。何時間か、今か今かと待っていると、夕刻に電話が鳴る。来たぞ!!周囲がシーンとなって聞き耳を立てる。お薦めした**会社株式の数十億円分の買い注文執行が厳かに委託される。わかりにくい英語だ。聞き間違えたら一大事で、2,3回も確認のリピートをする。周囲はそれでわかる。受話器を置くと大拍手が起きる。代々ノムラでS氏のアカウントを担当できるのはエースのしるしなのだが、裏舞台ではこうした緊迫の綱渡りが行われていた。
S氏はノムラが最大手だからといって手心を加えて注文をくれることは一切なかった。世界一の証券会社だと思いあがっていた当時の社内では批判するムードがあったが、相手は10兆円も運用する世界一の機関投資家であり、S氏はそこで認められ雇われているマトモな人物なのだ。だからオーダーが少ないのはこっちの実力不足なのだと僕は擁護していた。批判する人たちはその緊迫の裏舞台など知らないし知ろうともしないし、特に東京本社などアホばかりで想像だにしてない。全盛期の野村の内部もレベルはそんなもんであり、わけもわかってない奴らが偉そうなこと言うなという気持があった。S氏が本当に平等だったことは毎回のプレゼンの自分の出来不出来でわかっており、その感触通りの結果になることで体感したプロの自負があったのである。その方法でこそ良質の情報が集まるということを逆に目の前で教わり、ビジネスは正攻法に勝るものはないことを思い知った。できれば人間関係で仲良くなってビジネスしたい怠惰な僕だったが、勉強と訓練という正面突破で注文をいただくしかなく、おかげ様で力をつけてもらったことを今も感謝している。
1980年代当時のロンドン。stock broker(証券マン)とfund manager(機関投資家の運用者)の仕事は大なり小なりそんなものだった。運用者はひっきりなしに数多ある各社の証券マンの訪問を受け、毎日何十もの「なぜ買うべきか」を聞く。腑に落ちれば買い、そうでなければ無視し、用がない株は売り、それを年末まで毎日くり返すと、1年間の相場のすったもんだの中での彼の “ファンド運用成績” が出る。これが運用者の通信簿だ。ファンドの運用益が増えていれば彼の会社はそれを宣伝してお客が増える。だから彼の出世と報酬はそれにかかっている。こちらとしても、推奨の成果で彼の信任を得ればそれに貢献したお駄賃としていただく手数料が天文学的に増えたから通信簿であり、日本国内の支店では想像もできないだろうが毎月数千万円、トップセールスである僕は他の顧客も入れるとピーク時は毎月3億円の手数料収入があった。後に社長になるドイツ、スイス、香港現法の店の収入ぐらいをひとりで稼いでいたことになる。
80年代、高度成長を成し遂げた日本の株式はシティで注目の的だった。一般の個人や年金基金は買いたくても情報がないので運用会社にお金を委託して日本株に投資してもらっていた。株式投資の元祖である英国には古くから世界的に著名な運用会社が数多くあり、良い成績を上げて委託資金を増やす激しい競争がくりひろげられていたのである。だから各社は日本株運用部門を設けて英国人でキャリアのある専門家(fund manager)を雇ったが、日本語ができない彼らは株を選別する有能な日本人証券マンの情報提供が絶対に必要だったのだ。この関係は花と蜜蜂に似ている。蜂は蜜を求めて花に群がる。花は蜂が来ないと受粉できないから蜜は惜しまなかった。だからロンドンには日本の証券会社が中小から銀行系に至るまで、甘い蜜の匂いを嗅ぎつけてウンカのようにこぞって現法をつくり、失礼だが英語もままならない程度の営業員をおいてでも注文の片割れをもらおうと猛烈なセールスをかけていたのである。日本の証券業界の歴史において1980年代のロンドンほど巨大なビジネスチャンスがあったことはない。その時代に6年そこにいて、ノムラというダントツ世界No1の会社の株式営業デスクのヘッドだった僕は幸運だった。
その蜜が売買手数料だ。当時はそれが公定であり自由化される前だった。だからネゴや割引の余地がなく有能な運用者よりも有能な証券マンの方が年俸が高かった。僕にも水面下で外資から凄い年俸のお誘いが来たが、それほど日本株ブームはロンドンを席巻していた。日本企業のサラリーマンだから僕の給料はまったくたいしたことなかったが、それでもシティではノムラの名刺はいっぱしのバリューがあって普通の人でも名前ぐらいは知っており、まさに肩で風を切って歩いていた。日本の文化まで流行になり、ロンドンに日本食レストランが増えだしたのもこのころだ。ただ我々の労働環境は過労死しておかしくないほど常軌を逸しており、出社は毎朝6時半、東京本社株式部と連絡をとり、調査部から情報を収集し、昼間は蜜蜂としてシティ中を飛び回り、夕刻には運用者の自宅にまで電話をかけ、深夜1時2時まで会社で翌日の準備のための侃々諤々の会議をした。中世の奴隷だってもう少しは楽な暮らしだったろう。
リーマンショックと共にそんな夢舞台は消えた。しかしあの What can you do for me today?の記憶は強烈で忘れない。「君は僕に何をしてくれるの」?いやあ、なんて本質を突いた質問なんだろうと感動すら覚える。「はい、賄賂を差し上げます」という事件が最近あった。民間人だって「おいしいことしてあげますよ」と “税金たかり屋” どものコネ、ヌキ、談合、身内贔屓みたいな “ズル” は横行している。ところが、これが軽いタッチでひょっこり内部告発されるのは防ぎようがない。ネットで大炎上してさらし者になり、一瞬で罪人だという「私刑」が科される。何を弁解しようと書かれたらサーバーに残って永遠に汚名は消えない。したがって、会社経営も裏口**みたいのが表に出ると非常にまずい時代になったと考えるのは常識だ。社会的責任に欠ける、サステナブルでないと社会的制裁を受けたらつまはじきになって、世界の機関投資家はSDG、ESGを満たさない会社は自動的に投資しないから株価も下がる。すると大株主でもある彼らは社長の首を株主総会で切るだろう。だから大企業であるほどひとたまりもなく、これからは上場しているメジャーな企業が率先してビジネスを正攻法に収斂させていかざるを得ないのである。表ではコンプライアンス重視をうたいながら水面下で品質不正やリコール隠しをしていたような企業は、いくら新聞、テレビの表の報道を制御しても、ネットだけで世の中を見る人のイメージを覆すのは至難の業だ。その人口は間違いなく大多数になり、新聞、テレビしか見ない老人は死んでいく。僕は日本人が善人になると言っているのではない、ポリコレに弱いから最も安心な正攻法になるしかないのだ。正攻法の権化であったS氏の質問は、いわば未来を予見していたわけで、ますますストライクに思えるのである。
僕がテレビを見ないのも、日経新聞の購読をやめてしまったのもそういうことなのだ。 You can do nothing for me today (今日も何の役にも立たないね)と、見ながら毎日感じるようになったからだ。見逃したから経営を誤ったとか相場で損したなんてことは一度たりともないしこれからも確実にない。情報も娯楽もオンディマンドで完全に足りる時代であることは高齢者で ITリテラシーに欠ける僕ですら実感してしまっている。ペンが動かない証券マンは5分でお払い箱。これは冷徹ではあるが、メディア業界であれなんであれ、「ビジネスの基本原理だった」ということが白日の下に明らかになりつつある。原理は世の東西も時代も問わず不変なのである。正攻法でやるためには血縁や義理や私情はもちろん旧習や思いこみやノスタルジーなどばっさりと断ち切るしかない。それにしがみついて利益が出ていても、サステナブルでないと世間が冷徹に烙印を押す時代になってしまっているからだ。S氏は優良な情報を永続して集める必要があった。だからノムラと親密にしなかった。高い手数料を払うのだから情報は集まると冷徹に計算し、オンディマンドで各社の証券マンを呼び集め、競わせたのだ。お金に人情はない。冷徹なものだ。だから冷徹こそお金を増やす正攻法以外の何物でもないのである。衰弱する日本企業はどんなに人情経営が好きであろうと、どんどんその流れに飲まれていかざるを得ないだろう。
ということは雇用市場で何が起きるか、賢明な若者の皆さんはもう結論が見えただろう。What can you do for me today?すべての仕事において、あなたは雇用者やお客さんにそう問われる時代になるのだから、それに決然と答えられるようになればいいのだ。雇用者は、必要な「do」をしてくれるならロボットや AI でぜんぜん構わない。コストも安い。だから人間しかできない「do」を見つけることだ。例えば、僕の今の仕事は AI には絶対にできない。人間でできる者もまずいない。こうなれば確実にお客様から代金をもらえるし、資産を増やしたい人が減ることはないだろうから希少性からすれば今よりもっともらえる時代になるだろう。中世の奴隷以下の仕事は大変な意味があった。そんな経験は誰もしたことがないから鉄壁の参入障壁であり差別化要因になったのだ。お金をもらいたければ意味のある事を必死に勉強し、しのほの言わず粛々と訓練を積むしかない。これを当たり前と思わないならあなたは世間に甘えがあるが、世間はあなたを甘やかすほど余裕はもうない。
いい大学へ行けばそう教育してくれるだろう?とんでもない。米国留学した者はわかる。日本は明治時代とほぼ変わらない教育を営々とやっている浮世離れした大学ばかりで、そもそも存続する価値がないばかりか、そこのディマンドに合致するからという理由で雇われてる先生たちにその能力がないことぐらいちょっと考えれば誰でもわかるだろう。誰でもわかることで嘘をつくのは大変に難しいのだ。テレビで偏向情報や屁理屈をたれ流しているコメンテーターの類はみんなテレビ局や自分の利益のためにポジショントークを売る嘘つきだが、そんなもので騙される人は世代交代とネット情報への依存度アップで急速に減っていくからこの連中もやがて消える。そうして新聞、雑誌と同様にテレビも存在価値を失い、お茶の間には「かつてテレビと呼ばれた受像機」がネットでオンディマンド番組を見るためだけに残るだろう。
そうなると、今の意識のまま漫然と大学に行って漫然と就職して生きてるあなたも、滅びる職業についてしまっている確率が高まっており、もしそうならやがて失業するか、しないまでも失意の人生になりかねない。では何を職業にすべきか、どこに就職すればよいのか。そこで週刊誌の大学生の就職人気ランキングなどに頼るならもう人生終わりである。「あなたは何ができますか?」が入社試験で、採用もオンディマンドになるのだから「学歴」や「青田買い」など戦後の集団就職と同じぐらい死語になり、ディマンドのある教育を施せない大学は潰れて、あなたのゼミの先生も失業するのだと頭の中でシミュレーションをしておくことをお薦めする。「東大卒?あっそう、で、キミ、何ができるの?」。あのころ、できることなど何もなかった僕は今なら思うような就職はできないだろう。しかし、16年海外にいたので、日本でしか通用しない学歴のおかげでこうなったわけではないことが証明されている。東大卒でなくてもノムラに入れなくても、きっとなんとかなっただろうというぐらいの自負は持っていいと思っている。
ちょっと考えれば誰でもわかるだろう。東大にそんなに価値があるならそこで教えてる先生は企業から引っ張りだこになるはずだが、そんな話はついぞ聞いたことがない。僕がウォートンスクールで証券分析論を習ったM先生は前年までウォールストリートでもトップクラスの高給取りであるメリルリンチの役員だった。そんな雲の上の人のリアルな講義が半年も聞け、実技指導までしてもらえる。これが年2千万円の高い授業料を払ってでも行く価値のある大学というものでなくて何だろう。お断りしておくが、僕は大学が職業専門学校だと言ってるのではないし、学問と教養が人間形成において必須であると何度も主張してきたし、母校である東大を心から愛しているし、後輩たちには日本国をリードする人材になって欲しい。だからこその苦言なのだ。
しかし僕ごときの批判で東大が変わることは99.99%ない。なぜか?明治時代、富国強兵のために東大は創立され、それイコール国家であり、その知恵があるから日本国は世界最速の成長を遂げて一流国になることができた。それが今や世界大学ランク39位で毎年ずるずると下がっており、それがいつまでも1位である日本国も、GDPは今のところ世界3位だが実は39位ぐらいへの下降線をたどっている。東大はその先行指標ではないか。これは皆が思ってるが認めたくないことなのだ。だから言わない。言っても変わらないのに言わないのだから「99.99%東大は変わらない」と言ってる僕が正しい確率は99.99%以上だろう。そんなにテッパンで変わらないものを変えろと一人で声高に叫ぶなど見苦しいだけだからプライドにかけて言わない。この思考回路のどうどう巡りゆえに東大に限らず日本の保守的なるものはどんなに凋落しようと何十年たっても遺跡のように「変わらない」のである。
大人たちは自分もその価値体系のおこぼれにあずかっていい思いをしてきたし今もしている、だから自分が生きてもいない20年後はもういいやと諦めてるのだ。自民党の議員もそうだ。2028年には中・露を合算した軍事予算は米国を抜き、水爆を1500発保有して30分で本土にいる米国民を1億人殺すことができるようになる。その中露が日本に核爆弾を打ちこんだら米国が代わりに中露と核戦争をしてくれるだろうか?するわけないだろう。もう核の傘なんてものは存在しないのだが議員は誰もこれを言わない。マスコミも言わない。言わないのは噓つきだとさえ誰も言わない。防衛予算をGDP比2%にして在庫処分のトマホークを買っても中露は痛くもかゆくもないことも議員は誰も言わない。こんな腐った連中が政治をやってる。20年どころか10年もたたないうちに日本はとてつもなく見たくない景色の国になってしまうのではないか?そのころリーダーになる若い皆さんにはおこぼれすら枯渇しており、戦うエネルギーも枯渇してないだろうか。心配でならないのだ。だからこれを書いておくのは、何もおきなくても若者の心に警鐘を鳴らせればいい、それが税金で勉強させてもらって海外でいろんな経験を積ませてもらった一国民の責務と考えた次第だ。ちなみに僕が採用したいのは東大卒であってもなくてもいいが「やるべきことは雨が降っても槍が降っても最後まで責任持ってやります。やらなかったら坊主になります」という人だ。
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ハイドン 「戦時のミサ ハ長調」Hob.XXII:9
2023 JAN 22 16:16:30 pm by 東 賢太郎
フランツ・ヨゼフ・ハイドンへの興味は尽きない。音符も読めない車大工と料理女がつくった息子が音楽家になることはあろうが、その息子が死後に骨相学の信奉者によって頭蓋骨が盗まれるほど遺体に関心がもたれた天才だったなると、そんな人間は他には脳のスライスが科学者に研究対象として共有されたアインシュタインしか知らないのだから尋常な心持ちではおれない。その才能はどこから来たのだろう?なぜ埋もれていたのだろう?いや、それ以前に、才能とは一体何なんだろう?モーツァルトもベートーベンも、遺体が掘り返されて不思議でない天才ではある。しかし、彼らは、もっと言えばワーグナーもショパンもシューマンもブラームスもブルックナーもチャイコフスキーもだが、伝記を読む限り人としては普通でなかった。まあ天才だから。ところがハイドンはというと、僕が感知する限り、普通の「いい人」なのだ。
彼のアウトプットは、質×量を数値化すればあらゆるジャンルの天才の最大値に近いだろう。それでいて「いい人」で上司や同僚にお追従のひとつも言えなければ勤まらないサラリーマン人生を30余年も平穏に送って出世をし、お暇が出てロンドンで一旗揚げて富裕になっても「また帰って来てくれ」と雇用者が懇願し、そこで作った曲は慕われて国歌になってしまう。それなのに、彼には「頑張ってます感」があっけないほど漂っていないのだ。こんな人は見たことも聞いたこともない。ベートーベンやショパンやムソルグスキーの肖像画を思い浮かべていただきたい。天才は近寄りがたい圧があり、苦悩に満ち、人生に病み、あるいは浮き世は我関せずの目線を放っていたりするのが常なのだ。
かたや、このハイドンさん、実はロココ調のレストランでソムリエのバイトしてておかしくない。「ワイン・リストはこちらでございます」「そうね、ブルゴーニュの明るめのこんな感じで予算こんなで3つ」なんて言うと気の利いたお薦めがすぐ出てきて、「年がねえ」なんて独り言に「お待ちください」とワインセラーにとんで行って「お客様、1本だけございました」なんて持ってくる。ハイドンさん、そんなひと世の中に絶対にいないんで、これ最大の賛辞なんで。でもこの感じじゃないと交響曲第96番は書けない、これも絶対に。じゃあいったい何なんだ?あなたは何者だったんだ?これぞ “Miracle” でなくてなんだろう。
1795年、2度目のロンドン滞在の最後の年に交響曲第102~104番の作曲を終えてウィーンに帰ったハイドンはもう交響曲の筆を折っていた。63才からの最後の時間を傾注したのはミサ曲とオラトリオの作曲である。
旅行中に新しく位についたエステルハージ侯爵ニコラウス2世の要請でエステルハージ家の楽長に再び就任し、妃の命名日に毎年ミサを書くことになる。それが後期六大ミサと呼ばれる6曲、《戦時のミサ》(1796),《ハイリゲミサ》 (1796),《ネルソン・ミサ》(1798),《テレジア・ミサ》 (1799),《天地創造ミサ》(1801),《ハルモニー・ミサ》 (1802)である。そして誰からの注文でもなく自主的に書かれたのが2つのオラトリオ、《天地創造》(1798),《四季》(1801)である。今の僕はテレジア・ミサを書いた頃の年齢で、ハイドンのこの豊穣の中にまだいることは一抹の安堵を与えてくれる。
《天地創造》作曲にはザロモンとスヴィーテンが深く関わっているが、ハイドンの内面に芽ばえた契機として考えられるのは、ウエストミンスター寺院でのヘンデル記念祭で《メサイア》を鑑賞し、エステルハージの小編成でなく大編成の楽団とコーラスで宗教音楽を書きたと思い立ったことだろう。僕もロンドンでメサイアを聴き圧倒的な感銘を受けたがモーツァルトもハイドンも受けたのだ。これを書いた5年前よりマタイ受難曲にはずっと目覚めているが、宗教的コンテクストと関係なくロックとして宗教音楽をきける我がスタンスは健在だ。
《戦時のミサ》はイタリア語でMissa in Tempore Belliで、ハイドンがスコアに記した曲名はこれだが、アニュス・デイでティンパニが活躍するため『太鼓ミサ』(Paukenmesse)とも呼ばれる。なぜ戦時かというと、ハプスブルク家がフランス革命戦争(イタリア戦役)で第一次対仏大同盟の一員としてナポレオン・ボナパルト率いるフランスと交戦し、大苦戦していたからだ。ウィーンに攻め込まれ敵軍の大砲が鳴り響いたのを模したのがそのティンパニであった。
初演は1796年12月26日にハイドンの指揮でウィーンのピアリスト教会にて行われた。ハイドンは完成したすべての楽譜の最後に「神に賛美を」という言葉を加えたほど信仰心が篤くTempore Belli(戦時下)の終息を神に祈るミサを書いたと考えるのが自然だが、ハンガリー国よりハプスブルグ家に忠誠を誓うエステルハージ家の家来としての立ち位置からの忖度がなかったとも言い切れないだろう。写真を見るに大きな教会ではなく管弦楽、合唱ともおそらく小編成で、現代の編成できくよりも相対的にティンパニの音量が大きく、Paukenmesse のニックネームがつくに至ったのではないか。
興味深いことに、ベートーベンはミサ・ソレムニスのアニュス・デイで、トランペットに軍楽隊のパッセージを吹かせ、フランス軍の太鼓であるティンパニを轟かせるというハイドンとまったく同様のことをしており、さらにはトロンボーンに誰もが出所のわかるパッセージを吹かせている。
言うまでもなくこれはヘンデルのメサイア(ハレルヤ)であり、引用どころか堂々たるパクリのレベルだ。ハレルヤのこの旋律の歌詞は「そして彼は永遠に君臨する」(And he shall reign for ever and ever)である。献呈はオロモウツ大司教として即位したルドルフ大公だ。この人はしたがって聖職者になったわけだが、キャリアの当初、ベートーベンに弟子入りしたころまでは軍人だった。それを斟酌したパトロンへの精一杯の忖度だったのである。
メサイア全曲のフランス初演は1873年であり、モーツァルトが管弦楽に手を入れたとはいえ演奏はスヴィーテンのサークル内だけで、ミサ・ソレムニスが書かれた1823年当時のドイツの一般聴衆がこの引用に気づいたとは思えない。ピアノ・作曲の弟子でもあったルドルフ大公は、自身に献呈された皇帝協奏曲の試演で独奏者をつとめた程のスーパー・アマチュアであり、この「本歌取り」が通じたから忖度になったと推理する。
このことはベートーベンが先生であったハイドンの《戦時のミサ》のアニュス・デイを研究した痕跡であり、これまた興味深いことに、そこではトランペットでこれがフォルテでくっきりと鳴るのだ。
普通の耳しか持たない僕でさえ記憶に焼きついているこれが、第5交響曲を作曲前のベートーベンの脳裏にあったとして何ら不思議でないだろう。
ハイドンの《戦時のミサ》はそれよりもずっとリアルな「戦時」に書かれたから祈りがあると考えるが、この曲は自作を含む数々の影響から成り立っている。グロリアの冒頭は自作の交響曲第96番「奇跡」のMov1冒頭であり、クレドの開始部分は前出のハレルヤ「そして彼は永遠に君臨する」であり、さらに顕著なモーツァルトの影響というと、グロリアの「Qui tollis」は魔笛の「おおイシスとオシリスの神よ」、クレドの「Et incarnatus est」(ハ短調)はザラストロとパミーナの掛け合い、「et vitam」は「ザラストロ万歳」だ(ライオンが出てくるところ。両者ともハ長調であり、やはり同調のリンツ交響曲と同じリズムで終わる)。そしてベネディクトゥスの出だしはドン・ジョヴァンニである。
ハイドンがパクリだと書きたいのではない。彼は63年生きていろんな音楽が頭にあって、そのスープからいろんな味を引き出すことが作曲だったのだ。僕も60年クラシックを聴いていろんな音楽が頭にあって、そのいちいちが耳に入るものと共振するのを楽しむのが鑑賞になっている。《戦時のミサ》は104曲も歴史に残る交響曲を書いて、いや交響曲なるものを地球上に送り出した、その天才が教会音楽というフォーマットで産み落とした傑作だということを書きたい。
この曲は反戦を訴えたバーンスタインが得意としており、再録のバイエルン放送響との演奏が有名だが、僕は1973年に録音されたニューヨーク・フィルとのCBS盤の方を愛好している。この演奏が発散する熱量と気迫は尋常でないからで、何万とあろうスタジオ録音なるものでもこんなのはざらにない。録音がベトナム反戦運動のさなかであったことと決して無関係ではなかろうが(同年3月までにアメリカ軍はベトナムから撤退している)、スタジオではそういうものを出さないのが普通のプロだろう。彼はプロだが普通の人ではなかったのだ。
前から不思議に思っていたが彼は60年代の駆け出しのころからハイドンをやけにたくさん振っていた。派手好きなイメージを持っていたので違和感があった。いや、彼はハイドンが好きだったのだ。ハイドンは会ったことないがバーンスタインはある。そうか、彼も「いい人」だったっけ。
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プレゼンはパフォーミング・アートである
2023 JAN 20 23:23:18 pm by 東 賢太郎
幸い健康でいまでも丸一日仕事して平気であり、視力は1.2だし5キロは走れるし年齢記載欄にはうっかり57と書きそうになる。今年はコロナもインフルも無視でどんどん外に出ており、出れば出るほどリズムが戻り、発想からプレゼンまで現役である。WBCの選抜メンバーを見ると野球選手は35才あたりで峠を越えるようだがビジネスマンは足腰立たなくなるまでプレーヤーでいられる。
性分というのは変え難く、新しい地平が見えてくると突進したくなる。知らない景色が好きなのだ。僕にとって投資は金儲けでなく新開地だ。それが次々とインスパイア(inspire、鼓舞)してくれるから老けこむ暇はない。同類の人と出会うと、それがまたインスパイアになるから大事にする。同類ではないが薪をくべてそれを助けてくれる人もいる。これまた大変に貴重なご縁なのである。
社内であれ社外であれ人を説得しないと進まないからビジネスというのはプレゼンで成り立っているといってよい。ところが論旨明解で弁が立ってもお客様が買ってくれる(お金が動く)とは限らないところが面白い。相手を動かすのは自分がインスパイアされてるからで、その熱量が成否を握る。プレゼンの技術など考えたこともないが、相手に伝わる熱があることはそんなものの百倍も大事だ。
以前に「行動を促す情報がインテリジェンスだ」と書いた。熱量は情報でないからそれではない。つまり陳腐な情報を並べ立てるなど論外だが、立派なインテリジェンスをもってしてさえも「売れる」わけではない。熱量は感性に訴える。それが共感を呼んで行動を促す。これは音楽の名演奏がスタンディング・オベーションを引き起こすのと同じで、人間は理屈だけで動くわけではないのである。
つまりプレゼンは弁論大会ではなくパフォーミング・アートの一種なのだ。これをわかってない人があまりに多い。かつてのこと、部下が100ページもある詳細な資料を作ってプレゼンに臨み、目の前に並ぶお客の顔も見ず延々と読み上げたことがある。ふと見ると数人が舟をこいでいた。きみ、それ3ページでいいんだよ、相手の目を見てアドリブでやりなさいと教えたがその後どうなったか。
僕は音楽演奏は暗譜が望ましいと思う。現に歌手は3時間ものオペラをそうして歌っているのであって、それこそプロだ。ビジネスのプロでありたいならプレゼンごときは暗記してその場の雰囲気を読みながらやれよと言うしかない。それができないなら仮にインスパイアされても熱量が伝わるはずないのであって、つまり、物が売れなかったり社内で予算が付かなかったりしてむしろ当然だ。
スティーブ・ジョブズのプレゼンは静かだが自分が造った製品への愛と感動(インスパイア)がある。まねてる日本の経営者がいるが熱がなくド真面目なサラリーマンがカラオケでサザンを歌ってる感じだ。ハーバードのサンデル教授の講義など内なる熱量でよほどジョブズに近い。米国はビジネスマンはもちろん、学者ですらパフォーミング・アートだと心得ており、だからサンデルは人気なのだ。
僕は野村時代に日本各地の大学、オランダの大学で証券市場論の90分講義をたくさんしたが、ネタは同じなのに一度として同じ話になってない。学生が理解してるかどうか肌で感じながらアドリブでしたからだ。あれでフルトヴェングラーやミュンシュのライブ録音が毎度違う理由がよく分かった。何度ボレロを振っても同じタイムだったトスカニーニすらライブのブラームスは違ったのである。
大変な秀才であった100ページの彼はクラシックを知らないか教養と思ってるだろうが、僕が知るビジネスでトップクラスの人はみなそれなりにアート好きだ。プレゼンをしなくて良い超富裕層は大概がアートのコレクターである。
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