7球連続カーブのサインが決めた我が人生
2024 MAY 8 12:12:44 pm by 東 賢太郎
エルダー・ネボルシンというウズベキスタン生まれのピアニストが弾いたショパンの第一協奏曲を僕は熱愛している。20歳あたりの録音。書いたショパンも20歳。オーケストラは、自身もショパン弾きのアシュケナージが率いる。最愛の彼女をワルシャワに残してパリに旅だったショパンは祖国に二度と戻ることはなかった。この協奏曲は彼女を想って書き、お別れの曲になった。ネボルシンのピアノはもぎたてのレモンみたいに瑞々しい。アルゲリッチもツィマーマンもいいが、やっぱりハタチの男の子に心をこめて清楚で端正に弾いてほしい。アシュケナージ自身がショパンコンクールで2位になったのも18歳。なるほど、この指揮、わかってるなあ。
エルダー・ネボルシン(pf)/ アシュケナージ / ベルリン・ドイツ交響楽団
そう、かくいう僕も20歳のころは複雑だった。のちになっても、人生終わったかというほどの挫折は幾度かあったが、それでもあの頃の心の傷と葛藤に比べれば軽いものだ。自信満々の自主浪人。大失敗。恥辱。奈落の底の日々。失ったものはもう却ってこなかった。この演奏で脳裏に蘇ったあれこれ。忘れる前にまとめて書いておく。
九段高校の硬式野球部に意気揚々と入った。必ず東大に入るから野球をやらせてくれと父に懇願してのことだ。戦争で果たせなかった仇討はするよ、でも鶴川から往復3時間ぎゅう詰めの満員電車通学だ、勉強はあまりできないよという暗黙の念押しであった。高1の秋季大会で背番号1を拝命し、高2の夏にヒジ、次いで肩を故障し球が放れなくなった。冬にひとり黙々と走りこみ、失った球速を制球で補って救援や代打で試合に出たが競争は甘くない、出てみるとチームの信頼を失っていることがわかって辛かった。高2の最後に、墨田工業との練習試合で9回完封した。嬉しかったが同時にふっと肩の荷がおり、野球はもういいやと思った。翌日に部室に集まってもらった全部員に頭を下げて退部を願い出て「東大を受けたい」と決意を述べた。登った山は高く、転落した谷も深かった。やめたのは部活ではない、あれは、もう二度としないという野球との決別だった。
以上の事情ゆえ、生半可な高さの山に登っても心の納まりはつかないという宿命を負っていた。だから進路は “山の高さ” だけで決まった。初めて受けた駿台公開模試の偏差値は42でありこのレベルで理系も文系もない。担任の指導で色弱だからという理由だけで後者になり、自動的に文Ⅰ(法学部)志望に落ち着いた。父、仲間に大言壮語してもはや逃げ道はない。突貫工事で勉強していよいよ受験を迎え、2つだけ受けた私学(C大法、W大法)は合格した。それも無理と踏んでいたのだろう、喜んだ父がどちらも入学金を払ってくれた。東大1次も難なく通過し、大したことないな、これで終わるなと思った。ところが2次初日の国語の論述がまるでだめである。何か書かなくてはと答案用紙の桝を埋めるだけ埋めながら、自分のものと思えぬ稚拙さが激しく動揺させた。次の数学は手も足も出ずほぼ零点だった。
不合格を掲示板で確認してすぐに駿台予備校の入試を受けた。もとから私学に行く選択肢はなく自主浪人だ。したがってそこに入りなおすと1年無為に過ごしたことになり滑り止めという存在は消えた。文Ⅱ、文Ⅲへの後退はもとより辞書になく、よって翌年は「文Ⅰの単願」が運命づけられた。幸い1年で偏差値は合格圏の65あたりまで行き、これで終われると腹をくくった。ところが二次試験の初日、小田急線が事故だか渋滞だかで乗っていた電車がノロノロ運転をはじめ、ついに経堂の操車場の横で30分停止してしまった。パニックになり本郷三丁目駅からダッシュして開始寸前に試験場に駆けこみ、しょっぱなの国語でまたつまづいた。現国にどうしても頭がついていかず小論文は書くには書いたが再びきわめて不出来。書き直そうと思ったら時間切れ終了。次いでこれまた数学がうまくいかない。翌日は気を持ち直し、英社の手ごたえはあったが3月20日の掲示板に受験番号はなかった。
この時に掲示板前から見た正門の方角の景色は今もありありと覚えてる。かなたの方に広大な砂漠が横たわっており、午前だったはずなのに夕陽みたいに赤い太陽が荒涼とした丘の向こうに沈みかけていた。漆黒の夜がくる。どこも受けてないのだから入れてくれる学校はない。もう1年かけてあの砂丘を越えるのか。その時間が百年にも感じられ、どこまで歩いても着かない蜃気楼をめざす空虚な徒労に気が遠くなりかかった。そこでぷっつりと記憶は途絶える。同じ屋根の下で受験生のいる生活に耐えてもらった母と妹がかわいそうだった。誰が見ても一流の学校に現役で入れてもらったのになんて俺は馬鹿な身の程知らずだったんだろう。担任の先生も、おそらく父だってそう思ったはずだ。自分で企てた作戦に大失敗した。すべてが愚かで無謀。今に至っても言葉がない。
どこで何をしていたか記録も記憶もない。ところがだいぶ後にレコードの整理をしていたら、落ちたその日(1974/3/20)にかけたとカードに記録のある盤を見つけた。これだ。ラフマニノフの第2交響曲に救いを求めていたのだ。
再度の駿台入試となった。文Ⅰの一本勝負が無謀でなかったのは順位が24番だったことでわかった。合格630人で654番だったのだ。隣の席になった23番のN君、25番のM君とは「なんで落ちたの?」が出会いの挨拶だった。翌年、両君とも無事合格し、20いくつある駒場のクラス分けで3人とも同じ9B組になった。
2年目はどうしたか。点が伸びない確信があり、時間の無駄と判断した国語は捨て、その分、伸びしろを大いに感じた数学に回して満点を狙うというドラスティックな戦略に変えた。それが英語、社会でもなかったことは、文系を選んだことが誤りだったことを示していたが時すでに遅しだ。数学に賭けるには多発していた計算のケアレスミスをなくす必要があり、トス・バッティング感覚で毎日簡単な問題をたくさん解いた。Z会の難問とも格闘した。すると6月の第2回公開模試で数学満点、総合点全国7位になって賞状と盾をもらった。夏休みは丸遊びし、1か月没頭して推理小説を一本書いた。山の頂上が見えてきてわくわくだったこの半年は数字とロジックに囲まれ音楽はバルトークにめざめる快感に浸って楽しかった。思えば人生でこの1年だけ僕は理系の人間になっていたのだ。
最後の東大入試は完璧に進んだ。国語は採点者が期待しそうなつまらないことをサクッと書いて平均点を下回らない戦略をとった。次の数学は設問2で作題ミスを発見し検算して確かめた。そこで答案に、まったく余計なことだったがマニア魂が頭をもたげてしまい、わざわざ「作題ミスである」と説明特記し「欠けている条件 ℓ ≠ 0 を付加する」と断って解答した。自分で作題していたから自信満々で、この域までくると上級者、職人の世界である。しかし東大がまさか?と不安になったので帰りに駿台に寄って壁に張り出された模範答案を恐る恐るのぞいてみたが、間違いなく根岸先生だろう、「作題ミス」と思いっきり書かれていて感動し、明日の英社を待たずして早々に合格を確信した。僕は先生の思考回路をそのままいただいた真正の弟子だった。見比べると4問中3問は完璧で、余計な作業をしたので時間切れで設問3が数点マイナスの傷を残し、野球なら完全試合は逃したがノーノーで留飲を下げた。理系6問で、うち数Ⅲ以外の4問は文理共通で文系には難解である。だから満点なら他科目がよほどひどくなければ確実に受かる。翌日の社会は日本史・政経だと全部論述であり120分書き続けても時間切れで終わったが落ちるはずないと余裕であった。
以上が顛末だ。このことすべては高2の夏にヒジをこわしたアクシデントから発している。相手は忘れたが練習試合の勝負所で4番の左打者に回り、2ストライクから7球連続でカーブのサインが出てファールが続いた。上級生のサインに首は振れない。7球目をレフトに打たれてサヨナラ負けした。お前のヒジ、あれがまずかったかなと捕手のH先輩が言ったので、痛くなったのはそのあとだ。それは1、2か月で治ったが、次は負担が肩に来て野球人生が終わった。もしそれがなければ甲子園予選を目指して野球人生をまっとうしていた。あそこまで東大志望に追い込まれることもなく違う大学で楽しくやってたろう。就職先も違ったろうし、家内とは出会ってないから子供たちはこの世にいない。
人生は無数の因果があざなえる縄のごとしだ。あれがなければこれもない。たしかにそうなのだが、実はあれがなければ別なこれがあったというだけのことなのだ。そうして時系列をどんどんさかのぼって、最大の不幸や不愉快なことを見つけ出す所まで行きつけば、やっぱり人生は塞翁が馬だと誰もが感じ入ることができ、人によっては持って生まれた運なんてものを得心さえするだろう。毎日運命を嘆き、この世に生まれたことが最大の不幸だ、死んでしまいたいと思う人にとって生まれたあとからのことはすべて幸運だ。
あれで結構ではないか。7球連続。Hさんが僕のカーブを信用してくれたということだ。短い野球人生だったがそれがうれしい。
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