奥出雲風土記(2度目訪問の背景)
2019 NOV 24 12:12:15 pm by 東 賢太郎

わけあって島根県の奥出雲町に3泊した。僕にとって人生をかけることになるであろう某プロジェクトの下見のためである。
それは、このブログに書いたことと関係がある。いや、このことがなければ実現することもなかったという現実をまず書くべきだろう。
ここから2年の年月がたち、僕も顧問を退任しているからもうお名前を明かしてもご迷惑はかけないしお許しもいただけるだろう。T社長とは(メガネの)パリミキこと株式会社三城ホールディングス創業者、多根裕詞さんのことである。生前からご本人には多根さんと呼ばせていただいており、本稿でも親しみをこめてそう書かせていただく。お断りしておくが、僕がさせていただいていたのは親会社の顧問であり、上場企業である三城ホールディングスの経営や情報には当時も現在も関与、アクセスをしていない。同社とは多根さんという個人を通じての関係であったことをご了解いただきたい。
多根さんに教えていただいたことは質量とも甚大だった。よく口にされた「人との出会いの大切さ」は誰もが頷くことだが、多根さんの行いを拝見すると「言うは易し」であり、軽々に口にはできなくなる。「3億分の1の確率で生まれてきた不思議」の先に「出会いの不思議」があり、人間はひとりひとりが違うから「感謝、思いやり、おせっかい」が大事と説く。しかし、そのいちいちに共感はするものの、それだけなら僭越ながら僕はこれほどおつきあいしていただけるには至らなかったのではないかと感じている。
あくまで僕の側からの一方的な話ではあるが、そうなったのは、ひとつ深い所で共鳴できるものがあったからだ。多根さんが森羅万象の万事において究極の「本質追求型」の人であられたことである。「僕は本質追求型だから」とことあるごとに皆の前で繰り返されたが、一見してやさしいお人柄の多根さんがどういう意味でそうなのかは簡単に気づけるものではなかった。それがどういうことか、僕流に解釈するなら、宇宙の神羅万象すべてに因果関係があると信じ、その因果こそが物事の本質であってそれに関係のないものは見ないということだ。原理主義に近いが、原理の宗教や学問による解明が大事というよりも、原理に照らして意味のないものを見抜いて捨てるというすぐれて実学的姿勢である。
見抜いて捨てるという行為を導くのだから、それはインテリジェンス以外の何物でもない。それで時価総額1000億円になった企業を築き上げたのだからその値打ちは誰も否定できるものではなく、例えばその彼が「人との出会いの大切さ」を説くのは政治家の空虚で上っ面の辻説法などとはわけが違う、彼の原理の根幹を成すずっしりと重みあるメッセージだろう。しかも、凄い所は、ゼロから立ち上げた成功者なのにそうしたものを「経営哲学」のように事大主義的に祭り上げなかったことだ。本質追求は立派な哲学と思うが、根源を宇宙にまで求めた本質という絶対的な存在を前にしては、ご本人はおそらくどこまで行っても自分は不完全で学ぶべきと考えておられたと思う。
それは経営者が強欲イメージを回避せんと往々にして見せたがる偽りの謙虚さではなかった。成功者であることが正当性の唯一の根拠である程度の「哲学」によって自分をアイコン化しようとする行為は、言うまでもなく “とても本質的でない行為” の見本のようなものである。やりたくても出来ないはずなのだ。多根さんがそれをされずに逝かれたという事実を前にして、僕は彼が一切のまがい物を含まぬ正真正銘の本質追求型であったと信じるに至ったのだから、時すでに遅かった。人が人を知るということは、そのようにたくさんの事例を演繹的に積み重ねることでしか成しえないが、知り合って6年というのは顧問という仕事をいただいたとはいえ、長いようで短くもあった。
僕がperipheral(周辺事象、皮相)を毛虫のように嫌悪しているのは美学でもあるが実学でもあって、物心ついて以来それで生きてきているがなぜそうなったかという心の起源について心当たりがない。宗教家や哲学者や経営者の本や講演でそうなったのでないことは確かだから、蜘蛛を嫌悪するのと同じで遺伝子によってそう生まれついているとしか考えようがない。嫌悪に近づかないという行為を導くのだからそれは本能でもあるがインテリジェンスでもあって、僕がperipheralと感じるものを見抜いてばっさり捨てるタイプの人間であるということは多根さんの言われる「本質追求型」に近かったかもしれない。peripheralのみを振り回して生きている人々は人間としてもperipheralということなのだから僕は興味の持ちようがないが、多根さんがそこまでだったかどうかは知るすべがなかった。
多根さんと知り合ったのは偶然にミクロネシア視察トリップでご一緒することになっただけで、プレゼンに行ったわけでもビジネスをしたかったわけでもない。2014年3月に故郷の奥出雲に2泊で誘って下さり、帰ってきてブログを書いた。僕は旅好きだが、その土地にあんまり興味がわかないとどんな名所であれひどい時はその地名に至るまで忘れてしまう。いっぽうで逆の場合は万事を写真みたいに覚えていて、その時がそれだった。記憶のとおりに書いたところ(奥出雲訪問記)多根さんが見つけておられ、プリントして下線を引いて克明に読まれていたことを知った。そこで、そういう読み方をして、そういう所に関心をお持ちと知った時に、このかたは間違いなく「本質追求型」だと悟った。
前回も今回も「奥出雲多根自然博物館」に泊めていただいたが、ここについてはこれをご覧いただきたい。
誰もがびっくりするのは里山の美しい田園風景の中にこういうものが忽然とあり、しかも中へ足を踏み入れると実物大の恐竜骨格がどんと現れ、2~3階の博物館をめぐるや所狭しと並ぶ古生代からの地球史をたどった圧倒されるほど見事な化石の陳列だろう。僕もそれには大いに驚いたのだが、中でも群を抜いていたのが子供向けに貼ってあるこの説明だ。
46億年前に地球が生まれ、37億年前に生命が誕生し・・・その果てしない末に我々がいる、という多根さんの生命観こそが当博物館の本質追求型であるゆえんなのだというメッセージが、この目立たない展示にさりげなく込められている。恐竜や化石で表層的にびっくりさせようというだけでないホンモノ指向に感動した。
それに限らず、ノートをとらずに覚えていたということは奥出雲という地に関心を懐いたということに相違ない。つまり土地との相性が良いのだ。多根さんは神話の解き明かす通り奥出雲こそ日本国の起源、発祥地であり、その文化、自然、人、文物の良さというものは従って歴史の「本質」なのだから日本はもちろん世界の人々に自然に受け入れられると「本質追求型」的に確信しておられた。僕は奥出雲をよく知らないが、本質はひとつしかない。自分が「本質追求型」であることは確信できる。ということは、世界が奥出雲を好きになるという確信を多根さんと共有してしかるべきなのだ。そして、その事がより強い確信となって帰ってきたのが今回の2度目の訪問であった。
某プロジェクトとは僕が発案したもので、読者のどなたもが想像もされないし、今回同行した関係者とお会いした奥出雲の方々しかまだ知らないが、わくわくするほどエキサイティングな計画だと信じる。まだ内奥を開示するわけにはいかないが、近々そうするだろう。もちろん関わってくださる方々にとっては大事な事業なのだが、こと僕個人に関してはというと、多根さんがどういう理由で奥出雲に連れて行ってくれたのかという謎のままになったご恩、ご縁に対する僕なりの体を張った結論である。このプロジェクトをやることがたぶん御意に添い、喜んでいただけると思うのは、宇田川多根自然博物館長のお力添えでお会いすることができた島根県庁、町長、役場の方々、桜井家・絲原家のご当主様、日刀保たたらの刀匠、県立横田高校の教員・生徒の皆様、養鶏場、畜産農家の皆様、そろばん製造会社、寿司店、豆腐店、ハンバーガーのピコピコのすべての皆様が今回の提案を歓迎してくださったからだ。
では、この新しい出会いがどこから来たかというと、多根さんとミクロネシアへ一緒に行った、たったそれだけのことからだ。「人との出会いの大切さ」とは種を大事に育てるという事だと教えていただいた気がする。
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静岡の狐につままれた一日
2019 SEP 5 2:02:10 am by 東 賢太郎

静岡駅から海岸線を三保の松原へ向けて走ってもらう。「登呂の遺跡ってここにあったのか!」とは日本人としてかなり恥ずかしい。日本初のサウナもあるらしい。あべかわ餅が安倍川だと初めて知った。久能街道を清水に向かうとイチゴ農園がずらっと並び、家康の墓のある久能山東照宮が左手に見えてくる。彼は鯛の天ぷらにあたって亡くなったという説もあるが、遺言によって翌日にここに葬られた。駿河湾は沖に出ると水深2,500メートルもあって日本一深く、二番目は富山湾だ。だから波に持っていかれると命が危険で、こんなに平坦な海岸線が長いのに遊泳スポットが数か所しかない。深海魚まで取れるし清水港にあがるマグロとカツオはいける。以上、タクシー運転手さんの受け売りだ。
富士山世界文化遺産に入った三保の松原を一度ぐらいは観ておこうと思った。お客様を訪問した帰り、つかの間の寄り道だ。
運転手さんに「昨日ご案内したかたはそのために泊ったのに富士山みえなくて、お客さんついてますね」と持ち上げられたが、こっちから夕陽があたると赤富士になるとは合点がいったが、なんとなく雪をかぶってないと浮世絵っぽくなくてしっくりこない。
羽衣伝説のロマンに浸っていると、いつの間にか周囲はバスでやってきた一群のけたたましい中国語に取り囲まれている。京都と銀座だけじゃないんだ、そういえば富士山はかの国で一番人気だったっけ。清水港にクルーズ船が立ち寄るルートができて外国人はさらに多くなっているそうだ。
それなのに日本人の僕は三保の松原も静岡駅に降り立ったのもこれが人生初めてというありさまだ。これも無知なことにひかり号で東京から1時間ちょいであり、ここから通勤する人もいる。生涯賃金はたいても小さな家しか住めない東京を考えると、ここに家を建てるのはおおいにありだ。
帰りの新幹線を予約してもらってたが、静岡駅に戻ってその事実に気がついた。道草が過ぎてあきらめていたというわけですらなかったが、なんとなんと予約があったひかりの出発が数分遅れていて、あたかも乗るぞと全力で駆けつけたかの如く飛び込みセーフでたまたま乗れてしまった。狐につままれた気分の一日であった。
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金持ちの「三種の神器」
2019 AUG 20 18:18:01 pm by 東 賢太郎

ピンときたらすぐ自分のカネで札入れします。そうしないといい物件は絶対に取れません。
不動産はそういうものかと知ったのは最近のことだ。大阪のオフィスにH氏を訪ね、物件を見せてもらった。
最上階のオンリーワンです。3億5千万で仕入れましたが今なら4億つきます。
H氏の目利き力が尋常じゃないのは初めてお会いした日から感じていた。僕はこういう物件の値段はピンとこないが、人の能力にはくるようだ。
昨晩、氏のご相伴にあずかった北新地は東京なら銀座である。新人時代には通り抜けるのも敷居が高かった。こんな所のビルは誰が持ってるのかと思っていたが、3本は氏のものだった。僕より一回り以上お若いが見上げたもので、数台所有される高級車は1台5千万円だ。
こう書くと眉をひそめる方がおられようし、僕もそういうことで氏に関心があるのではない。不動産業は目利き力がすべてだからである。そういう商売であり、だから優良なお客さんがつく。世の中の原理原則として誰だって能力はまず自分のために使う権利がある。経営者本人が貧しいのにいい物件ありますなんてどこの誰が信じようか。功なり名を上げた経営者は自分が富豪になっているが、自叙伝に「他利が大事」と書く傾向がある。ウソとはいわないが、その黄金の権利を放棄しても競争を勝ち抜けるずば抜けた能力とインセンティブがあるなら読者ははじめからそんな自叙伝を読む必要がない。
野村スイスの社長をしていたころ、仕事上多くのプライベートバンクの経営者とプライベートにおつきあいをした。ご自身が富豪でない方は一人もいない。自宅に呼ばれるとそれがリゾートホテルであったり、庭の敷地に18ホールのゴルフ場があったりする。そういう世界の人にはそういう世界の人が寄ってきてサロンを形成し、その中で共有される話題や情報がある(ちなみにモーツァルトやショパンはこういう所でピアノを弾いていたのだ)。
プライベートバンクというスイス起源の業態はグローバル市場での合法性において現在では優位性がなくなっているが、サロンは有形無形に存在するし、そこでの人、金、インテリジェンスという富裕層の「三種の神器」の集積分布図のあり方というものは古今東西何も変わっていない。なぜなら、それが「三種の神器」の固有の性質であり、いわば「物理特性」であって、放っておいてもそうなってしまうからだ。その力学を見抜くのが商売というものの本質に他ならない。シリコンバレーの起業家仲間も米国西海岸流のサロンである。日本企業が社員を現地に何人駐在させようと自分の金がない者が入れるはずもない。
日本人はサロンというものをぜんぜんわかっていない。「三種の神器」は守秘性が命なのだ。日本の大企業の社員であることに価値、信用などかけらもない。サラリーマンは上司に報告義務があるからいい話ほどあっという間に社で共有されてしまう。つまりそんな人間に話せばネットで情報公開するに等しいわけだ。日本でブランド外資のフランチャイズとして掲げたプライベートバンクという看板がことごとく失敗に終わった。コンプライアンス問題を起こしたせいが大きいが、まず何より日本人経営者が何もわかっていないからだ。満員電車で通う普通のサラリーマンがサロンのメンバーでありバンカーであるなどそもそもお門違いの定義矛盾でしかない。この世界、マックやコカ・コーラとは違うのである。
日本には日本流のサロンがあるが、物件や証券は債券化、上場をすればサロン性は完全に消える。ローンや未公開株式である段階にしかそれは存在しない。有価証券は倒産リスクから100%自由ということはないが、不動産物件は価値がゼロになることはない上にサロンディールがあり得るという点で興味深い。だから大坂に行ったのである。サロンがどこにどういう形であるかということは三種の神器の守秘性からブログに書くわけにはいかないが、当社はH氏の会社とパートナーとなるから宅建業者にはならないが同じショパンのピアノ演奏を聴くメンバーにはなるだろう。ソナー探知機の能力がさらに増すということだ。
大坂は面白い。本質追求型だ。帰りの新幹線の駅弁にしてもそうだ。僕はこれが好みだが、本来あまり食べない煮物が実にうまい。それも醤油味でなくほんのりした出汁味で具ごとに微妙なバラエティがある。いたずらな高級感ではなく、なんというか、細部まで気が利いている上質感だ。最初はこの薄味でご飯が余るかなと思うが、高野豆腐、昆布巻きは絶品だしちょっとした漬物、豆類にしても「遊び球」が一切なく、全部が全力投球であり、そんなことはない。
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「野村ロンドン会」直島旅行
2019 JUN 3 1:01:06 am by 東 賢太郎

人のつながりは不思議なもので、同じ教室や職場で長く時を共にしたというだけで自然に深まるわけではない。その共有した時が普段よりも格段に濃いものでなくてはならず、切っても切れない仲というのはそうおいそれと出来るものではない。僕の場合、人生で最も濃密な時間というとロンドンの営業課で過ごした6年間だが、完全な戦場だったからそこでの同僚は先輩も後輩もなく「戦友」以外の何物でもない。英語で仲間というとcompanyだが、こんなのは薄い。戦友はcomradeといい、命がけで同じ使命を達成する者たちである。血判状の同志に近い。
「野村ロンドン会」はcomradeだけがメンバーである。集まるとするとcompanyなら同窓会かゴルフ程度だろうが、血判状の濃さであるから旅行になる。毎年一度は必ずやる。ひとりは先日トランプ大統領とホワイトハウスのオーバル・ルームで会談した時の人だし、もうひとりは某大企業の話題の総会マターでマスコミが追う時の人だ。それなのに声がかかると瀬戸内海の直島に気やすく全員集合してしまう。これぞ血の濃さだ。お互い仕事で実力を知り尽くしているから深いリスペクトがあって気がおけない。世間的にはそうそう口のきける面々ではないのだから外部から信じられないだろうが、まったく気を使う必要のない何でも言える関係であって、この2日間、心底リフレッシュ、リラックスさせていただいた。
新幹線で岡山まで行き、JR宇野線で宇野港へ。もうここから外国人が多く、直島の観光客は半数以上が欧米人だったんじゃないか?船は約20分で直島に着く。ベネッセハウスに滞在させていただいたが数々のおもてなしを頂戴し心よりの感謝あるのみ。土日で直島、犬島、豊島をクルーズしてアートミュージアムをすべて堪能させていただいた至福の時であった。
個々のアートについて文字で説明することは困難だし、まだ素晴らしい余韻が残っている中でそうしたくもない。とにかく、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレル、李禹煥、安藤忠雄、内藤礼らの一級品の現代アート、建築物が島の地形、風土と見事に溶け合った総合造形芸術アイランドである。
たまたま、犬島では建築家の妹島和世さんに彼女の作品の中でお会いした。建築家のノーベル賞であるプリツカー賞の受賞者だ(cchttp://妹島和世 – Wikipedia)。気さくに話せる方で、デザインされた店でホッピーのビール割りで乾いたのどを潤した。
インパクトある作品が多かったが、これは時のたつのを忘れた。
ベネッセハウスは大変にクオリティが高い。まるで地中海のホテルにいるようでサービスも食事も部屋も景色も最高であって、このグレードでの値段となるとリーゾナブルとしか言いようがない。外国人で常に予約が一杯なのは当然。行かれたことのない方には激賞しておきたい。
(野村ロンドンについてはこちらを)
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興福寺参拝
2018 FEB 21 1:01:38 am by 東 賢太郎

日曜日の夕刻から火曜にかけて大阪、京都、奈良と回り、かつてない日々だった。あったこと聞いたこと一切書くべからざるである。先週13日より試練かと思われ、記憶に残ることとなろう。
京都は烏丸御池交差点の某社様だ。織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠が本能寺の変で殺された妙覚寺がこの交差点の北東すぐであり、このブログを書いて3年後にここで仕事をしようとは夢にも思わなんだ。
京都から近鉄で奈良へ向かう。日本の古都の位置関係、つまり奈良が京都のほぼ真南という感覚が希薄で、二都と大阪との三角形、名古屋との三角形を全く誤解していたことを知る(日本人として恥だ)。家康の伊賀越えが苛酷だったこと、なぜ半蔵に門を警護させたか、そういうことだったのか。
近鉄奈良駅頭で周辺地図を見、圧倒される。何度目だろうか。奈良は知らねばならない。帰りに興福寺に立ち寄ってみるが、藤原氏ということ以外にその来歴が頭に浮かんでこないのも寂しい限りだ。
唯一覚えている。これだけは見ようと国宝館に。
すこし安寧とパワーをいただけたような気分になって帰京の途に就いた。
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大阪にあったドイツのクリスマス
2017 NOV 18 1:01:17 am by 東 賢太郎

今日は大阪に急遽よばれていて、それも来いという指示が昨日の夕方遅くのことであって、なんぼ何でも大変だった。ある大事な会議が30分あって、実際は45分ぐらいになったが、それを終えてとんぼ返りした。
行ってみると新梅田シティの中庭で「ドイツクリスマスマーケット大阪」をやっていて、ソーセージを焼いたりホイリゲが出たりツリーの飾りを売っていたりする。早やそんな季節なんだ。とてもいい感じである。20余年前のニュルンベルクのクリスマスマーケットを思い出すではないか。
ドイツは各都市にマーケットが出るが、ニュルンベルクのはとくに有名であり巨大であるから、行かれたり耳にされた方も多いのでは。こんなものだ。
グリューワイン片手にニュルンベルガー・ヴルスト(ソーセージのこと)をほおばりながら歩き回る。浅草の仲見世通りをもっとすし詰めにしたようなもので、店もみんな屋台に似たりよったりだ。小さかったので覚えてないかもしれないが子供たちには目を輝かせるものばかりだ。僕は縁日やお祭りの夜店、テキ屋のたぐいが大好きできっと子供よりも目は輝いていたろう。こんな店を通りかかるともう完全に足が止まってくぎ付けになっていた。いま見ても欲しい。
ドイツに3年いたがその当時は春、夏が恋しかった。ドイツ・リートのタイトルや歌詞にマイ(Mai)がたくさん出てくるが、住んでいると暗い冬が明けて花が咲き誇る5月が一番うれしいのは共通なんだろう。しかし20年たってみると、なぜか冬が無性に懐かしいことに気づく。気候が暗いわけだから人間の方が自発的にわいわいやって楽しく時を過ごそうよという国民的な前向きムードに満ちてくるのであって、自然が目を奪うほど美しくなって勝手に人を楽しませてくれる春、夏が「静的」であるならば、ドイツの冬はすぐれて「動的」であるといえる。これは一般のイメージと違うかもしれない。
それが楽しかったのだ。コンサート、オペラのシーズンは9月からスタートだし、秋は収穫のシーズンで食材に恵まれ、オクトーバーフェストが10月でビールがめちゃくちゃうまく、摘みたて葡萄のワインが11月に出てくる(ボジョレ・ヌーボはそのフランス版)。12月のクリスマスというのも、キリストの誕生日なんて文献がなくて、どうせなら日照時間が一番短い冬至のあたり、要は世の中が一番暗い時にもってこようよというのが理由と聞いたことがある。そう、個人的には、欧州に野球はないから11月の野球ロスがなかったというのも大きかったなあ。
「ドイツクリスマスマーケット大阪」はもちろんそんな規模ではないが、雰囲気が出ていただけでも有難い。こんな店を見つけて見とれてしまった。こういう家のミニチュアは趣味でフランス、オランダやプロヴァンスのいい感じのをもっている。よし2,3個買おうと思って時計を見たら、なんと集合時間にあと15分であった。あぶないあぶない。大変に大事な会議だが僕は予習しない。しないほうがうまくいくのが経験則だ。帰りに寄ろうと思っていたがそうもいかなかった。
しかたない、新大阪駅でたこ焼きと豚まんと赤福をヤケ買いして新幹線に飛び乗った。
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ネコ三昧のいちにち(愛媛県・青島探訪記)
2017 MAY 12 19:19:24 pm by 東 賢太郎

GWの5月4~6日に愛媛県は松山へ行ってきました。
松山といってもそこは足場で、目的は「猫の島」である青島(地図のマークの位置)に渡航して、僕のオンラインTV会社「ネクサス」のための動画撮影です。機材はゴープロを持ち込みました。舟の出るあたりに宿がないのでやむなく松山泊となったのです。
青島は島民16人にネコ100匹という猫好きの聖地であり、世界のマニア垂涎の島なのであります。ところが大問題があって、名が轟いているわりに宿泊施設がなく日帰りしなくてはならない。便は一日2往復の34人乗り定期船しかなく、もともと島民の日々の足としての船だから帰りの便の空席数しか乗せてくれません。それが何人かというのは、出港する伊予長浜の船着き場にその朝に行ってみないとまったくわからないのです。出港は朝8時です。苦労して早朝から並んでもごめんなさいというのがあり、かなり勇気と情熱がないといけません。
到着日は松山城天守閣に登り、夕食後に道後温泉本館へ。僕は坊ちゃんが好きでここは一度来ていますが、GWとあって入場は延々長蛇の列で風呂は芋を洗うが如し。とても湯船で落ち着けたもんじゃないが、やっぱりこの風情(右)は捨てがたいものがありますね。
道後プリンスホテルはサービスも風呂も良かった。ただ「明朝に青島へ行きたいが」と尋ねると想定外の客であったのかフロントが絶句し、そこの人は誰も行ったこともなく、しばしお待ちをとさんざん事情を調べてくれてタクシーを5時に呼んでもらうことにあいなったのです。朝8時のに乗れないとアウトですが、6時に着けば大丈夫だろうという読みでそうなったのでした。
午前4時に起床。ホテルが気を利かして用意してくれた兵糧(おにぎり、水、菓子)を積み込んで出発。船着き場に予定通り5:55に着いたのです。ところが楽勝と思ったらとんでもない。もう15,6人が並んでいるではないか。先頭の人は4時ごろ来たらしい。これは参った。結局我々のあとに2,30人が並び、我々の後ろ6人目で非情のカットとなりました。
やれやれだ。30分ぐらいで青島に。TVで見た猫の大群のお出迎えはなし。最初にいたのはこんなやつ。ぞろぞろ上陸する客人を見渡すとカップルやカメラ片手の若者ばかり、僕はぶっちぎりの最年長である。なんやけったいなおっちゃんおるなという目線であったが、みんな猫好き。性格もネコであり干渉はしない。自分の世界に入ります。
ここから始まった8時間のネコ三昧はまさに至福の時でありました。
どんどん寄ってくる。まずは客も猫も「エサやり場」に集合するのです。そこはこういうことになる。TVでおなじみの光景だ。人間のエサはない。宿屋、食堂、コンビニ、自販機、いっさいなし。こっちも腹がへった。
おう、おっちゃん、おっちゃん、ここはヒト禁止やで、それ早いとこワシによこさんかい。
生活にまるで家具みたいにネコがとけこむ。一匹一匹の表情もいいが、それがまた猫好きにはたまらない魅力であります。
村を探検して回り、ひと遊びすると、ほどなく日が高くなる。ちょっと暑い。ネコも暑い。
さすがに早起きがこたえ、奥の民家が喫茶室になっていたので畳にごろりと寝かせてもらう。あっという間に寝入ってしまい、気がついたら2時間いびきをかいて熟睡していたようだ。いい時間が流れてる。
ネコがいなくたって美しい島であります。
午後の部。猫を従えてふたたび出陣する。
武器はこれ、トンボである。これ1本あればすべてのネコを自在に操ることができる。これの弱点は、へましてつかまると食いちぎられてオシャカになること。だからサドンデスの緊迫した戦いとなるのがいいのである。ちなみに階段を下りてついてくるのはドキンちゃんとみんなが呼んでいた島の人気者だ。もちろんトンボを狙っている。
若いから敏捷なうえ好奇心に富み、丘のてっぺんまで一匹だけついてきた。あっぱれだ。
ふりかえればこうなっている。ネコはエサをくれる人と遊んでくれる人を見ぬくのである。
草むらで5匹を相手に戦う。一瞬のすきも許されない、すごい、獲物を襲撃するメスライオンの群れだ。ぎりぎりまでじらして飛びつかせるがつかまらない。ネコはそれがたまらない。こっちもたまらない。
猫おじさんの技に驚いたカップルが・・すごいですね・・・うん、まあベテランだからね・・・それでぞろぞろついてくるんですね、いいなあ・・・そう、エサがおわっちまえばね、あとは遊ぶ人の独り占めになるんだよ。
トンボ1本あげてもよかったが、持ってきたのは3本でこれが最後だごめんね。さっきも、ちょっとぽっちゃりの白猫が鈴つけててさ、飼い猫だってなめてたら電光石火のパンチでばしっといかれちまったの。ここの猫は速い、油断ならないね。
運動神経と好奇心においてドキンちゃんと双璧をなす俊英がこれ。名前は知らない。
ほのぼのして好きなのはこれだ。
どこへ行っても、ネコには大人気になってしまう。テレパシーで通じてるとしか思えない。
お別れに撮った一枚。ありがとう、すばらしい一日でした。
さてどんな作品に仕上がるか。この日は電車で松山に午後7時ごろ着いて、6日は道後公園湯築城跡などを取材して夕方の便で東京に帰りました。コンサートの前日でしたが猫たちのおかげで存分に英気が養えました。
Yahoo、Googleからお入りの皆様
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西表島(いりおもてじま)紀行
2016 DEC 17 19:19:21 pm by 東 賢太郎

西表島(いりおもてじま)へ行った。今年立ち上げたオンラインTV会社の取材、撮影、情報収集である。僕はこの事業に「歴史を学ぶ」という基軸を据えたいと考えている。芸術も娯楽もスポーツも芸能も、文化というものはまずは日本を知り、愛し、誇りを持つことが基本中の基本である。グローバリズムは大いに結構だがそれがなければただの根無し草だ。自国に根を張っていなければ、格好良くもなければ世界の誰もまともに相手になどしてくれないのである。僕は16年の留学と海外勤務経験の総決算として強くそう思うとともに、思うだけでなく、ネットメディアを作ることでそれを世界に発信しようと決めた。
この島がどこにあるか?まず東シナ海の白地図を見ていただこう。
右が日本、上が韓国、左が中国、下が台湾、この地図の横の辺の距離は1300km(福岡ー青森)ほどである。この地図に載っている部分のおおよその人口だが、中国(上海圏)約4千万人、台湾2千3百万人、釜山・済州島約400万人に対し、九州1千3百万人、沖縄県144万人である。
台湾と九州の間の島名をご覧いただこう(下)。西表島は東京から2000km、沖縄から400kmほどあるが、台湾には190km(東京-静岡)で、人口はというと隣の石垣島5万人に対して3千人しかいないのである。そして、ご覧の通り、問題の尖閣諸島はその北方わずか160kmほどにある。
4千万、2千3百万、144万、この数字の重みをすべての日本人に考えていただきたい。尖閣がいかなる事態になり得るか、それはこと尖閣諸島だけの帰属問題ではない。尖閣を領有されれば、ご覧の通り、西表島はおろか石垣島と宮古島の主権さえ、少なくとも地理的距離感でいえば危ない。相手は囲碁を仕掛けている。しかも、この地図だけを百年構想で世界に見せ続ければ、「一つの中国」で隣は我が国土だと主張し続ければ、やがてクリミア半島のように沖縄まで十分に射程圏内だと思われるのである。
ちなみに八重山諸島は1500年に石垣の豪族、遠弥計赤蜂による琉球王国への反乱があった(オヤケアカハチの乱)が今でも赤蜂は八重山の英雄と讃えられている。現在も石垣市の中山義隆市長は「中国の公船が沖縄の行政区域で領海侵犯を繰り返す中、中国トップに会えても何も発言しない。片方の国に言わず、アメリカでは基地問題を言う。那覇市長だったらいいが、沖縄県知事だ」と親中・反米・反政府の翁長 雄志氏を批判している。
おりしも北方領土をかけた日ロ首脳会談があったりオスプレイが墜落したりのさなかだ。人口3千の島に降り立って、そこが日本国であること、女子供が何も知らずに遊べるほのぼのした日本語世界であることを心から有難く思い、父の世代への感謝をいっそう深くした。
行程はというと、羽田午前11時10分のANAで石垣島まで直行で約3時間。空港から港までタクシーで30分、そこから船で50分で西表島の大原港に着き送迎バスで1時間でホテルニラカナイに6時に到着する。冬季はホテルに近い上原港はほぼ閉鎖なので1時間余計にかかる。待ち時間を入れて片道7時間は結構長いが、2年前の12月に行った屋久島は肌寒かったのに対し亜熱帯で台北より緯度は南の西表島は日中気温が26度もあって充分に泳げる体感であったから屋久島から見ても外国のようなものだ。移動時間は仕方なかろう。
夜の8時から娘たちとガイドさんで特別天然記念物のヤマネコを探すツアーに出かける。約100匹しかおらず会える確率は2割ぐらいと聞くが、比較的人を平気な母子がいるらしい。真っ暗になる新月で雨上がりがベストだそう。新月ではないので曇ることを期待していたが、晴れ男がたたって月が煌々と出てしまう。まさに月明かりだけで本が読める!息を殺して1時間ほど4人で歩いたが不首尾。今日のごはんはカエルじゃなくてお魚だったね。人っ子一人いない広々した田んぼは何種類もの声のカエルのフル・オーケストラ。忘れ難い残念賞だった。
翌朝は7時からトレッキングツアーで森のなかを滝まで歩く。何やら奇怪な植物がある。4回行ったミクロネシアと比べてしまうがパンの実は見ずヤシも食べられないようで、食性は熱帯雨林の方が豊かなようだ。
昼食は右のようなもの。ウミヘビとはすごい。それも考えたが、島外では食べられないと聞いた猪汁(琉球猪)にした。娘が注文したガザミ汁(マングローブにいる大型のワタリガニ)は全く違和感なく美味である。食は土地の文化を象徴する。水質、土質、食材の特性や制約が人をつくり、それは精神活動にも及ぶからだ。
猪汁だ。島民はこれを刺身で食べるが禁じられた。味は悪くないが野趣あふれる食感と風味で、英国のgame(ウサギ、鹿、フクロウ、キジ等)に匹敵する。スープは特に美味である。肉はやや硬いが感謝の気持で内臓まで全部頂いた。
午後は沖縄一の落差54mあるピナイサーラの滝がそそぐ岩の頂上にトレッキング。高低差は100m強だが傾斜が垂直に近くロープがある難所が3つあり、往復3時間余りはそこそこきつかった。右が滝の注ぎ口だが垂直に54mの崖は、高所恐怖症の僕としてはこの地点までが近寄る限界であった。
ホテルはこんなもので部屋も清潔でいい。食事はバイキングだが地元の食材をあれこれ試せて不満なし。チェックアウトの時にお会計を見て、えっこれ合ってる?と聞いたら高いという意味にとったらしく丁寧に明細を教えてくれた。ちがうちがう。思ったより安かったのだ。この時期おすすめだ。
西表島を遠望しつつあとにする。海は青く、娘は地中海クルーズを思い出していた。西方にある島に日の入りになるので西を「入り」と読むときいて合点がいった。石垣島目線なのだ。
わずか2泊だったが、行きがけは鄙びてると感じた石垣島がずいぶん都会に見えた。26度でぽかぽかと暖かく、ここもいいなと思って「ゴルフ場は?」とタクシーで聞いたら「ひとつだけあったんですがねえ、飛行場になっちまいましたよ」とベテランの運転手さんが嘆いた。
(ご参考)
このブログは日ロ首脳会談前日に書いた。
領土は取られたら終わりだ。ポツダム宣言受諾後に強姦しておきながら第2次大戦の結果だなどとほざく極道に手も足も出ない。こいつらは返還する気などさらさらなくディールのネタに使うだけなのは眼を見ればわかるのであって、首相も冷徹に構えて論功に走るべきではない。ロシアへの投資など企業の是々非々のリスク判断でやればいいだけだ。政府はそれを足し算して経済協力だとほざいておけばいいのであって、やがて得られるかもしれないのが2島ならむしろカネなど出すべきでない。温泉と秋田犬は断られましたとか、でも講道館では喜んだとか、わけのわからんロシア学者がよくやったとか、マトリューシュカのお姉さんがいい解決を望んでますとか、この国民のお花畑ぶりはおめでたいもほどがあるのであって、安倍首相はもう一度オバマとつるんだほうがいい可能性がある。
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秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)
2016 AUG 19 23:23:30 pm by 東 賢太郎

話はいきなり40年前にさかのぼります。高校の友人2人と車で高野山へ行った夏のこと、宿坊に泊まるつもりが空きがなく、金剛峯寺のお堂の廊下に寝袋を敷いて野宿したことがあります。罰当たりなことでしたが、この写真の根本大塔を見ながら暗闇で寝たわけですね。
大変恐ろしい一夜でした。夏でも夜気はぐんぐんと冷んやりしてきて、寝袋に入って何か食っておこうぜと無理にカップヌードルをかきこみウィスキーをがぶ飲みしましたが、闇夜の中から読経がきこえたりあまりの不気味さに吐き気をもよおしました。やがてなんとか寝付いたところ、突然友人の I 君が「うわあ~~」と何かにおののいたような声をあげます。寝言だったのですがびっくりしたこっちは寝られなくなってしまい、なんだか霊魂や人魂が飛び交っていそうな闇の中、夜明けの薄明りと鳥の声で救われたのです。
思えば、ここに登る参道の途中で信長、信玄、正宗、三成、光秀など名だたる武将の墓がずらりと並んでいました。とんでもない霊気の漂う場所だった。そこに秀吉の墓もあったことをはっきりと覚えています。秀吉?そういえば、ここは豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて出家し、切腹したとこじゃないか。当時はそれに気づいてなかったのですが・・・。
話はかわって、去年8月の旅行の続きです。福岡から新幹線で12日に京都に出向き、13日に安土城址に登って( 織田信長の謎(1))近江八幡のホテル・ニューオウミ泊。翌14日は丸1日かけて近江八幡の市街を見て回りました。ここに日牟禮八幡宮があります。中元大萬燈祭の前日だったようです。信長由来の左義長祭り(3月)や八幡まつり(4月)は一度行ってみたいものです。
神社のすぐ横からケーブルカーで八幡山に登ります。
ここが、豊臣秀次が城主であった八幡山城のあった場所でありました。琵琶湖はこう見えます。すぐ船で出られる立地なのは安土城、長浜城と同じ信長スタイルです。信長が石山本願寺を死力を尽くして落としにかかったのも、当時かの地は物流と共に海運、水運の要所だったからです(のちに大阪城が築城される)。
そして、これが重要ですが、信長の安土城はこう見えるのです(遠方の西湖のすぐ向こうの低めの黒い山)。
八幡山城を造らせたのは秀吉です。安土城に替わる近江国の国城とし、城下には町民を安土から移住させています。ここのほうが安土山より高い、京にも近い。この場所に立ったとき、秀吉は御館様(信長)を見おろしたと直感しました。手練れの爺殺し術でかつぎあげ、利用して出世し、そしてうまく死んでくれた。明智憲三郎氏の「本能寺・秀吉グル説」はこの後で知りましたが、ここで得た感覚からもそれは説得力を感じました。
秀次は秀吉の甥であり、秀吉の養子になり関白にもなりましたが、秀吉に実子・秀頼が生まれると疎まれるようになり、ついには切腹を命じられ、秀次の妻・妾39人も三条河原で4時間かけて1歳の稚児に至るまでことごとく斬首され、遺体は穴ぐらに投げ込まれました(秀次事件)。秀吉は切腹は命じておらず、勝手に腹を切った(無実のアピールになる)ことに逆ギレしたという説もあるようですが、いずれにせよ「逆賊」扱いし一族郎等根絶やしに、跡形もなく殲滅してしまった怒りは鬼か仁王のごとく凄まじいものがあります。
瑞龍寺は秀吉の姉、秀次の母である日秀尼の菩提寺で、この写真の門跡は八幡山に京都から移されました。豊臣秀次の幟が見えます。ここをぬけてケーブル口まで下山します。
下の写真は秀次が見ていた近江八幡の城下町の景色です。罪人を自ら好んで刀で切り刻むなど残虐な「殺生関白」だったとされますが、それは秀吉が逆賊とあえて印象づけたもので、実は学もあり近江八幡の町民、農民からは名君と慕われたという話もあります。どちらが秀次の実像なのかは不明ですが、まだ20代半ばの男が好き放題できたわけですからどっちの面もあったのではないでしょうか。後世はとかく勧善懲悪や判官びいきなどの感情がはたらいて黒白をつけたがりますが、人間そうきれいに割り切れるものではないように思います。
秀次事件。いまドラマで有名になっているそうですが僕はTV見ないので知りません。
この八幡山と金剛峯寺。その地に立って、呼吸をして感じるもの・・・。
理不尽な出家命令、切腹してのありえないさらし首、女子供の三条河原の処刑はあまりも残虐であり、秀次の痕跡を根こそぎ抹消するかのごとく聚楽第まで破壊する。秀次に謀反の意があったのか老いた秀吉が狂っていたのか?
諸説あるようですが、秀頼かわいさであることは明白でしょう。それだけでやったとするなら狂ったとみるしかありません。しかしそこまで秀吉が精神を病んだとは思えず、むしろ天下にそれを見せつける冷徹な政治的意図があった、私見ですが、事件当時秀吉が唐入り(朝鮮出兵)を決行していた、この作戦に命運をかけていたことが根底にあったのだと思います。
ここで再度時間を巻き戻しますが、2009年に九州は佐賀県松浦半島の名護屋城址に行ってみました。唐入りの前線基地だった城で、イカで有名な呼子の近くです。城は五重の天守を備えており、城下町は一時は10万人規模にもなった。10万というと今の兵庫県芦屋市、岐阜県高山市より大きい街ができてしまった。秀吉の本気度がわかります。下の絵がその復元ですが、城のむこうの黒い部分は玄界灘で、壱岐、対馬を経て朝鮮半島へ至る最短コースです。文禄、慶長の役はここから出兵となったのです。
今はもう何もなくて山林と野っ原だから当時もそうだったでしょう。1599年に秀吉が死ぬと唐入り構想はただちに雲散霧消し、この城は壊されて唐津城の築城に使われました。この海をのぞむ小高い丘に名だたる戦国大名がずらりと集められただけでも想像を絶します。日本史に類のない異常事態です。
その荒涼たる城跡に立って玄界灘から朝鮮半島方面を遠望してみると、諸大名には唐入り構想がいかに恐怖をあおるものであり、浮世離れしたものに思えたか、実感されます。
唐入りのオリジナル構想は信長がつくりました。水辺に居城をなす信長スタイルは船で軍を出すためで、彼は村上水軍との戦でその怖さと重要性を知っていました。そして、船で西洋から来た宣教師から多くを学んだ。海の向こうに何があるか?現実にやって来た人間たちが目の前にいたのだから信長は地球が丸いことを理解したでしょう。彼は領土拡大より明の王になり世界制覇する、天下布武の先にそれを見たのだと思います。だから、城は水とつながっていなくてはならなかったのです。
しかし秀吉は領土拡大の切実な必要があった。彼は企業に例えるなら信長というワンマン・オーナー社長に仕える副社長のひとりでした。オーナーが急逝して社長の座に就いたが、副社長が何人もいて政権は安定しません。そりゃ、昨日まで同格のライバルだったのが社長ではすんなりおさまらないでしょう、権威の根拠がないから「ところで、どうしてお前が社長なんだったけ?」となるんです。いつ謀反で寝首をかかれるかわからない。
つまり本能寺の変まで日本国は天皇、寺社勢力をもしのぐ信長という「疑似オーナー」が出現したオーナー企業化が着々と進んでいましたが、秀吉はそうはみなされず、複数いた副社長のリーダー程度であった。だから統治はポスト(人事)、カネ、ストックオプションなど報酬にたよる、つまり石高で処遇するしかなかった。ところが国内の領地の年貢は太閤検地で搾りつくしており、新たな石高を与えようとするなら海外に活路を見出すしかなかったのです。
これは日本企業が売り上げが行き詰まると、英語もできない社長が「これからはグローバルだ!」とぶちあげるのに似たものです。しかし国内に先祖伝来の領地や家臣団など失うものが多くある社員たちはどうしても内向きで、海外赴任などしたくない。「うまくいったら君を現地の社長にしてやるぞ」と言われても困るのです。秀吉の唐入りは前社長のビジネスプランを借りた自己の権威正当化策だった。だからこそ本気だったし、実利のない部下からは見放されたのです。
秀吉は大名たちの不興をやわらげ、名護屋城待機の退屈を紛らわせようと「やつしくらべ」(コスプレ大会)をやって自分も出場までしていました。今ならさしづめガス抜き目的の「秀吉杯ゴルコンペ」でしょう。面従腹背である大名の本音を見抜いて警戒していたが、信長のこわもて強権発動型ではなく、お茶目、おちゃらけ型でやったところが彼らしい。いや、強権発動の威嚇は何度もしたがそれでは部下が本気で動かない危機感を「唐入りプロジェクト」で初めて感じたのではないかと想像するのです。
明智憲三郎氏説だと、海外(朝鮮)に派遣されて先祖伝来の領地や家臣を失いそうだった光秀が、人事発令を阻止しようと謀反を起こして信長を殺した。これは説得力があります。信長は唐入りに本気であり、光秀は源氏の血を引くばりばりのドメス派エリートだったからです。「内向き社員たち」にはトップ経営者の目線はなかった。それが本能寺の変の真因であり、本稿のポイントですが、秀次事件の真因でもあったのではないか?秀次は再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかった。唐入りに従わなかったのです。
秀吉はそれをなぜ咎めなかったのか?それは自分が出陣して名護屋に前線基地を構える必要があったからです。唐入りほどの兵隊の恐怖をあおるプロジェクトにおいては本社から人事権だけで指揮しようとしても前線は動かないことを知っていたという点、秀吉は太平洋戦争の大本営エリート官僚よりも賢こかった。だから1591年に関白職を辞して、唐入りに専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せるとし秀次には京都に残って守護を命じたのです。
これは米国に進出しようという会社の社長が自らニューヨーク支社に赴任するようなものです。すると東京本社は誰か信頼できる部下に一任せざるを得ない。それが秀次だったのであり、彼しかいなかったのであり、だから関白にして後継者宣言をした。赴任に当たって秀吉は茶の湯、鷹狩り、女狂いはほどほどにしろ、俺のマネはするなと厳命しています。お前は「代行」だからなと念を押した。利休もそうだったが、自分を超えるものはあってはならない。それが権力者です。
ところがその部下が2度も天皇の行幸を受け、書や茶の湯、連歌をよくして公家の評判も悪しからず文武両道の力量を見せている。秀吉は「本能寺の変」で明智とグルだったとすれば、海外やめてくれの「国内派」の謀略で信長は殺されたことを知っていました。今度は我が身に暗殺の危機が降りかかるかもしれないという恐怖は常にいだいていたでしょう。力量がある者が謀反をおこすことを何より恐れていたと思われます。
自分が名護屋城にいて鬼のいぬ間に秀次が国内派を陽動しているのでは?謀反のうわさがあったのは事実のようなので、「関白にまでしてやって一緒に前線でアクセルを踏むべき奴が裏でブレーキを踏み、自分を追い落とそうと企んでいる。」「いや、ひょっとして次の本能寺を画策してるか?」彼の思考回路の中ではそういう結論になってしまったのではないか。それが逆賊一族郎等根絶やしの悲劇を生んだのではないか。
ちなみに有名な大盗賊の石川五右衛門は秀次事件の前年1594年の夏に子供と共に釜茹で処刑されましたが(右の絵)、その刑場がまさに三条河原だった。なぜ盗賊ごときを見せしめ刑で殺し、その最期が伝承されて歌舞伎にまでなっているのか、不思議に思いませんか?秀次の家臣だった木村常陸介 重茲(文禄の役で3,500の兵を率いて朝鮮に渡海)が五右衛門に秀吉暗殺を命じたという説もあり、また秀次も木村も91年に切腹した利休の弟子だった。いろんな意味深長な糸がつながってきます。
国内派は簡単にまとまります。生まれた土地に居たいのが人の本性だし天皇、公家という伝統的な権威は当然そうだし、いとも自然に国内派=保守派としてまとまるのです。海外派は朝廷権威を否定する膨大なエネルギーを要します。秀吉は太政大臣になって豊臣姓を賜るや方広寺に奈良をしのぐ巨大な大仏を建立発願した。唐入り願望を正のエネルギーとするならそれを守護してもらうためであり、それに反抗する負のエネルギーに対しては大仏発願と同じだけの勢いで強烈なバッシングを加え、それを天下に見せつける必要があったと思われます。
つまりこれは秀次側の行状の善し悪しや謀反の有無、内容などのことを論じてもわからないことです。すべては太閤様の心の中で起きた事件だからです。唐入りが政権維持に必要という、その地位についた者しかおそらく分からない恐怖感、焦燥感が動機だったからです。彼が老いて狂っていた、秀次は善人だったのにという視点は唐入りを「殿ご乱心」というステレオタイプに封じ込めて思考停止したものと思料いたします。
居酒屋で「うちの部長さ~、海外海外って参ったよ」とボヤく。秀次事件は圧倒的に日本人の多数派でもある国内派、保守派の在野の視点から描いた方が共感されやすいし、罪もなく蹂躙された朝鮮半島の人々の怒りにも沿う。しかし、あえてそれを権力者の脳内現象として冷徹に追体験してみたいのです。鬼畜と罵るのではなく、秀吉にもヒットラーにもルーズヴェルトの心にも去来した「悪魔」をマキアベリのように客体視してみよう、それが僕の立場です。
秀次事件が尾を引いて関が原に至ったという説は正しいように思います。秀次がまとめた国内派、保守派が東軍についた。そしてまさしく秀吉が恐れていたように、彼の政権はオーナー社長・信長のもうひとりの副社長であった家康に倒され、乗っ取られてしまうのです。
信長、秀吉の末路の悲しさがグローバル戦略にあった。これは現代の日本企業の陥る隘路を象徴します。日本企業で真の意味でグローバルになれたのはトヨタはじめ数社しかありません。掛け声だけなら何千社もありますが、その失敗のツケが来て業績悪化して、逆に買収されたり外人に経営されたりするケースは続出、今後も増えるでしょう。
最後はこちらも情けないボヤキになりますが、海外で16年、グローバル部門で仕事をしてきましたが、MBAをとってこれからはグローバルの時代だと本気で思ってやってきましたが、日本はそういう国じゃない、そういうことは百年後はともかく生きているうちはないなという結論にうすうす至りました。海外派は無力でありました。
人生をかけてきて悔しくもあり、会社人生においては、まさに秀吉が思い込んだ秀次のような人間をまとめて打ち首にしたいと思ったことが何度もありますが(いま思うと物騒なことだ)そんな能力も権力もなかった。海外生活でいい思い出も残させていただいたし、信長、秀吉ができなかったんだから仕方ないじゃないかと思えばまた痛快なことではあります。
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あれからもう一年か・・・
2016 AUG 11 16:16:30 pm by 東 賢太郎

去年は今頃九州にいて、中村兄といっしょでした。それについて、これしか書いてなかったのは怠慢でした。
1年遅れですがこの続編を書きましょう。
レンタカーで8月10日に嬉野温泉を出発します。まずは割合に近い有田焼の有田に寄って柿右衛門の窯元で焼き物を見た。土産でもと思って焼き物センターのようなところへ行ったが、中国人ばかりでした。
お昼は駅前のこんな食堂で名物のチャンポンを。猛暑に似合わないけどおいしかったですね。食堂のあんまり映りが良くないTVでは甲子園で岡山学芸館と鳥羽がやっていて(12時試合開始)、まだ序盤であった。野球のことはどういうわけか良く覚えているのです。
ここから車を飛ばして吉野ケ里遺跡へ行きました。
およそ700m四方、広大な平地です。佐賀のこの辺から福岡にかけての平野は稲作文明が大陸から初めて入った場所です。食い物が豊富になければ王権は保てませんからね、直感的には邪馬台国は九州にあったように思えます。
紀元前5世紀ごろ(弥生時代)からの集落ということですが、中国は孔子の時代ですね。ローマだってやっと王政が共和制になるあたりです。ユーラシア大陸と日本列島の関係は、ローマ以前の欧州大陸とブリタニア島のようなものだったでしょう。英国がそうだったように、現代の日本人につながるDNAが各所から文明と共に移入してきた、そのひとつの痕跡なのかなと思って見ておりました。
出土品にはこんな奇っ怪なものが。こういうわけわかんないのはみな祭祀品とされてしまうが、歯車に見えますね。こりゃあ日本古来という感じがしませんや。
大変楽しかったが半端でなく暑かった。菅笠みたいな被り物で陽を遮りながら中村兄とふーふーいいながら敷地を一周したのです。
そこから福岡まで一気に北上し、夜は中島さんのご案内で呼子のイカ、五島のサバをメインに塩もつ鍋というメニュ―とあいなりました。
翌日、すなわち去年の今日は午前中に大宰府へお参りです。博物館でボランティアの方に歴史を詳しく教わり、なかなか勉強になりました。昼は中島さんも合流され、いい1日でした。
そしてその夜、忘れもしない、ヤフオクドームで柳田のサヨナラホームランに遭遇。この辺の顛末は中島さんのこの記事になってます(東さん、中村さん&中島in博多)。
翌日、中村兄は帰京、僕は一人で京都に出向くのです。そこからこれが始まることになりました。
このとき長浜で買ってきた鮒ずし一尾を忘れていて、先日冷蔵庫で発見(高いのにもったいないことだ)。真空パックしてあるし保存食だしというので食べてみたが、ぱさぱさでした。1年は早いがやっぱり長くもあるんだ。
On the 第1回・山の日
(なんだそれ?休みなんて知らなかったぞ)
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