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カテゴリー: ______国内出張記

秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

2016 AUG 19 23:23:30 pm by 東 賢太郎

 

1280px-Danjogaran_Koyasan16n4272話はいきなり40年前にさかのぼります。高校の友人2人と車で高野山へ行った夏のこと、宿坊に泊まるつもりが空きがなく、金剛峯寺のお堂の廊下に寝袋を敷いて野宿したことがあります。罰当たりなことでしたが、この写真の根本大塔を見ながら暗闇で寝たわけですね。

大変恐ろしい一夜でした。夏でも夜気はぐんぐんと冷んやりしてきて、寝袋に入って何か食っておこうぜと無理にカップヌードルをかきこみウィスキーをがぶ飲みしましたが、闇夜の中から読経がきこえたりあまりの不気味さに吐き気をもよおしました。やがてなんとか寝付いたところ、突然友人の I 君が「うわあ~~」と何かにおののいたような声をあげます。寝言だったのですがびっくりしたこっちは寝られなくなってしまい、なんだか霊魂や人魂が飛び交っていそうな闇の中、夜明けの薄明りと鳥の声で救われたのです。

思えば、ここに登る参道の途中で信長、信玄、正宗、三成、光秀など名だたる武将の墓がずらりと並んでいました。とんでもない霊気の漂う場所だった。そこに秀吉の墓もあったことをはっきりと覚えています。秀吉?そういえば、ここは豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて出家し、切腹したとこじゃないか。当時はそれに気づいてなかったのですが・・・。

話はかわって、去年8月の旅行の続きです。福岡から新幹線で12日に京都に出向き、13日に安土城址に登って( 織田信長の謎(1))近江八幡のホテル・ニューオウミ泊。翌14日は丸1日かけて近江八幡の市街を見て回りました。ここに日牟禮八幡宮があります。中元大萬燈祭の前日だったようです。信長由来の左義長祭り(3月)や八幡まつり(4月)は一度行ってみたいものです。

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神社のすぐ横からケーブルカーで八幡山に登ります。

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ここが、豊臣秀次が城主であった八幡山城のあった場所でありました。琵琶湖はこう見えます。すぐ船で出られる立地なのは安土城、長浜城と同じ信長スタイルです。信長が石山本願寺を死力を尽くして落としにかかったのも、当時かの地は物流と共に海運、水運の要所だったからです(のちに大阪城が築城される)。

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そして、これが重要ですが、信長の安土城はこう見えるのです(遠方の西湖のすぐ向こうの低めの黒い山)。

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八幡山城を造らせたのは秀吉です。安土城に替わる近江国の国城とし、城下には町民を安土から移住させています。ここのほうが安土山より高い、京にも近い。この場所に立ったとき、秀吉は御館様(信長)を見おろしたと直感しました。手練れの爺殺し術でかつぎあげ、利用して出世し、そしてうまく死んでくれた。明智憲三郎氏の「本能寺・秀吉グル説」はこの後で知りましたが、ここで得た感覚からもそれは説得力を感じました。

秀次は秀吉の甥であり、秀吉の養子になり関白にもなりましたが、秀吉に実子・秀頼が生まれると疎まれるようになり、ついには切腹を命じられ、秀次の妻・妾39人も三条河原で4時間かけて1歳の稚児に至るまでことごとく斬首され、遺体は穴ぐらに投げ込まれました(秀次事件)。秀吉は切腹は命じておらず、勝手に腹を切った(無実のアピールになる)ことに逆ギレしたという説もあるようですが、いずれにせよ「逆賊」扱いし一族郎等根絶やしに、跡形もなく殲滅してしまった怒りは鬼か仁王のごとく凄まじいものがあります。

瑞龍寺は秀吉の姉、秀次の母である日秀尼の菩提寺で、この写真の門跡は八幡山に京都から移されました。豊臣秀次の幟が見えます。ここをぬけてケーブル口まで下山します。oumi5

下の写真は秀次が見ていた近江八幡の城下町の景色です。罪人を自ら好んで刀で切り刻むなど残虐な「殺生関白」だったとされますが、それは秀吉が逆賊とあえて印象づけたもので、実は学もあり近江八幡の町民、農民からは名君と慕われたという話もあります。どちらが秀次の実像なのかは不明ですが、まだ20代半ばの男が好き放題できたわけですからどっちの面もあったのではないでしょうか。後世はとかく勧善懲悪や判官びいきなどの感情がはたらいて黒白をつけたがりますが、人間そうきれいに割り切れるものではないように思います。

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秀次事件。いまドラマで有名になっているそうですが僕はTV見ないので知りません。

この八幡山と金剛峯寺。その地に立って、呼吸をして感じるもの・・・。

理不尽な出家命令、切腹してのありえないさらし首、女子供の三条河原の処刑はあまりも残虐であり、秀次の痕跡を根こそぎ抹消するかのごとく聚楽第まで破壊する。秀次に謀反の意があったのか老いた秀吉が狂っていたのか?

諸説あるようですが、秀頼かわいさであることは明白でしょう。それだけでやったとするなら狂ったとみるしかありません。しかしそこまで秀吉が精神を病んだとは思えず、むしろ天下にそれを見せつける冷徹な政治的意図があった、私見ですが、事件当時秀吉が唐入り(朝鮮出兵)を決行していた、この作戦に命運をかけていたことが根底にあったのだと思います。

ここで再度時間を巻き戻しますが、2009年に九州は佐賀県松浦半島の名護屋城址に行ってみました。唐入りの前線基地だった城で、イカで有名な呼子の近くです。城は五重の天守を備えており、城下町は一時は10万人規模にもなった。10万というと今の兵庫県芦屋市、岐阜県高山市より大きい街ができてしまった。秀吉の本気度がわかります。下の絵がその復元ですが、城のむこうの黒い部分は玄界灘で、壱岐、対馬を経て朝鮮半島へ至る最短コースです。文禄、慶長の役はここから出兵となったのです。

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今はもう何もなくて山林と野っ原だから当時もそうだったでしょう。1599年に秀吉が死ぬと唐入り構想はただちに雲散霧消し、この城は壊されて唐津城の築城に使われました。この海をのぞむ小高い丘に名だたる戦国大名がずらりと集められただけでも想像を絶します。日本史に類のない異常事態です。

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nagoyajyou02その荒涼たる城跡に立って玄界灘から朝鮮半島方面を遠望してみると、諸大名には唐入り構想がいかに恐怖をあおるものであり、浮世離れしたものに思えたか、実感されます

唐入りのオリジナル構想は信長がつくりました。水辺に居城をなす信長スタイルは船で軍を出すためで、彼は村上水軍との戦でその怖さと重要性を知っていました。そして、船で西洋から来た宣教師から多くを学んだ。海の向こうに何があるか?現実にやって来た人間たちが目の前にいたのだから信長は地球が丸いことを理解したでしょう。彼は領土拡大より明の王になり世界制覇する、天下布武の先にそれを見たのだと思います。だから、城は水とつながっていなくてはならなかったのです。

しかし秀吉は領土拡大の切実な必要があった。彼は企業に例えるなら信長というワンマン・オーナー社長に仕える副社長のひとりでした。オーナーが急逝して社長の座に就いたが、副社長が何人もいて政権は安定しません。そりゃ、昨日まで同格のライバルだったのが社長ではすんなりおさまらないでしょう、権威の根拠がないから「ところで、どうしてお前が社長なんだったけ?」となるんです。いつ謀反で寝首をかかれるかわからない。

つまり本能寺の変まで日本国は天皇、寺社勢力をもしのぐ信長という「疑似オーナー」が出現したオーナー企業化が着々と進んでいましたが、秀吉はそうはみなされず、複数いた副社長のリーダー程度であった。だから統治はポスト(人事)、カネ、ストックオプションなど報酬にたよる、つまり石高で処遇するしかなかった。ところが国内の領地の年貢は太閤検地で搾りつくしており、新たな石高を与えようとするなら海外に活路を見出すしかなかったのです

これは日本企業が売り上げが行き詰まると、英語もできない社長が「これからはグローバルだ!」とぶちあげるのに似たものです。しかし国内に先祖伝来の領地や家臣団など失うものが多くある社員たちはどうしても内向きで、海外赴任などしたくない。「うまくいったら君を現地の社長にしてやるぞ」と言われても困るのです。秀吉の唐入りは前社長のビジネスプランを借りた自己の権威正当化策だった。だからこそ本気だったし、実利のない部下からは見放されたのです

秀吉は大名たちの不興をやわらげ、名護屋城待機の退屈を紛らわせようと「やつしくらべ」(コスプレ大会)をやって自分も出場までしていました。今ならさしづめガス抜き目的の「秀吉杯ゴルコンペ」でしょう。面従腹背である大名の本音を見抜いて警戒していたが、信長のこわもて強権発動型ではなく、お茶目、おちゃらけ型でやったところが彼らしい。いや、強権発動の威嚇は何度もしたがそれでは部下が本気で動かない危機感を「唐入りプロジェクト」で初めて感じたのではないかと想像するのです。

明智憲三郎氏説だと、海外(朝鮮)に派遣されて先祖伝来の領地や家臣を失いそうだった光秀が、人事発令を阻止しようと謀反を起こして信長を殺した。これは説得力があります。信長は唐入りに本気であり、光秀は源氏の血を引くばりばりのドメス派エリートだったからです。「内向き社員たち」にはトップ経営者の目線はなかった。それが本能寺の変の真因であり、本稿のポイントですが、秀次事件の真因でもあったのではないか?秀次は再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかった。唐入りに従わなかったのです

秀吉はそれをなぜ咎めなかったのか?それは自分が出陣して名護屋に前線基地を構える必要があったからです。唐入りほどの兵隊の恐怖をあおるプロジェクトにおいては本社から人事権だけで指揮しようとしても前線は動かないことを知っていたという点、秀吉は太平洋戦争の大本営エリート官僚よりも賢こかった。だから1591年に関白職を辞して、唐入りに専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せるとし秀次には京都に残って守護を命じたのです。

これは米国に進出しようという会社の社長が自らニューヨーク支社に赴任するようなものです。すると東京本社は誰か信頼できる部下に一任せざるを得ない。それが秀次だったのであり、彼しかいなかったのであり、だから関白にして後継者宣言をした。赴任に当たって秀吉は茶の湯、鷹狩り、女狂いはほどほどにしろ、俺のマネはするなと厳命しています。お前は「代行」だからなと念を押した。利休もそうだったが、自分を超えるものはあってはならない。それが権力者です。

ところがその部下が2度も天皇の行幸を受け、書や茶の湯、連歌をよくして公家の評判も悪しからず文武両道の力量を見せている。秀吉は「本能寺の変」で明智とグルだったとすれば、海外やめてくれの「国内派」の謀略で信長は殺されたことを知っていました。今度は我が身に暗殺の危機が降りかかるかもしれないという恐怖は常にいだいていたでしょう。力量がある者が謀反をおこすことを何より恐れていたと思われます。

自分が名護屋城にいて鬼のいぬ間に秀次が国内派を陽動しているのでは?謀反のうわさがあったのは事実のようなので、「関白にまでしてやって一緒に前線でアクセルを踏むべき奴が裏でブレーキを踏み、自分を追い落とそうと企んでいる。」「いや、ひょっとして次の本能寺を画策してるか?」彼の思考回路の中ではそういう結論になってしまったのではないか。それが逆賊一族郎等根絶やしの悲劇を生んだのではないか。

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ちなみに有名な大盗賊の石川五右衛門は秀次事件の前年1594年の夏に子供と共に釜茹で処刑されましたが(右の絵)、その刑場がまさに三条河原だった。なぜ盗賊ごときを見せしめ刑で殺し、その最期が伝承されて歌舞伎にまでなっているのか、不思議に思いませんか?秀次の家臣だった木村常陸介 重茲(文禄の役で3,500の兵を率いて朝鮮に渡海)が五右衛門に秀吉暗殺を命じたという説もあり、また秀次も木村も91年に切腹した利休の弟子だった。いろんな意味深長な糸がつながってきます。

 

国内派は簡単にまとまります。生まれた土地に居たいのが人の本性だし天皇、公家という伝統的な権威は当然そうだし、いとも自然に国内派=保守派としてまとまるのです。海外派は朝廷権威を否定する膨大なエネルギーを要します。秀吉は太政大臣になって豊臣姓を賜るや方広寺に奈良をしのぐ巨大な大仏を建立発願した。唐入り願望を正のエネルギーとするならそれを守護してもらうためであり、それに反抗する負のエネルギーに対しては大仏発願と同じだけの勢いで強烈なバッシングを加え、それを天下に見せつける必要があったと思われます。

つまりこれは秀次側の行状の善し悪しや謀反の有無、内容などのことを論じてもわからないことです。すべては太閤様の心の中で起きた事件だからです。唐入りが政権維持に必要という、その地位についた者しかおそらく分からない恐怖感、焦燥感が動機だったからです。彼が老いて狂っていた、秀次は善人だったのにという視点は唐入りを「殿ご乱心」というステレオタイプに封じ込めて思考停止したものと思料いたします。

居酒屋で「うちの部長さ~、海外海外って参ったよ」とボヤく。秀次事件は圧倒的に日本人の多数派でもある国内派、保守派の在野の視点から描いた方が共感されやすいし、罪もなく蹂躙された朝鮮半島の人々の怒りにも沿う。しかし、あえてそれを権力者の脳内現象として冷徹に追体験してみたいのです。鬼畜と罵るのではなく、秀吉にもヒットラーにもルーズヴェルトの心にも去来した「悪魔」をマキアベリのように客体視してみよう、それが僕の立場です。

秀次事件が尾を引いて関が原に至ったという説は正しいように思います。秀次がまとめた国内派、保守派が東軍についた。そしてまさしく秀吉が恐れていたように、彼の政権はオーナー社長・信長のもうひとりの副社長であった家康に倒され、乗っ取られてしまうのです。

信長、秀吉の末路の悲しさがグローバル戦略にあった。これは現代の日本企業の陥る隘路を象徴します。日本企業で真の意味でグローバルになれたのはトヨタはじめ数社しかありません。掛け声だけなら何千社もありますが、その失敗のツケが来て業績悪化して、逆に買収されたり外人に経営されたりするケースは続出、今後も増えるでしょう。

最後はこちらも情けないボヤキになりますが、海外で16年、グローバル部門で仕事をしてきましたが、MBAをとってこれからはグローバルの時代だと本気で思ってやってきましたが、日本はそういう国じゃない、そういうことは百年後はともかく生きているうちはないなという結論にうすうす至りました。海外派は無力でありました。

人生をかけてきて悔しくもあり、会社人生においては、まさに秀吉が思い込んだ秀次のような人間をまとめて打ち首にしたいと思ったことが何度もありますが(いま思うと物騒なことだ)そんな能力も権力もなかった。海外生活でいい思い出も残させていただいたし、信長、秀吉ができなかったんだから仕方ないじゃないかと思えばまた痛快なことではあります。

 

織田信長の謎(1)

交響曲に共作はない

 

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あれからもう一年か・・・

2016 AUG 11 16:16:30 pm by 東 賢太郎

去年は今頃九州にいて、中村兄といっしょでした。それについて、これしか書いてなかったのは怠慢でした。

嬉野温泉スパイ事件の謎

1年遅れですがこの続編を書きましょう。

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レンタカーで8月10日に嬉野温泉を出発します。まずは割合に近い有田焼の有田に寄って柿右衛門の窯元で焼き物を見た。土産でもと思って焼き物センターのようなところへ行ったが、中国人ばかりでした。

 

 

 

 

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お昼は駅前のこんな食堂で名物のチャンポンを。猛暑に似合わないけどおいしかったですね。食堂のあんまり映りが良くないTVでは甲子園で岡山学芸館と鳥羽がやっていて(12時試合開始)、まだ序盤であった。野球のことはどういうわけか良く覚えているのです。

 

ここから車を飛ばして吉野ケ里遺跡へ行きました。

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およそ700m四方、広大な平地です。佐賀のこの辺から福岡にかけての平野は稲作文明が大陸から初めて入った場所です。食い物が豊富になければ王権は保てませんからね、直感的には邪馬台国は九州にあったように思えます。

 

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紀元前5世紀ごろ(弥生時代)からの集落ということですが、中国は孔子の時代ですね。ローマだってやっと王政が共和制になるあたりです。ユーラシア大陸と日本列島の関係は、ローマ以前の欧州大陸とブリタニア島のようなものだったでしょう。英国がそうだったように、現代の日本人につながるDNAが各所から文明と共に移入してきた、そのひとつの痕跡なのかなと思って見ておりました。

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出土品にはこんな奇っ怪なものが。こういうわけわかんないのはみな祭祀品とされてしまうが、歯車に見えますね。こりゃあ日本古来という感じがしませんや。

 

 

大変楽しかったが半端でなく暑かった。菅笠みたいな被り物で陽を遮りながら中村兄とふーふーいいながら敷地を一周したのです。

そこから福岡まで一気に北上し、夜は中島さんのご案内で呼子のイカ、五島のサバをメインに塩もつ鍋というメニュ―とあいなりました。

翌日、すなわち去年の今日は午前中に大宰府へお参りです。博物館でボランティアの方に歴史を詳しく教わり、なかなか勉強になりました。昼は中島さんも合流され、いい1日でした。

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そしてその夜、忘れもしない、ヤフオクドームで柳田のサヨナラホームランに遭遇。この辺の顛末は中島さんのこの記事になってます(東さん、中村さん&中島in博多)。

翌日、中村兄は帰京、僕は一人で京都に出向くのです。そこからこれが始まることになりました。

安土城跡の強力な気にあたる

このとき長浜で買ってきた鮒ずし一尾を忘れていて、先日冷蔵庫で発見(高いのにもったいないことだ)。真空パックしてあるし保存食だしというので食べてみたが、ぱさぱさでした。1年は早いがやっぱり長くもあるんだ。

 

On  the 第1回・山の日

(なんだそれ?休みなんて知らなかったぞ)

 

 

 

 

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織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

2015 OCT 12 0:00:28 am by 東 賢太郎

今回京都へ行って進歩?したのは、なんとも低レベルのことですが京風の住所の言い方である**通上ル下ル××西入ル東入ルをマスターしてタクシーで指示できるようになったこと。これが正確にわかっていなかったのは、どうせ適当だろうと思っていたせい。実はそうではなかったのですね。

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しげ森さんに「みずゑ會」なる宮川町の踊りの会にお招きに預かってとても楽しみました。常磐津「乗合船恵方万歳」、清元「吉原雀」、長唄「三重霞傀儡師」など、春の「京おどり」に比べると秋の彩りのしっとりした味わいがこれまた良かった。

 

前回も泊まったスマイルホテルというのが気に入りました。安いというのもありますが、元本能寺の目の前というのが信長ファンとしてたまらない。そういえば信長は本能寺の変で死ぬ前年に「馬ぞろえ」という観兵式・軍事パレードを大々的に2度やってますが、その隊列は「室町通り」を北上しました。

この通りに足利義満の花の御所があったのでその時代が室町時代と呼ばれるようになりました。それを踏まえたのかもしれませんが、信長は会場の京都内裏東まで民衆の群がるこの通りで騎馬行列をやって軍事力を天皇、公家、諸将に知らしめ、天下布武に手をかけた。

kyoto17どうしてもその室町通り(ホテルに近い)が見たくなって、2次会のあと夜中1時にひとりで歩きました。左の写真がそれです。歴史好きには京都は夜がいいですね。目障りな建物等が目に入らず、存分に雰囲気にひたれます。信長公記に「信長は下京本能寺を辰の刻(午前8時ごろ)に出発し、室町通りを北へ上り、一条を東へ折れて馬場に入った」とある。この時も彼は本能寺に泊まっていたんです。天皇も見物した数百人の行進を目撃した太田牛一の筆はこの描写に異例の8ページも割いていて興奮気味であることからも、この道が凄いことになっていたのが偲ばれます。

信長は記録にあるだけで本能寺に4回泊まっており住職の日承上人とつながっていました。本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者がおり、鉄砲と火薬の入手が容易になったといわれます。かように彼の眼は常に海の外へ向いています。京の馬ぞろえの直前に安土でもそれをしていますが、太田牛一の描写によるとその時の彼の服装は、今風にいうなら西洋のフェルト帽に中国風の袖なし羽織に虎柄のズボンです。思いっきり海外かぶれですね。洋物の鉄砲に飛びついたのもわかります。

seminario安土城のふもとにセミナリオというイエズス会のミッションスクールがあり、宣教師たちに布教を許可していました。自身もそこへたびたび訪れて話をきき、クラシック音楽を聴いています。キリシタン大名とは違った風に西洋人に開明的だったのです。つまり教化されるわけではないが、自分の頭で咀嚼して利用できるものはする。実にプラグマティックであり、秀吉はそれを真似たが器量がなく禁止に転じ、家康はのっけから守りに入り鎖国してしまいました。

tukeこれで思い出しましたが、ミクロネシアのチューク島に行った時に土地の高校に案内されたのですが、その名も「ザビエル高校」でした(左)。イエズス会の創始者フランシスコ・ザビエルの名を冠した学校であり、彼がここに来たわけではないが会の宣教師が布教したのです。つまりセミナリオはこれと同じ趣旨でできたのであり、信長は学びたいと考えたが家康は恐れた。今の日本人の思考回路の原型は家康の江戸時代にできてますね。僕は圧倒的に信長を支持します。もし本能寺の変がなかったら?日本は明治維新を300年早く迎えられており、全く違った国になっていたと思います。

そういう視点でもう一度本能寺の近辺の地図を見ます。すると、あるではないですか!目と鼻の先に「南蛮寺」というのが。建物は跡形もないので碑をさがします。地図はおおざっぱで載ってないのでマスターした京都式住所をスマホで検索して、この通りのこの辺と当たりをつけて行ってみると、ありました。

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これは実質は教会だったようでミサまでやっていた。これが本能寺のほぼ隣にあったというのは実に意味深長ではありませんか。鉄砲と火薬でしょうね、貢がれていたのは。それこそ織田軍の武力の生命線だった。思えば英国が坂本龍馬をディーラーとして敵対する薩長に武器を売って手を組ませ、フランスがついている徳川幕府を倒した、その手法を信長に対してイエズス会は狙っていたかもしれません。倒すのは支那であり、彼らにとって支那での布教こそが最終目的だった。それが信長の唐入り構想へと進展したのが、彼は彼で天皇を体よく支那の王にして日本から追い出し、自分は日本の王となるという目論見があったからです。

そうなると俺は支那の支配人に飛ばされそうだと悟った明智光秀がクーデターを起こした。しかし唐入り構想はやはり日本の王を狙う秀吉に引き継がれ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)というおぞましい愚行に至ってしまった。その豊臣家を根こそぎ滅ぼした家康は前任者を全面否定し、だから朝鮮通信使による友好が始まったが、徳川を滅ぼした明治政府もやっぱり前任者を否定して日韓併合をしてしまったと同時に、天皇は支那に追い出すまでもなく殺して替え玉の明治天皇にすり替えてしまった。これが日本史の真相と思います。

織田信長は死にましたが、実は死んでも日本史を動かしていた。そのぐらい革命的な人間だったということです。安土城とセミナリオ、本能寺と南蛮寺、この2つのペアの見事にパラレルな関係に歴史を突き動かす真因が隠されていたということです。元本能寺のあたりを夜中にほっつき歩いて、鶏がらラーメンを食べながらそんなことふと思いついてしまった。本能寺跡に寄って合掌してホテルの戻ると2時でした。聞こえたのは彼の声でしょうか。

 

 

(こちらへどうぞ)

秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

宵越しの金をもたねぇのが江戸っ子ってもんで、、、

オローラ島での瞑想

 

 

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京都の南座で中村獅童・尾上松也を観る(改訂済)

2015 SEP 19 3:03:33 am by 東 賢太郎

kabuki2minamiza_201509fflいま京都南座で新作歌舞伎「あらしのよるに」を観てきました。思ったよりずっと楽しかった。

中村獅童、尾上松也、中村梅枝、中村萬太郎。

童話が歌舞伎になってしまう。圧倒されました。終演後にしげ森さんのおかげで楽屋に入れていただきました。獅童さん、松也さん、梅枝さん、熱演でお疲れのところでしたがお会いして話せて勉強になりました。

歌舞伎は決して古いもんじゃない、今を生きているものと思います。「あらしのよるに」もいずれ古典になっていくのでしょう。

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初めて歌舞伎を観る

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嬉野温泉スパイ事件の謎

2015 SEP 13 22:22:57 pm by 東 賢太郎

先週末は雨とコンサートでジョギングできませんでした。2週空いてはまずいので今日はまた二子まで10km。けっこう調子が良くてついに初めて1時間を切りました(57分)。

阿曾さんたちにそれならハーフマラソンはいけるいけるとけしかけられたのと、もう一つ佐賀の嬉野温泉へ行った時に按摩(あんま)さんに「筋肉は50才ぐらい」とおだてられたのが効いてますね、たぶん。

この嬉野(うれしの)という所は福岡空港からだと高速バス(九州号長崎行き)で諫早方面に1時間半ほどです。地図で見るほど遠い感じはしません。福岡空港発11:02に乗って筑紫平野を下り、筑紫野、基山を通って12:36に嬉野バスセンターで降ります。

「まめ多」の降旗女将にいい旅館があるよと教わっていて、昭和天皇が泊まった和多屋というのですがそれは満員でした。そこで和楽園さんという旅館に1泊しましたが良かったです。

湯質は無色透明ながらぬめりがあります。傷を負った鶴がこの温泉で治るのを見た神功皇后が「あなうれしや」といったのが名称の語源だそうだから、日本書紀の時代から知られていたということです。和銅七年(714年)に記された肥前国風土記に名前が出てくるそうです。

「シーボルトの湯」というのがあります。

 

シーボルト_川原慶賀筆フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年 – 1866年)がここに長崎から何度か来ていた。彼はオランダ人と偽って出島に入ったがドイツ人であり、出身地はヴュルツブルグです。思えば僕はフランクフルト駐在当時、友人とよく車でヴュルツブルグの劇場にオペラを聴きに行ってました。

フランクフルトを流れるマイン川は、ワーグナーの聖地バイロイトあたりに源流を発して、長躯バンベルグ、ヴュルツブルグを流れてフランクフルト・アム・マインに来ます。そしてマインツでライン川に合流するのです。そういえばシーボルトの従兄弟の娘に当たるアガーテ・フォン・ジーボルト(1835年 – 1909年)は、あのブラームスの婚約者であったっけ!

 

どんどんパズルのピースがつながっていきます。

 

あそこから長崎に、そしてこの嬉野温泉に来ていた。彼はプロイセンのスパイだったという説もあり、幕府禁制の日本地図を持ち出そうとしたことで国外追放処分となるのです(1828年、シーボルト事件)。このとき、丸山町遊女であった瀧との間に生まれた娘(日本人女性で初の産科医となった楠本イネ)を残して去ったのはどこか「蝶々夫人」を思わせます。

イネは大村益次郎に恋した人であり、京都で襲撃された彼を看護しその最期を看取っている(司馬遼太郎「花神」)、また、吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」の主人公にもなっています。彼女の美しい娘が宇宙戦艦ヤマトのスターシャのモデルらしいというのも知りませんでした。

そこで、もうひとつ、思い出した。「シーボルトの湯」の目の前の橋のたもとにあった「大村屋」という旅館の跡に、こういう来歴が書いてあって、なんとなく写真を撮っていたのです。

 

伊能忠敬!!

そうか、幕府禁制の日本地図を役人の目が光る長崎・出島で受け取るのはあまりに危険である。温泉で湯治すると偽装して、ここで入手したんじゃないか??

 

まあ大昔の犯罪だしもうどーでもいいですけどね。

このことは実はさっき気がついたんで、当日は中村兄と来ていたんですが仕事で疲れてぼーっとしていて、名物の豆腐を食べてなんにも考えてませんでした・・・。母方の出身地が諫早なもんで、どのへんかなと旅館で尋ねたら、車で30分ですよ近いですよなんてことも知った。

ぎすぎすした東京からくると、人当たりがやわらかくてどこかほっこりしてて、安らぎました。いいところでした。また行くことになると思います。

 

(追記)

嬉野で撮った一枚に故・中村兄の後姿があった。昨日のことのようだ。

 

(こちらへどうぞ)

あれからもう一年か・・・

わが温泉考 (Splendid hot springs in Japan !)

戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

 

 

 

 

 

 

 

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織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

2015 SEP 2 2:02:23 am by 東 賢太郎

歴史ファンには有名な話ですが、1581年に「竹生島事件」というのがあります。概略はこういう話です。

安土城の信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣したときのこと。遠路ということで、信長は羽柴秀吉の居城・長浜城に泊まるに違いないと考えた女房衆は桑実寺へお詣りに出かけたりして羽をのばしました。ところが信長はなんと当日に戻ってきてしまう。信長は女房衆の怠慢に激怒、縛り上げて即刻差し出すよう寺に命令します。女房衆は恐れおののいて寺の長老に助けを求め、長老は同情して慈悲を願いますが信長はそれを見てますます怒り、長老もろとも女房衆を成敗しました。(『信長公記』天正9年4月10日の項より)

「成敗」が処刑だったかは不明ですが、けん責ぐらいでは信長公記に載らなかっただろうからまず全員死刑でしょう。安土城に強い気があるのもむべなるかなです。社内ルールを社員が守らなかったので幹部が激怒したといえば「ナッツ姫事件」というのがありましたが、僕はあれを聞いてこの「竹生島事件」を思い出したのです。

nobunagaまず関心を持ったのは、「安土城から竹生島までの距離」でした。衛星写真の星形(安土城)⇒ひし形(長浜城)⇒丸印(竹生島)と進んだのですが、全行程往復で約120kmです。そのうち琵琶湖の船が40kmほどなので早馬が競争馬の半分の時速30km、船が10kmとすると約6時間40分の移動時間。竹生島参拝が2時間、長浜城に2時間滞在として朝6時に安土城を出れば午後5時には戻れます。船がもう少し遅くても午後6時ですね。充分に可能です。

でも女房衆は帰ってこないと確信した。信長の性格からして油を売っているのがばれたら命がないぐらい熟知しているのに不思議です。どうしてだろう?まず120kmという遠さです。その距離を日帰りという常識はなかったのでしょう。次に、可愛がられていた部下の秀吉が饗応して帰すはずがない、引きとめるに違いない、殿もそれに応じるに違いないという思いこみがあったのではないでしょうか。120kmは遠く、秀吉との関係は近かったということでしょう。

8月13日、僕は安土城近くのホテルからJR琵琶湖線で米原へ、そこから北陸本線に乗りついで長浜に行き北ビワコホテルグラツィエに宿をとりました。そして翌朝9:00、長浜港発の船で竹生島へ渡ったのです。もちろん、「竹生島事件」のあった天正9年4月10日の信長の行程をそのまま実体験したかったからであります。

nagahama昼間は安土城近くの近江八幡の町を歩きまわったので、長浜にはへとへとになって午後5時前に着き、夕食は近くの寿司屋にぶらっと出かけました。知らない土地のカウンターで地酒がいいねと親父相手に適当につまむのが僕のスタイルです。すると何気なくこんなのが目に入りました。

ルービン ・ リキ ?

何だ、地元のプロレスラーの応援ポスターか?絵の女性の色っぽい眼つきと後ろの「ヨソ見はダメ」が酔った頭に交差します。おかげでキリンビールが読めるまで5秒はかかりました。

 

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翌朝、快晴。今日も暑そうだ。琵琶湖をのぞむ絶景のホールでバイキングの朝食をすませ、9:00出航の船に並びます。

 

 

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竹生島まで約30分。いっぱしのクルーズ気分です。対岸は琵琶湖西南側で比良山地、叡山の北方にあたります。この湖面は太古から変わりなし。信長も秀吉もこういう風に見ていた。彼らも同じ航路で島へ何度も向かったのです。感無量ですね。

 

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さていよいよ念願の竹生島に接岸です。歴史への思いは地面に根ざす。島は動かしようがないし、この狭い港から竹生島神社、宝厳寺へ登る参道も他に選択の余地のない場所にあり、まぎれもなく信長はここを歩いたと確信できるのです。

 

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これが竹生島神社(都久夫須麻神社)への参道です。雄略天皇3年に浅井姫命(浅井氏の氏神)を祀る小祠が建てられたのが創建とされるので5世紀の話であり、歴代天皇が参詣しています。信長、秀吉にとっても我々とたいして変わらず、すでに歴史スポットであったわけです。

 

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ここで湖へ向かって「かわらけ」を投げます。かようなお堂の背景がオーシャンブルーのレイクビューというのも見慣れません。歴代の天皇も空海も信長、秀吉もここで「絶景よのう」とつぶやいたにちがいない。

 

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これが神社の本殿(竹生島神社)。秀吉が伏見桃山城の日暮御殿(ひぐらしのごてん)を本殿にとして寄進した。この本殿の左手から、秀吉が朝鮮出兵に用いた日本丸の船櫓を用いたとされる「舟廊下」が宝厳寺へ続きます。元は弁財天社であり右手には弘法大師がいたほこらもあるが、秀吉が初めての城主となった長浜に来て彼の色が強くなったと思われます。初めて支店長になった地に強い思い入れがあったというのは気持ちわかります(僕はフランクフルトがそう)。ここを氏神とした浅井氏の三姉妹の三女・江が家光の母であり、徳川にとっても特別の場所であったろうと思います。

 

nagahama8三重塔を経て、宝厳寺の本堂へ出ます。すごく暑い。平安時代から神仏習合の信仰だったため寺が分離されたのは明治になってから。弁財天とはインド起源の神であり湖水を支配する神とされたが、琵琶湖は古代から日本海、太平洋の縦断ルートでシルクロードの末端とでもいう大陸、半島のにおいがある。じっくり勉強してみたくなります。

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本殿から港へ向かって長い長い階段を降りていくと、なにか人だかりがあり、雅楽の笙、篳篥(ひちりき)の音が遠く聞こえてきます。やがて異(い)なるものを目撃しました。この写真の行列であります。

 

 

 

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金色の烏帽子をかぶった稚児もいる平安時代のいでたち。これが自然に風景に同化してしまい、雅な楽の音もあってあたりの空気が一変します。時代感覚が麻痺するという貴重な経験を致しました。

 

 

どちらかご名家の法事でもあるのかと思っていましたが、8月14日のことであり、あとで調べるとこれだったようです。

「蓮華会」

浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返します。(元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきました。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれます(竹生島・宝厳寺 〜西国第三十番札所~より

nagahama13港に帰りつきます。信長の装束でこの土産屋の人混みから誰かがひょっこり出てきたらそれらしく見えてしまう気分になっておりました。次の船が11時過ぎで、正味1時間ほどしか居られませんでしたが大変に濃い時間であり、ここも安土城に劣らず強い「気」を感じるところであります(特に空海のほこらのあたり)。もう一度ゆっくり来たいものです。

これが帰路にのぞむ湖東方面です。中央の雲がかかっている高い山が伊吹山で、その真下にホテルが見える。つまりそこが長浜であり、信長の船頭はこの山を目ざして漕いだに違いない。そして、伊吹山の向こう側に広がるのが、あの関ケ原なのです。

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かなり疲れました。

ここからまた早馬を駆って日帰りで安土まで戻ろうというのはフルマラソンでも走ろうかというほどの体力と精神力だと感じました。粉骨砕身の新任支店長・秀吉も島には同行していたろうし、「社長、ぜひ今宵は長浜にお泊りを!」と言わなかったはずはないんです。女房衆もどうせそうよと高をくくっていた。

想像ですが、信長はそれを読んでいたのではないでしょうか。少なくとも何らかの強い意志を持って、秀吉を振り切って帰ったのだと思うのです。安土城を築いてから約2年。度肝を抜く城を建てたのは権勢を示すためですが、まだ事は成ったわけではない。野心ある経営者が借金して巨大な本社ビルを建て、業界トップの大企業にだって買収を仕掛けるかもしれんぞと社内外に大風呂敷を広げたようなものです。

社内である安土城は大変なテンションの日々だったでしょうが、「いや~さすが殿ですな」というお追従の嵐でもあったろう。これが危険なんです。もはや天下布武は近いぞという大風呂敷が効いていて外敵の脅威に脅える日々ということもなかったのではないでしょうか。大手門から直線で天主に向う道はどう見ても防御には弱い。あれはもはや向かう所敵なしという示しであり、そういう強気なトークは敵をひるませるのですが時として社内に慢心の火種をもまくのです。

それは社長がいなくなる時間に反動でゆるみが出ることでわかるのです。僕も支店長になって出張から帰ると、そういう気配を感じた経験があります。そういう立場になってみて初めてわかる肌感覚で、なんとなくいや~な感じがするのです。怖いのは敵ではなく内輪のトップだけということであり戦う組織としてはまことにまずい。信長ほどの男にしてその感覚が研ぎ澄まされてないはずはなく、銃後の守りがそんなことでは天下布武は成らないと信長が危機感を抱いたのは想像に難くありません。

出張に出る社長が秘書室にいつ帰るか言ってないなんて考えられません。泊まるかどうか、女房衆なら身支度でもわかるはずだ。お迎えする支店長のほうの準備だって半端じゃないから、それは事前に決まっていたはずです。推測ですが、わざと「泊まりだよ」と言って出たんじゃないか。秀吉とはあらかじめ諮ってあって、ひょっとすると島にも行ってないかもしれない。不意打ちで帰って皆ちゃんと働いておればそれでよし。そうでなければ成敗してその悪い芽を根絶やしにする。そういう計略だったのではないでしょうか。

なにもその程度で殺さなくても・・・。僕もそう思いますが、当時は法律はないんです。殺人罪という法を作ろうという倫理観がなかった。諸大名を率いる者が統治するすべはアメとムチ以外に一切ありません。そのムチの恐怖による反逆、謀叛への抑止力をもつことは権力を握ることと同義であった。自身が法律という身ですから、子の名前に付けた忠、孝の文字に背く行為には極刑でのぞむのは彼のポリシーであり、それが奏功してあそこまでいったわけです。

綱紀粛正ということで思い出しますが、徳川時代にも江島生島事件があり、公務である墓参りの帰りに芝居を見て歌舞伎役者・生島新五郎と宴会におよび門限に遅れた大奥御年寄・江島の行状が発端となり、旗本であった江島の兄・白井平右衛門は切腹も許されず斬首、役者まで島流し、関係者1400名が処罰されるという大事件となっています。この事件は権力争いの謀略という側面が強いのですが、綱紀のゆるみはそれを口実に政敵をおとしめる大義に使われるほど武家社会では許されないことだったのです。

猫は鼠を殺すから残虐な動物である、だから猫はけしからんと裁いてみるのは別に間違いではないでしょうが、そういう倫理観を導入することで人間社会への貢献があるとは特に誰も考えないでしょう。歴史もそういうことと考えております。歴史は「その時代の人々が当然としている思考の枠組み」に自分の思考を意図して適合させないと誤解を招きます。僕の信長観は彼の人間性うんぬんではなく、発想と事績が日本人離れし、図抜けていたことに依っています。

(次はこちらへ)

織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

こちらがスタートです。

織田信長の謎(1)

 

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織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎

AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。

この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。

今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。

それは何のことはない、こんな場所だった。

honnnouji路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。

この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。

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織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。

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もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。

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なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。

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その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。

 

 

もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。

明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。

NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。

ブログでは、

僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。

と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。

それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。

明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。

本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。

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余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。

 

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

 

 

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織田信長の謎(1)

2015 AUG 18 12:12:31 pm by 東 賢太郎

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安土城は琵琶湖東岸(湖東)の安土山にあった(地図のマークのところだ)。浅井攻めで軍功のあった秀吉を配した長浜城は北陸本線を北上した「湖北」長浜市にある。安土城は建築法が特殊であり、映画「火天の城」(これは面白い)によると熱田神宮造営に加わった大工、岡部 又右衛門による築造に壮絶なドラマがあった。天守(信長は天主と称した)は内装、外装とも大量の金箔で豪華絢爛だったと伝わる。安土山ごと要塞とした堅固な山城であったが、通例に反し天守は彼の居住空間でもあった。天皇の行幸計画まで練ったという彼の一世一代、乾坤一擲の大事業であったのだが、そのような事実を見聞すればするほど僕の興味はただ唯一、「信長はどうしてここに城を造ったか?」に集約してゆくことになった。なぜなら、この地図にてご覧のとおり、そこである地政学的な意味はまったく見いだせなかったからである。

 

aduti1JR西日本(琵琶湖線)の安土駅が至近であるが周辺にいいホテルがなく、隣の近江八幡駅のホテルニューオウミに泊まる。ニューオータニ系だがサービスは普通で、部屋はタバコ臭くて参った(ただし一番安い8800円の部屋だ)。到着したのが午後2時ごろでもあり道も不案内であるためホテルよりタクシーで安土山へ向かう(2600円で意外に高かった)。いよいよ前方に「それ」がこんな風に見えてくる。興奮は高まるばかりだ。

どうしてそんなものに興奮するか?それはする人しかわからない謎だ。そして残念ながらそういう人にまだお会いしたことがない。こういう場所に誰かと行くなら老若男女を問わず一緒に興奮してくれる人と行くしか手はないが、天守跡で蚊に食われながら1時間も一緒にいてくれる人はまずいない。ベストなのは一人で行くことだ。興奮の理由は二つある。まず第一に無条件に古跡が好きだ。その理由はない。所在地、国籍問わずであり、ローマで3回も行ったフォロ・ロマーノに明日10時間いても絶対に飽きることはない。30分ぐらい見て歩いて、疲れたねそろそろ昼メシにしようよという人とご一緒することは非常に困難である。芭蕉の「つはものどもが・・・」の心境が近いかもしれないが、芭蕉の心境の方もよくわからない。

Oda_Nobunaga-Portrait_by_Giovanni_NIcolao第二に、これが主原因だが、僕は信長が好きである。右はイエズス会画派 セミナリオ教師ジョバンニ・ニコラオ筆と伝わる信長の肖像画だ。セミナリオ(城下にあったイエズス会のミッションスクール)へ行って西洋音楽を聞きながらこんなものを描かせていた。この時代のバテレン好きは今の西洋かぶれなんかの比ではない。そして合目的的行動原理主義者である。自分もきわめてそうであり、これが痛快に腑に落ちる。そして進取の気性である。今なら米国のビットコインの最大手企業に何千億円でTOBをかけるようなタイプであると感知する。そして型破りである。村上水軍の手りゅう弾で負けると対抗策を考えぬき、鉄の鎧を着せた奇想天外な巨船を造って撃退してしまう。そしてアーティストである。能「敦盛」を舞い、茶をたて、和歌を詠んだ。彼だけではないが、武家のたしなみや見せ掛けではなく本心楽しんだのではないかと思う節がある。

信長は日本人には珍しく「皆殺し派」であった。西洋的、中国的だ。戦国時代にその善悪を説いても仕方がない。それは三国志の曹操と同様、天下布武に合目的的な行動だったと思われる。「敦盛」を舞っていたほどだから、平清盛が捕えて生かしてしまった源氏の子(頼朝)に誅殺され一族が滅亡したことを知らなかったはずがない。ただ明智憲三郎氏の著書「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)によると、信長の冷酷非情なイメージは信長の死後に秀吉が意図的に倍加捏造したものとある。「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」という句が江戸時代後期の甲子夜話にあるが、後世は秀吉による信長像が広まっていたそうだ。殺してしまえよりは捨ててしまえが似合うかなと個人的には思う次第。

aduti2山のふもとに「大手口」がある。ここからまっすぐに延々と石段が続き(写真)、物理的には壮大な山城であったことを一見して知ることになるが、心理的には天守の仰ぎ見る高さをいきなり実感させることにもなる。西洋の教会が誰も目にした経験のない巨大さと高さで信者をひれ伏させるのと似た効果を感じる。登ってすぐの所に羽柴秀吉(写真左)、前田利家(同右)の屋敷跡と伝わる遺構がある。面白い。天主へ至る道が直線では無防備なのだが、寺院の入口の門の左右に立つ仁王さんみたいなものか。秀吉の敷地の方がずっと大きいが、こういうところで差をつける。利家は御取立ての嬉しさ半ばで頑張っただろう。この段々を上がりきるだけでもう汗だくになった。

aduti3この石段の石は寄せ集めで何でもアリ。石仏まで使われている。不信心の信長はこれを踏んづけて登ったかもしれないが、逆にこういうものから不信心説が醸成されていった可能性もあろう。彼は徹底した合理主義者である。勝つためには何でもしたが念仏で戦さに勝てないなら無視。それだけだ。なぜなら安土城は城郭内に堂塔伽藍を備えた寺院(摠見寺)を持つ、後にも先にも唯一の城である。助けてくれる仏さんは大事にした。部下に黒人(弥助)がおり本能寺の変の際にも同行していたほど取り立て、末は城主にしようとしていた。秀吉と同じ路線の驚くべき出世コースがあったのだ。家康も三浦 按針を取りたてたが所詮通訳だった。発想の質に大差がある。単なる好き嫌い人事なら現代もおなじみだが、取りたてた無名の部下が武功を上げたのは信長自身が戦場の指揮官として優秀だったからであり、ローマのカエサル軍が強かったのと同じだ。信長は戦さはたくさん負けているが、負けると勝つ方法を編み出して常に進化している。発想のフレキシビリティと好奇心と学習能力!彼が天下取り一歩前まで登りつめた要因はそこにあったと感じる。

ビジネスの世界で戦う人間として、僕は彼の能力に限りない羨望を覚える。信長こそ現代ならば世界で成長する企業を牽引できる頭脳を持った男だ。秀吉は一般的イメージよりも計略も戦さも政治もうまく高い知力を感じるがさらに異能であったのはサラリーマン道の天才としてであって、その必然の理として上司がいなくなると異能の部分の発揮は不能となった。家康はあらゆる管理運営の智謀をもって安定的支配をおこなう天才であって、現代の官僚、大企業メンタリティの祖となったが、長期安定と引き換えに想定外の事態への即応と危機管理能力に欠け、相対的には信長的であった薩長明治新政府に屈した。信長の冷酷非情残虐は性格による部分もありと思われるが、現場の最前線で自身の経験として研ぎ澄ました「勝つための策」を持ち、それに寄与しないなら万事無駄であると切り捨てることは勝ってきた人間にあまりに当たり前のことだ。それを理解できず異常と観るのが99%の人間であることを知っていた賢い秀吉が、自身に都合の良い改竄した歴史を庶民に植え付けるべく誇張して書かせたのが「惟任退治記」であるという明智光秀ご末裔の明智憲三郎氏のご明察には賛同したい。

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

 

 

 

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安土城跡の強力な気にあたる

2015 AUG 17 1:01:00 am by 東 賢太郎

京都と近江を一人であちこち歩きました。観光ではないので一人がいいのです。というのは何かを見たい知りたいというよりも、そこに身を置いて「諸々を五感で感知する」のが目的だからです。いままで知識だけだった土地に実際に立って空気を吸って、初めてそこに関する歴史、風土、文化を頭に入れ、あれこれと思考する準備ができます。過去、ずっとそうやってものごとを理解してきた自分なりの方法論です。

特に無理なスケジュールではなかったのですが、どういうわけか心身ともに疲れ果てております。新しいものが頭にぎゅっと入っていて、その分量があまりに膨大なので消化できておりません。オーバーロードで頭の働きも鈍い。ブログを書こうにもどこからどう始めたらいいか、いちいち書いたら何十稿にもなりそうだし、そもそもその元気がありません。

わけわからないことで申し訳ないのですが、安土城跡には本当に疲れました。屋久島の山道みたいな石段を500段も登るのですが、足が疲れたからではありません、なにやらとても重いものをしょってしまった。

階段の右側が前田利家、左側が豊臣秀吉の屋敷跡

延々と登らされるてっぺんの天守閣跡まで重臣の屋敷が左右に配されるので、シンプルな構造ですが攻め落とすのは困難だったでしょう。猛暑でしたから汗だくでしたが、やっと着きました。

ここまで来るのに足が棒だ。登った者だけがわかる信長の気持ち。

天守跡に立って琵琶湖をのぞんだ時にはっと思いました。秀吉が朝鮮攻めのために九州の松浦北端に築いた名護屋城から玄界灘をのぞんだ景色にそっくりなのです(写真・下)。

築城当時は湖水が山のふもとまで迫っていた

信長は安土城の天守から湖の彼方に京を見ていた、秀吉は海の彼方に朝鮮半島を見ていた。秀吉の脳裏には安土城天守からの眺望が焼きついていたに違いなく、琵琶湖の向こう側に信長が何を見ていたかも知っていた。ああ彼は信長に憧れ、信長を凌駕したかったんだなあ、天守跡に立って風に吹かれながらそんなことを空想するわけです。

この石の土台の上に壮麗な天守閣が聳えていた。物凄い「気」を感じた場所である。

教科書に書いてないし確証もないのですがそう直感します。こういう想いを歴史のロマンとでも言うのでしょうが、僕はロマンというよりも、彼らと同じものを見て彼らの目でものを考えてみたいという実証的な関心だけです。

天守跡に1時間近く居座って「信長の目線」を体感しようとしていたら、どういうわけかがっくりと疲れてしまった。比較的に健脚なのでそんな経験はいっさいないのですが、真剣に下りの帰り道は大丈夫かなと心配になりました。やおら帰路を下りはじめるとしばらくしてポツポツと来はじめ、やがて、いったい何事かというほどの土砂降りになりました。散々な思いでやっと入り口にたどり着き、まいったなどうしようと雨宿りすると、すっと雲が割れてきて晴れ間がのぞき、以後は一滴も降りませんでした。

信長という武将はとても気になる存在でしたが身近ではありませんでした。この日はなにか強力な気に当たり洗礼を受けたようで、ますます彼を知ってみようと思った次第です。帰路に立ち寄ったイエズス会のセミナリオはキリスト教を保護した信長が西洋音楽を聴いた場所として有名です。

安土山の表門から田んぼを隔ててすぐのところにある。信長がイエズス会を心やすく迎えていたことがその距離感でわかる。

彼が天下を取っていたら鎖国はなかったろうし、日本はまったくちがった国家となっていたでしょう。

安土駅まで迷いながらけっこう歩く。電車で宿泊先の近江八幡まで戻った。

この前日に京都では、彼の終焉の地である本能寺跡に行きました。ここが日本国の命運を変えた場所です。いまは高校や老人ホームが建っています。明智軍はここから北へ上がり、二条御所にいた信長の嫡男・信忠も討ちとった。そこは京都国際マンガミュージアムになっています。平和っていいもんだなと思いました。

 

(こちらへどうぞ)

織田信長の謎(1)

『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

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戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

2015 AUG 16 1:01:29 am by 東 賢太郎

外国人が多いのは銀座だけではありませんでした。今回行った福岡も京都も中国語、韓国語、英語が飛び交うのに変わりはなく、しかも大都市部だけではありません、嬉野、近江、長浜のような街でも聞こえてくるのだから驚くしかありません。日本が観光大国への道を歩んでいることはほぼ間違いないでしょう。

いま取り組んでいるビジネスはインバウンド誘致、アミューズメントに関わるので訪日客の観光や消費の動向調査がどうしても必要です。しかし国内は九州、四国、北陸などあまり行ってないためデータにあまり体感がなく、やや焦りを感じているところです。

今回は中島さんと野球を観ようという話がたまたまの発端でしたが、せっかく九州まで行くならということで、何のことないまたまた仕事になってしまいました(笑)。重要拠点である博多をスタートにまず九州を、そして外人が最も行きたいとされる京都とその近辺に行くことに決めました。両者を一貫したテーマは「歴史」です。僕の信念として、我が国の歴史こそ外国人に知ってもらいたいからです。

これは話すと長いのですが、海外にいたころ各国のビジネスマンとよく飲みました。僕は戦争の話をよくしたんです。もちろん第2次大戦です。中韓の人とはもちろんのこと、米国人とだってこの話題はちょっと危険がありました。喜ぶと思ったドイツ人に不快感を表明されたこともありました。それでもそうしたのは理由があります。

この話題で飲めるというのは、良い側面だけ言えばお互いをよく理解してるという信頼の証しでもあるのです。また、その人が商売面は良くても本当は日本人が嫌いかもしれない。そういうことも表情で分かってしまう。そうではあっても、会社と会社では付きあうわけですからお互いの本音を知った方がいい。少なくともこちら側はそこまで腹を割った上でビジネスするよということです。

それは僕の主義になっているのですが、もともとそんな度胸があったわけではありません。日本のお国自慢が富士山や温泉だけじゃ寂しい、なにより日本人の心を知ってほしいと思って規律正しさや勤勉さ、思いやり文化や恥の精神の話をしたのです。すると、「それはわかってるさ。列車の時刻表は秒刻みだ。信号は車が来なくても皆じっと待ってる。だからカンバン方式のトヨタができたんだろ」とくる。

ちょっと待ってくれよ、となります。

それって、メガネかけて肩からカメラぶら下げた終戦後の日本人像、それが経済的に成功したらエコノミック・アニマルなんて言われちゃうあの日本人の延長だろと思ったのです。サムライやブシドーという言葉は有名になっていましたが、どうもマーシャルアーツの総本山みたいに誤解してる。英国の貴族は位があるかわりに国の危機には馬に乗って先頭で戦うわけです。しかしブシドーにはそのノビリティ(貴族性)のイメージが欠けていて、野蛮な戦闘員の武術と思っている人が多かった。

そこで「ムサシ ミヤモトを知ってるか?日本で一番強かったサムライだが、歴史に残る思索書がある。水墨画の名人で、作品がたくさん美術館に飾られてるアーティストでもある」というと一様に驚くのです。今だったらスマホで彼の「枯木鳴鵙図」でも見せれば誰もが納得でしょう。つまりそういう男がリアル・サムライになれるのであって、スーパーマンとは違うのよ。強いだけじゃない、カンフーを振りまわすだけのヒーローじゃないんだよということを理解してもらうには、どうしても歴史が出てくる必要があります。

例えば日本の武将はサムライだから掟があって、攻める前にまず「やあやあ我こそは」の名乗りを上げねばならない。それが不意打ちは恥という不文律になっていた。だから戦線布告なしに満州を襲ったソ連みたいなことはしないのです。またサムライは敗者を女子供まで皆殺しにはしません。清盛は助命を受けて殺さなかった子(頼朝)に殺されてしまうという前例があるのに、後世は皆殺しを慣例化しません。世界的にも異例のことで何か抑止力が働いている。だからあの家康だって天下人になったのに豊臣氏をすぐには滅ぼさず、15年もかけた上に口実までもうけてから大阪夏の陣に至っています。だからナチスみたいなことはしないのです。

僕らがみな武士道を知っているわけではないですが、それは日本人の精神の底流には脈々と受け継がれているものでしょう。それは「武」だけの精神ではないからです。武蔵が書画工芸、文化にも一流であっただけでなく、戦国武将の多くが中国の古典を能くし、能狂言、茶の湯をたしなみ、自ら謳い、舞い、信長はセミナリオデでヴィオラとオルガンの合奏まで聴いていた。戦場では猛々しかったろうが、文化人の素養もあった。そういうイメージとはほど遠い秀吉の書状や手紙を見ても達筆です。敵に塩を送るような精神からは皆殺しという野蛮な発想は出ないのではと思います。

いま議論がかまびすしい戦争の謝罪問題ですが、日本軍は世界に冠たる規律の厳しい軍隊だったそうです。それが武士道から直接くるのかどうかではなく、日本人の集団というのは軍であれ役所であれ会社であれそういうものになってしまうというところが大事と思うのです。僕は謝罪には肯定的です。ご近所にご迷惑をおかけしましたと謝るのは、日本的な精神として違和感はありません。しかし、現状の外国人の日本への知識や理解度からすると、「ごめんなさい」といえば「それ見たことか、あそこのドラ息子が」ということになるでしょう。そう利用もされる。そうではなく「あそこの息子が謝った?さすがだね、やるじゃないか」としたい。そうですから。

ご近所には申しわけなかった、でも、タマは遠くから飛んできた。村山談話はご近所に視点があるが安倍談話はタマの出所にも視点があって、こんないい息子が何もなくあんなことはしないという思いがあるのでしょう。だから子供、孫の代まで謝らなくても良いようにしたい。僕も同感です。といって動機が正当なら殺人が許されるわけではありません。長い歴史の中からその行為だけピックアップして記憶されてしまっているのが現代の日本です。TVのニュース報道でインタビューの中から一部だけ切り取って放映され、悪いイメージが定着してしまうようなものです。

だからこそ、僕らの世代が「我々はあんなことそんなこと、やるような極悪非道な民族じゃない」という発信をし続けて行かなくてはいけないと思います。思えばこちらだって鬼畜米英と言っていたわけです。敵が鬼、畜生に見えるのは人間の道理であって、勝てば官軍でそれは消えてしまいます。いや正確には、勝ったほうが歴史を新たに書いて消すことができる。しかし日本は不幸にも負けた。だからそれが残っていてまだ鬼畜と言われる。これも道理なのです。だから、それに怒っていたずらに角を立てても諸事が悪くなる。道理には道理で向かうべきです。

元首相が土下座をして回る、本人が何のつもりか知りませんが、日本人が見てわからないことを外国人がわかるとは思えません。日本人はああいうことを天皇や武将がするだろうかと歴史に照らして考えればいい。文民統治の世なのだから首相がサムライである必要はない、そうかもしれません。しかし歴史は天下をとった「武」を中心に回るのが道理です。「文」がそれに無縁に存在してきたわけではない。日本精神の文脈までを否定すると、我々はこの戦争までの千数百年も自ら否定することになります。弱い相手は蹂躙するが強い相手には土下座する、おそらく世界的にどこの国でも尊敬されない男の姿をさらして彼は日本国に何を得ようというのでしょう。

僕らは学校で日本の歴史を習っています。神話で始まり敗戦で終わる。神の国が西洋に屈して物語はほぼ終わっているのです。これで国に誇りがもてるのでしょうか?僕はあの戦争はきっぱりと敗戦と明記すべきと思う。それでは英霊が浮かばれない、そう言っていると永遠に浮かばれないでしょう。僕は高校が隣だった靖国神社に何度もお参りしましたし、知覧もひめゆりの塔も行ったし、グアムもトラック諸島も真剣に観ました。米国人がアーリントン墓地へ参り、野球場で国歌を歌うのと同じぐらい愛国者であり、戦争をはげしく憎む者です。右翼ではなく、世界を見渡せば至極当たり前な中道派の市民であると思っています。

東京裁判によってでなく自らが敗戦としなければ、精神の脈絡という大事な糸までが切れてしまいます。日本は滅びてさら地となったわけではありません。古来からの精神の糸がぴんと張っている、だから軍艦の数ではなく今度は経済成長によって正々堂々と、誰にも非難されることのない世界一になったのです。これは東洋の奇跡としてではなく、千数百年蓄積した日本人固有の能力がおこした必然の方に目を向けるべきであり、日本史の教科書はそこにページを割くべきです。歴史学が幾分なりとも科学でもあるならば、70年前の焼け野原がここまで来た真因を因果の叙述に終わらせるのではなく、日本文化や美意識まで内包した日本精神の自律的、内在的な作用があったことを解明し、子供たちに誇りと未来への自信を与えていくべきなのです。

そういう前提で戦争の謝罪をする、立派な敗者となる。それは国家に軍事力だけでは得られない尊厳をもたらします。

それには、歴史を、日本史をもっと我々が知ること、そして広く外国人に知ってもらうことが早道なのです。今回、有田、吉野ケ里遺跡、大宰府、九州国立博物館、本能寺跡、妙覚寺・二条御新造跡、安土城跡、近江八幡、竹生島、長浜城址などを歩き、観ました。とても疲れましたが。というのは、ノブナガ、ヒデヨシ、イエヤスは日本の歴史上の人物としては比較的外国人に有名であり、西洋史も中国史も同様の国盗り物語があってその勝者が書いた歴史が正史となっている。その意味で興味を持ってくれ、深く知りたがる人が多いというのが僕の経験だからです。

ところが信長の安土城も秀吉の長浜城も行ったことがない。これでは話にもなにもなりません。

内容は書けませんが、僕がやることは外国人に日本史をある程度は知ってもらい、「ロシアに勝ってアメリカに負けた国」というワンセンテンスで終わらないようにしたいという動機を持っています。単なるビジネスとは考えていません。5年後の東京オリンピックにかけてのひとつのチャレンジになります。生きてるうちにもう日本で五輪はないですからね、思い切りやりたい。京都には何度も行くことになる予定です。

 

(追記、16年1月20日)

本稿を書いた15年8月時点で、その半年後に本当に政府が謝罪してしまうとは思いもよらなかった。

あれは慰安婦問題の謝罪であって戦争そのものではないが、仮に我が国が戦勝国になっていたらしなかっただろうから根底には同じものが横たわるとも考えられよう。そして僕はこの謝罪は、本稿に主張した謝罪の脈絡に位置付けられうるものであり、したがって良かったと考える者のひとりであって、全面的に全人格的に民族的に悪うございましたという(そうとしか見えない)元首相の土下座事件ごときとは同一次元で考えることすらままならないという立場にある。

謝罪文の「次世代に禍根を残さない」という意図は、それこそ全面的に支持し得るものであり、僕がSMCに書き残した「若者に教えたいこと」全稿を貫く横糸のようなものである。そしてそれを歴史という縦糸でくくることが必須だというのが本稿の趣旨である。

中国政府が歴史を学べと言ってくる。実に有難いことである。彼らは逆に「日本史は教えるな」と言うべきだ。国の歴史すらまともに知らぬ国民というのは、戦争放棄しようが平和主義であろうがなかろうが愚民なのであり、金持ちであるうちはいいがそのうち財産もなくなって間違いなく二等国へ後戻りの道を歩むだろう。中国は柿が腐るのを待てばいいし、そういうタイムスパンで戦略をたてる国だ。だから次世代に禍根という足枷があってはならないのであり、次世代はのびのびと、高らかにambitionを掲げて、自国のため世界平和のために力を発揮すればいいと信じる。

 

(こちらへどうぞ)

 

日中韓米の相克と歴史教育

安土城跡の強力な気にあたる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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