あれからもう一年か・・・
2016 AUG 11 16:16:30 pm by 東 賢太郎
去年は今頃九州にいて、中村兄といっしょでした。それについて、これしか書いてなかったのは怠慢でした。
1年遅れですがこの続編を書きましょう。
レンタカーで8月10日に嬉野温泉を出発します。まずは割合に近い有田焼の有田に寄って柿右衛門の窯元で焼き物を見た。土産でもと思って焼き物センターのようなところへ行ったが、中国人ばかりでした。
お昼は駅前のこんな食堂で名物のチャンポンを。猛暑に似合わないけどおいしかったですね。食堂のあんまり映りが良くないTVでは甲子園で岡山学芸館と鳥羽がやっていて(12時試合開始)、まだ序盤であった。野球のことはどういうわけか良く覚えているのです。
ここから車を飛ばして吉野ケ里遺跡へ行きました。
およそ700m四方、広大な平地です。佐賀のこの辺から福岡にかけての平野は稲作文明が大陸から初めて入った場所です。食い物が豊富になければ王権は保てませんからね、直感的には邪馬台国は九州にあったように思えます。
紀元前5世紀ごろ(弥生時代)からの集落ということですが、中国は孔子の時代ですね。ローマだってやっと王政が共和制になるあたりです。ユーラシア大陸と日本列島の関係は、ローマ以前の欧州大陸とブリタニア島のようなものだったでしょう。英国がそうだったように、現代の日本人につながるDNAが各所から文明と共に移入してきた、そのひとつの痕跡なのかなと思って見ておりました。
出土品にはこんな奇っ怪なものが。こういうわけわかんないのはみな祭祀品とされてしまうが、歯車に見えますね。こりゃあ日本古来という感じがしませんや。
大変楽しかったが半端でなく暑かった。菅笠みたいな被り物で陽を遮りながら中村兄とふーふーいいながら敷地を一周したのです。
そこから福岡まで一気に北上し、夜は中島さんのご案内で呼子のイカ、五島のサバをメインに塩もつ鍋というメニュ―とあいなりました。
翌日、すなわち去年の今日は午前中に大宰府へお参りです。博物館でボランティアの方に歴史を詳しく教わり、なかなか勉強になりました。昼は中島さんも合流され、いい1日でした。
そしてその夜、忘れもしない、ヤフオクドームで柳田のサヨナラホームランに遭遇。この辺の顛末は中島さんのこの記事になってます(東さん、中村さん&中島in博多)。
翌日、中村兄は帰京、僕は一人で京都に出向くのです。そこからこれが始まることになりました。
このとき長浜で買ってきた鮒ずし一尾を忘れていて、先日冷蔵庫で発見(高いのにもったいないことだ)。真空パックしてあるし保存食だしというので食べてみたが、ぱさぱさでした。1年は早いがやっぱり長くもあるんだ。
On the 第1回・山の日
(なんだそれ?休みなんて知らなかったぞ)
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織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-
2015 OCT 12 0:00:28 am by 東 賢太郎
今回京都へ行って進歩?したのは、なんとも低レベルのことですが京風の住所の言い方である**通上ル下ル××西入ル東入ルをマスターしてタクシーで指示できるようになったこと。これが正確にわかっていなかったのは、どうせ適当だろうと思っていたせい。実はそうではなかったのですね。
しげ森さんに「みずゑ會」なる宮川町の踊りの会にお招きに預かってとても楽しみました。常磐津「乗合船恵方万歳」、清元「吉原雀」、長唄「三重霞傀儡師」など、春の「京おどり」に比べると秋の彩りのしっとりした味わいがこれまた良かった。
前回も泊まったスマイルホテルというのが気に入りました。安いというのもありますが、元本能寺の目の前というのが信長ファンとしてたまらない。そういえば信長は本能寺の変で死ぬ前年に「馬ぞろえ」という観兵式・軍事パレードを大々的に2度やってますが、その隊列は「室町通り」を北上しました。
この通りに足利義満の花の御所があったのでその時代が室町時代と呼ばれるようになりました。それを踏まえたのかもしれませんが、信長は会場の京都内裏東まで民衆の群がるこの通りで騎馬行列をやって軍事力を天皇、公家、諸将に知らしめ、天下布武に手をかけた。
どうしてもその室町通り(ホテルに近い)が見たくなって、2次会のあと夜中1時にひとりで歩きました。左の写真がそれです。歴史好きには京都は夜がいいですね。目障りな建物等が目に入らず、存分に雰囲気にひたれます。信長公記に「信長は下京本能寺を辰の刻(午前8時ごろ)に出発し、室町通りを北へ上り、一条を東へ折れて馬場に入った」とある。この時も彼は本能寺に泊まっていたんです。天皇も見物した数百人の行進を目撃した太田牛一の筆はこの描写に異例の8ページも割いていて興奮気味であることからも、この道が凄いことになっていたのが偲ばれます。
信長は記録にあるだけで本能寺に4回泊まっており住職の日承上人とつながっていました。本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者がおり、鉄砲と火薬の入手が容易になったといわれます。かように彼の眼は常に海の外へ向いています。京の馬ぞろえの直前に安土でもそれをしていますが、太田牛一の描写によるとその時の彼の服装は、今風にいうなら西洋のフェルト帽に中国風の袖なし羽織に虎柄のズボンです。思いっきり海外かぶれですね。洋物の鉄砲に飛びついたのもわかります。
安土城のふもとにセミナリオというイエズス会のミッションスクールがあり、宣教師たちに布教を許可していました。自身もそこへたびたび訪れて話をきき、クラシック音楽を聴いています。キリシタン大名とは違った風に西洋人に開明的だったのです。つまり教化されるわけではないが、自分の頭で咀嚼して利用できるものはする。実にプラグマティックであり、秀吉はそれを真似たが器量がなく禁止に転じ、家康はのっけから守りに入り鎖国してしまいました。
これで思い出しましたが、ミクロネシアのチューク島に行った時に土地の高校に案内されたのですが、その名も「ザビエル高校」でした(左)。イエズス会の創始者フランシスコ・ザビエルの名を冠した学校であり、彼がここに来たわけではないが会の宣教師が布教したのです。つまりセミナリオはこれと同じ趣旨でできたのであり、信長は学びたいと考えたが家康は恐れた。今の日本人の思考回路の原型は家康の江戸時代にできてますね。僕は圧倒的に信長を支持します。もし本能寺の変がなかったら?日本は明治維新を300年早く迎えられており、全く違った国になっていたと思います。
そういう視点でもう一度本能寺の近辺の地図を見ます。すると、あるではないですか!目と鼻の先に「南蛮寺」というのが。建物は跡形もないので碑をさがします。地図はおおざっぱで載ってないのでマスターした京都式住所をスマホで検索して、この通りのこの辺と当たりをつけて行ってみると、ありました。
これは実質は教会だったようでミサまでやっていた。これが本能寺のほぼ隣にあったというのは実に意味深長ではありませんか。鉄砲と火薬でしょうね、貢がれていたのは。それこそ織田軍の武力の生命線だった。思えば英国が坂本龍馬をディーラーとして敵対する薩長に武器を売って手を組ませ、フランスがついている徳川幕府を倒した、その手法を信長に対してイエズス会は狙っていたかもしれません。倒すのは支那であり、彼らにとって支那での布教こそが最終目的だった。それが信長の唐入り構想へと進展したのが、彼は彼で天皇を体よく支那の王にして日本から追い出し、自分は日本の王となるという目論見があったからです。
そうなると俺は支那の支配人に飛ばされそうだと悟った明智光秀がクーデターを起こした。しかし唐入り構想はやはり日本の王を狙う秀吉に引き継がれ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)というおぞましい愚行に至ってしまった。その豊臣家を根こそぎ滅ぼした家康は前任者を全面否定し、だから朝鮮通信使による友好が始まったが、徳川を滅ぼした明治政府もやっぱり前任者を否定して日韓併合をしてしまったと同時に、天皇は支那に追い出すまでもなく殺して替え玉の明治天皇にすり替えてしまった。これが日本史の真相と思います。
織田信長は死にましたが、実は死んでも日本史を動かしていた。そのぐらい革命的な人間だったということです。安土城とセミナリオ、本能寺と南蛮寺、この2つのペアの見事にパラレルな関係に歴史を突き動かす真因が隠されていたということです。元本能寺のあたりを夜中にほっつき歩いて、鶏がらラーメンを食べながらそんなことふと思いついてしまった。本能寺跡に寄って合掌してホテルの戻ると2時でした。聞こえたのは彼の声でしょうか。
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日本の女性は世界一美しい
2015 SEP 21 15:15:47 pm by 東 賢太郎
のっけから羊頭狗肉になりますが、標題を堂々と言い切る自信は実はございません。そう断じるのはいままでブログに書いた何よりもおそろしく、罪深いことのような気がいたします。なんたって60年も生きてます。西洋でも東洋でも、北でも南でも、世界中で、立ち止まるほど美しい女人はたくさん見かけたからです。
それでも着物を着ると、ということならそうかもしれないし、さらには優雅に舞うと、ということならますますそうだろうし、それが京都の地であるなら完璧にそうだ。ここまでシチュエーションが狭まってくるとというわけで、しかも先週行ったばっかりの勢いも借りて、えいやっとこの標題になったのです。
京都というのは摩訶不思議なところで、JRのそうだ 京都、行こうじゃないけども、「行く」ことだけで目的が成立してしまう、少なくとも僕にとっては世界で唯一の街です。
どこの国だの都市だの街だのに「そうだ!」という気分になったとしても、何々を見に、何々をしに、何々を食べに・・・がはいるんですね。ところが京都だけはなんにもいらない。ただぶらっと行って食ってぶらぶら歩いて帰ってくる、それでよしなんです。
歴史好きというのはあるでしょう。立ち止まって、この一角で・・・、とたたずむうちに千年の物語が渦まいてまいります。東京へ戻ると気持ちはなんとも寂寞としたもんです。江戸という土地は、日本国の歴史というタイムスパンで俯瞰するならアメリカ合衆国と五十歩百歩の歴史です。
もっといえば、北米大陸には先住民の長い歴史があるが、東京の大半は家康が左遷されて来るまではキツネやトンビぐらいはいたろうがただの野っ原か海だったわけで、僕の歴史センサーに反応するものがないのです。東京が首都であって洋風の応接間で、かたや京都は先祖伝来の骨董品の蔵であるという国のあり方は正しいんだろうかという疑問すらわいてきます。
東京が首都になるまで、我が国の時代区分は政権のある地名を冠しています。飛鳥、奈良、平安(京都)、鎌倉、室町、安土桃山、そして江戸。それが天皇が東京に移って、明治、大正、昭和、平成と元号を冠するようになった。古来の原則ではぜんぶ「東京時代」でひとくくりなんです。
それじゃあ江戸時代と区別がつかん、徳川を滅ぼした俺たちとしては気に食わん、そう考えたのは薩長が乗っ取った新政府です。古来の原則も文化もかなぐり捨て、廃仏毀釈とともに京都も捨て、あれほど尊皇攘夷を言ってた連中が西洋かぶれの鹿鳴館をシンボルに東京という洋風応接間をしつらえた。
僕はそこから日本は西洋コンプレックスの軛(くびき)に陥り、西洋にあこがれ、西洋人のように暮らしたい見られたい、名誉西洋人でいいからなりたいという倒錯したマゾヒスティックな願望の虜になったのだと考えています。織田信長にそんなものがかけらすらあったなど、とうてい思い難いのです。
司馬遼太郎の小説において大きく間違っているのは、坂の上の雲までは日本人に古来の伝統、精神や思想や文化における命脈というものが保たれていた、それが日清・日露を最後に本道を外れていったという基本観です。明治になっても保っていた人はたくさんいたが、正式に遷都もしていない東京に天皇を勝手に移してから、つまり司馬が讃える明治政府から、とっくに国としてはプライドを捨てておかしくなっているのです。
それは藩として英国と戦火をまじえ、夷狄の強さを知った薩長のプラグマティックな知恵でもあった。それが植民地化から国土を守ったことを僕は些かも否定するものではありません。ただ、洋風応接間ができて、日本国という屋敷は徐々にアイデンティティーを喪失しました。「応接は唐文様にしましょうよ」という輩が国を乗っ取ればそうなってしまいかねない、そういう時代になった。大変な危機感を覚えます。
自衛隊がふつうの軍隊であるなしの是非など、アイデンティティーも自国の歴史への誇りも愛情もある者なら自明の理であり、国家とはそういう者が自ら守らねば滅びるのも人類史の理であって、そんなことをいちいち論じなければいけない民族や国にしてしまったのは事をたどれば明治政府なのです。
戦争など誰だってもう二度と起こしたくも巻き込まれたくもない、あまりに当然のことです。アイデンティティーを正しく持つ者ほど国として守るべきものがあるのであって、戦争という無用なリスクなど頼まれてもとりたくないのです。米国との力学は時々刻々変動します。舵を取るのは外交であり、そこでもう二度と失敗は許されません。
名誉西洋人に扱ってもらえず欧米列強に背を向けた歴史。それは明治政府の敷いた路線に端を発した外交の失敗であって、ご一新、維新と偽って本来の日本国民のプライドを破棄した過ちに起因するのです。それがめぐりめぐって最後の戦争の狂気に至ってしまった。その責任問題と現状を混同してうやむやにするのは、別な動機を持つ者たちの詭弁です。
歴史を学べ?学ぼうではありませんか。他国民にそんなことを言われるまでもなく、日本古来の歴史や文化に誇りを持とうではありませんか。それはちゃんと教えない学校教育の問題であり、書かないマスコミの問題であり、明治政府が敷いた路線の根本的見直しまでひるがえって問題を掘り起こさねばなりません。
さてだいぶ話がそれました。
今回京都で1泊したのは大学のクラスメートでSMCメンバーになってもらっている梶浦秀樹を通じてご縁ができた宮川町のお茶屋さん、しげ森さんがSMCのメンバーになられるという段取りになって、いろいろ打ち合わせをしよう、ついでに南座で獅童さんの歌舞伎も見ようとなったからでした。
ということで、しげ森のおかあさん、森田繫子(もりたしげこ)さんがメンバーリストにのりましたのでご覧ください。ちなみにメガネは僕の赤いのを舞妓たちが面白がって回しかけしてたのがどういう拍子かおかあさんに回ってそのすきに撮った写真のようで、ほんとうはかけておられませんので悪しからず。
さて、僕は京都のことなぞ皆目知らないし歌舞伎も芸事もド素人だし、元来が無粋でとんと甲斐性もなしです。娘より若い芸妓さん、舞妓さんに下心?がわいたわけでもありません。同行してくれた写真家の友人Sいわく「東さんのそれはね、日本食回帰と一緒で海外に16年も住んでた反動ですよ、ぜったいに」。とにかく日本の伝統文化に何となく関心が出てきていて、自然に京に足が向いているのです。
きっかけは梶浦という40年来の友(というかもう幼なじみかな)のヒキで2度も桜満開の京のスペシャルコースを散策できたからで、あれがなかったらこれもなかったでしょう。持つべきものは友です。今回も翌日は某お寺さんと別件の仕事でプレゼンしたりでしたが、2日間、宇治のお抹茶のように濃い時間を過ごしました。Sに予約してもらったビジネスホテルが行ってみたら偶然にもあの元本能寺の目の前であったり。信長が、たわけもの!つづきを早く書けということかと得心もしてまいりました。
しげ森の麗人たちの写真は、これから我が同胞のプロフェッショナルたちの手でSMCにて様々な形でご紹介していくことになります。彼女たちは南座の前をしゃなりしゃなり歩くだけで人だかりがしてシャッターをパシャパシャ切られるのですが、ただ見られてキレイという存在ではありません。その芸事こそが真骨頂なのです。実際に歌舞練場やお座敷でご覧になってみないとわからないかもしれませんがまさしくアートであり、アートという点こそが僕の関心との接点であります。
洋物であるクラシック音楽に半世紀没入してきて、明治政府の撒いた西洋かぶれの種そのままの人生を歩んできた僕ですが、別に何ら肩ひじ張るわけでもなくその感覚のまんまでこれにすっと接してみて、いとも不思議な親和性を感じておるところです。
彼女たちの芸事の背景に横たわる女性の美をひきたたせる技法というのは、その成立の歴史的経緯は置くとして、ミケランジェロが造形としてきわめつくした男性美、たとえばフィレンツェのアカデミア美術館のダビデ像と僕の中でなんら変わるものではありません。こちらが女性だからという邪推、邪念は一切排除してというのは、僕にとってはモーツァルトもビートルズも同一平面上で理解するのと同じことです。美しいものに貴賤などないのです。
それは獅童さんや松也さんの歌舞伎が伝統的な男世界ならば、花街は同じく女世界ということであって、どちらがどうということもなくどちらもあっていい、単にアクターとアクトレスであって、おのおの混ざることなく別個の宇宙を創るというのが伝統であるということでしょう。
お座敷で思わず口をついたことですが、日本の女性は世界一であり、このお嬢さん方に限らずですがどこの国のミス何たらよりもずっと美しいと思ったのです。決して日本人の僻目ではなく。もちろんカルメンやイゾルデもきっと魅力ある女なんでしょうが、日本の女性はこれからもっと世界の男を迷わせるでしょう(笑)。
昭和のころと様変わりの西洋の和製アニメ受容、クールジャパン。ますますそういう時代になると確信します。その美を抽象化して表現できるのが舞であり和服であって、歌舞伎の女形は女性の所作をさらに純化するので「女が見ても美しい」、ときに「女より美しい」ということになるようです。
海外ではまだゲイシャなることばと共に大きく勘違いされている。いえ、日本人だってそう思ってる人は多いのではないでしょうか。これは寿司はアボガドを巻くものだに等しい屈辱的な誤解であって正さねばなりません。そういうものを修正するというプロセスこそ、日本古来の歴史や文化に誇りを持つということだと僕は固く信じております。
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京都の南座で中村獅童・尾上松也を観る(改訂済)
2015 SEP 19 3:03:33 am by 東 賢太郎
いま京都南座で新作歌舞伎「あらしのよるに」を観てきました。思ったよりずっと楽しかった。
中村獅童、尾上松也、中村梅枝、中村萬太郎。
童話が歌舞伎になってしまう。圧倒されました。終演後にしげ森さんのおかげで楽屋に入れていただきました。獅童さん、松也さん、梅枝さん、熱演でお疲れのところでしたがお会いして話せて勉強になりました。
歌舞伎は決して古いもんじゃない、今を生きているものと思います。「あらしのよるに」もいずれ古典になっていくのでしょう。
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織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー
2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎
AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。
この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。
今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。
それは何のことはない、こんな場所だった。
路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。
この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。
織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。
もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。
なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。
その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。
もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。
明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。
明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。
ブログでは、
僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。
と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。
それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。
明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。
本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。
余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」(The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。
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安土城跡の強力な気にあたる
2015 AUG 17 1:01:00 am by 東 賢太郎
京都と近江を一人であちこち歩きました。観光ではないので一人がいいのです。というのは何かを見たい知りたいというよりも、そこに身を置いて「諸々を五感で感知する」のが目的だからです。いままで知識だけだった土地に実際に立って空気を吸って、初めてそこに関する歴史、風土、文化を頭に入れ、あれこれと思考する準備ができます。過去、ずっとそうやってものごとを理解してきた自分なりの方法論です。
特に無理なスケジュールではなかったのですが、どういうわけか心身ともに疲れ果てております。新しいものが頭にぎゅっと入っていて、その分量があまりに膨大なので消化できておりません。オーバーロードで頭の働きも鈍い。ブログを書こうにもどこからどう始めたらいいか、いちいち書いたら何十稿にもなりそうだし、そもそもその元気がありません。
わけわからないことで申し訳ないのですが、安土城跡には本当に疲れました。屋久島の山道みたいな石段を500段も登るのですが、足が疲れたからではありません、なにやらとても重いものをしょってしまった。
延々と登らされるてっぺんの天守閣跡まで重臣の屋敷が左右に配されるので、シンプルな構造ですが攻め落とすのは困難だったでしょう。猛暑でしたから汗だくでしたが、やっと着きました。
天守跡に立って琵琶湖をのぞんだ時にはっと思いました。秀吉が朝鮮攻めのために九州の松浦北端に築いた名護屋城から玄界灘をのぞんだ景色にそっくりなのです(写真・下)。
信長は安土城の天守から湖の彼方に京を見ていた、秀吉は海の彼方に朝鮮半島を見ていた。秀吉の脳裏には安土城天守からの眺望が焼きついていたに違いなく、琵琶湖の向こう側に信長が何を見ていたかも知っていた。ああ彼は信長に憧れ、信長を凌駕したかったんだなあ、天守跡に立って風に吹かれながらそんなことを空想するわけです。
教科書に書いてないし確証もないのですがそう直感します。こういう想いを歴史のロマンとでも言うのでしょうが、僕はロマンというよりも、彼らと同じものを見て彼らの目でものを考えてみたいという実証的な関心だけです。
天守跡に1時間近く居座って「信長の目線」を体感しようとしていたら、どういうわけかがっくりと疲れてしまった。比較的に健脚なのでそんな経験はいっさいないのですが、真剣に下りの帰り道は大丈夫かなと心配になりました。やおら帰路を下りはじめるとしばらくしてポツポツと来はじめ、やがて、いったい何事かというほどの土砂降りになりました。散々な思いでやっと入り口にたどり着き、まいったなどうしようと雨宿りすると、すっと雲が割れてきて晴れ間がのぞき、以後は一滴も降りませんでした。
信長という武将はとても気になる存在でしたが身近ではありませんでした。この日はなにか強力な気に当たり洗礼を受けたようで、ますます彼を知ってみようと思った次第です。帰路に立ち寄ったイエズス会のセミナリオはキリスト教を保護した信長が西洋音楽を聴いた場所として有名です。
彼が天下を取っていたら鎖国はなかったろうし、日本はまったくちがった国家となっていたでしょう。
この前日に京都では、彼の終焉の地である本能寺跡に行きました。ここが日本国の命運を変えた場所です。いまは高校や老人ホームが建っています。明智軍はここから北へ上がり、二条御所にいた信長の嫡男・信忠も討ちとった。そこは京都国際マンガミュージアムになっています。平和っていいもんだなと思いました。
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京都花街はグローバル化すべし
2015 AUG 14 0:00:10 am by 東 賢太郎
博多から新幹線で京都へ入りました。クラスメートでありSMCメンバーでもある梶浦とビジネスの話でした。
夜は梶浦おすすめの洋食屋さん、仕上げはお茶屋さんのしげ森さんのバーでくつろがせてもらいました。
先日の歌舞伎とまったく同じことを思うのですが、花街は京都の雅びな文化であります。難しいことをいう気はありません。だから女性のお客さんも大勢来ています。
それでも今のままだと衰退しかねない。舞妓さんのなり手がなくなれば必然的に滅びるし、旧態然のお客さんと業界の関係はもう古いでしょう。
芸妓さん、舞妓さんの芸はアートと思いますがそれは外国人のほうが評価しているようで、しげ森さんは海外から呼ばれていて近々ロサンゼルスに行くそうです。まさに親善大使という言葉がふさわしい。
なにも客は京都の旦那だけではなく、日本人だけでもなく、世界でいいのです。その価値があります。そうなれば業界が変わるし、舞妓はAKBみたいであり文化財でもある世界でユニークな存在になるでしょう。
しげ森のおかあさん、森田さんの話を聞いて感じたことなのですがおおいに賛同いたします。日本文化を世界に発信する気持ちでSMCでは森田さんをご紹介して参ろうと思います。
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はんなり、まったり京都2014(その2)
2014 APR 12 12:12:40 pm by 東 賢太郎
皆さん京都へ行ってなにを京都らしいと感じるかはさまざまだろう。僕の場合、霊気である。オカルト的な意味ではない。ここには千年にまたがる人間の「気」が蓄積している感じがある。「つわものどもが夢のあと」と歌うなら、つわものの数は何百万人だろうか。霊気というのは京都以外の寺でも感じるが、ここは寺社だけではない。木屋町通りのどこか1㎡でも掘り下げれれば源義経と坂本龍馬の足跡の化石ぐらい出てくるだろうと、そんな感覚をそこかしこで持つことができるという意味での霊気というものだ。
例えば、この写真は鴨川にかかる松原橋から我々の宿(左から3番目の町屋)をのぞむものだが、この橋は秀吉がそう命名するまでの名は五条橋であり、弁慶と牛若丸が戦ったあの橋である。
それを渡るとすぐ宮川町であり、お茶屋さん街となる。去年もお世話になった「しげ森」さんはそこにある。この風情からしてもう別世界だ。
玄関には舞妓、芸妓さんたちの名が。彼女たちは15歳からここに住み込んで1年たったらまず舞妓になる。無給だが着物も稽古もすべてお茶屋のお母さん持ちだ。20歳をこえると芸妓になり自分で客を取れるようになる、つまり独立自営業者になれる。
ここで懐石をいただいて遊ぶ。最近は女性客が増えているそうで、席にあがる前にビデオルームで基礎知識を教えるVTRを見せてくれるから初めてでも大丈夫だ。写真は伝統お座敷遊び「トラトラ」のお手本を見る皆さん。
ここで独占していたお二人、小ふくさん(右)とふく苗さん(左)が翌日の京おどりの舞台に立つ。これが正調の楽しみ方である。もちろん踊りだけ見てもいいし充分見応えはあるのだが、舞台にいる2、30人の別嬪さんのうちに知っている人が混じっているというのは味なものだ。
はんなり、まったり京都-泉涌寺編-
2014 APR 10 18:18:23 pm by 東 賢太郎
泉涌寺(せんにゅうじ)をご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。僕は天皇家の氏寺が京都にあるときいたことはありましたが、名前は覚えていませんでした。
この寺を知ったのは「逆説の日本史2」(井沢元彦、小学館文庫)です。「扶桑略記」に記載された「天智天皇暗殺」説は興味深く、天皇家の菩提寺に、天武~称徳の位牌がないことをこの本で知りました。井沢氏によると唐が白村江戦勝後に朝鮮半島支配を図り(つまり新羅討伐の戦略を展開し)、それに呼応して新羅に半島を追い出された百済王族である中大兄皇子(天智天皇)が唐と連合軍を作ることを画策。それを阻止するべく親新羅の大海人皇子(天武天皇)が山科で天智を暗殺したとしています。教科書の日本史とはかけ離れた説ですが、僕は通説よりも説明力を覚えます。
4月5日(土)の朝、始発で京都へ向かった江崎が8:11に到着。いっぽう平等院まで同行した三田が結婚式仲人のためソウルへ戻り、我々は東山の泉涌寺に向かいました。そこで今度は中村が合流。笑顔でお迎えいただいた和尚様にご挨拶して境内へ入るとまず楊貴妃観音堂へ案内されました。なぜ楊貴妃が?鎌倉時代にこの寺の僧が中国の宋にわたり仏舎利(仏の骨)を所望したそうです。何度も断られましたがやっともらえることになり、その際に航海の安全守護のために楊貴妃観音像もついてきたそうです。仏舎利は公開されていません。和尚は見たそうですが歯の部分のようでかなり大きかったそうです。
そこから参道の坂を下ると、盆地の底のような位置に仏殿があります。登るのは多いですが下るのは珍しいですね。ここには運慶作とつたわる阿弥陀、釈迦、弥勒の尊像がありそれぞれ過去、現在、未来にわたって人類の平安を祈るという構図になっています。
仏舎利は舎利殿の舎利塔にあります。入れていただきましたがここの名物は「鳴龍(なきりゅう)」でしょう。 天井に狩野山雪筆の龍の絵が描かれているのですが、その下で手を打つとびりびりという音が聞こえるのです。ここから御座所へ移ります。ここは両陛下はじめ皇族方の御陵御参拝の際のご休憩所であり、現在も使われています。ここも中を全部見ました。右の写真はその庭園で、桜も紅葉も早いそうです。たしかに京中ではほぼ満開なのにここでは桜はもう見えませんでした。塀の向こう側の山に歴代天皇の御陵があります。
さて奥の奥に移ります。写真はありませんが霊明殿です。戦前ここは立入禁止であり現在も関係者しか入れませんが入れてもらいました(梶浦のおかげです)。ここに歴代天皇の御位牌が並んでいますが、確かに天武系の天皇はぽっかりと抜け落ちています。下の系図をご覧ください。霊明殿にお名前があるのは聖徳太子尊像-天智-光仁-桓武であり、太子以前もなければ第40代天武-第48代称徳も欠落しています。天皇家の氏寺なのに何故と思われるでしょうが、ここは天皇の氏寺ではなく「天皇であるファミリー」の氏寺です。だからファミリーが血縁でないとする場合は入っていない。和尚に聞くと、「それは私共は何とも申し上げられません。ご指示に従っているだけです」とのことでした。そうであるならばこれが天皇家の見解なわけです。非常に興味深い。
まず斉明(皇極)天皇は天智の母ではないということです。では天智(中大兄皇子)とは何者なのか?斉明の目の前で蘇我入鹿の首をはねた乙巳の変とはなんだったのか?なぜ天皇でもない聖徳太子が(だけが)天智の上にいるのか?
これを知っただけでも日本書紀は天武、持統によって歴史をねつ造した書であるという説は支持できます。以下自分の考えですが、蘇我氏は本来の天皇(日本国王)であり聖徳太子は蘇我氏の業績を象徴する架空の人物であった。蘇我氏の名前、蝦夷、馬子、入鹿は動物名の蔑称にされており、皆殺しにした人物の書いた書記のねつ造と思います。その皆殺しは扶余から亡命して来た百済人の天智による入鹿殺害(大化の改新=クーデター1)によって実現しました。そしてその天智を天武が殺しました(クーデター2)。
泉涌寺の位牌の有無によれば、現在の天皇家はおそらく百済人であった天智の末裔であると認めています。彼はクーデターで王位を奪った者です。だから彼が始祖になっており神武も応仁も位牌はありません。先祖と思っていないのです。天智のひ孫である桓武の母、高野新笠も百済の武寧王の子孫であることは今上天皇が「続日本紀にその記述がある」と述べられています。そして、平家は「桓武平氏」と呼ばれますから百済系です。一方、源氏の武将に「新羅三郎義光」という人がいます。平氏が百済、源氏が新羅であり、日本で代理戦争となったのが源平の合戦であると僕は思っています。
それから明治天皇の墓所はここにありません。伏見桃山陵にずっと大きな墓があります。強硬な攘夷論者だった孝明天皇を伊藤博文らが暗殺し(クーデター3)替え玉に立てた大室寅之助という南朝系の長州人が明治天皇という説があります。そう思います。言うことをきく傀儡天皇をたてて薩長が好き放題やるのが新政府の青写真であり、その結果日清日露戦争で好き放題が嵩じて第2次大戦に至ったとみることもできましょう。「坂の上の雲」は好きな小説ですが、クーデター3が日本国の末路を大きく変転させたかもしれず司馬遼太郎の史観だけで近代史は語れないと思います。
国家の首長を殺して政権を奪うクーデターは世界ではいくつもありますが、万世一系とされるわが国でも最低3度は起きている可能性があります。天智以前はもっとあったかもしれません。泉涌寺ではそうした様々なことが頭をよぎり、特に御位牌が所狭しと安置された霊明殿には圧倒され、その感じはその後も一日中残ったほどです。日本最大のパワースポットといって過言ではなく、一度は訪問する価値ありと思います。一般には奥まで入れないようですが、ご興味がある方はSMCを通してお願いすることができるでしょう。
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京都の不思議
2014 APR 8 1:01:36 am by 東 賢太郎
京都というのは不思議な場所です。去年と同じ木屋町の宿に足をふみ入れてみて記憶が不意に蘇ったのですが、そういうえばまさにここに着いたその日は昨年一年間で最も重要な仕事となった案件のクロージング(締め)の真っ最中だったのです。やきもきしているとスマホのメールで良い知らせが来て狂喜したことをまじまじと思い出しました。そして今年も、ある新しい仕事の構想を、それもひょっとすると自分の人生で最も大仕事になるかもしれないものの決断を目前に控えて、やはり木屋町の宿で深く思いをめぐらせておったのです。
不思議というのは奇しくもそんなことが二度目だということばかりではありません。京都という土地柄が、そういうことになんともふさわしいものだということです。そこに身を置くと、そういうことを考えていること自体がいとも自然であり、梶浦がセットしてくれた会食もお茶屋さんもそういう心境に置かれた男に自分自身がなってみて、昔からこういうものだったのだろうということを味わえたかもしれないと思っています。去年と同じく京おどりも観せてもらいましたが、そうしてやっぱり、あまりに美しい芸妓さん舞妓さんたちの舞いに感動し見とれたのですが、満開の桜とおんなじで、こういう心持ちだから求めるいとおしい美というものがそこにはひっそりと忍んでいるような気がします。
浅学の身があれこれ歴史を書きたてるまでもないことですが、京都には千年にわたってそういう男たちがひしめいていたわけです。権力の頂点が在る故に権謀術数が渦巻き、成功して有頂天になった者もおれば戦死者、刑死者も数知れず出ました。勝った者が建てた寺社は国家や家の鎮護と同時に死者の怨霊封じの場でもありました。ですからあの都はそういう「気」に満ちているに違いなく、そのようなものが溶け合ってあの文化ができていると思われます。去年はまだ若くてそれには気づかず表面の美だけに感じ入って帰ってきたのですが、今年にいたるまでに色々のことをさらに経験したせいでしょうか、ただ綺麗なだけの美ではない、いわば負の側面も背負った凄味のある美だという風に感じられてきました。
平等院の藤原氏、六波羅蜜寺の平氏、金戒光明寺の会津藩などがそういう男たちだったでしょうし、武家に治政を執られていた時代の天皇家もまたそうだったのでしょうか皇室の菩提寺である泉涌寺では歴代天皇の位牌のあるお堂で自分としてはかつて経験がないほどの強い気を感じました。これは悪い感じのものではありませんが後の寺社が軽く思えるほど腹に重たいものであり、その日はお茶屋に遊んでもどこかそれが残っていて何かを頂いて帰ってきたのかなという気分も致します。
中村がここはお前の専門分野だろうと言うので、泉涌寺については稿を改めて書くことにします。