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百済旅行記(1)-奈良はナラである-

2013 SEP 25 1:01:48 am by 東 賢太郎

今回は韓国の扶余(ぷよ、韓国ではBuyeoと発音)に2泊し、忘れ難い印象を抱いて帰国しました。map_hanbando (1)

ソウルの南にある忠清南道から全羅道にいたる朝鮮半島西側は三国時代に百済の版図であり、東側の新羅と対立していたのは皆さん学校で習われたと思います。百済は漢城(現在のソウル)、熊津(ウンジン、現在の公州)、泗沘(シビ、現在の扶余)と2回遷都し、西暦660年に唐と新羅の連合軍に攻められて扶余で滅亡しました。その際に斉明天皇、中大兄皇子(天智天皇)の命で日本が5万の兵を百済援軍として送り、大敗を喫したのが有名な「白村江の戦い」です。

space (1)公州、扶余を経て郡山で海にそそぐ錦江という川があります。白村江とはその河口の郡山のあたりだったそうです。この川は扶余のあたり流域では白馬江と呼ばれます。13世紀の高麗の史書である三国遺事によると、連合軍に攻められた百済の義慈王が降服すると、宮女3000人が貞操を守るために白馬江に次々と身を投げて自ら命を絶ったと伝わります。高校時代に習ったこの哀話は長らく頭に残っていて、いつかはそこへ行ってみたいと思っていた地のひとつでありました。

korea_south_map僕が初めて韓国へ行ったのは1997年だから42歳と遅く、それまでは近くて遠い国でした。仕事で行き来するようになって近い国とはなりましたが、それでも訪問はソウルばかり。ハングルを勉強するわけでも韓流ドラマにハマるわけでもなく、近さは知れたものでした。しかし古代史好きとして書物を通じてだんだんと日韓両国のぬきさしならない関係が見えてくるにつけ、古代の重大事件である白村江の戦いが実は「百済再興戦争」であったという説に傾いていきました。これに関してはこれから書いていきます。

今回初めてソウルでも慶州でも釜山でもない、あの百済の王宮があった扶余への道を南下したのですが、高速が忠清南道に入ってしばらく行くと、窓外のなだらかな山々や田畑の景色に「これは奈良だ」という感じをふと抱きました。以前ある住宅メーカーの工場見学で行った斑鳩、飛鳥、平城京跡のあたりに雰囲気が似ているのです。そういう先入観があったのかもしれませんが、撮った扶余の写真をアットランダムに載せますのでご覧写真 (22)ください。慶州は新羅の都であり、これもなかなかいい所で2度行きました。こっちは交通の便もよく、それがネックである扶余とは好対照なのですが、その点もどこか京都と奈良の関係に似ています。古都といえばまず京都であって奈良は修学旅行だけという場合も多いのです。素晴らしい寺社仏閣が幾つもあるのに。それは、うまく説明できませんが、どうしてもそこ(平城京)が日本史の起点で写真 (23)あるという気分が、少なくとも僕の場合は希薄であるのが遠因かと思います。奈良への思いはイタリア人がローマに、フランス人がパリに、イングランド人がロンドンに抱く感情とやや異質であり、それはどちらかというと京都になる。僕は京都人でも奈良人でもないので、そういう風に日本史を教わってきたのだと思います。現代にいたるまで韓国の政治経済を牛耳るのは旧新羅地域系の政治家、会写真 (24)社、財界人であって、例えば旧百済地域出身の大統領は金大中だけです。桓武天皇の平安京遷都以来京都が日本の都であり、奈良は影が薄くなっているのと似た気がするのです。慶州は寺も仏様もどこか男性的、直線的、いかめしく威圧的な相貌を見せ、科学技術が発達して天文台までありました。対して扶余は女性的、曲線的、柔和で平和的であり、科学よりも美やアートへの嗜好や趣味性が強いと感じました。ガイドの黄(ファン)さんに「土地の人の特色は?」ときくと、「ゆっくりしゃべることです。山道で岩が落ちてきて、”危ない!”と言い終わるのは岩が行ってしまった後」というのがジョークなんですと笑う。彼女はソウル出身なのですが、その言葉にはどこか浮かばれなかった百済に同情的なトーンが感じられました。

写真 (25)宮女3000人が貞操を守るために錦江(白馬江)に次々と身を投げて自ら命を絶った崖は落花岩と呼ばれます。その姿が岩場から落ちる花のようだったからです。その場所には船に乗って行きますが、右が船から横に見た落花岩の遠望です。船着場から石段を登っていくとやがて皐蘭寺があり、高麗時代に宮女たちの霊を慰めるために建てられました(その写真が一つ上のものです)。寺の裏には薬水が沸いて写真 (30)おり、1杯飲むと3年若返るといわれ、2杯飲みました。しかし、一息ついてさらに登ると、その効能も空しくもう息が切れましたが。高所恐怖症ゆえ恐る恐る見ると水面ははるか50-60mは眼下になっています。すると、右のような標識が現れます。3000人というと飛び込むのに1人1秒として50分かかります。とすると900mの行列にはなるからここの写真 (29)地形では無理でしょう。この話は数の誇張があるのでしょうが、仮に100人であっても悲痛な話であることに変わりはありません。標識にある百花亭というのが右の東屋で、落花岩の真上に建っています。ここに立って眺める白馬江は広々とゆっくりと蛇行して流れ、平和そのものの風情なのがいっそう悲しく感じます。下の写真が船上から見た落花岩ですが、右中腹にその名が書かれているのが見えますでしょうか。写真 (26)

写真 (28)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこの岩のてっぺん、飛び込んだあたりから水面を見下ろすとこうなります。

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

写真 (27)宮女たちはよほど唐軍に追い詰められ、よほど思い詰めていたのでしょう。右の写真、百花亭から彼女たちが飛び込んだスポットを見おろしながら黄さんがしみじみとつぶやかれた言葉、

「 戦争に負けると男性は全員殺されました。でも女性は強姦されて奴隷に売られたんです。だから・・・・」

 

戦争とはいつの世もそういうものですよ。忠誠と貞操を命を懸けて守ったのは立派なことです。僕らは皆でそう返しました。すると、

黄さん  「百済はここで終わりました。でもそのすばらしい文明と文化はここから日本        へ行ったんです。そして、日本で花開いたんです。」

そういう方向へ行きました。誰も返す言葉がなくなってちょっとしんみりムードになりましたが、そうしたら

先輩   「いやーウチのカミサンなら後ろから俺を押しますな」

人生の先達による奥義を極められたひとことで一気に笑いがこぼれ、会話が軌道に戻ったのでした。

それにしても、百済はここで終わりました。でもそのすばらしい文明と文化はここから日本へ行ったんです。そして、日本で花開いたんです。とは黄さんのいう通りではないでしょうか。そしてちょっと違うのは、男性でも女性でも、殺されずに日本に逃げのびた王族がたくさんいたことでしょう。その人たちがすでに奈良の大和朝廷となっていた親戚縁者に援軍を頼んだのが白村江の戦いであり、それは唐・新羅連合の前に風前のともしびだった同胞を助ける「百済再興戦争」だったという説がありますが、それが整合性があるように思うのです。

今上天皇ご自身が2001年に「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と、サッカーワールドカップ共催に関する「おことば」で述べられたことをご記憶の方も多いでしょう。天皇の生母がハーフであった?それは尋常ではないことだ!と考えるよりも、両国が「同じ国」だったからこそ尋常だったのだと考える方が自然ではないでしょうか?

扶余の車窓の風景に僕は「これは奈良だ」と感じたのですが、奈良に来た古代百済人は「これは扶余だ」と感じたのではないかと思います。そしてその地をウリナラと呼んだ。ナラ(韓国語で国の意味)に万葉仮名で奈と良をあてて奈良になったのではないでしょうか。ちなみに扶余は古代満州に存在した国の名であり、現在でも中華人民共和国吉林省松原に扶余県として名を残しています。高句麗に滅ぼされたそこの王族が朝鮮半島に移動し、その地を扶余と呼んだのでした。奈良がナラであるのはそれと同じことではないでしょうか。そしてそのナラは百済である。証拠や根拠はありませんが、そう考えてみるのも面白いものです。

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

 

(こちらへどうぞ)

百済旅行記(2)-倭国に来たもの-

 

 

 

 

 

 

 

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