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カテゴリー: ______体験録

キャリアハイの仕事は負けからやってくる

2019 JAN 13 14:14:20 pm by 東 賢太郎

大手町を歩いているとたまに呼び止められる。年末にまたそれがあった。みずほで部下だったS君だ。軽く近況を話しながら、彼と行った外交先やゴルフ接待のことなどを次々と思い出していた。彼だけじゃない、最近は銀行がお客様になったり、ご融資もいただいて助けてもらったり、商売のフロントでもメガの第一線でご活躍中のバンカーと一緒に仕事するようになっている。これは僕の人生の辞書には書いてないことだった。

就職のとき、親父が銀行員でどことなく反発があって銀行に就職という発想が持てなかった。母には「あなたは向いてないからね、銀行だけはやめてね」と懇願された。東大法学部には民間なら銀行という空気があって、それに対して付和雷同嫌いの性格が騒ぎだしていたし、そもそも勉強してないのだから受かりもしなかったろう。熱心に誘ってくださったのが三菱Gの名門会社で、10年目に1か月休暇で世界1周できるという雄大なお話に大いに気持ちが動いたが、お世話になっていたらどういう人生が待っていたのだろうといまでも一抹の後悔がある。

野村からみずほに転籍させていただいたのは2004年だ。そういう経緯があったから、入るのは証券会社とはいえガバナンスは銀行にあるという意識がかなりひっかかっていた。というのは、面接は、「銀行頭取からエクイティ引受元年にすると厳命が下っている、証券のその部門を率いてくれ」という話だったからだ。当時のみずほ証券は国内の株式引受で主幹事案件実績がゼロ。主幹事あたりまえの野村證券目線からすれば何もないに等しい。しかも株式業務といっても僕は引受部門の経験がない。それをやってくれというのだから人違いだと思い、はっきりそう申し上げたら返ってきた言葉が「東くん、僕は君のことをよく知っているんだ」だった。

これがY常務との人生初の出会いだったが、実に意味深かったことになる。49才で25年勤めた会社を辞めるのは大きな決断だったが、この30分の面接一回で腹が決まる。動機は仕事内容ではない、「士は己を知る者の為に死す」であった。その証拠に給与、タイトル等の移籍条件の話をするまえに「お世話になります」と電話した。実はその時点で別の銀行系から条件面でずっと上のオファーをもらっていたがお断りの電話を入れた。野村が嫌いになったわけではない。ただあのころ、ひとえに僕の力不足ゆえ、優秀な若手が次々と台頭して出番は確実に減っていた。要は出世競争に負けたわけだ。野球でいうならば「試合に出たい、必要としてくれる球団はないか」という気持ちを止めようがなかった。

母に、ごめん、銀行系に行くことになったと報告したら少し考えて僕の目をじっと見て、「うまくやってね」と言った。母の直観力は凄い。ごまかせたことは一度もない。これが最後の会話だった。いいわけになるが、積極的な気持ちで「行く」ということではなく、行かざるを得なくなってボートに乗った難民みたいなものだった。おそらく、気合が尋常ではなかったから使っていただけただけで、別に僕でなくてもいっぱしの証券マンなら誰でもよかったのではないか。いま思うとそれが時の利というものであって、そういう巡りあわせの瞬間にたまたま良い具合にそこに「居た」だけだ。人生は本当にわからない。

そこから2年が過ぎた。主幹事本数をゼロから16本とし、年度前半の実績で大和証券をぬいた。日本航空のグローバル・コーディネーター(国際主幹事)のトップ・レフトをかけて常連の野村證券、ゴールドマン・サックスとの三つ巴の激戦となり、ついにせり勝った。この戦いに証券マンとして持てるものすべてを投入したし、そんな場を与えていただいたことには身震いするほどの幸運を感じたし、勝てもしたから運もあった。我が業界、国内主幹事ゼロというのは国体でメダルがない選手ということであって、それが突然にオリンピックに出て金メダルを取ってしまったということに等しい。

しかし、そう甘くはない。そこから激烈な反撃にあった。ニューヨークのロードショーでJALのN社長に随行して成田を出発する直前だ、この期に及んでシ団を降りる(辞退する)という会社が出てきて社内は騒然となった。するとウチも考えると同調する所が現れ、ディールが中止に追い込まれるかもしれない異常事態に陥った。暗に「JAL様、主幹事のご選択間違ってませんか?」と数社がつるんだ揺さぶりだった。夜中の3時にホテルの社長の部屋に関係者が全員集合し、僕が東京へ電話して降りる宣言をした大手証券の役員とシビアな談判になった。

押されたら負けだ。幕末の薩長と同じじゃないか、敵は多勢でも天皇はこっちにおられるぞと腹をくくった。おどしすかしの応酬で最悪の事態は回避しながら説明会を開催し、ニューヨーク、ボストンの有力投資家をまわり、疲れ切って帰国のJFK空港ラウンジの椅子で熟睡していたらN社長が探しに来られてねぎらってくださった。帰ったら体重は5キロ減っていた。株主総会直後の増資の決定の仕方についても公然と批判が噴出した。日経新聞の社説で論説委員に連日ぼろ糞にたたかれたが、みずほの経営会議は歯牙にもかけず大成功とたたえてくれた。

もうひとつ、懐かしいのがある。テレビ東京のIPOだ。値決めで議論があって、調印式会場のディズニーシーの会議室でS社長になぜ3000円じゃないんだ(2900円を提案)と激怒されてしまった。当方には考えがあったが何かが至らなかったのだろう、役員でもない君が何様だと調印は見送りとなってしまい、同席の部下たちは凍りついた。翌日ねばった末ついにご理解いただき、公開初日は想定どおり盛況な売買で成功だった。後日の上場祝賀会でS社長が「君の言うとおりだった」と乾杯し女子アナをおおぜい呼んで囲んでくださった。

しかし初めからそううまく進んだわけではない。周囲も部下も銀行員で、仏教徒とキリシタンの会話である。野村では注文を取ることを「ペロを切る」と言い「切ってナンボ」と教える。営業行為というのは顧客によって千差万別の数々の障壁をクリアしないと成立しない。10個あるなら10個撃破してナンボだ。「9個クリアは自己評価で何点?」「90点です」「なに言ってんの、零点だよ」なんていう会話があってシーンとなる。超高学歴部隊でプレゼン資料の厚さを競うみたいな文化があり、下手すると100ページもあって目が点になる。「3ページにしろ」と返すとこんどは彼らの目が点になる。

言い訳も多い。「零点の生徒に言い訳の権利はない」とつっぱねる。最初の部門予算会議で「東君、大変だけど頼むよ」と言われ、数字を見たら120人もいるのに収益予算が16億円だ。誤植と思い「常務、これ一桁ちがってませんか?」と聞いたらまわりは凍った。いけない発言だったらしい。しかし、半年もするとだんだん皆さんの目の色が変わってきた。東芝の公募が取れてしまい頭取賞をいただいた。「零点」「3ページ」が効いたのか、見えないマグマのような力で部下たちが次々とペロを切った。実は優秀だったのだ。結局その年に予算の10倍ぐらいやってしまい、部門の空気は明らかに変わって勝てる軍団になっていた。証券マン人生で最もエキサイティングな思い出だ。

どうして御託ならべばかりだった部隊がああなったのか?おそらくこっちも引受は初心者だったからだ。そんな状態でプロだと迎えられ、尻に火がついていたのだから皆さんに僕の「一生懸命ぶり」が通じたのかなと思う。それでも重石の役みたいなものだからぶれたらいけない。どこへ出てもドンと構えるしかない。それを部下たちが自信をもって使いまくってくれた。大手町で声をかけてくれたS君もそのひとりだ。彼らの自信が顧客企業にハートで通じて、じゃあ初めてだけど一回みずほ証券にまかせてみようとかとなる。それがうまく片付く、もっと自信がつく、我が部もやらなくては、という好循環になったのだったと思う。

こうやって、僕は野村證券で育てていただいて、みずほ証券でキャリアハイの仕事をさせていただいた。どちらだけに恩義があるとは言い難く、両方がセットになってなるべくしてなったという感じだが、ひとつだけ間違いないことがある。「負け」が原動力になったことだ。僕は何が嫌いといって、負けることだ。50才にもなれば普通は残ったガソリンで10年持たせようと低燃費走行にはいるだろう。そこでハイオクを満タンにしてアクセル全開にするなんて、負けの悔しさがなければするはずもなかった。

さらには、その加速で時速200キロ出てなければ、5年後に今度は起業しようなどというターボエンジンが作動することもなく、今ごろは平平凡凡のリタイアに追い込まれて何もすることがなくなっていただろう。僕にとってそれは許せない最悪の事態であり、人生の負けなのだ。しかもその負けは挽回するチャンスはもうないから、事故で大破するようなもの。それも、時速10キロで路肩に乗り上げて動けなくなるみたいなもので、これぞ、まぎれもなく、僕の人生の辞書には書いてないことだった

望んでそれができたわけでも何を頑張ったわけでもない。たまたま難民になって負け犬のボートに乗って漂着して、そこに居ただけだ。ただ、若いころに普通の何倍もの苦労をしていたからどんな土地でも生き抜く自信と生命力だけはあった。それさえあればいい。居るだけでいいチャンスなど誰にもめぐってくる。つまり、逆境にあっても絶対にあきらめてはいけないということこそ金言なのだ。ただの負けというのはゲームの負けで実はチャージのことであり、あきらめるということは人生の負けでこっちは取り返しはつかない。やり続ける限り、小競り合いにいくら負けても負けたと思う必要はない。勝つまでやればいいだけだ。

 

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どうして証券会社に入ったの?(その1)

 

 

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野村證券・外村副社長からの電話

2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎

外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前で、コロラド大学で1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだった。

「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」

一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。

「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」

コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルの高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもうやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。

その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで飛行機に乗り午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。

いよいよ日曜日だ。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで27才の僕が一番若い。初回、1番にストレートの四球。2番に初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、天を仰いだ。コロラドから鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。そこから必死でどうなったかあんまり記憶がないが、僕の身上である渾身の高め直球で4番を空振り三振にとったのだけは確かで、なんとか2点で抑えた。

勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。後半はまったく打たれる気もせずのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。

後列、右から3人目が僕

午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。

コロンビア大学ベーカー・フィールドのマウンドに立つ(1982年8月29日)

準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。

外村監督が4位の表彰を受ける

残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。

大会委員長から「最優秀選手賞」のトロフィーをいただく

試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表になった。緊迫したプロ並みの投手戦となってスタンドがかたずをのんだ決勝戦、1-0の完封で優勝した神山投手(甲子園選抜大会で岡山東の平松政次に投げ勝った人)に違いないと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は優勝が阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位だ。何かの間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。

それもこれも、外村さんの電話からはじまったことだ。このことがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、英国では英国なりにゴルフを何度もご一緒しテニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。

そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目で苦言もいただき、数えたらきりのないご恩と叱咤激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まる野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とそれだけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。

きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、

「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」

「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」

が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、

東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村

とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、

外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。

とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。

12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。

寺尾聰「ルビーの指環」

あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どこからともなくやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本の電話だったのかもしれない。

外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。

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寺尾聰「ルビーの指環」

2018 DEC 5 21:21:22 pm by 東 賢太郎

先生と「サインは V !」のジュン・サンダースは范文雀(はん ぶんじゃく)だ、台湾美人だという話になり、そういえば蔡英文の民進党が国民党に大敗したのは彼女は法学博士でインテリだが人の心がわからんからという話になり、帰宅して僕は范文雀は寺尾聰の奥さんだったことを思い出していた。

調べると「ルビーの指環」が世に出たのは1981年2月のようだから僕はまだ梅田支店にいたはずだが、ぜんぜん大阪とイメージが重ならないのは人事部から「留学だ」と辞令があってもう心が飛んでいた、というより、ウォートンに行けということになったはいいがあまりの英語力のなさに顔面蒼白だったからと思う。アメリカに一緒に来てほしいと家内にプロポーズして、6月に異動で本社に戻った。大阪に別れを告げるのは寂しかったが、2年半ぶりの東京は嬉しかった。

ちなみに当時の野村證券は妻帯者の留学は認めていなかった。なのにプロポーズしてしまった愚か者だったわけだが、妻をとるか留学をとるかという二択の頭はからっきしなかった。両方とる、なんとかなる、そういう超楽観主義だった。人事部長のGさんに馬鹿者と叱られ問題になったが、留学取り消しにはならず翌年2月に無事に式を挙げさせていただいた。もう転勤してるのに梅田支店の先輩同期後輩がたくさん東京まで来てくださったことは忘れない。

しかし留学のほうは大変に問題だった、当時ウォートンの入試はTOEFLの足切りが600点だった。大学入試の英語はちゃらんぽらんだったが社内の選抜試験は2番だったらしく、まあ平気だろうと世の中をなめて何の準備もなく受けたら480点だ。やばいなと思った。たしかもう2回受けてなんとかすべりこんだ。GMATは代々木の予備校に通って、こっちもぎりぎりのセーフだった。

なにせ全米最高峰だぞと先輩に脅されており、エッセイを必死に書いて祈るように願書を封書で送った。それを審査して合否発表は手紙で来るのだが何か月も待てど暮らせど音沙汰もなく、実家で悶々としていた半年はほんとうに辛かった。その間、所属は人事部付で仕事は英語のレッスンである。支店営業からすれば天国だったが、だからこそ不合格だったら支店だぞという思いがあった。

合格を知らせる封書が来たのは何月だったか忘れたが年明けだ。まずはやれやれの安堵、やがて、アメリカに行けるという歓喜、そしてしまいに、MBAなんか俺が取れるのかという恐怖が襲ってきた。「ルビーの指環」は、そのあたりで大流行していたはずだが、曲はよく覚えているのにそういう現実と結びつかないのは不思議だ。

38年ぶりに聴いて、感嘆する。なんてかっこいいんだろう。

寺尾聰は昭和22年生まれで8才上、まさに我々世代をノンポリと馬鹿にしてゲバ棒振ってた団塊のアニキ世代だ。彼に憧れてでっかめのレイバンをかけたっけ。でもこっちはアメリカへ行くんだぜなんて粋がってた。

歌がプロっぽくないのがいい。カラオケできまってる等身大レベル。ビートルズだってそうだし、ユーミンの男バージョンという感じだ。歌詞もいいね。女は別れた男なんか「上書き」しておしまいだが男はこんなもんだ。

枯葉ひとつもない命、あなたを失ってから・・・

それにしてもこの曲、なんでこんなに耳に残るんだろう?何度聞いても飽きない。音楽的な秘密があるわけだが、それは次回にする。

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正しい人脈の作り方(その3)

2018 JUL 21 14:14:09 pm by 東 賢太郎

「ヒキ」だ「コネ」だなんていらん、頼りたくないという人はいるだろう。そういう人は海外へ行けばいいし、それで成功した人も多くいる。しかし国内でだめだから外でというほどその道は甘くないし、それに頼らないということは実力一本勝負ということで、スポーツ選手と同じなのだ。野球やサッカーでどれだけの人が海外で通用しているか見れば、その現実はわかるだろう。

とすると必然的に、他人の人脈のレバレッジなしに国内でやることになる。サラリーマンをするならそれもまことに結構だ。しかしどこの会社にも「ヒキ・コネ族」は必ずいる。閨閥、学閥がそうだし、仮にそれがなくても「愛(う)い奴」だけ目をかける上司はどこでもいる。ウチは実力主義です、なんてのはウソなのだ。その連中に実力だけで勝つのは至難だし、そんな実力があるならあなたも「ヒキ」「コネ」を作ればいいのである。

愛い奴ばかり使う上司は自分より優秀な部下は切る。つまり能力などあると危険であり、無能だが忠実な者だけ出世させるわけであり、自分が優秀でなく部下もバカなのだからやがて馬脚が現れて消える。それが何かの拍子で社長になると会社が消える。いずれにせよ、それに可愛がられたあなたも消える。だから深入りせず適当にいなして「鉱脈の深い年長者」の「ヒキ」「コネ」を得ることであり、もしも会社ごと危なければさっさと辞めることだ。

サラリーマンが嫌なら起業するしかないが、この場合は「ヒキ」「コネ」なしだとさらに大変だ。個人商店レベルでいいならともかく、億円単位の商売をするとなるとホールセール(企業相手)になる。ところが、どこの馬の骨かわからん者の商品やサービスをクオリティだけ見て買ってくれる企業は、実は日本には極めて少ない。それを知るには以下のことを認識することだ。日本人はまじめで器用でよく働くが、日本企業の生産性は国際的に理不尽に見えるほど低い。なぜか?社内に膨大な非効率を抱えているからだ。それは何か?余剰人員だ。

大方の大企業は終身雇用制で年齢構成ピラミッドは40才台が中ぶくれした「釣鐘型」だ。出世競争は40才でほぼカタがつくので、釣り鐘の上半分は高給を食みながらもインセンティブはなくした正社員である。中小企業への貴重な人材リソースではあるが、就職ではなく就社しているから移籍は起こらず大量の余剰人員となるのである。労働生産性はここにトラップされているのだ。

彼らは会社の成長と人生の幸福が必ずしもリンクしない。あなたの作った企業が安価で良いものをいくら売りこんでも、彼らにとっては無名企業との新規取引だ。あなたの商品を購入して収益貢献を図っても、ルーティーンをあえて変更する説明責任やリスクだけあって評価はされない。そうであれば既存の取引先と人間関係を作ってそっちを温存し、定年まで無難な人生を送ることにインセンティブを持つことになる。こういうことが各所でおき、ウルトラ保守的、硬直的な組織になるのが大企業病だ。それはそれで非難されるべきでもない、そういう立場の従業員にとっては合理的な行動なのだ。

安倍内閣が失業率を下げるのに成功したというが、生産性は上がっていない。ということは余剰人員を抱える年齢構成ピラミッドを切り崩そうという試みはさらに後退したことを意味するだろう。若年層の働き方改革よりそちらの方が日本経済の競争力拡大にはずっと核心的な問題にもかかわらず、政府にはそこにメスを入れる気などさらさらなく、むしろ年金、健保の負担を減らすため年寄りをもっと企業が面倒みてくれということなのである。ちなみに、だから日本株のPERは上がらないのだ。

サラリーマンが嫌な若者が起業して「ヒキ」「コネ」なしで食っていくには日本は非常にアンフレンドリーな国であることはおわかりだろう。しかもベンチャー企業への投資インフラは先進国とは思えぬほど脆弱であり、銀行は担保がないとカネを貸さない。誠に憂慮すべきことであり、それを何とか変えてみたいと思い立ったこともあったが、それはMBAを取って海外赴任したころ「いずれ日本企業はみなグローバルカンパニーになる」と信じた、そのことと同じほどありえないことであった。残念ながら日本は変わらないし、その方が未来の日本人の幸せにはよろしいのだと得心した。

だからみなさん、「ヒキ」「コネ」はあったほうがいいし、それを得る方法が前回までに書いたことだ。

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正しい人脈の作り方(その2)

2018 JUL 20 19:19:42 pm by 東 賢太郎

人脈というのは「開かれた人」を取り込むことで威力が倍加することは前回説明した。しかしまだ人を見る目がない若い人にはなかなか難しいことで、やみくもに知りあいを増やすことになりがちだ。僕だって大そうじをすると、もう名前さえ忘れてる人の名刺や年賀状がわんさかあって苦笑する。

秘策を教えよう。80人の「開かれた人」を友達に持っていそうなオトナを友達にすればいいのだ。その人に可愛がられればその人脈とあなたは濃厚な接点ができるのである。これを別名「ヒキ」とか「コネ」という。80人の年賀状だけの交友は楽しめばいいが、年に一度しか思い出さない人が人脈の有力な一部になることは隕石に当たるぐらい稀だ。オトナをどう落とすかに集中することだ。

皆さんにとって相手は我々前後のオヤジというところだ。この世代の生態は知った方がいい。長髪でエレキを弾いたりゲバ棒を振ったりジュリアナでナンパしたりで目いっぱいバブって遊んでおり、会社では24時間戦ったと思い込んでるがその実は社畜に徹して滅私奉公ぶりを競って交際費を正当化していた。公務員にそれはないが、だからこそノーパンしゃぶしゃぶが歴史に名を刻んだのだ。そんな世代なので、高度成長は俺たちが成し遂げたという、それほどいわれのないプライドがバカの壁となって立ちはだかっている。

その世代も当時のオトナに取り入った奴がうまくやっている。相手は戦中派であって、硬派でごりごりの右翼か共産原理主義の左翼かマッカーサー洗脳プログラムの申し子のえせ左翼か風見鶏の無責任野郎かパンパンの男版の軽薄なアメリカかぶれだった。僕は大阪で個人営業を2年半やって1日100 枚の名刺集めをしながら、オトナには色んな人種があると知った。

二度と来るなと塩をまかれた相手、名刺を破られた相手を何十回目かの訪問で落としたし、64回電話して断られた上場企業社長を65回目にお客にしたが、同期の半分以上は2~3年内に脱落して会社を辞めた。ゲーム感覚だったし野球のおかげで真夏の炎天下には強かったが、なにより野村流が大金持ちのオトナに気に入られるベストプラクティス集だったのが大きかった。

開かれたオトナは頼りにはなるが、酸いも甘いも知った手練れである。下手な小細工など弄さないことだ。礼儀正しく、誠意を持って、正々堂々と正直に当たるのが若者の王道である。ちなみに僕はそれができない子は一切相手にしない。何故なら、よほどの天才か傑物でもなければ、僕の世代の成功者には好かれないから大成しないか道を誤る。残り少ない時間である、あえてそういう人に目をかけてやろうというインセンティブは湧くはずもない。

正しい人脈の作り方(その3)

 

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正しい人脈の作り方(その1)

2018 JUL 19 22:22:44 pm by 東 賢太郎

人脈がある人というのは、単に知り合いが多いだけではない。人脈の「脈」とは脳のニューロンのように人と人が次々と有機的に繋がって、ネットワークが網目のように広がっていくことをイメージしたものと理解するのがいい。

繋がるのはまさに、「まずは自分の脳の中」である。「あの人とあの人を会わせて見ようかな」「そこから何か面白いことが起きるかも」という閃き(ひらめき)がまずあって、それを実行すると現実の人脈に魂が入っていくわけだ。

魂が入ってないなら、何百人の友達リストがあろうとただの電話帳にすぎない。そこからあなたが得られる面白いことの数は、あなたが相い方になるから友達の数を超えることはない。10人なら10個までだ。魂を入れるというのは、あなたが関与しなくても面白いことが出てくるようにすることをいう。

そのためには「ひらめき」「実行」というレシピを電話帳にふりかけないといけないが、別に難しいことはない。電話帳が長いのが人脈だという根本的な誤解をまず解けばいいのである。

友達は2人いれば充分だ。その2人はお互いに初対面だが、あなたと繋がっているのだから何かひとつぐらい共通の関心事があるだろう。そこで食事に誘って、これもご縁だし、それ、いっしょにやってみない?と説得するシーンを思い浮かべてほしい。

うまくいった?それでお見合い成功だ。あなたが仲人になって、2人のペアリングが成立したのだ。3人目の友達ができた?はい、そうしたら前の2人とそれぞれ「いっしょにやってみない?」をやってください。これで面白いことは3個になった。3人いて3個じゃないかと思うだろうが4人だと6個になる。5人だと10個になる。10人だと45個だ。

こうして友達の数が増えると、その数は等比級数的に増える。これはみなさんご存知の「組合せ」の数だ。

20人だと190個、40人だと780個、80人だと3,160個である。ということは80人の人脈を持った人同士が仲良くなると12,720個の面白いことができる可能性があり、その160人の全員に80人ずつの友達がいればそれは81,913,600個になるのである。

もちろん全部がビジネスになるわけではないしその必要もない。何事も選択肢やトライできる回数が多い方が有利に決まってるからだ。「80人の友達」から出てくるオポチュニティーが80個の人と81,913,600個の人では、アイデアのネタの数で百万倍も差がある。戦う前から勝負にも何にもならないのである。どうして?「ひらめき」「実行」というレシピがあるかないか、それだけのことである。

あなたは仲人になるのだから、あの人とあの人なら絶対に合う、これに興味があって意気投合できるということを知っている必要がある。いや、知らなくても直感でそうかなとピンとくればいい。女性は概してこういう感覚に長けているが、そうではない男性諸氏にも手はある。2人の気など特に合わなくてもいい、共通の利益さえ見つけられれば実は充分である。ここまでが「ひらめき」であり、すべてはあなたの脳の中で起きることだ。

次に2人をどう説得するか?これは体で表すことだ。それには、あなた自身がそのサブジェクトに興味があって、やる気も成功する自信もあることを示すに限る。これが実行だ。簡単ではあるが、成功率を高めるには経験がいる。絶対の秘策などないから当たって砕けろしかない。「よしっ、やってみよう」と思えるかどうか、ポジティヴなメンタリティを意識して作り上げるのも実行のうちである。

非常に重要なことだが、そうしてお見合いした2人からもらえる新しいアイデアには、あなたが80人の友達とは作れなかったものである可能性があることだ。こうしてビジネスのディメンション、ポテンシャルは自分の発想や能力を超えて拡大する。いま僕が脱サラしてやっていることで、僕一人の脳みそから出たものはひとつもない。

ただし、同じ80人でもいろいろだ。知らない人と会って何か面白いことをやろうという人のほうがはるかに少数派だろう。人間には2種類あってそういう心が「開かれた人」と、そうではない「閉じた人」がいる。原則として、開かれた人は開かれた人に寄って来る。閉じた人は誰にも寄らないか、寄っても何もおきない。だから、さきほど算数が示したように、開かれた人ばかりの80人は閉じた80人の百万倍も破壊力があるのである。若い方、ビジネスで勝利したいなら覚えておいた方がいい。

そういう人を集めたいなら、当然の帰結として、あなた自身が開かれていることだ。それが一番の近道である。

正しい人脈の作り方(その2)

 

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二十歳までとは別な速さの時間

2017 DEC 14 2:02:39 am by 東 賢太郎

もう師走かとは毎年思うことだが今年はさらに早くやってきた気がする。光陰矢の如しとはいうが、矢は確実に加速している。ゾウの時間、ネズミの時間とヒトの時間は速さが違うという本があったが、浦島太郎じゃないが、同じヒトでも年齢とともに速度は変わると考えたほうが実感にあう。あと何年あるか、10年か20年か知らないが、二十歳までの10年、20年とは別な速さの時間だし、これからの一年一年は今年よりもっとあっという間に過ぎてゆくのだろう。

先週に社員と食事したおり、「あした死んでも悔いないよ」とまじめに言ったらびっくりされた。その日はまさしく本当にそうだったのだが、今日は「明日じゃまずいな」という形勢になっている。ずいぶん日和見と思われるだろうが、取り巻く仕事の事情がそうなので、ここでいなくなったら大変だということになってきてしまった。これは仕方ない、お天気と一緒だ。

悔いないよという日にあっさり逝くのがベストなのは言うまでもない。ということは、いつその日が来るかわからない以上は毎日その状態になるように生きていくのが理想ということだ。楽しいことはもう十分にやった。そのうえで、僕はいつも「人生のバランスシート」が頭にあって、世の中、周囲の人々との様々なものの貸し借りが均衡しているのが安寧で心地いい。その状態こそがそれである。簡単なことに思われるかもしれないが、これは実に大変なことである。

今週月曜にあったT社長の社葬で、写真の元気なお顔と耳慣れた語録を拝見、拝読しているうちに涙が止まらなくなった。4年前にミクロネシア・トリップで知り合って、それ以来、まだ社業に不安だった僕に夢と生きる力を下さった大恩人だ。強烈なインパクトの方だった。僕は自他ともに認める頑固者である。いまさら少々の経営者のいうことなんかきくはずもない。そんな種類の人間が、しかも還暦にもなってだ、こんな邂逅があろうとは想像だにできないことだった。涙は、なんにも恩返しできなかった悔し涙だ。

喪中葉書が例年にない枚数やってくるので年回りというものなのだろうが、死というものがこんなに身近な年はなかった。何度も心がぽっきり折れたが、そのたびに「もっと何かしてあげればよかった」という悔いが湧き起ってきて、いただいたものに報いずに自分が折れてしまうとその悔いは倍加することに気づくのだ。それが反動になって立ち直ることの繰り返しである。人生のアンバランスがいけない。であれば今つきあいのある人、以前でもなんらかのご縁のあった人たちに「何かしてあげる」ことに今からでも精進すべきなのだとなる。

お世話になったという気持ちは一方的なものだから相手がそう思ってない場合がある。いやむしろ、見返りを期待しないお世話ほど僕に重たいものは世の中にない。そういうものを見過ごしたり忘れたり、ただ取りしてしまう人もいるが、ビジネスはそれでも許される。だから相応の対価(お金)を払うのであって、あげた以上の見返りを期待する前提のものなのだ。証券界で生きぬいてきた人間だから僕はその世界では氷のように冷徹だし、過分に見返りを取ろうというたくらみを見抜いてつぶすのに情け容赦はない。しかし、だからだろう、見返りを期待しないお世話というのは別世界のことで、プロットする座標軸がない。T社長が「僕はおせっかいなんです」とくだっさたのはそれだったのだ。だからいい歳した男があり得ないことだが、ぼろぼろ泣けてきたのだ。

たとえば母が何を期待しただろう。自分も親になって知ったが親の愛にそんなものはない。だからこそ僕は千倍万倍にして返したかったが、結局は自分が満足だとまで思い至るのは叶わないことだった。だからだろうと思っている。最後の最後、認知症で意識はなかったが看病で少しでも良くなるぞと信じ、夜を徹して声をかけたり音楽を聞かせたり肩をもんだり手足をさすったりして、寝不足と体力の限界で僕がへとへと、ぎりぎりになったのを見届けたあの日に母は決意して逝ったのだ。僕にここまでやったと思わせようと最後の力をふり絞ってがんばって、病室で9日間も一緒に過ごす時間をくれたのだ。なんということだ親というのは。

何かのご縁のあった人は少なくない。百人ぐらいはこっちが勝手にお世話になったと思っているし、おせっかいなことなのかもしれないが、なにか返したい。その機会と時間がいただければの話だが何もしなければそれは永遠にない。こうして自分の過去と思いを記すのもその衝動があるためかもしれない。あと何年あるか、10年か20年か知らないが、二十歳までの10年、20年とは別な速さの時間。これとの戦いなのだろうか。

 

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1万円も1億円も同じ金融屋という景色

2017 NOV 25 15:15:52 pm by 東 賢太郎

われわれ金融屋というのはお金は「商品」であって、自分の財布にある1万円札も1億円もおんなじという常識ばなれした感覚を持っている。金融機関に長年勤めればそうなるということではまったくない。良いか悪いかは別として、単なる適性の話として、そうなれる人となれない人の比率は金融機関勤務者とそれ以外でとくに差はないと思う。今回はそういう眼を持ってしまった者から見た景色がどんなものかをお話ししたい。

我々普通の人はハンバーガーは食べるものと思っているから「それを5個」と聞けば「そんなに食べられない」という意識がつい出てきてしまうが、マックの経営者からすれば100個も1000個もただの数字であって食べ物という生理的感覚とは仕分けされているはずだ。お金が商品の人の感覚はそんなものであって、銀行の頭取や証券会社の社長が融資額や売買代金が少々減って自分が懐を痛めた感覚になっては経営にならないのである。個人によって程度の差はあるが、僕の場合、1000億円あたりまでは財布の1万円とおなじ感覚である。他人のカネと自分の財布を峻別するのがこの商売の絶対要件の倫理観なのだが、それとは別個の感覚として1000億円を客体視できるようになるのだ。

最近は紀尾井町まで行って帰ってきて1円も使ってないことも珍しくない。他人のカネと自分の財布は峻別なのだから矛盾のようであるが、貯めてるのでもけちっているのでもなく、カネは商品だから不要なことに使わないという倫理観は財布にまで染みついているのだ。それを欠いた人が100億円もおんなじとなれば大事件が起きる。昔、大阪のキャバレーのおっさんが「わしら店の女の子に手だしたらあきまへん、商売になりまへんわ」と教えてくれたが、実に商売に不可欠な倫理観の真理をついた言葉だ。僕らもそんなものがあり、他人のカネの増減が財布のひもをしめたりゆるめたりはしない。そこまでいかないと他人の100億円は扱えないのである。

つまり金融屋が守銭奴やビッグスペンダーであるゆえんはぜんぜんないのであってむしろ逆である。今日は儲かったからパッといくぞ~と札びら切るイメージがあるだろうが、そういう性格の人はいい金融屋にはなれない。カネに甘く倫理観がない。一方で、一代で資産を築いた人は金融屋でなくても大なり小なり似ている。あんなにお金持ってるんだからこのぐらい出してくれるだろうとチンケな儲け話なんかもちかけても絶対に出ないと断言できる。そんなのに乗るような性格の人は金持ちになれない、なぜかというと、それに1円でも出す規律の甘さは店の女の子に手を出すようなものだからだ他人のカネや商品を扱う資格はなく、信用されない。信用がない人は事業ができずカネがないからだ。カネに対する倫理観は他人勘定か自己勘定かには関わらないところが共通しているのである。

困ったことには、そうなると「お金は使うもの」という意識が希薄になっていくことだ。単なる数字だから、この1万円札であれを買おうなんてことは二の次であって、どうやったら2万円になるかしか浮かんでこない。相場は24時間動くので寝ても覚めてもだ。これはゲームで点数を増やすのとおんなじだがゲームは終わりが来てもこれは死ぬまでやめられない。こんな人生を「楽しい」と感じるか「苦役」と感じるかがいい金融屋になれるかどうかの分岐点だ。

昔はよく「わたしの10万円ふやして」なんて飲み屋でいわれた。NOだ。「なけなしのお金」はだめなのだ。株に絶対はなくてこっちの「指し手」がおかしくなる。そんな甘い世界ではなくイチローだって絶対ヒットという方法はない。ちなみに現時点でソナーの今年の運用助言成績は+29.1%だ。お正月の100万円が129万1千円になってる。でも、彼女の10万円をうけて「絶対打ってね」となると、手元が狂ってファンド全体でそういう成績が出なくなるかもしれない。理屈はないがそんなものであって、そういう危ないことはしない。

銘柄を発見するアナリストの雇用体系は時間の縛りはない。ほとんど投資する候補の会社を回って経営者に会うという情報収集だが、そのまま帰宅しようとどこへ行こうとかまわず、そのかわり結果は出してねということ。それで毎年ちゃんと20%は出してるんだから超低金利の世の中で何の問題もない。こういう人がスナイパーであって、僕がスナイパーしか使わないのはこういう仕事だから道理なのである。たかが20%と思う人もいるだろうが、4年続けば元手は2倍だ。

初心者が50%も100%も儲かることはあるがそれは異常値にすぎない。ビギナーズラックである。良すぎはリスクの取りすぎの結果であって、次の年にマイナス50%になることも大いにある。毎年プラスゾーンにいることに価値があるのでプロには「良すぎ」はバツのシグナルだ。減らさないだけで難しいのは5年もやったらわかる。イチローはホームランも打てるがそれは狙わないで打率3割(失敗率70%以下)を何年も連続したから何十億円をもらえたことがその証拠だ。勝負は長丁場でも負けないことに価値があるのである。

彼の才能と言えどもそんなスナイパー人生を送るには命を削る努力が日々あるはずだ。そこまで削る必要のないサラリーマンの人生と比べることはできない。年間の運用アドバイス料で一般的な2%をいただくとして、10万円だと2千円、100億円だと2億円だ。しかし、どちらもやることは同じで削る命の分量も一緒なのである。2千円と2億円は払う人の懐具合しだいで重みは一緒だ。命の代金が2億円とするなら、2千円の人を集めると10万人も必要である。10万人の観衆に「毎打席ヒット」を期待されたらこっちの人生が破滅するだろう。

だから投資信託というものは、少額でも運用の規模の利益が得られるというプラスはあっても、その運用者の人生を破滅させない仕組みでないならばその仕事の引き受け手はなくなるという宿命にある商品なのである。それは、運用者はすべからくサラリーマンであるということを意味している。彼がどんなに深遠な運用哲学を語ろうと、損を出しても運用会社をクビにならない雇用契約で働いている以上はその宿命から逃れることはないし、サラリーマンに僕と同じことができるとは考えていない。逆にそうではない自営業者の僕は、心労だけが10万倍になる投資信託ビジネスをやろうという意欲は100%ない。

僕がこの仕事をしてよかった、性格に向いていたなと思う反面、何のために生きてるのだろうと愚痴りたくなるのはカネの使い方をまだ知らないからだ。儲けるのも難しいが使うのも本当に難しいと思う。うまく使うというのは何かを安く買うということではない。食事するのに安いからこの店に入ろうということはなく、おいしくないものがいくら安くても意味ないのであって、満足感を買うのに千円か一万円かは本来は関係がないはずだ。現実に屈してしまって仕方なく千円の食事で満足できる自分に「自分を教化」していってしまうと、実は知らず知らず千円の価値の自分を作ってしまう。

自分に投資しろとよく言うが、あれは本当だ。無理してでも一万円のものを食っていれば自分もその価値になる「可能性」だけはあって、だんだんそれが食えない自分がつましい、食える自分でいたいと感じる自分ができてきてくるだろう。少なくとも、願わない自分にはなれないとだけは言える。一万円の料理はそれなりの手間、サービスが費やされている。他人にサービスしてもらうには自分自身が価値がある、価値を生み出せる人間でなくてはないらないということであり、それには努力を要し、時には命を削らなくてはならないことを悟ることになる。

そこまでは62年生きて分かったつもりだが、では僕が社会に何の価値を生み出しているのか、何のために働いてきたのか、まだまったくの未知数だ。もう自分に投資する年ではないし、それはきっと使い方のきれいさにかかっているのだろうが、人生で一番難しいことかもしれないと考えている。

 

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あいつはどうだ?と聞ける人

2017 NOV 10 0:00:40 am by 東 賢太郎

「・・・そうかお前も元気だな」「そりゃそうじゃなきゃこんなポストつとまるかい」「あっちはもう心配するな、なしだ、いいな」。無言。「あいつはどうだ?」「使えない、へたするとおじゃんになるぞ」。無言。「じゃあな、わかった」。

これはスパイ映画のシーンではない。最近ある会社の経営者と電話でかわした会話だ。こういうことで会議が招集されたり人事が出たりする。二人以外は誰も知らない。自分が彼の立場だった時も、こんなものだった。

密室政治はけしからんとか世間の実相を知らない人はいうが、知らない人は知らないだけだ。良かろうが悪かろうがやるのは人間だ。どの国の元首だってマフィアのボスだって、自分の権限で孤独に決めなくてはいけない重たいことは、最後の最後はこんなもんだと思う。

相手が腹心かというと、そうとは限らない。僕は彼の部下でもコンサルでもない、長く信頼関係にあるだけだ。腹心を作るとむしろ危険である。イエスマンは100%害だ。会議も、自分は議長でない方が良い。頼れるのは正しい情報と研ぎ澄ましたセンサーだけだ。仕切るより耳を澄ませだ。

センサーは自分で磨くしかない。人と会うこと、取引すること、それ以外にない。顔色を読むのでなく(不要だ)、反応を類型化することである。同じ人種もその中に細かく人種がある。それを分類するのである。これなしに営業やらマーケティングやら、まして経営などがわかる道はない。

最後の最後は自分でほんとうにわからなくなることがある。第三者の目がほしい。能力はわかってる、でも「どういう人?」ということについてだ。だいぶ前に僕はある男を飲みにつれて行って、それが目的だったのだが、女将に理由を言わずそうきいてみたことがある。

ばかなと思われようが、社内でそんなことは口が裂けてもきけない。それに女性のセンサーはちがう。利害、感情でモノを言わない人なので聞きたかった。想像だが寺田屋で龍馬を逃がしたおりょうはそうだったんだろうし、横浜富貴楼の女将お倉はあの伊藤、大久保、板垣らが話をききたがった。

こういうことは料亭文化とでもいうか、日本特有かもしれない。女将が組織のグルならどこでもあるだろうが、彼女らはスパイでも愛人でもハニートラップでもない。今なら大統領、首相、閣僚級の男たちが与太話でなく密談したい。女にも大物、小物というものがあるのである。

個人的に酒席で与太話は好きでない。接待はするもされるも好まない。酒は飲まれないように嗜みたい。

 

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教養のすすめ

2017 OCT 12 11:11:39 am by 東 賢太郎

僕は自分の子供に「教養」だけは身につけてほしい。父親としてそれ以外のことを教えることもできないし、人生は自分のものだ、幸せに生きてくれれば専攻も職業も趣味もなんでもいいと思ってきた。教養とは何の専門でもないし、それ自体が生活の足しになるわけでもない。しかし、人間としてより良く生きて、学問にしろビジネスにしろ社会福祉にしろ何か事を成して社会に貢献しようと思えば必須となるものだと固く信じているからだ。

僕は高校まで文学や人文系の科目に皆目関心がなく、受験はご都合戦略で数学だけで切り抜けたことは書いた。教養がかけらもないと気づいたのは大学で哲学、科学史、英語を習ってからだ。東大が全学生を1,2年次に駒場で教養学部に学ばせるCollege of  of Arts and Sciencesという思想は全くもって正鵠を得た教育である。いまこの年になって経験を経てそう思う。Artは人間が、Scienceは神が作ったものを学ぶ学問というのが西洋の概念だ。理系、文系という区分はない。

文系だから数学はいらない医学部だから世界史はいらないというのは教養と雑学を取り違えた誤解と同根のナンセンスな考えだ。日本一頭の良い高校をクイズ王で決めようという番組はエンターテインメントとしては面白いかもしれないが国民を誤解させるもとであり、子供にはTVを見れば馬鹿になるから消しなさいと言うしかない。

僕がここに書いたのは文系学部廃止論ではない。

理系の増員なくして日本は滅ぶ

暗記は大事だが思考回路を持たなければクイズ番組と同じであり、数学を入試に課さない大学廃止論であり、文系などと呼ぶ明治時代の遺跡みたいな教育は改めないといずれ国難を招きますよという警鐘だ。

僕は駒場で井上忠の哲学概論の「パルメニデスの有」がさっぱり理解できなかった。わからないものがあるのは不快で図書館で随分調べたが日本語なのにわからない。実のところ今もわからないし、生きていく上で理解してどうということもないが、それはわからないことに意味があった。自分の知力より上の智、数学みたいにすっきりと解けない智がある、それこそ「有」であるという画期的かつ原初的体験であったからだ。村上陽一郎の科学史でのケプラー第三法則発見物語はあまりにわかりやすいゆえに天地がひっくり返るほどの衝撃で、思考の仕方に決定的な影響を受けた。それがなければこういうブログも書けなかったしSMCという試みもなかっただろう。

思うに、そういうものが積み重なって「教養」のベースというものができあがる。僕に教養があるというのではない、前稿のT社長のことでそのことに思いあたって書いている。彼は経営で苦労もされ成功もされた。「僕は子供みたいで好奇心の塊りなんです」とよく言われたが、「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だというアインシュタインの言葉に重なってきこえた。彼は旺盛な好奇心と多難だった経営、万巻の書から実体験を経て優れた教養人となられ、経営で成功されたのだ。

教養とは知識ではない、知識のないことでも包括的に咀嚼して理解、判断できる思考の素地であり、食べ物で言うならピザの生地だし、数学で言うなら大域的最適解の発見能力のようなものである。クイズ王能力などAIどころかスマホで十分で一文の価値もなくなる。そんなもので東大だ京大だと甘やかしていれば世界大学ランキングで中国、シンガポールに抜かれるのも当然だし、そういう学び方をした学生は21世紀の世の中では教養人に淘汰されるだろう。学歴など何の足しにもならない時代が来ているのだ。

余談だが村上先生がここで数学の簡単な証明が美しいという感覚とアートが美しいというエステティックな感覚は共通するという趣旨のことを語っている。

http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/murakami

両者は僕にとって共通どころか同じものだ。こういう結論は単一のいかなる学問からも物知り博士の知識からも導き得ないもので、クロスボーダーのトッピングを許容する「ピザの生地」、強いて言うなら脳の中のイギリス経験論的領域で二つの既知の認知の共振したものが感じられないと認識できないだろう。ただし先生は独り歩きする科学に批判的だが僕は違う。原爆開発に科学者がエステティックな美を見ることを自制するなら科学はどこかで人類を豊かにする発明の原動力であるフロンティア精神を喪失するだろう。私見では歯止めは社会に制度的、構造的に求めるべきで、それは軍におけるシビリアンコントロールと同等に市民の最低限の常識、教養なくして成り立たないものだと考えている。

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》

テレビを消しなさい

ホリエモンの「多動力」と「独りぼっち」の関係

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