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カテゴリー: ______体験録

ここまで書いた「自分史」について

2021 OCT 11 17:17:39 pm by 東 賢太郎

このことは何度か書いたが、僕がブログを書く目的は「自分史」を書き残すことである。

自分史は伝記ではなく、書いている自分は生きているのでジ・エンドがない。不意に死ぬか、書けなくなるか、辞めようと決めた時のいずれかにジ・エンドを迎える「一種の日記」である。日記は公開しないが、僕は「千年後の子孫」という読者を意識しているから紙でなくオープンソースのソフトに書くことにした。それがWordPressでブログという形態のメディアだ。ウェブログ (weblog) の略であり、ウェブ上のlog(記録)である。

ウェブであるのでコンテンツの守秘性はなく、子孫も千年たてば不特定多数の公衆である。一種の日記のつもりではあっても、だんだん「一種の」の方が自分の気持ちの中で勝ってしまうことに気づいてきた。公衆に何か訴求をしてみようという試みである。そして、さらにだんだんと気づいてきたことがある。訴求はしても労多くして何も意味がないということだ。

僕はそのことに、母が逝って半年ほどしてから気がついた。そして、すぐにこう書いた。

西部邁さん死去、多摩川で自殺か

「言論は虚しい」「僕の人生はほとんど無駄でありました」。西部さんのこの訴求に逆らえるほど僕は自分を優れた人間と思わない。

いま書きかけている「我が家の引っ越しヒストリー」は66才になったいまの自分の解釈を最低限にして、記憶する限りの事実・心象(過去完了形の記憶)の描写にとどめた定義どおりの「自分史」の試みである。するとそこには、書いてのみぞ知る重要な発見が3つあることを知った。

① 住んだ家こそが自分史の元号である

② 家を思い浮かべるとそれ以外のことも思い出す

そして、

③ たくさんのことをもう思い出せない自分に気がつく

のである。

年齢はすべてを衰えさせる。ここ数日は毎日5千歩、つまり3.5キロほど走り、きのうは調子が良くて二子玉川までノンストップの37分で到達した。息も絶え絶えになり、復路はぜんぶ歩くことになって49分かかった。6年前は往復で60分であったこと、きのうは往路4キロを全力で走っても速度は歩きとたった12分しか違わないこと、かような限界数値を見ることで「衰え」を客観的に知るのである。

僕の場合、走力は高校で鍛えたお釣りがあるからまだ減衰が少ないほうだ。しかし記憶は鍛えようがないから自然のままに減るだろう。実感では7割はすでにブログに書いているが、残り3割はもう6年たったら半分に減っていることだろう。とすると、少なくとも人生の15%は無に帰して「なかったことに」なる。ブログは早めに書かなくてはならない。

しかし、ここで西部さんの最後の言葉が重くのしかかる。書くにはそれなりの時間がかかる。僕にそんな時間があるのだろうか。もしあるとしても、子孫でなく自分や家族のために使うべきではないかとも思うのだ。

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我が家の引っ越しヒストリー(4)

2021 OCT 9 15:15:48 pm by 東 賢太郎

留学と英国勤務を終えて、次の辞令は東京の本社勤務だった。1990年5月、8年ぶりの帰国である。ノムラ・ロンドンのために最後にした仕事がある。11月のこと、英国の歴史的建造物である旧郵便局ビルに引っ越しをした式典にジョン・メージャー新首相が臨席することになり、その様子を東京本社のスタジオから全支店に向けて実況中継するはこびになった。ロンドン帰りほやほやだったからだろう、そこで某局の女子アナとキャスターをやれということになったのだ。ビデオが手元にあるが冷や汗ものだ。ここにいきさつを書いた。

僕が聴いた名演奏家たち(ニコライ・ゲッダ)

東京へは出張で数えきれないぐらい何度も戻ってはいたが、ひと仕事終えてひとり成田空港の出国ゲートにやってくるのはいつも遅い午後だった。決まってもう薄暗いのが憂鬱である。すると親元を離れるのが無性につらくなってきて、毎度毎度かわりばえのないみやげ物売り場をあてもなくぶらついて、いつも必ず「行きたくないなあ」と後ろ髪を引かれるのだ。そしてとうとう搭乗開始のアナウンスがある。執行の時が来た死刑囚みたいに乗機するとスチュワーデスに頼んでワインをがぶ飲みしてしまい、気がつくと午後のロンドン・ヒースロー空港に降り立っている。すると妻子の待つ家があるという安堵か、なにやら故郷に帰ってきたような気分がしているのである。離陸の寂しさはなんだったのかとおかしなものだが、それは自分が旅人の人生を送っているからなのだといつも納得した。

そして、今度はいよいよ、それが東京になるのである。

今か今かと待ちかねていた両親がもろ手をあげて喜んでくれた。もうあんな寂しい思いはしなくてすむ。その時の父はいまの僕と同じ66才で、初顔見せになる次女は飛行機に乗せてくれるぎりぎりの生後2か月だ。最高の親孝行であった。「我々はマンションにでも住むからうちに住みなさい」と父がいってくれたが、ロンドンの一軒家でふくれあがった荷物は実家には入りきらない。たまたま、僕と入れかわりでロンドンに赴任することになった先輩が「転勤なんて思ってもみなかったよ。手狭なんで引っ越そうと契約しちゃった家があるんだ。お互いに手間が省けてちょうどいいじゃないか、そのまま引き継いでくれないか」という話があった。それが巣鴨の青い家だった。

文京区に住もうという考えは僕の場合は出ようもなかった。思い出の駒場で何軒か家内と探してはみたが魅力がない。三田線で通勤は10分だしまあいいかという気になって巣鴨の家を借りることに決めたのである。さしたる意味はなく単にご縁に乗っかっただけだったが、この決断が僕の人生航路の重要な分岐点になることは知る由もなかった。時は歴史的バブルの絶頂期だったことは書いておかねばならない。野村不動産からは社員優遇と銘うった一戸建て物件の抽選のお報せがあり、同期の連中は超低利のローンを組んで7,8千万円のマイホームを競うように買っていた。ゴルフ会員権もあがるぞと大ブームであり、業者がしつこく電話をかけてきた。しかし全然興味がわかなかったのは何故だろう?8千万は高いと思ったのはある。しかしそれよりも、誰に言われたわけでもないがいずれまた外国だ、今回の東京は仮住まいだと予感していた気もする。

8年もブランクがあると、日本はちょっとした異国である。地下鉄がわからない。カラオケは歌がなく、みんなが盛り上がっている飲み屋の話題についていけない。本社の女性総合職は存在していることすら知らず、まだ全社で10人ぐらいというのに配属になった課にその一人のHさんがいた。京大の学士入学に受かってしまう才媛でエース級である。男と一緒に呼び捨てにするのを良しとするカルチャーもあるにはあってそれでもよかったが、「さん」づけで呼ぶことになる。営業ならそうしなかったが、本社はそのそのムードではなかった。それを契機に処世術も人生観も大転換を迫られたことになる。さすがに男まで「くん」づけはしなかったが、机をたたいて怒鳴ることはできなくなったのである。

母親の強い影響で東京は西側しかないと思っていて、駒場は好きでも本郷は住める臨界点を超えており下宿するのさえ一種の思い切りが要った。だから母はきっと歓迎してなかっただろうが、巣鴨は住めば都だった。寿司屋、焼肉屋、ラーメン屋、蕎麦屋、お好み焼き屋、焼き鳥屋、洋食屋、街中華・・・ロンドンでも日本食レストランは増えていたがそうしたB級メシの類は二流で、ここでは夢のように美味だ。おばあちゃんの原宿といわれ、とげぬき地蔵で有名な「地蔵通り商店街」は情緒満点である。鰻の「八ツ目や にしむら」、すっぽんの「三浦屋」、江戸時代からある飴屋「巣鴨 金太郎飴」など素晴らしい。漬物、豆腐、納豆、佃煮、飴など江戸庶民の好物がここではオリジナルの風情で食せたからたまらない。父方は神田っ子であり、東京の東側だった江戸を愛する人間だという自分のルーツみたいなものがわかってきた。

巣鴨地蔵通り商店街

週末にはCD屋、本屋にどっぷり浸りこんでいた。何よりそれに飢えていた。秋葉原、神保町のコースはもちろんだが、もっと近い池袋のWAVEでCDを買ってそこから少し先の本のデパート、ジュンク堂書店へというコースにも抗しがたい魅力があって、日曜日の遅い朝に思い立つやふらふら出て行って丸一日を池袋で過ごすことになる。僕は本もCDも疲れて動けなくなるまであれこれ迷って買うのが飯より好きなのだ。これはすぐれてプライベートでピンポイントで趣味性の強いものだ。誰かと連れ立ってということはあり得ないが、特に女性でそういう人は見たことがない。家内や娘と本屋に行くというのはフレンチのフルコースを10分で食べてねと言われるに等しいのである。野球も飢えていたはずだが通勤途中にあった東京ドームに行っていない。テレビで足りるからで、それより書物と音楽を心ゆくまで自由に迷いまくるほうがずっと大事だったと思われる。

巣鴨時代の勤務地はというと、最初は日本橋1丁目1番地のいわゆる軍艦ビルで、やがて部ごと新しかった大手町のアーバンネットビルに引っ越すことになる。これが初の大手町勤務であり大いに気分は新鮮だったが、メシがまずいのは閉口した。和洋中なんでもお好みをセルフで手軽にいける巨大な地下食堂が評判で、部下にひっぱられて行ってみたが、まるで寮の食堂だ。といって周囲にもロクなのがない。外国帰りにこれはない。大手町は2度目の帰国後にも野村で4年、みずほで4年半と10年も働く場所となるが、見事に最初から最後まで一貫してメシはまずかった。数少ない例外が旧興銀の食堂の「鯛めし」と農中ビル地下の和食屋と大手町ビル地下街のうなぎ屋という具合である。独立して今度は皇居の反対側の紀尾井町の住人になるが、重視したのはもちろんそれ。ランチの質が雲泥の差なのである。思えばそっちは11年となり、中高時代を入れると千代田区生活は27年になった。

アーバンネット大手町ビル

拝命した仕事は国際金融部コーポレートファイナンス課長だ。営業職しかやってないのにいきなり引受部門の課長ポストだった。何もわからなかったが、Hさんら7、8名いた課員が優秀で先生にもなってくれ、僕は毎日彼らから案件のブリーフィングを受け、東証上場させたいボーイングのCEOが田淵社長と会食するから同席しろ、営業企画部に支店で株を売ってもらうよう説得しろ、大蔵省にワラント債を認めさせろ等の仕事に責任者として駆り出される。つまり、少し偉そうにいわせてもらえば課員が官僚であるのに対して大臣みたいな役回りが求められていたのかもしれない。まだ課長に昇格して間もなかったから本社でそんなに幅がきくわけでもなく、大した役には立てなかった。

海外出張は度々したが、メキシコに2度と、南米(ブラジル、アルゼンチン、チリ)に行ったのが思い出深い。ブラジルの往路はバンクーバー、帰路はニューヨーク経由のヴァリグ航空で飛ぶが、ビジネスクラスでもフルコースのステーキが出るサービスは大変結構だった(それが祟ったか後に経営破綻)。着いてみると事前に勉強してきた通り年300%のインフレで、ホテルの宝石売り場を日々チェックしたが売値は毎日ちゃんと1%上がっている。もちろん国の財政がボロボロだからそうなるわけで、驚くべきことに私企業の社員より公務員の数の方が多かった。スペックを見る限り明日に破綻しても不思議でない見るも悲惨な国家だったが、国民はどこ吹く風のケセラセラである。人間それでいいし国もそれでも成り立つのかと、たった1週間の衝撃の光景で人生観まで変わった。ここに書いてある。

イリアーヌ・イリアス- Made in Brasil

メキシコでも学ぶものがあった。といっても仕事は世界のどこでも同じようなもので、旅や遊びから学ぶことの方がずっと多い。可愛い子には旅をさせよというが、この2年間の出張がなければこういうことは思いつかなかったろう。

宇宙人の数学的帰納法

それやこれやが起こっていた2年を過ごしたのが下の写真の巣鴨の家だ。引っ越しは子供の荷物と僕のピアノ・音楽グッズが増えて大変だったはずだが、忙しくて覚えていない。当時の写真が見つからないのでGoogle Earthで探したらその家はいまこうなっていた。ガレージは当時はなかったが「青い家」はそのままだ。建物は3世帯に仕切られており、我が家はその真ん中でここに両親が何度も足をはこんでくれた。この景色を見て毎朝出社していたのが懐かしい。

長女はここで初めて幼稚園生になり、1度だけお遊戯を見に行った記憶がある。その後も子供の学校は家内まかせでほとんど見てやれなかった。次女はというと、どこへ行っても乳母車に積んだ赤ちゃん用の竹網みの籠ですやすやと眠っていた。近くの焼肉屋や中華料理店でも、ドライブして富士山の五合目まで登ってもそうだ。歩く時はいつも僕の担当で、危険のないように必ず利き腕で持ったので重みは右腕が覚えている。彼女もこの家ですくすく育ち、よく遊び、しっかり歩けるようになった。

ここでシンセサイザーを買った。先輩が簡易なのを持っていて、そういう芸当ができることを知った。何の知識もなかったが情熱先行だ。秋葉原でマックPCとその他の器材を買ってきて数日間の悪戦苦闘。ついにオーケストラの音が出た時の感動たるや筆舌に尽くし難く、ぱーっと光り輝く未来が眼前に開けた気がしたのである。ところが、それからほどなくしてフランクフルトに異動という辞令が出る。たった2年でまたヨーロッパか、親元を離れるのか。光は消えた。そのころ、このブログにある戦いのど真ん中にあり、ゴールドマンに敗北を喫して国内営業に予約させた300億円ぐらいが宙に浮くという事件があった。その詰め腹なのか左遷なのかという被害妄想まであって大いに複雑だった。

失われた20年とは何だったか(奪った者編・1)

だからである、この時、野村を辞めようかという気がむくむくと頭をもたげてきていた。もちろん誰にも相談などできない。会社でそんな気配を見抜かれただけでサラリーマン人生は終わるし、家内や両親に言っても無用な心配をかけるだけだ。特に妻にとってせっかく落ち着いた日本からまた海外に出る、しかも今度は言葉もわからないドイツである。亭主の気持ちががふらついていては家庭がもたなくなるかもしれなかった。辞めても大丈夫と思ったのは根拠があった。1985年、ロンドンの2年目にあるハプニングがあって、7年も前の自分の値段を具体的に知っていたからだ。それが今や実績をあげた37才の絶頂期である。野村での年収は1千万円ちょっとだが、外資系の東京現法に何倍かで売り込めるのではないかと思案したのだ。試す価値は充分にあった。

ハプニングとは何かというと、担当先だった大手スイス銀行SBCのヘッドから「秘密裡に会いたい」と電話があったのだ。ロンドンの冬の夕刻で、外は真っ暗だった。先方のオフィスへ行ってみると役員室のような部屋で幹部が二人待ち構えており、いきなり予想外の展開になった。「ロンドンの日本株部門のヘッドを探している。理由は言えないが君がリストの筆頭だ。年俸25万ポンドを保証するので来る気はないかというオファーがあったのである。30才の小僧に当時の為替レートで7千万円のギャランティーだ。びっくりした。どう反応したか覚えがないが、” I’ll think about it.(考えさせてください)” とだけ答えて帰った気がする。やたらと首をぽきぽき鳴らす人だったのと部屋の照明がやけに暗めだったのを覚えている。しかし当時の僕の辞書に転職の二文字はない。むしろ「そんなに軽く見られているのか」という気持もあって断ってしまったが、後々までこのご評価は心に留まっていた。頼んでもいない第三者の評価だ。俺は自信をもっていいと思うようになっていた。

だから青い家でさんざんひとりで悩んだのだ。そして最後に「大人しくフランクフルトへ行こう」と腹をくくった。たくさんのお世話になった方々との人間関係もあったが、西洋のああいう人達、あんまり好きになれない金融界の餓鬼たちの奴隷になるのが虫が好かなかったのもある。思えば自分だって仕事では同類の餓鬼なんだ、西洋に何の違和感もないしウォートンのMBAでもあったし、外資系で10年も我慢すれば米国人が理想とする40半ばの悠々自適の引退ができたのではないかとも思う。しかし僕はジョン万次郎の能力は認めるけれど生き方としては勝海舟だという人間であり、そう教育されていた。だから父に「ドイツだ」というと「頑張っておいで」とだけ言われ、そうだなと吹っ切れたのだった。さらにもうひとつ重要なことがある。先輩のご縁で巣鴨の借家に入ってしまったので「マイホームの勧誘」に乗らなかったことだ。もし同期と一緒に家を買ってしまっていたら?年収1千万の身でローンを返済しながら、せっかくの新居には他人が住んで我が家はドイツの借家で慎ましく暮らすのだ。あまりにアホらしく、東京に居ようとなったに相違ない。

どっちの道が良かったかというと何とも言えない。若くして外資だったらどデカいことができたかもしれない。神様がタイムマシンであの日に戻してくれるならば、今度はもちろん辞める方を選んでみたい。でも、そうなると一つだけ困ることがある。ドイツで生まれた長男がこの世にいないからだ。

 

(つづく)

我が家の引っ越しヒストリー(5)

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我が家の引っ越しヒストリー(3)

2021 SEP 26 23:23:00 pm by 東 賢太郎

ロンドンに着任した。1984年、入社5年目の夏である。家が決まるまでホテルに逗留したが、テレビでロス五輪をやっていたのを覚えているから7~8月のことだったろう。

そんなのを見ている場合ではない。配属先のインスティテューショナル・セールス・デパートメント(機関投資家営業部)は海外はもちろん全野村の拠点の稼ぎ頭のひとつで、そうそうたる先輩方がしのぎを削るウルトラ激務の部署として名が轟いていたからだ。株式営業は経験していたが、それは梅田支店の国内リテールの話である。2年のブランクで留学ボケもしているだろう。ここは世界の金融ビジネスの頂点、お客は誰もが知る著名な金融機関や機関投資家なのだ、そのまんま通用するとは思えない。武者震いは大いにしたが、できるというほどの自信はなかった。

ロンドンの「ロイヤル・エクスチェンジ」(旧王立取引所)

ヒースロー空港にはK課長が出迎えて下さった。車で会社へ向かう道すがらあまり会話はなく、はっとするようなストレートな物言いが幾つかあった。推奨する銘柄の情報取得ルート云々の話だったと記憶するが「どうすれば?」ときくとお前アホかという視線で「自分で調べろよ」の一言が返ってきた。ここで生きるには自助しかないなと感じた。数日たってそれを話すと「おまえ、Kさんが迎えに来てくれるなんてありえねんだぞ」と別の先輩が諭してくれた。そりゃあこちとら実績もない新参者だ。K課長と1対1で会話できるのはそれが最初で最後だよという意味だったが、もっと深い意味があることがだんだんわかってきた。

当時のオフィスは上掲写真にほど近い、金融街シティの中心であるバンク駅の東に徒歩数分のグレースチャーチ・ストリートにあった(後にモニュメント、チープサイドに移る)。Kさんは課長である。外人を入れて20人ぐらいの部なのに課長が仕切ってる。車中で会話しながら凄いなあと感じていたが、そういう敬意なんて甘ちゃんなものが成り立つ世界でないことをその日に知ることになった。オフィスに着くなり営業場の全員が軍隊みたいに起立する。僕の紹介など数秒で終わり、「やるぞ」の号令で全員が狭い会議室になだれこむ。夕刻の反省会・営業会議のようだ。普段通りの激烈な “詰め” が眼前で始まって度肝を抜かれた。目を疑う営業数字の話ではない、Kさんの詰めのキツさである。朝は6時半に集合して東京本社株式部と会議のようだ。そこでその日の営業目標を決め、夜までかけてそれを必達する。これこそがロンドンの掟(おきて)だと知って震え上がった。トヨタをしのぐ経常利益5千億円、ノルマ証券と揶揄された野村の営業現場で楽な所はなかったろうが、トップをひた走るロンドンはまさに戦場、修羅場だったのだ。

オフィス前のレドンホール・マーケット

時は日本株ブームの発端だ。グローバル投資のメッカであるロンドンのシティは煮えたぎるほど熱かった。僕が野村に入社した79年の日経平均株価は6,000円、このころが1万円ぐらいである。そこから87年1月に2万円の大台を超え、その後の3年弱でほぼ倍になった。その最後が1989年12月29日、年末最後の取引となった大納会でつけた3万8915円の史上最高値だ。1984~90年だった僕の「ロンドン時代」はその上昇とシンクロしているからラッキーだったと言われれば本当にそうだ。ただ、お天気と一緒で、雨の日は全員に雨、晴れの日は全員に晴れである。ブラックマンデーを除けば「快晴続き」だったこの業界は参入者がごったがえし熾烈な競争が展開される。その好例がここで書くノムラロンドンだったと考えていただければと思う。なにせ、掟だから部の商売が目標に達しないと誰も帰れない。現地社員は帰すが日本人は9時10時はざら、時に深夜にもなり、そんな時刻に英国人の自宅に電話していいのかと仰天すると「ばか、相手はプロなんだよ。大事な話は聞きたい」が現場の常識だった。たしかに我々が相手にする顧客はファンド・マネージャーである。運用成績に出世がかかっている。寝ている間に東京市場で大事があれば知らなかったでは済まないのだ。3年後のブラックマンデーでまさにそれが起きた。お客さんが夜中の2時3時に我々のオフィスにやってきて保有株を売るか売らぬか決めた。彼らにとって我々は不可欠の情報源、羅針盤であり、野村はやりすぎだという声はなく、こちらが日々緊張感ある仕事につとめればそれなりの注文をいただけるというウインウイン関係にあった。

だから何もなくても夜9時10時はざらなのである。上がだらだらいるから帰れないとかサービス残業なんて悠長なものではない。課員は会議室に集められ、その日の反省と明日の営業計画をK課長を相手にひとりひとりプレゼンさせられるのである。この時間は地獄だ。言ったことは翌日 “実現” する必要があるから生半可なことは言えないが申告が少ないと「お客さんをつかんでない」と怒鳴られる。「万事、大きく有言実行」が掟なのだ。野村でなければこんな理不尽は通るるはずもなく今なら完全にブラック、同じ証券界でも他社とは決定的に違う。しかし、本稿の最後にその理由を書くが、これを叩きこまれたのは後々の僕の人生にものすごく大きな影響を与えたのだ。Kさんは意気と度胸の営業マンなどとはほど遠いインテリで、コロンビア大学MBAであり、当時日本人は数名しかいなかったCFA(米国証券アナリスト)取得者でもある上に頭が抜群に切れる。プレゼンにびしびし鋭いツッコミが入り、あ~う~となってしまうと全員の前でさらし者になり、人間の尊厳を瞬間蒸発させるほどボコボコに叩きのめされてしまうのだ。別に殴られるわけではないが、言葉でビジネスをする我々にとって言葉でねじ伏せられるショックは殴られるより大きいのだ。しかし、ツッコミは理が通っていた。それを論破できないなら同様に頭が切れるファンドマネージャーに納得されるはずもなく、従って、翌日に注文はいただけず、言ったことは未達になるのである。有言実行できない者は野村で生き残れない。だからKさんと戦うことは自分のためになると考えるしかなかった。

それはウォートンのクラス討議など子供のお遊びに思えるほど実弾実装の戦闘訓練だった。知識・経験で最高峰にあるKさんを納得させられれば世に怖いものはない。当時は日々飛んでくる彼の銃弾をよけるのに必死だっただけだがそれで力がついたのだろう、何を薦めても無反応で発注皆無だったお客さん達にだんだん認められてきた。そのひとりが前回書いたケンブリッジ大学ダブル首席でリード・ステンハウス社の日本株運用首席デイビッド・パターソンさんだったのだ。彼の頭脳は当然の如く難攻不落で、一見とっつきも悪く、ケンと呼んでもらうのに半年かかったが、そうなってからは商売をしてもらえるようになった。すると先輩方も初めて仲間と認めてくれる。上司のヨイショやソンタクで身が持つのではなく万事が顧客の評価ありきだから極めてまっとうな組織だと思った。

Kさんだけでなく先輩方は皆さん個性あふれるつわもので多士済々である。そこで会社の重要なアカウントであるクェート投資庁、ロスチャイルド、モルガンなどを担当させてもらえることが「一軍選手」「レギュラー」のあかしだ。そこに至るまで2、3年はかかったが、慣れ親しんだ野球チームに似た感覚だった。課は4つあったが部の予算は全員で達成するから誰がその日のヒーローであってもいい。僕のホームランで達成しても大先輩含めて皆が喜んでくれる。逆の日もある。この喜怒哀楽の共有を6年も真剣勝負でやっていたわけだから、当時のメンバーはお互いの実力を熟知しており、今でも結束は固く「ロンドン会」と称していっしょに旅行したりしている(http://「野村ロンドン会」直島旅行)。仲間なんてもんじゃない、まぎれもなく「戦友」。第2の人生で上場企業の社長、役員の座を射止めた人がこのメンバーから5人も輩出されているが、Kさんの薫陶だから全く不思議に思わない(http://僕にとってロンドン?戦場ですね)。僕もその一人だが、それより何より、ソナー・アドバイザーズ株式会社がこのメンバーに出資していただいてできたことこそが人生を決した。同社はまさに「ウォートンから直にロンドンに赴任しろ」というあの嬉しくない辞令が生んだ人脈からできた会社なのだ。

若い方々に申し上げたいが、人脈はこうやってほんの偶然からできる。しかし転校や転勤や友人の紹介や飲み会で出会ったなどという「偶然」は、後に大きな実が成ってから振り返れば「小さなきっかけだったよね」というだけの話であって、何事だって、あなたが両親のもとに生まれたことだって、「偶然」なのだ。「大きな実」が成るには「大きなわけ」があったのである。百万回飲み会に出て偶然を求めてもそれがなければ何も起きないだろう。あると信じて求め続ける蜃気楼の名前が「人脈」なのだ。もっとはっきり言おう、求めるべきは「困ったときに助け合う仲間」なのだ。「コネ」といってもいい。あなたが困った仲間を救える「何ものか」がないと、困ったときに助けてももらえない。助けてもらえない人脈など、お店から来るお義理の年賀状の束みたいなもの。何枚あっても意味がない。「もっと大きなわけ」の正体はその「何ものか」なのである。僕は行きたくなかったロンドンで文句を言わずに6年働き、仲間と経験を共有して自然にそれができた。要するに、与えられた仕事を一生懸命にやったのが良かった。恋なら偶然からそのまま実が成ることはあるが、仕事でそれはまずない。

赴任3年目の1987年、4番打者とはいわないがクリーンアップに入れるぐらいの数字を僕はあげられるようになっていた。パターソンさんやクロウさんのような贔屓筋ができたからに他ならない、すべてはお客さんのおかげで仕事は順調だった。しかし私生活では子供がなかなかできなかった。だからその年に妻からきいた吉報は嬉しく、そこでさっそく、イースト・フィンチリーを出て一軒家に引っ越そうということになる。3階建てのタウンハウスでは階段の上り下りが多くて不安だからだ。クルマも安全第一でボルボに買い換えた。そう言いつつ夏休みは1週間の地中海クルーズに行ってしまっているのだが、そのチケットはアドバイスが成功して利益が出た旅行代理店の経営者が送ってくださったのだった。苦労して築いたお客さんとの人間関係から返すこともできず、会社には買ったことにして行かせていただいたものだ。

コリント海峡を抜ける船上にて

ロンドン~ヴェニスはフライト。そこでラ・パルマというクルーズ船に人生初めて乗りこんでアドリア海を下り、両岸が船幅ぎりぎりに迫る(写真)コリント海峡をしずしずと進んでからアテネを見物してエーゲ海へ出る。魅惑的だ。世界史で習った地名が次々と眼前に現れてわくわくの連続である。トルコに近いロドス島の東岸リンドスまで行って神話を聞きながら巡ったアクロポリスの遺跡の光景は僕の中にラヴェルの「ダフニスとクロエ」を呼び起こし、なぜだかこの地への強烈な憧憬が湧き起こってしまい、また来るぞという気持になった。帰路で寄港したクロアチアのドゥブロヴニクの美しさは衝撃的で、ずっとそこにいたいと思った。数千人は乗っていた船に東洋人の姿は我々しかなく、2か月後に出産予定でお腹の大きい家内はとても目立った。毎日同じテーブルで食事する3組の英国人カップルの皆さんがやさしくしてくれ、素晴らしい時を過ごした。皆さんご主人がリタイアされたご褒美旅行だったが、今は僕がその年齢になっているのだ。

そうこうあって見つけたのがフィンチリー同様にロンドン北部郊外に位置する住宅地ヘンドン・セントラルのこの家だった(左から2番目、奥にそこそこの芝生のガーデンがある)。ミルヒル、ヘンドン、PLというよくプレーするゴルフ場が近いのが魅力だった。引っ越しは87年のはじめあたりまでにしたと思うが覚えてない。同じ都市内で移動したことは後のドイツ、スイス、香港でもあるが、この時は会社の事情でなく出産のためと目的がはっきりしていたから苦痛でなかったのだろう。写真はGoogleにある今の姿だがちっともかわっていないのが感動的でさえある。長女は同年10月に、次女は日本に帰国する直前の1990年5月に英国ロンドン市で生まれ、この家で産湯を使った

ロンドン2番目の家

長女が生まれる直前に、前述のブラックマンデーがあった。その前日にロンドンを季節外れの台風が襲っていて、早朝にクルマで出ようとすると家から見て左にあった大木が道をまたいで根こそぎ倒れていた。写真の向こうの方へは車が行けず手前側に戻ったものだ。そうしたらその昼にニューヨークで株が23%の暴落となり、翌日の日本も蜂の巣をつついたような騒ぎである。僕らは会社で徹夜した。そうしたドタバタの木曜日の朝、妻が陣痛を訴え入院する。やむなくいったん出社して午後に病院に駆けつけた。寝ておらずふらふらだったので病院にお願いして隣の病室のベッドで仮眠させてもらった。誰やら女性の大声で目覚めると看護師さんだ。「何やってんのよ早く早く」と腕をひっぱり、問答無用の出産立ち合いとなる。頭がくらくらして椅子に倒れ込み、ひたすら名前を考えていると看護師さんが笑顔で寄ってきてドーンと娘のだっこになった。この時の重みは今でも腕が覚えている。かけてくれたおめでとうの言葉は ”It’s your daughter.” だ。そうかまだ ” it ”  なのか、はやく名前をつけてあげなくてはと思った。次女、長男の時は東京、ロンドンにいて申し訳なかったが、名前はこれだというのを事前に考えて決定は速かった。長女も次女も義母が来英してくれ、2、3日で妻は退院してこの家で水入らずになった喜びは忘れられない。1990年6月に東京に転勤となってここを去るとき、名残惜しいので庭の出てすぐ左に木を植えてきた。今はどうなっているのだろう。

Kさんは部長になられてたしかその前年に東京に転勤された。僕はボコボコは免れたもののたくさん叱られた。当時は若くて無謀。ある時、Kさんに言われたちょっとしたことでこっちが切れ、掃除用具の入ったロッカーを蹴倒してしまった。それでもついぞ関係が悪くなることがなく、常務になられても変わらず遊んでもらい、僕がスイスの社長になった1997年2月にはふたりでダボス会議に出席して昼夜ともに勉強させていただきスキーまで楽しんだ。最後に品のないカネの話で申しわけないが、証券の世界に身を置いた人間でそれ以外の成功の尺度は国際的にないと思うので感謝をこめて書いておく。ロンドンで彼の指揮下で約3年「頑張った」というより「耐えた」が、だんだんと、「ここでKさんならどうするだろう」と考えるようになった。そうして86年ごろ、今だから書くが、スイスのSBCのロンドン現法が秘密裏に会おうと言ってきて年俸7千万円で来ないかと誘われた。当時31才で破格のオファーだが断った。87年ごろには僕個人のサービスに対してお客さんがくださる月間の売買手数料は2億円ぐらいになった。年間で約20億円、6年で少なくとも100億円は稼いだろうから、僕にかけたウォートンMBA取得費用が1億円としても野村證券は充分にペイしたはずだ。そしてこちらも野村を卒業して億単位もらえるようになったからウインーウイン関係だった。キャリアの最後になって総括するなら、証券マンとして尊敬し一番の影響を受けたのはKさんである。7年上にああいう人がいたのだから野村という会社も凄いと思うし、あれだけ日本人離れした能力の高い人が社長になっていれば今ごろどうなっていただろうとも思う。

写真をGoogleで調べていたらサウスフィールズ44番のこの家が売りに出ていて値段が85万ポンド(約1億3千万円)だった。郊外だから5%として家賃が月50~60万円ぐらいか。香港、ニューヨークほどではないがロンドンの家賃は高い。

(つづく)

我が家の引っ越しヒストリー(4)

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我が家の引っ越しヒストリー(2)

2021 SEP 25 0:00:57 am by 東 賢太郎

1984年の5月、大変にきつかった最後の期末試験と卒論をきりぬけ、全米トップのビジネススクールであるウォートン・スクールのMBA(経営学修士)を取得した。僕はこれを最終学歴として書くべき所に書き、誇りを持っている。政治家がどっかのMBAと履歴書に書いて学歴詐称を問われたケースがあったが、ばれるばれない以前の問題としてMBAというのは日本であんまり勉強もしてないような人が語学留学のノリで取れるような代物ではそもそもないのである。しかし僕も彼らを笑えないことがあった。最後のセメスターで、有名な最難関科目で日本人がこぞって敬遠するIntermediate Accounting(中級会計学)を軽い気持ちで “記念に” 選択してしまったことだ。これはすぐに心底後悔することになった。授業が始まってみると50人のクラスでCPA(公認会計士)が15人もいることがわかり、1割がfail(不可)になる相対評価だから焦った。これを落としたらMBAは取れないという絶体絶命状態だったから試験前の数日間は徹夜で猛勉強し、単位取得発表の前日はへろへろで足腰が立たないのに興奮して眠れもせず、学生生活であれほど恐ろしかったことはない。

ウォートン・スクールのロゴ

なんの自慢にもならないが僕は万事が集中力勝負の人間なので一夜漬けというか直前の追い込み学習は自信があり、大学ではノートを借してくれた友人より成績が良かったりした。それで楽してごまかしてきたが、東大法学部の最後の期末試験とウォートンのこれだけはそんな付け焼刃は木っ端みじんに吹き飛ばされた。いま思えば大馬鹿者というしかないが、単に、どちらも当時考えていたほど甘い学校ではなかったのである。東大では二日連続徹夜(まさに一睡もせず、飯もぬき)で死力の限りを尽くしたはよかったが、あろうことか本番前の朝に力尽きてこたつで寝てしまい、あやうく試験を寝過ごすところだった。あぶないぞと案じていた友達が下宿の窓に小石をぶつけて起こしてくれ、事なきを得た。ただ、たしかその晩だったスビャトスラフ・リヒテルのリサイタルは、東京文化会館まで這うようにして行くには行ったが、席に座った瞬間に熟睡したと思われ一曲も覚えていない。

教室のあるヴァンスホール

ウォートンの生活はどんなだったかと問われれば、人智を超えた巨大物量のアサインメント(宿題)に圧倒され続けた2年間だったと答えるしかない。教科書とバルクパック(副教材)を毎日500頁ぐらいは読まないと教室でついていけない(日本語でやってすら地獄の物量)。たまに挙手して発言しないとクラス・パー

ペン大のキャンパスにて

ティシペーション(クラス討議への参加)で加点されず、ゼロだと単位をくれない先生もいる。それを鉄砲玉のようなアメリカン・イングリッシュでぶちかまされるのだから、ついていくどころか初めの3か月は何を言っているかすらわからなかった。日本人は帰国子女の人も多かったが、こっちは突然に辞令が出てTOEFLとGmatは何とか最低点をパスした程度。受験英語ぐらいでは歯が立たなかったのだ。しかも法学部で習った日本の法律はMBAには屁の役にも立たず、逆にキモである経済学、会計学は大学でやってないのだから参った。集中するため図書館にひきこもり、午前零時の閉館とともにユニバーシティ・ポリスのパトカーに乗ってアパートまで送られたことも何度かある(当時はキャンパスも危険だった)。乗り越えられたのはひとえに火事場の一夜漬けに慣れていたおかげだ。まあMBAの目的には学問の修得だけでなく実際のビジネス現場での即決即断力や胆力の涵養もあろうからそれでよかったと思うことにしている。ちなみに英語は不思議なもので3か月でテレビCMを見ていたらバーンと聞き取れるようになった。3才位で日本のテレビニュースがある日突然バーンとわかったのを思い出し、そこから何とかキャッチアップできた。

タンホイザー

中級会計学の期末試験が終わると、スペイン、スイスに留学した同期がやってきて車でナイヤガラの滝からカナダのモントリオール、ケベック・シティまでドライブした。楽しかったが試験の合否の発表はまだで、気になって生きた心地がしない。ついに2月に合格とわかり、19単位が満了し、晴れてMBA取得が確定した。そうなると遊ぶことしか頭にない。すぐニューヨークへ行きメットで人生初オペラだった「タンホイザー」を聴き、ハーバードにいた東銀の伊藤 (現・一橋大学院教授)の家に泊めてもらって小澤征爾/ボストン響をきいた。母を呼んで3月はワシントンDCへ行きチェコ・フィル、メットでフランシスコ・アライザのモーツァルト「後宮」、4月末に最後のニューヨーク訪問をしてカーネギーホールでアルゲリッチ/デュトワ/モントリオール響でプロコフィエフ3番と幻想交響曲を堪能した。

さて4月に卒業だ。いよいよ東京に戻るぞと引っ越しの荷造りを始めた頃、人事部から部屋に電話が入った。荷物は東京でなくロンドンに送れと言う。頭が真っ白だ。夏休みに勉強はすっぽかして1か月渡欧し、まさか赴任しようとは思ってもいないのでロンドンで記念写真をとりまくってきたワタシなのだ。ショックであり嬉しさはかけらもなかった。しかし人生は分からないものだ、それが6年を過ごすことになるあの素晴らしい英国とのご縁の始まりだったとは。その地で僕は証券業務の何たるかを猛烈に怖い先輩方とウルトラ級に要求の厳しい顧客たちによって骨の髄まで叩きこまれ、人生における最重要の人脈ができ、何が出てきても怖いものがなくなって今がある。この赴任がなければ今の僕の生活は絶対にない。しかもそこでふたりの娘に恵まれ、素晴らしく奥が深い大都市ロンドンを家族で堪能したのだから会社に感謝するしかない。

世界一の教育システムで厳しく鍛えてくれたアメリカは大好きだったが、僕が覚えた英語(米語)はシティのバンカー曰く a sort of English(英語のようなもの)で、「キミ、治した方がいいよ」と訛りみたいに言われ、欧米とは一概にいうが「欧」と「米」には抜きさし難い都鄙観があることを知る。ガーシュインの「パリのアメリカ人」は自虐ネタである。文化面では大いに米国に満ち足りないものがあった僕にとって文化の香りにあふれた英国は砂漠のオアシスだった。一回り年長だが最後は友達になったお客さん(ファンド・マネージャー)のデビッド・パターソン氏とデビッド・クロウ氏は英国の伝統的保守本流のジェントルマンであり、株式運用はもとより、英国風オトナ流儀、アッパーのクイーンズ・イングリッシュ、そしてクラシック鑑賞における僕の師であり、気のおけないコンサートの友でもあった。

ご両人とは東京と京都の会社訪問のお供をした。クロウ氏と立ち寄った美しすぎる紅葉の東福寺や高台寺の旅館でのあれこれなど忘れられない思い出だし、ロンドンでは郊外の広大な別荘に家族で泊りがけで招待して下さり、ご夫妻と素敵なイングリッシュ・ガーデンで食事、お茶、テニスと楽しい時間を過ごした。パターソン氏はアイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学のダブル・トップ(二学部首席卒業)で、英国の頭脳といえる。ただ日本食が子供並みにダメで、京都の料亭で半ば無理やり食べさせたらついに日本食ファンになってくれた。転勤でお別れした3年後のある朝のことだ、僕が野村ドイツの社長になったという知らせをきいてロンドンの彼から突然の電話があった。「今日はいるか?」というや、電光石火でその日のお昼にフランクフルト国際空港までやって来てハグしてくれ、お祝いの本をくれてクイックランチをご一緒すると「会議なんで御免よ」と急いでロンドンに帰られた。こんな人、日本にいるだろうか。僕が英国ファンになったのはこういう深い深い事情があるのだ。

ロンドンで住んだのはイースト・フィンチリーという郊外の静かで小さな町だ。会社のあるバンク駅(シティ)まで地下鉄で40分ぐらいの駅(写真)で、そこから徒歩5分ほどの3階建ての庭付きのタウンハウスを家内と選んだ。米国は留学だけのつもりだったから東京からも生活に必要な荷物を送ったはずで、よく覚えてないが大変だったのだろう。

2010年に再訪した

建物の写真を見て気がついたが、どことなく壁面が最初のフェアファックス・アパートに似ているので気に入ったのかもしれない。さっそくタンノイの中型スピーカーを買い、ほどなくして流行りだした新フォーマットであるCDなるものを聴くためDenonのプレーヤーもそろえ、念願のアップライトピアノもその家にいる時に70万円ぐらいで買った。毎週末に都心に愛車アウディ(オンボロ中古だ)でくり出して必ずイタリアンか中華を食べ、ああフィラデルフィアではこれが恋しかったなあと感慨にふけり、妻とは別行動で僕はソーホーの中古レコード屋と、レ・ミゼラブルが長年かかっていたクイーンズ・シアターの対面の角にあった中古CD屋を漁っていた。僕の厖大なクラシックLP・CDコレクションはここから始まっている。

この家にはアメリカでバーンスタイン、チェリビダッケに会わせてくれたヴァイオリニストの古澤巌がコンクールのため来英して何日か泊まった。オランダのデルフト大学で講義した時に仲良くなった学生たちも、僕の母、家内の両親や親族も泊まった。一人前に所帯を持った気になった思い出の家だ。

1 Oakview Gardens(手前のドア)

事件もあった。空き巣が入ったのだ。1階にあったビデオプレーヤーを盗まれたが、警察の捜査で「侵入路は天井に近い横長の天窓で子供を使った」ことがわかった。なるほどお国物のシャーロック・ホームズみたいだなと思った。しかし痛かったのは機械ではない、挿入しっぱなしだったイングマール・ベルイマン監督の「魔笛」のビデオだ。お気に入りだったこれはロンドンで売っていなかったのである。この家もそうだが、周囲も中産階級のホームタウンというところで雰囲気はとても良かったが記憶があまりない。庭でときどき猫が来たかなというのと、隣の老婦人が「あなたブラームスの1番弾いてたわね」と言ってくれたぐらいだ。当時のピアノはとても下手であり、そういう意味だったかもしれない。覚えているのは、朝の暗いうちに妻に見送られて星を見あげながら駅まで歩いたことと、星を見あげながら日付の変わるころその道を戻って妻に出迎えられたことだけだ。ウォートンの拷問が終わったと思ったら一難去ってまた一難。全社に名が轟く鬼軍曹のK課長が率いる栄光のロンドン株式営業部は、「MBA?あんなのかわいいもんだったよ」と後に僕が語ることになる超絶的激務と人智の及ばぬ強烈プレッシャーがのしかかる “男の仕事場” だったのである。

 

一番手前が我が家

(つづく)

ウォートン留学中にこれがあった

米国人医師に救われた我が家の命脈

世界のうまいもの(その3)-フィラデルフィアのホーギー-

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

我が家の引っ越しヒストリー(3)

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我が家の引っ越しヒストリー(1)

2021 SEP 23 22:22:13 pm by 東 賢太郎

片づけ、掃除、旅行のパッキングには明らかにうまいへたがある。誰でもできると思う人が多数派だろうから、普通にできる多くの人と、とても下手くそな少数の人がいるということかもしれない。どうして自分が下手なのかはわからない。小学校ではボーイスカウトの子供版(カブスカウトという)に入っており、キャンプなど実地で色々教えられたはずだが、それでもだめだった。教室の掃除では女の子に邪魔物あつかいされて苦手意識が焼きつき、そのまんま大人になってしまった感じがある。

ちなみに引っ越しというものは片づけ、掃除、パッキングの複合競技みたいなものである。生まれてこのかたそれを21回も挙行したというのは、だから大変なことだった。はじめの5回は国内移動だったが、結婚して海外へ出てからの16回、とくに子供ができてからの11回は大作業だった。ピアノも12回移動しており家が大きくなるにつれ雪だるま式に荷物が増えてくる。その帰結である今の家ではついに僕のものだけで4部屋分にもなってしまった。しかし偉そうなことは言えない。すべては家内が取り仕切ってくれたからだ。

日本人の生涯の平均引っ越し回数は3.04回(国立社会保障・人口問題研究所、2018年)だから僕はすでに7倍もやったことになる。21回のうち国内は9回で、子供のころ親が引っ越したのが3回、転勤が3回、香港から帰国して借家が2回、ついにマイホームに移ったのが1回だ。日本の移動はどうということはないが、残りの海外12回に尽きぬ苦労と思い出があるのは海外族か商社マンならわかってくれるだろう。転々としたからマルコ・ポーロかジプシーの域である。ちなみにやっぱりそうだったモーツァルトは14回引っ越しをし、人生36年の28%が旅先だったが、僕は36才時点で29%と彼を上回っている。

ここまでの人は海外にもあまりいないが、東インド会社の社員や英国海軍の軍人ならありだろう。アガサ・クリスティーの小説には中東、アジアに赴いた考古学者や軍人がよく出てくるが、あの感じである。植民地がたくさんないとああ自然にはならないが、当時のノムラの海外拠点は当地で圧倒的にドミナントな存在で、言い方は悪いが植民地の司令官みたいなものだった。そのせいか大人になるにつれ僕はだんだん英国人の気質や哲学に共感を覚えるようになった。実体験なのだから気取っているわけではないし、ロンドンに6年いたからというわけでもないのだが、世界各地で長い時間を過ごした五感がそうさせるのかと思う。

さて、本稿は引っ越しのドタバタを主題に海外で住んだ家をふりかえろうというものだ。ひとつの家に長くて2年、つまり1,2年で悪夢の引っ越しになるのだから気ぜわしかったが、今だから書ける楽しみがいっぱいだった。海外に留学したり勤務するとまず不動産屋に頼んで貸し家を自分で探すわけだが、こいつは骨が折れるけれどもエキサイティングな作業なのである。なにせ海外の家はでかい。若いみそらには豪邸で、あちこち見て歩くだけでも楽しい。それを新居に選ぶワクワク感を12回も味わえたんだからジプシー万歳だ。

シェアルームにて

始めは留学である。当時、野村證券には留学は単身者のみという規則があったが、辞令が出てから人事部に無断で結婚してしまった。さんざん部長に叱られ「いいな、おまえ、許してやるけど半年は単身で行くんだぞ」と厳命され(注)、仕方なく学生寮でアメリカ人とルームシェアする羽目になった。部屋は壁で分かれていたがドアがなくカーテンだ。相棒はハーバード卒の秀才でいい奴だったが女を連れこむのにはまいった。しかもこっちは片づけ、掃除の劣等生でベッド以外は滅茶苦茶。自炊など到底無理で栄養失調気味である。英語はわからんし勉強は地獄で、こりゃかなわんということで秘密裏に3か月で家内を呼んでしまった。

つまり再び人事部長命令を破ったことになるが、情報が漏れていたかどうかはともかくお咎めはなかった。そこでまず夫婦用の学生寮であるグラッドタワーに移った。しかしいまひとつ代り映えせず、さらに引っ越したのが学校に近いローカスト・ストリートにあるフェアファックスというアパートである(写真)。百年たってそうなおんぼろだったが中庭があるのが良かった。10階建てのレンガのファサードは立派で、10階の景色の良い角部屋があいていた。これが趣味に合った。映画で見知ってあこがれたアメリカの住まいは大いに気に入ったのである。この写真、当時とかわってない、40年も前なのに今そこにいるようだ。ここが東家のスタートになったことは子孫には伝えておかねばならない。

Fairfax Apartments

なにせマックが買えないぐらい生活は劇貧状態だったが、さっそく家内と古道具屋で100ドルの品の悪いガラステーブルやランプを思い切って買ったりした。それが高級品に見えていたのだ。思えば部屋のお隣さんはメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズの末裔のお嬢さんだったし、そう安アパートというわけでもなかったかもしれないが。近くのアクメというスーパーで買い物し、週末は教会の黒人霊歌で目がさめ、家内の作る日本食を目あてにクラスメートがガヤガヤ集まって酒宴となる。現・日本産業パートナーズ社長である畏友・馬上英実(当時

古澤巌

は興銀)はじめメキシコ、インド、ケニア、スイスの連中など国際色豊かであり、ゲームで盛りあがり僕がギターでビートルズを歌いまくった。仲良しだったヴァイオリニストの古澤巌も我が家の常連でこの家でモーツァルトの3番の協奏曲を弾いてもらっている。とにかく、若かった。卒業してここを去るときに、荷物を送りだしてがらんとしたリビングがとても寂しかったのを覚えている。

 

(注)「いいな、おまえ、許してやるけど半年は単身で行くんだぞ」

こう言われて会社に送り出され、家族、友人たちが成田で見送ってくれ、最初に入ったのがコロラド大学のエコノミック・インスティテュート(語学学校)だ。そこで早々に予期せぬ大事件がおこる。それがこれであった。

野村證券・外村副社長からの電話

我が家の引っ越しヒストリー(2)

 

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河野発言の「天皇の存在と日本語」について

2021 SEP 16 17:17:47 pm by 東 賢太郎

総裁候補の河野太郎が「日本を日本たらしめているものは何かと問われれば、私は天皇の存在と日本語だと答えます」と公式サイトに書いている。彼の最終学歴はジョージタウン大学卒業だが、この発言が出るだけで「なんちゃってアメリカ留学のチャラ男」との格段のモノの違いを感じる。良い意味で日本人じゃないものまで身につけていると思われるからだ。

「日本人じゃない」と「日本的じゃない」は異なる。カタカナ言葉でフリをする西洋かぶれが後者。ただのカブキ者である。前者は思考回路にいたる話であって、英語を少々かじればなれるというものでない。言語は思考回路なので、英語の使い手になれば西洋的な回路の人に近くなる。英語ペラペラ、そんなものはない。そういう風に見える人はそれがわかってない、それだけのことである。

使い手になって日本に帰ってくると、知らず知らず日本人にはあれっというところが出る。すると「変人」といわれる。99%の日本人は群れて生きており、群れの保全のため異分子は排除するから仕方ない。「群れ」の変化語が「村」であり、村社会では同質性を確認し合うため同調圧力がある。それがいじめ問題になり自粛警察にも忖度にもなり、自民党の総裁選のドタバタにもなるのである。

ということは逆も真で、日本語の使い手になれば外国人でも日本的な回路の人になる。それで天皇への敬意を具有すれば日本人が出来上がる。河野発言は思うにそういう意味で、現に “日本的な” 外人はテレビで何人もが好感を得ている。しかし彼らは国籍が日本でないからという理由ではなく、靖国参拝はしないし君が代は歌わないし「天皇」の部分は欠けるから日本人ではない。

16年海外から日本を眺めて、日本人になるのは大変だと思った。日本語人になれば仕草も日本風になりいい塩梅に同調もでき、田舎の爺ちゃん婆ちゃんの目にも「いい人」になれる。しかし日本でそれが大事なのは個性や人権の尊重でなく村の保全のためでしかない。だから村の精神的支柱である天皇への敬意は要件であり、これを求められると改宗に近いからほとんどの外国人には難儀だろう。

「日本語と天皇」という国の個性を薄めても日本が存続するだろうか?という視点は海外生活を長くして西洋的な回路になった日本人は大なり小なり持つと思う。自国を相対化して観る眼が生まれる。それは日本が滅んでも世界は何ら困らないことを知るからだ。その危機感から、日本にいた頃より愛国的になり、右翼と呼ばれる人たちと表面的には似た主張にもなる。総論的にはそれでいい。

しかし帰国して各論になると「人の個性より村の存続」の壁に当たるのだ。夫婦同姓は長らく村の掟だから守る。同性婚は和を乱す。そしてその統合的象徴である天皇は男系というオーセンティシティを守れ。そうなる。困るのは西洋回路人になると個の尊重が大事と思うようになり、それの終点である民主主義と、村の存続の終点である日本国の存続とが自分の中で乖離してくることなのだ。

実はそれはアジアすべての国の抱える矛盾でもある。それを謳わないと地球を支配する西洋序列に入れない。キリスト教国家の軍事力が優位で、その宗教的価値観による序列だから存続には改宗か服従しかない。前者で蹂躙・同化され滅んだ文明は数多あるから後者を選択する。それに必須な「衣装」が民主主義による法治国家という体裁の確立であり、その急ごしらえバージョンが明治政府だった。

しかし非西洋のイスラム教国の民主主義はもっと衣装でしかなく、パレスチナ、アフガンを見るまでもなく対立軸であり続けるだろう。西洋の軍事的優位を覆す戦略の中国はいずれそれも脱ぎ捨てる日が来るかもしれない。その隣りで日本が平穏無事に生き延びる道は、蹂躙・同化されぬ尊厳を身にまとい、一定の経済力・軍事力を持つこと以外に客観的に存在しないのではなかろうか。

明治の元勲が幕末動乱の制約下で国家存続の選択をして倒幕した。お蔭で日本は国になり民族は生きながらえた。天皇ありきの王政復古なくして廃藩置県も廃刀令もなかった。徳川慶喜は幕府の存続・尊重の原理を捨て、日本という島の住民の命を守ったことにはなる。それが国家と呼ばれ結局は西洋と戦火を交えて破れはするが、それでもあそこで植民地化していれば我々の今はなかった。

いま自民党総裁選を見て古い体質だというが、あれは日本国の縮図である。投票という民主主義メソッドを借りて村の存続を図っているだけで、精神は江戸時代と違わない。彼らを選んだ国民も江戸時代と変わっていないのである。村は長老が治めて村民の命運を握り、いちいち村民に子細な説明などしない。菅さんはその意味でとても村の長老的な総理であった。

いま自民党で起きていることは村長の交代か、せいぜい若返りでしかない。内在的エネルギーによるレジーム破壊ではなく、「すぐ総選挙だ」という外圧が事を動かしているに過ぎない。コロナと五輪で国民の怒りが見えた時に、僕は戦前なら二・二六事件かなと、そういうきな臭さの発端ぐらいを嗅いだが、そのエネルギーは横浜市長選で往時の千分の一ほど垣間見えたが些細なもので終わった。

くりかえすが、日本が未来に平穏無事に生き延びる道は、蹂躙・同化されぬ尊厳を身にまとい、一定の経済力・軍事力を持つこと以外にない。①尊厳は天皇・皇室の存在・維持、そして②強靭な経済成長力と国富③相手の行動を抑止する最低限の軍事力だ。河野は②が弱い。法人減税で再分配促進は結構だがマクロの視点の経済政策が見えない所に再分配率なる言葉が出るのは違和感がある。30年株が上がってない唯一の先進国をどうやって成長させるの?ということだ。

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昭和的思考をぶっ壊した大谷翔平

2021 JUL 9 13:13:48 pm by 東 賢太郎

大谷翔平が高く高く翔んでいる。メジャーで活躍した日本人選手は何人もいるが大谷は一味違う。体格も見劣りしないし成績も破格だが、そういうフィジカルな事ではない。あそこまでメジャーリーガーにあっけらかんと同化した選手はいなかったという意味で、僕の目にはとても新しく、すがすがしく写るのだ。

英語をペラペラ操るわけでないのに愛され方が半端でない。野茂もイチローも松井も図抜けた野球選手だったが、あっ日本人が混じってやってるな、頑張ってるなという感じがあった。それが大谷にはまるでないのである。アメリカ人になりきっていて、観る方だって日本人として誇らしいという感情を超えている。

彼の性格の良さも大いにあるが、やはり二刀流だろう。渡米の年に「投手はやめた方がいい」と書いたし今でもそう思っているが、懸念は吹っ飛ばした。「エースで4番」は全ての野球少年の夢だ、否定するすべはない。最高峰まで昇りつめてそれが叶ったのは世界にベーブルースと大谷だけ。尊敬されるのは当然だ。

そんなことを考えたのも、アメリカ人のフェアな素晴らしさに何度かジーンときたことがあったせいだ。特に、たかが野球、されど野球だ。あの国で野球をやったことない男子はまずいない。昭和の日本もだったが、到底その比ではない。だから野球をすれば何国人であれ、男にも女にも認めてもらえたと思う。

ニューヨークの企業対抗野球大会。アメリカ人たちとのチームワークは一生忘れない。5番を打った。高校では6番だったから ”エースで4番” 気分を何となく味わえたのはこの時だけだ。大会45チームのMVPに選ばれたから運もあって、子孫に何で記憶して欲しいかというとこの受賞だ。我が人生のぶっちぎりNo1だ。

色々思い出がある。名捕手で名リードしてくれたドン。ただ、カーブのサインでミットを左右にビシッと構えられるのが困った。あの球はタイミングを狂わすドロップで曲がりは計算しない。そこでお願いして全部ド真ん中に構えてもらい、無視してぜんぶ彼の顔をめがけて投げたら面白いほどうまくいった。

練習でチームメートがあの球はなんだ?とカーブの握りをききにくる。5本の指で深めにベタに握って親指と人差し指の間から抜く。抜き具合はアバウト。直球もスピンのかけ具合で伸びが変わる。球種は2つでも多種になる。これで草野球レベルならぜんぜん打たれない。試合でやってみせたらみな激賞してくれた。

ああして野球少年に帰ったら日本人もへったくれもない。僕もタイムリーを打ってくれたアンディやトムをぶっ叩いてやった。こうやって初出場だったチームは準決勝まで勝ち進み、知らぬまに誇り高い日米連合軍となり、comradery(戦友)という言葉を教わった。自衛官になってもやってけたかもなあと思った。

大谷に戻る。オールスターでオリックス・仰木彬監督の「ピッチャー、イチロー」のコールに「打者(松井秀喜)に失礼だ」と代打に投手高津で応酬したノムさん。もしそうなら大谷は投手にも打者にも失礼ということになってしまう。最高峰の選手にそれこそ失礼だ。こういう思考はとっても昭和的で狭隘だと思う。

大谷に「投手はやめた方がいい」と思うのは、自分が高2で肩を壊して投手人生を断たれてしまったからだ。昭和思考ではない。高校野球の投手がプロの打者を打ち取ったら「失礼だ」なんてどう考えてもおかしいし、このエピソードはノムさんほどの知恵者でも昭和思考から抜け出せなかった、根深いぞという教訓だ。

日本の政治はお見事なほどに、セピア色の写真みたいに “昭和” 一色である。そんなことをしているうちに国はどんどん世界に遅れてしまう。敏感でなくてはいけない企業すら、もう遅れ始めている。やがて世論は鎖国に傾くだろう。そこで焦っても遅い。また御一新をめざすことになるが、その先は暗いと思う。

東京五輪。なんともいえない不毛の悲しさが漂う。僕は世間の反対派の一員ではない。でもコロナに勝つ確率ゼロという “科学” は世界の誰にも変えられない。五輪があってもなくてもゼロ。「負けでも万歳突撃だ」と昭和思考むき出しで進む光景は戦争から何も学習していない姿と写る。そう思ってなくてもそう写る。

どこか明治維新の前の「ええじゃないか」騒動に似てきた。あれは民衆だったがいまや政府が追いこまれてやってる。それ見て民衆も「ええじゃないか」と街に踊り出る。まずい。開催中の宣言発出は致命傷だと早々に飲食が犠牲になる。協力金に税金が投入され、みんな五輪のせいだと選手にまで怒りが向いかねない。

もう今回は国民の生活も気持ちも持たないだろう。金メダル幾つ取ったでどうなるものでない不幸なスパイラルが歴史に刻まれる。僕は野球で育ち、野球で子孫に覚えておいて欲しいという人間だ。スポーツが政治や金銭欲のネタになる愚行はこれでもう勘弁していただきたい。政権にもIOCにも等しくそう言いたい。

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飲み会を絶対に断る男

2021 MAR 3 1:01:46 am by 東 賢太郎

証券会社から銀行に移籍してなるほどこれは違うと思ったものがある。母体が銀行といってもやってる業務は証券だ、ここでそれということは本丸では相当な差があろうかというもの。飲み会だ。

銀行員と証券マンは違う。「東くん、君らはファンファーレから入るけどね、僕らはお葬式から入るんだ」と教えてくれた役員さんは、証券マンほどお葬式の翌日から入る人種はないことをご存じなく証券業に入られたという意味でとても銀行員だった。各所で飲み会をしていただいて有難かったが、商売や人生の基本原理がまるで別物だから犬の集会に猫が一匹まじったみたいなものである。

「いいネクタイですね」。猫は毛の色まで珍しい。お酌をくれながら「野村だと毎日でしょ?」「いや、僕は年3回ぐらいですかね」。シーンとなる。大学で全優だったんだろうなという感じの女性からおそるおそる「あのう、ニバンゾコって何ですか」とあさっての質問が飛んでくる。「チャートで二番目の底です。僕もよく知らないんですよ、何の意味あるのか」。禅問答が10秒で終わる。まあこんな塩梅であんまり酔いが回らない。それなりの酒宴の在り方は面白くはあったがネクタイはちまきの宴会部長は1年待っても出てこないだろう。

驚いたのはそれだけでないが、もっと驚いたのは、「そんなものはいいんだ、ここは証券会社だ、そのために来てもらったんだから君の好きなようにやってくれ」といわれたことだ。後に社長になられる横尾常務(当時)だ。これを男冥利といわずしてなんだろう。31年サラリーマンをやって一番高揚感を覚えたのはこの時だ。自分をほめてもいけないが、モチベーションが上がると猫が豹に変って気がつくと自分でも信じ難い結果が出てしまっていることが幾度かあった。この時もそれだ。

そういわれたからといって証券流飲み会を決行したわけではない。なぜなら興味がない。若いころ盛大にしていたのは仲間と群れる時間が潤滑油として必要だったからだが、麻雀がわりのカジノと土日のゴルフの方がずっと多かった。それをここでやるわけにもいかず、結局120名の部下とは仕事現場でのつきあいだけで潤滑油はなし、しかしそれでうまく歯車が回ってしまうのだから銀行の組織力は大したものだと感嘆した。野村の組織力も強いが、人的つながりに依存するのでどうしてもプライベートで腹を割っておく必要があった。

サービス業でなく研究者のような就職をしていたら良かったと時々考えることがある。理系だったら本性のまんま「飲み会を絶対に断る男」で通して楽だった気もする。しかしそっちの世界はもっとヨイショが必要だよという声もあるので上司の不興を買って討ち死にしてた可能性も高かろう。たまたま入ってしまった証券界で生き延びたということは本性をかなぐり捨てて妥協してきたからである。そして、ということは「飲み会を絶対に断らない女」とあんまり変わらないのではないかという結論に至ってしまうのである。

総務省No2まで昇りつめた山田真貴子氏は「断らない女」を妥協というより功利で積極的に演じたのではないか。それはそれで生き抜くための立派な戦術だ。サラリーマン道では僕より一枚も二枚もうわてな人なのだろう、何事であれ達人には敬意を払うポリシーだから悪いという含意はないつもりだが、しかし、自分の人生もそれだったとなると全く認め難いものがある。妥協していたのは認めるが、野村から出たのはそれをもう一切しないという決断であり、そんなことをせずとも力だけで評価してくれたみずほ証券には心よりの感謝しかなく、もちろんその力を涵養してくれた野村は棺桶に入るまで「我が母校」である。

おかげ様でいまや「飲み会を絶対に断る男」にすっきりさっぱりと回帰し、達人の仕事をしてくれる部下、仲間たちと楽しくやっている。敵味方なくファインプレーが出れば達人だねえと愛でる、仕事でも趣味でも完全にそういう人間に生まれついていたのだということが自分でよく分かってきた。達人だなあと思う中身は年齢とともに変わっていくことはあるが、あの誰も抑えられなかった王貞治選手をワンポイントで三振にとる大羽進投手は凄いと小2でカープファンになった素地はそのまま三つ子の魂である。

だから、これからのビジネスもそうなのだと考えている。長年白人と仕事し、白人社会で生活してきた。でもそれが三つ子の魂ではない。そのことはスイスから異動になって香港チェクラップコク国際空港に家族と降り立った時、不意の衝撃として天啓の如く悟ることとなった。空港の雑踏でもみくちゃにされて周囲を見渡すと、みな髪の毛が黒いということだ。当たり前ではないかと笑われようが、まるで別な惑星で異星人の集団に取り囲まれたような気分に陥っていた。しかも、鏡を覗けば何のことないそこに写る自分はその異星人なのだ。不思議の国のアリスが目が覚めたとき、きっとこんな気分だったにちがいない。

そんなばかな、大袈裟なと思うかたには、少なくともまず欧米のお好きな国で14年の歳月を過ごしていただき、ある日突然の電話で「次は香港に2年半住みなさい」と有無を言わさず命令されていただく必要があるだろう。ノムラ・インターナショナル・香港のでっかい社長室に次々と押しかけてくる人達にそんな気分を微塵も悟られぬよう注意を払いつつ、何日かはアリス状態から頭が切りかわらない。さらにもう幾日かを経て、恥ずかしながら初めて悟ったことといえば、いかに自分から日本人目線が抜け落ちてしまっていたかということ、そして、日本人が東洋人の一部だという意識のかけらもなくボ~っと生きてきたのかということだった。

三つ子の魂は日本にあるに決まっている。しかし自分は東洋人だから香港です~っと吸い取り紙にインクが浸みこむみたいに受け入れてもらい、500人の部下とパイチュウで倒れるまでカンペーカンペーの飲み会をする必要もなく長年そこにいたかのように仕事ができた。中国や韓国やベトナムのビジネス慣行はとんでもなく違っていて失敗もしたが、東洋人という最大公約数から糸をたぐっていくうち何がなぜどう違っているかが分かってきた。日本人だって、東京人の僕に大阪の文化は驚天動地だったじゃないか。この発見は非常におおきい。なぜなら証券ビジネスという心理の機微や綾が非常に重要な要素を占めるものにおいて、飲み会や大宴会よりそっちの理解の方が実は部下やお客さんには本音で望まれていたことのように思うからだ。

不思議なもので、コロナで禁止されると飲み会やりたいなあと思ってる自分がいる。なんてあまのじゃくにできてるんだろう。「断る人は二度と誘われません。幸運にめぐり合う機会も減っていきます。多くのものに出会うチャンスを、愚直に広げていってほしい」(山田真貴子広報官)。いいこと言うなあ、やった人しか言えない、ビジネスを志す人は耳の穴かっぽじって聞きなさい、まさしくその通りなのである。男だ女だなんか関係ない、そのぐらいの覚悟と犠牲がないとNo2まで昇るのは到底むりだ。7万円が高いか安いかは接待する側がおもんぱかるもので、出てしまった饗応を断るすべはない。もったいなかったね、行ってしまったのがまずかったですな。

ところで、若い人にそう言いつつ、僕はもうそういう幸運やチャンスはいらない。ときに何の話題がなくても一緒に酔っ払ってくれる人は大事だったんだなあと思う今日この頃だ。

 

飲み会を絶対に断らない女

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飲み会を絶対に断らない女

2021 FEB 25 23:23:22 pm by 東 賢太郎

まったく記憶がないが、母親に芸大に行きたいと言ったことがあるらしい。あんなに音楽が好きなら行かせてやればよかったわと妻が茶飲み話にきいたのを最近きいたというややこしい話で、いいよといえば行けたと思っているとても世間知らずな家庭だったということでもある。

銀座で音大卒の子に男女比は2:8でしたときいて頭がくらくらした。大学のクラスは50人いて女子ゼロであり、そこまで共学だった僕としては野郎だけの宇宙船で月面に不時着したみたいな気がしたものだ。あそこに女子がいたら?いやもういるだけで間違いなくモテただろう。とすると、その逆である音大は?

そんなある日、サントリーホールでのことだ。舞台を黒装束で埋めつくすオーケストラをぼんやり眺めながら、なにやら釈然とせぬものが頭をよぎった。男のが多いじゃないか・・・。この事実に対する釈然とする説明には出会ったことがない。2:8の母集団から任意に8:2の集団を得る確率は非常に低いのだ。

「あっ、オケは入れません、難関です、欠員が出ないと」音大卒の子は平然と言った。それを埋めるオーディションに百人も来るという。そうか。とするとほぼすべての楽器において男の方がうまいということになる。それはないだろう、変じゃないか?なんか差別でもあるの?

どこかの医大の入試で男子の点数にゲタをはかせていたことがあった。あれはあれで理由があったと聞くが、オケにも業界の裏事情でもあるのだろうか。男は食うために必死で女を蹴落としてるのだろうか、それとも学校や先生や先輩のコネをつたって理事会や幹部に接待攻勢でもかましてるのだろうか?

こういう話になると、多くのサラリーマンの脳裏をよぎる言葉がある。「つきあい」だ。「あいつはつきあいがいい」、こんなんで出世が決まるんだぜ日本は。ロンドンのパブでそういったら「ボス、じゃ俺は夜に出勤するぜ」とオカマっぽいのが乾杯してきた。バカそっちじゃねえ。それ以来、社内でツ・キ・ア・イは英語になったが僕はカンパニーと言ったらしい。

「おい行くぞ、カンパニー」の一言で5,6人ツキアイが集まる身分になったのは課長になってからだ。まずソーホーでささっと中華飯を食い、リッツホテルのカジノにくり出す。じゃあ明日な、で帰宅すると2時ぐらいだ。「明日な」とは8時にゴルフのティーオフするから来いという意味である。問答無用であったため、実はここで出世は決まっていなかったが。

女子の総合職が初めて入ってきて、そのカルチャーは少しだけ変化したが、初めて本社勤務で帰国した僕は大いに面食らった。当時の野村の下士官クラスは僕のような野蛮な男ばかりだ、きくと同期もみんな女性様の扱いにそれなりに苦労していて、課の飲み会は必ずやさしい笑顔と猫撫で声で「行く?」とお伺いをたて、断られない努力をしていた。

しかし女子も野村に入ってくるのはタフだった。超高学歴で英語ネイティブだがお高くとまらず、飲み会を皆勤して男を手玉にとる人が現れるのは時間の問題であったのだ。みなの前で誘って「いたしません」されては新米課長は格好がつかない。飲み会を絶対に断らない女は時に神で頭が上がらず、こうなると学生時代の大事な四年間を月面で過ごした弱みはあなどれなくなってくる。

多くの女性と働いてきたが、みなこっちがどれだけ会社で大変か知っているのは楽ではある。しかしアフター5は口も滑らかだし、皆勤賞だと組織の構図を色々読めてしまうだろう。勘の冴えた女性だと意見を聞いてみたくもなるがこっちも品定めされてるかもしれない。幸い僕は良い人ばかりに恵まれたが、まあ色んな書けない話があった。大企業のポリティックスはジャングルみたいなもんで何が飛んでくるかわからない。真面目な男性のみなさん、脇が甘いのは禁物だ。

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バイデンが隠しトランプが暴き出す秘密

2020 DEC 12 19:19:46 pm by 東 賢太郎

(1)ウォーターゲート事件について

いま米国で大統領選をめぐって起きていることの深層にあると噂されるものが真実なら、このごたごたはいずれ世界史の教科書に載るでしょう。どんなふうに載るかなと考えますと、僕が高校2年の時に世界を騒然とさせたこの事件がどうしても頭に浮かんでくるのです。

ホワイトハウスが編集した筆記録の提出を公表するニクソン大統領 1974年4月29日

簡単にまとめると、1972年の大統領選の予備選挙のさなかに、アメリカ民主党本部に5人の男が盗聴器を取り付けるため侵入して逮捕されます。はじめはコソ泥事件あつかいで11月の大統領選挙には何ら影響せず、共和党のニクソン大統領が再選を果たします。

ところが、大統領自身が関与していることが内部から暴露され、その証拠となる「録音テープ」をめぐり、もみ消し工作、CIA、FBIの介入、司法への介入、大統領特権発動など007さながらの攻防戦がくり広げられ、ウソが発覚したニクソンは米国史上初めて現職大統領として辞任に追い込まれたという事件です。

要は、選挙で怪しい事をやってバレれば当選してもクビという前例なのです。

今回は決定的に違うことがあります。ニクソンを追い込んだのはワシントン・ポストの2人の記者でした。CIA、FBIも協力し、暴いた秘密を紙面で公表し、ニクソン=悪玉の世論ができたことで辞任せざるを得なくなったのです。

対して今は、悪事を指摘しているのは現職の大統領です。マスコミは敵方であって、「トランプ=悪玉」の世論をあらゆる道具(コロナ、差別)を駆使して作っています。「2人の記者」=「正義の味方」、だったものを、「悪代官のポジショントーク」=「盗人猛々しい」の図式で処理しようという作戦です。

それを熟知するトランプは、まず法廷闘争を仕掛けます。正義を身にまとうためです。できれば時間を稼ぎ、裁判は受理されないようにします。不十分な証拠で敗訴すると判決が確定するからです。

1月6日までのどこかで部分的戒厳令のようなものを出し、軍の監視下で郵便投票数えなおしを要求します。ドミニオンの機械なしでです。バイデンが拒否すれば世論は反転します。

数えて負けてもOKです。不正の証拠を固めてバイデン大統領、ハリス副大統領を刑事告発して辞任に追い込めばいいのです。トランプとペンスは既に(12月7日)ウィスコンシン州巡回裁判所にバイデン、ハリスを告訴しています。

以上は僕の憶測にすぎません。自分ならそうやるかなあということです。そして、もしそうなれば、予言したとおり世界史の教科書に載るでしょう。それもウォーターゲートよりでっかい太字でね。いま、バイデンサイドはもちろん最高裁もビビってるでしょう。それだけは勘弁してくれ、俺にタマを渡さないでくれと。ひょっとして、最悪のことですが、Too big, to judge.で逃げを打つかもしれない。まあそうなったらアメリカは民主主義どころじゃない、国家ごと崩壊です。テロを心配します。テキサス州が最高裁に起こした訴訟に賛成した18州と反対の22州は内戦状態になるかもしれません。

 

これほどの事件の進捗が日本ではぜんぜん報道されません。怖くてできない大人の事情は分かりますがほぼ脳死状態といっていい。マスコミがどう判断してどういう末路になろうと構わないが、日本人は真実を知ってインテリジェンスを持つ必要があるし、その権利もあります。そこで本稿で私見から4つのyoutubeビデオを選び、論評いたします。僕は論者でなく単なるキュレーターの立場であり、クラシック音楽CDのリコメンデーションと同じという理解でお読みいただければ幸いです。

 

(2)日本のマスコミについて

選挙直前までバイデン優勢一色だった日本のマスコミは、11月3日の開票速報を見て、にわかに「トランプ圧勝ムード」に振れました。ところが日本時間で4日未明に、謎の「バイデン逆転満塁ホームラン」が出るのです。翌朝、某局のワイドショーは、特ダネ級に盛り上がったトランプ旋風の報道は「なかったことに」で、東京のどっかに出た猿のニュースを延々とやってる。ニューヨークに電話して、戻ってきたらまだ猿やってる。

僕は大学3年から下宿して、テレビは買いませんでした。つまり2年間見なかったわけで、見たくて親元に帰ったのはドリフの「8時だよ全員集合」だけです。海外にいた16年間も、そもそもやってないので見ようがありません。ちなみに、僕は世捨て人ではなく世界の先端情報がないと商売にならない証券マンです。ということは、要するに、日本のテレビは不要なのです。若い人は、そんなもの見るヒマがあったら本を読むかモーツァルトでもきくことです。

 

(3)米国のマスコミについて

海外で見ていたのはBBC、CNN、CNBCなどです。昔はそれなりの情報量と品質がありました。ところが、今回の大統領選で不測の事実が発覚します。米国のほとんどのメディアが「ウソも百回言えばホント」は本当だと経験的に理解させてくれる膨大なウソと無視を垂れ流し、CNNの社長が朝会で「トランプをディスれ!」と幹部に命令した声が録音されてネットで全世界に放映されてしまった。この “万人がびっくり” の事件をどの社も報道しない事実は、視聴者目線の「ニュース・バリュー」という放送の尺度が、放送者の利害関係という尺度によって殲滅されており、実は我が国の戦時中のごとき報道管制が敷かれている事実を指し示します。

米国がマーケティング国家であることは書きました。手法として、ケチャップを売るのも大統領候補者を売るのも同じなのです(ちなみに僕はハインツのファン)。そのツールがテレビCMです。商品の中身よりイメージを売るのです。中身はカス、イメージはウソで構いません。CMを百回流せば売れるからです。だから選挙はカネの戦いになります。バイデンはトランプの3倍のカネを選挙戦に投入しました。自己資金でまかなったトランプと違い、バイデン家にそんなカネはありません。ではどこから降って来たのでしょう。国家の根幹である州知事や最高裁判事でさえカネで買える国になり下がった米国で、「PRマンにすぎないマスコミが買えない」と信じるのは、百万円落しても返ってくる善良な国、日本ぐらいです。

 

(4)SNSというメディアについて

SNSは玉石混交ですが、なるべく多くを視聴することで偏向や誤謬の修正をかけて見れば真実の輪郭ぐらいはつかめます。日本でかけらも報道されない12月2日のシドニー・パウエル弁護士の演説のようなものもあります。この人はトランプ弁護団の一員ではありません。「法の正義」を体を張って守ろうという意志は国籍は関係なく伝わるし、米国の危機は民主主義の危機だということも理解できるでしょう。正義は他人事でも、大統領選挙が日本の国防にとっては我が事であることをどれだけの日本人がわかっているのでしょうか。

ネットのプラットフォームは報道管制カルテルの一味であるGAFAなどSNS運営会社の所有物だから米国の通信品位法230条を根拠とする「投稿削除」が横行し、トランプ寄りのサイトは一種の魔女狩りにあっています。先週からいよいよyoutubeもそれを始めましたから本稿に引用したビデオも消滅するかもしれません。しかし、報道しない自由で世論操作するテレビとの最大の違いは、ネット世界では「消せば消すほど炎上」という法則があることです。なぜ放送しないという不作為が、言論の自由侵害すれすれの削除という作為に転化し始めたか、人々は裏の事情を推察するようになりました。

しかし、彼らはマーケティングというビジネス・スクールで教える原理に従っているのですから、ウソつきだと一刀両断に切り捨てるのは知的な態度ではありません。それは、かつて日テレが「巨人ファンを増やせ」の社是で放送していた地上波ナイター中継とおんなじだと理解すればいいのです。巨人軍にソンタクする解説者しか呼ばない。巨人のプレーは大げさに褒める。監督も選手も人柄まで持ち上げる。負けても明日が楽しみですねという。不祥事はなかったことにする。それに見合うスター選手をそろえ、常勝というフィクションの目標を課し、うまくいかないと監督をコロコロ替えて目くらましする。そして、相手チームは戦いを盛り上げるヒール扱い。この社是に則って昭和時代から粛々と放送を続けた結果、巨人ファンにも飽きられて消えていったのです。

 

(5)中国の介入について

横山光輝の名著

トランプが敵と明言したため中国人が悪いと短絡的に思う人もいますが、それも知識人の取る態度ではありません。中国という国は重層的な国家で、よって中国人という概念も一枚岩ではないからです。国を出て自由主義国に居住する中国系知識人の言説はyoutubeでたくさん見ることができますが、米国の権力相関図に中共が関与する経緯を詳しく解き明かしています。それが介入であり悪事だと説く人は三国志を知らないのでしょう(まあトランプやポンぺオは読んでねえだろう)。大統領選の民主党候補にもなったカリフォルニア州のエリック・スウォルウェル下院議員をずぶずぶにしていた中共の美女スパイ・ファンファンが時の人になってますが、ハニートラップなぞ1600年前の『兵法三十六計』の第三十一計に美人計」と書いてある。そんなもの中国人にとって常識なのです。呉を滅ばした西施や、董卓をハメて殺した貂蝉などそれで歴史に名を遺した女もいて、2千年も前からそれをやってた連中がけしからんなどナンセンスの極み。知らないアメリカ人が無学なだけです。youtubeの書き手はみなアンチ中共であり(あたりまえだ、諸葛孔明が仕掛ける前に作戦など明かすはずがない)、是非はともかくバイアスがあることには違いありませんから除去して視聴する必要がありますが、日本が米国の軍事同盟国である以上彼らのSNSは知っておくべきソースとして僕は常時チェックしています。

中共の昨今の諸々の行動への是非論を主義主張、感情でとらえるのは個々人の自由ですが、まず、イデオロギーを除去して原理的に理解してみようというのが僕の常日頃変わらぬスタンスです。人間は2種類いて、何かニュースを聞いた時、「誰が言ったの?」を聞く人と聞かない人です。「ああ、あいつか、じゃあ信用できないね」となったりするのが前者で、日本人は欧米人中国人と比べこれ(レッテル判断)が非常に多いと思います。僕は後者であり、まずニュースの含意、そして是非を考えます。次に誰が?(ソース)を尋ねます。ソースは是非のノイズにすぎないという処理です。この方が大事な情報を取りこぼす確率は低いというのが経験則です。

大統領選のすったもんだのケースでいいますと、古来より天の道を信じる「中華思想」とは、AKB48のセンター争いといっしょで、中国皇帝が世界の中心」でなくてはならないのです。「中心(センター)は地球に一つしかない」ですから、原理原則の帰結として、「神は一人しかいない」とする一神教の米国と真っ向から対立する運命にあるのです。

中国が経済力を蓄えいよいよその時が来たというのが僕のシンプルな理解です。その蓄財の契機となったのは2001年の中国のWTO加盟であり、野村金融経済研究所の部長当時より「中国ビッグバン仮説」として今日の姿を予測して参りましたから、昨日今日の思いつきではございません。また、その予測はその後の人生をかけた決断の根拠となり財も得られたという意味で、それを裏切らなかった中共のポリシーの一貫性については良くも悪くも大したものだという気持はあります。反民主的行為への途惑いは大いにあるものの、それとこれとは別な事です。

米中のどっちの言い分が正しい、どっちが正義だという争いに日本が参加しても、目下の両者との国力差からして意味ある位置をとる可能性はほぼゼロで、勝てない戦いをする意味はありません。センターのパシリのトップ(上級奴隷)の地位をとるのではなく、むしろAKB48には加わらず、どっちに転んでも必要不可欠とされ続ける道を王道と知ることが子孫に残さなくてはいけない我が世代のインテリジェンスであると僕は固く信じます。そして、それは圧倒的な経済力(金儲けの力)、交渉力(騙してでも言いくるめる力)、そして許容される最大限の軍事力(ケンカに強い)しかありません。こういう子は学校でいじめられないのは子供でも分かることで、同時に、どれも役所の理屈から出てくる力ではありません。この歴史的に重要な文脈の中で首相になられた菅さんは多分それを知る人と思います、その確立を天命と思って頑張っていただくしかありません。

 

(6)米国が社会主義国になる時代について

バイデン陣営が「トランプの狂気から民主主義を取り戻す」と主張すれば、トランプ陣営は「バイデンは米国を社会主義化する売国奴」という。1980年代、僕が留学したころに「コーラ戦争」というものがあって、コカ・コーラとペプシが相手を名指しのテレビCM合戦を展開したのを思い出します。バイデンの主張はそのレベルですが、トランプはそうでないと思います。彼はすでに米国に社会主義が巣食っており、中共がまずはカネで、やがてはイデオロギーで浸食する妖怪であると暴き立てています。しかし、テレビしか見てない人はそんなことあるわけないだろうと思い、バイデンがまともな人に見えるのです。

「弱者を救います」であるはずの社会主義者と強欲・金儲けの権化であるウォール・ストリート(WS)が結託してるなんて信じ難い。でも人種差別をなくします、科学を尊重してコロナ対策をしっかりやりますというリベラルに響く部分と社会主義は矛盾なく聞こえ、それをメディアが声高に宣伝し、その選挙資金はWSが面倒みる。ならばいいじゃないかとなり、民衆の支持を得るのだから民主主義でしょ、しかも公正な選挙で選んでるしとなるのです。しかし、選挙資金は中国からも出ていて、それが妙な機械に回っていて、それを堂々と導入して票を改竄したりいかさまを隠蔽したりで「毒饅頭(まんじゅう)」が飛び交い、盛大な八百長試合が行われていたとなればどうでしょう。

選挙不正があったというニュースはSNSでしか得られませんから真偽の確証はありません。どんなにもっともらしくても、そっちだってウソかもしれないと疑念の種を常に持っておく心のバランスは重要です。それがないと、米中どっちが勝とうとフレキシブルに生き残るしなやかさが失われるからです。生き残ったのは強者の恐竜でなく、柔軟に環境適応した哺乳類なのです。

しかし、仮にいかさまがあったとするなら、ここだけは個人的なステートメントを述べておきますが、絶対に許し難い。拙ブログをフォローしていただいている皆様は、僕が「ウソ、ヤラセ、なりすましが大嫌い」であり、STAP細胞事件、論文改竄事件、食品偽装事件、にせベートーベン事件、司法試験問題漏洩事件、公文書改竄事件など、どれほどボロカスに書いたかご存じです。正義の味方を気取っているのではなく、単に、生まれつき、心底、大嫌いなのです。

本件についても、アメリカ政治への関心ではなく、もしそうなら許さんぞという怒りから書く動機が発しています。

ただ、一個人が吼えたところでどうなるものでもなく、また、中共の奸計に易々と篭絡されている米国も救いがたい低レベルに没落しているのであって、トランプが再選しようとしまいともう遅いでしょう。したがって、我々が目撃しているかような事態は「所与の条件」と思うしかない。お天気だと理解し、晴れなら晴れで、雨なら雨で、より良い一日になるよう対処していくしかないでしょう。

「米国に中共DNAが入り込み、リベラルに寄生して民主主義の殻をかぶった社会主義国家をつくる」というSFかホラーかというストーリーが所与の条件とは俄かに信じ難いことですが、あり得ないことではない。その説明は、駿台予備校の世界史の講師であられる茂木誠氏のこれで一発で気持ちよく分かります。

こんなこと危なくて文科省にソンタクする学校は言えないが予備校は言える。面白いですね。テレビとネットの関係と見事に相似形です。僕もこれで頭の整理ができました。自分はどう考えてもリベラルな人間なのですが、どう考えても左翼ではない。しかも、ウォール・ストリート・ビジネスのど真ん中で40年も生きてきています。そして、菅官房長官には批判的でしたが菅首相はすんなり受け入れてる。あれ、僕は何者なんだろう?と自分で驚くのです。そのぐらい、世の中は捻じれつつあるのです。

なるほど茂木氏の座標軸に照らせば、僕は19世紀的リベラルで米国開拓民的リバタリアンに近く、それは草の根保守と同居して現代の共和党の一部を成しており、だからショーペンハウエル的啓蒙思想とベーコンの英国経験論に共鳴し、革命家モーツァルト好きであると同時にオールド・ノスタルジーのルロイ・アンダーソンのフリークでもあり、政治家はサッチャーを尊敬し、安倍首相と真逆である菅首相の自助と小さな政府がとりあえずのところ気にいったのです。これだけ一気通貫で説明がつけば、氏の説は数学的帰納法的に正しいのだと思うしかございません。

 

(7)自分の座標軸というものについて

毎日世界のインフォメーションの洪水に晒されていますと知らず知らず「ウソも百回言えばホント」の妖術にかかってしまいます。すると理性が曲がってしまうのでニュースの真贋が見抜けず、騙されて大損する危険が出てくるか、それが怖くて何もしない人生で終わるかとなりかねません。負けないことを旨とする僕にはあり得ないことです。だから、身を守るために一定の座標軸を自分で作り上げることが必須なのです。それができれば自分のインテリジェンスとなり、それに従って、自己責任で大事な決断ができるようになります。それでも失敗はしますが、どのぐらい外れたか定量的に感知することができるのでリベンジの失敗確率は減ります。

その判断を他人任せにするのはダメです。最低です。たとえば、「上がる株を教えてください」というようなものです。そんなものがあるはずないでしょう?仮にあってもタダで教えるはずないでしょう?教えますよというのは100%詐欺師なのです。だから、他人任せの人は大なり小なり詐欺師に騙されて、しかもそれに気づかないで生きることになります。気づいたところで居酒屋で悪口いうぐらいです。だから自分の座標軸を持ちなさいというのです。

以下、僕なりのスタンスで書きます。たとえば、これは中国人の方のサイトです。これを盲目的に信じるのでもなく、何が真実かをえぐり出すための座標軸を学ぶのです。思考回路といってもいい。天を見ている民族ならではの動的、原理主義的かつ明晰な発想と思いますし、自分に元からある思考回路と違和感ないなあとも感じます。そうやって検証しながら、自分の座標軸らしきものを見つけ、磨いていくのです。

ちなみにこれは茂木氏の言説に通じるのがお判りでしょう。彼が駿台で人気講師と聞くと日本の未来に少し安心します。こういう発想ができる人は日本人にはほとんどいませんが、欧米人、中国人には当たり前のようにいます。僕は留学と勤務経験で年月をかけて知ったのですが、いまやそうしなくても家でSNSで10分で学べるのは大変なアドバンテージです。

張楊氏の番組は何本か見ましたが情報の質が高く、読み込みや洞察が深く、要するに頭が物凄く切れますね。ここから学ぶことはたくさんありますが、翻ればこういう人が中共幹部にたくさんいるのだろうからマスの力として米国を転覆させるほどのことができて何ら不思議でないという恐ろしさも体感します。

面白いものはまだいくつもあります。自分で見つけてください。

 

(8)僕はどうやって座標軸を作ったかについて

19世紀的リベラル人間であることが座標軸の根幹をなしている僕ですが、意識してそうなったわけではありません。両親は特にそういう傾向はなく、先生や先輩・友人など誰かに吹き込まれた記憶もありません。19世紀の日本にその思想はありませんから、要は外来種であって、どこでそうなったかは未だわかりません。若いころ衝動的に米国に行ったことから遺伝的な素地はあったと思われ、16年海外に住んでいるうちに学んだというよりも空気を吸ってそうなったとさえ思われます。

その意味で、米国で2年間教育を受けたこと、そして2年半香港で「香港居民」のビザを持ったことは、その空気の中でも大きな影響があったものです。米国のリベラルな空気は素晴らしい物でした。今回の選挙で話題となっている民主党の牙城フィラデルフィアだったというのもありましょう。しかし、住んでみてリベラリズムという意味で最も衝撃を受けたのは、どの西欧の都市でもなく香港だったのです。向上心ある者にとって、見上げた空は「青天井」。こんなイメージで心底ワクワクさせられたという点で、香港に勝る処はなかったと断言できます。

そのワクワク経験がなければ25年いた野村を辞める大決断など到底できなかったでしょう。だから、それが座標軸の大枠を作ったと思います。商人の街で超リベラルな大阪(20代前半)、智の経験のアメリカ(20代後半)、動の体験の香港(40代半ば)。これが3本柱でした。奇しくも日米中。いまとなると理想的なトライアングルですがそれは結果論で、社命で行かされてどれも大変な苦労をした処ばかりです。座標軸はインテリジェンスです。インフォメーションからは絶対にできません。だからなるべく若いうちに体験して悩み、もがき苦しんだ方がいい。そうすれば必ず座標軸が見えてきます。汗の中からしか出て来ないのです。空気を吸うとはそういう意味です。

 

(9)失敗からしか生まれないインテリジェンスについて

最後に重たい経験をした香港について書きます。僕はブログを回想からしか書けません。もう済んだ話だからです。昔話は自慢話です。人間の記憶回路には気持ち良いメモリーだけ残りますからどうしてもそうなります。そんなもので若者の大事な時間を奪う気はありません。うまく行った話は汎用性がありませんから、うまくいかなかった話、失敗談を書きます。

香港にチューリヒから赴任したのは1997年12月。世界的事件だった香港返還の5か月後でした。混乱と停滞と一縷の光明の中で多くの香港人、中国人の政府関係者、民間人と接点を持ち、Nomura International (Hong Kong) Ltd.の新任社長として毎日情報を吹き込まれました。それまで欧米派だったので香港どころかアジアの事情もよく知らなかったのです。しかし油ののった42才でしたし、証券業務のプロという自信はみなぎっており、役員会で50億円の予算をもらって新規事業を立ち上げました。

性格は慎重なので1か月かけてあらゆる角度から関係者の話を聞き、収益性の検討を重ねました。信頼できるスタッフもそろい、できないはずはないと自信がありました。しかし、その時、すでに株式のブローカー業務収益は手数料自由化で陰りが出ていたのです。それは世界の時流でもちろん承知はしていましたが、前年にダボス会議に出席して「アジアの時代」と吹き込まれており、アジア株だけはそれが及ばないと考えたのです。「経営に希望的観測は入れるな」は今の座標軸なのですが、この経験からそれができました。ということは、当時、それはなかったのです。

まずかったのは、僕が大物の英国人COOとぶち上げた計画を社内で止める人がいなかったことです。反対者がいても当時の僕が耳を貸す可能性はゼロでした。それほどの覚悟で香港に赴任したからであり、少なくとも自分では「野村の株式業務のエース」を自負していたからです。俺がマウンドあがったんだガタガタ言うなという気迫で、謙虚であればもらえていただろう意見やアドバイスが一切もらえなかった。そうして退路を断ってうまく行ったという成功体験に絶対の自信があったのです。成功は失敗の母であることを知りました。

結果、赤字が続きます。どう頑張っても単月黒字が2度あっただけで、外人社員相手に怒鳴るわけにもいかず気が荒れてすさんだ毎日を送り、眠れぬ夜が続きました。僕は全アジア拠点を統括するアジア株式業務部門長でしたが、野村香港の社長でもあったのです。物理的キャパとして相当無理がかさみ、他部門も収益状況は苦しくストレスは倍加しました。メンタルの強さ。これも絶対的自信がありました。ところが、ある日突然にパニック障害の症状に襲われたのです。鼻呼吸ができず窒息する恐怖で一ヶ所にじっとしていられず歩き回ってしまい、今度はそれが会議中出たらどうしようという恐怖に連鎖します。飛行機が怖くなり東京出張は船で行こうと真剣に調べました。立場上、それは秘書にも言えないのでこっそりと自分でです。

自分がメンタルに陥落するなどということは想像すらしたことがなく、業務というよりもそのことでかつてない「敗北感」のようなものに陥りました。失敗すると10倍返しを狙う性格ですが、この時だけは自分はもうだめだとかなり危険な状態だったと思います。ベートーベンのエロイカの稿でこの曲にいかに共感するか書きましたが、それはこの時の経験があるからです。想像ですが、ドナルド・トランプも会社を3度破綻させてこういう恐怖を味わい復活した。それがメンタルの強さの源泉だろうと思うのです。仕事はそこまで突き詰めてはいけません。自分が崩壊したら終わりなので。鈍感力というかアバウトというか、遊びがないと続きません。これで懲りたので今は体の声を聴くのです。ヤバいと聴けばさっと切り上げて休む。その流儀が身についてパニックは収まりました。

 

(10)東洋と西洋の闘いについて

香港に着任した時、西欧に13年いた僕の目に強烈に焼きついた「東洋」というもの、「東洋人」という自我。これは日本から行った場合とは少し異なっていて、欧米人が初めて香港に来て味わうであろう諸々の驚き、それと同じようなものをリアルに味わっている自分が実は東洋人なのだという奇妙な相対観が芽生えてきて、ここでも「自分は何者なんだろう?」の問いが何日ものあいだ心を去来していました。

いま米中の間でヘゲモニー争奪戦が始まっており、大統領選挙という舞台でバイデンはそれを隠し、トランプがそれを暴き出しました。彼は1月6日に勝っているかもしれないし、負けたとしても7千万人の支持は揺るがないのではないでしょうか。それは民主主義にとって救いであることは確かですが、その戦いは明治維新を経て富国強兵の道を進んだ日本国がかつて急先鋒に立った東洋対西洋の争いの延長戦ではないのか?敗戦で日本が西軍に付き、終わったかに見える戦いは本当に終わったのか?という疑問を投げかけるでしょう。東軍である僕は中国を応援すべきなのでしょうか?

 

(こちらへどうぞ)

本音で、DNAのままに音楽を聴くと、こういうことになります。

クラシック徒然草-音楽の好き嫌い-

 

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