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カテゴリー: ______作曲家について

芥川也寸志さんと岩崎宏美さん

2017 FEB 21 1:01:09 am by 東 賢太郎

成城学園初等科にいたのですが、金持ちの坊ちゃんではありません。お嬢で育ったお袋の趣味だったんでしょうがお品が良すぎてなんとなく肌には合わなかったですね。制服が帽子に半ズボンで軟弱っぽくて、公立の子とちがってて嫌だなあと思ってました。あの反動だったんでしょうか、なんちゃって硬派、バンカラ、アンチ・ブルジョアのほうにいってしまい、振ったのがゲバ棒ではなくバットだったのは救いでした。

勉強はした記憶がないというか、僕の勝手解釈によればしなくていい雰囲気であって、クラスも塾に行く者など皆無で考えたこともなし。あまりの出来の悪さを知った親父がエスカレーターは勉強せんし遊び人になりそうだこいつはだめだとなって中学で外を受けさせられてぜんぶ落ちましたが、親父はそのころから東大へ行けと存外なことを言いだして五月祭に連れていかれたりしました。だからなんとなく当然入れるもんと信じこんでました。

そのかわり映画とか劇とか舞踊とか彫塑なんて授業があって、そういうのはとんと興味ありませんでしたがアートは生活のそこらへんにごろごろところがっていて当たり前という感覚にしてくれました。こういうのは文部省指導要領じゃどうしようもない。このあいだ銀座で卒業生の女の子がいて、40才ぐらい後輩とわかり彫塑室の粘土の穴ぐらの描写をしたら「いやだ、それそのまんまですよ~」と、その子も成城っぽい「アートはあって当たり前」感をただよわせながらびっくりして、年の差などものともせず共感しあったりできてしまう。不思議なもんです。

いま思うとまわりはすごかったですよ。ラグビーの松尾兄弟や、3つ下の妹のクラスには歌手の岩崎宏美さんもいました。彼女がスター誕生という番組でデビューしたてのころ食事したりしましたが、あれ、この頃でしたかね、この歌はずいぶんヒットしましたが。

同じ学年の桜組、橘組の父兄には黒澤明さん、三船敏郎さん、東大総長の加藤一郎さんなどがおられ、僕の桂組には芥川也寸志さんがおられました。龍之介の次男で日本を代表する作曲家で家もお邪魔しましたが、当時はY子ちゃんのお父さんというだけで誰だかよくわかってませんでしたね。

成城は学校劇なるものがあり、まあ子供ミュージカルみたいなもんで面白かった。その音楽を芥川さんが作られ指揮もされた。生のオーケストラも指揮者というものも、その時初めて見たのですね、そしてその子供の祭りという劇で主演をして主題歌を歌ったのが岩崎宏美さんで、めちゃくちゃうまいなあと感動した記憶が残ってます。

NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」の音楽は芥川さんでこのメロディーはいまでも鮮烈に覚えてます。えらいかっこいいなあと思ってましたが、調べてみるとこれも昭和39年、東京オリンピックの年の放映だったようで僕は小4です、あのころだったんですね。

Y子ちゃんちは成城の高台で見晴らしの素晴らしい場所にあり、もちろんピアノがあって、子供心に素敵だなあと俺もああいう家に住むぞと憧れました。高台というとバーデンバーデンのブラームスの家も崖の上で、どうも僕の「崖好き」はお二人の作曲家の趣味から来ているようで、いざ自分で建てるとなったときに成城~田園調布を走る国分寺崖線の崖の上ありきになりました。なかなか出てこないので出たら即決で買った。家族は高いと大反対でしたが、三つ子の魂みたいなもんでかなり執念に近かったです。

 

(ことらもどうぞ)

______男の子のカン違いの効用 (6)

我が来し方に響く音楽

 

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ヘンツェ 交響曲第8番(1992/1993)

2017 FEB 19 22:22:44 pm by 東 賢太郎

電車でイヤホンできいてるのはatonal(無調)の曲です。最近はヘンツェなどですね。同時に「ながら」でブログを書いてますから、頭がキリッと冴え喜怒哀楽の感情の波がおきない現代音楽がよいのです。

ハンス・ウェルナー・ヘンツェ(1926-2012)はドイツ人ですがヒトラーにかぶれた父に反抗して育ち、徹底した反ナチズムを標榜してイタリアのローマ近郊に居を構え、共産主義に共鳴しキューバの革命政権を支持してチェ・ゲバラの追悼曲まで書いた。ホモでもありましたから、バーンスタインのいう理想の音楽家、「ホミンテルン」に完璧に適合する人物でありました。

ポスト・ウォーの作曲家として僕はフランスでブーレーズ、ドイツでヘンツェを評価しております。ヘンツェの音楽はしかしブーレーズとは対極的でセリーでも微視的でもなく、多くのオペラ、バレエがあるように劇場で映え、無調ではあるが旋律がきこえ骨太でどこか肉感的です。10曲書いた交響曲はドイツの楽団の音になじみ、音響としてはブラームスの末裔としてとらえられるどっしりとした名曲ぞろいであって、ぜひ広く聴かれることを願ってやみません。

第二次大戦後も母国と絶縁状態にあった彼の活躍の場はイタリア、英国でしたが、ようやく1980年代になって復縁の方向となります。シェークスピアの真夏の夜の夢から発想し1992/1993年に書かれた交響曲第8番は、ベルリンの壁崩壊を経た復縁後の作風としてややラディカルさは後退していますが、60才台半ばの円熟の技法が冴えわたった名品で僕は特に愛好しています。

マルクス・ステンツ指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のこの演奏は驚くばかりの名演で何度聴いても圧倒される稀有な録音として記憶されるでしょう。

この作曲時に我が家はドイツに住んでいたわけで、まさにコンテンポラリーであります。和声はatonalなりにロマンティックであり、旋律性とあいまって独自の美感を確立しています。これは同じドイツ語圏の新ウィーン楽派とは一線を画した世界で僕にとって非常に妖しく魅力的な交響曲なのです。

彼の代表作のひとつ、ピアノ協奏曲「トリスタン」 (1973) (ピアノとテープと管弦楽のための)にはブラームス第1交響曲の冒頭があからさまに引用されます(16分57秒~)が、ヘンツェの交響作品の質感がブラームスに近似性を感じさせる好例としてお聴きいただければと思います。

このところ取り上げるのが現代音楽ばかりになりましたが、音楽=tonal(調性)とは教育の嘘です。我々が聞く99.99%の音楽は調性音楽ですが、それは音楽をする方も聞く方もそういう既成概念の奴隷として育つからで、雅楽であれ長唄であれ江戸時代までの日本に三和音による調性音楽など存在しません。古来よりの日本人の心の耳を開いて聴けば無調音楽にいかに偏見をもって育ったかはご理解いただけると信じます。

ヘンツェの8番。何度もくりかえし聴いていただき、それが信じがたいほど「美しい」というのを知っていただければ幸いです。

 

 

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武満徹 「雨の呪文」 (Rain Spell)

2016 SEP 18 3:03:36 am by 東 賢太郎

そのむかし東大生だったころ、法律の授業に辟易してしばし本郷を抜け出していたことがある。いたのは上野の東京文化会館音楽資料室だ。膨大な枚数のLPがただで聴けるのがありがたく、漁るように現代音楽のレコードを聴きまくった。

現代曲は廉価盤になることはなく、定価の2千円も出してつまらないかもしれない未聴の曲を買うわけにはいかなかった。だから食指が動くかどうか、聴くだけで価値があった。今ならyoutubeで手軽にできることだが、上野は当時は宝の山に見えたものだ。

浪人生のころ、ヒマ?だったのでストラヴィンスキーとバルトークを聴きまくった。それが「三つ子の魂」になったのか、当時モーツァルトというと諳んじていたのはアイネ・クライネぐらいで興味は100%、20世紀音楽に向かっていた。第九交響曲より詩編交響曲の方を先に覚えたのは相当変わり者だろう。

上野で知ったメシアンはこれが強烈だった(メシアン トゥーランガリラ交響曲)。ただ、オンド・マルトノがどうにも苦手であり、オルガン曲とこれの方が気に入っていた。「世の終わりのための四重奏曲」(Quatuor pour la Fin du Temps)である。第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ポーランドの収容所で書いたいわくつきの曲だ。

メシアンの作曲法は 音価、モード、移調の限られた旋法で有名だが、旋法2番はディミニッシュ・コードで3通りしか移調できないのはいわば当たり前であり、だから何か価値があるかというとどうもよくわからない。規則で可能性を縛ると神性に至るという思想はキリスト教的、一神教的、三位一体的で、12音技法も実はそれである。

僕は「春の祭典」にそれがあるとは思わないが、カソリックの人たちはそれでは困るんだろう。この曲がスキャンダルを起こし人心を捕らえてしまった神性の根源として、そこに数学的な秩序(メシアンの音価、モードの秩序)をブーレーズが「発見」したのもまた有名だ。この論文も読んだが、しかし、正直のところそんなに大層なものとも思わない。

僕的には、可能性を縛る(シンプルで強靭な神のルールへの服従)よりも、音素材のディメンションを拡大してスピリチュアルな精神作用である音楽というもののメッセージ伝達の可能性を広げる方法論の方に共感が出てきている。

微分音というものがある。半音を2分割(四分音)、3分割(六分音)、4分割(八分音)などしたものだ。例えば、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番の第1楽章に「四分音」が現れるが、これがその一例だ(12:44から)。

旋法とはオクターヴ12音から順番に音を選びとる際の2音間の間隔の半音と全音の規則性のことである。しかしその素材である12音は平均律に調律されたピアノで演奏される12音である。四分音はそのピアノで弾けないことは言うまでもない。これが「音素材のディメンションの拡大」ということだ。前掲のリゲティらがそれを取り入れている。

「スピリチュアルな精神作用である音楽」という側面を見せてくれるのが、武満徹である。彼はことさらに日本風の音楽を書いたわけではない。しかしそこにあるのは古来より我が国の風景文物に対峙して先祖が磨き上げてきたエッセンスとしての抽象的な美であって、他国のどこのそれとも違う。

この「雨の呪文」(Rain Spell)をお聴きいただきたい。音楽の泉から湧き出る清水のような透明な美は何にもかえがたい。

フルート(アルト・フルート持ち替え)、クラリネット、ハープ、ピアノ、ヴィブラフォンという編成である。そしてこのハープだが、レとシが四分音だけ高く、ラとドとファが四分音だけ低く調弦されているのである(耳を澄ましてお聴きいただきたい)。12音の音素材が拡大しているという点で、これは「世の終わりのための四重奏曲」とは決定的にディメンション(象限)の異なる音楽である。各所に生じる近接和音と四分音の独特のうなりが波紋のような絶妙の効果をあげるのがお分かりだろうか。繊細極まりない和の芸術と思う。

 

クセナキス 「プレアデス」(Pléiades,1979)

 

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R・シュトラウス 歌劇「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」

2016 AUG 7 14:14:04 pm by 東 賢太郎

リオ滞在中のことです。当地企業の方々にお連れいただいたナイトクラブは圧巻でした。何が出てくるかと思いきや、何十人のカリオカの美女がずらっと並んで踊る。バレエじゃない、サンバですね。少々の物事は言葉にしてみようと努力もしますが、あの壮観はギブアップせざるを得ません。

ギター、ピアノ、サックス、ペット、ドラムス、ボンゴみたいな手でたたく様々な打楽器などが、はじめはスローなムード音楽のようなのを奏でています。こっちも酔ってて心地よし。ダンサーたちもそれにあわせて体を動かす程度です。徐々にリズムが乗ってきてアップテンポに。すると踊りも激しさを増してセクシーになっていきます。そしていよいよサンバの激しいアレグロに・・・。

妖艶なものをご想像されましょうが、全くの正反対です。照明は終始煌々と明るく、なにせダンサーの子たちがあっけらかんと底抜けの笑顔で、キャーキャーと陽気である。裸体はまさしく堂々たる威容であり、気恥ずかしげな顔をして目のやり場に困っているのは我ら日本人だけ。もはやスポーティとさえ言え、目など合うとみてみてサインが飛んできたりして、これは見ないと失礼にあたるかという空気におされる。

西洋人の裸体への感情はわからないものがあります。ギリシャ彫刻はみなフリチンだし、紀元前8世紀から1200年続いた古代オリンピックの選手は、もちろん全員が男ですが、平民でも貴族でもことごとく全裸で競技をするという決まりだったのです。理由は諸説あるが、神の似姿という意味があったという説が有力なようです。

では女の裸体のほうは必ずエロティックかというとそうともいえない感性があって、パリで行かれた方も多いと思いますがリドやムーラン・ルージュなどカップルで正装して食事しながら、舞台にはトップレスのダンサーが平気でずらっと現れる。全然なんのこともなし。この「あっけらかん」は日本人には新奇ですらあり、郷に入って郷に従い難い部分を残すのです。

オペラにストリップが出てくるというのもそれと同様に新奇であって、そのもっとも有名なものがR・シュトラウス 歌劇「サロメ」でありましょう。

クラシックがお堅いまじめなものだという日本。教科書が「音楽の父」だなんだと教えるそばから女が裸で踊ったりする。「いかがなものか!」なんて声が飛んできそうです。ベートーベンはモーツァルトを評価したが「コシ・ファン・トゥッテ、あれは淫乱でいかん」と嫌った。日本人が彼を好きなのはそのストイックな性分もあるかもしれません。

ヘロデ王の前で妖艶に舞い、何を所望するかと尋ねる王に「ヨハネの首を」と答えるサロメ(ヘロディアの娘)。これはヘロディアと結婚したい王が邪魔になったヨハネを殺す奸計だったことが新約聖書(福音書)にあります。みな実在の人物とされています。事実は小説より奇なりを地で行く話ではありませんか。

盆にのせて差し出されるヨハネの生首にキスするサロメ。なんとも煽情的な場面であり、そんなことに至るなんて、サロメは王にどんなエロティックな舞いを見せたのだろうと想像をたくましくしてしまうのです。このシーンが戯曲になり、音楽をつけたいと思う者が現れるのは自然でしょう。それがリヒャルト・シュトラウスだったのは幸いでした。

彼が管弦楽を描写的、絵画的に色彩的に鳴らす名匠であることは否定しようがありません。ワーグナーの音楽がすぐれて劇場的であり、ピアノではなく分厚い管弦楽を前提に発想されたと同じ意味でR・シュトラウスも劇場型の音楽家であり、彼の管弦楽曲の作法はハリウッドの映画音楽に大きな影響を与えたとされています。

「7つのヴェールの踊り」は歌劇「サロメ」のハイライトシーンであり、ストリップを芸術的に描いたという意味で古今東西、最右翼。これ以上に格調の高いエロスを僕は知りません。

この音楽は凄まじい。リオのサンバぐらいで目が点になってしまう僕らには発想すらできない、人間の欲望、セクシュアリティの根源のようなものをえぐったものです。

僕はR・シュトラウスの音楽に深みや哲学を感じることはまったくありませんが、彼はそういう人ではなく、音で何か人間という浅はかなもののありのままの姿を描き出すことの職人であって、アルプス交響曲で登山風景と心象を見事に活写したように、ここでは女の妖艶さと観る者の心象を活写するのです。

こちらはアルバニアのオペラハウスのもの。バルカン半島のお土地柄なのか、なんとも雰囲気出てますね、いいですね。ギリシャ、マケドニア、モンテネグロのお隣で目の前に真っ青なアドリア海。こんなところで聴くサロメなんて最高です、行ってみたいですね。

 

R・シュトラウス アルプス交響曲(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

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クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

2015 JAN 20 18:18:13 pm by 東 賢太郎

先日、関東にお住いの方からSMC(西室)当てに長文のメールをいただいて、拝見すると去年11月に書いたこのブログのことでした。

僕がクラシックが好きなわけ

ずいぶん前ですが、「ボレロはセクシーですね」という女性がおられて絶句し、

『こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない』

と書いたのですが、頂戴したのはそれに対しての大変に興味深い論点を含むメールでした。それを読んで考える所がありましたので一部、要旨だけを引用させていただいて、ラヴェルについて少々書いてみたいと思います。メールには、

私もあの・・・中略・・・部分を耳を澄まして聴いてしまいます。東さんの説によると、ボレロに関して私は”何千人の一人”に入ってしまうようです。

とありました。僕の記事を見てデュランのスコアをご覧になったとも書かれていて、とてもうれしく存じます。

先般も「ブーレーズの春の祭典のトランペットに1箇所ミスがある」と、ブーレーズとトランぺッター以外誰も気がつかなかったかもしれないウルトラニッチなことを書いたら、それを探しだしてコメントを下さった方もおられ感動しました。お好きな方はそこまでこだわって聴いているということで、普通の方には別に飯のタネでもないのにずいぶんモノ好きなことと見えるでしょうが、飯より好きとは掛け値なしにそういうものだと思うのです。

ボレロの9番目の部分は倍音成分の多いフレンチホルンにパイプオルガンを模した音色を人為的に合成しようという意図だったと僕は考えております。各音に一定比を乗じたピッチでチェレスタとピッコロを配しているのでそれぞれがホルンの基音の平行移動ということになり、結果的にCとGとEとの複調になっていると思われます。ミヨーと違って複調に根拠、法則性を求めるところがとてもラヴェルだと思います。

こういう「面白い音」はマニアックに探しまくったのでたくさん知ってます。高校時代には米国の作曲家ウォルター・ピストンの書いた教科書である「管弦楽法」が座右の書であり、数学や英語の教科書などよりずっとぼろぼろになってました。これは天文で異色の恒星、バーナード星や白鳥座X-1やぎょしゃ座エプシロンの伴星について物凄く知りたいのと同質のことで、どうしてといわれても原初的に関心があるということで、僕のクラシックレパートリーは実はそういう興味から高校時代に一気にできてきたためにそういうこととは無縁のベートーベンやモーツァルトはずっと後付けなのです。

僕がSMCの発起人としてクラブを作った目的はトップページに書いてある通りですが、そのなかのいちブロガーとして音楽記事を書くきっかけはそれとは別に単純明快で、自分の読みたいものが世の中になかったからです。でもそういうのに関心がある方は何千人に一人ぐらいはいるにちがいないと信じていたので、じゃあ自分で自分の読みたかったものを書いてインターネットの力を借りてお友達を探してみようという動機でした。

こういうのはfacebookや普通のSNSには向いてません。単に昔の知り合いを集めてもこと音楽に関してはしようがないし、こんなニッチな関心事はそれが何かをきちっと説明するだけでも一苦労だからです。でも少なくともその何千人からお二人の方が素晴らしいリアクションを取ってくださった。それだけでも自信になりますし書いてきてよかったと思いました。

ただ日々の統計を見ると多くのビギナーの方も読んでくださっているようで、クラシック音楽は曲も音源も数が膨大ですからワインのビギナーといっしょで入り方をうまくしないとお金と時間の無駄も膨大になるという事実もあります。僕のテーストがいいかどうかは知りませんが、たくさんの英国人、ドイツ人の真のクラシック好きと長年話してきた常識にそってビギナーの方がすんなりと入れる方法論はあるという確信があります。学校で教えない、本にも書いてない、そういうことをお伝えするのはいちブロガーでなくSMCメンバーとしての意識です。

さて、ラヴェルがセクシーかどうか?こんなことはどこにも書いてませんからもう少しお付き合いください。メールに戻りますが、こういうご指摘がありました。

ボレロには、「大人のあか抜けた粋な色香」を強く感じます。ラヴェルは官能性を効果として最初から曲を組み立てる時に計算しているように私には思えてならないです。

これは卓見と思い、大いに考え直すところがございました。本稿はそれを書かせていただいております。

たしかにボレロはバレエとして作曲され、セビリアの酒場で踊り子がだんだん客を夢中にさせるという舞台設定だからむしろ当然にセクシーで徐々にアドレナリンが増してくる音楽でないといけません。それが目的を突き抜けて、踊り子ぬきで音だけでも興奮させるという仕掛けにまで至っているのがいかにも完全主義者ラヴェルなのですが、おっしゃるとおり、それはリズムや曲調に秘められた官能性の効果あってこそと思います。

ドビッシーの牧神や夜想曲もエロスを秘めていますがあれは醸し出された官能美であってセクシーという言葉が当てはまるほど直接的なものではないようです。ところがラヴェルは、ダフニスとクロエの「クロエの嘆願の踊り」(練習番号133)などエロティックですらあって、こんなのを海賊の前で踊ったらかえって危険だろうと心配になるほどです。「醸し出された」なんてものでなく、非常に直截的なものを音が描いている点は印象派という風情とは遠く、リストの交響詩、R・シュトラウスの描写性に近いように思います。

僕はメリザンドの歌が好きですがこれは絵にかいたような不思議ちゃんであって、わけのわからない色気がオブラートに包まれてドガやルノアールの絵のように輪郭がほんわりしてます。かたやクロエはものすごく気品があるいっぽうでものすごくあからさまにセクシーでもあってぼかしがない。音によって描く色香が100万画素ぐらいにピンポイントにクリアであって、その描き方のセンスは神経の先まで怖いぐらいに研ぎ澄まされていると感じます。

ドビッシーとラヴェルはいつも比較され並べて論じられるようですが、作曲家としての資質はまったく違うと思います。彼らが生きて共有した時代、場所、空気、文化というパレットは一緒だからそこに起因する似た部分はありますが、根本的に別々な、いってみれば会話や食事ぐらいはできても友達にはなれないふたりだったように思います。ライバルとして仲が良くなかった、ラヴェルが曲を盗まれたと被害意識を持ったなどエピソードはあるものの、それ以前にケミストリーが合ってなかったでしょう。

これは大きなテーマなのですが核心の部分をズバリといいますと、ドビッシーは徹頭徹尾、発想も感性も男性的であるのに対し、ラヴェルには女性的なものが強くあるということです(あまり下品な単語を使いたくないのでご賢察いただきたい、ラヴェルが結婚しなかった理由はベートーベンとは違うということであり、そういう説は当時から根強くあります)。

東さんはラヴェルのボレロに精緻さを強く感じていらっしゃるのかなと拝察します。
私自身、ラヴェルにドビュッシーとは異なる知的な理性を感じますし、ここがホントに大好きです。ただセクシーであるとも強く感ずるところです。

これがお二人目であり、もう絶句は卒業しました。というより、前述のようにバレエ台本からして、このセクシーであるというご意見のほうが道理なのであります。僕の方が大きく間違っていたのでした。

だから今の関心事はむしろ、どうして僕はそう感じていなかったかです。ピストン先生の教科書の影響もあるでしょうが、僕はラヴェルが自分を隠している「仮面」(知的な理性)の方に見事に引っかかってしまったのではないか。しかし、感受性の強い女性のかたはラヴェルの本性を鋭く見抜いておられたということなのかと拝察する次第です。彼の中の女性の部分は、女性のほうが騙されずに直感するのかもしれないと。

ボレロという曲は仮面が精巧で、僕だけでなく多くの人がきっと騙されてクールな仮面劇だと思って聞いていて、最後に至って興奮に満たされている自分を発見します。心の中に不可思議な矛盾が残る曲ではないでしょうか?これはアガサ・クリスティのミステリーみたいなもので、見事にトリックにひっかかってそりゃないだろと理性の方は文句を言いますが、そこまで騙されれば痛快だということになっている感じがします。

ボレロは「犯人」がわかっているので自ら聴く気はおきないのに、始まってしまうといつも同じ手管で満足させられているという憎たらしい曲です。しかしこの仮面と本性というものはラヴェルのすべての作品に、バランスこそ違え存在している個性かもしれないと思います。ドビッシーにそういう側面は感じません。真っ正直に自分の感性をぶつけて晒しています。ミステリーではなく純文学です。

「海」や「前奏曲集」を聴きたいと思う時、僕は「ドビッシー界」に分け入って彷徨ってみたいと思っていますが、それはブルックナーの森を歩いてみたいという気分と性質的にはそう変わりません。しかしラヴェルを聴く衝動というものは別物であって、万華鏡をのぞくようなもの、原理もわかっているし、実は生命という実体のない嘘の造形の美しさなんですが、それでも騙されてでも楽しんでみたい、そういう時なのです。

ラヴェルが隠しているもの。それは僕の推察ですがエロスだと思います。それを万華鏡の色彩の精巧な仮面が覆っている。万華鏡であるというのは、同じ曲がピアノでも管弦楽でもいいという所に現れます。エロスの多くを語るのは対位法ではなく非常に感覚的に発想され、極限まで磨き抜かれた和声です。ダフニスの冒頭数分、あの古代ギリシャのニンフの祭壇の神秘的ですでに官能を漂わせるアトモスフィアは精緻な管弦楽とアカペラの混成四部合唱によるものですが、ピアノで弾いてみると和声の化学作用の強さというものがよくわかります。

そして始まるダフニス、クロエの踊り。醜魁なドルコンに対比させるまでもなくエロティックであり、ちっともロマンティックでもセンチメンタルでもないのです。これはもはや到底ロマン派とは呼べない、でも印象派とも呼べない、ラヴェル的としか表現の術すらない独自の世界であって、誰もまねができない故に音楽史的に後継者が出なかったという点ではモーツァルトと同様です。

おそらくラヴェルが両親、先祖から受け継いだもののうち対極的である二面が彼の中にあって、それは彼を悩ませたかもしれないし人生を決定づけたものかもしれませんが、いずれにせよ両者の強い対立が衝動を生んで弁証法的解決としてあの音楽になった。あれは女性が書いたポルノであり、だから男には異界のエロティシズムであり、しかもそれを彼の男のほうである科学者のように怜悧な理性が脳神経外科医のような精密な手さばきで小説に仕立てた、そういう存在のように思うのです。

「両手の方のピアノ協奏曲」の第二楽章と「マ・メール・ロアの妖精の園」が大好きで、この世に かくも美しい音楽があるのかしらとも思ってしまいます。

まったく同感でございます。木管が入ってくる部分が特にお好きと書かれていますが、音を初めて出すオーボエにいきなりこんな高い音を出させるなんてアブナイですね。この部分は凍りつくほど美しい、ラヴェル好きは落涙の瞬間と思います。「マ・メール・ロアの妖精の園」は愛奏曲で、終わりの方のレードーシラーソードー ソーファーミドーシーソーは涙なくして弾けません。ここの頭にppと書いたラヴェルの言いたいことが痛いほどわかります。しかしこれはみんな女性の方のラヴェルのように思うんですが・・・。

ということで同じ感性の方がおられるんだ、人生孤独ではないと元気づけられました。こんなにニッチなことで人と人とを結び付けられるインターネットの力を感じました。最高にうれしいメールをありがとうございます。

 

音楽にはツボがある

 

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クラシック徒然草-ベートーベンかベートホーフンか?-

2015 JAN 20 1:01:07 am by 東 賢太郎

ギョーテとは 俺のことかと ゲーテ言い

という川柳があった。Goetheのoeの部分は唇を「ウ」の形にして「エ」と言うと似た音になるドイツ語特有の音だ。日本語にない音が入った人名、地名は困る。ギョーテは本人もびっくりだろうが、ゲーテと書いてあの人の名前ってことにしとこうよというのは妥当な解決だろう。ちなみにドイツ人にゲーテでも通じることはあった。

ゲーテほど難儀ではないのに、原語そのままのカタカナ表記でない物が一般化してしまったものがある。以下、各人の母国語発音をなるべく忠実にカタカナ化してみる(下線部にアクセントをおいて発音する)。

デビュッスィー (ドビッシー、ドビュッシー)                          

ヴェール (ラヴェル、ラベル)                             

ヴァーグナー (ワーグナー、ワグナー)                           

べートホーフン (ベートーベン、ベートーヴェン)                     

メッスィヨン (メシアン)                                       

ドゥヴォジャーク (ドヴォルザーク、ドボルザーク)                    

イクトール・ベルリューズ (エクトル・ベルリオーズ

という具合だ。日本語風ののっぺりした発音では通じない。ベートホーフンは「フ」の後にかすかに「ェ」が聞こえるがベーが強いので書いたように発音した方が通じる。ドゥヴォジャークは「ォ」の後に短く「ㇽ」が聞こえるが日本人はruと母音が入ってしまうので表記のように発音した方がいい。まあ、米国でウォーターがワラだということだ。

ドビッシーをドビュッシーに、ベートーベンをベートーヴェンなんて書くとなんとなく気取ってもっともらしいが、ギョエテかギョーテかというどうでもいい次元の話だ。通じないことに変わりはないからあまり意味はない。

「いやあ今日のベートホーフンは良かったですね」とか「ハヴェールは何がお好きですか」なんていうとキザを通り越して気持ちが悪い。

ゲーテと同じくどれも日本人世界の「符号」にすぎないから僕は何となく使い慣れたもので行くことにしている。ストラビンスキーをストラヴィンスキーと書いてなんでベートーベンなのと思うが、昔からそうしている以外に理由はない。

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は現在は「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」が正式名称で、それはわかっているのだが、僕の中ではそんなのは受け付けられない。松任谷由美って荒井由美のこと?っていう感じだ。だから頑固ですいませんがこれからもACOで行かせていただきます。

 

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クラシック徒然草-ベートーベンと男性ホルモン-

2015 JAN 14 1:01:35 am by 東 賢太郎

またベートーベンですいません。年末から仕事が攻めモードにあるのです。こういうときは、どういうわけかベートーベン漬けになるのが僕の常です。理屈じゃありません、今日はカレーが食いたい、そういうノリです。

もともと彼の音楽に波長が合うというのはあります。ただ聴かないときはまったくご無沙汰にもなります。音楽のバイオリズムといいますか「**期」(ばっかりの時)というのがあって、モーツァルト期、バッハ期、ブラームス期、ラヴェル期など、今ははっきりとベートーベン期がきています。

ロンドン時代は車通勤だったので早朝から「運命」などのカセットを大音量で鳴らしながらの出社でした。証券営業というのは毎日が戦闘モードでしたから軍艦マーチのかわりですね。相乗りされていた先輩がびっくりし、その洗礼のせいでしょうかいまや大変なクラシック通になっておられる。ベートーベン・パワーです。

2010年に会社を作るとき、ロンドンまで資金集めにすっとんで行ったりの大変な日々でしたが、毎日ピアノでエロイカの始めのところをガンガン弾いてました。あれでどれだけ勇気が出たか。スコアを眺めてるだけで元気になるから漢方薬より不思議です。ベートーベン・パワーさまさまです。

モーツァルトは精神をにぎやかに、軽やかに、しなやかにはしてくれますが背中を押してくれる音楽ではありません。ブラームスはいいんですがちょっと女々しいところがまだるっこしい。バッハはああいうときは逆効果ですね、ブルックナーもそうですが敬虔な気持ちになって精神が落ち着いてしまう。チャイコフスキーは禁止です。悲愴なんかきいた日にゃロンドン?飛行機落ちたらどうすんのみたいになっちゃう。

気分を明るくしてほしいならヘンデルでもきいた方がずっといい。ワーグナーも効果あります。でも「背中押し効果」はないんです。これは古今東西、ベートーベンしかない。あくまでこれは僕の感じ方ですが、なんといっても作曲家で一番「男」を感じるのはベートーベンだからです。

それも一度どん底に落ちた男です。そこから意志の力で這い上がる。彼の人生そのものがハイリゲンシュタットの遺書からの復活だし、音楽も暗い楽章からの歓喜の爆発へ、これは株なら「底打ち」ですね。今に見てろの忠臣蔵、健さんのヤクザ物、今なら半沢直樹。倍返し、10倍返しのカタルシス解消エネルギーこそ背中押しの原動力です。

音楽語法がまたごつごつして推進力に満ちて男っぽい。悲愴ソナタ第1楽章のテーマの左手、あのオクターヴでタカタカタカの律動の興奮、ダダダダダダと歩兵の進軍みたいなワルトシュタインの出だし、凱旋将軍の帰還みたいなハンマークラヴィールの出だし。男性ホルモン、テストステロンの勢いで書いたみたいなフレーズ満載です。

冬空のような澄んだ静けさはあってもなよなよ、うじうじはかけらもなし。竹を割ったように直線的で論理的で明快でストレート。中期だけじゃない、枯れたと思われている後期だって大フーガ変ロ長調作品133、あれは女性的とはかけ離れた極北の世界で、女性作曲家が書くかもしれない作品リストの堂々最下位に位置するものでしょう。

だからベートーベンは硬派でダサくて女にモテず薄幸というイメージが強いですがあれは後世の学者の嘘でしょう。「不滅の恋人」って誰?といってすぐ10人も候補名があがってくるわけです。同時期に10人ですよ!われわれのような並の男は羨望こそあれ想像すら及ぶところでございませんこれは。実は女にもてたし完全にプレイボーイの部類です。

ピアノがうまかったのだから当然だろうとよくいわれますが、うまいというのも並みじゃない、書いたハンマークラヴィール・ソナタはその当初は彼以外の誰も弾けなかったというレベルのうまさです。ついにそれを弾けるフランツ・リストというハンガリーの男が現れ、彼はコンサートでたくさんの女性を失神させました。

テレビも映画もない時代のヴィルチュオーゾ・ピアニストは今ならロックスターです。それも彼らはビートルズ、ストーンズ級でしょう。ダサかったというのは、学者や文人が彼を神格化したいがゆえの虚構が多分にあると思います。モーツァルトに続いてこっちの神様までプレイボーじゃまずかったのです。僕はリアリストなんで、そういう嘘は徹底的にぶち壊したくなります。

だけど実際のところ、彼はどの女性とも最後はうまくいかなかった。これもダサかった派の証拠とされます。秀吉と一緒で成り上がり者の貴族女性好きでした。だからいつも身分違いの恋だった。耳のせいで会話もうまくいかなかった。でもそういうことは初めからわかっていますから、それが理由ならカノジョが10人もできるはずないんです。

あんな規格外の音楽を書く人間です。むしろ相当な「変人」でないはずはありません。それも癇癪持ちだ引っ越し魔だ程度の変人ぶりじゃぜんぜん普通すぎます。音楽から見た超人ぶりとはとてもバランスがとれない。ジョン・レノンはヨーコと素っ裸ベッドイン記者会見までするぶっ飛び男でしたがそのぐらい、それでも足りない感じすらします。

そんな、キミ、天才に向かって不敬罪だそれはなんていわれそうですね。僕は逆にそういう人こそ彼の音楽に対する不敬罪に問いたいのです。あれは普通の人間が書く曲じゃありません。だったらその人間性の方も、とてつもなく世の中の平均値からの標準偏差が大きかったと考えることこそ平均的な結論だと思うのです。

モーツァルトはその作品偏差値の高さを「スケベだった」という俗人的エピソードでうまいこと中和して平均値の人々の間で市民権を得るという複雑な回路を経て後世の人気を得ました。ところがベートーベンは中和剤の迫力がない。難聴はむしろ偏差値を高める方向に働いたのは佐村河内事件の示した通りです。

作品偏差値が90もあって中和剤なし。だったらいっそ神様にしてしまおう。そうやって「楽聖」になっちゃった。本人も唖然でしょう。あのモーツァルトが神でも聖人でも父でも母でもありません。でもそれがある意味良かった。モーツァルトは作品の方にもちゃんとしたスポットライトが当たっているように思われるからです。

ところが楽聖のほうはちょっと変なんです。三大ピアノソナタで悲愴、月光、熱情なんてくくりがあります。32のソナタでこの3つが代表だなんて思ってる音楽通はたぶん誰もいないでしょう。ハンマークラヴィールという名称も「作品101以降をそう呼べ」と出版社に指示したから最後の5曲は全部そう呼ぶべきなのになぜか作品106の名前になってる。

第14番、「月光の波に揺らぐ小舟のよう」と、この曲の千分の一も有名でない誰かが言ったというくだらない命名はもちろん作曲者の知る所でありません。マクベスの魔女の宴会の音楽だったとか幽霊が出そうだとかで「幽霊」にされちゃった不幸なピアノ三重奏曲第5番。こんな低次元の「名曲認定JISマーク」に基づいてセンセイはおろか聖人に祭り上げっている。「楽聖」はいらんから曲をちゃんと聞いてくれという彼の声が聞こえてきそうです。

つまり、神になっちゃったベートーベンにいっとき俗人界に降りていただくのはいいとして、それを作品の次元でやるのはやめてくれということがいいたい。そんなことをせずとも、「超人」であった生身の彼は間違いなく「大変人」でもあったはずなので、学者の思い入れや美学は排して素直にそれを認めてあげればいいだけです。

かれは女にモテた、だけど結婚はできなかった。どうしてでしょう。ホモだったかとんでもない性癖があったか。わかりませんが、文科省公認皇室御用達の教条主義でなく、超人にして何でもアリと包容力のあるスタンスで見るべきでしょう。そういう可能性はチャイコフスキー、ブラームス、ブルックナーなどにもあります。

僕はベートーベンの場合はそうではないと思う。なにせジョン・レノンですからね、そんなことで女が逃げるでしょうか。むしろ、だからこそ剛腕の姉さん女房あたりが押さえつけて一気に解決でしょう。ジョンはベッド記者会見につきあってくれて剛腕で賢いヨーコ・オノという女性がいたからのびのびと「超人」でいられたと思います。

女の親が反対したとか女の方がふったとかびっくりして逃げたとか、大変人ですからそういうこともあったでしょうが、あのソナタを書くパワーと情熱で押し切ればどうにでもなったと思うのです。モーツァルトみたいに庶民の娘を選べば何の問題もなかったでしょう。でも結果としてそういうことは起きなかった。

僕の空想は、彼の超絶的な「超人」ぶりにつきあえる女性がいなかったということです。意中の人はたくさんいたんですが、あとで胸に手を当てて考えるとこりゃ成田離婚だな、やっぱりやめとこうと。彼は幸せな結婚より超人であることを選んだ、というよりも、そうでなくては自殺せずに生きてきた意味がないということだったんじゃないでしょうか。

ここで思い浮かぶのはクララ・シューマンです。彼女はすごいですね。シューマンとブラームス、超人二人が参っていたんですから美貌とかそんな程度のもんじゃない。当時ハンマークラヴィール・ソナタが弾けたのはリストと彼女しかいなかったそうです。シューマンは相手の親父と裁判までして娘を勝ち取っています。

ベートーベンにはクララやヨーコが現れなかった。そういうことではないでしょうか。特にどうということもない二番手三番手だったイメージのコンスタンツェも、滅茶苦茶なモーツァルトから離れなかったというのは天才を守ったという意味で天賦の才能ですし、それに彼も満足してた。でもベートーベンはそういう男にもなれなかった。

たしかに一市民としては気の毒ですが、そのおかげで彼はいつも男性ホルモンがドライブする戦闘モードにあってああいう男気質の音楽ができたと僕は思っています。しかも聴覚の喪失でどん底の精神状態を味わってこそ、十倍返しのインパクトの曲が書けた。まさしく「人間万事塞翁が馬」だったのではないでしょうか。

「エリーゼのために」のエリーゼさんと仲睦まじい家庭でも持っていたら?

我々の知る渋面のベートーベンはいなかったのでしょう。甥っ子の面倒は熱心に見ましたからね、子育てにめざめて保育士資格とったかも。よき夫、父親という言葉は彼のバイオグラフィーに加わったでしょうがハンマークラヴィール・ソナタは書かれなかったかもしれません。リストもクララも違う運命になっていたかもしれませんね。

 

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エルガー「エニグマ変奏曲」の謎

2014 DEC 17 18:18:49 pm by 東 賢太郎

最近、体調がベストというわけではなく体重も増えぎみということで人間ドックにいったら、「数値はこれとこれが高めですね、体重を減らせば落ちますよ」で何ということなく終わり。今年は会社の同期が二人も亡くなりショックだったのですが、両人とも健康オタクでした。ドックも気休めだなと思っています。

こうしてブログで昔のことを書いていると、おぎゃあと生まれてこのかた5回目のひつじ年を迎えるまでに、本当にたくさんの方にお目にかかって生きてきたと実感します。そうして、自分は決して一人歩きしてきたわけではなく、人生というものはその方々との様々な人間模様の中において織りなされてきたということも。

「すべてが出会いから起きていますよね」、という高倉健のことばが重い。

もう何があってもおかしくないトシなのだから、もしそれが、その人のことが何か書けれるならば、残したい。そのぐらいのことがたくさんあった。でも、そうしないほうがいいこともある。そういうものをどうしたらいいんだろう?

先日、エドワード・エルガーの「エニグマ変奏曲」の「ニムロッド」という、心にふしぎと刺さってくる音楽をピアノでならしてみて、ふとそんなことを想いました。

この曲には、エルガー夫妻、つまり彼自身および妻のキャロライン・アリス・エルガーと12人の思い出深い人物が次々と変奏曲として描かれるのです(犬が一匹いますが)。各人の名前のイニシャルやニックネームが変奏ごとについていて、どれが誰かおおよそはわかっているようです。妻は第1変奏でC.A.E、エルガーは最後の第14変奏で、夫人が呼ぶ時の愛称E.D.Uと書かれています。

有名な第9変奏のニムロッドはロンドンの楽譜商ノヴェロに勤める3歳下のドイツ男性イェーガーの愛称で、「イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーベンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとした」(Wikipedia)だそうです。

nimrodほんとうでしょうか?

エニグマ(Enigma)は「謎」の意味です。エルガー曰く謎は二つあり、イニシャルの人物が誰かがその一つでしたが、それは解かれてしまったとされます。もう一つは、「この変奏曲は、冒頭に奏される10小節の主題とは別の、実際に演奏されないけれども全曲を通して沈黙の伴奏をつとめている別の主題が隠されている」これは多くの推測をよびましたがいまだに解かれていません。

いや、思うに、永遠に解かれることはないのです。

イニシャルの謎は後世に解かれてもいいもの、つまりフェイク(猫だまし)であり、エルガーが「解かれないままどうしても残したかったもの」は隠された主題にちがいない。書きたいし生きた証として書き残さねばならない、しかし誰にも知られてはならない、いわば「お墓に持っていく秘密」を形にしたのです。

なぜ?これを僕はわかるような気がする。そういう年になったから。SMCにブログの形を借りて僕もいくつか書いている。

エルガーのような頭脳の人がそうしたとするなら、わかる人にだけは本当の謎が解ける、解けないけれど真相を推察はできる秘密の鍵をどこかに残しているのでは?とも思っております。

たとえば第13変奏。「ロマンツァ」とだけあり、イニシャルも愛称もないイレギュラーなフェイクであります。通説では、

メンデルスゾーン演奏会用序曲静かな海と楽しい航海』からの引用楽句が含まれることから、当時オーストラリア大陸に向かって旅立ったメアリ・ライゴン夫人(Lady Mary Lygon)のことか、もしくはかつてのエルガーの婚約者で、1884年ニュージーランドに移民したヘレン・ウィーヴァー(Helen Weaver)のいずれではないかと推測されている」(Wikipedia)

とされているようですが、人類の至宝をコンポーズするような頭脳の人があえて「Enigma」と呼んでいるのだからどうでしょう。それならば他の変奏と平仄を合わせてL.M.LかH.Wとイニシャルを書けばいいのであって、ロマンスがあったことを秘匿したいからそうしなかったとしても現にこうして「推測」されている。そこにわざわざ「ロマンツァ」と追い打ちしてしまうのは愚鈍です。

僕は異説があって、第13変奏のクラリネット・ソロが吹くこれはromanza

シューマンのピアノ協奏曲の冒頭の主題、あのオーボエの主題ではないかと思います。クララの名前の音名CHAA(ドシララ)を夫シューマンが愛情をこめて縫い込んだものです。このクラリネットは長調ですがのちにトロンボーンでちゃんと短調になって出てきます(ヘ短調)。

エニグマ(謎)と呼んだぐらいですから、エルガーが音名の暗号を仕掛けていても不思議ではない。クララが出てくるのを唐突と笑う向きもありましょう、ではエルガー自身である第14変奏に現れるこれはどうか?

第1ヴァイオリンのこれは誰が聞いてもブラームス交響曲第1番第3楽章の、冒頭クラリネット主題のすぐ後に出てくるあの幸福感に満ちたフルートのパッセージでしょう。

その証拠はどこにもないが、ブラームスの第1交響曲を諳んじるほど熟知している脳がここを聴いてあっと思わないほうが不思議であって、またシューマンのピアノ協奏曲のほうもまったく同じであって、エルガーはそういう人に向けて真の謎を問いかけている。

エニグマ変奏曲全体が楽想、色調、オーケストレーションともブラームスの響きに満ちており、これもブラームスの音を熟知している者たちだけの了解の世界ですが、この曲は造りからしても「ハイドンの主題による変奏曲」を非常に意識しているのです。そしてそれは前述の符合を気づかせる舞台装置であると僕は思う。

クララはシューマンの妻ですが、エルガーの妻は第1変奏ですでに出ています。では第13変奏のドシララは妻ではないのか?それともシューマンにならって妻への愛をもう一度おしまいのところで語ったのか?ひっそりとした転調で曲想が変わって出てくるこのフレーズ、回想の中で誰かに愛を語りかけているように聞こえます。自分(第14変奏)のすぐ前に出てくるこの匿名の第13変奏「ロマンツァ」に鍵が隠れていると思います。

そして問題の「ニムロッド」です。音で聴いていただきます。

こんどはオルガン版で。

イェーガーの人格がいくら気高ろうがベートーベンについて論じ合おうが、楽譜商でいくらお世話になっていようが、この音楽がとてもそれを正当化しない、むしろ正体を現してしまっている気がするのです。あまりに良すぎて・・・。

いや、男友達に書いてやったにしてはあまりに良すぎることで、わざと真相を語らせているのではないでしょうか。イェーガーはフェイクに過ぎないと。このニムロッド主題の変奏は第14変奏(エルガー自身)にまで堂々と現れるのです。そこに前述のブラームス1番第3楽章主題が金管に現れ、なんとそれらが絡み合うのであります。何を暗示してるんだろう、それとも僕は考え過ぎなのだろうか?

これはほんとうは誰だったんだろう?

もしそれが書ければぜひ書き残したい。そのぐらい大事だけども、そうしていいことと、そうでないことがある・・・

エルガーはこういう形でそれを書いたのではないでしょうか? それこそが作品中に現われない謎の主題であり、永遠に解かれてはいけない謎であり、その人への愛情と感謝をこめて封印したのではないでしょうか?

 

(補遺、2月15日)

ヴァ―ノン・ハンドリー /  ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

MI0001086489英国音楽というとさっぱりだった大学時代。わかったのは赴任してからと言いたいが、実は去ってからだ。6年のロンドン生活。いろんなことがあった。このLPが僕の最初のエルガーだった。涙が出るほどなつかしい。ハンドリーは英国物の職人指揮者のイメージだが、ロイヤルフェスティバルホールでラフマニノフの第3交響曲を聴いた。良かった。これがエニグマのベストとは思わないが08年に亡くなった彼をしのびたい気持ちもある。欠くことのできない自分史だ。

コリン・デイヴィス / ロンドン交響楽団

41MW3E2EQGL英国演奏家の英国音楽のPhilips録音(65年)。それだけエニグマは国際的な曲ということだ(マーラーだってニューヨークフィルで振っている)。デイヴィスが自国の誇りをこめてこれを演奏したことは想像に難くない。素晴らしい演奏。これで感じるが彼は立派な人柄のオトナの英国人と思う。そう。そういう方に何人もお会いした。教えられ、助けてもいただいた。いけない、エニグマを聴くと、いつも何かが胸にこみ上げてきて感傷的になってしまう。なんていい・・・。

デイヴィスがバイエルン放送SOを振った全曲です。

 

 

 

 

 

 

 

(こちらもどうぞ)

エルガー チェロ協奏曲ホ短調 作品85

フレデリック・ディーリアス 「ブリッグの定期市」

 

 

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クラシック徒然草-なぜクラシックの名曲がもう出てこないのか?-

2014 OCT 23 13:13:17 pm by 東 賢太郎

日本でクラシックコンサートというといつも運命や新世界ばかりやっているように見えます。どうしてそういう閉塞状態になってしまうのか不思議でなりません。感動させる力のある音楽はいくらもあるのにです。さらに理解できないのは運命や新世界のような音楽が新たに作曲されないことです。同じものばかりではいくら名曲とはいえ飽きますし、いくら演奏解釈の差があるといっても新作投入のインパクトに比べれば微々たるものでしょう。

米コロンビアが1928年にシューベルト没後100年記念作曲コンクールをやってアッテルベリの交響曲第6番が優勝しました。聴いてみると調性音楽であり三和音の復権もあるかと思わせるものでしたが残念なことにあまり出来が良いとも思えず、曲と一緒にこの興味深い試みも忘れられました。もしそのコンクールにラフマニノフが交響曲第3番を匿名で応募していたら何が起きたのだろうと想像すると面白いものがあります。

フランクフルトのアルテ・オーパーでエサ・ペッカ・サロネンでしたか、北欧の作曲家の管弦楽曲を世界初演しました。打楽器奏者が赤ん坊のガラガラのお化けみたいのを延々と振りまわし、それに気をとられてそれしか覚えてないのですが、やっと終わったと思ったらみんなそう思ってたんでしょうね、満場のブーイングになってしまいました。拍手はまばらでちょっと気の毒でした。

春の祭典の初演も同じようなものだったのですが、その後あの曲はどうなったんだろうと思います。あれが日本だったらブーはなく3分ぐらいのお義理の拍手はあるんです、きっと。借り物文化の違いですね。この時つくづく思ったのですが、現代音楽と呼ばれるジャンルが大衆とかい離してしまっているのは作曲家、演奏家そして何より我々聴衆にとって大損失なのではないでしょうか。

アマデウス君のような天才は100年は出ませんよとレオポルドにお世辞を言ったのはハイドンですが、100年どころか220年たっても出ていないとされます。しかし本当にそうなのでしょうか。人間のすることで、18-9世紀人のしたことを20世紀人が凌駕はおろか、足元に及んだとすら評価されていないという例はあまりないように思います。

あの作曲家だって才能が認められているはずなんです。もし調性音楽で書けばモーツァルトみたいな名曲を生むかもしれない。でもそれが時代として許されない。シェーンベルグがもし機能和声で書く世の中に生きていればモーツァルト級という評価を得たことはありえたと僕は思います。もしモーツァルトが今生まれていたら?ガラガラでブーイングうけて作曲なんかやめてしまったかもしれません。

クラシック音楽作曲業界の内輪において評価の高い楽曲を作ることは大変な名誉なのでしょうが、我々素人から見るとどこか100手詰みの詰将棋作りみたいで、高段者からすればおおこれは凄いというのがあるのでしょうが我々はわかりません。白熱したへぼ将棋のほうが面白かったりします。

10年後に聴衆に聴かれていないなら英語のクラシックという単語の定義に当てはまらなくなってくると思うのです。100年ぐらい未来になってみたら現象的にはロックやジャズのほうが語義に適合していて、そっちをクラシックと呼ぼうじゃないかという世の中になってるということだってまったく論外の話ではないと考えています。

音楽を産業、ビジネスととらえるかどうかはともかく、国家やパトロンが保護しない資本主義的環境においては聴衆という名の顧客がどうしても必要でしょう。一定水準の聴感覚を持つたくさんの聴衆、そして彼らの感覚で受容できる芸術性を具備した新しいインパクトある音楽の供給、そういう方向に双方が自然に向かうことが作曲家、演奏家、聴衆全員の、いや大げさにいえば人類の幸福になると思うのですがいかがでしょう。

クラシック音楽がクラシックでなくてはいけないという呪縛、これは聴く側ではもうとうの昔に解けているように思います。ネット社会、youtube、i-tunes等の進化がそれを急速に後押ししています。大衆という本来勝手気ままな消費者が、ますます気ままにあらゆるジャンルの音楽を廉価に(あるいはタダで)サーフィンできてしまう世の中です。クラシックだという権威など一顧だにしない世代が聴き手の大半になりつつあります。

それを大衆迎合だ商業主義だとしてしまえば武士は食わねど高楊枝です。業界としてどうあろうが構いませんが、それが才能ある作曲家、例えば19世紀末後期ロマン派の時代に生まれたストラヴィンスキーみたいな人を呪縛してしまうのはもったいない。春の祭典の初演当初にパリの大衆がロシアの新人作曲家に期待していたのはおそらくチャイコフスキーの延長のような曲です。それが当時の呪縛だったといえるでしょう。

しかし表面的にはそうでも実は大衆はそれに飽きてきてもいた。何か劇的に違うものが必要だし、それをぶちこめば当たるかもしれない。こういう事を感知するのをマーケティング・センスというのです。ビジネス感覚以外の何ものでもありません。それを作曲家に求めるのはナンセンスだし、それこそが大衆迎合です。だからそれは別な人間がやる。これは合理性のある分業でありパートナーシップです。ストラヴィンスキーに大衆迎合させなかったからよかったのです。

バレエ・リュスを作ったディアギレフという男の功績はその点で注目に値します。彼自身も音楽を知り尽くしておりR・コルサコフの作曲の弟子でした。一方でビジネスの才に長け、僕は彼のマーケティング・センスはものすごく鋭敏だったと思います。幾多のごたごたはありましたが歴史的評価としては彼のバレエ団はパリで大成功し、そこから春の祭典やダフニスが生まれて人類の財産となっている。バレエ・リュスが先にあったのではありません、彼が創り、彼が死んだらすぐ潰れたのです。彼の事業家能力こそが至宝のごとき数々の名曲を生んだといって過言でないでしょう。

佐村河内事件はもう忘れられましたが、あれはいろいろ考えされられるものがありました。僕はあのヒロシマという曲を一度だけ通して聴いて悪くないと思いました。最後の方で調性的になってハープとホルンが入ってくるところなんかマーラー好きは涙を流して喜んだんじゃないでしょうか。しかし作曲者新垣隆氏いわく、調性音楽など書いたら音楽界ではあいつは堕落した、商業主義に毒されたといわれて生きていけない、だから匿名で楽しんで書いたそうです。

僕がいいたいのは、すぐれた調性音楽を作って聴衆を感動させることのできる才能を持った人は今も世界にいるだろうということです。

しかし、堕落の烙印を覚悟してもし新垣氏が実名であれを発表していたら18万枚も売れただろうか?それはなかったでしょう。佐村河内の全聾が嘘だとマスコミが騒ぐとヒロシマは世の中から抹殺されてしまって誰も文句を言わない。内容で売れたわけではないのです。売り出したレコード会社もヨイショ本を出した出版社も、絶賛していた音楽評論家も、みんな踵を返してそんなことには関わってませんでしたといわんばかりです。

日本というのは本当に変な国です。生まれた動機がおかしいとなると中身は無視されてしまう。ベートーベンの楽曲の価値は彼が耳が聞こえなかったことと何の関係もありません。実は彼は嘘つきであって本当は聴こえていたことが発覚したとしても、それでエロイカ交響曲の価値がびた一文下がるわけではないのです。ゴシップ的に売れた部分は割り引いても、聴いていいと思った人も多いならあの曲は新垣隆作曲として価値なりの評価をすべきでしょう。

18世紀末にヴァルゼック伯爵というアマチュア音楽家が当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを買い取って自分の作品だと偽って発表するというなりすまし行為を行っていました。伯爵の使者が家に来て作品を依頼され、とうとう死神が迎えに来たと思った作曲家がいました。この有名な逸話は作り話くさいのですが、依頼があったのは1964年に事実とされました。作曲家の名はモーツァルト、作品はレクイエムでした。

この事件でヴァルゼックはいかさま野郎だとなって作品が抹殺されることがなかったのは人類にとって幸いでした。それどころか、ヴァルゼック氏のおかげさまで我々はあの天下の名曲を手にしたのです。銅像ぐらい建ててあげたい。僕は佐村河内という人物についてどうこう言う気はありませんが、ヒロシマと呼ばれた交響曲は彼がいなければ世になかったということだけは厳然たる事実です。

ヴァルゼック、佐村河内、背景はぜんぜん違うものの作曲家でない人間が触媒となって曲が生まれたのは一緒です。思い切り善意に解釈すればディアギレフ現象だった。今のクラシック界に運命や新世界を書いていただこうとするならディアギレフみたいな男は歓迎すべきでしょう。隠れて堕落していた新垣氏は作曲界から追放になったのでしょうか?なってもいいじゃないですか、書いた曲が1000年たっても聴かれるなら。

 

クラシック音楽の虚構をぶち壊そう

 

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グローフェ グランド・キャニオン組曲

2014 SEP 5 2:02:13 am by 東 賢太郎

______米国放浪記 

米国放浪記をお読みいただいた方は是非これをお聴きいただきたい。

シカゴのクラシックの楽団でヴァイオリンを弾いていた男が黒人のデキシーランド・ジャズと出会い、その魅力のとりことなる。彼はそれをニューヨークに持ち込みし大ヒットさせる。このバンドが後のビッグ・バンド・ジャズの元となり、スウィング・ジャズへと発展して行く。この男は後に「ジャズ王」と呼ばれるが、本名をポール・ホワイトマンという。

ホワイトマンは低俗とされていた当時のジャズをクラシックと融合しようと図る。そこで、楽譜屋の店頭で学校も行かずにピアノばかり弾いていた24歳の不良に曲を書かせる。不良が18日で書いたピアノ楽譜はホワイトマン楽団のアレンジャーによってピアノとジャズバンド用に編曲され、1924年にニューヨークで初演された。

この初演はストラヴィンスキーやハイフェッツも聴いていてセンセーションとなる。

これがシンフォニック・ジャズの名曲 「ラプソディ・イン・ブルー」 の誕生物語である。不良はいうまでもなくジョージ・ガーシュインであり、アレンジャーがファーデ・グローフェ(Ferde Grofé, 1892年3月27日 – 1972年4月3 日)である。ガーシュインは仕立て屋の息子だったがグローフェは音楽家の息子で、ピアノを始め多くの楽器を弾けた。

グランド・キャニオン組曲(1931)はグローフェの代表作であるどころか、彼の名はほとんどの人にはこれで記憶されているだろうから「名刺代わり」だといえる。

1.日の出

2.    赤い砂漠

3.山道を行く

4.日没

5.豪雨

からなる極めてわかりやすい曲だ。第3曲のロバのポッカポッカをどこかで聞いたことのある人は非常に多いだろう。正直のところ少々軽い極彩色の絵画的音楽であり、ハリウッド的であり、ディズニー映画にも使われた。シリアスな音楽ファンには色モノ扱いされあなどられる傾向がある。ちなみに僕もついこの前までは 「風呂屋のペンキ絵」 と評していた。

ところが、アリゾナ旅行から帰ったばかりの気分になってさっきじっくりと聴きかえしてみると意外にいいではないか。ラヴェルの「ダフニス」、レスピーギの「ローマの祭り」、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」、デュカの「魔法使いの弟子」、ホルストの「惑星」が聴こえる。豪雨がやんだフィナーレのトロンボーンはエロイカ交響曲の最後の高らかなホルン吹奏みたいだ。特に「日の出」は曲想も管弦楽法もいい。アメリカ音楽の良心がいっぱいに詰まっている。何度も聴いてしまった。これはアーサー・フィードラー盤だ。

僕が持っているCDはユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団、レナード・バーンスタイン/ ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、自作自演(ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団)だがどれもいい。オーケストレーションが抜群にうまいのでちゃんとやれば聴けてしまう。オーマンディ盤、バーンスタイン盤はどちらも高性能オケによる文句なしのシンフォニックな名演である。

 

4909346008212僕は自演盤に魅かれている。まず「日の出」が最高に素晴らしい。音楽自体が日の出の陽光と一緒に輝きを高めていく間合いがツボにはまっている。「山道をゆく」のテンポだが、すごく遅い。その後速めに演奏される慣習になってしまったようだが、僕はロバがよろよろと「よいしょ、よいしょ」と歩くこれが好きだ。管楽器のグリッサンドがなんともいえず「リッチ」でユーモラスである。この場所にいた時のあの雰囲気にひたれる。米エヴェレストの誇る35mm磁気フィルム録音(1959年)をSACDにした音は素晴らしくリアルであり文化遺産ものだ。

(補遺、16 June17)

モートン・グールド / ヒズ・オーケストラ

たいへん素晴らしい録音を知った。楽団の実態が不明だが間違いなく一流の団体である。廃盤なので仕方なく、これのためにRCA Living Stereoの 60枚組セットを買った。その価値はある名盤だ。第一曲で日の出が輝きをぐんぐん増して、ついに陽光が燦然と輝く ff をこんなに見事に描ききった演奏はない。1960年2月19日にニューヨークのマンハッタンセンターRCAビクター・ボールルームで行われた録音の優秀さは特筆もので、管弦楽法のイフェクトを様々な録音手法で3トラック・テープに落とし込むRCAエンジニアたちの技術は素晴らしい。モートン・グールドMorton Gould, 1913 – 96)はニューヨーク生まれで7才で作品が出版された神童だった。ルロイ・アンダーソンと同世代で似た畑の作曲家、編曲家、ピアニストだがもう少しポップスに近いイメージがある。悪く言えばアメリカ色丸出しだがジュリアード音楽院卒でクラシックの本流を学んでいるのだから何でもできる。スコアに封じ込められたグランド・キャニオンの威容を音盤から立ち上らせようというグールドとエンジニアの好奇心と執念には敬意を表したい。そういう作品はもはや風呂屋のペンキ絵ではないのである。現代のデジタルなど及びのつかない味わい深さとディテールのクラリティを併せ持った絶品でありクラシック入門はこういう一流の音をPCなどでなくオーディオ装置で味わっていただきたい。そんなちょっとしたことで人生が変わるかもしれない。

(おまけ)モートン・グールドの名はあまり知られていないが、僕の世代の皆さんはきっとこの曲に聞き覚えがあるにちがいない。

グールド作曲「パヴァーヌ」だ。どこで聞いたっけ? そう、シャボン玉ホリデーのBGMだ・・・

いい時代でしたね。

 

(追記)

アメリカ音楽の楽しみをさらに味わいたい方はぜひこちらもお聴きください。

コープランド バレエ音楽「アパラチアの春」

 

 

 

 

 

 

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