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音楽にはツボがある

2017 AUG 27 13:13:45 pm by 東 賢太郎

音楽を聴いて感動するとはどういうことか?これをもう50年近く考えてきたように思う。空気振動という無機質なものから有機的なものを感じるのは不思議で仕方ない。それをいうなら味だって舌の上の無機質な化学現象だ、同じではないかと思われるかもしれないが、味は食材を選別する生きるための知覚だ。動物だって感じてる。しかし音楽は生きるためには不要で、人間だけが知覚できるのだ。

感動は「こころ」で生じる。というより、脳のどこで生じたかわからないので「こころ」という場所をつくって納得している。それは自分自身の有様だから見えない。自分とは鏡に映った顔のことであって、世界でただ一人、自分の顔を直接見ることができない人間は自分なのだ。夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」を雑誌で読んではたと膝を打ったのは、そうか、こころは鏡に映らないが、自分が空っぽになれば見えるかもしれないと思ったからだ。

ところが困ったことに、空になるには僕の場合「音楽に入ってしまう」のがベストの方法なのだ。なんのことない、音楽に響く自分のこころの有様は音楽を聴くとよくわかるぞというどうどうめぐりになってしまうのである。そこで、先祖から授かった心の空間には生まれながらに響きやすい「ある特定の波長」があり、それに共振する音楽だけが深く入ってくる、どうもそう考えるしかなさそうだと思い至った。

どうしてそれがプリセットされてるのか、生存に関わる何のためにか、それはわからない。神はサイコロを振らない(アインシュタイン)なら何か意味があるかもしれないが、未だ人のこころの深奥の闇だ。闇にサーチライトをあてて何も見えないなら、響いてくる空気振動のほうから攻めてみようというのは科学的な態度ではないかと考える。しかも、こころを共振させるエネルギーを与える側は空気分子、つまり即物的な物体だから分析可能である。

高校1年のときそこまで考えたわけではないが、1年分の小遣いほど高かった「春の祭典」のスコアを神保町の輸入書籍店で買った。そして、穴のあくほど、興味ある部分を「調査」した。音楽学者のするアナリーゼの真似事ではない。あれは誰の何の役に立つのかいまだにわからないからまったく興味がない。僕のは物理学者が物質を原子に解体して原子核、電子という物質の最小単位を見つけ、もっと解体できるのではと疑ってさらに小さな単位である陽子と中性子を発見し、陽子・中性子はもっと分解できないかと調べるのによほど近い。

習ったこともないピアノに触りだしたはそこからだ。理由はただ一つ、ラボラトリーの実験器具として必要だったからだ。たとえば「何だこの怪しい音は?」と思った「春の祭典」第2部の冒頭はこころが共振するのを感知した「ツボ」であった。オーケストラスコアは複雑でわからなかったが、ピアノに落とすとこれだけのことだった。なんと便利だろう!

この「ツボ」が自分のこころを掻き立てるのは強力なレシピである「複調」というものの作用あるでことを知った。しかし両親がこんな音楽を聴いていたことはなく、複調を楽しんでいた形跡は皆無だ。ということは、僕の共振は、まさしく両親が生まれる前に由来があるということになるではないか。ここで禅僧の説く「父母未生以前本来の面目」が出てくるのだ。

そして、これが大事なことだが、前回ベルクのソナタの稿で書いた演奏者との超認識的な共感はほとんどが「こころ」にプリセットされた「ツボ」でおこるのである。逆に言うなら、ツボで何も感じてない演奏家は別の惑星の人であって、時間もお金も費消するクラシック音楽でそういう人の演奏に付き合うのはコストパフォーマンスが悪いという結論になる。僕の好みというものは、意識下でのことではあるが、万事そういうプロセスを経てできているということがだんだんわかってきた。深奥の闇にサーチライトがあたってきたのだ。

それなしにどのレコードがいいかと議論するのも時間の費消だ。カネはかからないから暇な人だけに許される大衆娯楽である。皆さん「自動車」といって、唯一絶対の自動車はないから知っているのは実はトヨタでありベンツなのだ。同様に皆さんの「第九」とはカラヤンなりフルトヴェングラーのものだ。ベンツしか知らない人にトヨタの良さを説いても無駄なように、第九はフルトヴェングラーと思い込んでいる人にカラヤンはいいよと言っても難しいだろう。つまり方法論なき批評は白猫、黒猫どっちが好きかと同じであって、大の男がまじめにやるものとは思わない。

具体的にお示しする。第2部冒頭の譜面をどう音化するかはその人の問題だ。楽譜通り淡々とやってもいいが、この部分になみなみならぬ関心と感応度を示し、「こころがふるえている」という特別なメッセージをこめてくる人だっている。僕はピエール・ブーレーズがここの裏でひっそりと鳴るグラン・カッサの皮の張りを緩め、ティンパニとは明確に区別のつくボワンとした音色でやや強めにドロドロドロ・・・とやる、それを聴いて背筋に電流が走ったのを忘れない。

音でお聴きいただきたい、これは高1の時に買って衝撃を受けたそのLPからとった。この後にカセット、米国盤LP、CD2種、SACDなど出たものは片っ端から比べたが、このLPを上回るものはない。譜面の部分は16分53秒からだ。

ブーレーズのこころがこの複調部分で振動し、それを伝えるべくオケの音を操作し、その物理的波長が空であった僕のこころに入り、その空間の固有の波長に共振した、だから僕は電流を感じた、という風に理解できる。

それは僕も彼も、共振する波長をこころの少なくとも一部分に共有していることの証左だろうという推論が合理的に成立するのであって、それだけで彼の指揮したもの、作曲したものは全部聴いてみようというモチベーションに発展する。結果的にそれは正しくて、ブーレーズの指揮したバルトーク、ラヴェル、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクによって僕はさらなる未知の領域へきわめて短時間のうちに一気に辿り着くことができた。僕にとってブーレーズは数学で満点が取れるようにしてくれた駿台の根岸先生みたいなものだ。この春の祭典が嫌いだ、カラヤンの方が好きだ(何らかの確たる理由で)という方もいるだろう。それは先祖伝来のこころの波長が違うのだから必然のことで、そういう方はカラヤンのレコードをどんどん聞けばいいだけだ。

ブラームスの第2交響曲、シューマンのライン交響曲、ラヴェルのダフニスとクロエ、シューマンのピアノ協奏曲など、ブログで演奏につきあれこれ書いた曲はラボラトリーでさんざんピアノ実験済みでチェックポイントが確立していて、例えばブラ2の最後でアッチェレランドする指揮者はブログで全員ばっさり切り捨てている。曲の波長を感知する重要箇所であり、そこをそうしてしまう人の波長には微塵も共振しないからだ。ちなみに、されると一日不愉快だから、ブラ2のライブは絶対にいかない。

こころの波長は十人十色だ、僕の好き嫌いは無視していただきたい。お示ししたいのは結論ではない、プロセスだ。こう鑑賞していくとクラシックは簡単ですよというケーススタディだ。「誰の第九がいいですか?」の類がいただく質問の最上位だ。「それはあなたしか知りません」がお答えで逆に「第九はなぜ好きですか?」「どこがジーンときますか?」と尋ねる。「あそこです」。これが返ってくれば完璧だ。僕になどきかず、ご自分で探すことができる。

 

メシアン「8つの前奏曲」と「おお、聖なる饗宴よ」

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-

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