Sonar Members Club No.1

since September 2012

クラシック徒然草-なぜクラシックの名曲がもう出てこないのか?-

2014 OCT 23 13:13:17 pm by 東 賢太郎

日本でクラシックコンサートというといつも運命や新世界ばかりやっているように見えます。どうしてそういう閉塞状態になってしまうのか不思議でなりません。感動させる力のある音楽はいくらもあるのにです。さらに理解できないのは運命や新世界のような音楽が新たに作曲されないことです。同じものばかりではいくら名曲とはいえ飽きますし、いくら演奏解釈の差があるといっても新作投入のインパクトに比べれば微々たるものでしょう。

米コロンビアが1928年にシューベルト没後100年記念作曲コンクールをやってアッテルベリの交響曲第6番が優勝しました。聴いてみると調性音楽であり三和音の復権もあるかと思わせるものでしたが残念なことにあまり出来が良いとも思えず、曲と一緒にこの興味深い試みも忘れられました。もしそのコンクールにラフマニノフが交響曲第3番を匿名で応募していたら何が起きたのだろうと想像すると面白いものがあります。

フランクフルトのアルテ・オーパーでエサ・ペッカ・サロネンでしたか、北欧の作曲家の管弦楽曲を世界初演しました。打楽器奏者が赤ん坊のガラガラのお化けみたいのを延々と振りまわし、それに気をとられてそれしか覚えてないのですが、やっと終わったと思ったらみんなそう思ってたんでしょうね、満場のブーイングになってしまいました。拍手はまばらでちょっと気の毒でした。

春の祭典の初演も同じようなものだったのですが、その後あの曲はどうなったんだろうと思います。あれが日本だったらブーはなく3分ぐらいのお義理の拍手はあるんです、きっと。借り物文化の違いですね。この時つくづく思ったのですが、現代音楽と呼ばれるジャンルが大衆とかい離してしまっているのは作曲家、演奏家そして何より我々聴衆にとって大損失なのではないでしょうか。

アマデウス君のような天才は100年は出ませんよとレオポルドにお世辞を言ったのはハイドンですが、100年どころか220年たっても出ていないとされます。しかし本当にそうなのでしょうか。人間のすることで、18-9世紀人のしたことを20世紀人が凌駕はおろか、足元に及んだとすら評価されていないという例はあまりないように思います。

あの作曲家だって才能が認められているはずなんです。もし調性音楽で書けばモーツァルトみたいな名曲を生むかもしれない。でもそれが時代として許されない。シェーンベルグがもし機能和声で書く世の中に生きていればモーツァルト級という評価を得たことはありえたと僕は思います。もしモーツァルトが今生まれていたら?ガラガラでブーイングうけて作曲なんかやめてしまったかもしれません。

クラシック音楽作曲業界の内輪において評価の高い楽曲を作ることは大変な名誉なのでしょうが、我々素人から見るとどこか100手詰みの詰将棋作りみたいで、高段者からすればおおこれは凄いというのがあるのでしょうが我々はわかりません。白熱したへぼ将棋のほうが面白かったりします。

10年後に聴衆に聴かれていないなら英語のクラシックという単語の定義に当てはまらなくなってくると思うのです。100年ぐらい未来になってみたら現象的にはロックやジャズのほうが語義に適合していて、そっちをクラシックと呼ぼうじゃないかという世の中になってるということだってまったく論外の話ではないと考えています。

音楽を産業、ビジネスととらえるかどうかはともかく、国家やパトロンが保護しない資本主義的環境においては聴衆という名の顧客がどうしても必要でしょう。一定水準の聴感覚を持つたくさんの聴衆、そして彼らの感覚で受容できる芸術性を具備した新しいインパクトある音楽の供給、そういう方向に双方が自然に向かうことが作曲家、演奏家、聴衆全員の、いや大げさにいえば人類の幸福になると思うのですがいかがでしょう。

クラシック音楽がクラシックでなくてはいけないという呪縛、これは聴く側ではもうとうの昔に解けているように思います。ネット社会、youtube、i-tunes等の進化がそれを急速に後押ししています。大衆という本来勝手気ままな消費者が、ますます気ままにあらゆるジャンルの音楽を廉価に(あるいはタダで)サーフィンできてしまう世の中です。クラシックだという権威など一顧だにしない世代が聴き手の大半になりつつあります。

それを大衆迎合だ商業主義だとしてしまえば武士は食わねど高楊枝です。業界としてどうあろうが構いませんが、それが才能ある作曲家、例えば19世紀末後期ロマン派の時代に生まれたストラヴィンスキーみたいな人を呪縛してしまうのはもったいない。春の祭典の初演当初にパリの大衆がロシアの新人作曲家に期待していたのはおそらくチャイコフスキーの延長のような曲です。それが当時の呪縛だったといえるでしょう。

しかし表面的にはそうでも実は大衆はそれに飽きてきてもいた。何か劇的に違うものが必要だし、それをぶちこめば当たるかもしれない。こういう事を感知するのをマーケティング・センスというのです。ビジネス感覚以外の何ものでもありません。それを作曲家に求めるのはナンセンスだし、それこそが大衆迎合です。だからそれは別な人間がやる。これは合理性のある分業でありパートナーシップです。ストラヴィンスキーに大衆迎合させなかったからよかったのです。

バレエ・リュスを作ったディアギレフという男の功績はその点で注目に値します。彼自身も音楽を知り尽くしておりR・コルサコフの作曲の弟子でした。一方でビジネスの才に長け、僕は彼のマーケティング・センスはものすごく鋭敏だったと思います。幾多のごたごたはありましたが歴史的評価としては彼のバレエ団はパリで大成功し、そこから春の祭典やダフニスが生まれて人類の財産となっている。バレエ・リュスが先にあったのではありません、彼が創り、彼が死んだらすぐ潰れたのです。彼の事業家能力こそが至宝のごとき数々の名曲を生んだといって過言でないでしょう。

佐村河内事件はもう忘れられましたが、あれはいろいろ考えされられるものがありました。僕はあのヒロシマという曲を一度だけ通して聴いて悪くないと思いました。最後の方で調性的になってハープとホルンが入ってくるところなんかマーラー好きは涙を流して喜んだんじゃないでしょうか。しかし作曲者新垣隆氏いわく、調性音楽など書いたら音楽界ではあいつは堕落した、商業主義に毒されたといわれて生きていけない、だから匿名で楽しんで書いたそうです。

僕がいいたいのは、すぐれた調性音楽を作って聴衆を感動させることのできる才能を持った人は今も世界にいるだろうということです。

しかし、堕落の烙印を覚悟してもし新垣氏が実名であれを発表していたら18万枚も売れただろうか?それはなかったでしょう。佐村河内の全聾が嘘だとマスコミが騒ぐとヒロシマは世の中から抹殺されてしまって誰も文句を言わない。内容で売れたわけではないのです。売り出したレコード会社もヨイショ本を出した出版社も、絶賛していた音楽評論家も、みんな踵を返してそんなことには関わってませんでしたといわんばかりです。

日本というのは本当に変な国です。生まれた動機がおかしいとなると中身は無視されてしまう。ベートーベンの楽曲の価値は彼が耳が聞こえなかったことと何の関係もありません。実は彼は嘘つきであって本当は聴こえていたことが発覚したとしても、それでエロイカ交響曲の価値がびた一文下がるわけではないのです。ゴシップ的に売れた部分は割り引いても、聴いていいと思った人も多いならあの曲は新垣隆作曲として価値なりの評価をすべきでしょう。

18世紀末にヴァルゼック伯爵というアマチュア音楽家が当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを買い取って自分の作品だと偽って発表するというなりすまし行為を行っていました。伯爵の使者が家に来て作品を依頼され、とうとう死神が迎えに来たと思った作曲家がいました。この有名な逸話は作り話くさいのですが、依頼があったのは1964年に事実とされました。作曲家の名はモーツァルト、作品はレクイエムでした。

この事件でヴァルゼックはいかさま野郎だとなって作品が抹殺されることがなかったのは人類にとって幸いでした。それどころか、ヴァルゼック氏のおかげさまで我々はあの天下の名曲を手にしたのです。銅像ぐらい建ててあげたい。僕は佐村河内という人物についてどうこう言う気はありませんが、ヒロシマと呼ばれた交響曲は彼がいなければ世になかったということだけは厳然たる事実です。

ヴァルゼック、佐村河内、背景はぜんぜん違うものの作曲家でない人間が触媒となって曲が生まれたのは一緒です。思い切り善意に解釈すればディアギレフ現象だった。今のクラシック界に運命や新世界を書いていただこうとするならディアギレフみたいな男は歓迎すべきでしょう。隠れて堕落していた新垣氏は作曲界から追放になったのでしょうか?なってもいいじゃないですか、書いた曲が1000年たっても聴かれるなら。

 

クラシック音楽の虚構をぶち壊そう

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

Categories:______クラシック徒然草, ______作曲家について, クラシック音楽

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊