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カテゴリー: ______音楽と自分

「音響マニア」と「オーディオマニア」の差

2019 JUN 24 2:02:04 am by 東 賢太郎

クルトマズアがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で録音したブルックナーというと昭和の評論家たちが一顧だにせず、日本では捨て置かれていたに等しい。思うのだが、彼らはどのぐらいヨーロッパのコンサートホールや教会でブルックナーを聴き、自宅ではどんな装置、環境でレコードを聴いていたのだろう?

マズアの指揮は急所の盛り上がりやメリハリがなくてダルだという人がいる。あるはずないだろう、ライプツィヒのトーマスゲルハルト教会の見事な音響の中でゲヴァントハウス管弦楽団を鳴らすのに何故そんなものが要るというのか。本物は何の変哲もない。それを平凡だ、凡庸だという。では彼らはブルックナーにいったい何を求めているのか。本物を知らない人がまさか評論家をやっているとも思えないからそんな疑問が浮かんできてしまう。

オーディオマニアで本物の音楽を知っている人はあまりいない気がする。音楽をわかっているという意味で男女差はないが、女性のオーディオマニアはあまり聞かないという事実がそれを示唆している。しかしオーディオは音楽鑑賞には不可欠だ。MP3も普及という観点では結構だが、クラシック音楽は本来は教会でパイプオルガンやコーラスの風圧まで肌で感じるものだ。イヤホンでポップスはOKでもクラシックではまがいものでしかない。

そういうフェイクの音で覚えると、正統派の本物の演奏は外連味のない退屈なものと思われてしまう。たとえば風邪で鼻がつまると酒の味がわからない。フェイク育ちというのは要は安酒しか知らないということなのだ。安酒はウリが必要になるが、それ用のコクだキレだなんていう意味不明の基準で樽出し中汲みの純米大吟醸を語ってはいけないのである。クラシックについて語るということも、それと同じで語れば語るほどどんな音で育ったかお里が知れてしまう。

僕の基準から全集でいうならマズアのオイロディスク盤は東独のオケの音をアナログで聴かせる特級品だ。楽器の倍音がたっぷりのって教会の空気に融けこむ。これぞヨーロッパの音である。そして、何度も書いているが、ブルックナーはこういう音で再現しないとわからない。僕はオーディオマニアではないし趣味性において完璧な別人種だが、11年半どっぷりとひたっていたあのヨーロッパの音を再現したいという点においてはオーディオの選択に徹底的にこだわったものだからオーディオマニアと思われたんだろう、「ステレオ」誌に写真入りの記事が載ったのはお門違いも甚だしく、照れ臭かった。

お聴かせできないのが残念だが、このマズアの音を平凡でつまらないという音楽愛好家はあんまりいないと思う。こういうことを書けば嫌みだろうが僕は物書き商売でないから嫌われても構わない。真実を書くほうが大事だ。ブルックナーはカネがかかる。バイアンプの大型システムで再現しないと無理である。東京のホールは全部三流だからウィーンフィルを聴いてもだめ。ということは、大型システムを据え付けたリスニングルームを作って、マズア盤のような本物の音がする録音を聴くしか手はない。

クルマ好きでないから何故フェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニがいいのかわからないが、何かマニアなりの理由はあるのだろう。僕は音響マニアだからもちろんそれがある。クラシックはもとは貴族の道楽だ、やっぱりカネがかかる。それをけしからんのどうの言ったってそうなんだから仕方ない。庶民に理解できないというのはウソだ、そうではない、本物の音を聞かないとなかなかわからないが、それを聞くのにはちょっとカネがかかるというのが事実である。ワインに似ている。

装置がOKとなると今度は音源の限界という問題が初めて見えてくる。我が家の場合、ざっと8割は不合格だ。演奏がだめなのと、同じほど録画技師がだめなのがある。センスの悪い奴が余計なことをするなと腹が立つばかりである。だから1万枚ほどはもう二度と聞かないし捨ててもいいものになるが、何故棚にあるかというと、買ったときのあれこれをいちいち覚えてるからだ。情けないが捨てられない。男は別れた女をいつまでも忘れられないというが、それと同じことかもしれない。

 

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集―

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64本のスピーカー・オーケストラに絶句

2019 JUN 18 1:01:14 am by 東 賢太郎

ヒビノ株式会社は「音と映像のプレゼンテーター」として類のないわが国を代表する企業である。今回あるプロジェクトで新木場にある工房「シンフォキャンバス」を訪問した。

ビルの7階を占める大空間に64本のスピーカーが並ぶ壮観。一本一本がオーケストラの個々の楽器音を出すシステムは僕も夢想はしていていずれ作りたいと思っていたが、まさかそれがこの世にあるとは!

そう思ったのは僕自身がシンセサイザーを演奏してMIDIで多重録音を膨大にしたことがあるからで、楽器を重ねていくと徐々に音の混濁がさけられなくなり、マルチトラックの本数を泣く泣く減らして本物っぽくした経験があるからだ。しかし作曲家が心血注いだスコアに無駄があるはずはなく、それをさせられる不快感を解消する唯一の方法はシングルトラックをマルチにする、すなわち、楽器の数だけスピーカーを鳴らすしかないという結論に至っていた。だからこの「スピーカー・オーケストラ」は究極の世界なのであって、それをやっていただいた方がこの世にいるということ自体が夢のようであった。

これを作られたのはシニアネットワークスペシャリスト宮本宰(みやもと つかさ)さん。このシステムはまさに人生賭けた入魂の作品である。早稲田大学理工学部在学中にフォークグループを結成してアルバム1枚、シングル3枚をリリースするが、そこで録音作業の妙に魅せられて音響技術者を志すこととなり、故冨田勲氏に信頼された斯界の大家である。「部屋(空気)が音楽を作る」という哲学が合致することを知り、僕が「リスニングルームを石壁にした」意味を完璧に理解していただいた。写真の通りバスドラにウーハーが組み込まれエレキベースはアンプが置いてある。お察しいただけるだろうか、これは空気を振動させる道具であるという合理的思考の貫徹である。素晴らしい。隣で聞いていた岩佐君によると僕は「鳴るのは部屋。スピーカーじゃない」と自宅で力説したらしく(覚えてないが)、宮本さんと「まるで兄弟の会話」だったらしい(氏は7つ先輩)。たしかに、こんなお兄ちゃんがいても不思議でないと思うほどそっくりな嗜好で似た路線を追求されておられ、ただ、こだわりの徹底ぶりは足元にも及ばない。

どんなものかこの動画をご覧いただきたい。

宮本さんはクラシックはベートーベンの運命から入り、オーマンディーで覚えた。「だからカラヤンも小澤もぜんぜんだめなんです。物足りない。第4楽章へのブリッジなんかもね。だから自分でMIDIで作ってしまいました。音質は落ちますが音楽はやっぱりグルーヴなんで酔えるんですよ」なんと、まったく僕と同じことをされている。ひとりぼっちじゃなくてよかった!こうしていきなり話がストライクゾーンに入って延々と続いてしまい終わりがない、仕方なく、ではそろそろと「演奏」していただいたのがこの曲。ワーグナーのタンホイザー大行進曲である(このビデオではない)。

名古屋フィルを合唱付きでマルチマイク録音したその迫真の音は衝撃だった。正直のところこの手のもので僕が驚くなどということは自分で想定もしていない。かつて人生でスピーカーからこれ以上のものを聞いたことはないし、オーディオなどというものの次元であれこれやってきた自分が馬鹿らしくなってしまった。音ではなく音楽に心から感動し、鳥肌が立った。弦楽器の生々しさ、管の質感、重低音の空気感!目をつぶれば掛け値なしにそこにオーケストラが「ある」。奏者が「いる」。

「宮本さん、これで春の祭典とダフニスとクロエをやりたい」とほざきながら、もうそれが頭の中で響いている。あのブーレーズのCBS録音の質の演奏をこれでやったら、もう鼻血ものだ。ワーグナーをサンプルに選ばれたのにも表敬したい。僕自身の経験からマルチトラックの混濁はスコアのパート数だけではなく作曲家のオーケストレーションの癖にも依拠して発生する。中音部が厚くてだぶる傾向のあるワーグナーは非常に鳴らしにくい作曲家なのだ。MIDIでないとはいえ、そこに声楽まで出されてしまうと二の句がつけない。これで作曲したらとぞくぞくするが、人生それで終わってしまうかと不安にもなってくるほど。

ポップスもということでホイットニー・ヒューストンのライブを、これは映像付きできいた。劇場の特等席で舞台を見上げている感じだ。これまた絶句するほど凄い。故人のアーティストが生きてそこで歌っているようにというコンセプト。まさにそう感じる。DVDなのにサラウンドで鳴るのはどうして?ときくと、「ピアノを含めて楽器をダビングしました。だから40数本のスピーカーは楽器ごとに鳴ってます。ぜんぶ耳コピです」。いや耳も素晴らしい。

宮本さん、そしてご紹介いただいたヒビノサウンドDiv.大坂ブランチ所長の徳平さん、ありがとうございます。末永くよろしくお願いします。

 

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シュトックハウゼンは関ケ原に舞う

2019 JUN 8 2:02:41 am by 東 賢太郎

シアターピースに興味を持ったのは、高校に上がる春に家族で行った大阪万博(Expo’70)でのことだ。西ドイツ館(左)はプラネタリウムのような巨大なオーディトリウムで中は薄暗く、半球の天井に星の様にスピーカーが設置されている。演奏されていたのはシュトックハウゼンの曲だったが、音(音源)が天球を無作為に移動していく三次元空間の宇宙的な感覚は訴求するものがあった。曲名は記憶にないが、これだったかもしれない。

あの空間の莫大な容積に満ちる空気はまるで液体のように重く感じ、瞬時に天井を前後左右に駆け巡る音はフォトンの様に無質量に感じ、理屈ではなくこの世のものではない。シアターピースに劇場はない。あるのはスペース(空間)であって、舞台、客席、通路などというものは、お仕着せのホールだから仕方なくあるだけで、存在しない(という意識に聴衆になってもらう)。さらには演奏する人間もいらなくなってテープ、コンピューターが奏者となる。

旋律、和声、リズムというものは生身の奏者から客の耳に音を届けるという空間構成に特有のものだ。その空間は点と点の二次元だ。シアターピースは音源の定位(居場所)が無限で三次元になる。西ドイツ館の経験でそれが肌でわかった。しかし無限と言っても移動可能範囲は半球内だ。「宇宙的」でなく「宇宙」にするためには球体の中心点に聴き手が位置しなくてはならない。真下からも音が聞こえる空間だ(=スペース=宇宙、あたりまえだ)。二次元、三次元と書いたが、音楽はそれ自体が時間を内包しているから実は三次元、四次元であって、本質的に宇宙的なアートだ。

旋律、和声、リズムが三次元空間(時間を除く)に存在するマーラーの8番があっても良いが、必然性はない。温泉の大浴場に10人が各所に点在して自由に風呂桶をたたけば、その残響音も入れて三次元のシアターピースになる。そんなものがアートか?Yes. 誰か一人でもアートだといえばすべてのものはアートだというのがモダン・アートの定義だ。そんな馬鹿なと思う人は、空間から「客席」(という概念)が消えた瞬間に「楽音」は消えることを理解していない。あれ以来、シュトックハウゼンを聴ける限り全部聴いたし、音楽は耳だけで聴くものではないと信じるようにもなった。

いま、歴史上の空間、例えば関ケ原合戦でどんな音がしたか関心を持っている。4月に現地をご案内いただいた時から気になっている。合戦場は三次元のシアターである。日本を代表する音響のスペシャリスト、ヒビノ株式会社の幹部の方々とその件でお会いもした。別件だがということでスピーカー64本がシンクロして別々の楽器音を出す “オーケストラ” が新木場の研究所にあると伺い、即刻近日の訪問アポをいただいた。オーディオは原音のシミュレーターだがそれこそ究極の姿だ。64本を別個に駆動するプログラムを書くことで、きっと僕の頭にある完璧な「ダフニスとクロエ」を演奏することができるだろう。想像してもぞくぞくする。

さらには64本のパート譜を持つスコアを書けばオーケストラ曲が作曲できる。生身の奏者はいないから演奏に指揮という行程はいらない。シュトックハウゼンの電子音楽同様に作曲、即、演奏だ。そういう「指揮」ならやってみたい。人間は感情もミスもあるからめんどうくさい。全部を工房の中で完全に支配できるのがいい、全部が自分であり、自己責任であり、自分のクレジットになる。音楽につき、聴いたり弾いたり書いたりしてきたがどうも何かが違う、僕の場合、究極の愛の結実はそれをやることではないかと思う。

そう考えると音大でなく慶応大学を出た富田勲さんが浮かんでくる。あれはいいなとうらやましく思う。そうしたらヒビノの重鎮から不意に「富田先生をご紹介したかったですね」といわれ、「新日本紀行のテーマをシンセで作りました。もしご存命だったらスコア見せてほしかったですね」という会話になった。世のなか面白い。

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猫語と第九交響曲の関係について

2018 DEC 31 10:10:33 am by 東 賢太郎

去年の年の瀬にこういうものを書いていました。

語学コンプレックス

まったくそのとおりなのですが、今年ウチに来てくれた猫、シロとクロの “言葉” をきいて、これも語学であろうと思ったのです。猫はいっぴきいっぴき、言葉が違うのです。というのは、野良猫を見るとわかりますが、猫同士はほとんど鳴き声で意思疎通はしません。鳴くのは「人間用」だからです。

ではなぜ鳴くか?人間に何かをさせたいからです。エサをくれ、遊んでほしい、甘えたい、放してくれ・・・と人間を支配するための信号であって、どんな音を出せば我々がどう反応するかを彼(女)らは注意深く観察して記憶しています。これを僕はクロ様の「長鳴き」(かなり長い)で気がついた。信号にはけっこう個体差があって、どこか似てはいるものの、それらを一元的にネコ語であるとして文法的類型化はできそうもありません。

でも、わかるのです。いっぴきいっぴき、何をいいたいのか・・・。

これはおそらく、ネコ語にはおおもとになる標準の文法のようなものがあって、それがいっぴきごとがしゃべると別々の方言にはなるのですが、たくさん聞いていると枝葉が取れて幹だけが伝わるようになるのです。

それはクラシック音楽に似ています。と突然に言われてもどなたもにピンとこないでしょう。ご説明します。僕はべートーベンの第九交響曲のディスクを58枚持っていますが、その第1号は大学1年の年末に買ったクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のLP(右)です。全くの初心者であった当時として、演奏者は誰でもよく、5番(これは第3号)と2枚組で1800円と少し安かったからこれを選びました。

ところが調べてみると、翌年の2月に2枚目の第九としてリスト編曲の二台ピアノ版(左)を買っています。当時、この曲は「合唱付き」と副題をつけてレコードが売られており第4楽章の声楽こそが目玉でしたが(今でもそうですが)、僕はそれは無視だったわけです。理由は簡単で、マズア盤を聞いてもこの曲がよくわからなかった。むしろ歌が邪魔でオーケストラがよく聞こえず、輪郭がつかめなかった。そこにいいタイミングでこのLPが出て、第九の「幹」だけを知りたくて飛びつきました。僕は第九をピアノで覚えたのです。

この方法は、「ネコ語にはおおもとになる標準の文法のようなものがあって」、という感じにとても似ています。標準の文法さえつかめば枝葉の違いは飛び越えておおよそが理解できる、それは理屈ではなく感性なのでうまく説明できませんが、たとえば英単語でラテン語っぽい接頭語や接尾語をまとめて覚えてしまうと初めて見る類語がすいすい理解できる、それに近いでしょう。利点はとにかく記憶が速いことで受験などには有利です。

ところで、ブラームスは22才の誕生日をデュセルドルフのシューマン家で迎え、14歳年上であったクララとこのリスト編曲の「第九」二台ピアノ版を弾いています。

「それは素晴らしい響きがした。続く数日間というもの、真の喜びを味わいながら、毎日毎日、それを弾いた」(クララの日記より)

演奏しているコンティグリア兄弟はマイラ・ヘスの弟子で、無味乾燥のリダクションものではなく独自の音楽性を感じます。ピアノはボールドウィンSD-10でリッチな低音と高音の輝きが第九にとてもふさわしい。僕の原点です。お聴きください。

さて、もう一つの原点である上掲のマズア盤ですが、録音は1973年で今聴いても悪くないです。彼の最初のLGOとの全曲録音で、合唱団はライプツィヒ、ベルリン、児童合唱団がドレスデンと当時のオール東ドイツの布陣で、独唱も新人だったアンナ・トモワ・シントウにペーター・シュライヤー、テオ・アダムと最強。その割にエキサイティングなパンチ力には欠けますがオーソドックスな安定感は捨てがたい。終楽章、児童合唱のピュアなソプラノパートはなかなかです。弦だけの歓喜の歌にからむファゴットのオブリガートはスコア通り1本で、これで覚えたので2本版は僕は非常に違和感を覚えますし(セル盤は優れていますがその1点だけで聴きません)、主旋律とユニゾンとなる部分の美しさはこれを凌ぐ演奏を未だに聴いたことがありません。ドレスデン・ルカ教会の豊饒な残響も最高で、これでドイツ音楽の醍醐味を知りました。おふくろの味の第九というところです。

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大人買いCDセットによるクラシック音楽市場の死

2018 AUG 25 22:22:01 pm by 東 賢太郎

アマゾンからマーキュリー・リヴィング・プレゼンス・コレクターズ・エディション3が届きました。アンタール・ドラティ、ポール・パレー、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、アナトール・フィストラーリという気になる指揮者の1960年前後の録音が中心に53枚組というブロッキーなものです。

それが、昨日の午後にネットで見つけて注文したら今朝に家に届いている。店舗で買って、重たい思いをして持ち帰って一晩で53枚聴けるわけありません。でも、3日もたっての配達だとやや熱が冷めてしまう。翌朝のお届けは絶妙ですね。事務用品通販のアスクルは明日来るが売りでしたが、アマゾンの出現で全商品それが当たり前になってしまいました。

だからほとんどの実店舗型小売りは売上が減少し、米国でついにトイザらスが倒産というショッキングなニュースに至ったのはご記憶に新しいでしょう。残酷なようですが自由主義、資本主義はこういうもの、「アマゾンによる死(Death by Amazon)」は盛者必衰の理の一断面であります。

米投資情報会社ビスポーク・インベストメント・グループが2012年に設定した指数で、アマゾン躍進で負け組になりそうな実店舗型小売業を集めた「アマゾン恐怖銘柄指数」(Bespoke “Death by Amazon” index)の株価パフォーマンスを見ると2016年からの2年間でまさに恐ろしいことになっています。


思えばその昔、石丸電気などでLPレコードをあれこれ迷うのは絶大な楽しみでした。LPレコードは収録されているコンテンツの是非以前に、塩化ヴィニールの表面を擦過する針音が一品ごとに微妙に異なるという是非がありました。だから購買にはレジでの検盤という重要なプロセスがあり、それでも帰宅してターンテーブルに乗せてみないと針音はわからないというリスクは除去できず、さらにコンテンツである演奏が気に入るか否かというダブルのリスクがあったのです。

それをCDが駆逐して電子的読み取り信号が商品となった瞬間に目視による検盤は無意味となりました。「第1のリスク」は除去できたものの擦過がなくなり、購買という行為は均質な工業製品の仕入れと変わらなくなりました。しかしそれでもCDはモノではありました。それが今やEコマースだ。僕らはもはや物体でない「虚像(イメージ)」を紙幣という物体すら介さずにプラスチックのカードに記載されている無機質な数字列と引き換えているのです。

まあここまでは百歩譲って「利便性」の勝利と認めましょう。自由主義、資本主義はこういうものだと。しかし均質な工業製品は品質を落とさずに大量生産が可能で小型化により輸送費も在庫管理費も低下して物体としての製造、小売り単価は劇的に圧縮されます。すると「第2のリスク」である「コンテンツである演奏が気に入るか否か」は大方の購買者にとってリスクではなくなってきます。たかが1枚150円のCDがハズレでも大したことはないからです。

そこまで割り切ってしまった自分でしたが、新品53枚組のケースを開けてみると、しかし、これはなんということだと絶句してしまったのです。ドラティのブラームス交響曲全集がドーンと目に飛び込んで・・・。

ここから53枚目に至るまで、一枚一枚のジャケットに感嘆の声をあげながら中のCDを取り出し、いつくしみ、こんなやつが出てくると狂喜し、

こんなのが出てくるや、これは単品では絶対に買わなかったぞと嘆息するという塩梅でした。

このさまを観ていた家内にはわからないだろうと咄嗟に「子供の時にメンコのセットを買ってもらった時の気持ちだよ」と、我ながらうまいことを言うなと納得の説明をしたのですが、さらにわからなくなったようでした。ところがです、一連の出会いの感動からだんだん覚めてくると、この僕にもわからないことが頭をもたげてくるのです。

ちょっとまてよ、セットはいいが53枚組で8千円?なんだそれは、1枚150円かよ?カラのCDRがそんなもんだったじゃないか、ということはコンテンツはタダのおまけか?何かおかしいぞ、ドラティのブラームス、俺は1万円でもいいぞ、コープランドは5千円でも。

ほんとうです。まったくイラショナル(非合理)なことですが、僕は150円じゃなく1万円、5千円払いたいのです。もしそれで昔の価値観の時代に戻るなら・・・。

2000年ごろ不良債権のバルクセールというのがよくありました。纏め売り、バナナのたたき売りであって、単品では売れないクズ不動産を「オトナ買い」させたい銀行の窮余の一策でした。「53枚組はあれと同じか?そんなにCDは売れないのか?」、危機感が僕の頭をよぎりました。現実に売れ残りのバルクの中に箱根の土地があった。芦ノ湖、プリンスホテルを眼下に望む景観があって、えっ、こんな安くていいのという値段でした。

リゾート地が売れなくなる。業者は資金効率のために売らんかなの姿勢になる。すると売れる市場価格まで値が下がる。すると景観の価値は度外視になるのです。駅近、治安、生活インフラなど万人が気にする要素(地価を決めるハードとしての要素)に比べ趣味性が高い景観は先に無視される要素なのです。CDにおいてコンテンツである音楽は趣味性の要素で、売らんかな姿勢の業者がバルクセールをすれば、値段はハード(工業製品)原価であるCDR1枚の値段まで下がり得るということです。

それは購買者としてはむしろ有難いことです。しかし、マクロ現象として長期的な目で見るならば危機をはらんでいます。53枚組のどの1枚だってLPの頃は1500円はしていた。インフレを加えると10分の1超に至る価格破壊が「第2のリスク」を軽減してはくれます。しかし、その背景で由々しきことが進行しています。購買者は選択の安心と引き換えに鑑賞への集中力を無意識に放棄しているということです。まあ安いから聞いてみようか、1枚150円のCDがハズレでも大したことはないや。10倍のお金で買った場合とは集中力はおのずと違います。それが常態化すると人間は徐々に不要となった能力を失うのは進化の歴史が証明しています。

供給者側でも、アダムのジゼルの程度のクオリティの音楽、つまりたいして売れそうもないコンテンツを当代一人者のフィストラーリのような演奏家、最新鋭の録音システムでコストをかけて商品化しようというインセンティブは著しく低減するでしょう。英Deccaがヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン・フィルを起用したジゼルは1分当たりの(音楽の価値)÷(製造者原価)の値が最も低い録音だろうと思われ、収録した1961年あたりにクラシック音楽ソフト市場の数値のボトムがあった可能性が高いと考えております。

需給の両サイドでの質の低下は確実に文化を変質に追い込みます。経済学のわかる人は本稿の趣旨である「アマゾンによる死(Death by Amazon)」との類似性を見抜かれるでしょう。大人買いCDセットはクラシック音楽ソフト市場の断末魔になりかねないのです。

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クラシック徒然草《音大卒は武器になるか》

2017 AUG 29 20:20:05 pm by 東 賢太郎

『「音大卒」は武器になる』(大内孝夫著、武蔵野音楽大学協力)という本があって、なんの武器かと思ったら「音大生こそ就職を目指せ!」とある。その通りで、法学部を出てもサラリーマンになる僕のような者も多いのだから音大卒が就職しても何らおかしくない。米国のMBAコースには楽器の名人がいたし、スイスの社員にはジュリアードのオーボエがいて仕事も優秀だった。

企業の採用面接で「あなたの長所は何ですか?」「それが当社にどう貢献しますか?」と質問して、傾向と対策で覚えたような回答だと「十把一絡げ」のお仲間だ。「22年の人生経験で飯が食えると思ってませんが」と断ったうえで「私はコンチェルトが弾けます」でいいんじゃないか?

ブランド大学で全優の子と母子家庭でバイト先のラーメン屋を満員にした子が最終面接で残って、後者を採用した僕のような面接官は少ないかもしれないが、何かを深くやった人は語れるものを持っている。もっと聞いてみようと思ってもらえるのではないか。

逆に音大出ではない(そういう学校がなかった昔まで入れてだが)、あるいは音大も行ったがそれ以外の教育も受けた音楽家のケースを見てみたい。以下のように少なからずいる。「親に言われていやいやで中退」がほとんどだが、博士号まで取ったカール・ベームやゾルタン・コダーイもいる。

 

A-1群

テレマン (ライプツィヒ大学)、ヘンデル (ハレ大学)、レオポルド・モーツァルト (ザルツブルク大学)、チャイコフスキー (ザンクトペテルブルク大学)、ストラヴィンスキー (ザンクトペテルブルク大学)、シベリウス (ヘルシンキ大学)、シューマン (ライプツィヒ大学・ ハイデルベルク大学)、シャブリエ(リセ・インペリアル)、ショーソン(不明)

A-2群

ハンス・フォン・ビューロー(ライプツィヒ大学)、カール・ベーム(グラーツ大学・博士号)、朝比奈隆(京都大学)、フリッツ・ライナー(不明)

B-1群

グルック(プラハ大学・哲学)、コダーイ(ブダペスト大学・哲学、言語学、博士号)、ベルリオーズ(パリの医科大学)、ボロディン(サンクト・ペテルブルグ大学医学部、首席)、リムスキーコルサコフ(海軍兵学校)、バラキレフ(カザン大学・数学)、ブーレーズ(リヨン大学・数学)、ヴォーン・ウィリアムズ(ケンブリッジ大学文学)、冨田勲(慶應義塾大学・文学)、柴田南雄(東京大学・理学部)、湯浅 譲二(慶應義塾大学・医学)、諸井三郎(東京大学・文学)、三善晃(東京大学・仏文)

B-2群

ニコライ・マルコ(ペテルブルク大学・哲学、歴史、語学)、アンセルメ(ソルボンヌ大学、パリ大学・数学)、近衛秀麿(東京帝国大学・文学)

 

A群は法学部、B群はそれ以外であり、1は作曲家、2は演奏家である。これが全員ではないが著名な人はほぼ調べた。「作曲家」が多く、学部は「法学部」(親から見てつぶしがきくからか)が多い。これだけいやいや法学の道に入ってやっぱり音楽だと頓挫した人がいると、はるかに低劣な次元でやっぱりと遊んでしまった自分がちょっとだけ救われる気もするが、やっぱり大きな勘違いだ。

演奏家はすべて指揮者だ。声楽家、器楽奏者がいないのは①早期教育しかない(弟子入りしてしまう)②神童で教育は必要なかった③親の経済状態が許さなかった、のどれかだろう。①はもっともなのだが、リストの娘婿で全欧で1,2を争うピアノの名手だったハンス・フォン・ビューローのライプツィヒ大学法学部は驚異で、しかも彼はピアノより指揮者で名を成した。数学者か指揮者か迷ったアンセルメ、優等で卒業して高級官僚になったチャイコフスキーはいやいや組ではない。首席卒業だった化学者ボロディンには作曲はサイド・ジョブだった。

レオポルド・モーツァルト 。鳶が鷹を生んだのではなく、これだけインテリの親父が全面家庭教師になって大天才が生まれた。共同事業の「アマデウス・プロジェクト」だったようにも見えてくる。作曲は理系学問と親和性があるように見えるし、作曲と指揮は晩成の要素もあるとも思う。とするとケッヘル100番あたりから晩年とクオリティがあまり変わらないアマデウスが群を抜いた真の天才とわかるし、それでも6才で指揮の天才ではなかったことも納得だ。

僕は音大生がうらやましい、こんなすごい人たちと同じことを深堀りしてきたのだから。時間があったら今からでも入りたいぐらいだ。音楽を生むのは高度に知的な作業であり、人間観察力も協調性も必須であって、それでいて健全な自己顕示欲とアピール力も必要である。満場の人前での演奏は度胸だっているではないか。そんな高度なものを深掘りした経験はガリ勉優等生など遠く及ぶものではない、音大の皆さんは大いに誇って当たり前なのである。

思えば僕は大学時代にいまの音楽知識のほとんどを覚えたし、四六時中聴いてもいたから、試験前しか勉強しなかった法律との時間配分では音大にいたようなものだった。それを見ていた母はのちに家内に、あんなに好きと思わなかった、音大に行かせた方が良かったかしらと言ったらしい(行かなくてよかったのは本人がよく知っているが)。

つまり僕は音大生が証券マンになったようなもので、親に仕切られていやいや法学部に入ったロベルト・シューマンをその一点だけにおいては同情もし、最後はヴィークの弟子になって親を振り切った勇気を尊敬もしている人間だ。音大から今の道に進んでも同じほどやった自信はあるし、その場合、ピアノまで弾けていたわけだから損したなあと思わないでもない。音大生のみなさん、自信を持って人生切り開いてください。

 

僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源

 

評価をダウンできる5つの法則

 

 

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音楽にはツボがある

2017 AUG 27 13:13:45 pm by 東 賢太郎

音楽を聴いて感動するとはどういうことか?これをもう50年近く考えてきたように思う。空気振動という無機質なものから有機的なものを感じるのは不思議で仕方ない。それをいうなら味だって舌の上の無機質な化学現象だ、同じではないかと思われるかもしれないが、味は食材を選別する生きるための知覚だ。動物だって感じてる。しかし音楽は生きるためには不要で、人間だけが知覚できるのだ。

感動は「こころ」で生じる。というより、脳のどこで生じたかわからないので「こころ」という場所をつくって納得している。それは自分自身の有様だから見えない。自分とは鏡に映った顔のことであって、世界でただ一人、自分の顔を直接見ることができない人間は自分なのだ。夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」を雑誌で読んではたと膝を打ったのは、そうか、こころは鏡に映らないが、自分が空っぽになれば見えるかもしれないと思ったからだ。

ところが困ったことに、空になるには僕の場合「音楽に入ってしまう」のがベストの方法なのだ。なんのことない、音楽に響く自分のこころの有様は音楽を聴くとよくわかるぞというどうどうめぐりになってしまうのである。そこで、先祖から授かった心の空間には生まれながらに響きやすい「ある特定の波長」があり、それに共振する音楽だけが深く入ってくる、どうもそう考えるしかなさそうだと思い至った。

どうしてそれがプリセットされてるのか、生存に関わる何のためにか、それはわからない。神はサイコロを振らない(アインシュタイン)なら何か意味があるかもしれないが、未だ人のこころの深奥の闇だ。闇にサーチライトをあてて何も見えないなら、響いてくる空気振動のほうから攻めてみようというのは科学的な態度ではないかと考える。しかも、こころを共振させるエネルギーを与える側は空気分子、つまり即物的な物体だから分析可能である。

高校1年のときそこまで考えたわけではないが、1年分の小遣いほど高かった「春の祭典」のスコアを神保町の輸入書籍店で買った。そして、穴のあくほど、興味ある部分を「調査」した。音楽学者のするアナリーゼの真似事ではない。あれは誰の何の役に立つのかいまだにわからないからまったく興味がない。僕のは物理学者が物質を原子に解体して原子核、電子という物質の最小単位を見つけ、もっと解体できるのではと疑ってさらに小さな単位である陽子と中性子を発見し、陽子・中性子はもっと分解できないかと調べるのによほど近い。

習ったこともないピアノに触りだしたはそこからだ。理由はただ一つ、ラボラトリーの実験器具として必要だったからだ。たとえば「何だこの怪しい音は?」と思った「春の祭典」第2部の冒頭はこころが共振するのを感知した「ツボ」であった。オーケストラスコアは複雑でわからなかったが、ピアノに落とすとこれだけのことだった。なんと便利だろう!

この「ツボ」が自分のこころを掻き立てるのは強力なレシピである「複調」というものの作用あるでことを知った。しかし両親がこんな音楽を聴いていたことはなく、複調を楽しんでいた形跡は皆無だ。ということは、僕の共振は、まさしく両親が生まれる前に由来があるということになるではないか。ここで禅僧の説く「父母未生以前本来の面目」が出てくるのだ。

そして、これが大事なことだが、前回ベルクのソナタの稿で書いた演奏者との超認識的な共感はほとんどが「こころ」にプリセットされた「ツボ」でおこるのである。逆に言うなら、ツボで何も感じてない演奏家は別の惑星の人であって、時間もお金も費消するクラシック音楽でそういう人の演奏に付き合うのはコストパフォーマンスが悪いという結論になる。僕の好みというものは、意識下でのことではあるが、万事そういうプロセスを経てできているということがだんだんわかってきた。深奥の闇にサーチライトがあたってきたのだ。

それなしにどのレコードがいいかと議論するのも時間の費消だ。カネはかからないから暇な人だけに許される大衆娯楽である。皆さん「自動車」といって、唯一絶対の自動車はないから知っているのは実はトヨタでありベンツなのだ。同様に皆さんの「第九」とはカラヤンなりフルトヴェングラーのものだ。ベンツしか知らない人にトヨタの良さを説いても無駄なように、第九はフルトヴェングラーと思い込んでいる人にカラヤンはいいよと言っても難しいだろう。つまり方法論なき批評は白猫、黒猫どっちが好きかと同じであって、大の男がまじめにやるものとは思わない。

具体的にお示しする。第2部冒頭の譜面をどう音化するかはその人の問題だ。楽譜通り淡々とやってもいいが、この部分になみなみならぬ関心と感応度を示し、「こころがふるえている」という特別なメッセージをこめてくる人だっている。僕はピエール・ブーレーズがここの裏でひっそりと鳴るグラン・カッサの皮の張りを緩め、ティンパニとは明確に区別のつくボワンとした音色でやや強めにドロドロドロ・・・とやる、それを聴いて背筋に電流が走ったのを忘れない。

音でお聴きいただきたい、これは高1の時に買って衝撃を受けたそのLPからとった。この後にカセット、米国盤LP、CD2種、SACDなど出たものは片っ端から比べたが、このLPを上回るものはない。譜面の部分は16分53秒からだ。

ブーレーズのこころがこの複調部分で振動し、それを伝えるべくオケの音を操作し、その物理的波長が空であった僕のこころに入り、その空間の固有の波長に共振した、だから僕は電流を感じた、という風に理解できる。

それは僕も彼も、共振する波長をこころの少なくとも一部分に共有していることの証左だろうという推論が合理的に成立するのであって、それだけで彼の指揮したもの、作曲したものは全部聴いてみようというモチベーションに発展する。結果的にそれは正しくて、ブーレーズの指揮したバルトーク、ラヴェル、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクによって僕はさらなる未知の領域へきわめて短時間のうちに一気に辿り着くことができた。僕にとってブーレーズは数学で満点が取れるようにしてくれた駿台の根岸先生みたいなものだ。この春の祭典が嫌いだ、カラヤンの方が好きだ(何らかの確たる理由で)という方もいるだろう。それは先祖伝来のこころの波長が違うのだから必然のことで、そういう方はカラヤンのレコードをどんどん聞けばいいだけだ。

ブラームスの第2交響曲、シューマンのライン交響曲、ラヴェルのダフニスとクロエ、シューマンのピアノ協奏曲など、ブログで演奏につきあれこれ書いた曲はラボラトリーでさんざんピアノ実験済みでチェックポイントが確立していて、例えばブラ2の最後でアッチェレランドする指揮者はブログで全員ばっさり切り捨てている。曲の波長を感知する重要箇所であり、そこをそうしてしまう人の波長には微塵も共振しないからだ。ちなみに、されると一日不愉快だから、ブラ2のライブは絶対にいかない。

こころの波長は十人十色だ、僕の好き嫌いは無視していただきたい。お示ししたいのは結論ではない、プロセスだ。こう鑑賞していくとクラシックは簡単ですよというケーススタディだ。「誰の第九がいいですか?」の類がいただく質問の最上位だ。「それはあなたしか知りません」がお答えで逆に「第九はなぜ好きですか?」「どこがジーンときますか?」と尋ねる。「あそこです」。これが返ってくれば完璧だ。僕になどきかず、ご自分で探すことができる。

 

メシアン「8つの前奏曲」と「おお、聖なる饗宴よ」

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-

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アルバン・ベルク「ピアノ・ソナタ 作品 1」

2017 AUG 26 2:02:21 am by 東 賢太郎

暇があればyoutubeで名前も知らない若い人のピアノ演奏を聴いている。年寄りや大家の録音はいくらもある。しかしそれは生身の演奏ではない「音の缶詰」であって、そのことを忘れて没入すればおいしく頂けるものの、微細な部分まで記憶するほど聴いてしまえばやはり缶詰なんだという現実に戻ることになる。

といって、ライブ演奏の「一回性」のみを重視する聴き手でも僕はない。一回の「あたり」には少なくとも十回の「はずれ」が必要で、そんな暇も根性もない。一回だけは新鮮だが繰り返すと飽きる演奏家はたくさん存在していて、それを言葉にすると「深みがない」とでもなるんだろうが、ではその深みの実体は何かを突き詰めた論評は見たことがない。「定義できないもの」が欠けている、というのは空虚な感想でしかない。

本稿はそのような言葉を使わず、主観ではあるが何を良い演奏と考えているかお示ししようというものである。それが一回性でも百回性でも構わないし、一度惚れた人がまったく合わなくなった例も多くあるが、人は変わる。音楽とは日々生きている人間の精神、感情を最もピュアに、何物の介在もなく、迫真のメッセージとして心の奥底に届ける唯一のメディアであると思う。だから「良い演奏」「名演」が絶対的価値としてあるわけではなく、演奏家(ひとり)と聴衆(多数)の組み合わせの数だけの価値があるし、時間とともに個々の価値は変わる。

僕にとって好きな演奏家の定義。これを説くには文豪夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」に触れねばならない。面目とは顔つき、顔かたちだ。両親のまだ生まれる前の、あなたの本来の姿はどのようなものか、という禅における問いである。無限の過去から受け継いで、父母から授かった無量のいのちこそが本来の姿であって、それは座禅を組んで心を空(くう)にしないと知り得ないそうだが、僕は良い音楽は空の心持ちになって聴きたいといつも願っている。

好きな演奏家かどうかは、その空の心持ちに入った時に、その演奏家の心に超認識的な共感をする瞬間があるかどうかに尽きる。接触感と書いてもいい、それは演奏家との間の感性と感性の究極的にデリケートな触れ合いと和合であって、ミケランジェロ作「アダムの創造」(下)の神とアダムの指先が今にも触れようとしている、そこに流れる電流のようなものだ。この電流を感じるなら、その演奏家とは触れ合える何かを僕は共有したと感じることになる。

 

 

なぜ指揮者でないか?彼が音を出していないからだ。彼のコントロール下にはあっても音は奏者のものである。奏者(ひとり)と指揮者と僕(ふたり)がいる関係であり、彼も僕も同じ他人の出す音を聴いているだけだ。いえいえ、本日はベルリンフィルですから私の意図は完璧にリアライズされます、といっても他者介在という絶対的限界の前では説得力はない。百回に一度ぐらい完璧があったとして、そういう偶然が重なって今日は名演でしたというのを重んじるのが一回性の愛好家だが、それにはなりきれない。

僕がトスカニーニを好むのは、あれほどの専制君主であれば限界は最小値になっているだろうと信用する側面が大いにある。奏者のオーディションから音の微細なミクロまでだ。お友達内閣型指揮者は奏者をやる気にさせるプロではあるだろうが、限界突破をあきらめた2位狙いの妥協だ。指揮はマネジメントでもあろうが、他人のマネジメントの苦労を金を払って見てみようとは思わない。

ピアノは「ひとりオーケストラ」ができる楽器であり、ピアニストは訓練さえ積めば自分の肉体を完璧に支配できるだろう。そうなればその音楽は彼、彼女の感情、フィーリングそのもの、父母未生以前本来の面目であり、そこで初めて、その演奏家と超認識的な共感をする条件が整う。トスカニーニの指揮した音楽は、指揮者がピアノを弾いているのに最も近似したものだ。専制君主が是か非かは論点ではなく、近似させるにはそれしかないだろうと思う。

さて、アルバン・ベルクのピアノソナタに移る。この曲ほど「超認識的な共感をする瞬間」を求めるものはない。僕の最も愛好するソナタの一つであり、彼の最も優れた美しい作品のひとつであり、オーパス・ワンでありながら和声音楽の辿り着いた最終地点である。この驚くべき和声への、心の奥底での畏怖や感嘆がない演奏家と共感することは、僕には不可能である。明確にウィーンを感じるブラームス、シェーンベルクの系統に属するが、単一楽章で提示部、展開部、再現部をもちつつも冒頭のこの主題が素材となって統一感が与えられ、しかも主題が変奏されながら時間とともに変容するのはドビッシーをも感知させる。作曲された1907-8年は主題の時間関数的変容をもつ交響詩「海」の2年後だ。主題はいったん上昇してアーチ状の弧を描いて下降し、リタルダンドしてロ短調に落ち着いたように見えるが解決感はない。この主題の性格、そして曲の最後に初めて深い充足感を持ったロ短調の解決を見せている点がトリスタンの末裔であることも示している。まさに音楽史における和声音楽の解決点なのだ。

このソナタをうねるような情感と歌で表現した演奏がイヴォンヌ・ロリオ盤だ。各声部が各々見事にルバートする様、流れるような緩急、バスの効かせ方などウィーンの後期ロマン派を完璧に咀嚼、体感した上にしか築かれようのない表現であり、文化は知性であるとつくづく感服させられる。アンサンブル・オペラかカルテットのようで、和音が一切混濁しない。この曲でこれだけピアノピアノしない有機的なピアノ演奏は聴いたことがなく、何度聴いても琴線に響いてくる。最後のロ短調の悲しさはまさに迫真のものであり、超認識的なフィーリングを共感する瞬間の連続だ。ロリオはメシアンの奥さんでトゥーランガリラ交響曲のピアニストとしてしか認識がなかったが、これを聴くと大変な能力の方と拝察する、一度でいいから実演を聴いてみたかった。

次はまったく知らないお嬢さんだが良い感性をお持ちと思った演奏だ。この曲の展開部は激して ff がうるさかったり、内声部を鳴らし過ぎて和声が濁ったり、リズムやポリフォニーが雑になってつぶれる演奏が大変多い。それを「ピア二スティック」と思わせる誘惑が潜んでいるのはわかるがこのソナタはリストの延長線上にはない。そこを未熟ながら悪くない味で弾いているのがこのNefeli Mousouraだ。ロリオと比較しては気の毒だが後期ロマン派の様式感はまったく欠いており、逆にこんなカラフルなベルクがあっていいのだろうかと思わせるが、むしろそれは個性なのだ(国籍を調べるとギリシャだ)。下品な「ピア二スティック」を回避しつつドビッシーのようなピアノ的ソノリティで和声を感じ切っている。之を好む者しか通じ合えない繊細な神経の切っ先で共感するものを感じた。

最後に、全く対照的にモノクロで、和声の陶酔よりも主題の彫琢と論理構成の解きほぐしに技巧が奉仕している演奏がグールドである。彼はこれをベルク最高の作品として愛奏したが全く同感である。瞑想のように開始して後半で速度を落としpをppで緊張の極点をつくる異例の演奏だ。ピアニスティック志向の人達がffにそれを求める(まったくナンセンスだ)のとは真逆だが、よく聴き込めばピア二スティックという点でも彼らを圧倒している。それをどう使うかが芸術家の格の差ということであり、即物的でロリオとは同じ曲とすら思えないが、僕はこれにいつも悲愴交響曲と同質のエトスを見ている。

 

(こちらもどうぞ)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

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「さよならモーツァルト君」のプログラム・ノート

2017 AUG 15 23:23:29 pm by 東 賢太郎

去る5月7日、午後2時より豊洲シビックセンターにて行われたライヴ・イマジン祝祭管弦楽団第3回演奏会「さよなら モーツァルト君」のプログラム・ノートを公開させていただきます。あれから3か月あまりたち、当日来場できなかった友人にこれを差し上げてますが、クラシック好きとはいえ自称?でありまじめに読んでるかどうかあやしい。それならもっとお詳しいであろうブログ読者のお目にかけたほうがいいと思った次第です(クリック3回で拡大できます)。

本演奏会は評判が良かったようです。動画会社NEXUSのスタッフ3名が完全収録しておりますのでyoutubeへのアップロードも考えられましたが、奏者全員のご許可は得られなかったということで断念しました。僕のトークとピアノはこれが最初で最後なので動画は保存してもらいます(見ませんが)。

 

 

 

プログラム・ノート没の原稿

ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37

モーツァルトに関わると妙なことが起きる

クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-

モーツァルトの父親であるということ

モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密)

クラシック徒然草―ジュピター第2楽章―

 

 

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シューマン「子供の情景」(カール・フリードベルグの演奏哲学)

2017 JUL 17 23:23:58 pm by 東 賢太郎

大学のクラス会では全員が近況のスピーチをするが、これが大体が名簿順である。今回もそうだった。小学校から思い起こしてもかつてアズマの前だったのは赤松くん、朝比奈くん、赤塚くん、青木くんぐらいで、先生にすぐあてられるから早速に心の準備をするのだが、さすがに大学までそれをやると慣れてきてアドリブが上達したかもしれない。

今回もその場でひらめいた取り留めもないことをしゃべって終わったが、いつもそんなものだから内容は終わるとすぐ忘れてしまう。まして近年は物忘れというかそういう短期記憶の薄弱ぶりは半端でなく、その話題になると俺もだ、いやこっちはそんなもんじゃないぞとそこらじゅうでわけのわからん意地の張り合いをしながら、俺だけじゃなかったとほっとしてみたりもする。

しかし僕の場合、普通は覚えている昔のこと、長期記憶と呼ぶらしいがそっちも意外に消えていることが20代のころからあって、つまりボケてきただけではないと思われる脳みその構造的問題?もあることがわかっている。クラス会というのは僕にとって、消えた記憶を旧友たちに再生してもらう場みたいに思えてきた。えっ、俺がそんなこと言ったの、やったの?がけっこうあって危ない。恥ずかしくもあるが、ある意味新鮮で自分の再発見でもある。

この健忘症は、済んだことでもういらんと踏んだら即座に消して自動的に「いま」にフォーカスが切り替わる、たぶんそういうプログラム、頭の使い方の癖があって、だから周囲に迷惑をかける側面があるがそうでないと僕の脳内ハードディスクの貧弱なメモリー容量では「いま」に続々とのしかかってくる難題に処していくのが難しい。消去した分がそれに対処する短期メモリーに使用されて、だからどんどん捨てる健忘力の裏返しが集中力なんだと都合よく考えている。

ちなみに僕にとってブログは未来への記録であって健忘の補完、その時点で思ったことの備忘録である。記録として精密は期するものの、書いたらもう過去であり頭から消えていく。同様に、昔に社内TVに出た時の画像や大学で講義をした際のVTRなどが本棚のどこかに眠っているはずで、捨てずにとってはあるが一度も見たことがない。自分のレコードは聴かないという音楽家がいるがどうもそっちの部類の人間だ。

仏法の「諸法無我」がピンときたのも、自分も諸行無常の身であって時々刻々変化しているという教えが腑に落ちたからだ。しゃべっている最中だって変化は起きている。だから同じテーマで2回講義したら、論旨と結論は一緒でも語り口や持っていき方は違う。それはその学校の教壇に登って感じるトータルな雰囲気で決まるし、そこの生徒にぴったりな語りに自然となる。そうやってアドリブではあるがだいたいが結果オーライになってきたように思う。

このことはピアニストの話に置き換えるとさらにわかりやすい。例えばいま執心であるピアニストのカール・フリードベルグ(Carl Friedberg、1872-1955) をご紹介したい。彼はクララ・シューマンの弟子でありブラームスの全作品の手ほどきを作曲家から受けている。写真のポスチャーもどこかブラームス似である。シューマン、ブラームス、ショパン、ベートーベンはいずれ劣らぬオーセンティックな名品だが、その演奏家としての哲学がさらに興味深いのだ。彼にジュリアードで習ったBert van der Waal van Dijk の文章から抜粋すると、

how to sing on the piano(ピアノでどう歌うか)が彼の哲学のエッセンスである。打楽器でありヴィヴラートもかからないピアノで「歌う」のは無理だ、奏者の思い込みかウソだろうと一時は信じていたことがある。しかしフリードベルグのジュリアードでの言説で、そうではない、歌うことが可能なのだと知った。

彼は when musical ideas became complete and exciting during a performance, the music should be dominant even if a few notes might go astray. と言っている。要は、「演奏中に音楽を完全にかつ感興をもって感じ取ったなら、技術の正確さよりそっちを大事になさい、2,3の音符が迷子になってもいいよ」だ。ベートーベンと同じことを言っているが「演奏中に」というのが大注目だ。

さらに music is often conceived aesthetically by the composer before being written down(音楽は楽譜に書かれる前に美に関わる感覚的な領域から作曲家の頭に降ってきており)、since some keyboard instruments limit the imagination, one can silently “orchestrate” a composition on a larger scale(鍵盤楽器はどうしても想像力を制限するから、まず心の中でピアノ曲をもっと大きなスケールでオーケストレーションして聴きなさい)と言っている。

この「演奏しながら心に降ってきたものを弾きなさい」それが「歌う」ことであり本物の音楽になるのだという彼の説く精神の在り方は僕にとっては生き様のようなものであり深く心に刺さってきた。それには楽譜に書いてあるものをエステティック(審美的)に感じ取りなさい、作曲家の心に天からやってきたものは声や弦や管のクオリア(質感)を伴っていたかもしれない、それならその楽器に一旦置き換えて元来の美しさを感じ取りなさい、である。

ピアノという打楽器をガンと打ち鳴らす人が多いから女性に作品を弾いてほしくないと言ったブラームスの感性もそうであったし、クララ・シューマンはその意味では女性奏者ではなかった。そういうmusical ideas が、演奏中にcomplete したり exciting になったりする。フリードベルグはそれが「歌」になり、時としてドラムよりも打楽器的になるピアノを歌わせる方法だと言っているのである。

即興というのは、これほどまでに、訓練を積んだ人にとってはランダム(出鱈目)ではない、その場で「いま」降ってきて心を共振させる何物かなのである。それは「いま」に精神がフォーカス、集中していないと絶対に聞こえないものであり、僕にとっては、職業体験の中で感じてきたこととシンクロする。音楽でもプレゼンテーションでも愛の語りかけでも、自分を誰かによりよく伝えるということにおいてこれ以上の道はないと確信する。

自分ははからずも証券営業という他人を説得する職業についてしまってそれを自然にやっていたらしい、たまたまそういう頭の使い方の癖があっただけだろうが、話の内容よりも話している最中に心に降ってきたエステティックな感動(自分のサイドで起きたものだが)が、日本人であれ英国人であれドイツ人であれ、相手を揺り動かすのだという、それこそエステティックな驚くべき経験を何度もさせてもらった。

そういうものは、台本からはやってこない。プレゼンでペーパーを棒読みするなど、商売に失敗するためにやるようなものだ。だから音楽でも芝居でもそうだが、出てくる音やセリフは「肉声」にまで高まっていないといけないのだ。台本を読みながら演じる芝居やオペラはないが、ピアノも暗譜で弾かなくてはならないのは道理なのである。

ハンス・フォン・ビューローはリストの娘をもらったピアノの達人だが、記憶力も桁外れでピアノ譜など当然として管弦楽スコアも全部記憶しており、指揮台に立つと楽員にも暗譜で、しかも立ったまま演奏するように強要した。ベートーベンの第九がまだ広く知られていないころ、聴衆にも覚えさせようと全曲をもう一度繰り返し、途中で逃げ出せないように会場の扉に鍵を掛けさせたという。

これをファナティック(偏執狂)と呼ぶかどうかは人それぞれだが僕はまったくもってビューロー派だ。パフォーミング・アートにゆとり教育などない。間違えないように台本をなぞる芝居など、ぼんくら大臣の国会答弁に等しく初めからやめたほうがいい。ピアニストもしかりであることは当然だ。聴衆だって、コンサート会場でプログラムをめくりながらバッグの底の飴をまさぐっているようでは永遠に何も降ってこない、時間の無駄だ。

カール・フリードベルグの弾く「子供の情景」に耳を傾けてほしい。彼がクララの弟子ということではなく、虚心に心の耳で。シューマンの心に降ってきた姿が見えないだろうか?こういう演奏をどうのこうのと批評するだけ言葉も音楽も穢れる気がする。音楽は「する」ものであって、本来文字が入り込む領域はないのだ。フリードベルグの言説を借りるなら、音楽を聴く、演奏するというのはこういうものに精神の奥深くが浸りこめるかどうかだろう。

まあ僕がスピーチする場もクラス会ぐらいしかなくなってきたし営業することももういらないし、どうせあとがあっても20年ぐらいだ。これからじっくりと名ピアニストたちの紡ぎだす音楽の醍醐味を楽しんで生きたいと思っているが、それにしても思うことがある。

クラス会で「いまは晴耕雨読だ」という人が何人かいて、これが理想郷のように羨ましく響いたわけだ。こういう年齢になると第二の人生などと口をそろえていいがちだが、定年になると次も何か仕事をしないといけないなんて思ってないだろうか。どうもそんなのは惰性かいわれのないプライドか強迫観念じゃないかと思うのだ。貯金でも年金でも食えさえすれば、好きなことして遊んで暮らすのがいいに決まってる。

人生真面目に来た人ほどその強迫観念のトラップに嵌る。徹夜マージャンといっしょで、長時間すべったころんだをやって来てしまうと、情動に慣性が働いて今更抜けられなくなるのだ。朝になって千点勝ってようが負けてようが人生ではまったくもってどうでもいいことなのに、なぜか熱くなってこれを取り返すぞと血眼になって頑張ってしまう。そういう頑張れる自分に安心したりもして、そんな馬鹿な自分と知ってるのに、またやってしまう。

昔、喫茶店のテーブルにインベーダーというゲーム画面がはめこみであってみんな熱中した時期がある。ところが、いいとこまで攻め込んでえいっと弾を放ったら「ゲームオーバー」だ。弾がむなしく静止して貼りついたりして嘲笑っている。ちくしょーとなって次の百円玉が消えるわけだ。第二の人生って、これじゃないか?いつも千円はすってたが、別に点数取って勝ったところで何の得があるわけでもない。常に俺は何やってたんだろうとむなしくなって帰るのに。

インベーダーや麻雀ぐらいならいいが人生でそれをしてしまうと一夜では済まない。5年10年を知らずに費消してしまう。徹マンしてやっと2千点浮いたぞなんて喜んだ瞬間に「人生双六」の画面に「ゲームオーバー」が出てしまったりするんだ、きっと。僕らにもうそんな時間は残っていまい。それを言うなら僕も徹マンから抜けてないし死ぬまで仕事するぞなんて公言までしてる。いくら儲けたって終わりはない。頂上のない登山。どこかで息絶えるが、それが標高100mだって3000mだって、その時になったらそんなに違いはないようにも思う。

何となく、クラス会でスピーチしながら、「それは馬鹿かもしれないぞ」とエステティックなものが脳裏に降ってきて、その瞬間に「もう俺は金もうけはどうでもいい」とあんまり脈絡のないことを口走った。みんなこいつアホかと思ったかもしれないが、カール・フリードベルグ流には正しい行動なのだった。

 

(ご参考)

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

クラシック徒然草《癒しのピアニスト、ケイト・リウに期待する》

 

加計学園問題を注視すべき理由

 

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