Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______音楽と自分

ファツィオリ体験記

2017 MAY 15 2:02:54 am by 東 賢太郎

この名器を初めて聴いたのはたしかニコライ・デミジェンコのショパンで、実物を目の前で味わったのはアルド・チッコリーニ(ベートーベン、ファリャ)でしたが、どちらも楽器の個性としてはそう印象的でもなく人気の理由がピンと来ていませんでした。ただ、最近にアンジェラ・ヒューイットの美しいバッハとラヴェルを聴いて少し関心が出ていたのです。

吉田さんから豊洲シビックセンターのファツィオリを予約したので練習に来ませんかとお誘いをいただきました。5月1日のことです。年産台数で数千のスタインウェイに対し130しかない希少品。もちろん喜び勇んで参上し、都内ではここしかない、舞台上に神々しく輝いて見える「コンサートグランド、モデルF278」に謁見したのです。そんな場所で弾いたことはありませんから、初めてマウンドに登ったときより緊張いたしました。

近くで見るとそんなに大きいという感じはなく、タッチは軽めです。座ってみると奏者に威圧感を与えないやさしさがあるなというのが第一印象でした。ホールへの音の抜けなのかピアノの性能なのか、とにかく中空にふわりと舞い上がる音響が気持ち良かったというだけで、何を弾いてるのかわからないままにあっという間に40分が過ぎ去ったのです。

やっぱりいいなと少しだけ腑に落ちたのは5月7日の本番直前、ゲネプロが終わってオケの皆さんが退出するどさくさにまぎれて、思いっきりラヴェルP協mov2とダフニスを鳴らしてみた時です。3千万円のフェラーリなんですが素人がアクセル踏んだって思い通りに反応してくれるイメージですね。「欲しいでしょ」と吉田さん。「うん、ホールごとね」、これ本音です。

田崎先生によると調律が特別であって、普通は高音に行くに従ってピッチを上げるがその上げ度合いが少ないからオケが合いにくいとのこと。それは全然わかりませんでしたが、そのせいなのかどうか、柔らかく響く3度がとろけて美しく、暖色でまろやかではあるがクリアに煌めくタッチも連続的に出ます。低音は太くよく響くが金属的に重たくはなく、上の音と絶妙にブレンドします。

一言でいえばまろやかにカラフル、典雅な落ち着きがあり、ボルドーよりブルゴーニュであり、僕的にはロマネ・コンティを初めて飲んだ時の感じ。音響的には倍音成分がやや多いように聴こえ、それをコントロールする腕があれば汲めども尽きぬ楽しみがありそうです。その分、素人には魅力を引き出すのは訓練を要するかな、ともあれ今の僕に至ってはまったくの猫に小判でありました。

しかし、このたびこの名器に触れさせていただいた体験は大きなものでした。ファツィオリと毛色は異なるものの、家の東独製August Försterも悪くないぞという気がしてきて、アップライトなので壁に斜めに置いて部屋の反響を取り入れて弾くとどこか大ホールで弾いたあの感じになるということを発見し、はまっています。

レクチャーの写真を送っていただいたのでここに貼っておきます。

 

機会をいただいたライヴ・イマジン西村さん、ピア二ストの吉田さんには感謝あるのみ、そして最後になりますが、指揮の田崎瑞博先生およびオーケストラの皆さま、最高の演奏会をありがとうございました。

 

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モーツァルトに関わると妙なことが起きる

5月7日のコンサートのお知らせ

 

無人島の1枚?ピアノをください

 

 

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モーツァルトに関わると妙なことが起きる

2017 MAY 14 1:01:53 am by 東 賢太郎

仕事柄スピーチというのは何十回もやりましたし、二十ぐらいの大学で金融・証券の90分講義もしています。僕はいかなる場合も原稿は書かない主義なので、今回も、音楽のレクチャーは初めてでしたがやっぱり流儀は変えずアドリブでした。同じのをもう一度やれと言われても無理ですし、話した中身も順番もすでにけっこう忘れてます。

ではどうやって話を進めるかというと、忘れてもいいようにテーマに添った話題を多めに用意しておいて、あとはその場でお客さんの反応を感じながらの即興です。客席のレスポンスというのは如実に肌で感じるのですが今回はお陰様でポジティブで素晴らしく、あれなら2時間でも3時間でも本当にいけたでしょう。

実はこれをお引き受けするにあたってはホールのピアノがファツィオリというのも効きました。されど本番で大ホールで自分で弾くなどという蛮勇は当初はなく、楽譜だけ用意してピアニストの吉田さんにお願いしようと思っていたのです。そうは問屋が卸さず自助努力でとなってしまい、やめときゃ良かったと後悔しましたがもう遅かったのです。

僕はモーツァルトに関わるとどうも妙なことが起きており、2005年のウィーンでの奇異な体験はコンサートの打ち上げディナーでオケの皆さんにはご披露しましたが、誰も信じない本当の話です(まだブログにはしてません)。今回も嫌な予感がしたのですが、やはり本番でハプニングが起きてしまいました。

ジュピターを弾いている最中です。譜面台にあったハイドンの楽譜が空調?の風で吹き飛んで、鍵盤の上に1枚だけはらはらと落ちてきました。それがなんと、弾いている両手の上に風圧でピタッと貼り付いてしまったのです。手が見えない!下に落ちる気配もない! パニックでした。

右手で振り払って床に落っことし、ジュピターは暗譜してたのでなんとかなりましたがもう完全に動揺してました。次のPC25番は暗譜しておらず、譜面が飛んだらアウトです。飛ぶなよ飛ぶなよと祈って弾いたら間違えました。子供の頃モーツァルトはハンカチで両手を隠して弾くのが十八番でした。どうも僕はモーツァルトに関わると妙なことが起きるのです。

譜面が落っこちてます

 

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ファツィオリ体験記

 

 

 

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どうしてワタシがオペラに?

2017 APR 19 13:13:12 pm by 東 賢太郎

僕はワイン好きですが、ウンチクたれる奴が大嫌いです。英語でそういうのをワイン・スノッブ(俗物)と呼びますがちゃんとそういう連中の社会はできていて、ロンドンにいたころ爆笑して読んだ「一流のワイン・スノッブになる方法」という本があって『赤で高級そうなのが出てきて意見を聞かれたら何であれ「It’s big.」と言えば安全である。ただし白でそれは禁句である』なんてどうでもいいノウハウがたくさん書いてある。スノッブを茶化す本なのですが、恥をかかない実用本としてまじめに買う人もいるんでしょう。

フランス料理もおんなじで堂々たるスノッブがいます。パリのタイユバン・ロブションとかアラン・デュカスなんてそれだらけで、料理はお値段なりの味で全然どうってこともない。それがワイン・スノッブの巣窟でもあって、高いのを飲ませてふんだくって連れの女にいかに見栄を張らせてやるかの演出にたけた店だから高級店ということになってる。ジュネーヴやブリュッセルに半分の値段で良心的でもっとおいしい店があります。

オペラにもいるんですね。ザルツブルグ音楽祭なんてオペラのタイユバンみたいなもんで、カラヤン・ウィーンフィルの薔薇の騎士なんて劇場に入っていく着飾った客を見る群衆がわんさかいて貴婦人気取りの女のファッションショーでもあった。女に見栄を張らせてやる代金が乗ってるからチケットは馬鹿みたいに高いし、逆に高くないと女にお値打ち感が見えないから男に売れない商品でもあるのです。

そういうのがいると庶民は気後れして「どうしてワタシがオペラに?」となりがちですが、そんなもったいないことはない。ああいう女はどうせ音楽なんて聞いてないでしょ、ワタシは楽しんでるわと上から目線で見てやればいいのです。モーツァルトは「オペラでは音楽が劇のしもべじゃいけない」と言ってます。音楽がわからないオペラゴーアーはただのスノッブです。

「わかる」というのはアンダースタンドでもコンプリへンドでもなくて、アプリーシエイト。良さを知っている、それでいいんです。良さというのは自分の趣味(好み)であって教科書で習うもんじゃない。だから音楽を楽しむとは実は自分の趣味を知ること、自分探訪なんです。それが「うきうきする曲」でも「悲しい曲」でもいい、なぜならそれが自分だからです。

ところが「わかる」は知識やウンチクからくると思ってる人がたくさんいます。二百年も前の曲は確かにそれがいくらもあります。でもそんなのは音に関係はない。音楽は音だけでできてます。モーツァルトが早死にして可哀そうだから彼のレクイエムが悲しく響くわけじゃない、音そのものが、雄弁に、悲しい、だからそれは名曲なのです。これを聴いて悲しくなれば、それで十分に「レクイエムがわかった」でいいのです。

モーツァルトは原因不明で若死にしたためやたらと同情票が入って、音楽とは無縁な所で都市伝説まみれになってる、僕はむしろそれに同情票を投じます。彼の音楽は同情のしもべでもない。映画のおかげで知らなかった人に曲が聞かれるなら悪くはないけれど、彼がその手の理由で聞かれる必要のある他の作曲家と同列に思われたらあまりの冒涜でしょう。天才は音楽だけによって判断されなくてはなりません。

僕の音楽の趣味はけっこうはっきりしてますが、バッハもシューマンもメシアンも好きです。それがどういうことかというと、例えて言うならワインは品種の味わいが基本でありそれが音楽なら「音」に当たります。葡萄はシャルドネでそれがモンラッシェになったりシャブリになるのであってそれは枝葉です。そしてウンチクは葡萄でなく枝葉に実るのです。同じことで、よく聴きこめばハイドン、モーツァルト、ベートーベンが「同じ葡萄」からできていることがわかります。

バッハの子だくさんやシューマンの自殺未遂やらメシアンの音の色彩やらは、ソムリエ検定試験には必須の知識ですが、鑑賞にはまったくどうでもいいのです。そんなことに時間を割くぐらいなら1曲でも多く聴いたほうがいい。それで面白くなければ自分探訪はハズレだから他のを聴く。そうやって探し当てた「あたり」の曲は一生の友です。それが自分の趣味とわかるから、そういう特徴の曲を集中的に聞けばさらにあたりを効率よく探せます。

クラシック・スノッブになりたい人はなればいいし、それにも一流と二流があって、一流になれればそれはそれで社交には役に立つかもしれません。しかしこれから聞こうという人はスノッブはノイズをまき散らすだけの御仁なので完全無視で、自分の趣味だけを信じ、その曲を誰が何と言おうとお構いなしで覚えるまで聞きましょう。音楽の魅力のエッセンスは音に、それを記号化した楽譜に詰まっています。それを忘れなければクラシック攻略は極めて近道を通れるのです。

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アラウ/セガルのブラームス・ピアノ協奏曲第2番

2017 MAR 11 23:23:37 pm by 東 賢太郎

40年も前、大学時代に下宿でカセットテープに何気なく録音したものがまだ残っている。それをADコンバーターでディスク化してyoutubeにアップすれば世界中のファンと共有できる。

ネット時代に生まれ育った世代には当たり前のことでしょうが、法律の勉強の合間に毎晩聴いて、傍らで飲み食いしていた22才の生活感までリアルによみがえる録音が「そこ」に移住したというのはそれだけでも不思議な気分です。

アルバート・アインシュタインは「過去、現在、未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である」と言っています。そうか、となると40年前の過去なんて実は俺の夢か幻想だったんじゃないか?


 

そこにこういうものが、まるでタイムカプセルにあったみたいに、戸棚の奥から埃にまみれてぽろっと出てくる。

 

 

 

僕は22才の僕と並んでいっしょにこれを聴いて、ふたりとも同じように感動する。そして22才は明日もやるぞと元気になり、それを見た62才のほうは、ああこれは幻想じゃなかったんだとほっとするのです。

アインシュタインはこうも言っています。「野望やただの義務感からは本当に価値のあるものは生まれません。それは、人や対象となるものへの愛と献身から芽生えます」。

愛と献身!ひとつだけ確実にわかったのは、22才から持っていたそれを僕は今も変わらず持っているということです。この素晴らしい協奏曲への無限の愛を。

そして、それが同じぐらいあることを感じさせるアラウとセガルのこの見事な演奏!40年の闇に眠らせなくてよかった。

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ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

 

 
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我が来し方に響く音楽

2017 MAR 5 13:13:08 pm by 東 賢太郎

幼時の記憶というと電車と星です。それ以外に熱中した覚えがありません。電車は床下の車輪や機械部分ばかり見てましたが、星のほうもとても小さいころに絵本で物体と知り、以来そう見てました。

前回そう書いてみて、このところ、そうした自分のありし処というか、生まれつきの性質にどんどん帰っていっているように思いました。

それが遺伝なのか、何処から来たかはさっぱりわかりませんが、僕は大自然の摂理というか宇宙の根本原理みたいなものに絶対の価値を置いていて、それ以外のものはなんであれすべて下位、卑俗のものと感じるのです。教育や宗教でそうなったのではなく、幼時から心の真ん中に鋼のようにそれがあります。

だから人文系の学問はかけらも興味がなく、色弱なのでやることになった法学も宇宙の根本原理からしたら町内会のゴミ出しが火曜か水曜かぐらいどうでもいい事でした。文学は要はウソです。そんなことはない人間の真実を描いているんだとかいうが、そんな真実は存在しない。人間は単に宇宙の一部です。

そもそもそういう言葉の遊びがウソに見える。MBAの勉強はその集大成みたいなところがあって、商売としてビジネスモデルだシミュレーションだと科学的根拠の希薄な用語をふりまわす。それをMBAが何の略かすらわかってない者がもっとわかってない者をごまかそうとふりまわす。猿の演じる猿回しである。

では科学至上主義かというとそうではなく、科学も人間が宇宙をひもといてみただけのものだから文学といい勝負です。自然の摂理で子供を産むことはできても、科学によって人間をゼロから手で作ることは永遠に無理でしょう。その程度のものを宇宙の根本原理と比較するなどナンセンスであります。

自分の知覚、五感、六感、すべてを総合して強固にそう信じているので、僕は「人間の作ったもの」に何の価値も感じない困った人間なのです。

俺様主義ではありません。自分の作ったものも同じことです。書き終わったブログは無価値に見えます。記録として、後述するある目的のためだけに存在します。ふがいないですが、62年してきたことは全てが宇宙の下部機構の凡俗に与えられた欲望の果て、芋虫が這った跡を眺めるがごとしです。

その軌跡のなかでふるいにかかって残った音楽。これは何かというと空気振動の周波数が脳内に生み出す調和が宇宙の根本原理に共振している、そうとでも思わないと説明できない唯一のものと感じるのです。美食や万華鏡も似た作用はありますが、その程度でなく、悲しくもないのに涙を流すほど絶大な作用がある。

例えば昨日目覚めるとラフマニノフ3番の緩徐楽章が脳内で鳴っていて、冒頭の弦の部分、あれをピアノで弾いてみたらなんと涙が止まらない。僕にとってそういう現象がほかの芸術や美食や万華鏡で起こることはなく、音楽の作用は圧倒的に別物であって、もう事件といってもいい。

ラフマニノフも人間だ、人の作ったものではないのか?確かにそうですが、この事件はきっと彼の脳内でも起きたのだろう。いわば彼が森で見つけた薬草を食べて快い幻覚を見た。それを残してくれて、それを僕も食べて同じ幻覚を見ている。彼は製作者ではなく発見者なのです。何の?  根本原理のです。

なぜ?  音楽は周波数変化が脳内に引き起こす化学反応であって、楽譜は化学反応式なのです。化学反応なのだから宇宙の根本原理に添って起こるのであって、そこに人間は出てきません。あるのは薬草が効くかどうか、効く薬草を探したからラフマニノフは名を残したのです。

なぜ僕にとって作曲家が関心事であるかがそれで説明されます。「こと座」を見て僕は宇宙の根本原理であるα星べガの物理特性しか考えませんが、「作曲家」も書いた楽譜の化学特性で名を成します。モオツァルトの走る悲しみなどと書く小林秀雄のような人は、ベガを織姫と思う人ほど僕とは別な星の人です。

作曲家がどんな人かより書いた曲。モーツァルトはK.491やK.551によってモーツァルトたるのであります。それらは彼が森で探した薬草でできてます。ではどんな草かという世界に分け入ると、子供のころオリオン座のβ星リゲルの強烈な物理特性を調べて驚嘆したのとちっとも変わらない。

だからK.491やK.551は僕にとってベガやリゲルのような恒星です。そして(子供のころ)「それ(物理特性)を詳説した本がないことにいらだってました」と書いたのがいまそのまま音楽にあてはまる。であれば、自分が読みたいそれを自分で書き残そう。曲名でブログを書く第1のインセンティブはそれです。

それがこういうものであり  ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君) 、僕が見つけてそこに置いておいた薬草をこんどはイマジンの西村さんが発見して下さった。バルトーク「子供のために」をよっしーさんが「今ならじっくりと対峙出来るぞ!」と言って下さった。これぞ正に本望です。

では作曲家という人間は宇宙の根本原理の下位、卑俗にすぎないか。YesでありNoでもあります。我が無能を知ればNoでもある。それを示すのが第2のインセンティブであり、ブログの力を借りて僕は作曲家の楽曲の宣教師をする、それがモーツァルトへの印税であり、宇宙の根本原理への帰依でもあります。

 

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芥川也寸志さんと岩崎宏美さん

 

クラシックは「する」ものである(1)

 

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ゾルターン・コティシュの訃報を知る

2017 FEB 28 1:01:04 am by 東 賢太郎

昨年の11月は仕事が恐ろしい勢いでふりかかってきていて、ゾルターン・コティシュが亡くなっていたのを知りませんでした。まだ65才で僕と3つしかちがわないというのが悲しいです。

彼の苗字Kocsisの日本語表記はwikipedia等でコチシュとなっているようで、マジャール語でそれが近いのでしょうが(さらにいえば姓名はKocsis Zoltánの順ですが)、僕が知った70年後半ごろはコティシュ、またはコティッシュだったはずでそう頭に入っております。その残像を大切にしたく、あえてゾルターン・コティシュと記させていただきます。

この天才の実演を聴いてませんが忘れられないピアニストで、大学時代に下宿でエアチェックして毎日のように聴いていたのがラヴェルのマ・メール・ロア(デジェ・ラーンキとの連弾)でした。当時二人ともハンガリーの新鋭ピアニストで売り出し中で、粒立ちが良いクリアなタッチにとても初々しい感性があります。曲を初めて覚えた演奏というのは「おふくろの味」になっていてなつかしい。特にこういう人生で重要になった曲はなおさらです。

これが頭にあったのでロンドンへ赴任してすぐ彼のドビッシーを買いました。これはたぶん85年ごろ、最も早く入手したCDの一つでした。そこに入っていたのがベルガマスク組曲で、これまた人生でとても大事な曲になっており、彼の演奏がおふくろの味になったのです。

速めのテンポですいすい行きますが、タッチは立っていて薄味ではあってもコクがあるのが特徴。固めにふっくら炊いた極上米のようで本質はロマンティックと思います。彼が感じきっている和声に僕は同じ気持ちがあり、これがテンポも強弱もイントネーションも原点となったのは初物というばかりでもないようです。

ところがのちにまったく違うクラウディオ・アラウを聴いてそれにも強いインパクトを受けました。両者を比べながら楽曲解釈の深さを学んだ意味で思い出の曲ですが、スイスのころ弾けていたプレリュードをいまやすっかり指が忘れている自分の無能を思い知った曲でもあります。

コティシュはラヴェルも良くて、クープランの墓はオケで全曲(!)やってます。このラヴェル好きの感性も大いに共感するところで、肌が合う人といると心地良いように彼のピアノは気がおけず聞き流せるのですが、ところどころでおっと気を引かれるひらめきがあって結局耳を澄まして聴き入ってしまう。どこか他人事でいられません。

彼のバルトークは鮮烈でした。たくさんありますが、これはすごい。中国の不思議な役人のピアノ4手版です。彼が晩年に指揮者になったのがわかる、実にオケの感触をリアライズした演奏です。

きりがないです。最後に、気に入っているラフマニノフの3番を。この超ド級のコンチェルトをこのテンポであっさり弾いてしまう(!)技術もさることながらそのみずみずしい感性は比類がありません。近年、2番も3番も速弾き爆演派が散見されますが、コティシュの速さはそうした曲芸志向ではない筋の通った解釈であり、それを可能にするのが深く鳴り切ったタッチであるのをぜひお聴きください。ものが違うことがおわかりいただけるでしょうか。ラフマニノフがこれをきいたら何と言ったろう?僕はほめたと思います。

コティシュはいまも心の中で若者のような気がしてます。ご逝去は信じられません。本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 

追記

若き日のジョルジュ・レヘル/ブダペスト交響楽団とのバルトークの2番も忘れられません。

 

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ドビッシー 「ベルガマスク組曲」

 

 

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音楽は人生の伴侶

2017 FEB 27 1:01:00 am by 東 賢太郎

キングカズことサッカーの三浦知良が50才でピッチに立ったときいて驚きました。50といえばどんなスポーツでもオジサンで、アマチュアでもなかなか若者には伍せない年です。プロなんだから敬服しますが、身体能力もさることながらやろうという気力ですね、これなくしてあり得ないことと思います。金や名誉ではなく、サッカーが好きということでしょう実にすがすがしい姿でした。

そういえば、昨日はライヴ・イマジン管弦楽団のリハーサルを聞かせてもらいましたが、年齢層は様々ながらやはり音楽が好きという団員の皆様のオーラを肌で感じさせていただきました。学校のクラブ活動以来ノーギャラという世界を忘れていた僕にとってきわめて新鮮です。初回の練習だからまだこれからの音ですがそれでも田崎瑞博先生のさすがの指揮でジュピターの終楽章は本当に「物凄い音楽」だと再確認いたしました。

モーツァルトのピアノ協奏曲第25番リハーサル(ソロはSMCメンバーになられた吉田康子さん)

音楽というのは完成度を追求するときりがなくて、ベルリン・フィルやシカゴ響をきいていると少しの傷でも気になります。オリンピックの体操やフィギュアを見ていてもそうですね。しかし今日思ったのですが、アマだからもちろん五輪レベルの競技にはならないのですが、それでも音楽は十分伝わると思います。まずは闊達に正しく弾くということ。それさえクリアすれば音楽になるようにモーツァルトは書いてくれているということに気づきました。

終了後に古典四重奏団のチェリストである田崎先生を囲んで西村さん、前田さん、吉田さんと昼食となりましたが、先生はトッププロでありながら飾らない素晴らしいお人柄で、いろいろお話をうかがえて勉強させていただきました。やはりお好きでなければそこまで行けないという高い所におられると感じ入った次第です。このような機会をくださった西村さんに感謝しますが、初回のブログにお書きになったこの言葉はそのまま自分にも当てはまると思っています。

音楽を人生の伴侶とできたことの素晴らしさ、そしてこの広く、深い世界を誰かと分かち合うきっかけかもしれない。

 
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クラシック徒然草《クーベリックの弦チェレ》

2017 FEB 16 1:01:57 am by 東 賢太郎

音楽に右、左はありませんが、あえていうなら僕は超保守の原理主義者でしょうか。それは前回のクセナキスの稿でご理解いただけると思います。何が原理か?「楽譜」では必ずしもなくて、作曲家に降りてきた「何か」である。それが何かは自分の感性で曲の音と譜面から探り出さなくてはいけませんが。

作曲家が森羅万象のメッセージを受け取る媒体なら、演奏家は作曲家が紙に書きつけた記号からそれを受け取る媒体です。良い演奏家かどうかは、作曲家を震わせた大元の「何か」に共振できているかどうかで決まります。万事に良い演奏家はおらず、曲ごとに共振できる人がランダムにいるというイメージです。

だから、何でも振れますという指揮者には懐疑的で「振り屋」と思う。何でも聞きますという人も「聞き屋」ですね。半世紀も聴いてきて好きでない曲はどんなに名曲とわれようと共振しようがなく、作曲家に何が降りてきたか知りようもない。だから良い演奏で聴けば感動できるという道理もないという結論に至ります。これが原理主義です。

古楽器演奏だから原典に近い、これがモーツァルトの楽器でやったピアノソナタで彼の音です、というのはどうも嘘くさい。楽器はそうであってもどう弾いたかは別な話です。楽器、楽譜どちらだけでもなくトータルなものから感性で感知したものが正しい。それは主観ですが、この曲かくあるべしは主観でいいのです。それに合致するものが自分にとって名演奏であり、しないものが古楽器だからといって修正を迫られるものではないでしょう。

好きでない名曲はけっこうあります。自分に正直に一切聞きません。好きな曲は自分の感性で「何か」を探って、それを描いてくれた演奏に出会うまで聴きまくります。出会えばおしまい。だからLP、CDを何十枚も持っている曲は出会いが遅かった、あるいはまだないという曲です(ない方が多い)。たまるのは不幸な遍歴の結果であって僕は収集家ではありません。部屋もオーディオも古い録音をうまく再生するためのものです、なぜなら古い録音に価値あるものが多いからにほかなりません。

kubelik2ラファエル・クーベリックのバルトーク「弦チェレ」はそのひとつ。第1楽章、緊張感をもってひっそりと始まり、シンバルの頂点へ向けて緩⇒急がつき音楽がふくらみ、そこから再度テンポを落としたまま妙な演出なくチェレスタを迎える神秘感の出し方。この呼吸、強弱の感覚、いいですねえ、理想的だ。オケはシカゴ響であり有名なライナー盤より前の1951年モノラル録音です。これがあってあれができた、そうであって全く不思議でない名演です。

第2楽章。ピアノのバランス、音色、そこに重なる木琴の音色、これは最高だ。ピッチカートがややばらつきますがアンサンブルも緊密。テンポも見事で後半のヴァイオリンの表情づけも良し。

クーベリックはチェコ物というのは都市伝説にすぎません。第3楽章、彼はバルトークの聞いた森羅万象の音に共振していると感じます。この楽章はライナーの方が一枚上手ですが、まだこれが大衆名曲になるずっと前に楽譜からこれを読み取った眼力は空恐ろしいものがあります。

第4楽章だけはどうも、バルトーク先生に大変恐縮なのですが、あんまり曲の出来がいいと思ってません。すみません。誰が振ってもso-soであります。

 

クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

 

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)

2017 JAN 16 17:17:43 pm by 東 賢太郎

ラインガウのことを思い出していると、どうしてもこの曲に気持ちが向かいます。

第1楽章はローレライに近いこのあたりのラインの船旅で霊感を得たとされますが本当のことはわかりません。調性が同じだからシューマンの英雄だという人もいて、たしかに彼の先人でEs durというとハイドン103番、モーツァルト39番、ベートーベン3番ぐらいしかないのですが、しかしエロイカとはちがいますね。発想の根源が。外面はともかく霊感の根っことしては6番の田園のほうがずっと近いだろうと僕は思います。

あのあたりというのは僕にとってたんに旅行しましたという多くの外国の場所とは一風ちがっていて、家族との大事な思い出の舞台なものだからもう自分のなかではいわば「ふるさと」に近いものになっています。ロンドンやチューリヒもそうではあるのですが、そちらはむしろ苛烈なビジネスの「戦場」という色彩がつよく、ドイツのような幸福の縁取りはありません。38才で我ながら輝いていた時分の心の軌跡が、まるで後光がさすように投影されて見えるのがシューマンの3番であって、クラシック音楽で一番好きなものはといえば迷わず、他に何ら理由もなく、これということになります。

しかし、これを書いたころ、シューマンの精神疾患はすでに進んでいたそうです。このすぐ前に書いたチェロ協奏曲にそれが悲痛な兆候として出ているのでわかります。ところが、デュッセルドルフに引っ越してライン河畔の素晴らしい風景や気候風土や人々の歓待に接し、その気分を音楽に書き取ってみようと思い立った。そこでいっとき神様が病気を遠ざけたのでしょうか、心にそよ風が吹きこんで、微塵も病を感じさせないこの奇跡のような交響曲が彼に降りてきたのです。

だからこの曲は、人間の精神の奇跡でもある。人工知能がいくら進化しようと、疲れ気味のコンピューターにラインの船旅をさせたらこんな曲が書けましたという光景は想像しづらいでしょう。シューマンの精神に効用をもたらした何ものか、その目に見えない何ものかを僕は僕なりに、この曲とは関係のない所でものすごく愛してる気がします。それは言葉や形にはならない、何万年よりずっと遠い先祖がここに住んでいたのかもしれないぐらいの微弱なものだけれど、僕の精神には甚大な作用を持っている、そういう性質のもののようです。

こういう気分の時しかできない作業のため、以前に書きましたこれ( シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD)の続編として数ある3番の演奏につき数回のブログでコメントを加えます。非常に悔しいが自分で演奏ができないので、失敬ながら他人様の演奏にああだこうだ言わせていただくことで間接的に自分の思う3番の姿を残したいという努力であります。そのために、思いと違う姿の演奏はあえてばっさり否定しておりますが、私見をクリアにするためであり演奏のほうはその鏡であって価値を論ずるつもりはありません。ご不快があれば何卒ご容赦お願い申し上げます。

なるべくyoutubeで音を確かめられるものからやってまいります。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / フィルハーモニア管弦楽団

PRDDSD-350135-260x260ジュリーニの1958年録音、3回の録音の2番目です。第1楽章の雄大なテンポ!これはヴィースバーデンのワーグナーがマイスタージンガーを書いた家からのライン川の景色だ。フィルハーモニア管がやや即物的でオーケストレーションもマーラー版をベースにかなりいじってるのが気になり、終楽章のレガートの入りも気に食わないしコーダの加速は全く余計である。同じスタイルでさらに大人の表現となっているロス・フィルを採るべきでしょう。ただこの恰幅良さ、些末事に委細構わぬ悠揚としたテンポは指揮者の3番への強い思い入れと愛情なくてはオケにここまで伝わらない。その思いには共感があります。

 

ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

817大学1年の6月に初めて買ってラインを覚えた思い出の演奏です。セルは3番を指揮できる人だったというのが重要な情報ですね。即物的で冷たいといわれたが、そういう人にこの曲はできないのです。レコードだけ聞いて批評してる人にはCBSの音作りの印象があったと思います。オーマンディの演奏会での音は日本の批評家のいうイメージではなかったですが、同じことはセルにもあったでしょう、彼はアンサンブルには非常に厳しいがとてもヨーロッパ的な感性だった。この3番にアメリカ的なものはかけらもなく第1楽章の終結も安っぽい芝居は一切なし。マーラー版で金管を補強してますが、どこを微細に聴いても立派な音が鳴っていて熟達の表現です。終楽章の冒頭主題のフレージング!!すばらしい呼吸、コーダの盤石なテンポ、最高です。これで曲を覚えたのは幸運でした。

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

743彼はベートーベン、ブラームスは良くてシューベルトはいまひとつ、シューマンもなぜか4番以外はだめです。第1楽章、このオケと思えぬガサツな弦でほとんど練習してないかと思わせるひどい始まりですが、その後もヴィヴラートは過多だし、悪趣味なポルタメントはかかるわ、第2主題はぬめぬめレガートをかけるわ、ホルンのパッセージは意味ありげに安手のリタルダンドするは、再現部は第1主題に意味ない盛り上げの努力をするは、すべてが人工的、表面的で彼はラインガウでゆったりシュタイゲンベルガーなんか味わったことないんじゃないかと訝ってしまう。これが好きな人がいても構わないが僕とは極めて異質な感性であります。第1楽章で充分不合格で後は聞く気なし。

 

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

110VPOの音で始まるがやや力こぶが入りすぎで、テンポが頻繁に無用に伸縮してジュリーニのようなラインの風景が浮かびません。コーダの加速は意味不明で趣味が悪い。第4楽章のマーラーのごときロマン的な解釈は彼の個性としては良しで終結の悲痛さから第5楽章への場面転換は見事ですが、そのアプローチで全曲を劇的に構築しようというのはそぐわないでしょう。終楽章終結へのリタルダンド、アッチェランドは暴力的ともいえるひどいもので、VPOもこの曲がうまいわけでは全然なく、指揮者ともども感性にお門違いも甚だしいものを覚えます。

 

ブルーノ・ワルター / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

316音が悪くて敬遠してましたが前半は悪くはないです。ワルターのラインはこれだけです。第1楽章はややテンポの弛緩はあるがコーダで無用に興奮しておらず、第2楽章の暖かさはワルターらしい。第3楽章はちょっと速いですがこれがスコアの指示でしょう。オケにデリカシーがなく雑然と鳴るところがあるのは惜しいです。問題は終楽章のテンポと弦のフレージングです。これはマーラー版でもなく彼の主張ですがついていけませんし、再現部直前のルフトパウゼにはひっくり返ります。最後も微妙ですがアッチェレランドしてます。向いてません。ワルターファンのためのものでしょう。

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(2)

 

 

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2016年の演奏会・ベスト5

2016 DEC 31 21:21:43 pm by 東 賢太郎

今年は忙しくてN響、読響ともかなりすっぽかしてしまいました。行ったなかでのベスト5ですが、以下の通りです。

1位

加藤旭:合唱曲「くじらぐも」(メイク・ア・ウィッシュ演奏会)

2位

ビゼー:歌劇「カルメン」(C・デュトワ/N響)

3位

コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35(五嶋 みどり/カンブルラン/読響)

4位

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 (ユリア・フィッシャー/M・ヘルムへン)

5位

フィンジ:霊魂不滅の啓示 作品29(下野 竜也/読響)

 

以上どれもインパクトのある演奏でした。1位の「くじらぐも」ですが、この演奏会のすぐあとに16才の作曲家、加藤旭さんは亡くなりました。この日初めて、僕は真っ白な気持ちになって、音楽を愛する心は曲を通してまっすぐに聞き手の心に伝わることを教わりました。

僕の音楽を愛する心もつよいです。そのおかげで4年間こうしてブログを書き続けることができました。お読みいただいている皆様にも、その力で何かが届けばうれしいです。本年は思うところあって年初から4月まで執筆を休止しましたが、それでもアクセスが増えたのがやめられなかった理由でした。

愛情は死ぬまでつづくので、ブログもそれまで続くと思います。本年も拙文に貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。よい年をお迎えください。

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