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クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-

2014 JAN 15 3:03:47 am by 東 賢太郎

彼の音楽を美しい、快活だ、典雅だ、明朗だ、悦楽だ、かわいらしい、デモーニッシュだ、絶望だ、悲しみだ、などと評した人たちは歴史上にたくさんいます。しかし、怖いといった人はいるのでしょうか?

僕にとって、モーツァルトの音楽は怖いものです。

たとえばピアノ協奏曲の20番、24番、レクイエム、これらは短調曲だし、ドン・ジョバンニの地獄落ちの音楽などはいかにもでしょう。それらも充分に怖い。しかし協奏曲25番、ジュピター交響曲、ハフナー交響曲、ピアノ・ソナタヘ長調など長調で明朗に聞こえる作品もそうです。フィガロの結婚も戴冠式ミサも。

それはホラー映画のような怖さではありません。そういう恐怖感というのは、子供のころのお化け屋敷もそうですが、ここはそういう場所だ、出るぞ出るぞという心の準備があります。本当に怖いのは、そういうはずがないシチュエーションで出会ってしまう、「そこにあるはずのない何か」なのです。

不思議の国のアリスが井戸をのぞきます。これはもちろん勝手な想像ですが、落ちる前に彼女はそう感じたんじゃないだろうか。日常のなかでふと足元を見ると地面にぽっかり穴があって、それは中をのぞいても真っ暗で底の見えない無限の洞(ほら)であって、僕の場合そこに入るわけでもなく、何か見てはいけないものを見た気になって背筋が寒くなる。

こういう恐怖は日常にあるわけでもなく、本当にそんな穴を見たわけでもありません。あくまで「そういう感じ」なのです。動物はお化けのようなものを見て、危険と思って逃げるかもしれないが「ぞっとする」ことは多分ないでしょう。サルに暗がりでお岩さんを見せて悲鳴をあげるとは思えない。でも人間にはそれがある。人間が本能的にもっている固有の感情であって、ふつうは一生に何度も感じないが、モーツァルトを聴くと僕の場合それを何度も味わうことになるのです。

誤解していただきたくないのですが、もちろんモーツァルトの音楽をお化け屋敷に入るような気持ちで僕が聴いているわけではありません。例えば20番のコンチェルトを聴くと、その時の精神状態によるのですが、とてつもない変化が心に起きて、それが何か僕の耳が普通でないもの、異形なもの、時に異様なものまでをそこから聴き取ってしまった結果としか思えなくて、それ以外の原因でそんなことが起こるはずがないから「怖い」という言葉で表現するしかなくなってしまうという感じなのです。そんなことがモーツァルト以外のいかなる音楽で起きたこともなく、起こるとも思えません。

どんなジャンルであれ音楽好きの方は、理由もなくある曲が、あるいはその曲のある部分が、楽しい、気持ちいい、ずっと聴いていたいというような経験がおありと思います。クラシックをそういう風に聴いて悪いはずもなく、僕はベンチャーズ以来いまでもそうやって楽しんでいます。シューベルトの歌曲のもつ文学性とか、ベルリオーズの狂気とか、そういう文学的なコンテクストを読み取ろうとする聴き方は性に合いません。同様に小林秀雄のようにモーツァルトに「走る悲しみ」を聴き取るなど、とうてい無理であります。

モーツァルトの音楽の魅力が、あるいは彼の人生の晩年の悲劇が、聴く者にそういう情緒的、文学的な感興をもよおさせるのはどこかわかる気もします。自分自身もし彼がハッピーエンドの人生を送っていたら、あのレクイエムに同じ気持ちで接したかどうかの自信はない。しかし、それゆえに、彼の音楽は後世の信奉者によって無用に情緒的、文学的に美化されている気がしています。まるで老いらくの恋のラブレターの嵐であり、その結果として相手の女性がどんな美女だったかということばかりに世の中の想像や関心が偏っているようです。

ラブレターは嬉々としてふざけて羽目を外す彼に向けられることはあまりなく、ほとんどがその陰にある悲しさや辛さや寂しさ、忍び寄る死の影へのおそれなどという負のベクトルの方に向けて書かれます。日本人に彼のファンが多いのは、辛さ苦しさに耐えて表面は明るくつとめながら健気に生きる人間を好きな国民性があると思います。いわば「おしん」のような姿です。だから彼のあまり多くない短調曲こそ「おしん」の本音がぽろりと漏れ出た感極まる泣かせのセリフであり、そこに尋常ならぬ清らかな美、すきとおった涙を聴き取ろうとするかのように僕には思えます。

そういう方々を否定する気はありません。しかし僕は彼の手紙と自筆譜を見て思うのですが、彼は非常に頭のいいプラグマティックな職人であって、作曲という行為は有能なインベストメント・バンカーが手慣れたプレゼンを10分で作ってしまうのと似て、とても技術論的なものに立脚していると思うのです。プロのバンカーもビリヤードをしながら素晴らしいプレゼンを書けてしまいます。そうやってドン・ジョバンニの序曲を書けたからモーツァルトは天才なのではなく、そういう実務的な書き方の天才であったわけです。ですから、彼は悲しいから涙を流して短調曲を書いたわけではなく、必要だから、何かの動機で書きたいから書いたのだと思います。

例えばピアノ協奏曲23番は両端楽章がイ長調で、まんなかの第2楽章は物悲しげな嬰へ短調です。20番は両端がニ短調、まんなかは変ロ長調のロマンツェです。もちろん書いてる途中で気分が変わったからではなく、全体のバランスをとる必要を感じたからでしょう。三大交響曲も39、41番と両端が長調で、まんなかの40番がト短調であるのは、別に「走る悲しみ」の衝動に襲われたのではなく、あくまで冷静に3曲で一括りという当初からの設計があって、バランスを考えたに違いありません。

彼はパリでお母さんをなくしてもウィーンで故郷の父の死を聞いても、それをうかがわせる葬送行進曲のような曲は書いていません。彼にとって作曲というのは生活や感情を映す鏡とは別のものだったようです。どんな歌手でもその個性にぴったりのアリアを書くのが得意でした。まるで洋服の仕立て人のようです。世の中には「悲しげな洋服」があるわけではありません。悲しいならばそのシンボルである喪服というものを淡々と仕立てればいいということでした。彼の短調はきっとそういうものです。

即興が得意ということは、弾きながらリアルタイムで作曲できるわけですが、彼の場合は楽器すら必要なかったようで頭の中で弾いた即興がバチカンの秘曲のようにメモリーされ、あとはそれを譜面に落とすだけでした。だから自筆譜はまるでいきなり清書のようで、41番などほんの一部を除いて小節を削除したり後から加えたりした痕跡すらないのは驚くばかりです。それは作曲のミクロ部分を行いながら別の知性がマクロ的なプロポーションまで設計しているということであり、あらゆる作曲家のなかでも特別な能力だったと思います。

そういう作曲のなかで、どうしてああいう「怖い」ものが混ざってくるのだろう?それは子供時代の曲にはないのでやはり彼の精神の成熟と関わっていると思います。古典的な音楽に耳が飽き足らなくなってきて、どこかで境界を踏み越えてしまう。ドン・ジョバンニの地獄落ちのシーンにつけた音楽はそういう性質のものであって、彼はあそこを書きたくてあのリブレットが気に入ったんじゃないか、そう思います。そしてあれを書く予行演習はピアノ協奏曲の20番、24番で積んでいるのです。それはそれらがすべて短調曲だから、デモーニッシュだから怖いのではなく、怖いものを書くための小道具に短調という喪服が欲しかっただけです。

ピアノ協奏曲20番の第3楽章のピアノソロ譜です。5小節目から耳鳴りのように鳴り続けるA(ラ)の音を起点にオクターヴ上のAまで音が半音ずつずり上がっていく。すると今度はD(レ)を起点に半音ずつずり下がり始める。12音音楽の萌芽を見ます。大変恐ろしい音です。この部分を、より抽象化された方法で、同じだけの怖さをもってそっくりに書いたものがバルトークの弦楽四重奏曲第5番の終楽章に現れます。彼がこれをベースにしたことを僕は確信します。

モーツァルト20番

長調曲では喪服はいりません。それでも彼は恐ろしい音を書き記している。例えば下のピアノ譜はジュピター交響曲の第2楽章です。枠内の和声は古典派の規則性で動いてきた帰結として当然のような顔をして現れますが、出てくる音は凄まじい。

 

これらはほんの一例にすぎません。

彼の音楽を美しい、快活だ、典雅だ、明朗だ、悦楽だ、かわいらしい、デモーニッシュだ、絶望だ、悲しみだ、と人々が評するのは、日常のなかでふと足元を見ると地面にぽっかり穴があって、それは中をのぞいても真っ暗で底の見えない無限の洞(ほら)であって、それが及ぼした作用を無意識に感知したからなのではないでしょうか。誰もがそういう普通でない何かを感じるからモーツァルトをくりかえし聴くのであって、そうやって培われてきた深い愛情を、人それぞれが自分の方法で表現したものがそれなのではないかと僕は思っています。

 

 

(こちらにどうぞ)

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

バルトーク 弦楽四重奏曲集

 

 

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