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カテゴリー: ______シューマン

フォーレ「夢のあとに」作品 7-1

2025 JUN 15 8:08:40 am by 東 賢太郎

先月書いた「詩人の恋」は僕にとっては平静に聞けない音楽だが、それはシューマンが封じ込めたアウラが心の奥底に深く忍びこんで共振してくるからだ。シューマンの音楽のなにもかもがそうなのではなく「詩人の恋」だけの持っている特別な味だ。それをくみ取って、余計なことをせずに直截に演じてくれる音楽家を探す。クラシック音楽という無尽蔵の宝を渉猟する楽しみはそれに尽きる。

その稿にヴンダーリヒとシュライヤーの歌唱をあげたが、共振という意味で最もインパクトを感じるものをあげろというならシャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトーになる。これをあげなかったのは、録音が古いからでもコルトーのピアノが技術的に弱いからでもない。フランス語圏の(パリ音楽院の)パンゼラのディクションがどうかと思ったからだ(ドイツ人に聞かないとわからないが)。しかし、仮ににそうだとしても演奏の魅力をいささかも減じない。39才の彼も伴奏のコルトーもハイネの詩心を深く読んでいると感じるからである。詩人の憧れ、夢、恐れ、怒り、動揺、焦燥、虚勢、諦めを音楽的技法で “解釈” し、その完璧さや知性の透徹を愛でる、フィッシャー・ディースカウがドイツ・リートで成し遂げた歌唱の到達点へのスコアでは計れない魅力がそこにはある。人肌の感情、情動に入りこんで音に堂々と、切々と発露する、こういうことはロマン派の音楽といえども、昨今の演奏家はどういうわけか、古いと思うのか禁欲的になったのか、あまりみられなくなっているようだ。しかし、この曲に関する限り、シューマンはそれを求めている。その起伏の波が心を揺さぶらないはずがない。コルトーが弱いと書いたが、1935年当時、楽器演奏に完全主義を称揚する哲学もまだない。

恋をした男が夢のなかに奇麗な彼女を見て心が動く。ところがある日、彼女は心も姿も変容しており、恋は夢と共に消えてゆく。このモチーフはベルリオーズが「幻想交響曲」で用い、シューマンがこの曲で用い、メーテルリンクが「ペレアスとメリザンド」で用いて4人の作曲家が音楽をつけ、近代ではベルクが「ヴォツェック」で用いた。4人のひとりであったガブリエル・フォーレは「夢のあとに(Après un rêve)」を書いたが、彼は奇麗な女性が大好きな男だった。この詩もそれをモチーフとしている。

君の姿が魅了するまどろみの中
ぼくは夢見てた 幸せを、燃え上がる幻影を
君の瞳は優しく、君の声は澄んで響き
君は光り輝いてた、朝焼けに照らされる空のように

君はぼくを呼び、そしてぼくはこの地上を離れて
君と一緒に飛び立ったのだ 光に向かって
空はぼくたちのために雲の扉を開き
未知なる栄光が、神々しい閃光がほのかに見えた

ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め
ぼくはお前を呼ぶ、おお夜よ、ぼくに返してくれ お前の偽りの幻を
戻れ、戻ってくれ、輝きよ
戻れ、おお 神秘の夜よ!

「詩人の恋」の稿に書いた我が夢を思いおこさせる。個人的にそんな経験はないが、夢が去ってしまった後の喪失感は肌身でわかる。去ってしまったすべてのものへの深い深い哀惜の念である。

20代半ばだったと推定されるフォーレがつけた音楽は神々しいばかりの見事さであり、様々な調性でチェロをはじめ様々な楽器で奏でられ女性も歌う。2010年にパリに行った折、オペラ座で来歴の展示をしていた故レジーヌ・クレスパンの歌唱は記憶に残る。

こちらはチェロ。ミッシャ・マイスキーだ。とろけるように美しい。

つぎに、「詩人の恋」をきいたシャルル・パンゼラである。彼はパリ音楽院在学中に当時の院長であったフォーレと出会い、声楽、室内楽を指導された。そこで学生ピアニストのマグドレーヌ・バイヨに会い、彼女は生涯を通じて彼の妻であり伴奏者となった。この録音はパンゼラ、バイヨのものだ。

ほとんどの方に速く聞こえるのではないか。フォーレの指定はAndantinoであるからメトロノームで80ぐらいであり、パンゼラは直伝の解釈だから当然であるが、ほぼ80である。このテンポでこそ、「詩人の恋」とまったく同様のことだが、憧れ、夢、恐れ、怒り、動揺、焦燥、虚勢、諦めを音楽にこめることができると思う。フォーレは歌曲を書いたのであり、だからAndantinoと記したのであって、詩との関連を無視してはいけないのである。

現代の演奏はほぼすべて遅すぎる。多くはただ美しいだけに淫しており、音楽の持つ人間の心に根差した深い内実や重たい心の軋みのようなものをきれいさっぱり洗い流しているように思う。歌曲を楽器でやれば詩とは遊離していき、こういうことになりがちで、大衆はそれに耳が慣れてどんどん淫した快楽を欲するようになる。そういうものはその名の通りポップスであってクラシック音楽ではない。前稿「ペレアスとメリザンド」であげたバレンボイムとBPOの演奏は抗い難い弦の美しさであるが、それは恐らくBPOの高度な技術と鍛錬が生んでいるもので、ライブで聞かないと心が欲して必然として生まれものかどうかは判断できない。音楽界が美音主義に向かうのは悪いことではないが、それが目的となれば演奏会はどんどん空疎となり、名技と音響の展覧会になる。スーパーに並ぶ、本来の香りも味もないが、形と色だけは一律に整ってきれいな野菜みたいにならないだろうか。

 

シューマン「詩人の恋」作品48

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シューマン「詩人の恋」作品48

2025 MAY 29 11:11:57 am by 東 賢太郎

この作品の第1曲を初めて耳にしたのは17才だ。なぜトシまで覚えているかというとわけがある。その時は聴いた、というより体験したというべきで、ごくごく僅かではあるが音楽にはそういう禁断の実のようなあぶないものがある。その前奏は曖昧模糊で、調性もよくわからない。あてどもなく白ぽっい霧の中をさ迷う夢みたいで、なんだこれ、参ったなあ、やけにまとわりつくなあと感じ、その実、幾日か経っても不意に脳裏によみがえって憑かれていたような気がする。

それなのに、この作品を理解できたと確信し、心がふるえるほどの感動を味わったのは50才を超えてからだ。通常のクラシックファンとしてはものすごく遅咲きであって、なぜそんなに遅いかを皆様にご説明するのは簡単なことではないときているから困る。音楽がわからなかったというわけではないだろう。なぜなら、もうクラシック音楽を長らく聞いていたからだ。ドイツ語がまったくわからなかったわけでもなかろう。なぜなら、もうドイツ語圏で5年暮らしていたからだ。

長年働いた会社を辞めたのが49才だったというのは無縁でないかもしれない。あれは何やら見えない大きな力というか、天の力学のようなものによって運命の転機がやってきていたのだと思うしかない。ふりかえると心底よくぞ踏み切った、悪くない決断だったとは思うが、失う物もたくさんあった。かけがえのない恋人との別れもきっとそうなのだろうが、若き日から25年にもなるその会社とのご縁、ご恩、仲間、思い出がすっかり消えてしまう気がするのは辛かった。なんということをしたんだという後悔に苛まれたがそれは誰にも言えず、しばらくは強がってみせるだけの日々だった。

仕事は替えがあるが恋人にはないとおっしゃる方はおられるだろう。そう思うし、あまりにロマン派になれない自分が嫌になることもあるが、そのとき味わった喪失感は未曽有の重みであり、傷ついており、シューマンがわかったことは喜びというよりも慰められたというほうに近い。なぜなら、どうした経緯か元の会社に戻っていて、ヨーロッパだかアジアだか、どこだかわからない海外の拠点にまた勇躍と赴任してゆく夢を何度も見たからだ。そこでは、僕は、かつてそうだったように希望に燃え、胸を張って初日の出社挨拶を済ませていた。そしてまず第一にと、新しく住む家を探しに出かけている。それは自分がどうこうよりも、家内が喜んでくれそうかを必死に考えながらのことだ。

すると、いいのが見つかった。遥か眼下に流れの速い川を望む、高く切り立った崖の上に建つ、まるでお城のような家だ。すばらしい!轟々と流れる水が荒々しく岩にあたって砕け散る様を窓からじっと見おろしていると、どうしたことか、自分の意識だけが空中をするすると降りていき、川の中がはっきりと見えた。すると、黒くて獰猛な顔つきをした見知らぬ魚が、べつの魚を襲い、食いついて、腹わたを生きたまま食い荒していた。荒涼とした気分になって家の外を歩いていると、ざわついた人だかりの広場に出くわした。白人とおぼしき若い女性たちが楽しげに連れ立ってこちらを見ている。石畳の道を路面電車が走っている。線路を横切って道の反対にいくと、そこは市場かバザールのようだ。何かのお店のドアを開けて入ろうとしたところで、目が覚めた。

なんだ?これは夢か?いや、そうじゃない、だって俺は覚えてるぞ、たしかにどこだったかそういったことがあったじゃないか、それもヨーロッパだぞ、でもどこの国の店だったんだ?真剣に記憶をたどりながら動揺していて、理性が覚醒し、それは間違いなく夢だよと納得させるまで僕はそこの住人だった。詩心があればきっと詩を、楽才があれば音楽を書いただろう。ハイネの詩にインスピレーションを得たシューマンも、僕が見ていた夢のように、夢を描いたハイネの言葉の余韻の中からありありと中に入りこむことができ、予想もしない恋の展開が現実のようにのしかかってきて感情が鋭敏に反応し、そのいちいちで脳裏に浮かんできた音楽を書き取ったということではないのか。彼にはそんな想像がぴったりくる。ボンにある彼のお墓にクララも眠る。そこに友人たち、崇拝者たちが刻んだ銘にはGrosse Tondichterに、とある。「偉大なる音の詩人」、まさにそうだったと思う。

「詩人の恋」における「詩人」はハイネの主人公ではない、シューマン自身だ。それを知ったとき、すでに16曲のいちいちが耳に焼きついていて、聴くたびに自分もその気分に入りこんでしまい、シューマンと一緒に心が動揺しだした。この曲を聴くとはそういうことだ。ひとつひとつ短い文字にして追ってみたい。

まずは音をきこう。定評あるヴンダーリヒ盤ならあまり異論が出ないかと思うのであげておく。個人的な趣味でいうなら、ドレスデンのルカ教会で録音された若きペーター・シュライヤーの1972年盤になる。終曲を半音上げているのがどうかという原典主義の方もおられようが、シュライヤー37才、この作品には旬の年齢と思う。41才のノーマン・シェトラーによる心の襞に寄り添うピアノは筆舌に尽くし難い。

ヴンダーリヒ盤

シュライヤー盤

できればドイツ語でニュアンスをつかみたいが、テノール歌手・髙梨英次郎さんの日本語注釈はわかりやすいのでお借りする。

歌曲解説:シューマン「詩人の恋」詩の対訳と音楽 – 検索

ひとつだけ僕の個人的関心事をあげておく。

第8曲のAm Dm B♭ E7  Am  Dm6  E7 Am という和声(太字部分)は「子供の情景」(1838年)の「Der Dichter spricht(詩人は語る)」、7度をバスに置いた茫洋とした霧で開始し、あまり子供らしくない苦悩と煩悶を彷徨うかのような終曲の、唯一、決然と聴こえるカデンツであった。

シューマンが意図したかどうかはわからない。むしろ深層心理だったかとも思うが、これが本作にも現れる。それがどこかは後述する。

まず前座のご説明だ。このチクルスが「美しい5月に」(Im wunderschönen Monat Mai )で始まることを僕は何度でも強調するだろう。それほどにドイツの5月は美しく忘れ難い。まるで暗くて寒くて長い冬がうそだったかのように、まるでそれが廻り舞台で地上の楽園に忽然と模様替えしたかのように、野原には色とりどりの花が咲き乱れ、森は鳥のオーケストラで満ちあふれ、庭ではみなが夜まで陽気に唄い踊る。

第1曲。イ長調。Dmaj7- C#の虚ろなピアノが霧から立ち現れる。心はひとつも明るくない、5月なのに・・。それが5月だったから、去った後の悲しみは計り知れないのだ。僕は彼女に打ち明けた、僕の憧れと願いを。詩人はその言葉に、これからおきるすべての遠望への感情をこめている。行く手がみえないままひっそりと消えると、もう聴き手は物語の中だ。

第2曲は前曲で解決しなかった夢想を現実に置き換える。同じイ長調が明るい。ミからファ(サブドミナント)にあがり、眼前には希望しかない。

第3曲。ニ長調。喜びの象徴だったバラ、ユリ、ハト、太陽。それが彼女ただ一人に集約される。人生の絶頂。早口言葉のような歓喜の大爆発。

第4曲。ト長調。天上の喜びに浸りながらも心は静まっている。涙を流すのは頂点に不安の陰がさしたのだろうか。

第5曲。ユリの花が戻ってくる。彼女ではなく。ロ短調。キスに何を感じたのだろう??

第6曲。情景は不意にライン川に飛ぶ。ケルンの大聖堂が現われる。heiligenなる恋愛とは遠い言葉。暗くて重いホ短調。第2節の最後、Hat’s freundlich hineingestrahlt(友のような光を投げ入れてくれた)の後奏で和声が崩壊する!(1835年、シューマンを驚嘆させたベルリオーズの「幻想交響曲」。早くも第1楽章の最後にくるそれか)。聖母マリアの絵に見た恋人はもうイデーフィックスになっている。

第7曲。愛は永遠に失われ、それを分かっていたことが明かされる。でもそれがどうした。Ich grolle nicht!僕は恨まない!ハ長調!!やりきれない強がりを逆説にこめる。ひっそり悲しみと恨みが滲む。夢のなかに蛇が出た。僕は見た、君のハートを食い荒らして闇の穴をあけた蛇を!

第8曲はここでやってくる。

第1~3節は同じ伴奏による早口言葉の回帰。花、ナイチンゲール、星々の各々が詩人を慰めてくれるが、その締めくくりごとに「子供の情景」をひっそりと閉じる 「Der Dichter spricht(詩人は語る)」の印象的なDm6  E7 Amが出てくる。そしてこのカデンツは、第4節目のSie hat ja selbst zerrissen,Zerrissen mir das Herz(彼女が自分で引き裂いたのだから、僕の心を引き裂いたのだから)で、和声を変え、怨念をこめたように決然と否定される。

第9曲。婚礼だが短調で三拍子の舞曲だ。フルート、ヴァイオリン、トランペット、太鼓、シャルマイにのって恋人は輪舞する。ニ短調から変転して気分は定まらない。幻想交響曲終楽章のおぞましき風景そのものだ。

第10曲。ト短調。調性からも魔笛のパミーナのアリアAch, ich fühl’sを想起させる悲嘆。フォーレにつながる無限に悲しい歌だ。アガーテと終わってしまったブラームスの心境かくやと思わせないでもない。

第11曲。ヘ長調。一転して気持ちが弾むのは、詩人は彼女をコメディの客体にすることに成功し、自らの精神を救ったからだ。しかし、当初からduではなくSieと、彼女はずっと客体だったのだが・・。Und wem sie just passieret(これが実際起きようものなら)で和声が一瞬揺れ、動揺の残照をみせてしまう。

第12曲。前曲の半音上、主調の長3度下であるG♭7から  F  B♭と夢のようにはいる変ロ長調。驚くべき音楽だ。B♭ E♭G Cm F B♭と平穏にくるがロ長調をのぞかせたあげくにト長調になると万華鏡の乱舞をのぞくようで和声の迷宮!高音に煌く伴奏の音感覚はもはやオーケストレーションの領域であり、金粉を天空に散らした様は印象派を予見する。Dichterでなくてはこういうものは書けない。

第13曲。変ホ短調。君が墓に横たわる夢を見た。Sie(あなた)がdu(きみ)になっていることに注目だ。暗い。ぶつ切れの不吉な伴奏。世の中で最も暗い曲がここにくる。きみだった彼女を忘れていないのだ。

第14曲。ロ長調。弱起でやさしく話しかけるようなメロディ。君は親し気に挨拶をしてくれる。心がはずむがこれも夢だ。そして僕にくれる、糸杉の束(死の象徴)を。目が覚めると君は消える。

第15曲。ホ長調。弾むようなリズムで魔法の国、幸福の国の幻影が立ち昇る。よかった!全ての悩みは取り去られ、自由でいられ、天使に祝福されると思うとふっと消え去る。目の前にあるすべては夢、幻影だったのだ・・

第16曲。大きな棺をひとつ持ってこい。嬰ハ短調。ハイデルベルクの樽。マインツにある橋。ケルン大聖堂のクリストフ像。そのたびにピアノが「どうだ!」と胸を張って念を押すTDTDT!皆さんお分かりか?どうして棺がこんなに大きく重いのか。僕は沈めたのだ、自分の恋を、そして苦しみをその中に。嗚咽の虚勢が鎮まるとひっそり歌は消え、第12曲の夢幻が虚空にはらはらと蘇り、夢の中に曲は閉じる。

30分ほどの作品の与えてくれる感動は比類ない。

クララがピアノを弾いている夫にかけた「あなた、ときどき子供にみえるわ」というなにげない言葉から生まれた「子供の情景」。彼は世間一般の子供というものを描いたのではなく、妻の言葉の余韻の中で、たしかに大人の自分の中にいるそれを見つけて13の小品を書いた。「詩人の恋」の表向きの主人公はハイネの詩の主語である ich(僕)だが、作曲しているのはそれを外から眺め、我が事として見つめているシューマンである。すなわち、若くしてジャン・パウルの文学に傾倒し自らを眺めるドッペルゲンガーDoppelgänger、自己像幻視の性向を生まれもっていた彼にしか着想し得ない音楽がその二作品なのだ。音楽評論誌「新音楽時報」を創刊して「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、登場させたオイゼビウスとフロレスタンなる分身もそれだ。その性向が生んだより直接的な作品こそがクライスレリアーナである。こういう作曲家は彼とE.T.A.ホフマンの他に僕は知らない。

その性向がどうのというのではない。自分を上空や背後から見ている自分がいると語っている人は現実に何人か知っているし、僕自身、ヴィジュアルはないがそういう自分が確かにおり、この文章は恐らく彼が書くか検閲するかしているし、彼が見ていないとなんでもない場所で躓いて転んで怪我したりもしている。そうした眼で見るに、シューマンは大変に興味深い。1810年に生まれ46才で亡くなった彼の時代、啓蒙主義、個人主義の渦がヨーロッパを席巻し、芸術においてもゲーテやベートーベンまでを否定する革命運動のさなかにあった。音楽ではワーグナーが代表的人物だ。

しかし、ワーグナーもしていないが、人間の心の内面という秘匿された部分にまで光をあてようとするのはまだ一般的でなかった。ハイネが夢の中での恋愛感情の相克を描いたのは文学におけるその先駆とされるが、シューマンが彼の詩に着目したのは彼が持って生まれた性向によって音楽におけるその先駆者におのずとなっていたからであり、その彼がベートーベンの死後わずか3年で書かれた幻想交響曲という、それ以外の何物でもない異形の音楽を最も早い1835年に評論して世に問うているのも、客観的に、ベルリオーズが性向としてフランスにおけるその先駆者だったからだ。僕は自分自身が幻想交響曲になびき、シューマンの二作品になびくのを、客観的に、自然現象のように眺めている。

ケルン大聖堂のクリストフ像

第6曲と第16曲に現れるケルン。シューマンは晩年に最後の職場となるデュッセルドルフに移り住んでクララとそこを訪問し、大聖堂で得た霊感を第4楽章にして交響曲第3番という傑作を一か月で一気に書きあげる。このクリストフ像の前にハイネはしばし立ちつくして詩の着想を得たろうし、シューマンは若き日の第16曲を思い出したに違いない。ブラームスはシューマンがエンデニヒの病院でクララに看取られつつ天に昇った5年後の1861年に、「詩人の恋」のハンブルグ初演のピアニストをつとめている。先に述べた第8曲のAm Dm B♭ E7  Am  Dm6  E7 Am という和声の太字部分、バスが増4度音程のB♭ E7の劇的な連結は前稿に書いた1866年作曲の歌曲「五月の夜」(Die Mainacht)にも顔を出す。たかが和声と思われる方も多いかもしれない。しかしシューマンは「最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によって決まる」と述べている。

最後に書いておくことがある。第1曲「美しい5月に」を17才で覚えていたのは、九段高校の音楽教諭だった坂本先生が、授業で、ご自身のピアノでそれを何度か歌って下さったからだ。美しいテノールと精妙な伴奏の和音が今もくっきりと耳に残っている。感謝したい。

 

(ご参考)

E.T.Aホフマン「牡猫ムルの人生観」

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ブラームスの “青春の蹉跌”

2025 MAY 24 16:16:45 pm by 東 賢太郎

僕は恋愛小説というものを読んだことがない。これからも読まないだろう。お恥ずかしい話だが実感があまりないのだ。我が家は男優位思想だったが実は母が強く、そのせいかどうかは定かではないが僕には抗い難いある種の女性恐怖症があり、高校まで親しく口をきく関係になった女性はひとりもいない。幼少のころ母に連れられて親類の家やおばさんの女子会みたいなのに行く。あら、ケンちゃん大きくなったわねだなんだでひとしきりいじくり回され、刺身のつまになるが、これが大嫌いだった。そして何のことはない、数分後にはつまらない話で盛りあがって長いこと置き去りになる。退屈極まりない。しかし全権は母にある、この苦行に堪えないと飯にありつけない。そうやって女性には逆らうなという刷り込みができていったように思う。

さらに小学校では口から生まれたような女子がいて、ずっと弁が立ち、強く言われて負けた屈辱の経験がたくさんあるときている。それが父に仕込まれた男優位のドクトリンに反し、俺はいっぱしの男でないという気がして強がってしまい、ますます女子と溝ができた。だから精神衛生上も近寄らないに越したことはないと逃げてしまった。そんな意気地のなさだから中学生になって気になる女子はいたが、どうせだめだろうと話す勇気も出ず、高校になると見かねた野球部仲間がピッチャーとつき合いたい女がいるぞとお膳立てして喫茶店で奇麗な子と引き合わせてくれ、お互いにけっこう気に入ったように思ったが、結局勇気がなく、デートに誘いもせず終わった。

社会人になると大阪で様相がガラッと変わった。先輩に連れられて毎日のように十三なんかの裏路地の飲み屋に行く。あばずれ風の姉ちゃんたちに囲まれ、珍獣を見るような目で見られ、東京言葉で口を開くと、あっ兄ちゃん、ええかっこしいや!ここ大阪やであかんあかん、モテへんで!と猛烈に攻め込まれる。いま思うと、世慣れた先輩たちと何十件も飲み歩いてメンタルを鍛えられ、2年半たってやっと女性なにするものぞとなっていたのだから感謝しかない。というわけで、恋愛も恋愛、絵にかいたような悲しい純愛物である本稿のテーマは、実は僕のような朴念仁に語れる筋合いのものではない。それを承知で書くのは、一にも二にも、ブラームスへの愛情、ブラームスを知らなければ僕の人生は女性が出てこないことの何倍もつまらないものになっていたからだ。

25才のブラームスには2つ下でお似合いの婚約者がいたことから話は始まる。アガーテ・フォン・シーボルト。日本人なら誰もが教科書で知るあのシーボルトの親類だ。医者の家系である。美人で見るからに利発でプライドが高そうだ。どうでもいいが僕ならびびってしまうタイプだが、イケメンでひょっとすると似たタイプだったのだろう、ブラームスは一気にのめりこんでしまう。

しかし二人はうまくいかなかった。男女の事だ、真相は二人しかわからないが、後世の憶測ではない文献による史実は2つだけある。友人たちに態度をはっきりしろとせまられたブラームスが「あなたを愛しています。私はもう一度あなたとお会いしなければならないと思っていますが、束縛されたくはありません。それでも、私があなたのもとに戻ったら、あなたを私の腕で抱きしめることができるかどうか、お手紙でお答えください」と綴り、それを読んだ彼女が婚約を解消したこと。そして老後の回想録に「私は義務と名誉のためにブラームスに別れの手紙を書き、何年もの間、失われた幸せのために泣きに泣いた」と書いたことだ。

出会いは1858年、彼女の家があったゲッティンゲン。長い黒髪、ふくよかな体、悪ふざけが大好き。僕は初めてこの歌をきいたとき、ヨアヒムが “アマティのバイオリン” に例えたアガーテの声を思い浮かべた(同年に書かれた「8つの歌曲とロマンス」作品14から第7番「セレナーデ」)。

ところがこれを書く3年前、ブラームスはあるピアノ曲に劇的な出会いをしていたことがわかっている。クララ・シューマンの「3つのロマンス」作品21だ。第1曲イ短調Andanteをお聞きいただきたい。女性の秘められた切ないロマンが胸をわしづかみにする。もうすさまじいと書くしかない、これを贈られてよろめかない男がいようか?名ピアニストと記憶されている彼女は立派な作曲家なのだ。ツヴィッカウのローベルト・シューマン・ハウスにある第1曲の自筆譜には「愛する夫へ、1853年6月8日」という書き込みがある。この愛憫の情は明らかに、夫ローベルトに向けられたものだった。

「3つのロマンス」作品21の楽譜

ところがウィーン楽友協会にある第一曲の楽譜(左)には「愛する友ヨハネスへ、1855年4月2日作曲」と書き込まれている。これは後世に憶測を呼んだ。「愛する夫へ」と書いた同じ月のクララの日記には、夫が目を覚まし発作に襲われたことが記録され、言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。そのことからも、第1曲の深い愛情が天に召されつつあるかもしれない夫へ向けられたものだったことは疑いないと僕は思いたい。しかし梅毒であった彼は回復せず、​翌1854年2月にライン川に投身自殺を試み、以来、1856年7月29日に逝去するまでエンデ二ヒの精神病院から出られず、医師は身重だったクララとの面会を禁じていた。その間に、弱冠22才のブラームスは夫のために書いた作品21をもらい、36才と女ざかりのクララの「愛する友」になっていたのである。彼にとってこの贈り物は非常に重たいものだったに違いない。アガーテと出会う3年前のことだ。

20才のブラームスがヨアヒムの紹介でシューマン家の門をたたいたのは1853年9月だ。亡くなる3年前のシューマンは既述のようにすでに発作をおこしており、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり5か月後に自殺を図る。そんな中にやってきた見ず知らずの若者がハンマークラヴィール・ソナタ丸出しの開始をする自作のピアノソナタ第1番ハ長調作品1を弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といい、ブラームスを紹介するために10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。

Robert Schumann
(1810- 1856)

このローベルト・シューマンこそ真の天才であり、虚飾も打算もない、真に尊敬されるべき偉人であり、無名の男の才能を即座に認め、病をものともせずそこから熱狂的にとった彼の行動に僕は人類の未来を託すべき崇高なものを感じ取って涙を禁じ得ないのである。ブラームスという人物には僕を熱狂させるものは何もない。まったくもって別な人種だとしか書きようがないが、シューマンとモーツァルトには大いにそれを感じる。今だけ・カネだけ・自分だけの目下の日本にこんな人物が何人いるだろう。だからその音楽が好きという理屈はないが、偶然にも、僕が古今東西で最も愛するピアノ協奏曲は彼のイ短調であり、交響曲は彼の変ホ長調なのだ。そのバイオは可哀想な病気に冒された晩年で悲愴に終焉するが、そんなものがなんだ。変ホ長調交響曲を1850年11月2日から12月9日にかけ1か月で完成した速筆ぶりは、20余年もかけて1番を書いたブラームスと対照的で、性格も天地ほど異なっている。これほど似つかない二人の男を愛したクララは何に惹かれたのか。才能だろう。それを愛する人は、持っている人がどこの誰かは関係ない。そう知るのも持ってる人だけだから、地球上のほとんどの人はそれを知らない。持ってない僕がそれを知ったのは、彼らの音楽を50年も座右に聴いてきたからだ。彼女もそれをもって生まれた特別の人であり、その裏返しでブラームスはクララを必要とした。読んでないものを評する気はないが、こういうものは恋愛小説には掬い取れないのではないかと想像する。

Clara Schumann
  (1819–1896)
ブラームス所蔵写真

まさにそのころ、1854~1857年に、アガーテと出会う直前のブラームスが書いていたのがピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15だ。初演はおりしもアガーテと婚約したころの1859年1月。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで3人しか拍手のない大失敗となり、傷ついて自信を無くしたことが破局の第一歩だった。かたや、1854年の日記に「私は彼を息子のように愛しています」と書いたクララはブラームスより14才年上だ。どん底に沈んだ彼は失敗に同情したり、心配してくれる歌い手の若妻ではなく、作曲家でもあり頑強に支えてくれるクララを選んだ。身を立てるために彼にとって必要であり、必要なものを手に入れる犠牲をいとわぬ不動の決意ゆえであろうが、もう一つ非常に重要な理由は、彼の母親が父親より17才年上だった家庭環境が大いに影響したと思っている。そうした、宿命的関係とも思えるクララへの思慕が最も現れた音楽が、3つの楽章の最後になって書かれたピアノ協奏曲第1番の第2楽章アダージョだ。それでいて、あろうことかクララの娘に恋愛感情をもったりもしたブラームスの優柔不断な女性観のふらつきは常人にはおよそ測りがたいものだが、それが微妙な内声部の動きで和声が玄妙に移ろう彼の音楽の誰にもない魅力に通暁しているようにも見えないだろうか。

夫の死後、クララは子供たちとともにベルリンに移り、1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。ブラームスはクララに会うため1865~1874年の夏をそこで過ごし『交響曲第1番、第2番』『弦楽六重奏曲第2番』『ピアノ五重奏曲』『ホルントリオ』『アルトラプソディ』『ドイツレクイエム』の一部などを書いた。

1866年に作曲された「五月の夜」(Die Mainacht)は彼の作品で最も好きなもののひとつである(「4つの歌曲」op.43の第2曲)。前稿でバーデン=バーデンについて、そして欧州の5月(Mai)の悦楽について述べたが、それがあってこその悲しさが深く琴線に触れてくる。こういう音楽をベートーベンは書いていない。彼は北ドイツの、厳格なプロイセンの人という感じがするが、やはりハンブルグで北の人間であるブラームスはバイエルンやスイス、オーストリアを好み、その嗜好が現われた曲と思う。その情を包み込む和声は非常に凝っている。

ちなみに詩はこのようである。

銀の月が
潅木に光注ぎ、
そのまどろむ光の残照が
芝に散りわたり、
ナイティンゲールが笛のような歌を響かせる時、
私は藪から藪へと悲しくふらつき回る。

葉に覆われて
鳩のつがいが私に
陶酔の歌を鳴いて聞かせる。
だが私は踵を返して
より暗い影を探し求め、
そして孤独な涙にくれるのだ。

いつになったら、おお微笑む姿よ、
朝焼けのように
私の魂に輝きわたる姿よ、
この世であなたを見出せるのだろうか。
すると孤独な涙が
私の頬を伝ってさらに熱く震え落ちた。

Agathe von Siebold    
 (1835–1909) 
ブラームス所蔵写真

この詩は意味深だ。ブラームスはけっしてアガーテを忘れていない。身を引くつもりなどなかった。ただ言えなかった、失敗した自分を母のように守ってほしいと。しかしそれを口にするような自分ではいけない。大成できない。見ろ、自分の父がそうだったじゃないか。彼の育った家庭環境を忘れてはならない。父が17才年上の母親に書くかのようなあまりに優柔不断な手紙。アガーテはそうとは知らない。おそらくブラームスはその内面を悟られまいと隠していたのではないか。彼女はただただ驚き、自尊心を深く傷つけられ、泣きながら苦渋の別れの手紙を書くしかなかった。名門の医師の家という格式、名誉もあったろう。彼女は婚約が解消された後、実に10年間、誰とも結婚する気持になれず、結婚に際しては彼からの手紙を残らず処分した。しかしブラームスの方も、アガーテからいきなり別れの手紙が来るとは思ってもいなかったと思う。ハンブルグの女郎屋街の一角で生まれた彼の家にはそれに匹敵する格式というものはない。大きなショックに苛まれたが、堂々と、待ってくれ、それは誤解だよといえなかったのは何らかのコンプレックスが彼を支配し、いっぱしの男という強がりがあったかもしれず、なによりも、母のようなクララが心にいたからだと僕は強く感じる。それは救いでもあり葛藤でもあったのだがもう打つ手はなかった。彼はアガーテを深く傷つけ、自分も打ちのめされ、その後4ヶ月ほどはハンブルクに閉じこもり作曲も演奏活動もしなかったという。

弦楽六重奏曲第2番ト長調Op.36は、1864年から1865年にかけてバーデン=バーデンで作曲され、第1楽章の提示部の最後にa-g-a-h-e(アガーテ)の音符が縫いこまれていると指摘される(シューマンもクララの音符をそうしていた)。それが思慕なのか決別なのかはわからない。あるいは偶然かもしれない。

偶然でないのは、第1楽章冒頭の主題がト長調から長三度下の変ホ長調に移行し、同じことが「五月の夜」(Die Mainacht)でもおきることだ(変ホ長調からロ長調)。和声は音楽の根幹で、表面の工夫ではあり得ない。前者がアガーテ六重奏曲であるなら「五月の夜」もそうではないか。そう聞こえてならない。この六重奏曲をブラームスはヨアヒムの助言を受けず書いた。自立心に並々ならぬ気合が入っているのだ。第3楽章冒頭、VnがJ.Sバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番ロ短調の主題を奏でるのにお気づきだろうか?バッハはこれで大作を閉じた。決別して6年。意を決して、彼はアガーテへの想いを締めくくったのではないだろうか。

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(7)

2025 FEB 2 19:19:54 pm by 東 賢太郎

ウォルフガング・サヴァリッシュ / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

1972年とDSKがまだ古雅な音をきかせた時代の全集(EMI録音)。LPで買って4番を愛聴したが3番はいまひとつだ。まずMov1は原典版に近いのは結構だが中声部を鳴らすのでルカ教会の残響がかぶって f が暑苦しく、マーラーが管をいじりたくなるわけだ。コーダへの持ち込みもせわしない。サヴァリッシュが若い。Mov2,3はオケなりで平凡。Mov4の暗めの音は教会の響きが合っており悪くなく、Mov5は良いテンポで始まる。ピッチの良い木管のかぶりはDSKの美質が出ている。コーダで余計なことはしていないが、この音楽の内面から沸き立つような喜びは薄い。

 

カルト・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

前に一度ふれた盤だが、改めてきき返した。Mov1の遅めのテンポは雄大なスケール感がありラインの空気感がたっぷりだ。本当に素晴らしい。雄大を取り違えて元気いっぱいに始まる凡庸な指揮者が大半であるのだからベストのひとつであり、米国のオケでこのテンポでもたれずにそれを造形したのは大変な大物と思う。Vnの付点音符の跳ねるようなアーティキュレーションは人工的だが旋律線が常にくっきり出るのでサヴァリッシュのごった煮感がなく、マーラー版の音が整理される利点を自身の主張に活用している(対旋律のHrの強調は好みでないが)。ジュリーニは最晩年をロンドン、アムステルダムで何度か聴いたが、ドイツ物に対しては歌と流動するテンポで徒に流す部分がなく、それだけで説得されてしまう品格の高いアプローチはオンリーワンであった。それが出ているのが最晩年のVPOとのブラームスで、ACOとのベートーベンはやや老成感がある。1978-84年のロスフィル録音は別人の音楽でこのMov1はその典型だ。彼にしてはオーケストレーションに手を入れているが見事なテンポと音造りの彫の深さで有無をいわせず、インテンポで最後まで堂々たるもの。これぞ王道の解釈で素晴らしいの一言。Mov2もメリハリをつけるが欧州の良識をはずさない。Mov3はやや平凡。Mov4は対位法をくっきり響かせオルガンのようだが、テンポが流動的でコーダの弦のトレモロの増音などここも考え抜かれた立体感がある。Mov5冒頭のVnのレガート、この解釈はどこからできたんだろう?これはだめだ。Hrが雄弁に鳴るマーラー趣味もこの楽章には合わない(サヴァリッシュ盤でDSKの木管の美質が出ているのは、この楽章はスコアリングがそこまでと違う。非常に残念)。コーダも終結感を出す計算で加速するが、凡庸な指揮者がやる帳尻合わせのとってつけたものではなくぎりぎりの均整を保って盤石の帰結である。ところでこの名録音、Amazon、タワレコで検索したが(僕の見落としかもしれないが)出てこない。ショックなことだ。

 

コンスタンティノス・カリディス / フランクフルト放送交響楽団

Mov1は普通のテンポで開始。マーラー版でないようだが対旋律、内声が不意に浮き出てなにやら熱く物々しい。第2主題は緩急、強弱自在。歌うため全オケがふっと鎮まるなどユニークなメリハリ満載で常套的に流す部分がない。コーダは弱音で抑えたと思うや爆発。テンポはそのままで終結。こんな目まぐるしい演奏は聞いたことがない。Mov2はオケなりに進むが指揮はあおろうとしており聞きなれぬテヌート、レガートが現われる。Mov3、パートごとに起伏する歌の加減で時にフレーズが止まりそうになる。この楽章は何のことなく過ぎる花畑の散策がほとんどだが、この放送局オケの技術は高度でどれだけ緻密な要求もリアライズするためユニークな指揮者の要求がよくわかる。Mov4、暗いブラスの萌芽がだんだんクレッシェンドする様はとても良く、オケが熱してふくらんでゆくと流動するテンポが聞こえないのだろう弦の奏者が指揮を見て確認している。終楽章、なんと入りのレガートがジュリーニと同じだ(しかも弱音。再び同じ疑問、何の根拠なんだろう?)。ところが呼応するフレーズは一転してスタッカート気味にはじける。その締めのシファーシドの最後で弱音に落とし、ひっそりとラソーラソーを奏でる。ここから音楽は泡立ちTrpの合いの手までエッジのあるリズムで冒頭のレガートの対極の展開だ。ラソーラソーに木管が絡まるところの喜びはこの楽章の白眉だがオケがうまく感応している。続く後打ちリズムの跳ねもいい。そこから再現部に至る盛り上げは、テンポも音量も落とし、一瞬の弦の合いの手も細かく指示し頂点に持ち込む。再現のラソーラソー、こいつは天地がひっくり返るほどの驚きで度肝を抜かれた。しかし(シューマンはそんなこと考えてもいなかったろうが)結果的にこれが楽章の気分を根底で支える至福の音列であるという趣旨は同感だ。Trp、Tbのファンファーレからテンポが上がるが最後はレガートで実に細かい。Hrのエコーのまばゆい光が差しむが如き素晴らしい交唱からほんの少しデクレッシェンドし、目にもとまらぬ快速のコーダ(史上最速だろう)に突入して忘我の祭りのようにエキサイトし、さらにアッチェランドして加速感のなかで終わる。シューマン交響曲第3番の聴き比べ(6)まで読んでくださった方は僕の趣味をご存じだ。カリディス、こんな奴はラインを二度と振るなとぼろかすにこきおろすところだが、僕も70人のドイツ人社員を3年間指揮した経験があり彼らがいかに言うことをきかないか身をもって知っている(笑)という妙な所に考えが至った。ラインランドに近いフランクフルトはこの曲のご当地といってよい。ギリシャ人がそこでこれをやる。オケ全員が承服したとは到底思わないが指揮技術と解釈へのコミットメントのパワーでここまでやったのはお見事。それが只事でない証明だろう。客観的に3番のスコアからこれだけ歌とドラマを引き出したのは天才的と思う。モーツァルトのオペラを振ったらこいつ凄いことをやるんじゃないかという期待をもった。

 

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)

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株の儲けとブラームスのジレンマ

2024 MAR 5 7:07:58 am by 東 賢太郎

自分の行動と信条が合わないことがある。うまくいっていても、どこか心持ちが良くない。今がまさにそうで、前稿に書いたように現在の自民党政権には幻滅どころか亡国の危機感さえ持っているのだが、そんな政権なのに株式市場は新高値4万円をつけ、いっぽうで円が安くていよいよ150円台に定着しそうだ。僕はもう2年前から思いきって全財産を「日本株ロング」、「円ショート」のポジションにしているから当たりだ。しかし、これがその政治のおかげであるならジレンマがあってそう喜ぶ気持ちにならない。我が国は首相官邸ごとハイジャックされていて、自民も立憲もその軸で国会の裏でつるんでいて、何と証券市場までそうだったかと嘆かわしい気分すらある。

この利益は知恵をしぼり、体を張ってリスクを取った対価であり、誰でも市場で売買できるもので儲けているのだからどうこういわれる筋合いはない。ではお金と信条とどっちが大事かと問われればどうだろう。信条と答えたいが「武士は食わねど・・」の人種でないから自分を騙して生きるのはまったく無理だ。よって、どんなに唾棄したい政府、政策であろうと、それが存在する前提で投資戦略を練って勝ちに行く。そこに何らかの感情が入ってしまうと往々にして負ける。したがって信条は完全に無視である。つまり内面に矛盾が発生するのだ。株も為替も石ころの如く無機的な「対象物」でしかないという感性を持つことで信条優先の人間だという矜持を持ちこたえている。理が通った気はするがなんとも危ういものだ。

いま新事業というか協業の提案をいただいている。4つもあってどれも面白そうだ。モーツァルトなら作曲依頼は4つでも受けるだろうし、僕とて40歳なら迷わず全部受ける。69歳なのに気持ちがはやって簡単にできる気がしてしまうのが自分が自分たるゆえんではあるのだが、無理はいけないから部下たちの判断を尊重しようと考えていて、6時間も議論したりの日々だ。やればその分、余生の時間が減るという気持も出てくる。カネなんかのために早死にしたくないし、儲けて無理して使えば体に悪くてやっぱり早死にだ。つまり何も良いことはないのである。やがて「いつ辞めるか」考える日が来るだろう。江川は小早川のホームランで辞めた。貴乃花は千代の富士に負けて辞めた。トスカニーニはタンホイザー序曲でミスして辞めた。何になろうが、継ぐ人が現れての話になるが。

先だって、シンガポール在住の事業家で慶応ワグネルのフルーティストであるSくんとZOOM会議をして「仕事やめたら指揮してみたい」「何をですか?」「シューマンの3番とブラームスの4番かな」という会話があった。先週に渋谷で食事しながら「ブログにはモーツァルトが一番好きと書いてありますよ。どういうことですか?」と鋭い質問をいただいた。「モーツァルトは人間に興味があるんだ。なんか同類の気がしてならない、あんなに助平じゃないけどね」と答えた。君はと尋ねると「バッハのマタイとブラームスのドイツ・レクイエムです」ときた。「素晴らしい。マタイの最後、トニックの根音が半音低くて上がる。ブラームス4番はその軋みがたくさん出てくる。ドイツ・レクイエムは信教のジレンマがあったんだ。だから ”ドイツ” をつけたが、ドイツ人指揮者は意外に振ってないね、ベーム、コンヴィチュニー、クナッパーツブッシュはないんじゃないか」なんてことを話した。

ブラームスのジレンマ。比べてみりゃ僕のなんか卑小なもんだ。

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(2)

2023 AUG 29 22:22:31 pm by 東 賢太郎

第2楽章について述べる。僕はこの楽章全部を母の葬儀で流した。何故かは音楽が語ってくれるだろう。メメント・モリという言葉がある。「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」というラテン語で、「避けることのできない死があればこそ今を大切に生きられる」という意味だ。スティーブ・ジョブズはこう言った。「自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安、これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです」。

音楽は静寂で温和なニ長調で始まる(楽譜1)。煉獄の炎のようなニ短調で閉じられた前の楽章の、その同じ二音のうえで、天国を浮遊するような甘美な空間にぽんと放りこまれた感じは何度きいても都度に美しく新しい(楽譜1)。弦と2本のファゴットだけで奏されるアダージョの柔らかな音楽は心からの安堵にいざなってくれる。短2度の軋みが所々やってくるのだが、それが成就せぬ恋の痛みへの密やかなスパイスともなっている。

(楽譜1)楽章の冒頭

ピアノがひっそりと入ってくる(楽譜2)。ホルンが合奏に加わると音楽は徐々に感情の熱を帯び、短調で激するとまたとなき気高き頂点に昇りつめる。そこまで至って一切の世俗に交わりも陥りもしない音楽というものを僕はほかにひとつも知らない。ここを弾くことは僕にとって人生の桃源郷であり、あの世との境目もこんなならばその日も聞いていたいと願うのだ。

(楽譜2)二台ピアノ版(第1がピアノ)

ベートーベンが楽章間(アレグロから緩徐楽章へ)で緩急だけでなく調性のコントラスト(3度関係)を導入したことは多くの本に書かれている。交響曲では第1、2、4、6、8番は古典的な4,5度の近親関係だが、エロイカは短3度下の長・短(並行調)であり運命と第九は長3度下の短・長である。長3度上の短・長であるピアノ協奏曲第3番、長3度下の長・長である皇帝は現代の聴感でもインパクトがある(第九の第2楽章は調号としてはニ長調で終わるので外形的には皇帝型である)。ここで運命にはもう一度言及が必要で、第3楽章へは長3度上の長・短であり、終楽章へは同名調(0度)の短・長(例なし)である。運命はここにおいても革命的であり、一般に「闇から光へ」と形容されるハ短調からハ長調に一直線に進む様は理屈で語るならばそういうことだ。

ちなみに同じことをした交響曲がもうひとつだけある。第7番だ。同名調(0度)の長・短と逆向きを行っていることが第2楽章の冒頭和声(イ短調)で宣言されるが、なんと印象的なことだろう。第3楽章は主調と関係ないがイ短調とはある(長3度下)ヘ長調で、その和音 Fで終わって終楽章イ長調のドミナントであるホ長調 E(半音下)が鳴る舞台転換の味は同曲のハイライトと思う。

ブラームスP協1番第2楽章はその同名調転調(0度)の短・長の方(7番型でなく運命型)なのだ。ただ、これがブラームスの発明かというと先人が存在する。シューマンだ。

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)

ラインは1851年初演であり、P協1番の改訂過程で第2楽章が加えられたのは6年後の1857年である。その楽章はクララへの愛情の直截的な吐露であり、その前年の1856年に亡くなったシューマンへの哀悼でもあるというのが私見だが、その可能性は高いと考えている。前項では第1楽章冒頭のティンパニに言及したが、第九の第2楽章のファの調律は第3音であり(トレモロではないが)、闇から光への運命型の同名調転調も先人の成果の継承であり、シューマンを父としベートーベン(さらにはJ.Sバッハ)を父祖と仰ぐブラームスの姿勢は20代の初めから終生変わらなかったことが伺える。

この変わらないことをバーンスタインは orthodoxと形容したが、何百年も人々が愛好し守ってきたものが一朝一夕に変わることはない。昨今は古き良きものより新奇で刺激的なものを求める価値観が幅を利かせているように思えるが、ブラームスの音楽こそ orthodoxの意味を教えてくれるだろう。彼の同名調転調がどれほど新奇であったかは当時のパラダイムを知らずに即断はできないが、それから166年の時を経ても何ら古くなっていないことは、こうして現代人の僕が感動していることで一端を証明していると思う。そういうものをオーソドックスと呼ぶのである。芸術を受容する社会というものは英国の哲学者ハーバート・スペンサーいわゆる社会進化論によれば、個々人の自由意志と欲求の集合的動態の末に変容する。したがって好まれる芸術もそれにつれて変容はするだろう。しかし、芸術に技法の進化はあっても古いものが古い故に価値を失うことはない。ブラームスの楽曲に速度指示がないからといって、時代が忙しくなったからテンポを上げて演奏しようという理由はないように。

シューマンへの哀歌はこれだ。

左手は8分音符12個、右手は3連符18個で2:3の音価になる。この3を2つに割るリズムは第1楽章コーダの運命楽句で高速で行われ興奮の高まりを演出するが、ここではおぼつかぬ足取りでぽつりぽつりとびっこをひくように歩く灰色の異界である。dolceとあるが甘さはない謎めいた時間がしばし流れる。3連符という3つの音のくくりは絶えず運命リズムに縛られている。

するとクラリネットに3度と6度の運命リズムによる悲痛な調べが現れる。

木管全部がfの運命リズムで呼応する。訥々と独白していたピアノはついに堪えきれず感情を迸らせ、哀調を帯びる。クラリネット主題がオーボエで再来し、繰り返すとロ長調に転じ、やがて冒頭のクララ主題が再現する。

すると木管とホルンにト長調の主題がffで現れる(楽譜は1番フルート)。

シューマン主題が再現し、ピアノがベートーベンのP協4番を思わせる重音トリルを奏でると、冒頭主題によって音楽は静寂の中に消えてゆく。

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(6)

2023 JUL 5 19:19:46 pm by 東 賢太郎

マーラー1番は僕にとって猫のマタタビであるが、それをいうならシューマン3番はどうか。カレーやラーメンやスパゲッティナポリタンに匹敵する。なぜなら、いくら食べても何日かすればまた欲しくなり、これからも何度も食べるだろうからだ。どれも江戸時代まではない伝来の食なのだから、日本人である自分がそうなるのは不思議なことだ。

 

ウカシュ・ボロヴィチ / ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

このオーケストラは今もって旧東欧圏の味を残している貴種だ。しかも腕はいい上に音楽性の塊だ(第1フルートの女性など本当にうまい!)。こういうのを上質のクラシック音楽というのである。ところがこのオケ、時折来日してもショパンの伴奏と新世界みたいなプログラムばかりでええ加減にせい!といいたい。この「ライン」を聴けばそれがいかにあほらしいか、この音楽家たちに無礼かわかる。この曲はヨーロッパに住まないと分からないかもしれない。それは仕方ない。しかし、そういうものだということを知って何度も聴けば近づくことはできる。その上で(旅行でいいので)ラインガウの宿屋にでも泊まってエバーバッハ修道院でシュパーゲルの昼飯してリースリンクのワインでも2,3本飲めばどなたもよくわかるだろう。なぜこのビデオの聴衆がこんなに幸せに盛り上がっているかを。シューマンがいいなあ・・ってのはある。だが、この曲をこう演奏されると、欧州のどこの人も、ドイツ人が嫌いであっても、欧州っていいなあとなってしまうものが確かにある。指揮者は団員、聴衆と、その喜びを一緒に呼吸すればいい。エンディングで力んでテンポを上げて盛り上げようなんてアホなことはしない。マーラーの改訂もいらない(彼もライン地方に住んでない。さもなくばあんな乱暴なことはしなかったろう)。このオケが日本でラインをやらせてもらえないなら日本文化の悲劇というしかない。シノ―ポリはDSKと来て振っている(指揮者の大変な見識だ)。こっちはオケも指揮者もネームバリューがないから地味なラインじゃ客が入らないという調子だろうが、呼び屋にそう言われれば呼んでもらう方は従うしかなかろう。この見事なラインをどなたも聴いてほしい、いかにそれが間違いか納得されるはずだ。今のままでは何回来てもショパンと新世界の客しか入らない。ということは何百回来てもお互いに何もおきないだろう。これを聴こうと思ったらワルシャワまで行かないといけない。CDも売れないから出てこない世の中になっている。絶望的だ。

 

レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭、すさまじい弦のきざみに何が起きたんだとびっくりする。何もこんなに大仰に始めなくてもいいだろう。マーラー版のホルンは控えめだ。後のウィーンpo盤ほどの狂乱ぶりではないが第2主題でテンポを落としたと思うとコーダに向けてアップするのは同様。Mov2はスケルツォだからかやけに騒然として元気だ。Mov4の最後の和音を長く伸ばしてMov5に入る意匠は賛成。Mov5のテンポはとても良いがやはりアンサンブルがどこか騒々しい。心配したとおりせっかくの良いテンポを最後は盛大に加速して終わる。バースタインは歴史に残る天才ではあるがやっぱりアメリカ人だった。ご苦労さんでしたというしかない。

 

リッカルド・シャイー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

指揮は実に立派で間然する所無し。オケの水準の高さも言うまでもない。だからこの演奏の好き好きは当全集の売り物?であるマーラー版にある。特徴の総括をすれば「声部のコントラストが明瞭」に尽きるだろう。楽器を足したり増幅したり入れ替えたり手管は多様だが、要は後期ロマン派的なオーケストラ・サウンドが当たり前にきこえる耳を持ったマーラーが「あれっ?」と思った部分を、彼にとって自然な色に塗り替えて行ったらこうなったのだろう。法隆寺を創建時の色で塗ってみましたという試みにも似る。それが正しいのだろうが、古寺として知った我々には古寺であってこそ味わえる良さがある。ゴッホが色弱だったという説があるが僕にとって彼の色彩はというとオルセー美術館で他を観る気がなくなってゴッホコーナーにずっといたぐらい別格的にきれいだ。じゃあルノアールもゴッホの色で塗ってくれがありかというとそれはない。作家には彼の眼に映った固有の美しい色があるのだ。マーラーは和声の心理学的色彩の移ろいに鋭敏な感性の人だった。シューマンが好きだったのだろう。気持ちはわかるがやっぱりそれはないと思う。

 

ジェームズ・レヴァイン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

シャイー盤に続けてきくとベルリン・フィルにしてはくすんだ響きで鳴りが良くないがマーラーの耳によらない音だ。Mov1のテンポは最高だ。たっぷりして雄大かつ弦の細かいきざみまでくっきりと描かれるがフレージングの呼吸がシューマンの心をつかんでいる。Mov1コーダの大海をゆくような堂々たる威容を聞くに、ここで安っぽい芸を披露して曲の弱さを疑っている読譜力のなさ露呈してしまう多くの指揮者たちとの格の違いをみる。本当に素晴らしい。決して何か変わったことをしようという風情はなくMov2の舞踊,Mov3の花園を経てMov4の暗い教会の冷えた空気に至る。そして突然の場面転換ではじけるMov5の喜びも節度があって音楽的、最後まで盤石のテンポで満足させてくれる。レヴァインはドイツ音楽の正道をはずさない稀有なアメリカ人指揮者だったが最期まで誤解されていた。

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(7)

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僕が聴いた名演奏家たち(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)

2021 NOV 12 17:17:23 pm by 東 賢太郎

本稿を書いていたら、ロスチャイルドの広告につられて途中からそっちに筆が向かってしまったのが前稿だ。ロストロポーヴィチの母方もユダヤ系だというのがアドの背景なのだろうか。上掲のコンサート、ロンドンの激務に翻弄される中でどうしてもこのチェリストだけは聴いておきたく半ば無理して行ったものだ。だから眠かったと思われリットンの指揮は何も記憶がないが、ロストロの音には驚き、はっきりと耳に残っている。楽器を寝かすように構え、音は信じられないほど大きい。ソロが出るとまさに千両役者のお目見えでオケが可哀想なほどに霞んでしまう。音質はというと中音部はバターのようにトロリとし、低音は深々とロイヤル・フェスティバル・ホールの奥まで圧するが如く響き渡る。驚いたのは高音部だ。まるでヴァイオリンである。

オーボエのレッスンに立ち会った時、「高音は小さな笛を吹いている感じで」と先生が言っていた(N響の池田昭子さんだ)。ロストロのハイポジションはそういう意味でヴァイオリンを弾いている感じであり、出てくる音までそうだった。こういうチェロは後にも先にも、今に至っても聴いたことがない。2曲もやってくれたのは大サービスだった。シューマンを聴いたのはこの時が初めてで、一気に引き込まれた。最晩年の危うさが刻まれているのが痛々しいが、ほぼ同時期に書かれた交響曲第3番にはそんなものは微塵もない。デュッセルドルフの人々に囲まれて一時だが心の宿痾から解き放たれたに違いない。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11

2020 AUG 13 22:22:55 pm by 東 賢太郎

僕にとってチャイコフスキーというと、「アンダンテ・カンタービレ」だった時期が長くある。親父が所有していた名曲集みたいなSPレコードにこれが入っていて、生まれた家で四六時中鳴っていたらしく、物心ついた頃にはメロディーを知っていた(名前が弦楽四重奏曲第1番第2楽章の標題から来たと知ったのはずっとあとだったが)。ほとんどの方がどこかで聞きおぼえがあるだろう、お聴きいただきたい。

有名な主旋律は、妹のアレクサンドラの嫁ぎ先であるウクライナのカメンカで大工(左官)が歌っていた民謡とされている(第5,6小節にヴォルガの舟歌の一部もきこえる)。

このピアノ譜を弾くと、指が(♭はひとつ少ないが)どことなくシューマンのトロイメライを思い出す。曲想だって「夢」であっておかしくない。チャイコフスキー31才、田舎の民謡に素敵な和声を配してロマンティックに洗練させる腕前には感嘆するしかない。

当時のロシアでは音楽家は教師か歌劇場の団員になるしかなく、地位や所得は農民並みだった。そこで両親が名門ザンクトペテルブルグ法科学校に入れたのもシューマンとまったく同じだが、違うのは彼はしっかり勉強して法務省の官僚になったことだ。その職が楽しかったら我々は悲愴やくるみ割り人形を聴けなかったことになる。

弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11はそうならなくてよかった作品のひとつと僕は思っているが、世間の評価はアンダンテ・カンタービレを除けばそうでもない。本稿をどうしても書く必要がそこにあった。代表作とは言わないが全4楽章とてもチャーミングで初心者もわかりやすく、どなたでもメロディーがすぐ覚えられるし、まちがいなくその価値はある。

これは僕のLPだが、往年の評価が高かったスメタナ四重奏団の演奏だ。ぜひくりかえして覚えてしまっていただきたい、きっと一生の友となるから。

ここからはご興味ある方に。

Mov1の第2主題

この情感はシューベルト的だ。例えば弦楽四重奏曲第12番《四重奏断章》 ハ短調D.703の、途中で破棄してしまったMov2をお聴きいただきたい。

なぜシューベルトはこんな素晴らしい作品を投げ出してしまったのか?未完成交響曲と並ぶ謎だ。ちなみにこの曲は死後42年の1870年にライプツィヒで出版され、チャイコフスキーがSQ1番Op11を完成したのは1871年である。ジャンル最初の作曲にあたって、もし彼が出版を知っていれば見たくなったのは自然ではないか。

Mov3(スケルツォ)を聴くと、僕はいつもモーツァルトの弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421のMov3を思い出している。旋律はちがうが3拍子でこの悲壮感、緊張感を引き継いでいるように思う。

Mov4ではVaの憂愁を帯びた主題に続く部分とコーダでモーツァルト「魔笛」(序曲)の和音連結(b-h-c-a)が全開となる。チャイコフスキーはモーツァルティアーデを書いたほど彼を熱愛していた。

かようにSQ1番にはドイツ先人の作品研究のエッセンスが込められており、反西欧、反アカデミズムだったロシア五人組とチャイコフスキーが距離を置いていたことへの「物証」となっている。

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E.T.Aホフマン「牡猫ムルの人生観」

2020 FEB 29 0:00:47 am by 東 賢太郎

序論

世の中は新型コロナで騒然としてきた。僕はウィルスのメカを医師に教わったり本やネットで調べたり、大昔からそういうことが好きであり、その結果で腑に落ちた世界観に忠実に2月から行動してきたのがコロナの一連のブログだ。世間がいまさらになって何を騒いでるかなんてことにはからっきし興味がない。唯一あるとすると、KOVID-19が特異だということだ。ウィルスはこわいし徹底して忌避しているが、それはそれとして、ぎょしゃ座エプシロンの伴星ぐらい知的好奇心を喚起されるものがある。この星に子どもの時からずっと興味があるが行ってみたいとは思わないのと一緒である。

人も物事も、齢65にもなると大事なのは興味あるかどうかだけだ。それは、僕の場合は「特異かどうか」なのだ(特異点さがしこそ僕の本質)。「特異」の意味を定義しておくが、「普通でない」ということだ。ではまず普通とは何か。ここでそれを表す日本語が少ないことに気づく(古語だと「つね」)。英語はcommon、usual、normal、average、ordinaryなど盛りだくさんだが、それらの否定語がすべて、ニュアンスの異なる「普通でない」になる。僕の言う「特異」はそのどれでもないからそもそも特異なのである。では何かというと、ある一点をもって偏差値80以上ほどのスペックが明確にあり、そのことが奇異だという、なにか秘境を見つけたようなワンダフルな特別のエモーションを喚起するものであって、英語はそれに対し、普通の否定形でない独立の形容詞を用意している。それはeccentricだ。

言葉は民族の感性と思考が生む。日本人は普通に重きを置かず西洋人は置く(だから分別する語彙が豊富)が、それはそもそも人間に同じ人はいないというギリシャ的視点からは同質の集団が珍しく、名前を付けて区別する動機があったからで、逆に日本人は人間は(庶民は)同質で、いわば羊が不加算名詞であるに似て、区別する動機がなかったから語彙が少ないのだと思う。西洋はその反作用として「普通でない」ものの普通でなさを細かく認識する語彙も豊富になったという気がするのだ。日本ではそれは「変な」「妙な」「けったいな」で感情的に否定して思考停止で終わってしまい、主知的な観察は放棄してしまう。つまり、根っから異質を嫌うそういう民族だということが語彙で分かる。

eccentric(エキセントリック)を多くの日本人は否定的な形容詞と思っているだろうが、むしろとんがった所を肯定するニュアンスだってある。ところがそれをうまく表す日本語がない、だからそういうことになるのである。僕においてはクラシック音楽は、常人が書けるものではないeccentricな音楽であり、したがって、そう定義した非常にピンポイントな意味において「特異」である。そう書きながら自分で馬鹿だと思うのは、特異な曲しかクラシックとして残らないトートロジーではないかと感じるゆえだ。つまりそれは長い時を経て西洋人が、それもとんがりを「なにか秘境を見つけたようなワンダフルな特別なエモーションを喚起するもの」として愛でることのできる美的素養、教養のある人たちが愛好してきたものだけのクラスターだ。だから「クラシック音楽」というジャンルは一曲一曲、特異を生むわくわくするような秘密があるのあり、僕のような習性の人間には楽譜を解剖してそれを解き明かす無上の喜びの宝庫である。

そのことは音楽だけでなく人間にも当てはまる。クラシックにまつわるすべての人物の内でもとりわけ特異な男がいる。eccentricだがもちろんその言葉のポジティブ・サイドの極だ。作曲家はみなとんでもない男ばかりだが、格別に特異であるのが本稿の掲題ホフマンである。能力というもの泣いても笑ってもアウトプットしたものでしか他人にわかりようも認められようもがないが、この男のそれは質も量も巨大だ。量だけならワーグナーに軍配が上がるが、それは音楽いち教科のこと。ホフマンは三教科で全部80越えだから異質の異能、二刀流どころか三刀流の達人であり、僕にとってあらゆる角度から興味を引く人間の最右翼である。いま邦訳で手に入る彼の小説を片っ端から読んでいるところだ。

 

(1)法律を学んだ音楽家たち(才能の二面性について)

E.T.A.ホフマン(1776 -1822)は法律家の家に生まれた。彼がどういう人であったはわかりずらい。ケーニヒスベルクの陪席判事、プロイセンのワルシャワ市首席行政官、バンベルグの劇場支配人、ライプツィヒの音楽新聞の評論家、プロイセン大審院判事というところが給金を得るための公の職業であったが、後世は彼をまず幻想文学の小説家として、次にくるみ割り人形、コッペリア、ホフマン物語の原作者として、そして、作曲家ロベルト・シューマンに文学的影響を与えたマイナーな作曲家として記憶している。僕はというと、オペラ、宗教曲、交響曲、室内楽、ピアノ・ソナタが200年後にCDになっている人類史上唯一の裁判官として評価している。大酒飲みでパラノイアであり、反政府の自由主義者としてメッテルニヒに処分されそうになったが、うまく逃れてベルリンで梅毒で死んだ破天荒の男だ。

総合音楽新聞(1808年)

彼の「公の職業」はパンのためで、ライフワークは文学、なかんずく音楽であった。著名な音楽評論家でもあって、Allgemeine musikalische Zeitung(総合音楽新聞)の執筆陣に名を連ねている。この新聞は最古の楽譜出版社で今に至るブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(https://mag.mysound.jp/post/491)のオーナー、ヘルテルらがドイツを中心とした音楽界の事情を発信するメディアとして立ち上げたものだ。19世紀になると作曲家は楽譜を印刷して収入を得ることで自立の道が開けた。そのため彼らは出版社と運命共同体であり、出版社は新聞に識者による評論を掲載して彼らの新作をプロモートし円滑に売ることができる。その良好な関係がワークするには執筆陣の質的な優位性はもちろんだが、同時に中立性が求められた。同紙が「御用新聞」でないことは、例えば、後に金の卵となる若きベートーベンが1799年の同紙で「モーツァルトの『魔笛』主題による変奏曲」を始めとする初期の変奏曲の変奏技術を同紙の複数の論者に酷評されていることで証明されている。

ところが同じ年のピアノ・ソナタ作品10(第5-7番)のレヴューで評が好転し、彼の作曲スタイルが初めて認知された。その後数年で、彼の初期作品の複雑さが同紙で重ねて議論されるようになり、それなら再演して確認しようという声が上がりだした。その例として1804年に同紙の発起人で主筆のヨハン・フリードリヒ・ロホリッツ(ゲーテ、シラー、E.T.Aホフマン、ウエーバー、シュポーアの友人)が交響曲第2番ニ長調(1803)の再演を求めていることが挙げられる。2番が難しいと思う人は現代にはいないだろうが、当時、初演だけでは専門家にも理解が充分でない “現代音楽” だったことが伺える。かように出版と評論が表裏一体を成して新作の理解と普及に能動的に関与していた。ロマン派に向けて準備していた時代のダイナミズムを感じられないだろうか。

Hoffmann’s portrait of Kapellmeister Kreisler

その最も著名な例だが、E.T.Aホフマンは評論家として今日あるベートーベンの評価に貢献している。それは1808年(上掲写真の年)に同紙に発表した交響曲第5番、コリオラン序曲、ピアノ・トリオ作品70(第5,6番)、ミサ曲 ハ長調 作品86、エグモント序曲論考であった。それが大きな影響力があったことはベートーベン自身が謝辞を述べたことでわかる。これぞホフマンの審美眼と文筆力のあかしだ。ちなみに本稿掲題の「牡猫ムルの人生観」に登場する楽長クライスラーのポートレートはその際に同紙に初めて登場している。ベートーベンもこの絵を眺めたのだろう。なおクライスラーという空想の人物はホフマン自身の分身、カリカチュアであることは後述する。

ホフマンの音楽はyoutubeで聴ける。廣津留すみれさんに教えていただいたクララ・シューマンのピアノ・トリオも良かったが、もっと前(1809年)に書かれたE.T.A.ホフマンのトリオもこの出来である。

お気づきと思うが、第4楽章はジュピター音型(ドレファミ)を主題としている。ペンネームのE.T.A.を使用しだしたのがやはり1809年であり、その “A” の由来を「Amadeusから」と述べている彼が音楽でモーツァルトへの敬意を示したのがこれだろう。

更に素晴らしいのは「ミゼレーレ、変ロ短調」である。

1809年の作品であるが、ここにもモーツァルトのレクイエムの和声や書法を想起させるものが聴こえる。

これだけの作曲ができる人がプロイセン大審院判事として判決文を書いていたという事実は一応の驚きではあるが、論理的な作業に人一倍すぐれた能力があるという理解でくくれないことはない。しかし、一転して、感性の領域である「砂男」などオカルト文学、幻想文学の作家でもあるという二面性の保持者となると、そのどちらもが人類史に作品が残る水準にあったという一点において非常に異例だ。ワーグナーは楽劇の台本も自分で書いたが、音楽のない指輪物語でどこまで彼の名が残ったかは疑問に思う。

ホフマンに限らず、音楽と法学をやった人は意外に多い。テレマン 、ヘンデル 、L・モーツァルト、チャイコフスキー 、ストラヴィンスキー 、シベリウス 、シャブリエ、ショーソン、ハンス・フォン・ビューロー、ハンスリック、カール・ベームなどが挙げられるが、このことをもって僕は「二面性」と言うのではない。比喩的に極めて大雑把に丸めればどちらも論理思考を要する点で理系的であり、この名簿にロベルト・シューマンも加わるわけだが、同時に、文学者、詩人というすぐれて文系的な資質も開花させる才能を併せ持つのは異例だという意味で二面的なのである。そして、以下に述べるが、名簿の内でもシューマンだけはE.T.A.ホフマンに匹敵する才能の二面性の保持者であった。それが本稿の底流に流れるもうひとつのテーマである。

シューマンがハイデルベルグ大学で法学を学んだアントン・ティボー教授も上記名簿のひとりだろう。同大学は1386年創立。ヘーゲルやマックス・ウェーバーが教授を勤め33人のノーベル賞受賞者を出したドイツで1,2を争う名門大学だ。ティボーはパレストリーナをはじめとする教会音楽の研究家でハイデルベルクを代表する楽団 “Singverein” を創設、運営していた音楽家でもあるが、ドイツの法典を「ナポレオン法典」に依拠させるか否かの「法典論争」の主役を張った法学界の大家である。ローマ法を基盤とする汎ドイツ的な民事法を「一種の法律的数学」とした主張は、キリスト教徒がルネッサンス以来懐いてきたアポロ的理性で諸侯が群立する神聖ローマ帝国に啓蒙の光を投じようという啓蒙思想的、自由主義的なものだ。中産階級市民の子であったシューマンが共鳴しそうな議論だが、しかし、教授は教え子に関しては「神は彼に法律家としての運命を与えていない」と審判を下し、シューマンは20才でライプツィヒに戻ってフリードリヒ・ヴィークに弟子入りする運命になるのである。

(2)フリーランスの音楽家

外科医の娘であったシューマンの母親が息子に法律を学ばせたのは、絶対王政末期から国民国家の揺籃期の当時、ガバナンスのツールである法典の専門家に権力側の需要があったからだ。法学は中産階級が確実に食える実学だったのである。かたや音楽家はミサを書いたりオルガンを弾く教会付きの職人でしかなく、宮廷に職を得てもモーツァルトですら料理人なみの待遇だった。「フリーランスの音楽家」などというものはベートーベンが出現するまで存在しなかったのである。19世紀に大学に通う子弟の家庭は地位も財力も教養もアッパーである。好んで息子を音楽家にする選択肢はなく、息子の方も教会と貴族によるアンシャンレジームに取り入る方が人生は楽だった。かような時代背景の中、神童ではなかったシューマンはピアノ演奏を覚えはしたが、20才まで作曲家になるレベルの訓練を受けていない。

日本語のシューマン本はほとんど読んだと思うが、その彼の思春期について音楽家か詩人かで迷う文学青年のごとく描くのが馬鹿馬鹿しいほどステレオタイプと化している。独語の種本のせいなのか日本人特有のセンチメンタルなパーセプションなのかは知らないがどっちでも構わない。本稿で本当にそうだろうかという反問を呈したい。僕は独語の原書が語学力不足で充分に読めないしその時間もないが、日本語になった充分な根拠があると思われるピースを推論という論理の力を借りて組み合わせるだけでもその反問は成立する。天才的作曲家であったという結果論から推論を逆行するのは学問的にナンセンスで「天才」という思考停止を強いる言葉は危険ですらある。音楽家の道を推してくれた父を16才で失い、20才で法学に挫折して国に帰ってきた青年である。本当に音楽、文学で食っていける自信があったの?というのが自然な疑問であろう。

その証拠に、なかったからピアノに人生を賭け、同い年のショパンにコンプレックスと焦りを覚え(それは評論家の仮面で巧みに隠している)、だからこそ自ら大リーグ養成ギブスばりの機械を作って星飛雄馬みたいに特訓し、ついに指を故障してその道すら断たれてしまったのである。夢見る詩人のシューマンはそんな悩みと無縁だったという類の仮定は否定する論拠はないが、現実性がないという反論を否定する論拠もない。最も身近にいた母は亭主が残したそこそこの遺産を相続したが、息子がそれを食い潰して終わる懸念を強く持ち、だから名門大学に進ませ、彼もそれにこたえるだけのギムナジウムでの優等な成績をあげていた。音楽の道と別の何かとを迷ったとすれば、それは法律家だったに違いない。彼のその道での生まれ持った能力が、その時点での意思に現実性を与えていたかどうかは別としてだが。

そう考える根拠は2つある。まず、彼が作品を愛読して強い思想的影響を受けたアイドルであるE.T.A.ホフマンが、まさにお手本のようにそれに成功した人だったからである。そしてもうひとつは、指の故障でピアニストを断念したおり「一時はチェロに転向することや音楽をあきらめて神学の道に進むことも考えた」(wikipedia)ことだ。彼はハイデルベルグ大学に進む前にまず父の母校であるライプツィヒ大学の法科に入ったが、彼が心酔したもうひとりのアイドル、ジャン・パウルは同大学神学部に在籍して1年で文壇に転身して成功した。法学の道もすでに断たれ自信も指針も喪失したシューマンが作曲でなく神学の道に向きかけたことは、彼にとって何が「現実的」だったかを雄弁に証明してくれる。

現実性がない、という主張は歴史の大局を眺めない人にはピンとこない。時はナポレオン戦争後のウィーン体制下だ。そこで再びパリで革命の狼煙が上がる。靴屋だろうと音楽家だろうと法学者だろうと、シャルル10世がギロチンで斬首かという隣国の暴動に無縁、無関心でいられた人はいない。音楽史というのは戦争、政治力学、貨幣経済によほど鈍感、無知な人が書いているのか、とてもナイーブな、宝塚のベルばらのノリの説が堂々と真面目に信じられている。ウィーン体制が全面的に崩壊するのは1848年だが、その端緒となった七月革命は遠くポーランドにまで飛び火して、蜂起した祖国がロシアに蹂躙され悲嘆したショパンは『革命のエチュード』を書く、それほどの重大事件なのだ。20才のシューマンの精神状態はそのパラダイムに規定されていたという世界的常識に基づいて思考するというインテリジェンスなくして語れないものである。

音大の学生で七月革命とは何だったか正確に知ってそれを弾いている人がどれだけいるか?知らなくても音符は弾けるが、ショパン・コンクールのような舞台で満場を唸らせる演奏をしようというなら、カール・ベームが指揮者の条件とはと問われて「音楽の常識です」と答えたその事を心したほうが良い。その年にショパンと同じ20才だったシューマンが無縁であったはずはない。彼はビーダーマイヤー期の旧態依然たる人々を「ペリシテ人」と名づけて揶揄し、それに対抗する「ダヴィッド同盟」なる彼の革命のための脳内結社を作るが、フリーランスの音楽家に挑むも指を怪我してしまった不安な彼にとって心の要塞のようなものだったろう。『ダヴィッド同盟舞曲集』はもちろんのこと、『謝肉祭』や『クライスレリアーナ』を弾こうという人がそうした常識を身に備えていないというなら、僕には少々信じ難いことである。

(3)ベートーベンの後継者

その時代においてベートーベンこそ貴族にも教会にもひれ伏さず、群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌う叩き上げのスキルの持ち主だった。難聴だったことで彼の音楽に価値を認めた音楽家はいない。それは楽譜の読めない後世の信者が神殿に奉納した「天才伝説」という聖者の冠であり、モーツァルトの借金伝説と同様のものである。音楽家はまずピアノの即興演奏と変奏の技量で、そして何より名刺代わりの交響曲の作曲で、彼を人生の目標とした。新時代にフリーランスの音楽家として食っていくためにはベートーベンの正統な後継者だというレピュテーションを得ることが出世のパスポートだったからである。20才で法律を捨てて音楽で身を立てる決意をしたシューマンは、名誉もさることながら、それを得るコミットメントを自らに課したのである。

アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー(Anton Friedrich Justus Thibaut, 1772年1月4日 – 1840年3月28日)

神童でありティーンエイジャー期に職業音楽家としての特訓を受けたモーツァルト、ベートーベン、ショパン、クララ、リスト、メンデルスゾーンらに比べ、作曲家としてのシューマンの心のありようには別種の立ち位置があるように思えてならない。私事で誠に恐縮だが、都立高校出で受験技術の訓練を積んでいなかった僕は大学で出会った有名難関校出に根本的に違う資質を見たが、ああいうものが20才まで作曲素人だったシューマンにあるように感じてしまう。10代の思考訓練は一生の痕跡を残すが、20を過ぎてからのは必ずしもそうならない。彼が根っからのロマンチストであるなら若くして十分に達者であったピアノでショパンのように詩人になり、交響曲やカルテットは書かなかったろう。しかし、彼はそういう人ではなかったのだ。町名(ASCH)を音化したり、ABEGGの文字を変奏したり、クララの文字や主題をミステリー作家のようにアナグラムとして仕掛けを施す論理趣味があり、バッハの平均律への執着、ベートーベンのピアノソナタ、交響曲のテキスト研究は文学青年の作曲修行などではなく、10代の思考訓練の賜物としての内面からの欲求であろう。その精神が青年ブラームスにも伝わり、ハンス・フォン・ビューローの「バッハは旧約、ベートーベンは新約」の言葉に受け継がれていったのではないだろうか。

ここでもう一つ、背景を俯瞰しておく。興味深いことだが、神学と哲学と法学と音楽はテキスト研究、解釈の方法論の厳格さにおいて科学に比肩する。神学についてあまり知識はないが、科学と神学は中世では同義であり、聖書の厳格なテキスト研究がマルティン・ルターのプロテスタンティズムを生んだと理解してる。音楽と法学は、明白に人間の書いたものなのに、あたかも神の法である科学の如く扱うという姿勢を、少なくともドイツ語圏ではとっていた。それはア・プリオリの法則ではなく、かくあるべしという「心理的態度」に過ぎないのだが、アントン・ティボー教授の「民事法は法律的数学」という比喩に見事に表象されている。後に音楽を数学的に扱う作曲家が現れるのもこの観察に整合的だろう。

音楽先進国イタリアには左様な心理的態度が芽生えなかった。「歌」に理屈はいらないだろうが、さらに本質的な理由として、カソリックが宗教改革と無縁であり続けたことと軌を一にするように思える。それは真にドイツ的な、ドイツ語世界での現象である。シューマンがとった態度を見ると、北イタリアを旅はしたが、ロッシーニを酷評し、オペラ等の歌は器楽の下に見る地点からスタートしている根っからのドイツ人である。アリアのように感じたまま気の向くままに心をこめて音楽すればいいという姿勢は程遠い。彼は評論家としてベルリオーズの幻想交響曲を医学の検体のような眼で眺め、第1楽章の自らによる子細な分析スタンスを「解剖」という言葉で端的に述べている。

(4)シューマンのファンタジーの深淵

一方で彼には、二面性の他方である、先達にはない非常にオリジナルな側面があった。文学からのインスピレーションである。文学者を志しライプツィヒ大学に学んだ父アウグスト、詩作を嗜んだ母ヨハンナから受け継いだ資質だろうが、彼の楽曲が生き残ったのは解剖、解析による堅固で論理的な要素の貢献よりも、その資質による詩的な要素の魅力によるところが多いというのは衆目の一致する所だろう。彼自身も、名人芸を浅薄としイタリア風を否定したが、同時に、規則にがんじがらめの対位法家を糞食らえとしている。「根本的に勉強したあとでなければ規範を軽蔑しないように。これ以上危険な反則はない」と述べている(「音楽と音楽家」38ページ)のに、「わたしはナイティンゲールのように、歌がつぎつぎとあふれてくる。わたしは歌って、歌って、歌い死にしそうだ」(同248ページ)とも書いているのが二面性の裏面だ。理性と情緒。その両方がバランスを時々に変化させながら、後にも先にも類型のないシューマンの音楽というものを形作っている。

『新音楽時報』(Die Neue Zeitschrift für Musik)

彼は評論においても、ホフマンに負けず劣らず理性と情緒を駆使して美文調だが本質を鋭利に見抜く眼で音楽を語っている。シューマンの音楽評論はそのほとんどが、冒頭の「総合音楽新聞」(1798年創立)と同じライプツィヒでシューマン自身が発起人として1834年に創立した「新音楽時報」(Die Neue Zeitschrift für Musik)にて展開されることになる。「総合音楽新聞」の確立したベートーベン崇拝の伝統を受け継ぎ、シューベルトを発見し、ショパンの天才、ベルリオーズの新しさ、メンデルスゾーンの新古典主義を讃えるなど、ロマン派幕開け期の作曲家と作品の評価を高める貢献があったと評されているが、読んでみた僕の感想は、主情的、感覚的な人間と思われているシューマンが公平で客観的な眼を持っていることだ。ここにも二面性が現れている。

同年生まれのライバルでもあるショパンの持ち上げ方は理性を超えているように見えるが、彼の理性は科学のように客観性を内包した性質のものなのだ。シューマンにベルリオーズを称賛すべき何があるのか?「最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によって決まる」と述べている事実がある。そこで彼の幻想交響曲の第1楽章の子細な「解剖」を調べてみると、ブログで僕が展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。と書いた第1楽章のその部分に何の反応もコメントもしておらず期待外れだ。彼の称賛は和声も標題も形式も包含した新しい音楽(ノイエ・ムジーク)への情熱からベルリオーズをダヴィッド同盟の同志と見たものだと解するのが説得力があろう。マーラーが「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう」と評価したのと似たスタンスかもしれない。

「新音楽時報」の2019年4月号

「新音楽時報」は一時の中断を経て現在も刊行されているが、19世紀初頭から脈々と続く「ドイツ語世界」での批評家精神は畏敬に値する。批評、評論というものは主観に照らしたその物の形であるが、評者の思考プロセスに一定の普遍性、客観性が備わっていなくては説得力がない。評論にフロレスタンとオイゼビウスという ”二面性キャラ” を登場させ、知的に戯画化した文学的創作(ドビッシーが ”クロッシュ氏” によってそれを模倣しているが)がシューマンの評論を乾ききった理屈の干物にしないばかりでなく、自己の心のうちに潜む対立する2本のナイフによってその物の形をクリアに彫琢する。この手法は敬愛した文学者であるジャン・パウル、E.T.Aホフマンから継承したものであった。

バッハ、ベートーベンに習った「一定の普遍性、客観性」という入れ物のなかに、持ち前の詩情、ファンタジーの泉がこんこんと湧き出ているという様相が僕にとってのシューマンの楽曲の特性だ。

(5)「牡猫ムルの人生観」

『牡猫ムルの人生観』2巻。

E.T.A.ホフマンの長編小説「牡猫ムルの人生観」は学識のある猫による自伝である。ムルは上述した楽長クライスラー(ホフマン自身だ)の自伝のページをちぎって下書きやインクの吸取り紙として使用したが、製本ミスでそれが挿入されたまま両者が交互に現れる形で印刷されてしまったという誠にトリッキーで実験的な構造を持っている。当然ながら、章ごとに場面も人物もガラッと変わるが、その様はミステリーのカットバック手法かと思う程だ。何か深い意図があるか?と思ってとりあえず身構えて読むと、実は単なる印刷の失敗でしたというタネは落語的でもある(それでも捨て猫のムルが引き取られるのがクライスラー自伝の始めに来ているので時間的連続性は担保)。

ジャン・パウル(1763 – 1825)

シューマンは自己の精神の内奥に潜む二面性を知り、まったく同じものをE.T.A.ホフマンに見た。ホフマンはこの小説で自己を楽長クライスラーに投影し猫ムルとの裏表の二面性を描いたが、クライスラーという自分のカリカチュアは、ジャン・パウルが自作に登場させたドッペルゲンガー(Doppelgänger、自己像幻視である。10代のころジャン・パウル(マーラーの「巨人」の作者)を精読し、その世界に浸りきっていたシューマンは自己像をひとつ提示するのでなく、アポロ的人物(フロレスタン)とディオニソス的人物(オイゼビウス)に分割した。ふたりの対話で評論は書かれるが、実は彼らはそれを記述しているシューマンに対するドッペルゲンガーであり、シューマンは文面に出ないがシャーロック・ホームズに対する記述者ワトソンとして存在している。

同書は「そもそも猫が執筆なんて」というところからホフマンの術中にハマれない頭の固い御仁はお断りでございという軽妙洒脱とハイブロウな粋(いき)がスマートで格好良く、愛猫家の必読書である(ただし岩波の日本語版は絶版だ。独語、英語は入手できる)。そこはソフトバンクのお父さん犬と同様だ、それってアリだよねと楽しんでしまう姿勢がいいねという暗黙知が世間にあるからそのキャラが成り立つのであって、見た者は死ぬと伝わるドッペルゲンガーの不気味さはないが、何せ未完だから本当はどういう構想だったかは謎だ。

フラクタル図形ツリー

シューマンはこれを読んだインスピレーションで「クライスレリアーナ」を書いた。本作は漱石の「吾輩は・・」と歴史的名作をふたつも生んだ偉大な作品ということになる。E.T.A.ホフマンは生涯の業績をマクロ的に見てもお化けのように巨大だが、こうして細部をミクロで見てもやっぱりお化けであるというフラクタル型巨人である。漱石は作中で本作に軽く言及している。知ってるけどパクリでないよというスタンスだが、どう考えてもパクリだろう。それでも上質のパロディではあるから不名誉どころかお見事と称賛したい。ただ、漱石は猫に自分の言いたいことを語らせただけであり、ドッペルゲンガーの闇はない。

 

自分という他人( ロベルト・シューマンの場合)

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