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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その8)

2020 JAN 24 13:13:23 pm by 東 賢太郎

ヤン・パネンカ / カレル・アンチェル / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

パネンカ(1922 – 1999)はヨゼフ・スークやスメタナ四重奏団との合わせ物のイメージが強いがソリストとしても一家言あるピアニストであり、僕は彼のベートーベンを時おり聴く。大向こうをうならせるヴィルトゥオーゾのタイプではなく、スリムで形式感覚のきっちりした演奏に特色があり、野球ならクリーンアップでなく俊足攻守の1、2番の人だ。このシューマンも不足ない技巧で闊達に弾かれており、同系統の音楽資質のアンチェルと相まって筋肉質、質実剛健の演奏である。Mov2などさすがにポエムの不足を感じてしまうが、現代の演奏解釈は過剰にロマン的かもしれず、このテンポがシューマンの意図に近い可能性はある(評点・3)。

 

スビャトスラフ・リヒテル / ヴィトルド・ロヴィツキ / ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団

リヒテル(1915 – 1997)の技巧の凄さについて僕は証言することができる。ロンドンで聴いた彼のプロコフィエフのソナタ以上の驚くべきピアノ演奏を僕は体験していない。ppで弾かれたプレストの複雑なパッセージは衝撃的で、他の誰からも聴くことはもうないだろうと断言できる。このシューマンはそのリヒテルによって恐らく人類の成し遂げた最もレベルの高いピアノ技巧でこのコンチェルトが弾かれた記録であり、ほかのピアニストの指のもつれた演奏によって難所と知る部分に破綻はおろか苦労の痕跡さえ感じさせないものだ。さらに貴重なのはロヴィツキの指揮するWPOが完全にリヒテルに共感、同化し、個性的音色、彫琢されたフレージングで単なる伴奏以上の自発的感興に満ちた音楽を展開していることだ。そのアプローチで必然的に失っている抒情的な部分での詩情というものはあるが、その欠点を割り引いても一聴に値する(評点・4.5)。

 

ウラディミール・アシュケナージ / ウリ・セガル / ロンドン交響楽団

1977年6月, キングズウェイホール(ロンドン)におけるアシュケナージのこの曲唯一の録音である。リヒテルに対抗できるメカニックがありながら剛速球派の彼とは違い剛柔織り交ぜたといえるが、ぶれない芯の強さがあって決して軟投派ではない。アシュケナージのピアノはブラームス2番、モーツァルト20番を聴いたことがあるが、鋼の剛直さと珠のような美音を併せ持ち、決して尖ったエッジはないが終わってみると美味なフルコースを食した満足感にひたれるという体であった。この40才で成し遂げた演奏においてもセガルの伴奏も含め水準が高く、ゆえに再録音しなかったのだろうと想像する。やや健康優良児に過ぎると思わぬでもないが、曲にまだ馴染みのない方が聞き覚えるには不足のない模範的演奏だと思う(評点・4.5)。

 

アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ / ダニエル・バレンボイム / パリ管弦楽団

ミケランジェリ(1920 – 1995)は一度だけ、ロンドンでドビッシーとショパンを聴いた。独特な透明感と色彩感覚のピアノであった。このシューマン、まず冒頭のピアノの「入り」が強すぎ、何が起きたんだ?とデリカシーのなさにびっくりする。84年のこれだけかと思ったら昔のシェルヘン、チェリビダッケとの演奏もそうだ。その後も聞きなれぬ意味不明のダイナミクスに戸惑う場面があって集中できず、バレンボイムの伴奏も無機的で再現部前の浮遊する和声感(こういう箇所がシューマンの狂った所なのだが)が何やら無用に現代音楽風にすら聞こえたりする。カデンツァのアクセントも妙である。比較的普通でほっとするMov2を経て、Mov3はもっさりした野暮ったいリズムで開始する。ピアノは妙なところでルバートと共に鎮静し、すぐ元気になる。コーダでは速めのパッセージにまでルバートがかかる。スコアにない予断を許さぬ驚きの連続だが、何のためなのか僕にはさっぱり意味不明だ。そして曲はついにバレンボイムのあおるティンパニの下品なロールで豪壮に幕を閉じ、無垢な聴衆の大喝采をもらうのであった。あの奇跡的な「夜のガスパール」のピアニストからは思いもよらぬ異星人のシューマンである(評点・1)。

 

ブルーノ・レオナルド・ゲルバー / ヨゼフ・カイルベルト / ケルン放送交響楽団

これもyoutubeで発見のライブ。Mov1、ゲルバーの主題提示はデリカシー満点。第2主題移行部のテンポの緩急や絶妙のルバートも楽想の呼吸にぴったりだ。ゲルバーはロマン派の感情の起伏を大きめにとるが決して尖ったことをせず聴き手を包み込むように納得させる名手だが、シューマンにうまく活きている。カイルベルトの指揮もその脈動に歩調を合わせてあり、展開部でのフォルテではティンパニを強打し、ロマンティックな木管の陰影の明滅も耳をとらえ、大変に「濃い」。Mov3は表情もリズムも大変に雄弁でピアノと競奏的な興奮をもたらす。両者のテンションの起伏が見事にはまっているので、つりこまれた聴衆が静寂部で息をひそめているのが分かる。Mov3の主題提示が録音商品化するには技術的に物足りないが、それを割り引いてもいい。スーパーテクや妙なとんがりで個性を出そうとする若手の努力が完璧にアホらしく聴こえる真打の名演(評点・5)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

クララ・シューマン ピアノ三重奏曲ト短調 Op.17

2020 JAN 14 7:07:52 am by 東 賢太郎

廣津留すみれさんからメールとビデオをいただいた。

「クララ・シューマンのトリオを追加しましたのでよろしければお聴きください。昨年夏に演奏したもので、Chamber Music Society of Lincoln Centerで活躍するチェリストとピアニストとの3人です。」

Audio

話の成り行きは「好きなピアニストは?」からクラウディオ・アラウに、そしてハンマークラヴィール・ソナタに行き、「これ、ベートーベンの死後しばらくは弾ける人はフランツ・リストとクララ・シューマンだけだったんだよね」となった所、「ところでクララのピアノ・トリオご存知ですか?わたし弾いたビデオがあります、いい曲ですよ」ということになった。

すみれさん、いいですねえ。このトリオ、知りませんでしたがクララ27才の作品です、貴女がいま弾くにふさわしい。何回も聴いてしまいました。

これはクララがピアノ、声楽以外のために書いた初めての作品のようだがVn、Vcの扱いに何らの違和感もない。シューマンはこのトリオに触発されて自身のピアノ・トリオ(1番、op.63)を書いたらしいが、クララのOp.17の方にもシューマネスクなものがあって、和声の天才的独創性はロベルトにしかないけれど、彼にはクララからもらったものが多くあるんじゃないかと思えてしまう。さらに言えば、第1楽章の第1主題などそのままブラームスになっちゃう。何やら深い、恐るべしだ。

こう書いてメールを返信した。

第1楽章ですが、 ベートーベンのピアノ協奏曲第3番の 第1楽章がちらっと出てくるね。どこかわかりますか? 提示部の最後と、もっとはっきりと10分42秒からです。クララは3番、4番が愛奏曲でカデンツァを残してます。ついでに、6分49秒からのパッセージは魔笛のパミーナのアリア(これもト短調)です。モーツァルト、ベートーベンがどれだけドイツロマン派の底流にあるかわかりますね。

そう、わかる。クララが若くしてドイツ保守本流の古典音楽をすでに自家薬籠中の物としていたインテリ、教養人であったことが。そのうえでハンマークラヴィール・ソナタを弾ける当代1,2を争う技巧を持っていたわけで、この人とファニー・メンデルスゾーンは作曲も一流だった女流演奏家として音楽史上双璧である。トリオを聴きながら、そこに「女流」という形容詞をつけるナンセンスを考えていた。ファニーは弟フェリックス・メンデルスゾーンより才能があると記した同時代人もおり、18,9世紀の欧州ではまだ厳然と立ちはだかっていたジェンダーの壁は多くの傑作を闇に葬ったのではないかということを。

 

【インタビュー】廣津留すみれ (バイオリニスト / 音楽クリエイター)

ニューヨークで活躍する日本人

https://newyorkpicks.com/special-and-features/interviews/interview_sumire_hirotsuru/

 

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その7)

2019 AUG 13 22:22:05 pm by 東 賢太郎

アルド・チッコリーニ / ジョン・ネルソン / ボローニャ市立劇場管弦楽団

youtubeで見つけた。これはいい。チッコリーニ(1925 – 2015)の奏でる音楽のコクと陰影に耳が釘づけになり離れられなくなる。このピアニズムそのものが発する芳醇な香気はそんじょそこらでお目に掛かれるものではない。例の楽譜の難しい部分を聴いてほしい。速いアルペジオの粒がそろって水が流れるように滑らかに、しかも低音に至るまで深々した音で鳴りきっており、晩年に至ってこれほど自在にピアノが弾けること自体が驚嘆の域であるが、僕の驚きはそれに向けたものではない。その技術の凄みが表層には一切浮き出ていらぬ自己主張をせず、全て音楽の求めるものだけに深い所で奉仕しているという確信を抱かせるという、極めて稀にしか接することのできない演奏であることに感動しているのである。ピアノが歌うMov1の冒頭の第1主題(楽譜)をお聴きいただきたい。チッコリーニは思いのたけをのせ、赤枠の始めの三点イへの跳躍からテンポがルバートを伴って遅くなる。

ここでエアポケットに入ったように、始まったばかりの演奏に「耳が釘づけに」なるのだ。ただ事でないものを予感させるが、それを3小節で語りつくしておいて、チッコリーニはオーケストラに返す。それが赤枠の最後のド,シ,ラ,ソ#,ラである。ここをテンポを ”速めて” ぽんと渡すのだ。ルバートする人はいくらもいるが普通は遅いままピアノを終え、次の楽節からテンポを戻す。ところがスコアを見てみると、歌う3小節にシューマンは長いスラーをかけ、”速めた” 部分にスタッカートを付けている。このスタッカート(特におしまいのラのほう)を守っているピアニストはほとんどいない。チッコリーニのテンポの戻しはこのスタッカートに続く休符を尊重してのことであり、そうしているのはここまで挙げてきたビデオでもチッコリーニ以外はカーロイだけだ。僕は譜面を見て聴いていたわけではない。それでも感じるものがあったのは、彼の解釈がシューマンがこの主題にこめた思いに呼応していることで成り立っているからと考える。奏者の主観による身勝手な耽溺とは別次元のものだ。クラシック音楽は伝統芸能であり、聴衆は奏者のプライベートな思い入れにおいそれと共感はしてくれない。チッコリーニの解釈は何百回聴いたかわからないこの協奏曲があらためてこういうものだったかと知る喜びに溢れており、シューマンが特別の看板レパートリーというわけではないピアニストがこれだけの音楽を紡ぎ出す所に西洋の音楽文化の長い歴史と奥深さを見る。蓋し彼らはシューマンを空気のように呼吸して育つのであり、音大で先生に教わって知るのではないだろう。楽譜をニュートラルな情報媒体と見てそこに何を読み取ろうと自由という姿勢はリベラルな時流にはそぐわしく感じられるが、トラディショナリズムを捨てた時点でクラシックは音楽ショーに堕落し、本来の価値を失い、やがて聴衆も失う。アンコールの「森の情景」から「別れ」も言葉なしだ。こうべを垂れるしかない。こういうものを本物の音楽というのである(評点・5+)。

 

アリシア・デ・ラローチャ / コリン・デービス / ロンドン交響楽団

ラローチャ(1923 – 2009)はスペインを代表するピアニストでチューリヒと香港で2度リサイタルを聴いた。期待して聴いたが、全曲を通してテンポが遅い。Mov1はそれを大事にしつつ語ろうとしているが、ピアノのフレージングは分節が切れ切れでどうも流れがしっくりこない。オーケストラが合わせにくいのだろうか、遅めのテンポに感じ切っておらずもってまわった安全運転の感じがする。熱量が低く音楽のポエムが伝わらない。Mov2も遅めでチェロの歌が乗りきれない。ラローチャはテクニックの人ではないがMov3のテンポでそれもないとなると魅力は薄い(評点・2)。

 

ウィルヘルム・ケンプ / ラファエル・クーベリック / バイエルン放送交響楽団

ドイツを代表するピアニストのケンプ(1895 – 1991)とチェコを代表する指揮者クーベリック(1914 – 1996)はどちらも欧州で聴けなかった。ケンプはもう活動してなかったがクーベリックは残念だ。ケンプのドイツ物はバックハウスと並んで多くの支持を得ていると思うが、僕はどうしても技術の弱さが気になってしまう。冒頭のソロ、タッチに切れがない上に16分音符が長すぎる。いきなりがっかりだ。カデンツァはテクニックが明らかに弱い。はっきり言ってしまうが、今ならコンクールで予選落ちレベルだ。1973年の録音時点で78才だからかと思ったが53年のクリップスとの旧盤でもどちらも変わらない。Mov1の第2主題など抒情的な部分に良さがあるのは重々承知だが、上掲のチッコリーニは81才であるのに、それでも比べるべくもない。Mov3は老人の徐行運転であり、逆にこのコンチェルトを満足に弾ききるのは技術的に非常に難しいということを知る。音楽は心であってテクニックではないと主張する人がいるが、心が主であるべきことは同感であるにしても音楽演奏は技術がなければ始まらない。ケンプの良さはモーツァルトのソナタで発揮されているが(http://モーツァルト ピアノ・ソナタイ短調の名演)。クーベリックの句読点のはっきりした伴奏は印象に残る(評点・2)。

 

シューマン ピアノ協奏曲イ短調 作品54

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その6)

2019 AUG 11 1:01:50 am by 東 賢太郎

ペーター・レーゼル / クルト・マズア / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

第1楽章のテンポがやや遅めなのはが良いが流れがよろしくない。ピアノが常時強めで弱音のデリカシーに欠け、展開部の最後までべったりこれというのは趣味に合わない。オーケストラもこのコンビの交響曲集は重厚な音が楽しめるがここではどうも違う。第2楽章の第2主題を奏でるチェロはもっとなんとかならなかったのか。終楽章だけはシンフォニックな曲作りが活きるが総じて大味。チャイコフスキーP協の流儀でやったシューマンであり150キロ出るが棒球の投手という感じだ。レーゼルは今ならこうはしないだろう。(評点・1)

 

ハンス・リヒター・ハーザー / ルドルフ・モラルト / ウィーン交響楽団

リヒター・ハーザーはベートーベンということになっているが、カラヤンが伴奏したブラームスPC2番はトップクラスであり、1958年の録音であり音が地味なので割を食っているがこのシューマンもとても良い。打鍵が強靭でありつつロマン的な感性を供えもち、フレージング、テンポ・ルバートがまさにドイツ的だ。ドイツ語のシューマンである。ドイツ・ロマン派保守本流とはこのことでそれは①テンポは流動的でなくがっちりしたフレームワークで揺るぎない②それを守りつつロマンを歌い上げる③音楽が内側から熱して両端楽章のコーダに向けて自然に加速する、を共通の特徴とするがこれぞその好例である。オーケストラが深い低音を基礎としてピラミッド状の音響構造を持ち、静止摩擦で容易には加速せず、いざするとその運動エネルギーが内燃して音楽が熱を帯びるというイメージを僕は持っている。ドイツのオーケストラである必要はないが、独墺の、それも70年代までのそれに顕著な傾向ではあった。それを愛する趣味を持つものとしてこのシューマンは掛けがえがない(評点・5)。

 

モニク・アース / オイゲン・ヨッフム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1951年にベルリン・イエス・キリスト教会で録音。もちろんモノラルで音は貧しい。ドイツ・グラモフォンがどういう成り行きで大仰でシンフォニックなヨッフムの指揮とパリジェンヌのアースを合わせようと決断したかは知らないが中々面白い。アースは例の楽譜のところをpp(?)で入るなど個性を見せ、終楽章のテンポはやや速めでリズムのメカニックとピアノの粒立ちが良く、やはりフランスのクラルテを感じる。BPOのアンサンブルが少々雑然としており、数多ある同曲の録音で価値を主張するにはもはや弱いと言わざるを得ないがアースのピアノは一聴の価値がある(評点・3)

 

カティア・ブニアティシヴィリ / パーヴォ・ヤルヴィ / NHK交響楽団

これがyoutubeに出てきた。2016年2月のN響B定期公演で僕は2月18日に聴いたこのビデオはドレスからすると17日の方らしい。感想はここに書いてある。

クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-

3年前、まだ、僕の筆は控えめであったが、それでもぼろかすである。18日はMov2にミスがあったが、このビデオの17日はもっと凄い。Mov3の31分53秒に記憶違いの「1小節とばし」があって、ホルンが落っこちてしまっている。カティアさんは飛ばしたこともホルンの事故も気がついてない風に見える。そういう人みたいだ。この演奏を讃えるには、そういうことを気にしないか気がつかないタイプの人でないと難しく、残念ながら僕はどちらでもない。最初のヤルヴィとのインタビュー、まったくどうでもいいことに終始するが、ひとつだけ非常に面白い部分がある。「シューマンは恋する普通の男になりたかったの、でも天才で狂っててなれなかったのよ、もちろん本当に狂ってたわけじゃないんだけど」とカティアが力説すると、ヤルヴィが「狂ってただろ」とさらっと言ってる。もう一度、「彼は気が狂ってたと僕は思うよ」と繰り返している(字幕はなぜかこんな大事なことを無視している)。シューマンに恋してしまってる彼女はあばたもえくぼで美点凝視になっており微笑ましい。かたや指揮者の男は醒めている。でも冒頭でシューマンが一番好きだと言ってる。狂ってるから好きなんだ。同感だ。僕もシューマンは気が狂ってたと思うし、だから吸い寄せられるエッジを感じるのだ。カティアはピアノに向かって、女性の視点で好ましい「恋する男」、「普通になりたいがなれない男」を熱演したのだろうが、シューマンはそんな乙女チックな男じゃない(評点・2)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その7)

 

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その5)

2018 JUN 18 0:00:34 am by 東 賢太郎

イヴァン・モラヴェッツ/ ヴァーツラフ・ノイマン / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭のオケ主題が異様に弱い。ピアノは徹底したロマン派耽美主義路線でテンポが振れて遅い所はぐっと遅くなり、そのせいかテュッティになってもCPOにしてはアンサンブルに締まりがない。第2楽章はそのポリシーが生きているがどうしてもこれがいいというほどでもない。終楽章のオケは雑然としたまま。スタジオ録音の完成度に欠ける(評点・1)。

 

マリア・グリンベルク / カール・エリアスベルク / ソビエト国立交響楽団

グリンベルク(1908-78)は好きなピアニストで彼女のベートーベンは評価している。ショスタコーヴィチの2歳下だがユダヤ人排斥でスターリン政権に徹底的にいじめられた悲運のピアニストである。このシューマンのライブ、剛毅さは男勝りでまるで怒りをぶつけるベートーベンだ。音の美しさもミスタッチも顧みず、第2楽章すら感興に応じて炎のように燃え上がる様は何か熱いものを感じ取っていたのだろうか。終楽章はさすがにミスが多すぎ。演奏がどうのよりひとりのアーティストの時代の記録だ(評点・対象外)。

 

クララ・ハスキル / エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

ハスキル(1895-1960)の愛奏曲でありどのフレーズも手の内に入っているのがびしびし伝わってくる。56年ジュネーヴでのライブで音は良くないが例の楽譜部分のデリカシーに満ちたレガートの見事なこと!アンセルメも意外に良く、第1楽章再現部へのつなぎ箇所がこれほど空疎にならないのはなかなかだ。ハスキルはタッチが一切重くならず!速めのテンポですいすい行くが栄養価は高く、モーツァルトが生きていてこれを弾いたらこんなかとさえ想像してしまう(評点・4.5)。

 

クララ・ハスキル / ウィレム・ヴァン・オッテルロー / ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団

音はモノラルだが悪くなくピアノはこちらがクリア。51年正規録音でコンセルトヘボウの音響がプラスしている。オッテルローは上掲アンセルメよりメリハリがあり、ハスキルもそれに呼応してタッチに起伏をつけ細部まで克明に弾くが、正装のこれかアンセルメの着流し風かは好みだ。しかし例の楽譜部分の軽みある喜びはここでも誠に素晴らしく、ハスキルを腕達者とは誰も言わないが実はそういうことなのだと納得するしかない。一家に一枚ならこっちだろうが僕はアンセルメ盤の気品が捨てがたい(評点・5)。

 

マルコム・フレイジャー / ヤッシャ・ホーレンシュタイン / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

大変な名演である。フレージャーのピアノ、冒頭のデリカシーから凄い。オケも感じ切ったぎりぎりの音で答える。この木管の音程の良さ、ホーレンシュタインの耳だ、ほかがかすんで聞こえるほどである。例の部分のピアノ、文句なしだ。これは何事がおきてるのかと思って調べると、フレイジャーはカール・フリードベルクを聴いて彼が亡くなるまで弟子入りした人だ。ということはクララ・シューマンの孫弟子ということになる。素晴らしい録音が残っているものだ。これは数多ある録音のベスト3に入る。画像が現れないので以下を開いてぜひ耳にしていただきたい(評点・5+)。

https://youtu.be/GDv29JqxyrA

 

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その6)

 

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

2017 NOV 1 22:22:16 pm by 東 賢太郎

ユリアン・フォン・カーロイ(pf)/ ロベルト・へーガー / バイエルン放送交響楽団

ハンガリーのピアニスト(1914-93)の滋味あふれる名演である。得意のショパンも持っているが、このシューマンはいっそう素晴らしい。自家薬籠中の表現は詩情もコクもあり最初のソロのクララ主題提示から唸らせ、随所のルバートや間は自在に取りながらも何一つ違和感を覚えさせるものがない。これぞこの協奏曲が求めているものだということであって、オケと競奏したりなにか奇矯なことをしようというピアニストとは根本から器の差を感じる。指揮もオケのフレージングもがピアノと呼吸が合い、感情レベルの高い次元で和合している。このクラスの演奏になると録音技術の進化やピアニストのスタイルの流行り廃りで古びてしまうというなどということとは無縁だ(評点・5)。

 

マウリツィオ・ポリーニ / クラウディオ・アバド / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

89年録音。ポリーニは絶頂期にあった。このイタリア人コンビのブラームス2番は聴きごたえがあるが、同じ透明感あるタッチのピアノもここではもうひとつ心に届かない。クリアなゆえにレガートが欲しい所で粒だって聞こえ曲想の転換でfになると低音が耳につくし、アバドの指揮も模範解答の域を出ずちっとも内側から燃えてこない。技術的な水準は大変高いのにあっそうで終わってしまう。美麗な博多人形を見ているよう(評点・2)。

 

リリー・クラウス / ヴィクトル・デザルツェンス / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

指揮もオケも誠に二級だがピアノが入ると格調が増す。ゆっくりしたテンポの冒頭はユニークで、クラウスはクララ主題など歌う部分はたっぷりとレガートで弾くが、速いパッセージやカデンツァはスタッカート気味でペダルも控えf部分は男性的でさえあるから好みを分かつだろう。自分の音楽をやっているのだが聞かせてしまうのは曲想に強い共感があるからだ。彼女のソロ録音は名品が多いがコンチェルトとなるとモーツァルトでも伴奏者に恵まれない。このシューマンも何とかならなかったのか(評点・3)。

 

ウィルヘルム・バックハウス / ギュンター・ヴァント / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

出だしの「滝」からよいしょよいしょという感じでミスタッチもあり、オーボエの音程も低い。なんだこれは、これがVPOか。しかしだんだん調子が出るとさすがバックハウスという黒光りのタッチになってきてうなる。クラリネットの第2主題あたりからはオケも悪くはないが、残念ながら拍節感を守るヴァントの指揮が何とも杓子定規だ。第2楽章もロマンに酔わせてくれない。カデンツァはあまり弾き込んだ感じはなく、もつれている。バックハウスの貴重な記録だが、どうも僕の耳にはやっつけ感を否定できない(評点・2)。

 

サンソン・フランソワ / パウル・クレツキ / フランス国立放送管弦楽団

フランソワの右脳型のピアノについていける人には面白く、オーボエもクラリネットも思いっきり「おフランス」でどこか違うでしょの空気が漂う。ピアノは第2主題で没入したと思えば一気に展開部で激してみたり。この人のテンペラメントを僕はあまり得意としないが、例の楽譜の部分の弾き方など実にユニークであって、そうでなくてはいけない必然は何ら感じないがまあそれもいいねと言わせてしまうものがある不思議なピアニストである。第2楽章のオケとのずれまくりはすごい、クレツキは大変だったろう。しかし終楽章のオケは健闘しており指揮者の力量を見せつけて満足感をくれる。それにしてもだ、バックハウスはあまり練習してないのが正直に欠点となっているがフランソワはそれって味があるねという風に薬味にしてしまう。得な人だ(評点・2.5)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その5)

 

 

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ブラームス 交響曲第3番ヘ長調 作品90

2017 SEP 15 22:22:18 pm by 東 賢太郎

ブラームスの3番は僕にとって特別の曲だ。そしてブラームスにとっても、第1、2番とはやや異なる動機をもって書かれた、内面を包み隠すのが常の彼にしてはそれを最も吐露した交響曲だった。1883年5月7日に50歳となった彼はその5月からヴィースバーデンに滞在して3番を書いた。10月2日にウィーンに帰って11月に2台のピアノ版による試演会で初演しているから、完成に至ったのは9月のちょうど今頃のことではないだろうか。初秋に聴くのにまことにふさわしい音楽だ。

我が家はフランクフルトで素晴らしい3年間を過ごしたが、車で40分ほどのライン川沿いの温泉保養地ヴィースバーデンを家族と頻繁に訪れたことはライン交響曲の稿に書いた。家を借りたケーニッヒシュタインはそのラインラント地方に近く、今でもその近郊に生を受けた3つの名曲、シューマンのライン、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、そしてブラームスの3番を聴くとあの頃にタイムスリップするのを感じる。

ブラームス

ヴィースバーデンのクアパークを歩くといつもブラームスのような年格好の髭の初老の男性を無意識に探していた。ブレスラウ大学から名誉博士号を授与された彼の称号はドクトルだったが、博士がこれほど似つかわしい風貌の作曲家もいないかもしれない(左・写真)。ヴァイオリンソナタ3曲、弦楽四重奏曲を20曲以上を発表せず焼き捨てた完全主義者の楽譜は相応の目線をもって読まねばならないといつも思うが、とりわけ3番は演奏時間で約30分とブラームスの交響曲では際立って短く、各楽章の演奏時間が他の交響曲より均等で、しかもどれもが静かに消え入るように終わる唯一の曲である。他の3曲とは明確に構造も聴後感も異なる。スコアを解析するにロマンと造形美の調和が主題と和声のぎりぎりの彫琢をもってしか達成されようのないレベルで凝縮しているのを見るのであって、交響曲に限らずブラームスの作品で同等の例を探すのは困難である。和声法、対位法など作曲の「決まり」の視点からその仔細を明らかにすることは興味深く僕が音楽学者を志す気にでもなれば論文テーマに好適だが、その類の試みは所詮テクニカルなものだ。天才の功績をルールで辿ってどこがどう秀でているかを公認のベンチマークを使って論じるのは凡才の仕事であり、その仕事から次の天才の作品が出ることはまずなく、天才は学校で習ったり他人の論文など読まなくとも名作を生み出すから天才なのだ。僕は自分の脳みそだけをベンチマークにしたいとすべての技芸は独学した人間だからそのポリシーを変えることはない。3番の譜面を見て驚くのは個々の部分ではなくその総体の緻密と威容であり、一言で括ればアインシュタインやモーツァルトには感じる「ブラームス博士の脳にある人類最高度の知性」としか申し上げようがない。

当ブログ読者のご関心ではないだろうからそのご説明は避け、本稿では3番をご存知の方ならどなたもわかるテーマをとりあげたい。それはシューマンの交響曲第3番(通称・ライン)との関係である。

「さよならモーツァルト君」で似たテーマを書いたが、5月7日に演奏会場でピアノでお聞かせした2つの部分が「引用」だったのだとご納得頂けたかは甚だ心もとない。ハイドンは作曲家の良識とプライドから相応にジュピターを編曲しており、音型や和声連結の相似を一度で気づくのはやや難しい。しかし本稿のその部分は、耳を澄ませてきけばどなたも明確に分かるものだ。

以下、混同を避けるため、ブラームスの3番を “3番” 、シューマンの3番を “ライン” と書くことにする。楽譜を並べるブログはスマートではないが、本稿は他に説明の手段がなく、ご容赦いただきたい。

僕は3番がラインから引用した主題で始まるのをずっと不思議に思っていた。その引用箇所は楽譜1の第3~6小節のチェロ(第449小節)、次いでヴィオラ(第551小節)によるト長調のドーソーミーレドーで、コーダに向かう直前に音楽が静まって厳粛な雰囲気になる印象的なページでのことだ。

楽譜1(シューマン交響曲第3番第1楽章)

それが3番第1楽章の冒頭でこうなる(楽譜2)。第1主題となる3小節目からのヴァイオリンによるpassionatoの旋律がここから来ていると僕は主張したい。レナード・バーンスタインがそれに気づいていたことを先日にyoutubeのビデオで知って心強かった。ただ彼がピアノでアナロジーを示唆しているのは3番のpの再現部直前の部分(全曲を締めくくる終楽章コーダの静寂な風景は楽譜1そのものだが)であり、僕の主張は冒頭の f で雄渾に奏される第1主題である点で異なる(楽譜2)。

楽譜2(ブラームス交響曲第3番 第1楽章冒頭)

ラインのドーソーミーレドーの音価(44314)は提示部の最後に「同曲冒頭の喜びに満ちた第1主題のリズムの裸形(スケルトン)」として弦の全奏で現れる(楽譜3)。これはラヴェルのボレロの小太鼓のように楽章を通して鳴っている「リズムの通奏低音」であり、楽章を通して底流で脈動している筋骨隆々たるもの、大河の水を押し流して滔々と流れゆくライン川の生命力がこの世に形を与えられた音霊のようなものだ。

楽譜3(シューマン交響曲第3番第1楽章)

つまりバーンスタインの弾いているドーソーミーレドーはライン第1楽章第1主題の「影絵」であって、すなわち、ブラームス3番とシューマン3番は第1楽章第1主題を共有しているのである。もちろん98番の交響曲でハイドンがそうしたように、緻密に周到に音を並べてそれを歴史に残そうと試みるコンポジション(作曲)を業とする最高の知性があからさまな引用などするはずはない(注)のであって、知性は知性に伝わればよしとする範囲内でそれは引用として歴史に残る。これは非常に意味深長なことだ。

(注)明白な引用とは例えばショスタコーヴィチの交響曲第15番にあるロッシーニやワーグナーやハイドンだ。これらが何を意味するかは諸説あるが、引用元は露骨に明白であり、誰もにわからせることに目的があるとしか解釈はできない。バルトークの管弦楽のための協奏曲の第4楽章はバルトークの子息が証言している通りショスタコーヴィチの第7交響曲への皮肉で、むしろ聴衆に積極的にわからせたい意図がある。ハイドンの98番や本稿曲目はそれらとは区別されねばならないだろう。

 

20歳のブラームスはシューマンに「新しい道」なる論文で輝かしい将来のある若き天才と絶賛されて終生深く感謝した。その論文執筆の半年後にシューマンはライン川に投身自殺を図り、エンデニヒの精神病院で生涯を終える。そしてそれからちょうど30年の月日が経ち、50歳を迎えたブラームスは1883年の夏をヴィースバーデンのガイスベルガー通り19番地、デヴィッツ氏夫人宅で過ごして3番を書いたのである。バーンスタインがビデオで語っているが、「ブラームスは30年後にラインを引用」し、なぜなら「ブラームスには二面性があり」「その一方はブルジョアの立派な市民としての顔ではないもの」であり、それは「シューマンのクララへの恋の錯乱と死」が忘れられない「シューマンの霊が憑りついている顔」であった。バーンスタインのこの洞察には敬意を表するしかない。

ラインはシューマンがデュッセルドルフに着任した1850年12月に約1か月で書かれた。半年後に精神病院に入る人間にして常識では測り知れないことであり、シューマンの作曲への霊感は我々が気安く天才と呼ぶ尋常なものではなかった。ツヴィッカウに生まれライプツィッヒ、ドレスデンとザクセン州で人生を送った19世紀人にとってラインラント地方はいわば異国だったことはドイツに住まれた人なら今でも実感できるだろうが、後に政治の悲劇とはいえ東独、西独に分断されてしまうことからもそれはどなたも伺えよう。東京で生まれ育った僕が大阪に赴任して、ただ観光に行ったのでなく就業した、そういう些細な経験だけでもそのことのインパクトの大きさは推察できる。

それがシューマンの精神の深くに共鳴してラインとチェロ協奏曲を一気呵成に書かせてくれたことは人類にとって福音であった。ラインは、20歳のブラームスがヨアヒムの紹介状を携えてデュッセルドルフのシューマン家を訪れたわずか2年前に初演されたが、師と仰ぐ大家の「最新の大作」であったのはベートーベンにとってのモーツァルトのピアノ協奏曲第25番と同じであった。北ドイツ生まれのブラームスは風光明媚な避暑地で夏に集中して作曲する習慣の人だったが、選んだ地はオーストリア、イタリア、スイスドイツ語圏であり、ラインラント地方を選んだのはこの1883年の一度だけである。それがヴィースバーデンに住まいがあった若いアルト歌手ヘルミーネ・シュピースによる部分が幾分かあったとしても、ブラームスの胸中に去来していたものはそれだけではなかったろう。

もうひとつ指摘したい。楽譜2の最初の2小節、2つの和音による印象的なモットーは冒頭2小節のファーラ♭-ファ の短3度上昇音型にF-Fdim7-Fの和音が付加され、主題ではないが全曲を貫いて陰に日向に鳴り響き(第3,4小節ではバスにすぐ現れる)、そして終楽章のコーダで再現して全曲が緊密な音型と和声のリンクで構築されていたことを知らせて聴き手に深い充足感を与える重要な素材だ。それは第2交響曲で冒頭のレード#ーレが負っている役割に似るがこれは線の素材であり、ファーラ♭-ファは音型であると同時に和声素材でもあるため同等に語るのは誤りである。線素材のモットーが和声素材になるのが2番から3番への進化であり、さらに4番の終楽章のバッハのコラールという線、和声の両側面を拡張した素材の使用によって技法の集大成を迎えるのである。

この2和音はシューベルト弦楽五重奏曲ハ長調の冒頭から来たのではないだろうか(楽譜4、第1~4小節)。2和音の音程関係はまったく同一であり、ラ♮ーラ♭(ブラームス)及びミ♮ーミ♭(シューベルト)という和声学でいう「対斜」という極めて異例の和声配列を含む点で共通である特徴は看過できないが、それにもかかわらず引用として指摘した文献は見たことがない。第3交響曲を書く前年に弦楽五重奏曲第1番ヘ長調作品88が書かれており、ブラームスがこれに触発されたか少なくとも研究したことは想像されるし否定することはむしろ困難と思われる。

楽譜4(シューベルト弦楽五重奏曲第1楽章冒頭)

D.956が書かれたのはシューベルトが梅毒に冒されわずか31歳で死ぬ2か月前だ。そしてシューマンも第三期梅毒にあり死因は進行性麻痺だったとするエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士のカルテが1994年に公開されている。シューマンの死を呼んだ当時は原因不明である病魔にブラームスが医学的にはともかく疑念程度であれ思い至らなかったとは考え難く、仮にだが彼がクララと関係を持ったとすればより切実な関心事であったはずだ。彼が誰とも結婚に踏み切らなかったことと関係はないだろうか。

モットーにおいて線素材が和声素材にもなったことを2番からの進化と書いたが、その言葉に違和感のある方もおられよう。新たなデザインへの素材としてもよい。2番に隠すものはなかったが3番にはあった。第1主題が伴う和声がへ長調のままだったとご想像頂きたい。何倍の数の学者がラインの引用だと主張していただろうか。そうならなかったのは楽譜2の4小節目で和声がへ短調に急転するからだ。それを支えて異常事態と気づかせないのはバスが直前に聴いたファ、ラ♭だからに他ならない。モットーは和声素材である必要があったのである。さらにそれが次の小節で遠い変ニ長調に飛ぶことで多くの人の聴覚は幻惑されてしまう。目的はより確実に遂げられ知る人だけへのメッセージに留め置きたいラインの隠喩はブラームスの計略どおりにほぼ秘匿されたと思う。

ヘルミーネ・シュピースに恋をしたことは第2、3楽章にそのロマンティックな投影を感じさせるが、それをもって3番の本質を語ることはできない。クララの娘にまで恋したブラームスにとってそれは実現できないクララとの結婚によって生じる認知的不協和の解消だった可能性を僕は見る。ヘルミーネはクララの陰で次第にアンビバレントな存在となり、彼はシーボルトの従兄弟の娘らにしたように結婚できない理由を自分で作り、結局は自分を悲しませ、追い込んでいく不幸を背負った男だった。

ヘルミーネをポートレートとして縫いこんだ第2,3楽章の調性はハ長調、ハ短調であり「中間の2楽章が共に属調で推移するなど、これ以前の古典ーロマン派のレパートリーには見られない」(「ブラームス 4つの交響曲」ウォルター・フリッシュ著)。これは「特別な高みにある2楽章である」が「最後はトニックであるヘ長調の第4楽章での二項対立に飲み込まれて解決を迎える運命にある」ことをブラームスは調性設計という建築なら設計図面にあたる作業の骨格部分において密かに示す。それが外殻を形成している第1,4楽章のパッション、メランコリー、宿命との争い、怒りのドラマと二項対立になっている。

3番が二項対立の交響曲であるのはバーンスタインの指摘するようにブラームス自身が二面性のある人物だったからだ。前述の第1楽章モットーのラ♮ーラ♭の対斜の対立、性格でいえば外殻(1,4)と内殻(2,3)の、そしてその各々の調性が(F、Fm)、(C、Cm)の長調、短調の対立である。それに加えて僕はシューベルト的な性格とシューマン的な性格の対立があり、両者は外殻において死、内殻において愛を纏っていると感じる。前者の例として第4楽章の楽譜5の「格言を垂れているような旋律」(ウォルター・フリッシュ)は誰かの葬儀のようで、和声は浮遊して特定の調に解決しない。

楽譜5

第2主題を経て第75小節からのGからCmへの和声の移行は誠に凄い(楽譜6)。4小節目で遠隔の変ロ短調に進んで緊張の頂点にバスのg-cを最後の審判のように苛烈に打つティンパニはこの曲の演奏のひとつの極点を成す。弦楽六重奏曲第1番の青春に束の間の回帰を見せた第3楽章への運命の鉄槌のようだ。

楽譜6

二項対立は終楽章コーダに至って解け、平和と安寧が光彩を放つヴァイオリンのトレモロに乗って天から降りてくる。そこで鳴るコードこそ、冒頭のモットーなのだ。卑近なことだが、子供時分にジェットコースターに乗って散々に怖い思いをした挙句、ステーションに戻ってきて徐行運転になった時のほっとした気分を思い出す。この深々した安堵感はウィーンでもベルリンでもなく、ヴィースバーデンに帰り着いた気分がふさわしいように思う。

 

(本稿に引用したバースタインのビデオ)

PS 楽譜1 について

ヴィオラ(第551小節)によるドーソーミーレドーの後、ppとなってト長調の根音(ソ)の五度下のドがバスにひっそりと加わるところは田園交響曲の終楽章の冒頭(ホルンが導く部分、ハ長調にファが加わる神々しい響き)そっくりである。「平和と安寧が光彩を放つヴァイオリンのトレモロに乗って天から降りてくる」3番は、その部分から楽譜1を連想できる人にとってはだが、シューマンのラインで最後の幕が降り始め、舞台の向こう側にベートーベンの書いた最も神秘的な情景を「蜃気楼のように遠望させて」終焉を迎えるのだ。あらゆる音楽のエンディングで最も独創的であり、音楽を知る者ほどさらに深い感動と充足を与えられるという驚くべき事例だ。先行する3楽章をすべて弱音で終わらせたのはこの準備のためであったかと思慮させる。人類最高度のブラームスの知性と書いたもののひとつである。僕がクラシック音楽を好む理由はこういうものにふれられる希少な場であることに尽きる。

 

クラシック徒然草―クレンペラーのブラームス3番―

嬉野温泉スパイ事件の謎

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

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時の流れを何かで埋めたい

2017 JUL 23 17:17:42 pm by 東 賢太郎

6月のように深い海の底へ沈んでしまうと、心を解きほぐせるものがそうあるわけではないことを知る。押し寄せてくる時の流れを何かで埋めたいが、どんなことをしてみてもなじまないことがわかってくる。お悔やみも慰めも魂に響かない。お定まりの暇つぶしである映画や小説はもとからさっぱり関心がないし、音楽はというと、今度は効きすぎてかえって危ないかもしれない。

サンフランシスコに出向いたはいいが、よし蟹でも食うかとフィッシャーマンズ・ワーフに行ってみると、なんで俺は昔こんなつまらない卑俗な雑踏に感激してたんだろうと嫌悪感がわくばかりで困ってしまった。心がどうもネガティブにはね返ってコントロールが効かない、どうしようもない。

つかの間の救いはY君が連れていってくれたナパ・バレーのケンゾー・エステートだった。丘の葡萄畑を望むフランス風のテラス(右)がいかにも素敵だ。これで樹木がマロニエなら最高なのだが文句は言えない。こういう風情の所で食事とワインというのが昔から人生最も好きなことの一つであり、知らず知らず雰囲気に浸ってしまった。

もうひとつ、阿曾さんがチケットを譲ってくださった野村万作の出る能・狂言というのが有難かった(国立能楽堂)。オペラだったらお断りしたい心境だったが能は初めてという薬味が効き、橋弁慶、船弁慶、曽我兄弟など話は知っている演目なのも幸いした。楽の音も景観もまことに異形、異界だが、600年前も前の人の情念が今も変わらないのがどこか心地までよくて、ふと眠りに落ちたりしながらも魂に響くものがあった。信長、秀吉を捉えたものが生死隣り合わせの美だったかもしれないと思いながら観た。証券用語の仕手、前場、後場が能からきたとは知らなかったが、相場も死がすぐそこにある世界ではある。

未だ不案内だが右の書物には目から鱗の思いだ。死が隣り合わせの中世は神、精霊、幽霊に出会う場が能であった。免疫学者で東大医学部教授だった著者は「私は理系の人間で能を見るときもどこか分析的になってしまう。しかしその分析を超えたところで一種の発見があり、科学の発見と同じく能の中のどんな小さな発見も例えようのない喜びである」と書く。文系的な人の書いた能の本はすべからく理解不能で、わけわからん説明を読むほど苦痛なものはないからこの出会いは福音だ。「間の構造と発見」の稿(本書はエッセイ集である)、ピエール・ブーレーズのリズム分析さながらに邦楽の「間」が図解(スコア)で定義されよくわかった。読む方も喜びである。

そして今、僕のピアノには長らくシューマンのピアノコンチェルトが置いてある。この曲の第1楽章、アレグロ・アフェットゥオーソは「速く、愛情を込めて」だが、なんと矛盾に満ちた指示だろう。二律相反するものを「間」をもって弾き分ける必要があるではないか。その間をとれるだけ成熟したピアニストがどれだけいるだろう。

第2楽章インテルメッツォをたどっていくとこういうのにぶつかる。

赤いほう、ヘ長調のメロディーがA、F7、B♭に、まるでエアポケットに入ったみたいに浮遊するのが不思議だ。そして青いところ、それが樹海に木霊したかのように木管がDm、Gmを2度さびしく奏でる!この不意に襲ってくる悲しい翳りはなんだ?この青からの4小節は無くたっていい、普通の作曲家まらまず最後から2小節目へ飛ぶのだろう。

以上コード記号を書いた和声は、子供の情景の「トロイメライ」であのふわっとした慕情に郷愁のペーソスを仄かにまぶした感じを醸し出すためにシューマンが工房で素材として用いたものだ。このインテルメッツォも同じ心情で書かれたものかもしれないと思い至った。

多田富雄氏が能に「発見」されたのは、音楽ならそういうものだろうか。氏は世阿弥の天才を説いているが、こんな音楽を書いたシューマンだって只事ではない。この協奏曲はいま僕の脳内に棲みついて次々と発見をくれているが、それをすればするだけ満足な演奏は遠ざかっていくから困ったものだ。そしてわかってくるのは、僕がどれだけこの曲が好きかということ。この大儀なときに心に入ってきて何もかも忘れさせてくれる、他のコンチェルトでは一向に無理なことであって、人生最も大事にしなくてはならないもののひとつだったのだということを思い知った。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

 

 

 

 

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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)

2017 JUL 22 9:09:51 am by 東 賢太郎

エフゲニー・キーシン / コリン・デービス / ロンドン交響楽団

一聴して惹きつけられた魅力的な第1楽章。詩心にあふれたキーシンのピアノは変幻自在なロマンを紡ぐ。自由なルバートが連続するが、音楽に感じ切っておりなるほどと思わせる。そういう表現はコンチェルトとしては焦点が定まらず散漫になりがちだが、それを見事に引き締めているのがデービスの伴奏だ。ティンパニを効かせて強いfを打ち込むが、雄渾でツボにはまっておりうるさくならない。緩徐楽章の感情も深く濃い。クララはきっとこうは弾かなかったろうが、やはりこれはロマン派の音楽なのだ。難を言えば終楽章が心持ち速いが、静謐で時間を止めるブリッジからの流れとしてそうなるしかないという一貫した見事なテンポ設計だ。(評点・4.5)

 

クリスチャン・ツィマーマン / ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭のオーボエの音がローター・コッホの音だ。懐かしい。トゥッティはあのカラヤンの豊麗な音がピアノを包み込みまるで交響曲だ。ツィマーマンのピアノは非常にきっちり弾かれカラヤンが彼を起用した理由がわかるが、あくまでオケのパートであり自由なファンタジーの飛翔は感じられず、カデンツァに才能の片鱗を見るだけだ。後に彼がカラヤンの支配を逃れたのはよくわかる。第2楽章のロマンはまったく平板。終楽章も大変な完成度できれいだが予定調和の域を出ず一向に面白くない。先が読めるのはファンタジーじゃないのだ。これをきくといったいカラヤンは何を目指していたのだろうと思う。一家に必携のブリタニカ百科事典みたいなものだろうか(評点・2.5)。

 

エレーヌ・グリモー / デイビッド・ジンマン / ベルリン・ドイツ交響楽団

なんともエネルギッシュなピアノだ。ここまであっけらかんと明るいと詩的な部分の陰影がさっぱり見えない。オケもffで単調でうるさい。展開部のおしまいの部分、精妙に再現部へ導く神がかったところでこれほど不感症はまずいしカデンツァもポエムがない。ジンマンはチューリヒ時代にトーン・ハレで毎週のように聴いたが、才人だが一度も感心したためしがない。別な指揮者だとうれしかった。終楽章はカプリッチオに聞こえる。(評点・2)

 

ルドルフ・ゼルキン / ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団弦楽団

これを先に聴けばグリモーがおとなしく思えたろう。これだけ豪壮なシューマンも珍しい。ゼルキンのブラームスは硬派の部類の名演だが完全にその勢いでこのまま皇帝だって弾ける。たおやかさや悲しみとは無縁で武骨ですらあり、オーマンディのオケはそれに輪をかけて詩情のかけらもない。最後まで聞きとおすのにひと苦労(評点・1)。

 

ベンノ・モイセイヴィッチ / オットー・アッカーマン / フィルハーモニア管弦楽団

モイセイヴィッチ、ため息が出るほど素晴らしい。この強弱とテンポの脈動、デリケートな詩情、呼吸、感情の揺らめき!楽譜にはないが音楽が秘めて求めているものはこれだと肌で納得だ。これはきっとシューマンもクララも誉めただろうという抗いがたい高質のものだ。3度も聴いてしまった。アッカーマンのオケがまた驚く。ピアノと精神が完全に親和、合体したオーボエの掛け合い、フルートのパッセージはエモーションの奥深いところまでシンクロナイズして語り掛ける。こんなインティメートな演奏はそうはない。第2楽章のppの深さ!こうでなくてはここのロマンは出ない。終楽章、物理的なことだけいえば僕にはやや速いがタッチが夢のように変わって軽いレガートでそういう気が全然しない。魔法の領域である、降参。まったくひけらかす風情はないがモイセイヴィッチの技術の凄味を見るばかりだ(ラフマニノフに「後継者」と言わしめた)。外へではなく、内へ内へ奉仕する。そういうスゴ技があざとい知恵や計算でなく音楽に合わせて変幻自在に現れる。小さなミスタッチはあり、猛練習で追い込んだりテープを切り貼りした感じはない、精神の深奥まで共感した音楽がいつも必要な音になって自然に流れ出てくる、若いピアニストの皆さま間違ってはいけない、ピアノがうまいとはこういうことなのだ。素晴らしいものをyoutubeで教えてもらった、オーディオで良い音で聴きたくすぐCDを注文だ(評点・5)。

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

 

 

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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その2)

2017 JUL 21 0:00:04 am by 東 賢太郎

アルトゥール・ルービンシュタイン / フランコ・カラチオロ / ナポリ・イタリア放送(RAI)アレッサンドロ・スカルラッティ管

1964年4月29日ライブ。これは素晴らしい。第1楽章の前稿楽譜部分(難しい)の感じ切ったデリケートさ!これが77才か?ルービンシュタインの技巧は凄かったのだ。それなくして描きようもない自在のファンタジーが横溢。テンポもこの曲の本来のものであり、文句のつけようなし。イタリアの放送オケが上手いと思ったためしがないが、これは初の例外だ。(評点・4.5)

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / カルロ・マリア・ジュリーニ / シカゴ交響楽団

1967年3月8日だから上記の3年後、80才のスタジオ録音である。何の問題もなく弾けている。しかしオケがとても上手いもののマッチョ指向なのが僕の好みでない。ブラームスならそれでもいいがこっちはアウトだ。伴奏がそれだからピアノもどこかファンタジーに欠ける。醸し出そうとしているが中途半端なうちにオケに消されている。録音もHiFi指向で細部までクリアに聞こえるが、そういうことはこの曲には無用である。(評点・3)

 

エミール・ギレリス / カール・ベーム / ロンドン交響楽団

75年のザルツブルグ音楽祭ライブ。ギレリスの技巧は明らかに衰えている。少々のことは看過するが、前稿楽譜部分の事故は僕にはつらい(何故ここが難しいと書いたかわかるだろう)。84年にロンドンで聴いたチャイコフスキーP協は危険水域にあったが、もうこのころに兆候はあったわけだ。ただ、そのせいなのかどうか、ベームのテンポがいい。これが今の僕の趣味、このぐらい落さないと見過ごしてしまう道端の可憐なスミレみたいなものがこの曲にはたくさんある。それで弛緩するどころか、ギレリスは万感の思いをこめて、胸いっぱいの呼吸でそれを慈しむように弾いている。音楽の感動というのはなんと深いものだろう。(評点・3.5)

 

ワルター・ギーゼキング / ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ギーゼキングは現代曲を汽車の中で目で覚えて着いたら初見で弾いてしまう人だ。指の回りも尋常でない。モーツァルトやドビッシーの世評が高いと思えばラフマニノフを2番も3番も弾く(2曲の両刀使いは意外に多くない)。何でもできるのはわかるが、人間一つ二つ欠点あったほうがいいんじゃないのと、どうも好きになれないまま来てしまった。これも上手いなあとは思うがルバートの感覚が好みでないし終楽章はテクニックの展示会でご勘弁だ。フルトヴェングラーも第2楽章以外はあんまりポエジーを感じない。向いてないね。(評点・2)

 

アルフレッド・コルトー / ランドン・ドナルド / ロンドン交響楽団

コルトーのルバートには華がある。ショパンのワルツなどそれが活きる曲では水を得た魚の如く余人の及ばぬ名演をものしている。この曲でも抒情的な部分でいい味を出しているが、何分指が回らないとどうしようもない音楽だ。補おうとうわべの軽いタッチでパッセージを弾き飛ばすからコクがなくなったり唐突にフォルテになって感興を削いでしまう。鋼鉄のタッチだったギレリスが老いて枯れたのとは違う、申しわけないが元々ないものは仕方ない。ギーゼキングのように弾け過ぎても道を誤るし、ピアノ演奏とは難しいものだ。(評点・1)

 

独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)

 

 

 

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