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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

2017 JUL 19 16:16:06 pm by 東 賢太郎

プロローグ

 

ブラームスS2、シューマンS3、ダフニスの各種録音の勝手品評をものしたらけっこう読まれている。時間がないが、持っている音源ぜんぶ書けば1万以上の品評はできるからもう少しやってみようという気になった。

どうしてその3曲を書く気になったかというと、もう半世紀も熱愛してるからだ。要は小学校2年で愛が芽生えた広島カープとおんなじであり、クラシックといってもそこまで言えるのはほんの限られた何曲かに過ぎないが、ともあれ熱烈なファンなのである。その意味では4番目にシューマンのピアノコンチェルトがくるのは遅すぎたぐらいのことだが。

僕のカープ愛は東京っ子の「とりあえず巨人ファン」なんてもんじゃない。広島県人でもない。よそ様の球団をそこまで愛せるんだから、それが西洋の音楽だって違和感はかけらもない。

会社ではカープが負けると機嫌が悪いのは周知で、翌日は朝イチの報告を部下が昼までのばしていた。好きなものが痛めつけられると義侠心がわく。好きな曲に変な演奏をされる、それはウチの可愛い猫をあえてブスに撮って写真をばらまかれるに等しい。

僕の頭の中ではカープもシューマンS3も「喜びをくれるもの」というタグで仕分けされており、「喜ばせてくれた感謝」なるサブタイトルで括られている。カープがやられたら怒る。S3を奇天烈に改竄されたスコアでやられたら怒る。そこに何らの違いも存在しないのである。

ちなみに奇天烈スコアの使用主様は名指揮者カール・シューリヒトだが、僕は彼のブルックナーを愛する者だ。しかしS3には適役じゃない。それだけだ。愛するものを曲げられたら異をとなえ、想いどおりにやってくれたら絶賛する。かように僕は骨の髄まで楽曲天動説である。アーティスト天動説の人とは絶対に話が合わない。

シューリヒトは全部好き、カラヤンは全部だめというのは何某の出るドラマは何でも見るわという女の子と変わらないように思う。安倍首相のいうこと全部ハンタ~イの野党みたいでもあり、モリもカケも全部サンセ~イの官邸ヒラメ属も同一の種である。そういう思考停止した人と僕は会話は30秒ももたない。

楽曲にあれもこれもない。好きだから聴くのであって、嫌なら聴かなければいい。何の関心もないヴェルディの歌劇で、あのソプラノはカスだ指揮者はボケだ云々をかます能力は僕にはない。能力を問う前に聞かないのだから天動説の重力の真ん中に何もないのであって、心は平和なものだ。

ところが冒頭の3曲のように愛猫に匹敵する音楽になるとそうはいかない。演奏してるんだからこの指揮者は当然この曲が好きなのだろうと思っている。ところが、それであんた、なんでこれなの?という許し難いのが多々あるのだ。相手は演奏のプロだ。技術のことじゃない、解釈の問題に尽きる。

解釈とは音符の読み方である。それにこだわってときに議論の土俵として皆さんに楽譜をお見せしているのはそのためだ。僕は音大卒でないが楽譜はある程度読める。頭で音化できなくてもピアノでリアライズぐらいはできる。読むというのはそうやって、どういう音にするか決める、つまり解釈するということである。

解釈なんて主観の相違でしょと片づけられればそれまでだが、ブラ2の最後でアッチェレランドをするかしないかは指揮者の尊厳を問う主張だ。「書いてないからしません」も解釈だが、「すべきでないからしません」はより強い解釈であって、そうした「強い主張」が聞こえる演奏はインパクトも強い。

僕は「すべきでないからしません」派であって、安っぽいアッチェレランドなど媚薬であり、媚薬がないと惚れてもらえないのは不細工な格落ちの指揮者であると判を押している。ブラームスはそんなものがなくても充分な楽譜を書いているのであって、だから「書いてない」のである。「書いてないからしません」派も、「やっちゃいました」派と大して変わらん二級品ということだ。

かように、今後の「独断流品評会」シリーズはあられもなき「独断」「偏見」であることはまずお断りしたい。いかに演奏家をこきおろそうと地獄に落ちろと罵ろうと、それはカープを完封した菅野投手を死ねと朝イチの報告前後まで罵倒しているのとおんなじである。そういいながら、僕は菅野は日本一の投手と認めてる。野球を50年観てきたからだ。

 

では、初回はこちらからどうぞ。

 

マルタ・アルゲリッチ / F・Pデッカー/ オケ不詳

本シリーズを偉大なるマルタ様で開始するのは光栄だ。1976年、35才。このビデオでまず思い出したのは神宮球場で見たバレンティンの打撃練習だ。バットを振ればかすっただけでホームラン。このころのマルタは飛ぶ鳥を、落としていた。84年にカーネギーホールで遭遇した壮絶なプロコフィエフ3番など僕の音楽人生の一大事件にランクされる。

しかし、これはシューマンなんだ。たぶん。譜面は楽曲ブログに載せた第1楽章の大事なピアノのパッセージだ。この部分を次のビデオで見ていただきたい(2分46秒から)。schumannPC

この、左手までバリバリ弾いてしまう、右手はボツボツ切れてさっぱりレガートも歌もなし。勘弁してほしいのだ。楽譜にはそう書いてある?書いてないよ。悪いけどデリカシーかけらもなし、それでも音はちゃんと出てるしいいでしょって、だからスタンドに入れてんだから文句あっか?のバレンティンなの。ご機嫌が悪い日のテイクだったんでしょうかね、オケも見事におつきあいで最低だ。

こっちの雄大さは、さらに上をいくかもしれない。

伴奏はチェロの帝王、ロストロポーヴィチ様である。オケが盛り上がるといったい何が始まったんだとウチの猫が身構えてしまう迫力であり、それに乗ったマルタ様のガーンという低音はサド女王様のムチが帝王をしもべにする劇的な瞬間である。カデンツァは勝どきだ。

ロストロは知る限りそういうテンペラメントの演奏家という印象はなく、勝手想像だが、女王の燃えたぎる情熱にかいがいしくも献身しようと慣れないことを一所懸命やってしまった観がある。

マルタ+ロストロのウルトラ大物コンビに「だってこれがシューマンなのよ」とこられたら、こちとらひとたまりもない。でも、違うと思う。

女王はこのコンチェルトを11才で披露している。

第3楽章のブルレスケみたいなテンポの原点はここだろう。これで興奮と喝采は約束される、こんな小さい子がすごいテクニックだと。モーツァルトも原点は大人の称賛にあったが、神童の稀有な成功体験は趣味として残るのだろうか。これを終生弾き続けるのは好きだからだろうが、弾く側の好きと聴く側の好きが必ずしも同一でないことはあり得る。

マルタを嫌ったり貶めたりする意図は全くない。彼女のテンペラメントはアレグロのコーダに向かう真の意味で超人的な興奮の創造と切り離せない性質のもので、それがオンリーワンの強烈な個性を生んだ。それが活きるプロコフィエフ3、チャイコフスキー1、ラフマニノフ3、ラヴェルで名演を成し遂げているが、たまたまシューマンはそれらと同列に並べる曲ではない、少なくとも僕は聴く側の好きでそう思っている。

ロストロとの共演は話題になって、上掲のレコードはわくわくして買った。大学のころかな。1回だけ通して絶句して、以来レコード棚から出たことがない。演奏会だったら第一楽章だけ我慢して退散したに違いない。僕も好きなものにだけ特化する性格だが、趣味も20代から変わってないことが今回きいてみてわかった。持って生まれた四大元素のケミストリー、学習したものではないらしい。

 

時の流れを何かで埋めたい

独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その2)

 

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