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カテゴリー: ______シューマン

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その7)

2019 AUG 13 22:22:05 pm by 東 賢太郎

アルド・チッコリーニ / ジョン・ネルソン / ボローニャ市立劇場管弦楽団

youtubeで見つけた。これはいい。チッコリーニ(1925 – 2015)の奏でる音楽のコクと陰影に耳が釘づけになり離れられなくなる。このピアニズムそのものが発する芳醇な香気はそんじょそこらでお目に掛かれるものではない。例の楽譜の難しい部分を聴いてほしい。速いアルペジオの粒がそろって水が流れるように滑らかに、しかも低音に至るまで深々した音で鳴りきっており、晩年に至ってこれほど自在にピアノが弾けること自体が驚嘆の域であるが、僕の驚きはそれに向けたものではない。その技術の凄みが表層には一切浮き出ていらぬ自己主張をせず、全て音楽の求めるものだけに深い所で奉仕しているという確信を抱かせるという、極めて稀にしか接することのできない演奏であることに感動しているのである。ピアノが歌うMov1の冒頭の第1主題(楽譜)をお聴きいただきたい。チッコリーニは思いのたけをのせ、赤枠の始めの三点イへの跳躍からテンポがルバートを伴って遅くなる。

ここでエアポケットに入ったように、始まったばかりの演奏に「耳が釘づけに」なるのだ。ただ事でないものを予感させるが、それを3小節で語りつくしておいて、チッコリーニはオーケストラに返す。それが赤枠の最後のド,シ,ラ,ソ#,ラである。ここをテンポを ”速めて” ぽんと渡すのだ。ルバートする人はいくらもいるが普通は遅いままピアノを終え、次の楽節からテンポを戻す。ところがスコアを見てみると、歌う3小節にシューマンは長いスラーをかけ、”速めた” 部分にスタッカートを付けている。このスタッカート(特におしまいのラのほう)を守っているピアニストはほとんどいない。チッコリーニのテンポの戻しはこのスタッカートに続く休符を尊重してのことであり、そうしているのはここまで挙げてきたビデオでもチッコリーニ以外はカーロイだけだ。僕は譜面を見て聴いていたわけではない。それでも感じるものがあったのは、彼の解釈がシューマンがこの主題にこめた思いに呼応していることで成り立っているからと考える。奏者の主観による身勝手な耽溺とは別次元のものだ。クラシック音楽は伝統芸能であり、聴衆は奏者のプライベートな思い入れにおいそれと共感はしてくれない。チッコリーニの解釈は何百回聴いたかわからないこの協奏曲があらためてこういうものだったかと知る喜びに溢れており、シューマンが特別の看板レパートリーというわけではないピアニストがこれだけの音楽を紡ぎ出す所に西洋の音楽文化の長い歴史と奥深さを見る。蓋し彼らはシューマンを空気のように呼吸して育つのであり、音大で先生に教わって知るのではないだろう。楽譜をニュートラルな情報媒体と見てそこに何を読み取ろうと自由という姿勢はリベラルな時流にはそぐわしく感じられるが、トラディショナリズムを捨てた時点でクラシックは音楽ショーに堕落し、本来の価値を失い、やがて聴衆も失う。アンコールの「森の情景」から「別れ」も言葉なしだ。こうべを垂れるしかない。こういうものを本物の音楽というのである(評点・5+)。

 

アリシア・デ・ラローチャ / コリン・デービス / ロンドン交響楽団

ラローチャ(1923 – 2009)はスペインを代表するピアニストでチューリヒと香港で2度リサイタルを聴いた。期待して聴いたが、全曲を通してテンポが遅い。Mov1はそれを大事にしつつ語ろうとしているが、ピアノのフレージングは分節が切れ切れでどうも流れがしっくりこない。オーケストラが合わせにくいのだろうか、遅めのテンポに感じ切っておらずもってまわった安全運転の感じがする。熱量が低く音楽のポエムが伝わらない。Mov2も遅めでチェロの歌が乗りきれない。ラローチャはテクニックの人ではないがMov3のテンポでそれもないとなると魅力は薄い(評点・2)。

 

ウィルヘルム・ケンプ / ラファエル・クーベリック / バイエルン放送交響楽団

ドイツを代表するピアニストのケンプ(1895 – 1991)とチェコを代表する指揮者クーベリック(1914 – 1996)はどちらも欧州で聴けなかった。ケンプはもう活動してなかったがクーベリックは残念だ。ケンプのドイツ物はバックハウスと並んで多くの支持を得ていると思うが、僕はどうしても技術の弱さが気になってしまう。冒頭のソロ、タッチに切れがない上に16分音符が長すぎる。いきなりがっかりだ。カデンツァはテクニックが明らかに弱い。はっきり言ってしまうが、今ならコンクールで予選落ちレベルだ。1973年の録音時点で78才だからかと思ったが53年のクリップスとの旧盤でもどちらも変わらない。Mov1の第2主題など抒情的な部分に良さがあるのは重々承知だが、上掲のチッコリーニは81才であるのに、それでも比べるべくもない。Mov3は老人の徐行運転であり、逆にこのコンチェルトを満足に弾ききるのは技術的に非常に難しいということを知る。音楽は心であってテクニックではないと主張する人がいるが、心が主であるべきことは同感であるにしても音楽演奏は技術がなければ始まらない。ケンプの良さはモーツァルトのソナタで発揮されているが(http://モーツァルト ピアノ・ソナタイ短調の名演)。クーベリックの句読点のはっきりした伴奏は印象に残る(評点・2)。

 

シューマン ピアノ協奏曲イ短調 作品54

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その6)

2019 AUG 11 1:01:50 am by 東 賢太郎

ペーター・レーゼル / クルト・マズア / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

第1楽章のテンポがやや遅めなのはが良いが流れがよろしくない。ピアノが常時強めで弱音のデリカシーに欠け、展開部の最後までべったりこれというのは趣味に合わない。オーケストラもこのコンビの交響曲集は重厚な音が楽しめるがここではどうも違う。第2楽章の第2主題を奏でるチェロはもっとなんとかならなかったのか。終楽章だけはシンフォニックな曲作りが活きるが総じて大味。チャイコフスキーP協の流儀でやったシューマンであり150キロ出るが棒球の投手という感じだ。レーゼルは今ならこうはしないだろう。(評点・1)

 

ハンス・リヒター・ハーザー / ルドルフ・モラルト / ウィーン交響楽団

リヒター・ハーザーはベートーベンということになっているが、カラヤンが伴奏したブラームスPC2番はトップクラスであり、1958年の録音であり音が地味なので割を食っているがこのシューマンもとても良い。打鍵が強靭でありつつロマン的な感性を供えもち、フレージング、テンポ・ルバートがまさにドイツ的だ。ドイツ語のシューマンである。ドイツ・ロマン派保守本流とはこのことでそれは①テンポは流動的でなくがっちりしたフレームワークで揺るぎない②それを守りつつロマンを歌い上げる③音楽が内側から熱して両端楽章のコーダに向けて自然に加速する、を共通の特徴とするがこれぞその好例である。オーケストラが深い低音を基礎としてピラミッド状の音響構造を持ち、静止摩擦で容易には加速せず、いざするとその運動エネルギーが内燃して音楽が熱を帯びるというイメージを僕は持っている。ドイツのオーケストラである必要はないが、独墺の、それも70年代までのそれに顕著な傾向ではあった。それを愛する趣味を持つものとしてこのシューマンは掛けがえがない(評点・5)。

 

モニク・アース / オイゲン・ヨッフム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1951年にベルリン・イエス・キリスト教会で録音。もちろんモノラルで音は貧しい。ドイツ・グラモフォンがどういう成り行きで大仰でシンフォニックなヨッフムの指揮とパリジェンヌのアースを合わせようと決断したかは知らないが中々面白い。アースは例の楽譜のところをpp(?)で入るなど個性を見せ、終楽章のテンポはやや速めでリズムのメカニックとピアノの粒立ちが良く、やはりフランスのクラルテを感じる。BPOのアンサンブルが少々雑然としており、数多ある同曲の録音で価値を主張するにはもはや弱いと言わざるを得ないがアースのピアノは一聴の価値がある(評点・3)

 

カティア・ブニアティシヴィリ / パーヴォ・ヤルヴィ / NHK交響楽団

これがyoutubeに出てきた。2016年2月のN響B定期公演で僕は2月18日に聴いたこのビデオはドレスからすると17日の方らしい。感想はここに書いてある。

クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-

3年前、まだ、僕の筆は控えめであったが、それでもぼろかすである。18日はMov2にミスがあったが、このビデオの17日はもっと凄い。Mov3の31分53秒に記憶違いの「1小節とばし」があって、ホルンが落っこちてしまっている。カティアさんは飛ばしたこともホルンの事故も気がついてない風に見える。そういう人みたいだ。この演奏を讃えるには、そういうことを気にしないか気がつかないタイプの人でないと難しく、残念ながら僕はどちらでもない。最初のヤルヴィとのインタビュー、まったくどうでもいいことに終始するが、ひとつだけ非常に面白い部分がある。「シューマンは恋する普通の男になりたかったの、でも天才で狂っててなれなかったのよ、もちろん本当に狂ってたわけじゃないんだけど」とカティアが力説すると、ヤルヴィが「狂ってただろ」とさらっと言ってる。もう一度、「彼は気が狂ってたと僕は思うよ」と繰り返している(字幕はなぜかこんな大事なことを無視している)。シューマンに恋してしまってる彼女はあばたもえくぼで美点凝視になっており微笑ましい。かたや指揮者の男は醒めている。でも冒頭でシューマンが一番好きだと言ってる。狂ってるから好きなんだ。同感だ。僕もシューマンは気が狂ってたと思うし、だから吸い寄せられるエッジを感じるのだ。カティアはピアノに向かって、女性の視点で好ましい「恋する男」、「普通になりたいがなれない男」を熱演したのだろうが、シューマンはそんな乙女チックな男じゃない(評点・2)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その7)

 

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その5)

2018 JUN 18 0:00:34 am by 東 賢太郎

イヴァン・モラヴェッツ/ ヴァーツラフ・ノイマン / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭のオケ主題が異様に弱い。ピアノは徹底したロマン派耽美主義路線でテンポが振れて遅い所はぐっと遅くなり、そのせいかテュッティになってもCPOにしてはアンサンブルに締まりがない。第2楽章はそのポリシーが生きているがどうしてもこれがいいというほどでもない。終楽章のオケは雑然としたまま。スタジオ録音の完成度に欠ける(評点・1)。

 

マリア・グリンベルク / カール・エリアスベルク / ソビエト国立交響楽団

グリンベルク(1908-78)は好きなピアニストで彼女のベートーベンは評価している。ショスタコーヴィチの2歳下だがユダヤ人排斥でスターリン政権に徹底的にいじめられた悲運のピアニストである。このシューマンのライブ、剛毅さは男勝りでまるで怒りをぶつけるベートーベンだ。音の美しさもミスタッチも顧みず、第2楽章すら感興に応じて炎のように燃え上がる様は何か熱いものを感じ取っていたのだろうか。終楽章はさすがにミスが多すぎ。演奏がどうのよりひとりのアーティストの時代の記録だ(評点・対象外)。

 

クララ・ハスキル / エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

ハスキル(1895-1960)の愛奏曲でありどのフレーズも手の内に入っているのがびしびし伝わってくる。56年ジュネーヴでのライブで音は良くないが例の楽譜部分のデリカシーに満ちたレガートの見事なこと!アンセルメも意外に良く、第1楽章再現部へのつなぎ箇所がこれほど空疎にならないのはなかなかだ。ハスキルはタッチが一切重くならず!速めのテンポですいすい行くが栄養価は高く、モーツァルトが生きていてこれを弾いたらこんなかとさえ想像してしまう(評点・4.5)。

 

クララ・ハスキル / ウィレム・ヴァン・オッテルロー / ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団

音はモノラルだが悪くなくピアノはこちらがクリア。51年正規録音でコンセルトヘボウの音響がプラスしている。オッテルローは上掲アンセルメよりメリハリがあり、ハスキルもそれに呼応してタッチに起伏をつけ細部まで克明に弾くが、正装のこれかアンセルメの着流し風かは好みだ。しかし例の楽譜部分の軽みある喜びはここでも誠に素晴らしく、ハスキルを腕達者とは誰も言わないが実はそういうことなのだと納得するしかない。一家に一枚ならこっちだろうが僕はアンセルメ盤の気品が捨てがたい(評点・5)。

 

マルコム・フレイジャー / ヤッシャ・ホーレンシュタイン / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

大変な名演である。フレージャーのピアノ、冒頭のデリカシーから凄い。オケも感じ切ったぎりぎりの音で答える。この木管の音程の良さ、ホーレンシュタインの耳だ、ほかがかすんで聞こえるほどである。例の部分のピアノ、文句なしだ。これは何事がおきてるのかと思って調べると、フレイジャーはカール・フリードベルクを聴いて彼が亡くなるまで弟子入りした人だ。ということはクララ・シューマンの孫弟子ということになる。素晴らしい録音が残っているものだ。これは数多ある録音のベスト3に入る。画像が現れないので以下を開いてぜひ耳にしていただきたい(評点・5+)。

https://youtu.be/GDv29JqxyrA

 

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その6)

 

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

2017 NOV 1 22:22:16 pm by 東 賢太郎

ユリアン・フォン・カーロイ(pf)/ ロベルト・へーガー / バイエルン放送交響楽団

ハンガリーのピアニスト(1914-93)の滋味あふれる名演である。得意のショパンも持っているが、このシューマンはいっそう素晴らしい。自家薬籠中の表現は詩情もコクもあり最初のソロのクララ主題提示から唸らせ、随所のルバートや間は自在に取りながらも何一つ違和感を覚えさせるものがない。これぞこの協奏曲が求めているものだということであって、オケと競奏したりなにか奇矯なことをしようというピアニストとは根本から器の差を感じる。指揮もオケのフレージングもがピアノと呼吸が合い、感情レベルの高い次元で和合している。このクラスの演奏になると録音技術の進化やピアニストのスタイルの流行り廃りで古びてしまうというなどということとは無縁だ(評点・5)。

 

マウリツィオ・ポリーニ / クラウディオ・アバド / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

89年録音。ポリーニは絶頂期にあった。このイタリア人コンビのブラームス2番は聴きごたえがあるが、同じ透明感あるタッチのピアノもここではもうひとつ心に届かない。クリアなゆえにレガートが欲しい所で粒だって聞こえ曲想の転換でfになると低音が耳につくし、アバドの指揮も模範解答の域を出ずちっとも内側から燃えてこない。技術的な水準は大変高いのにあっそうで終わってしまう。美麗な博多人形を見ているよう(評点・2)。

 

リリー・クラウス / ヴィクトル・デザルツェンス / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

指揮もオケも誠に二級だがピアノが入ると格調が増す。ゆっくりしたテンポの冒頭はユニークで、クラウスはクララ主題など歌う部分はたっぷりとレガートで弾くが、速いパッセージやカデンツァはスタッカート気味でペダルも控えf部分は男性的でさえあるから好みを分かつだろう。自分の音楽をやっているのだが聞かせてしまうのは曲想に強い共感があるからだ。彼女のソロ録音は名品が多いがコンチェルトとなるとモーツァルトでも伴奏者に恵まれない。このシューマンも何とかならなかったのか(評点・3)。

 

ウィルヘルム・バックハウス / ギュンター・ヴァント / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

出だしの「滝」からよいしょよいしょという感じでミスタッチもあり、オーボエの音程も低い。なんだこれは、これがVPOか。しかしだんだん調子が出るとさすがバックハウスという黒光りのタッチになってきてうなる。クラリネットの第2主題あたりからはオケも悪くはないが、残念ながら拍節感を守るヴァントの指揮が何とも杓子定規だ。第2楽章もロマンに酔わせてくれない。カデンツァはあまり弾き込んだ感じはなく、もつれている。バックハウスの貴重な記録だが、どうも僕の耳にはやっつけ感を否定できない(評点・2)。

 

サンソン・フランソワ / パウル・クレツキ / フランス国立放送管弦楽団

フランソワの右脳型のピアノについていける人には面白く、オーボエもクラリネットも思いっきり「おフランス」でどこか違うでしょの空気が漂う。ピアノは第2主題で没入したと思えば一気に展開部で激してみたり。この人のテンペラメントを僕はあまり得意としないが、例の楽譜の部分の弾き方など実にユニークであって、そうでなくてはいけない必然は何ら感じないがまあそれもいいねと言わせてしまうものがある不思議なピアニストである。第2楽章のオケとのずれまくりはすごい、クレツキは大変だったろう。しかし終楽章のオケは健闘しており指揮者の力量を見せつけて満足感をくれる。それにしてもだ、バックハウスはあまり練習してないのが正直に欠点となっているがフランソワはそれって味があるねという風に薬味にしてしまう。得な人だ(評点・2.5)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その5)

 

 

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ブラームス 交響曲第3番ヘ長調 作品90

2017 SEP 15 22:22:18 pm by 東 賢太郎

ブラームスの3番は僕にとって特別の曲だ。そしてブラームスにとっても、第1、2番とはやや異なる動機をもって書かれた、内面を包み隠すのが常の彼にしてはそれを最も吐露した交響曲だった。1883年5月7日に50歳となった彼はその5月からヴィースバーデンに滞在して3番を書いた。10月2日にウィーンに帰って11月に2台のピアノ版による試演会で初演しているから、完成に至ったのは9月のちょうど今頃のことではないだろうか。初秋に聴くのにまことにふさわしい音楽だ。

我が家はフランクフルトで素晴らしい3年間を過ごしたが、車で40分ほどのライン川沿いの温泉保養地ヴィースバーデンを家族と頻繁に訪れたことはライン交響曲の稿に書いた。家を借りたケーニッヒシュタインはそのラインラント地方に近く、今でもその近郊に生を受けた3つの名曲、シューマンのライン、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、そしてブラームスの3番を聴くとあの頃にタイムスリップするのを感じる。

ブラームス

ヴィースバーデンのクアパークを歩くといつもブラームスのような年格好の髭の初老の男性を無意識に探していた。ブレスラウ大学から名誉博士号を授与された彼の称号はドクトルだったが、博士がこれほど似つかわしい風貌の作曲家もいないかもしれない(左・写真)。ヴァイオリンソナタ3曲、弦楽四重奏曲を20曲以上を発表せず焼き捨てた完全主義者の楽譜は相応の目線をもって読まねばならないといつも思うが、とりわけ3番は演奏時間で約30分とブラームスの交響曲では際立って短く、各楽章の演奏時間が他の交響曲より均等で、しかもどれもが静かに消え入るように終わる唯一の曲である。他の3曲とは明確に構造も聴後感も異なる。スコアを解析するにロマンと造形美の調和が主題と和声のぎりぎりの彫琢をもってしか達成されようのないレベルで凝縮しているのを見るのであって、交響曲に限らずブラームスの作品で同等の例を探すのは困難である。和声法、対位法など作曲の「決まり」の視点からその仔細を明らかにすることは興味深く僕が音楽学者を志す気にでもなれば論文テーマに好適だが、その類の試みは所詮テクニカルなものだ。天才の功績をルールで辿ってどこがどう秀でているかを公認のベンチマークを使って論じるのは凡才の仕事であり、その仕事から次の天才の作品が出ることはまずなく、天才は学校で習ったり他人の論文など読まなくとも名作を生み出すから天才なのだ。僕は自分の脳みそだけをベンチマークにしたいとすべての技芸は独学した人間だからそのポリシーを変えることはない。3番の譜面を見て驚くのは個々の部分ではなくその総体の緻密と威容であり、一言で括ればアインシュタインやモーツァルトには感じる「ブラームス博士の脳にある人類最高度の知性」としか申し上げようがない。

当ブログ読者のご関心ではないだろうからそのご説明は避け、本稿では3番をご存知の方ならどなたもわかるテーマをとりあげたい。それはシューマンの交響曲第3番(通称・ライン)との関係である。

「さよならモーツァルト君」で似たテーマを書いたが、5月7日に演奏会場でピアノでお聞かせした2つの部分が「引用」だったのだとご納得頂けたかは甚だ心もとない。ハイドンは作曲家の良識とプライドから相応にジュピターを編曲しており、音型や和声連結の相似を一度で気づくのはやや難しい。しかし本稿のその部分は、耳を澄ませてきけばどなたも明確に分かるものだ。

以下、混同を避けるため、ブラームスの3番を “3番” 、シューマンの3番を “ライン” と書くことにする。楽譜を並べるブログはスマートではないが、本稿は他に説明の手段がなく、ご容赦いただきたい。

僕は3番がラインから引用した主題で始まるのをずっと不思議に思っていた。その引用箇所は楽譜1の第3~6小節のチェロ(第449小節)、次いでヴィオラ(第551小節)によるト長調のドーソーミーレドーで、コーダに向かう直前に音楽が静まって厳粛な雰囲気になる印象的なページでのことだ。

楽譜1(シューマン交響曲第3番第1楽章)

それが3番第1楽章の冒頭でこうなる(楽譜2)。第1主題となる3小節目からのヴァイオリンによるpassionatoの旋律がここから来ていると僕は主張したい。レナード・バーンスタインがそれに気づいていたことを先日にyoutubeのビデオで知って心強かった。ただ彼がピアノでアナロジーを示唆しているのは3番のpの再現部直前の部分(全曲を締めくくる終楽章コーダの静寂な風景は楽譜1そのものだが)であり、僕の主張は冒頭の f で雄渾に奏される第1主題である点で異なる(楽譜2)。

楽譜2(ブラームス交響曲第3番 第1楽章冒頭)

ラインのドーソーミーレドーの音価(44314)は提示部の最後に「同曲冒頭の喜びに満ちた第1主題のリズムの裸形(スケルトン)」として弦の全奏で現れる(楽譜3)。これはラヴェルのボレロの小太鼓のように楽章を通して鳴っている「リズムの通奏低音」であり、楽章を通して底流で脈動している筋骨隆々たるもの、大河の水を押し流して滔々と流れゆくライン川の生命力がこの世に形を与えられた音霊のようなものだ。

楽譜3(シューマン交響曲第3番第1楽章)

つまりバーンスタインの弾いているドーソーミーレドーはライン第1楽章第1主題の「影絵」であって、すなわち、ブラームス3番とシューマン3番は第1楽章第1主題を共有しているのである。もちろん98番の交響曲でハイドンがそうしたように、緻密に周到に音を並べてそれを歴史に残そうと試みるコンポジション(作曲)を業とする最高の知性があからさまな引用などするはずはない(注)のであって、知性は知性に伝わればよしとする範囲内でそれは引用として歴史に残る。これは非常に意味深長なことだ。

(注)明白な引用とは例えばショスタコーヴィチの交響曲第15番にあるロッシーニやワーグナーやハイドンだ。これらが何を意味するかは諸説あるが、引用元は露骨に明白であり、誰もにわからせることに目的があるとしか解釈はできない。バルトークの管弦楽のための協奏曲の第4楽章はバルトークの子息が証言している通りショスタコーヴィチの第7交響曲への皮肉で、むしろ聴衆に積極的にわからせたい意図がある。ハイドンの98番や本稿曲目はそれらとは区別されねばならないだろう。

 

20歳のブラームスはシューマンに「新しい道」なる論文で輝かしい将来のある若き天才と絶賛されて終生深く感謝した。その論文執筆の半年後にシューマンはライン川に投身自殺を図り、エンデニヒの精神病院で生涯を終える。そしてそれからちょうど30年の月日が経ち、50歳を迎えたブラームスは1883年の夏をヴィースバーデンのガイスベルガー通り19番地、デヴィッツ氏夫人宅で過ごして3番を書いたのである。バーンスタインがビデオで語っているが、「ブラームスは30年後にラインを引用」し、なぜなら「ブラームスには二面性があり」「その一方はブルジョアの立派な市民としての顔ではないもの」であり、それは「シューマンのクララへの恋の錯乱と死」が忘れられない「シューマンの霊が憑りついている顔」であった。バーンスタインのこの洞察には敬意を表するしかない。

ラインはシューマンがデュッセルドルフに着任した1850年12月に約1か月で書かれた。半年後に精神病院に入る人間にして常識では測り知れないことであり、シューマンの作曲への霊感は我々が気安く天才と呼ぶ尋常なものではなかった。ツヴィッカウに生まれライプツィッヒ、ドレスデンとザクセン州で人生を送った19世紀人にとってラインラント地方はいわば異国だったことはドイツに住まれた人なら今でも実感できるだろうが、後に政治の悲劇とはいえ東独、西独に分断されてしまうことからもそれはどなたも伺えよう。東京で生まれ育った僕が大阪に赴任して、ただ観光に行ったのでなく就業した、そういう些細な経験だけでもそのことのインパクトの大きさは推察できる。

それがシューマンの精神の深くに共鳴してラインとチェロ協奏曲を一気呵成に書かせてくれたことは人類にとって福音であった。ラインは、20歳のブラームスがヨアヒムの紹介状を携えてデュッセルドルフのシューマン家を訪れたわずか2年前に初演されたが、師と仰ぐ大家の「最新の大作」であったのはベートーベンにとってのモーツァルトのピアノ協奏曲第25番と同じであった。北ドイツ生まれのブラームスは風光明媚な避暑地で夏に集中して作曲する習慣の人だったが、選んだ地はオーストリア、イタリア、スイスドイツ語圏であり、ラインラント地方を選んだのはこの1883年の一度だけである。それがヴィースバーデンに住まいがあった若いアルト歌手ヘルミーネ・シュピースによる部分が幾分かあったとしても、ブラームスの胸中に去来していたものはそれだけではなかったろう。

もうひとつ指摘したい。楽譜2の最初の2小節、2つの和音による印象的なモットーは冒頭2小節のファーラ♭-ファ の短3度上昇音型にF-Fdim7-Fの和音が付加され、主題ではないが全曲を貫いて陰に日向に鳴り響き(第3,4小節ではバスにすぐ現れる)、そして終楽章のコーダで再現して全曲が緊密な音型と和声のリンクで構築されていたことを知らせて聴き手に深い充足感を与える重要な素材だ。それは第2交響曲で冒頭のレード#ーレが負っている役割に似るがこれは線の素材であり、ファーラ♭-ファは音型であると同時に和声素材でもあるため同等に語るのは誤りである。線素材のモットーが和声素材になるのが2番から3番への進化であり、さらに4番の終楽章のバッハのコラールという線、和声の両側面を拡張した素材の使用によって技法の集大成を迎えるのである。

この2和音はシューベルト弦楽五重奏曲ハ長調の冒頭から来たのではないだろうか(楽譜4、第1~4小節)。2和音の音程関係はまったく同一であり、ラ♮ーラ♭(ブラームス)及びミ♮ーミ♭(シューベルト)という和声学でいう「対斜」という極めて異例の和声配列を含む点で共通である特徴は看過できないが、それにもかかわらず引用として指摘した文献は見たことがない。第3交響曲を書く前年に弦楽五重奏曲第1番ヘ長調作品88が書かれており、ブラームスがこれに触発されたか少なくとも研究したことは想像されるし否定することはむしろ困難と思われる。

楽譜4(シューベルト弦楽五重奏曲第1楽章冒頭)

D.956が書かれたのはシューベルトが梅毒に冒されわずか31歳で死ぬ2か月前だ。そしてシューマンも第三期梅毒にあり死因は進行性麻痺だったとするエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士のカルテが1994年に公開されている。シューマンの死を呼んだ当時は原因不明である病魔にブラームスが医学的にはともかく疑念程度であれ思い至らなかったとは考え難く、仮にだが彼がクララと関係を持ったとすればより切実な関心事であったはずだ。彼が誰とも結婚に踏み切らなかったことと関係はないだろうか。

モットーにおいて線素材が和声素材にもなったことを2番からの進化と書いたが、その言葉に違和感のある方もおられよう。新たなデザインへの素材としてもよい。2番に隠すものはなかったが3番にはあった。第1主題が伴う和声がへ長調のままだったとご想像頂きたい。何倍の数の学者がラインの引用だと主張していただろうか。そうならなかったのは楽譜2の4小節目で和声がへ短調に急転するからだ。それを支えて異常事態と気づかせないのはバスが直前に聴いたファ、ラ♭だからに他ならない。モットーは和声素材である必要があったのである。さらにそれが次の小節で遠い変ニ長調に飛ぶことで多くの人の聴覚は幻惑されてしまう。目的はより確実に遂げられ知る人だけへのメッセージに留め置きたいラインの隠喩はブラームスの計略どおりにほぼ秘匿されたと思う。

ヘルミーネ・シュピースに恋をしたことは第2、3楽章にそのロマンティックな投影を感じさせるが、それをもって3番の本質を語ることはできない。クララの娘にまで恋したブラームスにとってそれは実現できないクララとの結婚によって生じる認知的不協和の解消だった可能性を僕は見る。ヘルミーネはクララの陰で次第にアンビバレントな存在となり、彼はシーボルトの従兄弟の娘らにしたように結婚できない理由を自分で作り、結局は自分を悲しませ、追い込んでいく不幸を背負った男だった。

ヘルミーネをポートレートとして縫いこんだ第2,3楽章の調性はハ長調、ハ短調であり「中間の2楽章が共に属調で推移するなど、これ以前の古典ーロマン派のレパートリーには見られない」(「ブラームス 4つの交響曲」ウォルター・フリッシュ著)。これは「特別な高みにある2楽章である」が「最後はトニックであるヘ長調の第4楽章での二項対立に飲み込まれて解決を迎える運命にある」ことをブラームスは調性設計という建築なら設計図面にあたる作業の骨格部分において密かに示す。それが外殻を形成している第1,4楽章のパッション、メランコリー、宿命との争い、怒りのドラマと二項対立になっている。

3番が二項対立の交響曲であるのはバーンスタインの指摘するようにブラームス自身が二面性のある人物だったからだ。前述の第1楽章モットーのラ♮ーラ♭の対斜の対立、性格でいえば外殻(1,4)と内殻(2,3)の、そしてその各々の調性が(F、Fm)、(C、Cm)の長調、短調の対立である。それに加えて僕はシューベルト的な性格とシューマン的な性格の対立があり、両者は外殻において死、内殻において愛を纏っていると感じる。前者の例として第4楽章の楽譜5の「格言を垂れているような旋律」(ウォルター・フリッシュ)は誰かの葬儀のようで、和声は浮遊して特定の調に解決しない。

楽譜5

第2主題を経て第75小節からのGからCmへの和声の移行は誠に凄い(楽譜6)。4小節目で遠隔の変ロ短調に進んで緊張の頂点にバスのg-cを最後の審判のように苛烈に打つティンパニはこの曲の演奏のひとつの極点を成す。弦楽六重奏曲第1番の青春に束の間の回帰を見せた第3楽章への運命の鉄槌のようだ。

楽譜6

二項対立は終楽章コーダに至って解け、平和と安寧が光彩を放つヴァイオリンのトレモロに乗って天から降りてくる。そこで鳴るコードこそ、冒頭のモットーなのだ。卑近なことだが、子供時分にジェットコースターに乗って散々に怖い思いをした挙句、ステーションに戻ってきて徐行運転になった時のほっとした気分を思い出す。この深々した安堵感はウィーンでもベルリンでもなく、ヴィースバーデンに帰り着いた気分がふさわしいように思う。

 

(本稿に引用したバースタインのビデオ)

PS 楽譜1 について

ヴィオラ(第551小節)によるドーソーミーレドーの後、ppとなってト長調の根音(ソ)の五度下のドがバスにひっそりと加わるところは田園交響曲の終楽章の冒頭(ホルンが導く部分、ハ長調にファが加わる神々しい響き)そっくりである。「平和と安寧が光彩を放つヴァイオリンのトレモロに乗って天から降りてくる」3番は、その部分から楽譜1を連想できる人にとってはだが、シューマンのラインで最後の幕が降り始め、舞台の向こう側にベートーベンの書いた最も神秘的な情景を「蜃気楼のように遠望させて」終焉を迎えるのだ。あらゆる音楽のエンディングで最も独創的であり、音楽を知る者ほどさらに深い感動と充足を与えられるという驚くべき事例だ。先行する3楽章をすべて弱音で終わらせたのはこの準備のためであったかと思慮させる。人類最高度のブラームスの知性と書いたもののひとつである。僕がクラシック音楽を好む理由はこういうものにふれられる希少な場であることに尽きる。

 

クラシック徒然草―クレンペラーのブラームス3番―

嬉野温泉スパイ事件の謎

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

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時の流れを何かで埋めたい

2017 JUL 23 17:17:42 pm by 東 賢太郎

6月のように深い海の底へ沈んでしまうと、心を解きほぐせるものがそうあるわけではないことを知る。押し寄せてくる時の流れを何かで埋めたいが、どんなことをしてみてもなじまないことがわかってくる。お悔やみも慰めも魂に響かない。お定まりの暇つぶしである映画や小説はもとからさっぱり関心がないし、音楽はというと、今度は効きすぎてかえって危ないかもしれない。

サンフランシスコに出向いたはいいが、よし蟹でも食うかとフィッシャーマンズ・ワーフに行ってみると、なんで俺は昔こんなつまらない卑俗な雑踏に感激してたんだろうと嫌悪感がわくばかりで困ってしまった。心がどうもネガティブにはね返ってコントロールが効かない、どうしようもない。

つかの間の救いはY君が連れていってくれたナパ・バレーのケンゾー・エステートだった。丘の葡萄畑を望むフランス風のテラス(右)がいかにも素敵だ。これで樹木がマロニエなら最高なのだが文句は言えない。こういう風情の所で食事とワインというのが昔から人生最も好きなことの一つであり、知らず知らず雰囲気に浸ってしまった。

もうひとつ、阿曾さんがチケットを譲ってくださった野村万作の出る能・狂言というのが有難かった(国立能楽堂)。オペラだったらお断りしたい心境だったが能は初めてという薬味が効き、橋弁慶、船弁慶、曽我兄弟など話は知っている演目なのも幸いした。楽の音も景観もまことに異形、異界だが、600年前も前の人の情念が今も変わらないのがどこか心地までよくて、ふと眠りに落ちたりしながらも魂に響くものがあった。信長、秀吉を捉えたものが生死隣り合わせの美だったかもしれないと思いながら観た。証券用語の仕手、前場、後場が能からきたとは知らなかったが、相場も死がすぐそこにある世界ではある。

未だ不案内だが右の書物には目から鱗の思いだ。死が隣り合わせの中世は神、精霊、幽霊に出会う場が能であった。免疫学者で東大医学部教授だった著者は「私は理系の人間で能を見るときもどこか分析的になってしまう。しかしその分析を超えたところで一種の発見があり、科学の発見と同じく能の中のどんな小さな発見も例えようのない喜びである」と書く。文系的な人の書いた能の本はすべからく理解不能で、わけわからん説明を読むほど苦痛なものはないからこの出会いは福音だ。「間の構造と発見」の稿(本書はエッセイ集である)、ピエール・ブーレーズのリズム分析さながらに邦楽の「間」が図解(スコア)で定義されよくわかった。読む方も喜びである。

そして今、僕のピアノには長らくシューマンのピアノコンチェルトが置いてある。この曲の第1楽章、アレグロ・アフェットゥオーソは「速く、愛情を込めて」だが、なんと矛盾に満ちた指示だろう。二律相反するものを「間」をもって弾き分ける必要があるではないか。その間をとれるだけ成熟したピアニストがどれだけいるだろう。

第2楽章インテルメッツォをたどっていくとこういうのにぶつかる。

赤いほう、ヘ長調のメロディーがA、F7、B♭に、まるでエアポケットに入ったみたいに浮遊するのが不思議だ。そして青いところ、それが樹海に木霊したかのように木管がDm、Gmを2度さびしく奏でる!この不意に襲ってくる悲しい翳りはなんだ?この青からの4小節は無くたっていい、普通の作曲家まらまず最後から2小節目へ飛ぶのだろう。

以上コード記号を書いた和声は、子供の情景の「トロイメライ」であのふわっとした慕情に郷愁のペーソスを仄かにまぶした感じを醸し出すためにシューマンが工房で素材として用いたものだ。このインテルメッツォも同じ心情で書かれたものかもしれないと思い至った。

多田富雄氏が能に「発見」されたのは、音楽ならそういうものだろうか。氏は世阿弥の天才を説いているが、こんな音楽を書いたシューマンだって只事ではない。この協奏曲はいま僕の脳内に棲みついて次々と発見をくれているが、それをすればするだけ満足な演奏は遠ざかっていくから困ったものだ。そしてわかってくるのは、僕がどれだけこの曲が好きかということ。この大儀なときに心に入ってきて何もかも忘れさせてくれる、他のコンチェルトでは一向に無理なことであって、人生最も大事にしなくてはならないもののひとつだったのだということを思い知った。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

 

 

 

 

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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)

2017 JUL 22 9:09:51 am by 東 賢太郎

エフゲニー・キーシン / コリン・デービス / ロンドン交響楽団

一聴して惹きつけられた魅力的な第1楽章。詩心にあふれたキーシンのピアノは変幻自在なロマンを紡ぐ。自由なルバートが連続するが、音楽に感じ切っておりなるほどと思わせる。そういう表現はコンチェルトとしては焦点が定まらず散漫になりがちだが、それを見事に引き締めているのがデービスの伴奏だ。ティンパニを効かせて強いfを打ち込むが、雄渾でツボにはまっておりうるさくならない。緩徐楽章の感情も深く濃い。クララはきっとこうは弾かなかったろうが、やはりこれはロマン派の音楽なのだ。難を言えば終楽章が心持ち速いが、静謐で時間を止めるブリッジからの流れとしてそうなるしかないという一貫した見事なテンポ設計だ。(評点・4.5)

 

クリスチャン・ツィマーマン / ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭のオーボエの音がローター・コッホの音だ。懐かしい。トゥッティはあのカラヤンの豊麗な音がピアノを包み込みまるで交響曲だ。ツィマーマンのピアノは非常にきっちり弾かれカラヤンが彼を起用した理由がわかるが、あくまでオケのパートであり自由なファンタジーの飛翔は感じられず、カデンツァに才能の片鱗を見るだけだ。後に彼がカラヤンの支配を逃れたのはよくわかる。第2楽章のロマンはまったく平板。終楽章も大変な完成度できれいだが予定調和の域を出ず一向に面白くない。先が読めるのはファンタジーじゃないのだ。これをきくといったいカラヤンは何を目指していたのだろうと思う。一家に必携のブリタニカ百科事典みたいなものだろうか(評点・2.5)。

 

エレーヌ・グリモー / デイビッド・ジンマン / ベルリン・ドイツ交響楽団

なんともエネルギッシュなピアノだ。ここまであっけらかんと明るいと詩的な部分の陰影がさっぱり見えない。オケもffで単調でうるさい。展開部のおしまいの部分、精妙に再現部へ導く神がかったところでこれほど不感症はまずいしカデンツァもポエムがない。ジンマンはチューリヒ時代にトーン・ハレで毎週のように聴いたが、才人だが一度も感心したためしがない。別な指揮者だとうれしかった。終楽章はカプリッチオに聞こえる。(評点・2)

 

ルドルフ・ゼルキン / ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団弦楽団

これを先に聴けばグリモーがおとなしく思えたろう。これだけ豪壮なシューマンも珍しい。ゼルキンのブラームスは硬派の部類の名演だが完全にその勢いでこのまま皇帝だって弾ける。たおやかさや悲しみとは無縁で武骨ですらあり、オーマンディのオケはそれに輪をかけて詩情のかけらもない。最後まで聞きとおすのにひと苦労(評点・1)。

 

ベンノ・モイセイヴィッチ / オットー・アッカーマン / フィルハーモニア管弦楽団

モイセイヴィッチ、ため息が出るほど素晴らしい。この強弱とテンポの脈動、デリケートな詩情、呼吸、感情の揺らめき!楽譜にはないが音楽が秘めて求めているものはこれだと肌で納得だ。これはきっとシューマンもクララも誉めただろうという抗いがたい高質のものだ。3度も聴いてしまった。アッカーマンのオケがまた驚く。ピアノと精神が完全に親和、合体したオーボエの掛け合い、フルートのパッセージはエモーションの奥深いところまでシンクロナイズして語り掛ける。こんなインティメートな演奏はそうはない。第2楽章のppの深さ!こうでなくてはここのロマンは出ない。終楽章、物理的なことだけいえば僕にはやや速いがタッチが夢のように変わって軽いレガートでそういう気が全然しない。魔法の領域である、降参。まったくひけらかす風情はないがモイセイヴィッチの技術の凄味を見るばかりだ(ラフマニノフに「後継者」と言わしめた)。外へではなく、内へ内へ奉仕する。そういうスゴ技があざとい知恵や計算でなく音楽に合わせて変幻自在に現れる。小さなミスタッチはあり、猛練習で追い込んだりテープを切り貼りした感じはない、精神の深奥まで共感した音楽がいつも必要な音になって自然に流れ出てくる、若いピアニストの皆さま間違ってはいけない、ピアノがうまいとはこういうことなのだ。素晴らしいものをyoutubeで教えてもらった、オーディオで良い音で聴きたくすぐCDを注文だ(評点・5)。

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

 

 

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独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その2)

2017 JUL 21 0:00:04 am by 東 賢太郎

アルトゥール・ルービンシュタイン / フランコ・カラチオロ / ナポリ・イタリア放送(RAI)アレッサンドロ・スカルラッティ管

1964年4月29日ライブ。これは素晴らしい。第1楽章の前稿楽譜部分(難しい)の感じ切ったデリケートさ!これが77才か?ルービンシュタインの技巧は凄かったのだ。それなくして描きようもない自在のファンタジーが横溢。テンポもこの曲の本来のものであり、文句のつけようなし。イタリアの放送オケが上手いと思ったためしがないが、これは初の例外だ。(評点・4.5)

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / カルロ・マリア・ジュリーニ / シカゴ交響楽団

1967年3月8日だから上記の3年後、80才のスタジオ録音である。何の問題もなく弾けている。しかしオケがとても上手いもののマッチョ指向なのが僕の好みでない。ブラームスならそれでもいいがこっちはアウトだ。伴奏がそれだからピアノもどこかファンタジーに欠ける。醸し出そうとしているが中途半端なうちにオケに消されている。録音もHiFi指向で細部までクリアに聞こえるが、そういうことはこの曲には無用である。(評点・3)

 

エミール・ギレリス / カール・ベーム / ロンドン交響楽団

75年のザルツブルグ音楽祭ライブ。ギレリスの技巧は明らかに衰えている。少々のことは看過するが、前稿楽譜部分の事故は僕にはつらい(何故ここが難しいと書いたかわかるだろう)。84年にロンドンで聴いたチャイコフスキーP協は危険水域にあったが、もうこのころに兆候はあったわけだ。ただ、そのせいなのかどうか、ベームのテンポがいい。これが今の僕の趣味、このぐらい落さないと見過ごしてしまう道端の可憐なスミレみたいなものがこの曲にはたくさんある。それで弛緩するどころか、ギレリスは万感の思いをこめて、胸いっぱいの呼吸でそれを慈しむように弾いている。音楽の感動というのはなんと深いものだろう。(評点・3.5)

 

ワルター・ギーゼキング / ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ギーゼキングは現代曲を汽車の中で目で覚えて着いたら初見で弾いてしまう人だ。指の回りも尋常でない。モーツァルトやドビッシーの世評が高いと思えばラフマニノフを2番も3番も弾く(2曲の両刀使いは意外に多くない)。何でもできるのはわかるが、人間一つ二つ欠点あったほうがいいんじゃないのと、どうも好きになれないまま来てしまった。これも上手いなあとは思うがルバートの感覚が好みでないし終楽章はテクニックの展示会でご勘弁だ。フルトヴェングラーも第2楽章以外はあんまりポエジーを感じない。向いてないね。(評点・2)

 

アルフレッド・コルトー / ランドン・ドナルド / ロンドン交響楽団

コルトーのルバートには華がある。ショパンのワルツなどそれが活きる曲では水を得た魚の如く余人の及ばぬ名演をものしている。この曲でも抒情的な部分でいい味を出しているが、何分指が回らないとどうしようもない音楽だ。補おうとうわべの軽いタッチでパッセージを弾き飛ばすからコクがなくなったり唐突にフォルテになって感興を削いでしまう。鋼鉄のタッチだったギレリスが老いて枯れたのとは違う、申しわけないが元々ないものは仕方ない。ギーゼキングのように弾け過ぎても道を誤るし、ピアノ演奏とは難しいものだ。(評点・1)

 

独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その3)

 

 

 

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

2017 JUL 19 16:16:06 pm by 東 賢太郎

プロローグ

 

ブラームスS2、シューマンS3、ダフニスの各種録音の勝手品評をものしたらけっこう読まれている。時間がないが、持っている音源ぜんぶ書けば1万以上の品評はできるからもう少しやってみようという気になった。

どうしてその3曲を書く気になったかというと、もう半世紀も熱愛してるからだ。要は小学校2年で愛が芽生えた広島カープとおんなじであり、クラシックといってもそこまで言えるのはほんの限られた何曲かに過ぎないが、ともあれ熱烈なファンなのである。その意味では4番目にシューマンのピアノコンチェルトがくるのは遅すぎたぐらいのことだが。

僕のカープ愛は東京っ子の「とりあえず巨人ファン」なんてもんじゃない。広島県人でもない。よそ様の球団をそこまで愛せるんだから、それが西洋の音楽だって違和感はかけらもない。

会社ではカープが負けると機嫌が悪いのは周知で、翌日は朝イチの報告を部下が昼までのばしていた。好きなものが痛めつけられると義侠心がわく。好きな曲に変な演奏をされる、それはウチの可愛い猫をあえてブスに撮って写真をばらまかれるに等しい。

僕の頭の中ではカープもシューマンS3も「喜びをくれるもの」というタグで仕分けされており、「喜ばせてくれた感謝」なるサブタイトルで括られている。カープがやられたら怒る。S3を奇天烈に改竄されたスコアでやられたら怒る。そこに何らの違いも存在しないのである。

ちなみに奇天烈スコアの使用主様は名指揮者カール・シューリヒトだが、僕は彼のブルックナーを愛する者だ。しかしS3には適役じゃない。それだけだ。愛するものを曲げられたら異をとなえ、想いどおりにやってくれたら絶賛する。かように僕は骨の髄まで楽曲天動説である。アーティスト天動説の人とは絶対に話が合わない。

シューリヒトは全部好き、カラヤンは全部だめというのは何某の出るドラマは何でも見るわという女の子と変わらないように思う。安倍首相のいうこと全部ハンタ~イの野党みたいでもあり、モリもカケも全部サンセ~イの官邸ヒラメ属も同一の種である。そういう思考停止した人と僕は会話は30秒ももたない。

楽曲にあれもこれもない。好きだから聴くのであって、嫌なら聴かなければいい。何の関心もないヴェルディの歌劇で、あのソプラノはカスだ指揮者はボケだ云々をかます能力は僕にはない。能力を問う前に聞かないのだから天動説の重力の真ん中に何もないのであって、心は平和なものだ。

ところが冒頭の3曲のように愛猫に匹敵する音楽になるとそうはいかない。演奏してるんだからこの指揮者は当然この曲が好きなのだろうと思っている。ところが、それであんた、なんでこれなの?という許し難いのが多々あるのだ。相手は演奏のプロだ。技術のことじゃない、解釈の問題に尽きる。

解釈とは音符の読み方である。それにこだわってときに議論の土俵として皆さんに楽譜をお見せしているのはそのためだ。僕は音大卒でないが楽譜はある程度読める。頭で音化できなくてもピアノでリアライズぐらいはできる。読むというのはそうやって、どういう音にするか決める、つまり解釈するということである。

解釈なんて主観の相違でしょと片づけられればそれまでだが、ブラ2の最後でアッチェレランドをするかしないかは指揮者の尊厳を問う主張だ。「書いてないからしません」も解釈だが、「すべきでないからしません」はより強い解釈であって、そうした「強い主張」が聞こえる演奏はインパクトも強い。

僕は「すべきでないからしません」派であって、安っぽいアッチェレランドなど媚薬であり、媚薬がないと惚れてもらえないのは不細工な格落ちの指揮者であると判を押している。ブラームスはそんなものがなくても充分な楽譜を書いているのであって、だから「書いてない」のである。「書いてないからしません」派も、「やっちゃいました」派と大して変わらん二級品ということだ。

かように、今後の「独断流品評会」シリーズはあられもなき「独断」「偏見」であることはまずお断りしたい。いかに演奏家をこきおろそうと地獄に落ちろと罵ろうと、それはカープを完封した菅野投手を死ねと朝イチの報告前後まで罵倒しているのとおんなじである。そういいながら、僕は菅野は日本一の投手と認めてる。野球を50年観てきたからだ。

 

では、初回はこちらからどうぞ。

 

マルタ・アルゲリッチ / F・Pデッカー/ オケ不詳

本シリーズを偉大なるマルタ様で開始するのは光栄だ。1976年、35才。このビデオでまず思い出したのは神宮球場で見たバレンティンの打撃練習だ。バットを振ればかすっただけでホームラン。このころのマルタは飛ぶ鳥を、落としていた。84年にカーネギーホールで遭遇した壮絶なプロコフィエフ3番など僕の音楽人生の一大事件にランクされる。

しかし、これはシューマンなんだ。たぶん。譜面は楽曲ブログに載せた第1楽章の大事なピアノのパッセージだ。この部分を次のビデオで見ていただきたい(2分46秒から)。schumannPC

この、左手までバリバリ弾いてしまう、右手はボツボツ切れてさっぱりレガートも歌もなし。勘弁してほしいのだ。楽譜にはそう書いてある?書いてないよ。悪いけどデリカシーかけらもなし、それでも音はちゃんと出てるしいいでしょって、だからスタンドに入れてんだから文句あっか?のバレンティンなの。ご機嫌が悪い日のテイクだったんでしょうかね、オケも見事におつきあいで最低だ。

こっちの雄大さは、さらに上をいくかもしれない。

伴奏はチェロの帝王、ロストロポーヴィチ様である。オケが盛り上がるといったい何が始まったんだとウチの猫が身構えてしまう迫力であり、それに乗ったマルタ様のガーンという低音はサド女王様のムチが帝王をしもべにする劇的な瞬間である。カデンツァは勝どきだ。

ロストロは知る限りそういうテンペラメントの演奏家という印象はなく、勝手想像だが、女王の燃えたぎる情熱にかいがいしくも献身しようと慣れないことを一所懸命やってしまった観がある。

マルタ+ロストロのウルトラ大物コンビに「だってこれがシューマンなのよ」とこられたら、こちとらひとたまりもない。でも、違うと思う。

女王はこのコンチェルトを11才で披露している。

第3楽章のブルレスケみたいなテンポの原点はここだろう。これで興奮と喝采は約束される、こんな小さい子がすごいテクニックだと。モーツァルトも原点は大人の称賛にあったが、神童の稀有な成功体験は趣味として残るのだろうか。これを終生弾き続けるのは好きだからだろうが、弾く側の好きと聴く側の好きが必ずしも同一でないことはあり得る。

マルタを嫌ったり貶めたりする意図は全くない。彼女のテンペラメントはアレグロのコーダに向かう真の意味で超人的な興奮の創造と切り離せない性質のもので、それがオンリーワンの強烈な個性を生んだ。それが活きるプロコフィエフ3、チャイコフスキー1、ラフマニノフ3、ラヴェルで名演を成し遂げているが、たまたまシューマンはそれらと同列に並べる曲ではない、少なくとも僕は聴く側の好きでそう思っている。

ロストロとの共演は話題になって、上掲のレコードはわくわくして買った。大学のころかな。1回だけ通して絶句して、以来レコード棚から出たことがない。演奏会だったら第一楽章だけ我慢して退散したに違いない。僕も好きなものにだけ特化する性格だが、趣味も20代から変わってないことが今回きいてみてわかった。持って生まれた四大元素のケミストリー、学習したものではないらしい。

 

時の流れを何かで埋めたい

独断流品評会「シューマン ピアノ協奏曲」(その2)

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

2017 JAN 30 2:02:18 am by 東 賢太郎

たしか朝比奈の著書に、指揮者が振りたくない名曲として田園とラインがあがっていました。どちらもエンディングがそっけなく聞こえるからです。たしかに運命のくどいばかりのそれに比して田園はあっさりですし、シューマンの1,2,4番に比してラインは簡潔な終わりですね。

それは田園、ライン、どちらも自然を満喫する交響曲であるためです。楽しかった遠足です、解散!の前に先生の説教やら「良かっただろ」のだめ押しは不要なのです。

これはライン第5楽章のうきうきする主題です。

leben

fp からの弾むような第2主題はライン地方の民謡、「So leben wir, so leben wir alle Tage」です。それをおききください。

これを知ったうえで4年前の僕のブログ、

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)

を読み返していただければ、シューマンが第5楽章に抗いがたい愉悦感の下地をしっかりと織り込んでいることがお分かりいただけると思います。この曲は喜びのエネルギーを内に秘めているのです。それを開放すればシューマンの心の喜びは聴き手にまっすぐ伝わります。指揮者が余計なことをすればデリケートなそれは無残に壊れます。

僕がなぜコーダのアッチェレランドを蛇蝎のように嫌っているか、理屈ではないのですが、細部をリサーチすればこうして理由があることもわかってまいります。エンディングがそっけなく、キーが鳴りにくい変ホ長調でもある。指揮者は何かやりたくなるだろうし、マーラー版で壮麗に化粧をし、地味なエンディングは加速でブラボーを取る。しかし美人に化粧はいらないわけで、厚化粧を必要としているのは指揮者のほうである。別に実力不足は構わんのですが、そのだしに最愛の音楽であるラインを使うのだけはやめてくれよと嘆願するのみです。

フルトヴェングラーのように曲を大掴みに俯瞰して作曲家の意図の方向にデフォルメをかけるタイプは、シューマンに聴き手を誘導するメッセージがなく、自然への賛美と喜びを共有しましょうというだけなものだからすべきことがない。彼がラインを手掛けなかったのは大指揮者の証明でした。その彼を師と仰ぐバレンボイムは全集を作るためでしょう、振ってしまって下記のようになってしまった。必然ですね。今後もできるだけ聴いて、だめなのは本ブログにボロカスに書くことになるでしょう。

朝比奈の挙げた理由からでしょうかラインを演奏会で聴く機会はあまりありません。僕は3回しかなくてジンマン(チューリヒ・トーンハレ)、ヤルヴィ息子(N響)、マリナー(同)です。マリナーがあまりに素晴らしくて忘れられません。第1楽章は自分でシンセでMIDI録音して、原典版でしっかり鳴ることは自分の手で確認してます。これは結構出来が良くて満足で、やはりラインを愛する長女が気に入ってくれてます。

ハンス・フォンク / ケルン放送交響楽団

654やや弦が荒くテンポが速いが原典版スコアの地味な音色が好ましいです。マーラー版のスコアは持ってないので原典版を見ての限りですが、63小節の木管の対旋律のホルンの重複はなく、432小節の第1,2ヴァイオリンのd、e♭の短2度はそのまま。シューマンのスコアへの敬意を感じます。下手だから俺様が直してやるなどという不届き者が決まってアッチェレランドするコーダも盤石のテンポ。いいですね。

 

クリストフ・フォン・ドホナーニ / クリーブランド管弦楽団

200x200_P2_G1809805Wマーラー版でないのは評価。しかしドホナーニのオケの鳴らし方はブラームスやシューマンでも1,4番向きで各楽器群のソノリティがリッチで外交的あり、63小節はむしろホルン重複がないと物足りないという悲しいジレンマを感じます。オケをこうマーラー風に鳴らす後期ロマン派の視点からシューマンの管弦楽法が冴えないという流派が出たわけで、それは元から視点がおかしいというしかありません。第2楽章は明るくてお気楽。終楽章コーダは過剰な加速がないのはいいが陽気丸出しのトランペットが興ざめ。

 

ール・パレー / デトロイト交響楽団

71bDUCIk-rL._SL500_付点音符を弾ませ弦のボウイングによるアクセントを明確にしながら快適なテンポで豪快に始まる。ホルンの補強あり。コーダは加速まったくなく立派です。第2楽章もスタッカート気味の弦は結構だがアンサンブルがずれる。第3楽章冒頭は対旋律の音程があやしい。第4楽章はケルン大聖堂の暗さと湿度が不足。終楽章の出だしはオケの明るさが生きるがタッチが軽く陽気すぎてなじめない。とくに聴きたいとは思いません。

 

 

ダニエル・バレンボイム / シュターツカペレ・ベルリン

838強いパッションで開始。おそらくマーラー版に近い。このオケはウンター・デン・リンデンの歌劇場で聴くと古雅な良い音がします。ここでは弦の fが荒く無用な金管、ティンパニの強奏がうるさく美質が出ず。中間楽章もデリカシーを欠き、第4楽章の終結のティンパニ強打など論外でこの人なにを考えてんのと言うしかない。終楽章はテンポがぬるく愉悦感なし。ここでもおかど違いで音程の悪い金管、打楽器に閉口。コーダの加速とお祭り騒ぎは失笑しかなし。彼は日本人にブルックナーはわからんとのたまわったらしいが彼にラインがわかることもないだろう。

 

エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

boult

ロンドンで89年に買ったCDでなつかしい。史上最速の第1楽章でしょう。いったい何がおきたんだと驚くうちに一陣の風のように過ぎ去ります。ところが第2-4楽章は普通のテンポで文句なし。ラインのエッセンスを掴んでいます。終楽章がまた速いが史上最高ほどではなく、この愉悦の気分は決して曲の精神から逸れてはおらず、納得します。両端楽章、この速度ではアッチェレランドのかけようはありません。かけられるよりは速すぎの方が僕はずっとましです。

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

 

 

シューマン交響曲第2番ハ長調 作品61

 

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