ゴーン氏の逃亡(The Fugitive)
2020 JAN 5 1:01:55 am by 東 賢太郎
ゴーン氏のニュースを知ったのは大晦日に鹿児島から羽田空港についた午後10時ごろだった。空港脱出劇、悔しいけどお見事だ。なんだったかスパイ映画にあったよ。年末の日本国は早や正月気分で思考停止しているからね、やるならここしかない。
「どうだ諸君、私をカネ儲け専門の強欲ジジイと思ってるだろう。誰と心得る。我々レバノン人の先祖はあのフェニキア人だ。カネ儲けなんざ片手間でOKなのである。私がその気になればお笑い芸人だってできるのだ。大晦日にゴ~ン。おっといかんいかん、このネタは日本人しかわからんな、こっちだこっち、おいらは GONE! はっはっはどうかね諸君、そのうちハリウッド映画でお会いしよう」。
逃亡者は英語でFugitiveという。彼は法を破って逃げたからそう呼ばれて仕方ないだろう。日本の司法はおかしい、おいらの国じゃ人権問題だ。そう思うのは自由だが、何億人の外国人がそう騒いだところで譲る国はない。国家主権の問題だからだ。ことは司法のみならず外交にも関わる。テロリストも増長させる。政府は関係各国に毅然とした態度で事件の徹底解明をしなくてはないらない。
そういえばベンチャーズに「逃亡者」(The Fugitive)というナンバーがあった。ビデオの6分50秒から犬の鳴き声で始まるこの曲はぜんぜん有名でないが、マイ・ベスト5に入る。
理由はサビのコード進行のカッコ良さだ。ベンチャーズに極めて稀なクラシカルな世界が展開するE♭、F、E♭、G♭というところだ。この天国的なサビ、2回目でいったん主調の変ロ長調に戻るが再び同じ旋律が短3度上に転調してG♭、A♭、G♭、A、D♭と出現する。主調はセブンスと悪魔の4度が入っていてどす黒い。監獄の犬がワンワン追ってくる。つかまるぞ、早く逃げろ。不意に現れるサビは自由の身。脱走に成功だ。清澄なリードギターのメロディーと天にも昇る美しい和声、今のゴーン氏の心境にこれほどふさわしい音楽はないだろう。
ところでE♭⇒G♭の短3度上昇は最近どっかで耳にした。そうだ、正月に見ていたドクターX ~外科医・大門未知子~のテーマ音楽で、手を変え品を変えこれでもかと聞かされて耳にこびりついてしまった。こっちはFm、A、B、Dであるが、B⇒Dがおんなじ。原始的なケースだが、相似形の発見は興味が尽きない。こういうことだ。
和声がつまらない音楽は1秒も聞きたくないクズである。
まあそんなことはさておき、すっかり米倉涼子のファンになってしまった。彼女をぜんぜん知らなかったが好きなキャラだ。「わたし失敗しないので」は我々の業界では言いたいが言えない。僕の場合は「わたしテレビ見ないので」であり、このドラマをアマゾン・プライムで知ってシリーズ1からぶっ通し。やっと3が終わった。
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ベンチャーズ残照(その2)
2019 JUL 25 13:13:58 pm by 東 賢太郎
ベンチャーズのアルバム、The Ventures in Spaceは別稿にした(ベンチャーズ 「アウト・オブ・リミッツ」)。2曲目のOUT OF LIMITSはそこからのピックアップである。
このEP盤も1965年発売。覚えてないが当然すぐ買ったはずだ。当時、米ソは核開発の先に宇宙開発競争を展開し、1961年に大統領JFケネディは60年代中に人類を月面に到着させるとだ驚くべき宣言を世界に向けて発した。1969年7月20日にアポロ11号がそれを初めて果たし、中3の宇宙少年だった僕はテレビ画面の前で震撼した。翌年の大阪万博では持ち帰られた月の石を見ようとアメリカ館に長蛇の列ができる。我が家も4時間並んでそれに加わったが、このアルバムには当時のアメリカの宇宙への熱い息吹がこもっていると同時に、時代を熱く呼吸していた自分の息吹も感じる。
ビートルズに比べるとベンチャーズは下に見られる。音楽的には同感だが、いやそうではないと頑張る僕のような人間もいる。「女に好いた惚れた」「反戦」に徹したビートルズが The Ventures in Space みたいな硬派なアルバムを作ったろうか?ありえない。ビートルズはナンパのリベラルのアイドルなのだ。そこにはかつて七つの海を支配した栄光が残照と化し「オスの原理」を喪失しかけていた英国、かたや先端科学を武器に世界の覇者になって宇宙にまで打って出るぞという「ギラついたオス」であった米国の姿が透けて見える。いま思うとマッシュルームカットは「メス化」のシンボルだ。ビートルズは好きになったが、あれだけはやる気はかけらもなく、ナンパな奴らは骨の髄まで馬鹿にしていた。野球をやったからではなく、僕は本質的にウルトラがつくぐらいの硬派なのだ。
別にベンチャーズに思想があったわけではない。チャラくて軽いウェストコーストのノリの域を全く出てはいない、売れれば勝ちのアメリカンな単細胞ぶりは微笑ましいばかりだが、国を誇れないビートルズが麻薬、サイケデリックの世界に逃げて行ったのに対しそういう爛れた「黒っぽさ」がない。ストレートに「強い俺が勝ち」。馬鹿だが「オスの原理」とはそういうものなのだ。トランプ大統領の半端でない支持者層を見れば半世紀たった今だって米国はそれだということもわかるだろう。正確には、そうでなければともがいていると言うべきであって、半導体の次は高速処理の5Gなのだ。それがAI世界戦争のキモであり、ビッグデータを支配し、高精度迎撃ミサイルの命中確率をも左右する。だからファーウェイをぶっ潰しに行くのである。仮想敵国は完全に中国である。
MARINER No.4(マリナー4号)はちょうどこのころ、1965年に初の火星フライバイと火星表面の画像送信に成功した探査機であり、送られてきた火星表面の接近画像はクレーターだらけの死の世界で人類に衝撃を与えた。オーソン・ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』が全米で聴衆にパニックを引き起こしたが、「タコのような火星人」なんて実はいないのだと人類の夢を粉々に打ち砕いた探査機に「夢のマリナー号」というのもジョークならなかなかのセンスだったが単なる科学音痴であろう。
上記のジャケット写真。テルスター(TELSTAR)のスペルも間違ってるのはご愛敬だ。テルスターとはNASAが1962年に打ち上げた通信放送衛星の名前で人類初の欧米をまたぐテレビ中継はこれを使って成功したのである。英語の問題以前に常識的にTEL+STARとわかりそうなもんだが、理系の会社である東芝もそういう理系的な興味のない人が東芝音楽工業ではジャケットを作ったり製品管理をしていたんだろう。まあどうでもいいが、アメリカは税金で堂々とそういう超高額の物体を飛ばしてでも常に世界のNo.1でいようという国だという話はしておきたい。トランプが言うまでもなく、アメリカ1番、アメリカ・ファーストの国なのである。時代の空気とはいえロックバンドさえもがこういう人工衛星名のメカな音楽をやって大衆が受け入れてしまう国なのだ。あずさ2号というナンパな歌はあったが、皆さんサザンオールスターズが小惑星探査成功をたたえて「はやぶさ2号」なんて曲をやって日本国でうけると思うだろうか。アメリカ国民がみんな科学好きなのではなく、みんな強いアメリカが大好きなのだ。「どうして2番じゃダメなんですか」なんて野党の変なおばさんが言ったりしないのである。アタシって女ね、なんでもハンタ~イなのよ、だからイチバンというのに反対しただけなのよ、なんて軟弱な屁理屈で許してしまえる話じゃない。
アメリカは第2次大戦でナチスドイツを叩き潰したが、ナチの優秀な科学者たちは殺さずに迎え入れて核兵器、ロケット製造の最先端技術を手に入れた。是々非々なのだ。「オスの原理」の前に「ナチはいかがなものか」なんて馬鹿はいないのである。その高度な結実であるアポロ計画など宇宙開発が軍事技術開発と表裏一体であることは論を待たない。かたや我が国はどうだ。日米半導体協定は1980年代に最強レベルに至ったわが国半導体業界をナチス並みの敵意で米国が叩き潰しに来たわけだが、そこで大戦争があったし国威をかけた業界の呻吟も知ってるわけだが、結果論としてはあっさりと韓国に座を奪われて目論見通りに弱体化されてしまう。「雌雄を決する」とは冷徹なものであって、どんなに努力や苦労があろうと負けたらおしまい。そういうものなのだ。技術者がカネにつられて流出して韓国に教えてしまったわけだが韓国も「オスの原理」で是々非々な国なのだ。それを許してしまった国も経営者も「科学技術=国防力」であるのは古今東西の世の真理であって真理の前にはアメリカも北朝鮮もナチスドイツもないことをどう思っていたんだろう。アメリカさんの核の傘=国防力は不要、とソンタクでもしたんだろうか。
そういう「国」という根幹の本質的な思想において、僕はビートルズが出てきたころの斜陽の英国以上に、はっきり書くが、いまの日本国に木の幹が腐食し始めたような嫌なものを感じる。例えばだ、科学技術力にはクラフトマンシップの要素もあるから数学力だけではないかもしれないことは留保したうえで、データをお見せしたい。国際数学オリンピックで日本は一度も優勝したことがない。2009年の 2位が最高で、今年は13位である。1位はアメリカと中国。そして3位が韓国、4位はあの北朝鮮である。1989年以降で優勝はアメリカは4回だが、中国はなんと20回でぶっちぎりである。韓国も12年、18年と2回優勝している。09年以降で北朝鮮は5位以内に4回入ったが日本は2回だ。国際物理オリンピックも今年の優勝は中国・韓国、3位ロシア、4位ベトナムで、日本はこっちも同じく13位である。
要は数学も物理も国として中国、韓国にぼろ負けなのである。政治的要素も絡むノーベル賞では先行しているが、理系の肝心かなめである数学・物理でこれでは時間の問題だろう。この戦績が来年の東京オリンピックだったら国を挙げた大騒ぎになるのに数学だとどうしてならないんだろう?大学入試に数学がないから男の半分は数学ができない。ものづくり、技術立国をうたいながら、支配層は国際的にトップクラスの理系感度が鈍い国なのだ。日本人はこの事実を直視しなくてはいけない。それなのに、奇怪なことに、なぜか日本のマスコミはこれを報じない。むしろ「全員がメダルを獲得」と持ち上げている。馬鹿が馬鹿を騙す天下有数のくだらない番組、「東大王」のノリだ。「でも頑張ったんだからいいじゃない、メダルは取ったんだしさ、だって全員ってところがなんかいいよね、和の力だよね、ほめてあげたいじゃないの、ほめないあんた、なんかおかしいよ日本人として」。おかしくても結構、おかしいのはそっちだ。要は13位なんである。この風潮が「どうして2番じゃダメなんですか?」を産むのである。この感じ、どこか「みんなで仲良くゴール」の似非リベラル風じゃないか。文科省が国民に知られたくないのか?気づかせぬまま日本に2番になってほしい忍びの者がいるのか?
さて音楽にいこう。
3曲目のテルスター。大好きで何十回もきいて頭に焼きついてるが、久しぶりにサビの部分の和声をきいているとA-F#m-D-Eの進行なのだ。このバスはハ長調だとドーラーファーソーであり、なんとブログで何度も指摘してきた「アマデウス・コード」(僕が命名したものだが)ということに気がついた。ここに分かりやすく書いたので是非お読みください。
高校に上がるとストラヴィンスキーに行ってずぶずぶになってしまったが、やがてちゃんとモーツァルトに行きついたのはこんな意外な伏線があった。テルスターが大好き=モーツァルトが大好きになる運命だった。やっぱり僕の音の嗜好はベンチャーズから来ていると確信する。ロックっぽい部分、たとえばチョーキングみたいなギターテクではない、音楽の「味」みたいなところ。コード進行やリズムやサウンドというところで「ささっているもの」があって、やがてそれと同じものをクラシックの森の中で探すようになって、そうするとあるわあるわ、続々と宝物が発掘されていったという感じが近い。ということはベンチャーズはビートルズに劣るもんでもない、音楽のちゃんとしたエッセンスは踏まえている立派なものだ。耳も鍛えられ、サウンドの快感につられて同じものを耳タコまで聴けば音高まで記憶してしまうから絶対音感に近いものができた。ボブ・ボーグルのベースをいつも集中してたどっていたからバスから和声進行をつかむ無意識のレッスンとなっており、ポップスなら何でも一度で耳コピでピアノで弾けるようになった。しかもベンチャーズはピッチがとても良い。「ブルー・スター」などロックにあるまじき美しさである。演奏側の耳が良い。良い音楽を若い頃に脳に刻むのはとても大事だと思う。
(ご参考)
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ベンチャーズ残照(その1)
2019 JUL 25 2:02:05 am by 東 賢太郎
wikipediaによるとこれが日本でシングルカットされたのは1965年らしい。東京オリンピックの翌年で僕は小学校5年生であった。成城学園前駅を学校側に出て交番のところをすぐ右に入る小路をしばらく進むと、右側に小さなレコード屋があった。ベンチャーズのEP盤はほとんどそこで買った。1枚500円だった。いまなら5000円ぐらいの感じだろう、それを何枚も買う小遣いがあったはずはない。戦中派にしてはクラシック好きでアメリカOKの親父に理解があったんだろうがビートルズに行くのは警戒していた気がする。ベンチャーズは髪の毛が短かったからよかったかもしれない。上のジャケット、やんちゃしてみせる左の3人に対し右端のベースマン、ボブ・ボーグル氏がいい。社内旅行の宴会で借りだされて舞台に出てきたド真面目な総務係長という感じが好きだ。
これを何十回かけたか。もう擦りきれてるだろうと思ったら意外にそうでもない、レコードはCDよりモチがいいかもしれない。クラシック用のオルトフォンのカートリッジで鳴らす。悪くないぞ。こんなに低音が入ってたんだ。「10番街」でベンチャーズにハマってロックギタリストになられた方のネット番組を拝見していたらノーキー・エドワーズが低音でメロディーを弾くところのチョーキングに参ったと言っておられ、人によってずいぶん違うもんだと感心した。僕の場合どこにハマっていたかというと、冒頭ショッキングなディミニッシュコードに続いてドラムソロとなり、そのエンドのにかぶさってボンボンボンボンと4つ入るボブ・ボーグルのベースなのだ。
すげえ、なんだこれ!カッコいい!!一撃でノックアウトを食らい、以来その快感を味わうためだけ?に何十回このレコードをかけたことか。そこには理屈など入りこむ余地はかけらもない。僕にとってベンチャーズは「サウンドのカッコよさ」命であって、それは今に続く音楽趣味をつくったし、ひょっとすると生まれつきの趣味がここでど真ん中に命中したという順番だったかもしれない。ベンチャーズこそ掛け値なしにわが音楽の祖であり起源であって、僕は退屈で死にそうだった音楽の授業ではなくベンチャーズのレコードで音楽の九九と四則計算みたいなものを覚えて今に至ったと思っている。
ギターのテクニックのような女の子にモテそうなことにはからっきし興味がなかったからカッコいいロックギタリストになれる才能はなかった。あこがれはドラムスだった。親父にせがんだらギターは買ってくれたがドラムスだけはどうしてもだめだった。仕方なくスティックだけ自分で買ってきて柔らかめのカバーの本を並べ、電気釜のフタをシンバルにしてばかばか叩きまくってメル・テイラーの気分を大いに味わったが、ついにフタがひん曲がってしまうわお前は本を何と心得とるとのかとこっぴどく叱られた。ちなみにそっちも関心はスネアやシンバルよりタムタムの大中の音色の違いで、それでキャラヴァンにハマってたわけだ。大きいほうのタムにしていた本の音がわりと深みがあって良く、表紙を今でも覚えてる(中身は覚えてないが)。この趣味はやがて「春の祭典」のティンパニの音色への執着に進化していく。これだからモーツァルトは遠くストラヴィンスキーは近かった。
このたび、このアルバムが音楽的にどうだったのかと耳を澄ますと、WALK DON’T RUNのサイドギターの最初のコードがAmじゃなくてAじゃないのかときこえてきた。これは大変ショックである。そうなると別の曲だ。DIAMOND HEADとPIPELINEとをピアノで弾いてみる。これが予想だにしなかったことだが、実にカッコいいのである。やっぱりそれなりのモンだったぜ。
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音楽の偏食はあたりまえである
2019 JUL 15 17:17:34 pm by 東 賢太郎
演奏家にはレパートリー(repertoire)がある。何でも初見で弾けるピアニストはいても、それが即レパートリーというわけにはいかない。演奏家は自分の何らかのステートメント(statement、声明、自己証明)を他人の書いた楽曲に乗せて発信する人という認識が19世紀後半に主流になり、聞き手はそれを愛でに会場に来るというのが現代に至ってオペラやコンサートの定型的な図式となった。つまり演奏家とはステートメントによって自らを世にアピールする存在であって、その一点において「弾ける曲」と「レパートリー」とは決定的に違う。
自分で音を紡ぎだす肉体的制約のない指揮者はレパートリー選択の自由度は高いと書いてそれほど間違いではないように思う。カラヤン、オーマンディー、ネーメ・ヤルヴィは何でもござれのイメージがある。実はカラヤンはそうでもないが、守備範囲は前任フルトヴェングラーよりずっと広かった。かたやジュリーニやカルロス・クライバーは狭かったが、だからふたりがカラヤンに劣ると思う人は少ないだろう。ステートメントの品質は物量で決まるわけではない。
このことは演奏する側ばかりでない、聴く側にもあると思うがいかがだろう。僕は幼少時に偏食だったので「なんでも食べなさい」と言われて育ったが結局そうはならなかった。おそらく多くの方がちょっと苦手なもの、嫌ではなくて出てくればいただくが、自らレストランではあまり注文しないものがあるのではないだろうか。食物と違って音楽は生命維持に必要なわけではないから好き嫌いで選んで文句を言う人はいないし、一切聞かないという選択肢だってある。
つまり音楽は偏食があたりまえなのであり、僕のようにベンチャーズもモーツァルトもメシアンも半端なく日常的に好きだという雑食はむしろマイノリティである。好きの根っこは古典派にありそうな気がするが今は音楽室に入るとラフマニノフPC3Mov2冒頭とブルックナー7番Mov2冒頭を弾くのが日課であり、どうしてもその欲求に負ける。それがどこから湧き出てくるのかわからない。その5人の音楽家の作品に僕に響く何らかの共通因子があるということだけは確実だが解明したところで誰の役にもたたないし日本のGDPにも世界平和にもならないからしない。響く器のほうが僕なのだと定義すれば足りる。畢竟、それがステートメントの本質である。
僕のレパートリーは学生時代にできて、そこからは忙しくてあまり進化していない。浪人して若さとヒマが両立しており、当時だと3回で暗記OKだから図書館でかたっぱしから聞き、それはできた。万事興味ないことは覚えないから花や木の名前は数個しか言えないが、好きな曲はオペラでも室内楽でもバスを暗譜で歌えるまで記憶しており、そうなったものを僕は自分の鑑賞レパートリーとして認識している。ブログで曲名タイトルで書いた楽曲はすべてそれに属している。ブログもステートメント発信だからそれが自分であるという表明であり、レパートリーでない音楽への意見表明は僕の価値基準からは不適格だからそれに自分を代表させようということはあり得ない。
お気づきかもしれないがイタリアオペラはボエーム1曲しかない。プッチーニは多少好きということでスカラ座、コヴェントガーデン、メットなどで代表作はぜんぶ聞いているがそれでも記憶には至っていない(つまり続けて3回聞いてない)。「ボエーム」と「その他全部」でボエームのほうが重い。ボエームの音源は17種類もっていて魔笛の18種に次ぐから全オペラの堂々第2位なのであって、どうしてそれがイタオペという鬼門のジャンルに鎮座しているのか不思議でならない。10余年ヨーロッパに住んでいてヴェルディを歌劇場できいたのは数回で、そんなに少ないのに回数すら覚えてないしアイーダは白馬が舞台に出たのしか覚えてない。レコード、CDを家で全曲通したことはない。
ちなみにイタリア国や文化が嫌いなのではない。イタメシもブルネッロ・ディ・モンタルチーノもローマ史も半端なく好きだし、カエサルは尊敬してるし、スキー場もゴルフ場もグッドだし、クルーズは2回したし観光で一番たくさん訪れた国だし、アマルフィの油絵を居間に掛けて毎日眺めている。しかもミラノではイタオペ大権現トスカニーニの墓参りまでしたのだ。なんで「オペラ好き親父」でないの?わからない。出てくればいただくが自分からは食べないというのは英語で indifferent (どっちでもいい)であるが、無関心なもののために4時間を空費することは耐えられないという理由から僕はヴェルディはマーラーと同じく嫌い(dislike)だといって差し支えない。
それでヴェルディ、マーラーの音楽に身勝手な優劣を論じているつもりはまったくない。記憶してもいない曲を論じる資格はないというのが僕の絶対の哲学である。単に、二人の音楽の効能、一般には予期される化学反応が僕にはいささかも発揮されないということだ。「効きますよ」という薬を何度飲んでも効かないだけのことで、だから何百万人が「効きます」と声高に言っても僕には関係ないのである。正確に繰り返せば、薬は indifferent な存在なのだが、飲む時間の空費が dislike なのだ。イタリアはいつでも行きたいが、行って音楽を聴かないでOKな欧州唯一の国だ。ベニスでもフィレンツェでもナポリでもボローニャでもジェノバでも聴いてないし、ミラノではスカラ座には3回入ったが2回はワーグナーとグルックであり、一番時間を費やしたのはモーツァルトの足跡巡りだった。
石井宏著「反音楽史」(新潮文庫)は僕が教育の過程でドイツ人学者たちの洗脳の餌食になっていた可能性を示唆してくれた。そうかもしれないしそれではイタリア音楽にとって不遇でアンフェアとも思うが、仮にそうだとしてその洗脳がなければ僕がヴェルディ好きになったかといえば全くそうは思わない。学者がいくら頑張ってもモーツァルトやベートーベンの音楽が優れていなければこういう世の中にはなっていないし、逆に、「反音楽史」でなるほどとなってもイタリア音楽の魅力がそのことで倍加するわけでもない。似たことで、近隣国が我が国に対してそれ同様の歴史評価逆転劇を狙っていろいろの仕掛けを考案されご苦労様なことだが、ドイツ音楽と同じことで、古より和をもって貴しとなしサムライの精神で研ぎ澄まされた我が国の精神文化の優位性が揺らぐはずもないのである。
クラシックと一口に言ってもバロック前、バロック、ロココ、古典、ロマン、後期ロマン、近代、現代に分科し、演奏形態で教会音楽、オペラ、声楽、協奏曲、管弦楽、室内楽、器楽、電子音楽に分科して両者がマトリックスを成す。その個々に硬派な演奏家とファンがおり、通常はあまりまたがらない。僕の記憶ストックは時代として古典前後が多いがそれはユニバースがそうなためで、ユニバース比でマトリックスのセグメントでは近代・管弦楽のシェアが高い。そこに位置する著名作曲家がレスピーギしかおらず、ロマン・オペラしかないイタリアは国ごと視野になく、後期ロマン/近代・オペラであるプッチーニだけが残ったということだと思われる。
近代・管弦楽の硬派なファンとしては僕は分科またぎができる方で、クラシックの中においても雑食派だと思う。ヒマにあかせて受験勉強の要領でレパートリーを一気に作ったから20代から進化してないし、逆にそこから脱落する曲もあってむしろ減ってるのではないだろうか。クラシックは飽きが来ない、だからクラシックになるんだと思っていたがそんな特別なものではない。ちゃんと飽きる。というより、原理原則でいうと、既述の「無関心なもののために*時間を空費することは耐えられない」ということであって、飽きる=無関心(indifferent)となり、しかも人生の残り時間が逓減するにつれ単位時間あたりの限界効用価値の期待値はバーが高くなり、ダブルの逓減効果で飽きる=嫌い(dislike)と進行していくのである。
しかし、何百回きいても飽きない曲があるのも事実だ。ビートルズのSgt. Pepper’sとAbbey Road、ベンチャーズやカーペンターズやユーミンの一部はそれに属する。そしてモーツァルトやベートーベンの大半の曲もそこに属する、そういう形で僕の「音楽ユニバース」はできているからそこにクラシックというレッテルは貼らないし、いわゆるクラシックファンの一員ではないし、いわゆるオーディオファイルの一員でもない。レッテルをどうしても貼るなら枕草子で清少納言が400回以上使っている「をかし」しかない。僕は「をかしき音楽」ファンであってクラシックにそうでない “名曲” はいくつもある。僕のユニバースがユニバーサル(普遍的)と思ったことは一度もないし、あれを貴族社会で決然と書いて残した清少納言もそんなことは気にもかけてなかったろう。枕草子は随筆(essay)とされるが、僕流にはあれこそが保守本流のステートメントだ。
(この稿のご参考に)
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ベンチャーズ 「アウト・オブ・リミッツ」
2018 FEB 4 13:13:37 pm by 東 賢太郎
2012年9月にブログを始めたが、5年で訪問数が100万になった。ところがさっき見たらそこから3か月で30万も増えている。ペースが変わってる。なんだかよくわからないがネットの趨勢は予想だにつかないもので、このまま10年やったら凄いことになりそうだ。
年をとればとるほど速くなるものなんてあるだろうか?ジジイになれば体の動きも頭の回転も、やることなすこと万事が遅くなるのだ。世の中で速くなるのは時の流れだけで、それがまた損した気がする。訪問数が加速度的に速くなるのはそれをオフセットしてくれるようで、なんだか意味もなく貴いと思う。
サンフランシスコのリッツ・カールトンで、夜中に目が覚めてしまったのでTVをつけると昔懐かしい「トワイライト・ゾーン」をやっていた。なぜか日本ではミステリー・ゾーンだったが、未知の時空に入り込む扉(ドラえもんのどこでもドアの元祖か?)が怪しげであった。日本での放映は1961-67年でちょうど僕の小学校時代に重なる。
ホテルで観たタイトルはKick the canで、老人ホームの爺ちゃんが子供の「缶けり」をやってみよう、若返れるよと言いだすが周りの爺い婆あは信じない。ところがやってみると子供になっちまう話だ。これは60年初めの放送だが監督はまだ10代のスピルバーグだった。
ちなみにこのイントロを我がザ・ベンチャーズが得意の編曲でやっていてVentures in space(ベンチャーズ宇宙に行く)というLPアルバムの最後にあった。時は昭和39年、米ソの宇宙開発競争が話題だった。東京オリンピックはその年だったのか。東名高速ができ新幹線が開通し、科学が人類のフロンティアを広げつつある実感が我が国でも細々とあったが僕の関心は空の彼方にあった。それを掻き立ててくれたのがベンチャーズであり、フロンティア精神のアメリカだった。やがて大学時代に2度、留学で3度目のアメリカが待っていた。そして還暦を過ぎてまた。今日はVentures in space(ベンチャーズ宇宙に行く)を小学生にかえってつづってみたい。
このアルバムはマニアしか買わなかったろうが僕は発売同時に親父にせがんで擦り切れるほど聴いた。精一杯に薄気味悪いサウンドを作ってるのが甲斐甲斐しい。これのコピーとも思しき曲が次のアウト・オブ・リミッツ(境界の外)だ。これはそれなりに名曲と思う。境界はぶち破るものなのか?どこでもドアがどこかにあるのか?わからなかったが、家は貧しかった。それでも微塵も気位を枯らさなかったのは母のおかげだが、ぶち破る道を示してくれたのは父だった。
ドラムなしでクラシックな転調を交えて不気味さを描くfear(恐怖)はベンチャーズの新路線を思わせた。僕は魅入られたがダイヤモンドヘッドのテケテケにしびれてた若者には受けなかったんだろうなあ。
Exploration in terror(恐怖の探検)という題名がそそる。想像がたくましくなる。宇宙探査はきっと飛行士も怖いんだろう。おいおいなんじゃこのオドロオドロしいシンバルの音は!?き、奇っ怪な、ものどもであえ!と身構えると、お気楽にゴキゲンなベンチャーズサウンドが。あれ~、喜劇的拍子抜け感が楽しめる佳曲だがベースの入りの音程が(意図的か?)はずれて異常感があるのと終わってみるとシンバルがまだ鳴っていたのが悲しい。
The fourth dimension(四次元)。これまたそそる。そんなものを器楽でやろうと思うこと自体が理系的で、文系的なビートルズには考えられない。小学生なりに大いに期待したのだが、しかし4拍子はダサいわな。3,4種類のコードじゃ無理だわな。志はともかく、とても文系的であった。
He Never Came Back(彼は帰ってこなかった)。そうか宇宙探査中の事故死か・・・、かわいそうに・・・。ところがなんとクソつまらないドラムスが入り、断末魔の悲鳴が響いて一時の期待をかきたてるものの、何も起こらぬままにクソつまらないロックンロールで終わる。彼はどうなったんだ?謎の曲だ。
The Bat(こうもり)。夕方になると多摩川にこうもりはたくさんいた。確かに滅茶苦茶に飛んでこっちも落ち着かない。これを覚えた僕はJ・シュトラウスのそれに入れなくて困った。ベンチャーズは意図的に音程をずらしてバルトークの四分音みたいな効果を出している。船酔い感が衝撃だったが「四次元」のほうでこれやればいいのにね。
War of the Satellites(衛星の戦争)。衛星に宇宙人でもいたのだろうか。わけわからないが初めのピコピコはエコーが効いてなかなかカッコいい。しかしこれまたあとがいけない。漫画だ。漫画少年だったが僕は月光仮面とかウルトラマンとか、ああいうのはみっともないと思ってた。月光仮面のおじさんはって、お兄さんじゃないのかよ、なんでおじさんなわけ、なにもおでこに三日月はらなくてもいいのに、スクーターってのもだせえな。そんなのを思い出してしまう戯画ロックだ。
Penetration(貫通)。意味不明だがアルバムタイトルのLimits(境界)を突き抜けていくイメージなんだろう。正調のベンチャーズ・アレグロ・サウンドである。最後の方に重なるスチールギター?の音程が低い。これは当時から気になっていたが。
Love Goddess of Venus(金星の愛の女神)。ヴィーナスというのは女神ウェヌスの英語読みで、いちいち言わなくても愛の女神である。やさしい曲想は殺伐、荒涼としたアルバムの一服の清涼剤だが無学のお兄ちゃんにはこの唐突感わからねえだろうな、クレーム来てもいかんなと気を回したごときタイトルである。するとその of は皆さん中学で習った「同格のof」ということになるが僕は所有格と思っていて、金星にはいろんな神がいるんだ、男も女も、愛じゃないのもという理解ができてしまったから迷惑なこった。よく考えると一神教と矛盾するから誤りとわかるのだが、しかし、Love GoddessというからにはGodもLoveじゃないのもいるしそれは of のせいでないこともわかる。そこで調べるとウェヌスは多神であったローマの神だったという決着ですっきりするのである。ちなみにカエサルはウェヌスの子孫を語っているから神は生身の存在だったわけで我が国の天皇の神性の由来に似ている。聖徳太子も馬小屋で生まれたりする。古事記、日本書紀を書いた者が何でもありの多神教ローマを厳格な一神教ユダヤ教でなく慈しみのキリスト教で治めた事実を知る者であった可能性を僕は見る。
ベンチャーズの女神はウェヌスというより加山雄三であるが。
こういう音楽が東京オリンピックで目が世界に開けた日本で、そして和泉多摩川の団地にあった狭い我が家で毎日のように鳴っていた。アウト・オブ・リミッツ(境界の外)は僕のめざすところ、突き動かすエネルギーともなった。結果として大幅に外に出た気もするがまだまだ突破すべき境界がある。そんなのじゃだめよと母の声も聞こえる。サンフランシスコのひょんなことでこのアルバムを何十年ぶりに聞いてしまったが、これが魔法のKick the canだとうれしいなあ。
2018年2月4日
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ベンチャーズ 「アパッチ」
2015 MAY 12 0:00:49 am by 東 賢太郎
クラシック・テーストにつながったと思うのがアパッチです。周りでエレキを弾いてた連中はノーキーのギタープレイに夢中でそのままロックの道を行ったのですが、僕はそれにはあまり興味なくこのアパッチの音響にぞっこんでした。
冒頭ドラムスの音が響き渡る空間の残響はクラシック的な音場であり、まずこれが心地よかった。そこにアパッチ(インディアン)の合図の声が(なんという奏法か知りませんが)弦を爪で引っ掻いてヒュヒュヒュと鳴ります。これがまたホールの空間にふわーと広がる。
イ短調のメロディーが高い音で入りますが、この緊張感がまたたまらないです。アパッチは白人からすれば敵ですからね、音場を目に見えないハイテンションがピンと張りめぐらされてます。この最盛期のベンチャーズにはみなこういうビリッとしたオーラがみなぎってました。
ドラムスは同じリズムを淡々と刻みますが、それにベースが絶妙にコラボしてるのが快感です。サビの入り口のFのコードに移行する直前に、その2楽器だけになってベースが d#、e、f でシンクロします。ここがまた僕のシビレ所で、これを聴くためにEP盤が擦り切れました。このタムタムのシャキッとしたリズムにクリアなピッキングの弦が重なる効果はベンチャーズの専売特許で、本当に格好いいですね。
サビの第1コーラスが終わった一瞬の沈黙に、ノーキーがD弦にかすかに触れてしまう雑音が入っているのですがお気づきでしょうか。これ、学校の行きかえりに歩きながら頭でリプレーすると鳴るほど頭にこびりついてました。
悪がきの友達連中はだいたい「ブルドッグ」、「クルエルシー」、「レッツ・ゴー」といったロックっぽいのを好んでましたがアパッチ派はいませんでした。この辺から僕は彼らと分岐して、クラシック方面に徐々に向かったように思います。
ちなみにアパッチはイギリスのバンドである「シャドウズ(Shadows)」のオリジナルでありました。それを知って聴きたくてたまらずシャドウズ盤も買ってしまいましたから、やっぱり同曲異演を愛でるクラシックに行く運命にあったかもしれません。
これです。和音を変えてヒュヒュヒュを入れたぐらいで、ベンチャーズにしてはオリジナルに近いです。これを後に聴くともの足りないですが、当時(1960年)としては新しいセンスだったそうでイギリスのロックの原型のひとつかもしれません。
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ベンチャーズ 「10番街の殺人」
2015 MAY 11 2:02:53 am by 東 賢太郎
キャラヴァンが脳天直撃のショックであったのはやはりメル・テイラーのドラムスの威力でした。もうひとつ小4ぐらいだった僕を打ちのめしたのは「10番街の殺人」です。
いきなりDim(減七)の恐ろしげな和音で始まると、2つ目の音のバックで鳴るボブ・ボーグルのベースの下方グリッサンド!まずこれに直撃パンチを食らいました。そしてマフィアの非情なダンディズムみたいにパンチのきいたドラムソロ。このイントロの音響に漂う黒い邪気!伊賀の影丸にはまっていた僕にはもうたまらないものでした。
邪気?そうか、殺人だもんな(当時はなんだか全然わかってない)と思うと、その最後(7秒)に再度右チャンネルに聞こえるベース!電気に痺れたみたいに格好いい!この4つの音に血がたぎった(いや今もたぎる)のは何故なのか?不明です。これが聴きたくてEP盤を擦り切れるほど聴いたのだから麻薬的効果としか言いようもありません。
そしていよいよ14秒から入るノーキーのリードギターですが、これがなんとも清澄で穢れのない「きれいな波形の音」で意外感が素晴らしい。ディスト―ションのかかったバスとの対比、バックのリズムの緻密さはキャラヴァンと同質です。D⇒F#のコード進行も新鮮。そこに多重録音で入るテケテケテケ!これがまた予想外なピタピタ系の音!この部分は「ダイヤモンドヘッド」の音響世界なんです。
最初の減七コードからここまでの妖気をはらんだ白熱はすべての音楽のうちで最も僕を興奮させるもので、今でもそうであります。
そこから第2主題部分になりますが、残念ながら緊張感が落ちてしまう。ハモンド・オルガンが入りますがこの音はあまり好きになれません。半音ずつ2度上がって(こういうのは転調とはいえませんね)フェードアウト。後半がこういう安易なポップス仕上げになってしまっているのですが、それを百歩譲っても前半の45秒は衝撃的に素晴らしい。
ちなみに30年後の同じ人たちのこれと比べてみて下さい(ドラマーはかわっている)。
これだったら僕はベンチャーズを2度と聴くことはなかったでしょう。65年の来日での演奏もテンポが速く、もう別な曲です。
オリジナル・バージョンは一回だけの奇跡のようなものだったんでしょうか。9歳の時にそれに出会えたのは僕の音楽人生において事件でしたし、それなしで今はなかったと思っています。
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ベンチャーズ 「キャラヴァン」は凄い
2015 MAY 9 17:17:23 pm by 東 賢太郎
和泉多摩川にいた昭和30年代は小田急のロマンスカーはこの型で、オルゴールをならして(!)走っていた時代です。ただこれはあんまり好きでなくもっぱら通勤電車マニアで、ブレーキの摩擦で多摩川のガード下に落ちる鉄片を収集してました。
こんな型の電車がまだ走っていました(Wikipediaより)。幼稚園のころ真ん中についている終点駅表示ボックスを自作し、割箸でくるくる巻き取ると行き先が変わるようにして自転車の前につけ、レール音の口真似をしながら友達と「電車ごっこ」してました。
出発前に大声でアナウンスをするわけですが、「向ヶ丘遊園を出ますと、相模大野、本厚木、伊勢原、鶴巻温泉、大秦野、渋沢、新松田、終点・小田原の順に停車いたします」が小田原行のアナウンスで、箱根湯本行だと風祭、入生田が入ります。まだスラスラいえます。
そこから数年で、小学校へ入って、次に関心が移ったもの、あそこに行った以上どうしてもベンチャーズを書いておきたくなります。何から聴いたのか、たぶんウォーク・ドント・ランだったでしょうが、衝撃的だったのはこれでした。一度書きましたが今回は音を聞いて思い出していただいて、もう少し詳しく。
これはLPからのピックアップですが名盤で、4曲ともハマったのですがキャラヴァンのインパクトは強烈でした。ドラムのスティックだけ買ってもらい、音色が変わるように厚さのちがう本を並べてメル・テイラーのリズムよろしく叩きまくりました。アパッチは今思うとクラシックのテーストを植えつけてくれた曲かもしれません。
キャラヴァンです。これは上のEP盤をさらにドーナツ盤にカットしたものですね。
こういうものにややこしい事を書いて申しわけないのですが本ブログの悪癖ということでご辛抱ください。
まずノーキー・エドワーズのリード。早弾きもすごいのですがトレモロアームも控えめで実に音楽的。クラシック的にいうと「歌っている弦」であります。冒頭、シンバルの一撃から襲いかかるメルのドラムスのタムタムの2種の音色のカッコよさ!もう脳天直撃モノであります。バチさばきのワザに当時の日本人は驚嘆したのですが実はそれだけじゃない。ソロの途中で乱れ打ちみたいになってリズムがわからなくなるのですが、ちゃーんと4拍子を守っている均整も美しい!達人の芸です。
このタムタム、ひとつひとつの打撃音自体がばりばりにテンションが高いじゃないですか。こういうドラムヘッドの張りかたを選んだことだけでもメル・テイラーは凄い。これはブーレーズが春の祭典でバスドラムの皮を「ゆるめ」に張っているのに匹敵する快挙で、理屈じゃなく、どうしてそんなことができちゃうの?と驚くしかないセンスの良さです。これの刷り込みがあったから春の祭典にはまったことを確信します
さらにこの曲のアンサンブルとしての凄い所は2つあります。ノーキーのリードとボブのベースのからみがその1、そしてさらに重要なのが右チャンネルのメルのドラムスと左チャンネルのドンのサイドギターの後打ちリズムのキザミが絶妙にコラボしていることがその2です。この2ユニットのアンサンブルが複合してゴージャスなリズムの饗宴となっています。これもクラシックならポリリズムを予見させるハイクオリティです。
特に後者(その2)は何度聴いても音楽的に最高級!素晴らしいの一言!これがあるから精緻かつ灼熱のカルテットとなっているのです。youtubeで多くのアマチュアバンドさんがコピーされていていくつかききましたが皆さんいいノリですね、でもサイドが伴奏になってしまっているのが多いです。むしろ主役です。これを意識すればもっと「らしく」なること請け合いですよ。
このスタジオ録音があまりに完成度が高く、ベンチャーズはライブのアンコールでいつもこの曲をやるのですが2度とこのハイレベルな演奏はできていません。時と共にスティックでベースの弦をたたくなどなどショー化していく傾向があり、それに比例して音楽性が低下していく様は彼らの米国での人気凋落を物語って悲しいものがありました。それはメルの死で決定的となりましたが。
この録音、テンポは後年のライブに比べると一番遅いのですが非常にテンションと密度が高く、遅いという感じが全くしません。そういう音楽はジャンルを問わず、例外なく、レベルが高いです。各楽器の発するオーラとリズムのキレは一点非の打ちどころもなく、僕の耳はブーレーズのストラヴィンスキーを聴く状態になります。
2度目のサビの後ノーキーがほんの微小に指が回らず音がぶれるのまで覚えてしまっているので、これと違うバージョンは受け入れ難くなってしまっています。ポップスはクラシックの世界でいうスコアがありませんが、こういう決定的な録音に記録した音がそれの役目になってしまいます。
ビートルズがライブしなく(できなく?)なっていった一因はそこにあるかもしれません。そういう録音というものは、アビイ・ロードの稿でも書きましたが、それこそが字義どおりの意味におけるクラシック音楽であると思います。
ところでキャラヴァンの原曲は「A列車で行こう」のデューク・エリントンの作曲でジャズのスタンダードナンバーであるなんてことはちっとも知らず、これがそうだそうです。
この真っ黒い音響世界、けだるく怪しいメロディーラインと不可解な和声、それにからむトロンボーンとクラリネットとピアノという突飛な組み合わせ。米国に来た黒人がまず西洋音楽を聴き、それを彼らの感性フィルターを通したところにジャズが生まれたわけですが、う~ん奥深いですね。
そして今度は西洋人がそれをアレンジする。この世界、僕はまったく語る資格ありませんが、チェロキー族(インディアン)の血をひくノーキー・エドワーズのギターヒーローであった(Wikipedia)チェット・アトキンスとレス・ポールの演奏があります。
サビのコード進行、リズムのアクセントなど、ベンチャーズ版の原点はこれのように聞こえますが、ドラムスの野蛮と洗練、クリスピーなサイドギターのピッキングとリズムのエッジ、ノーキーの軽々とした歌い回し、というトッピングはやはり強烈な個性!やっぱり僕にとってはベンチャーズが永遠のヒーローです。
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再録「クラシックとベンチャーズ」
2013 MAR 30 15:15:04 pm by 東 賢太郎
中島さんの3月29日付のブログ「今週のクラシック音楽ベスト3」を拝見し、いたく感心いたしました。ガキだった自分の感想をオトナの演奏家である中島さんのと比べるのも失礼なのですが、とても思い当たるところがあるのでご感想にコメントさせていただくのをお許しください。
「ブラームスの第1、4番は、刺激が少なくて退屈でした」
僕は初めて聴いたブラームス(ワルターの1番のLP)が刺激がなくて退屈で、何の記憶もありません。ということで数年は放り出して聴いていません。
「モーツァルト第36番リンツはよくわからない」
僕はモーツァルトは全部わかりませんでした。刺激の無さはブラームス以上で、女の子が嫁入り用に練習するピアノの曲を作った人程度に思っていました。
「マーラーは、第6、7,9番全部、曲が長く80分以上で根気がついてゆきませんでした」
マーラーは名前も知らず、冒険心で買った3番のLPは1枚目の1~2面で挫折し、最後まで聴いたことはありませんでした。
「ムソルグスキー展覧会の絵も、ミュージカル的印象でした」
僕もこの手のカラフルな曲にはわりと違和感なく親しみました。
「シューベルトの未完成は、第2楽章で終わっている理由を、東さんのブログでみるとあまり劇的でないので残念ですが、弦のいい音が耳に残っています」
僕は未完成が苦手で2楽章ももたずに寝てました。なぜ聴くことになったかというと、不幸にも当時のLPは「運命・未完成」の組み合わせが定番だったからで、僕にはどうもポップスのEP盤のイメージから「B面の曲」という先入観もあったかも知れません。この曲が完成してるかどうかストーリーを知る以前に、こっちの耳が未完成でした。
「バッハの平均律クラヴィーア曲集をジャズ・ピアニストのキース・ジャレットが弾いたのを聴きましたが、まじめな演奏で退屈でした」
僕はバッハはお葬式の音楽家ぐらいに思っていました。「平均律」はピアノの旧約聖書だときき勇んでチャレンジしましたが3~4曲目であえなく座礁。LPを最後までガマンして聴いたのは数年後でしたが、ほぼ苦行に近く、レコードはそこからまた数年はほこりをかぶることになりました。
「3分間音楽愛好家の私にとっては、最初の10秒はその曲の評価を決めるポイントです」
いや、よくわかります。僕は「コード進行」と「曲の終わりかた」でした。しかしこういうのは誰も公言しませんが普通の入り方だと思います。いきなりベートーベンに感動したなどというのはどうも、少なくとも僕はあまり信じられません。中には初めてなにかクラシックを聴いて「感動で涙が止まらなかった」という人もいっらしゃるでしょう。最後まで聴かれただけでも尊敬しますが、例えばキリスト教徒のかたがバッハのマタイ受難曲に接すればそういうことは充分にあると思います。しかし宗教でもストーリーでもなく音響から入る非文学的な僕のような輩がいきなり「未完成」で涙を流すのは今日からキリスト教に改宗するぐらい至難の業です。ストーリーに音楽がついているオペラでさえ「こんな太ったミミがどうして死ぬんだろう?」などと現実に帰ってしまい、結局は音しか聴いていないことが多いぐらいですから僕は基本的にオペラも苦手ということなのでしょう。
中島さん、僕も3分間音楽愛好家だったのです。
その証拠に昨年の9月16日、SMC開始早々に書いた僕の「クラシックとベンチャーズ」というブログを再録いたします(すこし手を加えています)。
・・・・
クラシックというと堅い、退屈、長い、近寄りがたいという人が多く、ポジティブなイメージは癒し、知的、高尚だそうです。日本では音楽市場の10%ぐらいあるそうですが交響曲、オペラのような長い曲を家で真剣に聴くような愛好家は総人口の1パーセントという説もあります。いずれにしても、相当マイナーな存在であることは間違いありません。もったいないことです。
僕は小学校時代にザ・ベンチャーズの強烈な洗礼を受けました。いわゆるテケテケテケです。寝ても覚めてもベンチャーズ。歩きながらもベンチャーズ。ノーキー・エドワーズのマネをしてギターを弾き、本を並べてバチでたたいてメル・テーラーの気持ちになっていました。キャラヴァンという曲があります。メルのドラムスとドン・ウイルソンのサイドギターの刻みが絶妙にシンクロ。それに乗ってドライブするめちゃくちゃカッコいいノーキーのリードギター。難しいリズムのドラムソロ。レコードがだめになるまで聴きました。
そこに立ち現われたのがこの人たちです。ジョンとポールのハモリとノリ。何を言ってるかわからないがなにやらカッコいい英語。女の子の失神。ベンチャーズにない刺激的なコード進行。ポールのものすごいベース。いやーこれはすごい。完全にハマりかけました。そのまま行けば僕はたぶんロックバンド路線に進んでいたと思います。音楽の時間にあの曲を聞かなければ・・・・。
千代田区立一ツ橋中学校。われわれ悪ガキがポール・モーリヤとあだ名していた音楽教師、森谷(もりや)先生が「今日は鑑賞です」と言ってレコードをかけてくれました。それはモソモソとはじまる退屈きわまりない曲でした。そもそもクラシックは聴いてる奴らのナンパで気取った感じが大嫌いな野球少年の僕でした。まあ昼寝にいいか。実は小学校時代に同じシチュエーションで教室の窓から脱走し、母が担任に呼び出しを食らった前科のある僕は、それを思いだしました。
すると、ちょっとキレイでグッとくるメロディーが出てくるではありませんか。へー、割といいな。仕方ねえ、ちょっとだけ聴いてやるか。まさにその時です。そのメロディーが突然違うコードにぶっ飛んだのは。脳天に衝撃が走りました。ベンチャーズにもビートルズにもない新体験。これは何なんだ?
その曲はボロディンの「中央アジアの草原にて」です。その個所は105小節目、ハ長調のメロディー(注)が3度あがって変ホ長調に転調するところです。演奏は「ジャン・フルネ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団」とノートにしっかり書き込みました。よほどの衝撃だったのだと思います(想像ですが、この写真のレコードだったのかなあ・・・)。
この経験が僕をクラシックに引きずりこみました。この曲が欲しいと言うと、父はこれが入った名曲集のLPを買ってくれ、そこに一緒に入っていたワーグナー、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス、グノーも気に入ってしまったからです。
ただ、今でも僕はビートルズ信者です。カーペンターズ、ユーミン、山下達郎などもコード進行が好きで、今もときどき聴いています。コード進行がいいものというのがおおまかな僕の基準ですが、中でも荒井由美だったころのユーミンはとても好きでした。
さて、ベンチャーズです。京都の雨なんていうしょうもないものをやりだした頃から一気に堕落しました。それでも初期のあのダイヤモンドヘッド、パイプライン、十番街の殺人(テケテケテケの音色が全部違う!)、ウォーク・ドント・ラン、ブルドッグ、アパッチ、テルスター、夢のマリナー号、クルエル・シー、パーフィディアなどなど永遠に色あせることはありません。カッコいい。美しい。
しかし、それにもまして、あのキャラヴァン(左)なんです、僕には。冒頭のシンバルの一撃で金縛りです。腹にズンと響く中音と低音のタム。土俗的なリズム。究極のアレグロ・コン・ブリオ。完璧に4つの楽器がバランスされた録音。もう芸術としか呼びようがありません。このクオリティの高さはいったい何だったんでしょうか?
・・・・
右の写真はボロディンの「中央アジアの草原にて」のピアノ編曲版の表紙です。絵をよく見ると、この曲も「キャラヴァン」だったんですね。キャラヴァンつながりで僕はベンチャーズからクラシックへ旅したわけで、不思議な気分がいたします。