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洋モノ美しいもの好き

2017 OCT 26 23:23:04 pm by 東 賢太郎

いつだったか、この本を買ってきていたく感動して一気に読んだ記憶がある。そうしたら昨夜たまたま寝れなくて見ていたTV番組に本の主人公のモデル、サンモトヤマ創業者・茂登山長市郎氏が登場していた。氏は終戦後の銀座に闇屋を構える。初めは進駐軍のつてで米国品を輸入したが、出会った写真家・名取洋之助から「美しいものが好きならヨーロッパに行け」「まず美術館と教会を観ろ。一流ホテルに泊まれ」と言われる。単身パリ、フィレンツェに出かけ、グッチ、エルメスなどの日本独占販売権を獲得する。ひたすら美しいものを追い求め日本に欧米ブランド文化を根付かせた男の熱い一代記だ。

感動したのは魅せられたグッチに毎朝毎朝10時の開店と同時に通いつめ、とうとう会えたオーナーに「日本を俺にまかせてくれ」と裸一貫でぶつかったことだ。その情熱が通じて、ちょとした運も助けてくれて、その場で「やってみろ」と認められていく手に汗握るくだりは野村證券に入社してすぐ、かけだしだった2年半の忘れられない大阪梅田支店でのあれこれと重なってしまい感情移入なしにはいられない。こんな人がいたのかと心にずしんと響く音を聞いてしまったのだ。

本で強く印象にあった茂登山氏は、想像通りの魅力的な人だった。着ているシャツの色。「だってウチはサン、太陽でしょ、だから赤と黄色が好きなんです」なんて、何の理屈もないが、うんなるほどと腑に落とされてしまう。こういう人は学友にはいない、そういえば証券会社のお客様にいたなあと思った。僕はこの商売を始めるまでは営業マンなど程遠いかなりの人見知りで、初めての人と気軽に友達になったり長く会話することさえない性格であり、証券の仕事で出会った人間力あふれる先輩やお客様にそれを直してもらったようなところがある。

ただ例外があって、何であれ、どんなジャンルであれ、語ることに情熱と自信があってリスペクトできる人は昔からその限りでなかった。氏素性でも勲章でもなく人としてのヴァリュー、生き筋の良さとでもいうべきもので、氏はまさしくそれをお持ちの人であって、好きなことをぜったいの自信をもってやってるから言葉が重たくて歯切れがいいのだ。ああいう人はどこにもいるようなもんじゃない。頭脳明晰、理路整然の言葉を吐ける人はいくらもいるが、大体において男としてつまんないヤツばかりだ。

やっぱり洋モノが好きな僕は、氏と同じ時代に生まれてたら闇屋をやったかもしれないと見ていて思った。外人相手の仕入れの交渉なんてさぞエキサイティングだろうとわくわくするのは商人の血が流れてるからか。そして何より、美しいものが好き。氏の人生を動かしたそれが、譲れないほど僕にもある。そうするとどうしたってヨーロッパ、洋モノになってしまうのだ、パリやロンドンやウィーンやローマの記憶に今だってどんなに魅せられていることか。

先日娘の誕生日に「お父さんの人生はね、お前たちが生まれたヨーロッパ時代までが上昇、そこからずっと下降だよな」と話した。そのまま終わるのは嫌だとまだやってるが、でもあした死んじまってもけっこう満足だぞ。そのぐらいね、サラリーマンではないぐらいいろいろすごい経験させてもらって、ここ(心)にはいい思い出がごまんと詰まってるんでね、とも言った。まさしく本音だ。これは野村という代え難いほどいい会社に入れてもらって、自分から希望したわけでないがきっと阿吽の呼吸で好きが伝わって12年も欧州赴任した。こんなラッキーな人生はまたとあろうか申し訳ないとまで思うが、それがまた上掲書の氏のことに重なってしまうのだ。

思えば僕にとってクラシック音楽も洋モノ好きの一部分だった。いまだってそうだ。レコードなどまだまだ戦後の闇屋、バッタ屋っぽかった秋葉原で電器屋が売ってたのであって、髙島屋なんてお品のある所じゃない。1枚2千円で欧州をのぞけるウィンドウだったのだが、のぞいた景色は大変上等だ。そんなものを闇屋風情で自分の眼で選んで買うミスマッチも味があった。本当は絵の方が好きかもしれないが色覚のせいでひけめもあって、でも子供の時、楽器や歌でほめられたことは一度もないが絵はおおいにそれがあって、こっちのほうがもっと適性があったかもしれない。だからこそ、ビジュアルな美を求める茂登山氏の世界には他人事でない感じがあるのか。

番組でもうひとつ、六本木のイタリアンレストラン、キャンティのオーナー夫人・川添梶子も面白かった。旦那の川添氏は後藤象二郎のお孫さんだ。客は著名人、といってもアート、芸能系で、まあパリでいうサロンみたいなもんだろう。梶子は昭和3年生まれでお袋と同じ。やっぱり洋モノ美しいもの好きで、やりたいことやって早くに亡くなったが見事な人生とお見受けした。お袋が僕を成城学園初等科に入れたのは自分がこういう世界が大好きだったからだが、見ていてよくわかった。そういうのは縁遠かったが、出てくるキャンティの客人はみんな人間的魅力があって、なんかほわっとしたこういうのもいいなと思った。

先日、T社長ご逝去の知らせで某弁護士から「我々にも、残された人生の時間はそんなに長くないことを肝に銘じて、仕事や遊びに励みたいと思います」と彼らしいメールがあった。そうだ、そういうトシなんだねと思わざるを得ない。そういうこともあって番組見ながら「ところで今まで俺って何やってたんだろう」という自問の気持ちも出てきたりして、「ここまでおかたい金融屋の父親路線できているけどゆるいお袋の方もいいんじゃないかな」と横恋慕しそうになってくる。お袋は喜ぶんだろうなそれを。なにせ美しいもの好きばかりはそっちの遺伝だ、どうしようもない。

 

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広島カープ奇襲に敗れたり

2017 OCT 25 17:17:45 pm by 東 賢太郎

史上初の10ゲーム以上の差からの「ウルトラ下克上」だったというが、公式戦で勝ち越したほうがやっぱり勝ったということでもあった。まあ、プレーについてああだこうだ言うのもむなしい。どうしてこんな強いDeNAがペナントレースを制しなかったんだろうという疑問だけを残してセリーグの覇者カープは消え去った。

公式戦でのカープは僕も黄金期を予感したほど圧倒的に強かった。ポストシーズンもそれをやるだけという緒方監督の「いつものどおりの野球」は批判できない。それを自ら崩すリスクを取る理由はなかったと思うからだ。1位チームの宿命である対戦相手未定のままの10日のブランク。これが命運を握ったように感じる。その間、まじめなカープが準備を怠ったはずはない。ソフトバンクだって同じシチュエーションで最初の2つを落として冷や汗をかいた。カープのほうは本領が戻る前にあっけなく倒されてしまったという印象が強い。

 

戦い前のカープ関係者の心境というと察するにこんなものだったろう。

投手陣は休養充分、相手は疲れてる、真っ赤に染まるズムスタの大歓声、相手はずっとアウエーだ、台風で雨が降れば日程有利だ、社会人との練習試合で準備はしてる、去年も勝ってる。俺たちはリーグ王者だ、有利、有利、有利・・・。

えっDeNAか、巨人か阪神ならよかったのに、あそこには負け越してるし、あの歴史的屈辱の3試合連続サヨナラ負けがあったよな、鈴木誠也、安部、エルドレッドがいない、石井、河田コーチは辞める、嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・。

誰にだってあるプラス思考とマイナス思考の葛藤だ。ただ、考える時間がけっこう長かったのと、マイナスの方にちょっとしたトラウマがあったのがやや特別だったかもしれない。みんなあれは忘れようぜと「なかったこと」にはなっていたろうが。

 

それはこれだ。8月22日のハマスタ、先発はカープがエース野村、DeNAは実績のない飯塚。終始楽勝ムードの中、3点差で勝っていた9回裏に筒香、ロペス、宮崎の3連発で信じ難い逆転サヨナラを喫した試合である。屈辱の3連敗はここから始まった。そのシーンをご覧いただきたい。

昨日の勝利シーンより盛り上がってるではないか。この試合、実はその3ホーマーには伏線となる号砲があった。8回裏、好投していた野村が代打・嶺井に打たれた本塁打である。夏場の連戦で疲れている救援陣を休ませたいから完投してあげよう。点差は4もある。嶺井はホームランはないだろう(今年はそれを入れて3本)。やさしい野村の気がゆるんだかもしれない一球だった。

しかしそれでも差はまだ3点あった。9回表そのまま捕手についた嶺井は、敗戦処理で出てきた投手・尾仲を強気にリードして菊池・丸・鈴木誠也を三振・三ゴロ・三振に切り捨てたのである。これでやや空気が変わった。その裏、2番柴田がヒット、そしてとうとう出た筒香のツーラン。空気は完全に変わった。野村にかわって急遽登板となった今村が2連発を食らって、あっという間にカープは撃沈されたのである。ちなみに尾仲はシーズンこの1勝のみだった。

ひとつだけ緒方に苦情をいうなら、このCSファイナル、2戦目は野村でなくジョンソンでいくべきだった。8月22日を覚えているならだ。9点取られて万事休した昨日の屈辱のゲーム、そのローテーションなら先発は野村ではなくジョンソンだったのである。第3戦でカープ投手陣で唯一好投したジョンソン。たら、ればを言っても仕方ないが彼をたてて第2戦を取ってればそこでもう王手だった。先行きは変わっていただろう。

8月22日の捕手・曾澤は野村をリードした昨日の2回、宮崎を内角シュートで攻めた。黒田流だこれはいい。しかし野村が頭を振って全力で投げたそのシュートを会心の一撃で左翼席に運ばれた。初回に2点先取してはいたものの、この1点でもう嫌な予感がしたカープファンは多かったのではないか。8月22日を覚えているならば・・・。そのシュートはさらに甘くなって今度は桑原に左翼ポールに当てられた。その瞬間に、僕のなかではそれはほぼ確信になってしまった。ラミレスなら野村を3回も引っ張らず、宮崎の一発を見てすぐ替えていただろう。

昨年10月のCSファイナルS。広島相手に1勝4敗で散ったマツダスタジアムのロッカーで、DeNAはほとんどの選手が涙を流していたそうだ。今回そのリベンジにかけて一丸になっていたのはあまりに当然で、シーズン勝ち越しや3連続だってそれがモチベーションの根底にあったろうし、あれをもういっちょうかましてやろうと燃えていただろう。かたや筒香に打ちのめされKOされてベンチでへらへら笑ってた大瀬良、こいつはなんだったんだろう。開幕前にラミレス監督は「優勝ラインは80勝。だから80勝つ野球をする」と言った。米国流の合理主義者で知将なのだ。だから彼にきいてみたい。「どうして戸柱でなく嶺井を使ったの、8月22日だよね?」と。そう、もうひとつかな、「孫子は読んでるよね?」なんて。

総力戦?ちがう。弱い方が総力つくすのは当たり前。ラミレスがしたのは奇襲、撹乱、瞬殺だ。孫子の兵法そのもの、桶狭間の信長もしたことだ。奇襲とは敵を混乱させて反撃の猶予を与えない攻撃方法である。自分から仕掛けないと撹乱、瞬殺できないから奇襲は受け身ではできない。野球でいうと打撃は受け身であり奇襲は代打起用や盗塁の程度だからどんなにやっても想定の範囲内にとどまる。本当にええっと相手を驚かす奇襲は投手起用でしかできないのである。

先発石田を1イニングで替える、優位な試合なのに前半からめまぐるしく7人も投手をつぎこむ。しかもエース級の濱口が4回に、今永が7回に出てくればもう何をしてくるかわからない、これぞ奇襲でなくてなんだ。そこでカープ打者は嫌なのが来たなと心が乱れて打ち損じる、これぞ攪乱でなくてなんだ。そして最後にパットン、山崎という絶対の2人による瞬殺が待っているのである。

この監督の兵法を現場でまかされたのが嶺井捕手だった。僕はこのCSは嶺井にやられたと思っている。阪神戦は嶺井、戸柱、嶺井の順だった。広島戦は戸柱、高城、嶺井、嶺井、嶺井だ。ラミレスが8月22日を意識したかどうかはともかくジョンソン先発の第3戦で完封した嶺井に賭けようと腹をくくったようで、どの時点だったかは知らないが「チームを日本シリーズに連れて行くのはお前だ」と嶺井に告げたときく。正捕手の戸柱でない人にである。捕手が変われば配球が変わる。これも投手起用の奇襲効果を増幅した。カープ打者は左右高低を派手に揺さぶられて徹底的に嶺井に攪乱された。

つまり、ラミレスは意図的に「いつもどおりでない野球」をしたのであり、緒方は「いつもどおり」にこだわった。公式戦で勝てたのは長丁場の戦いでは相手もいつも「いつもどおり」にやるしかなかったからだ。カープサイドの視点からすれば今回の負けはバッテリーの負けである。投手ウィーランドを3回も出塁させてあげる優しいお嬢さん配球。いやらしさ皆無。これじゃ抑えられんぞと見て取った打線が焦る。そこに相手の投手起用と嶺井の奇襲がドンピシャでハマって新井と田中以外おかしくなった。「いつもどおり」は「いつも」を忘れた人にはできない。ベンチとちぐはぐになり、さらに焦ってさらにおかしくなった。

そのいい例が5回の松山のファウルフライ失策だ。失策がついたがひとりボーンヘッドである。フェンスまで少しあるぜんぜん何でもない高いフライをさわれもせず、球はグラウンドでむなしくはね返った。直前、筒香にバックスクリーンにぶち込まれたツーランのショックがありありとしていた。アナウンサーまでなぜか失策に無言という野球放送でも稀に見る悪い空気がただよってしまった。それで打てと言われても誰だって無理だ。終戦後ベンチでどす黒い顔でうなだれて動けなくなっていた松山が気の毒でならない。松山気にすんな、僕はシーズン優勝のMVPは君だと思ってるよ。

すべては優勝、短期決戦の豊富な経験があるラミレス、ない緒方の差だった。経験してないことは人間はわからないのだがこうして大本営が戦略を間違えると兵が悲惨なことになる。前回の戦争みたいに。基本を大事に、努力はこつこつ他人より多く、やることやればできる、平常心、不動心で黙々とというカープ野球は日本人の精神構造に根強い農本思想によくマッチする。奇襲とは相いれない。このCS、カープのベンチや選手を驚かせたのは奇襲だが、心底おののかせたのはそうではない。焦って混乱してびびってしまった自分たちが眼前で目にしたDeNA選手たちの躍動する姿は、今年自分たちがやってきたカープ野球、いつもどおりの野球そのものだったからである。

木鶏のような強さは理想だが達成は難しい。2千年も前から群雄割拠があたりまえの欧州、中国で孫子やマキアベリが木鶏になれなどと言うはずもない。相手を欺け(奇襲、偽装、スパイetc)と説いている。木鶏であろうがなかろうが奇襲はされる、ではされたらどうするかも計略のうちなのだ。緒方はこの悔しい敗戦を農本主義の精神論で克服するのではなく、それを学ばなくてはと思う。ラミレスが奇襲するならどう来るだろう、それならあの8月22日に違いないぐらいは指揮官として読んでおくべきである。彼は「なかったことに」派の気がするのだ。ゼロ戦を恐れた米軍がそれを丸ごと捕獲して解体して調べあげた、そういうことが大本営には一番大事な仕事である。

 

(PS)

せっかく奇襲に成功したのに自分がすでに木鶏だと勘違いして兵をかわいそうなことにしてしまった小池百合子はこのCSをケーススタディにしたらいい。

 

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サプライズのない選挙

2017 OCT 23 18:18:13 pm by 東 賢太郎

今回の選挙はサプライズなしだ。西室がいうように女の戦さのほうがおもしろかった。

小池は民進を丸飲みすべきだった。どうせ数合わせなのは国民も見抜いてるし原発反対、平和主義的改憲でぎりぎりの結束はできたかもしれない。二度とないチャンスだったのに。時間がなかったと軍師が言いわけしてたが平幕が横綱と四つに組む作戦は元からないだろう。短期決戦はむしろ自民党が焦ったのにオウンゴールだった。主演女優が監督、役者は大根と見えてしまう劇はマーケティングセンスなさすぎ。

「ゲス不倫」「路チュー」のお姉さんがたは特に興味ないが中川昭一氏は思い出してしまう、どうしてあの年で亡くなったんだか、この顛末と結果になるのはさらにお気の毒と思うが。山尾志桜里は言ってることもやってることも賛同できないしそもそもああいう才気ばしった女性は苦手。あんな検事に詰問されたら吐いてしまいそうだ。しぶとい、鉄面皮だ、非常に僅差でこういう勝ち運は政治家には大事だが。

最後に豊田真由子。僕は業界柄ハゲ事件そのものは免疫があってどうとも思ってない(若いころ自分はもっとだったんで)。トラップかなという気もする。ただああいうのは愛情もってないなら絶対するなということ。泥まみれになっての惨敗は不勉強、不見識のみそぎ。しかしドツボから立ち上がろうというあのガッツは買う。親父の地盤でのうのうと家業議員やってるボンクラどもよりずっと上等。捲土重来を期すがいい。

女性も男性も政治家は悲喜こもごも。私見ではリスクリターンがあわない職業の筆頭格。だから職業にしたい人に向いてないし、向いてない人がやるといろいろ歪みが出るから国民にも不利益である。

 

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ブーレーズ 「主のない槌」(ル・マルトー・サン・メートル)

2017 OCT 23 1:01:27 am by 東 賢太郎

ブーレーズの代表作である当曲についてとなるとやや話がこみいってしまうがお許しいただきたい。これを初めて聴いたのは大学の時に借りたレコードだった。いきなりなんじゃこりゃで最後まで聴いたかは記憶がない。

ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maître)の邦訳は当時「主のない槌」だったと思う。槌とはなんだろう?見たことない。打ち出の小槌を連想し、そんなものを置き忘れてくる奴がいるのかと思った。というのは僕は生来の忘れ魔で、考え事をしていて電車に野球のネット用の鉄柱を忘れ過激派と間違われた前科があるから槌ぐらい忘れるのはなんでもないと思えていた。

この題はルネ・シャールなるシュルレアリスム作家の詩か何からしいが知らない。現代詩というのは読んだことぐらいはあるが、僕にはネコにイタコの呪文をきかせる未満のものであって、大変失敬とは思うがああいうものを愛でる方々とは人種はおろか生物種すら異なるのではないかと感じいるしかない。人間の作ったものに関心がないこっちの方がきっと異種なんだろうが。

音楽だって人間の作ったものじゃないかといわれそうだが、音階や和音の心に与える効果はそうではない。ドミソは明るい、ラドミは暗いと誰かが決めたわけじゃない。聞こえるのは純然たる自然現象の音波であり神様が人間の心の方をそう作ったのだ。だから僕は音楽は物理学、生理学、心理学のどれでもないが、ちょっとずつそれらと「かすっている」サイエンスだと思っている。

和音というのは美しい(少なくとも僕には)がその各音は倍音による音階から生まれたもので、ということは美しさの根源は自然倍音(上)に存在していることになるだろう。右の図は平均律と自然倍音の差異を示すが、ここでは64個目の倍音までのうちで各音の出現回数にご注目いただきたい。Ⅰ(基音)は6個、Ⅴ(完全5度)は5個である。ド(6)、ミ(4)、ソ(5)は出現回数で第1位~3位であり「ドミソが美しい」のは神様が決めた理に適っていると思えないだろうか。第4位のシ♭(4)を加え、各々の5度上(完全調和する)のシ、レ、ファ、その5度上のラを得ると、オクターヴ(2倍の周波数)を12分割する「音階」が得られる。出現回数ランキング上位の倍音を並べて、それが「美しい」となるように人間は神様によって作られていると考えるしかない。

言いたいのは出現回数は物理的、数学的に決まっており、誰か人が決めたものではないということである。だから12分割も宇宙の理であり10でも11でもいけない。それが「調和」の根源だ。縦(和音)であれ横(旋律)であれ、それが無調だろうが12音音楽だろうが不協和音であろうがである。「協和音、不協和音」とはミスリーディングな用語であって、「美人、不美人」と同じくなんら物理的に定義のしようもないな無意味、無価値な単語だ。音楽にはピッチの良い音と悪い音しか存在しないのである。後者は他の音と一切調和しない。だから神の原理にはずれていて、そもそも音楽演奏の素材として根源的に失格である。わかりやすく述べるなら、「音程の悪いドミソ」(協和音ではある)は不ぞろいの真珠をつないだネックレスであり、「音程の良い不協和音」はばらばらに配置した粒のそろった真珠である。

がさわる楽器はピアノであるのはそれが理由だ。平均律なる近似値とはいえ耳に不調和と聞こえないぎりぎりで踏みとどまった不調和で、ピッチの心配がなくどのキーをたたいても許せる調和があるからだ。即興でアトランダムのキーを弾いて(たたいて)楽しむが、それが曲といえようがいえまいが楽しい。アッ今のはいいなと思う瞬間があるが、それを譜面に書きとるのはめんどうくさい。即興してればまた来るさで済ますし、無限の可能性がありそうでわくわくもする。そこで、こうも考える。赤ちゃんは普通は子守唄を聴いて育つが、はいはいの代わりにピアノのランダムたたきをして育つとどうなるのだろう?

赤子のころ母が耳元で歌ってくれていたのがシェーンベルグでなかったことだけは確実だ。世界のお母さんが近未来的に子守唄を12音セリーで歌うようになるとは思わないが、そういう美というのはまだ動物に近い赤ちゃんに訴えかける力はないとされている(千年後の赤ちゃんはわからないが)。しかし、そういう美というものは存在はするのだ。なぜなら、自分の経験として、数学を解いていて美しいと思ったことが何度もあるし、自然倍音図を眺めた印象も似たものがあり、それが赤ちゃんには伝わらないから美しくないと言い切ることは不存在証明としては不完全である。

以下、2016年1月16日に書いたブログから「ル・マルトー・サン・メートル」について書いた部分の要旨を引用する。

 

9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっている。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だった。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしである。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ると思う。

「主のない槌」の自筆譜

ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようである。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思う。

しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思う。その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散する。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもあるはずの宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者だ。

 

固く信じるとどうなるか?僕は「主のない槌」に、特にアルトが入る章に美を感じるのであって、それは魔笛やエロイカに感じるものと何ら変わりがない。ライブを聴いて帰宅する時の充足感の質は同じだ。とすると、それを生み出した何物かが3つの音楽のスコアに共通して隠れているはずなのである。それを発見したいなあと思うこと、発見は無理でも今日も経験したいなあと思うことが「音楽をサイエンスと考える」ということだ。

例えば、古代より人間が毎日見ている「太陽」(The Sun)をどう考えるか?まったく相いれない2つの道がある。ひとつはスペクトル型はG2V、表面温度約6000度、推測年齢は約46億年で中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し主系列星として存在できる期間の約半分を経過している銀河系の恒星の一つと考える道。もうひとつは、「おてんとうさま」「おひさま」「朝日」「夕日」であり、信仰の対象となり、女性を「君は僕の太陽」などとたたえたり詩の題材ともなるがスペクトル型なんか知らないし気にもしない道だ。両方OKだよという器用な方もおられるかもしれないが、僕は100%前者の世界の人間であり、腹を割ろうが割るまいが後者の人と理解しあえる自信はあまりない。

同じことで、では音楽(Music)をどう考えるか(聴くか)?である。太陽を「銀河系の恒星」と認識するのと同じように、音楽は僕にとって物理現象、サイエンスである。コンサートホールで隣に座っている「太陽をおひさまと思っている人」とは、聴いているのは同じ音にちがいないが同じものを認識している保証はまったくない。これを「音楽に国境はない」「所詮は好き好きでいいんですよ」とまんまるに丸めて思考停止してしまっては元も子もない、それこそが「おひさま系」だ。「今日のエロイカは良かったですね」と話しかけられても、僕は「拷問でした」かもしれないのでそういう会話は歓迎しない。拷問をブラヴォーと讃える会場は太陽信仰信者の薄気味悪い集会場であり、すぐ退散する。

「国境はない」おひさま系は音楽にヒューマンなものを求める傾向がある。人類みな兄弟だからヒューマンなものに国境はないという理屈だろうが、137億光年先でも成り立つ物理現象のどこに国境がいちいち言説を呼び起こすほどの重要度をもって関わってくるのかまったく意味不明だ。兄弟でなくても敵同士でも、ドミソは楽しげだしラドミは悲しげである。音楽を文学的な文脈で聴くこと、あるいはそれを前提に書かれた音楽そのものの存在には、僕は子供のころ女の子が持っていた着せ替え人形に対するほどの関心を寄せることさえ困難である。

「主のない槌」という楽曲を構造論的に解析する力は今の僕にはないように思う。漫然と表現するなら、ピッチの美しさ、曼陀羅、ガムランのイメージを混合したタペストリーのような音色美を根源とした音楽である。その質感はドビッシー、メシアンの、セリー合成はシェーンベルクの遺伝子を継ぎ、必要とするアルト・フルート、ヴィオラ、ギター、ヴィブラフォン、シロリンバ、打楽器でピッチが可変的なのはヴィオラだけ(フルートもある程度)であり、ピッチは基本的に固定的環境で成立する。そこに声(アルト)という可変的な音が加わるため、そのピッチが厳密に問われ、それが達成されてシンクロナイズした時の美しさは誠に格別だ。

こういう質の美の世界の住人であるブーレーズがマーラー全曲を振ったというのは僕には青天の霹靂だった。親友に裏切られた感じすらする。今もって謎だが、本当に彼は共感したのだろうか?それとも僕の方がマーラーを誤解してるのか?

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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

M君の訃報

2017 OCT 22 1:01:28 am by 東 賢太郎

去年の10月20日に西室から中村順一君の訃報を聞いた。俄かには信じ難いことだった。彼が今いてくれたら話したいこと相談したいことが山ほどあった。そろそろ一周忌と思っていたら先週にお世話になったT社長が逝去され、一昨日は会社の後輩M君が急逝したとの連絡があった。

ロンドンで仕事した6年間で格別の記憶に残っているのがM君だ。僕が部門のヘッドになって初めて東京から転勤してきた新人で、長身で礼儀正しく、好青年を絵にかいたような男だった。なにより仕事のセンスも性格も良くてキャラクターは明るく、異例なことだが僕自身がインストラクターになっていちから仕事を教えたのは進んでそうしたくなる俊英だったからだ。大変有能でありやがて著名な投資家にコネクションを作ってきて、同伴してアカウントを開いて乾杯したり、忘れられないエキサイティングな思い出がある。

大出世して野村の役員になっても連絡をくれ、時々食事などした。こちらの仕事のことにも真摯に耳を傾けてくれ、東スクールの生徒ですからとつい先日もロンドン時代に僕が言った言葉など披露してくれてひとしきり思い出話になった。それをブログにしたほどうれしかったし、人柄も人物も並とはちがうと深く感じ入った。まだ50半ばだがいずれ定年になっても何かしたいというので、そうなったら俺もトシだからウチに来て社長やってくれよと話した矢先のことだ。冗談ではなく、それを言ったのはM君だけだ。どうしてこんないいやつがと無念でならない。お別れに行くのがつらく、まだお悔やみの言葉すら現実味をもって出てこない。

あまりにがっくりきていたので、そういう年回りなのだと周囲には慰められたが、寂しいばかりかどんどん孤独になっていく気がする。5月に母がいなくなってしまってまだ心に空洞ができたままなのに、自分のことを良く知りわかっていてくれる方々がいなくなってしまう喪失感はあまりに大きすぎる。

 

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選挙のプラセボ効果について

2017 OCT 20 22:22:09 pm by 東 賢太郎

まずはお薬の話だ。AとBとCという錠剤があってAは効き目があり、Bの効き目はAの半分で、Cは中味が砂糖で効き目ゼロとする(3種とも副作用はなし)。厚労省はないものとして、A社、B社、C社が効能書をばらまいて宣伝して市場でセリにかけたら値段はどうなるだろう?

1回目のセリでは宣伝の巧拙だけで値が決まるだろうから順位は不明だ。2回目では患者への効き目を見てA>B>Cとなるだろう。3回目では差がさらにわかるのでA>>B>>Cとなろう。

Cの効能書きはウソだからC=0のはずだが、そうならないことがプラセボ効果(偽薬効果)として知られる。Bを半分サイズにして片方はAの成分、もう片方は砂糖にして「1回2錠」を飲ませると、A×1/2+C >Bとなるから価格は

A:B:C = 100:50:0

とはならず、100:70:20ぐらいの感じになるだろう。プラセボ効果とは何かというと「未開地で薬というものを知らない人に病気が治ると信じさせて歯磨きを飲ませたら本当に治った」という話が昔あったが、そういう思い込みだけで薬が効いてしまうとされる効果だ。

クスリの価格の決まり方を選挙の得票数に置き換えれば衆院選の話になる。Aが普通の候補、Bは泡沫候補、Cは非適格候補で、A社、B社、C社がA党、B党、C党である。「薬の効能書がわからなければ信用ある弊社の薬をオマカセでお飲みください」というのが比例代表制だ。

これがビタミン剤の話ならばプラセボ効果でBやCを買っても損だが害はない。しかし降圧剤ならどうか。砂糖で血圧は下がらないからCを売るのは未必の故意による殺人に近いだろう。ビタミン剤や健康食品なら許されるものが医薬品ではそうはいかないのである。

それを防ぐため医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(通称「薬事法」)があるが選挙にはそれに当たるものはない。公職選挙法があるが、日本国籍があって選挙違反しなければほぼOKで「薬効」の審査はかけらもない。日本語さえ読めれば合格の試験のようなものだから有権者の目が問われる。ウソの効能書きで立候補している砂糖玉の「プラセボ候補」は落とさないといけない。

そのために我々が考えなくてはいけないのは

「このクスリ、ほんとに効くの?」

なのだが、それ以前に決定的に重要なことがある。若い有権者はこれを肝に銘じてほしい。それは、

「ところで私は何のクスリを選んでるの?」

である。

「ビタミン剤なのか降圧剤なのか?」

である。

あたりまえだが国政選挙は国を良くしてくれる人を選んでいる。国は没落しても私は良くなりたいという議員は不要なのだ。今の国はリセットして私が好きな国にしましょうよといわれても、あなたの好きな国が私も好きかどうかわからないのに投票しようがない。

国は関係ないでしょ、私の生活が第一だしと思うかもしれないし誰でも生活が大事なのは当然だが、国がだめになって私の生活だけが良くなる確率は宝くじでも当たらない限りゼロに近い。英国グローバル情報誌「MONOCLE(モノクル)」の「世界で最も住みやすい都市ベスト25」(2017年版)で東京が1位に選ばれているが、日本はすでに国際的にいい国、外国人が憧れる一等国なのだ。

ただ問題はある。高度成長期に元気な若者だった日本国もそろそろ熟年メタボの兆しが見えており、著名大企業は兆しだけでなく崩壊しかかってきており、自分の血圧だけでなく近隣の暴れ者のとばっちりだって心配しなくてはいけない。「一強政治はいかがなものか!」は大変結構だし、一強に思い上がって脇甘の事件で世間をさわがせてもらっては困るが、では、

「一強でなくなるとどうして血圧が下がるの?」

「どうして暴れ者がおとなしくなるの?」

と子供電話相談室にきいてみたらいい。なんにもむずかしいことはいらない。物事は本質に添って、子供みたいにシンプルな疑問をもって考えればいいのだ。僕は一強でも三強でも何でも構わないが政権執行能力が論点と思う。そうでないと血圧は下がらないし熟年メタボは治らないからだ。もしその薬が効かないなら?それは困るから、国民が国会、行政を監視して薬を替える制度を作るしかない。

 

若者のための政治用語辞典

 

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日本のかかえる非合理について

2017 OCT 19 0:00:08 am by 東 賢太郎

多くの人が指摘するように日本の「リベラル」という用語はミスリーディングだ。概観すれば欧州では各国の良き伝統を尊重するのが保守だが、市民革命(欧州の保守の否定、自由・平等・博愛)に建国の起点を置いた米国ではむしろそれが元々の保守だ。米国から言葉だけ輸入してリベラルを名乗り、「保守でない=リベラル=左翼+反自民(護憲)」にすり替えるのはおかしい。

希望は自民の対立軸を目論んだと思うが反自民ではなく反安倍であり、「(いわゆる)リベラル」の排除宣言で立ち位置が曖昧になってしまった。そこを突いたリベラルでない=保守というすり替え方程式の逆用によって安倍政権の補完勢力だと批判した共産党が希望の新鮮味を削ぐことに成功したように見える。しかし、その方程式は元から変なのだ。こういうレトリック(横文字がもっともらし見える等)で有権者が騙されると、安倍でない誰の一強になろうと同じことの繰り返しになって日本は停滞するだろう。

SMCは政治信条を述べる場ではない。僕が言いたいのは「真実でないこと、詭弁、まやかし、なりすまし、嘘の主張はやめましょう」である。それは政治に関わらず僕の好き嫌いだ。嘘をつくことの善悪、倫理ではなく、(いわゆる)保守、リベラル(or 単細胞な右・左)のどちらに与するかでもなく、まともな人物にまともな国家運営を委ねないと子孫に禍根を残すと思っている。現状アメリカの属国に等しいがそれが良いわけではなく中国のそれが望ましいわけでもない。しかしサンフランシスコ講和条約、朝鮮戦争休戦協定のまま歴史が止まるわけでもない。

そんな人はいないのが残念な真実であるならそう行動するしかないように立法府と行政府への国民の監視の目を強めることだと思う。それと改憲論は矛盾しない。そんな人はいるけれど多くはないというなら、その人たちだけ残した数まで議員定数をばっさり減らせばいい。「そういうことになってるんで」というのは「なんちゃって保守」であり、小池百合子が都議会でそれをぶっこわしたのはむしろ保守だと思った。これは安倍政権にも自民党にもできないだろう、そこにレゾンデトルを求めるならまともな支持者はいるだろうし希望も持てるだろう。

 

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ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調 作品70

2017 OCT 17 17:17:19 pm by 東 賢太郎

香港の2年半でおいしい中華料理は食べつくしていて日本でなかなか満足ということがない。中華といって何種類もあるが結論としては広東料理が一番であって、となると恵比寿ウエスティンの「龍天門」がいい線いっていて坦々麺など格別に美味だが値段もそれなりだ。横浜中華街の聘珍楼も高いがここのフカヒレ姿煮は香港であっても一級品だから時々そういう所で食するしかない。

そういう極上な美味を堪能してしばし仕事から開放されたときの心境にぴったりなのがドヴォルザークの7番だというとえっと思われるかたが多いだろう。

7番がブラームスの交響曲第3番初演から霊感を得て作曲されたというのが事実かどうかともかく良く知られる逸話だ。たしかに第1楽章冒頭に現れる暗い趣の第1主題からしてブラームス3番の第4楽章のそれを髣髴とさせる。

僕が大好きなのはそこからしばらくして現れる第2主題である。2本のクラリネットと低い音域のフルートが奏でる変ロ長調のこれだ(in tempoから、上のビデオの2分59秒)。

fpで強調される和音!(E♭Ⅲon C)なんて素晴らしいんだろう。冒頭の漆黒の闇からここへ到る旅は短いが、心に戸惑いを秘めたような経過句をさまよって辿り着いたこの主題の歓喜はこの溜息のような和音で確信にかわるのだ。それを慈しむように繰り返すのは、想像だがドヴォルザークもこの和音に痺れていたんだろう。ブラームスは理性の人で、やりたくてもこういうことはしない。

先日美味しい料理とワインで幸せになって、娘に「いまどんな気分と思う?こんなだよ」とこれを鼻歌できかせる。そうするとfpの和音を出す伴奏の第2クラリネット、ファゴット、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスにどう吹いて、弾いてもらったら僕の欲しい「あの音」が出るんだろう?と考えもする。いろんな演奏を聴いてきたが、ここが満足いくのはあまりない。

この和音がどうしてこんなに好きなんだろう?ピアノを前に考えているとわかった。これはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のここ(赤枠の部分)と同じだったのだ。

好きなわけだ。音楽の好き嫌いはこうして因数分解すると理由が見つかる場合がある。第1楽章展開部はいよいよブラームスっぽくなっていくがfp和音直前のソ・ファ・ソのリズムがベートーベンの運命音型に変容して峻厳さを加える。7番はスメタナ、ヤナーチェクと異なってドイツの形式音楽に道を見出したドヴォルザークの最初のシグナチャー・ピースであり先人を刻印している。

翳りを含んだ第2楽章は曲想も管弦楽法もさらにブラームス的だが終結に至るパッセージはいささかワーグナー風だ。第3楽章はスケルツォでブラームス3番のロマンよりスラヴ舞曲の世界に近接する。第4楽章は第1楽章冒頭の世界に回帰してニ短調の暗色が支配するが、第2主題がここでも抒情を添えることも、トゥッティで楔を打ち込むような跳ねるリズムの印象も非常にブラームス的だ(後者は特に3番の終楽章と近似する)。

ブラームスの影響を聴感上濃く感じる作曲家としてエルガー、作曲法上はシェーンベルクがいるが、ドヴォルザークが作曲家としてそうだと言い切ることは難しいだろう。しかし全編に満ちる情緒でそれを体感させる楽曲として彼の第7交響曲を凌ぐ音楽は存在しない。僕は彼の交響曲の中でこれが一番好きだ。

 

カレル・シェイナ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

数多あるチェコPO盤でこれが一番いい。モノラルで音はやや古く現代の縦線の揃ったアンサンブルでもないが味わいに満ちるから困ったものだ、オーケストラ演奏が失ってしまったものは根深い。木質の管のなかでもフルート、クラリネットの音程の良さは特筆もので、それが欠けたら7番は成り立たないと確信してしまう。第2楽章の弦の歌いまわし、これが正調と思う。第1楽章、fpは増音はなくすぐ減音するのがまったくユニークだが作曲者の狙った効果はこれでも出ているように思う。シェイナの秘儀だ。展開部の加熱は見事、うまいオケとはメカニックなことではなくこういう演奏ができるかどうかなのだ。速めの終楽章はホルンが割れたりアンサンブルがやや雑然となるが、それでいて堅固な音楽になってしまう。

 

ジョン・バルビローリ / ハレ管弦楽団

はっきり書くとオケの技術、特に弦が劣る。なぜこれを好むかというと、指揮のロマンの息吹がヴァイオリンの歌に切々とこもり、緩急も思い切ってつけるなどライブのような感情の起伏があるからだ。fpのため息も感じ切っていて良い。英国人がエルガーをやる風な愛情を感じるという意味で7番の最もエモーショナルでメリハリのある、ドイツ寄りではない表現だろう。バルビローリはブラームス全集は構え過ぎだがドヴォルザークは自然体である。

 

オトマール・スイトナー / ベルリン国立歌劇場管弦楽団

東欧のいい音だ。このオペラハウスで何度もワーグナーを聴いたがS席で3千円ぐらいなのに感動したのを思い出す。目の前のピットから響いてくるこのオケの古雅な音はふるいつきたい魅力があった。この木質の弦とピッチの良好な木管(うまい)という特性はドヴォルザークにぴったりでありスイトナーの指揮も独欧系の解釈の本道を行くものと思う。モーツァルトが抜群の人だったが音響にポエムを作れる故で、第1楽章はfpの馥郁たる味わいも展開部の高潮も文句なし。

 

カルロス・パイタ / フィルハーモニック・シンフォニー

アルゼンチン人のパイタ(Carlos Païta、1932年または1937年ー2015年)は金持ちのボンでフルトヴェングラーのファンだった。自分のレーベル(Lodia)を作りメジャーなオケを商売抜きで指揮して録音を残した、ある意味カルロス・クライバー並みの謎の男である。好きな曲しか振らないのだからうまい。8,9番だけじゃない、7番に愛情持って振っているのに好感。激した部分に個性があるがfpのバスの鳴らし方、悪くない、金の力かもしれないがオケを乗せていて脱帽。

 

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64

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モイツァ・エルトマンさん、まいった

2017 OCT 15 17:17:36 pm by 東 賢太郎

指揮:下野竜也
ヴァイオリン:クララ・ジュミ・カン
ソプラノ:モイツァ・エルトマン

モーツァルト/歌劇「イドメネオ」序曲
ベルク/ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」
モーツァルト/歌劇「皇帝ティートの慈悲」序曲
ベルク/「ルル」組曲

 

以上のプログラム。下野はいつもながら研究心があり指揮も手堅くてはずれがない。ベルクを持ってきたのは高く評価。僕においてはモーツァルトは楽しむための条件が複数あり、そもそもNHKホールはそれを満たしていないからここで練習が充分でないのを聞く意味がない。

ベルクはヴォツェックとルルが眼目だ、はっきり言ってヴァイオリン協奏曲はあんまり好きでない。何度もライブを聴いてるが意識がさまよって集中しない。クララ・ジュミ・カンは良かったのだが。

ヴァイオリンというロマン派の残照のある楽器が「ある天使の思い出のために」なるストーリー造りに資するのだろうが、僕はベルクの作る音響のベースに例外なく血のような恐怖を見るのでルルみたいな極道女にこそぴったりだ。いくら天使を模ろうが意識の中で同期しない。お母さん、ヴォツェックで赤ちゃんを寝かしつけますかというところ。

さて「ルル組曲」だ。ブーレーズのCBS盤で散々聴いたからちょっとうるさい。ルルはそこでのソプラノ、ジュディス・ブレーゲンが最高と思っているが、今日のモイツァ・エルトマンには参った。写真まで載せてオヤジしてしまうが、ルルが魔性だったのはこうかというもの、たいへんきれいな人である。ドイツ人だから当たり前だがドイツ語のディクションが美しく、「誰かが私のために自殺したって、私の価値は下がったりしない」で瞬殺だ。そりゃ貴女ならばたしかにそうでしょう。オケ演奏中に歌のパートだけ登場したが、右の衣装(たぶん)で光り輝いて舞台を独占、オケが楽隊になってしまう。女王蜂状態。やっぱり黒づくめの男は働き蜂か、むなしいなあとため息をつく。オケが元来は男社会だのどうのとアナクロの意見を書いたが、音楽が教会を出て爾来厳然たる女性の居場所がある。ソプラノだ。これだけは男は手も足も出ない。この人、声質、役柄はゾフィー、スザンナ、ツェルリーナ、デスピーナ、マルツェリーネというところだがなんとも抗いがたい。観てみたい。アトーナルの音程はブレーゲンともども完璧だった。凄い知性と音感。神が二物を与えてしまっている。

 

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

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J.S.バッハ モテット「主に向いて新しい歌を歌え」BWV225/1

2017 OCT 14 16:16:03 pm by 東 賢太郎

このモテットをライプツィヒの聖トーマス教会で初めて聴いたモーツァルトが驚嘆したという記録が残っている。1789年の5月、死の2年前で三大交響曲を書いた後である。残した輝かしい音楽に使われている技法はすべてマスターしていた年齢なのに「ここには学ぶことがある」と写譜した譜面が遺品の中に見つかっている。

モーツァルトはウィーンで庇護者スヴイーテンの蔵書にあったバッハ作品を知っており、平均律を四重奏に編曲もしていた。それでも未知なものがこの曲にはあった。カソリックの彼が見たプロテスタント音楽の側面もあったろうが、バッハの8声部対位法技法の凄みが耳をとらえたと考えるべきだろう。

この音楽は教会での残響と音響の空間放射なくして成り立たないだろう。ハリウッドボウルなど野外で映えるか想像すればわかる。キリスト教徒ならバッハを知らなくてもCDの音だけで教会をイメージするだろう。教会文化で育っていない僕が別なもの、それも奇想天外なものを想像してしまうのは経験論の帰結としてお許し頂くしかない。

むかし、アメリカ映画でミクロの決死隊というのがあったが、僕はこれを聴くとああやってミクロの小さな体になってバッハの脳の中を探検し、こんなものを見た感じがする。

見たのは脳みそではない、鍾乳洞の自然の驚異だ。なぜそこにそんなものがあるのか?知らない。神様に聞いてほしい。これをご覧いただきたい。

人間の中には宇宙があって、空を見てその彼方にあると感じている宇宙とそれとは実は同じものだ。それをバッハの脳が見つけて音に書きとった。前稿の「数学美とアートの美は同じもの」という感覚は僕流に表現するなら、そんなものだ。バッハの書いた音符に数学的秩序があるという人もいるが数学者にそんな人はいない。もちろん僕にはそれは証明できない。

このモテットを初めて聴いた時の驚きは忘れることがない。なんだこれはという思考停止に陥り、あっという間に終わってしまった。母の胎内で進化の歴史を超特急で経過しておぎゃあと生まれてくる、それがあっという間というなら、10分の音楽に呆然として1分に感じるのもあっという間だ。

音楽の聴き方は人それぞれだ。

 

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