T社長、ありがとうございました
2017 OCT 11 20:20:10 pm by 東 賢太郎
昨日、お世話になったT社長の訃報に接して心底がっくりきている。もっともっと聞いていただきたいことやご一緒にやってみたいことがあった。心からご冥福をお祈りします。
58歳にもなって出会った方々の中で、社長ほどインパクトのある方は断じてひとりもいない。僕のような者のアイデアを真面目に取り合ってくださるのも極めて稀だが、そういう異次元の理解力を持った凄い人とそんな年齢になって会えるということも奇跡に思える。
日本人なら誰もが知る大企業を立ち上げた立志伝中の方で社長ほど人の心をつかむ達人もいないだろう。発想はいつも驚くほど豊かで既成概念にまったくとらわれがなく、それがビジネスになる段階に至ると逆に手堅かった。商売の極意はこういうものかと実地で学ばせていただいた。
初めてお会いしたのはミクロネシアだ。強烈な3日間だった。まことに数奇なご縁でありお互いに未知の場所だから印象に残るあれこれがあって、ちょっとした会話、食事にいたるまでがまるで昨日のようにリアルだ。僭越なことだが、たったそれだけの短い間に、性格は違っても気質が合う方だと感じ入ってしまった。
故郷の奥出雲にご一緒させていただいた時は、普通あり得ない体験を忘れないようにと戻ってすぐブログに書き留めた。それをお知らせしたわけではないのにいつの間にか細かくお読みになっていて、あれだけたくさんのことを覚えてこんなに描写できる人はいないと各所で話題にされて恐縮した。そういう角度から僕を評価してくださった人は人生で社長だけだ。ほめられたということよりもそれが物凄く嬉しく、この方は普通じゃないと確信した。
顧問を拝命することになった箱根での株主総会が3年前。吟遊という素晴らしい温泉旅館だった。お役に立つことができたかというと、まったくの力不足だったことは否めない。社長は大変な読書家で顧問に頼るどころか足元にも及ばぬほど無尽蔵に知恵がわいてくる方であり、僕はむしろ人間学の雑誌をとっていただいたり蔵書をたくさん貸していただいたりと、逆に顧問していただく側だった。人間を磨けということだったのだろう、その一冊一冊にその時々の熱い会話と情がこもっていて忘れることができない。
綱町の三井倶楽部での株主総会はほんの2年前のことだった。
人が逝くとはもう二度と会えないということだ。しかし社長とは一対一で普通ではない長い時間を社長室で過ごさせて頂いた。信じていただけないだろうが丸12時間に及ぶこともあった。だから、こういうことがあれば多分こうおっしゃるだろうということが想像できるようになっている。それは僕のかけがえのない心の財産となっており、今となれば人生の貴重な最後の時間を頂戴していたということなのだ。
あれほどお元気で頭脳明晰であられても来るものは来る。人生歩いていけば順番でやがて誰にも来る。だから悔いのないだけのことをしておこうと思う。社長に頂いた財産は使わなくてはいけないし、使うならばそれはこの会社さんの幸福のために使う。僕は社長に教わった通り、人の道を行きたいと思っているからだ。
社長、欲をいえばお互い20年若い時に出会いたかったですね、きっと物凄いことができたでしょうね。必ずやり遂げてご報告いたしますのでゆっくりとお休みください。本当にありがとうございました。
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小池の焦りの馬脚か
2017 OCT 9 17:17:15 pm by 東 賢太郎
前から書いてきたようにモリカケ問題の本質は小池が言う「しがらみ政治」でも「隠ぺい体質」でも「安倍一強政治」でもなんでもない。首相官邸が高級官僚の人事権を握ったことだ。これが幹ならそんなものは葉っぱにすぎないのである。葉っぱなど摘んでも何もリセットなんかしない。
人事権⇒ヒラメ官僚のソンタク大会開始(=出世のルール変更)⇒総理令夫人様とご友人様へのヨイショ合戦+宦官政治(総理は言えないから俺が言う)
こそが決定的な本質であり、行政府の変質なのだ。人事は生殺与奪権だからこのことで官僚を批判はできない。サラリーマン原理として当然の行動である。しかし変質が木っ端役人レベルですんでればよかったが最高ポストの事務次官が反旗を翻したのは官邸には大打撃だった。一般には事務次官がどのぐらい偉いかわからないだろうが知る者は知る。知る者たちの世論への影響は陰ひなたに大きいから「数」でなく「質」で利いてしまったのが政権支持率の暴落だ。本質は国民には分からないから野党は「葉っぱ」の連呼でごまかしてきたのである。
小池が「フェアウェーのど真ん中」などとオジサマ向けの比喩を飛ばしてくすぐる笑顔を見せる。どこかで既視感あるなあ。「知る者たち」の属性を見事に読んでいる、この人、ほんとはただの女優なんじゃないか。究極の狙いはその層の支持で新保守としての「質」を獲得することなのだろう。それさえ取れば初めはともかくいずれ政権担当能力を認められて保守連立で首相になれるという読みだ。これはそれなりに賢い。モリカケを当初あまりネタにしなかったのはカミツキガメやスピッツみたいな顔した、要は「知る者たち」が毛虫のように嫌うこわっぱと一線を画して質の差を見せたかったからと思われ、だから左を踏み絵で「排除」もした。それなのに公示前日にチープな「葉っぱ」を出してきた。焦りの馬脚が出た気がする。失敗じゃないかな。
仮に小池が衆議院に鞍替えして首相になっても、この「変質」した行政府にそのまま乗っかって「小池一強政治」のできあがりになるだけである。当面のところを観察する限りとお断りするが、僕にはそれが狙いなのだろうとしか見えない、やることはそこから考えればいい、だって閣僚も官僚もアタシに人事権があるのよ、みんなヨイショヨイショですり寄ってくるって。ということは彼女を幹として同じ葉っぱが出るだけなのだ。それなら政権交代のリスクだけ残るじゃないか、首相候補どころかロクな大臣候補者すらいないのに。まあおそらく「知る者たち」は一遍にそこまで見ぬいてしまっているだろう。
僕がこのブログを上梓してしばらく晒しておいたのは安倍首相続投にNOを言うためではない。
官僚の忖度とヨイショを見分けろよと、やってることあまりにアホだよと言いたかったからだ。彼は第二次政権では所与の厳しい条件下で80点の結果を出したと評価している。誰でもできたとはまったく思わないし、あのまま民主党だったら日本国はおぞましい姿になっていた。首相が全部をハンズオンでできるはずはないしするべきでもない、正しく意図を忖度できる者に判断と執行を委ねるのはあまりに当然のことで、忖度できない者に頼むなどあり得ないのだ。しかし人事権が強大になればなるほど「おれの生活が第一」を唯一の人生の信条とするヒラメ・サラリーマンたちの盛大なヨイショ大会が始まって、実務執行に必要不可欠なキーマンであるソンタク・スナイパーと唐揚げにでもするしかない無用のヒラメの見分けがつきにくくなるのである。
多忙ゆえ愛する奥方が放し飼いになるのも仕方ない。それほど忙しいのだと同情するし誰にも他人に言えない家庭の事情はあろう。僕は海外赴任者の「日系大企業村」の多様なおつきあいの中で、旦那の役職=自分の地位と大きく勘違いした奥方をたくさん拝見してきたが、狭い村でそういう噂になってしまうと被害者は仕事に励むあまり家にいられなかった旦那でしたという可哀想な結末を迎えるのがほとんどであった。日本にいれば奥方は目立たなかったのだろうが、首相ほどになるとそうはいかないということは銘記したほうがいいということだ。
お友達の学校だろうがどこだろうがキャンディデートがなければ特区法案は通らないし、腑抜けの学校にやらせれば事後に批判されるだろう。文科行政が無意味の鉄板で風穴を開ける必要があったなら周到に「加計さんはたまたま友人だから、より厳しく審査してくれ」と文科省に事前に文書で厳命しておくべきだったのだ。それを受け取って、そう致しましたが合格しましたと忖度があれば何の問題もなかった。まあ今更もう遅いんだろうが。
(これを書いたのは9月28日)
(これが9月30日)
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天才演奏家はもう出ない
2017 OCT 7 15:15:20 pm by 東 賢太郎
このブログに野村君がくれたコメントは大変考えさせられるものがあった。
欧米のクラシック界ではかつてより日本は大市場であって、減ったとはいえいまだにCDが売れている有難い国だ。野村君の看破する通り「島国根性」あり、大衆には薄れたとはいえまだ根強い「欧米への憧れ」もあり、セレブを気取りたい新興富裕層にはハワイの別荘、高級フランス料理とならぶ洋モノ必需品としてバカ高いオペラのチケットが昔の高島屋の商品券みたいな価値を有している。
僕はグローバルホールセール証券界で38年飯を食ってるから世間の諸事の本質はすべてカネで読み解くことができると英国経験論的に確信を持っている。どんな複雑怪奇な出来事も紐解けばカネであって、もしそれでもわからないことがあればイロが原因だと考えてほぼハズレはない。イロもほとんどカネで片が付くのが冷たい現実だから、ほんのおまけではあるが。
その程度のことは口だけの評論家でも多少知恵が回ればわかるだろう。しかしカネというのは自分で千億円単位を動かしてみないとわからないものなのだ。百万円単位と一億円単位では性格が違う。千億円になるとまた違う。どっちが重い軽いではない、カネは動かす単位によって「性格」があるのである。
この野村君の教えてくれたリストを僕はそういう回路で理解するのであって、実に様々なことが浮かんでくる。明らかにカネが見えてくる。面白い。
http://www.harrisonparrott.com/artist#all
カネが誘因でヒトが動き、日々のニュースとなり、その集大成が歴史と呼ばれている。ニュースの段階でイメージ2,3割、歴史になったあかつきには5割ぐらいウソがまじっているが、それをくそ真面目に学校で暗記させられているから「私はそうは思わない」という声が出ない。大ウソはばれないから、99%の人々は自分が実は自分には関係ない、自分の懐には絶対に入ってこないカネの渦に巻き込まれて人生が決まっていることに気づかないのである。
大ウソの先入観の中で生きているから人々は毎日のニュースにある小さなウソを見抜けない。「先生とお巡りさんは悪いことはしない」「大企業に入れば安泰だ」「人生お金だけじゃない」・・ほんとにそうだろうか?そうやって疑って毎日のテレビのニュースを見ていれば少し目が覚めて、「先生やテレビの言うことは正しい」が大ウソだということもわかってくるだろう。
クラシックの有名な作曲家で天才でない人はいないが、演奏家で天才はほとんどいない。天才というのは歴史上の天皇の諡号のようなもので大体が事後的に業績の評価の絶対値が定まってから与えられる称号に等しい。作曲家の評価は作品だけであって作品は死後も残るから諡号がつくが、生きていないと聴けない演奏家に諡号がつくのは例外的なのだ。
しかし、それを認めたとしても、天下の形容詞を伴ったヘルベルト・フォン・カラヤンの名が死後30年足らずでこんなに忘れられようとは思わなかった。演奏家が天才でいたいなら、彼らも録音という作品を残すべきなのだが、それでも、それにしても、当時あたうる限りの最上の音とオーケストラでそれを最も大量に残した一人であるカラヤンにしてこの有様なのだ。では演奏家の天才とは誰なんだろう?
もちろん野村君のリストにある演奏家は当代世界一流の技術を持つ名手たちだ。クラシックを楽しむならこの人たちのチケットとを買うことに異論などはさみようもない。しかしではどの人がいいのか、そこに名のない日本人にそういう人はいないのか、この人なら平均よりもっと楽しめるのかとなると別な話だ。そして、天才とはそこに名のある世界の最上級のレベルの人達の中でもさらに格段に図抜けている人のことなのだ。
皆さんこのリストにカラヤンやカルロス・クライバーやチェリビダッケが「タレント」「売り物」っぽく並んでいる光景を想像できるだろうか?
証券取引所に上場すると株式会社は俗にチップと呼ばれる。カジノでおカネ代わりに使う丸いプラスチックの札で、優良株は「青札」(ブルー・チップ、blue chip)、香港上場の中国株はレッド・チップなどと呼ぶ。ポテトチップもchipである。企業の個性はいろいろでも上場したら規格製品であることは証券取引の法制面では重要だが何とも安っぽい印象をもたらすのも事実だ。リストは音楽家がチップ化した印象を僕に与えるのである。
こうなるとそこで誰かを選別して答えを探すことに僕はあんまり情熱を持ちえない。AKBの女の子の誰と握手したいですかという問いとかわらない。演奏家は生身の人間だ。好不調もあろう、まあここにいる人はうまいんだろうから誰でもいいんじゃないと思考停止する。僕は神だったピエール・ブーレーズがニューヨーク・フィルを率いて日本でやった春の祭典を聴いて、なんてことないフツーの演奏で幻滅した経験がある。いやあれは猿も木から落ちるであって何かの間違いだろうとフランクフルトでロンドン響のをまた聴いたが、やっぱりフツーだった。
ということは彼のレコードの方が特別なのであって、録音技師やミキサーらの合作効果だったと思うしかない。後のDGとの同曲録音はこれまた見事にフツーなのだから、あの奇跡のような69年のCBS盤は録った時点でのあらゆる要素がうまくかみ合った録音作品なのだ。高倉健がマンションとベンツを売って凍傷にまでなって撮った映画「八甲田山」みたいな一期一会の「作品」だったと評価したほうがいいのだろう。ブーレーズは天才であり続ける稀有な演奏家になれたかもしれない。
ところがネット社会化が進み音楽は「コンテンツ」となってばらまかれる世の中だ。春の祭典など無料で何十種類もyoutubeで聴けてしまう。そこにスタジオでコストをかけてもう1種の祭典を市場に放ったとしてどれだけの収益が望めるだろう?おカネで見るとはそういうことであり、それならyoutubeでコンサートを無料公開するかライブを安価にCDにして広く買ってもらい、次のコンサートに来て高いプログラムやグッズも買ってくださいというビジネスモデルになる。欧米はもう何年も前からそれが常識だ。
そういうおカネ環境の中だから、録音機会が減ったばかりか、あってもライブの一発取りばかりでスタジオ録音が激減している。俳優のブロマイドが消えてスナップ写真ばかりなったわけで、自撮りに毛が生えたような写真だけ残してレジェンドになれといわれるようのなものであって、現代のクラシック界で演奏家が天才として歴史に名を刻むのは至難なのだ。どんな名演をしてもライブの一発芸で消え去るなら会場にいたせいぜい2千人の聴衆の記憶に残る以上の拡散はない。その程度の拡散がネットの拡散に勝利する蓋然性は残念ながらほぼゼロであり、チケットをタダでもらったお兄ちゃんが「つまんね~」と書きこんだツイッターひとつで名演が葬られる危険だってある。
ネットが音楽家の録音機会を奪い、天才になる機会まで奪う。そんな時代におカネとリスクをかけて音楽家になろうという若者が続くのだろうか。先日、ある弦楽器屋の店員さんと話したら「音大の子の就職先がなくってね、困ったもんです」と嘆いていた。「だってオケの求人なんてほとんどないんです。定年まで辞めないし、定年になっても知った人をエキストラで使うんで」だそうだ。今は作曲家も演奏家もちゃらいゲーム音楽が食い扶持だそうで、「ベートーベンを真面目にやっても食えませんねえ、天才は別ですが」だった。
しかし、天才だって天才になるのが難しい時代なのだ。
歴史の大ウソについてはこちらへ
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チェコ・フィルハーモニー演奏会を聴く
2017 OCT 4 11:11:08 am by 東 賢太郎
指揮:ぺトル・アルトリヒテル
チェロ:ジャン=ギアン・ケラス
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ドヴォルザーク:序曲『謝肉祭』 op.92, B169
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 op.104, B191
ブラームス:交響曲第4番 op.98
秋の夜にぴったりのコンサートだった。サントリーホールにて。チェコ・フィルはほぼ同じプログラムを同じメンバーで9月20日にプラハの音楽祭で演奏したばかりで、5月に逝去した常任のイルジー・ビエロフラーヴェク追悼演奏会でもあった。ビエロフラーヴェクは素晴らしい指揮者で、お国物も良かったが現代オケでモーツァルトを振ったら第一人者だったと思う。
その後を継いだぺトル・アルトリヒテルはフランクフルトで94年4月にプラハ響でドヴォルザークの交響曲第7番をやって、これにいたく感動した記憶がある。同年12月に同じアルテ・オーパーでゲルト・アルブレヒトがチェコ・フィルとやった同8番が期待外れだったのと好対照だった。故アルブレヒトは読響でも多く聴いて好きな指揮者だったがこのドイツ人シェフは常任になったチェコ・フィルと折り合いが悪かったと聞く。
その割にこのオケはブラームスを得意としていて、4番だけでも最近のところでマカル、小林研一郎があるが、ペドロッティ、ラインスドルフ、フィッシャー・ディースカウなんてのも持っている。この日も老舗の味というか、何も足さず何も引かずの熟成感あるブラームスとなった。金管など決して機能的なオケではない。ソロのジャン=ギアン・ケラスがジュリアード音楽院で仕込んだ水も漏らさぬユニバーサルな技術を持つのに対し、このオケはそういうものとは違う、米国流とは相いれない「非常にうまいローカル・オケ」であり、分厚い弦が主体で金管、ティンパニは控えめの東欧のオルガン型ピラミッド音構造が残る。
娘が「こんなに女の人がいないの初めて」というほど今だに男オケだ。女性はハープとホルンとヴァイオリンに3,4人、舞台の右半分はゼロだった。「いや、昔はみんなこうだったんだよ」といいつつ、80年代のロンドンで変わってきたのを思い出す。そういえば我が国も「ウーマンリブ」なんて言葉がはやっていたっけ(もはや死語だ)。特に室内オケに進出が目立ち始め、黒ずくめの男性に青のドレスがきわだって最初は違和感があったものだ(今日のチェコ・フィルはヴァイオリンの女性も黒でズボン姿だったからずいぶん保守的なんだろう)。
人生酸いも甘いも知り尽くした風の白髪のオジサンがたがうんうんといちいち納得し、音を大事に慈しみながらコントラバスを奏でている姿は眺めるだけでも心が洗われる。「ブラームスの4番ってそういうものなんだ、大人の音楽だね」とは言ったものの、娘は赤ん坊からこれを毎日のように聴いて育ってる。こっちは「鑑賞」でスタートだが、彼女らはカレーでも食べるぐらい普通なのだ。でもクラシックは味を覚えたら何度食べたって飽きないカレーと一緒だ、一生の楽しみになってくれただろう。
ブログにしたがドヴォルザークのチェロ協奏曲はシンセサイザーで弾いて第1楽章をMIDI録音した。第1楽章の名旋律のホルンのソロや各所で泣かせるチェロの歌。弾いていて涙が止まらず、カラオケ状態にして何度も何度もくり返し家中に響き渡っていたのだから子供たちはみんなこれも耳タコだ。これまた今更ながらなんていい曲なんだろう。これを聴いてブラームスはチェロ協奏曲が書けなくなり、第3楽章のコンマスとの掛け合いをヒントにしたのだろうかドッペルを書くことになる。改めてそれに納得だ。
ちょうど今日、仕事が天王山にさしかかって伸るか反るかの経営判断をすることになるだろう。とてもコンサートのモードになかったが、ケラスの絶妙の美音に心を鷲づかみされてしまい、第1楽章の真ん中あたりで完全にとろけてしまった。軽い弓のppがこんなに大きく柔らかく心地よく聞こえたのはロンドンで聴いたロストロポーヴィチ以来といって過言でない。技巧はこうやって音楽に奉仕する。かつて耳にしたドヴォコン最高の演奏だった。アルトリヒテルの伴奏はというと「お国物」といえば月並みだがこれはチェコ語でやらないとだめなのかと、ドナルド・トランプではないがケチなグローバリズムなどくそくらえと思わされてしまうキマり方だ。玉三郎の阿古屋だ。あれこれ御託を並べるのも無粋。
ドヴォルザークは不思議で、モーツァルトやブラームスとまったく違うやり方で心に侵入してくる。頭を経由せずハートを直撃してめろめろにしてしまうのだ。ちょっと毛色こそ異なるが、民謡や演歌がすっとはいってくる感じだ。我々日本人がチェコとエスニックなつながりがあるとは思えないし、五音音階の作用だけとも言い切れまい。何ごとも「クラシック」と呼ばれるようになるのはそういう不思議なものを秘めているということだろうか。
(ご参考に)
ケラスがビエロフラーヴェクとやったドヴォルザーク
ビエロフラーヴェクのモーツァルトはこういうものだった
ひと昔前の名演はこちら。
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うちのスタイルに合わない
2017 OCT 2 23:23:32 pm by 東 賢太郎
カープが清宮のドラフト指名から撤退したらしい。理由は競争率でも契約金でもなく「うちのスタイルに合わない」だ。しかしホンネは「いらん」だろう。
清宮は好打者と思うがこの決定には大賛成である。素晴らしい。カープのスタイルはまず足と守備だ。ホームランじゃない。それが赤ヘルのイメージとして定着してるせいか彼はカープのユニフォームが似合わない感じがする。ということはスタイルに合わないということなのだ。カープに必要なのは先発と抑えの両方で強力な左腕投手である。それとサードがほしい。広陵の中村は適材だろう。
ファーストかレフトしかできない、でもホームラン40本打ちますよというのは外人の指定席なのだ。ドミニカのカープアカデミーからバティスタのような日本人が逆立ちしてもかなわない身体能力の巨体の若者が出てきている。コストも安い。しかもバティスタはライトができるから上玉で、指定席にもうひとり強打の外人をおけるから圧倒的に利点がある。野球というのはいくら強打を誇っても守る所がなければ試合には出られない。つまりカープに清宮の居場所はないし、他球団で無理に場所を作ってレギュラーで出てくれれば付け入るスキが万年できて有難いのである。
ちなみに巨人の得点力がないのは外人指定席のファーストに大事な「阿部様」を置かなくてはいけないからだ。そして空き家となったセンターラインかなめのキャッチャーに置いた小林がこれまた極めつけの超貧打である。ダブルパンチなのだ。主将としてそのツケが回った坂本のスイングがおかしくなってしまった。それを補ったマギーと村田は来年いるかどうかのよそ者だ。長野、亀井は生え抜きだがもう年齢的に斜陽族のイメージでチームの起爆剤とは程遠い。菅野、マイコ、田口に活きのいい畠も出てきて防御率1位の投手陣にしてこれでは4位は仕方ない。「代打・ヨシノブ」が使えない高橋監督は読売人事異動の被害者だ。
カープの強さは若手がリードするチームワークだが、野球というのは時間の半分は守備であり、守りがリズム良く快調にいくかどうかは精神面で士気に大きく関わる。打撃はひとりでやるが守備は連携が命だからだ。その守備の快調さを左右するかなめは「センターライン」だ。つまりキャッチャー、ショート、セカンド、センターだが、タナ・キク・マルに加えて捕手の曾澤が定着したのが大進化だ。4人は27~29歳でほぼ同期であり、カープ生え抜きの文化で育ったという「血の結束」がある。5年は黄金時代が続くと書いたのはそのためだ。
センターラインの守備の結束は打撃の相互信頼にもなり、それがいわゆる「打線のつながり」を生む。カープは1,2,3番が不動のタナ・キク・マルで、打線にも血の結束が根付いているから強いのである。それが巨人だと坂本、マギー、陽、小林の4人だ。高橋監督はタナ・キク・マル効果を意識したんだろう、陽、マギー、坂本を1,2,3番に並べてコピーしてきた。しかし問題は順番ではないのだ、他球団からFAで盗んできた寄せ集めに血の結束なんかできっこないことこそ問題の根源なのである。
センターラインという視点から広島目線で嫌だなと思うのは以下の通りだ。ソフトバンクの柳田、今宮は12球団最強でキャッチャーに強肩の甲斐が定着しそうだが、セカンドが本多、川島、明石、川崎とまだ見えないのが救いだ。しかしそれ以外のポジションの厚みは圧倒的で付け入るスキなしだ。西武の浅村、源田、秋山、炭谷、これは血の結束もあって強力だ、源田が入ったのが大きいし森が捕手に定着したら12球団最強になるかもしれない。楽天は茂木、島内、嶋だが二塁が銀次か藤田か未定着だ、ここも茂木の加入が絶大だ。ショートが下手なチームに強いのはないのである。去年彼に新人王をやらなかったのは、選んだ記者連中の素人ぶりを暴露した。
阪神は途上である。セカンド上本は当確だが残りはばらばらの起用だった。特に鳥谷が偉大過ぎて後釜のショートが大問題だが、大和になるのか(ともあれ大和の守備は凄い、しかもプロになってスイッチにしたなど天才の域だ)。糸井がいるうちは逆に安心だがセンターを俊介、中谷、高山のどれかで決め打ちしたらカープ並みの血の結束ができそうだ。そうなると一番いやだ。新人の大山は僕がキャンプで感じた通りだ、構えが不敵で見逃がし方も思い切りもいい。投手目線ですごく怖い。金本はなんと4番に据えてしまった。2,3年後に優勝を争うのは阪神だ。これは誰が監督してもだめだったチームに金本が導入したカープ・スタイルの威力だ。
しかし今年のCSはといえばカープはDeNAのほうが嫌だ。桑原、倉本、戸柱が固まって、唯一だめだったセカンドに柴田というのが出てきてしまった。これはまずいのである。レフトに筒香、ライトに梶谷内野はファーストにロペスがいてトップクラスの打撃力だ。ダメだったサードに初めて規定打席に達して首位打者となる宮崎なんて伏兵が現れた。こうなるとセンターラインに加えてサード、ファーストに松田、内川、外野両翼に中村、上林を配するソフトバンクに見劣りしないではないか。
以上が野手の戦力分析である。ここに投手力が乗っかる。これはソフトバンクが最強、次がカープと巨人だったが巨人は消えてくれた。しかし7,8,9回だと阪神、DeNAがあなどれない。今のカープより上だろう。となると、まだまだ道は険しい。CSファイナルまで時間もあくし安閑とは出来ない、なんとかシリーズまで行ってくれと願うのが本音である。
(ご参考にどうぞ、これを読めばよくわかります)
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ベラスケス『鏡のヴィーナス』
2017 OCT 1 18:18:22 pm by 東 賢太郎
交響曲に共作はないと書いたが、小説ならエラリー・クイーンがそうだし、アニメの藤子不二雄だってそうだ。クイーンの国名物もドラえもんも名作だしそれが一概にいけないというわけでもなさそうだ。
作曲以外のジャンルで気になるのは絵画である。ではどうかというと、工房で制作したルーベンス(1577-1640)が近いだろう。彼は弟子に下絵描きや仕上げ作業をさせる垂直分業だけでなく対等の立場での水平分業と思われる作品だってあるからだ。ヤン・ブリューゲル (父)との『アケロオスの祝宴』(1615年頃)がそうだ。
ニューヨークのメトロポリタン美術館は3~4回は行ったと思うがこの絵に惹きつけられたのは大学4年のときだったろうか。当時詳しいことは何も知らなかったがこの構図と色が気に入ってしまい、中央奥の年配の男が何やら力説しているが聞いていない者もいてがやがやしている、そのざわめきが響いてくるようになってしまった。ちょうど徳川家康が死んだころに描かれたバロック絵画だが、この饒舌は音楽に通じる。コンチェルト・グロッソそのものだ。僕にはブランデンブルグ協奏曲の第3番が聞こえる。
ルーベンスは1628年から1629年にかけてマドリッドに滞在し、ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)と親交を結んだ。多作のルーベンスに対し、ベラスケスは寡作だが震撼するような知性と技法ですごい絵を描いた。彼は光と陰をフランドルから学んだかもしれないが、それはしかし彼の技法の一部になっただけだ。代表作『鏡のヴィーナス』をロンドンのナショナル・ギャラリーで観た時の衝撃は忘れられない。
この絵は1650年前後、イタリア滞在中に描かれたといわるベラスケスの現存する唯一の裸婦像で、スペインのカソリックで禁じられた題材、鏡のモチーフ、背後からのポーズ等々の議論、話題に事欠かない。フェリペ4世の宮廷画家であり国王が裸婦画を好んだからできたことで、鏡、背中のポーズ、ベッドのシーツ等は各々前例がある。そういうことは僕にとってどうということでもない。
衝撃だったのは、鏡の顔が別人だと直感したことだ。
まず大きい。遠くにある顔の方が大きいということは物理的にあり得ない。頭の角度も明らかに違う(女の方が垂直に近い)。頬からあごにかけての輪郭が違う。女は華奢で小顔であり、鏡の方はふっくらと豊満な体型を思わせるのであって、僕には同一人物とは思われないがいかがだろうか。
そもそもこの絵には科学の実験のような怜悧な空気が満ちている。全裸の女とは甚だ不調和な雰囲気だ。女は鏡を見て髪をとかすわけでも化粧するわけでもない。いったい何をしているんだろう?彼女の背中や臀部や足の息をのむほどリアリスティックな起伏。これは現実なのだ。では羽の生えた子供(キューピッド)がなぜ居るんだろう?我々の理性はそれを非現実ととらえる。では女の肢体のなまめかしい現実はいったい何なんだろう?この場に居合わせてしまった我々鑑賞者の居場所はどこにあるんだろう?
こんなパラドックスに満ちた世界観がバロック期にあったとは驚異だ。ベラスケスの脳の中だけにしてもだ。鏡の女はこっちを見ていない、現実と非現実が見合って対峙している図であって、これにロンドンで初めて遭遇したときの僕の第一印象はというと、あたかも一級品のミステリーが導入部の不可解な謎をぶつけて挑みかかってきたかのようだった。
顔を描いて人物の性格から声、行状、品性まで抉(えぐ)り出せるベラスケスの筆力はこのレベルだ(『教皇インノケンティウス10世』、同時期にローマで描いた作品)。
この画家が力を傾けたのは、思うに「女と鏡の顔は別人だ」と意図的に示すということではないか。キューピッドがともに描かれていることによって、初めてこの作品の女性がヴィーナスであると理解できるようになっているが、キューピッドを描く画法はヴェネツィア派などイタリア宗教画由来のままで、鏡の顔もその路線にある。ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノの世界の女性だ。ところが横たわっている女性はどうだ。これはドガやルノワールを連想させる印象派の世界の女性なのだ。
鏡のモチーフがこの絵から来ていることは容易に想像されよう。ルーベンスの『鏡のヴィーナス』(1612-15)である。
しかしこれはモデルも鏡の中も同じ女でありリアルタイムの光と陰の芸術である。髪をとかす女は鏡に写る鑑賞者を見ており、この場に居合わせてしまった我々の居場所がちゃんとある。体躯は宗教画の聖母を描く伝統から逸脱のない豊満さであり、この女がヴィーナスではあっても現実の生身の女性である必然性はあまり感じない。神話世界の『アケロオスの祝宴』で花を持ってくる女の一人であってもいいほど浮世離れした存在だろう。良い絵だが衝撃をくらわすインパクトは感じない。
一方、ベラスケスのモデルはというと、彼女が着衣だろうが裸体だろうが当時まで主題として描かれることのなかった宗教画にあるまじき華奢な体躯だ。そう推察されてきたように彼のローマでの娼婦か愛人だろうか、素性はともかくも、『ラス・メニーナス』(女官たち)に描いた侍女の倭人に注がれたと同等の隠すことのない現実主義的な冷めた目線で肢体のほうを描写しながら、顔はというと聖母像の系譜にぼかしこんだ。生身の女だから、ヴィーナスに模す必要があったのだと思う。
女と鏡の間には200年余の時空が横たわっている。四次元の見えない断層が在るのである。僕に衝撃を与えたのはそれを構想したベラスケスという男の刃物のような知性だ。ルーベンスの知性が伝統に依拠したものなら、ベラスケスのそれは伝統を破壊、超越したものである。伝統は誰しもが学び取り、共有され得るもので、工房の弟子たちともヤン・ブリューゲル (父)とも共作は可能だったろう。しかしその破壊、超越はひとりの天才によらねばならないのは音楽史でも同じことだった。
吉田さんがブログ『草炎』に書かれている「画家にとって絵というものはいつが完成なんだろう?」という意味深い疑問に立てば、ベラスケスは女とキューピッドの足先を完成していないようにも見える。しかしローマ教皇の微細を極めた描写の完成度を見るに、それはあえてそう描いたと思うしかない。彼は鑑賞者の目線がどこに行くかまで見通しており、視野外になる部分は意図的にぼかすことでリアリズムをさらに先鋭にしたと思う(人間の眼の構造に従ったということだ)。
画家にとって、画題、着想、構想、なにを描きたいと思ったかがすべてと思う。それをキャンバス上のヴィジョンに落とし込む技法の巧拙はすぐわかるが、見事な絵画というものがどういうわけで衝撃をもたらすのか、それはしばし熟考しなければ理解できない。そしていつも至る結論は、その根源は技術ではなく、着想、構想に尽きるというものだ。陳腐なものからは高級な陳腐しか生まれない。稀有な着想は他人とシェアできない、アンサンブルやコンチェルト・グロッソにはなり得ないものであって、一人の人間に神様が降らせてくれたものでしかない。お独り様稼業の作曲家と似たもの同士に思うし、男性専業というのが社会的要因によるのか人体の構造上の性差によるのか、とても興味深い。
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若者のための政治用語辞典
2017 SEP 30 0:00:40 am by 東 賢太郎
「すのまた城」
豊臣秀吉が一夜にして完成した希望の城。すぐ使われなくなった。
「名を捨てて実をとる」
捨てる名がまだあるという印象操作。何も捨てずにウソをつくの意味である
「アウフヘーベン」
持参金を差し出して対等合併を偽装するという意味のドイツ語
「リベラル派は排除する」
バリバリの保守宣言をされた蓮舫さんいらっしゃいの意味
「先に離党していった人の股をくぐる気はまったくない」
後に離党した人の股なら喜んでくぐろうじゃないかという意思表示
「総理経験者はだめよ」
私が総理だからですわの意味。都政は投げ出すわの意味でもある。
「当選ファーストの党」
「日本野合の会」とも。もう北朝鮮のミサイルに頼れない官邸の攻撃用語。
「保守二大政党」
リベラル=反日って国際的に見て変だからやめようね、踏み絵で落ちた人はわかりやすく「大日本反日党」を作ってねという意味。「新党サウスポー」でもいい。先祖返りの「社会党」、はたまた懐かしい「民主党」もありだ。全部おんなじだが。
「パンドラの箱」
男ばかりだった世界でパンドラは女性第一号である。神に「開けてはだめ」と持たされた箱をこらえきれずに開けてしまうと、ありとあらゆる厄災が出て世の中が滅茶苦茶になる。希望も入っていたが、結局最後まで箱の底に残って出てこなかった。
「シビリアンコントロール」
軍に政治への干渉をさせず政治家(文民)を通して国民が統制する仕組み。文民統治ともいう。「政治が目的であって戦争は手段である」とするクラウゼヴィッツの「戦争論」が原型。「新聞の売り上げ部数が目的であって野球は手段である」などと援用される。ハーバード大学のサミュエル・P・ハンティントン教授は「文民の軍隊への影響力が強すぎると軍隊の専門的な能力を低下させる」と指摘しているがこの指摘は文民がハイヒールを履いて指揮したり、新聞を売るために勝てと試合前に檄を飛ばしたり新聞社の人事異動で野球の監督を任命したりすることで具現化される。前者による軍隊の能力低下は危惧の段階だが、後者はすでに顕著に具現化している。
「三都物語」
チャールズ・ディケンズの二都物語は「ロンドンとパリ」だから確かに二都だが東京・名古屋・大阪は一都じゃないか、おかしいだろ?と大阪都構想を画策するスパイ映画(主演男優・松井一郎)。『プリンセス・トヨトミ』に出るわと主演女優の小池百合子が中途でキャンセルし不発に終わる。
「実質経済成長率」
名目経済成長率からデフレーターを引いた数字。デフレーターがマイナスだとデフレであり「名目<実質」となる。こうなると物価が下がって賃金も下がり失業も増えるので世界の中央銀行が恐れる。恐れないのは「安倍政権の成長率<民主党政権の成長率」だったというトリックに使えて国民を騙せると思っている旧民主党出身者だけである。
「一都物語」
小池百合子が大村秀章を食って三都物語が二都物語になる計画が発覚し、身の危険を察知した大村は逃げる。松井一郎はおれはなんだったんだと怒り、結局『プリンセス・トヨトミ』出演はポーズだった小池百合子だけ残る「一都物語」でしたという大ドンデン返しのミステリー巨編。哀愁のエンディングで小池がつぶやく「そうよ、東京は都だもの」が有名。
「モリ・カケ問題」
客の注文がモリそば、カケそばに偏る傾向があると蕎麦屋が危機感をつのらせる問題。62%に達したというデータも出てきた。モリ・カケだけでは儲からないため「天ぷらそばの海老を大きくします」「鍋焼きうどんは正統派メニューだ」など水を向けるが「モリ・カケ隠し」と批判される。
「好景気の実感はない」
株高になってアベノミクスに追い風が吹くのを食い止めようという野合の衆の合言葉。野合の衆=烏合の衆とされる。「株高の実感はある」と言っているわけだが好景気と株高の関係は実は誰もわかっていない。「株高⇒追い風⇒安倍が儲かる」=「風が吹けば桶屋が儲かる」=「やばい」が彼らのロジックである。
「ピンチはチャンス」
「チャンスはピンチ」ともいう。ピンチをチャンスと言わざるを得ない自分はピンチであるというトートロジー。浮気がばれた女性国会議員の自虐的表現によく使われる。
「踏み絵」
お調子者、なりすまし者を選別する効果的なシステム。日和見で主君を裏切る者がこれを用いて同類を集めるために多用される。
「リセット」
初めの状態にセットしなおすこと。初期設定化ともいう。初期設定がどうだったかわからない場合はそれをデフォルトとは呼ばずカオスという用語を用いるのが一般的である。「リセットします」は算盤(そろばん)では「ご破算で願いましては」というが、カオスになる場合は破産を伴うリスクもありトップとのツーショット撮影料3万円を徴収するなどの工夫も必要である。
逐次追加します。
(付録・こちらへどうぞ)
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世の中で大事なのはEQである
2017 SEP 28 2:02:08 am by 東 賢太郎
入社すぐのころ、酒癖の悪い先輩に気に入られてよく梅田の飲み屋を連れ歩かれた。毎度明け方になり、行先はきまって場末のしょぼいやつであり、ママさんといって大阪のオバちゃんだからあけすけで口が悪い。半分寝ていてなんだったか覚えてないが、若気の至りで生意気なことを口走ったらしい。
「にいちゃん、IQは関係あらへんで世の中は。EQよ。」
「イーキュー、なにそれ?」
「あんたなんも知らんね、こころよ、こころ、ハートのことやで」
ときてすこし目が覚めた。注文してない濃いめのハイボールが出てきてゲーっとなったのを覚えている。
それ以来忘却の彼方にあったEQだが、ひょんなことで思い出した。ググるとIQ は Intelligence Quotient であって、EQ というのは Emotional Quotient らしい。知らなかった。ネットは便利だ、こういうのがすぐわかる。「心の知能指数」とある。なるほど、オバちゃんは正しかったんだ。
さてネットを見ていくが、英語はわかったもののEQとはなんぞやがよくわからない。wikipediaもさっぱり意味不明だ。そうしたら、
「あなたのこころの知能指数(EQ)の高さはどのぐらいですか?」
というテストがあって、テキトーにやってみた。すると、結果はこうだ。
いやいや、おばちゃんになじられたものの、あれから世間様に鍛えられて一人前になったんだ、そういうことなのか!一瞬気を良くして、その次にあった別なテストもやってみた。すると、なんと100点満点で65点。堂々の赤点である。う~んこのアバウトさ気に入ったぜ。こんな風に使えるな・・・・。
どうも大相撲は大一番になるらしい。
激しい張り手の応酬から、強力な足技である「モリ掛け」の奇襲で押し込まれた横綱安倍関。いよいよ俵に足がかかったところ、絶妙のタイミングを見計らって練りに練った引き技の「北朝鮮落とし」を決めた・・・つもりだった。ところが十両落ちが見えてきた前頭十四枚目の前原関が「野合返し」というプロレス並みの危険な荒業をくりだしたのである。捨て身の抱き着き技である。そして、またまた張り手の応酬だ。なにせこの取り組みには「小池屋のブタまん」の懸賞が30本もかかっている。こうなると力士というのは恥も外聞もないのである。
野合連合は数が足りない。候補者の質などかまってる場合じゃないのだ。ええい、そのへんのあんちゃん、ねえちゃん、みんな寄っといで。ブタまんたらふく食えるで~、ギインさんにしたるで~。ええかい、有権者のみなさん、この子はね、こう見えても「EQ150」なんやで、どや、すごいやろ。ふつ~でないやろ、こころやで、ハートがあるんや。
(PS)
一国の政治は歴史観をもって行われねばならない。政治家選びは断じて人気投票であってはならないだろう。
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『気』の不思議(位牌とジャズの関係)
2017 SEP 26 0:00:35 am by 東 賢太郎
高野山延暦寺の番組を見ていた。周辺の村で伝統的につくられる高野位牌の職人さんにTVアナウンサーが「戒名の彫り方にも気持ちをこめられているんですね~」と、マックの店員みたいにお馬鹿な質問をする。
するとその職人さん、困ったように、「いや、気持ちはこめませんね、戒名はあくまで故人さまのものなんで、私が気をこめてしまってもよくないんで」と答えていたのがとても印象に残った。
気とはそんなに強いものなのか・・・。
名曲とされる音楽には実はどっぷりと作曲家の気がこもってるのかもしれない。チャイコフスキーの悲愴なんかどうだ。あれを聴くといつも心にずっしりと重たいものをかかえて帰路につくではないか。それをチェリビダッケぐらい気のかたまりみたいなおっさんがやったら尋常じゃ済まされない。
それでいうならフランクフルトで92年に聴いたユーリ・アロノヴィッチの幻想交響曲だ。あれこそ指揮者の気だったんだろう、おとなしいイメージのバンベルグ響が燃えまくって物凄い演奏になってしまった。こわい。完全ノックアウトを食らった、あんなのは何度もあると体に良くない。
7月7日に神宮球場で遭遇した広島カープの世紀の大逆転事件もそうだ。9回表を迎えて5点差の負けがひっくり返ったあれ、客席で鳥肌が立った。カープ選手の「絶対やったるぜ」の気だ、今年の強さの縮図だった。きのう引退試合だったロッテの井口が現役最終打席に立った。これも打つ前から何かあった。同点ツーランホームラン、恐れ入った。試合はそのままサヨナラだった。
我がことではサンフランシスコの野犬事件だ。野っ原で夜陰にひとり、5,6匹の獰猛そうな野犬と向き合ってしまった。ヤバいも何もない、殺られると思って咄嗟に工事の土管に隠れた。先頭の怖そうなヤツが土管のむこうの出口でこっちをのぞいて目が光った。5メートルぐらい。びびっと視線が合ったら、ヤツがなぜか回れ右して、ケツを向けて全員去ってくれた。あれって気だったんだろうか。
毎月打ってもらってる神山先生の鍼(はり)。あれも不思議だ。肩から腰あたりまでの背中に8本打つが、毎回場所が違う。「ここ気が流れてないね」だ。そういう場所を選んでいて、ツボということもない。日本人の鍼灸医の技術では背中は打てない。肺に刺さって気胸になる事件が最近もあったが、危険なのだ。だから鍼灸医が患者になって来ている。
気という語は
気持、気合、気分、気候、気功、気色、気質、気長、気品、気心、気楽、天気、気温、気象、気圧、気味、正気、狂気、邪気、陽気、陰気、産気、運気、根気、生気、短気、人気、呑気、勇気、色気、空気、本気、気配、気骨、気だて、意気、気まま、気構え、気安い、気難しい、気を許す、気を寄せる、気が良い、気がねする、気をそそる、気を吐く、気を落とす、気が抜ける、気が利く、気がふれる、気が進む、気がせく、気をそぐ、気に召す、気が立つ、気になる、気にする、気にかける、気負う、気をやる、気に入る、気がひける、気をつける、気が張る、気を抜く、気を使う、気が付く、気を付ける、気を持たせる、気に障る、気を良くする、気が散る、気がある、気を引く、気が滅入る、気が移る、気色が悪い、気安い、気が置けない、気を回す、お気軽に・・・
まだまだあるだろう。いかに我々日本人が気を気にかけていることか。
ストレスで気が重いとき、ちょっとリラックスしてジャズをきく。これがたまらない。ピアノが好きだけどクラシックの回路に入ってしまうので、そういうときはサックスだ。なんたって展覧会の絵かアルルの女ぐらいしか出てこないし。
ジャズの人には邪道なのかもしれないが、コルトレーンじゃない。どうも彼のは「気」が入りすぎてる。
まずはウエイン・ショーターのこれか
スタン・ゲッツのこんなバラードのコンピレーションはもっと邪道なんだろう。しろうと色丸出しで気がひけるが。
でもこれはうまい。旋律の歌いかたが絶品、軽い、大好きだ。Loverでなくたってうっとりしてしまうではないか。彼のサックスはあんまり「気」がこもってないんだ、気が抜けてるわけじゃなくって。気が置けないし気をそそるね。
(いらん、といったものですが・・・)
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「未来」と呼ばれているものの正体
2017 SEP 24 23:23:58 pm by 東 賢太郎
アインシュタインは現在、過去、未来はない、それは人間の考えた幻想に過ぎないと言ったそうだ。人間の脳には記憶のファイルが巨大な本棚のように収納されていて、たとえて言うなら、何かを思い出したり考えたりすると本棚のその部分にピカッと光が当たるようなものだそうだ。
では「いま」とは何か?ピカッによって我々が目、耳、鼻、口、肌などの五感のセンサーで感知している世界のことだ。その「いま」は時々刻々と「むかし」になりつつある。ではどれだけ時間がたてば「むかし」なのかは誰もわからないし、尋ねられれば1秒後とか0.1秒後とか瞬時とか、答えは人によって違うだろう。
ピカッで感知できないもの(例えば紫外線や可聴域外の音)は「いま」に含まれないけれど、あるかないかと問われれば、ある。100光年先の「いま」は100年しないと見えないが、こうして議論している瞬間もその場所はある。だから「ある」か「ない」かということと、「いま」は別個の話である。
我々は自分が感知した「いま」がしばらくすると変わっていることに気づく。さっきそこにいた猫がいない、というふうに。そこで、「さっきの今」を「むかし」と呼ぶことにして、そこに至るまでの間に「時間」というものが流れたのだと思うことにしたわけである。とするならば、その時間がさらに流れれば、その先には「これからの今」があるじゃないか。
むかし(過去)、いま(現在)、これから(未来)はこうしてできたらしい
わかったようでわからないが、動物ならどうだろう。ネコにきいたわけではないが、明日の夕食をどうしようなどと考えそうもない。すると「未来」というものはないだろう。「過去」はというと、さっき何を食べたかぐらいは覚えているかもしれないが、記憶があるから過去があるというわけではない。記憶を現在より前のこととして現在から仕分けして眺めている「自我」がないと過去というのは存在できない。
「時間というものが流れたのだ」と思うことにしたのは「自我」である(思うに、それがデカルトの言う「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ」だ)。おそらくは自我のないネコに「時間」というものを創作して1時間前と今を比べてみようという意識はないだろう。ということは、時間の経過でしか定義のしようがない過去も未来もネコにはないということになる。
では自我のある(はずの)我々はどうだろう?
これを考えるには相対的存在というものを知る必要がある。例えば「きみ」という人間だ。本名は山田太郎だが「きみ」であるのは「ぼく」がいるからだ。「ぼく」の自我が自分ではないと仕分けしたからそう呼ぶのであって、実存はしていても「きみ」は「ぼく」とペアで僕の頭の中にしか存在しない。僕が死ねばそうか山田君のことだったのかとは判別できなくなってしまう「きみ」は、だから存在しない。
同じように、昨日カレーを食べた事実は実存しても、あるのは「ぼく」の脳内の記憶であって、それを「過去」と呼んでいるのは現在の僕でしかない。僕が死ねばそれはない。100光年先の星は僕が死んでも実存するから「ある」のだが、昨日のカレーは「ぼく」とペアの相対的存在であり、「ぼく」が「現在」と仕分けして「過去」と呼んでいるものは全部がそのカレーと同じである。
つまり、「過去」とは「ぼく」とペアの「きみ」や「カレー」とおんなじで、存在しないものなのだ。これをアインシュタインは「幻想に過ぎない」としたのだと僕は理解している。
我々は過去、現在、未来という時間の流れがあると信じている。しかし物理学に時間の概念はなく、時間と思っているのは3次元と4次元(時空)の差異だ。時間概念がないというのは、つまり認識できるのは常に「いま」だということだ。ピカッと光が当たっている本が「いま」であり、いま知覚した本は瞬時に過去になっているが、それを「考えている」限り光は当たっておりそれは「いま」のままだ。
いま目で見ているものであれ昨日見た映画であれ、知覚の光が当たっているからそれは「いま」なのであり、光が当たっていないものは存在しないに等しい。100光年先の星は存在していても、光は届かないからそこの「いま」は我々の「いま」ではない。存在がいまではなく、意識の光がピカッと当たるか否かが「いま」であり、それはネコの「いま」と変わらない。
なんだ、我々はネコなみか?そう思うと寂しいが、人生はずいぶん気楽なものにはなる。過去はもうこの世にないのだから失敗など悩む必要はどこにもない。明日どうなるか、何をしたらいいかなんてわかる理由がない、ないものを考えたって答えなど出ようがないからだ。
さて、やっと本題の「未来」の話だ。時間という概念を使おうが使うまいが、人生はいましかあろうがなかろうが、自分が生きていようがいまいが、「あした」は来る。それはまだ記憶にもなっていないからピカッと光りようもない、まさしく空想の産物であるものの、地球がぐるっとひと回転すれば確実に来るからきっと「あした」は存在するのだ、ネコにも我々にも平等に。
しかし我々の自我は欲深い。「あした」ではない「未来」というものを生み出した。幻想なのだからどうにでも主観が入り得る。それは「予測できる」というものだ。物理の法則で、天体の運行のような単純な運動は、万有引力という人間の感覚では不可知ながら数学的に想定すると未来を予測できることを我々は経験的に知っている。そうやって月にロケットがちゃんと命中している。しかし一方で、引力を及ぼす天体が3つ以上になった場合の運行法則は見つかっていない。
このことはアインシュタインが「経験とは独立した思考の産物である数学が物理的実在である対象とこれほどうまく合致しうるのはなぜなのか?」という疑問を持っていたことを想起させる。数学は人間が発明した道具なのか、それとも何かの抽象的世界に実在していて人間はその真理を単に発見しているのか?この議論にいまなお答えはないそうだ。某大学医学部の麻酔科教授が驚くべきことを教えてくれた。「実は麻酔がなぜ効くかというメカニズムはまだわかっていないんです。経験的に正しいと、何時間したら目が覚めるはずだと信じて使っているだけなんです」。怖い話だがそれに近いのかもしれない。
月に命中するか?患者が目が覚めるか?予知できる未来はかように極めて限定的であるのに、我々は不遜にも予知は可能であるという前提で科学というものを発展させてきた。科学者は限界を知っていようが一般人は科学は万能と思い込んでいるのであり、それこそが「未来」と呼ばれているものの正体に他ならない。明日も生きているかどうかすらわからない人間が作り出したはかない空想の産物でないと誰が言えるだろう?しかし「明るい未来」とはいい言葉だ。それがあると思うから人は懸命に働くし善行も積もうと思うのだ。
そう思い至った僕にして、実は「いま」しかないのだよと人生の座標軸を変えるのは一大プロジェクトに他ならない。いま、僕はそれをしている。重大な意識改革だ。できるのはいまを良くする努力しかない、未来とはその結末にすぎない。では、いまを良くする努力に近道やスタントプレーがあるだろうか?そうならそれは魔法というものの立派な定義になるだろう。そんなものはない。できるのは、ちょっとだけ本棚にあてるピカッとした光を強めて、本の背表紙をじっくり見るぐらいのことだ。
それは勉強や仕事をしている時だけでなく、駅へ歩く道すがらだったり友達と他愛ないおしゃべりをする間だってできることだ。逆に言うなら、そこでできないことを勉強や仕事だからといって突然できるようになるわけではない。これを間違ってはいけない。光を当ててじっくり見るということを我々は「注意力」と呼び、光の強さを増すことを「集中力」と呼んでいる。つまり注意力散漫で集中もできない人が、いざという時だけそれができることはあまり期待ができないのである。
このことを若い人は肝に銘じておいてほしい。過去は変えられないから考える意味がない。皆さんは失敗はきれいさっぱり忘れて「なかったことに」で構わないのだ。しかし現在の過ごし方の質を上げれば未来は変わるかもしれない。方程式はないけれど、未来は明るいものになるかもしれない。それをいま何の努力もせずに望むのはナンセンスだ。しかし現在の過ごし方の質という最小限の努力はできるものに置き換えれば未来はあなたのものかもしれない。
では、どうすれば注意力がつき、集中力が発揮できるのか?それさえできれば、こういうことに必ずなる。
現在 < 未来
さらに、
現在の勉強・仕事・しあわせ < 未来の勉強・仕事・しあわせ
になる。僕はそうやって受験や仕事を一応は成功裏に乗り切ったし、それを様々な形でブログに書いてきた。それを読んで共鳴していただいた方々はきっとご自身でできているから共鳴されたのだと思う。そんなに難しいことではない、ちょっとした努力をすれば誰でもできる。
ソナーという会社は意欲ある若者を育てること、才能を見つけることに社会的存在意義を見つけようとしている。意欲と勇気のある方ならだれでも遠慮なくご連絡いただければお会いするし、伸びる方法をお教えもできるだろうと考えている。もちろんすべては無料である
・・・・
以上は本年3月22日にソナー・アドバイザーズ(株)HPに書いたブログだ。当SMCにはこれが1513本目のブログということになる。それをトータルに眺めると、適当に思いつきを書いていて中味は五月雨だが、すべてが僕の頭から出たもので受け売りやコピペは一切なく、一義的にはまず自分の備忘録で、本稿にある「本棚でピカッと光が当たった本」を開いて「書き写して」いる。そうしておかないと、10年後は生きてるかどうか、生きていてもその本は本棚から消えている、つまり記憶が飛んで忘れてしまっているかもしれないという恐怖が常にあるからだ。
1513冊で僕の頭の本棚の何割を写したのか知らないが、興味ないことや詳しくないことは残しても無意味だし、お読みいただく方に時間を費消していただく資格がないから書かない。ジャンルは右のカテゴリー欄にある項目を「縦軸」とすると、各ブログの末尾にリンクを入れてジャンルまたぎの「横軸」になるようにもしている(いま作業中)。
横軸を気長に辿って行っていただけると予想外のジャンルに飛んだりするが、それは僕の話の個性でもオンリーワンの特徴でもあって、リンクさせている意味はちゃんとある。左脳と右脳をつなぐ脳梁と思っていただければ幸いである。ある意味で、別なワールドをお楽しみいただけるのではないかと思う。
単語やフレーズによる検索はブログ右上の「サイト内検索」で行える。ただしワードプレスの検索機能はやや狭くて、文字列とフォントがきっちり合わないと出てこない。ラヴェルはラベルでヒットせず、交響曲の前にスペースを入れるかどうか、3番か3番かで出なかったりする。ここは プラットフォームの問題であり仕方ない、いろいろお試しいただくしかない。
音楽ブログについては文章と楽譜だけでなく、youtubeから音のサンプルを貼ってできる限りご理解いただけるようにしたい(耳で聞くのが圧倒的に理解が速い)。まず、youtubeに「東」のマークのチャネルを作り(このビデオ等)、僕の保有する音源をブログの補完としてアップロードしていく方針。フォローしていただければクラシックについては深められると思料する。
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