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モーツァルト オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」(K.588)(Mozart: Cosi Fan Tutte)

2014 JAN 5 19:19:42 pm by 東 賢太郎

僕はあまり声楽をきかない。スカラ座、メット、コヴェントガーデン、ベルリン、バイロイト、ザルツブルグ、ミュンヘン、ローマ、パリ、チューリッヒ、ドレスデン、フランクフルト、ヴィースバーデン、ジュネーヴなど、ざっと思い出しただけてもこんなにたくさんのオペラハウスでオペラを聴いたはずだが、僕のオペラのレパートリーは多くない。

それはたぶん筋書き、ドラマよりも音楽を聴きたいからで、イタリアオペラの大半は何度聴いてもだめだ。歌の魅力はわかったとしても音楽の方が興味がわかない。名歌手が歌うならオペラハウスに行ってみようと思うことはあっても、あれを家で聴こうとかピアノで弾いてみたいとかは金輪際思わないだろう。ワーグナーだってジークフリートなど大半は退屈してしまう。もし素晴らしいあの夜明けから森のささやきの場面が来ないならば劇場ですら耐え忍べるかどうか自信がない。

僕は閉所恐怖症のため飛行機は椅子に固定されるのが恐怖で、船で香港から帰ろうかと真剣に考えたことがある。歯医者は治療の痛みよりそれが理由で嫌いだ。床屋すらだめで、ある時途中で落ち着くためにトイレを借りたことがある。だからそれに5時間も縛られるオペラハウスという場所がそもそも恐ろしい。バイロイトではぞっとした。あそこの座席は前後を貫く通路がないからPardon meを繰り返して延々と横に出なくてはいけない。演目が比較的好きなタンホイザーだったので救われた。

劇場でそういう心配がないのがモーツァルトのオペラである。僕がそれに開眼したのは「コシ・ファン・トゥッテ」で、あの息もつけない第1幕のフィナーレをきいて感きわまってしまい、どういうわけか悲しい曲でもないのに涙が止まらなくなった。今でもそこは冷静でいられない。音楽の奇跡を示すものをあげよといわれれば、僕はまずあそこをお示しすることになるだろう。僕が認知症で何もわからなくなっても、このオペラを、それもあそこを聴かせてもらえばきっと喜ぶはずだ。

それがこれ。たった2分!音楽がシャンペンみたいにはじけ飛び、あれよあれよという間に歓喜の渦に巻き込まれる。このメットのキャストもうまいが、オトマール・スイトナーの全曲盤でここをお聴きになるがいい。モーツァルトの音楽の物凄さに唖然とすること請け合いだ。

 

この題名は「女は皆こうするもの」という意味だ。最近は「コジ」と書くらしいが、40年も「コシ」でなじんでしまったので落ち着かない。僕はコシでいかせていただく。2組の恋人がいて、兵士の男たちが自分の彼女の貞節を自慢する。お若けえの、ホントにそうかな?という老練のおっさん(哲学者になっている)が現れ、それじゃあ賭けをしようじゃないかとなる。2人は戦場に行ったふりをして立ち去り、アルバニア人に変装して現れる。相手を交換し、口説いてみたら2人ともコロッと裏切ってしまう。

このリブレットを不道徳だと批判したのはベートーベンだ。真面目ということよりも彼は 女性の尊厳が確立していく19世紀の人だったのだろう。この筋より不道徳だったワーグナーまでが批判しているのが面白い。初夜権なんてものが題材になった18世紀、ロココ人のモーツァルトはそう思わなかったろう。だから彼がおちていく姉妹の心のひだを描いた音楽は説得力に富むし、アルバニア人を拒み続ける姉のフィオルディリージがついに気が変わる歌につけた濃厚なクラリネットとホルンの訳ありげなオーケストレーションなどのように、いちいちが見事だ。

モーツァルトはどんな筋書にも作曲できたように思える。比較的まともなリブレットを得たフィガロとドン・ジョバンニはもちろん、このコシと魔笛のような、もしも彼の音楽がついているのでなければまず歴史を生き延びることはなかった筋書きでもこんな曲を書いてしまう。これは元々あのサリエリが作曲する予定だったがお鉢が回っただけだ。それが、人間心理の表出にたけたモーツァルトにとって腕の振るい甲斐のある題材になってしまう。興味深いことだがこのオペラのどういう場面にどういう音楽をつけたかが彼の器楽曲への格好の道案内になる。

たとえば第1幕「死んでやる、さあ、死んでやる」でアルバニア人たちがヒ素を飲んで死んでしまうと姉妹が信じこんでいく場面の短調の音楽だ。ピアノ協奏曲24番もかくやという悲しげで精妙な半音階的和声が展開していくが、ここで聴衆は爆笑なのだ。そういう短調は「後宮からの誘拐」のオスミンのアリアもそうだ。彼の短調の器楽曲がみなそうだとはいわないが、それが小林秀雄の「走る悲しみ」だけを現しているのかどうか、聴き手は自分の感性を試される。

さて冒頭に声楽をきかないと書いてしまったが、こう書いてきて、声楽が楽器として見事にワークした時のインパクトにはどんな楽器もかなわないということは否定しようがないと思いあたった。そしてモーツァルトにおける声楽は楽器なのだと僕は思っている。それは彼がザルツブルグで教会音楽を書いて過ごしたことと関係があるだろう。実は宗教音楽は僕が最も好きなモーツァルトのジャンルである。ピアノ協奏曲よりもオペラよりも好きだといえば少数派だろう。それは器楽としての声楽はピアノにも勝るのであり、それが最も徹底しているのがオペラではなく宗教音楽だということだ。

コシ・ファン・トゥッテに戻ろう。

113(1)このオペラにはカール・ベームの旧盤という音楽評論家が口をそろえて絶賛する名盤がある。これをけなした人は寡聞にして知らないが、僕はこれをあまり好まないことを告白しなくてはならない。たしかにエリザベート・シュワルツコップのフィオルディリージ、クリスタ・ルートヴィヒのドラべルラはすばらしいしベームの指揮も堂に入っている。しかし、このオペラの約半分が登場人物6人の2重唱から6重唱のアンサンブルで成っていることを考えると、どうしても聴き劣りしてしまう名盤がある。

スイトナーコシ僕はオットマール・スイトナーが東独のキャストとベルリン・シュターツカペレで録音した演奏がどうしても頭からはなれない。フィオルディリージを歌うカーサピエトラがシュヴァルツコップよりすぐれた歌手であると主張する人は世界にあまりいないだろう。しかしそれでも、この演奏が展開している声楽アンサンブルの魅力は否定しがたい。たとえば第1幕フィナーレの6重唱でのフェルランドのパートをここでのペーター・シュライヤーほど完璧に歌った歌手を僕はきいたことがないし、カーサピエトラとドラベルラのブルマイスターの二重唱は天国のように美しい。

僕に声楽のことはわからないがベーム盤の歌手たちはアンサンブルでも自分の歌を歌っているように思う。タッデイとクラウスが声の立派な押し出しという点ではスイトナー盤のライプとシュライヤーをしのいでいるという指摘も甘んじよう。これがドン・ジョバンニであるならそれは決定的なことになる。しかし、コシにおいてはそうではない。天下の名ソプラノと評されるシュワルツコップの歌唱のよさを聴き取ろうと僕は何度も努力したが、そして重要なアリアにおいてその試みはある程度は成功したが、アンサンブルにおける彼女の歌はどうしても好きになれない。

471(1)このスイトナー盤はi-tuneでたった1500円で手に入る(右)。東独制作盤で経費が安く償却済みということだろうか。僕は芸術作品の価格は心理的効果がばかにならないと思っていて、安いのはありがたいがそれでこの演奏が安物だとイメージされないように心から願っている。これのLPを買って大いに気にいった僕は、84年にDENONからこれがCD化されたのをロンドンで知っていてもたってもいられず、東京出張の折に石丸電気で真っ先に買った。9000円だった。

 

モーツァルト「魔笛」断章 (私が最初のパミーナよ!)

 

 

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