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チューリッヒ日本人学校の思い出

2014 JAN 13 22:22:48 pm by 東 賢太郎

 

チューリッヒ学校のあゆみ(沿革)によると僕は平成8年度にチューリッヒ日本人学校の第9代運営委員長であった。運営委員とは現地にある日本企業から各1名の代表者によって構成され、学校運営の予算策定、収支の監督、政策や行事の起案と執行等を行うための機関である。

文部省(当時)に日本人学校の設立と教員の派遣を依頼している在留邦人が国であれば主権者であり、各企業の代表者(社長)が国会議員であり、議員の中から運営委員が互選で選出され行政府(内閣)を組閣するという構成であったと記憶している。

当時僕はスイス着任2年目の新米であり、議員の内では41歳と最年少の若僧であった。しかし野村證券は当時年間で9兆円あったスイスフラン債の本邦発行体による起債市場ではダントツ世界一のシェアがあり、社員数と子女の数もダントツであったゆえに僕に運営委員長のお鉢が回ってくるという諸般の状況にあった。

内閣総理大臣であるから、就任するとすぐに「組閣」をする。しかし議員さんたちは全員が銀行、証券、保険などの社長さん方や大蔵省、防衛庁(当時)の方であり、しかも一回りも年上の大先輩たちが多くてとても困った。とにかく副委員長2名、予算、会計、行事、バス(送迎)などの委員、つまり各省庁の大臣を任命させていただき、何とか「双葉マーク」でスタートした。

運営委員長は公的ポストであって、始業式や運動会では駐スイス日本国特命全権大使閣下の後を受けて「ご講話」をしなくてはいけない。だから仕事では原稿など一度も書いたことのない僕が前の日に懸命に考えた。よし、これだ!という内容ができ、自信を持ってしゃべる。ところがだ。子供たちの顔を見るとぜんぜんウケていない。×××子ちゃん今日のおべんとうな~に?(たぶん)なんて感じで隣の子とペチャクチャはじまっているではないか。僕は頭が混乱しだし、ついに冷や汗をかいたまま想定外の尻切れトンボで終わってしまった。

M校長先生に、すいませんとあやまると、えっという顔をされ、委員長よかったですよと真顔で言って下さる。あながちお世辞でもない風だ。僕らが仕事でやるスピーチやプレゼンの方が世の中ずれしているのだと悟るのにはけっこう時間がかかった。学童の一人としてそれをきいていたはずの長女は親父の苦労はどこ吹く風で、ぜんぜん覚えていないらしい。やれやれ。

校庭もっと冷や汗をかく事件が起きた。ある日、校長先生から会社に直訴の電話がきた。「校庭に杭が打たれています。どういうことなんでしょうか。」けっこうな剣幕で怒られた。かけつけてみると、確かに校庭のサッカーゴールわきの角の一区画、上の写真の左端あたりが大きく円形に杭でブロックされていた。

子供たちはそう広くはないこのグラウンドでサッカーをすることを毎日の楽しみにしていた。これは絶対に何とかしないといけない。ところが地主であるウスター市と交わされた10年ほど前の契約書を見てみると「期限と条件付きの借地」であって、市はこの工事は正当な権利でありバス停として使用する計画を撤回はできないと主張してきた。これはどうしようもない。委員会で議論を重ねたものの、結論は市への「事情説明」と「陳情」以外にはないことは明白であった。

僕は副委員長さんたちと市長をたずね、子供たちはウスターが大好きであり、せまいチューリヒでなくウスターでのびのびサッカーができることに感謝していること、市の計画は尊重するが何の事前通告もなかったことに子供たちは驚き、深く傷ついていることを強く訴えた。しかし、何の返答もなく工事は始まった。2度3度と足を運び市長に同じことを伝えたが一向にらちがあかない。このままでは負けだと思い、僕の独断で、残念だがチューリヒ市への移転も検討しているとあらぬことを伝えた。もちろんそんなつもりはなく、それは無理だったし候補地が見つかったわけでもなかった。勝負だった。

そうしたら1週間ぐらいして、市長からちょっと来いという連絡があった。土地を明け渡して出ていってくれと通告されることを覚悟した。大変なことになってしまった。市長室へ通されても誰も言葉が出なかった。しばらくして現れた市長は、しかし、今までの暗くて険しい表情ではなく満面の笑顔だった。「ウスターを選んでくれてありがとう。今日はサプライズだ。バス停の土地の代わりに、隣の農家が牧場を同じ面積だけ貸してくれることになったよ」と告げられた。上の写真はグラウンドをその牧場側から撮ったものだ。ネットをこちら方向に1mほど後退させる交渉を市長は黙ってしていてくれたのだ。農家の方にも深くお礼を申し上げた。そこで牛を放牧している親父さんが、快く、良かったねと言って下さった。有難かった。冒頭の「沿革」にそれは「校庭南側拡張及び校庭平坦化工事終了」と小さく記録されている。

東さんみたいな証券会社のかたが委員長でほんとうに学校も生徒たちもついていました、よかったです、と校長先生はとても喜んでくださった。あまりそれで世間様に誉められたことがなかったので、ちょっとうれしかった。1年間なんとか無事につたない運営委員長を務めさせていただき、任期満了のご挨拶とお礼を委員さんと教員の先生がた全員の前ですると、最後に防衛庁から御出向の官僚のかたが高く挙手をされてこうおっしゃった。「東さん、ご苦労様でした、ところでなんで防衛庁に入られなかったんですか?いい武官になられたのに・・・」。ありがとうございます。自分にとってこんなに光栄なお言葉はかつてありませんでした。一生忘れません。

今日、昔の写真を整理していてチューリヒ日本人学校のことを思い出し、ホームページを開くと出てきたのが上の2つの写真だ。思い出した。あれから18年、見るとグラウンドは何も変わっていない。ほっとした。勝手の違う海外で学ぶ日本の子供たち、今日もサッカーで泥まみれになっていたらいいなあと思った。

 

 

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