Sonar Members Club No.1

月別: 2014年8月

米国放浪記(6)

2014 AUG 31 18:18:54 pm by 東 賢太郎

 

憧れは現実が凌駕することを知る

8月16日、オークランドのモーテルを午前10:45に出発するとすぐにスタンドに寄って憧れのサンフランシスコへの道を聞いた。今度は近すぎてあきれられた。ガスを入れ、車のコンディションにナーバスになっていた H がオイル点検をたのむと中国人風の店員が「換えた方がいい。でも都会のは汚いよ(It’s dirty in the city)」とシスコに行く前にここで換えろと暗に脅す。すごいセールストークがあるもんだ。そんなのに騙されるほどジーンズにTシャツにタタミのサンダル履きの僕らは馬鹿者に見えていたらしい。オークランドはシティじゃないというのは学習だった。だからジャイアンツじゃなくてアスレティックスがあるんだ。

75セント払ってベイブリッジを渡るとすぐサンフランシスコである。良い天気だが橋は混んでいた。右手のフィッシャーマンズ・ワーフへ進むと、鼻にペンキを塗ったアニキのパーキングに駐車して意気揚々と歩き回る。海風にそよぐ舟、ヨット、ボートの白さがまぶしい。大道芸人やヘリコプターの発着が珍しく、しばらく立って見た。腹がへってきたのでガイドブックを見るとここの名物はカニだと書いてある。食い物に一家言ある I が「カニ?日本人だよ、俺たち。そんなのどうせうまくないよ、もっと安パイで行こう」と言う。そこまでの経験から説得力があった。あちこち探し回って、ちょっと値の張るスパゲッティ―にした。舌鼓を打つとはいかなかった。久々にうどんを食ったと思えばいいよな。全員が打ったのは相槌だった。

 

安いものは安物であることを学ぶ

そこの主人が安いモーテルを教えてくれた。オアシス・モーテルだ。探しまわる僕らの前に立ちはだかったのは急な坂だ。さすがのフォードも登らないんじゃないかとビビった。「ものすごい あぜん!!」と日記に大書している。国分寺崖線を喜多見から成城学園にあがる不動坂というのがある。あれが僕の急坂だったが、ここは街中が不動坂みたいなもんだと思った。モーテルは坂の途中にあった。26ドル、たしかに安い。あの店、味はひどいが情報はさすがだと喜んだ。ところが入ってみると何もかもがすさまじいオンボロだ。ロビーにシャンデリアのつもりらしい物体がぶら下がっているのを見て、スパゲッティと似たもの同士だったことを合点した。エレベーターは階段なら3往復できるぐらいの速度を実直に保った。「これは江戸時代のだね」、部屋の電話を珍しそうになでながら H が言った。

夕食をとろうと外へ出て、H は「涼しいね」と言った。僕は「寒い」と、I は「こごえる」と言った。同じものでも人間の反応は違う。天安門ガスステーションで給油していたら「日本人に道をきかれた」と書いてある。面白かったのだろう。将来ソウルの路上で韓国人に道をきかれることになることを僕はまだ知らない。昼のスパゲッティの仇討ぐらいの勢いで僕らは一路、チャイナタウンを目ざしていた。うまいラーメンが食えるならもう何を捨ててもいい。いちばん良さげに見えた湖南楼に入り、まずクアーズを飲んだ。ビールというとそれになっていた。うまかった。そして待ちに待ったポーク・ヌードルが来た。東洋の味に飢えたオオカミみたいだった僕らは、「うどんを食ったと思えばいいよな」、と二度目の相槌を打った。

ここで日記は 「半分すぎた 気持ちをひきしめる」と書く。

翌16日。市営パーキングの地下4階に車を停めるとHが三菱バンクで金をおろした。370ドルの後遺症は大きかったのかそれでV8を飲み感激していた。想定外に寒いということで、デパートのメイシーズで服を買おうということになった。靴や帽子のでっかさとセンスの悪さには笑いをこらえるのに苦労した。やっとカッコいいジャンバーをみつけ140ドルで買った。このデパートで意見が割れた。HとIは大リーグの試合が見たいといいだした。僕はそれに心が動いたが、サンフランシスコ交響楽団も聴きたかった。夜はチャイナタウンに再度挑戦となる。麺はだめだということでご飯ものにした。牛メシの出来そこないみたいのが来た。餃子が主食になった。やけくそでウィスキーのオールド・クロウを買って酒盛りをした。これがまた不味かった。浪人したHと僕はなぜか駿台の話でもりあがった。

 

後悔は37年も先には立たず

翌17日はゴールデンゲートブリッジを渡った。市電にのってあちこち行ったはずだが日記には何も書いてない。18日もたいしたことを書いていない。食い物ばっかりで恥ずかしいがよっぽどスパゲッティに飢えていたのがカン詰を買ってまた大ハズレしている。良かったのはメキシカンステーキとビールのドサキスだけだ。記憶は消え去っているから何をしていたかわからない。都会は刺激に満ちている。しかしそれはみんな所詮が人工物だ。作った者の計略通りカネ目当ての刹那の刺激をもらうだけなのだ。自然は打算がない。退屈に思えてもこうして37年たってもずっしりと残る何物かを与えてくれる。後に僕はこの街に仕事で何度も来る。海外のいろんな都市でいやというほどの時間を過ごすことにもなる。ヨセミテに一週間でもいればよかったのだ。

気持ちをひきしめた僕は一人でオーケストラを聴くことに決めた。二人はアスレティックスとインディアンズのチケットを買った。これが大変なことを巻き起こすことになるとも知らず。

 

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米国放浪記(7)

 

 

 

 

 

 

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クラシック徒然草-破格のピアニスト、H. J. リム賛-

2014 AUG 31 1:01:41 am by 東 賢太郎

先日、ベートーベンの18番のソナタのブログを書いていて、最近の演奏家はどうかなとyoutubeをのぞいていて初めてこの人を知った。この18番、尋常ではないものがあり、勢いに乗ってスパークするかと思えばすっと力を抜いて息をついたりする。中でも第1楽章の終わりをpにする版で弾いているのが気になった。

誰も知らない24歳がいきなりベートーベンを全部録音するというのはまったく破天荒である。ところが、調べるともう一枚ではラヴェルを弾いているではないか。こうなると僕としては聴かないわけにはいかない。そこで金曜日にベートーベンの2枚(5,6,7,16,17,18,28番)、それからラヴェルとスクリャービンの入ったCDを買って帰った。

雑誌や評論のようなものは一切読まないので、ピアノ愛好家で知らなかったのは僕だけのようだ。調べるとこうあった。

12歳で韓国から単身フランスに留学、パリ国立高等音楽院ではアンリ・バルダ教授に師事し首席で卒業。韓国の家族に演奏を見せるためにyoutubeに動画をアップしたところ、たちまちネットユーザーからの熱い支持を受け注目を集める。2011EMIクラシックスと専属契約し、昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(8枚組)で異例のCDデビュー。同CDは、発売後、全米ビルボード・クラシック・チャートの1位を獲得し、ニューヨーク・タイムズや英テレグラフ紙でも高い評価を得た。

いよいよネット時代の申し子みたいな人が出てきた。コンクールで優勝なんかしなくても、ネット検索数が多ければ天下のEMIがCDにしてくれるのだ。そんなことはクラシック業界史上初である。リムは「ベートーヴェンのことは、考えると眠れなくなるほど好きでたまりません」と言っているが、好きかどうかより伝統流儀に長けた人がコンクールを通る。僕は流儀は立派でも心酔していない人より、眠れなくなるほど好きな人に弾いてほしい。彼女自身が自分の考えで数曲ずつグルーピングしていてその意味はよくわからないが、大事なのは「この曲が好き」という人が弾くことだ。御託はどうでもいい。「ラヴェルは子どもの悪夢とか妖精、ファンタジーの世界」とも言っている。そうもいえるが、それだけではない。でもそういうことは彼女はこれから見つけていくだろう。

僕はこのベートーベンは好きだ。御託に塗り固まったクラシックの殿堂をバズーカ砲でぶちこわしてくれて実に気持ちがいい。全部聴いてみたくなった。この「全部弾いてしまう」というのが特にいい。この奔放さは若い頃のアルゲリッチを思い出すが、彼女は選曲については決して奔放ではない。ところがこのリムは自分の信念と流儀で全曲をねじふせてしまっている。それが我流に聴こえないというところが最大のポイントである。テンポは総じて速いが、それに確信を持って弾いているのがわかるからタッチの浅い音があっても軽卒に聞こえない。

つまり、自説に絶対の自信があってオーラがある人がやるプレゼンなのだ。半年後の株式相場など誰もわからないが、話をきくやぐいぐい引き込まれて、なるほど確かに相場は上がるんだろうと全員が思わされてしまうスピーチのようなものだ。そういう人の話は、たとえちょっとぐらいのキズがあっても誰も気にしない。ところが用意した紙を読み上げるだけのスピーチだと、たちまち攻撃されて撃沈されてしまう。僕は仕事上そういうものをたくさん見てきているが、音楽の演奏でそんなことを連想するのは初めてである。

僕はピアニストでないが、聴衆として聴きたい音という観点からすると、彼女のピアノは非常にうまいと思う。これはラヴェルでわかる。こんな技術があるからベートーベンの難所を軽々となぎ倒していて痛快でもあるのだ。そういう部分が難しげに、あたかもピアノとの闘争みたいに弾かれると「ああベートーベンらしい」と思うように僕らは慣らされてきていて、それが御託の壁を高々と築いているとさえ思ってしまう。

彼女のテンペラメントは「ラヴァルスをこういう風に弾く人」ということで僕の中では一応規定されている。今の所。ベートーベンもそういう風に弾いているとみている。それが特に好きではないが、技術がないとそんなことはやりたくてもできないのだからどんどん思うことをやったらいい。彼女が「クープランの墓」を弾いても好きにならない可能性は感じつつも、25歳の彼女こそクラシック音楽の虚構をぶち壊そうに書いたことを「する」側からやってくれそうな人だ。だから好きである。

 

(追記)

この平均律第1集はたまげた。ハ長調前奏曲、なんだこれは?フーガは主題がやたらと浮き上がって対位法に聞こえない。しかし、だんだんと彼女のペースにハマり、耳が慣れ、これはグールド以来の名演じゃないかと思えてくる。とにかくうまいのだ。このテンポでこれだけ闊達に弾けるということ自体半端なことではなくラフマニノフ3番もブラームス2番も、要は何でもできる人だなあと思っていたが、バッハをこれだけ弾ければこそだ。何でも弾けることが価値ではなく、そのどれもがユニークであることが驚くべきことだ。大変な才能であり僕はこの破格の平均律を心から楽しんでいる。

 

 

 

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米国放浪記(5)

2014 AUG 30 19:19:03 pm by 東 賢太郎

 

グーグルマップで推理する

日記というのは登場人物は自分なのだし、確実に自分のしたことを書いている。それでも40年近く前のこととなれば細かいことはほぼ忘れているし、文字も解読不能だったり意味不明だったり、まるで古文書だ。

そこで本稿を書くにはグーグルマップで記憶をたどるという方法が有力ということがわかってきた。これはエキサイティングな作業だ。どのルートを行ったかどこに泊まったかはその刹那はあまりに自明なことだったのだろう、ほとんど書いていないので推理するしかない。マップを丹念に見ると意外なことに、ところどころに見覚えのある地名がある。見て初めて思い出す程度のかすかな記憶だが、それでも「記憶がある」ということだけははっきりと自信を持てる記憶だ。それがあればその道を通ったということであり、それをつないでいくとルートがわかるという寸法だ。

デスバレーで泊まったモーテルだが、2日間のバクチで疲れていて行き当たりばったりに飛び込んだだけで、これがわからない。ところがマップを見るうち、ファーニス・クリーク・インという単語が、日記には書いてないが、天のどこからかひらひらと降ってきた。こういうのは奇跡みたいに感じる。ひょっとしてと思い検索すると、同名のモーテルが出てくる。テニスコートもある。その場所から南下するとバッドウォーターまで20kmほどでイメージに合う。眼球が熱いほどだったことからもあれは国立公園内のモーテルで、そこまで190号線を来ていた可能性が浮上してきた。翌日もその道を西へ行っているのは別な根拠から確実なので、断定はできないがその可能性が高い。昨日「たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうが」と書いたのは訂正となりそうだ。

重箱の隅をつつくようだが、そんなことにこだわっているのは理由がある。そうすることでさらに頭の奥底に埋もれていた別の記憶がおまけで降ってくる(蘇ってくる)のを知ったからだ。眼球が熱いなんてあれ以来一度もないのにその感じをちゃんと思い出した。するとその時のほかのことを体が思い出した。こんな経験は初めてだ。人間の記憶メカニズムは面白いと思う。なにか脳が若がえった気がして元気まで出てきた。それからもうひとつ理由がある。これを読んで同じ行程を行っていただく積極的な意味やメリットは何もないが、こと僕の子孫であればそれも一興かもしれないと思った。だからちゃんと辿れるようにしてあげたいのだ。

さらばデスバレー

starlight-motelバッド ウォーターを後にして、僕らは190号線でデスバレー国立公園を横切り、395号線を北上してビッグ パインという街のスターライト・モーテルに宿をとる。これは日記に名前があるから確実だ。これも現存するようなのでネットの写真を貼っておく。モーテルというのはおおよそこういう感じのものだ。ここで虹を見た。「魔女みたいなばあちゃん」のレストランで食事し、シャーベットを食べ、バーへ行ってビリヤードに興じている。ハシゴを試みたがそっちの店では21歳未満と思われて断られた。日本人はだいたい子供に見られるのだ。

翌8月14日、9時に起きると395号線をさらに北上。ビショップ(書いてないがこの名も記憶にある)を通過して約150kmさきのリー ヴァイニングの家族経営の店でフレンチトーストを食べた。この町はネットで見ると海抜2067 mとあるから富士山でいうと四合目あたりまで、マイナス85mから一気に登ってきたことになる。リー ヴァイニングはヨセミテ国立公園の東の玄関口だ。左折するところをわからずにモノ湖まで行ってしまい、引き返して120号線をひたすら西に進んだ。

ブレーキのジョーと死闘

ここまで走ると僕は運転に死ぬほど飽き飽きし、いらいらしていた。ペーパードライバーの H にやらせるのは不安だし、I は免許を持っていない。仕方ない。山道なのに前の車を追い回してこずきまわして抜くことだけ楽しみにした。だいたいみんな怖がって路肩に逃げた。運転は男勝りにうまい母親の血を引いてうまかったが、いま思えばただの暴走族だ。ところが僕に対抗してくるダッツンが目の前に現れた。いまだ!っとアクセルに足をかけるといいタイミングでブレーキを踏んで牽制してくる。神経戦だ。「こいつはてごわい。ブレーキのジョーだ」。よくわからないがH がそう命名した。

ヨセミテ・ヴィレッジは広大な公園のへそに当たる。徐行運転に入ったところで熊が目の前を横切ってびっくりした。車を停めると「ジョー」が降りて近づいてきた。ものすごい髯もじゃで熊よりも熊みたいなにいちゃんだった。僕に向って何かひとこと言った。文句やケンカを売るという感じではない。日記にその言葉は Life is a but dream. と殴り書きしてあるが、文法が変だ。Life is a bad dream か Life is but a dream. のどっちかと思われる。後者かもしれない。「坊や、人生はうたかただ、気をつけな」。ジョーは熊どころか哲人だったと思うことにしている。

車は元気、僕らはガス欠

ここからは歩くしかない。370ドル落とした H はカネがない。写真を撮るまねだけ。数十メートルもある巨岩やら水無しの滝やらを見物したが、なにぶんこの2日で火星と金星を見た直後だ。たいしたインパクトはなかった。覚えているのはトップレスのおねえさんだけだ。ここで完全にバテて体調を崩していた僕は、初めてHに車のキーを渡すことになった。隣で教習所みたいに指導しながらも始めは危なっかしくてどこかに一度ぶつけた。なんとか120号線を西へ無事に走り、僕らはシェラネバダ山脈を横断して平地に降りてきた。オークデール、マンテカを通って580号線に入る。「とにかく海まで行け。そこがシスコだぞ。」ちょっと熱がでてきていた僕のナビは大変アバウトになっていた。

ああ勘違い

その海が見えてきた。意外に早い。砂漠の死の谷から生還だ。サンフランシスコだ、もうだいじょうぶだ!こんなにたくさんの信号を見るのは久々でプッシーキャットなんてキャバレーもある。人里恋しかった僕らは喜びいさんで黒人のお姉さんのいる店で特大のステーキを注文した。場所は7番街。モーテルに飛び込んで値段に驚いた。16ドル?シスコは高いよといわれてたのにこれは掘り出し物だ。ホテル代の相場カンがついていた僕は即決で三泊契約の「大人買い」をした。何か変だとは感じていたが、それは部屋で地図を広げてすぐ判明した。「H、I、悪い。ここはサンフランシスコじゃない、オークランドだ」。

受付でけげんな顔をされながら僕らは契約を一泊に変更し、コーラを買おうと思って外へ出た。もう真っ暗である。探すが店がどこにもない。黒人ばっかりのディスコがあったので、そこでビールとスクリュードライバーを飲むことにした。発熱などおかまいなしだ。あたりはどうやら駅の操車場だった。中に侵入したくなり無断で入った。列車がたくさん停まっていて、暗いのをいいことに並んで立ちションをしていたらまずいことに駅員だか警官だかが歩いてきた。3人で列車の下に隠れてやり過ごした。これはスリル満点だったが、へたをすると撃たれていたかもしれない。Life is  but a dream だ。

 

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米国放浪記(6)

 

 

 

 

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米国放浪記(4)

2014 AUG 29 23:23:15 pm by 東 賢太郎

 

子供は反省しない

グランド・キャニオンでの野宿の寒さを昨日のように思い出しながら僕はいまぞっとしているが、日記の中の僕らはちっとも怖気づいていない。のんきにノース・リムを見物して、何のことか今やわからないが「甘いメシ」を食い、砂漠で遊ぶために「インディアンハット」を買いこんでから「豪雨の中100キロで飛ばし」、昨晩に苦労して南下したくねくね道をジェイコブ・レイクまで北上している。これがまた至極危険だ。先日もサンディエゴで日本の大学生が運転を誤って事故死した悲しいニュースがあった。赤いプリマスがエンコしてくれて神に感謝するのみだ。

モーテルというのは車がないと成り立たない米国社会で、通りすがりのトラベラーが泊まるいわば東海道の宿場の木賃宿みたいなものだ。こういう自然の要衝のような奥まった景勝地を通りすがる者などないからそんなものがあるはずない。いま大人の僕はそう思うが、この時はタコ糸の切れた無知な子供だ。この旅程でも日記を寝る前に毎日つけていたが、書いてあることといえば、初めてみる物珍しさから面白かった米国人の風貌や他愛ない出来事の無邪気な顛末ばかりだ。砂漠の日没や星空やオレンジ色の大峡谷を見た感動の言葉はない。その景色をありありと思い出して感動しているのは今の僕なのだ。

ラスベガスへ

「フランケンにいちゃんのところでガス」を入れ、「ロッジで***な(書けない用語)ねえちゃんのところでハンバーガー」を食べ、僕らは一路89号線をラスベガスへ向かった。「170km出した」上に途中で「砂漠のインディアン・シリーズ」をして遊んでいる。シリーズというからには何度もやっていたのだろう、昨夜の大失敗の反省のかけらも感じられない。そこからは道のせいなのか交通事情のせいなのか「平均時速110km」とある。170kmからは大幅減速ではあるが、それでも制限時速55マイルを20キロオーバーなのだ・・・。そして日が暮れた。

予想外のことで驚く

ラスベガスを飛行機で訪れるとたぶんこの感動はわからないから一度はお薦めしたい。フロントガラスの向こうに無限に続く漆黒の闇のなか、一直線のハイウエイが少しづつ星空に向かって登っていく。丘のてっぺんを超えると、行く手の眼下にそれまで見たこともないまばゆい光源が忽然(こつぜん)と現れる。百万個の宝石をちりばめた巨大なシャンデリア。ラスベガスの全景だった。うわーっと驚きの一声を発した僕らは黙りこくるしかなかった。スピルバーグの映画だってこんなものは絶対に出来ない。暗闇の底からぽっかり浮かび上がる不夜城。これほど驚異的なシーンは以来一度も経験することなく還暦を迎えようとしている。

このことを一言も記していない我が日記をいま読んで、これまた大変驚いている。ふと思い出したものがある。モーツァルトが子供のころ、イタリア楽旅でナポリからポンペイに観光に行った時に書いた手紙だ。ベスビオ火山の噴火で瞬時に街ごと埋もれた悲劇は当時から知られていたのだ。遺跡が今ほど発掘されていなかったのは割り引くとして、彼がそこから母親に送った手紙にその風景描写やそこから受けた感動のようなものをぜんぜん記していないのをずっと不思議に思っていた。天才と比較など不遜は承知だが、ああ子供は万国共通でこういうものなのかと思った。当時の僕よりモーツァルトの方がずっと子供ではあったが。

バクチの戦果

ネオンがまぶしい夜のラスベガス!カジノを渡り歩いて夢中で遊んだ。当時クレジットカードはまだない時代で僕らの持っていたのは現金とトラベラーズチェックだ。それが全財産ですったら終わりだから無謀なことはしなかった。時計がない。閉店がない。これが最高だった。時間なんか関係なく遊びたい人、金を手に入れたい人がいる。それを認める国家的なメンタリティーがある。これが自由主義、資本主義の根っこなんだと思ったかどうかは覚えてないが、ラスベガスで嗅いだあの空気は後の価値観に影響したと感じる。ホテルに帰ったのは朝の5時だった。

翌朝、とても昼までにチェックアウトはできず「誰が(延泊をフロントに)言いに行くかジャンケン」してまた寝ている。起きたのはついに午後4時である。日記は恥ずかしくも「ウルトラマンを見る!!2次元怪獣ガバドン」を大書している。米国のTVでやったのが珍しかったのだろう。「きのうのところで化け物的ステーキ」を食べ、もう一晩勝負にくりだしルーレットで結局「12ドル勝った」。丸2日ぶっ通しで遊んでこれは我ながら評価できる。これが嵩じて後にアトランティックシティやロンドンやアムステルダムでカジノに入りびたることになる。泊まったフレモント・ホテルをネットで調べたら部屋代は33ドルだ。当時と大差ない。カネがなかったくせに「チップ」を置いて出ているからサービスが良かったのだろう。

やけどをする

翌日10時、「ハムのハンバーガーとミルクシェーク」の朝食をとって出発しサンフランシスコを目ざすことになった。「郵便局」とあるので家に絵葉書を送ったようだ。「ジェットコースターのような道」をまた他の車を抜きっこしながらデス・バレーの近くまで行って28ドルのモーテルに泊まった。まだ日暮れ前だ。場所は書いていない。たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうがラスベガスからは200kmも走っていないところで、ずいぶん控えめな移動だ。カジノ疲れと腹痛で無理するのをやめたからだ。つまりデスバレー行きは予定したわけではなかった。ガイドブックには「冬行く場所、夏は危険」のようなことが書いてあったからだ。

たしかに、モーテルのあたりですら凄まじい暑さで、乾いた風が顔に当たると「目ん玉が熱い」!眼球に神経があるなど知らず、これでひと騒ぎになった。僕は部屋のキーをどこかに落とし、H は370ドルをどこかに落とした。いかにカジノ遊びと炎熱地獄でへろへろになっていたかわかる。ところが7時ごろに「少し涼しくなったぞ、やるか」とフロントでラケットを借りてテニスを始めてしまう。サンダルは脱いで素足でやった。部屋に戻ってじゅうたんを歩くと、どうも足の裏が変だ。見て驚いた。ヤケドで水ぶくれになっていた。テニスコートの表面がちょっと熱かったが、外気があまりに熱いので気にならなかったのだ。食事の後、バーでフェニックスから来たおじさんとスクリュードライバーを酌み交わし、「星を見て」「天文の話」をして寝た。若さというのはすごいものだ。

死の谷に立つ

翌日、僕らはガイドブックがお薦めしないデスバレーなる、これまた地球ばなれした場所に勇気を出して行った。盛夏の8月13日、よりによって真っ昼間の炎天下にそこへ行くのがいかに命知らずなことか、それは何時間も走って対向車が1,2台しかなかったことが雄弁に物語っている。昨日のやけどは無理もない。デスバレーは調べると地表温度は93.89度Cを記録したことがあるそうで1年間雨が降らなかった年もある灼熱の谷だった。観測史上最高気温は56.6度Cで、この日、気温は50度Cぐらいは優にあったのではないか。というのは、車を停めて一歩踏み出した瞬間に熱気で頭がふらっときたことを最後に、そこからの記憶があいまいになるからだ。

一言でいえば、ここは金星だ。ザブリスキー・ポイントを南下する。巨大な塩水湖が干上がった、見渡す限り、地平線の彼方まで真っ白な塩の海である。恐る恐るそこに足をふみ入れると、塩はザラメ雪みたいにザクザクしていて靴が埋まる。やや水分がある。水たまりもあって、目を凝らすと、得体のしれない虫がうようよ泳いでいた。そこの地名はバッド ウォーター(飲めない水)といい、ゴールドラッシュ時代、のどをからした西部開拓者の落胆と怒りをうかがわせる名だ。この地点は西半球最低点の海抜マイナス85mであり、岩山の崖の上の方に海面の印がある。ここから米国最高点である標高4418mのホイットニー山のあるシエラネバダ山脈までたった200kmしかないという異常値の塊のような所だ。

デヴィルズ・ゴルフコースという場所もある。悪魔でなければここでゴルフはできないという意味だ。開拓者たちはどこでもゴルフ場を造るあのイギリス人だったんだろうが、悪魔だって夏はここではやりたくないだろう。とにかく、そこにどのぐらいの時間いてそれ以上何をしたか何の会話をしたか、記憶も記録もプッツンと途切れている。車に戻ってエンジンをかける瞬間だけよく覚えている。電撃のような恐怖を感じたからだ。もし初日のあの時みたいにかからなかったら・・・・、僕らは確実に死んで半日も発見されなかったろう。それほど人っ子一人いなかったのだ。老プリマスじゃなくて命拾いと何度も書くが、アメリカ西部はそういう所だ。昨日は凍死しかけたと思ったら今日はあわや激暑で昇天だ。いったいなんてところだ!

フォードLTDⅡは力強いエンジンの爆音をとどろかせた。ゴーッというクーラーの冷気にあたって、僕らはノアの方舟に乗せてもらった気分だった。

 

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米国放浪記(5)

 

 

 

 

 

 

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米国放浪記(3)

2014 AUG 28 20:20:06 pm by 東 賢太郎

2つの失敗

ロスを出たのは日記によると午後2時だ。別な現地の方にお会いして話をきき、サングラスやサンダルを買ったりしていた。ラスベガスへ向かう前に寄りたいところがあった。その約250km真東に位置するグランド・キャニオンだ。とするとロスからバーストウ、ニードルス、フラッグスタッフに通ずる40号線(ルート40)ということになる。後で思うと、大きな失敗が2つあった。ロスでモーテル宿泊作戦がつつがなくいっていたため、その日もその延長で考えていたこと。そしてアメリカ地図の縮尺で眺めると、ラスベガスとグランド・キャニオンはすぐ隣に見えたことだ。

この計画が大甘だった。スタンドで笑われてもアメリカの馬鹿でかさをわかっていない。しかも、グランド・キャニオン観光なんて箱根の大涌谷を見るぐらいに考えていた。百聞は一見にしかずを身をもって味わうこととなった。

砂漠にはいる

40号線はアリゾナ州の砂漠を東西に突っ切っている。バーストウをこえてだんだん景色がそれっぽくなってくると、なにかボートで大海に船出してしまったようで不安にもなる。砂漠なんてものは日本で生きていれば一生見ることがない代物だ。鳥取砂丘も行ったことのなかった僕にとって、360度見渡す限りサボテンしかはえてない砂の海は強烈だった。途中で降りてみようとなって外へ出ると猛烈な夏の陽ざしに肌が焦げた。コヨーテやサソリがいると脅されてはいたが、2mもありそうなサボテンに触ってみたかった。 H がそれに隠れた。 I が保安官役で狙撃する。二十歳のいい大学生が西部劇ごっこをやっても様になる風景であった。

ひたすらまっすぐの道だ。アップダウンも信号も交差点もめったにない。まっすぐなハイウエイだからハンドル操作もブレーキを踏むこともほぼ皆無だ。アクセルを同じ角度に保って走り続けるのは運転というより磔(はりつけ)の拷問みたいだ。だからオートクルーズができたんだと腑に落ちた。行けども行けども同じ景色なので走っている感覚がなくなる。最大の敵は眠気だった。だからグレイハウンドバスと競争した。抜くと向こうも突進してくる。彼も眠いのかもしれない。「一度も抜かれず、時速140km」と日記にあるがアメ車で初の遠出なのに今思うとぞっとする。途中で日が暮れた。鮮烈なサンセットだった。見渡す限り何もないオレンジ色に染まった大砂漠のまん中で、それは太陽と地球との荘厳な儀式に見えた。地球にいるのは僕らだけだった。

星を見る

やがて真っ暗になった。また車を止めてちょっと冷んやりし始めた砂の上に横たわって見上げたアリゾナの星空は、いかなる想像をも打ち砕く絶世の美しさだった。その後の人生で見たオーストラリアのポートダグラスの夜空、そしてハワイ島の標高4千mから見た夜空も息をのむ素晴らしさだったが、これにはかなわない。星空はいくらきれいでも彼方にある無縁のものだ。ここでは星たちがたわわに実ったぶどうみたいにぐいぐいと自己主張してきて、手を伸ばすと取れる気がした。流星がいくつも飛び、一点をぼーっと見つめていたら見えるか見えないかのかすかな光点が遠い星の間をゆっくりと動いて消えた。日記にはUFOと書いてある。あれはいったい何だったんだろう?

グランド・キャニオンに驚く

ウイリアムズというグランド・キャニオン(G.C.)の100km南にある小さな町までなんとか行きついてモーテルに泊まるというところまでは、相当に体力の限界ではあったが計画通りだった。着いたのは午前零時だ。ロスからG.C.までは7-800kmは走るだろう。東京から四国へ行くぐらいだから、この一日で岡山あたりまで10時間で走ったことになる。モーテルを見つけて「24ドルを23ドルにねぎる」、と日記にある。それでも元気だ。体当たり英語は少し上達していた。3人とも死んだように眠った。

なんのことはない。せっかく頑張って近くまで来たのに出発したのは午前11時だ。前日の疲れもあったが、箱根のふもと小田原まで来たんだからと甘く見ていたのもある。64号線を真北に進んでいよいよグランド・キャニオンに到達した。そこには僕らが二十年の人生で知っている地球のあらゆるイメージを根底からくつがえす奇観があった。コロラド川を眼下にのぞむ大峡谷。眼下といっても100mやそこらじゃない。真下に直角に1kmだ。ここまでいくと僕の高所恐怖症も正常にはワークせず、大パノラマを前に3人無言で立ち尽くした。絶景という言葉はあまりに無力。「これは火星だ」、言葉使いの天才である H もたしかそんな言葉しか出なかった。

最悪の想定外

64号線を真東に進むとキャメロンという街から89号線を北上する。東西に横たわるG.C.をぐるっと回って北側のノース・リムでモーテルに泊まろうという作戦だ。途中、コロラド川を超える大きな橋がある。マーブル・キャニオンだ。橋を渡りながら凄いものを見た。あの夕日が大峡谷の岩肌をオレンジに照らした荘厳な光景は一生忘れない。かなり標高は上がっている。「おい、雪があるよ」、慎重な I がちょっと不安げな声を出した。「うそだろ、真夏だぜ」、いったん笑ったH もじっと目を凝らしてから「確かにあるな」と言った。日がとっぷりと暮れた。人里離れた道を100kmほど南下すること約2時間、目的地のノース・リムにへとへとになってたどり着いた。その先は大地が裂けたような大峡谷だ。そこで初めて僕らはモーテルというものが存在しない場所があるということを知った。

これには参った。キャメロンからは人気もまばらな田舎道で、ここで道は行き止まりなのだから戻るしか手はない。しかしキャメロンまで街灯もない夜道を4、5時間もかけて戻るぐらいなら徹夜で大阪から東京まで運転しろといわれた方がまだましだった。アメリカの巨大さをこれほど思い知った瞬間はない。決死の野宿が決定した。車の中とはいえ、周りはまばらに根雪が積もっている。最低気温は氷点下だろう。これはまずい、こんなとこで凍死するわけにはいかない。エンジンをかけて寝るのは一酸化炭素中毒が危険だ。トランクからありったけの缶ビールを取出し「ガソリンを入れて寝ろ」となった。

朝5時に寒くて目が覚めた。全員生きていた。

 

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米国放浪記(4)

 

 

 

 

 

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米国放浪記(2)

2014 AUG 27 13:13:44 pm by 東 賢太郎

ついに車が現る

新しい車を持ってきたエイヴィスのおにいちゃんたちは親切で丁重だった。カウンターでキーを投げたおばはんに比べてこの2人はなんていい人なんだ、嬉しさと安堵と語彙の乏しさから僕らはサンキューを百回ぐらい言った。砂漠の遭難者だってレスキュー隊にあんなに礼はしない、きっと。帰り道で「あのバカどもなんであんなヤバいとこ行ったんだ?」と笑ってたろう。とんでもない車を押しつけられて大事なアポがパーになった、料金はいくら引いてくれるの?ぐらいは覚悟で来ている。いま思うと連中のご丁重は当然だった。

クルマはずっと新しくて輝いて見えた。3人乗ってもありあまるぐらいでっかい。こりゃあ部屋だね!H がうまいことをいう。アクセルを踏むとその部屋がスーッと油の上を滑るように進む。家のファミリア、あれはなんだったんだ?これがアメ車だ、ハリウッドの豪邸にあるみたいなやつだよな!僕はそう叫びながら、運転できるだけで胸が躍った。モーテルはすぐ見つかった。というより、ちょっと郊外に出るといくらでもネオンサインが出ている。ベッドはたいがい2つあって、くっつけて3人川の字で寝た。じゃんけんで負けた者が真ん中の谷間になる。これを H がvalley man と名付けた。オレは運転するんだからぐっすり寝たいという主張は通らず、ときどきヴァリーマンをやった。

食い物の感動

その日に何を食べたかわからないが、食事はほとんどマックかその辺のステーキハウスだ。それで5ドルもしない。マックはサラダとケチャップがタダなのに感動してたらふく食べた。ステーキはわらじの様にでっかい。4-500gぐらいで最初は食べきれない。肉というのはライスがいらないぐらい大量に食べるものなのだと知った。それを白髪のおばあちゃんがペロリと平らげているのを目撃し、僕は山本五十六と同じことを想った。こんな国と戦争しちゃあいかん。

さらに感動したのがオレンジジュースのうまさだ。カリフォルニアだから当然もぎたてのようにフレッシュである。空気が乾いていて喉が渇くので1リットル平気で飲めてしまう自分に驚く。このジュースをこの勢いで日本で飲んだらいくら取られるだろう?貧乏性なことが頭に浮かんだ。そういう浅はかなことだけで日本に住むのは人生バカらしいなと思ってしまうのが若者だ。今でもビッグマック、A1をかけたステーキ、オレンジジュースは光り輝く3種の神器に感じる。

支店長のお家に憧れる

翌日、予定通り親父の同僚の方の家におじゃました。奥様と大歓迎して下さり、いろいろご指導や注意もいただき、昨日ひどい目にあった不安がすっかり消えた。お家のさまは当時の銀行の支店長だから今とは大違いだろう。プールがあるだけで憧れた。すごいなあ、海外駐在だとこんなとこに住めるのかとまぶしかった。結局、長じて自分も海外の長として駐在の身になったが、この時の憧れが根強く残っていてああなりたいあんなところに住みたいとずっと考えていたからそうなったかもしれない。若者は願え、願わばかなう。

第2の事件おこる

ロスのダウンタウンを見物しようと愛車を人と車でごった返す裏通りの路上に停めた。あちこち見て歩いていざ出発となった。停めたあたりに戻ってみると、車がないではないか。あれ、この辺じゃなかったか?いや、もうちょっとあっちだっただろ?物珍しさに興奮していて3人とも場所など覚えていなかったのだ。お前が覚えてると思ったのに・・・いわゆるポテンヒットである。この通りじゃないんだろう、もう一本向こうの筋だ。そうかもな・・・通りの感じも似ていて歩けば歩くほどますますわからなくなる。1時間以上3人が手分けして必死に探して、へとへとになった。すべての悪いことを考えたのは道理だ。

盗まれた?違反で持っていかれた?おい、あのエイヴィスのおばちゃんになんて言うんだ?そうしたら、ついにいつも冷静沈着な秀才である I の最後の審判がおごそかに下った。「仕方ないからお巡りさんに届けようよ・・・」。それで観念した。僕らは今度はお巡りさんを探して足を棒にして歩き回ることになった。お巡りさんというのはなるべく関わりたくはないが、こちらが必要になって探しだすといないものだという真理を僕らは学び取ったことになる。なぜならお巡りさんを見つける前に愛車を見つけたからだ。それは何事もなかったかのように探し始めた場所にあった。

スタンドのおっさんに馬鹿にされる

ロスはどうせ最後に帰ってくる。まずはラスベガスに行こうぜということになった。よし、それじゃあ給油だ。たった2日のうちに車がらみで2度も冷や汗をかいているので3人とも用心深くなっている。アリゾナの砂漠の真ん中でガス欠はやめようぜとなったのだ。飛び込んだスタンドのおっさんに代金を渡しながらキャン ユー ショウ ミー ザ ウエイ トゥー ラスベガス?ときいた。エクスキューズ ミー?ときた。もう一回くり返すと ハァ?ラース ヴェーイガス? と豪快に笑って、アホかこいつという感じで道のない方向をあっちだと指さした。東京の千代田区のスタンドで北海道はどっちですかとでもきけばこういうスリルを味わうことができるだろう。

そんな道案内は不要だった。すでにマップの見方を完全攻略していた H のナビが完璧だったから。いよいよ愛車はスピードを増した。55マイル?そんなの平気だろ、65で行こう。向かうはラスベガス!なにやら怪しい響きだ。そして間に広がるはアリゾナの大砂漠である。地平線の彼方までまっすぐなハイウエイ。ハンドルなんかいらないねと I が後ろからつぶやいた。ほんとだ、それを見て荒井由美の歌が聞こえた気がした。

中央フリーウェイ
右に見える競馬場 左はビール工場
この道は まるで滑走路

 

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米国放浪記(3)

 

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米国放浪記(1)

 

 

 

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今年の甲子園

2014 AUG 26 17:17:08 pm by 東 賢太郎

三重高校は強かったです。正直のところ大阪桐蔭が10点ぐらいとっての完勝かなと思っていましたが逆に三重が押してました。三重は勝ててましたね。失敗したスクイズや最終回の選手起用はよくわかりませんでしたが、監督さんは今年からの新任だそうです。アマ野球の監督というのはとくに外部の方の場合はいろいろ大変でしょう。短期間にチームをここまで引っ張りあげた人の判断なのだからあれはあれで良しです。

勝負にタラレバはないので大阪桐蔭が一枚上手だったということです。前回、野球留学の話を書きましたが、その最大の派遣元は大阪と思います。そこで地元に残った子たちなのだから強いだろうと思ってしまう。ダルビッシュもマー君も巨人の坂本も大阪から出て行った方なのだからと。

ところが大阪桐蔭のベンチ入り18人中11人(福岡4兵庫3 奈良2 愛知1 広島1)は留学生だったそうです。一方の三重高校は2人だけでそれも隣の愛知県からなのでほぼ地元のチームといってよさそうです。予選参加校数で見ると大阪は180校で三重は62校です。大阪が勝ったとはいえそれほどの差は感じませんでした。この世界、事情はそう単純なものではなさそうですね。

今大会、全部見たわけではないですが、プロですぐいけるような選手はいなかったような気がします。松井秀喜、松坂、藤波、田中、松井 裕樹みたいなですね。昔になりますが井出元、鵜久森などすごいと思いましたがプロへ入ってからは今一つ。名球会入りした投手の半分も甲子園に出ていないなど、あそこで勝つこととプロでトップクラスになることとは別な話なのだということがだんだん納得できてきます。今年、僕が見たうちで印象に残った投手は東海大相模の先発の子(3回までですが)だけでした。

高校野球というのはおそらく多くの人間が人生をかけて切磋琢磨している数多ある業界のひとつの縮図です。あらゆる技能、職能、職業において、その分野の甲子園クラスの人はいます。野球の甲子園に出る子はたしかに鍛えられていますが、一般高校球児の中での偏差値は60-65ぐらいではないでしょうか。それがプロで通用するとなると75-80でしょう。受験でのイメージですが50と60の差を1mとすると60と70の差は10mはあります。80となると100mでしょう。50の子でも努力で65ぐらいは届きますが 70以上はどうでしょう。

僕のもう一つの趣味である音楽でもそう思います。演奏家はショー、人気商売の側面があるので難しいですが、歴史の淘汰を受ける作曲家はまやかしがきかず、85ぐらいの人しか名が残りません。それ未満の人は調べると星の数ほどいて、後世の人は彼らのソナタをこまめに聴くほど人生に時間はありません。演奏家も80ぐらいでなければ当代の最も耳のこえた聴衆をうならせることはないと思います。それを耳のこえてない人向けのショーが補完しているという業界構造です。科学では85以上がノーベル賞候補にノミネートぐらいでしょうか。そういう人をひとり我が国が失うことになったSTAP論文事件は非常に罪深いと思います。

 

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米国放浪記(1)

2014 AUG 26 0:00:12 am by 東 賢太郎

あれは大学3年の夏。どういう風の吹き回しか麻雀仲間で法学部のI君、経済学部のH君とアメリカへ行こうということになった。本郷の東大正門前の葵(あおい)という雀荘で、打ちながらこの話はまとまった。とにかく時間が無限にあった。世の中には知らないものが無限にあるような気がしていた。

当時、バイトは時給3千円ぐらいの家庭教師と塾講師をしたが、もらうそばから使ってしまい渡米費用はとてもない。親父に頼むしかなかった。親父はアメリカ映画が好きでクラシックやらシャンソンやらロシア民謡やらのレコードをもっていて、これからの世の中は英語だと口酸っぱく言っていた。定年後にインドネシア国立銀行、トーマス・クックにも勤めたから英語は少しはできたというのがあったろうが、どうやって親父を説得したかとんと記憶にない。とにかく快く資金を出してくれ、この滅茶苦茶で無計画な米国放浪を許してくれたから僕の今がある。この放浪はそれほどのインパクトがあった。旅は若者を成長させるのだ。

行くんならそりゃあロスだとなったのは親父の三井の同僚が現地支店長でおられたからだった。彼に指南を仰ぐんだぞということになってOKが出た。立派な知り合いがいるから大丈夫ということでIもHも安心した。その実、その方のお家にはご挨拶して後は好き勝手に好きなところへ行きまくろうという魂胆だったが。「予約なんかレンタカーだけでいい、ホテルはモーテルがいくらでもある。それを渡り歩けば大丈夫」。幼なじみで野球を教えてくれたお兄ちゃんが石油プラント会社にいて、ご指南はすでにそっちに仰いでいた。

英語など3人とも当然できない。飛行機すら人生初めてだ。羽田を離陸するとすぐ、肩ならしのつもりで白人のスチュワーデスにウォーター プリーズといった。通じない。なぜかカフィ?ときたのでアー オーケー コーヒー プリーズといったらまた通じない。けげんな顔でワゴンを押して行ってしまった。そうか、水はウォーターじゃないんだ。「ワラ」が飲めたのはずっと後だ。小倉高校のIと前橋高校のHは、東京のシティボーイは少しはしゃべれると思っていたろうが、ぜんぜんシティボーイでないのがこれでばれた。

ロス空港のタラップを降りながら深呼吸し、アメリカにも同じ空気があるんだと妙なことを感心した。エイヴィス・レンタカーの契約はワラの注文以上の大苦戦を強いられた。1時間ぐらいああだこうだしてやっと無愛想なおばさんがキーをカウンターに放り投げるようにくれた。ガレージに行ってみるとでっかくて年期のはいった赤いプリマスである。「おい、こんなボロ、エンジンかかるか?」が第一声だった。

そんな心配はご無用のようだった。おごそかに、しずしずと動き出した老プリマスは予想外にしっかりとした足取りでダウンタウンまで我々を難なく運んだ。ロスの街はでっかい。人も車も多い。運転の僕はというと右側通行だぞと自分に言いきかせてハンドルにかじりつくのがやっと。ナビ役のHはというと地図の読み方すらまだわかっていない。夕方だし、とにかく今晩泊まるモーテルなるものを探そうということになった。米国のモーテルはその名のとおりモーター・ホテルで、妙なものではない。

街の中心部にそんなものはないから少しはずれまで行ったあたりで道に迷った。というよりHのナビはとうの昔にギブアップになっていて、なんとなくあてもなく走っただけだ。裏路地に入りこんでしまってわけがわからなくなり、仕方ない、誰か歩行者に道を聞こうとなったが、そういう時に限ってさびれたところで人も歩いてないのだ。そして、僕らがそうやって困り果てるのを待ちかまえていたかのように、老プリマスがプスプスいいだした。わざわざその辺でいちばん人がいなさそうなあたりでエンストすると、永遠と思われる休眠状態にはいってしまった。

やっと見つけた公衆電話から僕がしゃべった言語を理解したエイヴィスの社員はカンがいい。質問を何度もしてくる。しかしワラを初めて覚えたんだからわかるはずがない。5回目ぐらいについに聞きとれた。ゆっくりとひと単語ずつ、「ウェア アー ユー ナウ?」 おおそうか、おいH、ここどこだったっけ。誰もわからない。HとIが近くの町工場みたいなところに必死で飛び込み、身振り手振りでここどこだっけ?をやってる。ああ、こりゃだめだ。エイヴィスの電話が切れた。黒人の工場長がやっと事態を察して電話してくれ、ここで待ってろとだけいって消えた。有難かったが、ここからまた長かった。

路上で3人ぼけっと待った。通りがかりの黒人が笑いながらおめーら何やってんだ?という感じで寄ってきた。僕らを指さしてユー、ミー、タメダーシ、OK?、タメダーシとほざく。おいあいつ、タメダシってなんだよ?知るかよ、そんな具合で無気味であった。ここでホールドアップされたら・・・もちろんアウトだ。ひょっとしてトモダチのつもりじゃないか?Iが気がついた。どうもそのようだった。よかった。初日から先が思いやられる事態になったが、愚痴は誰もなかった。なにせ帰りの航空券は1か月先だ。泣いても笑ってもそれまでアメリカにいなくちゃいけない。参ったね、そうだよここはアメリカなんだ。

工場長が何か勘違いしたかと思うほど長い時間が経過した。すでに暗かったと思う。今度はちょっとはましな車が到着した。ロールスロイスでも来たかのようにうれしかった。それがそこから我々の足になってくれたフォードだ。このエンスト騒動でずいぶん英語をしゃべらされた。水も注文できなかったくせに、もうブロークンでもいけるぞと自信がついていた。後で思うと、老プリマスがここで臨終になってくれて良かったのだ。そのままあれで出発していたら3人とも命がなかったかもとぞっとする。初日のカウンターパンチは強烈だったが、人生、何が幸いするかわからない。

放浪はこうして始まった。

 

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米国放浪記(2)

 

 

 

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ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

2014 AUG 24 22:22:14 pm by 東 賢太郎

バッハの平均律をピアノの旧約聖書、ベートーベンの32曲を新約聖書という人がいます。ベートーベンが「キリストは単に磔(はりつけ)にされたユダヤ人」と言い放ったからではありませんが、僕は彼の音楽に宗教的な辛気臭さを感じません。第九の歌詞からも彼は天上の神を信じていたと思いますが、自分の生の声を天上ではなく地上の民へ向けて書きました。聖書に関係のない我々にも、なん百年たっても色褪せることなく開かれた音楽と思います。

この変ホ長調ソナタが大好きな僕は9曲の交響曲の第8番に当たるものという感じで聴いています。ビールのCMではないですが「深刻度ゼロ%」。ベートーベンの書いた音楽でこんなに明るい、全曲にわたってノリまくってはしゃいでいるものはひとつもありません。いったい彼に何起きたんだと心配になるほど。どうしてといって、陽性の交響曲第7番の後に書かれた8番と違い、この18番はハイリゲンシュタットの遺書を書いたころに出来ているのです。謎めいています。

18番は04年に完成しました。エロイカの初演が1804年12月、ワルトシュタインも1803-4年に書かれており、18番もそのグループである可能性があると思います。第1楽章でF3、F2、F1と2オクターヴをフォルテでの下降。これはまるで低くてよく響くF1を書きたかったかのようです。速い音型を軽々と弾きまくる第2楽章、第4楽章の左手。冒頭の精妙な和音。まったくの私見ですが、これはワルトシュタインと同じくフランスのエラール社のピアノを得た嬉しさで作った曲ではないでしょうか?

だとすると18番はワルトシュタインに献呈されなかったワルトシュタイン・ソナタだったかもしれません。16番と17番(通称テンペスト)と一緒に作品31、1-3とくくられたのは何か出版等に関わる事情があったのではないでしょうか。また、あの遺書が本当に遺書なのかどうかは議論がありますが、躁状態で書いたということは少なくともなかったでしょう。うつ状態から苦難の道を経てエロイカが生まれた。これなら納得がいくのです。ところが同じあたりでポツンと躁状態の極みみたいな18番ソナタが出てきた。

これは交響曲でいうと第4番がワルトシュタイン・ソナタと近親性があってということをここに書きました( ベートーベン交響曲第4番の名演)。遺書を書くまでの重たいことは全部エロイカにぶちこんで、その「重たいこと」は純化して第5番運命に結晶化していく。そうじゃない脇道の部分、もっと人間的なものは別な入れ物に盛っていく。空想ですが、彼を聴覚を失うという恐怖のどん底から救ったのは女性かもしれませんね。それは上記のブログに書いた。そうでもなく彼がひとり部屋に閉じこもってこんなソナタを書くに至ったとは僕にはどうしても思えないのです。

17番(テンペスト)第3楽章が一貫して「運命リズム」(タタタターン)で出来ているのは有名ですが、18番第1楽章にもそれが出てきます。第3-6小節です。最初の2小節、同じ音型を2度繰り返して幕を開けるのは運命と同じ、しかしリズムは第9交響曲の第2楽章のはじめを思い出しませんか?このソナタ、猫と思ったらライオンの子だったという存在と思います。

beeth18

いきなり遭遇するサブドミナントの五六の和音。これが序奏ならともかく、第1主題なのに肝心のトニックは第6小節まで現れません。それも開始のバスはド(a♭)なのにこっちのバスはド(e♭)でなくソ(b♭)。どうも煮え切らない主役の登場です。交響曲でいきなりトニック(あるいはその根音)が鳴らないのは1番だけです。剛球を封じてまず初球は変化球。18番は1800年ごろ書いた1番の実験精神も継いでいる、いろいろな側面で初期と中期のブリッジとなった興味深い曲です。

ターンタターン、ターンタターン、この5度下がる頭出し、僕にはルートヴィッヒ、ルートヴィッヒと聞こえてなりません。彼はまだベッドでまどろんでいて、誰かが起こしてくれる(交響曲第4番の稿に書いたあの人か)?第3小節、うーん、まだ眠い、彼は不機嫌。第6小節のトニックでやっと目が開くとまぶしい朝日が。いい天気だ!起きろ!変ホ音の連打に乗った軽快なアレグロは朝の浮き浮きです。

変ホ・変ロ・二の長7度のワサビの効いた和音を作る左手の動き。これは17番までのソナタからこの曲が突然変異的にエロイカよりの存在になった印。よし今日もやるぞという活力がこんこんと湧き出ている音楽ですが、そういうひそやかな和音の色合いが誰かの深い愛情にも包まれているという感じも添えています。これが大好きなんです。こんなに幸福なベートーベンが他のどこにいるでしょう?

この曲、全編にわたって会話が聞こえてきます。居間のおしゃべりの声があちこちから飛び交い、笑い、皮肉、冗談のオンパレード。第2楽章のおどけたスケルツォ。タターンタターンタターン、単音が中断してシーンとする、それが意味深に半音上がるとまた同じどたばたが始まる。爆笑。どこに聖書が出てきます?3拍子でなく2拍子のスケルツォ、それもソナタ形式でトリオを持つ三部形式でないというのも珍しいです。

一転してたおやかに始まる第3楽章は Menuetto, Moderato e grazioso と記されています。スケルツォというのは彼がメヌエットをやめて置き換えたものですから、第2楽章がスケルツォ、第3楽章にメヌエットというのは実は変なんです。その変なことを後でもう1回やっている。それこそが交響曲第8番です。8番もメトロノームをからかってみたり、歌って踊って笑ってに満ちあふれた突然変異的なシンフォニーでした。

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そして、どちらのメヌエットも名品です。18番の方、これはやがて第九のアダージョに繋がっていく高貴さです。ここを弾いてみてあれっと思ったのは8小節目です。ここの真ん中の音のc、d♭、dの半音階上昇は交響曲第8番のメヌエット(下)の青枠のf、f#、gを想起させます。ちょっとしたことですが何か血のつながりを感じます。ピアノ・ソナタでさえメヌエットはこれを最後にもう書いていません。それがどうして最後から2番目の交響曲に出てくるのか不思議じゃありませんか?

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この楽章はモデラートですが、アダージョ楽章がないせいか遅めに弾くピアニストが多いようです。「中ぐらいの速さで」とはアンダンテ(歩くような速さで)より速く、アレグレット(やや快速に)より遅いということですが後者により近い。フリードリヒ・グルダのテンポが適当だと思います。

第4楽章のPresto con fuoco 非常に珍しい。火のように情熱的に急速に弾けということです。ベートーベンではこんな表示は他にないんじゃないでしょうか。バックハウスは自身最後となった1969年6月28日の演奏会で18番を弾きましたが、心臓発作を起こしました。そのため第3楽章まで弾いたのですがこの第4楽章はシューマンの幻想小曲集より2曲に変更してコンサートを終えました。その7日後に彼は亡くなったのです。彼は26日の第1回目演奏会ではワルトシュタインを弾いていますが、第2回目には18番を選んだということは興味深いものです。

演奏ですが、youtubeで初めて聴いたべラ・ダヴィドヴィッチをお借りしましょう。これをUPしていただいた方には感謝です。

第1楽章の出だしの呼吸がいいですね。全体に構えの大きなベートーベンではないですが、とにかくピアノが素晴らしくうまいです。ショパンコンクール優勝者ですからうまいのは当たり前なのですが、それが売り物に感じないところがよろしいです。京料理の名店の懐石という風情で、何もとがったものはないですが良いものをいただいたという手ごたえがじんわり残る。こういう演奏が好きです。彼女の録音が全部欲しくなって探してみましたがほとんど廃盤のようです。もったいない話です。

もうひとつ、リチャード・グードの見事な演奏を。これもうまいです。

200x200_P2_G3022270W僕はフランクフルトで彼のベートーベンを聴きましたがこれは興奮ものでした。一緒に行かれた娘のピアノの先生に「いかがでした?」ときかれて「これはマーラーが弾いたベートーベンです」とわけのわからないことを口走ったのをなぜか覚えています。全曲バックハウスばかり聴いていましたが、今いちばんよく聴く全集はグードです。特にベートーベンが嫌いな人こそぜひ。好きにしてくれる可能性のある全集と思います。

そのバックハウスの晩年のスタジオ録音はこの18番も立派な造形のものですが、ちょっと重たく指もまわっていない感じの部分があります。クラウディオアラウは僕の好きなピアニストですが18番は曲の持ち味とやや合っていない感じがします。素晴らしいのはアルトゥル・シュナーベルでしょう。テンポもニュアンスも最高ですが、録音がやや古いのが気になる方は同じ路線の名演を聴かせてくれる上記のグードが良いと思います。ブルーノ・レオナルド・ゲルバーもお薦めです。彼のショパンをスイスで聴きましたが美しいレガートと強い打鍵が印象的でした。この曲ではそれが活きています。マレイ・ぺライアもいいです。この曲を覚えたのはロンドンで買ったこのCDで、これのおかげですぐ曲が好きになりました。彼のモーツァルトは大変な美演で一世を風靡しましたが、その路線にあるベートーベンであり18番ではプラスに出ています。リヒテルはこれが簡単な曲に聞こえるほど。腕前でいうならこれが一番でしょうが、曲のニュアンス(特に第1楽章)は今一つ。終楽章は凄い、降参です。マリア・グリンベルグは大変に素晴らしい。これはお薦め。女性ながら実に豪腕でもありますがちょっとしたトリルなどソプラノ声部のニュアンスなど血が通っています。アニー・フィッシャーは男勝りでややごつごつしますがその分造形がしっかりしていて僕は嫌いではありません。ウィルヘルム・ケンプは技術が弱いですね。この曲は満足できません。ペーター・レーゼルは何一つ不足のない正統派の演奏ですが、もう一味のニュアンスが欲しいという贅沢をいいたくなります。アルフレート・ブレンデルの冒頭はニュアンスがいっぱいでおっこれはいいぞと名演を期待しましたが、どうも品を作りすぎで後半は飽きました。ラザール・ベルマンは80年ごろ剛腕で鳴らしたロシア人でここでも技術は冴えていますが、味わいには欠けます。フリードリッヒ・グルダは時々聴く演奏で興がのった快演ですがAmadeoの録音のせいかタッチが冴えません。惜しいです。ウラーディーミル・アシュケナージの磨かれた美音は千疋屋の1万円メロンのよう。技術も文句なし。モーツァルトの協奏曲録音の路線にあり、それはそれで魅力的ですが買ってでも聴きたいかというとどうもという困ったもの。曲の破天荒なところが常識化した観があるのが理由かもしれません。エミール・ギレリスはメヌエットの中間部の強奏や終楽章の低音の強打などこの曲の精神とやや離れている感じがします。エリー・ナイは第1楽章が遅い、これじゃあ朝の浮き浮きにならない。主張の強い面白い演奏ですが技術の衰えが気になり僕はダメです。アンドラーシュ・シフは巷の評価の高かったモーツァルト・ソナタ全集を買ったらちっとも面白くなくちょっとイメージが・・・。18番も綺麗ですが、美演なんですが・・・So what?。ダニエル・バレンボイム(EMI)は若い割にまとまった演奏。第2楽章の左手のスタッカートが甘いなどエッジがないのが不満。ハンス・リヒター・ハーザーはカラヤンとのブラームスPC2番の打鍵の強さに驚きましたがその路線の18番というレア物です。そういう曲じゃないですがもしもベートーベンがスタインウエイを与えられたらこう弾くかもしれないと思わないでもないです。クン=ウー・パイクのベートーベン・ソナタ集は非常に素晴らしいです。自信を持ってお薦めします。18番は特筆するほどではなくワルトシュタインがベスト3級の名演です。ゲルハルト・オピッツはドイツ時代にラインガウでベートーベンを聴きました。残響が多くて遠目の録音ですが現代のドイツ人による演奏としてトップレベルでしょう。ポール・ルイスは全般にテンポが遅く趣味でありませんがその速度でやるだけの個性は感じます。ジャン・ベルナール・ポミエは曲想によく感じていていいですね。メヌエットのテンポ、右手のトリルのセンスなど最高です。H.J.リムは第1楽章が気まぐれでまとまりがないと思ったら第2楽章はもの凄く速くてうまい。よくわからない演奏ですがひょっとして天才的かも。ラヴェルも聴きました。青臭くて荒削りですが、小さくまとまる感じでないのはいいですね。ソナチネの第2楽章などそれが即興的で良い方に出ています。

(こちらをどうぞ)

http://シューベルト ピアノ・ソナタ第18番ト長調 「幻想ソナタ」D.894

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集

 

 

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二子玉川花火大会

2014 AUG 24 0:00:25 am by 東 賢太郎

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今日は二子玉川花火大会へ。いつもは家から見ますがちょっと迫力に欠けるので、今年は娘につき合ってもらって二子駅へ行きました。5時過ぎで駅はもうこの人です。寿司で腹ごしらえしていよいよ開始の7時に。

 

 

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最初はこんなもの。たしか1時間で 1200発。

 

 

 

 

 

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だんだん盛り上がって・・・

 

 

 

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すぐ目の前でけっこうな迫力。場所は兵庫橋。帰りは列ができて目の前の二子駅まで30分かかりましたが、大満足でした。毎年、これと甲子園が終わるとさあ仕事だとなります。習性です。

 

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