Sonar Members Club No.1

月別: 2014年8月

ドビッシー 西風の見たもの

2014 AUG 22 12:12:34 pm by 東 賢太郎

ピアニスティックに書かれたピアノ曲がいかに「歌えない」かをお示ししたい。そのぐらいピアノというパレットは特別なものだ。今回はドビッシーのピアノ曲の最高傑作のひとつである前奏曲第1巻の7番目に位置する特異な音楽で、僕の関心をこよなくかきたてる「西風の見たもの( Ce qu’a vu le vent d’ouestz)」である。これが有名な2曲、雪の上の足跡(Des pas sur la neige)と亜麻色の髪の乙女(La fille aux cheveux de lin)の間に置かれているというコントラストが周到だ

フランスの西風は強いそうで、この音楽は東洋の我々にはどこか台風が水しぶきを巻き上げ草木をなぎ倒す情景を思わせる。しかし前奏曲12曲の標題はどれもそれほど写実的ではない。この曲も、描写というよりも、そこから感じ取った本能的な自然への畏怖をそのままピアノというパレットにぶちまけた感じである。荒れ狂う暴風雨の中では人間の畏怖もねこの畏怖もそうは変わらないだろうと思わせる意味で抽象的な心象風景であり、1908年作のラヴェルの夜のガスパール「スカルボ」を想起させる。

この、ドビッシーとしては異例に激しい曲の譜面は、あくまで眺めた図形としての話だが、ストラヴィンスキー「春の祭典」のピアノリダクション版を思わせる。作曲は1910年、春の祭典は1913年だからストラヴィンスキーがこれを知っていた可能性はあるだろう。ドビッシーはこの曲を管弦楽化しなかったし、歌えないのだからそれはできないと考えるのが当時の常識と思われる。現にドビッシーは歌える火の鳥、ペトルーシュカはほめたが春の祭典には冷たかった。春の祭典がそれまでの音楽の決定的な創造的破壊(Creative Deconstruction)になった理由の一つは、常識破りのそれをしたからだ。

81oVpH4IzsL__SL1500_前奏曲第1巻、第2巻の名演としてゆるぎない地位にあるのが故ベネディッティ・ミケランジェリのDG盤である。僕もそれには異議のとなえようがない。1985年の5月にロンドンはバービカン・センターで第2巻の実演を聴いてもそう思った(僕の前の席にはアルフレート・ブレンデルが聴衆としていた)。今も彼の2枚が愛聴盤であることをお断りした上で、あえて言おう。彼の研ぎ澄まされた音は息をのむものだったが、彼は音の美食家なんだろうなという印象もあったのは事51R8ZHW53SL実だ。彼のファンに叱られるかもしれないが、音楽の作り方そのものにあんまり「哲学」を感じなかった。

演奏家は時間を「支配」しなくてはいけない。音がきれいかテクニックにキレがあるかという次元の話ではなく、音楽自体が時間芸術であり、時を刻みながら生成されるものだという本質を聴衆に味わわせないならば、音楽は意味の薄い享楽と変わらないものになる。ミケランジェリにはそれがあったしそれが聴衆に息をひそめさせるという稀有の経験をさせていただいた。だがあのドビッシーには何かが足りない。春の祭典に通じる畏怖、破壊、再生・・・そういう第1次世界大戦勃発直前の風雲急を告げる作曲家の心の嵐のようなものが彼一流の美音の陰に隠れていて、平和な世の我々をそこに巻き込むための一種のしたたかな理性、それを駆使した演奏哲学のようなものが欠けているのかなと感じた。

それはピアニストのプレゼンテーションのコンテンツというよりも、相手である聴衆を時間という魔力でコントロールする力、たぶん「意志を持ったオーラ」と言った方が直感的には近い何物かがこの曲には必要ということだ。音の美食の悦楽では足りない、もっと知的でいて本能的、動物的なもの。僕はそれがどうしても欲しい。

51a1tB4Ym7L__SL500_AA280_そういう演奏はないものとあきらめていたら、ひとつだけ近いものがあった。やはりイタリアのピアニスト、ジャンルカ・カシオーリのものだ。彼はすべての音符を自分の理性で一度Deconstructしているように聞こえる。怜悧な眼がひとつとして無意味に見過ごした音符はなく、楽譜をそう読むのかという新鮮な創造にあふれている。それが人為的、人工的な奇矯さに陥らないのは、彼の天性の音楽性とでも呼ぶしかないものがすべてを覆い尽くしてコントロールしているからだ。音とリズムは磨き抜かれ、不協和なクラスター(音塊)でも混濁することがない。そして何より、それをプレゼンする意図、自信の強さに圧倒される。そうは書いてないのだが、作曲家はきっとそれもよしとするに違いないと思わせる何かをもっている。「西風の見たもの」をお聴きいただきたい。

彼の前奏曲第1巻における創造的破壊(Creative Deconstruction)というものは、ピエール・ブーレーズの春の祭典そしてグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲という、まったく素養の異なる天才たちが各々の特異な方法論によって我々を驚かせたそれの場合との同質性をほのかに感じさせる。そういう行為をして聴衆を「創造的に驚かせる」には、その音楽を constrac tした天才と同じほどの理性が求められ、聴衆にだってそれに共鳴し、少なくともびっくりぐらいはするほどのヴァイブレーターを求めてくる。

経済学においてシュンペーターが使った Creative Deconstruction という概念に近いのはグールドではなくブーレーズだろう。グールドが creat eしたものは、極めて磨かれてはいるが極めて特異でもある彼の個性というものだ。ブーレーズは作曲という領域で創造を行い演奏という領域で再創造ををするという棲み分けを行ったが、彼の提示した春の祭典は強烈な個性の刻印はあるものの、あくまでも、すぐれて知的に彫琢され尽くした春の祭典である。一方、グールドのバッハは、ちょっと乱暴な表現をお許しいただければ、グールド本人である。

グールドのようなピアノのソノリティに鋭敏な耳を持った人がドビッシーを弾かない、いや弾かなかったかどうか知らないが少なくともたくさん録音するほど積極的ではないというのは象徴的だ。恐らく、彼はそこに Deconstruct するものを見なかったと思う。やったとしても、そこに「グールド」を constract する誘惑には駆られないほどその余地を見出さなかったのではないか。それは、きっとドビッシー自身がそういう人で、それを作品の中で完ぺきにやり尽くしてしまっているからかもしれない。そのピアノ曲としての完成度が、本人をして管弦楽曲と感性の仕分けができていたということを示していて、だから彼はラヴェルのように自作をオーケストレートしていないのではないか。

ブーレーズが前奏曲を弾いたらどうなのかは大変興味深いが、彼の「牧神の午後への前奏曲」は彼の Deconstruction の非常に微視的な方法論をよりわかりやすく見せてくれる。それは別稿としたいが、カシオーリというピアニストがここで見せているのはそれとも違う、言葉ではうまく表せないが、作曲家でもある彼の眼がレントゲンのように音符を透過した観のある、そういう人でしか出てこないような音の在りようが似ていると思う。

ホロヴィッツやルービンシュタインのような根っからのピアニストが見たもの。それはピアノの譜面なのだろう。彼らは恐らく、それをオーケストラのパレットに移したらどうなるかというような性質の関心はない。ただそこからあらん限りのピアノの音の魅力を紡ぎだすことにおいて、彼らは並ぶ者のない天才であった。だからそういう行為を前提として書かれた音楽にこそ十全の力を発揮した。その代表格がショパンであることは論を待たない。

僕はショパンやチャイコフスキーに Deconstruction を求めないが、カシオーリという人はショパンを弾きながらノクターンを作曲者自身の装飾音符を付したバージョンで弾いてみようという実験精神を発揮もしている。過去の作品は、そういうことに向いていようがいまいが、彼の理性が思考する「素材」としてどこかクールに突き放したところに置かれている感じがするという一点において、彼はグールドに似てもいるのだ。まだ35歳。実演を耳にしてはいないが、ここからどう進化していくのか、非常に面白い才能だと思っている。

(補遺) 前奏曲第1巻・第2巻

ユーリ・エゴロフ(pf)

5099920653125これは全集の並みいる名盤の中でも僕が最も気に入っているもののひとつ。エゴロフは僕と同じ学年だが同性愛をカミングアウトしており88年にエイズで亡くなった。本当におしい才能と思う。このドビッシー、ふっくら、ひっそりと何かを語りかけてくる。ミケランジェリやカシオーリはピアノという楽器が語るが、エゴロフは音楽だけが心に響き、沈める寺のような曲でも詩情が支配する。それは強靭な技術あってのことだが、ここまでレベルが高いとメカニックや楽器を聴き手の意識から消してしまうのだ。稀有な名演。i-tunesにあるがお薦め。

 

(こちらへどうぞ)

ドビッシー フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (1915)

 

クラシック徒然草ーフランス好きにおすすめー

 

 

 

 

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ねこの見たもの

2014 AUG 22 1:01:31 am by 東 賢太郎

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ねこは洗濯物の下でもねる。         noi6

 

 

 

 

 

ねこは冷蔵庫にものる。              noi7 ねこはすべてを知っている。

 

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ねこだまし

 

 

 

 

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シティ銀行の個人業務売却

2014 AUG 21 2:02:26 am by 東 賢太郎

シティ銀行の個人業務売却にはいろいろ思う所がある。国内の資金量3兆6千億円は地銀の30位ぐらいで決して小さくはないが、そこからの預貸業務収益がシティの株主の眼から充分に大きいとは思えない。低金利下で資金需要が伸びない現況から、グローバルの資本配分で日本が劣後したとして不思議ではない。

シティがリテール業務でターゲットにしたのはハイネットワース(HNWまたは富裕層)の取り込みと思われる。今回の決定は、長年にわたるそのターゲット追求を放棄したということであり、長期にわたるデフレがあったとはいえ個人の貯蓄が減少したわけではない日本市場にどうして見切りをつけたのか、非常に興味があるところだ。

日本のHNWビジネスは砂漠の蜃気楼だ。巨大な湖に見えるが、近づくと消える。シティに限らず世界の名だたる金融グローバルブランドがプライベート・バンク(PB)の看板を掲げて試みているが、成功したという話はただの一度も聞いたことがない。海外ブランドに弱い日本人なのにどうしてなのか皆が不思議に思っているが確たる正解はどの外資も見えていないようである。

いや正確には、見えていないのは外資系の本社幹部で、日本で執務に当たっている日本人幹部や社員の気の利いた人はわかっている。わかってはいても、せっかくいい給料をくれるのだからそれを教える必要もない。今回、シティ幹部や株主はやっと長年のレッスンを経て蜃気楼の真実に到達したということなのかもしれない。

スイス時代にクレディ・スイスのPB部門の幹部がこう教えてくれた。「PBとはね、お客様と一緒に遊んでプライベートを共有するビジネスなんです」。この原則に照らすと、日本がダメな理由がおぼろげだがわかる。それをご説明しよう。

日本のサラリーマンはお客のプライベートを自分の上司や会社と共有する。まずこれが論外である。信用して秘密を明かせる人のことをセクレタリー(secretary)という。会社でペラペラしゃべる人にシークレットを言う道理がない。コンプラ部門に報告義務でしばりつけられたサラリーマンには困難である。

しかしもっとダメなのは遊ぶ方だ。HNWと遊んで「プライベートをこの人と共有したい」と思うほど楽しませるのは、満員電車で通い500円の弁当を買っているサラリーマンには気が遠くなるほど無理だ。なぜかは説明できない。つまらないからだろう。

接待ゴルフや宴会が遊びだと思っているならHNWビジネスは永遠に無理である。それが通用するのは大企業のサラリーマン社長や経営者である。なぜ通用するかというと、彼ら個人はHNWの一員ではないからだ。

HNWの多くは日本における事業の成功者である。日本国内のなまじっかな話題や知識でサラリーマンが太刀打ちできる相手ではない。海外についても、仕事も遊びもよく知っている。付きあっている人のレベルが高いので情報はもとより諜報も知っている。

資産は自社株がほとんどで事業はうまくいっている。うまくいったからHNWなのだ。だからその配当利回りを上回らない事業や運用など興味をもつ理由がない。証券会社や銀行の店頭にチラシが置いてあるような金融商品を紹介してみればいい。二度とアポイントは取れなくなるだろう。自社商品だけ売ろうと意図するなら自殺行為だ。

最後に、これが一番大事だ。HNWは人を見抜く。見抜いてきたからHNWになったのだ。巧言令色などひとたまりもない。だから本音で体を張って付きあわなくてはならない。本音のないプレゼンやセールストークだけの人、体を張る胆力のない人とは毛頭無縁のビジネスである。

僕の経験から思いつくことをざっと書いてもこんなもので、シティが大志を抱いてHNWビジネスの看板を掲げたところで、それを現場でやるのは所詮は日本人だ。金融経験が必要だから全員が元はどこかのサラリーマンだ。

だから必然的に無理なのである。

 

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東海大四の西嶋投手に感動

2014 AUG 19 23:23:20 pm by 東 賢太郎

東海大四の西嶋投手が延長戦の末2-0の無念の敗戦でした。168cm59kgの体躯で球速は130km台ですが、とにかくピッチングがうまい!間合いやタイミングやコーナーワークが駆使されているのですが、内外角高低の精密なコントロール(左右上下)と緩急(前後)のゆさぶり、ストレートの伸び、という想定外の要素で打者は変化球に泳ぎ、直球に差し込まれます。ほれぼれして見入ってしまいました。

解説者の方が「投手らしい投手」といわれましたが正にその通りの好投手と思います。小手先のワザに聞こえそうですが、打者との駆け引きがうまいということで、それは好投手の条件です。それがなくて速いだけの投手は今どきいくらもいますし、一方今どきのバッターは150kmでもマシーンで打ちこんできていますから予選で打たれて消えている場合も多いのです。マシーンは駆け引きしませんから絶対に練習できません。プロの現役でもすぐ思い浮かぶのはヤクルトの石川ぐらいです。

今日は山形中央の先発、2年生で背番号11の佐藤投手がこれまた5回までノーヒットにおさえるという見事なピッチングで緊迫した投手戦になりました。佐藤君に打者がタイミングが合っておらず、あと4イニングでひょっとしたらという嫌な感じもあっただけに6回からエースの石川投手にすぱっと変わった時がチャンスだったと思います。結局そこで得点できず、石川君の最速148kmの速球が冴え、最後まで打てませんでした。西嶋投手は8回あたりから握力が落ちたかちょっと球が甘くなりだしたので、延長になっては不利でしたね。

たった一球の失投と守備の乱れで負けはしましたが、留学生のいない北日本のチーム同士の息づまる熱戦、これぞ高校野球という素晴らしい試合を見せていただきました。9回を完封したわけですから西嶋君の投球は文句なくすばらしいものです。ここまで見てきた試合のなかで、最も目がくぎづけになったのは彼の2試合です。ずっと記憶に残ると思います。ナイスピッチングでした!

西嶋君、これからも応援します、頑張ってください。

 

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クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

2014 AUG 18 20:20:44 pm by 東 賢太郎

私事で恐縮ですが、下の写真は1995年6月にライン川のほとり、ヴィースバーデン・ビープリッヒ(Wiesbaden-Biebrich)のヴィラ・ワーグナー(上)で撮ったものです。フランクフルトからチューリッヒに異動辞令が出た直後で、思い出深いドイツとお別れした折に家族5人で立ち寄りました。当時弱冠40歳、まだ髪も黒く細身でした。

3年間のドイツ滞在で、最もよく劇場で聴き、身近に思うようになった作曲家はリヒャルト・ワーグナーです。それまでも序曲集は好きでしたが、長大な楽劇(オペラ)全曲のほとんどは実演に接した経験がありませんでした。バイロイト音楽祭、フランクフルト歌劇場、ドレスデン・ゼンパーオーパー、ベルリン国立歌劇場、ベルリン・ドイツオペラ等でワーグナーの毒にどっぷりとつかり、ヴィースバーデン歌劇場ではリング・チクルスを堪能し、ドイツでワーグナーの神髄に触れさせてもらいました。だからドイツでの最後に、彼が滞在したヴィラにどうしてもワーグナー詣でをしたくなったのです。

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ヴィラのこの銘板に「1862年にこの家でワーグナーがニュルンベルグのマイスタージンガー(名歌手)を作曲した」と書かれています。真ん中の、写真がここから見るライン川の風景です。滔々(とうとう)と水をたたえてゆっくりと流れるこの川、この景色なんです、ワーグナーがあの有名な「第1幕への前奏曲」を発想したのは!ここに立ってみて、あのハ長調の壮大な出だしを思いうかべてみて、ああ、確かにこれだなあと感動したことを覚えています。

 

 

この楽劇はフランクフルト、ベルリン、ロンドン、ニューヨークなどで聴き、LP、CD、DVDも何種類も持っていて、好きなことではトリスタンと双璧です。そのトリスタンがこれの前作に当たり半音階的で解決しない「トリスタン和声」で書かれたのに対し、この曲は全音階的で古典的であり好一対を成すというたたずまいがあります。全曲については機会を改めて書きたいと思います。

今回はこの「第1幕への前奏曲」のバス・パートに声またはピアノでご参加いただくことを目的としております。これを開いてください。

2.1.2Vorspiel (Act I)

Vorspiel (Act I)のComplete Scoreをクリックすると前奏曲の全曲スコアが出てきます。今回はスコアを読む練習ということで、それを使ってください。最初のページに楽器名が書いてありますね。それの「CONTRABASSE.」もしくは「BASS-TUBA」のパートをやっていただきたいのです。特におすすめは26ページの第2小節からです。ここは非常にわかりやすく、歌ってもピアノで弾いても最高に気持ちいいですよ。

ちなみのこのペトルッチ楽譜ライブラリーはまだコピーライトのある現代曲を除いてほとんど全部のクラシック音楽の楽譜が無料で入手できる便利なライブラリーです。

さて、声でもいいのですが、前回のブログに書きましたように僕のお薦めは「ピアノ」です。楽器をお持ちの方はぜひ、このバス・パートを左手で弾いて合奏してみて下さい(簡単ですから誰でもできます)。ひとつだけ注意点があるのですが、合わせる演奏は「イギリスのオーケストラ」にして下さい他の国のオケはピッチが高いのでピアノと合わず不快です。ロンドン交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー、フィルハーモニア管弦楽団、BBC交響楽団など英国オケならどれでも大丈夫です。

 

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 

 

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西嶋投手の超スローボールについて

2014 AUG 18 2:02:39 am by 東 賢太郎

先日、東海大四高(南北海道)の西嶋亮太投手が投げた推定50キロの超スローボールを僕もTVで見ました。これについてクレームが出ているというのは少々驚き、去年書いたこのブログを思い出しました。

花巻東 千葉選手がんばれ

「高校野球らしくない」という批判といえば古くは松井秀喜の5打席連続敬遠騒動がありました。高校野球は勝てばいいってもんじゃない!という声が上がり、明徳義塾高校の監督さんや投手は勝ったのにそれで記憶されることになってしまいました。勝った者を称賛しないのは、それが高校野球であるかどうか以前にスポーツではありません。

ちょっと脱線しますが、日本の大企業の経営会議では往々にしてこういう人が出てきます。「あれはいかがなものか」、「あそこでは言わなかったが私は反対だ」。出席していて反対しなかったにもかかわらずです。そういう会議はまじめにやっている人間がわからなくなるだけです。そこでみんなで決めたことがすべてというルールがあるから会議が成り立つし、決めるために会議というものが必要なのです。それをその場では黙っていて後で寝技で覆すようなことがあれば会社経営など成り立ちません。

経営もスポーツもルールに則ってやるから全員が納得するのであり、だからこそ責任が明確になるのです。ルールのない会議で決めておいて成功したら経営者がいい格好をし、失敗したらケツをまくって逃げる。こういう経営をやってきた会社はおおかたダメになってます。なぜなら、ルール通りに決めて失敗したら責任を取らせる、成功したなら評価するという論功行賞に納得性がなければ創意工夫によるリスクテークなどしない方が得であり、社内はサラリーマンばかりになるからです。そういう会社の株を投資家は買わないし、スポーツの場合はつまらないのでお客が入らなくなるでしょう。

5回敬遠してはいかんというルールがあるならともかく、ないのですからそれはルールに則った戦術です。4番打者を5回も一塁に出すというペナルティを負って勝ったのだから、5、6番を打たせなかった明徳が強かったと解釈されるべきことだと思います。「肉を切らせて骨を断つ」。これは剣道で強敵を倒す時の極意とされる言葉だそうですが、それと何が違うのかということです。強かった明徳義塾がその戦術を要するほど星稜は強敵だったということでしょう。

仮に「高校生らしくやれ」という精神がそんなに大事なら、それを具体的な事例としてルールブックに書き込んで審判がペナルティを科すかその場で注意をすべきなのです。会議と一緒で、後であれはいかがなものかと言われたのではまじめにやっている人間がわからなくなるだけです。勝つための創意工夫をする者がなくなります。体重による階級制のない大相撲で決まり手が10種類しかなかったら舞の海のような小兵力士は勝てないでしょう。それが48手になったのは創意工夫の結果だと思うのです。そしてそれによって大相撲という競技は根強い人気を長く保ってきたと思います。

つまり、ルールで禁止されていない攻め方、それは立派な戦術であって、予想外の戦術に負けてしまったら要は弱かったということです。そういう大前提のもとに監督も球児たちも炎天下のグラウンドで切磋琢磨しているというのが僕の理解であり、エアコンのきいた部屋で見ている方もそういう理解をしてあげるべきと思います。高校野球は負けたら終わり。だから負けないためにあらゆる合理的な戦術を使うのはグラウンドにいる者たちには当然のことです。相手の4番を5回敬遠することは今でも可能です。誰もそうしないのは、それが高校野球らしくないからではなく、5回も無駄なランナーを出せば負けてしまうからです。

では本件はどうでしょう。60km未満の球速の投球は違反とする、そんなルールはどこにもありません。身長169cm、体重59kgという地区予選レベルですら小兵である西嶋投手が優勝候補の九州国際大付属に1失点12奪三振というのは、同じぐらいの体格だった僕として信じ難い偉業です。誉めても誉めきれません。遅球は打者のタイミングをずらす立派な戦術です。なめているという人がいるようですが、なめたスローボールで12個も三振が取れるならピッチャーをやっている人間は誰でもします。やる人が少ないのは投げるのが難しいからです。五条大橋の牛若丸といっしょで、欄干から奇襲した小兵の西嶋君が強かったということ、それだけと思います。

 

 

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野球を4試合も観戦する幸せ

2014 AUG 16 23:23:34 pm by 東 賢太郎

今日は一日中TVにかじりついて野球をフルに4試合も見られました。甲子園が城北vs東海大望洋、東海大相模vs盛岡大付、八頭vs角館、そして広島vs巨人です。至福の時です。しかも最後はカープが昨日の心配をよそに12-2で大勝のしめくくり。言うことありません。

東海大相模の先発・青山投手の速球はすばらしかった。3回までに8奪三振ですが直球で奪えるのがすごい。ただ5回には盛岡の打者にとらえられていたので6回を投げさせたのはどうでしょう(結局3点取られてそれで負けました)。神奈川大会決勝で20奪三振の吉田投手を含め140km投手が3人もいたのに。6回から代えていれば2-1か3-1で勝ったんじゃないか。もったいないというか、選手たちがかわいそうでした。

盛岡の松本投手は150kmを封印して変化球で丁寧にコーナーをつくクレバーな印象でした。変化球の球種もコントロールも良くて抑え込んでしまいましたね。大変見ごたえのあるゲームで、準決勝ぐらいを見た感じ。最激戦区神奈川の190校の代表・東海大相模が1回戦で消えてしまうというのも、クジ運とはいえ残念に思いました。

皮肉なもので、次の試合が25校と地区予選出場校が最も少ない鳥取の八頭で、52校とこれも少ない秋田の角館を圧倒して6-1で勝ちました。左腕の鎌谷投手は右腰を疲労骨折したそうで、鎮痛剤を飲んでの登板でしたが好投でした。角館の相馬投手も130km代半ばは常時出ていて力のある投手でしたが、八頭の打線の振りはそれを上回っていました。鍛えられている非常にいいチームと思います。

さてカープですが、2軍からいきなり4番にすわったロサリオが2安打に好走塁と、もやもやを吹き飛ばしてくれました。先発の大瀬良に勝ちがついたのも良かったが内容はやや不満。それより嬉しかったのは7,8回を見事に封じた中崎の好投です。152kmの重そうな速球は打たれそうもない水準。一岡の穴を埋めてくれそうです。もうひとつ、売出し中の田原誠を粉砕した丸の2ランは貫録として、福田を打者一巡の血祭りに上げるのろしとなった会澤の2ランです。7本目でしょうか。これは最高にうれしい。やっとカープは打てる正捕手を得ました。

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カープが少し心配

2014 AUG 16 11:11:52 am by 東 賢太郎

広島カープが少し心配です。まずエルドレッドです。4番のスランプは珍しくありませんが、2軍落ちして社会人野球にまで出るというのは破竹の勢いだった前半戦と落差が大きすぎです。1試合6三振したころからおかしくはなってましたが、どこか痛めてなければいいのですが。

もっと心配なのはマエケン。昨日の巨人戦も3回6失点で論外のひどさ。雨は相手の内海も一緒なのだから理由にならないでしょう。ここ数試合、勝てないばかりかエースの風格もなし。阪神・藤波との投げ合いは元大阪(PL学園)のプライドもかかっているだろうが全然勝てません。カード初戦はエース対決が多く、これの負け続けはチームの士気を損なうこと甚だしい。ヒジに故障と噂されるようになってから一時の輝きを失いました。これで本当にヤンキースが取ってくれるのか余計な心配までします。

福井が出てきたのは嬉しいが野村もふがいないですね。マエケンが出て行ったあと誰がエースなのか。バリントンはいい投手ですが負ける時は5点も取られエースとはいいがたい。大瀬良、九里は期待しますが実績からしてまずは野村が出てこないと。新人の年の最後あたりからどうも好投しても勝てないサイクルがありましたが、打線とのかみ合いが良くないのも何か理由があるかもしれません。

今年は菊池が大ブレークしてムードメーカーにもなったところにメンタルにタフそうな新人の田中が加わりました。それが大人し目の丸、堂林にも伝播して、去年まで足を引っ張っていた打線は得点力を増しました。ただ、彼らが出塁してエルドレッドの一発でというパターンがワークしなくなるとそれに陰りが出て、先発のコマ不足から中継ぎに負担が出てとうとう一岡の故障という最悪の事態になってしまいました。抑えのミコライオにつなぐ前に崩壊というパターンです。

こういう時にこそ出てこないといけないのが4番とエースです。4番がホームランを打って、エースが完封して1-0で勝つ。優勝するチームはみんなそれができていたと思います。巨人の失速も阿部の不調、菅野の怪我が効いていますが、それを坂本、内海ががちゃんと補っています。優勝を左右すると思われるここから2週間の消耗戦を勝ち抜くにはそれが必要でしょう。田中が抜けて失速した楽天ですが昨日は則本が復帰して1安打完封。こういうのがエースの風格です。前田には奮起してもらいたいものです。

 

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クラシックは「する」ものである(7)-ピアノについてー

2014 AUG 14 11:11:37 am by 東 賢太郎

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クラシックは「する」ものシリーズを書いていて、やはりどうしても最後はピアノという楽器の助けを借りたいという思いが出てまいります。それが「する」ことと「語る」ことの橋渡しになるからです。そこで今回は、ちょっと楽譜を忘れてお話しだけです。

 

 

ピアノができないとわからないという意味でないのはご理解賜りたいところです。なにより僕自身のピアノが初心者レベルなのですからそういうことを言える立場にないわけです。むしろ、一度もピアノを習ったことのない僕のような者ですら、クラシック好きであればピアノに触れているとあっと思うことがたくさん出てくるという妙なる経験をお伝えしたいのです。それは歌でオケに加わる合奏に加えてピアノで加わるという無限の喜びを手にすることになるからです。そしてそれは、ピアノ独奏曲を弾くよりもずっとやさしいからです。

先日、僕にとってクラシックのCDはカラオケであると書きました。それには例外があって、それこそがピアノ独奏曲なのです。これは口(くち)三味線で歌うことができないし、歌ってもつまらないでしょう。だから押し黙って聴くしかない。歌って踊ってが通用しない唯一のジャンルなのです。

そこに弦楽合奏が入る音楽とピアノ音楽との根本的な違いがあるようです。声と弦は親和性があり、打楽器であるピアノは声とははるかに異質なように思います。歌にピアノ伴奏がつく歌曲というジャンルはありますが歌を弦が伴奏する編成が発展しなかったのは、弦と同質性がある歌が引き立たないからではないでしょうか。

僕は楽器として多少は弾けるギター、チェロよりピアノに触れている時間が長く、といってピアノは完全独学なのでうまいはずはなく、うまくなる見込みもありません。一応の努力はしましたが通して初見でというとベートーベンのソナタ20番ト長調作品49-2がなんとかというのが現在の所です。この曲はソナチネですから、ちゃんと習っていれば小学校低学年ぐらいでしょうか。

ただ、こういうことを皆様にお薦めするわけではありませんが、何度か書いたように僕にとってのピアノは管弦楽曲のピアノ・リダクション譜で好きな部分を弾くという特別の用途があるのです。つまり音楽を分解して作曲家の頭に在った設計図を知ることには威力があります。ショスタコーヴィチは他人のオケ曲はピアノ譜を想像しながら聴いたそうですが、もちろんそんなことはできなませんが、その気持ちはわかる気がします。

ちなみにピアノを弾き始めたのは高校時代で、最初に弾けるようになったのはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。そこが弾きたいから始めたという変わり種でした。そして目的を達してしまったのに慢心して基礎的なトレーニングはほとんど無視、バイエル、ツェルニー、クーラウ等は曲に全然興味がなくスキップ、ピアノ曲として初めて覚えたのは、ちゃんとした音楽に聞こえたバッハのハ長調のインヴェンションでした。

しかし色々な曲を知ってみると、オケ曲をピアノにしてしまうとスケルトン( 骸骨)状態になって失うものが多いことがわかってきました。また、音色からしても、ピアノは歌えないということは弦とは完全な別物になったということで、そうなるとさっぱり面白くない曲というのがあることも。しかし一方で、悲愴交響曲の終楽章のように、弦主体なのにピアノで弾いても「すごくいい」と納得する曲もあります。

リムスキーコルサコフの交響組曲「シェラザード」の第1楽章もいい例です。あの大海に漂う船のようなオケの感じがよく出るし、コーダは心が深く落ち着く。左手の分散和音によるコード進行が、あ、これはピアノで作った曲だなと手に取るようにわかるのです。意外に簡単だから経験者にはぜひお薦めします。オケの音を心でシミュレートしながら弾いていただけば、なぜ僕がそんなことに執心しているのかご理解いただけると思います。

つまりピアノ譜というスケルトンになっても名曲というのは名曲の価値をいささかも減じないばかりか、肉づきを欠く分だけごまかしがきかなくなります。歌の悦楽を喪失する代償に音にはぎりぎりの必然と集中力が込められ、オーケストラとは別種の美感と解像度が現れるのです。それはカラー写真を白黒にした方がくっきりと明暗が浮き出たように見えるのと似ているように思います。

825646760046ピアノ・リダクションが立派な別個の作品と聞こえる典型的な例がベートーベンの交響曲でしょう。シプリアン・カツァリスというピアニストが全9曲をピアノで弾いたCD(右)があり大変面白いものですが、僕はこれは立派なピアノ・ソナタだと思いました。ラヴェルの編曲した展覧会の絵を知ってから原曲を聴いた、その感じに近いでしょう。ソナタとして発想した曲を管弦楽化したといわれても違和感がなく、ベートーベンほど交響曲とピアノ・ソナタを写真のカラー・白黒の関係で書いた人はいないのではないかと思います。

彼はピアノという楽器が最も大きく進化した時代に生まれ、それと共に歩み、常にその時その時のピアノが与えてくれる最先端の機能を求めるソナタを書きました。よくいわれるように、楽器を壊すほど強い音をピアノに求めた最初の人ですし、それと同じ原理を楽器編成やダイナミズムの意図的な発揮という側面でオーケストラに求めた最初の人でもありました。同じように面白いことに、彼のピアノソナタの譜面を年代順に眺めると、メカニックな側面で逆に楽器の進化プロセスがおおよそ俯瞰できるのです。

そんなことがあるかと疑問に思われるかもしれません。別な例で見てみましょう。ミュージカルや宝塚は歌手の声をマイクロフォンで増幅しています。本格的な声楽家でなくても歌えるでしょう。歌というものが教会というよく響く場からオペラハウスに出た時代に、仮にですが、マイクロフォンが存在していたら?我々がカラオケを歌うような地声、喉声でも会場の隅々まで響き渡る。きっとそういう発声法の達人は出たでしょうが、我々はドミンゴやカラスのような歌手を聴く機会はなく、ヴェルディはトロヴァトーレや運命の力のようなオペラを発想しなかったのではないかと思います。

けだし、歌って踊っての申し子のようなミュージカルという音楽ジャンルは、クラシックの声楽の発声法を必要としない代わりに別種のフィジカルをそなえた歌手たちを前提としたもので、マイクという音響増幅器が産んだものです。歌手の体躯が大きな音響を産む楽器になることを求めず、そこは増幅器に機能集約する。CPU、メモリー機能を集約化してパソコンを身軽にしたクラウドコンピューティングと同じことです。いわゆる「音響」という、音楽を聴衆の鼓膜に伝えるメディアが音楽そのものを変質させる現象としてマクロ的に眺めるならば、それはハンマークラヴィールと呼ばれた音が増強された新しいピアノの出現がベートーベンをしてあの巨大なソナタを書かせたのと同質の現象でしょう。

管弦楽曲のピアノ・リダクション譜というものは、あたかも因数分解して最後に残った因数のようにその音楽の本質を他から区別する多くの情報を含んでいます。それをいろいろ知るようになると、現代の音楽は、ベートーベンにおけるピアノ譜というスケルトン(骨格)そのものの第一次成長期、そしてワーグナーを経てその骨格にオーケストラによる肉付きが増していく第二次成長期を経て進化したものであるという様子がよくわかるのです。ピアノの譜面を通して音楽を見ると、聴くだけの人間にも多くのことを学ばせてくれます。本で読んだ知識と違い、自分で体感したことというのは血肉となります。

そして、今回申し上げたかったことですが、それが「語る」ということにつながります。ピアノ曲は歌うことができないし、ピアノで歌の譜面を弾くこともあまり喜びをもたらすとは思えないのですが、「歌って踊って」は右脳が音楽を愛でる行為だとすれば、僕にとってピアノは左脳が愛でるための道具という位置づけにあります。そして、その両方の交わる所において、クラシックを聴こうと自分を動かしている衝動が何かあります。この左脳の出番があるという部分において、クラシックを「語る」という行為が成り立つし、こうしてブログを書くことにもなるわけです。

だから、あくまで僕のケースですが、「語る」ためにピアノに助けてもらっているということです。ハンマークラヴィールを弾けるようにはなれませんが、演奏家の方が「する」ために厳しい練習をされている、それとは別種の目的でピアノが活用されるということがあるということです。これは科学にたとえれば、宇宙のことを知るのに物理の知識が助けてくれるのと似ているかもしれません。何光年も離れた星に行きつくことはないのですが、そこで何が起きているかは、自分の理性が及ぶ範囲においてですが一応はわかるという意味でです。

聴いた音楽の感想を語るのに、ただ「良かった」、「感動した」ではつまらないのではないでしょうか。だからでしょう、ワインにテーストやアロマを語るためのヴォキャブラリーがあるように 、音楽にもそれは存在します。しかしワインの語彙は特徴を記憶し識別するためのものです。音楽にその必要はありません。音楽の聴き方というものは個人差があってしかるべきであり他人の感想に左右される必要はありません。あくまで自分がどう聴き、どう感じたかがすべてであり、それが他人と同じであることも他人に共感されることも必要ではありません。

ですから雑誌や新聞でCDや演奏会の批評家のコメントのようなものを読んでみて、その人固有の感じ方に面白いと思うことはあっても、自分が語るために役に立つということはないのです。あくまで他人の個人的意見にすぎません。一方、何か客観性のあることを語り合うという世界はもちろんあっていいでしょう。しかし、指揮者AとBで演奏時間がAが10秒長いのどうのという類の語りに何か自分の音楽鑑賞に関わる有意の価値があるとは僕には思えません。ではその曲のウンチクは?そういうことは今どきの世の中、wikipediaにいくらでも書いてあります。

ですから、僕はピアノを使って自分の頭と耳でその曲をよく知り、作曲家の脳みそに在ったものを自分なりに想像し、そこから彼が聴衆に与えようとした喜びを歌って踊ってのスタイルで享受し、その「体験録」を語るということをするのみです。それ以外に方法があるとは思いません。その喜びの源泉は必ず作品に内在しているものです。演奏家が超絶テクニックで無から有を産むようなことはありません。ですから作品に対する知見こそが語ることのベースであると考えています。仮に「今日の演奏」について何か語るとして、それは、それを何%引き出していたという語りで充分と思います。

皆様に楽譜をお示しして歌って下さい弾いて下さいとめんどうなことを申し上げているのは、ひとえに、喜びが作品に内在している事をご体感いただくためなのです。それなら娘のピアノを触ってみよう、スコアを見てみようなどと志される方がおられれば嬉しいことですし、もちろん歌うだけでもいいのです。僕ごときでできることですから音楽の専門的トレーニングはいりません。作品に対する知見を養うことが目的で、それは「する」ことでしか得られませんし、一度でも得てしまえばそれは一生にわたるその曲との深いつきあいの始まりになります。そこに秘められた財宝を手にされることになり、やがて皆さんは「語りたい人」になられると思います。

 

クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

 

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甲子園名勝負と武士道

2014 AUG 13 22:22:21 pm by 東 賢太郎

夏の甲子園で何が面白いかというと様々でしょう。超高校級の選手を見るのもいいですが、やはり若さと若さのぶつかり合いの中で生まれてくる勝敗のドラマは他には代えがたい楽しみのように思います。

昨日の第4試合、岐阜の大垣日大と茨城の藤代の対戦は面白かった。藤代が1回表にいきなりホームランなどで8点を先取しました。いったい何点取るのかなという感じでしたが、結局、大垣日大がこれをひっくり返して12-10で勝ちました。

今日の第4試合、三重と広陵は好カード、好ゲームでした。やや広陵が押し気味で迎えた9回、ツーアウトから三重が2点取って同点に追いつき、延長戦に。双方ピンチをしのぎつつ11回までいって、その裏に満塁から押し出しで三重が5-4でサヨナラ勝ちしました。

両ゲームとも、見ている方も感動しましたが、終了後のインタビューで両監督が涙を浮かべて選手をたたえていたのがとても良いシーンでした。特にプロが注目するような選手はいなさそうな2試合でしたが、熱いドラマがありました。

プロはお金の世界ですから技術は素晴らしいが無理はしません。先日の阪神・ヤクルトで大敗ムードのヤクルトが投手に代打も出さずにバントさせるなど、高校野球とは似て非なる精神のスポーツといわざるを得ません。

高校生はお金のためでなく名誉をかけて戦っています。それだけであれほど真剣になるという経験は、彼らはひょっとしてこれを最後にもう人生で味わえないかもしれません。だから勝ち負けにこだわりつつも、負けてもすがすがしいものを漂わせています。

日本人はこれが好きなんじゃないでしょうか。この大会が広島・長崎の6日、9日、そして終戦の日の15日という時期にサイレンを鳴らして行われるというのは色々と考えさせられます。

僕は鹿児島へ行ったおりに特攻隊の知覧へ行きました。数千の若者の写真、手紙に圧倒され、最後の出撃が終戦のすぐ前だった等の悲劇を知るにつけ、彼らの一部が今なら元気に野球をやっている年代の子たちだったという事実に思い当たるのです。

我々はこういうメモリーを大事にしなくてはいけませんし、アメリカが都合のいいように作り変えた戦後日本の功利主義ではなく、日本人が本来持っている価値観を大切にすべきと思います。

それがどういうものかは色々な側面がありますが、僕は武士道という一言でそのほとんどが含有されるのではないかと思っています。甲子園の高校生たちのすがすがしさは、消えかけている武士道の名残理を感じることからくるのではないかと思いました。

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