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米国放浪記(1)

2014 AUG 26 0:00:12 am by 東 賢太郎

あれは大学3年の夏。どういう風の吹き回しか麻雀仲間で法学部のI君、経済学部のH君とアメリカへ行こうということになった。本郷の東大正門前の葵(あおい)という雀荘で、打ちながらこの話はまとまった。とにかく時間が無限にあった。世の中には知らないものが無限にあるような気がしていた。

当時、バイトは時給3千円ぐらいの家庭教師と塾講師をしたが、もらうそばから使ってしまい渡米費用はとてもない。親父に頼むしかなかった。親父はアメリカ映画が好きでクラシックやらシャンソンやらロシア民謡やらのレコードをもっていて、これからの世の中は英語だと口酸っぱく言っていた。定年後にインドネシア国立銀行、トーマス・クックにも勤めたから英語は少しはできたというのがあったろうが、どうやって親父を説得したかとんと記憶にない。とにかく快く資金を出してくれ、この滅茶苦茶で無計画な米国放浪を許してくれたから僕の今がある。この放浪はそれほどのインパクトがあった。旅は若者を成長させるのだ。

行くんならそりゃあロスだとなったのは親父の三井の同僚が現地支店長でおられたからだった。彼に指南を仰ぐんだぞということになってOKが出た。立派な知り合いがいるから大丈夫ということでIもHも安心した。その実、その方のお家にはご挨拶して後は好き勝手に好きなところへ行きまくろうという魂胆だったが。「予約なんかレンタカーだけでいい、ホテルはモーテルがいくらでもある。それを渡り歩けば大丈夫」。幼なじみで野球を教えてくれたお兄ちゃんが石油プラント会社にいて、ご指南はすでにそっちに仰いでいた。

英語など3人とも当然できない。飛行機すら人生初めてだ。羽田を離陸するとすぐ、肩ならしのつもりで白人のスチュワーデスにウォーター プリーズといった。通じない。なぜかカフィ?ときたのでアー オーケー コーヒー プリーズといったらまた通じない。けげんな顔でワゴンを押して行ってしまった。そうか、水はウォーターじゃないんだ。「ワラ」が飲めたのはずっと後だ。小倉高校のIと前橋高校のHは、東京のシティボーイは少しはしゃべれると思っていたろうが、ぜんぜんシティボーイでないのがこれでばれた。

ロス空港のタラップを降りながら深呼吸し、アメリカにも同じ空気があるんだと妙なことを感心した。エイヴィス・レンタカーの契約はワラの注文以上の大苦戦を強いられた。1時間ぐらいああだこうだしてやっと無愛想なおばさんがキーをカウンターに放り投げるようにくれた。ガレージに行ってみるとでっかくて年期のはいった赤いプリマスである。「おい、こんなボロ、エンジンかかるか?」が第一声だった。

そんな心配はご無用のようだった。おごそかに、しずしずと動き出した老プリマスは予想外にしっかりとした足取りでダウンタウンまで我々を難なく運んだ。ロスの街はでっかい。人も車も多い。運転の僕はというと右側通行だぞと自分に言いきかせてハンドルにかじりつくのがやっと。ナビ役のHはというと地図の読み方すらまだわかっていない。夕方だし、とにかく今晩泊まるモーテルなるものを探そうということになった。米国のモーテルはその名のとおりモーター・ホテルで、妙なものではない。

街の中心部にそんなものはないから少しはずれまで行ったあたりで道に迷った。というよりHのナビはとうの昔にギブアップになっていて、なんとなくあてもなく走っただけだ。裏路地に入りこんでしまってわけがわからなくなり、仕方ない、誰か歩行者に道を聞こうとなったが、そういう時に限ってさびれたところで人も歩いてないのだ。そして、僕らがそうやって困り果てるのを待ちかまえていたかのように、老プリマスがプスプスいいだした。わざわざその辺でいちばん人がいなさそうなあたりでエンストすると、永遠と思われる休眠状態にはいってしまった。

やっと見つけた公衆電話から僕がしゃべった言語を理解したエイヴィスの社員はカンがいい。質問を何度もしてくる。しかしワラを初めて覚えたんだからわかるはずがない。5回目ぐらいについに聞きとれた。ゆっくりとひと単語ずつ、「ウェア アー ユー ナウ?」 おおそうか、おいH、ここどこだったっけ。誰もわからない。HとIが近くの町工場みたいなところに必死で飛び込み、身振り手振りでここどこだっけ?をやってる。ああ、こりゃだめだ。エイヴィスの電話が切れた。黒人の工場長がやっと事態を察して電話してくれ、ここで待ってろとだけいって消えた。有難かったが、ここからまた長かった。

路上で3人ぼけっと待った。通りがかりの黒人が笑いながらおめーら何やってんだ?という感じで寄ってきた。僕らを指さしてユー、ミー、タメダーシ、OK?、タメダーシとほざく。おいあいつ、タメダシってなんだよ?知るかよ、そんな具合で無気味であった。ここでホールドアップされたら・・・もちろんアウトだ。ひょっとしてトモダチのつもりじゃないか?Iが気がついた。どうもそのようだった。よかった。初日から先が思いやられる事態になったが、愚痴は誰もなかった。なにせ帰りの航空券は1か月先だ。泣いても笑ってもそれまでアメリカにいなくちゃいけない。参ったね、そうだよここはアメリカなんだ。

工場長が何か勘違いしたかと思うほど長い時間が経過した。すでに暗かったと思う。今度はちょっとはましな車が到着した。ロールスロイスでも来たかのようにうれしかった。それがそこから我々の足になってくれたフォードだ。このエンスト騒動でずいぶん英語をしゃべらされた。水も注文できなかったくせに、もうブロークンでもいけるぞと自信がついていた。後で思うと、老プリマスがここで臨終になってくれて良かったのだ。そのままあれで出発していたら3人とも命がなかったかもとぞっとする。初日のカウンターパンチは強烈だったが、人生、何が幸いするかわからない。

放浪はこうして始まった。

 

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米国放浪記(2)

 

 

 

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