Sonar Members Club No.1

since September 2012

ブラームス交響曲全集(ジョルジュ・レヘル指揮)

2014 OCT 6 15:15:44 pm by 東 賢太郎

先日、中古レコード屋で輸入盤のLP全集を発見し狂喜した。1番だけを88年にロンドンで買って以来ずっと気になっていた、比較的新しい83年の録音だ。ただその1番はCDであってどうにも音が芳しくなく、いまi-tuneにあることも知っていたがどうしても全集はLPでなくてはと思っていたのだ。

lehelフンガロトン(Hungaroton)というレーベルは、読んでのとおりハンガリーの国営レコード会社だ。オーケストラはブタペスト交響楽団で実体は国営放送のオケ、日本ならさしずめN響である。アルパッド・ヨーの稿に書いたが、83年というとアナログ⇒デジタル、LP⇒CDという移行が同時に起きていた時期であり、当録音はデジタルでフォーマットはLPだから貴重なのだ。

もう一つ貴重なのは、共産国時代の演奏がクリアな録音で聴けることだ。ベルリンの壁の向こう側のコンサートホールでブラームスがどういう音が鳴っていたかが如実にわかる。興味津々である。中古とはいえこれが1800円とは有難い。まあ僕のようなブラームスマニアしか買わないだろうが、これを最初に買われた方はお目が高いなと感心する。

Lehel-Gyorgyジョルジュ・レヘル(1926-89、左)はヤーノッシュ・フェレンチク(1907-84)と並んで、第2次大戦でハンガリーから外に出なかった国宝級の指揮者である。ジョージ・セル、フリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティ、ユージン・オーマンディ、フェレンツ・フリッチャイ、イシュトヴァン・ケルテスなどが西側に出たのに対し、国に残って自国の楽壇を支えた大物指揮者といえる。お国ものを中心に録音は多いが、国威発揚的なスタンスでポピュラー名曲を振らされた盤も多く、演奏スタイルはいかにも地味なため今となっては価値が薄く手に入る物は多くない。一方このブラームス全集やJ.S.バッハのヨハネ受難曲のような本格物もある。こっちの価値は別物だ。

上記の国を出ていった人たちが米国に渡って作り上げた「スコアを正確に明晰に鳴らす演奏」というのはイタリア移民であるトスカニーニに顕著なスタイルだ。それは当時の米国の音楽メディアが圧倒的にラジオ放送依存だったことに関係があると思う。欧州で伝統的である教会的な音響、低音を基盤としたピラミッド状、オルガン状で残響の多い音造りというのは高音が勝ったラジオにはうまく入らない。それでは米国人好みの派手さが出ないのだ。

その点、残響の少ないオペラハウスで情熱的なイタリアオペラを振ってきたトスカニーニの音楽性は適任だった。同様に、ハンガリー人亡命指揮者たちの理知的で明晰さを重んじる音楽性もその流れに沿ったものだった。ワルターやクレンペラーの音楽性はザッハリヒ(即物的)な音響である米国のオケだと一抹のもの足りなさがあるが、ハンガリー系ではむしろそれが彼らの音楽特性を助長してよい成果をもたらしたと言えるのである。

ところが元祖ハンガリー系であるレヘルの指揮はライナーやショルティとは大きく違う。まず中音重視だ。この全集でもハイファイ 的な高音域、低音域の強調は全くなく、ブラームスの好みである中音域が厚めのオーケストレーションが見事に鳴っている。あざとい強弱のデフォルメやキレの良いアレグロで興奮をあおることもまったくない。ラジオで流して米国の聴衆が気に入る音とは遠いものだ。

ラジオの影響に加え、米国には貴族がない。いわば全員が市民、庶民である。米国のポピュリズムの結晶のひとつがディズニーランドだろうが、あれが海外で人気なのはアジアであってフランスに作ってみたが欧州は一向になびかない。元はレヘルのような指揮をしていた人も、米国ではディズニー風に転向するしかなかった側面があるのではないか。聴いていていろいろ考えることがある。

フルート奏者の腕は良く、オーボエ、クラリネット、ファゴットも素晴らしい音程でボディのある木質の音を出しており、木管の和音はオルガンのようだ。ホルンはややロシア的でウィーン、ドイツとは違うのが意外である。技術的には微細だがほころびがある。トランペットはいかなる時も浮き出ず、トロンボーンは威圧的でなくこれもオルガン的に和音を支える。ティンパニは要所以外は常に控えめである。

弦楽器奏者の腕が特に良いとは感じない。しかし2番の第2楽章、3番の第3楽章でのチェロ、ヴィオラなど中音の美を十全に醸し出し、存在感はあるが出すぎないヴァイオリンとよくブレンドする。それがマスとして木管、金管とブレンドして、ややくすんだダークグレーのような奥ゆかしい音色を作る。

つまり弦がメロディーラインを強調してヒステリックに自己主張する性質のオケではなく、指揮もそうではないということである(僕はどちらも大嫌いだ)。一言で評すれば教会のオルガンを模したオーケストラという存在の原型的な遺伝子を保持したドレスデン・シュターツカペレの美質に近く、それをシルクの感触とするとこっちは高級なウールだ。ただ、アレグロの質は遠く及ばず、緩徐楽章にそれが活きている。

以下、演奏の寸評。

1番

思った通りで、霞がかかったようなCDより音がずっといい。第1楽章再現部前の減速はやや大きめだが、全般に解釈はオーソドックスである。レヘルの棒はリズムが前のめりにならないのが特徴だ。指揮棒が打点に落ちてから間をおいて各楽器がついてくる感じで、縦にはあまり合っていない。だから曲のリズミックな側面には焦点を合わせておらずアレグロの精緻さには欠ける。共産国時代はこうだったのだろう。一糸乱れぬ合奏力はトスカニーニ以後の米国の産物と思う。

逆に第3楽章の木管とホルンには、米国のオケでは絶対に出ないこのオケの素朴で味のある個性がくっきり刻まれている。上質の木製の工芸品の感触だ。終楽章のホルンのくすんだ音は独特、フルートソロは音楽性満点である。どこも気張ったり大向こう受けをねらう大仰なポーズがなく、高性能ヴィルチュオーゾ・オケでこの曲を攻めまくろうという大道芸人的嗜好がまったくないのは実に奥ゆかしい。

2番

第3楽章までは高水準だ。第1楽章では見え隠れする対旋律が意味深く彫琢され、どこといって変わったものはないが、何かが耳をそば立たせる。良いブラームスだ!ライナーノートを読みながら聴き始めたが、途中でそれを床に置いてじっと耳を澄ますことになった。第2、3楽章もドイツの田園風景のように美しい。ところが終楽章がいけない。どうして?このテンポは遅すぎるだろう。それがコーダになってギアチェンジして加速するのは、ヤノフスキー盤ほどではないが、安っぽい解釈だ。本盤はそこまでやってもなお熱が上がらない。もったいない。

3番

可もなく不可もなし。この曲だけは弦の魅力がもっとほしい気がする。この演奏の美点は第3楽章が無用にロマンティックに流れず、たえず節度を保っていることだ。そういうreserved(慎み深い)な態度は商業的には当たらないだろうから、恐らくベルリン壁と一緒に消え去った遺物だ。ブタペストのコンサートホールでは日常的にこんなブラームスをやっていたんだろうと思わせる貴重な記録である。

4番

これは面白い。こんな朴訥でいぶし銀の4番が何気なくぽんと出てくる、これがヨーロッパというものだ。古風にくすんだ光沢の弦、目立たないがあるべき存在感のある管。上述したオケの美質が4番の本質にだけ奉仕するような指揮。各楽章とも隙がない。それもかっちりとした枠組みをまず作り、外形のプロポーションから構築するという方法とは思われず、自由な流れの中でそれを作っている感じがする。

管楽器があらゆる側面から言って「良い音」で鳴っている。ソリスト的なテクニック主義ではないこういう奏者をうまいというのだ。そしてそういう音で吹いているブラームスの「中声部」というものが、どれだけ好ましいものか。そしてその音によって、リズムのちょっとした後打ちまで命が通っている充実感。ブラームス自身がこういう指揮をしていたのではないかと想像する。20世紀初頭、ロシア革命時点の演奏がタイムカプセルから出てきたようだ。この4番はこれから僕の愛聴盤の一つに加わるだろう。

(この全集は一般にお薦めするものではないが、ブラームスに食傷気味の人には一服の清涼剤になるだろう。itunes storeにてGyorgy Lehelと入れると6000円でダウンロードできる)

 

トータルな感想

今の商業録音のポリシーの中でこういう演奏が録音される可能性はまずゼロである。都会的センスはかけらもなく、僕は南ハンガリーの片田舎のあぜ道で車がエンコしたときの畑の風景とにおいを思い出した。ヨーロッパですら演奏会で聴くことももはやないだろう。自己顕示のためのデフォルメに満ちたブラームスの演奏会チケットやCDが市場に並ぶ。それを聴いて、ブラームスはそういうもんだとなる。

ドイツのどこのオペラハウスだったか、マイスタージンガーの舞台設定がマンハッタンみたいで吹きだしてしまった。そのノリで、革ジャンでハーレーにまたがるブラームスがいてもいいじゃないかと言われて否定するすべはない。伝統破壊は芸術の原動力だから。だがそれにしてもそれはないだろうというのがある。スペインの教会で聖人画が素人のおばさんの手で猿みたいになってしまった。あれが破壊だと真剣に思いだす人もいるんじゃないか心配になる。

共産主義というものはショスタコーヴィチのように作曲家にとって悲劇に働く場合があることを認めたうえで、少なくとも真の演奏芸術を保存するという意味においてはパトロン兼シェルターである可能性を秘めていたとも思う。この録音はその証しだろう。20世紀初頭の演奏芸術がロシア革命以降、真空パックされて保存され、デジタル録音で鮮度の高いまま試食できた、そういう感想が残る。

国家に替わるパトロンが仮に存在しないなら、芸術にとって市場原理こそ最低の原理であることは間違いない。東京では石原元知事の都響への補助金削減、大阪では橋下徹 市長の文楽への補助金削減が問題になった。日本だけではない、ニューヨークのエイブリ―フィッシャーホール建設は納税者の大反対にあったし、税金の補てんに頼っていた欧州のオペラハウスの経営が財政破たんによる緊縮で国より先に破たんしそうである。

チャイコフスキーにはフォン・メック夫人が、ショパンにはジョルジュ・サンドがいたし、ストラヴィンスキーにはディアギレフがいた。芸術を破壊的な力で前進させたのは天才の才能だが、その裏には物好きの大金持ちという触媒がいたのだ。国がその役目を負うなら、物好きであるためには民主主義ではならない。僕は文楽を味わう素養を持たないから衆愚の一員にすぎず、自らの税金をその補助のために使うことに賛成票を投じるとは限らない。

衆愚政治は政治をやる側にとってはともかく国民にとっては危険であるが、衆愚芸術というのはもはや定義矛盾であり、芸術をやる側にも国民にも危険である。

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

Categories:______ブラームス, クラシック音楽

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊