Sonar Members Club No.1

月別: 2016年12月

クラシック徒然草《ギドン・クレーメルの箴言》

2016 DEC 8 0:00:27 am by 東 賢太郎

新宿末廣亭で「噺家ったって最近の若いやつは学士様で落研だ。古典なんざどいつも一緒でね。なんたってみんなおんなじ真打のCD何回も聞いてオウムみたいにまねてんだから」という古参の愚痴が落語のネタになっていた。

24795b9d45550d61cc9f6bee7a09a629_xlそうしたら、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したヴァイオリニストのギドン・クレーメルがTVで同じ趣旨のことを語っているではないか。「若い演奏家はみなテクニックがあって難しい箇所を無難に速く弾いたりできるけれど、音だけ聴くと誰かわからないケースが多いのです」と。以下、大意である。

「ベートーベンのパトロンたちは彼に『ロッシーニみたいになるな』と戒めたのです。ロッシーニは当時、時代の寵児だったのに。ところが現代では人気がある大家をまねて弾け、そうすれば君もすぐ人気が出るぞと言われる。これは大きな間違いです」

「だから限られた人気作ばかり弾く傾向があります。聴衆はお馴染みの曲を聞いて鼻歌で気持ちよく帰れるでしょう。しかし演奏家は癒しを与える存在では断じてありません。私は演奏中に気持ちよく眠っていただきたいなどと思ったことはありません。音楽を聴かせることは『何かを経験させること』なのです。良かろうが悪かろうが聴衆の記憶に永く残り、何かを考えさせ、時には感情をぐらぐらにかき乱すことこそが演奏の目的です」

kremer_mimage02「ラトヴィアから出てきてオイストラフのクラスに入ったら(右)『すべて私の言う通りやれ』といわれ戸惑いました。私は他人のやり方に服従するのは嫌だったのです。しかし8年彼に学んで様々なことを教わり、ある時に『私なら君のようには絶対に弾かないが、君はそれでいきなさい』と認められた。それが自信になり、自分だけのシグナチャーができました。大家は厳しいが個性には寛容でもあるのです」

「感じた通りを弾くことで演奏は自分だけのシグナチャーとなります。バッハやベートーベンも現代の作品においても同ことです。バッハが古いといってもピラミッドほどではないでしょう?みんな現代の音楽なのです。でも聴衆の感じ方は変わってくる。自分の心で感じた解釈がどんなものであれ、それが聴衆の心を動かすのであればベートーベンはきっと許してくれるはずです」

「音楽は心を開いて聞くものです。頭で聞くものではありません。恐れても構えてもいけません。演奏家は作品から心が感じ取ったものを音にする、それは創造であり、それが音楽に奉仕するということです。テクニックや速弾きが個性なのではなく、自分のシグナチャーをもって聴衆の心に訴えかけ何かを経験して感じ取ってもらうこと、それが作品に奉仕するということです。私はそれ以外の目的で演奏することはありません」

「高松宮殿下記念世界文化賞を頂いて光栄であるとともに、私のような考えの音楽家でも信念を貫いてやっていれば認めていただけることを示せたということを嬉しく思っています」

クレーメルの言葉をきいて、母国語でない英語で訥々と、しかし見事に知的に的確な言葉を丁寧に選んで語りかける姿に、まるで彼のヴァイオリンの演奏を聴いたかのような感動を覚えた。

音楽を愛し、聞き、演奏することの本質をこれほどずばりと言い当てた表現は初めて接したかもしれない。自分のシグナチャーを尊重する。まったく同感であり、僕はそういう演奏や演奏家を心から欲している。

 
Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

旧友と49年ぶりの再会

2016 DEC 7 0:00:03 am by 東 賢太郎

昨日は中学のクラスメートと再会をはたした。ブログを見て連絡をくれたNくんが紀尾井町まで足を運んでくださったのだ。日本を代表する出版社の元編集長にくんづけは失礼だが、49年ぶりに会った瞬間からあずまくん、Nくんなのは不思議なほどだ。違う世界に生きてきたのに話題は汲めども尽きず、話していると3時間があっという間に過ぎてしまった。

何をしていたかということよりも、同じ時代の空気を吸ってきたことのほうが大きいのかなと思うがどうだろう。62年の出来事の年表を作って「この時って何してた?」で盛り上がれるのが同世代だ。この目に見えないつながりと共感は若い時は気がつかないが年齢を重ねると貴重な財産となっていて、実は僕らはもう旧知の仲でなくたってつながることのできる世代になっている。もっと知り合って語りあって人生楽しまなくっちゃもったいない。

Nくん、仕事がら世界中を訪問しているがそのぐらいなら驚かない。しかしミクロネシアのポナペ島までずいぶん前に行っているとなると尋常じゃない。クラシックの造詣もとても深く、共産時代のプラハに5回でかけたりウィーンフィルとの録音の仕事をしたり等々普通ではできない経験をたくさん積んでおられる。映画、イタリア語、料理、カメラなど趣味のカバレッジの広さは僕など足元にも及ばずだ。

SMCも始めて4年。計80万ぐらいの閲覧をいただいており拙ブログは毎日600人ほどの方がフォローして下さっている。去年の今頃、あまりに多忙で一旦は継続を断念したが、あれから読者が5割も増えたしこういう出会いのきっかけをいただけるともなると再開できてよかったと心から思う。この輪が広がることを願ってやまない。

 
Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

クラシック徒然草 《マーラーと探偵小説》

2016 DEC 5 11:11:11 am by 東 賢太郎

探偵小説マニアの女性というのはあんまり見かけない。いるのだろうが今の周囲にはいない。僕は女性が好きそうなトラベルミステリーとか人情物は興味がないというのもあるかもしれない。

たまたまそういう方がいて、じゃあどこが好きかということになった。人間ドラマのどろどろですねという彼女に対し僕はロジックの理路整然なのだからまったくの対極でかみ合わない。純文学だろうが探偵小説だろうが人間なんて一皮むけばみんなどろどろなんだから、そんなわかりきった小説を書くのも読むのもエネルギーの無駄だろうと思ってしまうのだ。

探偵小説というのは暗黙のルールがあって、犯人は智者で読者は愚者、そして探偵は天才であるという三位一体がつねにある。愚者と天才はまあどうでもよくて、犯人=智者というのが問題だ。犯人が行きずりの粗暴な衝動犯でもいけないし、一応は計画犯だが愚鈍だったりでもいけない。警察捜査で事件は片付いてしまって、肝心の天才の出番がないのである。

しかし犯人が天才では探偵と相討ちになってしまって事件は解決しない。だから仕組んだロジックにわずかなほつれを作るぐらいの智者がいいのであって、天才である探偵はそれを見逃さない。はい、では皆さんは見つけられましたか?という物語であって、ほら、やっぱり無理でしたね、どうですこの名探偵、天才でしょ?というホラ話をまじめに受け入れられる素直な人たちのために書かれているのが探偵小説である。

そこで、智者である犯人像の創造が難しい。変人だと読者にバレる。しかし智者すぎると、そんなリスク・リターンの悪い犯罪なんか頭のいい奴がやるはずねえだろとなってしまうのだ。いわゆる本格推理小説というのはほとんどがそこに破たんの源があって、読み終わるとこんな低能な物書きに騙されて印税まで払ってしまったという自己嫌悪感しか残らない。

そこで目くらましとして「どろどろ派」やら「社会派」が出てくる。それに犯人をまぶして動機と人間性を隠ぺいするのである。それでも童謡に添って人を殺したり現場にトランプを置いていったりなんてくだらないことで捜査側をあざ笑おうなんてハイリスク・ノーリターンな行為がいささかも現実味を帯びるとは思わないが、仕方なくやる隠ぺいが謎を深めるといういっときのプラス効果はある。その失敗のツケは種明かしのあほらしさとなって倍返しでやってくるのだが。

そういいながら探偵小説に騙され続けているのは、小中学生のころ読んだホームズやクイーンが面白かったからだ。三位一体とワトソンの叙述がエクリチュール化して逸脱を許容しないホームズ物はともかく、挑戦状による読者参加型を装っておいて解決が完全にはロジカルでなく実は三位一体型以外の何物でもないクイーン物は造りそのものが騙しであるという確信犯的部分に創造性を感じるから騙されても腹は立たなかったのである。

中では、オランダ靴の謎とエジプト十字架の謎の二作だけが犯人が当てられるという意味でロジカルであり三位一体としては失敗作なのであるが、ちなみに冒頭の方は後者は未読で前者は面白くなかったらしい。X・Y・Z・レーンはYだけではニーベルングの指輪と言ってもわからない。人生楽しみが残っててうらやましいですねと申し上げるしかない。

ロジカル派には時間がたつと犯人を忘れるという文学作品ではあるまじき特色がある。数学の問題は解ければいいのであって解答が2だったか3だったかはどうでもよくて後で覚えてもいない。しかし上記のような名作はそれがない。ロジカルである数学の問題は解ける人と解けない人がいて、ある物体に気づけば解けるエジプト十字架などとても数学、いや受験数学的だ。

しかるにどろどろはどうも探偵小説に本質的なものではなくて、その大御所はドストエフスキーだし音楽ならマーラーでしょとなってしまう。寒村のどろどろまぶしの達人である横溝正史は、あれはあれでああいう特異なホラーものとして僕も嫌いでないが、まぶしの技巧が後天的に売りになったのであって彼もクイーン的ロジックを構築する緻密さが基底にある。室内楽で名品を書けたからマーラーはマーラーたりえたのと似る。

マーラーこそ交響曲の到達点だと信じこんでいる人に音楽は進化論では語れないと説いても無意味であり、あれは文学であってとっつきようもないと表現するしかないが、そういう人はバッハやベートーベンまで文学的に聞いたり演奏したりしている気がしてこれまたとっつきようもないのは別人種なのだから抗い難い。作曲家がソナタという定型的なしきたりで曲を仕上げる作業は探偵小説作家の作業と通じるように思う僕には、その問題は避けて通れない。

対極をすっと受け入れるほど僕は大物ではないが、しかし仕事ではそれは意識して重視している。僕のような性向の人間が気がつかないことを指摘してくれるのは、いつもそういう対極側の人だったという明白な経験則があるからだ。

 

なりたかったのはシャーロック・ホームズ

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

ミストサウナの15分

2016 DEC 4 17:17:00 pm by 東 賢太郎

今年は色々あった。

そもそも男の後厄で良ろしくない年だ。正月のおみくじは末吉だった。四柱推命では4-7月が大凶で、8月は少し良いが9、10月がまたまた大凶であった。なるほど、お見事にその通りの展開であってあんまりいい記憶がない。

昔からコップが割れたりメガネが壊れたりするのが「凶兆」だった。

今年ほどそれが何度も起こった年もなく、そのたびに「これはヤバいかな」と感じた事々がことごとくダメになったのだから、僕においてはそれはもはや迷信の域を超えている。

きっと先祖の霊が「やめとけ」と言ってるに違いない・・・

仕事というと、今年はゴルフなら18番ホールが奇跡のチップインで喝采されながら「ボギーです」みたいな感じだった。飲みに行くと「なんかお忙しそうで」って、やたら曲げて林の中で苦労してただけだなんで「今日はボロボロですね」なんて方がほっとする。

長女がそのボロボロを心配してくれて一緒に布田神社にお参りして厄払いし、両親を見舞って元気なのを見届けてから横浜のスーパー銭湯「港北の湯」へ来た。カキフライ定食と甘酒かき氷に満足。ここは高濃度炭酸泉と天然ラジウムのミストサウナが売りだ。マッサージでくつろいで前後2時間の入浴だ。

いや、いいなあ・・・

そう独り言しながら2度目のミストサウナの時だった。「ラジウムの放射性ホルミシス効果」なんて壁の効能書きが目に入ってきて、しかしこれは微量とはいえ放射線被曝ではあるわけだよなと余計なことを考える。

あとでwikipediaを見てみて知ったがラドンに安全な量というものは存在しないという仮説(米国アメリカ環境保護庁)もあるようだ。

よくわからない・・・

キュリー夫人が調べたホルミシスをプラセボ効果(偽薬が効いてしまう)などというと不遜だが、どこか東洋医学的に思えてしまうのも事実だ。なんかよくなりそうな気がするし漢方もそれがあると思うが、「気がする」と人間に「良い気」をもたらして、それで病が良くなる。「気」こそ原因なのだ。

要するにそれじゃないの?

インフレとデフレ。貨幣の交換価値はおんなじなのに社会現象としては違う結果をもたらす。デフレは世の中を暗くする。インフレは「見かけの収入が増えるだけの偽薬」だが、プラセボ効果で人々の気を軽くして明るい世にしてくれるのだ。う~ん、ラジウム温泉で原理を発見してしまったかもしれない。

「病は気から」、「信じるものは救われる」、「なせばなる」、そうか・・・

すると冒頭の「コップが割れたりメガネが壊れたりするのが凶兆」もそうだったかという疑問が生じるではないか。「やばい」って思うと気持ちがデフレ的になる。すると行くべきものが行かなくなっちまう。あれれ、先祖の霊はどこへ行ったんだ?

すると我々は遺伝子を乗せたただのヴィークル(乗り物)であって、DNAに書いてある命令が五欲、煩悩となってるって、これやけに腑に落ちるなあという気がどこからともなくしてくる。

日々それで喜怒哀楽、勝った負けた儲けた損したなんてバカやって、プリセットの寿命が人生劇場になってて、いつか万華鏡みたいにわけわかんない劇が終わる。ああばかばかしい。何も考えない人生のが楽だ。

ヴィークルは何も考えない。

いまこうやって考えてるのはウソの自分だろう。五欲、煩悩。あるのはそれのみだ。それにハイハイと従っているとどうなるんだろう?自分を駄目にする根元と仏教は教えるが、健康にだけはいいような気もするんだが・・・

こうして世の中はますますわかんなくなる。熱くって汗だくになって立ち上がると、「一回の入浴は15分までにしてください」と壁にあった。

 
Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 k.482

2016 DEC 3 1:01:54 am by 東 賢太郎

モーツァルトのピアノ協奏曲(以下P協)で人気のある21番ハ長調、23番イ長調の狭間にある22番は不遇な扱いを受けているが、僕は変ホ長調のキーで書かれたこの曲を愛好しており21番を上回り23番に匹敵する名曲と思っている。

モーツァルトの変ホ長調作品は祝典的、祝祭的な「ハレ」の雰囲気を持った一群のものがある。パーンパーンパパーンとはずむリズムで開始する交響曲第26番、39番、セレナード第11番K.375、ホルン四重奏曲K.407などだ(息子のフランツ・クサヴァ―・モーツァルトもP協第2番変ホ長調でそれを踏襲している)。1785年作曲のP協第22番はその系譜に属する音形で幕を開ける。

ところが音楽はすぐに木管が交差してシンフォニー・コンチェルタンテK.297Bの柔和な雰囲気を漂わせる。K.297Bは偽作とされる作品だが、22番のここを聴くとあの蠱惑的な世界には偽りないモーツァルトの遺伝子が幾ばくでも関与しているという期待を捨てがたくする。真作が下敷きにあった(と思いたい)とするなら、パリの聴衆に向けて映えるプレゼンテーションをしようと意欲満々だった「あの頃」の心理がどこか働いた曲なのかもしれない。

そして現れるまぎれもないモーツァルト遺伝子の刻印、ミ♭、ド、ラ♭、シ♭のバス進行!多くの作品で至る所に顔を出すそれはいずれも愉悦感そのものであるのだが、ここまで明示的なのはエクスルターテ・ユビラーテK.165以来で あって純度の高さに嬉しくなってしまう。K.165も若者が腕の限りを尽くしてミラノの聴衆を魅了しようと意欲をたぎらせた作品である。

そう考えて22番の冒頭を聴くと、もうひとつ面白いことに気づく。ユニゾンで聴衆にぶつけるメッセージに続けてすぐに静かになって、ホルンの長く伸ばした和声楽句が全体を支配する。これは少年が気張ってロンドン楽界にぶつけようとものした交響曲第1番K. 16(やはり変ホ長調だ)とそっくりなのである。

意欲満々だった「あの頃」の心理!

22番を書くモーツァルトをふりかえれば、彼はハイドンセットを完成し技術も人気も絶頂。いよいよ貴族社会への挑戦であるフィガロに着手しようという時だった。少年時代の稀有壮大な挑戦であるロンドン、ミラノ、パリでの心理が投影された、ウィーンでの満を持したチャレンジ。それは深層心理的なものだったかもしれないが、クラシック音楽の演奏解釈とは楽譜だけではなくそのような作曲家の人生や心理まで読むべきものだと僕は確信する(22番がどうあるべきは後述する)。

ピアノ協奏曲でクラリネットを使用した最初の作品である22番は代わりにオーボエがない。これは23、24番、交響曲第39番と同じだ。第2楽章に弦と金管が沈黙して木管だけ(フルート、クラリネット2本、ファゴット2本、ホルン)の合奏が27小節も延々と続くのはまさに異例。ウィーン貴族に人気だったハルモ二ー(木管合奏)を意識したのかもしれないが、クラリネットという新機軸の楽器を加えた木管合奏体の幽玄な音色(オーボエは遊離してしまう)がモーツァルトの意図するアピールポイントだったことは間違いないだろう。

この第2楽章こそ22番の白眉であって、変ホ長調の影の調であるハ短調でヴァイオリンが弱音器を付けて鳴る冒頭はエロイカの葬送行進曲に聞こえてどきっとする。音楽は連綿と感情を吐露し、一時の愉悦を与える木管合奏を経て長調の光の間をうつろいながら最後は仄かにハ短調で消えていく。祝典的でありアンサンブル・オペラさえも想起させる「ハレ」の第1楽章に続くこの(後世風に言えば)ロマン的な濃密な楽章。この落差は当時の聴衆を驚かせただろう。

20番では逆に短調の両端楽章に長調をはさみ効果をあげたが、21番ではハ長調の両端楽章にヘ長調の楽章を挟んだ。この第2楽章は映画音楽にこそ使われたものの、僕には著しく霊感に欠けて聴こえる。21番は精緻な対位法によるハイドンセットを苦労して完成した直後の作品である。第2楽章は非ハイドン的な、モーツァルトしか発想できない世界ではあったが、彼はその先に来るものを見つけられなかったのではないか。

だから彼は次の22番で、濃厚な、これもすぐれて非ハイドン的である「メランコリーの支配するハ短調楽章への落差」という新手を仕掛けたのではないかと僕は考えている。それは当時の耳には甚大なインパクトがあり、難聴を克服し己を世に問わんと挑戦するベートーベンにエロイカで同じ調性関係で踏襲せしめたのだと思料する。

これは新奇なアイデアで聴衆を唸らせる達人ハイドンへのモーツァルト俺流の挑戦であり、ロンドン、パリ市場を席巻するライバルに対しウィーン市場では得意とするP協、オペラで顧客である貴族を渡さないぞという必死のマーケティングだったという視点を僕は提唱したい。

ハイドンとモーツァルトが敵対したという記録はないがビジネスは常に戦場なのであり、それで飯を食っている人間同士、いつの世もどこの世界もあまりに当たり前のことである。こういう「俗」な視点を排除して天才を美化するのは、反戦運動で地球が平和になると信じるぐらいに現実的な意味はない。

ご注目いただきたいのは、初演のおりに聴衆がアンコールを求めたのはその意匠を尽くした第2楽章だったという記録だ。たまたまの結果だが、このことがモーツァルトに大きな自信を与えたと想像するのは的外れではないと思う。

モーツァルトの人気凋落の原因が、この頃より作風が聴衆の先を行ってしまい理解を得られなくなったことだとする説が根強いが、それが誤りである証拠がこれだ。原因は「フィガロ事件」にあるのであって、聴衆は充分に耳が肥えていたということがわかる。だから彼は23番でもう一度同じ手を使い(こちらも見事に決まっている)、22番の第2楽章が予見するムードをもった音楽を両端楽章に置いて全曲を短調のまま閉じる24番という意欲作を自信を持って発表することができたのである。

あのフィガロを書きながら、対極的な24番が降ってきた謎がこれで解けた。マーケティングという俗な視点なしにそれを説明するのは困難であろう。

22番に人気が出ないのはその落差をうまく表現するピアニストが少ないからだ。第1楽章をフィガロのように賑やかに流麗に、第3楽章をギャランㇳに陽気で軽妙に、そして第2楽章を重く深く、である。そして伴奏は各楽章の性格を3つのアリアのように弾き分けなければならない。これは至難の業であり、22番は指揮者にもピアニストにも格別に難しい曲なのだ。

第2楽章の世界に同期させて両端楽章のアレグロまで遅くするロマン的な解釈だと22番はたちまち意味がさっぱり分からない音楽になってしまう。例えばウィルヘルム・ケンプの第3楽章がそれだ。内田光子もそちら寄りで解せない。ファンには申しわけないがこれは違う。そうではないからこそモーツァルトはコーダにちゃんと第2楽章のロマンを回顧して勝負の要を印象づける小節をあえて加えているのだ。

1540794186fc6bc5b86e67a711ac91f5僕が意味するところをご理解いただくにはエドウィン・フィッシャー(写真左、Edwin Fischer、1886-1960)の演奏を聴いていただくしかない。彼はフランツ・リストの高弟だったマルティン・クラウゼに師事した。リストはカール・ツェルニー、アントニオ・サリエリの弟子であり、その演奏会を晩年のベートーベンに称賛されている人だ。つまり、リストの孫弟子であるフィッシャーのモーツァルト、ベートーベンは作曲家直伝の系譜に属するものだ。

 

エドウィン・フィッシャー / ジョン・バルビローリ / バルビローリ室内管弦楽団

edwin_fischer_6294992フィッシャー の技巧をもって初めてなし得るテンポとフレージングの妙!モーツァルトの楽譜は簡単に見えるが、これほど高度な技術がないと実は弾けるものではないことを如実に示すドキュメントだ。伝説的名手であるツェルニーやリストが弾けばこうなるだろうという天衣無縫のピアニズム。そんな評価ができる演奏家がいまいるのだろうか?第3楽章はそこかしこが愉悦の即興演奏となるが、楽譜を見ずに聴けばモーツァルトがそう書いたと誰も疑わないだろう(バレンボイムは第3楽章のカデンツァでフィッシャー版を弾いている)。作曲家の書いた楽譜(不完全だ)から、彼の人生を意図を投影させた表現を紡ぎ出す。解釈とはそういうことを意味している。バルビローリはその解釈に最大の敬意を払ったと思われる見事に生き生きとした伴奏で花を添えている。

 

エドウィン・フィッシャー(pf&cond.) / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

51x7q9vhasl-_sy355_1946年のザルツブルグ音楽祭ライブ。フィッシャーは20世紀には廃れていた協奏曲の弾き振りをリバイバルさせた元祖的存在で、ここでそれが聴ける。オケの統率が甘く、VPOは上記盤より感度が落ちるし録音もいまひとつだが、これを推挙する理由は第2楽章にある。まるで葬送行進曲のような鎮静と祈り。『そうだ、「こころで感じとる」・・・これこそ モーツァルトの音楽世界の核心に通ずるかくれた扉をひらく合言葉だ』(エドウィン・フィッシャー著『音楽観想』・みすずライブ ラリーより)。終結部のlegato。ここから始まるピアノのモノローグ・・。言葉もない。この世界こそP協24番にエコーする黄泉の国への扉なのだ。

 

モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密)

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊