Sonar Members Club No.1

月別: 2016年12月

チャーチの靴

2016 DEC 22 1:01:42 am by 東 賢太郎

今日出がけに玄関で「これ履いたら?」と出されたのがブラウンのチャーチだった。正確にはチャーチズ(Church’s)である。スーツで茶は出番がないからあることも忘れていたが、7、8年前に出張の時にロンドンで作ってきた気がする。

さて駅まで歩いてみるとこれがしみじみといい靴なのだ。何がいいかというと、重厚な見かけにかかわらず重くもなく出しゃばった自己主張がない。手作業で250工程という工芸品だ、足に完璧に合うとはこういうことなのである。

ロンドン赴任でまず履いたチャーチは、だからもう33年のつきあいだ。ジェームズ・ボンドご愛用で有名だが、我々シティのバンカーだってイタ靴なんてとんがってチャラいもんは似合わないのである。僕に英国靴はこれしかない。

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英国人にいわすと、トラディショナリズムという一種の美学がある。伝統主義じゃわけわからない。好適な日本語はないが、おじいちゃんの古着のコートを直して着てるのがカッコいいみたいな感覚と思えばいい。日本人はわかるが米国人に説明するのは難しいんだろうなあという感じだ。

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チャーチは靴底を直せば10年は軽くもつ。僕の場合は戦闘靴であったゆえ大事に履いてないから替えが必要で、数えたら8足あった。家内が処分したかもしれないが僕自身は履きつぶしたという記憶がない。プラダに買収されて今風のデザイン重視になり個性が失せたが僕の趣味であるチェットウインドはクラシカルの味を残す。

 

6年住んだロンドンは欧州の贅沢が集結したみたいなところがあって、市民革命と産業革命の恩恵が大きいと痛感したものだが、要はカネと権力のあるところいいものが集まる、これは世界的な法則といえる。いいものを持つといいものの味がわかり、もっといいものを欲しくなる。そのためにはもっと知恵を磨いて働かなくてはいけないと思うようになる。好循環なのだ。

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人生最高のストレート

2016 DEC 21 14:14:13 pm by 東 賢太郎

大学に入って1年目に神宮球場でバイトしたことがある。1975年のことだ。スタンドの入り口でお客さんを席まで案内する係で、ゲーム終了後にみんなでゴミ出しをして終わり。お手当は非常に安くプロ野球がタダで見られるというだけだったが、それが日本ハム対太平洋クラブの試合だった。

このカードは当時とりわけ人気がなく客はまばら。仕事はおおいに楽で、座れないとはいえゲームをじっくり見た。

9回表までたしか0-0で、そこまでの試合経過も日ハムの投手も忘れた。野球はたくさん見てるからそんなのはいちいち覚えていない。この試合を記憶しているのはひとえに9回裏のシーンがあまりに劇的だったからだ。

太平洋の先発・加藤初(はじめ)が8回までノーヒットノーランのまま9回にはいり、左打席に張本を迎えたのである(完全試合だったかもしれない)。

d_09767463この試合の加藤の投球、僕はネット裏中段やや一塁側の角度で見ていたが、腰が沈み込んで重心は低いのに投げ下ろしの球離れが高く、どういうわけか外人のような角度を感じさせる。それが外角低めにのびてビシッと決まる痛快さは忘れられるものではない。あのストレートは人生で見た3本の指に入る。変化球は記憶にない。それほど見事なストレートでありハムの打者はほとんど外野に飛ばなかったように思う。

大記録の気配が高まっていた9回裏、それを、内角やや高かったと記憶するが、張本が振りぬいた。音は鈍くあんまりいい当たりではなかったがライトの頭を越した。

記憶はそれで途切れている。四球の走者かなにかがいてサヨナラだったような気がするが、僕の関心は加藤のボールしかない。少なくとも延長ではなかった。

打った張本もあっぱれだ。すごい名勝負を見せていただいた。奇遇というか、その翌年この二人はそろって読売巨人軍に移籍し、加藤はわがカープ相手にノーヒットノーランを達成するのである。そりゃ無理ない、あれは打てないさ。

僕の永遠のアイドルは外木場義郎だがそれに次ぐとなると安仁屋でも金城でもない、加藤初だ。投球スタイルが違うのだ。変化球投手はきらいだし大谷みたいに速きゃいいってもんでもぜんぜんない。女子供にはわからない、これは男の美学といわせていただこう。

加藤初さん、ご冥福をお祈りします。

 

 

 

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クシコスの郵便馬車

2016 DEC 20 12:12:41 pm by 東 賢太郎

ホワイトクリスマスは好きだったが、親父のレコードのおかげでそのまま音楽好きのいい子になったわけではない。音楽の授業は女の園みたいで苦痛であり、ペダルを踏む先生の足がピアノの下で動いている大根に見え、「早く終わんねえかなあ」と思いながらすきをついて窓から脱走する子に仕上がっていた。

自業自得なのだが悪い子ということになっていて女の風紀委員に悪戯や帰り道の買い食いまで言いつけられて頭にきていた。なにやらそういうものを包括して女のするものである音楽はいやだという強固な思い込みができあがっていた。乙女だとか祈りとかエリーゼとか、題名からして女々しくてどうにも気色悪い。それが僕のクラシックのイメージだった。

そして同じく大嫌いだったフォークダンスとイメージが混線した。オクラホマ・ミキサーというのがあった。当時、GEの洗濯機などが高級品で、オクラホマのミキサーも米国製だからきっと性能はいいんだろうと思っていた。しかし踊りになるほど優れているんだろうかと一抹の疑念もいだいており、オクラホマの田舎の人が買って嬉しかったイメージをこめて踊った。

キャンプファイヤーになると「さーらすぽんだーれっせっせ」なる不可解なものが始まる。この歌は全曲にわたって一言たりとも理解不能であり、先生も含めその場にいた者で意味が分かっていたのは確実に一人もいないだろう。「ポンダ ポンダ ポンダ」とピアニッシモでおごそかに繰り返す部分など呪文さながらであり、誰も何をやっているのかわからないままに異教徒の儀式みたいにまじめにポンダ ポンダ・・・実に不気味であった。

ネットで調べてみると多くの人が「あの意味は何ですか?」と質問しており「オランダ民謡の糸巻きの歌でサラスポンダはお囃子の言葉で意味はあんまりないようです」などとあって絶句だ。なんで俺がオランダのお囃子なんかで踊らなきゃいけなかったんだろう?そんなもんで通信簿に2とかつけられて親父に怒られていたんだ。後で知ったがこのテのはみんな外国の田舎の踊りだ。ウクライナとかリトアニアとかフィンランドの。GHQの愚民化政策の一環だったとしか思えない。阿波踊りができない方がよほど文化的損失だろう。

日本の欧米コンプレックスは明治以来で仕方ないが、欧米なら何でもよくて誰かの個人的趣味で超ニッチなのを探してきて国民的にばかばかしくやってる。クラシック音楽もそういうにおいがあって、例えば親父のレコードに「クシコスの郵便馬車」というのがあった。きっと名曲なんだろうと思っていたら、後でわかったが英国人もドイツ人も知らない。ドイツの田舎のなんとかという作曲家の曲で、一発屋かとおもったら現地では一発すらなくて誰も名前も知らない。驚くべきことだが日本人しか知らないクラシックというのがあったのだ。

クシコスはハンガリー語で馭者でポストは郵便だそうだ。だからクシコス・ポストで「郵便馬車」の意味であるらしい。じゃあ「クシコスの」というのは何だったんだ?こういういい加減な精神のまま「クラシックはセレブでお上品ざあます」ということになっている。女の嫁入り道具であるピアノがいかに大量に打ち捨てられているかは中古業者のCMがやけに多いので気がつく。あんな下品な広告にのせられて売ってしまうような人たちがおおぜいピアノを買ってしまっているんだ。外国の田舎踊りをフォークダンスと横文字で呼んで、誰一人わけもわからず盆踊りみたいにやっている風景と重なる。それが「ざあます」のムードになるもんだからあまりに馬鹿馬鹿しく薄気味が悪く、それで窓から逃げたのだということに自分の中ではなっている。

クラシック音楽はそんなものとは似ても似つかないとわかったのはずっと後のことだ。それは、言葉のいやらしい部分をきれいに洗い流した真の意味において、貴族的な精神の産物であった。それでも心に多少の記憶の残滓、トラウマがあるとすると、それはショパンの音楽においてである。雨だれとか華麗なるとか子犬とか恥ずかしい題名を聞いただけで僕とは根本的、本質的に無縁の世界であり、さーらすぽんだと同じほど近寄りたくないざあます異教徒の領域に入ってしまう。ショパン本人は標題をつけてないから彼の責任ではまったくないし申しわけないと思っているが、そういうノリで彼の音楽に寄ってくる人種は僕にはいかんともしがたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

フランク・シナトラの「ホワイト・クリスマス」

2016 DEC 19 2:02:24 am by 東 賢太郎

3才までいた家にSPレコードがいろいろあって、クラシック、ロシア民謡、シャンソンや、後で知ったがビリーヴォーン、ナット・キングコールなんかもあった。親父は高射砲を撃っていて爆撃を食らって片耳をやられているのに、どうやって敵性音楽なんかを好くようになったのだろう。

そのなかに誰の歌だったか甘い男性ソロのX’masアルバムがあった。SPレコードの盤面の真ん中のレーベルは紺と肌色のツートンカラーで、本当はたぶん違うのだろうが、僕の中ではそういう色だった。それを覚えているのは「ホワイト・クリスマス」がダントツに好きだったからで、こればかり執念深くせがんでかけてもらっていた。

この歌、e,f,e,d#,e,f,f#,gと5つの連なる音の中での半音階進行で始まり、大変に西洋音楽的でクラシカルだ。コードはCからC7に行くc,b,b♭のクリシェ、そこのb♭ーaの長7度、FがFmになってg#ーgの長7度と、まったくもって子供らしくない音が満載のように思うが、子供らしいジングルベルや赤鼻のトナカイにはなんの興味もなかった。

ルロイ・アンダーソンはそこに入っていたのか別の盤だったか忘れたがとにかくX’masのイメージがあって(関係ないがそう思っていた)安物のソングの中でぴかっと光っていた。しかし、好きだったのはそれが理由じゃない、なんといってもそれが聞こえてくるとサンタさんがプレゼントをくれるからだが。

もう手元にないので自信はないが、あのホワイト・クリスマスはフランク・シナトラだったように思う。

SPというのは電蓄と呼んだプレーヤーにごついアームがついていて、その先にえらく長い鉄針を挿入して装着する。78回転でレーベルのぐるぐるがものすごく速い。針圧はLPよりかなり高そうで、シャーシャー盤面で音がして針はすぐ摩耗して交換になった。そんなことを覚えていてそれは3才でのことだったのだから、かなり真剣なリスナーであったのだろう。

そのころもう一つ異様に真剣だったのが鉄道、というか線路であり、どちらも鉄の摩耗が関わる。摩耗のにおいまで好きでありその性癖がどこから来たかは謎だ。思えば99%に無関心で局所的1%に異様に関心があるという巨大な落差は万事にあてはまる。3つ子の魂61までだ。

 

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西表島(いりおもてじま)紀行

2016 DEC 17 19:19:21 pm by 東 賢太郎

西表島(いりおもてじま)へ行った。今年立ち上げたオンラインTV会社の取材、撮影、情報収集である。僕はこの事業に「歴史を学ぶ」という基軸を据えたいと考えている。芸術も娯楽もスポーツも芸能も、文化というものはまずは日本を知り、愛し、誇りを持つことが基本中の基本である。グローバリズムは大いに結構だがそれがなければただの根無し草だ。自国に根を張っていなければ、格好良くもなければ世界の誰もまともに相手になどしてくれないのである。僕は16年の留学と海外勤務経験の総決算として強くそう思うとともに、思うだけでなく、ネットメディアを作ることでそれを世界に発信しようと決めた。

この島がどこにあるか?まず東シナ海の白地図を見ていただこう。

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右が日本、上が韓国、左が中国、下が台湾、この地図の横の辺の距離は1300km(福岡ー青森)ほどである。この地図に載っている部分のおおよその人口だが、中国(上海圏)約4千万人、台湾2千3百万人、釜山・済州島約400万人に対し、九州1千3百万人、沖縄県144万人である。

台湾と九州の間の島名をご覧いただこう(下)。西表島は東京から2000km、沖縄から400kmほどあるが、台湾には190km(東京-静岡)で、人口はというと隣の石垣島5万人に対して3千人しかいないのである。そして、ご覧の通り、問題の尖閣諸島はその北方わずか160kmほどにある。

4千万、2千3百万、144万、この数字の重みをすべての日本人に考えていただきたい。尖閣がいかなる事態になり得るか、それはこと尖閣諸島だけの帰属問題ではない。尖閣を領有されれば、ご覧の通り、西表島はおろか石垣島と宮古島の主権さえ、少なくとも地理的距離感でいえば危ない。相手は囲碁を仕掛けている。しかも、この地図だけを百年構想で世界に見せ続ければ、「一つの中国」で隣は我が国土だと主張し続ければ、やがてクリミア半島のように沖縄まで十分に射程圏内だと思われるのである。

ちなみに八重山諸島は1500年に石垣の豪族、遠弥計赤蜂による琉球王国への反乱があった(オヤケアカハチの乱)が今でも赤蜂は八重山の英雄と讃えられている。現在も石垣市の中山義隆市長は「中国の公船が沖縄の行政区域で領海侵犯を繰り返す中、中国トップに会えても何も発言しない。片方の国に言わず、アメリカでは基地問題を言う。那覇市長だったらいいが、沖縄県知事だ」と親中・反米・反政府の翁長 雄志氏を批判している。

おりしも北方領土をかけた日ロ首脳会談があったりオスプレイが墜落したりのさなかだ。人口3千の島に降り立って、そこが日本国であること、女子供が何も知らずに遊べるほのぼのした日本語世界であることを心から有難く思い、父の世代への感謝をいっそう深くした。

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行程はというと、羽田午前11時10分のANAで石垣島まで直行で約3時間。空港から港までタクシーで30分、そこから船で50分で西表島の大原港に着き送迎バスで1時間でホテルニラカナイに6時に到着する。冬季はホテルに近い上原港はほぼ閉鎖なので1時間余計にかかる。待ち時間を入れて片道7時間は結構長いが、2年前の12月に行った屋久島は肌寒かったのに対し亜熱帯で台北より緯度は南の西表島は日中気温が26度もあって充分に泳げる体感であったから屋久島から見ても外国のようなものだ。移動時間は仕方なかろう。

夜の8時から娘たちとガイドさんで特別天然記念物のヤマネコを探すツアーに出かける。約100匹しかおらず会える確率は2割ぐらいと聞くが、比較的人を平気な母子がいるらしい。真っ暗になる新月で雨上がりがベストだそう。新月ではないので曇ることを期待していたが、晴れ男がたたって月が煌々と出てしまう。まさに月明かりだけで本が読める!息を殺して1時間ほど4人で歩いたが不首尾。今日のごはんはカエルじゃなくてお魚だったね。人っ子一人いない広々した田んぼは何種類もの声のカエルのフル・オーケストラ。忘れ難い残念賞だった。

翌朝は7時からトレッキングツアーで森のなかを滝まで歩く。何やら奇怪な植物がある。4回行ったミクロネシアと比べてしまうがパンの実は見ずヤシも食べられないようで、食性は熱帯雨林の方が豊かなようだ。

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iriomo3昼食は右のようなもの。ウミヘビとはすごい。それも考えたが、島外では食べられないと聞いた猪汁(琉球猪)にした。娘が注文したガザミ汁(マングローブにいる大型のワタリガニ)は全く違和感なく美味である。食は土地の文化を象徴する。水質、土質、食材の特性や制約が人をつくり、それは精神活動にも及ぶからだ。

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猪汁だ。島民はこれを刺身で食べるが禁じられた。味は悪くないが野趣あふれる食感と風味で、英国のgame(ウサギ、鹿、フクロウ、キジ等)に匹敵する。スープは特に美味である。肉はやや硬いが感謝の気持で内臓まで全部頂いた。

 

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午後は沖縄一の落差54mあるピナイサーラの滝がそそぐ岩の頂上にトレッキング。高低差は100m強だが傾斜が垂直に近くロープがある難所が3つあり、往復3時間余りはそこそこきつかった。右が滝の注ぎ口だが垂直に54mの崖は、高所恐怖症の僕としてはこの地点までが近寄る限界であった。

 

 

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ホテルはこんなもので部屋も清潔でいい。食事はバイキングだが地元の食材をあれこれ試せて不満なし。チェックアウトの時にお会計を見て、えっこれ合ってる?と聞いたら高いという意味にとったらしく丁寧に明細を教えてくれた。ちがうちがう。思ったより安かったのだ。この時期おすすめだ。

 

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西表島を遠望しつつあとにする。海は青く、娘は地中海クルーズを思い出していた。西方にある島に日の入りになるので西を「入り」と読むときいて合点がいった。石垣島目線なのだ。

 

 

わずか2泊だったが、行きがけは鄙びてると感じた石垣島がずいぶん都会に見えた。26度でぽかぽかと暖かく、ここもいいなと思って「ゴルフ場は?」とタクシーで聞いたら「ひとつだけあったんですがねえ、飛行場になっちまいましたよ」とベテランの運転手さんが嘆いた。

 

(ご参考)

このブログは日ロ首脳会談前日に書いた。

ソナー・ファイル No47(プーチンのずるそうな眼)

領土は取られたら終わりだ。ポツダム宣言受諾後に強姦しておきながら第2次大戦の結果だなどとほざく極道に手も足も出ない。こいつらは返還する気などさらさらなくディールのネタに使うだけなのは眼を見ればわかるのであって、首相も冷徹に構えて論功に走るべきではない。ロシアへの投資など企業の是々非々のリスク判断でやればいいだけだ。政府はそれを足し算して経済協力だとほざいておけばいいのであって、やがて得られるかもしれないのが2島ならむしろカネなど出すべきでない。温泉と秋田犬は断られましたとか、でも講道館では喜んだとか、わけのわからんロシア学者がよくやったとか、マトリューシュカのお姉さんがいい解決を望んでますとか、この国民のお花畑ぶりはおめでたいもほどがあるのであって、安倍首相はもう一度オバマとつるんだほうがいい可能性がある。

 

ドラえもんはいるの?(安保問題のベーシックな解題)

金正恩のさらなる高笑い

どうして猫が好きなの?

 

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どうでもいいことの排除(今月のテーマ:インテリジェンス)

2016 DEC 16 17:17:33 pm by 東 賢太郎

断言するが、テレビが日々ばらまく情報というのは皆さんの生活において99%はどうでもよいものである。僕は海外族で日本のテレビを16年間も見ていないが、それで困ったり損したり日本人として知らずに恥ずかしい思いをしたことなど一度もない。

株式投資をした人ならわかるが、テレビのニュースで流れる情報で株が上げ下げするなど100%あり得ない。つまり何の経済的価値もないのである。もとよりそんなものに知的価値、学問的価値など存在しないないのだからヒマ人の茶飲み話のネタができるぐらいのことであって、知ってお得なことは何もないのである。

きのうクラブのゴルフ好きの女の子が「うまくなりたい」というので教えた。右側が林だとか、目の前から100ヤード池だとかは「情報」だよね?キミのドライバーは180ヤード?じゃあまっすぐ打てば林の存在も池の存在も「どうでもいい情報」でしょ?それを心から消さないから何の意味もないミスショットが出るの。つまりどうでもいいものを意図的に心から消す訓練をすることが重要なのよ。

ライ見てる?100回あったら100回違うでしょ?芯で打たないとちゃんと飛ばないでしょ?だから、これ、ものすごく大事な情報。練習場は毎回同じでしょ?だからラウンドしないとだめ。で、ミスしたらなんで?と考えてる?考えてないでしょ?だから君は100切れないの。飛距離の筋トレ?コース戦略?そんなの君にはぜんぜんどうでもいいの。

こういうとだいたい目が点になってしまう。僕はプロでも何でもないが、しかし、以上の2点だけ、つまりどうでもよくてむしろ有害な情報の意図的排除と、決定的に大事な情報の重視と訓練だけで誰にも教わらずにシングルになったから正しいと証明されている。こういうものを情報(インフォメーション)ではなく諜報(インテリジェンス)という。

僕は猫と一緒に育っており、もとより猫型人間でもあったのだろう、そのせいでそう考えるようになったような気がする。猫は日夜かけずり回ってエサを探すとか犬みたいにあさましく尻尾をふって媚びを売るとかは馬鹿だと思っている。獲物を待って瞬発力で1,2秒でつかまえるのが楽でいい。

だから予習復習とか筋トレとか朝練とか、そういう日々コツコツや根性論的な訓練が嫌いになった。日本人にあるまじき非農耕民族的性格となってサラリーマン社会の集団農作業みたいな文化にアホらしくてついていけなかった。子供時分にそれを見抜いていた母親がこう育てた作品かもしれないが。

誰にもお勧めする性質のものではないが、ゴルフや受験や成果主義の仕事にはけっこう効果の保証できる方法ではあると信じている。

(ご参考)

情報と諜報の区別を知らない日本人

僕のゴルフ修得法

 

 

 

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デュトワ・N響のカルメンを聴く

2016 DEC 15 0:00:05 am by 東 賢太郎

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このカルメンのために金曜から休暇で西表島に行くのを1日延期した。NHKホール前は青のイルミネーションで美しい。

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カルメンの舞台は海外で何度観たかわからない。なかでは二度真近に見て圧倒されたギリシャ人のアグネス・バルツァが強烈で、ビデオでも彼女のをくり返し見ているのだから、なにか意識の中でカルメンは実在の女でそれはバルツァなのだという困ったことになっている。

マリア・カラスがどうしてこれを舞台でやらなかったのかそういう芸能界的な部分は知らないがきっと適役だったろう。これを演じるには歌だけでなく全人格的なもの、ああこの女だったらやりそうだなあと男の五感に訴える「カルメンシータらしきもの」を備えていないと物足りないものがあるのである。

それはこのオペラのリブレットがカルメンとホセの生々しい愛憎、つまりloveとhateのアンビバレントな二面性を軸としたものだからだと僕は解釈している。

パリのオペラ・コミックでの初演は一般に失敗とされる。プレスがカルメン役のセレスティーヌ・ガッリ=マリーを「不道徳なアバズレ」「悪の化身」と評し、技術的にもオケ、合唱団が演奏不能とした箇所があったことから、当時のモラルや楽曲の常識を超えたものだったと思われる。劇場が懸念していたように裏切りと殺人というリアルな題材が保守的な聴衆に受け入れ難かったせいもあろう。

しかし失敗と思いこんだのは初演後3か月で死んでしまいそこから先を知らなかったビゼーであって、臨席したマスネとサンサーンスは好意的であったし当初から彼の他の作品よりは上演回数は多かった。カルメン並みの女はいくらもそのへんを闊歩していてモラルなど雲散霧消した現代にこの作品が好まれているのは、男女の生々しい愛憎ドラマがいつの世も関心事であるからだと思うのだ。

loveがhateに転化する最後の闘牛場の場面がクライマックスだ。歓声と前奏曲が遠くから鳴り響き不吉な運命のテーマと交差する、そこで純情一途の男が一世一代の決断をしたのが殺人だった。公序良俗にも法律にも反している話なのだが、ホセを死刑にしろという気に一向にならないのはカルメンが「悪女仕立て」だからだろう。吉良上野介を憎々しげに演じてくれないと忠臣蔵にならないのとまことに似ている。

彼女はロマ(ジプシー)であり社会の底辺で既存のレジームに同化できないはねっかえりだが、しかしだからといってそれだけで悪女といわれる道理もないのであって、どうしてそうなるかというと、その妖しい魅力のボルテージが異様に高くてホセが入れあげても仕方ないと思わせ、「悪い女だねえ」と満座にため息をつかせてしまう秘術を次々繰り出すからなのだ。

一例をあげよう。工場から女工たちがどっと出てきてカルメンが傷害事件を起こしたぞ、このアバズレをひっとらえろ!とスネガが命じる場面であざ笑うように歌う「Tra-la-la…」、この単純なEーAmの和声進行にのっかる妖艶な歌!メロディーが非和声音のd#に落っこちるぞくぞくする色っぽさ!

これだけじゃない、ハバネラ、セギディーリャ、ジプシーの歌、これでもかとウルトラ肉食系の妖しい歌に攻め込まれるホセなのである。いったい何なんだよこの女?この歌なに?(このビデオがアグネス・バルツァだ)

仕方ないんじゃないの?と男なら同情するしかない。だから否応もなく「悪い女だねえ」となるのである。

断っておくがそれは歌手の容姿、色香だけではない、ビゼーの書いたあまりに天才的な音楽によってである。頭や理屈や技術やもの真似ではできない真のインヴェンション!初演をきいたシャルル・グノーは俺の真似だ剽窃だと否定的だったが、たしかにビゼーが交響曲ハ長調の作曲などでグノーをメンターと仰いだ形跡はある。グノーは優れたメロディストだが時代の常識の範囲内で美しい音楽を書く達人だった。女中に私生児までいたビゼーの女遍歴は日本語世界ではあまり知られていないが、カルメンの音楽はそういう男にしか書けない毒の味がある。

さような観点でこのオペラを見ると、エスカミーリオとミカエラはベルリオーズの幻想交響曲の恋人のごときイデー・フィクス(固定楽想)付の単なるキャラクター、着ぐるみのような存在なのであって、それぞれがホセの嫉妬心、改心の念をかきたてる添え物である。主役はその両者の狭間で揺れ動く優柔不断なホセに見える。いや、そうであってこそ男のフラフラ、優柔不断が生んだ悲劇としてこのオペラに一本すじが通るのである。

ところが、実はホセには固定楽想もなければインパクトのある固有のアリアもない。彼は嫉妬心に駆られ、燃え立ってしまった恋心に悩み、訴え、怒り、母の待つ故郷に思いをはせもするのでいい歌をそこかしこで歌うのだが、それらの情はすべて他者に駆り立てられたもので何が彼の本質なのか明らかでない。ホセとはカルメンの妖気に篭絡される男という、朗々たる男の帝国であるテノールのアリアにはなじまない性質の役なのだと書いた方がいいだろう。

固有の歌、アリアは、したがって手を変え品を変えて強烈にセクシーな磁力を送り続けるカルメンという女が繰りだす秘術にだけ与えられているのである。彼女の歌だけが人間の地を丸出しで偽善の着色がない。カルメンを演じるメゾ・ソプラノ歌手というのはそういう生身のオーラを放っていないと様にならないのだ。カルメンがいなければこのオペラは観る意味もないが、困ったことに歌も容姿もロマらしい雰囲気も満点であるバルツァのような人がそんじょそこらにいるわけではないのである。

下が初演したセレスティーヌ・ガッリ=マリー(中段左から二人目)を含む歴代のカルメンである。容姿だけでもなかなかの面々だ。ちなみにマリーはこんな地味な歌いやよと文句をつけてあのハバネラを書かせ、ビゼーと関係があったともうわさされている。

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前置きが長くなった。結論としてこの日に聴いたケイト・アルドリッチという素材はバルツァ後継の有力候補と言っていいと思われるが、まだまだ普通の女が演じるアバズレだ。真のアバズレをえぐり出している超ド級の音楽に置いて行かれている部分がある。演技がいけないわけではない、バルツァだって6才からピアノをやってそこそこの家のお嬢だろうが演技であれができている。

長身のイケメンで押し出しが良く声量もあるマルセロ・プエンテのホセは当たりだった。純情路線でバルツァに丸め込まれていたカレーラスの記憶が強いが、非常にコンペティティブな所にいると思料。

ダルカンジェロのエスカミーリオはこれまたメットで観たサミュエル・レイミーが姿も声も一級品で比べてしまう。闘牛士の歌は彼のキャラクターソングだが曲調は大衆歌謡に近い(とにかくこのオペラには小難しい旋律や和声やフーガは皆無なのだ)。それだけにバスの朗々とした艶やかな低音がないとしょぼいものになってしまう。ダルカンジェロの声は合格だがプエンテのホセが恋には勝ってしまうかなあ。

ミカエラのシルヴィア・シュヴァルツは大いに好感を持った。なによりミカエラらしい雰囲気と声が誠に好ましい。アバズレと対極の恋を夢見る貞淑な乙女キャラクターであって、主役がメゾだからソプラノが愛らしく映える。当時のパリの女性に対する道徳観ではこういう要素が毒消しとして必要だったかもしれない。道徳はともかく、ミカエラがはまる声質のソプラノは僕はだいたい好きである。

他の声楽陣も合唱も不足はなく、12月のデュトワを楽しめた。欲を言えばN響がこの曲には「いい子」の草食系だ(きちんとまとまってはいたのだが・・・)。闘牛で血が流れカルメンも血を流すのだ、もっとスペインのラテンのどぎつくてワイルドで粗暴な熱がほしい。デュトワにはない物ねだりになるがレヴァインが振ったメットのオケは熱かった。それが舞台と相乗効果で火炎が立ちのぼるような忘れられない効果をあげた。優れた音楽とはそういうものだ。

 

(ご参考) ビゼー オペラ「カルメン」 (Bizet: Carmen)

 

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ポゴレリッチのラフマニノフ2番を聴く

2016 DEC 13 23:23:12 pm by 東 賢太郎

デュトワのカルメンと前後してしまうが、今日の読響について。指揮台に立ったオレグ・カエタニはフランクフルト駐在時代によく聴いていて、ヴィースバーデンでのリング全曲は彼の指揮だった。なにせあのマルケヴィッチの息子だ、もっと硬派なプログラムだったらよかった。

いつも感じることだがボロディン2番はライブだとオーケストレーションに空隙を感じ粗野な原色ばかり目立ってしまう。かと思えば終楽章のあの素敵な第二主題の伴奏になにもトロンボーンを重ねなくてもいいのにというベタ塗りがあったりもする。シンセでたくさん演奏するとスコアを見てヤバいなあというものを感じるようになって、これはやってないがきっとトロンボーンは超弱音か無しにするだろう。

カエタニはまったくその辺を気にしてない風情であった。チューバまで入った金管群であるわけだしこれがロシアの感性と言われれば仕方ないが、そうであるなら男同士がキスする感性など日本人の僕にはわかりようもないというものだ。フランス系のアンセルメやマルティノンは薄口でうまくやっているし、人工的であってもミキシングでうまく化粧した録音で聴く方が僕はずっと楽しめる。カエタニは低音を鳴らすので特にそう思ってしまった。

交響曲が先でトリが協奏曲というのも珍しいが、ポゴレリッチあってのことだろう。

ラフマニノフの2番だったがこれはproblematiqueだ。強めに始まる鐘の音は途中で弱まり、再度強くなる。こんなのは初めてだ。テンポは不可解に遅いと思えば第2楽章の主題は無機的に速く、つづく右手の単音の旋律はなんとフォルテに近かったりする。遅い部分はルバートがかかりまくり、終楽章のピアノの入りのアルペジオは真ん中の数音符だけ突然フォルテで弾いたり、まったくわけがわからない。

それでいてフォルテは強いだけでちっとも美しくなく、細かいパッセージは弾けていないしミスタッチもある。アンコールの第二楽章がほぼ同じだったから即興でもなさそうであって、つまり考えぬかれた解釈のようなのだがではどうしてそうなるのか理解に苦しむばかりだ。演奏家の感性や哲学は尊重するしありきたりの美演より僕はそっちを採る主義なのだがこの曲にそんな深い哲学があるとも思えない。

グールドのモーツァルトはなにくれかのirritationを聴衆に与える意図が隠されていて、彼はそういう屈折した心理を持つ天才だったと思っているが、ポゴレリッチもそうなのか推察するほど僕は彼をよく知らない。記憶にあるのはあの流麗で瑞々しく神のgiftを強く感じさせるスカルラッティやガスパールなのだが、彼のその後の人生には何があったのだろう?拍手をする気分ではないままそういう疑問ばかりが心を占めてしまいサントリーホールをあとにした。

 
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大山鳴動して・・・

2016 DEC 13 1:01:51 am by 東 賢太郎

昔から物を忘れたりなくしたりは慣れているが今度ばかりは参った。あの日の午後のこと、昼にオフィスを出て、天気がいいのでちょっと遠くに弁当を買いに行った。目がよく見えないので小銭で払わず、千円札を出してお釣りはジャラジャラと財布に流しこむのが常套手段だ。この日もそうして財布をズボンの右ポケットに入れた。それが少しハミ出していたのかもしれないなあと後で後悔することになるのは、この時は知らない・・・。

翌朝、カバンの中にそれがないのに気づいた。そんなはずはない。逆さにして全部出してみる。ない。部屋中思いつく箇所をくまなくさがす。ない。そんなはずない、財布だぞ。やがて家中大騒ぎとなり、そうだ昨日は告別式で喪服だったんだよなと一縷の望みを託してガードローブから上下を引っ張りだしたが、ポケットはもぬけのからだった。

これはまずい、もしやと会社に電話する。しばし待ってデスクやら屑篭の中まで探してもらうが、答えはやっぱりありませんだ。参った。どこにもないわよ〜、30分もたったころ、下の階から家内と娘の声が響いてきたあたりで、何か間違ってるんじゃないかと疑心暗鬼になりつつも最悪の事態が頭をよぎる。ついに捜索を断念する結論に至ったのだった。

お〜い、すぐカードを止めてくれ〜。

会社にも家にもない、帰宅途中に触った記憶もないとなると論理的な帰結は一つしかないのである。弁当を買った帰り、会社までの道すがら落としたかスられたかだ。すぐ家の近くの交番に届けたが、連絡は来てませんねとつれない。午後には現場から目と鼻の先の紀尾井町の交番に望みをかけたがやはり答えは同じであった。

結局、警察からの連絡を首を長くして待ったものの財布は三日たっても現れず、一週間待っても、そしてついに一カ月が経過しても何らの音沙汰も得られなかったのである。

カネだけぬいてあとはポイッて道端に捨てるケースもよくあるらしいよ、それにかけるしかないよねという慰めの声もいただき、期待したのだがそれすらない。これは明らかに盗まれたうえ、証拠隠滅で処分されてしまったに違いない。くそっ、きっと川に投げ込んだか燃やしでもしたんだろう。

落としたのを拾った人がネコババということはないよ、場所柄からしてあの辺の人が出来心ってのは考えづらいし交番が目の前だよ。拾うのを誰か見ていたろうし普通すぐ届けるさ。とすると残る可能性は一つしかないのだ。最初っから目つけられてたね、喪服でポケットが浅くてズボンからはみ出てたしね、こりゃあスリしかないな。

そういう解釈に落ち着いた僕は家族に冷静に説明したが、事態はそれで済むほど甘くはなかった。お父さんあの財布わかってるの、ついこの前じゃないあれあげたの、せっかく家族みんなで選んだプレゼントよ、6万円よ、と財布そのものにはあまり執念や惜別の感情を見せなかった僕に手厳しい非難の声が浴びせられたのである。たしかに財布は大事にしてたし申しわけなかった。しかしそこにはもう買いなおせないし手に入れようもないあるものが入っていたのだ・・・。

そう、白状しよう。僕がまっさきにがっくりしたのは、入っていた現金でも財布でもクレジットカード類でも運転免許証でも保険証でもイオンのポイントカードでもなくて、2年前に屋久島で不思議なイスラエル人女性を助けてお礼にともらったユダヤ教のお守りだったのである。「アズマはヘブライ語で強いという意味です。このお守りで必ずあなたにいいことがあります」と決然とした眼で手渡された銀色に輝くそれは、羊にも見える金属製のヘブライ語のHの文字だった。

10月27日に忽然と消えた財布。何枚もあって面倒なカードの停止と更新を何度もくり返しつつもお守りのことがずっと喉にささった骨のようであったが、そこから海外に4度も出張するなど目が回る忙しさでそれも忘れていた。鮫洲で運転免許の再発行をしたのはやっと先週の月曜、12月5日のことだ。そして、長女からラインでそのメッセージが入ったのが、忘れていたビックカメラのカードを使用停止にした12月8日木曜日の午後4時のことだったのである。

「お財布、お父さんの部屋で発見されたよ」

・・・これが何のことか、わかるのにしばらくかかった。お父さんの部屋???そんなはずはない、あれだけ探したんだぞ。

「どこ?」

「クローゼットのケースの中だって、お数珠と袱紗といっしょに入ってたみたい、お母さんが発見しました」

どうも喪服を脱いでポケットのものを全部出したときに財布も取りだして、数珠と袱紗と一緒に祭礼用のプラスチックケースにばっさり入れてしまったらしい。こりゃわからんわけだ。

「気が動転してたんだね・・・」

家族には慰められたが恥ずかしいやら嬉しいやら。動転?たしかにしていたが、ひょっとして中村順一氏のいたずらだったかもしれないなあなんて思いつつ帰宅。ダイニングテーブルにでんと僕を待ち構えて鎮座する我が財布は神々しく見えた。よかった。これであのユダヤのお守りも無事だ。

ところが、なんとしたことだ!お金やカードはそのまま入ってるが、あのお守りは財布を逆さにしても振ってみても出てこない。影も形もないのである。

「ユダヤのお守りがないけど・・・」

「えっ、お父さん、あれ?あれはこっちにあるよ」

娘が台所のパソコンのあたりからそれをひょっこり持ってきた。

「お父さん、これお財布と関係ないよ、だってクルマの中に落としてたのよ、だから拾ってここに保管しておいてあげたの」

わけがわからないが、しかし、どうもそういうことらしい。いったい俺は何が大切だったんだろう?いつ、どんな因果でこれを車中に落っことしたんだろう??

「11月はお守りがなかったんだね、だからエライ大変だったんだ」

そう納得することにして大山鳴動のお財布事件は無事に、しかし不可解な謎を残したまま幕を閉じた。

「これでケータイと2度目だね・・・」

そうだった。ケータイ事件も大騒ぎになったが、電車の網棚にあってちゃんと終着駅に届けられていたのだった。若い時からの所持品健忘症は救いがたい。小物をあまりになくすからと大き目のカバンに替えたら安心してそのカバンごと飲み屋に忘れた。これはどうしようもないのだ。ということで、目前の旅行は財布、ケータイの類は自分でいっさい持たず娘にまかせることにした。

 
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ビゼー 交響曲ハ長調

2016 DEC 9 10:10:00 am by 東 賢太郎

今日から娘たちと休暇の予定だったが気がついたらデュトワがN響でカルメンを振るではないか。これはどうしようもない、父だけ1日遅れの合流となった。

カルメンはビゼー最晩年35才の作品だが、そうはいっても36才で亡くなった人だ、還暦まで生きていればずいぶん若書きの作品であって、やはり35才でモーツァルトが書いた魔笛に匹敵する。僕の中ではカルメン、魔笛、ボエームが三大オペラで隅々まで全部覚えるほど聴いて血肉となっているが、それでいながら何度でも聴きたいし、聴くたびに感動するというのだから強烈なオーラを放つ究極の名曲としか書きようがない。

そのビゼーの真の意味での若書きが交響曲ハ長調である。これを書いたのがなんと17才、今なら高校2年というのは、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」が16才、『夏の夜の夢』序曲がやはり17才の作であると知った驚きにいささかも劣らない。天与の才があることを gifted というが、神様からギフトをもらって生まれてきた3羽ガラスというなら並みいる歴史的天才の中でもモーツァルト、メンデルスゾーン、ビゼーということになると思う。

なにせ3人とも苦学臭が皆無である。勉強でも東大には何の苦労もなく物凄くできる人がいて、何倍も時間をかけて刻苦勉励するガリ勉くんより点が良かったりするが、あれと同じだ。日本ハムの4番打者中田が大谷の打撃を見て「練習するのがあほらしくなる」と言ったがそういうことで、勉強でもそういう輩と競争するのは何の生産性もない。gift とはそういうものだ。

この3人に比べるとベートーベンやブラームスもガリ勉に見えてしまうので困る。神様の gift にも品目が各種あるということであって、苦しんでもあそこまでの高みに登れば100年や200年たっても余人の及ぶところではないのだが、彼らの17才は演奏家という人間の仕事では図抜けていたものの、作曲という創造主の仕事では3人に比してたいした成果がない。

ついでにもうひと種目挙げれば、美しい旋律を創るメロディーメーカーの才の3羽ガラスはモーツァルト、ヨハン・シュトラウス2世、ドヴォルザークだろう。あとの2人はブラームスが羨望の言葉を吐いたほどだが、またモーツァルトなの?といわれるとこれはもうどうしようもない、彼はあらゆる角度から本当の天才なのだから。

ビゼーのハ長調交響曲はハイドン、モーツァルトのシンプルさでメロディーは親しみ易く、こんなに形式的にも平明でわかりやすい交響曲はない。一度目で誰でも楽しめるし、二度目できっと覚えるし、三度も聞けば鼻歌でなぞれるだろう。へたな御託はご無用、ただ耳を傾けるだけでいい。

しかしこれが習作でそれなりのものということはない。僕は16種の音源を持っており何十回聴いても心地よく飽きない音楽である。両端楽章はallegroでシャンペンの泡立ちの爽やかさ、第2楽章adagioはオーボエが哀調のある旋律を歌うがムソルグスキー「展覧会の絵」のように絵画的でエキゾティックだ。中間部のフガートも美しい。楽章間のつり合いの良さ、色彩的なオーケストレーションの味の良さも逸品であり文句のつけ所なしだ。

第3楽章スケルツォもallegroであるが、いきなり決然とした強い主張のある主題が木管、第2ヴァイオリン、ヴィオラで提示される。何という小気味の良さ!

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これはフルートのパートだが、 ff からのコード進行がメンデルスゾーンの結婚行進曲とまったく同じであることにお気づきだろうか?飽きないのは細部にそれなりの隠し味が仕込まれているからであることがわかる。

このシンフォニーの最大の長所は巨視的に見たデッサン力とバランスの良さだろう。すべてに上品なセンスが感じられるのであって、ウィーン古典派の素材にパティシエが腕をふるった上質のフランス菓子を思わせる。

菓子と表現したいのは甘いという含意ではなくて、あまりクラシックを知らないご婦人が「好きな曲はビゼーのハ長調です」と言ったとしてちっとも不自然ではなく、ああなるほどと上品なイメージを自然に持つだろうということだ。「マーラーの6番です」ときたら僕は逃げるが。

 

レオポルド・ストコフスキー / ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団

71oqpu7ak2l-_sl1500_指揮者95才、亡くなる直前の最後の録音とはとても思えぬ快演である。第1楽章からオーケストラはドイツ音楽のように重めの音を基調に揺るぎない骨格を形成するが木管はあでやかに花を添えフランスの華やぎも不足がない。第2楽章はロマン的だがやや速めで古典の枠組みを踏み外すことはない。スケルツォは僕にはほんの少し遅く感じる。しかしその不満も息もつかせぬテンポの終楽章で吹き飛んでしまうのである。これぞアレグロ・ヴィヴァーチェである!大指揮者のキャリアのエンディングを感じて称える気概があったのだろうか、オーケストラの技量と迫真の気迫もまさに素晴らしく、これを聴くと他の演奏は霞んでしまう。

 

ハイドン 交響曲第100番ト長調「軍隊」Hob. Ⅰ:100

マイナー6の和音は茶色である

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