トスカニーニはパワハラか?
2017 AUG 12 7:07:42 am by 東 賢太郎
昭和の昔にパワハラなどというものがあったら僕は真っ先に会社をクビになっていたろう。しかし仕事で罵倒したり罵声ぐらいはいくらも飛ばしたということであって、職場の地位・優位性を利用して人心にもとるよからぬことをしたことはないし、仕事では自分に対しての方がもっと厳しかったという苦しい言い訳ぐらいはある。
元々そういう性格だったわけではなく、中学あたりまでは他人には強くいえない弱っちい情けない子だった。そうでなくなったのは高校で体育会に入ったせいかと思っていたが、先輩の問答無用の命令と服従、あんなもんがそんなにいけないか?と疑問に思わないでもない。いかなる戦うための組織においても軍規は必要で、それがあそこでは長幼の序であっただけとも思える。
高校あたりから弱い子でなくなったのは、多分、早生まれで体が小さいコンプレックスがずっとあったのが身長が追いついて吹っ切れたからだと思う。要は喧嘩をしても負けない気がしてきて、しかもすぐエースになったから心持ちが大逆転もした。逆に投手はつきあう野手は捕手だけで周囲はあまり関係なく、上級生になっても後輩に命令した記憶もなければもちろん体罰などしたことはなくて、体育会だからパワハラ的性格になったということは多分ない。俺は弱くないと思えたことこそが大きかった。
ただ軍規は染みついた。「グラウンドで歯を見せるな」という相撲界みたいのがあったが、昨今の甲子園を見ているとよく選手が笑ってる。戦場感覚はかけらもなくなって、プロ選手が「いい仕事しましたね」などとほざく感覚に呼応している。昨日など打席でにやにやっとしたのがいて、「次のタマ、あいつの顔面狙うな、俺なら」と口にする。そんなの僕には条件反射である。すると「そんな時代じゃないわよ」と家内におこられる。そういうのまで今やパワハラまがいになっちまうんだろうが、軍規違反に対する制裁はこっちだってやられるから弱い者いじめとは全然違うのだ。
吾輩は化石のように古い男なんだろうし女性軍を敵に回すのは本意でもないが、パワハラにはどうもフェミニズムの男社会への浸食を感じるのだ。軍規の第1条でレディ・ファーストにせいみたいな感じで、母親目線でウチのかわいい子に規律は少なくしてちょうだい!なんて勢いでゆとり教育が出てきてどんどん子供をバカにしてしまう。そのうち軍規に人殺しはいけませんなんて書かれるだろうと隣のミサイルマニアが待っていそうな気がしてくる。
「職場の地位・優位性を利用」するのがパワハラの要件らしいが、それはそもそも、それ自体が男原理の本筋を踏みはずしているというものである。近頃は女も猛猛しくこのハゲなどと罵倒もするようだが、女の気持ちは代弁する自信がないのでここは男に限定させていただくなら、パワハラは地位や優位性を手にして初めて強くなった気がしているような、要は力のない恥ずかしい男がするものであって、モテない男がセクハラといわれやすいのとお似合いのものだろう。男の嫉妬は女より凄まじいとよく言うが、それの裏返しともとれる。男原理で動く男は地位があっても弱い者いじめなどしないし、嫉妬はするかもしれないが負けて悔しければ自分もやろうとするだろう。
横浜DeNAベイスターズは契約でそういうことにでもなってるんだろうか、負けても必ず監督のTVインタビューがある。あれは軍人に無礼極まりない。「敗軍の将、兵を語らず」は立派な大将の不文律であって、戦況をべらべらしゃべるような軽い奴に兵隊は誰もついてこないのは万国共通の男原理というものなのである。これは理屈ではない。アメリカは勝ったってしない、まして怒り狂っている敗軍の将にマイクなんか向けようものなら殴られるだろう。あのテレビ局のお気楽な「お茶の間至上主義」、「局ごと女子アナ感覚」は平和ボケニッポン独自のものであって、フェミニズムの浸食に力を貸している。
僕は指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの作る音楽を好んでおり、ミラノへ行った折、敬意を表して息子と墓参りをした。演奏家より作曲家がえらいと信じてる僕として、プッチーニ、ヴェルディの墓は参ってないのだから異例なことだ。彼のプローべは戦場さながらであり今ならパワハラのオンパレードである。これをお聞きいただきたい。日本のかたはどこか既視(聴)感があるが、「このハゲ~!!」ならまだかわいい、「お前ら音楽家じゃねえ~!!」だ、これを言われたらきついだろう。
この戦果があの音楽なのだ。プロとプロのせめぎあい。何が悪い?彼が指揮台を下りても楽団員を人間と思ってなかったかどうかは知らないが、棒を持ったらきっと思ってなかっただろう。こんな男の人間性ってどうなの?と女性やフェミニストに突き上げられそうだが、しかし、それと同じぐらいの度合いで、他の指揮者は僕にとってメトロノームとおんなじだと言いたいのである。ベートーベンの交響曲第1番は彼以外にない。ほかの指揮者のなど聞く気にもならず、全部捨ててしまってもいい。そんな演奏ができる指揮者がいま世界のどこにいるだろう?
僕はレナード・バーンスタインのカーチス音楽院のプローべを彼のすぐ後ろで見ていて、和気あいあいにびっくりした。客席にぽつんと一人だった僕がコーク片手に彼のジョークを一緒に笑っても問題なかった。同じ位置で見たチェリビダッケのピリピリはトスカニーニさながらで、目が合っただけで睨みつけられた彼にそんなことをしようものなら大変だったろう。そして、そこで緊張しまくった学生たちが奏でた音!あれは一生忘れない。カーネギーホールの本番で評論家が今年きいた最高の管弦楽演奏とほめたたえたドビッシーが生まれていく一部始終を見たわけだが、細かいことは覚えていないが、そういうテクニカルなことよりもあの場の電気が流れるような空気こそがそれを作ったのだろうと感じる。
トスカニーニは男原理の最たる体現者である。そういえば彼の時代のオーケストラに女性はいなかった。彼は理想の音楽を作るためにすべて犠牲にして奉仕し、だから、今日のボエームがお前の一つのミスで台無しになったと本番の指揮台を下りても怒りが収まらずにホルン奏者を罵倒した。立派なパワハラ事件になり得るが、ホルン奏者はそれで頑張って次はいい音を出して納得させた。ボスの完全主義と美に対する執念には団員の理解があり、そういう言動は彼の個性であり強権による侮辱やいじめと思ってなかったからだろう。それはきっと、トスカニーニの世紀の名演のクレジットはオケの団員だって享受して、名誉と生活の安定を手に入れられたからである。男原理の男はこうやって職場の地位・優位性ではないところで人を動かせるからパワハラ事件にはならない。人事権がないと何もできない男、女々しい奸計でポストを登った男はボスにはなれないのである。
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西村 淳
8/13/2017 | 8:02 AM Permalink
オーケストラは絶対君主制の社会ですね。その正当性の根拠は神意(音楽)にあるとされるなら、ここに民主主義を持ち込むと社会そのものの崩壊につながりかねない。バーンスタインの音楽に甘さを感じるのはそんなところにも原因があるのかもしれません。
ショルティはミスをした団員(ベルリン・フィル)が終演後に謝罪の言葉を述べにきた時に、お前のことは一生忘れないぞと言ったとか。ここにも絶対君主がいましたが、そんな時代じゃなくなりつつあるなら、近い将来オーケストラも崩壊してしまうのでしょうか。
野村 和寿
8/13/2017 | 6:05 PM Permalink
東君 貴重な映像などありがとうございました。ぼくは中学時代の東君しか存じ上げていないので、千代田区立中学のなかで、ずいぶんとノーブルで、悠々してました。パワハラとかとは無縁の感じでしたので、むしろパワハラと近いときはどんなだったのかしら?と思いました。
東 賢太郎
8/15/2017 | 1:03 AM Permalink
西村さん、ありがとうございます。
指揮者は絶対に絶対君主であるべしとは思いませんが、絶対君主の指揮者から聴いた最高の部類の音楽がそうでない指揮者から聞こえた経験は一度もなく、少なくとも十分条件ではあると信じます。ということは、すでに僕らの生まれた時代には絶滅危惧種だった絶対君主指揮者がチェリビダッケの逝去をもって地球から消え去ったことをもって、少なくとも僕には新しいベートーベンの1番を期待する意味は終焉したと思っております。
ベルリンのあのホールがカラヤンサーカスと呼ばれたのは一義的には形状からですが、獰猛なBPOを飼いならしたカラヤン一座だという暗喩もあったやに聞きました。しかし彼は帝王、有能なCEOではあっても絶対君主ではなく、チェリビダッケは抜群のCOOだが永続的な収益を生むCEOとしては疑問符だったと思います。
絶対君主とはいえ、権力を維持するには聴衆の支持が必要です。その音を好む僕のようなテーストの聴衆(需要者)も時代の趨勢から淘汰され、一方でオケ(供給者)の半数が女性になり、世間様は米国のリベラルに洗脳されてフェミニズムの時代になる。そこで団員にも聴衆にも支持、歓迎されたのは和気藹々のお友達内閣型の指揮者だったということでしょう。女性、フェミニズムがいかんという勇気はありませんが、その現象とパワハラなる法律にはない奇怪な用語の出現と、絶対君主型指揮者の絶滅は軌を一にしています。
僕は今のオーディオ装置をトスカニーニの録音をいい音で聴きたいという唯一の基準から選別しました。2004年のことです。ということは、もう13年前も前に、トスカニーニ以外のCDはいずれ全部捨ててもいいという深層心理になっていたと思われます。由々しきことです。僕がブログに再三書いた通りトランプを歓迎した、歓迎まではないにしてもヒラリーにならんでよかったと真面目に思ったのはその深層心理からと思います。
東 賢太郎
8/15/2017 | 1:44 AM Permalink
野村君、ありがとう。
ノーブルで、悠々という自覚はありませんが、人間そう思われたらそういう人だとどこかに書いてました。死んだときのバランスシートで評価が決まるという文脈だったと思いますが、最期ぐらい思われたいように思われていたいものですね。
maeda
8/15/2017 | 1:22 PM Permalink
オケは軍隊、指揮者は指揮官と思うことはよくあります。トスカニーニもセルもそのような例えにマッチしています。でもフルトヴェングラーについては強制する感じがないのです。オケは、神に付き従う信徒のようなものかもしれません。これが最高の力量なのかもしれません。絶対君主以上に稀な存在かなと。
東 賢太郎
8/15/2017 | 3:31 PM Permalink
前田さん、ありがとうございます。コンサートマスターとしてのご視点、よく理解できます。
フルトヴェングラーは絶対君主型ではなく教祖型と思います。方法は違いますが君主ではありましたから僕は線を引いておらず、どちらも君主不在のお友達内閣型の対立概念の中の違いであります。トスカニーニを模倣しようとした人にカラヤンがいましたしセル、ライナー、ショルティなど影響が伺えるスタイルの人がいますがフルトヴェングラーはいないです。キリストは模倣できないし、しても統治できません。フルトヴェングラーの弱みは、最後のディテールは信者であるオケ依存であることです。だから録音の全部が良いわけでなく、オケの技量、練習量、TPOで出来の振幅が大きいのです(そこが面白みでもありますが)。
演奏側に信心、心服があれば良い音楽になるかという問いは、国民全員で平和を祈願すれば戦争はなくなるかという問いに似たものではないでしょうか。絶対君主型にとってオケは信者でなく民ですから信心は求めません。服従を求めます。どっちであれ結果が良ければ聴衆は喜ぶわけですが、ローマ教皇が政治をしなかったように両者は可分の関係であり、政治に徹したトスカニーニは信心を得たくなかったのではなく民を信用しなかったのだと思います。セル、ライナー、ショルティ、みな信心で成功できればそれに越したことはなかったでしょうが、そんなユートピアは世の中にないことを知りプラグマティストに徹した。そこで見出した解決策がトスカニーニ型だったということではないかと推察しております。その道が閉ざされてしまったいま、お友達内閣型が嫌いな指揮者はどうしたらいいんでしょう、同情を禁じえません。
maeda
8/15/2017 | 8:15 PM Permalink
コンマスだったヘンリー・ホルストが、フルトヴェングラーは室内楽的な自発性を重んじたと言っていたそうですが、服従させるのでなく心服しているのは素晴らしいと思います。音楽は感情の動きで、合奏は音楽の共有ですから、最近はやりの面従腹背では良い音楽にならない。いかに服従を強いられても結果として素晴らしい音楽になれば団員は納得するということでしょうね。指揮者は、どうあっても、それだけ説得力が必要ということかなと思います。ちなみに、私の師匠の楽器は、ホルストの使っていた物でした。素晴らしい楽器です。
東 賢太郎
8/17/2017 | 10:51 PM Permalink
団員が指揮者に求めるものは、人間ですから各人違うと思います。弾き易さだったり、芸術的信条の合致だったり、聴衆の喝采だったり、生活の安定だったり。確実なのは指揮者はバラバラな人たちを一つにしないといけないということで、これは企業の経営者もまったく同じです。よくカリスマといいますが、ご説の通りその根源は説得力に尽きると思います。
経歴や頭脳や容姿や態度だけでカリスマになることはありませんし、説得力がどう生まれるかは一様ではありません。トスカニーニは面従腹背で満足しないから罵倒しているわけで、あれだけ罵倒されても辞めなかった楽員は冒頭のような何らかの個々の理由で心服していたのではないでしょうか。罵倒だけでいい音楽ができるなら指揮界はそれだらけになったはずですが、そうならなかったのは心服を得てない人がそれをしても関係が破たんするだけでうまくいかないからでしょう。結果としてあれだけの演奏を成し遂げたトスカニーニは充分な心服を得ていた、説得力があったと考えられないでしょうか。